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機動駐在コジロウ  作者: あるてみす
 

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佐々木家と人々

 季節は巡り、四月を迎えた。

 雪国の春は、まだまだ遠い。日差しこそ和らいできたが、至る所に分厚く雪が残っている。抜けるように高い空は清々しかったが、地上は未だに色彩に乏しい。除雪車が積雪を吹き飛ばしていったおかげで通りやすくなった道路を悠長に歩いているのは、四肢から触手を生やした異形、シュユだった。ニルヴァーニアンが物質宇宙で活動するために作り出したアバターは環境適応能力が高いので、この程度の寒暖差はどうというとはない。

 下半身の触手を波打たせて前進しているシュユの影絵は、以前とは少し変わっていた。背中に生えた光輪からは青い光が淡く漏れていることに代わりはないが、裸身ではなかった。大判の布を袈裟のように巻き付けているので、さながら徳の高い僧侶のようだった。黄土色の布地は赤黒い肌に馴染み、雪景色にも映えている。

 かつて船島集落と呼ばれた一角に向かう道を辿っていくと、重機の駆動音が聞こえてきた。緩やかな坂を下りていくと、そこでは人型重機や普通の重機などが忙しげに働いていた。桜の木を中心にして異常に成長したクテイの生体組織を除去するために、雪も溶けきらないうちから地面を掘り返しているのだ。フカセツテンが押し潰した民家の残骸は泥と一緒に山積みにされていて、防寒着を着た作業員達が人型重機に指示を送っている。

 防護マスクを被った警備員に気付かれたが、シュユが一礼すると、彼らは咎めもせずに通してくれた。それだけ、シュユが重宝されている証拠だ。それでなくても、遺産を巡る争いに荷担していた人々の大半が死んでいるので、気色悪い異星人であろうとも無下に出来ないのだ。

 最も作業が進展している場所は、他でもない佐々木長光邸の跡地だった。その近辺は早々にクテイの赤黒い根が切断されて除去され、地面が覗いていた。シュユは触手を冷たい泥で濡らしながら、佐々木邸の敷地に入ると、作業員達が身を引いてくれた。小倉重機製の人型重機達も後退し、シュユに道を空けてくれた。

「ああ……これかぁ」

 シュユは両腕に当たる触手を伸ばして泥を払い、部品のない顔を近寄せた。佐々木邸の土台の真下に、瓦屋根が埋まっていた。シュユが作り出した異次元の中に存在していた、弐天逸流本部の残骸だ。フカセツテンごと船島集落と異次元が重なり合ったので、対消滅したかと思われていたが、根の除去作業の最中に地底から次々と建物が発掘されていた。佐々木長光によって破壊された本堂は跡形もなくなっていたが、それ以外の建物はクテイの根にも耐え抜いていたらしい。だから、地面を掘り返していくうちに屋根が現れる。

「んー、と」

 シュユは触手を使って瓦屋根を剥がし、建物の中を覗き込んだ。触手を数十本垂らして視覚情報を取得すると、埃の積もった梁の下には、工房があった。机の上には作りかけの人間の頭部が転がり、木枠と布で出来た骨格があり、工房の壁には人間もどきの部品が入っていたであろう液体の詰まった瓶がずらりと並んでいた。

 人間もどき達もまた、自分達の在り方に悩んでいた証拠だ。彼らは生前の記憶を持っていながらも、自分が本物の人間ではないと悟っていた。周囲の環境と自我の乖離が激しくなればなるほど、生前に酷似した暖かく柔らかい肉体に耐えられなくなった。その結果、脳を切り分けて人形に加工するようになった。以前、船島集落に程近い集落で一乗寺と寺坂が殺害した少女、富田六実もその一人だった。弐天逸流に入信した後に死亡し、人間もどきとして復活したはいいものの、人間ではない自分を人間として扱う家族や友人に恐怖を感じた。だから、弐天逸流に入信していた技術者に頼んで脳を摘出してもらい、人形の体に移し替えていた。

「難しいもんだよなぁ、その辺って」

 シュユは人間もどきの人形を作る工房から触手を引き上げ、作業員達が呼び出した政府の人間に内部の調査を委ねてから、佐々木邸の敷地を後にした。これで弐天逸流の実体解明はまた一つ進むだろうが、それが人間達の理解の範疇に収まるかどうかは別問題である。人間もどきには人間もどきの世界が出来上がっていたからだ。

 人間とそうでもないものを隔てているのは、単純に肉体の違いだけではない。倫理観、自我、常識、通念、などと言い方はいくらでもあるが、要するに視点が人間に近いか否かだ。人間もどきは限りなく人間に近い目線と感覚を持って作られてはいたが、偽物であり、農作物の一種だった。その落差が彼らを苦しめていた。だから、弐天逸流が潰えたことで彼らは本当の死を迎えた。元々死した者達だったのだから、黄泉の世界に旅立つのが理だ。

「おや」

 掘り出された根の割れ目から、人間の生白い腕が垂れていた。それに気付いたシュユが手近な作業員を触手の先で招いて腕を示すと、作業員はすぐさま無線で連絡を取った。程なくして船島集落跡地の近隣に設置されている診療所から、医師と看護師が派遣されてきた。作業員達は赤黒い根を慎重に割り、体液でぬるつく木片を除去し、腕の主を掘り出した。年若い女性だった。シュユは女性の薄く濡れた肌に触手を伸ばし、そっと触れた。

 時折、こうして死を免れた人々がクテイの根の中から生まれてくる。人間として生きたいという強烈な意思があるからこそ、また人間として物質宇宙へと戻ってこられる。そうでない人々は、異次元宇宙で安寧の死を迎えている。それはシュユであろうと誰であろうと強制出来るものでもなく、操作出来るものではない。けれど、しばらく物質宇宙を離れていた人々は精神体が乖離しているので、少しだけ手を貸してやらなければ、目覚められない。

「これで、二五六人目だね」

 だから、触れなければならない。シュユが触手を下げて間もなく、女性は咳き込んでクテイの体液を吐き出すと、呻き始めた。医師と看護師が手際良く女性のバイタルを確認した後、担架に乗せて運んでいった。こうやって再び人間として生きようとする人々は、皆、N型溶解症が完治した元患者として社会復帰する手筈になっている。生前の記憶をはっきり持っている人間は少なく、親族からも死んだものとして扱われている場合がほとんどなので、政府によって全く新しい戸籍と名前を与えられることがほとんどだ。そして、ほぼ全員が新たな一ヶ谷市民となる。非常事態宣言で退去した一ヶ谷市民は、未だに七割以上が戻ってきていないからだ。空っぽの町を埋めるには、空っぽの人間が丁度良いというわけだ。

「どうにかなるものだよ、意外と」

 シュユは懐を探ると、隅立四つ目結紋が刻まれている菱形の金属板を取り出した。これだけでは鍵に過ぎないが、ニルヴァーニアンの技術の粋を集めた道具を起動させられる代物である。佐々木長光は、これでフカセツテンを操縦していたつもりだったようだが、そんなに矮小な枠で収まるものではない。フカセツテンの上位互換である、フカセツ・フカセツテンを動かせる、正に遺産と称すべきものだ。

 物質宇宙での騒ぎが収まらなければフカセツ・フカセツテンを使ってしまえ、と異次元宇宙に漂うニルヴァーニアン達はしきりにシュユに囁いてきていた。それはシュユが今のシュユになってからも変わらず、物質宇宙に対して差別感情を抱いている証拠でもあった。だから、シュユは事態の収拾と好転に努めた。物質宇宙はニルヴァーニアンのおもちゃではないし、物質宇宙に生きる人々もまた盤上の駒ではないからだ。

「僕達は散々余暇を楽しんだじゃないか。だから、異次元宇宙が僕達の存在に飽き飽きして、クテイを生み出して刺激を与えてくれたんじゃないか。往生際が悪いよ、君達は」

 佐々木家の家紋を弄びながら、シュユはカーブした坂道を上り始めた。

「神様ごっこも、そのうち終わらせてあげるよ。御飯がおいしいってことを思い出しちゃったんだから、もう一押しで誰も彼もが退屈な精神世界から逃げ出してくるはずさ。そのためには、もっと色んなものを食べないとね」

 今日の御飯はなんだっけ、と独り言を漏らしながら、シュユは硬い圧雪の上を歩いていった。

「あ、そうか。今日はあの日だったっけ」

 じゃあ御飯も特別だね、と呟いてシュユは歩調を早めた。曲がりくねった坂道を上り、除去したクテイの根を積載したダンプトラックが行き交う道路を通っていく。その途中で吉岡文香が経営していたドライブインに差し掛かるが、今では閉店している。元々、佐々木長光を見張るための店であり、客もほとんどいなかったので、遺産を巡る争いが収束したことを機に店を畳んだのだ。ガラス戸の内側でカーテンは閉め切られ、閉店、との貼り紙があった。

 時間が過ぎれば、世の中はおのずと移り変わる。



 雪を退かして土を露出させた畑の上に、アーチ型の骨組みを立てていく。

 野戦の最中に身を隠すためのテントを張ったことは何度もあったが、ビニールハウスを張るのは初めてだった。なので、武蔵野は説明書をしきりに見比べながら、骨組みを等間隔に立てていった。簡単そうに見えて意外と複雑なのが、この手の代物だ。いい加減な仕事をすれば、ビニールを張ってもよれてしまうだろう。

 上ばかり見ていて首が疲れたので、武蔵野は一旦目線を下げた。首を回してから、辺りを見回す。船島集落から程近い集落で、民家もまばらに建っているが、本来の住民は一人残らずいなくなっているので閑散としている。その理由は言うまでもなく、N型溶解症が蔓延したというハッタリのせいだ。N型溶解症とその原因となるバクテリア自体が政府のでっち上げなので、実際には船島集落も一ヶ谷市も至って安全だ。だが、住民達は挙って住民票も本籍も他県に移してしまったので、一ヶ谷市全体が空白地帯となって空き家も大量に発生した。

 なので、武蔵野を始めとした面々は、その空き家に居を構えることにした。家賃も微々たるもので、農耕地も格安で明け渡してもらったので、せっかくだからと畑を耕してみることにした。だが、農業は見た目ほど簡単なものではない。天候も思い通りに来るわけではないし、相手は生き物なのだから、上手くいかないのが当たり前だ。

「で、これで何すんだよ」

 骨組みだけのビニールハウスに入ってきたのは、人型軍隊アリ、藤原伊織だった。

「何って、そりゃあ」

 武蔵野は借り受けた民家の作業場を指し示し、山積みになっている苗箱を指し示した。

「米を作るには、苗を育てなきゃならんだろうが。家と畑と一緒に田んぼの土地も借りたからな、使ってやらなきゃ勿体ないだろう。道楽に過ぎんが、やることがあるとないとじゃ大違いだからな」

「で、その田んぼはどの辺にあるんだよ」

「まだ雪の下だ。雪が溶けて地面が出てきたら、畑仕事を手伝ってくれるか?」

「暇だったらな」

 伊織はこきりと首を曲げ、触角を揺らした。その言葉に、武蔵野は少し笑った。

「ああ、頼むよ」

 伊織もまた、船島集落に程近い場所に居を移していた。といっても、武蔵野や他の面々のように空き家を借りているわけではなく、吉岡文香の自宅に同居しているのである。もちろん、吉岡りんねと暮らすためだ。あの戦いの後に再会してからは、りんねと伊織は以前にも増して離れなくなった。最早、恋人や家族の範疇を越えた関係であり、一心同体といっても過言ではない。実際、御鈴様だった頃はその状態だったのだから。

 船島集落での凄絶な戦いの後、伊織は政府によってこの集落に隔離された。N型溶解症が著しく悪化した末期患者という扱いになり、集落から一歩も外に出ないという条件で生存を許されている。その他にも細々と取り決めが交わされたが、最も効力が強いのがそれだった。以前の伊織であれば文句を言っていただろうが、りんねの傍に身を落ち着けたからか、伊織は素直に政府の指示に従った。

 武蔵野のかつての上司であり、佐々木長光の傀儡であった吉岡りんねは、伊織と似たような理由で一ヶ谷市に隔離されることになった。伊織と同じくN型溶解症の感染者ではあるが、比較的症状が弱かったために生き残ったが脳にダメージを受けたので、知性が若干後退している、ということにされている。実のところ、りんねは頭の回転も良ければ理解も吸収も早いのだが、精神年齢が外見の肉体年齢に追い付いていないのでそう見えるのだ。それは周囲からしてみれば惨いことではあるが、りんね本人は自分が世間に馴染めない人間だと充分理解しているので、それでいいと言った。母親と大好きな青年と共に、心穏やかに生きていけるからだと。吉岡文香も同様で、りんねが誰の道具にもされずに生きていけるのならと了承した。

 吉岡親子と過ごすようになってからは、伊織は格段に穏やかになった。荒っぽい言動はそのままだが、他人への態度は棘がなくなっていた。何度も体を欠損してはアソウギで修復してきたのでダメージも蓄積している上、異次元宇宙との接続が完全に切れたので遺伝子情報をダウンロード出来なくなったので、人間体には二度と戻れないが、伊織はそれでいいと言っているし、りんねも今の伊織が好きだと言っている。だから、何も憂うことはない。

「なんかさー」

 伊織はきちりと顎を開き、上体を反らして空を仰いだ。腹部の膜の傷口は、綺麗に縫合されている。

「かったりぃな」

「ああ、解る」

 武蔵野は軍手を外し、作業着のポケットにねじ込んだ。

「体中が軽くてな、落ち着かないんだ。銃もナイフも仕込んでいないから、どこもかしこも楽すぎて」

「なんか、色々とやらなきゃならねぇこととか、しなきゃならないこととか、あるような気がするけどさ」

「生き残った責任、みたいなものか?」

「まあ、そんなもん。けど、思い付かねぇよな、実際。つか、俺らがクソ爺ィと戦って生き残ったのは、俺らがクソ爺ィよりも生き意地が汚かったっつーかだし。だから、テキトーにやるしかねーかなーって」

「これから考えればいいさ。俺も、これから考える」

 武蔵野は、一人住まいには広すぎる合掌造りの家を見上げた。一ヶ谷市は古い家を保存することに力を入れていたらしく、船島集落の他にも合掌造りの家が残っている集落が複数存在していた。この集落もその一つであり、手入れも行き届いていたので、片付けと掃除をすればすぐに住める状態だった。なので、武蔵野を始めとした皆はそれぞれの条件に見合った家を見つけ、別々に引っ越した。

 武蔵野と伊織が愚にも付かない会話をしていると、集落の真ん中を貫いている細い道路に人影が現れた。薄手のコートを羽織った少女で、息を弾ませながら二人の元に駆け寄ってきた。

「伊織君、ここにいた」

「他に行く当てもねーだろ。つか、俺の話し相手になる奴なんて、むっさんしかいねーし」

 伊織が黒い爪を上げて武蔵野を示すと、武蔵野は渋面を作った。

「お前も俺をそう呼ぶのか。まあ、嫌とは言わんが」

「で、なんだよ」

 伊織が畑から出て少女に近付くと、少女は上気した頬を綻ばせ、コートを脱いだ。

「制服。つばめちゃんと美月ちゃんとお揃い」

「おう」

 片方の触角を曲げて、伊織は微妙に声を上擦らせた。少女、吉岡りんねは、誇らしげに紺色のブレザーと同じ色のジャンパースカートを見せびらかしている。丸襟のブラウスも新品で、臙脂色のボウタイの結び方は緩かったが、それは後で手直しさせればいいだろう。白いハイソックスに茶色のローファーを履いた足を曲げて、スカートの裾を両手で持ち上げてみせながら、りんねは小首を傾げた。太い三つ編みに結んだ長い髪が、肩から零れる。

「似合う?」

「あー、まあな」

 伊織が曖昧な返事をしたので、武蔵野は率直に褒めてやった。

「ああ、似合うぞ。三つ編みも自分でしたのか、りんね」

「うん。お母さんが教えてくれた」

 赤いフレームで楕円形のレンズのメガネを掛けたりんねは、誇らしげに笑んだ。

「おう、頑張れ」

 武蔵野が励ますと、りんねは頷いた。

「うん。頑張る」

 だが、伊織は顔を背けていたので、りんねはむくれた。

「伊織君。こっち見て」

「その制服、俺の前で散々着てみせたじゃねぇか。何度も見たもんに何を言えっつーんだよ」

 伊織がやりづらそうに複眼を逸らすと、りんねは三つ編みを掴んで持ち上げた。

「三つ編み」

「それも、何度も何度も練習してただろうが。で、失敗するたびに俺に原因を聞いてきただろうが」

「メガネ」

「それも、買ってから何度も俺に見せてきただろうが。つか、毎日見てんだろうが」

 伊織は首を曲げながらぼやくが、決して嫌がっているわけではなかった。それどころか、りんねを正視しないように視線を逸らしている。そのくせ、二本の触角はしきりにりんねに向かっているので、武蔵野は呆れてしまった。素直になれば手っ取り早いものを、どうしてわざわざ嫌がる振りをするのだろうか。

 そんな伊織に、りんねは怒って言い返すどころか優しく微笑んでいた。りんねは伊織の無愛想さが愛嬌だと知っているからだ。伊織にはそれが尚更気恥ずかしいのか、上体を思い切り捻ってりんねの視線から逃れようとしたが、りんねは体を傾けて伊織に視線を注ぎ続けている。どうしようもなくお互いが好きなのだと、見ているだけで解る。出会った経緯は最悪で、ここに至るまでの道程も棘が敷かれていたが、傷付き合って補い合ったからこそ、二人は誰よりも深く通じ合えている。その関係は、素直に羨ましいと思える。

「あーもう、ウゼェな」

 伊織は爪の背でがりごりと後頭部を引っ掻いてから、りんねに向き直り、投げやり気味に褒めた。

「はいはい可愛いよ、可愛い可愛い! そう言えば気が済むんだろ!」

「うん。嬉しい」

 りんねは満足げに頷いてから、伊織をまじまじと見つめた。

「伊織君。格好良い」

「だぁーもう!」

 直球で褒められたのが余程恥ずかしかったのだろう、伊織は畑から駆け出してりんねを横抱きにすると、下両足を大きく曲げて高く跳躍した。黒い影が空に吸い込まれると、りんねのはしゃいだ歓声が降ってきた。この様子からすると、伊織がりんねを抱えて飛び回るのは日常茶飯事なのだろう。荒っぽくはあるが、若い二人の戯れには最適なスリルがある。それにしても、あの伊織がこの様とは。武蔵野は堪えきれなくなり、ひとしきり笑い転げた。

 ビニールハウスの組み立てが一段落したので、自宅に戻ることにした。法事の時間までにはまだ余裕はあるが、身支度を整えておくに越したことはない。これでようやく、区切りが付く。泥に汚れた長靴を脱いでから玄関に入り、奥の間に向かった武蔵野は、居間の座卓に横たえてあるブレン・テンを一瞥したが、触れなかった。

 新免工業に深く関わっていた武蔵野は、かつての雇い主や同僚達に関する情報を政府側にぶちまけたのだが、公安に目を付けられた。銃刀法違反を始めとした犯罪で立件されるのかと思いきや、汚れ仕事を厭わずに苛烈な戦闘と過酷な任務を切り抜けてきた技量を評価され、公安に入らないかと誘われた。だが、目的は武蔵野の戦闘技術ではなく、内閣情報調査室を捜査したいがために足掛かりにするためだった。武蔵野の傍には周防と一乗寺がいるので、彼らの情報を横流ししてくれとも依頼された。給料も悪くないが、同じ窮地を切り抜けた者を売るような真似は出来ないと突っぱねると、今度は武蔵野が傭兵時代に通じていた人間の情報をくれと言ってきた。それなら気が咎めないので、言われるがままに情報を渡した。後で知ったことだが、かつての傭兵仲間達は国際指名手配中のテロリストに身を窶していたらしく、武蔵野の渡した情報でテロを未然に防げたそうだ。それが功を奏したのか、武蔵野は公安の工作員としての籍を与えられ、つばめや伊織の監視役という仕事も与えられ、定期報告をすれば一定の給料と身の安全が保証された。その仕事自体に抵抗はないし、当人達にも了解を得ているので、武蔵野は見よう見まねの農業の合間に公安の仕事をしている。人生、何が起きるか解らないものである。

 公安は武蔵野に籍を与えてこの集落に据えておくことで、内閣情報調査室に釘を刺しておきたいのだ。これまで内閣情報調査室は、遺産に関する事件や情報を一手に引き受けていたが、その分、隠蔽された事実や抹消された情報も多々あった。だが、武蔵野は両者の内輪争いに荷担するつもりは毛頭ないので、内閣情報調査室の諜報員である周防とも親しくしているし、公安には深入りしていない。せいぜい、頭越しにやり合っていてくれと思っている程度だ。第一線からは身を引いているし、何より穏やかな日々を失いたくないからだ。

 長らく、欲しいものがあった。実力行使で手に入るものだとは思っていなかったが、強くなければ手に入れる資格がないと思い込んでいた。故に、戦って戦って戦い抜いたが、戦えば戦うほど遠ざかっていった。初めて心底惚れた女は人様の嫁で、ようやく触れられた暖かなものは他の男への恋慕で、欲しいと思えば思うほど罪深さが増した。だが、それはもう終わった。愛する人もおらず、家族が出来たわけではないが、欲しかったものは手に入った。

 帰りたいと思える家と、友人だ。



 一ヶ谷駅の構内は閑散としていた。

 リニア新幹線の改札の前で、一乗寺は彼の帰りを待っていた。まだまだ履き慣れないスカートの裾を気にしつつ、電光掲示板に表示されたダイヤを何度も何度も見上げた。駅員はまばらに立っているが、在来線もリニア新幹線も乗客はほとんどいないので、大きな駅舎の中は空虚だ。リニア新幹線の本数は元に戻りつつあったが、一ヶ谷駅に停車する便は日に一〇本もない。それだけ、N型溶解症が恐れられている証拠だ。

 全部嘘なんだけどなぁ、と一乗寺は内心で笑った。だが、そうでもしなければ事態に収拾が付けられなかったのもまた事実だ。佐々木長光のクテイへの愛情、否、執念によって生み出された犠牲の波紋が静まるのは、もうしばらく先だろう。それと同時に、一乗寺がまともな人間としての地盤を得るには長い時間が掛かりそうだ。

 一乗寺昇、もとい、一乗寺皆喪はシュユと立花南の間に産まれた私生児であって、生物学的には人間ではない。一乗寺病院に引き取られて通学していた頃は養子としての戸籍を得ていたのだが、度重なる殺人で逮捕された後に籍を抜かれてしまったこともあって、戸籍を失っていた。内閣情報調査室で鉄砲玉として扱われるようになった後もそのままで、仕事の上では必要な仮初めの戸籍や住民票は与えられても、一乗寺本人の根底を支えるものは何一つなかった。つばめの暗殺に成功すれば恩赦で戸籍を与えられる、とのことだったが、その任務自体が白紙に戻ってしまった。その後は内閣情報調査室を除籍されたばかりか、N型溶解症の元感染者として扱われ、一ヶ谷市に永住させられることになった。人員不足を理由に内閣情報調査室の諜報員に戻った周防は、一乗寺と暮らしてくれているし、田舎暮らしには慣れているので文句はないのだが。

 何もせずに怠惰な時間を過ごすのは性に合わないので、現在住んでいる集落に分校を再開することにした。生徒は二人増え、つばめの他にりんねと美月も入ってくれた。教員免許は内閣情報調査室にいた頃に取得していたし、この集落にあった古い集会所を校舎にして、学校としての体裁を整えるために必要な物資を集めたので、新学期が始まるのを待つばかりだ。仕事があるとないとでは、日常も張り合いが違う。

 すると、目当ての便の到着アナウンスが聞こえたので、一乗寺は改札に駆け寄った。この一週間、待ち焦がれていた男が帰ってくる。途端に鼓動が跳ね、その勢いのままにはしゃいだ。

「すーちゃあーん!」

 程なくしてホームから降りてきた男に、一乗寺は大きく手を振った。左足を少し引き摺りながら歩いてきた周防は、ぎこちなく一乗寺に手を振り返してきた。駅員も乗客も何事かと振り向いたので、周防はやりづらそうに目線を下に落としながら改札を抜けた。すかさず、一乗寺は周防に飛び付く。

「おっかえりなさーい!」

「……ただいま、ミナ」

 一呼吸置いてから周防は一乗寺を押し戻したが、一乗寺は再び周防に抱き付いた。

「んふふ、その呼び方、可愛くて好きだなぁー。あれ、義眼、変えてきたの?」

「前のやつはその場凌ぎの部品だったから、右目の視力に合っていなかったんだよ。で、部品が出来上がってきたから手術してきたんだ。ついでに右足も調べてもらったが、何度か手術すれば元通りになるそうだ」

 傷跡が残る左目を瞬かせ、周防は義眼を動かして一乗寺を見下ろしてきた。虹彩の色が生身の右目と全く同じになっているので、遠目に見れば義眼だとは解らない仕上がりだ。セラミックにシリコンを被せて作り上げられた眼球

 は周防自身の体液を帯び、瑞々しい光沢を得ていた。

「良かったねぇ、良いお医者さんがいて。だけど、ガチャ目だったわりにはすーちゃんの射撃は正確だったよ?」

「それだけ、腕がいいんだよ」

「わあい格好良いー! 休暇は月曜日までなんだよね、その間、ずうっと一緒にいられるんだよねー!」

 一乗寺は周防の左腕にしがみついてはしゃぐと、羞恥に駆られた周防は右手で顔を覆った。

「やりづらいじゃないか」

「嬉しいことが嬉しいのっていけないの? 

 だって、俺、じゃないや、えっと、んと……」

「どうした」

「あー、まだ無理だ。ちゃんとした女の子になろうと思って、ちょっとずつ変えていこうとしたんだけど、やっぱり俺は俺なのかなぁ。私、なんて恥ずかしくて言えないやぁー」

 照れ隠しに笑いながら、一乗寺は周防の腕を引いて歩き出した。二人は連れ立ってエレベーターに乗り、駅地下の駐車場に移動した。暖房の効いていた駅構内とは違い、真冬の冷気がコンクリートに染み込んでいる。一乗寺は女物のトレンチコートのポケットから出したイグニッションキーを回しつつ、車に近付いた。

「おい、それって」

 キャリーバッグを引き摺りながら歩いてきた周防が面食らったので、一乗寺はキーで車を示した。

「言わなかったっけ。よっちゃんからもらったの、ランボルギーニ」

「ロハでか?」

「うん。よっちゃんが売りに出すって言っていたから、どうせならちょーだいってねだったら、ぽーんと」

「ミニカーをやり取りするんじゃないんだから……」

 一乗寺がしれっと答えると、周防は困惑気味に嘆いた。

「すっごいんだよー、アベちゃん。ちょっとアクセル踏んだだけでエンジンがぎゅんぎゅんでさー」

 メタリックブルーの塗装が施された派手なスポーツカーに近付いた一乗寺は、慣れた仕草でガルウィングを開けて運転席に乗り込んだ。周防は文句やら何やらを言いたげだったが、押し黙り、フロントフードを開いてその中にあるトランクにキャリーバッグを入れた。ミッドシップなので、トランクがボンネットの中にあるからだ。

 ランボルギーニ・アヴェンタドールの助手席に乗り込んだ周防は、慎重にガルウィングを閉めた。一乗寺はキーを差し込んでエンジンを作動させたが、すぐには動かさなかった。日付では春を迎えていても、雪国の気候は冬場と同じなので、暖機しないと故障してしまうからだ。それが、デリケートなGTカーなら尚更である。

「ミナ」

 周防は肩から掛けていたショルダーバッグを外し、その中から布で包んだものを取り出した。

「方々手を尽くしたんだが、見つけられたのはこれだけだった。見つかっただけでも御の字ってところだ」

 手触りのいいサテンの布にくるまれていたのは、二つの位牌だった。どちらも戒名は付けられておらず、生前の名前が白木に書き記されているだけだった。立花南、一乗寺昇。

「母親の方は弐天逸流の元本部の床の間に、弟の方は一乗寺病院の倉庫にあったよ。二人とも、死に方が死に方だっただけに、遺骨までは手に入れようがなかったんだ。すまん」

 周防に謝られ、一乗寺は首を横に振った。母親と弟の位牌を、両手で優しく包み込む。

「いいよ、充分だよ。ありがとう、すーちゃん。よっちゃんにお願いして、御経を上げてもらうよ」

「ああ、是非そうしてくれ。これから、もっと忙しくなりそうだよ」

 周防は、シフトレバーを乗り越えて肩に縋ってきた一乗寺を宥めながら、薄暗い駐車場を見渡した。

「政府の方も、当分はぐちゃぐちゃするだろうしな。議員連中も三割が溶けちまったから、選挙もしなきゃならんし。サイボーグ共が全員死んじまったせいで、弱り切った国防の隙を衝いてくるテロリストも増えるだろう、利権争いで政治家同士が潰し合うだろう。だが、いいこともないわけじゃない。巨大化しすぎて国家を陵駕しかねなかった財力と権力を持った吉岡グループが潰れたおかげで、官と民のパワーバランスが戻ってきそうなんだ。資本主義社会になったとはいえ、一企業が国家の生殺与奪を握るのは良くないからな」

「つばめちゃんの暗殺は、今でも保留のまま?」

「遺産が全部消えていたらただの一般市民に戻れていただろうが、核兵器並みのエネルギーを簡単に放出出来るムリョウと、一瞬で全世界をハッキング出来るムジンを操れる以上、佐々木つばめが存在が国家レベルの脅威であることに変わりない。悪用することはないだろうが、ムリョウとムジンに目を付けている連中は山といる。だから、今後も監視と護衛は継続しなきゃならんだろうな。といっても、その任務はコジロウ本人がやってくれるから、俺達の仕事は露払いだけだ。相変わらずなんだろう、あの二人は」

「うん、相変わらず」

 一乗寺は周防の皮の厚い手に頭を傾け、頬を擦り寄せる。

「ねえ、すーちゃん。俺さ、一杯一杯人を殺してきたじゃない? その分、世界の人口が減ったじゃない? だから、その分、埋めようかと思うの。すーちゃんが仕事に行っている間に病院で調べてもらったんだけど、俺の体、ちゃんとした女の子になっていた。だからさ、すーちゃん、お願い出来る?」

「てぇことはつまり、あれだろ。いいのか、俺なんかで?」

 周防が複雑な感情を滲ませながら応じると、一乗寺は顔に血が上ってきた。

「いいから言ってんじゃないかよぅ。てか、あれだけ散々ぶちまけたくせに、何を今更」

「あ、あの時はお前の体が普通じゃないと思っていたから出来たのであって、その、なんというか」

 周防が言葉を濁すと、一乗寺は火照った顔を隠すために俯いた。

「大丈夫だよ。もう、すーちゃんのこと、殺したいとは思わないから。だから、俺のことも殺さないでね?」

「当たり前だ。あの時は俺もどうかしていたんだ。ミナと同じことをしないと、気を惹けないと考えていたから、あんな血迷った行動に出ちまったんだ。殺すわけがないじゃないか、命懸けで手に入れた女だぞ」

「俺、すーちゃんと結婚出来るようになるかな?」

「やれるだけのことはやってみる。結婚出来るようにならなかったとしても、責任は取る。必ずだ。だが、その辺の話は法事が終わってからにしよう。でないと、なんだ、気が入らない」

「ストッキング破っちゃう?」

 一乗寺が黒いストッキングを履いた足を上げてみせると、周防はその足を下ろさせた。

「だから、後にしろと言っただろうが!」

「すーちゃんのエッチ」

「どっちがだ」

 軽口を叩き合っているうちに、エンジンの暖気は済んでいた。一乗寺はローヒールの黒いパンプスを履いた右足でアクセルペダルを踏み込むと、鋭いエンジン音が鳴り響いた。ギアを切り替えてハンドルを回し、加速しすぎないように細心の注意を払いながら、地下駐車場を後にした。タクシーも止まっていないロータリーを通り過ぎてから、船島集落方面に向かう道路に入る。時折、助手席に座る周防の横顔を窺い、一乗寺は浮かれた。

 特別というものは、不特定多数から祭り上げられることではない。特定の相手から格別の扱いを受けることが、特別というべきものだ。布に包み直して周防のショルダーバッグに戻された家族の位牌を一瞥してから、一乗寺は改めて前を見据えた。ここ数日の好天でアスファルトが露出しているので、道路が真っ直ぐ伸びていた。

 性別が変わろうが、人間でなかろうが、倫理観が根本から欠如した殺人鬼であろうが、周防は一乗寺の人格を見据えてくれていた。だから、周防を好きになった。周防を好きになっていたから、シュユとの接続が途切れて遺産の繋がりから脱しても、自分を見失わずに済んだ。彼が求めてくれていたから、女になった。それもこれも、周防の特別でいたいからだ。おうちに帰ったら何を話そう、休みの間にどこに出掛けよう、と考えるだけで満たされる。

 生きるのが楽しくなる。



 移動中のトレーラーは、どんな季節であろうとも暑苦しい。

 それもこれも、ロボットファイターの機械熱が籠もってしまうからだ。排気口はあろうとも換気設備の乏しいコンテナの中は息苦しささえ感じる有様だったが、ここに入るしかなかった。運転席では着替えなど出来ないし、興行先でのトラブルで移動開始時間が押してしまったので、サービスエリアに寄る暇もなくなってしまった。

 そうでもなければ、こんな場所で下着姿になったりしない。美月は羞恥心を堪えつつ、最近では衣装と化している紺色の作業着を脱いだ。試合中は気が高ぶっているので新陳代謝も激しくなるので、作業着の下にアンダーとして着ているTシャツには汗が染みている。もちろん下着も同様だが、さすがにそこまでは脱げない。

「むー……」

 だが、せめてブラジャーは替えたい。美月は汗を吸って冷たくなった下着の感触と、羞恥心を鬩ぎ合わせながら、コンテナ中央の作業台にワイヤーで固定されているレイガンドーを窺うと、レイガンドーは全力で首を捻った。

「見ない見ない、見るわけがないだろうが!」

「じゃ、そのままでいて」

 美月は釘を刺してから、スポーツバッグを探って替えの下着を取り出した。ブラジャーを取り替えてから、アイロンが掛かったブラウスを出して袖を通す。硬い生地のひやっとした肌触りが心地良かった。続いて、クリーニング済みの紺色のジャンパースカートを取り出し、シワが寄っていないかどうか気にしながらファスナーを上げ、首の後ろでホックを留めた。サイドテールに結んだ髪を払って襟から抜き、ボウタイを襟のカーラーに通して結ぶ。

「もういいよ」

 美月が声を掛けると、レイガンドーは力を抜き、首を元に戻した。

「パワー配分を間違えたせいかな、首のジョイントがちょっとずれた気がする。だが、美月、その制服は」

「つっぴーとりんちゃんとお揃い!」

 美月がブレザーを羽織ってから見せびらかすと、レイガンドーは納得した。

「ああ、そうか。一ヶ谷の市立中学校から分校に転校して、通信制にしてもらうんだな?」

「そうだよ。でないと、商売と学業が両立出来ないじゃない」

 美月は作業台の端に腰掛け、真新しいハイソックスを履いてから、ローファーを取り出した。

「夏になったらテレビ中継も入るって話だし、忙しくなるから、本格的に学校に行っている暇がなくなっちゃうからね。せめて高校に進学出来るようにならないと、RECが廃れた時に路頭に迷っちゃう」『そりゃあ、きっついのう』

 二人の会話に無線で割り込んできたのは、後続のトレーラーに搭載されている岩龍だった。

「それに、お母さんが言うの。ロボットファイトだけが人生じゃないって。だから、途中で人生の道筋が切り替わっても困らないように、足元をちゃんと固めておけってさ。実際、その通りだしね」

 美月はサイドテールを解き、ヘアブラシで梳きながら、右手首にシュシュを填めた。

「でも、私はロボットファイトのない人生を送るつもりはないから。高校に行って大学も出て、色んなことを勉強した上でRECを盛り上げてやるの。趣味と実益が直結しているんだよ? こんなに楽しいことはないよ」

『豪儀じゃのう。じゃが、そがぁなことを言ってこそのオーナーじゃけぇのう!』

 岩龍の明るい口調に、レイガンドーは同調した。

「そうだな。それぐらいでないと、世界王座は守れないからな」

「でも、再来週のシナリオで一度奪われるからね。アメリカ製の軍事用人型重機を改造したロボットファイターが来るから、お父さんがそのロボットファイターとレイの試合をセッティングしたの。覚悟しておいてね」

「うぇ!?」

 レイガンドーが声を裏返すと、美月は梳かし終えた髪をシュシュで結び、前髪を整えた。

「リベンジマッチのための前振りだよ。大丈夫だって、完璧に修理してあげるから。ムジンは絶対に壊れないから、レイの記憶も感情も飛ばないしね。岩龍はその次の週にルーインズマッチがあるから、壊さない方向だけど」

『ルーインズマッチっちゅうんはあれじゃろ、工場の廃墟で瓦礫を凶器にするやつじゃろ?』

 ありゃあごっついのう、と岩龍がぼやいたが、レイガンドーは慌てふためいた。

「だが美月、俺が壊れてもいいのか!? 

 ちょっと前だったら泣いて嫌がっただろうが!」

「だって、それがショービジネスってもんでしょ」

 美月は幾分大人びた顔で、にっと笑った。俺のマスターってやつは、とレイガンドーは嘆いたが、文句を言うだけ無駄だと判断したのか黙ってしまった。岩龍が車載無線越しにレイガンドーを慰めてきたが、レイガンドーはそれを力なくあしらっていた。感情が発露したことで振り幅が大きくなったレイガンドーは、以前にも増して人間臭くなってきていて、美月はそれがなんだか誇らしかった。人間らしくなればなっただけ、彼は強くなるのだから。

 けれど、ショービジネスの世界では、無敗の帝王は飽きられてしまう。レイガンドーがいつまでもメガトン級王座を守り続けていてはストーリーに波がないし、強烈なライバルも必要だからだ。岩龍は小夜子に代わって小倉貞利がマスターとなったこともあり、以前にも増して演出と売り込みに熱を入れている。おかげでレイガンドーに続いて人気のヒールファイターとなっているが、岩龍はライバルと呼ぶにはレイガンドーと親しすぎる。乗り越えるべき壁と、壊すべき障害と、取り戻すべきものがあるからこそ、観客はロボットファイターに感情移入するのだから。

 壊れる運命にある自分を嘆き悲しんでいるレイガンドーに、美月はちょっと心が痛んだので、作業台に載って彼のマスクフェイスに触れてやった。岩龍には内緒ね、と囁いてから、豪快な傷跡が付いたマスクに唇を添えた。途端にレイガンドーは大人しくなり、美月の頼みなら仕方ないな、と呟いた。

 美月は誰かの一番になりたかった。父親も母親も美月が一番ではなかったから、良い子になって頑張れば両親を振り向かせられるだろうと思い、気持ちを殺しながら頑張ったが無駄だった。苦しい中学受験を乗り越えて、難関の名門中学校に進学しても変わらなかった。それからも、自分が我慢すればいいと思い込んでいた。だが、羽部鏡一が尽きた命を奮い立たせて教えてくれた。君は本当は物凄く我が強くて独り善がりなんだ、と。

 だから、もっと我が侭になればいい。レイガンドーを鍛え上げて盛り上げて煽り立てて、彼を世界で一番のロボットファイターに仕立て上げてしまおう。欲しいものは数え切れないほどあるが、手始めにレイガンドーを一番にしたい。そして、美月は彼の一番で在りたい。いつかRECが落ちぶれたとしても、それだけは揺らがせたくない。

 そして、ロボットファイターとマスターを乗せたトレーラーは一ヶ谷市内に入った。



 法衣の上に袈裟を着たのは、久々だった。

 右腕がまともな形をしていることは、未だに慣れなかった。どこぞの企業が触手型の人工義肢を開発してくれれば真っ先に買うのになぁ、と思いつつ、寺坂は法衣の裾を翻して板張りの廊下を歩いた。長年の汚れでくすんでいた床板は、道子が日々磨き上げてくれたおかげで艶が出ている。寺坂が与り知らぬうちにワックスまで塗り込んだのだろう、やたらと摩擦係数が低かった。そのせいで足袋を履いた足が滑ってしまったが、サイボーグボディの優れたバランサーが転倒を回避してくれた。どの窓も透き通っていて、障子戸も張り直され、畳も拭き上げられている。

 寺坂が本堂に入ると、道子がせっせと押し入れから座布団を出しては並べていた。メイド服ではなく、今時の若い女性らしい服装になっていた。長い髪はシュシュでまとめ、ロングトレーナーに動きやすいレギンスを着込んでいた。念願叶って、つばめ達と出掛けた際に買ってきた服である。その他にも山のように買い込んできているので、これは氷山の一角に過ぎない。法事が始まる前には喪服に着替えるのだろう。平均的な顔立ちとプロポーションの女性型アンドロイドのボディに意識を宿している道子は、寺坂に気付くと笑いかけてきた。

「どうです、綺麗になったでしょ!」

「みっちゃん、潔癖すぎねぇ? 俺が車を売りに行ったついでにボディをメンテしてきた間、暇だったんだろうけどさ、他にやることなかったのか? ありがたいけど」

 寺坂が苦笑いすると、道子は唇を尖らせる。

「寺坂さんが無精なのが悪いんです。大体、お寺さんがだらしなくてどうするんですか。そりゃ、これまでは檀家さんが少数だったから許されていましたけど、これからはそうもいかなくなるんですからね?」

「その時は手伝ってくれよな。んで、その服」

「ほらほら、可愛いでしょー?」

 道子がこれ見よがしに一回転したので、寺坂は投げやりに褒めた。

「あーはいはい似合う似合う。髪も化粧も盛ってくれたら、もっと褒めてやってもいいかな」

「生憎ですけど、私はキャバ嬢みたいなのは嫌いなんですよ。まあ、別に寺坂さんに褒めてもらおうとは思ったわけじゃないですし、試しに聞いてみただけですよ。で、ちょっと話が脱線してしまいましたけど、これから忙しくなりそうな理由は解っていますよね?」

「合同慰霊碑のことか?」

「ええ、そうですよ。あれが完成して船島集落の近くに設置されれば、おのずと身内を供養してくれって人が浄法寺を訪れます。その時にだらしなかったら、幻滅されるどころじゃないですよ。それでなくても、寺坂さんはN型溶解症の元患者という設定になっているんですから、その辺をしっかりしてもらいませんと」

「設定なぁ」

 その言い方に、寺坂は笑いそうになったが抑えた。形がどうあれ、遺産を巡る争いの犠牲者達に関わっていた人々の気持ちの捌け口が出来るのは悪いことではないだろう。N型溶解症の合同慰霊碑が、船島集落付近に設置されると決まったのはつい先日のことである。一ヶ谷市側が掛け合い、市の税収を財源にして製作するそうだ。その石碑に刻まれる名前は膨大なので、当然ながら石碑も大きくなり、数も増える。そして、犠牲者達の分だけ遺族や友人がいる。弔わなければならない人間、償わなければならない罪は掃いて捨てるほどある。

 あれから、寺坂善太郎の立場は激変した。N型溶解症の騒ぎが起きる前から、弐天逸流の信者達と競り合っていたことが世間に知られたが、政府が情報をシャットダウンしたおかげで無用な注目を浴びずに済んだ。外側から見れば正義の味方のように思えるのかもしれないが、寺坂が弐天逸流の信者達や人間もどきと戦っていたのは、佐々木長光への対抗心と復讐心からだ。それを勝手に解釈されて真人間のようなイメージを付加されても純粋に迷惑なので、内閣情報調査室には徹底的に情報を操作しておいてくれと言っておいた。その対価に、寺坂が過去に集めた弐天逸流の信者達の遺骨を全て譲渡し、弐天逸流の実体解明に必要であろう情報も流した。捜査が進展すれば、彼らの遺骨は無事に遺族の手元に戻ることだろう。道子の両親である設楽夫妻の所在も明らかになったので、道子の遺骨もいずれは両親の手元に戻るはずだ。だが、道子は両親に連絡を取ろうとはしなかった。肉体を全て失って幽霊になった娘が舞い戻っても、お互いに辛くなるだけだろうから、と言った。

 その設楽道子は、遺産を巡る争いの最中に提出しそびれていた死亡届を出したので、名実共に死亡した。クテイがアマラを持ち去った今でも、つばめの意識が作用しているためか、電脳体だけは現存している。なので、彼女は自らの貯金で改めて購入した女性型アンドロイドのボディに意識を宿し、浄法寺に住み着くようになった。だらしない寺坂を放っておけないから、ということだそうだ。政府側から、国家機密を守るためにファイヤーウォールとして働いてくれないかと打診されたそうだが、突っぱねた。異次元宇宙との接続が完全に切れた今となっては、以前ほどの演算能力もなければ耐久性もないので無理が出来ないし、もう戦うのには飽き飽きしたからだそうである。

「さっき仕出し屋さんから電話があって、後一時間もすれば、御斎の御料理が届くそうよ」

 本堂に入ってきたのは、喪服に黒いエプロン姿の吉岡文香だった。法事の準備を手伝いに来てくれたのだ。

「解りましたー。じゃ、お酒の用意もしておかなきゃいけませんね」

 道子が応じると、文香は御本尊を見上げて感慨に耽った。

「早いものね。あれから一年も経つなんて」

「ですねぇ。色んなことがありすぎて、あっという間でしたね」

 道子はしんみりしながら、両脇を仏花で飾られている本尊の前に立て掛けてある卒塔婆を見上げた。そこには、寺坂が毛筆で書いた佐々木長光の戒名が印されていた。

「で、寺坂さんはどうして長光さんの葬儀に来なかったんです? どこぞのキャバクラで潰れていたからですか?」

 道子が目を据わらせたので、寺坂は肩を竦める。

「それもないわけじゃないが、なんつーか、怖かったんだよ。あのクソ爺ィが死んだ途端、美野里はすぐに俺に連絡を取ってきたからな。それまで散々俺を遠ざけていたくせに、だ。誰だって感付くさ、何かあるって。だから、様子見ってことでちょっと間を置いたんだ。そうしたら、みっちゃんが襲ってきただろ? 

 こりゃ関わらねぇわけにいかねぇなって腹を括って、今に至るってわけだ」

「それ、遠回しに私のせいだって責めてません?」

「馬鹿言え、何から何まで俺の責任だ。そこまで落ちぶれちゃいねぇよ」

「だったら、いいんですけどね。やっぱり、死んだ人が生き返るのは良くないですよね。今の私は幽霊の親戚みたいなものですけど、次はきちんと死にますよ。その時はちゃんと供養して下さいね? でないと、化けて出ますよ」

「その時は裸で頼む」

「死んで下さい」

 寺坂が軽口を言った途端、道子は真顔で言い返した。全くもうこの人は、と零しながら道子が本堂を後にすると、文香が口元を押さえて肩を震わせた。

「道子さんを大事にしてあげなさい。あなたみたいな人に付き合ってくれるのは、後にも先にもあの子だけだもの。だから、二度と私に手を出そうとは考えないで。もちろんりんねにも」

 少し気まずくなり、寺坂は禿頭を押さえる。道子とのじゃれ合いを人に見られたのが、なんだか恥ずかしい。

「文香さんにもりんねにも手ぇ出したら、今度こそいおりんに殺されますって。戦おうにも触手もねぇし」

「解っているのなら、それでいいの。それと、私は国道沿いにドライブインを開店するための準備に忙しいから、男に手を出されている暇がないってことも教えておくわ。仕事をしていないと落ち着かないし、家にずっといると、りんねと伊織君の邪魔になっちゃうもの。開店したら、また食べに来てね。ちくわラーメン、御馳走してあげるわ」

「それ、もしかして」

「もしかしなくても、りんねの好物よ。あの子、ちくわさえあればなんでもいいのよ」

 おかげで楽だけど、と上機嫌に笑いながら、文香は本堂を後にした。寺坂は文香の後ろ姿を見送ってから、ああ、やっぱりいい女だよな、と生臭い感情を膨れ上がらせた。けれど、文香は死別した夫を愛しているし、紆余曲折を経て取り戻した娘を何よりも大事にしている。その暖かな背景が文香に一際色香を与えているが、無用な手出しをして台無しにするのは、さすがの寺坂といえども気が引けた。

 荒くれた出来事を乗り越えたからだろう、寺坂の心中は凪いでいた。あれだけ欲しいと願っていた美野里は手に入らず、どう足掻いても満たされないものがあると、散々痛い思いをしてようやく思い知ったからだ。欲しいものは本能のままに手に入れて、目の前の欲望を満たしながら生きてきたが、それも終わりだ。女癖と酒癖の悪さだけは何度死んでも治りそうになかったが、最大の悪癖はさすがに収まりそうだ。

 長光から与えられた莫大な金を浪費するための手段として買っていたものであり、美野里の気を惹くための道具であったスポーツカーは暇を見つけては売り払っているが、濃緑のアストンマーチンとドゥカティだけは手元に残しておくつもりだ。惚れた女とタンデムする、という青臭い夢を叶えたいからだ。

 乗せるべき相手は、すぐ傍にいる。



 気付けば、随分と髪が伸びていた。

 去年は肩よりも少し長い程度だったツインテールが、今では背中の中程に毛先が届くほどになった。それだけ、時間が経ったということだ。だが、伸びた分だけクセ毛はひどくなってしまい、ヘアアイロンでストレートにしても半日も持たない。最低限見苦しくないようにしてはいるが、生まれ付いての体質だけはどうにも出来ない。

 だが、短くする気は起きなかった。つばめは鏡台の前に座って二つに分けた髪をヘアゴムで結び、前髪を整えてから、振り返った。古めかしい和室には似合わないパステルカラーのタンスの上で、パンダのぬいぐるみがパンダの写真立てを抱きかかえて座っていた。その写真は、両親が結婚記念に撮影した写真だった。人工外皮を被った父親は洒落たタキシードを着ているが、不本意なのか表情が強張っている。それに対して、ふんわりとしたデザインのウェディングドレスに身を包んでいる母親は満足げに微笑んでいた。

 あれから、つばめは奇妙な立場になった。膨大なエネルギーを発生させられるムリョウと、莫大な情報を一瞬で処理出来るムジンを制御する力を持った唯一の人間となったため、政府から丁重に保護されるようになった。その一方で行動には制限が加わるようになり、一ヶ谷市内から出るためにはいちいち政府側にお伺いを立てて許可をもらわなければならなくなった。護衛と監視のための手回しをする必要があるから、だそうだ。周防がその仲立ちをしてくれているのだが、すんなりと許可が下りるのは極めて希で、道子と一緒に市外に買い物に出るだけでかなり手間と時間を喰ってしまった。それが息苦しいと感じないわけでもないが、ムリョウの恐ろしさとムジンの凄まじさを身を持って知ったので、そうしなければ危機を未然に防げないのだとも納得している。それに、大人しくしていればコジロウや父親と一緒に暮らせるので、政府の決定に逆らう気はない。もう、誰かと争うのはうんざりだからだ。

 一時的に凍結されていた佐々木長光の資産は、今度こそつばめの手に入った。けれど、その資産にはほとんど手を付けずに暮らしている。これから何が起きるか解らないし、目先の欲望だけを満たしても退屈なだけなので、本当に必要な時、本当に大事なものを手に入れる時だけ使うと決めている。

「お母さん」

 つばめは写真を見つめて、頬を緩めた。この写真は、長孝が長年大事にしていた結婚記念の写真を焼き増ししてもらったものだ。この写真を撮った時はまだ私はいないんだよな、と思うと不思議な気持ちになる。ひばりの面差しと鏡に写った自分の顔を見比べ、つばめはなんだか照れ臭くなった。日に日に母親に似てきているからだ。

「大丈夫だよ。心配しないでね。お父さんとコジロウと一緒に、頑張るからね」

 つばめは母親に笑いかけてから、身を翻した。アイロンを掛けておいたブラウスに袖を通してボタンを留めたが、胸元の傷跡に指が触れて手を止めた。去年よりも少しだけ成長した胸の間、心臓の真上に出来た片翼の傷跡を撫でると、その下でクテイが作ってくれた代替品の心臓が元気に動いていた。

「お婆ちゃん」

 つばめは胸を押さえ、心臓の力強さに感じ入った。

「もらったもの、全部無駄にしないよ。ちゃんと使い切るよ。だから、心配しないでね」

 自分の命も、コジロウも。つばめは一度深呼吸してから、ブラウスのボタンを全て留めてハンガーに掛けておいたジャンパースカートを着た。丸襟のブラウスの襟にボウタイを通してチョウチョ結びにして、四つボタンのブレザーを羽織り、ハイソックスを履いた。以前は膝上だったスカートの裾が太股の中程に来ているので、いつのまにか背が伸びてしまったようだ。身体測定をする暇もなかったから、全然気付かなかった。

「まあ、いいか」

 サイズの合う制服を調達している時間もないし、そんな当てもない。この制服にしても、一ヶ谷市内の衣料品店の在庫を掘り返してなんとか手に入れたものだからだ。一ヶ谷市内の物資の流通は徐々に回復してきているが、風評被害がまだ収まっていないので、運送トラックもなかなか市内に立ち入ろうとしない。だから、店舗の品揃えが悪いので、買い出しは市外に行かなければならないのが面倒だが、普通に暮らせるだけでも良しとすべきだ。

 法事に必要なものを入れたトートバッグを手にしたつばめは、だだっ広い自室を後にした。同じ合掌造りの家ではあるが、船島集落の佐々木邸とは作りが違うので、たまにそれを忘れて迷ってしまいそうになる。廊下の角を一つ間違えたが、玄関に辿り着くと、迎えの車が到着していた。

「おーす」

 挨拶してきたのは、パンツスーツの喪服を着た柳田小夜子だった。待っている間にタバコを吸っていたのか、彼女の周囲には紫煙の名残がある。黒いローファーを履いて出たつばめは玄関の鍵を閉め、小夜子に駆け寄った。

「小夜子さん、なんか格好良い」

「そうかぁ? スカート履きたくなかったから、パンツにしたってだけだぞ」

 小夜子はローヒールのパンプスを履いた足を上げ、眉根を曲げた。あの戦いの後、小夜子は内閣情報調査室の延長にあった部署を懲戒免職となった。その原因は、もちろんアマラを盗んでつばめに渡したせいである。拾得物横領、機密漏洩、服務規定違反、職権乱用、と様々な罪状で立件されてしまった。だが、当の本人はそれを悔やむどころか笑い飛ばしており、自由気ままに過ごしている。つばめ達が住んでいる集落にある借家は家賃がべらぼうに安いが広すぎるとのことで、少し離れた場所にあるアパートに独り暮らしをしている。

「まあいい、タカさん、迎えに行くぞ」

「はーい」

 つばめは快諾し、小夜子が乗ってきた車に近付いた。小倉重機・一ヶ谷支社、との社名が入ったワゴン車だった。小夜子は運転席に乗り込んだので、つばめは後部座席に乗り込んだ。社用車らしい白いワゴン車が集落内の道路を走っていくと、車を出そうとしている武蔵野に気付いたので、窓越しに手を振った。彼は片手を上げてから自宅のガレージに入り、愛車のジープに乗り込んでいた。そして前に向き直ると、一瞬、小夜子と視線が合った。

「どうしたの 一本道だけど、前、見ないと危ないよ」

「解ってるっての」

 小夜子は珍しく化粧をした顔をしかめ、ハンドルを回した。小夜子と武蔵野は気が合いそうだな、とは思ったが、つばめは敢えて口には出さなかった。余計な御世話だからだ。武蔵野には武蔵野の、小夜子には小夜子の人生があるのだから、それを交わらせるか否かは当人同士が判断すべきだ。それが大人同士なら、尚更だ。

 ワゴン車は集落から市街地に入り、国道に差し掛かったが、車通りは乏しかった。国道から一本外れた細い道路の奥に向かっていくと、広めの敷地の中に建っているコンクリート製の建物が見えた。随分前に倒産した廃工場を改築して利用しているので外見はかなり年季が入っているが、看板だけは真新しかった。小倉重機・一ヶ谷支社。その看板の手前にワゴン車が止まったので、つばめはシートベルトを外してから降りた。 

「お父さーん!」

 つばめが工場の中に入ると、金属と機械油の匂いが立ち込めていた。防護マスクを被って金属部品を溶接していた背中が上がって、凹凸のない顔が振り返った。背中から生えている生体アンテナである光輪は、長光との戦いの最中に急成長したが伸縮出来るらしく、作業着の背中は盛り上がっていなかった。純血のニルヴァーニアンであるシュユが出来ないことが出来るのが不思議だが、それが長孝とニルヴァーニアンの決定的な違いだ。物質宇宙に適応するか否かが、彼らの分かれ目なのだろう。

「早かったな」

「だって、喪主じゃん。遅刻出来ないじゃん」

 つばめが胸を張ると、ニルヴァーニアンとしての素顔を曝している長孝は、触手に填めていた手袋を外した。

「それもそうだな。俺はどうすればいい」

「知り合いだけだし、別に皮を被ることもないんじゃない?」

「そうだな」

 長孝は、工場の隅にあるデスクの上に折り畳んである人工外皮を一瞥した。人目に付く外見なので、不特定多数の目に曝される時は人工外皮を被って人間の振りをしなければならないが、工場に籠もって作業をする時や自宅で休む時は脱いでいる。体積を縮めてシリコンカバーの中に押し込めるのは、やはり窮屈だからだ。

「でも、さすがに着替えなきゃならねーと思いますよ?」

 小夜子に促され、そうだな、と長孝は溶接道具を一通り片付けてから立ち上がった。

「お弁当、どうだった? 菜の花の混ぜ御飯、初めて作ってみたんだけど」

 つばめが父親の背に問い掛けると、長孝は数本の触手で給湯室を示した。

「全部食べた。弁当箱は洗ってある」

「素直に褒めりゃいいのになぁー」

 小夜子の言葉に、つばめは失笑する。

「だよねぇ」

 全部食べたということは、おいしかったということだろう。長孝の遠回しな感情表現に不慣れな頃は、互いの意見が行き違ったこともあったが、一緒に暮らして五ヶ月も過ぎるとさすがに互いに慣れてくる。長孝も直情的なつばめに慣れてきたのか、少しずつではあるが語意も変わってきている。この調子で、もっと仲良くなりたいものだ。

 あの後、佐々木長孝は小倉重機の社員として雇われた。他でもない、小倉貞利が長孝の才能が闇に葬られるのは勿体ないと惜しんだからである。当初、長孝は渋っていたが、支社で部品や人型重機やロボットの設計と製造を一任されると承諾した。諸々の罪状で裁判中の小夜子も、一連の裁判が終わり次第小倉重機に採用されることが決まっている。彼女の技術もまた、捨て置くには惜しいからだ。

「つばめ」

 滑らかな駆動音と重たい足音が聞こえ、つばめはすぐさま彼に振り返る。

「コジロウ、整備終わった?」

「完了した。各部、異常はない。新機軸の部品が脚部に装着されたが、試用の際にも問題はなかった」

 警官ロボット、コジロウは赤いゴーグルを薄く輝かせながら、つばめに歩み寄ってきた。つばめは彼の前で屈み、垂れ下がってきた前髪を耳元に掛けながら、彼の足元を見回した。両脛に内蔵されているタイヤが、キャタピラに変わっていた。地形が悪くとも高速移動出来るように、長孝が改造してくれたのだ。

「新しい足、格好良いよ」

 つばめがストレートに褒めると、コジロウはぎしりと首関節を軋ませ、目線を外した。

「……謝意を述べる」

「ああ、それが精一杯か。つくづく可愛いなぁ、お前ってやつは」

 小夜子はけらけら笑いながら、コジロウを引っぱたいた。つばめは回り込み、コジロウの視界に入る。

「ほらほら、久々に制服着たんだよ!」

「平素だ」

「えー、それだけ?」

 つばめがちょっとむっとすると、コジロウはやや目線を下げてつばめをゴーグルに映した。

「平素より、つばめは可憐だ」

 コジロウらしからぬ語彙につばめは目を丸めたが、徐々に頬に血が上ってきて顔を伏せた。

「うん……ありがとう」

 その様を見、小夜子は背中を向けて肩を震わせていた。笑っているからだ。笑うことないじゃないか、とつばめは少し気に障ったが、彼女の気持ちは解らないでもなかったので文句は言わなかった。コジロウの語彙に人間的な柔軟さが出てきたのはごく最近のことなので、まだ面食らってしまうのだ。それはつばめも同じで、コジロウの頑なさが解けていくのは嬉しいのだが、若干反応に困る場面も多い。だが、それがコジロウの愛嬌だ。

 程なくして、喪服に着替え終えた長孝が出てきたので、小夜子の運転するワゴン車で移動した。コジロウは新品のキャタピラで併走してきたが、その動作が気になるのか、長孝はしきりに外を気にしていた。つばめはそんな父親が微笑ましく、誇らしくもあった。自分もコジロウも愛されている、と実感出来るからだ。


 浄法寺に到着したのは、午後四時過ぎだった。その頃には、既に皆が到着していた。美月にレイガンドーと岩龍に小倉、一乗寺に周防、寺坂に道子、吉岡親子と伊織、武蔵野、と浄法寺の本堂に一同に介していた。もちろん、ロボットファイター達は本堂には入れないので庭先である。美月とりんねにじゃれつかれたつばめは、お揃いの制服を互いに見せ合った。美月の顔付きには自信が漲り、りんねは表情が増えて一層愛らしくなっていた。最後に到着したのはシュユで、うねうねと触手を波打たせながら、縁側から本堂に上がってきた。

「本日はお忙しい中、お集まり頂き、ありがとうございます」

 皆の前に立ったつばめは、喪主らしく改まった。やりづらかったが、締めるところは締めなければ。

「それではこれより、祖父、佐々木長光の一周忌法会を始めさせて頂きます。御住職、よろしくお願いします」

 そう言って、つばめは寺坂に一礼すると、寺坂も返礼した。

「こちらこそ」

 それから、浄法寺の墓地に新しく建てた佐々木家の墓に参った。その中には、佐々木邸の敷地内にあった墓石から回収した先祖代々の遺骨を入れてあるので、その中に長光の骨も少しは混じっているはずである。仏花と線香を供え、艶々とした黒御影石に水を掛けてやった。手を合わせたつばめは、今度こそ成仏して下さい、と腹の底から祈った。あれだけ苦労に苦労を重ねて、クテイが異次元宇宙に連れていってくれたのだから。

 墓石には、佐々木長光、佐々木英子、佐々木ひばり、との名前が刻まれていた。その隣にずらりと並ぶ真新しい墓石には、吉岡八五郎、藤原忠、神名円明と鬼無克二、羽部鏡一、とあった。皆、それぞれの関わりが深い相手の墓石に目を向けては彼らの死を悼んだ。遺骨がない者も多いが、墓石だけでも彼らが生きていた証となる。

 墓地から引き上げて本堂に戻り、寺坂に経を上げてもらった。サイボーグになったからか、以前のようなタバコと酒に焼け気味の掠れた声ではなくなったので以前よりも聞き取りやすかった。読経が終わり、焼香も終わったので、つばめは再び皆の前に立って一礼した。

「本日は、お忙しい中、集まり頂きましてありがとうございました。御陰様で、祖父の一周忌法要を無事に終えることが出来ました。皆様も御存知の通り、祖父は大変我の強い人間でした。それ故に、祖父が振りまいた不幸と災厄は今も余波が広がっておりますが、私達はこうして長らえました。祖母や母や、遺産と関わりながらもその力と欲に振り回されずに信念を貫き通した、皆様のお力添えがあってのことです。そして、私達の背を支えてくれていた方々のおかげです。祖父がこの世に繋ぎ止めていたが故に二度も死を迎えなければならなかった方々と、祖父の愚行の末に命を散らしてしまった方々に恥じぬよう、家族と共に生きていきます」

 事前に用意していた原稿の内容は、途中から吹き飛んでしまった。なので、つばめは言いたいことを言い終えて深々と頭を下げると、拍手が聞こえてきた。それを受けながら顔を上げると、長孝が寄り添い、つばめの肩を支えてきてくれた。つばめは目元を拭ってから、庭先にいるコジロウと視線を交えた後、気持ちを切り替えた。

「だから、後は皆で一緒に御飯を食べよう! それでお終い!」

「わあい、待ってましたぁ! てか、法事にそれ以外の楽しみってないもんねー!」

 一乗寺が子供っぽく喜んだので、周防は嘆いた。

「お前なぁ……」

「お酒も一杯ありますよー。お酌しますから、全部飲んじゃって下さいねー」

 喪服姿の道子がビール瓶の詰まった箱を抱えてくると、早々に袈裟を脱いだ寺坂が喜んだ。

「ぱあっと行こうぜ、その方が楽しい!」

「それでいいのか?」

 武蔵野が呆れると、律儀に正座をしていた伊織が下両足を崩しながら言った。

「いいんじゃねーの。喪主がそう言うんだし」

「じゃ、座卓を出すから、手伝ってね。男手が多いと楽だわぁ」

 文香は男達を手招き、本堂と隣り合っている和室へと連れて行った。美月とりんねが足を崩したので、つばめは二人の元に近付くと、美月は庭先で突っ立っている二体のロボットファイターを指した。

「来週、凄い試合をやるから是非見てね。で、余裕があったらでいいんだけど、エンヴィーとシリアスで試合に出てみない? 今でも人気があるんだよ、つっぴー達って」

「ありがとう、その時はよろしくね」

 つばめが笑顔を返すと、美月は墓地の方角に目をやった。

「で、いつか私とレイがヒールターンする時が来たら、その時はあの人みたいなキャラで攻めようかなって」

「確実に面白いよ。それだけは間違いない」

 羽部のあの性格をデフォルメすれば、絶対に受ける。つばめが同意すると、りんねがつばめに縋った。

「つばめちゃん、御飯?」

「うん、そうだよ。色んな料理が出てくるし、ジュースもあるから、一緒に食べようね」

「うん。お腹空いた」

 りんねは頷いてから、お母さんのお手伝いする、と言って、仕出し料理が用意されている和室に向かっていった。美月も手伝おうかと言ってくれたが、つばめはその気持ちだけをありがたく受け取っておいた。この場では、美月はお客さんだからだ。縁側に近付いてきた二体のロボットファイターは、騒がしくなり始めた本堂を覗いた。

「俺達は喰えないのが残念だよ」

「味わえるモンがあるとしたら、場の空気しかないのう」

 レイガンドーが首を横に振ると、岩龍は両手を上向けた。すると、二人にシュユが近付いてきた。

「それだけでも充分じゃないか。まあ、僕は食べられるから食べるけど」

「なんか狡いな」

「うむ」

 レイガンドーと岩龍がシュユを睨め付けると、シュユは触手を束ねてひらひらさせる。

「そればかりはどうしようもないって。それと、君達は特例中の特例なんだから、その辺の自覚を持ってもらいたいものだなぁ。クテイはムリョウをコントロールするためにムジンを残したのであって、君達二人はその副産物なんだから、少しは処理する情報量を押さえてもらいたいよ。クテイがあちら側に行った以上、君達と異次元宇宙を繋げているのは僕なんだから、僕の心身を経由していく情報をもうちょっとセーブしてほしいな。それでなくても、大衆娯楽に使うには性能が良すぎる部品なんだし」

「こういう世の中だ、俺達みたいなのがガチャガチャ騒がないと、余計に暗くなるだろうが」

 レイガンドーが腕を組んで胸を張ると、岩龍はその肩に肘を載せる。

「それが道具っちゅうもんじゃろ? 人間に出来ないことをして、人間の望みを叶えて、使い切られるのがワシらの仕事なんじゃい。どんだけ感情の振り幅が広がろうが知能が高まろうが、それだけは変わらん」

「まあ、間違ってはいないかな」

 どっこいせ、とシュユは縁側に腰掛けると、土が付いた両足部分の触手を振って砂を払い落とした。軟体動物のように足をくねらせながら歩いていったシュユは、どこに座ったらいいのかと道子に尋ねていた。道子は少し考えた後に、クテイさんの親族なので上座の方に、と示した。シュユはその通りの場所に腰を下ろすと、御膳の上に並ぶ料理を見下ろした。そろそろ準備が整いそうなので、つばめと美月も本堂に戻った。

 故人を偲ぶための宴席である御斎は程なくして騒がしくなり、大人達はビールや日本酒を酌み交わした。つばめ達や酒を飲まない面々は、その騒がしさに辟易しつつも、お喋りに興じた。その間、つばめはレイガンドーと岩龍と共に庭先で待機しているコジロウと何度も目が合った。二体はここ最近のロボットファイトに関する愚痴とも自慢とも付かない話を延々とコジロウに訊かせていて、コジロウはそれを無言で受け流していた。だが、決して嫌がっているようには見えなかったので、エンヴィーとシリアスとして再びリングに立つ日は遠くなさそうだ。そうなれば、コジロウの強さを全世界に知らしめられる。政府はいい顔はしないだろうが、そこはなんとかなるだろう。

 仕出し料理も酒も飲み尽くされ、食べ尽くされ、皆は香典返しの手土産を携えて帰っていった。車に乗ってきたが勧められるがままに酒を飲んでしまった武蔵野は、明日になったら車を取りに来る、と言って徒歩で帰っていった。一乗寺と周防も同様で、周防はすっかり出来上がっている一乗寺を引っ張っていった。吉岡親子と伊織は家が近所なので、香典返しの入った紙袋を下げて徒歩で帰っていった。小倉親子とロボットファイターは、浄法寺から離れた場所に駐車してあるトレーラーに戻っていった。これから、次の興行先に移動するのだという。小夜子は酒が抜けるまで車が運転出来ないし、なんだか面倒臭くなったので浄法寺で一泊すると言った。寺坂は気分良く酔って寝入ってしまったので、道子はぼやきながらも後片付けに精を出していた。

 そして、つばめもコジロウと共に帰路を辿った。長孝は発注された部品の仕様について意見があると言い出して、トレーラーに戻ろうとしていた小倉親子を引き留めて話をしていた。複雑な専門用語が飛び交う込み入った話だったので、つばめは先に帰ると断ってから、父親と別れた。コジロウと手を繋ぎながら、街灯のない道を歩いた。

「日が暮れるの、遅くなったね」

 茜色の夕日に染められた集落を一望してつばめが言うと、コジロウは平坦に答えた。

「公転周期によるものだ」

「そりゃまあ、そうだけどさ」

 つばめは幅の違いすぎる歩調を気にしながら、彼と影を並べて歩いた。

「本官は」

 コジロウは動作を遅らせてつばめの歩幅に合わせ、首を曲げて赤いゴーグルを向けてきた。

「数々の経験を分析し、判断した結果、本官が完遂すべき職務を見出した」

「ん、なあに?」

「本官はニルヴァーニアンが地球という物質宇宙の片隅に存在する惑星に残留させた異物であり、ムリョウとムジンが相互的に作用し合って生じた疑似人格であり、つばめとその両親によって与えられた経験と情緒と時間と空間と次元を糧とし、つばめの感情を動力源として作動するムリョウを用いて稼働している人型特殊警察車両だ」

 コジロウは立ち止まり、一度手を解いてから、つばめの前で片膝を付いて目線を合わせた。

「よって、本官が最重要視すべきはつばめであり、つばめとその近親者を護衛する職務を継続する。そして、今後、つばめが積み重ねていくあらゆる財産や資産を保護する。本官はムリョウとムジンの作用により、つばめの寿命、佐々木一族の寿命、物質宇宙に存在する万物の寿命を凌駕する、機体耐久性能を得た。よって、本官はつばめと共に機能停止することは、物理的に不可能だ。これは本官の推測ではあるが、つばめもそれを命令しないであろうと判断する。故に、本官はつばめが残していくものを守り通す。それが、本官の願望に値する行動理念だ」

「それだけでいいの?」

「本官は主観に相当する自己判断能力を得たが、幾多の判断と計算の末に算出した結論はそれだけだった」

 コジロウの冷たく硬い手に頬を包まれ、つばめは目を細めた。

「私も、それだけでいいよ。だって、私もそう思うから。コジロウとずっとずっと一緒にいたいから」

「了解した」

 少々の間の後、コジロウはつばめの背に手を添えた。つばめは彼のマスクを両手で挟み、額を当てる。

「私の中だと、それが愛しているってことになるかな」

「継続し、存続し、連続することが愛なのか」

「愛の基準は人それぞれだけど、私はずっと一緒にいられるのが一番嬉しいってこと」

 だから、私はコジロウを愛してる。消え入りそうな声色で囁いて、つばめは少し身を乗り出した。コジロウは上体を曲げてマスクを寄せ、つばめの薄い唇を塞いできた。滑らかな塗装の感触と金属の冷たさに、かすかな機械油の匂いと機械熱の温もりが、接した部分から体中に広がっていく。

 本当は、とてもいけないことだ。種族は違えども厳密には兄妹で、人間と道具で、有機と無機で、異次元と物質宇宙の隔たりが横たわっている。コジロウと通じ合うべきではないのだと僅かに残った躊躇いが叫ぶ。一方で、その躊躇いを振り払うのが欲望という衝動なのだとも喚く。どちらも正しくて、どちらも誤りだ。欲しい物を手に入れたいと願うことは悪いことではない。彼が欲しいという痛烈な感情がなければ、つばめは日陰の中で膝を抱えて生きていただろうし、父親にも母親にも祖母にも会えず、祖父とも戦えなかった。だから、全てを受け入れるべきだ。

 つばめが少し息を速めながら唇を外すと、コジロウはつばめを横抱きにしてから肩に載せた。つばめは彼の目線と同じ高さに腰掛けると、東側の空から昇り始めた月と、無数の星々に思い切り手を伸ばした。

 宇宙一欲しかったものが、手に入った。



 茜色に焼けた空に、手を広げる。

 銀色の手は虚空を遮り、少しばかり翳りを与えてくれた。その影が足元に及ぶと、赤茶けた地面に埋もれた石碑の影が揺らいだ。隅立四つ目結紋が刻まれた黒御影石の墓石に一陣の乾いた風が吹き付け、砂埃がざらりと表面を擦っていった。火星の如く赤い地表は平坦で、緩やかなカーブを描いている地平線が望める。絶え間ない熱波と乾燥した空気が陽炎を生み出し、放射能の残滓がこびり付いた砂嵐が駆け抜けては渦を巻き、乾き切った砂地に溝を作っていった。だが、それもまた砂嵐で掻き消され、埋もれてしまう。

「やあ」

 砂嵐の轟音に掻き消されない、電波に乗せられた音声が受信装置に届いた。コジロウが膝を立てて振り返ると、見覚えのある触手の異形が立っていた。その身に巻き付けられている黄土色の布は膨大な年月を経て擦り切れていたが、内包されている者は以前となんら変わりがなかった。シュユだった。

「あれから何年過ぎたっけ?」

 シュユが小首を傾げると、コジロウは即答した。

「五六億七〇〇〇万年、経過した」

「そう、そんなになるんだね。あれから、ニルヴァーニアンには色々とあったよ。穏健派と強硬派と保守派で揉めて、異次元宇宙と物質宇宙の狭間で戦ったりもしたけど、それも古い時代の話だよ。今の僕らは、ただの知的生命体として物質宇宙に根差しているよ。やっぱり、おいしい御飯を食べたいからね」

 彼らと別れた日がつい昨日であるかのように言い、シュユは暴風に触手を靡かせながら、限界を迎えている太陽を捉えた。コジロウは、佐々木一族が眠る墓石の傍からは決して離れずにシュユを見守った。シュユが物質宇宙を離れたのは、つばめが生命活動を停止してから間もないことだった。彼はニルヴァーニアンが人間に与えた管理者権限が完全に沈黙したことを確認してから、異次元宇宙に戻っていった。以後、幾多の天災、戦争、動乱、進化、衰退、文明、発展、そしてありとあらゆる知的生命体がコジロウの傍に現れては通り過ぎていった。いかなる欲望に貪られようと、弄ばれようと、コジロウはつばめの足跡と己の願望を守り続けた。

「それだけの時間を経験した君の感情があれば、フカセツ・フカセツテンは動かせる」

 シュユは黄土色の布の隙間から触手を出し、佐々木家の家紋が印された菱形の金属板を差し伸べた。

「フカセツ・フカセツテンとは数字の最大の単位。すなわち、物質宇宙そのものなんだよ。コジロウ君、君の意思があれば、この宇宙を再び織り成すことなんて造作もないよ。ともすれば、滅びつつある太陽系を再生出来るし、彼女だってまたこの世に生み出せるさ」

 どうする、とシュユから問われたが、コジロウは金属板には手を伸ばさなかった。五六億七〇〇〇万年もの時間を、そうして過ごしてきたように、愛して止まない主人が眠る墓石に向き直った。

「本官は職務を継続する。以上だ」

「君ならそう言うだろうと思ったけどね、一応訊いてみただけさ」

 シュユは穏やかに述べ、コジロウに寄り添って墓石を見下ろした。

「良ければ、話を聞かせてくれないかな。僕がいなくなってからのことを」

「……了解した」

 コジロウは右胸に刻まれた片翼を押さえると、その奥にあるムリョウを高ぶらせた。また、一陣の風が吹き渡り、新たな砂嵐が巻き起こっていった。シュユは熱した砂の上に腰を下ろしたので、コジロウは数億年ぶりに膝を折って墓石の前に片膝を付いた。ムリョウのエネルギーを用いて風化を妨げている黒御影石に触れると、墓石の側面に刻まれた、佐々木つばめの名を柔らかな手付きで慈しんだ。

「愛している」

 圧倒的に経験が足りず、主観が未完成で感情が形成されていなかった頃、その言葉はどうしても使えなかった。コジロウ自身が、自分の感情に懐疑的だったからだ。そのせいで、つばめからどれほどの感情を注がれようとも、この言葉を囁かれても、同じ言葉を返せなかった。感情という裏付けがなければ、言ってはいけないと思っていた。だから、つばめが肉体に精神を伴って物質宇宙で人生を謳歌していた頃は、たった二回しか言えなかった。彼女がコジロウと生涯を共にすると神の前で誓った日と、彼女が生命活動を終了する日だけだった。

 あの、暖かくも激しい日々を思い返しながら、コジロウは穏やかに情報の羅列を始めた。シュユはコジロウの話に聴覚を傾けながら、恒星としての命を燃やし尽くしかけている太陽を眺めた。物質宇宙を再構成する鍵となる家紋は焼け焦げた砂に埋もれ、没し、二度と地表には姿を現さなかった。コジロウもシュユも、探しはしなかった。無量大数の力を備え、数多の時間を経て心を得た道具が価値を見出したのは、彼女との人生だけなのだから。

 力を欲する力は、この心の内で眠っている。



 了

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