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機動駐在コジロウ  作者: あるてみす
 

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老いてはコマンドに従え

 雪が止んだ。

 雲の切れ間から差し込んだ日差しが、長年張り替えを忘れられていたせいで風化した障子戸を擦り抜けて、畳を暖めてきた。名残惜しく思いながらもコタツから出た美月は、障子戸を開けて結露の浮いた窓も開け、鉛色の隙間から覗く鮮やかな青空を認めた。日差しは気持ち良いのに、重苦しい不安が胸中で疼いた。

 それもそうだろう、と美月は手入れの悪い庭に潜んでいる戦闘員達を見やった。雪原迷彩の白い防護服に身を固めた男達が、白い布で覆った自動小銃を携えていた。ヘルメットとゴーグルに隠されているので、彼らの表情は窺えないが、決して好感情は抱いてくれていないだろう。複雑で暗澹としている内情を知らなければ、つばめと共にフカセツテンに向かった者達は、ハルノネットや新免工業の恩恵を受けたサイボーグや世間に馴染んで暮らしていた人間もどきを再び死に至らしめる原因を作ったことになる。だから、捜査令状が出てもおかしくはないし、大量殺人犯として目を付けられても不思議はない。これ以上、遺産とそれに関わる者達を野放しにしておけば、政府の沽券にも関わるからだろう。散々遺産を利用してきたくせに、と美月は歯噛みし、障子戸を閉めた。

「連中のことは気にするな。俺が指示するまで何もしないからな」

 美月が余程不愉快げな顔をしていたのだろう、コタツの一角に座っている迷彩服姿の男が宥めてきた。

「ちょっと見ないうちに偉くなりやがって。つか、あたしを逮捕しに来たんじゃないのかよ」

「それは俺の管轄じゃないが、立件されるのは間違いないから覚悟しておけよ。拾得物横領、職権乱用、服務規定違反、他にもまだまだある。小倉重機に頻繁に出入りしていたことからして、かなり拙いんだ」

「現場の判断でどうこうしねぇと解決出来ない案件だらけだろ。だから、結果オーライだ」

「そういう問題じゃないだろうが。特に行政は」

 男の隣に座っている小夜子はミカンの皮を剥いて白い筋も取ってから、ほいよ、とりんねに差し出した。りんねはそれを受け取り、食べたが、酸味が強かったのか顔をしかめた。あたしはこれぐらいが好きだけどな、と言いつつ、小夜子は皮がまだ青いミカンを頬張った。美月はまたコタツに足を入れたが、つばめのことが気掛かりだったので、小夜子が段ボール箱ごと持ち込んだミカンを食べる気にはなれなかった。

「ミカンを食べたら皮が残るね」

 コタツにも入らずに居間の隅に正座しているシュユの言葉に、熟れたミカンを手にしたりんねが頷く。

「ん」

「残った皮はどうするかな」

「む」

 りんねがゴミ箱を指すと、シュユは数本の触手をそちらに向ける。

「そうだね。大体はそうなる。だけど、その皮を後生大事に持っているとどうなるかな」

「黴びるだろ。でなきゃ、干涸らびる」

 小夜子が投げやりに答えると、シュユは凹凸のない顔を彼女に向けた。

「そう。それが当たり前。土に埋めたら微生物によって分解されるし、自治体のルールに則って処理されたら焼却炉で灰になるし、生ゴミ処理機で加工して肥料にすることも出来る。価値はそうやって生まれるものだ。だけど、その皮が非常に稀少な成分を宿している、という情報が流布されていたらどうだろうか。ミカンの皮なのに、万能の霊薬として扱われるようになる。ミカンの皮を巡って、人々の間で争いが起きる。ミカンの皮ばかり執心して、肝心の中身が蔑ろにされる。ミカンの皮に付加価値を与えて神格化してしまう。でも、ミカンはミカンだ」

「禅問答だな、そりゃ」

 小夜子は二個目のミカンの皮を剥き終えると、房を大きめに千切って口に放り込んだ。

「その物事や物体に対してどういった価値を見出すのか、それが問題だってことだ」

 雪原迷彩の戦闘服を脱ごうとしない男は、皮膚が引きつった左目の瞼を細めて義眼を狭めた。戦闘服の胸元には、周防国彦、と名前を刺繍されたワッペンが縫い付けられていた。

「俺がここに差し向けられたのは、お前達に報告を行うためだ。吉岡グループは解体されることが決定した」

「えぇ!? それじゃ、りんちゃんはどうなるんですか!?」

 美月が腰を浮かせると、周防は美月を諌めてきた。

「どうもこうもならんさ。人が死にすぎたんだ、どこかに責任をおっ被せなければ世論は納得しない。吉岡グループとハルノネットと新免工業がサイボーグ化した人間の数は、合計すると三〇〇万人近い。更に、弐天逸流が生み出した人間もどきの数は、把握出来ているだけで二万人を超えている。警察や医療機関に申告されていない連中も当然いるだろうから、それを含めれば被害者の数は増えるだろう。戦争でも、一度にここまでの人数が死ぬことは滅多にない。誰も彼も、死から目を逸らした結果がこれだ」

「だから、吉岡グループの資金を後始末の財源にしようと?」

 コタツの一角で正座している長孝が呟くと、周防は頷く。

「そうです。関係者に支払う賠償金にしても、国庫には限界がある。その点、吉岡グループならば、国内外で荒稼ぎしていたから金は唸るほどある。ハルノネット、フジワラ製薬、新免工業の三社からも搾り取れるだけ搾り取って、全て賠償金や補償金や事後処理の費用として使う予定だ。路頭に迷う人間も山ほど出るのは間違いないだろうし、吉岡グループを失えば国の経済も大きく傾くのは目に見えているが、そこから先は政治家の先生方の腕の見せ所だよ。俺達、現場の人間の仕事じゃないからな」

「そんなに大事になっていたんだ……」

 全然気付かなかった、と美月が打ちひしがれると、小夜子が慰めてきた。

「ミッキーが気にすることはねぇ。どいつもこいつも自分勝手だったってだけだ。で、そのシワ寄せが宇宙一我が侭なクソ爺ィのせいで表に出たってだけだ。そりゃ、あたしだって死んでほしくなかった人はいるし、顧みるものが特になくても、うっかり事故にでも遭って瀕死になったら死んでも死にきれねぇーって思って、サイボーグ化していたかもしれねぇよ。けどな、それは当事者の責任なんだよ。そいつらの人生だったんだよ。ただ、その中心にあったのが吉岡グループで、佐々木長光で、遺産だったってだけなんだよ」

「吉岡グループの上層部には、佐々木長光に遺産をちらつかせられて顎で使われていた連中が何人もいる。今、そいつらから罪状を炙り出している最中だ。脱税、賄賂、談合、密輸、買収、隠蔽、インサイダー、どれだけ出てくるのか楽しみだよ。そうなれば、俺もまた仕事に駆り出される。まあ、元の仕事に戻らなきゃ機密漏洩だのなんだのでリアルに首が飛ぶかもしれなかったんだ、背に腹は代えられんってことだ」

 周防がぼやくと、小夜子は目を据わらせる。

「政府もいい加減になりやがって。スーみたいにぺらぺら裏切るような野郎を捜査員に戻しちまっていいのかよ? 普通だったら、とっくの昔に謎の事故か他殺にしか見えない自殺で墓の下だぞ?」

「それだけ人材が枯渇している証拠だ。政府関係者も、公安も、調査室も、人間もどきが何人もいたんだ。シュユが備前美野里にやられなければ、一生正体を悟られずに本人に成り代わって人生を謳歌していたと考えると、ぞっとしちまうよ。人間もどきが、本人以上の出来の良さだったってのは疑いようがない事実だがな」

 苦々しげに述べ、周防は嘆息した。そこで、美月はふと疑問を抱いた。

「だったら、どうしてその人達は私達に成り代われなかったんですか?」

「簡潔に言うと、人間もどき達は個体差と呼称すべき固有の自我を持てなかったんだよ。僕やクテイを通じて異次元宇宙に転送され、保存されていた過去の記憶を元にした人格や意識を仮初めの肉体にダウンロードして、それまでの当人よりもほんの少しグレードアップした個体になったけど、異次元宇宙に転送された時点で彼らの記憶や自我や経験は統合されてしまった。極小単位の次元宇宙、すなわち意識が並列化されると、その延長で膨大な情報量を一瞬で処理出来るほどの演算能力が生じるから、生命体としての知的レベルは底上げ出来るけど、個体としての価値は底辺に下がる。個性がないからだよ。生前の記憶を引き摺っている人間もどき本人は個性が残っていると思い込んでいたとしても、それは生前の記憶が再構成されたことで生まれる錯覚であって真実ではないからね。サイボーグ化された人達も、手術する過程で脳の一部を切除されて僕かクテイの生体組織を移植されているから、人間もどきとなんら変わりのない状態にされてしまっていた。だから、皆、自分を見失って溶けてしまった」

 シュユが穏やかな口調で答えたが、その内容に美月の胸中は更に暗澹とした。

「じゃあ、私が会った、警官ロボットの中に入った羽部さんの意識もそうだったんですか?」

「いや、羽部君の例は少し特殊でね。僕は異次元宇宙との接続が切れていたから、未送信のまま、僕の記憶容量に羽部君の意識が保存されていたんだ。それをムジンに入れてから警官ロボットに搭載させたんだ。だから、彼は本物の羽部君だ。それについては、僕が保証する」

 シュユの言葉に、美月は少しだけ安堵した。けれど、それが何かの救いになるわけではない。美月は弐天逸流に母親を奪われたとばかり思っていたが、母親は生きていた。政府の療養所の住所も教えてもらって、父親が先日出向いて面会してきたし、美月も電話越しに会話した。少し疲れ気味ではあったが、母親は生きていた。だが、他の人々はそうではないのだ。もしも母親も人間もどきだったら、と考えるだけで胸が潰れそうになる。

「情報を蓄積しただけでは人格とは言えないし、記憶も知識も一纏めにしてしまえば尚更だからね」

 シュユはぬるりと触手を伸ばしてミカンを取ると、複数の触手を使って器用に皮を剥き、白い筋も取った。

「あれ、あんた、モノ喰うんだっけ?」

 小夜子が不思議がったので、美月も訝る。

「そういえば、シュユさんって昨日の夜も今朝も何も食べていませんでしたよね?」

「物質宇宙に下ってからの僕は様々な刺激を受けたんだけど、中でも特に強烈だったのが食欲なんだよ。異次元宇宙に溶けている他のニルヴァーニアン達もまともな肉体があった頃の記憶が目覚めたらしくて、僕に何か食べてくれってせっついてくるんだよ。だから、美野里さんに分解酵素で溶かされた部分の臓器を修復するついでに、少し改造してみたんだ。嗅覚はまだ未完成だけど、味覚は急拵えで作ったんだ。味、解るかなぁ」

 口と思しき部分に隙間を空けたシュユはミカンの房を放り込み、わあ酸っぱい、と率直な感想を述べた。

「ニルヴァーニアンは停滞していた。だから、僕の変化を許容したんだ。クテイは進化の過程で不可欠な突然変異であり、一度遠ざけた物質宇宙への出入り口でもあり、数多の蠱惑的な刺激を異次元宇宙全体に蔓延させるためのインターフェースでもあったんだ。全く、おかしなものだよね。精神世界こそが至高であり、異文明の神様になることが究極の生命の形だとばかり思っていた種族だったのに、些細なことで物質宇宙が恋しくなっちゃうんだからね。僕も昔はそうだった。だから、フカセツテンの中に異次元を作り上げて閉じ籠もって、これまでしてきたことをやろうと弐天逸流を立ち上げさせて信仰心を掻き集めて生き長らえてきたけど、皆喪さんのお母さんに求められたせいで綻びが出来ちゃったし、道子さんに御説教されたおかげでニルヴァーニアンの在り方自体に疑問を持っちゃったし。でも、一番の切っ掛けはあれだよ。あの時食べた、おいしいものだよ」

「で、何を食べたんですか?」

「む?」

 美月が問うと、りんねも首を傾けた。

「カレーパンと缶コーヒーだよ」

 そう言って、シュユはミカンの房を一口で半分も頬張った。歯が生えていないからだろう、口に似た隙間を狭めて全体的に波打たせ、咀嚼の真似事をしている。だが、やはり酸味が強かったらしく、凹凸のない顔を花の蕾のようにぎゅっと窄めてしまった。なぜ、そこでカレーパンと缶コーヒーなのだ。そんなチープな食べ物がニルヴァーニアンという異星人に、どれだけ多大な影響を与えたのだろう。確かに、どちらも刺激的な食べ物ではあるが。美月は、ニルヴァーニアンがカレーパンと缶コーヒーのどこがそんなに気に入ったのかが無性に気になったが、難解な単語ばかりシュユに尋ねても、回りくどい答えしか返ってこないだろうと判断して、疑問を胸の内に押し止めた。

 ふと気付くと、長孝の姿が消えていた。この非常時に外に出たら危ないのでは、と美月は長孝を呼び戻すことを提案したが、大人達は好きにさせてやれと言うだけだった。りんねもそれに同意した。長孝の身辺に何かあったら、つばめが戻ってきた時に心配を掛けてしまう。だが、美月は佐々木家の内情の外側しか知らない。長孝は父親とは古い付き合いの友人ではあるが、それだけだ。だから、長孝を引き留める方が酷かもしれない、と思い直した美月は、またコタツに潜ってミカンに手を伸ばした。今はただ、つばめの帰りを信じて待つしかない。

 無力な友人に出来ることは、それだけだ。



 つばめ、と少女の名が慟哭された。

 武蔵野、一乗寺、寺坂、伊織、道子、そしてコジロウ。全員の声が重なり合った、不協和音の叫声がざらついた空気を震わせた。胸に開いた穴から赤黒い飛沫を撒き散らしながら仰け反り、倒れ込んだ少女は、手足をあらぬ方向に投げ出していた。それでも、目には生気が宿っていた。まだ間に合う、出血を止めて人工臓器を接続させて気道を確保して意識を安定させて体温を維持させれば、つばめは死なない。死なせてはいけない。

 拘束していた赤黒い根を力任せに千切って真っ先に駆け出したのは、道子だった。メイド服のスカートの下に隠し持っていた大振りなサバイバルナイフを振るって寺坂を解放すると、右腕を失った彼を引き摺ってつばめの元へと駆けていく。寺坂のサイボーグボディを分解して人工心臓をつばめの動脈に接続すれば、応急処置は出来ると判断したからである。失血によって小刻みに手足を痙攣させているつばめを目指し、根を越え、跳び、駆ける。

「つ」

 つばめちゃあんっ、と叫ぼうとした道子の目の前に、血塗れの爪が翻った。バラバラになった美野里の外骨格の一部にして、つばめの心臓を抉り抜いた凶器だった。生身であれば総毛立つほどの怒りに煽られた道子は、その黒い爪にサバイバルナイフを斬り付けるが、未知の力で浮遊している爪は難なく道子の激情を受け止める。

「あなたという女はっ! どこまでも屑なんですかぁあああっ!」

 美野里さえいなければ、美野里さえまともならば、美野里さえ、美野里さえ、美野里さえ。

「そりゃ他人に全てを求めるのは楽でしょう、簡単でしょうっ! だけど、その通りにならないのが普通なんですよ! 何度死んでもそれが解らないなんて、あなたは正真正銘の馬鹿ですねぇええっ!」

 二度三度と斬り付けたが、刃が掠るだけで叩き落とせない。道子は生身であったら喉が裂けんばかりの怒声を放ったが、左腕を振り上げた。敢えて美野里の爪の攻撃を受けて、特殊合金のフレームに爪を食い込ませて爪の動きを止める。そのまま左腕の肘関節に膝を入れて砕き、腕ごと地面に転がした。その上で、ナイフを突き刺す。

「そんなんだから、万年発情期の寺坂さんに萎えられるんですよ?」

 思い付く限りの最大級の侮蔑を言い捨ててから、道子は、ねえ、と根の隙間に転がっている寺坂を一瞥した。

「まあ、な」

 寺坂は人工外皮が破損して頬骨に当たるフレームが垣間見えている顔を背け、素っ気なく応じた。美野里の爪に手間取った分、つばめの命は衰えている。道子は残った右腕で寺坂を抱えて駆け出そうとしたが、つばめの傷口は既に別のもので塞がれていた。それは、クテイの眠る桜の木を中心にして成長した、赤黒い根の尖端だった。

 反り返った背中を根に支えられて姿勢を維持され、半開きになった唇の端からは唾液と血の混じったものが一筋垂れ落ち、つばめのシャツの肩口が汚れた。今し方失った心臓の代わりにねじ込まれた異物は、彼女の動静脈に細い触手を繋ぎ合わせているのか、水気のある異音が僅かに聞こえてくる。今朝もまた、手際良く人数分の朝食を作っていた小振りな手からは血の気が失せ、指先は力なく虚空を掴んでいる。

「御友人方、御安心を」

 ラクシャとアソウギを併用して若かりし頃の姿を取り戻した佐々木長光は、親しげな笑みを浮かべる。

「我が孫は死んだわけではありません。クテイが最も好む感情を際限なく与えるために、生と死の狭間にて意識を保つように加工したまでです。ごく普通の人間として生かしておけば、我が孫は年齢を重ねていき、世俗にまみれて味が落ちますからね。クテイもさぞや喜んでくれるでしょう。我が孫の管理者権限と、思春期特有の振り幅の激しい感情を動力源にすれば、クテイと外界を隔てている悪しき異次元も突破出来ましょう」

「加工、って、人間に使う言葉じゃねぇだろおがぁああっ!」

 武蔵野が自身を拘束している根を殴り付けながら叫ぶが、長光は微笑みを絶やさない。

「私にしてみれば、あなた方は人間ではありませんよ。人間とは、ニルヴァーニアンのように完成された姿と精神を持ち合わせた高潔な種族を指す言葉であるべきです。私は常々そう感じていましたとも」

「人間ってのは自分が人間だと思った瞬間から人間になるのであって、そのために人間の肉体が不可欠なんだ! 触手の異星人を人間にすり替えたとしても、それは人間って名称が付けられた別物だ!」

 一乗寺が髪を振り乱しながら喚くが、長光の態度は変わらない。

「では、あなた方は人間だと言い張る獣に戸籍を与えて人並みの教養と生活を確保するのですか? 明らかに人間から逸脱した種族であると知りながらも、一切の差別感情を抱かずに相手をするのですか? 出来ないでしょうね、それが人間ですよ。似たような姿の生き物が多いというだけで、少しばかり文明を発達させたというだけで、驕りを捨てられないのがあなた方です。ですが、クテイは違います。私を人並みに扱い、私を評価し、私を受け入れ、私を愛してくれました。親兄弟に穀潰しだのみそっかすだの何だのと散々罵られて家畜以下の扱いを受けてきた私を、この私を、同等に扱ってくれたのはクテイだけなのですよ。だから、クテイは全人類に、全知的生命体に、全宇宙に肯定されるべきなのです」

 長光は波打つ根に乗って移動し、胸を貫かれているつばめの元に至ると、少女の青ざめた顔に触れた。

「クテイは管理者権限を私には与えてくれませんでした。クテイは私を愛していると言っていたのに。ですが、それは私に課せられた試練だったのです。課題だったのです。障壁だったのです。愛とは言葉で表現するだけではとても脆弱で希薄な概念ですから、行動に移さなければ形になりません。故に、クテイは私を試したのでしょう。なんとも可愛らしいではありませんか、クテイは」

 子供の頃の面影が残る丸い輪郭をなぞった手が、つばめの唇から滴る血を拭い取った。

「では、管理者権限に基づいて、ムリョウとムジンに下された命令を変更いたしましょう」

 鮮やかな血に濡れた指先が、コジロウを示した。先程まで長光が立っていた桜の木の根本に右手の拳を深々と埋めていた警官ロボットは、拳を引き抜く際に根を握り潰した後、各関節から高圧の蒸気を噴出しながら真っ直ぐに立ち上がった。光学兵器の如く鮮烈な光を放つ赤いゴーグルが、若返った男を照らす。

「ムリョウ。あなたは私にとって必要なのです。我が孫から抽出した生の感情は刺激が強すぎますので、直接クテイに差し出すと、よからぬ変化を起こしてしまいかねません。ですから、ムリョウを一度通して雑念や余剰分の感情を濾過したものを、クテイに味わわせてあげたいのです」

「現時刻を以て、佐々木長光をつばめの敵対勢力として認識。攻撃目標として設定」

「クテイの庇護下でマスターが永遠に長らえるのです、あなたのような道具にとっては幸福だと思いますけどねぇ」

「それは本官の主観ではない」

 コジロウの背後に、猛烈な白煙が噴き上がる。その凄まじい熱風は桜の花弁を大量に散らすと同時に、コジロウの機体を急速発進させていた。次の瞬間には、コジロウの迷いも躊躇いもない銀色の拳が佐々木長光に埋まり、白いシャツを着た背中が大きく曲がったが、長光は吹き飛ばされなかった。

「クテイの眷属と称すべきあなたでさえも、私を肯定しないのですね?」

 肌色の、どうということのない人間の手がコジロウのマスクフェイスを鷲掴みにする。骨張った指が曲がっていき、コジロウの積層装甲に指の形に穴が開いた。ゴーグルがひび割れて欠片が飛び散り、マスクも潰される。視界を奪われたコジロウが僅かに身動ぐと、長光は空いている左手を振りかぶり、コジロウの腹部装甲に埋めた。直後、二〇〇キロ以上もの重量を持つ機体が軽々と吹き飛ばされ、バックパックで根を削りながら仰向けに倒れた。

 割られたマスクフェイスと抉られた腹部装甲からヒューズを飛ばしながら、コジロウは起き上がろうとするが、長光が妙に間延びした足取りで近付いてきた。本人は慈愛に満ちた微笑みを浮かばせているつもりなのだろうが、傍目からでは底なしの悪意しか感じられなかった。ふと、長光はコジロウの胸部装甲のステッカーを見咎める。

「これはこれは、子供らしいことを。ですが、それが何になりましょうか。私とクテイの前では、正に児戯です」

 長光は片翼のステッカーをついと撫でてから、胸部装甲に親指をめり込ませた。黒い片翼が破られて穴が開き、その下の積層装甲も紙のように呆気なく破られ、回路ボックスやギアボックスが垣間見える。長光はステッカーの部分を入念に引き千切ってから握り潰し、投げ捨てると、コジロウの胸部装甲を両手で掴んで毟り取った。

 捻れた分厚い金属板、ムリョウが露わにされる。長光はつばめの血が付いた親指をムリョウに添え、一筋、赤を塗り付けた。ムリョウの傍で青い光を零していたムジンが光を失い、ムリョウから剥がれ落ちる。何本ものケーブルが絡み付いたムリョウを無造作に握り、引き抜いた長光は、勝ち鬨を上げるように高々と掲げた。

 主人と動力源を失った警官ロボットは、沈黙した。



 有り得ない光景だった。

 佐々木長光の手中にはムリョウとムジンが収まり、コジロウは完全に沈黙していた。あの、コジロウが。いかなる状況であろうとも、我が身が危険に曝されようと、どれほどのダメージを受けていながらも、つばめを救うためならば決して屈さなかった、鋼鉄の盾が。それが、生身の人間にしか見えない相手に呆気なく打ちのめされた。

 考えろ、考えろ、考えろ。今、この場で、長光の正体を明かせるほどの演算能力を持っているのは自分だけだ。道子は目を見開いて、赤黒い根に胸を貫かれたつばめと、片翼のステッカーを蹂躙されて胸を抉られたコジロウを凝視しながら、懸命に思考回路を働かせた。長光の姿は、普通の人間となんら変わりはない。ラクシャに保存していた己の遺伝子情報をアソウギに入力して形作る際に多少の手を加え、怪人並みの体力と腕力と耐久力を得たと考えるのは容易い。だとしても、先程、皆の攻撃が一切当たらなかった意味が通らない。あの一瞬、長光は道子や他の面々の攻撃を避けようともしなかった。最初からそうだと決まっていたかのように。当たるはずがないと解っていたから、動じもしなかったのではないだろうか。だとすれば、この異次元の概念自体が操作されているのか。

「そろそろお気付きになる頃でしょうね、道子さん」

 長光のぬるりとした眼差しが、道子を捉える。道子は、懸命に動揺を押し殺す。

「さあて、何のことですかねぇ」

「この異次元は、本来は弐天逸流の本部が隠されていたものです。フカセツテンが内包していた空間であり、通常空間からは隔絶された異世界であり、箱庭でもあります。ですが、弐天逸流本部からシュユを追い出し、この私がフカセツテンを掌握しております。外部からの圧力から察するに、シュユは外側から異次元を維持しようとしているようではありますが、そんなものは無駄です。フカセツテンとは物体ではありませんからね。エネルギーです、次元です、空間です、時間です、そして概念なのです」

 長光はポケットから、菱形の金属板を取り出した。佐々木家の家紋、隅立四つ目結紋が印されていた。

「その概念に形を与えているのは、他でもない私の主観です。あの日、あの夜、私が忌まわしきクソ田舎の実家が滅びてくれと願ったから、本当に出会うべき伴侶を望んだから、フカセツテンは私の元へと至ったのです。クテイが私の妻となったのです。ですから、クテイに選ばれた私がフカセツテンに内包されていた空間を操作し、特定の概念を付与することなど他愛もないのです。この空間に置いて、私に勝るものはないのです。ありとあらゆる物理的法則が私の味方であり、あなた方の敵なのです。愚息が造った木偶の坊の有様で、それがお解りになったでしょう」

 長光の左手の中で、菱形の金属板は青い光を帯びる。

「肝心な場面で長話をして手の内を明かすのも悪役の特権、と藤原君は度々申しておりましたが、確かにこれはとても楽しいですね。なんともいえない優越感と征服感がありますよ」

 長光が左手を差し伸べると、一際太い根が持ち上がり、ぐばりと表面が裂けて粘液の糸が引いた。長光はその中にムリョウを収めると、太い根は裂け目を閉じて再び地中に戻っていった。途端に、ムリョウから生じる膨大な熱量が赤黒い根の隅々まで行き渡ったのか、根がざわめき始めた。荒く波打ち、暴れ狂い、沸騰し、空間が混ざる。

 その変動によって武蔵野らは根の拘束から脱したが、それだけだった。花開くように放射状に展開した根の束が、哀れな少女を一息で飲み込んでしまったからだ。つばめに向けて伸ばしかけた手で虚空を殴り付けた武蔵野は唸ったが、一本でも直径一メートルは超えているであろう根の束を突破する方法はない。頼みの綱の人型重機も破損してしまい、コジロウは動かない。右腕を破損した寺坂は配線にも不具合が起きたのか、サイボーグボディは出力不足で立っているのがやっとだった。胸部と腹部を繋ぐ膜を刺された伊織もまた、体液が流れ出したら今度こそ命に関わるので、動くに動けない。シュユとの接続が切れたことで人並みの情緒を得たせいだろう、一乗寺は絶望に打ちのめされそうになっている。この前までの彼女なら、笑い転げていたであろうに。

 道子もまた膝を折ってしまいそうだったが、意地で背筋を伸ばしていた。まだつばめが死んだと確定したわけではないのだから、ここで諦めるのは早計だ。けれど、どうやって勝機を見出せばいい。長光さえ黙らせられればクテイに接触出来、クテイを桜の木から解放して正気に戻せば、異常成長した赤黒い根も止まるだろうし、異次元も長光の支配下から逃れられるだろう。だが、そのクテイが恐ろしく遠い。長光さえ、突破出来れば。

「参りましょう。全てがクテイを肯定し、クテイが私を肯定する、新たな物質宇宙へと!」

 長光が、誇らしげに両手を広げる。その言葉でムリョウから溢れ出す底なしのエネルギーが活性化し、赤黒い根の隙間から青い光の柱が何本も昇り、外殻を失った空間の繭に突き刺さる。突き刺さった部分から、空間の隔たりが溶かされていく。懐かしささえある真冬の冴え渡った青空が垣間見え、凍えた風が流れ込む。

 異次元の中に囚われていた根が持ち上がり、空間の繭に尖端が突き刺さった。シャボン玉を割るように呆気なく突破した根は、雪に包まれた山の斜面に伸びていき、針葉樹と分厚い雪を難なく蹴散らして地面に突入した。それも一本や二本ではなく、合計、一二八本もの触手が物質宇宙に現れた。

 ずくん、と足元が疼いた。



 船島集落に向かうのは、何年振りだろうか。

 高校卒業と同時に実家を飛び出したから、もう二七年も前の話になる。二度と帰ってこないと思っていた。また帰るぐらいなら、あの父親に会うぐらいなら、死んだ方がマシだとすら思っていた。恨み辛みを抱えて生きていく自分を直視したくないから、敢えて全てから目を逸らして黙していた。それが最良だと判断していたからだ。

 だが、そうではなかったらしい。触手をハンドルに絡ませて雪上車を運転し、娘とその一行が乗ったていた雪上車が残したキャタピラ痕を辿って進みながら、長孝は胸中の鈍い重みに苦しんでいた。抗いがたい痛み、逃れがたい辛み、忘れがたい感情が、人ならざる男を突き動かしていた。

「親父さーん、大丈夫?」

 本来なら人間が乗るスペースの幌と座席を外した後部から、ワイヤーで機体を固定している武公が尋ねた。

「ああ、問題ない」

「そうかなぁ?」

 武公は訝しげだったが、首を元に戻した。大丈夫じゃない、とんでもなく苦しい、と長孝は口に出しそうになったが、寸でのところで堪えた。政府が長孝に貸してくれた78式雪上車はパワフルで、体重が三〇〇キロもある武公を載せていても馬力は衰えなかった。こんなことも最初で最後だろう。元より、長孝は人間ではない。だから、政府側が長孝の味方をしてくれるはずもない。フカセツテンが消失したので船島集落の様子を見に行きたいが、集落内で中性子が観測されていたために生身の人間を送り込みたくはない、だが何もしないのは拙い、と逡巡していた頃に長孝がやってきたので体よくその役割を押し付けただけだ。実際、雪上車には中性子を測る機器と通信設備が搭載され、長孝にその操作方法も教えてくれた。人間ではないものは死んでも構わない、という腹積もりだろう。

「で、俺、何すればいいんだっけ」

 エンジン音に掻き消されないようにするためか、武公は無線機のスピーカーを通じて長孝に話し掛けてきた。

「それはこれから話す」

「変な仕事は勘弁してよね? せっかく、小夜子ちゃんが俺を完璧に整備してくれたのに」

 武公はワイヤーで拘束されていない右手を挙げ、不満げに振った。小倉重機から一ヶ谷市まで小夜子が移動させたトレーラーには、コジロウの予備の部品や整備用具が満載されていたが、シュユというルーターを失ったために沈黙してしまった武公も積んであったのだ。万が一、コジロウのボディがフルスペックのムジンとムリョウに耐えきれずに破損した場合の予備として用意しておいたのだが、コジロウはムジンに耐えきった。だから、武公の出番はないものだと長孝も思っていたのだが、そうではなかったらしい。備えあれば憂いなし、である。

「墓参りがしたいんだ。ひばりに会っておきたい」

 長孝がバックミラー越しに武公を窺うと、武公はむくれた。

「えぇー? 確かに俺の原型は人型重機だけどさぁ、俺はレイレイやガンちゃんとは違って土方の仕事なんて一度もしたことないよ? 生まれも育ちもロボットファイトの生粋の格闘家だよ? 墓参りっていっても、この雪だと大分掘り返さないと墓に行き着かないじゃーん。寒冷地仕様のチューンにしてないのに、そんなことをしたら関節のギアとかパッキンが傷んじゃうじゃーん。塗装だって艶々なのに、うっかり石とか木に擦ったりしたら困るぅー」

「変に色気付いた女子大生みたいなことを言うんじゃない」

「身だしなみに気を遣うのは、人前に出る仕事をしているロボットなら当たり前だと思うけど?」

 得意げに澄ました武公に、長孝は妙な気持ちになった。

「俺はお前をそんなロボットに育てた覚えはないんだが」

「親父さんが俺に教えてくれたのは必要最低限だけだったんだもん。だから、俺は俺の試合を見に来てくれたファンや小夜子ちゃんみたいな整備の人から、色んなことを教えてもらっただけだよ。マイクパフォーマンスも出来るようにならないと、盛り上げられないじゃん? 

 そのためには話題も掻き集めないとダメだし、キャラ立てだって」

「ああ、なるほどな」

「えぇー、何その反応? 褒めてくれないの?」

「褒める要素が見当たらない、というか。まずはその口調をなんとかしてくれ。致命的に似合わない」

「頭硬いんだからぁ」

 なんだよもう、親父さんのイケズ、と拗ねた武公はそっぽを向いた。その反応がやたらと人間臭く、長孝は暗澹としていた胸中に生温いものが込み上がってきた。笑い出したい気持ち、とでも言うべきか。気付かないうちに武公が成長していたことは喜ぶべきなのだろうが、その方向性が大いに間違っている。第一、格闘専用のロボットが己の身だしなみに気を配ったところで何がどうなるというのだ。言語パターンを増やすために、不特定多数の人間と交流して話題を増やすのは大いに結構だが、参考にした相手が女性だったらしく、なよなよしている。

 しかし、それも武公の個性だ。受け止めてやるべきであり、思う存分成長させてやるのが親の務めだ。実の娘に出来なかったことをロボットでやり直すのは、我ながら屈折しているとは思うが。だから、これから、やり直せるものは一つ一つやり直していくしかない。そのためには、まず、祖父に立ち向かっている娘を手助けしてやらなければ。肝心要のつばめが生きて帰ってきてくれなければ、何一つ取り戻せない。

 先行した雪上車の轍を辿っていくと、船島集落の南西部に至った。つばめ達が乗ってきた雪上車はガードレールを乗り越えるほどうずたかく積もった雪の上に放置されていて、彼らの足跡は空中で途切れていた。恐らく、ナユタの力を利用して空中を移動し、フカセツテンに侵入したのだろう。

 雪上車から降りた長孝は、武公を拘束していたワイヤーを外してやった。ワイヤーが擦れた部分の塗装が線状に剥げてしまったのが気になるのか、武公はぐちぐちと文句を零していたが、長孝が命じると雪上車の後部から降りて雪原に下半身を埋もれさせた。ムリョウを動力源にしているコジロウとは違い、高出力のスラスターを備えていない武公は、地面に届くほど深く埋まった足を苦労して抜いては大股に進み、やたらと時間を掛けて歩いていった。長孝は武公の肩に載っていたが、上下左右に激しく揺れるので、何度も振り落とされかけた。

 雪上車を止めた地点から数十メートル先にある場所に辿り着くまで、恐ろしく時間が掛かった。武公はバッテリーを大いに消耗したようだったが、残量には余裕があったので雪掘りに支障はなさそうだった。なので、長孝が武公に作業を命じると、武公は再び文句を言いながらも雪を荒々しく掘り返していった。

 身の丈ほどもある雪に埋もれていた小さな石碑が現れると、長孝はその周囲を特に丁寧に掘り返させた。石碑の全体像が見えるようになると、武公はさすがに値を上げた。電圧もひどく低下しているようだったので、長孝は武公に休んでいてくれと命じてから、石碑の前で膝を付いた。銘も何も刻まれていない簡素な石が、妻の墓だった。

「ひばり」

 作業着の袖口から触手を垂らし、石碑を撫でる。

「今まで会いに来られなくて、すまなかった」

 根雪に押し潰されてはいるが、簡素な墓の傍には花束らしきものが横たえられていた。きっと、武蔵野がひばりの元に尋ねてきてくれていたのだろう。武蔵野に対して一抹の嫉妬と、凄まじい自責の念が膨れ上がる。

「愛しているよ」

 腹の底から言葉を絞り出し、温い日差しで雪が溶け、少し濡れた石碑に額を当てる。怖気立つほど冷たい。その冷たさが、長孝を奮い立たせる。物心付く前から押さえ込んでいた感情という感情を解き放つためには、一握りの勇気が必要だったからだ。だから、妻に会いに来た。ひばりの前でなら、少しは自信が持てるからだ。

 長孝は立ち上がると、ひばりの墓を背にして全ての触手を地面に垂らした。深く息を吸って胸を膨らませてから、思い切り吐き出す。神経が総毛立ち、雪が小刻みに震え、異変を起きていることを知らしめる。シュユが長らく世間から遠ざけていた異界が、愛に飢えすぎて狂った男の妄想で膨れ上がった泡が、爆ぜようとしているのだ。それを防げるのは、この国で、この星で、この宇宙では長孝しかいない。

 触手を凍えた地面に突き立て、伸ばし、這わせ、地中を貫きながら、長孝は懸命に己の感情を揺さぶった。最初に思い出すのは、ひばりと初めて出会った時のことだ。父親が手回ししてきた女だというだけで、会う前から彼女を毛嫌いしていた。どうせ金目当てだろうと思っていたから、会うだけ会って突っぱねてしまえばいいと考え、ひばりに会った。長光にセッティングされた料亭の個室で対面すると、ひばりは会うや否や懇願してきた。どうかお嫁さんにして下さい、してくれなければ困ります、と。なんとか顔を上げさせてから、運ばれてきた料理に口を付けながら話を聞くと、ひばりは妾の子で実家では身の置き場がなかった。だから、長孝にまで追い返されたら路頭に迷う、家事は一通り出来る、御料理はちょっとだけ自信がある、だからお願いします、とひばりは何度も懇願してきた。

 そして、長孝は根負けした。見合いというには息苦しい顔見せを終えてから数日もしないうちに、長孝はひばりと籍を入れた。その足で結婚指輪を買いに行くと、ひばりは喜んでくれた。長孝も釣られて少し嬉しくなったが、それも自分の正体を知るまでの間だと思うと空しくなった。それから長孝の狭いアパートで同居するようになると、ひばりは懸命に働いてくれた。雑然とした部屋は日に日に綺麗になっていき、少ない給料をやりくりしながらメニューの豊富な食事を作ってくれ、弁当も持たせてくれた。辛くないかと長孝は案じたが、ひばりは楽しいと笑顔で言った。

 長孝の正体が露見したのは、ぎこちない結婚生活が一ヶ月ほど過ぎた頃だった。その日、仕事を早く切り上げた長孝が自室に戻ると、ひばりの姿はなかった。買い出しにでも出ているのだろう、と判断し、その間に仕事で汚れた体と人工外皮を綺麗にしてしまおうと風呂場に入った。すると、明かりも付けていない薄暗い風呂場の浴槽の中で、ひばりが小さくなっていた。何事かと驚いたのは両方で、長孝のおぞましい正体を見たひばりは言葉を失っていた。それから長い長い間を置いてから、ひばりは小声で言った。私と暮らしていて楽しいですか、と。長孝は部品のない顔と一二八本の触手を備えた体を隠さずに、聞き返した。俺が人間でないと知ってもそう思えるのか、と。

 人間でなくてもいい、一緒にいてくれるのならそれでいい。ひばりは長孝の触手にそっと触れてきたので、長孝も恐る恐るひばりに触手を回した。その時まで、妻と抱き合ったことすらなかった。手を繋いで歩いたこともなければ、体を重ねたこともなかったので、ひばりの柔らかな手応えと体温を感じたのは初めてだった。とても優しい感覚で、空しさが失せていった。ひばりは長孝の冷たい体に触り、すぐ慣れると思います、と言ってくれた。

 それから、長孝はひばりの前では正体を曝すようにした。二人で過ごす時間を増やし、言葉を交わし、少しずつ触れ合っていった。そして、気怠い春の午後、薄暗い部屋でひばりを抱いた。拙い行為を終えた長孝は、暖かな妻の体を抱き締めてやりながら、一緒に生きようと誓った。ひばりがいるなら、この人生を耐え抜けると思えた。

 ひばりは長孝を、タカ君と愛称で呼ぶようになった。それがなんとなくくすぐったかったが、長孝が長光と同じ字を使った自分の名前を忌み嫌っていることを知った上での愛称だったので、素直に受け入れた。

 ひばりが妊娠したのは、それから一年ほど過ぎた頃合いだった。同時に、長孝の周囲に不穏な空気が漂い始め、ひばりからなるべく離れないようにしていた。仕事も出来る限り持ち帰れるようなものにしていたが、それだけでは勤められないので、気掛かりではあったが出勤した。妊娠三ヶ月を迎えた頃、遂にその日が訪れた。ひばりが新免工業に奪取された。長孝は憤りのあまりに目眩すら覚えたが、考え直した。自分の手元にいるよりも、武装した集団に守られている方がひばりにとっては安全ではないのか、と。長孝は人間ではないが、無力だからだ。

 ひばりと再会出来たのは、一度だけだった。新免工業の監視から抜け出して宮本製作所にやってきた妻は長孝に婚約指輪を突き返し、ごめんなさい、としきりに謝ってきた。下腹部はかなり目立つようになっていた。長孝はひばりは何も悪くないと言って、結婚後に贈った婚約指輪を返そうとしたが、ひばりは頑として譲らなかった。それが、妻と交わした最後の会話だった。夜が明けると、ひばりは新免工業の戦闘員と共に戻っていった。ひばりの身を守る盾になればと、パンダのぬいぐるみにムリョウとムジンを宿したものを渡すだけで精一杯だった。

「ひばり……」

 あの時、引き留めるべきだった。あの時、救い出すべきだった。あの時、守ってやるべきだった。

「ぐぅ、あ、おおっ」

 慟哭を堪えて呻きながら、長孝は背を曲げて半端な生体アンテナを青く光らせる。その後、ひばりが命懸けで守り抜いて産んだ娘は、昆虫怪人に攫われた。娘と連動しているナユタが海上で暴走し、ひばりはそれを止めるために我が身を犠牲にした。骨すらも残らなかった。ほんの少しの遺髪だけが残ったが、長孝の手に入るまでには恐ろしく時間と手間が掛かった。産まれた娘にも会えなかった。会いたかったが、会えなかった。

 備前家の娘の正体を知っていたからだ。愛娘、つばめを攫った悪しき昆虫怪人であり、佐々木長光の従順な部下であり、了見の狭い愚かしい娘だと。だから、長孝が不用意に近付けば、つばめは無事では済まない。なんとかして娘を守らなければと考え込んでいると、長孝の前にパンダのぬいぐるみが現れた。ひどく汚れていて擦り切れていたが、あの時、ひばりに渡したものと同じものだった。長孝がパンダのぬいぐるみを拾うと、彼は言った。お母さんの力にはなれなかった、だからお父さんの力にはなりたい。そして名乗った、僕はコジロウです、と。

 その名を聞いて、長孝は悟った。これは息子だ。つばめを妊娠して間もない頃、長孝はひばりと我が子の名前をどうするかと話したことがある。男の子なら小次郎、女の子ならつばめ、とひばりが提案してきた。一昔前、突飛な名前が流行りすぎた反動で、最近では古風な名前が主流になっていたので、長孝もそれがいいと同意した。由来は言うまでもなく、かの高名な剣豪である。名字が佐々木だからだ。安直すぎるが解りやすい方がいいと。だから、パンダのコジロウは息子だ。薄汚れたぬいぐるみが千切れんばかりに抱き締めて、長孝は意を決した。どんなに汚い手を使おうと、娘だけは、妻の忘れ形見だけは守ってみせると。

「あぁ、おぁああああああああっ!」

 それなのに、守りきれなかった。そして、この様だ。

「つばめぇっ」

 十五年間、ずっと会いたかった。名を呼びたかった。傍にいたかった。妻と同等か、それ以上の愛情を注いでやりたかった。だが、会えなかった。会ってしまえば、長孝の愛情の重さで押し潰してしまいかねないと危惧したからだ。毎年のように備前夫妻から送られてくる写真の中で成長していくつばめは、妻に良く似ていた。

 三歳の誕生日に贈ったパンダのコジロウを、ずっと大事にしてくれていた。ムリョウとムジンの作用によって製造された当時の外見を取り戻したコジロウを抱き締め、満面の笑みを浮かべている写真を何度見返したことだろう。幼稚園に入ったつばめが、小さな両手で一生懸命描いた画用紙一杯のパンダの絵を誇らしげに掲げている写真を幾度見つめただろう。小学校に上がったつばめが、ちょっと気恥ずかしげな笑顔でランドセルを背負って校門の前に立っている写真をどれほど眺めただろう。中学校に上がったつばめが、真新しい制服に身を包み、少し冷めた眼差しでカメラを見据えている写真を数え切れないほど触手の先でなぞったことだろう。

 三年前。二次性徴を迎えた十一歳のつばめに起きた心境の変化は、長孝の想像以上だった。パンダのコジロウが遺産同士の互換性を用いて報告してくれた情報で、娘の痛みを知った。把握しているのは、小学五年生になったつばめが授業の一環で自分のルーツを探したということだ。名字が違うので備前家とは違う血縁だとは薄々感じていただろうが、どこの誰から産まれ、なぜ備前家で暮らしているのか、それが解らなかったのだろうとは容易に想像が付く。備前夫妻は職業柄も相まって堅実な性分だ、佐々木家の複雑な状況を知っているから、つばめには敢えて佐々木家の実情を明言しなかった。それは優しさではあったが、自分の足元が不確かだと不安がっていたつばめは不安が不信に変わったのだ。パンダのコジロウは、ベッドに潜り込んだつばめが布団を被って呪詛を呟いていたとも報告している。世の中なんてそんなもんだ、自力で生きるしかないんだ、私はろくな人間じゃないんだ、と。

 それから程なくして、つばめはパンダのコジロウにハサミを入れた。尻の部分の布地を縫い付けている糸を切り、綿を抜き出し、尻の部分の布地にファスナーと隠し袋を付けた。ムリョウとムジンの破片は、つばめが作業している合間に自力で脱した。長孝は備前家の傍でムリョウとムジンを回収し、つばめの部屋の窓を見上げたが、それだけだった。娘が自分の存在の不確かさに怯えていても、その前に現れ、父親だと言い張れるわけがなかった。

 それから、長孝は旧知の友人である小倉貞利が経営している小倉重機に掛け合い、警官ロボットの量産体制を整えさせた。佐々木長光の息子というだけで政府からも目を付けられている長孝は、異次元宇宙との接続していることで得られる演算能力を用いて、比較的低コストで高性能な警官ロボットを完成させて政府側に売り込んだ。その結果、警官ロボットが大量生産された。その中の上位個体が、コジロウの新たな体となった。

 その警官ロボットが全国に配備されれば、つばめがどこに家出しようと、どんな事件に巻き込まれようと、いかなる危機に見舞われようと、コジロウが下位個体の機体を遠隔操作して助けてくれる。長孝が出来ないことをしてくれる道具だ。こんなことでしか、娘への愛情を表せなかった自分がどうしようもなく歯痒い。

「すまない」

 今まで、何もしてやれなくて。長孝は地中に埋め込んだ触手を目一杯伸ばして蠢かせながら、昨夜と今朝、つばめが振る舞ってくれた料理の味を思い起こした。寄せ鍋も味噌汁も、妻の料理と同じ味がした。生まれて間もなく別離したはずの母親の面影が、そこかしこに滲み出ていた。リニア新幹線のホームにて、長孝と向き合った時に見せた表情は、長孝の正体を知った際にひばりが見せた表情に似ていた。ああ、親子だ、と痛感した。

「やっと、やっと会えたんだ。俺のことを、お父さんと呼んでくれたんだ」

 上部が途切れている光輪から一際激しい光が迸り、急激に肉が盛り上がっていった。いびつではあったが、生体アンテナが繋がり合って真円を成す。肩を怒らせて息を荒げながら、長孝は心の底から叫んだ。

「俺達の娘をっ、道具にされてぇっ、たぁまるかぁあああああああっ!」

 心の殻、精神の器、空間と空間を隔てる壁。かつて、宮本製作所を物質宇宙から隔絶した時と同じように、長孝はあらん限りの激情を燃料に変える。何らかの理由で外殻を失ったフカセツテンの上に、長孝の精神力を用いた異次元を覆い被せていく。この触手で娘を抱き締められなかった代わりと呼ぶには荒々しいが、こうすることでしか娘を手助けすることは出来ない。どうか生きていてくれ、どうか屈しないでくれ、どうか俺を信じてくれ。

 父親としての希望と願望を多大に含んだ異次元が張り詰めると同時に、局地的な揺れが起きて穴の周囲の雪が崩れた。

 それは、外界に侵出したクテイの根が、長孝の異次元に阻まれた際に発生した衝撃だった。



 丸まった背中を、暖かな手がゆっくりと撫で下ろしてくれた。

 その手の主の膝に縋り、時折しゃくり上げながら、つばめは途切れ途切れに話していた。備前家で自分だけ名字が違うから、子供のみならず大人からも散々嫌なことを言われたこと。同じ名前にしてくれと備前夫妻に頼んでみたこともあったが、はぐらかされてしまったこと。美野里と十五歳も年齢が離れているから、嫌な言葉を言われた記憶があること。美野里の視線が気になり、備前景子をお母さんと呼びづらかったこと。だが、お母さんと呼ばなければ景子は悲しい顔をするので、結局はお母さんと呼んでしまっていたこと。賢くて聞き分けが良くて元気が良くて愛嬌がある、子供らしい子供になろうと一生懸命だったこと。そうしていれば、捨てられないと思っていたこと。

「うん、それで?」

「だから、頑張ったんだよ。痛かったし、辛かったし、逃げたかったけど、しっかりやってきたんだよ」

「うん、知っているよ。ずっと見ていたから」

「でも、お姉ちゃんだけは助けられなかった。何度も何度も助けようとした。裏切られても、痛い目に遭わされても、絶対に元のお姉ちゃんに戻ってくれるって信じようとしたけど、信じ切れなくなった。だから、さよならしたの」

「それでいいの。その方が、あの子も楽だよ」

「だけど、小父さんと小母さんに約束したの。お姉ちゃんを連れて帰るって。そしたら、ちゃんと話し合おうって」

「話せば解ってくれるよ。あの人達も、覚悟は出来ているはずだから」

「そうかなぁ」

「そうだよ。時間は掛かるかもしれないけど、大丈夫だよ」

「だと、いいなぁ」

 つばめが俯くと、手の主はつばめの背中をゆっくりとさすった。物理的なものとは異なる胸の痛みを感じながら、つばめは顔を上げた。朗らかな日差しが注ぐ板張りの縁側に座っているのは、つばめと良く似た面差しの若い女性だった。クセの強い髪をポニーテールにしているが、つばめと同じ方向に毛先が跳ねている。間違えようがない、佐々木ひばりだ。つばめは母親の膝にまた頭を預け、ごろりと縁側に横たわった。

「お父さんとも会ったんだよ」

「うんうん、知っているよ。タカ君、気難しいでしょ」

「あんまり喋ってくれなかった。御飯だって、おいしいって言ってくれなかった。お母さんの話が聞きたいって言ったのに、コジロウの整備に行っちゃった。朝御飯の時も同じで、私の方を見ようともしなかった」

「だろうねぇ。あの人、そういう人だから」

 どうしようもないの、とひばりは苦笑し、娘の華奢な肩に手を添えた。水仕事で指先が荒れていた。

「でも、もう少しだけ待ってあげて。タカ君は素直になるまで、ちょっと時間が掛かるから」

「お母さんの時も?」

「そりゃもう。私はタカ君が人間じゃないって知った時は驚いたけど、でも、私のことを無下にしないでいてくれたのはタカ君が初めてだったから、人間であろうがなかろうが好きな気持ちは変わらなかった。だから、私はタカ君にもっと好きになってもらおうと頑張ったんだけど、なかなかね。手を繋ぐだけでも、時間が掛かっちゃったし。あ、この場合は触手って言うべきかな」

「奥手なんだ」

「ま、どっちも初めての相手だったからってのもあるだろうけどね。毎日毎日、おっかなびっくりで。私もしばらくの間は敬語で話していたくらいだったし。でも、それで良かったの。おかげでタカ君のことが解るようになったし、タカ君も私のことを解ってくれるようになった。御飯はちょっとだけ柔らかめが好きで、味噌汁は白味噌の方が好きで、目玉焼きは堅焼きの方が食べやすいから好きだって。イカとかタコとかの足の多い生き物は共食いみたいで嫌だから、食べられないこともないけどなるべくは口にしたくないって。仕事がお休みの日も出来れば設計図の図面を引いていたいって言っていたんだけど、それだけじゃ煮詰まっちゃうから、私が外に連れ出してやったの。近所の土手とか公園を散歩するだけだったけど、タカ君、なんだか嬉しそうだった。でね、デートはしたことないの。私もタカ君も人が多いところは苦手だし、お金もあんまりなかったから。でも、楽しかった。とってもとっても幸せだった」

 ひばりはつばめの頬に人差し指を当て、その弾力を味わった。

「ごめんね。さっさと死んじゃって。本当は、もっと一緒にいたかった。つばめを育ててあげたかったし、タカ君のことも教えてあげたかったし、色んなことをお話ししたかった」

「いいよ。だって、今、会えたもの。お母さんとお話し出来て、凄く嬉しい」

 つばめは身を起こし、母親を見つめた。ひばりは娘と目を合わせ、目を細める。

「もう七〇年は先にする予定だったんだけどね。ねえ、お義母さん?」

 そう言って、ひばりは薄暗い屋内に振り返った。古びた合掌造りの家。囲炉裏のある居間。太い梁。毛羽立った畳。手入れの行き届いた庭。雑草の間から聞こえる虫の羽音。それに一切馴染まない異物が一二八本の触手をざわめかせながら、日差しの降り注ぐ縁側に出でた。凹凸のない顔に青白い光を帯びた光輪、そして触手。これがシュユでも長孝でもないとすれば、間違いない。

「お婆ちゃん……?」

 つばめが立ち上がると、さらさらと触手を畳に擦らせながら、藤色の着物を羽織った異形は近付いてきた。

「つばめちゃんですね」

「はい」

 この人が、全ての元凶なのだ。つばめは様々な感情が噴き上がりそうになったが、祖母が穏やかに名を呼んできたせいか、毒気が抜かれてしまった。祖母、クテイはシュユよりもかなり小柄で、成人女性と差し支えのない身長だった。品の良い着物に包まれた体は砂時計型にくびれているので、ニルヴァーニアンには未だに性差があることが窺えた。クテイはつばめの目の前で止まると、着物の袖口から数本の細い触手を伸ばしてきた。

「申し訳ございません。全ては私の責任です」

「お婆ちゃんが私の感情を食べたがったのは、本当?」

 それを大命題にして、祖父は凶行を繰り返した。つばめが意を決して問うと、クテイは両袖で顔を覆う。

「いいえ、違います。そのようなこと、私は願いません。誰が、血を分けた可愛い孫を喰らおうと思いますか」

「じゃあ、今までのは全部」

「ええ。そうです。長光さんが、私が喜ぶであろうと早合点して……」

 お座り下さい、とクテイはつばめを促して縁側に座らせ、クテイはつばめの傍に正座した。

「今よりもずっと若かった私は、閉塞的なニルヴァーニアンから逃れるべく、シュユと共に乗せられたフカセツテンのコントロールを奪い、物質宇宙を目指しました。私を求めてくれる、強烈な感情を道標にして異次元宇宙と物質宇宙の狭間を泳ぎ、次元の壁を越え、船島集落へと至りました。そこで、私は英子さんに出会ったのです」

 佐々木英子。それは、つばめの戸籍上の祖母であり、クテイが乗り移った人間の女性の名前だった。長光の妻であった英子は、長光の常軌を逸した性格に気付いていた。抑圧された環境で育ってきた反動なのだろう、長光は異常に独占欲が強かった。だから、英子は長光から逃れようと、長光が与えてくる全てのものに反発した。けれど、長光は英子を逃がそうとはしなかった。英子が一ヶ谷市から逃げ出そうとすると、長光は先回りして英子の行く手を阻んできた。頼むから離婚させてくれと英子は長光の両親に懇願するが、跡取りがいなくなると困るからというだけで聞き入れてもらえなかった。夜の闇に紛れて船島集落から脱そうとするも、集落の住人達と鉢合わせしてしまい、佐々木家に連れ戻された。この地獄から逃げ出すには自殺するしかないと、英子は強烈に願っていた。

 それが、クテイを導いた感情の正体だった。恋愛感情とは程遠いが、英子が自分自身を愛せる環境を欲するがあまりに沸き上がったものだった。フカセツテンが船島集落に墜落すると同時に異次元を形成し、異次元へと機体を収容したが、クテイは英子に惹き付けられて物質宇宙に転がり落ちた。それとほぼ同時に、シュユも高守信和という名の少年の現実逃避願望に引き寄せられ、弐天逸流の元に引き摺り出されていた。

 だが、出会う時が遅すぎた。クテイは山の斜面で倒れている英子を見つけたが、英子は尖端が鋭利な木の枝に背中から倒れ込んで胸を貫いていた。英子は既に息絶えていて、精神体も肉体から乖離しており、クテイにはもう彼女の行方を見つけられなかった。異次元宇宙に招き入れることすら出来なかった。

 英子の精神体を見つけ出してやるために、とクテイは英子の傷口にアバターである肉体を滑り込ませると、そこに長光がやってきた。それから、クテイは英子に成り代わって長光と共に暮らし始めたが、長光はクテイに心酔するようになった。英子の脳の記憶から、長光がいかなる人間なのかを把握していたので、長光を刺激しないようにと配慮して行動していた。それが長光の気を惹いたらしく、いつしか長光はクテイを束縛するようになった。

 息子達を産んでからは尚更だった。長光が我が子を切望して止まないので、英子の生体組織とゲノム配列を利用して長孝と八五郎を産み落としたが、産んだら産んだで我が子に嫉妬するようになった。生体情報の調整が不充分だったせいでニルヴァーニアン寄りの外見になった長孝には特に激しい憎悪を抱いていて、クテイが我が身を犠牲にして庇わなければ、長孝は幼少期に命を落としていただろう。

 クテイは長光に数十本の触手を切り落とされながらも生き長らえ、物質宇宙の狭間で彷徨っていた英子の精神体を見つけ出して異次元宇宙に導いてやった。長光の歪みきった心を元に戻せる日が来るはずだと、浅はかな願望を抱きながら、息子達を成人まで育て上げて送り出した。その際に、長光がフカセツテンの在処を見つけても悪用出来ないようにと、長孝にムリョウとムジンを渡しておいた。それ以外の遺産は既に長光に奪われ、売り払われていたのだが、ムリョウとムジンだけはクテイが自らの体内に残しておいたからだ。しかし、その小細工すらも無駄だった。八五郎は長光に言いくるめられてしまい、長光が言われるがままに次々と差し出した。死産した娘の遺体、ハルノネットの利権、八五郎自身とその妻の存在までもを父親に捧げた。

「長光さんを宥めるために、私はとても愚かなことをしました」

 愛していると申し上げてしまったのです、とクテイは俯いた。

「長光さんが日々募らせる、暴力的な感情を引き受け、消化するためです。感情の捌け口さえ作れば、あの激情が和らいでくれるのではと踏んでいたからです。ですが、私が長光さんの激情を吸収し、異次元宇宙へと受け流せば流すほど、長光さんの激情は膨れ上がっていきました。どれほど感情を抜いても、それを上回る感情を産んでしまうのです。あまりの膨大さに、異次元宇宙に点在している他の時間軸の私にさえも作用してしまったほどです。それが長引けば、いずれニルヴァーニアン全体、異次元宇宙全体をも傾けてしまいかねません。なので、私は異次元宇宙とシュユとの間に精神体を挟み込ませ、緩衝剤にいたしました。それしか出来ることがなかったのです。それからも長光さんは私に感情を注ぎ、自分が喜ぶものは私も喜ぶのだと思い込み、私に暴力に苦しむ人々の感情を喰らうように命じるようになりました。それが耐え難く、私は物質宇宙から遠ざかるためにアバターの生体活動を停止して桜の木に同化いたしました。それでも、長光さんは止まりませんでした。それどころか……」

 目も鼻も口もないのに、クテイが悲痛な面差しを浮かべていると解った。顔の所々に、シワが寄ったからだ。

「許してくれ、などとは申し上げません。私が物質宇宙に好奇心さえ抱かなければ、英子さんに心を寄せなければ、長光さんに愛の言葉を返さなければ、つばめちゃんは、あんなにもいじめられることはありませんでした。本当に、本当に、どのような言葉を並べても償い切れません。ですが、心身共に枯れ果てて衰弱しきった私が、こうして再び目覚めることが出来たのは、長光さんがつばめちゃんから感情を吸い上げて私に注いでいたから、というのもまた確かな事実なのです。それは、償う機会を与えられたと判断すべきでしょう。ですので、尽力せねばなりません」

 着物の掛かった肩を震わせ、クテイは体を折り曲げた。その背を、ひばりが支えた。

「本当のお婆ちゃんは、今、どうしているの?」

 やりきれない思いを抱きながら、つばめが尋ねると、クテイは静かに返した。

「異次元宇宙と物質宇宙の狭間で、輪廻転生を過ごされております。過去か未来で、いずれ出会えましょう」

「もう、ひどい目に遭っていないの?」

「ええ。安寧の日々をお過ごしに」

「そっか。だったら、良かった」

 クテイの答えに、つばめはほっとした。戸籍上の祖母と会う機会すらなかったが、気掛かりだったのだ。

「お姉ちゃんを見つけたら、今度はちゃんと幸せになれるように、道順を教えてあげてね」

「ええ。美野里さんにも、とても悪いことをしてしまいました。また別の物質宇宙で穏やかな人生を歩まれますよう、導き、祈ると誓いましょう。それは償いとは言えませんが、美野里さんの精神体が救われるのならば」

「じゃ、約束」

 つばめがクテイに手を差し伸べると、クテイは躊躇いがちに触手を伸ばしてきた。

「よろしいのですか。今までが今までです、つばめちゃんは私を信じられぬでしょうに」

「だから、これから信じるの。だって、お婆ちゃんのこと、好きになれそうだから」

 つばめが笑いかけると、クテイはしゅるりと触手の尖端をつばめの手に絡ませた。

「つばめちゃんに管理者権限を譲渡したのは、過ちではありませんでしたね」

「さっすが私とタカ君の子よ。良い子だこと」

 ひばりが誇らしげに笑ったので、つばめはちょっと照れ臭くなった。クテイと繋いでいた手を解き、つばめは改めて穏やかな世界を見渡した。庭には花々が咲き乱れ、心地良い風が吹き抜け、爽やかな空が広がっている。ここが普通の場所ではないと、つばめは感覚的に悟っていた。母親と祖母の精神体が留まっているのだから、三途の川の手前といったところか。無理もない、美野里の爪に心臓を切り取られてしまったのだから。

「つばめちゃんが産まれてくる日を、待ち遠しく思っておりました」

 つばめに寄り添ったクテイは、目元と思しき部分に浅くシワを寄せる。

「愛おしくて愛おしくて、一刻も早く会いたくて、私はまたも過ちを犯しました。お解りでしょうが、善太郎さんの右腕を奪ってしまったことです。彼にも償わなければなりませんね」

「いいっていいって、寺坂さんは。触手があろうとなかろうと、あの人は万事あの調子だもん。で、その寺坂さんが、お婆ちゃんを口説くって言ったんだけど、そんなことがあっても突っぱねてね?」

「ええ、ええ。善太郎さんですものね」

「解っているなら、それでいいけどさ」

 つばめが失笑すると、クテイはつばめの両肩に触手を添え、背後から顔を寄せてきた。

「つばめちゃん。どうか、心のままに生きて下さいますよう。ニルヴァーニアンのことなど構わずに、人間らしい人生を生き切って下さい。それが私の望みです。ですが、そのためには目覚めなければなりません」

「つばめ、もうちょっとだけ頑張ってね。大丈夫だよ、お父さんが付いているし、他の皆もいるし、それに」

 お迎えが来たからね、とひばりが庭の外を指し示した。つばめがその方向に目線をやると、菜の花の濃い香りが立ちこめる薄い靄の先から、白と黒の影が歩いてきていた。

「行ってらっしゃい。気を付けてね」

 ひばりは笑顔で手を振り、クテイは深々と頭を垂れた。

「どうか御無事で。美野里さんに奪われた心臓は、私の血肉を用いて補うと約束いたしましょう。長光さんは異次元の内で概念を操って皆さんを陥れようと画策しておられますが、こうして私の精神体が肉体から分離した今では、長光さんが所有しているラクシャの演算能力が格段に低下しています。ですので、勝機はありましょう。長光さんの精神体がラクシャから解放されたら、私が異次元宇宙へお連れすると誓いましょう。遺産も私が引き受けましょう。あれは、物質宇宙の人々が手にするべきものではなかったのです。本当に遺すべきものだけを遺しましょう。咎を抱いて過去へと去るのが、老いた者の務めですもの」

「ありがとう、お婆ちゃん。絶対、無駄にしないよ」

 つばめが二人に振り返ると、ひばりは継ぎ接ぎだらけのパンダのぬいぐるみを渡してきた。

「はい、コジロウ君。あっちのコジロウ君も大事だけど、こっちのコジロウ君もね」

「うん! ありがとう、お母さん!」

 つばめが継ぎ接ぎのパンダのぬいぐるみを抱き締めると、ひばりは目元を擦った。

「タカ君に会ったら、当分こっちに来なくていい、って伝えておいてね。だって、タカ君の人生はこれからだもん」

「お生きなさい、つばめちゃん。どうか、その心のままに」

 クテイはつばめの背をそっと押してきたので、つばめは名残惜しかったが、縁側から下りた。少し冷たい地面と柔らかな雑草を踏み締めながら進んでいくと、いつのまにか二人の姿と古びた家は消えていた。目の前ではコジロウが待ち受けていて、膝を曲げて目線を合わせてきた。その背後には、二体のロボットファイターが控えていた。

「よう」

 レイガンドーは右手を挙げて気さくに挨拶し、岩龍は太い腕を組んで胸を張る。

「こっからが本番じゃけぇのう、気張ってこうやぁ!」

「レイガンドーと岩龍も来てくれたの?」

 つばめがコジロウの肩越しに二体を見上げると、レイガンドーは腰を曲げて見下ろしてきた。

「当たり前だ。コジロウの動力源がつばめなら、俺の動力源は美月なんだ。俺のマスターは友達思いだぞ、ずっとずっとつばめのことを考えてくれている。それもこれも、つばめが美月と対等な友達になってくれたからだ。だから、美月の感情を受け取って動いている俺のムジンの演算能力で、コジロウにリミットを掛けてやれている。それがなきゃ、今頃は全部ドカンだ」

「……へ?」

 つばめが面食らうと、岩龍が豪快に笑った。

「そんだけコジロウもドタマに来とるっちゅうことじゃい! その辺の余分な情報はワシが引き受けちゃるけぇのう、安心せぇや! コジロウはワシらの上位個体っちゅうか兄貴じゃけども、真っ直ぐすぎて危なっかしいのが短所じゃけぇ、ワシらみたいなのが手ぇ貸してやらんとならんからのう!」

「出口は俺達が確保してくる。コジロウと俺達だけならともかく、つばめも一緒だと情報量が多すぎるから、途中で処理落ちなんかしたら目も当てられない事態になっちまうからな」

 すぐ3カウントを取ってやる、大技でぶち抜くんじゃ、と言い残し、レイガンドーと岩龍は霧の奥へと駆けていった。二体の重々しい足音が遠ざかっていったので、つばめは二体の背に手を振って見送った。

「コジロウ! 迎えに来てくれたんだ!」

 感極まったつばめが飛び付くと、コジロウはぬいぐるみごとつばめを抱き締めてきた。

「つばめ……」

「どうやって、ここまで来たの?」

 つばめがかかとを上げて彼と目線を合わせると、コジロウは平坦に述べた。

「本官はムジンの演算能力にて、肉体を欠損したつばめの精神体が異次元宇宙と異次元の狭間に移動したと推測し、敢えてムリョウとムジンを奪取されることで、ムリョウのエネルギーを全解放した。それを足掛かりとして、本官の電脳体をこの空間へと移動させた」

「肉を切らせて骨を断つ、ってやつ?」

「その形容詞に値する行動だ。即決していなければ、本官はつばめを救う機会を失うと判断し、ムリョウとムジンを囮とした。現在、その判断が正しかったと確信している。レイガンドーと岩龍は、その決断に従ってくれた」

「ありがとう、コジロウ。もちろん、レイガンドーと岩龍も」

 コジロウの冷え切ったマスクにそっと唇を当てて、つばめは目を閉じた。二人の間に挟まったパンダのぬいぐるみは潰れかけていたが、文句は言わなかった。コジロウはつばめを一際深く抱き締めてから、パトライトから赤い閃光を放った。長光の手で剥ぎ取られた片翼のステッカーも蘇っていた。つばめはそのステッカーに手を添えて、心の底から外の世界を切望した。母親と祖母の願いを無駄にしないためにも、立ち上がらなければ。

「あ」

 つばめは精神体が、コジロウは電脳体が剥き出しになっているからだろうか、触れ合った部分から膨大な情報が流れ込んできた。コジロウも同じ現象に見舞われたのか、身動ぎ、つばめを押し戻した。

「何、見た?」

 ないはずの心臓を高ぶらせたつばめが火照った顔を逸らすと、コジロウはマスクを押さえて反対方向に逸らす。

「つばめが本官に抱いている主観、感情的な評価、直情的な行動の理由、それらを総称する呼称だ。つばめは、本官からいかなる情報を得たのだ」

「……色々と」

 つばめは目を伏せると、唇を浅く噛んだ。コジロウの視点から見た自分の映像は、どれも溢れんばかりの愛情と思い遣りに溢れたものだった。パンダのコジロウだった頃は、常につばめと目を合わせてきてくれていた。それは、警官ロボットになっても変わらず、つばめだけを見つめていた。視界の中心につばめを捉え、一挙手一投足を記録し、保存し、比較してくれていた。たまに主観的な判断をしそうになると、それを即座に削除していた。ただのロボットとして、つばめを守る盾に徹しようという彼の信念の固さが窺えた。徹底的に、彼は己の個性を否定していた。

「意地っ張り」

 つばめはコジロウを横目に窺うと、コジロウは赤いゴーグルの光を翳らせる。

「本官は、そのような語彙に値する行動を取った記憶はない」

「それが意地っ張りだっての。コジロウのことが解ったから、話したいことが一杯出来た。だから、早く帰ろう」

 つばめは気を取り直し、コジロウと改めて向き合った。コジロウも、つばめに向き直る。

「了解した」

 戦い抜いて、生き延びたら、現実のコジロウに好きだと言おう。つばめの方から言わなければ、この堅物の警官ロボットは一生言わないに違いない。そこがまた彼の愛嬌でもあるのだが。銀色の太い指を二本だけ握り締めて、つばめはコジロウに身を委ねた。すると、彼の指が慎重に曲がり、つばめの細い指を怖々と握り返してくれた。その辿々しい仕草が微笑ましく、つばめはますます彼が愛おしくなった。

 今度こそ、祖父の愚行を止めなければ。


 胸が、心が、魂が痛い。

 鋭い痺れにも似た感覚が隅々まで広がると、かひっ、と肺に残っていた空気が横隔膜に押し出された。反射的に突き出た舌が湿った空気をなぞり、鉄臭い味のする唾液が喉に溜まっていた。つばめは盛大に咳き込んでそれらを払ってから、慎重に呼吸を繰り返した。鼻の奥にも血の臭いがこびり付いていて、一度は死んだのだ、と改めて認識させられた。手足もまだ冷たく、シャツの胸元は裂け、乾いた血が布地を固めている。

 両手を何度も開閉させ、足に力を込めて曲げ、手足の動作を確認して、心臓を切り取られた傷口を触ってみた。乾いた血を拭い去ってみると、穴が開いた皮膚が塞がっていた。だが、その手触りはつばめ自身の皮膚とは明らかに違っていて、祖母の触手と同じ感触が返ってきた。クテイが心臓を作ってくれたのだ。

「コジロウ」

 狭い闇の中、つばめは彼を欲する。彼の存在を、彼の忠誠心を、彼の無限大のエネルギーを。胸元に当てた手の下から、心臓の位置から、暖かくも力強い熱が沸き上がる。考えるまでもなく解る、ムリョウのエネルギーだ。

「行こう!」

 外の世界へ、現実へ、そして感情を鬩ぎ合わせる戦いの場へ。つばめが熱の塊を両手で握り締めると、指の間から青い光が上がった。それは赤黒い根によって作られた繭を満たし、闇を拭い去る。躊躇いも迷いも恐れも弱気も何もかもが失せ、体も熱くなる。つばめは息を詰めて目を見開くと、ムリョウの熱を閉じ込めた両の拳を思い切り頭上に突き出した。硬く組み合わさっていた根が解け、開いた。

 薄紫の空が見えた。



 緩んだ根の隙間から、背嚢を引き摺り出した。

 大半の荷物が潰れているが、幸いなことに、中に入れておいたハンドガンとマガジンに歪みはなかった。武蔵野は使い慣れたブレン・テンを取り出してマガジンを差し込み、チェンバーをスライドさせてから、スペアの拳銃を一乗寺に投げ渡した。一乗寺は難なくそれを受け取り、じゃきりとチェンバーを動かす。

 戦況は覆っている。考えるまでもなく解る、佐々木長光が動揺しているからだ。武蔵野は拘束された際に破られた戦闘服を少しばかり気にしつつ、桜の木の根本で呆然と立ち尽くしている男を見据えた。五〇年に渡ってシュユが留まっていた異次元を、ムリョウのエネルギーで突破してクテイの根を物質宇宙にはびこらせようとしたようだが、その異次元の外側に新たな異次元が形成されて阻まれたようだった。その際に発生した衝撃が太い根を緩ませ、圧砕されたとばかり思っていた背嚢を見つけられた。そればかりか、根の動きが沈黙していた。

「クテイ、どうしたのですか」

 長光は目を動かし、桜の木に振り返る。淡い色彩の花弁を帯びた樹木は、黙していた。

「クテイ、私の声が聞こえないのですか? 

 あなたが欲していた、あんなにも食べたがっていた、孫娘を与えたではありませんか。ムリョウのエネルギーも与えたではありませんか。それさえ使えば、もう一枚の異次元などは容易く打ち破れるでしょうに。クテイ、クテイ、答えて下さい」

 だが、桜の木は無反応だった。何度も何度もクテイの名を呼ぶ長光の足元で、根が盛り上がり、捻れた金属板と青い基盤が吐き出された。ムリョウとムジンである。その傍らには、子供の拳大の小さな小さな肉塊、つばめの心臓が寄り添っていた。明確な拒絶の意思だ。長光はひどく狼狽え、声にならない声を漏らす。

「もう一仕事、すっかぁ」

 道子に右腕の破損部分を応急処置してもらった寺坂は、上体を捻り、腕のない

 右袖を振り回した。

「あーもう、さっさと帰りたーい。すーちゃんとイチャイチャしたーい」

 一乗寺は武蔵野の荷物から予備のマガジンを引っ張り出し、戦闘服のポケットに入れた。

「俺だって、ニンジャファイター・ムラクモの最終回を見るまでは死ぬつもりはない。十二月のクリスマス商戦があるせいだろうが、今月に入って怒濤の盛り上がりを見せているからな」

 武蔵野が真顔で言うと、メイド服のスカートの布地を引き裂いた即席の包帯を腹部に巻いた伊織が毒突く。

「んだよ、しょーもねぇ。そんな動機で戦うんじゃねーよ、クソが」

「そういう伊織君だって、りんねちゃんとイチャイチャしたいがために戦うんでしょうが。不純ですねぇ」

 強化素材の人工外皮に覆われた素足を露わにした道子は、両脛に装備していたナイフを抜いて弄んでいた。

「ウゼェな。てめぇはどうなんだよ、道子」

 伊織が顎を軋ませながら言い返すと、道子は澄ました。

「お買い物がしたいんです。つばめちゃんと一緒に、色んなお店を見て回りたいんです。ずっとドタバタしていたものですから、出掛ける暇すらなかったんですから。ネット通販だけじゃつまらないんですよ」

「人生なんてそんなもんだ。つまんねぇこと、下らないことの積み重ねだ。問題は、それを楽しむか否かだ!」

 おら行くぞぉっ、と寺坂が先陣を切って駆け出した。無駄に元気ですね、バッテリーの電圧が半端なのに、と道子は苦笑しながらも、寺坂に続いて根のはびこる地面を蹴って跳ねていった。つばめが閉じ込められている根の繭を横目に気にしながらも、佐々木長光を目指す。いかなる策を講じているとしても、佐々木長光の肉体を叩き潰せば事態は更に好転するはずだ。異次元といえども物質宇宙の延長、肉体がなければ幽霊に成り下がる。

 左腕の仕込みナイフを展開した寺坂が、サイボーグの脚力にものを言わせて駆け抜けていく。触手のように弾力がある根を踏み締め、その反動で高く舞い上がった寺坂は、投擲された槍の如く急降下した。佐々木長光は敵襲と知って我に返ったが、避けようとはしなかった。今も尚、概念を操作しているからだ。だが、それがなんだ。

「相手を潰す前にぃっ、手の内明かす馬鹿がいるかぁあああああっ!」

 概念が操作されている、と知った段階でその概念は覆っている。寺坂は長光の頭上に足を振り下ろしたが、若干照準がずれ、長光の肩に強かにかかとをめり込ませただけだった。だが、当たった。命中した。確信は確証となり、現実に訪れた。肉食獣の威嚇じみた攻撃的な笑みを浮かべた寺坂は、その足を捻って長光の側頭部を叩いた。その拍子に足袋を履いた足から雪駄が抜けて宙を舞い、桜の木に向かった。それが長光の注意を逸らしたのか、長光は一瞬寺坂は目を外す。それを見逃す理由はない。

「悪役なら悪役らしく、ハッタリ効かせて余裕ぶちかましてくれないと退屈ですよ!」

 続いて突っ込んできた道子が、着地すると同時に両腕を大きく振り回す。銀色の刃が翻り、ナイフの切っ先が長光の服を呆気なく切り裂いた。生身の人間と遜色のない血が飛び散り、長光は目を剥く。道子は長光がよろけた隙に蹴りを加え、後退ったところで跳び膝蹴りを喰らわせる。と、同時に、柔らかな右太股が開いて機関銃が出現した。だだだだだだだっ、と口径の大きい銃弾が一息に吐き出されて薬莢が舞い、腹部を撃たれた長光は崩れ落ちる。

「あら、呆気なぁい」

「退けぇっ!」

 寺坂と道子を薙ぎ払って迫ってきたのは伊織だった。腹部に巻いた紺色の包帯を靡かせながら、黒い矢となって落ちてきた伊織は、長い下両足を交互に繰り出して長光を蹴り、切り裂く。道子の銃撃でボロボロにされた胴体を上両足の爪で真っ二つにすると、いくつか銃弾が残っていた作り物の内臓が吹き飛び、割れた背骨が覗いた。

 中両足で分断された下半身を投げ捨ててから、伊織は長光の上半身を追う。程度の低い罵倒もせず、純然たる殺意だけを宿した爪を何度も何度も振り下ろす。抵抗する余力すら削がれたのか、長光の上半身は桜の木の根本に転がった。既に両腕は切り落とされていて、首も薄皮が辛うじて繋がっている状態だった。

 が、頭部を割ろうと爪を振り上げた寸前で、伊織は活動限界を迎えて下両足を折った。腹部の即席の包帯に体液が滲み、触角が震える。道子がいきり立つ伊織を宥めて引き下がらせると、一拍遅れてやってきた武蔵野と一乗寺が銃撃を始めた。体液を垂れ流して頽れている下半身に鉛玉を撃ち込む一乗寺はいやに明るく、歓声すら上げている。敵が反撃してこないと知っているから、二人は遮蔽物に身を隠すことすらなく、互いのタイミングを測りながら銃撃を繰り返す。桜の木の根本で項垂れている長光の頭を、胸を、喉を、腹を、銃弾が貫く。

「もう誰も殺したくならないし、ハイにならないと思っていたけど、あんただけは別だったみたい」

 軽く息を弾ませながら、一乗寺は空になったマガジンを抜き、熱した銃身に新たな銃弾を詰め込む。

「あんたを殺せるのって、最高に気持ち良すぎ」

「ひばりとつばめに出会う切っ掛けを作ってくれたことだけは感謝する。だが、それだけだ」

 武蔵野もまた、火傷するほど過熱したブレン・テンに銃弾を装填する。

「じゃ、どこにするぅ?」

「そうだな、脳天を二発。そうすれば、確実だ」

 ランチにでも誘うような一乗寺の口振りに、武蔵野は穏やかに返した。同時に引き金を絞って撃鉄で叩き、火薬を炸裂させる。空中を引き裂いた二発の殺意が、ほぼ同じ位置に命中し、長光の額に重なった穴が二つ開いた。濁った蛋白質塊が後頭部から散り、桜の木に肌色の飛沫が貼り付いた。

 赤黒い肉塊と化した長光の仮初めの肉体は、ごぶりと泡立ち、膨れ上がり、溶けた。肉も皮も骨も生温い液体となり、根と根の間に汚らしい水が溜まる。そこに、小さな水晶玉が浮かんだ。ラクシャだ。武蔵野はジャングルブーツのつま先でラクシャを弾き出すと、寺坂が飛び上がって受け止め、法衣の袖で汚れを拭き取った。

「んじゃ、こいつをつばめに壊してもらおうじゃねぇか。どうせ死んでないはずだ、外に出てくるまで待ってやろうぜ」

「いや、そんな暇はなさそうだぞ」

 再び脈打った根を見渡し、武蔵野は舌打ちする。桜の木の根本に長光の名残が吸い込まれていくと、赤黒い根が躍動し、遺産が桜の木の根本に引き寄せられた。アマラ、ナユタ、アソウギ、コンガラ、ムリョウ、ムジン。タイスウはコジロウが無に帰してしまったので、手に入れようがなかったようだ。銀色の針と粘液と金属の箱と捻れた金属板と青い基盤が一塊にされ、捻られ、根が膨れ上がる。そして、粘土細工のように不格好なモノが出来上がった。

 一言で言えば、ニルヴァーニアンの紛い物だった。クテイの肉体の一部を採取して遺産で繋ぎ合わせた人型の異物は、部品はないがごつごつとした顔面と捻れた触手と、光を微塵も放たない光輪を背負っていた。体格は桜の木と同等で、下半身の触手はそのまま地面に繋がっている。植物の延長だ。

 武蔵野と一乗寺がすかさず銃撃するが、皮膚が恐ろしく硬いらしく鉛玉は呆気なく跳ね返された。道子が投擲したナイフも同様で、刺さりもせずに弾かれた。この分では、寺坂も伊織も当てに出来まい。手持ちの武器はこれまでの戦闘で粗方使い尽くし、背嚢に入れていた武器も破れた部分からどこかに零れ落ちてしまった。だからといって、ここまで追い詰めておいて逃げ帰ることは許されない。そもそも、逃げようがないのだから。

「おお、おおおおおおっ」

 ニルヴァーニアンに形だけ似せた肉体を得た長光は歓喜し、硬い触手を折り曲げる。寺坂の手中のラクシャは長光に吸い寄せられ、分厚い外皮を抉って体内に没する。

「私は何度目かも解らない死を以てして、ようやくクテイに近付けたのですね! ああそうですともそうでしょうとも、クテイが私を拒絶するはずがないのですから! クテイが私を選ばないわけがないのですから! 私の愛が、私の積年の思いが、私の全てが、クテイの全てなのですから!」

 長光が一歩踏み出すと、地面が捲れ上がる。根が裂ける。青臭い体液が弧を描く。

「さあ、今こそ輪廻の環を断ち切り、物質宇宙へと!」

 歓喜と勝利が漲った長光の猛りが、異次元の繭に響き渡る。外界への侵出を阻まれていた一二八本の根が活力を取り戻し、太さを増し、異次元を包んでいるもう一つの異次元を貫かんと荒れ狂う。幾度も幾度も激突しては裂けるが、その度に再生している。長光の心の高ぶりが、クテイの生体組織を経由して接触している遺産に作用しているのか、長光の見苦しい肉体のそこかしこから青い光が漏れ出ていた。光輪にも、うっすらと光が生じる。

 が、その光を遙かに上回る光条が迸った。その光源は、心臓を抉られたつばめを捕らえていた、根の繭だった。蕾のように固く閉じていた太い根が一つ一つ開いていき、禍々しい大輪の花を咲かせる。それが開ききると、中心で仁王立ちしている少女が露わになる。つばめだ。

「さぁっ」

 右手に何かを握り締めているつばめは、大きく振りかぶった。

「せぇっ」

 両足を広げて強く踏ん張り、腰の捻りを加え、右腕をしならせて握っていたモノを投じる。

「るぅかぁああああーっ!」

 見事な投球フォームでつばめは何かを投げきった。あれ、意外に元気じゃん、と呟いたのは誰だったのだろうか。全員だったのかもしれない。心臓を抉られたはずなのに、いつもとなんら変わらない気の強さだった。

 つばめの右手から解き放たれた物体は、真っ直ぐに警官ロボットに向かった。渾身の投球ではあったが弾道計算までは出来なかったのだろう、警官ロボットの右斜め上を通り過ぎそうになったが、動力源を失っているはずの警官ロボットが起き上がって右手を挙げた。その手中に、つばめが投げた物体が収まった。ムリョウだった。

「えぇ!?」

 でも、今、ムリョウはあっちに、と道子が長光を指すと、腕組みをして胸を張っているつばめは叫んだ。

「そんなもん、ただの見せかけ! 遺産ってのは全部異次元宇宙に依存しているから、アソウギだろうがナユタだろうがアマラだろうがコンガラだろうがゴウガシャだろうがタイスウだろうがムリョウだろうがムジンだろうがラクシャだろうが、この、私が、異次元宇宙から引っ張り出すための取っ掛かり! だから、私が全部どうにか出来る!」

 その叫びを受けながら、満身創痍の警官ロボットが立ち上がる。長光の手で抉られた胸部装甲に、捻れた金属板を押し込む。ほらムジン、とつばめが再度投げ渡すと、コジロウは青い基盤を受け取って胸に納めた。

「全部が全部私のモノだ。こんな目に遭うのもこんな力に振り回されるのも、私だけでいい」

 つばめは赤黒い根に支配された船島集落と、桜の木の根本で異形と化した祖父と、戦い続けてくれていた皆と、コジロウと、物質宇宙への侵略を防いでくれた異次元を見渡してから、全力で声を張る。

「だから、遺産なんて、他の誰にも渡してやるもんかぁあああああっ!」

 母親と祖母と接した、束の間の幸福な記憶を糧にして、つばめは覚悟を据えた。事の真相が解ってしまうと尚更、祖父から受けた仕打ちの理不尽さが頭に来る。異星人の祖母と、戸籍上の祖母に対する憐憫が深くなる。若くして命を落としながらも、誰も恨まずに父親への愛を保ち続けている母親の暖かさに感じ入る。己を押し殺しながらも、妻と娘のために孤独な戦いを続けていた父親への感謝の念が増す。叔父と叔母と、従姉妹にも。

 つばめは胸に埋め込まれた祖母の生体組織から生じる鼓動を感じながら、強く欲した。アマラ、ナユタ、アソウギ、ラクシャ、コンガラ、タイスウ、ムジン、ゴウガシャ。長光に奪われたはずの遺産は、つばめの周囲に次々と出現して形を成し、転がる。試しにコンガラに触れてみると、遜色なく作動し、つばめの手のひらに付いていた血を複製した。異次元宇宙と物質宇宙の狭間にいたおかげで、今までになく、あちら側に近付いているからだ。だが、それも長くは持たない。だから、片を付けなければ。凝固していない自分の血液を払い、つばめはコジロウと目を合わせる。

 コジロウは迷わずに跳躍し、つばめの元に至った。つばめはナユタを使って遺産を一つ残らず浮かばせてから、コジロウに命じ、祖父の元へと向かわせた。つばめに従って遺産も後を追ってくる。タガの外れた哄笑を放つ祖父はクテイとの蜜月を阻まれてなるものかと、荒々しく触手を振り回す。だが、コジロウはそれを一つ残らず回避し、数本を足掛かりにする。攻撃に及んできた触手は次々に殴り、蹴り、砕き、木片へと変えていく。

「でぇあっ!」

 ナユタの光を収束させ、ぐるりと一巡させる。広範囲の光学兵器と化した閃光が祖父の禍々しい肉体を両断し、胴体が滑り落ちて桜の木に激突すると、その衝撃で花弁が大量に舞い上がった。それらが降り注ぐ中、コジロウはつばめと遺産を伴って、長光の前に辿り着いた。胴体の切断面から体液を流しながらも、祖父は身を起こす。

「改めまして、お爺ちゃん。あんたの孫です」

 つばめは長光と対峙し、一礼した。長光は無数の花弁を浴びながら、折れかけた首を起こす。

「クテイは、あなたを食べてくれなかったのですか? なぜ、なぜですか」

「そんなの、簡単だよ」

 つばめはコジロウの手を借りて長光の胴体に昇ると、頭上に遺産を集わせ、使用する。タイスウの蓋を開かせ、コンガラを用いてタイスウの体積を膨張させ、アマラを長光に突き刺して肉体の制御を奪い、アソウギで赤黒い根の生体活性を失わせて沈黙させ、ナユタで長光を浮かび上がらせて周囲から隔絶させ、ゴウガシャを急成長させて触手を用いてきつく拘束し、十六枚のムジンで遺産を制御し、最後にラクシャを握り締めた。

 手のひらを通じてつばめに流れ込んだのは、佐々木長光の怒濤のような狂おしい愛情だった。息が詰まりそうなほど重苦しく、やるせない、行き場のないものだった。クテイに近付こうと願うあまり、クテイの眷属である船島集落の植物という植物を摂取していた。三年前に倒れ、それきり寝込んだのは、クテイの眠る桜の木の傍に生えていた毒性の強い植物を大量に摂取したせいだった。最早愛情ではない、執念だ。クテイを振り向かせたいという一念が、佐々木長光をどこまでも歪ませている。だが、それももう終わりだ。

「何から何まで、お婆ちゃんの好みじゃなかったってこと。あんたの性格も、プレゼントも、全部。だから、こんなことは止めさせる。私が終わらせる」

 つばめの手に、コジロウが大きな手を重ねる。人間の姿も、仮初めの姿も失った長光は、朽ちかけた植物の蔓に酷似した触手を伸ばしてくる。つばめがその蔓にラクシャを添えると、長光は項垂れる。

「ああ、ああ、あああああ」

 言葉にすらならない嗚咽を漏らし、長光は砕けていく蔓でラクシャを受け止めようとするが、滑り落ちる。その時、長光が寄り掛かっていた桜の木が解け、傷付いた木肌を割って、赤黒く滑らかな触手が伸びてきた。クテイだった。本物の光輪を背負った、砂時計型の体形のニルヴァーニアンは、長光を柔らかく抱き締める。

「クテイ」

 ざらついた声ではあったが、長光はこの上なく幸せそうだった。クテイは凹凸のない顔でつばめを見、一度頷いた。つばめはコジロウの胸中からムリョウを取り出すと、それを軽く押してクテイの元に向かわせる。

「さようなら、お爺ちゃん、お婆ちゃん」

 コジロウに抱かれたつばめは、長光の胴体の上から脱した。ナユタが作った青い光の泡から抜け出すと、クテイは一二八本の触手で長光を抱き締める。ありとあらゆる幸福と快楽と愉悦を混ぜ合わせた感嘆を零しながら、長光はクテイに縋り付く。母を求める幼子のように、愛し抜いた異形の妻に甘える。

「ようやく、ようやく私の元に、クテイ、あなたが」

「長光さん」

 鈴を転がすような、柔らかくも儚げな声を発したクテイは、長光のひび割れた顔にそっと額を合わせた。

「共に地獄へ参りましょう。あなたの業は、私の業です」

 二体の異形が、愛に焦がれた男と愛を尊んだ女が、絡み合いながら、黒く巨大な棺へと吸い込まれていく。男は幾度となく女の名を呼び続けるが、女は応じずに触手で伴侶を締め付ける。幾多の争いと数多の欲望を生んでは食い潰してきた遺産も絡め取りながら、二人はタイスウの中に没した。

 滑らかに迫り上がった蓋が棺に重なり、閉じる。タイスウの内側から出現した、四本の金色の釘が棺の蓋の四隅に突き刺さり、深々と埋まる。束の間、沈黙が訪れたが、桜の木の根が持ち上がってタイスウを拘束し、そのまま太い幹に引き込んでいった。柔らかな泥のように棺を飲み込み終えると、桜の木は静まった。

 直後、一陣の風が吹き荒れた。コジロウが盾になったが、粉塵ばかりは防げず、つばめはきつく目を閉じた。風が止んでから瞼を上げると、青い光の泡は消えていた。桜の木も同様で、大きな穴が穿たれていた。巻き上げられていた桜の花弁が、静かに下りてくる。その中には、肌に触れると溶けるものも含まれていた。

 雪だった。外殻を失ったフカセツテンに代わって均衡を保ち続けてくれていた異次元は音もなく爆ぜ、その外側の異次元も失せ、慣れ親しんだ物質宇宙が頭上に広がっていた。冴え冴えとした青天で雪雲はなく、一連の出来事の余波を受けた積雪が上空へ昇り、重力に従って下りてきたのだろう。その場に座り込んだつばめは、傍らで片膝を付いているコジロウに頭を預けて弛緩した。

「お婆ちゃん、ムリョウとコジロウのムジン、置いて行っちゃったね」

 手中に重みを感じたつばめは両手を広げると、クテイに渡したはずのムリョウとムジンが収まっていた。

「譲渡された、と認識すべきだ」

「うん、そうだね。だから、相続していいんだよね」

 つばめはコジロウと寄り添いながら、遺産から解放された安堵感に浸っていた。ふと気付くと、桜の木が存在していた場所に白と黒の丸っこい影が座っていた。ちらほらと落ちてくる薄い雪片が毛並みの柔らかな布地に積もっては溶け、丸いボタンの目が二人を見つめていた。パンダのコジロウだった。

 つばめは立ち上がると、パンダのコジロウを抱き上げた。よく見ると、以前、つばめが修繕した部分が丁寧に縫い合わされていた。尻の部分に付けたポケットも元通りで、毛並みも綺麗になっている。お母さんがしてくれたんだ、とつばめは直感し、パンダのコジロウを抱き締めた。生まれた時から、ずっと愛されていたのだと悟る。

 三途の川のほとりで、祖母は祖父を愛していないと言った。腹の底から愛せない男だったからだ。だが、最後の最後で共に地獄に行こうと言ったのは、愛ではないだろうか。いや、それは解らない。それはあくまでも、つばめの主観であってクテイの主観ではないからだ。つばめは振り返ると、警官ロボットのコジロウと手を繋いだ。

 その間に、パンダのコジロウを挟んで。



 どーすんだよこれ、と、寺坂が嘆いた。

 その通りである。船島集落への入り口でもあった道路まで雪上車で移動したつばめは、すっかり地形が様変わりしてしまった船島集落を一望し、渋い顔をしていた。自衛隊名義のもう一台の雪上車はすぐ後ろに駐まっていて、その運転手である長孝も、窓から顔を出して外を窺っていたが表情の出ない顔を歪ませていた。作業着の背中が破れていて、光輪が伸びきって真円を形作っていた。何かしらの異変が彼の身に起きたのは明らかだったが、長孝は何があったのかは話そうとはしなかった。人型重機が爆砕した際に上着の類が一つ残らず燃えてしまったので、武蔵野の大きすぎる迷彩柄のジャケットを借りたつばめは、引き摺りかねないほど長い裾と袖を気にしつつ、異常繁殖した赤黒い根に支配された船島集落を見下ろした。

「クテイさんの根を片付けるのに、いくら掛かるでしょうね?」

 つばめの背後で道子が苦笑いすると、一乗寺が両手を上向ける。

「てか、運び出したとしても、どこでどう処理するの。何千トンあるの。燃やすだけでも一苦労だよ?」

「ウゼェ」

 伊織の率直な感想に、武蔵野は同意した。

「ああ、全くだ」

「とりあえず、帰ろう」

 長孝が二台目の雪上車の運転席から身を乗り出すと、その後部に座っている武公が力なく手を振る。

「なんかよく解らないけど疲れたぁー。バッテリー厳しいから、スタンバってていいー?」

「俺達の方が何十倍も疲れたよ」

 寺坂は左手で禿頭を掻き毟っていたが、長孝に振り向いた。

「で、タカさん、なんで言わないわけ。タカさんが一番苦労しただろ、もう一つの異次元を作ったのってタカさん以外に考えられないんだけど。てか、シュユがここにいないなら、あんたにしか出来ないだろうが。なのに、なんでそれを真っ先に娘に報告しないんだよ。わーきゃーお父さんすっごぉーい、って黄色い声で褒められるのにさぁ」

「人んちの家庭の事情に、あんまり口出さないでくれる?」

 つばめがむくれると、寺坂は言い返す。

「だってよー、焦れってぇんだよ」

「いいんだよ、それがうちのお父さんなんだから。お母さんもそう言っていたし」

 つばめが少し笑うと、運転席に座り直しかけていた長孝が、また身を乗り出した。

「ひばりに会ったのか?」

「死にかけた時に、お婆ちゃんと一緒にね。お父さんは当分こっちに来なくていい、ってさ」

「そうか」

 つばめの言葉に、長孝はハンドルに額と思しき部分を当てた。その仕草で、長孝が感嘆を堪えているのだと解るようになった。決して無愛想ではないのだ。ただ、感情を殺しながら生きてきたせいで、肝心な時での感情表現が不器用なだけだ。母親と触れ合う機会がなければ、それを理解するまでに長い時間を要しただろう。

 ぶかぶかのジャケットの袖口から出した指先で、コジロウと手を繋いでいた。今となっては、コジロウの方が率先して指に力を込めるようになっていた。雪上車の中に戻り、浄法寺に帰るための道なき道を進んでいると、運転席でハンドルを握っていた武蔵野が前触れもなくブレーキを掛けた。十数メートル後方で後続していた、長孝の雪上車も止まった。何事かとつばめが運転席に身を乗り出すと、進行方向に雪景色から浮いた黒い影が立ち尽くしていた。傷だらけで壊れた外骨格の中に赤黒い異物を詰め込み、繋ぎ合わせた、継ぎ接ぎの美野里だった。

 皆の表情が一変し、空気が張り詰める。運転席の窓を開けて拳銃を突き出そうとした武蔵野を制すると、つばめはコジロウを伴って雪上車の外に出た。コジロウの手を借りて屋根に昇り、美野里だったものと向き合う。コジロウを向かわせようか否か、つばめが僅かに迷っていると、雪が積もった針葉樹林の影から銃声がした。それも一発や二発ではなく、複数の人間が一斉に美野里だったものを狙撃した。ぎぃ、げぇ、と掠れた悲鳴を上げながら、美野里だったものはのたうち回っていたが、白い戦闘服を着て火炎放射器を背負った戦闘員が駆け寄り、凄まじい炎を浴びせかけた。濛々と黒煙を上げながら痙攣した美野里だったものは、雪を黒く汚しながら倒れ込んだ。

「状況終了」

 雪原迷彩の戦闘員達に続いて現れた男が手を挙げると、戦闘員達は硝煙の昇る自動小銃を下げ、足早に後退していった。雪上行軍用のスキーを履いている、同じく雪原迷彩に身を固めた周防国彦だった。武蔵野が運転席から出ると、周防はノルディックスキーで滑りながら、雪上車までやってきた。

「銃は下げろ、武蔵野。俺達は、こいつをどうにかしに来ただけだ」

 そう言って、周防はストックで美野里だったものの焼死体を示してから、雪上車の上のつばめを見上げた。

「事後処理は政府に任せてくれ。佐々木長光の資産は凍結させるが、当面の生活は保障する」

「お咎めなし、ってこと?」

 てっきり、美野里と一緒に殺されるのかと思ってしまった。つばめが拍子抜けすると、周防は船島集落を指す。

「無罪放免ってわけにはいかんだろうが、佐々木つばめを暗殺しろという命令は撤回されたんだ。コジロウというか、ムリョウの破壊力が途方もないからな。それを制御出来る唯一の人間を殺しちまったら、国が物理的に丸ごと吹っ飛んでもおかしくない。腫れ物扱いなのは変わらんが、生き延びられただけでも良しとしておけ」

「そっかぁ……」

 一気に緊張が抜け、つばめは肩を落とした。

「でも、すーちゃん、落としどころはどうするの?」

 きゃっほー、と雪上車から一乗寺が手を振ると、周防は手を振り返してから答えた。

「その辺はこれから摺り合わせていくさ。年内には終わらんだろうがな」

 これから大忙しだよ、とぼやきながら、周防は戦闘員達に美野里だったものの遺体を回収する準備を進めさせ、つばめ達に先に帰るようにと促してきた。武蔵野は訝しげだったが運転席に戻ったので、つばめもコジロウの手を借りて車内に戻り、後部座席に収まった。はいこれ、と道子が渡してきてくれたパンダのコジロウを抱き締めると、隣に座ったコジロウに寄り掛かって目を閉じた。気が抜けたからだろう、どっと疲れが襲ってきた。

 胸の傷は痛かったが、心は痛くなかった。



 それから、一ヶ月が過ぎた。

 窓越しにまた降り始めた雪を眺めながら、つばめは胸元を押さえた。船島集落での争いの後、念のために病院に行き、検査をした。美野里の爪で切り取られた心臓は代替品が収まっているので問題はなかったのだが、心臓を切断された際に肋骨と肺にも傷が及んでいた。左最下の肋骨が欠けていて、破片が心臓付近に散らばっており、肺も左側の下部が潰れていた。なので、結局手術をする羽目になり、肋骨の破片の切除と修復と肺を切除するために長期間入院することになった。手術は都内の病院で受けたが、術後の療養のために一ヶ谷市へと移送されたので、今は一ヶ谷市立病院に入院している。今までつばめは健康体で生きてきたので、新鮮な体験だった。

 けれど、それも最初だけだ。今となっては退屈極まりない。薄いピンク色の入院着の上にカーディガンを羽織って窓辺に頬杖を付き、ぼんやりと雪を眺めながら、見舞客が来ないかと期待を抱いていた。周防が言っていた通り、政府がつばめや関係者達の生活を保障するように手を回してくれたらしく、医療費は一切請求されなかった。病室もやたらとだだっ広い個室で不自由はないのだが、広すぎて落ち着かなかった。

「あー、暇だよう」

 テレビも飽きた、ゲームも飽きた、売店に置いてある漫画雑誌は一通り買って全部読み終えた。自前の携帯電話でネットサーフィンをしようにも、政府側から使用を制限されている。政府の人間が事情聴取に来ることもあるが、同じ話を何度も何度もしなければならないのが面倒なので、あまり好きではない。病院の中を歩き回って暇潰しをしてみたこともあったが、一ヶ谷市の非常事態宣言が解除されて間もないので、閑散としていることもあって人間の数が恐ろしく少なかった。だから、退屈さは紛れなかった。

 付けっぱなしにしているテレビからは、毎日同じニュースが流れてくる。それは、三〇〇万人を越えるサイボーグ達の突然死と二万人もの人間が突如として溶解した事件についてだった。彼らが死亡した原因は、サイボーグの生体部品に使用されている医療器具に特殊なバクテリアが付着してた、とのことだった。そのバクテリアは、五〇年前に船島集落に墜落した隕石に付着していたものであり、それがサイボーグの生体部品を製造している工場の配管に混入して繁殖した結果、生体部品の表面で繁殖した。異星のバクテリアはアルコールも塩素も紫外線も効かないので、消毒されても生き延びてしまい、人工体液を通じてサイボーグ達に感染した。その結果、サイボーグ達は未知の病原体によって脳が溶解し、死亡してしまった。それ以外の二万人もの人々の死因は、新興宗教団体・弐天逸流がバクテリアを御神体の妙薬だという名目で信者達に与えたため、信者が感染症を起こした、ということになった。

 それが、政府の作り上げた落としどころなのだろう。テレビの中では、アナウンサーが政府の開示した情報だけを並べ立てている。異星のバクテリアによる恐ろしく致死性の高い感染症、通称、N型溶解症の治療法は何一つないため、患者や死体を見つけても接触しないこと、とにかく罹患しないようにと忠告していた。

 N型溶解症が爆発的に感染する切っ掛けを作った、ということで、遺産を巡る争いに関わった企業は全て槍玉に上げられていた。特に大きな責任を被せられたのは吉岡グループで、重役らしき肥えた中年の男がひたすら頭を下げていた。フジワラ製薬、ハルノネット、新免工業は遠からず倒産することになるそうだ。唯一、企業ではなかった弐天逸流もただでは済まず、人間もどきではなかったので生き残っていた幹部達が様々な罪状で逮捕されていた。これで全てが解決するとは思いがたいが、ひとまず遺産を巡る争いは収束するだろう。

 政府の人間の手で焼却された美野里の遺骨ならぬ遺灰は、一通り調査された後に小さな骨壺に詰められて備前夫妻の元へと届けられたそうだ。無事に受け取ったとの報告はあったが、美野里の最後を教えてくれ、とは尋ねては来なかった。それが備前夫妻の出した答えだと察し、今後は備前夫妻に接触するまいと誓った。双方にとって、これが最善の結末だ。触れ合って救われることもあれば、触れ合わなければ報われることもある。

 陰気な内容なので、つばめはチャンネルを変えるべく、リモコンを取った。すると、前触れもなくスライド式のドアがノックされたのでリモコンを取り落としかけた。慌てつつもテレビを消してから応じると、ドアが開いた。

「こんにちは!」

 明るい笑顔と共に入ってきたのは、美月だった。つばめは歓喜し、美月に駆け寄る。

「わぁミッキー、いらっしゃーい! どうしたの、来週もまた興行があるんでしょ?」

「そうなんだけど、お父さんにちょっと無理を言って移動ルートを変えてもらったの」

 余程急いできたのか、美月は軽く息を弾ませている。ダッフルコートの肩には薄く雪が積もっていて、頬は外気の冷たさで真っ赤になっている。つばめはその頬を両手で挟み、ちょっと笑う。

「外、寒いんだねぇ。氷みたいに冷たいよ」

「うん、さむーい」

 美月はつばめの手に自分の手を重ね、笑い返した。一通り笑い合ってから、つばめは美月に椅子を勧めると、美月はダッフルコートを脱いで椅子の背もたれに掛けた。肩に掛けていたトートバッグを探り、中身を出す。

「でね、これ、ちょっと早いけどクリスマスプレゼントにって思って」

 と、美月は可愛らしくラッピングしたものをつばめに差し出そうとしたが、躊躇った。その視線を辿ったつばめは、ベッドサイドの棚にぎっしりと詰め込まれたパンダグッズに気付いた。そして、美月のプレゼントもまた、例によってパンダだと気付いた。半透明のフィルムの中には、丸っこいパンダの貯金箱が包まれていたからだ。

「皆、考えること、同じなんだね」

 美月が気まずげに苦笑したので、つばめは美月に笑顔を向ける。

「うん。でも、全部嬉しい。だってさ、私が確実に喜ぶだろうって考えて、持ってきてくれたんだもん。だから、ミッキーのも嬉しい。お見舞いに来てくれるってだけで嬉しいのにさ、喜ばせようって思ってくれているからもっと嬉しい」

「だったら良かった。んじゃ、改めてどうぞ」

「わーい、ありがとう!」

 つばめは美月からパンダの貯金箱を受け取り、リボンを外して包装を開け、早速棚に並べた。パンダのコジロウだったぬいぐるみを始め、武蔵野が贈ってくれたパンダの置物、一乗寺が贈ってくれたパンダの写真立て、寺坂が贈ってくれたパンダのポーチ、道子が贈ってくれたパンダの湯たんぽ、長孝が贈ってくれたパンダのリュックサック。つばめは皆の思い遣りに感じ入りながら、ベッドに戻って腰掛ける。

「で、ミッキーの方はどう? レイガンドーと岩龍、元気にしている?」

「どっちも絶好調だよ。連戦連勝だし、二人とも、前となんにも変わらない。ありがとう、ムジンを渡してくれて」

「レイガンドーと岩龍の意思だからね、尊重してあげないと」

 つばめは美月の翳りのない笑顔に笑顔を返した。祖父との壮絶な戦いの後、船島集落から浄法寺に引き上げた際に、長孝と小夜子が破損の激しいコジロウを分解しておくために一旦ムリョウとムジンを外した。その時、ムジンは再び三等分になり、コジロウ、レイガンドー、岩龍の人格も綺麗に分かれたのだ。レイガンドーと岩龍が、無事にコジロウとの戦いを乗り越えた証拠だった。その後、二人のムジンはレイガンドーと岩龍のボディに戻され、二人はRECのリングに復帰して大暴れしている。インターネットで配信されている動画も好評で、つばめも配信されてすぐに見ている。大技連発のラフファイトだけでなく、派手な演出とストーリーが面白い。

「りんねと伊織は、こっちに転院してくる予定が延びちゃったんだってさ。この前、周防さんが教えてくれたよ」

 つばめが言うと、美月はトートバッグの中を探ってもう一つのプレゼントを取り出した。

「そっかぁ、残念。もしかしたら、つっぴーと同じ病院にいるかなって思って持ってきたんだけど……」

「そんなもん、どこで見つけてきたの」

 つばめは美月が取り出したものを見、面食らった。ちくわのぬいぐるみだったからである。

「ゲーセンのプライズだったの。うちの社員にね、クレーンゲームが得意な人がいて取ってくれたんだ」

 じゃ、また今度だね、と美月は少々残念がりながら、ちくわのぬいぐるみをトートバッグに戻した。

「りんちゃん、言葉が増えてきたんだってね」

「たまに電話するんだけどさ、その度にお喋りになっているよ。毎日毎日、色んな本を読んでは伊織と感想を言っているからだと思うけど。あの二人、趣味が合うから気が合うんだろうね、きっと」

「だろうね。そういうのってさ、大事だよね」

 美月はちょっと羨ましげに、目を伏せた。誰のことを考えているのか、つばめは触れないことにした。

「シュユさんって、今、どうしているのかな。それ、ちょっとだけ気になっちゃった」

 美月に問われ、つばめはそれに応じた。

「シュユさんはああいう生き物だから、政府も扱いに困っているみたいで、船島集落に近い空き地に建てたプレハブの倉庫に閉じ込められているよ。でも、本人は結構元気で、毎日毎日メール寄越すんだよ。で、今日は何を食べたのかを逐一報告してくるの。文面もふにゃっとしているせいで、なんか、若い女の人のブログみたい」

「威厳のない神様だなぁ」

「でしょー? で、一番好きなのがカレーパンと缶コーヒーだってさ。普通すぎて逆に意外性がない」

「あ、そういえば、前にもそうだって言っていたなぁ。確か、それを食べたのが切っ掛けでニルヴァーニアンが好奇心を取り戻したとかなんとか、まあ、小難しいことを」

 一ヶ月前のシュユとのやり取りを思い出しながら美月が言うと、つばめはふと引っ掛かりを覚えた。カレーパンと缶コーヒーといえば、忘れもしない祖父の通夜の晩に、線香番をしていたであろう伊織に差し入れとして置いてきたものである。だが、あの時点の伊織は人間体ではあったが完全な怪人だったので、L型アミノ酸で構成されている普通の食品は受け付けないはずだ。しかし、明け方には、どちらも空になっていた。となれば、伊織が誰かにカレーパンと缶コーヒーを渡したのだろうが、その相手がシュユだったということになる。だが、あの頃はシュユの影も形もなかったはずでは。と、つばめは脳内で疑問を渦巻かせた。

 概念さえ改変されていなければ、伊織は様子見にやってきた高守信和にカレーパンと缶コーヒーを譲渡した事実を思い出していたはずであり、つばめも高守信和の名が思い当たったはずではあるが、桑原れんげの全力と高守信和の情念で概念が改変されているので、誰もその名を思い出せなかった。だから、子株に相当する高守信和の肉体と味覚を通じて、シュユがチープな食べ物の味を感じ取ったという事実は存在してはいるのだが、誰一人として認識することは敵わなかった。今となっては、高守信和と同化したシュユ本人も、それを思い出せない。

 なので、つばめは心の端に引っ掛かった違和感を取り払えなかったが、いつまでも些細なことで悩んでいたくないので気持ちを切り替えた。美月も同様だった。二人が女子中学生らしい語彙で近況報告を行っていると、再びドアがノックされた。新たな来客は、柳田小夜子と佐々木長孝だった。

「お父さん!」

 つばめは、特徴のない顔立ちの人工外皮を被っていてもそれが父親だとすぐに解った。くたびれた作業着一枚で雪の中を歩いてきたから、というも判断基準の一つではあるが。半分ニルヴァーニアンである父親はあらゆる環境に対して耐性が強いのか、寒さにも強いようだが、見ている方が寒々しいのでせめて上着は羽織ってもらいたい。小夜子は直前までタバコを吸っていたのか、あの渋い匂いが鼻を突いた。つばめは歓喜し、父親に駆け寄る。

「来るなら来るって連絡してくれればいいのに!」

「邪魔をしたか?」

 長孝が美月を窺うと、美月はにっこりした。

「いいえ、全然。気にしないで下さい」

「その分だと、今日中にでも退院出来そうだけどなぁ。そうもいかねぇのが大人の事情ってやつだ」

 小夜子はファスナーを下げてダウンジャケットを脱いだが、その下の服装は相変わらず女っ気がなかった。

「タカさんの方も色々とややこしい事情があるからな。あたしも公務員でいられる間に、やることをやっておかねぇと気が済まないし。でねぇと、いつまでも一緒に暮らせないからな。あんまり焦らすと、ひばりさんが化けて出る」

「ね、お父さん、パンダちゃんがまた増えたんだよ。これ、ミッキーが持ってきてくれたの」

 つばめがパンダグッズの詰まった棚を指すと、長孝は人工外皮の表面を少し曲げた。笑顔に近いものだった。

「ああ。随分と多いな」

「今日は何時までいられるの? すぐに帰ったりしないよね?」

 つばめが長孝の作業着の袖を掴むと、長孝は小夜子に振り向く。

「ああ。出来る限りは」

「今日は届け物をしに来ただけだからな。そんなに長居は出来ないが、その代わり、プレゼントは最高だぞ」

 そう言いつつ、小夜子はスライド式のドアを全開にした。乾いた暖房の空気に廊下の床付近に溜まっていた冷気が混じり、ほんの少し気温が下がった。つばめ以外の入院患者がいない病棟の廊下に、聞き覚えのある駆動音が跳ね返った。重量のある足音が近付いてくるに連れて、つばめは息を詰めた。

 足音がドアの前で止まり、赤いゴーグルがつばめを捉えた。警官ロボット、コジロウだった。あの日の戦いで著しく破損したボディは新品に交換されているが、胸部装甲には黒い片翼のステッカーが貼り付いていた。小夜子は彼のステッカーの部分を、拳で軽く小突いた。

「これ、苦労したんだぞ? なんせ、外装の金型からいじったんだからな。ステッカーじゃなくて、タトゥーみたいにしてやったんだよ。この部分だけ凹ませて塗料を流し込んで、綺麗にコーティングしたんだよ。だから、ちょっとやそっとじゃ傷も付かない。おかげで、今の今まで時間が掛かっちまったんだよ」

 なータカさん、と小夜子に笑いかけられ、長孝はやや顔を逸らした。

「ああ。機体の組み上げと調整は半月前に終わっていたんだが、金型がなかなか上がってこなかったんだ」

「じゃ、後は若い二人でごゆっくりぃー。ふふふ」

 美月は上着と荷物を持つと、足早に病室を後にした。小夜子は長孝の腕を取り、急かす。

「ほらほら、タカさんも」

「そうだな」

 長孝は抗いもせずに、小夜子に引っ張られて病室から出ていった。ぱたん、とスライド式のドアが独りで閉じると、コジロウとつばめだけが残された。つばめは入院着の胸元を握り締め、コジロウに近付いた。どこもかしこも真っ新で艶々していて、戦い抜いた後の痛々しさはなくなっていた。彼はつばめの前で片膝を付き、目線を下げる。

「つばめ。術後の経過は良好か」

「大丈夫だよ。抜糸も大分前に済んだし、体力も戻ってきたし。外に出られないのが退屈だけど。コジロウは?」

「本官の動作に支障はない」

「それだけ?」

 つばめが小首を傾げると、コジロウは首を曲げた。長孝と全く同じ角度で、目線を逸らす。

「強いて挙げるならば、つばめが本官に命令を下せる状態ではなかったため、遂行すべき職務が滞っていた」

「そっか、寂しかったんだ」

 つばめはコジロウのマスクに手を添えて引き戻し、目を合わせると、入院着の胸元を握っていた右手を緩めた。

「コジロウ。これ、見て」

 羞恥心を堪えながら、つばめは入院着の襟元を広げて肌を曝した。コジロウは少し迷ったようだったが、つばめの言葉に従って赤いゴーグルを下に向けた。心臓の真上に刻まれた傷跡は、傷が深すぎた影響でその部分だけ皮膚が変色していた。美野里の爪の形に削られた皮膚は、コジロウの片翼と対になる、翼に似た形になっていた。

「お揃い」

 つばめが恥じらいつつも微笑むと、コジロウは銀色の角張った指先を伸ばしてきた。

「これは……」

「いいよ、触って。もう痛くないし、それにコジロウには触ってもらいたいから」

 つばめはコジロウの大きすぎる手を導くと、発展途上の肉の薄い乳房の間に当てた。真冬の寒さが染みている外装が肌を僅かに粟立たせ、代替品の心臓が跳ねる。コジロウは指を曲げかけたが、力を抜いた。

「あのね」

 少し身を乗り出し、コジロウのマスクフェイスに顔を寄せながら、つばめは言葉を探った。彼と会えない間に、何度文面を考えては訂正したことだろう。だが、回りくどいのは似合わないし、得意ではない。相手がコジロウのような性格なら、尚更ではないか。つばめは胸の傷跡に触れているコジロウの手を、両手で握る。

「私、コジロウが好き。パンダだった頃から好きだったけど、今はもっと好き。男の人として、好きなんだ」

 この手に何度守られ、何度救われ、何度支えられただろう。つばめは、合金製の手を慈しむ。

「他の誰にも渡さない。全部が全部、私のもの」

「本官は」

 コジロウはつばめの傷跡に触れ、もう一方の手でつばめの背中を支え、軽く引き寄せる。

「引き続き、現状の職務を続行する。それは本官の判断によるものであり、つばめの命令によるものではない」

 もうちょっと色気のある語彙はないのか、とつばめは内心で零したが、これが今のコジロウの精一杯なのだと思うと微笑ましくなった。つばめはコジロウの手を胸から外させ、彼の滑らかなマスクに頬を寄せた。

「五〇年後には愛しているって言わせてあげる。私がどれだけコジロウが好きか、思い知らせてやる。コジロウが地球に来てからは五〇年経っているわけだから、もう五〇年、一緒に過ごせば一〇〇年になる。そうしたら、九十九神になれるじゃん。そうなったら、コジロウはもう道具じゃない。ただのロボットでもない。私の」

 その次の言葉は、白いマスクに塞がれた。五〇年も掛からないかもね、と頭の片隅で考えながら、つばめは彼の太い首に両腕を回した。ずっとずっと傍にいた。だから、これからもずっとずっと一緒にいよう。つばめはコジロウの胸部装甲に刻まれた黒い片翼に触れ、そっと撫でた。冷たくも心地良い感触の奥に、確かな熱が宿っていた。

 その熱に、鼓動を重ね合わせた。

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