ペインは剣より強し
障子戸から、控えめな朝日が注いでいた。
今朝もまた、雪が降り続いているからだろう。つばめは暖かな布団の中で二度三度と寝返りを打ったが、不意に布団を引っ張り返されたので驚いた。が、すぐに思い出した。昨日の夜、船島集落に再び戻ってきた皆と寄せ鍋を囲んで大いに食べ、喋り、笑った。野菜も魚介類も山盛りに用意していたのに、男達はそれを綺麗に平らげ、締めの雑炊も一滴の汁も残さずに食べ切ってしまった。そして、寺坂が溜め込んでいた酒を飲みに飲んだ。
さすがに酒盛りまでは付き合えないので、つばめと美月はすっかり宴会場と化してしまった本堂から引き上げた。その際、せっかくだからとりんねも連れ出してやった。伊織と離れるのは不安そうだったが、つばめと美月の記憶が蘇ってきているのか、抗わなかった。道子は男達の相手をするために本堂に残ったので、つばめが自室にしている和間で少女達は語らった。近況報告を兼ねたお喋りをしているうちに寄せ鍋で膨らんだ胃も落ち着いてきたので、つばめが暇潰しに作ったパウンドケーキやクッキーを振る舞い、夜通し語り合った。りんねは片言ではあるが、懸命に意思を伝えてきたので、つばめと美月は彼女の短い言葉に熱心に耳を傾けた。
そして、いつのまにか寝入ってしまったらしい。つばめはいつになく盛大に寝乱れた髪を掻き乱しながら、布団の右半分を占領している美月と、毛布にくるまって繭のようになっているりんねを見下ろし、欠伸を噛み殺した。暖かな布団が名残惜しかったが、そろそろ朝食の支度をしなければ。何せ、人数が多いのだ。
つばめは寝間着から部屋着に着替えてから、御菓子が一つ残らず平らげられた皿と三人分のマシュマロココアが入っていたマグカップを盆に載せ、台所に向かった。板張りの廊下は強張った冷たさが宿り、厚手の靴下を履いた足でも底冷えしそうだった。分厚い雪雲越しに、頼りない朝日が差し込んできていた。コジロウの姿が見当たらないのは、最早日課となった玄関先の雪掻きに出ているからだろう。
台所に到着すると、道子が家事をしていた。昨夜の宴会の名残である大量の汚れた食器をシンクに積み重ね、黙々と洗っていたが、つばめに気付くと朗らかな笑顔を見せてくれた。
「おはようございます、つばめちゃん」
「おはよう、道子さん。で、皆、どのぐらいまで起きていたの?」
つばめが盆を差し出すと、道子はそれを受け取り、水を張った洗い桶に浸した。
「朝の三時頃までは粘っていたんじゃないですかねー。私は途中で抜け出して、長孝さんのお手伝いと適当な機体の調達に出ちゃったので、最後までは付き合いませんでしたけど。寺坂さんはお体がサイボーグになったせいで、前ほどウワバミじゃなくなりましたけど、それでも飲んでいましたね。一乗寺さんもがばがばと、武蔵野さんは明日のことを考えちゃうほど真面目なので付き合う程度に、小夜子さんも程々でしたね。あの人はチェーンスモーカーですけど、お酒の方はそんなに強くはないみたいですね。伊織さんは書斎に行って本を読んでいました。昆虫にとってはアルコールは猛毒ですからね、賢明な判断です」
「お父さんは?」
つばめが冷蔵庫の中身を確かめながら問うと、道子は皿の水気を布巾で拭いた。
「飲んでも酔わないんですって。だから、酒が勿体ないって仰って、夜通しでコジロウ君の調整をしていましたよ」
「そっか」
「シュユさんは外に出ましたよ。フカセツテンの様子を確かめるから、とかで」
「何時頃に出ようか」
昨夜の鍋の残りである白菜とネギで味噌汁を煮立てて、安かった時に一匹丸ごと買い込んでおいたものを捌いて冷凍しておいた塩鮭を焼いて、鍋に入れようと思って買っていたが入れず終いだった焼き豆腐を在り合わせの野菜と一緒に炒めて、大根のぬか漬けを切って、と、つばめは献立を考えながら言った。まるで、どこかに遊びに行くかのような言い回しだが、それ以外に言い方が思い付かなかったのだから仕方ない。
「その前に、皆さんを起こさないといけませんね。でないと、始まるものも始まりません」
一通りの洗い物を片付けた道子は、つばめちゃんは御料理をお願いします、と言って台所を後にした。これから本堂で雑魚寝している大人達を起こしに行くのだろう。つばめは道子の苦労を内心で労いながら、今し方考えた料理を作るべく、手を動かし始めた。しばらくすると、道子とりんねも起きてきて台所に顔を出した。
「おはやぉ」
長い髪が乱れ放題の美月が欠伸混じりに挨拶すると、まだ眠たそうなりんねも短く言った。
「う」
「おはよう。顔、洗ってきなよ。タオルは洗面所に置いてあるから」
つばめが手を休ませずに応じると、美月は申し訳なさそうに眉を下げた。
「顔洗って髪を結んできたら、手伝うね。ごめんね、何もしないで」
「いいっていいって、お客さんなんだし、ミッキーはりんねは一緒に待っていて、朝御飯、すぐに作っちゃうから」
「む」
不満げにりんねが首を横に振ったので、つばめは笑った。
「じゃ、後で何か手伝ってもらうね」
「ん」
りんねは誇らしげに頷くと、美月と連れ立って洗面所に向かっていった。白菜とネギに火が通ってきた煮汁に味噌を溶きながら、つばめは胸の奥がじわりと熱した。りんねは敵ではなかったのだ。昨夜のお喋りを通じて、りんねがどんな少女なのかを改めて思い知った。少し人見知りするところはあるが、好奇心旺盛で自己表現がはっきりした年頃の少女だった。伊織の話になると真っ赤になるほど照れるが、伊織が自分以外の誰かに認められているのがとても嬉しいらしく、伊織の話題の間は終始笑顔だった。美月のRECでの仕事にも興味があるらしく、美月がしきりに話すレイガンドーの強さに目を輝かせていた。つばめも気になるのか、色々なことを聞き出そうとしてきた。単語ですらない言葉ではあったが、りんねの意思は確実に伝わってきたので、つばめは話せる範囲で答えた。
美月に寄れば、昨日のリニア新幹線の車内ではりんねはひどく人見知りをして美月ですらも遠ざけていたそうだ。だが、一晩経ってみれば、りんねはつばめにも心を開いてくれている。今までの経緯が経緯なので、仲良くなれるとは思ってもみなかったので、りんねと対等に触れ合えるのが素直に嬉しかった。
朝食が一通り出来上がったので、つばめは美月とりんねに盛り付けを任せてから、本堂に向かった。さすがに皆は起きているだろうと判断したからである。だが、ふすまを開けると、散々たる状況が広がっていた。
「酒臭ぁ……」
立派な御本尊の前に空の酒瓶がいくつも転がっていて、罰当たり極まりない光景だった。つばめが思わず嘆くと、軟体動物のように弛緩している一乗寺を起き上がらせようと、道子が四苦八苦していた。
「あ、つばめちゃん。一乗寺さん、ひっどいんですよー」
「他の人達は?」
つばめが大人達を見回すと、当てになりそうなのはまともに起きている武蔵野ぐらいで、寺坂は言うに及ばず酔い潰れていて、小夜子も青い顔をして突っ伏している。肝心な時に当てにならない大人達である。
「こんなんで本当にいいのか、良くない、戦うどころじゃねぇ……」
武蔵野は心底呆れているのか、半笑いになっていた。つばめは小夜子を小突いてみるが、唸っただけだった。
「これ、どうしよう」
「柳田はともかく、一乗寺はまともにしてやらんとならんな。大事な戦力だ。こいつ、自分の体の構造が変わったことを忘れて前の調子で飲みやがったんだ。つくづくどうしようもねぇ、緊張感の欠片もねぇな」
武蔵野は毒突いてから腰を上げ、一乗寺を抱えて引き摺っていった。余計なものを出すだけ出させるのだろう。道子はひっくり返っている寺坂を本堂の隅に引き摺っていき、服を広げて首の裏にあるコンソールを操作して人工臓器を解放させると、人工体液のパックを入れ替えた。アルコールを抜くには、その方法が一番手っ取り早いからだろう。かつてサイボーグだっただけのことはあり、手際良く、あっという間に終えてしまった。
「あら、このボディって新免工業から図面をパクった会社のじゃないですか。道理で骨格が似ていると思いました。で、見た目は汎用型の人型なのに中身は戦闘用ってことは、SPとかスパイとかが使うやつですね。そんなものが置いてあったってことは、りんねちゃんと伊織さんが収容されていた病院は堅気じゃなかったってことですね。あら、こんなところに仕込み武器が。せっかくだからセーフティを解除してあげましょう、ついでにマニュアルもダウンロードしてインストールしてあげて……んふふふふ」
道子は独り言を漏らしながら、寺坂をひっくり返してはそのボディをいじり回していた。見てはいけないものを見てしまった、と気まずくなったつばめは足音を殺して仏間を後にした。
朝食を食べ始められたのは、それから小一時間過ぎた頃だった。おかげで、せっかく盛り付けた料理が冷めてしまい、支度をした美月とりんねがむくれていた。伊織も書斎から下りてきたので、本堂の座卓に並べた朝食を皆で揃って食べた。二日酔いに見舞われた面々は、渋々口に入れていた。長孝も同席してくれた。
父親と会話すべき内容が上手く探れず、つばめは斜向かいに座っている触手の異形を窺い、温くなった味噌汁を啜っていた。触手の尖端を二股に割って指に似たものを作って器用に箸を操り、つるりとした顔に裂け目を作ってその隙間に料理を押し込んでいる長孝は、視線をどこに向けているのかがさっぱり解らない。表情もない。だから、長孝が何を考えているのかはさっぱりだ。それ故、つばめは父親に話を切り出せなかった。
「コジロウのムジンに、レイガンドーと岩龍のムジンを溶接し終えた。動作も確認した。ムリョウの動力が制限無しに機体に加わることによって発生する不具合を考慮し、チューンナップを大幅に変更しておいた。外装は現状のものを流用したから変わりはないが、内部のギアとトルクは全て取り替えた。摩耗していた緩衝材も同様だ。センサー類も柳田が手に入れてくれた新品に交換した。交換していない部品は注油した。数値の上では何も問題はない」
歯もないのに大根のぬか漬けを景気良く咀嚼した長孝は、凹凸のない顔を娘に向けた。
「何か質問はあるか」
そんなことを言われても、何を聞き返せばいいのか。つばめが口籠もると、顔色の悪い小夜子がぼやいた。
「メシ喰ってんだから、仕事の話なんかすんなよ、タカさん。つか、あたしがこんなんになっちまったから一人で全部やってくれたのはありがたいし、その方が確実だけどさ、それはねーだろ。さすがに」
「ないない」
やる気なく白飯を頬張っていた一乗寺が同意すると、悪酔いが抜けた寺坂は長孝を一瞥した。
「もうちょっと、気楽に行こうぜ。でねぇと持たねぇよ、俺らも、あんたも」
「お前らは気を楽にしすぎだ。どいつもこいつも戦闘前に潰れやがって」
早々に食べ終えた武蔵野は食器を重ね、緑茶を啜っていた。
「仕事の話に絡めねぇとガキと向き合えねー、ってのは俺の親父だけじゃなかったんだなぁ」
焼き豆腐と野菜の炒め物を顎で噛み砕きながら伊織が言うと、道子は目を丸めた。
「あらまあ珍しいですね、伊織さんがお父さんのお話をするなんて。あんなに嫌っていたじゃないですか」
「生きてた頃はクッソウゼェし、マジムカついたけど、死んじまったら爪の先ぐらいは寂しいっつーかでさ」
だから、最近思い出すんだ、と伊織は言いながら、りんねが寄越してきた焼き鮭の皮を一口で食べた。
「クソ親父はよ、子供が欲しかったから俺を作った、っつってた。その時は、何言ってんだクソが死ねよ馬鹿が、ってしか思わなかったんだけど、今はなんか解らないでもねーし。なんとなく生きてなんとなく死ぬだけじゃ、残るものは何もねぇから。俺らみてぇなのは遺伝子も残せねぇし、世間に認められるわけでもねぇし、有益なものを作れるわけでもねぇし。だから、クソ親父は自分がこの世に生きた爪痕でも残したかったんじゃねーのかな、って。クソ傍迷惑でウザ過ぎてどうしようもねーけど」
残った白飯に味噌汁を掛けて雑に混ぜてから、伊織はそれを呷り、一息で胃に収めた。
「あんたもそうだろ」
伊織の黒光りする複眼に、触手の異形が映る。だが、長孝は答えなかった。
「でなかったら、惚れた女との間に子供なんか作らねーよ。んで、作ったからには、きっちり責任取りやがれ。てか、親の因果を子に報わせすぎなんだ。俺もそうだし。そりゃ、自分の知らないところで産まれて、余所の家に預かってもらっているうちにでかくなった娘なんだ、どう扱っていいのか解らねーってのは察しが付く。けどなぁ、やり方ってのがあるだろ。武蔵野のおっさんでも参考にしてみろ」
と、伊織が唐突に武蔵野を指し示したので、武蔵野は噎せ返った。ひとしきり咳き込んでから、言い返す。
「俺ほど当てにならんものはないだろうが。いきなり、何を言い出すんだ」
「お節介だなぁ」
伊織の忠言はありがたいが、気恥ずかしい。居たたまれなくなったつばめが俯くと、りんねが笑んだ。
「ん」
「うん、まあ、そうだね。私もお父さんと何を話せばいいのか、まだ解らないし……」
つばめは空になった食器を積み重ね、箸を横たえた。が、ふと我に返る。
「で、でも、今はそんなことを悠長に話している場合じゃないでしょ!
フカセツテンとお婆ちゃんをどうにかしに行くんだから、もうちょっとこう、緊張感ってものが必要だと思うんだけど!」
「少年漫画のラストバトルじゃねぇんだから、そんなに気張ることもないと思うぞ」
寺坂は大根のぬか漬けを囓ってから、雪の降り止まない外界に視線を投げた。
「俺達はニュートラルだ。誰かの味方ってわけでもねぇ、誰かの敵ってわけでもねぇ、やりたいようにやるだけだ。が、クソ爺ィはそれを大いに邪魔してくれた。だから、片を付けに行く。クテイを口説くためには、あの愛情ってものを大いに勘違いしたクソ爺ィを排除してやらないとならねぇからな。俺は不倫だけはしないタチだ」
「えー、まだ言うのぉ、それ?」
一乗寺は口では嫌がったが、表情は穏やかだった。
「でも、よっちゃんの言う通りかも。俺はつばめちゃんを暗殺しに来る奴がいないかどうかを見張っておくついでに、フカセツテンとクソ爺ィをどうにかする。御仕事をきっちり終わらせないと、すーちゃんに会えなくなっちゃうかもしれないんだもん。だから、ついでだよ」
「ひばりの墓に案内してやりたいところだが、あんなデカブツがあったんじゃ、通り道が塞がっている。だから、俺はフカセツテンをどうにかしなきゃならん。佐々木長光とクテイを始末するのは、その範疇のことだ」
武蔵野は緑茶を飲み干し、湯飲みを置く。伊織は顎を開き、威嚇の表情を作る。
「あのクソ爺ィがいる限り、りんねがまたちょっかいを出されないとも限らねーし。だから、手っ取り早く殺す」
「うん、そうかも。私も、つっぴーに会いたいから来たんだ。全部終わったらレイと岩龍をうちの会社に連れて帰ってやらなきゃいけないから、ここにいるんだ。だって、来週もRECの興行があるんだもん」
美月が同調すると、りんねは伊織を指した。
「る」
伊織と一緒にいたいから、という意味だろう。確かに、考えてみればそうだ。遺産を巡る争いに翻弄されてきた面々が一堂に会しているが、皆、つばめを中心に物事を捉えているわけではない。同じ場所で同じ行動を取ろうとしているから、皆の目的が一致しているように見えるが、全く別のベクトルに向いている。つばめはそれを知ると、納得すると同時に安堵した。
皆、自分自身の人生を生きている証拠だからだ。
父親とのぎこちなさが抜けないまま、朝食と片付けも終えてから、つばめは出掛ける支度をした。いつも通りに防寒装備を調えてスキーウェアに着替え、長靴を履き、コジロウが除雪しておいてくれた玄関先に出て皆を待った。間を置いてから、支度を終えた面々が玄関先に出てきた。武蔵野は武器の詰まった背嚢を背負って厚手の戦闘服に身を固め、一乗寺も似たようなものだった。寺坂は一張羅だと言い、なぜか法衣姿だった。布地の面積が大きいので、雪道ではかなり動きづらそうだ。伊織は何も身に付けていなかったので、見ている方が寒くなった。最後にやってきた道子もメイド服姿だったが、足元は洒落たデザインの寒冷地仕様のブーツだった。
「じゃ、行こうか」
つばめは玄関先に待機していたコジロウに向き直ると、コジロウは赤いゴーグルから漏れる光量を強めた。
「了解した」
「やあ」
雪にまみれながら近付いてきたのは、異形の神、シュユだった。
「首尾は上々ってほどじゃないけど、フカセツテンに入る突破口は開けそうだよ。船島集落の南西部にある山間に、ほんの少しだけど空間が薄い部分があるんだ。そこをつばめさんが遺産を使って貫けば、なんとか」
「南西部?」
聞き覚えのある方角に武蔵野が聞き返すと、シュユは巨体を起こす。その拍子に、触手に積もった雪が落ちる。
「うん。りんねさんが御嬢様だった頃に、武蔵野さんに教えてくれた、船島集落の死角ともいえる方角だよ。現地に行く前に言っておくけど、クテイの眷属や遺産はフカセツテンを擦り抜けられたはずだけど、クテイの眷属でもなければ遺産でもない普通のものは、実体化しているフカセツテンに圧砕されているとみて間違いない。だから……」
「大丈夫だよ。パンダのぬいぐるみは、また直せばいいんだから」
だから安心して、とつばめが念を押すと、シュユは腰を曲げてつばめに顔を寄せた。
「だったら大丈夫だね、きっと。フカセツテンが内包している異次元から異物反応を検知している。だから、長光さんと美野里さんが先に来ているとみていいね。クテイの生体組織の管理者権限は君の半分しか効力がないけど、それでも遺産を操れることに変わりはない。長光さんは、つばめさんを苦しめようと、あらゆる手を打ってくるだろう。僕は異次元と物質宇宙の均衡を保つために外に残るから戦力にはなれないけど、どうか頑張って」
「いってらっしゃい、つっぴー」
玄関先に出てきた美月が、不安げながらも手を振ってくれた。りんねも同じ仕草をする。
「ら」
「やることやったら、すぐに帰ってこいよ。待っていてやる」
顔色がいくらか戻ってきた小夜子は、つばめの前に手を差し出した。そこには、滑らかな光沢を備えた銀色の針が横たわっていた。これは、もしかすると。つばめが小夜子を見上げると、小夜子は子供っぽい笑みを見せた。
「あたしに出来ることっつったら、これくらいだ。安心しろ、本物のアマラだ」
「そんなことしたら、小夜子さんは」
「いいんだよ。やっぱりさ、あたしは公務員なんて性に合わねぇよ。で、辞める口実にちょろまかしてきたっつーことにしてくれよ。大丈夫だ、当分は気付かれない。アマラに近い電気抵抗に加工した針を、政府の倉庫に置いてきたからな。素人目にはまず解らん。バレたとしても、あたしはどうなろうと後悔しない」
小夜子は寝乱れた髪を少し整えてから、つばめを見下ろして目を細めた。
「あんたらと出会えて、楽しかったからさ」
「……うん、私も」
アマラを受け取り、針の先端を肌に刺さないように気を付けながら、つばめはアマラを握り締めた。小夜子の体温が宿り、ほのかに暖かかった。小夜子がどんな人生を歩み、どんな経緯を経て、どんな思いを抱いてこの場に来ることを選んだのかは、つばめには想像も付かない。けれど、小夜子がつばめと出会えて無駄ではなかったと思ってくれたことが、たまらなく嬉しかった。もう少し時間があれば、小夜子とも良い友人になれていたかもしれない。
「それでは、いってきます」
つばめは三人に深々と頭を下げてから顔を上げ、玄関と屋内の狭間にある風防室に父親の姿を認めた。作業着の両手足の袖から触手を垂らしている長孝は、表情の一切出ない顔で娘を見下ろしていた。目も鼻も口も耳もないはずなのに、視線を感じる。だから、つばめはその視線に迷いなく視線を返した。
「いってきます」
「ああ。気を付けて」
それだけ言うと長孝は身を反転させて、半端に生えた生体アンテナが布地を盛り上げている背を見せた。
「俺自身には何の力もない。故に、コジロウを造った。レイガンドーを造った。岩龍を造った。武公を造った。それが少しでも、助けになるのならと。だから、コジロウを信じてやってくれ。僅かでも、俺を信じてくれるなら」
「当たり前だよ! だって、お父さんだもん!」
つばめが声を張ると、長孝の背中がびくつき、触手が揺れた。
「……ああ」
そう言い残し、長孝は屋内に戻っていった。素直じゃねーなータカさんは、と小夜子が笑い出すと、釣られて美月が笑い、りんねも釣られていた。つばめは父親の本心を垣間見られた嬉しさで胸が詰まりそうだったが、これから立ち向かうべきものを思い描いて気を引き締めた。コンガラの入ったトートバッグを肩に掛け、ナユタをポケットに入れておき、小夜子が政府の手中から奪取してきたアマラを手に、つばめは出陣した。
フカセツテンの装甲が比較的薄い場所への移動手段は、道子がいずこからか遠隔操作してきた雪上車だった。コジロウは自力で移動出来るので先頭を任せ、後方は道子がやはり遠隔操作している人型重機に委ねた。未だに吹雪が止む気配はない。分厚いフロントガラスに激突してはワイパーに拭い去られる雪を見つめながら、つばめは今一度決意を固めた。何が起ころうと、誰がどうなろうと、必ず帰ってこよう。
やっと、父親に会えたのだから。
キャタピラで走行する雪上車に揺られ、道なき道を進んでいった。
船島集落の南西部に向かう細い道路はあったのだが、連日の豪雪で埋め尽くされており、ガードレールまでもが埋まっているほどだった。雪の量が多すぎて斜面に設置されている雪止めもあまり役に立たず、それを乗り越えた雪の固まりがいくつも道路に転がっていた。車は一切通らなかったので雪面は柔らかく、キャタピラが踏み締めると大きく沈む場所もあり、後少し傾けば道路の外側に転げ落ちてしまう、と危惧する場面も何度もあった。だが、その都度、道子が遠隔操作している人型重機が支えてくれたので落下は免れた。
船島集落の南西部は、道が途絶えていた。つばめはコジロウが外から開けてくれたドアから顔を出し、吹き下ろしと共に襲い掛かってきた雪に思わず目を閉じたが、気を取り直して目を開けた。見渡す限り白、白、白、で遠近感が狂ってしまいそうだった。比較対象になりそうなものは山に生えている杉の木ぐらいだが、その杉の木も大量の雪に埋もれているので長さが解りづらい。そして、雪に包まれながら聳えているのが、フカセツテンだった。
「で、どこから入ろうか」
つばめは雪上車から出てきた皆に振り返ると、武蔵野が顔をしかめた。
「詳しい座標までは教えてくれなかったからな、あの神様は。親切なんだか不親切なんだか」
「でも、どうしてこの辺だけフカセツテンの外殻が薄いんですかねー? 勝手口ってわけでもないでしょうに」
メイド服のエプロンを雪風に翻しながら、道子は身軽にステップを昇って雪上車の屋根に立った。
「付け入る隙があるだけマシじゃねーの」
白一色の世界では際立って目立つ黒の外骨格を外気に曝し、伊織は複眼を上げた。
「見当が付かないわけでもない」
武蔵野が雪上車が踏み固めてきた雪原に振り返ると、外に出てきた寺坂がその視線を辿った。
「ああ、そういうことか」
「何が?」
つばめが聞き返すと、外に出てから背嚢を担ぎ直した一乗寺が言った。
「たぶん、この辺にひばりさんのお墓があるってことじゃないの? フカセツテンって元々はクテイのものでもあってシュユのものでもある。だから、二人が拒否反応を示さない相手が存在しているのであれば、どっちもガードが手薄になるってことなんじゃないかなーって。ね、むっさん」
「まあ、そんなところだ」
武蔵野が視線をフカセツテンに戻すと、一乗寺がちょっと拗ねた。
「てぇことはひばりさんって人間じゃない連中に好かれまくりなわけ? なんか狡くない?」
「ひばりさんは幸福とは言い難い人生をお送りになった女性ですから、人間の世界に馴染めないニルヴァーニアンの気持ちがよくお解りになっていたんだと思いますよ。私の私見に過ぎませんけど」
道子の言葉に、寺坂は法衣の裾に付いた雪を払いながら笑った。
「タカさん見てりゃ、その辺はなんとなく解るぜ。ああいう気難し屋を気取ったナイーブな奴って、他人との間にゴツい壁を作るくせして、本心じゃ優しくされてー大事にされてーって人一倍思っているもんだからな」
「お父さんに対してひどくない?」
つばめは寺坂の不躾な物言いにむっとしたが、今はそんなことを議論している場合ではないので、フカセツテンに近付くことにした。フカセツテンの外殻は崖の斜面から五メートルほど離れた位置にあり、表面は尖っている部分はあれど手足を掛けられるような突起はなく、飛び移るのはまず不可能だ。かといって、東京湾に沈んでいる最中に散々攻撃を受けてもびくともしなかったので、爆弾の類でどうにかなるわけではない。ならば、答えは一つだ。
「よっしゃ、ナユタで壊そう」
つばめがポケットからナユタを取り出すと、コジロウがつばめの頭上に身を屈めてきた。
「本官の助力が必要か」
「大丈夫。この子の使い方は覚えたから」
だから、ナユタを信じるだけだ。つばめは分厚い手袋を填めた両手でナユタを包み、握り締めた。つばめの感情の変動を糧にして膨大なエネルギーを生み出す青い結晶体は、指の間からほのかに暖かな光を放った。昨夜の余韻が心中にこびり付いているからだろう、祖父に対する怒りや憤りを遙かに上回る熱量で、父親に会えた嬉しさが込み上がってくる。そこに、祖母に会いたいという一念を加え、撚り合わせ、収束させる。
両手を組んだ拳を真っ直ぐに前に突き出し、フカセツテンの外殻に向けた。つばめを中心にして迸った青い光は雪を蒸発させながら直進し、結晶体に激突し、炸裂した。雪の粉塵が舞い上がると共に熱波が押し寄せ、周囲に積もった雪を円形に溶かしてしまった。果たして成功したのか、と若干不安になりながら、つばめは両手を開いて熱を持ったナユタを解放した。吹き下ろしが煙を拭い去ると、フカセツテンの外殻には直径五メートルほどの大穴が開いていた。新免工業の大型船で目の当たりにした壮絶な破壊力も、上手く使えば程々の威力で済むようだ。
「お、おおお……」
つばめが感嘆すると、武蔵野が肩を叩いてきた。
「よくやった。次はあの無重力を作ってくれ」
「えぇ!?」
急にそんなことを言われても。つばめが困惑すると、一乗寺は自動小銃を肩に添えながらにんまりする。
「だってさぁ、橋を造っている時間も材料もないじゃーん。それに、みっちゃんが連れてきた子も持って行かなきゃ、みっちゃんの戦力が半減しちゃうじゃーん。さくっとよろしくね」
「ナユタを使うのって難しいんだよ。コンガラでなんとかなるよ、きっと」
つばめは肩から提げたトートバッグを指すと、コジロウが平坦に述べた。
「コンガラを使用するには、コンガラが複製すべき対象物、及び複製する対象物の詳細な情報が必要だ。しかし、この近辺には人型重機の走行に耐えうるほどの強度を持った素材は見当たらない」
「早くしろよ。でねーと、俺、冬眠しちまうかもしんね」
クッソ寒ぃ、死ね、と伊織が苛立たしげに爪を振り回し、雪を無意味に切り裂いた。
「そりゃ、まあ、そうだけどさぁ」
コジロウまでもが味方ではなかった。渋々、つばめは再びナユタを両手で握った。出来るだけ広く、丸く、柔らかく、エネルギーを放つように願った。良くも悪くもストレートなナユタの出力を押さえながら安定させるのは厄介で、感情の加減も難しい。嫌々では過重力が生まれかねないし、かといってやけに高いテンションでは反重力が行きすぎて空に吹っ飛ばされてしまうかもしれない。つばめは平常心を保つように尽力し、半径十数メートルの空間を重力から解放してやった。これで、移動手段は確保出来た。
最初にフカセツテンの大穴に向かったのは武蔵野だった。彼は雪上車の屋根を蹴って移動し、自動小銃を構えて穴の内側に向けて危険がないかどうかを確認した後、手を振った。続いて道子に守られてつばめが移動し、その次に一乗寺、寺坂、伊織と移動し、最後に残ったコジロウは雪上車を道路に据えてから、人型重機の機体を後ろから押して運んできた。人型重機が無事着地したことを確認してから、コジロウはつばめの元に戻ってきた。
フカセツテンの外殻は、予想以上に分厚かった。ナユタが貫いた穴は綺麗な筒になっていて、摩擦があまりにも少ないので、雪が付着した長靴では滑りそうになった。がたごとと人型重機のキャタピラが足元を踏み鳴らす音が響き渡り、やかましかった。つばめはコジロウの手を握りながら、薄暗く、長いトンネルを進んでいった。
淡い光が差し込む出口に到着すると、急に視界が開けた。そこには、うららかな春の景色が待っていた。つばめは暖かな空気と日差しに驚き、目を剥いた。船島集落に来て間もない頃に目にした景色と、全く変わらなかった。分厚いスキーウェアの下からは汗が噴き出し、煩わしい。長靴のつま先に付いた雪が溶け、一滴の滴に変わる。穴の出口は地面に接していて、今度は空中を移動しなくても済んだ。武蔵野と道子に続いて中に入ったつばめはスキーウェアを脱ぎ、汗の浮いた肌を曝し、一息吐いた。
「ショートパンツにしてきて良かった」
つばめは長靴を脱ぎ、スキーウェアのズボンを脱いでいると、一乗寺が咎めてきた。
「なんでそんな格好にしたの。もっと防御力のあるものにしなよ、最低限ジーンズだよ」
「だって、ズボンは全部洗濯しちゃったんだもん。で、あの天気でしょ、乾かないんだよ」
「乾燥機でも買えよ。俺んちの洗い場には、乾燥機ぐらい置けるスペースはあるだろ」
寺坂の真っ当な意見に、つばめは言い返した。
「寺坂さんちで暮らしていた間の生活費は、道子さんの貯金なんだよ? そんなにほいほい使えないって」
「昨日は鍋の仕込みで忙しかったから、私も洗濯物まで手が回らなかったんですよねー」
苦笑混じりの道子は、人型重機の操縦席の屋根に腰掛けていた。中には入らないらしい。
「だったら、アイロンでも使えよ」
伊織の意見されて道子は、ごもっともです、と肩を竦めた。
「とにかく行くぞ。話は後だ」
武蔵野に急かされて、皆、歩き出した。軽装になったつばめは、フリースのパーカーにデニムのショートパンツを着ており、足には防寒用に着込んだ厚手のニットタイツを履いたままだった。寒さに耐えるための服装だったので、常春の気温の中では無性に暑苦しく、長靴もスニーカーに変えたかったが、そんなものは持ち合わせていないので無理だった。仕方ないのでパーカーを脱いで、スキーウェアが詰まってぱんぱんに膨れているトートバッグに強引に詰め込み、上半身を長袖シャツだけにした。
フカセツテンの内部は、在りし日の船島集落だった。但し、建物は一つ残らず潰れていた。一乗寺が教鞭を執っていた分校、合掌造りの古い民家、つばめの概念を操作していた桑原れんげが自分の家だと言っていた瓦屋根の家、つばめが相続したと思い込んでいた佐々木邸。コジロウの手を強く握り、つばめは唇を引き締めた。
ナユタが開けた穴は、分校の裏手に繋がっていた。一乗寺が侘びしげに見つめる潰れた分校の脇を通り、狭い運動場を通り、集落の唯一の一本道に入る前に、先頭を歩いていた武蔵野が手を挙げた。止まれ、との合図だ。自動小銃を構えた武蔵野に続いて一乗寺も素早く銃口を上げたが、引き金には指を掛けなかった。二人の肩越しに、狙いを付けられた相手を認めたつばめは、それが誰なのかが解らなかった。菜の花がまばらに咲く道路には、少年が佇んでいた。とても小柄で、顔色はひどく青白く、小枝のように細い手足で、どことなく彼女に似ていた。
「……ショウ?」
少年の名を呼んだ一乗寺は、自動小銃を下げた。その言葉で少年の正体を察し、寺坂は忠告する。
「あれがお前の弟に似ていたとしても、十割の確率で人間もどきだ。でなきゃ、アソウギの化け物だ」
「うん、解る、解っているけど」
一乗寺の横顔は凍り付き、いつもの明るい態度やふざけた口調は拭い去られていた。過去の業から未だに解放されていないのだ。その業が何なのか、つばめは理解した。理解させられた。理解したくなくてもするしかなかった。つばめは素手でナユタを握り締め、荒く脈打つ心臓を押さえるが、動揺が収まらない。視線が、意識が、感情が、記憶がザッピングさせられる。つばめは何者かに脳を掻き混ぜられるような不快感に襲われ、頭を抱えた。
「おねえちゃん」
ショウと呼ばれた少年が言うと、つばめの口からも同じ言葉が漏れた。
「おい、つばめ、どうした」
寺坂に支えられるが、つばめは自分の意思では抗えなかった。再び、少年が喋る。
「お姉ちゃんは僕の全てだ。僕はお姉ちゃんの全てだ。だってそうだろう、僕とお姉ちゃんは同じ屑の中の屑の女の腹からひり出されたんだ、触手の化け物が屑の中の屑の女を孕ませたから出来た世界の廃棄物なんだ、だから僕とお姉ちゃんは同じじゃなきゃならない、お姉ちゃんと僕は愛し合わなきゃならない」
またも、同じ言葉がつばめの口から流れ出してくる。おぞましさで背筋が逆立ち、つばめは口を塞ぐが、それでは何も防げなかった。少年が一乗寺への粘つく執着を語るたびに、つばめも同じ言葉を語ってしまう。つばめと少年をしきりに見比べる一乗寺の面差しには動揺が浮かび、ふてぶてしいほどの余裕は消えていた。
「黙れ」
そう言う前に、武蔵野は発砲した。少年は避けようともせずに頭に喰らい、仰け反る。
「ぎぇあああああぁっ!」
突如、激痛がつばめの頭部を貫いた。頭蓋骨と脳と神経と眼球と頭皮と髪が硬い異物に抉られ、砕かれ、痛みが全神経を逆立てる。寺坂の腕の中、無傷の頭を抱えて仰け反ったつばめは懸命に吐き気を堪えた。理解する、させられる、祖父が何をしたいのかを。遺産とその産物は互換性で繋がっている、もちろん管理者権限所有者とも繋がっている。だから、遺産の産物に与えられたあらゆるダメージが全てつばめにフィードバックするように細工を施している。クテイにつばめの苦しみを捕食させるために、愛する妻を満足させたいがために。
「どうしろってんだ、こんなの、どうしろってのぉ……」
ひどく喘ぎながら、つばめは苦痛のあまりに涙が浮かんだ目元を押さえた。
「何がどうなってやがる、教えろ」
寺坂に乞われ、つばめが途切れ途切れに答えると、武蔵野はぎょっとした。
「じゃあ、あいつを攻撃すればそのダメージが全部つばめに来るのか!? なんてこった!」
「殺せと言われれば殺せなくもないよ。俺はもう、すーちゃんしか興味がない。ショウのことは好きだったけど、ガキの頃の好きと大人になってからの好きはかなり違うからね。でも、何度も撃ったら、つばめちゃんはショック死すること間違いなしだよ。俺も何度も撃たれたから解るよ、死にそうなぐらい痛いもん」
一乗寺は自動小銃を握り、頭を半分吹っ飛ばされながらも起き上がる少年に、冷徹な視線を注いだ。
「無視して前に進みますか?」
道子は人型重機から飛び降りて寺坂からつばめを受け取ると、寺坂は異を唱える。
「あいつをスルーして進んだって、どうせ後から後から似たようなのが出てくるさ。とっとと攻略する方法を見つけるためにも、まともにやり合っていった方がいいと思うぜ」
「ですけど、つばめちゃんが」
道子は血の気の引いた顔色のつばめを案じると、つばめは深呼吸した。まだ、頭が痛い。
「寺坂さんの言う通りだよ。だから、どうにかするしかない」
だが、どうやって。つばめは逃げ出したい思いを必死に堪えながら、歯を食い縛って、考えた。肉体的な苦痛から逃れられるように出来たとしてもつばめの精神に負荷が掛かることは免れないだろう。実際、ショウと呼ばれた少年が味わっている絶望や悲しみが、つばめの心中に滑り込んでくる。妨げる術はなく、退ける力もない。
お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃあん、とショウが一乗寺を呼ぶ。一乗寺昇ではなく、一乗寺皆喪としての一乗寺を乞うている。その叫びは弱々しく、一乗寺の精神をざらつかせる。つばめの心中もざらついて、愛して止まない姉が生き延びているばかりか、まともな人生に向かおうとしているのが許せないという情念も伝わってくる。
「俺が喰おうか。あいつ、クッソ拙ぃけどな」
伊織がしゃりっと爪を擦り合わせると、一乗寺はそれを制して自動小銃を構え直した。
「いおりんは手ぇ出さないで。俺が一発で仕留める」
それが出来たとしても、つばめには痛みが訪れる。それこそ、即死しかねないダメージが及ぶ。生温い春の風が、少年がぶちまけた脳漿と血の臭気を早々に傷ませ、瑞々しい草木の香りに腐臭を添える。不意に一乗寺しか捉えていなかったショウの視線が震え、伊織に定まった。それはつばめの視界にも映り、ショウの感情が反れる。
「あ、ああ」
遺産の内に残っていた情報を元に作られた紛い物でも、本物だった頃の恐怖はショウの精神に色濃く焼き付いているらしい。それを目聡く感じ取った伊織は下両足の爪でアスファルトを蹴り、高々と跳ねた。誰が止める間もなく、黒い肢体は少年の目の前に滑り込み、鞭のようにしなる下右足で少年を打ち、飛ばした。つばめの体にも相応の衝撃が訪れ、背骨が砕かれそうな激痛が加わる。胸を反らして手足を突っ張り、つばめは呻いた。
「ぐぇあっ!」
「おい、伊織! 止めろ! つばめが死んじまう!」
武蔵野は伊織を制止しようと叫ぶが、伊織は攻撃の手を緩めなかった。少年の落下地点に先回りして受け止め、大きく振り回してから地面に叩き込む。その遠心力、反動、苦痛、ありとあらゆるものがつばめに返ってくる。その度につばめは苦痛と闘い、道子の柔らかな人工外皮に包まれた腕に爪を立てる。伊織は少年の首を易々と切り裂いて放り投げ、首から下も放り投げ、空中で激突させる。ぐちゃりと互いを潰し合った肉体は落下し、肉塊と化す。
道子が渡してくれたハンカチを噛み締めていたおかげで舌を噛み切らずに済んだが、つばめは意識が飛びそうになっていた。全身が引き裂かれそうな痛みは消えず、目の奥がちかちかする。目眩がする。吐き気がする。両足に力が入らない。冷や汗がべっとりと滲んで、シャツが肌に貼り付いている。コジロウは、と上目に窺うと、コジロウは両の拳を固めて直立していた。きっと、誰よりも歯痒い思いをしているのは彼だろう。
表情の窺えない横顔、白いマスクフェイス、赤いゴーグル、銀色の手、胸部装甲に付いた片翼のステッカー。彼の姿を目にしていると、不思議と心中が穏やかになった。苦痛の嵐が失せたわけではないのに、なんだか気持ちが楽になる。次第に冷静さを取り戻したつばめは考えた。遺産同士に互換性があるのは、同じ世界から来たもの同士なので通じ合えているのだろうが、人間同士は何で通じ合うのだろう。同じ話題、同じ視点、同じ経験、などといったもので似た価値観を分かち合う。ならば、少年とつばめの共通点はお姉ちゃんだ。
「コジロウ」
つばめは汗と唾液が染みたハンカチを口から外し、掠れた声で名を呼ぶと、コジロウは振り向いた。
「所用か、つばめ」
「手、貸して」
「了解した」
つばめが汗ばんだ手を差し出すと、コジロウは迷わずに二本の指を差し出してきた。それを、力一杯握る。
「大丈夫。だから、頑張るよ」
「だが、つばめ」
「そりゃ、誰だって、大好きなお姉ちゃんが大人になったら寂しいよね。解るよ。私もそうだったもん」
道子の手を借りて立ち上がったつばめは、コジロウを心身の支えにしながら両足を伸ばした。肉塊と化した少年は奇妙に蠢きながら肉を寄せ集め、いびつな怪物になりながらも立ち上がろうとする。一乗寺を求めてくる。それはいじらしささえあり、濁った血と崩れた肉を寄せ集めた指を懸命に動かし、姉に縋ろうとする。お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん、少年は繰り返す。つばめもかつては繰り返していた。美野里が好きでたまらなかったから、つばめには美野里しかいないのだと思っていたから、美野里のいる世界しか知らなかったから。だが、今は違う。
「先生、撃って」
つばめが一乗寺に乞うと、一乗寺はひどく穏やかな面差しで自動小銃を構えた。
「痛いけど、いいの?」
「痛いけどさ、ある程度は痛い目に遭わなきゃ、ろくな大人になれないよ」
「うん、それは真理だね」
一乗寺は自動小銃の設定を連射に切り替え、銃床を肩に当て、引き金を絞り切った。途切れずに放たれた銃弾が粘膜に突き刺さる硝煙を作り出し、いびつな弟が砕け散る。肉片と骨片と血飛沫が波状に広がり、日差しの熱を吸い込んだアスファルトに放射状に広がった。さよなら、ありがとうお姉ちゃん、とつばめは心中で呟いた。
思った通り、激痛は訪れなかった。今、つばめの内で美野里は死んだ。つばめを愛してくれた、優しいお姉ちゃんの美野里は死んだ。愛されようとするがあまりに愛してやれなかった、姉代わりの女性は死んだ。つばめは一乗寺が撒き散らした薬莢を踏み締め、歩き出した。振り返れば未練に駆られるから、前だけを見据えた。
戦うべき相手は祖父でも祖母でも遺産でもない、自分自身だ。
船島集落の中程まで進んだが、一度、行軍を止めた。
理由は、つばめがニットタイツが吸った冷や汗の気色悪さを我慢出来なくなったせいだ。この非常時に些細なことを気にしている場合か、とつばめ自身も思うのだが、べとついた羊毛といつまでも乾かない汗のコンボはどうしても耐えられなかった。なので、人型重機の運転席に入り、ショートパンツを脱いでからニットタイツを脱いだ。靴下など持ち合わせていないので素足で長靴を履くことになってしまうが、そればかりは仕方ない。
素肌を曝すと、途端に清々しさが訪れた。つばめは汗を吸ったニットタイツを丸め、破裂寸前のトートバッグの中に強引に押し込んだ。が、そこでふと思い付いた。コンガラとナユタとアマラさえ持ち歩いていればいいのだから、荷物まで一緒に持っていく必要はないのではないか。つばめはトートバッグの底から金属製の箱であるコンガラを引っ張り出し、自前のハンカチで包んでおいたアマラを取り出し、ナユタと共に携えた。
「あー、やれやれ」
つばめが外へ出ようとハッチを開けると、コジロウが外側から閉めてきた。
「え、なんで?」
つばめが戸惑うと、コジロウはワイヤー入りの強化ガラスの窓越しにつばめを見下ろした。
「現状においては、つばめの心身に危険が及ぶ可能性が高い。よって、人型重機の操縦席に搭乗していれば負傷する危険性が軽減する」
「でも」
外に出ないことには、とつばめは再度ハッチを開けようとした時、コジロウの背後を発光する飛行物体が白煙の糸を引きながら駆け抜けた。一秒と経たずに着弾し、炸裂し、鋭い衝撃波が人型重機を軋ませる。今度は何事だ。つばめはフロントガラス越しの外の様子を窺ったが、謎の物体を発射してきた方向がよく見えなかった。仕方ないので人型重機の頭部のカメラを操作し、モニターに映し出してみると、見覚えのない細身のサイボーグの姿が映し出された。スレンダーな体型と昆虫じみた細長い手足は神名円明にどことなく似ているが、そのサイボーグの顔に凹凸はなく、鏡面加工が施されていて人型重機の機体が歪んで映っていた。
「ねえコジロウ、これって誰?」
「敵対勢力だ。よって、本官は対処行動に出る」
「だから、それって誰なの?」
つばめがフロントガラス越しにモニターを指してコジロウに問うと、コジロウはその質問に答える前に、人型重機の外装を蹴り付けて、結晶体に覆われた空に吸い込まれんばかりの高さに跳躍していた。人型重機を遮蔽物にして武蔵野と一乗寺が発砲したのだろう、銃声が重なった。だが、無反動砲を担いでいるサイボーグは被弾しても無傷で、細身の体には馴染まない迷彩柄の戦闘服に穴が開いただけだった。
「痛っ、これ、ちょっとだけど痛い!」
先程と同じく、サイボーグが被弾するたびにつばめも同じ場所に痛みが訪れた。脆弱な生身の肉体でしなかった少年に比べると耐久性が抜群に高いおかげなのか、自動小銃の射撃を受けても小石をぶつけられた程度の痛みしか起きなかった。あの苦しみに比べれば大したことはないとはいえ、やはり痛いものは痛い。
「舐めプじゃないですかー、こんなのー。ガチ勝負しましょうよー」
妙に間延びした言葉遣いのサイボーグは無反動砲を投げ捨て、背後に山積みになっている銃器の中からガトリング式の機関銃を取り出してバレッタベルトを装着し、見るからに重たそうなバッテリーボックスにコードを繋いで電源を入れた。両手でハンドルを握ったサイボーグは、銃身を上下させて無邪気に照準を動かす。
「ねー、武蔵野さーん」
照準が武蔵野に定まり、その親指がスイッチを押し込むかと思われた瞬間、白と黒の影が舞い込んだ。コジロウは台座に据え付けられている機関銃を毟り取り、小枝のようにへし折ってから、バレットベルトに詰まっている銃弾を握り潰した。つばめは人型重機のカメラアングルを操作してコジロウを捉えるが、彼の背中しか見えず、細かい状況までは掴めなかった。コジロウの影に覆われたサイボーグの青年は、少々後退る。
「えー? 俺がやり合いたいのはパンダじゃなくてー、俺に良い感じの人生論を教えてくれなかった武蔵野さんなんですけどー。お呼びじゃないにも程があるんですけどー」
ゴーグルから放つ光量が増したのか、サイボーグの鏡面加工された顔面が赤い光を撥ねる。
「大体ですねー、あんなに偉そうなことを言っておいて結局何もしないで俺の死にオチってのはつまんなさすぎっていうかー、テンプレの展開ですらないっていうかー、総容量がテラバイトもあるパッチを当てなきゃならないレベルのガチクソゲーっていうかー、訴訟モノっていうかー、まー、そんな感じでー?」
サイボーグは銃器の山から自動小銃を二挺引き抜き、両手で構える。
「だからまずー、適当な誰かの死亡フラグを回収しますかー」
二つの銃口が上がり、人型重機を隔てて皆に狙いを定める。だが、コジロウはそれを許さなかった。鮮やかな回し蹴りで自動小銃を一度に二挺薙ぎ払い、更にサイボーグの胸を蹴り、腹を蹴り、最後に痛烈な左ストレートを頭部に叩き込んだ。もちろん、それらの痛みも衝撃もつばめに伝わってきた。特に痛いのが下腹部で、生理痛の何倍も重たい痛みが疼いた。強かに頭を殴らせたせいだろう、ひどい目眩もする。
「うえぇ」
二度目ともなれば慣れると思ったが、辛いものはやはり辛い。つばめが背を折り曲げて呻いていると、滲んだ涙で歪んだ視界にサイボーグの視界が紛れ込んでくる。自分自身ではないにしても、コジロウに何度も何度も殴られる光景を見せられるのはきつい。だが、サイボーグもかなりの手練らしく、コジロウの絶え間ない打撃と蹴りの合間に武器の山から次なる銃を調達しては撃ち、武蔵野らを追い詰めていた。
先程の要領で解決策を見出すにしても、相手の正体が解らなければ意味がない。つばめが脳震盪を起こしそうな打撃の嵐にじっと耐えていると、操縦席の外に道子がやってきた。つばめはハッチを開けようとするが、道子は首を横に振った。その必要はないということだろう。つばめが手を下ろすと、操縦席のモニターから道子の声が聞こえてきた。ハッチを開けさせてはつばめを危険に曝してしまうと判断したからだろう。
「で、道子さん。あいつって何者?」
つばめは苦痛のあまりに喉の奥に迫り上がる異物に辟易しながら問うと、道子は答えた。『鬼無克二さんという方で、武蔵野さんの同僚だったサイボーグです。生い立ちが結構アレな方で、父親は新免工業の社長さんの神名円明さんなんですけど、それだけです。で、色々あって自殺に追い込まれて、バラバラに砕けた肉体は神名さんが作り上げた人間もどきの培養プラントで使用され、一時期は鬼無さんのクローンの傭兵が世界中に散らばっていて戦っていたんです。で、その後、神名さんは鬼無さんに殺されてしまいまして』
「もういい、いいって」
『敵の情報は出来るだけ多く掴んでおいた方が、つばめちゃんが有利になる可能性が』
「いいから!」
つばめが声を荒げると、道子は渋々引き下がった。つばめは歯を食い縛って喘ぎを殺しながら、モニターの中でコジロウと戦い続けている鬼無克二という男を見据えた。彼の生い立ちは不幸の連続であり、この世に自分という存在を産み落とした親を心底恨まなければ自我を保てないほど、打ちのめされていたのだろう。それなのに、父親は鬼無を陥れて死なせたばかりか、死んでからも尚、擦り切れるほど利用し尽くした。誰に対しても攻撃的になっていなければ、また誰かに裏切られ、陥れられ、殺されると思っているからだ。ああ、解る、解る。
「解るんだったらー、なんで俺達にも気を向けてくれなかったわけー?」
不意に、つばめの間近で鬼無が答えてきた。つばめがぎょっとして顔を上げると、つい今し方までコジロウと交戦していたはずの鬼無が、操縦席のフロントガラスの前に仁王立ちして銃を向けていた。
「ねえ、ねえ、ねえ? なんであいつらには共感してくれてパーティに入れてやったのにー、なんで俺らみたいなのにはそういうイベントがないんですかー? フラグ立てないんですかー? 不公平過ぎじゃないですかー?」
一発、二発、三発。強化ガラスに鉛玉が埋まって放射状にヒビが走り、細かな破片がつばめにも及ぶ。つばめはコンガラを膝に抱えてナユタとアマラを握り締めるが、これをどう使えば鬼無を止められるのか。そもそも、鬼無はどうやってここまで移動してきたのか。一拍遅れて人型重機に戻ってきたコジロウが鬼無の背後を取るが、鬼無はハンドガンの銃口をつばめに向けたまま、コジロウに振り返る。
「お前やコジロウはそりゃ主人公格だろうしー、あいつらも準レギュラー枠なんだろうけどー、だからって何かと優遇されるのはおかしすぎじゃないですかー、主人公補正が効き過ぎじゃないですかー。大体ー、俺だって俺の人生の真ん中を突っ走って生きてきたわけでー、ラノベ化漫画化アニメ化されればー、不条理バイオレンス復讐劇みたいな感じで割と面白いかなーって思っているんだけどー。なんでいつも、俺はそうじゃないんだろうな」
唐突に語気を強張らせた鬼無は、コジロウにハンドガンを向け、撃った。
「ああ俺ばっかり俺ばっかり俺ばっかり! いつもいつもいつもいつもいつも割を喰って、喰って喰って喰って喰って喰いまくってこの有様! どうしてこう、ろくな目に遭わないんだろう! いつか良いことがあるって、俺が幸せになるルートがあるはずだって、俺が報われる日が来るんだって、俺がまともに生きられる場所があるんだって、俺のことを好きになってくれる人がいるはずだって、はずだって、はずなのに、はずだったのにさぁ!」
鬼無は何発も連射して弾切れを起こしているはずなのに、ハンドガンの引き金を引き続けた。金色の小さな円筒、薬莢が無数に飛び出しては転がる、転がる、転がる。涙を流せない機械の体の男の、金属の涙のように。
「まともってなんだよ。ちゃんとした親ってなんだよ。普通ってなんだよ。なんだよなんだよなんなんだよ、俺にそれを教えてくれる奴はいたか、いなかったよ、してくれそうな人はいたけど、俺からは離れていったんだ! そもそも俺のことなんか気にしてくれていなかったんだ! だから、あの船上戦で俺を撃ちやがったんだ! あいつだけは信じてもいいかもしれない、今度こそまともな人生にルート変更出来るかもしれない、軌道修正出来るフラグが立つかもしれないって思っていたのに、俺だけだったんだ、俺のことを考えているのは、俺しか俺のことなんか考えてもくれなかったんだ! ああ、だから何もかもどうでもいい、何もかも死んでしまえ壊れてしまえぇえっ!」
銃声と共に淀みなく吐き出される、血反吐を含んだ叫び声につばめは身を丸めた。まともな親がいないということがどれだけ不安で、足元が不確かになるのかは痛いほど解る。だから、自分を支えるものが欲しくなった。つばめの場合は現金で、鬼無の場合は拳銃と暴力だ。コジロウから間接的に殴られた体も痛いが、心が更に痛い。
だが、それとこれとは別だ。つばめは深く息を吸ってから詰め、遺産を抱き締めた。一番武器になりそうなナユタを右手で思い切り握り、振り翳すと、銃撃で割れて白くなったフロントガラスが簡単に吹き飛んだ。細かなガラスの破片が散る中で立ち上がり、つばめは自分自身と鬼無に向けて、腹の底から叫んだ。
「黙れぇええええええっ!」
「なんだよ、やっと俺を気にしてくれたと思ったのに言うことはそれかよ、マジかよ最悪すぎる」
鬼無は半笑いになりながら、無限に銃弾が生まれる拳銃を挙げた。半分現実であって半分非現実だから、銃弾に限りはないのだろう。つばめはコジロウを一瞥し、動くなと命じてから、鬼無に対峙した。銃口が真っ直ぐつばめの額に向かい、細長く平べったい指が黒光りする引き金に掛けられる。
「で、どうすんの。俺を口説いて今更仲間にする? それとも薄っぺらくて向こうが透けて見えるレベルのガキ臭さ丸出しの御説教でもすんの? でなかったら、俺を殺す? 無駄だよ、この空間の中じゃ俺は死なない。っつーか、俺は概念の一部になっている。あんたらの記憶の中にいる俺達が具象化されているだけだから、何度倒したところで無意味なんだよ。あんたら自身が死ななきゃ、俺達自身も消えないから」
「そんなんだから嫌われるんだ、友達がいないんだよ、誰も好きになってくれないんだよ!」
つばめは銃口にナユタを向け、鬼無から逆流してきた感情の奔流と戦いながら、自分自身に言い聞かせる。
「捻くれてもいいことなんて一つもない! 外面だけを良くしたって疲れるだけだ! 他人が信用出来ないのも解る、したくないのも解る、でも他人は他人だ、自分のことを考えられるのは自分だけだ! だから、自分で自分を肯定出来るようになれば、それだけで大体のことはなんとかなるもんだぁーっ!」
ナユタから広がる球状の青白い光の中、つばめは体を浮かび上がらせ、ナユタを銃口に捻り込む。他人と自分との折り合いを付けるためには、そう思うのが一番簡単だからだ。一閃、収束した青白い閃光が迸り、鬼無の拳銃と頭部を貫通して空中を駆け抜けていった。遙か彼方のフカセツテンの外殻に着弾し、白煙が上がる。
鏡面加工された頭部を備えたスレンダーなサイボーグは、その顔には何も映せなくなっていた。顔面に穴が穿たれて内部機関が露わになり、煮えた脳がぐじゅりと零れ落ちてきた。脱力した鬼無は両足を折って膝を付き、倒れると、動かなくなった。つばめは震える手で熱したナユタを包み、光を収めると、項垂れた。
「ごめん。でも、こうするしかないんだ」
その気持ちは解るが、解りすぎるから、相容れない相手もいる。もしもつばめが備前家に受け入れられず、どこぞの孤児院にでも放り込まれていたら、鬼無と同等に捻くれていただろう。だから、下手に優しくしたり、あなたのことを大事に思うよ、と言っても真っ当に受け止めるわけがない。むしろ、馬鹿にされたと逆上するのが関の山だ。
「つばめ」
鬼無の遺体を跨ぎ、コジロウはつばめに手を差し出してきた。
「大丈夫、大丈夫だから」
コジロウの手を取り、つばめは人型重機の操縦席から外に出た。長靴の底でガラスの破片を踏み砕き、無惨な死に様の鬼無に罪悪感を抱いたが、力任せに押し殺した。全然大丈夫じゃない、もう帰りたい、戦いたくない、自分の嫌なところなんて見たくない、そう言ってコジロウに縋り付きたかった。けれど、出来なかった。ここまで来て弱音を吐いては、皆を散々苦しめた意味がない。死に物狂いで遺産を手に入れた意味がない。
人型重機の上から見下ろす船島集落は、つばめの心情とは裏腹にのどかだった。異次元を作り、保っているのはつばめではないからだ。己の中と外の落差に負けそうになったが、つばめはコジロウに頼んで抱えてもらって、人型重機から地上に戻った。鬼無との交戦を終えた面々は、つばめとコジロウに駆け寄ってきた。
「無茶しやがって」
武蔵野に荒く頭を撫でられ、つばめは少し気が抜けた。
「ああでもしないとダメだったからさ」
「にしたって、やりすぎだろ。ああいうのは、俺らの仕事だ」
何のために付いてきたと思ってやがる、とぼやきながら、寺坂は借り物のサブマシンガンを下ろした。
「で、これ、弾切れなんだけど。どうすりゃいいの?」
「あーもう、貸してよ。これだから素人は」
一乗寺は寺坂の手からサブマシンガンをもぎ取ると、空になったマガジンを外し、背嚢から取り出した銃弾をその中に詰めていった。武蔵野も自身の自動小銃のマガジンを外し、スペアに付け替える。
「しかし、鬼無とやり合ったせいで随分と無駄弾を散らしちまったな。わざわざ担いできたってのに」
「じゃ、今度こそコンガラの出番じゃないですか? 多少性能は劣化しますけど、誤差の範疇ですよ」
よろしくお願いします、と道子はつばめに一礼し、銃弾が詰まった紙箱を差し出してきた。
「そういえば、アマラ、どうしよう。前みたいに道子さんが使う?」
つばめはコンガラの底を銃弾の箱に当てると、道子の手のひらに載った箱が増殖し、地面に落ちた。
「それはちょっとお勧め出来ませんね。お気持ちはありがたいんですが。私も遺産の産物の範疇に入りますから、長光さんの作戦によっては私もおかしなことになりかねません。ですから、アマラは引き続きつばめちゃんの手元にあった方が安心ですね。いざという時には、遠慮なくお使い下さい」
「使うって言っても、使い方が解らないんだけどなぁ」
つばめはポケットからハンカチを出し、アマラを眺めた。その間にも銃弾は箱ごと複製されていて、いつのまにか道子とつばめの足元には箱が山盛りになっていた。それを一箱拾った武蔵野は、真新しい銃弾を取り出して入念に眺め回し、出来を確かめる。
「まあ、まともに撃てそうではあるな。撃てるだけでもマシだ」
「で、伊織は? どこ行っちゃったの?」
人型軍隊アリの姿がないことに気付いたつばめが辺りを見回すと、一乗寺は肩を竦めた。
「チームワークもクソもないんだよ、いおりんって。だから、放っておいたらいいんじゃないのー? スタンドプレーで死んだとしても、自己責任だよ。9パラばっかりってのもアレだし、他の口径の弾も作ってよ」
ほれライフル弾、と一乗寺が笑顔で差し出してきた紙箱に、つばめはコンガラを当てようとした。だが、突如として現れた黒い壁に遮られた。どこから降ってきた、或いは生えてきたのだろうか。つばめはコンガラを抱えて後退り、それが何なのかを悟ったが、悟った直後に黒い長方形の壁に飲み込まれた。皆の声が黒い金属板に隔てられて遠ざかり、背後で蓋が閉じた。逃げ出そうとして強かに額をぶつけたつばめは、鈍い痛みに呻き、うずくまる。
タイスウに閉じ込められてしまった。
強かに額をぶつけ、目が覚めた。
つばめは我に返って顔を上げると、ぼやけた視界に見慣れない景色が映った。大きな黒板に傾斜を付けた形に並べてある机、そして洒落た制服に身を包んだ生徒達。目立つワッペンが胸元に付いたダークグレーのブレザーに臙脂色のスカーフを襟元に締め、ブレザーよりも少し明るいグレーのチェック柄のプリーツスカート。
「どうしたの? 貧血?」
心配げにつばめの顔を覗き込んできたのは、その洒落た制服を着込んだ美月だった。
「ああ……ええと……」
今し方まで、つばめはフカセツテンで死闘を繰り広げていたはずではなかったのか。だとしたら、ナユタやアマラはどこにある。つばめは慌てて服のポケットを探ろうとして、気付いた。自分もまた、洒落た制服を着ている。記憶が正しければ、確か、これは吉岡りんねが着ていたものだ。だとすると、ここは一体。
「具合悪いんだったら、御屋敷の人に車を回してもらいなよ」
美月はつばめの額に手を添え、熱はないね、と笑んだ。耳慣れない言葉に、つばめは思わず聞き返す。
「……御屋敷?」
「じゃ、私、これから部活があるから。またね」
美月は手を振って、軽やかにスカートの裾を翻しながら駆け出していった。つばめはその背に手を振り返したが、疑問の奔流に襲われていた。これは悪い夢なのか、それとも先程までの全てが悪い夢なのか、或いは祖父が遺産の力を使って見せている幻影なのか。だとしても、何のために。
額の痛みと混乱でふらつきながらも、つばめはとりあえず下校しようと決めて教室から出た。廊下には生徒の数に見合ったロッカーがずらりと並んでいて、つばめはスカートのポケットから鍵を出し、鍵の番号と照らし合わせて自分のロッカーを探した。619、との番号札が付いたスチール製の箱を見つけ出したが、きょとんとした。
「え」
ロッカーには、吉岡つばめ、と書いた名札が付いていたからだ。吉岡ってあの吉岡であってあの吉岡以外の吉岡じゃないよね、とつばめは目眩すら起こしそうになりながら、恐る恐る鍵を差し込んだ。すんなりと錠が開いたので、扉を開けてみた。制服のデザインに合った革製の通学カバンとジャージが入ったスポーツバッグ、教科書やその他諸々の私物も入っていた。教科書の裏表紙にもやはり、吉岡つばめとの名前が書いてあった。しかも、つばめ本人の字だった。すると、通学カバンの中で携帯電話が鳴ったので、つばめは慌てて取り出した。
着信名は設楽道子とあり、その名を見て少しほっとした。何が何だか解らないが、道子が身近にいるのは確かなようだった。つばめは透き通った液晶モニターが特徴的な携帯電話を操作し、受信する。
「もしもし、道子さん?」
『御嬢様ですか? 美月さんから連絡を頂きましたので、車でお迎えに上がります』
「御嬢様?」
『そうですよ、御嬢様は御嬢様以外の何物でもないじゃありませんか。それでですね、御夕飯なんですけど、奥様がお作りになるそうですよ。今日も御仕事でお忙しいのに』
「奥様?」
『奥様は奥様ですって。十五分後に正門前に到着しますので、お出でなさりませ』
そう言い残し、道子は電話を切った。ますます訳が解らない。つばめは通学カバンとスポーツバッグを肩に掛け、ロッカーの鍵を閉め、言われた通りにしてみようと校内を歩いた。やたらとだだっ広い校舎で、デザインが全体的に西洋風だった。階段は幅が広く、吹き抜けがあり、宗教画めいたステンドグラスも填っている。窓越しには時計塔の姿も見え、目を凝らさなければ見渡せないほど広大なグラウンドでは、生徒達が部活動に勤しんでいる。
まるで、学園ものの少女漫画のようではないか。つばめは校舎の豪華さに辟易しながら歩いていたが、他の生徒と擦れ違うたびに挨拶され、その度に挨拶を返さなければならなかった。それが心底煩わしかったが、挨拶を返すだけで相手の生徒達はきゃあきゃあと騒いでいたので、無反応でいるのは居たたまれなかったからだ。
廊下の壁に貼られている順路に従って進み、昇降口に至った。上履きから外履きに履き替えようと自分の靴箱を探し、扉を開けると、何かが雪崩れ落ちてきた。それは、古式ゆかしいラブレターの数々だった。それも一通二通ではなく、二〇通以上はありそうだった。つばめはなんだか胸焼けがしてきたが、雑に扱っては送り主に失礼なので、封筒をまとめて通学カバンに入れた。すると、靴箱の群れの奥から黄色い悲鳴が上がった。私の手紙を受け取ってもらえただけで嬉しい、との声も聞こえた。ということは、つばめはいわゆる学園のアイドルなのか。
いやいやまさかな、それだけは困るな、と内心でぼやきながらつばめが昇降口から出ると、メイド服を着た女性が待ち構えていた。女性型アンドロイドのボディも記憶の中と全く同じ、設楽道子だ。つばめは安堵し、駆け寄る。
「道子さん!」
「お待ちしておりました、御嬢様。では、参りましょう」
道子はスカートの両端を摘んで広げて膝を折り、一礼してから、つばめに寄り添って歩き出した。昇降口から正門まで向かう間にも、思い詰めた表情の生徒達が駆け出してきてはつばめに手紙やプレゼントを渡そうとする。男子も女子も先輩も後輩も関係なく、皆が皆、つばめに思いを寄せているようだ。それが、気色悪くないわけがない。
正門前のロータリーに駐まっていた自家用車は銀色のメルセデス・ベンツだった。道子が後部座席のドアを開けてくれたので乗り込んでから、つばめは心底ぐったりして変な声を漏らした。すると、運転手が嘆いた。
「おいおいどうした、その顔は。それでも世界に名だたる大企業の御嬢様か?」
「あぁ?」
つばめが目を上げると、運転手の制服を着てはいるが、武蔵野に間違いなかった。
「何してんの、こんなところで。致命的に似合わないんだけど」
「何って、御嬢様の運転手だろうが。今の俺には、これといって仕事の当てがないからな」
武蔵野の形相は記憶の中となんら変わらない柄の悪さで、古傷も目立っているが、右目は義眼ではなかった。
「右目、どうしたの」
「どうしたって、何が」
武蔵野に訝られ、つばめは更に混乱した。後部座席の反対側に道子が乗り込むと、ベンツは軽やかなエンジン音を奏でながらロータリーを滑り出ていった。車窓を流れる景色は東京都心で、天を衝かんばかりの高層ビル群には吉岡グループの社名がいくつも見えた。この分では、オフィス街のビルのほとんどは吉岡グループの傘下の会社が所有しているのだろう。つばめは靴箱に入っていた手紙の束を出すと、道子がそれを受け取り、広げた。
「皆様には、後日、御礼をいたしますね。どのような品を御用意いたしますか?」
「どのような、って?」
つばめが聞き返すと、道子は微笑んだ。
「御神託、護符、或いは我が社の自社製品の無償提供となりますが」
「それ、吉岡グループの仕事なの? 新興宗教みたいじゃん!」
つばめが驚くと、ベンツは交差点で一時停止した。バックミラー越しに、武蔵野がつばめを捉える。
「それがどうかしたのか」
「どうしたもこうしたも、ってか、なんでそんなことになってんの!? ねえ!」
つばめが道子を詰問すると、道子はつばめを押し戻して座り直させてから、笑顔のままで語った。
「御嬢様、いえ、つばめちゃんが長光さんとの争いに屈したからです。フカセツテンの内部に突入した私達は、長光さんの蛮行を阻止すべく善戦したのですが、長光さんは私達を追い詰め、つばめちゃんに瀕死の重傷を負わせてしまったのです。死に間際のつばめちゃんから膨大な感情を採取した長光さんは、それを一滴も残さずにクテイ様にお与えになりました。そして、クテイ様は物質宇宙でお目覚めになり、管理者権限のお力も取り戻され、クテイ様は私達の過ちをお許しになりました。もちろん、つばめちゃんの過ちも寛大なお心でお許しになりました」
道子の笑顔は翳らない。つばめは薄ら寒くなり、後部座席の端へと身を引く。
「何、言ってんの?」
「つまりだ、クテイ様は人類の導き手になられたんだよ」
緩やかにアクセルを踏み込み、発進させながら、武蔵野は心なしか晴れやかな口調で言った。
「遺産を徹底的に利用して改変されたんだよ、物質宇宙の概念は。改変前の物質宇宙がどんなものだったのかは、遺産の産物でもなんでもない俺には解らんが、この体に付いた古傷の多さから察するに、ろくでもない世界だったことは間違いない。右目がどうのと言っていたが、ということは、改変前の物質宇宙では俺は右目を潰しても尚戦い続けていたようだな。全く、信じられんよ」
「そうですよねー。クテイ様にお近付きになることが出来たおかげで、人類は平等な価値観と公平な概念と安定した精神と発達した肉体を手に入れることが出来たんですから、感謝しない方がおかしいですよ」
「ああ、そうだとも。クテイ様がいなければ、御嬢様もどうなっていたことやら」
姿形は見知った二人なのに、中身は全くの別物だ。つばめは腹の底に嫌なものが疼き、唇を歪める。
「奥様と旦那様が再婚なさるようにクテイ様が御神託を下されたから、つばめちゃんは御嬢様になられたのですよ。それがなければ、今頃、つばめちゃんはどうなっていたでしょうね」
「誰と誰が再婚したの?」
「あらまあ、お忘れになったんですか? 奥様は文香様ですよ、クテイ様とクテイ様の御世話を担う御社に効率的に御布施をお恵みするために事業展開している、吉岡グループの経営者ではありませんか。旦那様は長孝様です、つばめちゃんの実の御父上ですよ。クテイ様と同じお姿をしておられますから、クテイ様の素晴らしさが届いていない愚劣な下々に布教活動を行っておられるんです。どうです、御立派でしょう?」
「お父さんが、なんで?」
「そりゃ、御神託を受けたからだ」
バックミラーを経て、武蔵野の鋭い視線がつばめを射竦める。
「でも、お父さんは」
つばめが腰を浮かせかけると、武蔵野は畳み掛けてきた。
「長孝様は色々と御苦労なさったから、つばめを育ててやるには再婚するのが一番だと考えたんだ。そこにクテイ様の御神託だ、迷いも吹っ切れる。つばめは管理者権限があるんだ、クテイ様の御加護と御忠告があろうと、管理者権限の恩恵に与ろうとする奴が掃いて捨てるほど現れる。毎日毎日つばめにラブレターを寄越している連中が正にそうだ、クテイ様により近付き、より深い感情を捧げたいがためにつばめを踏み台にしたいんだ。クテイ様に感情の一切合切を捧げれば、極楽に行けるからだよ」
「極楽ぅ?」
つばめが声を裏返すと、道子が上機嫌に頷く。
「はあいそうなんです、クテイ様に人類を分け隔てなく慈愛を下さいますけど、クテイ様の御寵愛を受けるためには当然ながら供物が必要なんですよ。それが感情なんです。元手はただですし、放っておいても際限なく出来るものですから、皆、喜んで捧げてくれるんですよ。もちろん、負の感情も全部。おかげで世界は完璧に平和です」
「そんなの、気色悪いだけじゃんか」
つばめが舌を出すと、武蔵野が諌めてきた。
「そう思えている分、つばめは自由を与えられている証拠だよ。それもまた、クテイ様のお優しいところだ」
「皆、痛いことも辛いこともないんです。とってもとっても幸せなんです。それもこれも、生死の境を彷徨ったつばめちゃんが、遺産を放棄して下さったからです。もう、あんな目に遭うのは嫌ですよねぇ?」
道子は笑顔のまま、妙な角度に首を捻った。つばめの脳裏に、遺産の互換性を利用して逆流してきた痛みの数々の記憶が過ぎり、背中に嫌な汗が浮いた。確かに嫌だった、少年を攻撃された時も、鬼無を攻撃された時も、生きていたくないと思いかねないほどの辛さだった。だが、それもまた祖父がつばめを徹底的に追い詰めて感情を発露させるための作戦なのだ。だから、耐えて耐えて耐え抜いた。それを無駄にしろと言うのか。
「そんなの、かったるい」
道子から顔を背けたつばめは、吐き捨てた。正直言って逃げたくなる時もあったし、手に負えないと思った瞬間も多々あったが、ここまで来て自分が選んだ道を全否定するのだけは、それこそ嫌だ。アマラを使う時は今だ。
そう思ってポケットを探るが、何もない。いや、それこそ思い込みだ。何もないわけがない。つばめの手中にはナユタとアマラが握られている。コンガラは外に置いてきてしまったが、その二つは手の中にある。制服のポケットを何度も何度も探り、念じ、欲した。すると、指先にちくりと痛みが走った。針だ。
「よし来た、アマラだ!」
遺産の正体であり本体は、異次元宇宙そのものを形成している演算装置だ。だから、肝心なのはその演算装置に接触出来るかどうかだ。呼び寄せられたのなら、こっちの勝ちだ。つばめは銀色の針を抓み、血の滲む指先を舐めた。生温く鉄臭い、本物の血の味がした。
「改変後の物質宇宙が偽物だとでも思っているの?」
前触れもなく、助手席から美月が顔を出した。肩から滑り落ちたサイドテールが揺れるが、髪の束には見覚えのある異物が何本も混じっていた。赤黒く冷ややかな、触手だった。宗教画を思わせるステンドグラスに描かれていた女性からも生えていた。彼らが言うところの、人間が高みに至る過程にあるからだろう。
「ロボットファイトに限らず、ショービジネスを目的とした格闘技にはシナリオが出来ているの。もちろん、格闘家達は本気で戦うけど、その試合内容にもシナリオはあるんだ。徹底したキャラ作りとインパクト重視の展開とショッキングな大技満載の試合は、見慣れてくると作り話だって解るし、大技を仕掛けてくる方じゃなくて大技を受ける方が上手いってことも解ってくるの。でもね、それが解らない人達にとっては、彼らの試合や抗争は全部本物なの」
わざとらしい笑みを顔に貼り付けながら、美月は語る。
「だから、この世界も本物。私も本物。クテイ様も本物。つばめちゃんがこの世界を本物だと思いさえすれば、全ては肯定されるんだ。それなのに、どうして否定しようとするの? クテイ様という確固たる上位の存在を得た人類は、あらゆるものが均一になった。おかげで戦争もなくなったし、不幸になる子供もいなくなったし、苦しいことは何一つなくなったんだ。わざわざ辛い目に遭うこともないじゃない。御嬢様なんだよ? お金に不自由しなくて済むんだよ? 友達は放っておけば擦り寄ってくるんだよ? なのに、どうして?」
「自力で手に入れたものじゃなきゃ、ありがたみもクソもないんだよ」
長々と語る間、一度も美月は瞬きしなかった。つばめはアマラを一層強く握ると、心を強張らせる。こんな生活のどこが本物だ、奥行きも何もない。つばめに好意を寄せてくれた生徒達は、つばめではなく、つばめを経て得られる利益に喜んでいただけだ。吉岡りんねと出会った時、彼女の境遇を浅はかに羨んだ。整いすぎた外見と大人びた態度は作り物だった。彼女の人生そのものが作り物であり、彼女という人間もまた作り物だった。
偽物だから、本物にもなれる。つばめは余計な付属物を削ぎ落としたりんねを思い起こし、昨夜のお喋りの内容も思い出しながら、アマラに注ぎ込んだ。どんなに周りが自分を持ち上げてくれようと、自分自身が自分を肯定したくならない環境ならば、正に生き地獄だ。だから、なんとしてでもタイスウの外に出る。そしてまた、戦わなければ。
つばめ自身の人生と。
少女を飲み込んだ金属の棺には、掠り傷一つ付かなかった。
それもそうだろう、タイスウを構成している物質は物質宇宙には存在していないのだから。複製された銃弾が雨霰と撃たれたが、全て呆気なく潰れて地面に散らばった。武蔵野を始めとした面々は熱しすぎで赤らんですらいる銃身を下ろし、物言わぬ金属の棺を睨んだ。その間、コジロウは直立しているだけだった。真っ先に殴りかかりそうなものなのだが、三年前に三分割したムジンを再び繋ぎ合わせて大幅に演算能力を拡張した影響で、思慮深くなっているのかもしれない。だが、その落ち着きぶりが苛立ちを招くのも、また事実だった。
「おい、コジロウ!」
真っ先にコジロウを怒鳴りつけたのは寺坂だった。彼は使い慣れないサブマシンガンの反動で摩耗した肩関節の緩衝材が気になるのか、右肩を押さえながら、コジロウに詰め寄った。
「あれだけつばめに好かれていたくせに、何もしないってのか!?」
「計算している」
「だから、何をだよ!」
寺坂がまた弾切れを起こした銃身でコジロウを小突くと、コジロウは鬱陶しげにその銃身を払った。
「タイスウを構成する物質が存在している異次元宇宙とこの異次元の空間が最も接近する、事象の地平面が存在するエルゴ領域の探索を実行している。よって、その作業には膨大な演算能力を要するため、本官は戦闘行動に移るべきではないと判断した。静止限界の観測、及びペンローズ過程で生じる29%のエネルギーも観測した」
「あ、そう、大変なんだな。で、それってどういう意味?」
毒気を抜かれた寺坂が首を捻ると、道子が説明した。
「要するにですねー、タイスウを破壊するためには、タイスウを構成している異次元の物質が存在している異次元宇宙をぶっ壊す必要がある、で、その在処を見つけ出した、って言っているんです」
「それ、近いの?」
「まっさかぁー。近いように見えて遠いものですよ。そんなのをどうやって壊すつもりなんですかね?」
そりゃつばめちゃんが外に出てこないことには困りますけど、と言いつつ、道子は頭の後ろに拳銃を向けて無造作に発砲した。ぎぇあっ、と鈍い叫びを散らしながら吹き飛んだのは、人間もどきの胎児だった。つばめがタイスウの中に飲み込まれた直後から、植物という植物が人間もどきと化して地中から這い出してくる。胎児のままならばまだ楽なのだが、一歩一歩歩くごとに成長してくる。それも、皆が良く見知った人間の顔をして近付いてくる。
それが、喩えようもない苦痛だった。そうした感情の揺らぎさえも長光の糧になっているかと思うと癪に障るので、外面だけでも平静を保ちながら、つばめにだけ執心するように務めていた。武蔵野はひばりを、寺坂は生身だった頃の道子と美野里を、一乗寺は周防を、道子は若い頃の寺坂を、何度も殺さなければならなかった。だが、伊織はただ一人、地獄を免れていた。彼がこの場にいたら、伊織は際限なく現れるりんねの偽物を殺す羽目になっていただろう。だから、賢明な判断ではあった。
銃声、銃声、また銃声。合間に人間もどきの断末魔。甘ったるい果実が腐敗したかのような生臭い死臭が、春の温もりを得て膨張する。そしてまた雑草の根本が盛り上がり、泥にまみれた胎児がぷっくりとした指で地面を掴み、悪魔じみた産声を上げる。それが成長する前に、武蔵野は一瞬だけ照準を付けて目を逸らし、射殺した。
「計算完了。これより、タイスウの破壊に移行する」
コジロウはマスクフェイスを上げ、銃弾の死骸に囲まれた金属の棺を見据え、歩み寄る。
「本官はタイスウを構成する物質の破砕点である異次元宇宙に接触を行うために演算能力に負担が掛かっているため、タイスウを構成する物質に作用する固有振動数を含有する振動波を発生させられない状態にある。よって、振動波の発生を要請する」
コジロウが右の拳を構えて振りかぶると、人型重機のスピーカーがハウリングした後、聞き覚えのある声であの常軌を逸した歌詞が流れ出してきた。あいらぶらぶゆーアンダーテイカーっ、と恥じらいもせずに歌っているのは、他でもない伊織だった。反射的に全員が振り返ると、フロントガラスが破損している操縦席の中から引っ張り出したマイクを握り、作った声で歌っている。声の高さこそ違うが、御鈴様を演じていた頃の伊織の歌声だった。
「何度聞いても、すんげー歌詞だよねぇ。墓掘り人と愛し合いたいからって、死人の少女は墓掘り人を墓穴の中に引き摺り込んで殺そうとするんだから。でも、そこまでしても叶わないんだよなぁ、この子の恋って」
一乗寺が肩を揺すると、武蔵野が苦々しげに漏らした。
「そりゃそうだろう。死人は死人らしく、墓土の下で大人しくしているべきなんだよ」
その歌に合わせて、コジロウはタイスウを殴り続ける。傍目には闇雲に拳をぶつけているようにしか見えないが、その実は綿密な計算による攻撃であり、ムリョウから生じるエネルギーを激突させ、異次元宇宙に浮かぶ物質に的確にダメージを与えている。コジロウの拳を受けてタイスウが振動すると、人間もどきの生まれる勢いが衰えて、這い出して間もない胎児が枯れていく。コジロウもまた、タイスウへの攻撃で固有振動数を発生させているとみていいだろう。いつしかコジロウの両の拳が削れ、火花が散る。それが数十回、続き、そして。
タイスウの蓋が、砕けた。
黒く分厚い金属板は銀色の拳に抉られ、割れ、砕け散った。
タイスウの破片は物質宇宙で形を保つために必要なエネルギーをまた別の宇宙に逃がされた影響で、金属板としての形状を維持出来なくなり、空中を漂う間に脆く崩れ去っていった。黒い金属粉が地面に降り注ぐが、地面に接する前に一粒残さず消滅した。蓋を失ったこともまたタイスウのバランスを崩したのか、縦長の箱も端から崩れて粉に変わっていった。程なくしてタイスウが完全に崩壊すると、その場には中に取り込まれていたつばめだけが現存していた。意識が朦朧としているつばめを、拳を解いたコジロウがすかさず抱き留める。
「つばめ」
「頭、痛い……」
コジロウの熱した胸部装甲に寄り掛かり、つばめは鈍い痛みが宿る頭を押さえた。脳の最深部で、異物がしきりに疼いている。恐らく、遺産を通じて異次元宇宙に近付きすぎたからだろう。人間の了見を上回る意識が集合した世界など、生身の人間が見るべきものではないからだ。
しばらく、こうしていたい。つばめが一時の安らぎを求めてコジロウの屈強な腰に腕を回すと、突如、周囲の空気が渦巻いた。かと思った直後、それが壮絶な衝撃波を生み出した。一瞬にして足元の地面が穿たれ、吹き飛んだ土も草も薬莢も潰れた銃弾も空へと飛ばされた。一体、何が起きたというのだ。
すると、つばめとコジロウの頭上に黄色と黒の機体が覆い被さってきた。人型重機だ。何事かと見上げると、その腹部辺りに皆が退避していた。異変を察知した道子が人型重機を遠隔操作し、一時的な避難場所を作ってくれていたようだった。つばめはコジロウに抱えてもらってから、皆に近付く。
「ねえ、これ、どういうこと!?」
「えーとですね、今、この空間では中性子が発生しています。で、物凄い勢いで崩壊しています。だから、ちょっとでも外に出ると一瞬で蒸発しちゃうので気を付けて下さいね。これは私の想像に過ぎないんですが、タイスウを構成していた物質を、コジロウ君がその物質が存在していた異次元宇宙ごと破壊しちゃったので、その余波がちょっとだけ異次元に来ているんじゃないかと」
暴風で翻るメイド服の裾を押さえながら、道子が説明してくれた。
「宇宙を? コジロウが?」
タイスウの中で幻影を見せられていた合間に、そんなことがあったのか。つばめが呆気に取られると、コジロウはつばめの体を持ち上げて人型重機の下半身部分に載せてくれた。続いて、コジロウも人型重機の下半身に載る。操縦席の割れたフロントガラスには伊織が捕まり、操縦席に昇るためのハシゴに一乗寺と寺坂が捕まり、武蔵野は右腕の下にある給油ダクトの傍にあるハンドルに捕まっていた。
「何が何だか解らんが、中性子ってことは核兵器並みの破壊力があるのか?」
武蔵野が自動小銃の銃口で暴風が吹き荒れる外界を示すと、道子は肩を竦める。
「単純計算でツァーリ・ボンバ何百発分、ってところでしょうか。これがフカセツテンの外に出たら、一ヶ谷市どころか地球がドカンパーですって。私達はつばめちゃんに意識されているおかげで、その影響を受けずに済んでいますけどね。シュユさんの異次元、真っ先に壊さなくて良かったですねー。フカセツテンが物質宇宙とも異次元宇宙からも隔絶された異次元を内包していなかったら、どっちにも影響が出るのは確実ですもん」
「中性子なんてもん、みっちゃんはどうやって観測してんの?」
一乗寺が質問を投げ掛けると、道子は頭の横で指を回した。
「この体もちょっといじってありますけど、政府の方々が船島集落の周辺に置いていってくれた多種多様な観測装置を利用させて頂いているんです。あるものは有効活用しませんとね」
「てぇことは、この中性子が外に漏れているってことかよ。それってちょっとアレじゃね?」
寺坂が変な笑いを浮かべると、道子はにんまりする。
「大丈夫ですよー。中性子といっても、異次元における中性子であって物質宇宙に置ける中性子じゃないですから、フカセツテンの外にボロボロッと零れても放射能なんて漏れませんよ。漏れたとしても、すぐ消えますし」
「そういう問題じゃねーだろ」
伊織が至って真っ当な文句を言ったので、つばめは同意せざるを得なかった。
「うん、色々とヤバいことに変わりないし。てか、これ、どうやれば収まるの?」
つばめは途方もない不安に駆られ、コジロウの手をいつになく強く握った。これでは、祖父も祖母も無事では済むまい。こんなことで決着が付いてしまうのか、と思うと一抹の空しさに駆られたが、それはそれでいいのかもしれないとも思った。これ以上、肉親同士で傷付け合うのはごめんだからだ。
これもまた遺産の産物ならば、どうか願いを聞いてくれ。つばめは中性子の嵐が収まるように腹の底から願ってみたが、原子レベルで崩壊したタイスウにはさすがに届かないのか荒れ狂い続けていた。つばめはコジロウと手を繋いだまま、人型重機の外装に背を預けた。祖父の仕掛けた細工とはいえ、自分の嫌なところばかりを見た。
「コジロウがムジンを割った理由、ミッキーから聞いた。正確には、お父さんがミッキーのお父さんに話してくれたことをミッキーから又聞きしたってことになるんだけどね」
成長するつばめを恐れたから、コジロウは自ら感情を捨てた。つばめは居たたまれなくなり、目を伏せる。
「コジロウはずっとコジロウのままだ。パンダのぬいぐるみだった頃のコジロウも、今の警官ロボットのコジロウも、どっちも私のことを一番に考えてくれるし、なんでもしてくれる。でも、私はそうじゃなくなった。成長したんだからそれは仕方ないって言うのは簡単だけど、嫌われても仕方ないよね」
「本官は本官だ。そして、つばめはつばめだ」
コジロウは暴風に負けない声量で言い切り、つばめの言葉を遮った。
「レイガンドーと岩龍の集積回路として使用されていたムジンを回収、結合、統合し、本官は本来の演算能力を得ることが出来た。よって、本官は感情と人格と個性に相当する思考のパターンを取得した。三年前の本官が危惧していた、情緒的な判断によってつばめを忌避する危険性を考慮し、本官は警官ロボットとしての基本人格の維持することを決定し、その上でつばめと接している。ムジンに記録されていた数多の情報と記憶を再生した際、非常に興味深い事例を参照した。レイガンドーは羽部研究員の残留思念と交戦した際、羽部研究員から、機械は成長することは不可能ではあるが学習は可能だ、との意見を得た。よって、本官はそれを踏まえた自律行動を行っている」
「私の嫌なところ、散々見たでしょ? 甘ったれで意地っ張りで強欲で根性曲がりで」
「それはつばめに限った話ではない。人間が持ち合わせている、人格の構成要素だ」
「あ、開き直った」
「本官の判断はその表現に値するものではない。本官はつばめの全てを享受せんがため、新たな価値観と主観に相当する自己判断能力を得る段階に至っている。よって、先程の言葉は開き直りではない」
「だったら、私もコジロウをもっと解らなくちゃならないな。でないと、不公平だ」
「それは道理だ」
「だから、そのためにはこの中性子をなんとかする! で、どうしよう!」
つばめが力を込めて道子に振り向くと、道子はちょっと考えてから答えた。
「一番手っ取り早いのは、この異次元の中性子と逆の性質を持った反粒子と衝突させて対消滅させることなんですけど、それをどこから調達するかが問題なんです。出来れば、元の分子構造に近いものがいいんですけど」
「なんだ、そんなの。真上にあるじゃなーい」
一乗寺が得意げに真上を指したので、つばめは天を仰いだ。
「もしかして、フカセツテンのこと?」
「わぁ、良い考えですね! 異次元は外からシュユさんが維持してくれているでしょうから、フカセツテンの外殻だけ壊せば大丈夫です、ええきっと大丈夫です! 壊す方法はあります、宇宙一の破壊神がここにいますから!」
道子は手を叩いて喜んでから、コジロウを示した。
「なんでもいいから、さっさと終わらせろよ。でねーと、晩飯までに帰れねぇだろ」
伊織がやる気なく爪を振り、触角を曲げた。
「じゃ、コジロウ、お願い」
夕食は何が良いだろう、また鍋だとアレだけど材料があるかな、と考えつつ、つばめはコジロウに命じた。
「了解した」
コジロウはつばめと向き直り、頷いてみせた。
「フカセツテンを構成している物質が存在している宇宙は、タイスウを構成していた物質が存在していた異次元宇宙と同等である。よって、タイスウの崩壊による空間歪曲の余波を受け、フカセツテンの分子構造にも異変が及んだのはまず間違いない。よって、フカセツテンの破壊に要する時間はタイスウよりも短いと判断する」
「すぐに帰ってきてね」
「了解した」
そして、コジロウは迷いなく人型重機の外に飛び出していった。白と黒の機体は吹き荒れる暴風に飲み込まれ、掻き混ぜられ、見えなくなった。つばめはその姿を追い縋りかけたが、思い止まって、唇を噛んだ。程なくして頭上から轟音が上がり、中性子の嵐とは異なる振動が訪れた。人型重機が収まっている球状の空間もぐらつくほどの振動が矢継ぎ早に発生し、波打ち、つばめは人型重機から滑り落ちかけたが、体が浮き上がった。
ナユタとアマラとコンガラが、つばめを取り巻いていた。つばめは三つの遺産を抱えると、有りっ丈の感情を込め、うんざりするほど味わわされた苦痛を注ぎ、願った。フカセツテンを破壊しようと奮戦しているコジロウを助けられるように、フカセツテンの外に中性子が漏れて無用な被害を生まないように、もう誰も死なないように。ナユタが青い光を縦横無尽に放ち、アマラが銀色の針の表面に集積回路に酷似した形状の光を走らせ、コンガラが悠長な仕草で回転する。このデタラメな状況に収拾を付けられるような概念は作れなくても、コジロウを助けられるはずだ。
暴風を切り裂く、破砕音が響き渡った。途端に細かな光の粒子が風に混じるようになって、三つの遺産が放った青い光を吸収しては暴風を掻き消していった。コジロウが破壊したフカセツテンの破片に、遺産を通じて具象化したつばめの感情のエネルギーが融合し、中性子とフカセツテンを構成する物質の対消滅を促しているのだ。
三つの遺産が落ち着いたのとほぼ同時に、暴風はぴたりと止まった。つばめは遺産を抱え、恐る恐る人型重機の外に顔を出してみた。船島集落は中性子の破壊力で綺麗に消え失せているのだろう、と予想していたのだが、意外な景色が待っていた。船島集落の姿は跡形もなく消えていたのだが、その代わりに、赤黒い根が隙間なく這い回っていた。寺坂の触手、長孝の肉体、シュユのアバター、いずれにも酷似している。
「これって……」
つばめは一際太い根に足を下ろし、辺りを見回すが、どこを見ても根しかなかった。巨大な樹木の根元に来たかのような錯覚に陥るが、そうでないことはよく解っている。地面だった場所の土は一欠片も残らず消滅しているが、地面と同じ形に根が複雑に絡み合っていて、縦長の楕円形の地形を保っている。つばめに続いて外に出た皆は、辺りを見回したが、異なる反応をした。一乗寺は笑い、寺坂は舌打ちし、伊織は首を捻り、道子は驚き、武蔵野は辟易していた。つばめは悪夢のような極彩色の光景に息を詰めながら、根が生えている根源を目で追っていくと、斜面に向かっていた。土も草も失せているが、地形は同じだから見間違えようがない。
フカセツテンの残滓である粒子と、ニルヴァーニアン特有の赤黒い体色を帯びた植物と、外殻を失った異次元の先にある物質宇宙に降り積もった雪の白さが、その儚げな薄紅色を引き立てていた。
あの、桜の木が在りし日の姿のまま、立っていた。雪片よりも薄い花弁がまばらに降り注ぐ樹下に、一人の男が場違いな面差しで立っていた。二十代後半と思しき年頃の男が、至福の極みと言わんばかりの晴れやかな笑顔を浮かべている。アイロンの効いた白のカッターシャツにダークグレーのスラックスを身に付け、艶々に磨かれた革靴を履いている男は、銀縁のメガネを掛けた顔でつばめを見咎めた。
「ようやくお会い出来ましたね、つばめさん」
外見に見合った若々しい張りのある声で、男は言った。
「まさか」
つばめが身動ぐと、男は手首に巻いた銀色のチェーンを掲げてみせた。小さな水晶玉が下がっていた。
「最初にお会いしたのは、私の葬儀でしたかね。あの時は遺産に関わるべきではないと御忠告いたしましたのに、聞き届けて頂けませんでしたね。見れば見るほど、ひばりさんによく似ていらっしゃいます」
ずくん、と心臓が肋骨を砕きかねない力で跳ねた。
つばめはコンガラに爪を立て、息を止める。
「本当に、よく」
かつて、吉岡りんねが掛けていた銀縁のメガネの奥で、男は弓形に目を細める。つばめの脳裏に、四月の初旬に初めて目にした祖父の顔が過ぎる。体格、骨格、目鼻立ち、表情。あの写真から五〇年分の年月を差し引いて、息吹を与えれば、この姿になる。口腔が干涸らびたつばめは、上顎に貼り付きかけた舌を剥がし、動かす。
「お爺ちゃん?」
「ええ。その呼び名に値する血族ですとも。アソウギとラクシャを用いて、新たな体を得たばかりですけどね」
佐々木長光の意識を宿した若い男は、つばめをねっとりと眺め回す。
「あなたはひばりさんの胎内で人間としての形を成す前から、クテイに愛されておりました」
両手を広げ、男は胸を張る。
「あなたが無事産まれることを願って止まず、私の元から逃亡を図ったほどでした。そのせいで、クテイは十六進法に則って完成された美しい肉体を欠損してしまったばかりか、その触手を右腕を欠損した善太郎君に移植するという蛮行に及びました」
つばめの左右で武蔵野と一乗寺が銃口を上げ、連射したが、男は動じずに語り続ける。
「そればかりか、あなたは愚息が我が家から持ち逃げしたムリョウとムジンを無自覚に利用し、クテイに私ではない人間の感情の味を覚えさせてしまいました」
この野郎、と叫んだ寺坂が根が組み合わさった地面を駆け抜け、法衣の袖を切り裂きながら仕込みナイフを展開する。サイボーグの脚力を用いて高々と跳躍した寺坂が斬り掛かるが、男はおもむろに右手を挙げ、人型昆虫の頭部で寺坂の刃を遮った。備前美野里の頭部だった。その盾に寺坂が一瞬怯んだ隙に、男は寺坂の右腕を掴んで関節を極め、呆気なくへし折った。
「それきり、クテイは外の世界に興味を持つようになってしまいました。この世界にクテイの存在を許しているのは他でもない私であり、私こそがクテイの中心であるべきであり、クテイは私以外の存在を認識するべきではないのに、クテイはあなたを欲し続けているのです。愚息がクテイにあなたの成長を定期報告するたびに、クテイはあなたの私物を無意味に買い込んでは溜め込んでおりました。勉強机に通学カバン、教科書やノート、長靴にスキーウェア、枚挙に暇がありません。だから、私はクテイが欲して止まないあなたを差し出そうと決めました。クテイがあなたの味を存分に楽しめるように、下拵えをし、包丁を振るい、皿を用意して」
ワンテンポ遅れて桜の木に到達した伊織は、右腕をねじ切られた寺坂の襟首を掴んで無造作に後方に放ると、しなやかに上両足を曲げる。その爪は男のカッターシャツの襟を切り裂いたが、皮膚までは裂かず、空しく繊維が飛び散っただけだった。男は寺坂の右腕を上げ、伊織の胸と腹部を繋ぐ膜に仕込みナイフを突き立てた。
「どうです、楽しかったでしょう? あなたは私が遺した財産と、クテイが遺した遺産と、ひばりさんが遺した無念と、愚息が擦り付けた業で形作られた、哀れで脆弱で嘆かわしい肉人形なのですよ。私が用意して差し上げた盤上で踊る様は、見ていて本当に馬鹿馬鹿しかったです。ああ、こんな泥細工がクテイの好物なのかと。そう思うと、尚更クテイが哀れでなりませんでした。清潔で正常で静謐なものが、クテイの食事には相応しいというのに」
発声スピーカーが音割れするほどの怒声を上げた道子が人型重機を急速発進させ、男の頭上に突っ込ませるが、男は避けようともしなかった。直後、人型重機は男の真横に墜落し、ガソリンに引火して爆発する。だが、男は無傷で無反応だった。男の切り揃えられた髪が靡き、黒煙を伴った影が揺れる。
「ですが、いかなる俗な愚物であろうとも、磨き上げればそれなりに輝きます。切り分ける部位が良ければ、原種の生物ですらも極上の美味となります。あなたの感情が最も凄絶に滾り、命が輝けば、クテイは満たされましょう」
白と黒の機影が高圧の蒸気を噴出しながら男に迫る。コジロウは躊躇いなく男に拳を振り下ろすが、やはり、男の肉体に触れられなかった。コジロウは僅かに身動ぐも、男に絶え間なく打撃と蹴りを繰り出すが、空中に舞う枯れ葉のように避けられてしまう。男は左手を掲げ、その手中から緑色の粘液を零し、足元に転がる死骸に滴らせた。
「ですから、食材となることで贖罪を果たして下さいませんか。我が孫よ」
コジロウの銀色の拳が男の毛先を掠めた、その瞬間、男の足元で息絶えていた彼女が蘇った。コジロウが咄嗟に上体を翻してそれを掴もうとするも、コジロウの手足に赤黒く太い根が絡み付いてきた。他の面々も同様で、一拍と置かずに拘束される。爪先で根を弾いて自身を発射した美野里の爪は、生温い春の空気を裂き、そして。
コジロウに間接的に殴られた時よりも数倍重たい衝撃が及び、つばめは背を曲げる。喉から迫り上がった鉄臭いものが口から噴き出し、胸元を生温く濡らす。ばちんっ、と裁ちバサミのように黒い爪が曲がり切ると、肋骨の破片と共に肉片が切り落とされる。つばめの握り拳よりも一回り小さい肉塊、紛れもない心臓だった。焦点が定まらなくなった目で己の心臓を認識したつばめは、浅く息を吸ったが吐き出せず、仰け反った。
動脈から迸った鮮血が、大きく弧を描いた。




