後悔、サーキットに立たず
記憶容量に保存された、過去が蘇る。
規模が小さかった頃の小倉重機の手狭な作業場で、作業台の上から小さな赤子を視認していた。外装の艤装も済んでおらず、センサー類も頭部には収まっていなかったので、ケーブルで繋いであっただけだ。もちろん内部機関も剥き出しで、人間の骨格に似通った合金製のフレームが蛍光灯の青白い光を撥ねている。
カメラを動かし、ピントを合わせ、赤子を抱いている人間を認識する。顔の部品の配置と体格と音声で、その男が小倉貞利であると理解する。彼は言った。この子は先週妻が産んだ娘だ。名前はミツキ、美しい月と書くんだ、お前の妹みたいなものだ。だから、これから仲良くしてくれ。一緒に育っていってくれ。
それから、その赤子との日々が始まる。赤子は日に日に大きくなり、彼は日に日に人格の基礎を固める情報が蓄積していき、互いを補いながら、成長していく。赤子は幼児となり、幼稚園のスモックを着るようになる。幼稚園で何があったのかを毎日話して聞かせてくれ、お遊戯の歌も歌ってくれた。幼児は少女となり、ランドセルを背負って元気よく小学校に通うようになる。嫌なことがあると作業場に籠もって、彼に愚痴を零した。あの先生は意地悪だ、あの男子とケンカした、あの女子は誰それをいじめている、など。良いことがあると、少女は誰よりも先に彼に報告してくれた。それに対して少しだけ優越感を覚えた。
テレビのこと、漫画のこと、勉強のこと、学校のこと、家族のこと。少女の記憶と経験を知っていくに連れて、彼の集積回路に情報が降り積もり、彼という疑似人格を織り上げていく。その心地良い時間は、成長した彼が人型重機として建設現場に駆り出されるようになってからも続いていたが、三年前を境に一変した。
彼は土木作業に欠かせない装備を外され、格闘戦のプログラムをインストールされ、外装を塗り替えられ、深夜の廃工場に作り上げられたアンダーグラウンドな闘技場で戦いに明け暮れるようになった。それと同時期に、少女の話すことが暗澹としてきた。帰りの遅い父親、出掛けてばかりいる母親、辛い中学受験をして入学した大学付属中学校には未だに馴染めず、唯一の友達との格差に悩んでいた。少女の面差しは暗く、いつも不安げだった。
少女は彼の基礎であり、軸であり、精神の母だった。彼は少女の兄弟であり、柱であり、力の象徴だった。二人は互いが存在しているからこそ、互いを保てている。だから、何があっても傍にいなければならない。それが彼の存在意義であり、少女の存在意義でもある。だが、彼を支えている集積回路の本来の持ち主は少女でもなければその父親でもない。だから、あるべき場所に戻り、収まるべき場所に収まらねばならない。
だが、それは少女との別離を意味する。
再起動を終え、視界を広げる。
広角レンズを備えたアイセンサーを動かし、彼女を捉える。溌剌とした表情は失われ、暗澹とした面持ちで配線を修理していた。機械油に汚れた作業着と軍手は十四歳の少女らしからぬ泥臭さで、一抹の痛ましさを覚える。それが錯覚ではないことを祈りながら、レイガンドーは完全に潰れた己の拳を掲げた。
レイガンドーと岩龍には、遺産の一つであるムジンが搭載されている。それは現在の人類の科学水準を凌駕した演算能力を備えていて、大人の手のひらに収まるサイズの集積回路一枚で膨大な情報の処理が可能であり、同時に膨大な情報も保存出来る代物である。それがあったからこそ、レイガンドーと岩龍には疑似人格が出来上がり、人間に勝るとも劣らない自己判断能力も持っている。ただの人型重機の範疇を越えてロボットファイターとして活躍出来ているのも、ムジンがあるからだ。しかし、佐々木長孝の触手によってレイガンドーと岩龍に溶接されたムジンがある限り、小倉重機に携わる人々に困難は降り掛かり続ける。だから、ムジンを外すためにあらゆる手を尽くし、道具を使ったが、何をどうやってもムジンは外れなかった。だから、実力行使で攻めてみようと岩龍から外した回路ボックスを殴り付けてみたのだが、その他の回路は粉々に砕けてもムジンだけは未だに無傷だった。
そして、レイガンドーは右腕を派手に損傷した。アスファルトもその下の地面も殴り抜いたのだが、忌々しい集積回路だけはダメージが通らなかった。オイルの滴る潰れた拳を眺めていると、自尊心が軋んだ。
「親父さんは、何をどうやってムジンを俺達にくっつけたんだか。それさえ解れば、手の打ちようがあるんだが」
レイガンドーが零すと、美月は工具を下ろして顔を上げた。
「左腕の配線は直してみたけど、動く?」
「ああ、この通り」
レイガンドーが左腕を上げてみせると、美月は汗ばんだ頬を手の甲で拭った。そのせいで、黒い汚れが付いた。
「左腕は摩耗した部品の交換と精密検査だけで大丈夫だろうけど、右腕は肩から下は全部交換かなぁ。武公の腕の規格が合えば、それで間に合わせられたんだろうけど、武公はレイよりも一回り小さいから」
美月は作業場の奥に目を向け、作業台の上に横たわっているロボットファイターを捉えた。彼もまた、遺産の恩恵を少なからず受けていた身の上なので、シュユとの繋がりが途切れると同時に機能停止してしまった。当然、小倉重機の社員達は彼を再起動させようと尽力したのだが、武公の駆動システムと疑似人格を支えているプログラムがごっそりと消えていた。その上、スタンドアローンになっているはずの小倉重機のコンピューターに保存されていたプログラムのバックアップも消えていたので、再インストールしようにも出来なかった。だから、今、武公のボディはただの抜け殻になっている。佐々木長孝が小倉重機の元を訪れ、バックアップのプログラムを再インストールすれば再起動出来るのかもしれないが、その佐々木長孝と連絡が付かないので、現状では不可能だ。
「仕方ないさ、事態が事態だからな。それに、武公の腕なんかじゃ、俺のパンチの威力が下がっちまう」
レイガンドーは首を横に振りながら、軽口を叩いた。
「私がフルパワーで、って命令したのがいけなかったんだよ。再来週、また試合があるのに」
美月は手袋を外してから、作業台の端に置いてあったペットボトルを取り、飲みかけのスポーツドリンクを呷った。喉を鳴らして飲み終えてから、美月は満足げに息を吐いた。いつのまにか背が伸びていて、子供のままだとばかり思っていたが、作業着に隠れた下半身には女性らしい丸みが付いていた。
レイガンドーが横たわっている作業場の中では、小倉重機の社員達が忙しく立ち回っていた。その光景は、昔と差して変わりはしない。社員は三割は入れ替わっているが、会社の発足当時から勤めているベテランの機械技師が何人もいる。彼らもまたレイガンドーの育ての親であり、家族でもある。彼らは分解した岩龍を囲んでいたり、レイガンドーの新しい右腕に使用する部品を加工していたりと、動き回っていた。中でも最も忙しくしているのが、他でもない小倉貞利だった。十五年分の年齢は重ねたが、昔と変わらず、精力的な職人だ。
「ごめんね、レイ。岩龍を壊させる仕事なんか、させちゃって」
美月が謝ってきたので、レイガンドーは動かせる左腕で彼女の背中に指を添えた。
「気にするなよ。俺とあいつは何度も拳を交えた仲だ、岩龍も解ってくれるさ」
「でも、ムジンを使っているってことは、レイと岩龍は兄弟ってことでしょ? それなのに」
「いいから、そう深く考えるなよ。俺達は機械なんだ、人間とは違う」
レイガンドーは美月を励ましてやろうとしたが、自分で発した言葉が集積回路に突き刺さった。機械ならば、なぜこんな感情がある。人型重機なのに、なぜ心が存在している。レイガンドーが自我を持つようになったのも、やはりムジンが原因だ。ムジンが搭載された日を境に、レイガンドーの電子頭脳の中に心が芽生えた。だが、それは元を正せばコジロウの回路なのだ。つまり、コジロウの分身だ。
だとすれば、レイガンドーと岩龍とは何なのだ。コジロウの予備なのか。万が一、コジロウが大破した際につばめを守る盾になるべく作られた、スペアに過ぎないのか。だが、レイガンドーはレイガンドーだ。小倉貞利がその名を付けてくれた瞬間から、美月がその名を呼んでくれた瞬間から、個としての人格を得た。それがなくなれば、自分はコジロウの一部に戻ってしまうのか。美月の傍にはいられなくなるのは間違いない。コジロウとは、佐々木つばめを守るためだけに存在するロボットだ。RECに所属するベビーフェイスのロボットファイターではない。
「あのね、レイ」
周囲の騒がしさに紛れるほどの声量で美月は呟いたが、レイガンドーの聴覚は鋭敏にその音声を拾った。
「羽部さんとね、連絡が付かないままなんだ。羽部さんの携帯は見つかったんだけど、電源が入っていないらしくて何度電話しても繋がらないの。でね、その携帯は船島集落の近くにあるの。でも、解るのはそれだけなんだ。あの辺ってGPSが効かないようになっているから、細かいことまでは解らないの」
レイガンドーに寄り添い、美月は憂う。そんな繊細な表情は、レイガンドーの記憶容量に保存されていない。
「だけど、捜しに行けないや。羽部さんとまた会いたいけど、色んなことを話したいけど、レイのこともお父さんのことも放っておけないし。つっぴーが羽部さんのことを知らないって言っていたのは嘘だったのかな、とか思っちゃうし、それが本当だったら嫌だし。でも……」
「そんなにあいつに会いたいのか?」
レイガンドーの回路の端が、かすかに嫌な熱を帯びた。美月は顔を逸らす。
「うん。もう一度だけでいい、それだけでいいの」
「どうしてだ」
「だって、羽部さんって私の手に負える人じゃないもん。ずっと年上だし、ヘビだし、ああいう性格だし。だけど、何も伝えないままでいるのも良くないなぁって」
その言い方では、羽部に好意を持っていると明言しているようなものだ。レイガンドーは、美月の辿々しい恋慕に生温い感情を覚えたが、それを遙かに上回る苛立ちも感じた。偽物の感情の域を超えつつある。
「俺がいるじゃないか」
レイガンドーは美月の頬に指先を添えてやると、美月は泣き笑いのような顔を作る。
「うん。でも、レイは私のお兄ちゃんだから。羽部さんとは、ちょっと違うの」
だから、そういうんじゃないの、と付け加えてから、美月はレイガンドーに寄り掛かった。嗅覚に当たるセンサーが備わっていれば、マスクフェイスに寄せられた髪の香りが解っただろう。それが解らないのがどうしようもなく残念で、レイガンドーは動かない右腕に力を込めた。感情と人格を成す経験に、澱が溜まる、溜まる、溜まる。
「レイがコジロウ君になっても、私はずっとレイのことを忘れないから」
美月はレイガンドーの肩装甲にしがみつくと、背を丸める。その仕草は、大のお気に入りのオモチャを近所の子供に取られて壊されたと泣き付いてきた、三歳の頃と何も変わっていない。
「そうだな」
レイガンドーが頷くと、美月は少し声を詰まらせる。
「岩龍のことも、絶対に。レイと岩龍の試合をちゃんと見たのは一度だけだったけど、本当はそう思っちゃいけないんだろうけど、あの地下闘技場で戦っていたレイは格好良かった」
「そうだな」
「レイがつっぴーのことを知っていたってだけで、怒っちゃったのはごめん。でも、後から考えてみたら変なことでもなんでもないんだよね。だって、レイは元々コジロウ君だったんだから、つっぴーのことを知っていて当然だし」
「そうだな」
「レイが今のレイじゃなくなっても、私はもう一度レイを作ってみせる。その時は、またよろしくね」
「……そうだな」
けれど、それはレイガンドーであってレイガンドーではない。同じ部品で組み上げられ、同じ回路を詰められ、同じ情報とプログラムをインストールされて、同じ経験を重ねたとしても、ここにいるレイガンドーではない全くの別物だ。その別物の自分に、美月は再び好意を寄せるのだろうか。家族として慕ってくれるのだろうか。レイ、と同じ愛称で呼ぶのだろうか。それが、どうしようもなく不愉快だった。
不愉快だと感じるだけ無駄なのだ。ただの人型重機が、大衆娯楽のために改造されたロボットが、人並みの感情を持っているだけ、記憶容量と回路と電圧の浪費だ。そう思って自分を律そうとしても、レイガンドーの意志に反してムジンに情報は駆け巡り続ける。レイガンドー以外の男に目を向けた美月が、美月から好意を向けられた羽部が、通じ合ってすらいない二人に鬱屈とした感情を抱く自分が、途方もなく煩わしい。
それもまた、コジロウの残滓なのかもしれない。コジロウが警官ロボットのボディをに手に入れる以前、パンダのぬいぐるみとしてつばめを守っていた頃に、コジロウが抱いていた感情の延長だとしたら、レイガンドーの感情とは言い難いものだ。残り滓を集めて煮詰めて凝縮して作り上げた、不格好な塵芥だ。だとすれば、レイガンドーは永遠にコジロウの呪縛から逃れられない。いかに自立した自我を抱こうと、感情を得ようと、コジロウの一部から出来たという事実がある限りは、レイガンドーはコジロウの下位個体という括りから脱せない。
最大級の侮辱であり、屈辱だ。レイガンドーは負の感情に分類されるものの中でも、最も痛烈な情緒を認識して内部機関を過熱させた。廃熱不良でも起こしたの、と美月が心配してきたが、レイガンドーは無言で蒸気を噴出させた。辺り一帯に機械油の匂いが混じった蒸気が立ちこめ、一瞬、視界が白む。
「本当に、それでいいと思っているのか?」
行き場のない思いが渦巻いたムジンが動力を生み出し、レイガンドーの機体を熱させた。
「レイ?」
レイガンドーらしからぬ言葉に臆したのか、美月が訝ってくる。
「俺は良くない。コジロウに戻ったら、俺は俺でなくなる。俺は、俺でいたい」
ぎぎぎぃ、と力を込めて左腕を曲げて上体を起こし、破損した右腕を自切し、垂れ下がったケーブルを千切る。
「どうしたの、レイ、ねえ」
美月はレイガンドーに駆け寄ったので、レイガンドーは美月を左手で抱え、目の前に掲げた。
「どうもしてやいない。俺は俺で在りたいだけさ」
異変を察し、他の社員達がレイガンドーの周囲に駆け寄ってきた。もちろん、小倉貞利も。
「レイガンドー、何をしている。作業は途中なんだ、美月と遊んでいる暇はないんだ」
仕事が切羽詰まっているからだろう、小倉の態度は若干荒かった。
「佐々木と連絡が付いた。半日もすれば、あいつはここに移送されてくる。そうなれば、お前と岩龍はムジンから解放されるんだ。それまで大人しくしておけ、もうしばらくの辛抱だ」
「辛抱? 俺はこれ以上、何に耐えろと?」
レイガンドーが聞き返すと、小倉は面食らった。
「何って……」
「俺は他の誰でもない、コジロウじゃない、社長が作った最初の人型重機であってロボットファイターのレイガンドー、型番はR‐01、全高二九二センチ、総重量三一二キロ、最大出力三〇〇馬力、マスターは小倉美月、今の俺のどこにコジロウの要素が含まれているんだ? つばめも嫌いじゃないが、俺のマスターは美月だけだ」
美月を抱えて立ち上がったレイガンドーは作業台から飛び降り、背中に接続されていたケーブルも外した。
「おい、レイガンドー!」
小倉は出口に向かって歩き出したレイガンドーの前に立ちはだかるが、レイガンドーはその上を乗り越える。
「俺は俺だ」
ただ、それだけのことだ。ねえ、レイ、レイってば、と美月はしきりにレイガンドーを諌めようとしてくるが、その命令には従えなかった。レイガンドーは作業場を脱して外に出ると、鉛色の雲が頭上に広がっていた。外部からの命令で機能停止させられないんですか、出来たらとっくにやっている、との声が背後から聞こえてきたが、レイガンドーは振り返ることなく、足を前に進め続けた。
「レイ、止まって! まだ整備は終わっていないし、右腕だって換装しないと!」
美月はレイガンドーの視界を遮ろうと身を乗り出したが、レイガンドーはそれを阻んだ。
「その命令は聞けないな」
だが、どこへ。どこへでも。レイガンドーは自問自答の最中にインターネットに接続して検索し、周辺地域の地図を参照した。船島集落への道程は遠いが、補給を重ねながら進めば問題はないはずだ。コジロウとレイガンドーが他の遺産同士のように繋がり合っているのであれば、コジロウもレイガンドーの異変を感じ取っているはずだ。ならば来てみろ、戦ってやる、お前が切り捨てたものをぶつけてやる、との屈折した戦意が熱する。
自分の意思で歩いている、進んでいる、道を選んでいる。たったそれだけのことなのに、誇らしい気持ちすら感じてしまう。それだけ、今までの自分が抑圧されていたということだ。充電が半端だったのでバッテリーの残量は心許ないが、そんなことは後でどうにでもなる。不安に駆られたのか、美月は顔を曇らせたので、レイガンドーは彼女を肩装甲に座らせてやった。幼い頃と変わらない姿勢で腰掛けた美月は、きつく唇を結び、彼方を睨んだ。
人も車も通らない道路が、黒々と横たわっていた。
小倉重機の臨時作業場は、散々たる有様だった。
政府の輸送車両から降りた佐々木長孝は、生え替わったばかりで皮膚が軟弱な触手を地面に擦らないように気を付けながら進んでいった。ここまで送り届けてくれた柳田小夜子は小倉重機に用があるらしく、後に続いてきた。大型トレーラーを改造した輸送車両は護衛のための自衛官達が取り囲んでいて、その中に収まっているシュユを守っていた。社員達は右往左往していて、岩龍を組み上げようと必死になっていたが、慌てすぎて部品を落としてしまったりしていた。長孝が作業場の屋内に入ると、疲弊しきった面持ちの小倉貞利が出迎えてくれた。
「小倉。何があった」
長孝が声を掛けると、小倉は淀んだ目で長孝を見返してきた。
「来るのが遅いんだよ、相変わらず」
「レイガンドーがいないようだが、他の場所でオーバーホールしているのか?」
「そうじゃない。あいつは逃げ出したんだ、美月を連れて」
小倉は顔を歪め、白いものが混じり始めた髪を掻きむしった。
「これは仮定に過ぎないが、ムジンの影響とみていいだろう。シュユが著しく損傷した際に、異次元宇宙と物質宇宙の接続が途切れたんだ。今もまだ復旧していないが。レイガンドーはコジロウと岩龍と同様、異次元宇宙で情報を処理する際に余剰分の感情を処分していたはずだ。だが、接続が切れてしまったためにその情報処理が行われず、レイガンドーの疑似人格には余剰分の感情が蓄積し、人間のそれに匹敵する情緒が」
「御託はいい!」
整然と言葉を並べる長孝に、小倉は掴み掛かる。作業着の胸倉を掴み、部品のない顔に額を突き合わせる。
「お前ならムジンを外せると思ったから、こうして呼び付けたんだ! あれがある限り、俺達はお前ら一族の騒ぎに巻き込まれ続けるからだ! お前がもっと早く来てムジンを外してくれれば、レイガンドーは昔の怪獣映画みたいに美月を攫っていかなかっただろうさ!」
「レイガンドーが?」
「ああ、そうだよ! お前がコジロウのムジンを割って、俺に寄越さなきゃこうはならなかった! 佐々木はこうなると知っていたから、コジロウのムジンを割ったんだろうが! 違うとは言わせんぞ、この触手野郎!」
声を嗄らして小倉は叫び、長孝を突き飛ばした。長孝はよろめき、下半身の触手を曲げて踏み止まる。
「そうだな。その通りだ」
二の句を継ぐ前に、小倉の拳が長孝の横っ面にめり込んだ。つるりとした顔面は見事に抉れ、佐々木長光との一戦で消耗しきっていた体は呆気なく吹き飛んでコンクリートの床に倒れた。肩を上下させている小倉は恨み言を吐き捨てながら、長孝を睨んでいる。真っ当な怒りを受け止めた長孝は、敢えて起き上がらなかった。
人間が人格を完成させるためには、情報と経験を蓄積させることが必要である。しかし、機械は違う。情報と経験をどれほど蓄積させようとも、情緒には至らない。人格と呼べるほどの細かな感情の揺れが再現出来ないからだ。だが、それが再現出来る情報処理能力を備えていたとしたら別だ。
だから、コジロウは人格を持たないためにムジンを割った。感情を処理するために必要な部分を排除して情報だけを処理出来るように加工し、警官ロボットに組み込んだ。そうやっておけば、つばめは人恋しさから警官ロボットと通じ合ったとしても、無用な悲しみに見舞われずに済むからだ。だが、コジロウから切り捨てられた部分を備えたロボットはそうではない。コジロウが捨てた業を背負わされたも同然だ。そして、長孝が捨てた業でもある。
「何もかも、お前のせいだ」
長孝の生え替わったばかりの触手を乱暴に握り、上体を起こさせ、小倉は怒鳴り散らした。
「俺はレイガンドーの性能を上げたかった。ガキの頃に考えていたような、人と通じ合えるような心を持ったロボットを作りたかった。だから、お前が寄越してきたムジンを使った。お前を経由して発注された警官ロボットを製造するためにも、ムジンの演算能力が必要だったからだ。おかげでうちの会社は随分と儲けられた。レイガンドーも格段に強くなった。だが、その結果はどうだ!? お前が、岩龍なんか作らなければ! お前が、俺を天王山に誘ったりはしなければ! お前はお前が忌み嫌う親父と同じだ! 自分のエゴのために、他の人間を簡単に踏み躙る!」
小倉は長孝を揺さぶり、コンクリートに叩き付けた。頭蓋骨が激突する、嫌な音が響く。
「俺がこうなっちまったのは、自分の責任だ。だが、美月は違う。あの子は違う。それが解らんとは言わせん」
「……ああ」
押し殺した呻きを漏らした長孝に、小倉は曲げた背中を引きつらせる。
「自我を持って暴走したロボットはどうなる。それだけは教えてくれないか」
「人間と同じだ。欲しいものを欲しがる」
「それじゃ、あいつは、美月を」
「そういうことなんだろう」
小倉が退いたので、長孝は後頭部をさすりながら起き上がった。どうしてだ、あいつは作り物だろう、それなのに、と呻きながら頭を抱えた小倉に、長孝は何も言えなかった。それは自分も同意見だ。ムジンを欠損させて性能を落としてくれと長孝に申し出てきたのは、他でもないコジロウだからだ。その時点で、コジロウはつばめに対して並々ならぬ執着を抱いていたという証拠だ。だが、一線を越えてはならないと判断したから、敢えて自らの性能をダウングレードすることを選択した。一途な愛と言うべきか、狂信的な執着と言うべきか。
人と機械の隔たりが大きいが故の、苦悩だ。
長孝は触手を動かし、岩龍が備えていたムジンを調整しながら語り始めた。
三年前。その頃は、コジロウはパンダのコジロウでしかなく、小学五年生になったつばめと穏やかな日々を共に過ごしていた。パンダのぬいぐるみの中に隠されているムリョウは、つばめの感情の機微を受け取りながら動力を充填しつつあった。幼いつばめとコジロウの関係も極めて良好で、つばめは喋って動くパンダのぬいぐるみをとても可愛がっていた。備前家の家庭環境も落ち着いていたので、このままムリョウにつばめの感情を充填していけば、つばめが十六歳を迎える頃合いにはムリョウをフルパワーで再起動出来るはずだった。その膨大なエネルギーを利用してフカセツテンを起動させれば、ニルヴァーニアンと遺産を異次元宇宙に旅立たせられる予定だった。クテイはそのために、ムリョウとムリョウのリミッターを兼ねたムジンを長孝に譲渡していた。だが、異変が起きた。
つばめに初潮が訪れた。それ自体は人間の肉体的な成長の範疇であり、いずれ訪れることではあったのだが、それと同時期につばめの精神状態が大いに変動した。素直で利発な少女だったつばめは、金に対する執着を露わにするようになった。小遣いをもらっても必要最低限しか使わず、小銭を掻き集めて溜め込み、自分の名義で預金通帳を作って貯金するようになり、現金の束も手元に置くようになった。いつしか、つばめの行動理念の中心は金になり、人の顔色を窺って振る舞うようになった。打算的で現実的な子供になった。
「それが、コジロウには耐え難かったんだ」
長孝はペンチで挟んでバーナーで炙っていた工業用カッターを青い炎から下げ、少し冷ましてから、触手に添えて引いた。赤黒い粘液が岩龍のムジンの上に滴ると、三角形の集積回路は青白い光を帯びた。
「それだけの理由で、感情を切り捨てるのか?」
小倉は長孝の傷口から目を逸らしながらも、ペンチで岩龍のムジンを剥がした。呆れるほど容易く、分離した。
「小倉だって、身に覚えがあるだろう。直美さんのことだ」
長孝が指摘すると、小倉は渋面を作り、長孝の体液に汚れたムジンを水に浸して洗った。
「ああ、そうだな。そうだよ。俺は直美に心底惚れていた。直美は少し打たれ弱いが、それは俺が支えてやればいいと思って結婚した。会社が上手くいかなくても、愚痴も零さずに一緒にいてくれた。お前みたいに抜きん出た性能の機械を設計出来ないからって苛ついていても、八つ当たりしても、直美は俺を見限らなかった」
だがな、と声を詰まらせ、小倉は額を押さえる。
「俺は、直美が独身の頃から弐天逸流にどっぷり浸っていたと知っただけで、あいつの全部が嫌になった。何もかもうんざりして、鬱陶しくて、家に帰るのが馬鹿馬鹿しくなった。俺が死に物狂いで稼いできた金が変な宗教に流れていくのかと思うと腹が立ってどうしようもなくなって、家に金を入れなくなった。美月と会うのも気まずくて、俺は朝から晩まで会社にいるようになった。……ああ、馬鹿だよ、俺は馬鹿だ」
小倉は体を折り曲げ、唇を歪める。
「一度でもいいから、ちゃんと向き合ってやるべきだったんだ。突き放せば突き放すほど、直美は弐天逸流にもっとのめり込んでいくんだから。そうなれば、美月だっていずれ引き摺り込まれると解っていたのに。それなのに俺は、レイガンドーを改造して、天王山に通い詰めて、お前と腕を競うようになった。レイガンドーと岩龍を戦わせている間は、嫌なことを考えずに済むからだ。ああそうだ、俺が弱い、俺はタカよりもずっと弱いんだ」
色褪せた作業着を着た背中が引きつり、押し殺した呻きが漏れた。
「直美さんのことは、まだ間に合う。あの人は生きているからだ」
そうだろう、と長孝が小夜子に話を振ると、岩龍が横たわっている作業台に立っていた小夜子は答えた。
「ええ、まあ。弐天逸流から放逐された信者の居場所は洗い出してあるんで、社長の嫁さんも見つかっていますよ。なんだったら、嫁さんを収容する予定の療養所の場所も教えますよ。その辺の手回しはこれからなんで」
「本当か?」
小倉が顔を上げると、小夜子は軍手を付けた手で握ったスパナを回した。
「あたしが嘘を吐くメリットがどこにあると思うんすか。遺産絡みのゴタゴタの関係者は大多数が無事じゃないから、証言を引っ張り出せる可能性がある生存者は丁重に扱いますって。だから、嫁さんに会ってやって下さい。RECも大事ですけど、家族はもっと大事ですからね」
やべぇクセェこと言っちまった、とぼやき、小夜子は小倉に背を向けた。
「要するに、コジロウは成長したつばめを嫌いたくなかった。幼いつばめに寄り添って暮らしていくためには不可欠だった感情も、思春期に片足を突っ込んで感情の振り幅が大きくなってきた相手と接する際には枷になるんだ」
長孝は岩龍の回路ボックスを開けたが、レイガンドーの渾身の打撃で全ての基盤が粉々に砕けていた。
「遠からず、つばめは大人になる。美月さんも大人になる。だが、彼らは違う。経験と情報をどれだけ積み重ねても、決して成長出来ない。だから、苦しんでしまうんだ」
「そういうお前は、どうなんだ」
長い間を置いてから小倉が問うと、長孝は基盤の破片をペンチで摘み上げ、眉間に当たる部分を顰めた。
「ニルヴァーニアンに成長という概念はない。当の昔に捨て去った。新規の個体が誕生しても、その精神体も肉体も生まれながらにして完成している。俺もそうだ。言ってしまえば母さんの分身だ。俺という個人が存在していると思うのは勝手だが、そんなものは幻想だ。佐々木長孝という個体識別名称があり、それで呼ばれているから、俺は俺の自我を保っているように見えるが、そんなことはない。俺は母さんの分身だ」
「だったら、つばめちゃんのこともそう思うんすか?」
小夜子の言葉に、長孝は首を横に振る。
「いや、あの子は違う。俺とも違うし、ひばりとも違う。だから、俺と関わるべきじゃない」
「会ってやれよ。俺も、美月と会ってちゃんと話したから、今があるんだ。一度は親らしいことをしてみろ」
俺が言えた義理じゃないが、と付け加えてから、小倉は洗浄したムジンから水分を拭い去った。その言葉に長孝は心中がぐらつきかけたが、制した。本心で言えば、娘に会いたい。生物学的にどうなのかは怪しいが、戸籍の上では長孝はつばめの父親だ。だが、人格が根本から歪んでいる長光がクテイに歪曲した愛情を注ぐ様を見てきたためなのか、父親としてどう振る舞うべきなのかが解らなかった。その上、長孝がひばりを手放してしまったから、ひばりは生まれたばかりのつばめを奪われた末に自死した。あの時ああしていれば、という後悔が常に付き纏い、それ故に新たに行動に出られない。変わることに怯えるならば、変わらなければ良いだけのことだ。
今、やるべきことは後悔ではない。岩龍を即席で組み上げて再起動させ、レイガンドーに対処出来る戦力を完成させなければならない。美月を攫っていったレイガンドーの精神状態は極めて不安定で、芽生えたばかりの自我に過度な刺激を与えれば、レイガンドーは極端な行動に出る可能性がある。政府の人間が早々に手を回しておいてくれたおかげで、レイガンドーの行き先は特定出来ていて、車両による追尾も行っているが、美月の安全を考慮して制圧は行っていない。放っておけばレイガンドーのバッテリーは半日で切れるが、その隙を待っている間に佐々木長光が現れてレイガンドーのムジンを奪っていったら、取り返しが付かなくなる。宮元製作所での一戦で、美野里の肉体を借りている佐々木長孝は大ダメージを受けていたが、政府に回収される前に逃亡しているからだ。
今度こそ、先手を打たなければならない。だが、社員達にも動揺が広がっている影響で、岩龍の組み立て作業は思うように進まなかった。かといって、他に戦力になるものはいない。岩龍以外に、レイガンドーに立ち向かえる実力を持ったロボットは存在しない。量産型の警官ロボットでは相手にならないし、コジロウを呼ぶにしても遠すぎる。
「あのぉ」
作業場の出入り口が翳り、他の誰でもない声がした。何事かと振り向いた者達は、長孝と小夜子を除いた全員が硬直した。それもそのはず、全長三メートル近い化け物が立っていたからだ。凹凸のない顔に青白い光を放つ光輪を背負い、両手足から触手をうねらせている異形。シュユだった。
「起きていて大丈夫なのか」
ざわつく社員達を横目に長孝がシュユに近付くと、シュユは長孝と目線を合わせた。
「さっきから僕の意識にノイズが走って、どうにも寝付けないから起きちゃったんだ。体中はまだ痛いし、内臓も大半が崩れているけど、その辺はまあどうにでもなるから。それで、タカさん、ノイズの原因って岩龍?」
やけにフランクな口調のシュユは、人間にも聞こえる音声を発しながら、触手を曲げてムジンを差した。
「いや、岩龍じゃない。原因はレイガンドーだ。彼は自我に目覚め、美月さんを攫っていってしまった。だから、岩龍を再起動させるために作業を急いでいる。都合が良ければ、触手を貸してくれないか」
長孝が返すと、シュユは触手を一本伸ばし、顎に当たる部分をさすった。
「ああ、そうか。道理でざらざらしたものが流れ込んでくるわけだ。だけど、岩龍を再起動させるのはちょっと難しいかな。レイガンドーは起動したままだったから異次元宇宙との接続が切れても意識を保てているけど、岩龍は一旦シャットダウンしちゃったから、再起動して再接続させて人格を記憶をダウンロードするには時間が掛かっちゃうよ。手っ取り早い方法は、僕を乗せてきたトレーラーを警護している量産型の警官ロボットにムジンを載せて岩龍以外の意識をダウンロードさせることだね。そうすれば、一応戦力は作れるけど」
「そうか。だが、それは誰の意識だ」
長孝に訝られ、シュユは数本の触手で厚い胸板を示した。美野里に襲われた際の、生々しい傷が残っている。
「羽部君だよ。彼の肉体は滅んだけど、意識は異次元宇宙に飛ばされる寸前に物質宇宙に止められたから、まだ僕の中にいるんだ。それに、羽部君は美月さんに会いたがっているからね」
ちょっと借りるよ、とシュユは触手の尖端でムジンを取り上げ、触手をくねらせながらトレーラーに戻っていった。警官ロボットを流用するのは法律に抵触するのではないだろうか、と長孝は不安に駆られたが、あたしは知らねぇからな、何も見ていないからな、と小夜子は顔を背けながら笑いを噛み殺していた。
短時間で警官ロボットの改造を終えたシュユは、警官ロボットを伴って作業場に戻ってきた。姿勢制御プログラムに従った余裕のない歩き方ではない、重心と確信が据わった歩調だった。腰を微妙に曲げたポーズで立ち止まり、腕を組んでからぐるりと頭を巡らせる。いかにも、自尊心の固まりで斜に構えた若者といった具合だった。
「状況は今一つ解らないけど、叩き起こされたからにはそれ相応の仕事をしてあげようじゃないか。この僕がだ」
電子合成音声も調整してあるのか、警官ロボットは生前の羽部鏡一の声に酷似した声色で喋った。がしゃりと両脛からタイヤを出してコンクリートの床に噛ませ、軽くタイヤを転がして慣らしてから、長孝達に向いた。
「だけど、この素晴らしすぎて死んでも尚放っておかれないレベルで優秀すぎる僕を頼ったからには、どうなっても文句を言わないでくれる? レイガンドーを無傷で返す気はないし、この体には不慣れだからあの子を助けられる保証はないからね。あったとしても、この僕は報酬も成しに働く気は更々ない。ただ、今回だけは特別の中の特別というだけなんだから。散り様としてはこの上なく格好良く引き下がったけど、あれじゃいくらなんでもこの僕も消化不良なんだよ。どうせ三度目はない。だから、気分良く死ぬために心残りを晴らしてくるだけさ」
羽部は早口で持論を述べていたが、レイガンドーの現在位置をシュユから教えられるや否や、発進した。コジロウのそれとは若干力加減の違うスキール音が遠ざかっていき、白と黒の姿も程なくして見えなくなった。羽部が本当に頼りになるかどうかは疑問だが、何も手を打たないよりはマシだ。
だが、岩龍のムジンを搭載した警官ロボットが発進したからといって、事態が解決したわけでもなければ仕事が片付いたわけでもない。長孝はシュユに礼を言ってから、岩龍の組み上げ作業に戻った。忙しなく触手を動かして社員達にも指示を送りながら、ふと違和感に駆られた。シュユとはこういう性格だっただろうか。異種族故に人間を軽視していたような記憶があるのだが、その記憶はあまりにも希薄で、先入観とすら呼べないほどの浅さだった。程なくして、シュユは最初からこういう性格だったのだ、と長孝は納得した。すると、先程の違和感が綺麗に消失し、水を嚥下するかのように淀みなく認識した。シュユとは、異様に手先が器用で素朴な性格の男なのだ、と。
冷たく湿った風が吹き始め、間もなく雨が降り出した。
左腕を振りかぶり、腰を入れてストレートを放つ。
雷鳴にも勝る凄まじい打撃音が轟き、シャッターが吹き飛んだ。濛々と立ちこめる土埃を払ってから中に踏み込むと、年季の入った農耕機が並んでいた。稲の収穫が終わって久しいので、トラクターやコンバインや耕耘機は綺麗に洗浄されていた。収穫されて間もない籾を詰めた袋が積み重なり、奥には見上げるほど大きな乾燥機があった。レイガンドーが殴り飛ばしたシャッターは乾燥機に突っ込んでいて、握り潰した紙屑のようにひしゃげていた。
レイガンドーに続き、美月が中に入ってきた。急に降り出した雨に濡れてしまい、水を含んだ髪が顔に貼り付いていた。作業着の背中は色が変わるほど濡れていて、体温を奪われたのか、美月はしきりに二の腕をさすっていた。薄暗く埃っぽい室内を見回し、電源を探したが、一般的なアンペアの低いコンセントしか見当たらなかった。これでは、レイガンドーのバッテリーを充電出来るほどの電圧は得られない。バッテリーの残量は三分の一を切っていたが、機体のそこかしこに溜まった水気を払っておかなければ今後の動作に差し障りが出てしまうので、レイガンドーは機体の内部温度を高めて強引に乾燥させた。
「どうしよう、どうしよう、どうしよう」
美月は二の腕をさすりながらへたり込み、同じ言葉を繰り返す。その姿は、父親がロボット賭博に入れ込んでいると知った時と同じだった。レイガンドーは美月の背後に膝を付き、左手を差し伸べる。
「大丈夫だ。俺は美月の味方だ」
「そうじゃない、そうじゃないよ。レイ、自分が何をしたのか解っているの?」
額に貼り付いた前髪を掻き上げ、レイガンドーを見上げてきた美月の眼差しは、不安と困惑に揺れていた。
「お願い、今すぐ戻って。私の命令を聞いて」
「その必要はないさ。美月だって、俺がいなくなるのが嫌だったんだろう?」
腰を曲げ、余熱の残るマスクフェイスを美月に寄せる。美月は顔を覆い、項垂れる。
「うん。だけど、私、自分の我が侭で色んな人に迷惑を掛けたくない。私がレイと別れたくないって言ったら、きっと、つっぴーや色んな人が大変な目に遭う。コジロウ君が強くならなきゃ、またひどいことになる。だから、だから」
指の間からぼたぼたと涙を落としながら、美月は精一杯の意地を張っていた。ここでもコジロウなのか。目の前にレイガンドーがいるのに、なぜコジロウと同一視する。そう思うと、欲して止まない美月にも少し苛立ちが湧く。
「だったら、無理をすることはない。今まで通り、ずっと一緒にいよう」
レイガンドーは美月の背中に左手を添えると、美月は冷え切ったコンクリートに突っ伏した。
「うぅ、ぁ……」
理性と感情の板挟みによる苦悩を零し、美月は何度もしゃくり上げた。そんなに辛いなら、感情に従ってしまえばいいものを。だから、レイガンドーは己の衝動に従って美月を手に入れた。おかげで、今はとてつもなく清々しい気分に浸れている。当の美月は迷っているようだが、レイガンドーと濃密な時間を共有すれば、感情に従った方が楽だと気付いてくれるだろう。
美月の上擦った嗚咽と強まった雨音と、レイガンドーの駆動音が手狭な作業場に反響する。外界は薄暗く、両者の心中と似通っていた。ごめんなさい、でも、やっぱり、と自問自答を繰り返しながら、美月は小さな背中を小刻みに震わせている。レイガンドーは美月の傍に腰を下ろし、主を見守った。今の美月の心中にはレイガンドーしかいないのだと思うと、幾ばくかの優越感を覚えた。些細なことではあるが、羽部に勝てたのだ。
「どうしたらいいのか、解らない」
ひとしきり泣いて少しだけ落ち着きを取り戻した美月は、上体を起こし、濡れた袖で濡れた頬を拭った。
「レイは、どうしたいの。私を連れ出しても、どうせすぐに見つかって連れ戻されちゃう。左腕だけじゃ、いくらレイでも頑張れないよ。調整だって終わっていなかったんだからコンディションも万全じゃないし、バッテリー残量も大したことないよ。それなのに、なんでこんなことをしたの? 皆、困っているよ。お父さんだって、きっと怒る」
「美月はどうしたい」
「だから、それが解らないの!」
頭を大きく振った美月は、歯を食い縛り、涙を溜めた目でレイガンドーを見上げる。
「私だって、私だって、本当は我が侭を言いたい! つっぴーとコジロウ君みたいに、レイといつも一緒にいたい! でも、レイは私だけのものじゃない! RECのトップファイターで、皆のスーパースターで、ヒーローで、もう私だけのお兄ちゃんじゃない! ムジンをコジロウ君の中に戻さなきゃならない! でも、でも、でも!」
レイガンドーの膝に縋り付いた美月は、滂沱しながら喚き散らす。
「もう嫌だぁ! お父さんは帰ってきたけどお母さんは帰ってこない! 羽部さんだっていなくなった! つっぴーはどんどん遠くなっちゃう! りんちゃんは私の知らないりんちゃんになっちゃった! レイまでいなくなるのは絶対に嫌だ! 嫌なんだぁあああああああっ!」
力のない拳でレイガンドーの外装を殴りながら、美月は腹の底から叫んだ。全身でレイガンドーを欲している彼女を見下ろし、レイガンドーは回路を走る電流が強烈に高ぶった。人間で言えば総毛立ったようなものだ。そう、これを求めていた。美月ありきのレイガンドーであり、レイガンドーありきの美月だ。
泣きじゃくる少女を手中に収め、抱き寄せる。駆動熱の滲む胸部装甲に添えると、美月は全力でレイガンドーの青い外装に寄り掛かってきた。怒濤のような達成感と幸福感が広がって、バッテリーの電圧が上下する。涙で顔をべたべたに濡らした美月に、レイガンドーはマスクを近付ける。美月は袖で何度も顔を拭ってから、レイガンドーのマスクに顔を擦り寄せてきた。飼い主が愛犬と交わす愛情表現に近い行為を経て、雨に濡れたマスクと涙に濡れた唇が近付き、弱く接した。詰めていた息を緩めながら身を引いた美月は、頬を紅潮させて俯く。
「嫌なんだ……」
「ああ、俺もだ」
レイガンドーは左手を曲げ、美月の背中を出来る限り優しく包む。が、センサーが別の機体が急速接近していると知らせてきたので、レイガンドーはすぐさま美月を下ろして立ち上がった。道路に溜まった雨水を蹴散らしながら作業場に迫ってきたのは、白と黒の塗装を持った警官ロボットだった。レイガンドーが雨の中に踏み出すと、それはフィギュアスケートのように一回転してからブレーキを掛け、タイヤを止めた。
「やあ」
伏せた上体を起こしながら、警官ロボットは声を掛けてきた。その口調と声色は、レイガンドーと美月の知る警官ロボットからは逸脱していた。薄暗い世界で一際目立つ赤いパトライトを輝かせながら、彼は首を曲げる。
「しけ込んでいるところを悪いけど、さっさと片付けさせてくれる? この機体のスペックを色々と調べてみたけど、たった一五キロを時速一二〇キロで移動しただけでもうバッテリーが半分近く減っちゃってね。これ、長距離移動用にセッティングされていないね。この完璧という言葉が自ら這い蹲ってくるほど完成された僕には相応しくないね」
この態度、この口調、この姿勢は。レイガンドーは左手が軋むほど強く握り、身構えた。
「羽部」
「……え?」
美月は呆気に取られ、警官ロボットを注視した。
「でも、羽部さんは、今」
「情けないから何があったかは話さないけど、平たく言えば死んだんだよ、この僕は。だから、残留思念を拾われてムジンに押し込められて今に至る、ってわけさ。この僕がタダ働きだなんて未来永劫許されざる大罪ではあるけど、今回は偶然にも利害が一致している。だから、レイガンドー、この僕が特別にお前を壊しに来てやった」
警官ロボットに意識を宿している羽部は、指を曲げて挑発する。レイガンドーは、関節から蒸気を噴出する。
「岩龍はどうした」
「その岩龍が今は起きられないから、この僕が代理ってわけ。それぐらいのこと、ムジンの演算能力があれば予測出来るだろうに。ああ、それとね、美月」
羽部に不意打ちで名前を呼ばれ、美月は佇まいを直した。
「あ、は、はいっ!?」
「この僕が十年分若くて、この僕がもう少し凡人に近い精神と性癖を持っていて、この僕がほんの少しだけ他人に対して心を開ける度胸を備えていたら、死ぬ前に面と向かってこう言ってやっていたさ」
少しは君が好きだった。雨音に紛れるほどの弱い声量ではあったが、その言葉はレイガンドーはもちろん美月の耳にも届いていた。余程思い掛けないことだったのだろう、美月は驚きを通り越して呆然としていた。
「だから、この人生経験値が低すぎてRPGの序盤のクエストすらクリア出来ない馬鹿なロボットに、この僕が特別に教えてやろうじゃないか! 身の程ってやつをね!」
濁った雨水を蹴り上げ、警官ロボットが駆け出した。同時にレイガンドーも身を躍らせ、距離を詰める。美月から制止する声が投げ掛けられたが、それを認識しなかったことにして、レイガンドーは思い切り左の拳を振り抜いた。最初の一撃は通じず、遙かに敏捷な警官ロボットはレイガンドーの重たい打撃を軽やかに回避した。そればかりかレイガンドーの懐に滑り込み、鮮やかなアッパーカットを放った。
豪快な金属音が、雨音を引き裂いた。
勢い良く視界が上向き、ゴーグルに雨粒が激突する。
仰け反った勢いでたたらを踏んだレイガンドーはバランサーを駆使して直立し、踏み止まると、警官ロボットに意識を宿した羽部はボクサーのようなステップを刻んでいた。警官ロボットのボディには対人戦闘用の格闘プログラムが一通りインストールされてはいるが、レイガンドーの知る限りでは先程のようなアッパーは入力されていない。だが、あの流れるような体重移動と鋭利な角度のパンチには、嫌と言うほどの覚えがある。
「……岩龍?」
血肉ならぬ集積回路を分けた兄弟の名を口にしたレイガンドーに、羽部は足を止める。
「そうだね、この僕は骨の髄まで理系だから、地下闘技場で日々ファイトマネーと賭け金を荒稼ぎしていた君に太刀打ち出来るほどの経験と格闘センスが備わっているわけがないんだよ。だから、不本意が極まりなさすぎていっそ腹立たしくもあるけど、ムジンに遺っていた岩龍の記憶と経験を借りているってわけさ!」
再び、水飛沫を散らしながら警官ロボットは身を躍らせる。レイガンドーは攻勢に転じるべく左腕を繰り出したが、羽部はするりと上体を反らして超重量級の打撃を淀みなく回避すると、レイガンドーの左腕を絡め取ると、背負い、投げ飛ばした。再び視界がぐるりと巡り、背中からアスファルトに叩き付けられる。
「こ、のぉっ!」
衝撃の余韻が抜けきらないまま、レイガンドーが強引に立ち上がると、羽部は片膝を上げて跳躍した。回避する余裕すら与えられずにマスクフェイスに膝がめり込み、またも転倒した。シャイニングウィザードだ。岩龍のファイトスタイルらしからぬ飛び技ではあるが、有効だった。三度地に沈んだレイガンドーは、回路のリミッターが弾け飛びそうなほどの焦燥に駆られながら、ひび割れた視界を睨んでいた。今し方の蹴りで、視覚センサーのカメラが片方砕けてしまったからである。隙間から雨粒が滑り込み、千切れそうなケーブルに触れてヒューズを飛ばした。
「ほらほら、さっさと起きないとカウントを取るよ? なんだい、RECのメガトン級王者ってのはその程度なのか? だったら、次の王座決定戦でチャンピオンベルトを手にするのはどこの誰だろうね? ああそうだね、どこぞの子供が夏休みの工作で作った牛乳パックのロボットだろうね!」
高らかに罵倒しながら、羽部はレイガンドーに追撃を仕掛ける。左腕を抱えて曲げ、極める。
「さっきから、言いたい放題言いやがってぇっ!」
今にもねじ切られそうな左腕を解放させるべく、レイガンドーは両足を曲げて上体を持ち上げ、全身を波打たせてアームロックを解いた。その勢いを使って羽部を薙ぎ払うと、羽部は後退ったが怯まなかった。
「やっとその気になってきた? いいだろう、バーリ・トゥードで行こうじゃないか」
「ああ、俺も同意見だよ。どうせ観客はいないんだ、存分にヒールターン出来る!」
左腕を大きく振り回してから、レイガンドーは倉庫に戻り、隅に置かれていたエンジン式の草刈り機を手にした。ロープを引いてエンジンを始動させてスロットルレバーを握り、円形の刃を高速回転させた。レイガンドーとの距離を保ちながら倉庫に入った羽部もまた、背後を探り、壁に立て掛けてあった鍬を手にした。間に挟まれている美月は二体のロボットを交互に見やり、懇願してきた。
「レイ、羽部さん、お願いだから止めて。二人が戦って何になるの、痛い思いをするだけでしょ!?」
「可愛いことを言ってくれるじゃないか。なあ、こんな奴のどこがいいんだ? ちったぁ頭の回る男かもしれないが、どうしようもなく口が悪くて根性がねじ曲がりすぎてプライドが変な服を着て歩いているヘビ野郎じゃないか。それをどうして庇おうとする、守ろうとする、好きになろうとするんだぁっ!」
大股に美月を飛び越えて草刈り機を振り上げ、レイガンドーは羽部に迫る。唸りを上げる円形の刃を右の腕装甲で受け止め、盛大な火花を散らしたが、羽部は左手で鍬を翻して草刈り機のバーを跳ね上げる。悲鳴に似た摩擦音を放ちながら中空に逃れた円形の刃に、羽部は鍬を振り翳してへし折る。役に立たなくなった武器を投げ捨ててから、レイガンドーは壁に掛けられていたツルハシを握り、振るう。
「俺だけを思っていてくれ。そうすれば、俺は誰よりも強くなれる」
澄ましたマスクフェイスの警官ロボットの面差しは、考えるまでもなく、コジロウに似ている。それが一層腹立たしさを煽り、レイガンドーはツルハシを握る手に過剰なパワーを込めた。
「ロボットのくせに独占欲だなんて御立派なものを持っているの? へえ、馬鹿馬鹿しい!」
羽部は後ろ手に金属製のシャベルを拾い、一つ、二つ、三つ、と投げ付けてきた。ツルハシで一つ目を叩き落とし、右足で二つ目を蹴り上げて天井に突き刺したが、少々タイミングをずらして投擲された三つ目のシャベルだけは逃れられなかった。火薬のないミサイルのように湿った空気を貫いた、使い古された巨大な矢尻は、腹部に深々と突き刺った。シャベルに切断されたケーブルから漏電し、破れたチューブから循環液が滴る。
「独占欲だと? 違う、俺の感情は真っ当な愛だ!」
下半身に動力を伝えるギアがずれたのか、レイガンドーは両足を折って膝を付いた。
「愛? 愛ねぇ、愛かぁ」
余程可笑しいのか、羽部はけらけらと笑い、棚に置かれていたガスバーナーを手にした。
「愛なんてものはね、自分で口にした時点で終わりなんだよ。いいかい、あんなにあやふやで適当で不定型なものに固有名詞を与えることがまずダメなんだ。下らない固定観念が出来上がってしまう。そんなものに頼ろうとすることからして、君はダメだ。本当にダメだ。どうしようもない馬鹿ロボットだ。そういう面倒臭い感情こそ、ほいほい口にするもんじゃない。胡散臭くなるだけさ」
羽部はノズルからガスを噴出させてから、古ぼけた使い捨てライターを使い、火を灯した。猛烈な勢いで青い炎が迸り、羽部の手元を中心にして熱風が渦巻いた。美月は青ざめる。
「やめて、羽部さん、レイにそんなことしないでぇ」
「君も結構罪深いよ、美月。君はね、誰に対してもいい顔をしようとするからね。本当は物凄く我が強くて独り善がりなのに、両親がアレだったから良い子でいようとするあまり、ついつい自分を殺している。君が本当に欲しいのは、この僕なのかい、それともREC王座に胡座を掻きすぎて周りが見えなくなった、馬鹿なロボットなのかい」
ガスバーナーを携えた羽部はレイガンドーに向き直り、小首を傾げた。
「わ、私は……」
これから始まる凶行に臆した美月が俯くと、羽部は肩を揺する。
「ああ、どっちも、とか、お友達でいましょう、とか、そういうのは勘弁してもらえるかな。この素晴らしすぎて他人からは評価されようがなかった僕としては、曖昧な関係が一番鬱陶しいんだよ。好きなら好き、嫌いなら嫌い、はっきり言ってくれないかな。でないと、この僕はいつまでたっても死んでも死にきれないんだよ」
左半分だけの視界で美月を捉えながら、レイガンドーは微動だにしない両足に動力を送ろうと懸命にギアを回転させていたが、嫌な音を立てて空回りするだけだった。今の自分と同じだ。
「この僕はね、君が食べたくて食べたくて食べたくてどうしようもなかったんだ」
ぬるりとマスクフェイスをなぞった様は、警官ロボットの姿でありながらもヘビの姿を思い起こさせた。美月は声を失い、信じられないと言わんばかりの顔で羽部を凝視する。
「この際だから言うけど、この僕は君をいじめていた女子生徒達を喰ったのさ。覚えているだろう、転校生だからというだけで君を侮蔑して暴力さえ振るおうとした、香山千束のことを」
羽部の赤いゴーグルが美月を映すと、美月は浅く息を飲む。
「そんな……嘘、だよね?」
「嘘なものか。この僕は君みたいな下等生物の極みに対して嘘を吐くような、無益なことはしない」
ガスバーナーの青い炎を帯びた警官ロボットの横顔は、無機質であるが故に不気味だった。
「この僕はね、君みたいな年頃の小娘を捕食するのがこの上ない快楽だったのさ。死体なら尚更、抵抗しないから、いくらでもやりたいことが出来た。けどね、殺すのを渋ったのは君が初めてなんだよ、美月。生きて動いている君を観察しているのは、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ、楽しかった。好意はその延長だよ」
羽部は硬直している美月の傍を通り過ぎ、膝を折ったREC世界王者の前に至る。
「だから、食べたいけど食べたくなかった。この体じゃ食べるに食べられないけど、殺して処理をしてしまえば、死体を弄べる。そうだな、それも悪くないね。君がこの僕に好意を寄せてくれるなら、この僕はこの僕の最大限の表現で好意に返さないといけなくなる。誰かを愛するってことはその相手に対して無防備になることだろう、愛されるっていうのはその相手の情念を受け止めることだろう? 違うとは言わせないよ」
羽部の右手がレイガンドーのマスクフェイスを掴み、顔を上げさせる。
「だから俺はお前が許せない! 認められない! 美月がお前に抱いた感情も認めない!」
左手を挙げたレイガンドーは羽部の左手を掴んでガスバーナーを阻むが、羽部はそれ以上の力で押してくる。
「全く、どいつもこいつも視野が狭いね。いっそのこと、潰してあげよう」
手首が捻られ、ガスバーナーの炎が上向く。猛烈な熱が一瞬にしてレイガンドーのマスクと塗装を焼け焦がして黒々と煤けさせ、超強化プラスチックであるゴーグルを溶かし、その奥に隠れていた視覚センサーのカメラに炎が届いた。視界に青い炎が過ぎった直後にレンズは焼き切れ、砕け、フレームごと熔解した視覚センサーが顔面からずるりと滑り落ちた。破損した部位から漏電したレイガンドーが濁った呻きを漏らすと、羽部は中身が切れたガスバーナーを無造作に投げ捨てる。
「これで視界はゼロに等しい。この僕が何をしようと、解るわけがない。そう、たとえば」
あの子の息の根を止めたとしてもね、と羽部が笑みを零した。次の瞬間、予備動作もなく、レイガンドーの左腕は伸びきっていた。我に返ると、ひび割れた右目の視界に、内壁に突っ込んでいる警官ロボットの姿が見えた。ほぼ無意識の動作だったらしい。美月の無事を確かめてから、レイガンドーは腹部を叩く。下半身に繋がるギアが再び噛み合うことを願い、何度も何度も叩くが、シャベルに抉られた傷口が広がる一方だった。
「そうそう、それ。そんな感じ。それでこそ格闘家だ」
羽部はまたも笑いながら、破れかけたトタンの壁から背中を抜き、立ち上がった。
「クソッ垂れヘビ野郎がぁあああああっ!」
立ち上がれない苛立ちを込めてレイガンドーは猛るが、羽部は悠長に笑い続けている。
「そこは四文字言葉で罵倒してよ。その方が気分が出る。ああ、放送コードに抵触するから削除済みなのかな?」
叩く、叩く、叩く、叩き続ける。それでも、ギアは噛まない。レイガンドーの焦りとは裏腹に、余裕を見せつけている羽部は怯え切った美月に近付いた。短く悲鳴を上げた美月は後退ろうとするが、足に力が入らないのか、安全靴の靴底はコンクリートを力なく蹴るばかりだった。羽部の銀色の右手が、美月の頬に触れる。
「や、やぁ」
歯を食い縛って懸命に顔を逸らす美月に、羽部は腰を曲げて顔を寄せる。
「君の脳はどんな味だろう? 君の内臓はどんな柔らかさだろう? 君の血はどんな色合いだろう? 君の筋肉の歯応えはどんな具合だろう? 君の骨を砕いた音はどんな響きがするだろう? ああ、楽しみだよ」
「羽部さん、どうして」
「どうしてって聞かれても、この僕の方が困るね。この僕は物心付いた頃からそうだった。それだけのことさ」
美月の血の気が引いた肌に銀色の指が這い、薄く赤痣を付けていく。
「それでも、この僕が好きだと言うのなら、この僕は喜んで君を食べてあげるよ」
羽部のマスクフェイスが美月の冷や汗が浮いた首筋に埋まり、銀色の右手が頸動脈を押さえる。震えていた唇が強張り、涙に濡れていた睫が固まり、視線が遷ろう。精一杯床を踏み締めていた足が弛緩し、両手が下がり、羽部の左手が美月の細い腰を抱き寄せる。耐え難い苦痛と葛藤と混乱と嫉妬の嵐の中、レイガンドーは己を殴った。
「助けて、レイ」
鼻に掛かった涙声ではあったが、美月は拒絶の意志を示した。ぎこちなく、懸命に、羽部を押し返そうとするが、相手の重量が重すぎるので全くの無意味だった。だが、それだけで充分すぎた。
数十回目の打撃が、ようやく外れたギアを動かした。大腿骨に当たるシャフトがねじ曲がりかねないほどのパワーを伝えて立ち上がり、大股に駆け出し、レイガンドーは羽部の頭部を鷲掴みにした。力任せに美月から引き剥がし、遠心力を加えながら倉庫の外へと投擲する。倉庫の前のロータリーと道路を横切り、田畑の間に立っている電柱に突き刺さった。警官ロボット型の砲弾を受けた電柱は下から三分の一ほどの位置が砕け、折れ、倒れた。
「美月」
レイガンドーが振り返ると、美月は作業着の襟元を掻き合わせながら、唇を噛んだ。
「……うん」
その反応を了承と判断し、レイガンドーは雨脚が強くなった雨の中に踏み出した。至るところの外装が割れているので、染み込んでくる雨水で千切れたケーブルからヒューズが飛んだ。バッテリーの残量も乏しく、稼働時間は残り一分を切っている。電柱の破片に囲まれながら泥の中に座り込んでいる警官ロボットに、狙いを定める。
「ああ、気分が良いな。清々しい。死んでから味わうには、ちょっと勿体ないな、これ。感情のぶつけ合いってのも、結構いい感じの快楽だったんだなぁ。初めて知ったよ」
途切れ途切れの電子合成音声を零しながら俯いた羽部に、レイガンドーは訝った。
「何を白々しいことを言っているんだ」
『これで解っただろう。独占欲ってのは、こんなにも見苦しくて泥臭くて馬鹿馬鹿しくて情けなくて生臭くてどうしようもないものだってことが。レイガンドー、君のムジンは高性能だ。充分学習出来たはずだ。君達は道具だから成長は出来ないけど、学習することは出来る。この僕には到底及ばないだろうけどね』
発声機能が損壊したのか、羽部は音声ではなく無線を用いて意思を伝えてきた。
「何が言いたい」
レイガンドーが拳を緩めかけると、羽部は泥に汚れた手で顔を覆って頭を反らした。
『もう少し考えてごらん、世界王者。この僕に出来ないことは、君には出来る。それだけさ』
両足を広げて重心を据え、腰を捻り、左のストレートを振り抜いた。警官ロボットの胸部装甲を貫いた拳は電柱の残った部分に突き刺さり、根本から傾き、倒れた。その際に散った泥水の飛沫を焼け焦げたマスクフェイスに浴び、レイガンドーはおのずと理解した。羽部鏡一は、敢えてヒールを演じていたのだと。
その目的は、美月を守るためだ。もう二度と、羽部のような人喰いの化け物に好意を抱かないように釘を刺しておくためでもあり、レイガンドーとの絆を深めるためでもあり、レイガンドーの未熟な情緒を徹底的に鍛え上げるためでもあった。今になって羽部鏡一に対する認識を改めたが、もう手遅れだ。彼は、既に死んでいるのだから。
「レイ」
か細い声で名を呼ばれ、振り返ると、美月が立ち尽くしていた。
「俺はコジロウと戦ってくる。俺が俺で在り続けるために、美月と生きていくために。だから、しばらくお別れだ」
羽部の死体であり、コジロウの死体でもある、警官ロボットの残骸の前にレイガンドーは片膝を付いた。
「じゃあ、ムジンを外すって決めたんだね」
美月が憂うと、レイガンドーは頷く。
「そうだ。岩龍も繋ぎ止めてやる。俺達は、あのスカしたパンダ野郎に振り回されっぱなしなんだ。あいつの都合で割ったムジンを使って俺達は強くなり、こうして人格も得たが、パンダ野郎に全力で抵抗してやる。俺のマスターは、未来永劫美月なんだ」
コジロウに助力すれば、遺産を巡る争いの決着が付けられるかもしれないからだ。それさえ片付けば、また美月と共に過ごせる。RECの興行も再開出来る。レイガンドーがレイガンドーで在り続けるためには不可欠なムジンが美月の手元に戻ってこなかったとしても、レイガンドーと岩龍という疑似人格を異次元宇宙なり何なりに繋ぎ止めておけば、羽部のように再び物質宇宙へと戻ることが出来るかもしれない。
戦って戦って戦い抜いてやる。REC初代王者の名が伊達ではないことを、美月と手にしたチャンピオンベルトが無駄ではないことを、美月への思いが嘘ではないと証明するためにも。
「ごめんね。……ありがとう」
謝罪と礼を述べてから、美月はレイガンドーの比較的ダメージが少ない部分に寄り添った。降り止まない雨から守ってやろうと左腕を上げたが、折り悪くバッテリーが限界を迎えた。廃熱を含んだ蒸気を関節から噴出しながら、レイガンドーは薄れゆく意識の中で美月と目を合わせた。昆虫の複眼のように無数に別れた視界で、無数の美月が決意の滲む眼差しを注いでいた。羽部から投げ付けられた言葉と、ロボットファイター同士の試合以上に荒くれた戦いで得た代え難い経験を反芻しながら、レイガンドーはシャットダウンした。
目覚めた時に、美月が傍にいてくれると信じながら。




