井の中のカルト
手袋を填めた手で、降り積もった雪を払った。
十一月の上旬だというのに、一ヶ谷市内に発生した局地的な低気圧の影響で、猛烈に雪が降り始めた。おかげで道は悪くなり、歩くだけでも一苦労だった。フカセツテンが突如出現したことで政府が一ヶ谷市全体に非常事態宣言を発令したため、一ヶ谷市民は一人残らず退去してしまった。当然ながら市職員も残っていないので、行政の業務は完全凍結している。よって、除雪車が動かないため、市内全域の道路には雪が降り積もったままになっていた。定期的に買い出しに出るコジロウの移動ルートのごく一部だけは雪が消えているが、それ以外の道路は真っ白だ。誰一人通らないので踏み固められもせず、毎日毎日大量の新雪が積もる一方である。
「むー……」
つばめは雪に包まれた結晶体を睨み、そこに写る自分の顔と向き合った。頭からつま先まで完全な防寒装備を整えているので、顔以外は外に出ていない。分厚いスキーウェアを着込んで毛糸の帽子を被り、雪が中に入らないようにするためのカバーを被せた長靴を履き、もちろん手袋を填めている。これは道子がネット通販で揃えてくれたもので、スキーウェアの色はオレンジ色のチェック柄だ。道路も封鎖されているので浄法寺までは配達してくれないので、コンビニ受け取りで発注し、そのコンビニにコジロウを向かわせて受け取ってもらったのだ。
「何も変わってない。てか、何があれば変化が起きるの?」
つばめはフカセツテンの表面をノックしてみるが、応答はなかった。全長三千メートルもの結晶体は、船島集落にすっぽりと収まったまま、微動だにしていなかった。特に出掛ける用事もないので、毎日フカセツテンの元を訪れては異変がないかどうかを確認しているのだが、今日もまた、これといって変化はなかった。
「雪が積もっているってことは、動いてもいないってことだしなぁ」
つばめは雪の降りしきる鉛色の空を仰ぎ、結晶体の上にこんもりと積もった柔らかな雪を認めた。道子が人工衛星の画像や諸々のデータを元にして数値を算出したところによれば、フカセツテンの最も高い部分は三〇〇メートルもあるそうで、滴型なので尖端に向かうに連れて幅も厚さも狭くなっているが、最も細い部分でも一〇メートルほどの厚さがあるそうだ。こうして目の前にしていても、スケールが大きすぎるせいか、実感が湧いてこない。所々で積雪量が違うのは、自重に負けて滑り落ちているからだろう。つばめはフードに積もった雪を払い、腕を組む。
「ねえコジロウ、どうすればフカセツテンを動かせると思う?」
「本官はその質問には答えられない」
つばめの背後で、パトライトを点灯させて赤い光を放っているコジロウが返した。
「フカセツテンを動かすための遺産が手元にない、もしくはコジロウはフカセツテンを起動させるためのプログラムを知らない、ってこと?」
「そうだ」
コジロウに即答され、つばめは白い息を漏らしながら唸った。
「うー、焦れったいなぁ。さっさと動かしたいのに」
「つばめはフカセツテンを支配下に置き、いかなる行動を取ろうとしているのだ」
「退かしたいんだよ。だって、この下には私の……じゃないや、お爺ちゃんの家があるんだし。フカセツテンのせいで潰れているかもしれないけど、大事なものがあるんだもん。それを取り戻したいだけだよ」
「それだけなのか」
「それだけだよ」
つばめはコジロウの右手を掴み、目を伏せた。伊織に切り裂かれてしまったので継ぎ接ぎだらけだが、パンダのぬいぐるみは、あの家の自室に置いてある。無事でなかったとしても、手元に取り戻したい。パンダのぬいぐるみはつばめの過去が詰まったものであり、両親との繋がりを確かめられる、唯一のものだ。
「コジロウは、そういうのってないの?」
つばめはコジロウを仰ぎ見ると、コジロウはゴーグルを翳らせる。
「本官には、主観は存在しない」
「欲しいものがあるなら、言ってよ。出来る限りのことをするから」
「本官には、個人的な欲求と呼ぶべきものも存在しない」
「意地っ張り」
つばめはちょっと笑ってから、コジロウの手を引くと、コジロウはすかさずつばめを横抱きにした。
「雪もひどいし、もう帰ろう」
コジロウの首に腕を回し、つばめはしがみつく。コジロウは脚部の外装を開いてスラスターを展開させ、雪と氷を溶かすために軽く蒸かしてから、改めて高熱を噴射して浮上した。タイヤで走り回るよりも消耗が激しく、エネルギー効率も悪いのだが、ろくに除雪もされていない雪の中を移動するためにはこうする他はないからだ。
「そういえば、高守さん、帰ってこないねぇ」
顔に雪が当たると痛いので、コジロウに緩めの速度で低空飛行してもらいながら、つばめは近頃見かけなくなった男の名前を口に出した。高守はつばめに便乗して船島集落にやってきたが、その後、不意に姿を消してしまった。元々は人間だったが、紆余曲折を経て拳大の種子になった高守は行動範囲が狭いので、そのうち帰ってくるだろうとタカを括っていたが、一週間ほど過ぎたのにまだ帰ってこない。連絡を取ろうにも、高守がつばめ達と意思の疎通を行うために持っていた携帯電話は浄法寺に残されているので、連絡の取りようがない。
彼もまた常人ではない。だから、ちょっとやそっとのことではやられないだろう。長年シュユを利用して弐天逸流を運営していた高守は、道子達とは違ってつばめの味方とは言い切れないので、心配するべきか否かを少し迷ってしまった。高守と接してみると、彼は少し気難しくて理屈っぽいが、決して悪人ではない。だが、全面的に信用するのは不安だ。弐天逸流がなければ、美月は狂信的な母親によって苦しめられずに済んだのだから。けれど、敵を増やすのもどうかと思う。この事態に、祖父と遺産に立ち向かえる存在は限られている。味方は一人でも多い方がいいが、その味方が信用出来なければ意味がない、とも思う。そんなことを考えているうちに、屋根に雪が分厚く積もった浄法寺が見えてきた。つばめはコジロウから機械熱を感じながら、白いため息を零した。
早く、暖かい部屋に戻りたい。
これから、どうするべきなのか。
何も考えたくない、考えるだけで嫌になる、誰かに従っていたい、自由が疎ましい。高守信和は、降りしきる雪の中を進みながら、鬱屈とした気分を抱えていた。種子のままでは移動出来ないので、泥人形の体を作って市街地に出た後、脳が溶けて空っぽになったサイボーグのボディに乗り換えた。あのまま、つばめの手元で暮らしていては、これまで弐天逸流が積み上げてきたものを蔑ろにしてしまうと思ったからだ。
弐天逸流の幹部としての使命感や、祖父や父の亡き後に弐天逸流を効率良く動かしていた過去の自分への未練といった感情に引き摺られて、高守はある種の陶酔感を覚えていた。自分がいなければ路頭に迷う人間は大量にいる、シュユの力を継続して作用させておけば弐天逸流の信者達はすぐにまた集まってくれる、本部を再建するための軍資金だって簡単に、と甘く考えていたが、不意に高守はシュユの支配から解放されてしまった。その原因は備前美野里がシュユの肉体を滅ぼしたからであり、その影響で異次元宇宙と物質宇宙の接続が途切れてしまい、異次元宇宙に一定の精神力を搾取されることで均衡と規律を保っていた信者達の統制も崩壊してしまった。高守も同様で、それまでシュユから与えられていた力を失って宙ぶらりんになっている。この状態ではろくな演算能力も持たないので、特定の固有振動数を刀に与えてヴァイブロブレードに仕立て上げることも出来ない。普通の剣術と武術では、太刀打ち出来ない相手ばかりが現れるからこそ、固有振動数を応用した戦法を編み出したのに。
「あー……もう、なんか、嫌だなぁ」
高守は除雪車の運転席で項垂れ、ハンドルから手を離した。がっこん、がっこん、と一定の間を置いて上下するワイパーは、フロントガラスに積もった雪を払いのけるが、その傍からまた新たな雪が振ってくるので、イタチごっこだった。だが、払いのけなければフロントガラスには隙間なく雪が貼り付き、視界がゼロになってしまう。高守は寒さのあまりにバッテリーの持ちが悪いサイボーグボディの充電量を気にしつつ、除雪車のマニュアルを一から見直し、ああでもないこうでもないと四苦八苦しながら操縦した。普通車ならば運転出来るが、重機の操縦なんて未経験だ。こういう時こそ岩龍がいてくれればありがたいのだが、生憎、彼はロボットファイターに戻ってしまった。
ロータリー式の除雪車の動かし方は難しい上、雪に埋もれた道路の下に何があるのかも解らないので、縁石やら何やらに何度も引っ掛かり、乗り上げそうになり、当てずっぽうで飛ばした雪の奔流が民家を直撃して窓ガラスを盛大にぶち破ってしまったりしたが、なんとか前には進んでいた。とにかく進まなければ、一ヶ谷駅まで辿り着けないからだ。一ヶ谷市内全域に避難命令が下され、住民がいなくなったとはいえ、一ヶ谷市よりも北にある駅と東京の間ではリニア新幹線が走り続けている。日々高架橋を観察し、リニア新幹線の速度や駅を通過する速度を確かめて、一日に二三本は停車することが解った。それにどうにかして乗り込めば、この閉鎖された土地から脱出出来る。
だが、脱出してどうする。どこへ行く、何をする、誰と会う。明確な目的がないことは、自分自身がよく解っている。一ヶ谷市内にいて、つばめの傍にいる限り、企業間と政府の遺産に対する不可侵協定が保たれるので身の安全も確保されることも、つばめの味方にさえなれば悪いようにはならないことも。だが、それが一体何になる。つばめは高守と対等に接してくれるが、それだけだ。それだけでは、怖くて怖くて仕方ない。
「戻るのも嫌だけど、進むのはもっと嫌だ。でも」
高守はアクセルを踏み込んで車体を進めながら、強化セラミック製の歯を食い縛った。だから、つばめの元から逃げて一週間も一ヶ谷市をうろついている。本気でここから逃げ出したかったら、本格的に雪が降り出す前に行動すべきだった。つばめの味方でいたくないのなら、佐々木長光に味方にしてくれと擦り寄るか、つばめを思い切って葬ってしまうべきだった。或いは、政府側に全てを丸投げし、自分は無関係だと言い張って去るべきだった。だが、そのどれも実行には移さなかった。鬱屈と、悶々と、暗澹と、自己嫌悪を溜め込むばかりだった。
弐天逸流さえ長らえていれば、高守は何も考えずに済む。シュユさえ無事なら、これまで通りにシュユの考え通りに動いていれば済む。そうすれば、自分が何をしようと、どうなろうと、怖くもなんともない。自分の責任は生じないし、シュユの言った通りだと言い張っていればいいだけだからだ。だが、そのシュユが離れてしまった。
「ああ、ああ、あああああぁっ……」
怖い、怖い、怖い。高守は運転席で体を縮め、頭を抱えた。
「ああ、ああああああ、ああああああああ」
生理食塩水の涙をぼたぼたと落としながら、高守は苦悶する。自分の意思を求められたくない、自我と呼べるものは欲しくない、自立なんてしたくない、自分というものほど不安定なものはないからだ。だから、半死半生の肉体にシュユの親株を植え付けられて人間でなくなった時、シュユの分身に近い位置付けになった時、弐天逸流の幹部として耳障りのいい言葉で薄っぺらい教義を説いている時、この上なく安堵した。それなのに。
間違ったことをすれば怒鳴られる、否定される、叩かれる、虐げられる、食事を抜かれる、その場にいないことにされる。物心付く前から、高守はずっとそうやって育てられてきた。武術の腕前は一流だが、それ故に古い価値観とプライドに凝り固まっていた祖父と、そんな親を疎みながらも同じ道を辿っていた父親は、息子を最初から人間として扱ってはいなかった。道場を継がせるためだけの繋ぎでしかなかったからだ。だが、高守には体格も、才能も、一切備わっていなかった。否定され、否定され、否定され続けた末に得たのは、大人しく黙っていれば祖父と父親をやり過ごせるということだけだった。母親も息子を守ってくれず、ある日、どこかに逃げ出した。
実家である道場には、床の間に御神体としてシュユが据え付けられていた。祖父は千手観音だと言い張っていたようだったが、千手観音ではないことは誰の目にも明らかだった。腕の数は確かに多かったが、仏像に必要な装飾の類が一切なかったからだ。顔ものっぺらぼうで、背負っている光輪も奇妙だった。ふと気付くと、日々剣術の修練に明け暮れていた祖父が道着から法衣に着替え、付け焼き刃の説法を行うようになり、道場に不特定多数の人間が訪れるようになった。人々は御布施を渡してくれ、傾いていた道場の経営も取り戻せ、あばらやも同然だった道場も建て直したが、再建された道場には仏教じみた装飾が加わるようになった。それもこれも観音様のおかげだ、と祖父は喜び、父親も喜んだが、高守は喜べなかった。祖父と父親が富もうと、高守は恩恵に授かれないからだ。
それから何年か過ぎて、高守が小学校の高学年に上がった頃、二天一流から弐天逸流へと名を変えた道場に一人の女性がやってきた。身なりこそ上等だが、形相が異様で、腕の至るところに切り傷が付いていた。彼女の名は立花南といって、自分は特別な存在だから神様と交わりに来た、と奇妙なことを言った。御神体に傷が付くのを恐れた祖父と父親は彼女を追い返そうとするが、彼女は暴れ、手が付けられなかった。これでは大人しくさせようとするだけ無駄だと判断した祖父は、せめて好きなようにさせてやろうと、立花南を御神体と一晩過ごさせた。
その夜、高守が道場に忍んでいったのは、思春期の片足を突っ込んだ年頃だったせいだ。父親譲りの不格好な顔付きと、伸びる兆しのない身長と、いくら修練しても締まらないダルマのような体形で、自分はどう足掻こうと異性とは深く付き合えないと幼心に悟っていたからだ。だから、生身の女性がどんなものか知っておきたいと思った末に蛮行に出た。細く開けた引き戸の隙間から、御神体に跨る裸体の立花南の姿が見えた。
立花南が乱雑に脱ぎ捨てた服の上に、真っ赤なカプセルが入っている薬瓶が転がっていた。南はへらへらと変な笑い声を漏らしながら、恋人に接するような甘ったるい口調で御神体に縋り、白い背中をくねらせていた。その様は総毛立つほどおぞましく、高守が思い描いていたような、女性の乱れる様とは懸け離れていた。何も見なかったことにしようと、高守がその場から逃げ出そうとすると、突如、足下を掬われた。
次の瞬間には道場の中に引っ張り込まれ、逆さまに吊り下げられた。何事かと目を動かすと、真下には御神体と南がいた。赤黒い肌の御神体は背中から生えた光輪から青白い光を薄く放っていて、高守の足を縛って逆さまにしているのは、御神体から伸びた一本の細い触手だった。南に絡み合っているものもまた、触手だった。
人智を越えたものに対する恐怖に悲鳴を上げかけた高守の喉を、触手が塞いできた。喉どころか胃の中にまで異物が侵入し、苦しさからえづいていると、触手は高守の内に異物を押し込んでから引き抜かれた。荒っぽい動作で床に放り出された高守が吐き気を堪えていると、立花南の内にも御神体は何かを植え付けた後、触手を収めた。胃の中の三分の一を占める異物の重みと共に、高守は脳内に流し込まれた情報を察し、悟り、気付いた。
御神体は、異星体である精神生命体は、シュユは飢えている。弐天逸流の信者達が細々と注いでくれる感情だけではアバターである肉体すらも保てそうにないから、強硬手段に打って出た。人並み外れて精神が不安定な立花南に異次元宇宙から接触して揺さぶりを掛け、弐天逸流に招き入れ、南を妊娠させてその子供からダイレクトに感情を搾取するつもりでいるのだ。人間を超越した種族であるが故に、人間に対して憐憫を抱きもしないのだ。
そして、高守もまたシュユの手足となるべく種子を植え付けられた。全身に根が張って神経に成り代わり、感覚を奪われ、思考すらも妨げられていったが、苦痛でなかった。むしろ、嬉しかった。自分で何も考えず、感じずに済むのであれば、祖父と父親から無下に扱われようとも苦しくないからだ。シュユの分身となって剣術と武術の腕を格段に上げたのだが、そのせいで祖父と父親に勘繰られた。だが、面倒なので二人を斬り殺した。そういった罪悪感も後悔もシュユが全て喰ってくれた。シュユだけを信じていれば、従っていれば、高守は幸福だった。
「ああ、ああ、ああああ」
だが、そのシュユが死んだ。殺されてしまった。高守を導いてくれる者は、どこにもいない。
「ああ、ああああああああ」
探す気力もない。求める余力もない。自立する勇気もない。ない、ない、ない。
「うぁあああああああああああ」
泣き喚きたかったが、涙の代わりの生理食塩水は切れてしまった。高守は行き場を失った感情を持て余し、首が外れかねないほどの腕力で頭を押さえた。外界を見ずにいれば、少しだけ気が楽になるからだ。吐き出した叫び声がフロントガラスをびりびりと震わせ、降り積もる雪を少しばかりはね除けていた。
不意に、突風が巻き起こった。吹き付ける雪の量が目減りし、辺り一帯に暴風が巡っている。吹雪が始まったのかと高守が恐る恐る外を見てみると、上空から一機のヘリコプターが下りてきた。雪に塞がれた駅前ロータリーに着地する、かと思いきや、その場でホバリングした。機体を雪に埋めないためだろう。ハッチが開き、細長いスキーを履いた数人の人間が出てきた。足場が悪すぎるので徒歩では無理だと判断したからだろう。雪原用の白い迷彩服を着た彼らは足を前後に動かしながら、迷わずに高守の乗っている除雪車に近付いてきた。程なくして、運転席のドアがノックされた。高守がびくつきながらドアを開けると、白い防寒着を着た人間がフードを外し、顔を出した。
「おーす。説明しなくても見当が付くと思うが、政府のモンだ。あんた、高守信和だな?」
意外なことに、二十代後半の女性だった。彼女だけ自動小銃を手にしていないので、非戦闘員なのだろう。高守が返事を返すか否かを迷っていると、女性は戦闘員達に指示を送り、即座に高守を取り押さえた。有無を言わさずに連行されながら、高守は内心でほっとしていた。何かに流されていれば、自分で考える必要がなくなるからだ。
暴風雪の中、再びヘリコプターは飛び立った。
それから、高守はいずこへと運ばれた。
政府のヘリコプターで移送中にサイボーグボディを解体され、種子を分離させられた高守は、冷え切った真水が入ったビーカーの中に突っ込まれてしまった。空気穴を空けられたゴムカバーも掛けられてしまい、筆談に必要な道具を与えられなかったので、外部との意思の疎通も不可能だった。おまけにビーカーを箱の中に入れられていたので、外の様子を見ることすら出来なかった。時間の経過も全く解らなかったが、狭い場所に収まっていると多少は不安が紛れるので、気分は楽だった。
箱の蓋が開けられ、外に出されると、冷え切った空気が入り込んできた。ゴムカバーも外されたので、高守は細い触手を伸ばして外界を探った。高い天井に鉄骨の梁、コンクリートが打ちっ放しの灰色の壁、鉄格子の填った窓、防護服を着た人々が取り囲んでいる異形の神。シュユの肉体だった。高守はビーカーの中からぬるりと這い出し、小刻みに震えながら、完全に機能停止しているシュユを見据えた。正確には、全ての触手の尖端に備わった脆弱な視覚センサーが捉えた情報を統合し、再構成し、認識した。ニルヴァーニアンは神の領域に至る進化の過程で顔の部品を取り除いた末に、視覚も聴覚も嗅覚も聴覚も切り捨てたため、眼球はなく、もちろん水晶体も網膜も存在していないので、触手が感知した微細な光と色彩を当てにするしかない。シュユと繋っていた時は、そうした情報の処理も分析も計算も楽だったが、高守だけでは難しい。だから、視認した外界はぼやけていた。
足音と共に振動が近付き、ビーカーの水面が細かく波打った。高守が複数の触手を縮めると、ビーカーが何者かの手によって掴まれて上げられた。否、手と呼ぶべきものではない。馴染み深く、懐かしささえある、赤黒く細長い触手がビーカーを絡め取っていた。だとしたら、これはシュユなのか。だが、シュユにしては触手が細すぎる。
「確認した。高守信和の種子に間違いない」
所々に黒い油染みの付いた作業着を着ている触手の主は、ビーカーを軽く揺すってから、部品のない顔を背後に向けた。その先には、先程高守を連行しにやってきた女性が立っていた。彼女もまた色気のない作業着姿で、火の付いていないタバコを銜えていた。彼女は触手の男に近付くと、男っぽい手付きで髪を掻き上げた。
「んじゃ、あたしの仕事はこれで終わりだな。小倉重機に戻っていいか?」
「構わない。ムジンの分離作業の進行状況は」
「芳しくねーって言っただろう。レイガンドーと岩龍のデータ量が膨大すぎるせいもあるが、ムジンを二人の機体から分離させるのは予想以上に厳しいんだ。小倉の親父さんがハンダ付けしたわけじゃないのに、二人の回路ボックスからはどうしてもムジンが剥がれないんだ。ペンチを使おうがバーナーを使おうが、割れもしねぇ。だから、物理的にあいつらをムジンから解放するのはきついな。いっそのこと、レイガンドーも岩龍も解体しちまおうかって話も出てはいるんだが、美月ちゃんがな」
女性は居たたまれないのか、語尾を濁した。触手の男はビーカーを片手に、女性と向き直る。
「そうだな。最も尊重すべきは、マスターの意思だ。マスターが彼らをただの道具と見なさない限り、擬人化した概念を与えている限り、彼らは人間と同じかそれ以上の存在になる。だから、今、彼らを解体すれば、俺達は殺人以上の罪を犯すことになるんだ。それは、小夜子さんが一番よく解っているはずだ」
「あったりめーだろーが。レイガンドーと岩龍ほど出来の良いロボットは、見たことねぇよ。あいつらがリングの中で暴れる姿は最高に痺れるよ。あいつらは疑似人格と名前と戦いの場を与えられた時点で、ただの人型重機じゃなくなったんだよ。あたしみたいなロボットフェチのヒーローで、美月ちゃんの兄貴で、弟で、家族で……」
小夜子と呼ばれた女性はフィルターを噛み、物憂げに目を逸らす。
「タカさん。レイガンドーと岩龍のこと、どうにかしてやってくれ。あいつらは死なせるべきじゃない」
「俺もそう思う。だから、彼の力が欲しいんだ」
触手の男がビーカーを掲げると、小夜子は彼に背を向けた。
「そんな奴ぐらい、自分で捜しに行けばよかったじゃんかよ。タカさんの勘の方が、あたしらの情報収集なんかよりも余程正確で迅速なんだ。それを口実にして、あの子に会ってやっても罰は当たらないと思うぜ?」
「俺はあの子に会う理由はない」
「会ってやれって。その方が後悔しないぞ、絶対に」
小夜子はフィルターが少し湿ったタバコを唇から外し、指の間で転がす。
「あたしは後悔しきりだよ。自分の話になっちまうけど、あたしさ、親父しか家族がいなかったんだ。タカさんみたいな機械いじりばっかりしている人で、仕事の間はタバコを切らさないんだ。おかげで、ヤニと金属と石油の匂いがしていないと落ち着かない体になっちまった。母親のことは知らないし、知りたくもない。んで、あたしは親父を少しでも幸せにしてやろうって思って、頑張って頑張って頑張って公務員になったんだけど、試験勉強に夢中で親父の具合が悪くなっていることにちっとも気付かなかった。タバコ飲みだから年中咳をしていたし、毎日煤やら金属の粉やらで顔が黒くなっていたからでもあるんだけど、その、な……。まあ、簡単に想像が付くだろうけど、末期の肺ガンになっちまっていたんだ。で、治療出来る段階はとっくに過ぎ去っていて、モルヒネも効かなくなって、半月もしないで死んじまった。あんなに大きな体だったのに、色んな工具を器用に扱っていた手を持っていたのに、一抱えしかない骨壺に収まっちまった。大人になったから一緒に酒飲もう、とか、仕事の話がしたいなぁ、とか、まあ、色々あったのに何も話せなかった。仏壇に向かって喋ったって空しいだけだし」
深く深くため息を吐いてから、小夜子は心なしか潤んだ目で触手の男を見やる。
「だから、あたしはつばめちゃんがちょっと羨ましいよ。だって、まだ親がいるじゃないか」
「……まともな人間の親であれば、の話だ」
触手の男は声色を低め、触手を下げた。小夜子は洟を啜ってから、口角を上げる。
「それを決めるのはタカさんじゃない、つばめちゃんだよ」
じゃあな、と小夜子は手を振ってから、足早に去っていった。高守は細い触手を伸ばして、触手の男を見やった。小夜子とのやり取りから察するに、この男は佐々木つばめの父親であるようだ。ということは、クテイと佐々木長光の間に生まれた、ニルヴァーニアンと人間の混血児でもある。だとしても、なぜ彼は高守を欲したのだろうか。クテイの生体情報を色濃く受け継いだ彼からしてみれば、シュユの苗床でしかない高守は劣化した個体に過ぎず、遺産を操るための力は備えていない。自分でも自分の使い道が解らないほど、半端だ。
「高守信和だな」
高守の触手に、長孝は自身の触手を絡めてきた。生体電流で直に意思の疎通を行おうというのだろう。
『あ、はい。そうですけど、僕に何か』
高守が思考して返答すると、彼は言った。
「俺は佐々木長孝、佐々木つばめの父親だ」
『それは先程のお話で大体解りましたけど、でも、僕に何の御用で? 長孝さんみたいな人にとっては、僕みたいな半端者は人間もどきの延長でしかないと思うんですけど』
「君に出来て、俺に出来ないことは山ほどある」
『ヴァイブロブレードのことですか?』
「まあ……それもそうだが、最も重要なのはシュユだ。一目瞭然だろうが、俺の母親はクテイだ。だから、俺はクテイと関わりのあるものとしか互換性がない。二週間前、サイボーグが一斉に機能停止したんだが、その原因は彼らの生命維持に欠かせない部品にシュユの下位互換である生体部品が使われていたためなんだ。異次元宇宙と物質宇宙を繋ぐルーターとも言うべきシュユが殺されたからだ。だが、クテイの恩恵を受けたものは影響は出なかった。現に、俺はこうして動いている」
『その理屈で行くと、僕が機能停止しないはずがないんですけど。それと、一乗寺さんも』
「そうだ。ルーターが破壊されてメインサーバーから情報を得られなくなっても、君や一乗寺の肉体は現存している。クテイとアソウギの力で生み出された怪人達は、遺伝子情報をダウンロード出来ない環境に置かれたら液状化して死んだはずなのに、君達はそうならない。その理由が解るか?」
『急にそんな質問をされても困るんですけど。でも、なんとなく予想は付きます。僕も一乗寺さんも物質宇宙で現存出来るほどの概念を得ているから、遺伝子情報や何やらがなくても個としての形を保てるんじゃないかな、と』
「大筋ではその通りだ。一乗寺皆喪も、君も、桑原れんげに接触していたからな。その影響だろう」
『あ、なるほど』
高守は納得して、二本の触手をぽんと打った。要するに、異次元宇宙からの情報を必要としなくとも、物質宇宙に高守という存在が認識されている、ということだ。更に言えば、その存在を認識している、という概念が形作られるのは桑原れんげという概念の固まりの力を借りているからだ。
「俺は桑原れんげを掌握し、支配下に置きたい。そのためには、より異次元宇宙に近い君の存在が不可欠だ」
長孝の申し出に、高守は戸惑った。そんなことを言われても、出来る保証はない。そもそも、桑原れんげを支配下に置くことは誰にも出来なかったはずだ。桑原れんげが一個の人格として独立し、暴走した際、桑原れんげの産みの親とも言える設楽道子は桑原れんげに追い詰められて殺された。管理者権限を持つつばめも、れんげの概念を担う一端にされてしまった。ハルノネットの本社を強襲してサーバールームを破壊しようと、桑原れんげに執着心を注ぎ続けていた美作彰が自殺しようと、桑原れんげを消去することは出来なかった。簡単なことだ、桑原れんげは概念なのだ。彼女の名前を思い浮かべてしまったが最後、何度プログラムを削除しようと、プログラムが保存された電子機器を破壊しようと、桑原れんげは蘇る。それが遺産の恐ろしさだ。
『それが出来たと仮定した上で質問しますけど、概念を操作してどうするつもりなんです?』
「概念を書き換えて、俺がシュユに成り代わる」
『えぇ?』
高守が余程変な声を上げたのだろう、長孝は触手が生えている肩を揺すった。
「俺だって、自分の考えが可笑しいと思うさ。だが、俺達には後はない。つばめが殺されてみろ、俺達は二度と遺産に手出し出来なくなる。今でこそ、クソ親父はクテイにつばめの感情を喰わせたいがためにつばめを生かしているが、クテイがつばめの感情に飽き飽きしたら一巻の終わりだ。クテイはクソ親父につばめを殺せと命じ、クソ親父は躊躇いもなくつばめを殺す。そういう奴らだ」
『で、でも、長光さんは人間ですよね? いや、今はもう人間じゃないですけど』
「あいつは肉体こそ人間だが、中身は人間じゃないさ」
長孝は憎らしげに言い捨ててから、ズボンの裾から出ている触手を波打たせて進んだ。
「移動する。桑原れんげの主要なプログラムを保存したサーバーの住所を、武蔵野がリークしてくれたんでな」
シュユの肉体を触手の端で捉えながら、高守は不可解な気持ちに駆られた。長孝の目論見が成功し、彼自身がシュユに成り代わってフカセツテンを操縦出来るようになったとしよう。そうなれば、長孝という個人の人格や何やらは桑原れんげの概念によって塗り替えられ、佐々木長孝はイコールでシュユになってしまう。そうなってしまえば、彼は佐々木つばめの父親ですらなくなる。佐々木長光の息子ではなくなれるのは、彼にとっての幸福なのだろうが、それではつばめが哀れだ。だが、自我や自意識をなかったことに出来るのは、少し羨ましいと思った。
そんなものがあるから、皆、些細なことで悩み苦しんでしまう。
移動すること、二時間半。
シュユの肉体が格納されている倉庫は御鈴様のライブ会場に程近い場所だったので、埋立地の一角であり、そこから都心に出るまでに時間が掛かった。桑原れんげのサーバールームがある建物の住所が入力され、カーナビは的確に道順を教えてくれたが、やたらと遠回りな上に道が入り組んでいた。ハルノネットの社長であった吉岡八五郎が念には念を入れて、カーナビに送信されてくる位置情報に細工を施していたようだ。そうでもなければ、同じ地区を何度も何度も巡る指示が出るわけがない。だが、長孝はそれには逆らわずに、ハンドルを握っている運転手にその通りに走ってくれと注文した。運転手は怪訝そうだったが、言い返さずにハンドルを切った。
同じ景色を何度も見せられて乗り物酔いに似た酩酊感に陥った高守は、触手を一本残らず引っ込めてビーカーの底に没していると、ようやく車が止まった。ワゴン車のスライド式のドアが開き、外界に出されると、倉庫を出た時よりも日が陰っていた。秋の日は釣瓶落としだ。
ワゴン車がバックして道路に戻ると、不意に霧が流れ出してきた。それと共に、微細な違和感が触手を駆け巡り、高守はビーカーの中で身震いした。これは、シュユが作り出した異次元の中にいる時と全く同じだ。だとしたら、この空間も異次元なのだろうか。空間の湾曲を感じて遠近感が狂った高守は、長孝の触手に触れた。
『あの、ここって異次元ですよね? フカセツテンの外なのに、こんなのって維持出来るんですか?』
「俺の精神力を動力源にして、複製した遺産の情報処理能力を働かせてあるからだ。フカセツテンはあくまでも殻であって、それがあると空間が安定するのは確かだが必ずしも必要というわけではない。異次元の規模にも寄るが。見た目こそ違うが、俺と似通った生体構造の弟には見つかっていたようだが、この様子からするとハチは異次元には踏み込めなかったらしいな。遺産同士の互換性を利用してハッキングを仕掛け、桑原れんげのサーバーとして利用していたことからすると、入れないなりに頑張っていたようだ」
『弟さんと仲が悪かったんですか?』
「お互いに無い物ねだりをしていただけだ。それはそれとして、ここだ」
長孝が触手で示したので、高守はビーカーの底から浮き上がって触手を出し、視認した。それは、古びた町工場にしか見えなかった。錆の浮いたトタン屋根に雨の筋が付いたコンクリートの壁、プラスチックが変色している看板に砂埃が堆積したシャッター、などと、どこもかしこも経年劣化していた。看板に印された文字は色褪せていたが、決して読めないことはなかった。機械部品・設計・製造、宮本製作所。
『こんなところにサーバールームがあるんですか?』
高守が不思議がると、長孝はポケットから鍵を出してシャッターの鍵穴に差し込み、回した。
「あるんだ。大分昔に俺が造ったんだ」
『え? でも、長孝さんって機械屋ですよね?』
「機械屋だ。だが、俺が造ったのは人間の常識が通じるサーバーじゃない。ニルヴァーニアンの常識が通じているサーバーなんだ。だから、色々と面倒でな」
長孝は触手を絡ませてシャッターを押し上げ、腰の辺りの高さまでの隙間を造ってから中に入り込んだ。換気すらもされていなかったのだろう、空気は埃で濁り、町工場に相応しい機械油の刺激臭が沈殿している。割れた窓から控えめに差し込んでいる日光が、長孝が歩いたことで舞い上がった埃の粒子を照らし、さながらダイヤモンドダストのように煌めかせる。角度のきつい細い階段を昇り、二階の事務室に入る。
磨りガラスの填ったスチール製のドアを開くと、油の切れた蝶番が甲高い悲鳴を上げた。年月と埃が淀んでいた室内を懐かしげに見回してから、長孝は迷わずに一つの机に向かった。高守の入ったビーカーを机に置いてから、キャスター付きの回転椅子を押しやり、引き出しを一つ一つ開けていった。紙の書類を放り出し、細々とした私物も乱雑に投げ捨てていき、引き出しの隅から小さな箱を取り出した。
『それは?』
高守が触手で埃まみれの小箱を差すと、長孝は眉間に当たる部分にシワを刻んだ。
「俺がひばりに贈ったものだが、俺に返してくるのは計算外だった」
『婚約指輪、ってことですか?』
「まあ、そういうことになるな。ひばりはこれを返すために、わざわざ新免工業から逃げ出して俺に会いに来たんだ。お金に換えて生活費の足しにしてくれ、と。もしかすると、ひばりは俺と武蔵野の間でぐらついていたのかもしれんが、今となっては真相は解らない。解りたいとは思わないがな」
長孝が箱を開けると、銀の細い指輪に青く澄んだ宝石が填っていた。宝石のカッティングも、それが埋まっている台座も極めてシンプルなデザインだった。
「アマラとナユタの複製体を加工したものだ。これがひばりの手元にあれば、ひばりを通じてつばめの管理者権限が適応され、本体のナユタのエネルギーを受けて桑原れんげも安定すると踏んでいたんだが……」
『あれ? でも、そうなると時系列が変ですよ。桑原れんげは、設楽道子の人格をコピーしたもので』
「桑原れんげがその名前と人格を得て確固たる概念になる切っ掛けを作ったのは確かに道子さんだが、それ以前にも桑原れんげは存在していたんだ。あれは、アマラの管理プログラムの一部が肥大化したものだからな」
長孝は触手の尖端で指輪を撫で、眉間のシワを深めた。
「俺は俺のままでいてはいけない。俺が俺であっては、今以上につばめも苦しめる」
だから、俺は俺でなくなるべきだ。長孝は強く言い切り、箱を潰さんばかりに握り締めた。長孝と会話するために緩く繋いでいる触手から、彼の苦悩が流れ込んでくる。長孝は極力感情を殺しているが、その実は情緒豊かな男だ。妻と娘が愛おしくてたまらないが、愛すれば愛するほどクテイが肥え、長光が冗長すると解っているから、家族への愛情を殺さざるを得ない。そして、自分自身も殺さなければならない。そう、信じ抜いている。
何から何まで、高守とは大違いだ。
霧が晴れ、汚れた窓から鮮烈な西日が差し込んだ。
すぐさま、高守はそれが異常事態であると悟った。異次元に立ち込めている霧は、余程のことがない限りは絶対に晴れない。霧とは通常の空間と異次元を隔てる障壁であり、境界だ。この異次元を作り出している長孝が、外界との隔たりを消したのであれば問題はないのだが、長孝はひどく動揺していたので、そうではないらしい。
と、いうことは。高守が長孝に触手を向けると、長孝は凹凸のない顔を巡らせた。かつん、かつん、と硬い足音が階段を昇ってこちらへと近付いてくる。饐えた空気に生臭みが混じり、一層濁る。磨りガラスに影が掛かり、足音の主がノブを掴み、ぎしりと回した。ドアが開ききると、そこには人型ホタルが立っていた。備前美野里だ。
「お前は備前じゃないな」
長孝は人型ホタルを視認すると同時に、その正体を察した。アソウギの力を受けて人智を超越した美野里もまた遺産の互換性からは逸脱出来ないはずなのだが、彼女とは何も通じ合えなかった。その力の根源となっているものがクテイかシュユの違いがあろうとも、多少の繋がりは生まれる。だが、美野里は全てから切り離されていた。ここまで近付かれたのに、気配すら感じ取れなかったのだから。
磨りガラスのドアに神経質な仕草で爪を立ててから、人型ホタルは複眼の付いた頭を回した。細長い触角もまた揺れ、埃と共に匂いの粒子を絡め取る。歴戦の勇士の鎧を思わせる傷を無数に帯びた外骨格は、痛々しさ以上に勇ましさを感じさせる。人型ホタルは長孝を見据えると、きち、と顎を開いた。
「お久し振りですね、長孝」
口調だけではなく、声色も美野里からは懸け離れていた。低く掠れた、老いた男の声だった。
「父さん」
長孝の呟きは声色を抑えてはいたが、数多の恨み、辛み、蔑み、怒りを含んでいた。人型ホタルの肉体を借りた長光は触角を片方曲げ、腕を組むような仕草で上両足を曲げた。
「私がこの姿になっていようとも、驚きもしませんか。相変わらず、冷めていますね」
「他人の肉体を間借りするのは、あんたの常套手段だからな。驚くだけ、感情の無駄遣いだ」
長孝が冷徹に返すと、長光は首を曲げる。
「ここを見つけ出すのに苦労しましたよ。長孝が勤めていた工場を見つけたはいいものの、その抵当やら何やらは既にあなたのものに変更されていましたからねぇ。会社の名義もさることながら、不動産の権利までもが。それ以前の持ち主に接触して掛け合ってみましたけど、長孝に譲ったからと言い張るばかりで無駄足でした」
「この会社の社長は、俺に目を掛けてくれた。だから俺が相続したんだ。それだけのことだ」
「なんでしたら、その社長さんの養子になればよろしかったのに。ああ、無理ですね。その体では」
長光が可笑しげに肩を揺すると、長孝はつるりとした顔面を僅かに歪ませた。
「ハチに何を吹き込んだ? そうでもなければ、あいつはあんたの思い通りには動かなかったはずだ」
「別に何もしてはおりませんよ。ただ、実家に帰ってきてもいいですよ、と言っただけです」
長光は無数の複眼に長男を映り込ませ、顎を開く。
「八五郎はあなたと違って、根が素直ですからね。私が子供の頃にろくに構ってやらなかった分、ほんの少し誘いを掛けるだけで面白いように動いてくれましたよ。長孝がひばりさんと御一緒に一度も実家に帰ってきていないことを教えてやった上で、実家に帰ってきてもいいですよ、と言ってあげただけで、文香さんの胎内で繋留流産したりんねさんを持って帰ってきてくれたばかりか、ハルノネットの経営権までもを明け渡してくれました。良い子ですよ」
「ハチは死んだ。神名円明に填められて殺された。あんたのせいでだ」
「ええ、存じ上げておりますよ。神名君は私が生き返らせて差し上げたのですから」
長光は顎を押さえ、くつくつと喉の奥で笑みを殺す。
「神名君と知り合ったのは、随分と昔のことですよ。神名君は、ひばりさんの御父様が経営していらした会社の社員だったのですが、その有能さとは反比例した環境で燻っていたのです。そこで、神名君をサイボーグの開発を行っている会社に転職させ、更にその会社に兵器開発を斡旋してやり、新免工業を立ち上げる手伝いもしました。おかげで神名君は大成功しましたが、博愛主義の名の下に不特定多数の女性に手を出すという悪癖がありまして、そのせいで色々と面倒なことになりましたよ。後始末やら何やらで、無駄金を使ってしまいました。なので、神名君が息子に殺されたと知った時はほっとしました。これで彼を人間もどきに加工して、良いように扱えるとね」
「神名円明の目的も利用したのか」
「ええ、もちろん。人間もどきの実用性とそれを支配するネットワークを実証するためには、きちんとした実験をする必要がありましたからね。弐天逸流は人間もどきを内々でしか使っていませんでしたから、人間もどきが本物よりもどれほど優れているか、劣っているか、を調べる機会がありませんでした。ですが、神名君のおかげで随分と捗りましたよ。これで、クテイを心行くまで満たしてあげられます」
「あんたは何がしたいんだ」
「ここまで言っても、まだお解りになりませんか? 桑原れんげを手に入れに来たのですから、おのずと想像が付くとは思いますけどねぇ。もっとも、私はそれをあなたに教える義理もなければ義務もありません。あなたに会えるとは思ってもいませんでしたけど、願ってもない機会です。もう一度お会いして」
かりっ、と長光の下両足の爪先がコンクリートの床を削る。直後、黒い矢が長孝に突っ込み、長孝の体は一瞬で後方に吹っ飛ばされた。スチール机を薙ぎ払いながら壁に突っ込んだ息子を眺め、長光は満足げにかちかちと顎を開閉させる。書類やファイルの切れ端が絡んだ触手を垂らしながら長孝が崩れ落ちると、長光は哄笑する。
「あなたを殺したかったんです! それだけは他の誰にも譲れないのですよ!」
「う、ぁ……」
胸部を抉られた長孝は呻き、触手を痙攣させる。作業着の胸元に赤黒い体液が滲み、滴る。
「覚えておいでですかぁっ、長孝! きっと覚えていないでしょうねぇっ!」
長光は崩れたスチール机を身軽に乗り越えると、長孝に詰め寄り、その顔を爪の生えた手で握り締める。
「あなたが生まれた時、あなたはクテイの腕に抱かれた! そればかりか、クテイから体液を与えられた! あなたの生体構造が人間に比較的近いと知ると、クテイはあなたのために食事を作って食べさせた! あなたが大きくなってくると、あなたを連れて外に出るようになった! あなたが生まれた日から、クテイの生活の中心は全て長孝に支配されてしまった! それが、私にとってどれほどの屈辱で、恥辱で、陵辱であったかあああああっ!」
激昂した長光は大きく振りかぶり、長孝を力一杯床に叩き付ける。コンクリートが抉れ、ヒビが走る。
「私は猛烈に後悔しました、クテイに我が子を生ませたことを。ですが、クテイを悲しませたくありませんでしたから、あなたを殺せませんでした。私と似た名前にしてしまえば、あなたに愛着が湧いてきて気が晴れるのではと思ったのですが、似た名前にすればするほど、クテイが私に良く似ているけど私ではない名前を呼べば呼ぶほど、私はあなたが憎らしくてっ、たまらなく、なっ、たぁあああああっ!」
スチール机、ファイルの山、椅子、応接用のソファー、と長光は、息子の上に手当たり次第に物を投げ落とす。
「私はクテイの全てでありたいっ、クテイは私の全てだからっ、クテイこそがこの宇宙の中心だからぁああっ!」
一際重たい金庫を担ぎ上げた長光は、仰け反りかけたが、それを渾身の力で投げ込んだ。スチール机と椅子の詰まった大穴が再び抉れ、ぐぶぅっ、とくぐもった呻きが漏れた。同時に、赤黒い体液が天井まで噴き上がる。
「私が最も許せないのは、あなたがクテイが私の元から脱そうとした理由を作ったことです。十四年前、あなたから電話を受けたクテイは、夜中に寝床を抜け出しました。そうです、覚えていますでしょう、ひばりさんが妊娠したとの連絡を受けたからですよ。クテイはあなたと八五郎に無用なトラブルが被るのを避けるためなのか、管理者権限が隔世遺伝するように細工を施していましたからね。だから、孫として生まれる胎児に生体接触を図り、管理者権限をなくそうとでも考えていたのかもしれません。ですが、そのせいで、そのせいで、そのせいでぇえええええっ!」
天井まで飛び上がった長光は、天井を蹴り付け、金庫に全体重を掛けた蹴りを銜えた。床が割れ、崩れる。
「船島集落を抜け出そうとしていたクテイは、善太郎君の乗るバイクに撥ねられてしまったのですよ! そればかりか、クテイは善太郎君が失った右腕に自分の触手を移植しました! そのせいでクテイの数学的にも完璧な美しさが損なわれたのです! 隙を見て善太郎君の触手を切断しようかとも思いましたが、仮にもクテイの触手ですから、傷付けられるわけがありませんでしたよ! その歯痒さたるや!」
崩落していく床を見下ろしながら、長光は高らかに叫ぶ。
「この空間であれば、クテイは私の悪しき殺意を捕食せずに済みますからね。クテイは全てに置いて美しくあるべきなのです、捕食する感情でさえも。ですから、私があなたを殺す際の激情は、私の内だけで止めます」
これこそが、佐々木長光なのだ。老いた男が宿していた苛烈な愛情を目の当たりにし、事務室の隅に身を潜めた高守は戦慄していた。長光は元から人間ではない、と長孝が言っていた意味が痛烈に理解出来る。我が子にさえも嫉妬心を抱くのだから、正気ではない。その妻を孕ませたのはお前じゃないか、と高守は言い返しかったが、そんな余裕はなかった。長光は遺産の互換性によるネットワークを切断しているので、こちらの思念が漏れないのが幸いだったが、それだけで何になるものか。この場を凌げなければ、長孝も高守も、桑原れんげも無事では済まない。
何もしたくない、何も考えたくない、何にもなりたくない。高守は心中で淀む怠惰への憧憬と、目の前の凶行への畏怖と、長光の理不尽さへの憤りを燻らせた。だが、長孝を助けたところで何になるのだ。長孝は高守の味方ではないし、シュユと長孝を繋げるための部品として利用されそうになっていたではないか。しかし、それは高守も納得した上での決断だ。高守は誰かに従っていたいから、自由に怯えているから、愚鈍な道具でいたい。
「まだ息がありますか。では、こうしましょう。あなたの触手を一本一本切り落とし、裂いていきましょう」
長光は穴から一階を覗き込むと、上機嫌に笑った。白っぽい粉塵が黒い外骨格に舞い降り、薄汚れる。
「それほどまでに許せないのですよ。クテイの愛を注がれていた、あなたが」
長光は穴に身を投じ、姿を消した。逃げるなら今だ。今しかない。今ならば、長光がこの異次元に踏み込んできた時の穴が空いているはずだ。土よりも硬いので手間取るだろうが、コンクリートを使えば体を作れる。そうすれば、逃げられる。逃げて逃げて逃げて、だが、その先はどうする。逃げた先に何がある。逃げた先にあるのは外の世界であり、高守が恐れて止まない世間であり、弐天逸流に入信した人々が遠ざけてきた現実がある。
「さあ、まずはどの触手から切り落としましょうかね。仮にも職人であるあなたのことですから、一番使い込んでいる触手には触れられたくもないでしょうねぇ? ああ、これですね、一目で解りますよ。皮膚の厚さが違いますから」
長光の浮かれた言葉に、長孝の呻きが重なる。
「ほら、切りましたよ。ああ、残念ですね、この触手で色々な機械を作り上げてきましたのにねぇ」
止めろ、止めてくれ、と長孝は哀願するが、長光はそれを聞き流す。
「クテイがあなたに注いだ情の分だけ、あなたを切り刻めるのかと思うと、楽しすぎて楽しすぎて」
体液の飛び散る音、無造作に投げ捨てられた肉の帯が壁に貼り付く音、長孝の苦しげな喘ぎ。
「こんなに満ち足りた気分になったのは、クテイと初めて床を共にした時以来ですよ。ああ……素晴らしい……」
現実とは惨く、痛く、厳しく、やるせないものだ。だから、高守はシュユを求めて止まない。そのシュユと再び繋がることが出来る機会を与えてくれるかもしれない長孝が、ここで潰えてしまっては二度とシュユとは通じ合えない。高守は現実という名の地獄に放り出されてしまう。それだけは嫌だ。嫌で、嫌で、嫌でたまらない。
だから、今、長光と戦うしかない。高守はかなり歪んだ経緯で得た戦意を糧にして、触手を這わせてコンクリートにねじ込み、底の浅い体力を使って振動波を放った。途端に分子構造が変換されて粘土に変化したコンクリートは、高守の触手に絡み合ってきた。柔らかなコンクリートを寄せ集めて人型に練り直し、再度硬化させ、灰色の巨体に種子を埋め込んだ。刀の代わりになりそうなものは簡単に見つかった。製図用のステンレス製の定規だ。それを二本拝借してから、桑原れんげの情報を収めたサーバーである指輪を粘土の中に埋め込んだ。
ステンレス製の定規を握りながら振動を与えて、刀の形に変える。それを両手に一本ずつ携えた高守は、穴から一階に飛び降りた。工業用の機械の上に着地した高守が顔を上げると、赤黒い体液の海に横たわっている長孝は両方の触手を半分以上切り落とされていて、作業着の袖の中には無惨な切り口が並んでいた。
「おや。意外な伏兵ですね」
長光は息子の触手をぶぢゅりと握り潰してから、放り捨て、高守と向き直った。
「あなたは確か……高守君ですね 弐天逸流の」
「ああ、そうだよ」
高守は即席の刀を構え、長光と対峙する。長光は汚れた爪を擦り合わせ、滑り気を払う。
「だとしても、あなたには愚息を助ける理由などありませんでしょうに。弐天逸流を存続させたいのでしょう、今後も外界から隔絶されている閉じた世界に収まっていたのでしょう。だとしたら、シュユを見限ってクテイを崇めなさい。クテイこそが本物の神であり、宇宙の真理です。何者かに寄り掛かっていたいのでしたら、クテイに寄り掛かればよろしいではありませんか。シュユなどを信じたところで、あなたの心は救われませんよ」
「僕は心はいらない」
「おやおや、高守君は仮にも人間だったではありませんか。それなのに、信仰の自由すらも放棄するのですか?」
「自由もいらない」
「そうですか。あなたは無欲な振りをしてはいますが、誰よりも強欲ですね、そうやって誰かに支えられて生きようとするのですから」
「解り切っている。僕は、そういう奴なんだ」
長光との距離を測りつつ、高守は体内に埋めたアマラとナユタの複製体に念じた。つばめの心臓の鼓動に似せたタイミングで振動を与えてやると、僅かばかり反応を返してくれた。だが、それだけでは桑原れんげを操れるほどの出力は得られなかった。管理者ログイン画面が開いただけ、とでも言うような状態だ。それでも、出来ることはある。高守は余力を振り絞り、桑原れんげの名を心中で連呼した。概念を掻き集め、凝縮させれば、事象となる。
窓から差し込む光が収束し、古びた工場と生臭い殺戮の場に似付かわしくない、幻影の少女が現れる。しかし、その姿は偶像のイメージを煮詰めたアイドルではなかった。設楽道子が十代だった頃の外見を元にした、地味な紺色の制服姿で顔付きもぱっとしない少女だった。それが、真の桑原れんげだった。
「れんげさん? ですが、私の知るれんげさんは、もっと派手ではありませんでしたか?」
長光は訝り、幻影の少女を見やった。桑原れんげは外見に添ったおどおどした表情で、高守を窺う。
「あの、私、どうすれば……」
「れんげさん。僕は元々、なんだった?」
高守が問うと、れんげは目を彷徨わせてから言った。
「えっと、私のデータベースに寄れば、高守さんは元々は人間で」
「だったら、それを全部書き換えてくれ。僕をシュユにしてくれ。いや、僕は本当はシュユだった」
「無理ですよ、だってそれは概念じゃなくて事実であって」
れんげは躊躇ったが、高守は胸に手を添え、その内に納めた複製体の遺産を押さえる。
「エネルギーが足りないなら、僕の三十何年分の感情を一切合切使ってくれ。僕はシュユでいたい」
「何を馬鹿げたことを仰いますか! そんなことをしたところで、異次元宇宙と物質宇宙の接続が蘇るとでも!? シュユとクテイの力関係が入れ替わるとでも!? そのようなデウス・エクス・マキナが許されるわけがない!」
長光は嘲笑するが、高守は揺らがなかった。今一度、れんげに懇願すると、れんげは躊躇いを残しつつも概念を書き換えるために必要なエネルギー量と、それによる影響を検証するための演算を始めた。十数秒後、れんげは高守が過去に蓄積した感情と、桑原れんげを維持するために必要なエネルギーを全て使い切れば、理論上では可能だと答えた。つまり、高守の概念を改変すれば、れんげも原形を止めなくなるということだ。
「僕にも欲しいものはある。だけど、それは僕が人間である限りは手に入れられないものだ」
「でしたら、なぜ私の膝下に屈さないのです。それが最も賢い選択だと、なぜお解りにならないのです?」
長光は奇妙な角度に首を曲げながら、高守を指し示す。
「僕は人間ではいたくないけど、あなたの道具にはなりたくない」
大きく踏み込んだ後、右手の刀を振り抜く。長光は最初の一撃は爪で弾いたが、その拍子に空いた懐に二本目の刀が至り、切れ味の悪いステンレス製の刃が外骨格を割る。生温い体液の飛沫が上がり、高守の腕と同じ色味の壁を汚した。長光がよろけると、高守はその隙を見逃さず、先程弾かれた右手の刀を逆手に上げる。
斜め下からの斬撃が、中左足と上右足を断ち切った。大きく弧を描き、節くれ立った足が転げ落ちると、長光は体液が止めどなく流れ落ちる傷口を押さえようとした。だが、背を曲げたことで腹部の割れ目が一気に広がり、体液の流出量が倍増した。長光は全開にした顎から胃液らしき体液を漏らしながら、濁った声で喚く。
「道具に使い手を選ぶ権利など、あるものですかぁっ!」
「あるさ。僕にだってあるんだから」
体液を帯びてぬらぬらと光る刀を翻し、長光の頭部に突き立てた。触角の間、複眼と複眼の僅かな空間にいびつな刃が埋まる。それを軽く捻ると、人型ホタルは痙攣し、動かなくなった。遺産の互換性がないせいで長光の意志が宿っている美野里の命が潰えたかどうかは確認出来なかったが、当分は動けまい。こうしておけば、長孝の助けが来るまでの間は作れるはずだ。
安定と安寧と安息を求めて止まないから、シュユを信じていた。だが、シュユに成り代わる存在になろうとした長孝は生死の境を彷徨っている。ならば、高守自身がシュユとなるのが最良の選択だ。人間の猥雑とした世界から完全に隔絶された、情報の海に精神体を浸す世界に至りたい。そうすれば、長孝は自分を捨てずに済む。つばめに会うことが出来る、とも頭の隅で考えていた。高守は特定の誰かから愛情を注がれたこともなければ、注いだこともないから、それが出来る立場にあるつばめと長孝が羨ましい。つばめと長孝がまともな親子関係を築ける保証はないが、築ける機会を損なわせるのは心苦しい。なんだかんだで、高守もつばめが好きになっていたからだ。
仮初めの肉体にれんげが抱き付いてきた。彼女のプログラムが馴染み、広がり、概念が事実を塗り替えていく。これまで高守が人間として積み重ねてきた時間、感情、情報、経験が溶けていった。溶けた情報を桑原れんげが絡め取り、織り成し、高守信和という人間をシュユに置き換えていく。
高守はシュユであり、シュユは高守であり、シュユはシュユである。無限に打ち寄せる情報の波に精神体を委ね、概念化した情報を事実に置き換える最中に、かつてのシュユと擦れ違う。シュユは言葉を出さずに語る。高守もまた意思を注ぐ。束の間の逢瀬の後、高守は現実へと、シュユは概念の残滓となり、果てていく。
物質宇宙の理が、一つだけ書き換えられた。
浄法寺に帰ってきたつばめは、体の芯まで冷え切っていた。
だから、体の内側から暖めてしまおうと、ミルクココアを作っていた。どうせなら、ということで、お菓子作りのために買い込んでいた純ココアを使うことにした。小さな片手鍋の中にココアと砂糖と少量の水と牛乳を入れてから、弱火に掛け、泡立て器を使ってペースト状になるまでよく練る。その次に適量の牛乳を入れて、煮立たせないように注意しながら暖めていくと、出来上がりである。美野里の母親である景子が、冬場になるとよく作ってくれたので、自分で作れるようにとレシピを教えてもらっていたのだ。
「そうだ、マシュマロも入れちゃおう」
この前、コジロウにお使いを頼んだ時に、おやつにするために買ってきてもらったのだ。つばめは戸棚を開けて、ホワイトマシュマロの袋を取り出し、熱々のココアに二つ浮かべた。見た目も可愛らしいから、大好きだ。
「んふふ」
使い終わった道具を洗ってから、つばめは湯気の昇るマグカップを抱えた。どうせなら、寒い台所ではなく暖房が効いている居間に移動した方がいい。雪を被ったことで風情が出た庭を横目に、底冷えする板張りの廊下を歩いていき、居間のふすまを開けた。石油ストーブが赤々と灯っていて、コタツには道子が入っていた。
「お帰りなさーい。二度目ですけど」
「コジロウは?」
「雪掻きですよ。掻いても掻いても降ってくるんですけど、掻かなきゃ積もる一方ですから」
メイド服姿の道子は、アンドロイドのボディでありながらもコタツを堪能しているのか、顔が緩んでいた。
「仕事熱心だね、相変わらず」
つばめは道子の向かい側に座り、コタツに入った。やけに早い時期に雪が降ってきた影響で、急激に冷え込んだので、道子が三年前の記憶を頼りに納戸から引っ張り出してきたのだ。季節の変動が急すぎたので、コタツ布団をクリーニングに出せなかったのは残念だが、この際、多少のカビ臭さは我慢するしかない。
「あれ」
道子の右隣、テレビの真正面にある水の入ったコップを見、つばめは訝った。
「ああ、これですか。なんでしょうね、なんとなく用意してしまったんですけど」
道子は七分目ほどに水が入ったコップを小突いたが、つばめも見当が付かなかった。
「ま、後で片付ければいいか」
「ですねー。そういえば、あの人、いつ帰ってくるんでしたっけ」
「あの人って?」
「シュユさんですよー。ほら、御鈴様のライブの時に岩龍さんにKOされた後に、美野里さんに襲撃されてズタボロになっちゃったから、つばめちゃんと遺産の力を借りて回復するために、浄法寺に一緒に来たじゃないですか。んで、また野暮用があるとか言ってお出掛けになったんですよ。確か、一ヶ谷駅前で政府の方々と待ち合わせする、って言っていました。今頃、東京に到着した頃ですかねー?」
「え? そうだっけ?」
「そうですよー。忘れちゃったんですか?」
道子に苦笑され、つばめは思い返してみた。言われてみれば、確かにそうである。シュユ。弐天逸流の御神体にして、人間もどきを生み出していた植物の親株にして、異次元宇宙と物質宇宙の狭間に浮かぶ存在である。彼は子株を使って吉岡りんねに接触し、部下となり、船島集落で長らえているクテイを滅ぼそうと画策した。紆余曲折を経て、フカセツテンを佐々木長光に奪われ、挙げ句の果てに操られ、ライブでの激闘を経て共闘関係に至った。
そのはずなのだが、何かが引っ掛かる。まるで、桑原れんげに概念を操作されて意識と記憶を改竄されていた時と同じような感覚だ。だとしても、その桑原れんげとは何なのかも、思い出せなくなってきた。シュユはシュユでしかなく、シュユとつばめの間には何もないのだと、感覚が伝えてくる。それが猛烈な違和感を生んでいたが、ココアを飲んでいるうちに溶けていった。マシュマロが溶けて消える頃、つばめの胸中の違和感も消えた。
彼の記憶も、存在も、名前すらも。




