情けは人のターミナル
〈今から戻る、夜には一ヶ谷に着く。 武蔵野〉
未送信のままだったメールを開いた武蔵野は、戻る、を、帰る、に書き換えようとしたが、思い止まった。さすがに図々しすぎるからだ。結局、最初に書いた時のままの文面でメールを送信してから、武蔵野は携帯電話をトレンチコートのポケットに入れ、武器を満載したトランクを引き摺っていった。東京駅のリニア新幹線の改札口は、いつもとなんら変わらずに人々がごった返していた。
お土産物を売る売店が気になったが、つばめの好みが解らないので何を買えばいいのか解らず、何も買わずに売り子の前を素通りした。少し前まではサイボーグの警察官が警備に当たっていたのだが、改札口の内側に立っているのは人間の警察官と警官ロボットだった。彼らは25番線ホームに向かう武蔵野を注視してきたが、事前に話が通っているのだろう、コートの内側に付けたホルスターに拳銃を差していても咎めてこなかった。エスカレーターに乗ってホームに出ると、25番線には既にリニア新幹線が停車していた。
青と銀色に塗られた車両のドア付近に設置された電光掲示板に行き先が表示され、臨時便・一ヶ谷行、とあった。更に、貸切、とも。同じホームに面している26番線では、長野方面行きのリニア新幹線に乗り込ために乗客達がずらりと並んでいたが、一ヶ谷行は武蔵野以外は誰も近付こうともしなかった。事前に政府の人間から渡された特急券と切符で発車時間を確かめると、十数分後に迫っていたので、武蔵野は手近な車両に乗り込んだ。
がらんとした車内には、武蔵野の他には乗客はいなかった。暖房が効いているので裾の長い黒のトレンチコートを脱いで網棚に載せ、トランクのキャスターをロックしてから、手近な座席に腰を沈めた。それから十数分後、リニア新幹線は定刻通りに淀みなく発進した。
「俺の雇い主は?」
使い慣れたブレン・テンを脇のホルスターから抜き、黒光りする銃身に己の顔を映す。今の主はつばめだ。
「俺の目的は?」
拳銃の重みを確かめながら、銃口を掲げる。つばめをひばりの墓に連れていくことだ。
「俺が戦う理由は?」
照準に照星を入れ、義眼の右目で凝視する。自分の積み重ねた時間と経験を、否定しないためだ。
「よし」
自問自答の後、武蔵野はブレン・テンをホルスターに戻した。我ながら格好を付けすぎた決意表明ではあったが、今一度覚悟が据わった。つばめのためであり、ひばりのためでもあるが、武蔵野自身を守るために銃を取る。単純すぎるかもしれないが、こういうことは解りやすい方がいい。
思い返してみれば、武蔵野という人間は自分をあまり省みずに生きてきた。自分に価値を見出せないあまりに、消耗品になればいいと諦観して戦場に身を投じた。ひばりと出会い、接してからは少しは考えを改めたが、それでもひばりのためという大義名分がなければ自尊心を支えられなかった。だが、つばめと出会い、ひばりが生き抜いた証を目の当たりにしていて目が覚めた。佐々木ひばりは武蔵野には掛け替えのない女性ではあるが、それ以前に佐々木長孝の妻であり、佐々木つばめの母であり、武蔵野とは全く別の家庭を見据えて生きていたのだ。だから、武蔵野が交われる部分は一切なく、入り込む隙もない。
だから、ひばりを自己肯定の材料に使うのは止めにしよう。そんなことを続けていても、ひばりが報われるどころか、つばめまで不幸にしてしまいかねないからだ。それに、佐々木長孝に疎まれる。最悪、憎まれる。そんなことはひばりも望んでいないだろうし、無用な争いも起こしたくない。だから、武蔵野は全てを腹の内に収めた。
リニア新幹線は大宮に到着し、しばらく停車した。それから数分後に発車すると、どかどかと荒い足音がどこからか近付いてきた。車掌にしては行儀が悪く、車内販売にしてはワイルドなので、武蔵野は拳銃に右手を添えて接近しつつある音源に目を向けた。自動ドアが開くと、冬服を着た長身の女が駆け込んできた。
「きゃっほー! しーんかんせぇーんっ!」
キャスターを鳴らしながらキャリーバッグを引き摺ってやってきたのは、一乗寺昇だった。
「お」
お前、と言いかけた武蔵野に、女物の服を着て着飾っている一乗寺は明るく声を掛けてきた。
「ねえねえ、これって旅行でしょ? でしょ? だってさ、新幹線だよ? 新幹線に乗るのは旅行に行く時だよね?」
「ちったぁ切符の値は張るが、普通の電車と同じだ。そんなに特別なものじゃない」
武蔵野が半笑いになると、一乗寺はやけに重たそうなキャリーバッグを置いてから、武蔵野の正面にある座席を半回転させて向かい合わせにした。そして、その座席に勢い良く腰掛けた。
「えぇー、そうなの? つまんなーい」
「足を組むな。お前の下半身なんざ見たくもない」
武蔵野は気まずくなり、目を逸らした。一乗寺が着ているのはミニ丈の白いニットワンピースで、その上にボルドーのポンチョを羽織っていた。が、暖房で暑くなったのか早々に脱いだので、ニット地を丸く押し上げている立派な胸がやたらと目に付いた。身長に見合った長さの足は両サイドにアーガイル柄が入った黒のタイツに包まれ、ヒールの高い編み上げブーツも履いている。少し前までは服装は男っぽかったのだが、すっかり女性らしくなった。
「可愛い? 色っぽい? 似合う?」
自慢げに笑った一乗寺は片足を上げてみせたので、武蔵野は上体を捻って目を逸らした。
「はしたない! 足を降ろせ!」
「なんだよ、そのおっさん臭いリアクション。かぁーわぁーいぃーいぃー、って語尾上げて褒めてよぉ」
一乗寺はむくれながら足を下ろしたので、武蔵野は毒突いた。
「そんな言葉、死んでも言わん」
「あのね、この服、すーちゃんが買ってくれたの。お店のお姉さんと相談して、一番似合うのを買ってもらったんだ」
「よかったな。そうか、お前はあいつと一緒だったのか」
武蔵野はぞんざいに返し、窓を見た。車窓から見える山々は紅葉が終わりかけていて、色合いが鈍い。
「うん、そうなんだー。でね、半月ぐらいヤリまくってたの」
恥じらいの欠片もないストレートな物言いに、武蔵野は呆れすぎて笑ってしまった。
「盛りすぎだ」
「でも、あれってちょっと飽きるね。ブッ飛ぶぐらい気持ちいいけど、そればっかりってわけにもいかないし」
一乗寺はキャリーバッグを開け、飲みかけのペットボトルを取り出して呷った。
「だけど、楽しかった。生きているって感じがした。すーちゃんと一緒にいると、なんだか体が暖まる気がした。でも、政府も見逃してくれないから、俺とすーちゃんがイチャイチャしまくっていたアパートに踏み込まれて、俺はまた仕事に駆り出されて備前美野里と戦ったけど、よっちゃんに邪魔されて、変なことをされて、俺はおかしくなっちゃった」
ペットボトルの底に僅かに残ったミルクティーを振りながら、一乗寺は目を伏せた。
「戦うのが辛いんだ。苦しいんだ。痛いんだ。だから、最後の最後で仕事を放り出して泣いちゃって、戦えなくなって、備前美野里もよっちゃんも取り逃がしちゃった。俺は自分がどういうふうに使われていたかは解っていたから、人間臭さなんて求められていないって知っていたから、すーちゃんに殺されるんだろうなって思った。銃を向けられたし。でも、そしたら、すーちゃんは俺を撃たなかった。それどころか、抱っこしてくれたんだ。変だよね、だって、俺は人間じゃないんだ。男でも女でもないんだ。戸籍もないから、結婚も出来ないんだよ。それなのに、すーちゃんは俺のことを殺さないでくれたばかりか、政府の偉い人に一杯文句を言って、俺を生かそうとしてくれたの。だから、また仕事をもらっちゃったんだ」
「その仕事のために、一ヶ谷に帰るのか」
「うん。俺ね、つばめちゃんの暗殺をしろって命令されたんだ。引き受けないとその場で殺されちゃいそうだったし、すーちゃんも殺されちゃいそうだったから、引き受けたんだ」
ペットボトルをぐしゃりと握り潰した一乗寺は、笑顔を曇らせた。
「これでも限界まで譲歩したんだってさ。でも、俺以外の誰かが向かったら色んな意味で拙いから、俺が行くの」
「周防はどうしている」
「内閣情報調査室の人間の二三割が人間もどきだったせいで、動ける人間が減っちゃったから、すーちゃんはまた元の籍に戻って任務に回されるってさ。他の連中が遺産絡みの仕事を引き受けようとしないからでもあるんだけど。でね、すーちゃん、泣いてくれたんだ。俺とつばめちゃんのために。本当に変な奴だよ」
だから好きなんだけどさ、とはにかんだ一乗寺の面差しに、狂気の片鱗は窺えなかった。一乗寺の心身の異変についての情報も、政府を通じて武蔵野の元に伝わってきていたが、ここまで変わっているとは思っていなかった。生まれ持った性格が極端なので、真人間には程遠いかもしれないが、遺産を巡る戦いが収束すれば彼女は平穏な人生を送れるだろう。周防は歪んだ男だが、その歪みがなければ、芯が曲がっている一乗寺には添えない。
続いて、熊谷に停車した。自動ドアが開くと、一人の少女が乗り込んできた。年相応のファッションに身を包んだ、小倉美月だった。ハーフ丈のベージュのダッフルコートにデニムのショートパンツを履き、その下に青いカラータイツを履いている。彼女もまたキャリーバッグを引き摺っていたが、見るからに重たそうなので、武蔵野は手助けした。
「ちょっと貸せ、運んで」
やるよ、と持ち上げようとして、武蔵野はぎょっとした。少女の腕力では到底持ち上がる重さではなく、まるで床に貼り付いているかのような手応えだったからだ。美月はいつものサイドテールを揺らし、苦笑する。
「ごめんなさい、これ、ちょっと重くて。駅の中までは台車で運んできたんですけど、リニア新幹線の中で台車を使うわけにはいかないので。途中まではなんとか引き摺ってこられたんですけど……」
「中身は何だ」
武蔵野は少し外れそうになった肩を押さえながら問うと、美月は恥じらった。
「工具と、コジロウ君の予備の部品と、ムジンと、他にも色々と。他にも必要なものは沢山あるんですけど、そっちは小夜子さんがうちの会社のトレーラーを使って運んでくれるんだそうです。でも、持って行けるものは自分で持っていこうって思って。それに、ムジンっていうか、レイから離れたくなくて」
「うわぁクッソ重っ!」
一乗寺もキャリーバッグを持ち上げようとして、慌てて引き下がった。美月は彼女の格好を見、笑む。
「一乗寺先生、その服、可愛いですね」
「でしょでしょでっしょー? ほーら、むっさん、俺の服装は褒めるに値するんだよ!」
一乗寺が胸を張ってみせると、美月は迫力さえある大きさの胸を見上げ、ちょっと赤面した。同性の目から見ても、彼女の胸のの大きさは羨ましいようだ。武蔵野の見立てなので不確かだが、どう少なく見積もってもD或いはEはあるように思える。それを散々弄んだであろう周防が僅かに羨ましくなったが、胸の奥底に押し込めた。
恐ろしく重たいキャリーバッグは出入り口付近に置いてから、美月は武蔵野らの座席に腰掛けた。ダッフルコートを脱いで網棚に載せようとしたが、手が届かなかったので、武蔵野は今度こそ手を貸してやった。美月は丁寧に礼を述べてから、コートの下に掛けていたポシェットを開き、名刺入れに近い大きさのジュラルミンケースを出した。
「これが、レイと岩龍のムジンです」
美月はジュラルミンケースを開き、二人の前に三角形の薄青く発光する基盤を差し出した。
「レイと岩龍も戦うって決めたんです。でも、その相手はつっぴーのお爺さんじゃないし、遺産でもなくて、コジロウ君となんです。レイと岩龍は、元々はコジロウ君と一つだったんです。このムジンはコジロウ君のムリョウを安定させるために使われていたんですけど、コジロウ君が自分でムジンを割ったんです。感情を切り捨てるためにそうしたんだって、つっぴーのお父さんが言っていました。でも、レイはそんなコジロウ君が勝手すぎるって怒って、私を攫って、羽部さんと……ちょっと、ケンカしたんです」
「あのヘビ野郎と?」
だが、羽部は当の昔に死んだはずだ。武蔵野が訝ると、美月は少し考えてから返した。
「えっと……私にも良く解らないんですけど、羽部さんは死んだけど生きていたって言うか、肉体がダメになったけど精神が異次元宇宙に飛ばされていなかった、ってシュユさんが言っていました。だから、その精神を警官ロボットに入れて一時的に羽部さんを生き返らせた、じゃなくて、なんていうのかな、あれは。んー、難しい」
「送信したと思ったけどサーバーエラーで未送信だったメールを見つけた、みたいな? うん、きっとそう!」
一乗寺がいい加減な説明で勝手に納得したので、武蔵野は否定した。
「いや、それは違うと思うぞ。さすがに」
「まあ、とにかく、死んだはずの羽部さんともう一度会えてちょっとだけ話が出来たんです。ひどい話でしたけど」
美月は若干語尾を上擦らせたが、笑うべきか泣くべきか、という迷いが含まれていた。
「ま、羽部ちゃんってシリアルキラーだしねー。で、少女限定のカニバリスト。そういう話、聞かされたんでしょ?」
一乗寺の無遠慮極まりない言葉に武蔵野は動揺したが、美月は戸惑いもせずに頷いた。
「はい。凄く驚いたし、怖かったし、嫌だったけど、それでも腹の底から嫌いになれないんです。私、羽部さんのことがちょっとだけ好きだったからってのもあるんですけど」
「えぇー? 趣味悪ぅーい」
一乗寺が非難したので、武蔵野は失笑した。
「人のことを言えるような立場か」
「確かに羽部さんはひどい人です、毒ヘビだし。だけど、私が一番凄く寂しくて辛かった時に傍にいたのは羽部さんだったし、羽部さんは私を見下してはいたけど突き放しはしなかったから、気を許したかったんじゃないかなって」
美月は両膝の上にムジンを持った手を置き、レイガンドーと岩龍を見つめた。
「それ、ちょっと解る」
一乗寺は笑み、美月の肩を叩いてやる。武蔵野も同意した。
「ああ、まあな。それだけだが」
「だから、今度は私がその立場になりたいんです。友達になるって、そういうことなんじゃないかなって」
決意を込め、美月はムジンの破片を握り締めた。鋭利な割れ目が小さな手に食い込む。
「んで、シュユが言っていた、ってことは起きたってことなの? なんか、すんごいさらっと言ったけど」
一乗寺が美月を指差したので、武蔵野はその手を下ろさせてから、美月に問うた。
「あれから、シュユはどうなったんだ? 佐々木長光に操られたシュユはRECのロボットと戦ったが手酷くやられて、ズタボロの状態で吉岡グループに回収された、というところまでは把握しているんだが」
「割と御元気ですよ? 美野里さんに襲われて生死の境を彷徨ったんですけど、特に飲み食いもせずに回復していますから。その時に羽部さんも一緒にやられて、羽部さんの体の一部がシュユさんの中に入ったから、羽部さんの意識はシュユさんの中に留まっていたんだそうです。で、異次元宇宙と物質宇宙の接続が切れたから、弐天逸流の信者だった人達も解放したんだそうです。うちのお母さんもその中の一人で、政府の施設に保護されているんだそうです。治療が終わったら、また一緒に暮らせるんだって」
母親が帰ってくる日が待ち遠しいのか、美月は顔を綻ばせた。
「んで、またさらっと言ってのけたけど、つばめちゃんの親父さんってどんな人? 俺、資料でしか知らなーい」
ねえむっさん、と一乗寺に話を振られ、武蔵野は返した。近付いたことはあるが、直視したことはない。
「ああ、俺もだ」
「長孝さんは変わっていますけど、悪い人じゃないですよ。凄く腕の立つ技師ですし」
本条早稲田から長孝さんとシュユさんと乗ってくるそうです、と、美月は二人に携帯電話のメール画面を見せた。確かにその通りの文面が表示されている。だが、シュユの大きさは三メートル近い巨体だ。そんなものがどうやってリニア新幹線に乗り込むのだろうか、と武蔵野の脳裏を疑問が駆け巡ったが、それは本条早稲田に着けばおのずと明らかになるだろうと思い直した。タイミング良く、次の停車駅のアナウンスが始まった。
女性の電子合成音声が、次は本条早稲田、と言った。
本条早稲田に停車し、数分後、発車した。
電磁力の反発で線路から十数センチ浮き上がっている車体は、慣性制御で加速による揺れを軽減させながら、時速三〇〇キロで走行していった。車両と車両を繋ぐ自動ドアが開くと、新たな乗客が入ってきた。武蔵野はその男を注視したが、思ったほど動揺しなかった。それもそうだろう、触手は寺坂の右腕のものを何度となく目にしてきたからだ。ほぼ同型の生命体であるシュユの全貌も、御鈴様のライブ後に新免工業の関係者から資料を渡されたので、ある程度は把握している。足音を立てずに通路を進んできた異形は、部品のない顔を三人に向けた。
「こちらが佐々木長孝さん。つっぴーのお父さんで、うちのお父さんのお友達です」
美月は立ち上がり、作業着を着込んでいる触手の化け物を示した。
「戸籍の上では、なぁっ!?」
佐々木長孝は素っ気なく言って身を翻そうとしたが、一乗寺が触手を一本掴み、思い切り引っ張った。
「よっちゃんのよりもずうっと伸びるぅー! わぁー!」
「お前は小学生か!」
武蔵野は反射的に一乗寺の手を引っぱたき、触手を解放すると、一乗寺は拗ねた。
「だって面白いじゃーん。ここんとこ、よっちゃんの触手で遊んでなかったしぃ」
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
美月が慌てながら謝ると、長孝は引っ張られたせいで伸びきった触手を徐々に縮めた。
「いや、問題はない」
「で、どれがナニなの? やっぱり下半身の方?」
一乗寺が不躾な質問をしたので、武蔵野は反射的に彼女を引っぱたいた。
「初対面の相手にそんなことを聞くな!」
「だってさー、つばめちゃんが出来たってことはどれかがナニってことじゃん。ねえ?」
後頭部をさすっている一乗寺に同意を求められ、美月は口籠もった。
「ああ、ええと、その……私にそれを聞かれても」
「いたいけな女子中学生にそんな話題を振るな、仮にも教師だろうが」
武蔵野は一乗寺を強引に座らせると、一乗寺はけたけたと笑った。
「仮の姿ってだけだもーん。むっさんって、本当に真面目で良い子ちゃんでかぁーわぁーいぃーいぃー」
「いいから黙れ、なんか喰ってろ」
ほれ、と武蔵野が自分の荷物から食糧を取り出すと、一乗寺はそれを受け取った。
「くれるものは喰うけどさぁー。俺、もっと甘いのが好きだな」
そう言いつつも、一乗寺はビターチョコレートの封を開けると、囓った。口が塞がっている間は黙っていてくれ、と内心で願いながら、武蔵野は自分の座席に座り直した。毎度ながら騒がしい。これで寺坂が合流すれば、一ヶ谷への旅路は一体どうなることやら。些か不安でもあり、楽しみでもあった。
長孝は、三人が座っている席と通路を挟んで同列の座席に奇妙な肢体を収めていた。武蔵野は、一乗寺の口を塞いでおくためだけに、戦闘糧食として買い込んでおいた食糧を供給し続けながら、長孝を眺めた。身長は武蔵野よりも少々高く、着古して生地の色が掠れている藍色の作業着の手足からは触手が伸びている。背もたれに隠れてはいるが、作業着の背中の部分がいくらか盛り上がっていた。目も鼻も口も耳もない頭部は艶やかで、摩擦係数は極めて少なそうである。肌は凝固した血液のような赤黒さで、生き物らしさは薄い。
「あなたが武蔵野か」
長孝に名を呼ばれたので、武蔵野は応じた。
「そうだが」
「妻と娘が世話になった」
平坦で味気ない、機械的な声色で長孝は礼を述べた。
「俺の方こそ」
武蔵野は長孝を見やり、複雑な感情を持て余しながら言った。お前がひばりから目を離すから、お前がつばめを守ってやらないから、お前が戦う術を知っていれば、と頭ごなしに怒鳴りつけてやりたい。だが、その一方で、お前の苦しみはよく解る、お前はもう何もしなくていい、黙って俺達に任せてくれ、とも慰めてやりたくなった。実弟である佐々木八五郎は、精神こそ屈折していたが肉体は真っ当な人間だった。その残酷な現実が、人外に生まれた長孝を苦しめなかったわけがない。その長孝を真っ直ぐ愛してくれたひばりを突き放し、佐々木長光から遠ざけるために新免工業に委ねなければならなかったのは、身を切るよりも辛かったはずだ。そればかりか、生まれて間もない娘が備前美野里の手に落ち、新免工業の愚策の果てに暴走したナユタを止めるためにひばりが自死した。
佐々木長光を、クテイを、そして自分自身を恨んでも恨みきれないだろう。長孝の態度が平坦なのは、そういった感情の嵐をやり過ごし、静めるための手段に違いない。鬱屈した感情を抱えながらもそれを晴らす術を知らないが故にのたうち回っていた、若い頃の武蔵野もそうだったからだ。
「コジロウに完全なムジンを搭載させ、ムリョウの動作を確認し、機体の微調整後に俺は仕事に戻る」
車窓を流れる景色に顔すら向けず、長孝は己の足元を睨んでいた。そこに目はなくとも、仕草で解る。
「え? つっぴーに会いに行くんじゃないんですか?」
ポシェットから食べかけのチョコレートを取り出した美月が目を丸めると、長孝は膝の間で触手を組む。
「それは俺の仕事ではない」
「格好付けちゃって。俺、そういう奴、好きじゃないなぁ」
武蔵野の食糧を一通り食べ終えた一乗寺は、心底嫌そうに眉根を曲げた。
「あなたは確か、シュユの」
長孝が一乗寺に向くと、一乗寺は目を据わらせる。
「そうだよ、だからなんだっての。大体さぁー、この期に及んで格好付けて何か意味あるの? ないよね? つばめちゃんに会う会わないでぐだぐだするだけ時間の無駄だし、なんであんたまでつばめちゃんを苦しませようって思うわけ? てか、あのクソ爺ィがクテイに喰わせたいのはつばめちゃんの苦しみやら何やらなんだから、つばめちゃんが親父とニアミスしたって知ったら、どんだけ悲しむと思うの。馬鹿じゃないの?」
「言い過ぎだ」
武蔵野は一乗寺を諌めたが、内心では同意していた。つばめの行動理念の芯は、家族に会いたいという一念だ。佐々木長光の遺産を相続しようと決めたのも、吉岡りんね率いる一味に襲われても屈しなかったのも、欲深い大人に遺産を奪われていようと頑張っていたのも、両親に会いたいと願うが故だ。だが、ひばりは十四年前に死亡し、祖父はあの有様である。従兄弟である吉岡りんねとも、一時は敵対していた。それなのに、まともに会える状態にある父親からこんな態度を取られては、今度こそつばめの心が折れるかもしれない。
だが、長孝にも考えがあるのかもしれない。そう判断し、武蔵野は反論したい気持ちを収めたが、美月はそうもいかなかったらしい。チョコレートが入った細長い箱を握り締め、潰してしまった。
「会ってあげて下さいよ。てか、そんなにつっぴーのことが嫌いですか?」
「いや」
長孝は首を横に振ったが、それが一層美月の苛立ちを煽ったらしく、美月は腰を浮かせた。
「親がいないってこと、どんだけ寂しいと思ってんですか! 私はちょっとだけだったけど、本当に辛くて辛くて、レイと羽部さんがいなきゃどうにかなっちゃっていたかもしれないのに! でも、つっぴーはずっとずっとそうだった!」
「あの子には育ての親がいる」
「それとこれとは違います! そりゃ、育ての親の方がいいって人もいるかもしれないけど、でも!」
「見ての通り、俺は人間じゃない。だから」
長孝が顔を背けると、美月は長孝に掴み掛かりそうになったので、武蔵野がそれを諌めた。
「それはあんたの主観であって、つばめの主観じゃない」
「そうそう。つばめちゃんがどう思うか、とかその辺の肝心なことが見えてないし。嫁さんと娘が宇宙一大事なのはよく解るけど、大事にしすぎて触りもしないのはおかしくない?」
一乗寺は頬杖を付きながら、長孝を睨んだ。美月は自分の座席に座り直し、歯痒げに唸る。
「ああ、もう……」
「えっと、終わった?」
不意に、誰でもない声が聞こえた。音源に振り向くと、開け放たれた自動ドアから触手の異形が入り込んできた。外見は長孝に酷似しているが、体格が一回り大きく、その背中には青白い光を放つ光輪を生やしている。これこそシュユであり、弐天逸流の御神体にして教祖であり、全ての諍いの元凶であるニルヴァーニアンである。うねうねと下半身の触手を蠢かせながら進んできたシュユは、長孝とは異なって裸身だった。
「ああやれやれ。人間の乗り物って僕の体の寸法と合わないから、ドアを通り抜けるだけでも一苦労だったよ」
よいしょ、とシュユは長孝の向かい側の座席を半回転させると、二人分の席に下半身を収めた。シュユは今にも泣きそうな美月を慰めてやってから、俯いている長孝と向き合った。
「タカさんは強情だよね。それが悪いとは言わないけど、肝心な時にそれは頂けないよ」
シュユが穏やかに述べると、長孝は膝の間で触手を複雑に絡ませる。
「俺は、あの子を戸惑わせたくない」
「大丈夫だよ。これまで、色んなことがあった。つばめちゃんも、色んな目に遭った。だから、自分のお父さんが変な生き物だって知っても、そんなに驚かないと思うよ。驚いたとしてもあんまり長引かないよ。肝が据わっているから」
「だが」
「それとも、本当に会いたくないの?」
巨体を折り曲げるようにして、シュユは長孝の頭上に凹凸のない顔面を寄せる。
「僕が船島集落に行くのは、フカセツテンと異次元を外部から制御して君達をクテイの元に向かわせるためだよ。今のクテイは、力任せに開かれた口の中に餌を流し込まれている家畜と同じだ。長光さんとの肉体的接触を持ったために出来た佐々木一族に繋がる太いパイプから、佐々木一族に関わる人々のストレートな感情をほぼ無制限に与えられている。それがクテイにとっていいはずがない。クテイを物質宇宙から遠ざけられれば、この混迷した事態は打開出来る。だけど、あの執念深い長光さんのことだ、大人しく死んでくれるわけがないし、クテイのことを諦めるわけがない。だから、僕達も手を打たなければならない。つばめちゃんの管理者権限でクテイを沈黙させて異次元宇宙と物質宇宙の繋がりを断ち切らなければ、同じことを延々と繰り返す羽目になる。遺産に関わった者達は、皆、少なからず異次元宇宙に接している。だから、この時間軸の君達が死んだとしても、君達の子孫や君達の精神体を持った個体は再び遺産に引き寄せられてしまい、何度も何度も遺産と長光さんに振り回されてしまうだろう。輪廻と因果の渦を一代限りで断ち切らなければ、悲劇は続くんだ」
シュユは少し首を捻り、長孝を覗き込むような姿勢を取る。
「だから、心残りがないように、やるべきことは終えておくべきだと思うよ。それだけでも、因果律は変動する」
「会えば会っただけ、辛くなる。ひばりの時がそうだった。だから、今度もそうするだけだ」
諦観しきった言葉を発した表情の見えない横顔は、トンネルに入り、翳った。その瞬間、武蔵野の体が動いた。三十年近くに渡る実戦経験で細胞の隅々にまで染み付いた動作で、長孝の側頭部に体重を載せた拳を放った。赤黒い肢体の男は窓に激突して触手を散らばらせたが、呻きもせずに座席に沈んだ。
「気取ってんじゃねぇぞ」
人外を殴り飛ばした手応えは、思いの外重たかった。武蔵野は長孝の頭部を抉った拳を振り、吐き捨てる。
「あんたがその程度の男だと知っていたら、ひばりと一緒につばめも攫ってやるんだったよ。俺はあんたみたいな芸当は出来ねぇし、戦うことしか知らんが、惚れた女との間に出来た娘を苦しめるような真似だけはしない」
外界が暗くなったことで、窓際に倒れ込んでいる長孝の肩越しに凶相の武蔵野が映り込んだ。ひばりが命懸けで愛した男が、つばめが命懸けで求めた親が、この有様なのか。武蔵野は腹の底に激情が淀み、倒れ込んだまま微動だにしない長孝をもう一発殴ってやりたくなったが、美月の怯えた眼差しに気付いて拳を緩めた。一乗寺から囃し立てられ、シュユに宥められたが、武蔵野はそれらを振り払ってデッキに移動した。
トンネルが途切れてはまたトンネルに入り、それが終わったかと思えばまた新たなトンネルに入る。苛立ち紛れに何かに当たってしまいそうだったので、武蔵野は長光を殴った余韻が残る拳を空中に叩き込んだ。何度も何度も、怒りと共に拳を打ち込む。激情の波が凪いでいくと、リニア新幹線は次の駅に到着した。
高崎に停車すると、武蔵野がいるデッキに面したドアから、新たな乗客が乗り込んできた。人型軍隊アリの伊織、本来あるべき姿に戻ったりんね、そして、もう一人。順当に考えれば寺坂なのだろうが、そこに立っている男は寺坂善太郎が持っているべきものを備えていなかった。鋭角なサングラスとスキンヘッドではあるのだが、首から下の体が至って普通だった。サングラスを掛けた男は鋭いモーター音を零しながら首を曲げ、口角を歪めた。
「この体、しっくり来ねぇなーもう。動かしづらいったらありゃしねぇよ」
電子合成音声ではあったが、寺坂の声色に酷似していた。ということは、つまり。
「寺坂、お前はサイボーグになったのか?」
「ああ、むっさんか。グラサンがないから、ちょっと思い出しづらかった。んー、まあな。色々あっていおりんに半殺しにされちゃって、仕方なく。ちなみにアメリカ製だとさ。俺が殺された病院にあった在庫のボディなんだよ。シュユの生体部品を一つも使っていないから動作は鈍いが、この際、贅沢言ってらんねぇし」
だから下もアメリカンサイズよ、と寺坂が威張ったので、武蔵野は心底気が抜けた。
「ああ、そうかい」
何度死に目に遭おうとも、この男の性欲の強さだけは変わらないようだ。女性に対する幻想も欲望も年齢を経るに連れて枯れてしまった武蔵野からすれば、年がら年中発情している寺坂は異様極まりない。そんなエネルギーを一体どこから絞り出すのかが気にならないわけでもないが、別に知りたくはない。
「おっさん、グラサンは?」
へらへらしている寺坂を押し退け、伊織が武蔵野に問い掛けてきた。
「いらなくなった」
武蔵野が簡潔に答えると、伊織は触角を片方曲げた。
「目付き悪ぃから、掛けてた方がまだ良くね?」
「虫に比べればまだマシだろうが」
彼も相変わらずだ。武蔵野が言い返すと、伊織の中左足に縋っている少女がおずおずと目を上げた。
「お嬢、だよな」
武蔵野が腰を曲げて目線を合わせると、少女はびくついて伊織の影に隠れた。
「ぅあ」
「つか、無理させんなよ。色々とアレな目に遭いすぎたから、ろくに喋れないんだよ。でもって、記憶はあるけど俺らがどういう関係なのかはまだ思い出してねー感じでさ。けど、俺から離したら、どこの誰が利用しに来るか解ったもんじゃねーから連れてきた。だから、変なことは吹き込むなよ。マジ殺すし」
いつになく殺気立った伊織に凄まれ、武蔵野は腰を引いた。少し会わないうちに、随分と素直になったものだ。
「善処するよ。俺だけはな」
すると、暇を持て余した寺坂が三人の脇を擦り抜けていき、座席で一乗寺と合流するや否や男子高校生のようなテンションで騒ぎ始めた。以前となんら代わり映えのしない下らない内容の会話を繰り返していて、二人の騒がしさに辟易した美月が座席から逃げ出してきた。それとほぼ同時に、リニア新幹線は高崎を出発した。
「あれ?」
美月は伊織の影に隠れた少女に気付き、覗いた。だが、少女は美月と反対側に体を曲げる。
「う」
美月は伊織の周りを巡って追い縋るが、少女は更に隠れようとする。美月が追い、少女が逃げ、また追い、更に逃げ、と繰り返す間に二人は伊織を中心に何度もぐるぐると回っていた。伊織は二人を引き剥がしたいようだが、彼の爪では二人を傷付けてしまいかねないので、したいようにさせていた。少女達が落ち着くまでにはまだ時間が掛かりそうだったので、武蔵野はその間に伊織から事の次第を聞き出すことにした。
「で、お前ら、どういう経緯で生き延びたんだ」
「一度死んだんだよ。つか、りんねの自殺に付き合わされて遺伝子がズタボロになったけど、つばめが俺とりんねをなんとかしてくれて、俺もりんねも元に戻った。んで、それからしばらく寝てたんだけど、あの触手坊主が俺達の精神体と異次元宇宙の接続をブッ千切ったから起きた。んで、触手坊主が虫女っつーか、虫女に取り憑いたクソ爺ィに殺されかけていたから、触手の方をブッ千切ってやった。でねーと、あっちに連れて行かれそうだったし」
伊織のぞんざいな説明と内容に、武蔵野は嘆息する。
「何が何だかよく解らんが、寺坂の奴も結構危なかったってことか?」
「まーな。てか、あいつ、馬鹿だし。触手っつーか、連中の生体組織っつーか、ゲノム配列そのものが異次元宇宙と接続するためのアンテナだってことは解っているはずなのに、触手から離れようとしなかったんだよ。だから、俺が生臭坊主を切ってやった。んで、適当なサイボーグのボディに脳だけ突っ込んだっつーわけ」
「なるほどな。お前らも色々と大変だったわけだな」
「つか、マジウゼェことばっかりだし」
伊織がだらしなく壁に寄り掛かると、その体に行く手を阻まれた美月が後退った。反対側では、少女が固まる。
「んで、いつまでやってんだよ、それ」
伊織が爪の背で少女を小突くと、少女はしきりに目線を彷徨わせる。
「む」
「りんちゃん、そんなに怖がらなくてもいいよ。私だよ、美月だよ」
美月は伊織の体を隔てた先にいるりんねに、優しく言葉を掛けた。が、りんねは顔を逸らす。
「ぬ」
「悪ぃけど、俺らだけにしておいてくんね。りんね、お前のことを思い出すまでちょっと時間が掛かりそうだし」
伊織がりんねを抱き寄せると、美月は身を引いた。
「ごめんなさい……」
黒い外骨格に顔を半分隠しながら、りんねは美月を窺ってきた。不安と困惑が充ち満ちていて、視線をあちこちに投げ掛けている。伊織を見上げ、武蔵野を見上げ、美月を見、自分の足元を見、自動ドアに付いた窓から見える騒がしい光景を見、車窓を見、とにかく至る所を見ていた。それだけ、好奇心が旺盛なのだろう。
恐らく、人見知りしているのだ。武蔵野は打ちのめされている美月を促し、座席に戻った。シュユは巨体を精一杯縮め、無駄にエネルギッシュな寺坂と一乗寺を見守っている。長孝は窓に頭を預け、沈んでいる。伊織とりんねはデッキに残り、二人並んで通路に腰を下ろしている。武蔵野は美月の心境を思い遣り、騒がしさの中心から離れた座席に座らせてやってから、寺坂と一乗寺を大人しくさせる方法を考えあぐねた。
と、その時、寺坂が天井にぶん投げられた。
細長い天井に向かった男の体は、内壁に激突した後に鋭角な放物線を描いた。
寺坂は座席の列に突っ込むかと思いきや、その寸前で背もたれに手を付いて反転して通路に着地し、靴底を床に強く擦り付けて勢いを殺した。武蔵野は咄嗟に美月を守る位置に立っていたが、あまりのことに言葉を失った。美月も目を丸くしていて、寺坂を凝視している。サイボーグといえども、常人では到底不可能な高等技術だった。皆、驚き、一乗寺ですらも黙り込んでしまった。
車体が空中を滑る軽やかな機動音だけが聞こえていた。数十秒間の沈黙の後、驚異的な軽業を見せた寺坂は立ち上がった。だが、人工外皮が貼り付けられている顔面には得意げな笑顔は浮かんでおらず、明確な恐怖がこびり付いていた。寺坂は生身の頃と変わらぬ禿頭に手を添えると、独り言を漏らした。
「何、今の? てか、俺の意志じゃねぇし。なあ、何したの?」
少々の間の後、寺坂は仰け反った。ボディに内蔵された通信機器を通じ、誰かと会話しているらしい。
「おいおいおいおいおい! さすがにそれだけは勘弁してくれよ、頼むからお願いだから! 俺の意志で接続解除出来るようにしてくれって、でないと俺が何しようがリアルタイムで見られちゃうわけだし! みっちゃんだって、俺がヌイてるところなんて見たくないだろ、え、あ、うん、見せるのは俺の趣味の範疇だけど、あーいや、違う違うそうじゃなくて、だから、あー、つまりそのなんだ、気まずいの、色々と!」
寺坂はその場に座り込むと、側頭部を押さえながら喋り続けた。サイボーグのボディに乗り換えたばかりなので、携帯電話を使っている感覚が抜けないせいだろう。端々に出る名前から察するに、相手は道子らしい。
「え、ああ、なんでシュユにぶん投げられたのかって? そりゃあれだよ、クテイに手ぇ出すって言ったんだよ」
「はあ?」
寺坂の言葉に武蔵野が思わず声を裏返すと、一乗寺がにたにたした。
「そうなんだよー。よっちゃんって、本当に無節操っていうか、全方位範囲攻撃仕掛けちゃう感じでさー。てかさぁ、普通、人んちの婆ちゃんに手ぇ出そうと考える? 俺だって考えないよー、そんなイカレたこと」
事の次第を知り、美月は軽蔑しきった目を寺坂に向けた。武蔵野も似たような気分だった。寺坂は道子との会話を中断し、サングラスを上げて武蔵野を見上げてくる。
「いいじゃんかよ、俺が誰を吹っ掛けようが何しようが。あれだけ好き好き言ったのにみのりんがダメだったんだ、次に行くしかないだろ? んで、差し当たって思い付いたのがクテイだったんだよ。フーミンは結局喰えなかったし。だから、クテイだよ。長光のクソ爺ィがあそこまで執着するんだから、クテイは余程いい女ってことだろ?」
「フーミンって誰だ」
「りんねちゃんのお母さん」
寺坂が悪びれずに言ってのけたので、武蔵野は寺坂を強かに蹴り飛ばした。
「無節操すぎだろうが!」
今度は道子による遠隔操作が行われなかったらしく、寺坂は通路を二度三度転がった後、起き上がった。
「むっさん、そこまで怒ることねぇじゃん。未遂だったんだしさぁ」
「未遂でも良くない。何も良くない。何度も死にかけたくせに、その腐った性根だけはどうにもならんのか」
武蔵野が大いに嘆くと、寺坂は武蔵野の靴跡が付いたジャケットを払った。
「死にかけたから、余計にだ。どうしたって俺はそういう奴なんだ、それ以外の行動理念を見出せっていう方が無理な話なんだよ。むっさんみたいに純情可憐な信念なんて、脳みそを雑巾絞りにしたって出てこねぇの」
「だからってな……」
武蔵野が渋面を作ると、寺坂は触手を持った者達に顔を向けた。
「てなわけだから、そんなに怒らないでくれる? タカさんも、シュユも」
「僕の感情の振り幅は狭いから、怒りと呼べる段階には到達していないけど、あまりの理不尽さに攻撃手段に打って出たのは確かだね。寺坂君、君はもっと常識で物事を考えるべきだよ」
シュユの至って真っ当な意見に、長孝は心の底から同意した。
「全くだ」
「も、もう一度デッキに出てくる……」
非常識極まりないやり取りに疲弊したらしく、美月はよろけながらデッキに向かった。それがいいさ、と武蔵野は彼女の弱った背中に言葉を掛けてやった。人様の祖母に手を出す、という発想からしてとんでもないのだが、その相手が異星人と来ては尚更である。こんな連中をつばめの元に向かわせていいものか、と武蔵野は猛烈な不安に駆られたが、リニア新幹線は止められるものでもないし、寺坂と一乗寺はそれ以上に止められない。
気付けば、リニア新幹線は上毛高原を過ぎ、越後湯沢を過ぎていた。あと二十分足らずで、終点である一ヶ谷に到着する。部隊と呼べるほどのまとまりはなく、それぞれの行動理念もデタラメで、長孝に至ってはこの期に及んで我が子に会うことを躊躇い続けている。こんなことで果たして大丈夫なのだろうか。大丈夫なわけがない。どの辺りに大丈夫だと言える根拠があるのだろうか。割と真面目に戦いに向かう覚悟を決めていた武蔵野は、変に気後れしてしまった。だが、自分は自分なのだと強く思い直し、振り払った。
終点、一ヶ谷。車掌のアナウンスが響き渡り、車両のドアが開いた。武蔵野はやりきれない気持ちを抱えながら、自分の荷物を担いでホームに出た。途端に、猛烈な寒さが襲い掛かってきた。リニア新幹線のホームには吹雪が吹き込んでいて、線路の両脇にはこんもりと雪溜まりが出来ている。越後湯沢でさえも雪が降った痕跡はなかったというのに、なぜ一ヶ谷だけが真冬なのだろう。これもまたフカセツテンの影響だろうか、と武蔵野が考えていると、ホームに駆け出した一乗寺は全身ではしゃぎ、サイボーグの腕力で美月のキャリーバッグを引っ張ってきた寺坂は雪掻きの手間を嘆き、美月は雪景色に目を輝かせて、りんねは伊織にしがみつきながら雪を見つめ、伊織は体温が急激に低下したせいで動作が鈍くなっていた。
「皆、お帰りなさい」
その声に、皆、振り返った。ホームの中程では厚手のコートを着込んだツインテールの少女が立っており、その背後には警官ロボットとメイド服を着た女性型アンドロイドが控えていた。つばめとコジロウと道子だった。
「たっだいまぁーんっ!」
真っ先につばめに飛び付いたのは、一乗寺だった。少女を思い切り抱き締め、満面の笑みを浮かべる。
「元気だった? 寂しくなかった? 勉強してた? してなかったら、後で一杯一杯教えてあげる! 話したいことも一杯一杯あるから、そのついでにね!」
「勉強がついでじゃ拙いですよ」
つばめは苦笑しながら一乗寺を押し戻すと、今度は美月がつばめに駆け寄ってきた。
「久し振り! 会いたかったぁ!」
「うん、私も」
つばめが美月と笑顔を交わすと、美月の荷物を引き摺ってきた寺坂が道子を小突いた。
「おい、みっちゃん、俺の体になんてことしてくれたんだよ。もうちょっとさぁ、色気のあることしてくれよ」
「寺坂さんの体、当分は私の管理下に置きますからね。大体、あんなことを言うのが悪いんです。ねー?」
道子がつばめに同意を求めると、つばめは心底蔑んだ目で寺坂を見上げた。
「道子さんが生中継してくれたから、全部知っているからね?
本当にお婆ちゃんに手を出したりしたら、コジロウにどうにかしてもらうからね?」
「具体的には?」
寺坂がへらっとすると、つばめは寺坂の下半身を指した。
「もぎ取ってもらう」
「つばめの命令とあれば、実行するまでだ」
コジロウが意味ありげに銀色の手を開閉させたので、寺坂は腰を引いた。
「変なところだけ物解りが良くなったな、お前……」
「よう」
皆から遅れて武蔵野が挨拶すると、つばめは武蔵野に駆け寄ってきた。
「お帰りなさい!」
白い息を吐きながら、つばめは外気の攻撃的な冷たさで紅潮した頬を持ち上げる。心なしかツインテールの髪の長さが伸びていて、その分クセも強くなっている。得も言われぬ熱が胸中に宿り、武蔵野は滅多に動かさない頬の筋肉を動かした。すると、つばめは武蔵野をまじまじと見つめてきた。
「なんだ」
その真摯な眼差しに武蔵野が少々臆すると、つばめは興味深げに目を瞬かせる。
「サングラスをしていない武蔵野さんをちゃんと見たの、初めてかも。良く見ると男前だね」
「そうか?」
武蔵野が若干照れると、つばめははにかんだ。
「うん。でさ、今日の御夕飯、皆が一度に何人帰ってくるか解らなかったから、とりあえず寄せ鍋にしたんだけど」
「べ?」
伊織の影から半分だけ顔を出したりんねが首を傾げると、つばめはりんねを見返した。
「うん、鍋。えっと……りんねはそういうの好きかな」
若干迷った後にりんねを呼び捨てにしたつばめに、りんねは一度伊織を見上げてから、つばめに目を戻した。
「ん」
小さく頷いたりんねに、つばめはほっとした。
「そっか、だったら良かった。で、伊織は普通の食べ物を食べられるようになった?」
「喰えるけど味は解らねーよ。虫の味覚は足にしかねーからな。まあ、匂いで大体の想像は付くが」
伊織が触角を曲げてみせると、つばめは喜んだ。
「そっかそっかぁ! 良かった良かった!」
わぁいお鍋だ、と一乗寺が諸手を挙げて感嘆し、それって俺んちでやるの、と寺坂は苦い顔をし、お手伝いするね、と美月はつばめの手を取った。道子が仕込みを手伝ってくれたとつばめが言うと、皆、一瞬静まったが、道子が野菜を切っただけだと言うと安堵が広がった。酒も出そう、どうせならとことん飲もう、と言い始めた一乗寺に武蔵野はげんなりしたが、場の空気に水を差すべきではないので何も言わなかった。
リニア新幹線は、まだ停車していた。最後の乗客が降りてきていないからだ。武蔵野はつばめを囲む輪からそっと離れ、暖房の効いた車内に戻った。シュユは三メートルもの巨体を伸び縮みさせて車外に出ようと尽力していたが、長孝は座席から立ち上がろうともしなかった。武蔵野は長孝の襟首を掴み、凶相を作る。
「立て。外に出ろ」
「お前達が行った後に出る。あの子の前に出るわけには」
「どうしても動かないなら引き摺り出してやる。シュユ、触手を貸せ」
武蔵野が顎で示すと、自動ドアを潜り抜けてデッキに出たシュユは、数本の太い触手を向かわせてきた。
「神様遣いが荒いね、武蔵野君は」
「困った時に当てになるのが神様の仕事だろうが」
さっさと行け、と武蔵野は長孝を通路に転がすと、シュユは触手をうねらせて長孝を運び出していった。これではまるで、いじけた子供ではないか。よいせよいせ、とシュユは長孝を運搬していったが、ホームに通じる出入り口で再び詰まってしまって手間取っていた。背中から生えた光輪が引っ掛かってしまうからだ。肉体の一部なので伸縮出来そうなものなのだが、そうではないらしく、四苦八苦していた。その間、触手に絡め取られている長孝はシュユが悶えるたびに、びたんびたんと床に叩き付けられていたが文句も言わなかった。
車窓の外では、皆がシュユの様子を注視していた。それはそうだろう、仮にも新興宗教の御神体だった異星人がリニア新幹線から出ることに苦戦しているのだから。見るに見かねたのか、つばめがコジロウに手助けするようにと命じてくれた。ぐねぐねと暴れ回る触手を数本握ったコジロウは、両足を踏ん張り、勢い良く引き抜いた。その甲斐あって、シュユはリニア新幹線の出入り口から引っこ抜かれてホームに転がった。同時に、長孝も転がった。
なんとも情けない、親子の対面だ。武蔵野はリニア新幹線から出ると、離れた位置から長孝を見守ってやった。シュユの存在は知っていても、触手の異形がもう一体いるとは知らなかったのだろう、つばめは目を剥いていた。長孝さんだよ、と美月がつばめに耳打ちすると、つばめは新たな動揺に見舞われたようだった。コジロウや他の面々をしきりに窺い、武蔵野にも縋るような眼差しを向けてきたので、武蔵野は頷き返してやった。ここから先は、当人同士でなんとかするべきだからだ。
長孝は雪片と砂が付いた作業着を触手で器用に払い落としながら、重たい動作で上体を起こした。リニア新幹線が発進すると、雪と電磁波の混じった風が吹き抜け、つばめの髪を舞い上げる。長孝の触手を靡かせる。つばめの見開かれた目にはうっすらと涙が滲んだが、表情は強張っていた。無理もないだろう、あれほど求めていた両親の片割れが人間ではなかったのだから。一方の長孝も、まだ覚悟が据わっていないのか、顔を上げなかった。
「……ぇ、え、っと」
長い長い沈黙を経て、つばめが弱く言葉を発した。長孝は下半身の触手を波打たせながら、立ち上がる。
「つばめ、なんだな」
「はい」
つばめはやけに他人行儀な返事を返し、体の前で両手をきつく握り合わせた。
「お父さん、ですか」
「ああ、一応は」
「だったら、えっと、うんと、その、ええっと、うん……」
つばめは言いたいことをまとめかねているのか曖昧な言葉を繰り返し、指を擦り合わせた。
「さ、三歳の誕生日に、コジロウをプレゼントしてくれて、本当に、本当に、本当にありがとうございました」
「ああ」
長孝の押し殺した返答には、万感の思いが込められていた。触手の尖端が萎れ、かすかに震えている。
「お父さん」
「……ああ」
「御夕飯、一緒に」
「ああ」
「お母さんの話、聞かせて」
「ああ」
「お婆ちゃんを助けて、全部片付いたら、そしたら、今度は、良ければ、一緒に、暮らしませんか」
つばめは何度も言葉を詰まらせ、俯いた。
「俺でいいのか」
長孝に問われ、つばめは歯を食い縛って嗚咽を堪えながら頷いた。何度も何度も頷いた。
「解った」
間を置いてから答えた長孝の語尾は、僅かに掠れていた。
「お帰りなさい」
今一度、つばめは父親を出迎えた。ああ、と長孝は短く返した後、下半身の触手を蠢かせながら階段へ向かっていった。親子のぎこちない会話の最中、皆、静かにしていた。寺坂と一乗寺でさえも黙っていて、長孝の姿がホームから消えると、ようやく言葉を交わし始めた。無愛想だね、照れ臭いんだろ、クーデレなんですね、と一乗寺と寺坂と道子が小声で囁き合った。武蔵野は口さがない三人にさっさと行くようにせっついてから、感極まっている美月を促し、りんねと伊織もホームから
下りる階段に向かわせた。
「行くぞ。鍋が喰いたいんだよ」
最後に残ったつばめとコジロウに振り返り、武蔵野が急かすと、つばめは目元を擦った。
「お父さんも、寄せ鍋って好きかな」
「娘の作った料理を嫌う父親がいるか」
「そうだといいな」
つばめは手袋を填めた手で頬を拭ってから、歩き出した。コジロウもそれに続いたが、首尾良く美月の重すぎるキャリーバッグを担いでいた。武蔵野も自分の荷物を担ぎ、皆のしんがりを務めた。他の乗客が一人もいない駅の構内を通り、自動改札を抜け、駅前ロータリーに至った。辺り一面、二メートル近い積雪に覆い尽くされていたが、ロータリーだけ除雪されていた。道子が除雪車を遠隔操作して船島集落までの通路を確保したのだそうだ。
そこには、〈REIGANDOO!〉との青と黄色のロゴが一際目立つトレーラーが駐まっていた。運転席には小夜子が座っていて、窓を開けた彼女が吐き出したタバコの煙が猛吹雪に掻き消された。つばめと美月は運転席の座席に入り、他の面々はトレーラーのコンテナ部分に押し込まれた。機械油と金属の匂いが立ち込める箱の中は、悪路も相まって乗り心地は最悪だった。そんな状況でも元気な寺坂と一乗寺に辟易しながらも、武蔵野は今夜の夕食に思いを馳せていた。遺産を巡る争いに終止符を打てるか否かは解らないが、全力で戦うまでだ。
吹雪の中、皆の帰りを待ち侘びてくれていた、少女のために。
まろやかな日差し、さらりとした風、青い草の香り。
思い出す、思い起こす、思い返す。鮮やかな陽の光の下で、人ならざる肢体を人間の生皮の下に閉じ込めていた妻を蹂躙した時の一部始終が蘇る。あの頃、クテイは弱り切っていた。英子の死にかけた肉体を被って物質宇宙で長らえていたはいいが、人間の食事を全く受け付けなかったため、栄養を補給出来ずにいた。その頃は長光も妻に与えるべき食事が解っていなかったから、街に出て様々な食材を買い漁っては妻に与えてみたが、クテイはそれを口にしてもすぐに戻してしまった。日に日に弱っていく妻が哀れで、愛おしく、狂おしかった。
その命の灯火が消え去る前にと、長光はクテイを貫いた。人間の形をしていても、どこに何を与えればいいのかは見当も付かなかったので、文字通り手探りに事を終えた。生まれて初めて抱いた異性であり、異形であった妻の肢体は喩えようもなく美しく、心地良く、素晴らしかった。生命力の固まりである生殖細胞を注ぐたびにクテイの触手は波打ち、身を捩り、徐々に力を取り戻していった。
甘ったるい一時を終えたクテイは服を直して乱れた髪を整えながら、私はあなたの感情を喰らうのです、と控えめに答えた。これまでにも長光の感情の変動の端々を捕食していたが、クテイとの穏やかな結婚生活で次第に長光の心が凪いでいったので捕食出来る感情が減ってしまった、と言った。
それから、長光はクテイを愛し抜いた。クテイに多種多様な感情を与えられるように尽力したが、我が子を産んだクテイの関心は長光から長孝へ移った。クテイは長光の感情ではなく、長孝の稚拙で微々たる感情を捕食するようになった。八五郎が産まれた後は尚更だった。それが許し難かった。愛して止まないからこそ、クテイが他の誰かに心を向けるのが耐えられなかった。クテイのような生命体を愛せるのはこの世で自分だけと信じていたから、クテイの愛を注がれるのは自分だけと自負していたから、屈辱ですらあった。
だから、クテイを切り刻み、生命力を削ぎ落とし、苦しめ、長光だけを欲するように仕立て上げた。それがクテイの幸福なのだ。長光ならば、いついかなる時もクテイを愛する。どんなことになろうともクテイを欲する。クテイだけを認める、信じる、思う、貫く。それを愛と言わずになんというのだろうか。
「そうでしょう、クテイ」
まばらに舞い落ちる花弁に目を細め、長光は老いた桜の木を見上げる。
「だから、皆にもあなたを愛して頂きましょう。あなたを敬い、望み、慕うように理を作り替えてしまえばいいのです」
長光の体の下には、粘液の海が広がっていた。アソウギ。
「けれど、あなたが愛するのは私だけ」
長光が桜の木に向けて広げた手中には、小さな水晶玉が握られていた。ラクシャ。
「あなたを通してより精錬された真実の愛が、清浄なる神託が、私とあなたを繋ぎ合わせるのです」
長光の傍らには、金属製の棺が横たわっていた。タイスウ。
「異次元宇宙の演算能力で物質宇宙の概念を改変し、クテイに本物の神として君臨して頂きましょう」
それを成し遂げるには、莫大なエネルギーを要する。概念を操作する概念である桑原れんげは、シュユによって使い切られたが、桑原れんげがインターネットの中に構築したネットワークまでは消えていない。そのネットワークは遺産同士の互換性を支えにしているので、遺産を用いれば容易に内部に侵入出来る。ラクシャには、それに必要な情報とプログラムは現存していることを確認した。家紋は手元にあり、同時にフカセツテンも手中にある。シュユがつばめ側に付いていようとも、未だ、長光が優勢であることに変わりはない。
結晶体の障壁に覆われた上空には、空間が歪曲した影響で局地的に発生した低気圧から降り続いていた雪が山のように積もっていた。陽光に似た光を放っているのは障壁で、空気が暖かいのはフカセツテンをエンジンなしに起動させようと実験を繰り返したからだ。原動力に使ったのは、フカセツテンに圧砕された自宅に残っていたつばめの生体組織と、死に損ないの虫女だった。長光の仮初めの体として使ってきたが、暴風雪に紛れて船島集落に辿り着いた時点で力尽きてしまった。つくづく役に立たない娘である。
フカセツテンの上部に降りた長光は、タイスウと同じ素材で出来ている端末、家紋を用いてフカセツテンの外壁に穴を開け、無理矢理体を滑り込ませた。その際に、当の昔に限界を超えていた美野里の肉体は外骨格が分解して内臓が散らばり、体液も一滴残らず零れ落ちてしまった。長光はクテイを通じて精神体を退避させたので、ダメージはほとんど受けなかった。乾いた体液の筋が付いた黒い外骨格が、桜の木の根本に散乱していた。
「美野里さん。この私が、あなたを愛するわけがありませんよ」
長光が人型ホタルの生首を小突くと僅かに転がり、折れた触角が土を擦る。
「私が美野里さんを構ってあげたのは、つばめさんを陥れる罠に必要な綱を撚り合わせるために決まっているではありませんか。それなのに、あなたと来たら、私があなたを愛していると思い込んで、私の甘言を真に受けて……。それでも、弁護士になった女性なのですか? ああ情けない、ああ下らない、ああ鬱陶しい」
年季の入った革靴の靴底で頭部を踏み砕いた後、長光は靴底を地面に強く擦り付けて汚れを拭った。アソウギを用いて再生した肉体は真新しく、死を迎える寸前とは随分と勝手が違うが、自分の体だから使い方はすぐに思い出せるだろう。五〇年分の年月を取り除いた、二十代の若々しい肉体を取り戻した長光は、古びた我が家に残しておいた服に袖を通していた。異次元宇宙とラクシャに保存しておいたゲノム配列が見事に再現された新たな肉体は、アソウギが与えてくれる活力が隅々にまで宿り、死する寸前の苦しさは消えていた。
船島集落はクテイの庭だ。五〇年分もの時間を掛けて、クテイがその眷属とも言える植物を繁栄させ、猥雑とした人間の土地を浄化してくれた。人智を越えた遺産を守り、慈しんでいた。血を分けた息子達を育てるために不可欠だった食糧を育んでくれた。そして、長光の愛情を受け止めてくれた。
クテイを守り、育て、満たしてやりたい一心で、ここまでやってきた。もう一息で仕上げだ。長光は込み上げてくる笑いを押し殺しながら、ごつごつとした木肌の桜の木に背を預けた。一足先に春を謳歌している船島集落の全貌を見渡し、筋肉の衰えていない上腕に爪を立てる。そうでもしないと、意識が飛んでしまいそうだったからだ。
あまりにも、クテイが愛おしいから。




