敵はホームセンターにあり
何はなくとも、ほっとする。
そこに、姉がいるからだ。ようやく見慣れてきた板張りの天井から目を外し、つばめは隣に敷いた布団で熟睡している美野里を見やった。ここしばらくの疲れが溜まっていたからだろう、泥のように寝入っている。トリートメントやら何やらで艶々に仕上げている長い髪はぐちゃぐちゃに乱れ、起きたら寝ぐせが物凄いことになっているに違いない。美野里の髪をヘアアイロンで真っ直ぐにする手伝いをさせられるかもしれないが、その時はその時だ。つばめの方からも髪を結んでくれ、と美野里に頼めばいいのだから。
掛け布団を上げてそっと自分の布団から出たつばめは、美野里を起こさないように気を付けながら、ひんやりする畳の上を歩いていった。無駄にだだっ広い部屋なので、石油ストーブまでの距離がまず遠い。着替えの中から靴下を引っ張り出して履くと、足の裏から染みてくる寒さがまだマシになる。厚手の綿入れ半纏も羽織って背中を丸め、部屋の隅にある石油ストーブに火を入れると、瓶の吸い口に息を吹き込んだような音の後に赤く火が灯った。
「あー寒い寒い」
つばめは手を擦り合わせて石油ストーブに翳し、暖める。四月を迎えたら世間には自動的に春が来る、と物心付く前から思っていたが、そうではないらしいと気付いたのは、船島集落に来てからだった。四月に入ってからも大雪が降ったばかりか、桜が咲く気配もなく、地面は雪の下に覆い隠されている。三月末から四月初旬に掛けての二週間程度がが桜の季節なのは関東一帯だけで、卒業と入学シーズンが桜の最盛期なのもまた関東だけであり、その他の地域では桜が咲く時期自体が前後する。だから、船島集落を含めた地方で桜が咲くのは四月下旬から五月上旬だそうである。緯度と気候を踏まえて考えれば至極当然のことなのだが、この前までは関東の気候が日本全土の気候であるかのように認識していた自分に恥じ入る。
コジロウの鋭いモーター音と金属の重たい摩擦音が混じった足音の後、雨戸が開いていく。こうやって、彼は毎朝雨戸を開け閉めしてくれている。そのおかげで、目覚めて布団から出た頃合いには障子戸から朝日が差してくる。午前六時きっかりに雨戸を開けてくれるのだが、それが前後したことは一度もなく、いかにもロボットらしい行動だ。つばめはそっと障子戸を開け、白い息を吐きながら、残りの雨戸を開けて回っているコジロウの背中を見つめた。大型バイクのタンクを縦にしたような形状の胸部に朝日が及び、鮮やかな輪郭を帯びる。各種センサー類の端末が詰まっている背面部のバックパックには、黒字に白抜きの警視庁の文字と桜の御紋が眩しく、白バイ隊員の被っているヘルメットを原型にしたであろう頭部が雪の残る庭先に向くと、滑らかなマスクフェイスが輝いた。
ああイケメン。と、事も無げに思った己の心につばめは軽く戦慄を覚えた。
これまではそんなチャラついた形容詞は誰に対しても使ったことがなかったし、使うような趣味もなかったのだが、コジロウは別だ。彼が何をしていようと、無条件に心酔してしまう。たとえコジロウが、人型ロボット用のゴム手袋を填めてぬかみそを手入れしていてもだ。それは昨夜遅くに帰宅してからの出来事なのだが、さすがにその時は自分の感性を根底から疑った。
「いや、でもなぁ……」
障子戸を閉めてから腕を組んだつばめは、大いに悩んだ。
「ありがたい、って気持ちだけにしときゃいいのになぁ」
都心部と船島集落の往復で疲れ切っていたつばめは夕食を作る気力なんて欠片も残っていなかったので、朝の残りである白飯と冷蔵庫に適当に入れておいた漬物で空腹を紛らわし、美野里も無言でそれを食べていた。だが、食べ終えたら気が抜けてしまって片付ける気力もなくなったので、ダメ元でコジロウに命じてみたところ、コジロウはいつものように了解したと言って台所に立ち、二人の食器を片付けてくれたばかりか翌朝分の米も研いで炊飯器に入れてタイマーをセットしてくれ、更には年代物であろうぬかみそを手入れしてくれた。家事の面でも万能である。
そんな彼を横目に見ながら、つばめは息苦しくなるほどときめいた。疲れ切っていていつも以上に頭がどうかしていたからに違いないのだが、我ながら自分の恋心のツボが解らない。所帯染みた男が好きなのか。
「そんなことない、とは言い切れないのが悔しい……」
つばめは独り言を漏らしつつ、自分の布団を畳んで押し入れに上げると、寝間着代わりのジャージを脱いで制服に着替えた。素足だと寒いのでタイツの一枚でも履いておきたいのだが、生憎、祖父もそこまでは手が回らなかったようでタイツもストッキングも見当たらなかった。祖父は年頃の女性ではないので、当たり前ではあるが。
物心付いた頃から、つばめは備前家での立ち位置を理解していた。だから、率先して母親の景子の手伝いをしては家事を覚えていった。子供の手には重たい鍋やフライパンを揺すり、踏み台に乗って背伸びをしてやっと手が届く物干し竿にシーツやバスタオルを掛け、慣れるまではその熱さが怖かったアイロンを使い、スーパーのだだっ広い売り場を彷徨い歩いて買い出しする品物を見つけたと思ったら棚の高い場所に陳列されていたり、と、そんなことを何度も経験していた。背も伸びて体格もそれなりになった今であればそう難しいことではないが、小学生の頃は苦労したものである。自分のためになることだと思っていたから出来たのだが、正直言って、子供らしく毎日遊び呆けているクラスメイト達が恨めしかった。母親連れで買い物に来ているクラスメイトと鉢合わせそうになったら逃げ出して隠れたこともある。自分が惨めに思えたからだ。そうすることを選んだのは、他ならぬ自分なのに。
だから、コジロウに惹かれるのかもしれない。あの鋼鉄の背中に身を委ねてしまえば気を抜いてもいいと、生きるために必死にならなくてもいいと、絶対服従しているのだから嫌われないようにしていなくてもいいと、つばめの主観が判断してしまう。ずっと、心のどこかで誰かに守ってほしいと願っていたからだ。
「ええい、止めだ止め」
こんなことをいつまでも考え込んでいては、日常が前進しない。つばめは朝に似合わぬ淀んだ思考を振り払うために首を振ってから、丸襟ブラウスの襟にボウタイを通して結び、四つボタンのブレザーを羽織った。
「お姉ちゃーん、朝だよ」
期待を込めずにつばめが美野里を揺さぶってみるが、美野里は案の定起きなかった。ならば仕方ないと、つばめは石油ストーブの火を落としてから、朝食の支度をするために台所に向かった。もしかすると、今朝はコジロウより先回り出来るかもしれない。この家の雨戸の数は広さに比例した多さなので、一巡りしなければ戻ってこられない。悪戯心のような期待で足取りを速めたつばめは、近道をするために部屋を通り抜け、居間のふすまを開いた。
が、そこには早々にコジロウが戻ってきていた。囲炉裏の傍に片膝を付き、火箸を使って炭壷から取り出した炭を並べている。彼はつばめに気付き、首と上半身を動かして向き直った。
「つばめの起床を確認」
「おはよう、コジロウ」
ちょっと落胆しながら、つばめは後ろ手にふすまを閉めた。囲炉裏の炭の上に焚き付けとなる小枝を載せてから、コジロウはマッチを一本擦って火を起こし、小枝の間に差し込んだ。程なくして火が燃え移り、広がっていく。その様を眺めていたが、つばめはコジロウを窺った。赤々とした火に照らされたマスクフェイスも、やはり素敵だ。
「所用か、つばめ」
「なあっ、なんでもない」
コジロウが振り向いて目が合いそうになったので、つばめは慌てて目を逸らした。何がそんなに恥ずかしいのかが解らないほど、目を合わせるのが恥ずかしい。彼の目は人間の目とは構造自体が違っているのに、赤く光を帯びるアイセンサーカバーの奥に広角レンズが填っているだけなのに、無性に照れ臭くなる。目が合ったところで何がどうなるというものでもないのに、意識してしまう。囲炉裏で枯れた小枝がぱちりと弾け、火の粉が散る。
「俺の車返せよ」
前触れもなく奥の間のふすまが開き、不機嫌極まりない言葉が投げ掛けられた。つばめが我に返ると、ふすまを開け放った男が気怠げに突っ立っていた。着崩れた法衣と緩んだ包帯から漏れている触手は早朝に似付かわしくないふしだらさで、生身の左手で禿頭を掻き毟っていた。
「まだいたの?」
つばめが臆しもせずに寺坂善太郎を見上げると、寺坂は触手の中から出したサングラスを掛けて目を隠した。
「いちゃ悪いかよ。檀家の坊主だぞ、ちったぁ敬意を払いやがれ。なんでナチュラルにタメ口なんだよ」
「寺坂さんに敬意を抱けるとは到底思えないんだもん」
「みのりんを助けてやったじゃねぇか。一晩ぐらい泊めるのが筋ってもんだろ?」
寺坂はつばめに詰め寄ってきたので、つばめは言い返した。
「お姉ちゃんに言い寄るような生臭坊主に払う敬意なんて持ち合わせてないもん。で、なんでまだうちにいるの?」
「ああそうかい。まあ、リアルな理由としちゃ、夜中の二時過ぎに帰ってきた後に俺の車を運転して寺まで帰るのがヤバかっただけなんだけどな。街灯もねぇし、俺もグデグデだったし」
寺坂は法衣の襟を直して解けかけていた袴の帯を結んでから、囲炉裏の傍に胡座を掻いた。
「で?」
「で、って?」
「寄越せよ、白飯と水と酒」
「朝御飯はまだ作ってないよ。ていうか、寝起きからお酒なんて飲むの?」
「違ぇーよ、爺さんに供えてやんだよ。で、経の一つでも上げてやらぁ。んでメシも喰わせろ、そして車を返せ」
「あの車のキーはお姉ちゃんが持ったままだから、私はどこにあるか知らない。だから、最後のは無理」
「みのりんが起きてくるまで待てるかよ。一応、朝の七時に鐘は突かなきゃならねぇ決まりなんだし」
「あれ、結構真面目なんだ」
「それしか仕事がねぇんだよ。後、やることっつったら、檀家巡りと朝晩の読経しかねぇんだよ。暇なんだよ」
「それなのに、でっかいアメ車が買えるぐらいのお金が入ってくるわけ? うーわー……」
そりゃボロい、とつばめが零すと、寺坂は右手で頬杖を付き、骨張った頬を触手に埋めた。
「だぁーから、適当な趣味でも作ってねぇとやってらんねぇーんだよ」
「お爺ちゃんにお経を上げてくれるっていうんなら準備する。お姉ちゃんからも、車のキーも返してもらってくるね」
つばめが立ち上がると、寺坂は生身の左手を挙げて軽く振った。
「おう、しっかりやりやがれ」
「でも、ここでタバコは吸わないでね」
台所の土間に降りかけたつばめが注意すると、寺坂は懐からタバコの潰れた箱を出しかけていた。
「どうせ煙いんだから、ヤニでも同じじゃねぇかよ!」
「御飯がヤニ臭いのは嫌なんだもん。それに、ここんちは今は私んちなんだからさぁ」
「あーもう、面倒臭ぇ……」
寺坂は文句を零しながらも、居間の隅にある茶箪笥から灰皿を取り、背中を丸めて縁側に出ていった。つばめは台所の食器棚を開け、仏壇に供えるのに丁度良さそうな大きさの器とコップと盃を取り出し、寺坂が指定したものを入れてから再び自室に戻った。半分は起きていた美野里を目覚めさせ、ピックアップトラックのイグニッションキーをハンドバッグの中から見つけ出してもらってからまた居間に戻った。縁側でタバコを蒸かしていた寺坂に、供え物を載せた盆を渡してやると、寺坂は言い出しっぺのくせにやる気のない足取りで仏間に向かった。
酒とタバコで掠れ気味ではあったが、張りと渋みのある声で紡がれる読経は様になっていた。つばめはコジロウを手招いて自分の隣に座らせ、並んで寺坂の読経を見守った。仏壇の中央に据えられている祖父の骨箱は、線香に取り巻かれながら鎮座していた。仏間に面した庭木の枝がたわみ、朝日で緩んだ雪が崩れ落ちた。
今日こそは、まともな日常を送れそうな気がしてきた。
朝食の味が、まだ舌にこびり付いている。
水を飲み、コーヒーを飲み、歯と共に舌も洗ったのだが、脳があの味のインパクトを忘れられずにいるようだった。吐き気を覚えるほどでもないが、風邪が治りきらない頃合いのように気分が今一つ優れない。なんであんなものを出せるのだ、そんなセンスがどこから湧いてくるのだ、もしかするとあのサイボーグ女の中身は人間以外の異次元の生命体ではないのか、などと考え込んでしまうほど、設楽道子の料理は不味かった。
武蔵野巌雄はリクライニングさせた運転席に横たわると、額を押さえて呻いた。フロントガラスから差し込んでくる日光は熱く、軽く汗を浮かせるほどだ。外気は相変わらず真冬並みの冷たさだが、太陽の高さだけは一足先に春を迎えているようだった。今日の朝食のメニューは、思い出すだけで気分が悪くなる。
洋食続きだったからだろう、今日の朝食は和食一辺倒だった。豚汁に鶏とゴボウの炊き込み御飯、ホウレン草を巻いた卵焼きにひじきの煮物、と見た目だけはやはり完璧だった。だったらいっそ眺めるだけにして食べなければいいのだが、食べなければ佐々木つばめ襲撃のローテーションが組めず、襲撃のローテーションに入れなければ業績が上げられず、武蔵野のバックボーンである新免工業に対する申し訳が立たなくなり、引いては目的を遂げることが出来なくなってしまう。だから、覚悟を決めて食べた。すると、予想を上回る味の暴力を受けた。
「うげぇ……」
武蔵野は声を潰し、腹を押さえた。思い出したくもないし一刻も早く忘れたいのだが、コーヒーとショウガの効いた豚汁の味は忘れられない。炊き込み御飯にはカモミールのハーブティーを使ってあり、鶏肉とゴボウの味が全力で反発し合っていた。ホウレン草の卵焼きの照りが妙にいいと思ったら、垂れ落ちるほどのハチミツが混ざっていた。最後の砦であったひじきの煮物は水煮の大豆が甘納豆だったが、他のものに比べればまだ食べられた。そして、武蔵野の茶碗の底には、ちくわが一本丸ごとねじ込まれていたのである。意地と根性でそれらを全て食べ切ったはいいが、そのせいで肝心要の戦意を使い果たしてしまったらしく、なかなか行動に移れなかった。
「畜生……」
武蔵野は車の天井目掛けて毒突き、ハンドルの両脇に投げ出していたジャングルブーツを履いた両足を下げた。餞別代わりに新免工業から支給されたジープは、車高もシートの長さも武蔵野の体格に合っていてハンドルの動きも良く、足回りも丈夫で、いかにも実戦向きで使い心地は抜群だが、それを味わっている余裕はどこにもなかった。それもこれも、設楽道子のせいだ。組んで戦う時があったならば、背中から狙撃してやる。脳天に対戦車砲の一発でもぶち込んでやらなければ気が済まない。
いい加減に移動しなければ、やる気がないと評価されてしまう。武蔵野はリクライニングと同時に上体を起こすと、イグニッションキーを回して冷え切ったエンジンに火を入れた。充分に暖機させてからハンドルを握り締め、ジープを発進させようとすると、そのタイミングを見計らったように外部からの遠隔操作で無線機の電源が入った。
「お嬢か?」
武蔵野は暗号回線であることを確かめてから無線を受信すると、あの声が響いた。
『はぁーいんっ、私でぇーすぅん! 道子ちゃんでぇーすん!』
「一体何の用だ」
『私は別に武蔵野さんを有利にする情報なんて与えたくなんてなかったんですけど御嬢様がどうしてもってぇーん』
「御託はいい、情報ってのは何なんだ」
『つばめちゃん側に動きがありましたぁーん。吉岡グループの監視衛星に寄ればぁーん、武蔵野さんがうだうだしていた道路とは別ルートで市街地に出ていきましたぁーん。目的地は買い出しだと思われますぅーん』
「了解。追尾して行動に出る」
『んでぇーん、こっちも買い出しの頼みがあるんですけどぉーん、よろしいですかぁーん?』
「だったら簡潔に言え」
『御嬢様がぁーん、大事なアレを御所望なんですけどぉーん』
「悪いが後にしてもらおうか!」
道子を相手にしているだけで、あの凄絶な朝食の味が喉の奥から迫り上がる。即座に無線を切断した武蔵野は、道子に対する愚痴を無尽蔵に連ねながらアクセルを踏み込んだ。間もなくジープは黒い排気ガスを吹き出し、獣の如く唸るエンジンの律動を感じながら、無意識に頬を緩めていた。やはり車はこうでなければ。
近頃の車はどうにもダメだ。電気自動車や水素エンジンが主流になり、昔ながらの害悪まみれの排気ガスを出す車は、ほとんど淘汰されてしまった。敢えてガソリンエンジンの車を買い集めている輩もいないわけではないが、世間一般からは疎まれている。懐古趣味、ロートル、時代遅れ、などといくら言われようが構わない。それが武蔵野に合うのだ。だから、流行りの光学兵器もレーザーカッターも使いはしない。鉛玉と火薬の固まりとナイフがあれば充分だ。相手がどれほどオーバースペックのロボットだろうと、それを操る者が幼ければかかしにすら劣る。佐々木つばめが己の分を弁える前に、コジロウが経験を積む前に、追い詰めてやる。
市街戦に持ち込めば、勝機はある。
これはこれで平穏と言えるのかもしれない。
ピックアップトラックを荒っぽく運転して寺に帰っていく寺坂を見送り、美野里をちゃんと起こしてから分校に登校し、一乗寺の今一つやる気に掛ける授業を受けた後、つばめは買い出しに出ていた。といっても、自力ではない。船島集落に最寄りの市街地は単純計算でも二〇キロも離れている上に曲がりくねった急勾配が多い道路なので、とてもじゃないが自力では移動出来ない。なので、一乗寺の運転する軽トラックに便乗したというわけである。
当初、つばめはバスの一本でも走っているだろうと思ったのだが、船島集落に最も近いバス停でも五キロ以上は離れている場所にあり、おまけに一日三便しか通っていない。朝昼晩の一回ずつなので、当てになるわけがない。地元民はそんなものを当てにしたりはせず、移動は専ら自家用車かバイクなのだそうだ。だが、免許を取得出来る年齢に至っていないつばめにとっては土台無理な話なので、一乗寺にくっついていったという次第である。
一ヶ谷市内に来たのはこれが初めてだった。厳密に言えば、船島集落は一ヶ谷市に属しているのだが、随分前の市町村合併の際に吸収された際に飛び地となってしまったので、県内最大の規模を誇る市内である実感はない。紛れもない陸の孤島だから、尚更だ。寺坂の車を返しに行くために都心に出た時とはまた違う感慨に耽りながら、つばめは駐車場の遙か彼方にある大型スーパーを眺めた。
「広い……」
時間が中途半端だからだろう、駐車場に駐まっている車はまばらだが、大半が軽自動車だった。ファミリーカーも多く、同じような軽トラックも数台停まっている。過去につばめが行ったことのある大型スーパーでは屋上駐車場がほとんどで、平地の駐車場はこれほど広くなかった。郊外のアウトレットモールにしても、私鉄の駅と連絡橋で繋がっていたりするので、駐車場は有料で手狭だった。だが、ここは違う。駐車料金なんて一切なく、ひたすらにだだっ広い。地平線が見える、というのは大袈裟だが、そう思わせるほどの面積がある。大型スーパー自体ももちろん大きいが平屋建てで、高さがあるのは屋根の看板ぐらいなものだった。
「ほらほら、さっさと買い出しに行くよ。これから混んでくるんだからさぁー」
一乗寺は店舗の入り口にあるカート置き場からカートを引っ張ってくると、つばめを急かしてきた。つばめは広さに気を取られつつも、一乗寺に促される形で歩き出した。
「で、本当に良かったの、コジロウを家に置いてきて」
一乗寺は青果売り場に面した入り口から中に入ると、買い物カゴを置いた。
「お姉ちゃんを一人になんて出来ません。それに、人出のあるところだと目立っちゃうし」
つばめはそう言いつつ、陳列棚に近付いた。並んでいる商品は関東とそれほどラインナップは変わらなかったが、物価が微妙に違っていた。驚くほど安いわけではないが、流通ルートの違いでそうなっているのだろう。ここ最近は野菜を食べていない気がしたので、つばめは野菜を買い物カゴに入れていくと、一乗寺が拗ねた。
「俺、それ嫌い」
「なんですか、その小学生みたいなセリフは」
小松菜をカゴに入れたつばめが呆れると、一乗寺は拗ねた。
「だって、えぐいんだもん」
「じゃあ食べないで下さい。お昼だって作ってやりません」
「えぇー、それはそれで困っちゃうんだけどなぁー」
一乗寺はますます子供っぽい態度で嘆き、やる気なくカートを押した。つばめは自分のペースで買い物をするためにカートを片手で押さえながら、店内を見て回った。あまり勝手に動かれては困るし、一乗寺が好き勝手に品物を放り込むのを妨げるためである。これでは保護者と被保護者の立場が逆なのだが、終始こんな具合なので、すっかり慣れてしまった。体が大きくなれば誰もが大人になる、というわけではないようだ。
青果売り場から乾物売り場に来ると、つばめは味噌汁の具に出来そうな乾物を入れていった。ワカメに麩にダシ用の煮干しに昆布に、と。家を出発する前に祖父の遺した台所の食品の種類と残量をメモに取ってきたので、在庫と被っているかどうか気にすることもなく買い込めた。同じものばかりが増えるのはごめんだからだ。
「何これ?」
つばめは麩のコーナーの前で立ち止まり、ドーナツのようなリング状の麩を見つけた。
「ああ、それ? 車麩だよ、ふやかして煮物にするの」
「じゃ、今度作ってみよう。お麩はおいしいもんね」
「えぇー? 俺、煮物とか好きじゃなーい」
「誰も先生の好みなんて聞いていません。私は、私とお姉ちゃんの趣味に合ったものを買っているんですから」
「意地悪ぅ」
一乗寺はかなり不満げに眉を下げ、そっぽを向いた。全く、面倒臭い大人である。いちいち相手をするのも億劫になってきたので、つばめは一乗寺と無駄な会話をしないようにしながら買い物を進めていった。やけに豚肉の量が多い精肉コーナーで大容量の細切れパックを買った。小分けにして保存するためだ。続いて調味料も一通り揃え、今夜の夕食と明日の朝食とついでに弁当のおかずに流用出来そうな献立を考え込みながら歩いていて、ふと、あることを思い出した。つばめは引き返して生理用品のコーナーに行ってみたが、食品を主に扱っている店なので衛生用品の類は全体的に割高だった。かといって、この近辺にドラッグストアはないので、安売りしている店を探し回るわけにもいくまい。だが、ここで買っていかなければ、つばめも美野里も大いに困る。
「あー、そういうのだったらね、あっちの方が安い」
一乗寺が指し示した先には、大型スーパーと斜向かいに立っているホームセンターがあった。例によって駐車場がやけに広く、ホームセンターもまたそれ相応に大きかった。
「ついでだから、他にも買い込んでおいたら? ワックスとかグリースとかコート剤とか」
「車のですか?」
「つばめちゃんの彼氏に決まってんじゃーん。そりゃあ専門的なハードとソフトのメンテナンスは政府がやってくれるけど、日常的なメンテナンスは持ち主がしてやらないとダメじゃんじゃんよー」
「え、ええ?」
つばめが身動ぐと、一乗寺はけたけたと笑う。
「きっと喜ぶぞー、俺の想像に過ぎないけど!」
喜ぶ、のだろうか。あのコジロウが。つばめは一乗寺に背を向け、必死に緩みそうになる顔を強張らせた。彼自身が以前に喜怒哀楽がないと公言しているし、警官ロボットにはそんなものは不要であり、そういう機械的な冷たさもまた魅力だと感じているのだが、もしも喜んでくれるのであればそれに越したことはない。いや、いっそのこと、それを切っ掛けにして関係を進展させてしまえばいいのではないか。ロボットが人間と交流を持って感情を得る、なんてシチュエーションは使い古されて擦り切れているが、だからこそ確実なのでは。
「行きましょうかぁっ!」
照れ臭さを誤魔化すためにつばめが大きく踏み出すと、一乗寺は菓子売り場を指した。
「その前になんか買ってよ、お菓子食べたい」
「だから、どうして先生の言動は小学生レベルなんですか!」
話の腰を折られたつばめがむっとすると、一乗寺はパン売り場を指した。
「じゃあ、あっちのでいいから
さぁ」
「なんで私が奢るのが前提になっているんですか?」
「ここまで運転してきたのは俺、ガソリン代を出したのも俺、おういえーす!」
と、なぜか勝ち誇った一乗寺に、つばめは言い負かすのを諦めた。
「はいはい」
菓子パン一個で黙るのなら安いものだ。つばめは乳製品売り場で牛乳やバターなどを買い込んでから、一乗寺に急かされるままにパン売り場に向かった。そこで一乗寺が迷わず選んだのは、ちくわパンだった。何のことはない、コロネのように巻いたパンの中心にツナマヨネーズを流し込んだちくわが入っている調理パンなのだが、つばめには理解出来ない趣味だった。不味くはないかもしれないがミスマッチではないのだろうか。そんな疑問を抱えつつ、上下ともカゴに食材が山盛りのカートを押してレジに並んだ。
通学カバンに入っている財布には、つばめの人生で最高額の紙幣が詰まっていた。買い物に向かう前に銀行で卸してきたのだが、祖父の名義からつばめの名義に変えた預金通帳を記入するまでは半信半疑だった。電子音と共に吐き出された預金通帳には目眩がするほどの金額が入っていたが、やはり信じられなかった。物理的に紙幣を手にすれば信じられるだろうと差し当たって必要になりそうな額である一〇万円を卸してみると、すんなりと出てきた。一度深呼吸してから財布に入れたが、どうにも落ち着かない。子供が持つ金額ではないからだ。
会計を終えた後、生鮮食品が傷まないようにとトロ箱を拝借して食品冷却用の氷と一緒に入れてから、軽トラックに運んでいった。もちろん運転席には入らないので荷台に載せてゴムバンドで固定し、そのまま真っ直ぐにホームセンターに向かった。幹線道路を渡って駐車場に入ると、一乗寺が不意に表情を変えた。
「ん?」
「今度は一体なんですか」
つばめが面倒臭く思いながらも尋ねると、一乗寺は駐車場に並ぶ車に目を配らせた。
「こりゃ、ちょっと面白くなりそうだぞう」
「何を根拠に、そんな」
「いいかいつばめちゃん、よく見てみろ? 正面入り口の直線上にトラックが一台、駐車場と道路の間には軽トラが二台、搬入口前には明らかに業者のものじゃない車がある。こりゃ、なんかあるなぁーん」
一乗寺は明らかにわくわくしながら、ダッシュボードを開けて拳銃を取り出した。しかし、つばめの目からすれば、異変があるようには思えなかった。大型スーパーに比べれば車の数はまばらかもしれないが、配置におかしな点があるようには見受けられない。確かに搬入口にジープが止まっているのは少し変だが、搬入口から入ってくるのは何も輸送トラックだけではないのだから、出入りの業者かもしれないではないか。
「んじゃーちょっくら、特別授業でもしちゃおっかなー」
一乗寺は軽トラックを南側の出入り口前に止めてから、シートベルトを外し、ジャケットの左脇のホルスターに拳銃を差し込んだ。常に帯びているらしく、革製のホルスターは大分使い込まれていた。一乗寺はつばめに車から降りるように指示をしてから、運転席から降りた。それを境にして、一乗寺の立ち姿が変わった。それまでは姿勢も半端で芯が通っていないような後ろ姿だったのだが、明らかに雰囲気が様変わりした。
「先生?」
つばめは一乗寺に追い付くと、一乗寺はジャージの裾を捲り上げて足首のホルスターを露わにし、つばめの手中に無造作に小型の拳銃を載せてきた。その重みと凶器にぎょっとしたつばめは慌てふためいたが、一乗寺は自身の拳銃のチェンバーをスライドさせてみせた。じゃぎん、と分厚い金属同士が競り合う。
「こうしないと初弾が装填されないから、うっかり引き金を引いても空砲しか出ないから安心してね。つっても、至近距離だと痛いし熱いから、引き金を引かない方が身のためだね。暴発でもされたら困るし?」
「せ、せんせぇええええっ!?」
実銃の重みと恐ろしさでつばめは声を裏返すが、一乗寺はつばめを引き摺ってホームセンターに入っていった。もしも一乗寺の読みが外れていたら、ただの強盗ではないか。しかも恐ろしく凶悪な拳銃強盗だ。何もなければいいのに、いや何もなくてもそれはそれで困るけど、とつばめは動揺していたが、店内に入って間もなく一乗寺の読みが正しかったと認識した。店内の照明が落とされていて、ぼんやりと光っているのは非常灯だけだ。退路を塞ぐように階段の前には大量のカートが横付けされていて、通路にはスプレー缶や塗料の缶が転がっている。動いているのは無人のエスカレーターだけで、ごんごんと鈍い唸りが静まり返った店舗に染み込んでいた。これがホラー映画などであればゾンビや殺人鬼が襲い掛かってくるのだろうが、生憎、つばめの敵は別物だ。
一乗寺は暢気に鼻歌を零しながら、拳銃を片手に歩いていった。取り残されるのが嫌で、つばめは小走りになり一乗寺の背に追い縋る。その広い背中に身を隠して進んでいくと、一乗寺は店の中程で急に立ち止まってつばめを叩き伏せ、振り向き様に引き金を引いた。閃光と共に激しい炸裂音が轟き、タバコの煙より渋い火薬の匂いが鼻を掠めていく。床に転んでしまったつばめが痛みを堪えながら顔を上げ、振り返ると、二階に展示されている作業着を着たマネキンの頭部が抉れていた。ぴん、と金色の薬莢がチェンバーから飛び出し、転がる。
「てぇことは、つまりっ!」
一乗寺はまたもつばめを叩き伏せてから身を翻し、反対側に発砲した。金属部品が陳列されていた棚に弾丸が貫通する寸前に何者かの影が引っ込み、陳列棚のスチール板が抉れるとネジやナットが飛び散った。銀色の雨が滴る二階部分を注視しながら、一乗寺は肩を揺すっていた。笑っているのだ。
「うっひょー古典的! でもたまんねー!」
「先生ぇ……?」
一乗寺の言葉が薄ら寒く、つばめが臆すると、一乗寺は二つ目の薬莢を転がしてにやける。
「相手は一人。てぇことはあの武蔵野っておっさんか、うんうん、いいねぇいいねぇ!」
「あ、あのぅ」
つばめが一乗寺の腕に手を掛けるか否かを迷っていると、一乗寺はつばめをぐりぐりと撫でた。
「コジロウがいなくても死ぬんじゃないぞー、傷も付くんじゃないぞー、そんなことになったら俺のトリガーハッピーな人生が台無しもナシナシになっちゃうんだからなぁ」
「え?」
つばめが面食らうと、一乗寺はつばめを引き摺って遮蔽物に身を隠し、腰を落とす。
「俺が長光さんとつばめちゃんの護衛役兼諜報員に任命された理由は至って簡単、撃つのが大好きだからだ」
今度は驚く声すらも出せなかった。硬直したつばめを横目に、一乗寺は浮かれ気味に言う。
「訓練でバンバン撃つのは楽しいけどそれだけ、相手が人間だと超楽しい、燃えるったらない。性格異常だとか情緒不安定だとか倫理観の欠如だとか、まー色々と診断されはしたけど、上司の言うことをはいはい聞いて戦ってきたおかげで役に立っているって見なされて生かされてきたのさ。鉄砲玉ってやつ?」
んへへへへへ、と弛緩した笑みを漏らした一乗寺に、つばめは本能的な恐怖に苛まれた。俗に言う、近付いてはいけない人種、というやつだ。相手が人間だからこそ撃つ、躊躇いも何も感じず、ただ楽しいから撃つ。確実に命を奪えるであろう武器を握り締める理由がそれだけとなると、御大層な復讐心を並べ立てる殺人鬼の方が解りやすいというものだ。子供よりも単純な動機だからこそ、理解しがたい。
「さぁて、与太話はここまでだ」
一乗寺は頬を緩ませながらも遮蔽物となっている棚から腕を出し、おもむろに撃った。三発目だ。痺れを伴う余韻が耳鳴りを呼び、つばめは奥歯を食い縛った。つい今し方まで食料品の買い出しをしていたはずなのに、一乗寺が銃撃戦を始めてしまうだなんて考えもしなかった。だから、覚悟も出来ていなかった。雪崩とグレネード弾と狙われた時は後から恐怖がやってきた挙げ句に逆上したおかげで怯えずに済んだが、今はストレートに怯えている。姿形の見えない誰かが怖いのではない、すぐ傍にいる男が怖いからだ。
人とそうでないものを隔てている壁の中でも最も分厚いのは、思考の違いだとコジロウと接している間に痛感している。話が噛み合わない時、意味が通じない時、同じ言葉を使っているはずなのに理解し合えない時、やはり自分は人間でコジロウはロボットなのだと思い知らされる。今、つばめが一乗寺に対して感じているものは、その感覚と似通った感覚だった。だが、決定的に違うのは、安心感がないことだ。その代わりに不安感ばかりが湧いてきて、渡された拳銃が脂汗がぬるついてきた。これではまるで戦争ではないか。
「なーに今更ビビっちゃってるわけ?」
一乗寺は口角を最大限に吊り上げ、牙のような八重歯を覗かせた。
「生きるか死ぬか、それが最高じゃん?」
そう言うや否や、一乗寺は陳列棚の影を駆け抜けていった。腰を落とした前傾姿勢だが重心がしっかりしていて、足元はぶれていない。拳銃の位置も一定で、何かあればすぐに撃てる態勢だ。一乗寺の動きを察したからだろう、二階にいる輩が撃ってきた。がぁん、と一乗寺の発砲音よりも重みのある発砲音が響き渡り、耳鳴りがひどくなる。だが、どちらも無駄撃ちはしていない。相手の姿が見えた瞬間に発砲はするが深追いはせず、距離感を保ちながら互いの位置を確認し合い、確実に殺せるタイミングを見計っている。さながら、威嚇の唸りを漏らしながら睨み合う肉食獣の如く。銃声を聞きたくなくて両耳を塞いだつばめは、顎が砕けかねないほど奥歯を噛み締めた。
ここは本当に、現代日本なのだろうか。
何なんだ、この男は。
それが、武蔵野の一乗寺に対する第一印象だった。コの字型になっている二階部分の右側に身を潜めながら、武蔵野は一階の左側からこちらを窺っている男の位置を捉えようとした。先程の銃撃は三つ並んだレジの後方から放たれた、それでは今はもう一列棚を移動しているとみていいだろう。それを踏まえて進行方向に一発撃とうと銃口を上げるも、一度下げた。こちらが一発撃つたびに相手も一発撃つが、無駄玉を散らせているわけではない。大型スーパーの監視カメラを通じて見た服装や歩き方の具合から察するに、装備も予備のマガジンの数もそれほど多くはないだろうが、消耗戦に持ち込むのは不利だろう。船島集落の分校に勤務する教師であり、内閣情報調査室の一乗寺昇の能力と人格に関する資料は、事前に得ていた。だが、見ると聞くとでは大違いだ。
ブレン・テンの装弾数は一二発、そのうちの二発を撃った。遠目で暗がりなので一乗寺の手元はよく見えないが、あの手のハンドガンは七八発程度とみていい。予備のマガジンを含めたとしても二〇発足らずで、そのうちの四発を発射してきた。どちらもまだ残弾数は多い、死角から狙撃して近付かせないべきか、一乗寺に無駄玉を散らせるために敢えて接近戦に持ち込むべきか。資料に寄れば一乗寺は何かと拳銃を使いたがり、違法に入手した拳銃を任務に用いて厳罰を喰らうも、それを物ともせずに内閣情報調査室に居座る男だそうだ。その文面だけを読めば、些細な物音にも過剰に反応して乱射しそうに思えるのだが、そうではないらしい。当たり前だ、そうでなければ今の今まで生き残れはしない。武蔵野は薄く汗ばんだ頬を少し持ち上げながら、熱を持つ愛銃を構える。
スニーカーの軽快な足音がレジの列から更に進み、店舗の中央に伸びる階段へと近付いてくる。しかし、相手も手練だ、馬鹿正直に正面から登ってくるわけがない。階段の側面に腰を下げた影が潜り込んだが、物陰から体の一部が覗くことはない。それは武蔵野も同じだ。どこに隠れれば相手からの死角になるかは、長年の経験で即座に見つけ出せる。エスカレーターの唸りが耳障りだが、照明を落としても敢えて動かしておいたのは、こちらの気配を少しでも紛らわせればと思ったからだ。だが、あまり意味はなかったらしい。
佐々木つばめの立ち位置もよく見えない。一乗寺がつばめを隠れさせたのは、南側の出入り口に程近い陳列棚の間だが、観葉植物の売り場が斜線上に入っているので様子が解りづらい。当てずっぽうで一発二発撃ち込んでもいいのだが、一乗寺がその程度のことで逆上するとは思いがたい。むしろ、つばめが負傷したらつばめを盾にして接近戦に持ち込みかねない。先程のつばめの怯えようから考えるに、一乗寺は笑顔でやりかねない。先程撃った二発目は当てずっぽうに見えて、武蔵野以外の戦闘員が隠れているかどうかを探り出すための攻撃だ。その際に適当な反応を返すべきだったかと後悔したが、あまり小細工をしては面白くないと興奮を覚えていた。
「面白くなってきやがったぜぃ」
一乗寺の浮かれた独り言に、武蔵野は内心で同意した。銃撃戦に快楽を覚えるような性分でなければ、傭兵稼業など到底務まらないからだ。
「いいかぁつばめちゃん? あのトラックは俺達の退路を塞ぐためと、万が一の時に爆破するために用意してあるとみていい。荷台の中身を改めておかなかったけど、十中八九火薬かナパームだ」
その通り。爆薬の量は大したことはないが、コンテナの片方にしか配置していないので、トラックを横転させて正面出入り口を塞げるように仕掛けてある。これもまた、武器弾薬やジープと同じく新免工業が用意してくれたものだ。
「続いてあの軽トラ二台、どっちも逃走用だ。搬入口のジープで乗って逃げると思うだろうけど、相手はそんなにケチでも貧乏でもない、軽トラなんて缶ジュースを買うぐらいの気楽さで買い付けちゃうって」
これもまた、その通り。二台とも遠隔操作でドアはロックしてあるが、イグニッションキーは刺さったままだ。
「逃走用の車に誰か隠れている気配もなし、回りを見渡してみたけど運転手らしき姿もなし、この店の中を狙撃するスナイパーが控えていそうな高所もなし、田舎だからね。で、あの吉岡りんねは少数精鋭で攻めてくるつもりでいるようだし、無駄な人件費を割くつもりもないようだから、相手は必要最低限の人数だと踏んだ。んでもって、それらを踏まえて考えるに、昨日見てもらった資料の中にいた武蔵野っておっさんが最有力。てか、それ以外にいないね」
べらべらと独り言を連ねながら、一乗寺が階段の手すりを掴んだ。懸垂の要領でそのまま体を持ち上げ、階段の縁を足掛かりにして跳躍する。見た目は細身だが、かなり鍛え上げている。スニーカーのつま先が階段の手すりを噛み、ゴムとゴムがぎぢっと競り合った。途端に武蔵野は発砲するが、一乗寺はこちらが引き金を引くよりも早くに駆け出していたので、鉛玉は空中を切り裂いただけだった。細い手すりを登って階段を駆け上がってきた一乗寺は、階段の手すりの間に設置していたブービートラップのワイヤーを飛び越えて回避し、駆けてきた。
「さぁーてとぉ!」
一乗寺は武蔵野が発砲してきた位置に向けて立て続けに二発撃ってから、陳列棚に隠れた。武蔵野は乾いた唇を一度舐めてから、自動小銃も持ってくるべきだったかと思ったが、銃撃戦を派手にしすぎては損害賠償が面倒になると判断したのは自分なのだ。一乗寺が隠れた陳列棚は、選りに選って刃物のコーナーだった。ビニールカバーが剥がされ、投げ捨てられる音の後、夕方の弱い日光が幅広の刃を白ませた。鉈だ。
「いっちょやったるかぁーっ!」
陳列棚の間に置いてあった大型のカートを蹴り飛ばして走らせてから、一乗寺も駆け出してきた。武蔵野はカートの雪崩を避けてから陳列棚の列に駆け込み、即座に発砲するが、寸前で一乗寺が上体を折り曲げたので安物のジャケットに穴が開いただけだった。一乗寺は笑顔を全く崩さぬまま、助走を付けて鉈を振り上げる。
手近な陳列棚からバールを一本拝借した武蔵野は、それを受けた。ぎぃんっ、と赤い火花と金属同士の打撃音が起き、肩が揺らぐ。赤と青に塗られたバールを削るように鉈が引き下がり、捻り上げられる。今度は武蔵野の手首を落とそうと狙いを付けてきたので、バールを横たえて鉈ごと一乗寺を押し返した後、発砲する。
「うおっと!」
またも避けた。今度は肩の上を掠めただけだった。一乗寺は上体を下げた姿勢のままで踏み込み、鉈を逆手に持ち替えて振り抜いてくる。すぐさま後退した武蔵野の迷彩服を浅く切り裂いたが、その下の防弾ジャケットにまでは傷が及ばなかった。一乗寺の腕が上がっている隙に腰を落とした武蔵野は足払いを掛け、姿勢を崩した一乗寺の腕を絡め取り、手首を叩いて鉈を落とさせてから背負い投げをした。
大きく弧を描いた長身の男は床に埋まり、骨のぶつかる鈍い音がした。武蔵野は浅く息を吐いてから、一乗寺が起き上がる前に片を付けてしまおうとブレン・テンを構えた。が、頭部に狙いを付ける前に、一乗寺は両足を曲げて跳ねるように起き上がると、投げられようとも握りを緩めなかった拳銃を武蔵野に突き付けてきた。背後の非常灯の緑色の明かりで、その拳銃がAMTハードボーラーだと解った。どちらも一〇ミリ弾だ、いい勝負が出来る。
「もうちょっと遊びたかったけど、あんたのこと、長生きさせたくないだよなーこれが!」
左手を懐に滑り込ませてナイフを引き抜き、一乗寺は大股に踏み込んでくる。手首と肘を淀みなく伸ばして首筋に狙いを付けてきた。上体を反らしてその一撃を避けるも、今度は顎の下に銃口が向けられた。が、武蔵野も負けじと一乗寺の鎖骨の間に銃口を据え付け、そのまま銃身で一乗寺の首を薙ぎ払い、倒した。
二度目のダウン。しかし、一乗寺はへらへら笑いながら呆気なく起き上がった。痛みを感じていないかのようだ。武蔵野は呼吸を詰めて間合いを計っていたが、一乗寺は緊迫感の欠片もなく立っている。撃てば確実に命中する位置であり、どちらも条件は同じだ。一乗寺は強かに薙ぎ払われた首筋を押さえ、ごきりと曲げる。
「だって面倒臭いじゃん? あんたの名前って画数が多すぎて、報告書に書く時に時間が掛かるんだもん」
「俺の印象はそれだけかよ」
幼すぎる。武蔵野が笑いそうになると、一乗寺は不躾に踏み込んで武蔵野のブレン・テンと己のハードボーラーの銃口を重ね合わせた。色気もクソもないキスだ。
「俺の世界は至って単純明快、俺が面白いか、俺が面白くないか」
一乗寺はハードボーラーの引き金に軽く掛けた人差し指を遊ばせながら、にんまりする。
「て、ことでさっ、ばいばーい」
児童公園で遊んだ子供同士が夕暮れ時に交わす言葉と全く同じ抑揚で別れの言葉を述べて、一乗寺は引き金を絞ろうと人差し指の第二関節を曲げていった。その動作で起きた撃針が一〇ミリ弾に叩き付けられる、かと思われた瞬間に一乗寺は引き金から指を外した。彼が苦々しげに舌打ちをした理由はすぐに解った、駐車場からドリフト音がする。バイクでも車両でもない影が南側出入り口の前に止まると、自動ドアが開き、西日を背負った白と黒の影が立った。それは、オーバースペックの警官ロボット、コジロウに他ならない。
コジロウの両足に備え付けられたエキゾーストパイプは排気を吐き、白い脛の後部からはタイヤが露出している。恐らく、そのタイヤで船島集落から走行してきたのだろう。これは分が悪い、とすぐさま判断した武蔵野は一乗寺の目線がコジロウに向いた一瞬の隙を衝いて蹴り倒し、ついでに簡単なトラップとして設置していた塗料とスプレー缶を狙撃して炎上させてから、裏側の階段を駆け下りた。程なくして火災報知器の悲鳴と共にスプリンクラーが作動し、至るところから水が降り注いだ。
「時間稼ぎにしかならんだろうが、使わんよりはマシだ」
搬入口に出てジープに乗り込んでから、武蔵野は迷彩服のポケットに忍ばせていた着火装置のスイッチを押し、正面出入り口のトラックを爆破して予定通りに転倒させた。自動ドアのガラスが砕け散り、トラックの荷台が店内に突っ込み、もうやだー、とのつばめの情けない叫び声が聞こえてきた。それには少しだけ心が痛んだが、これもまた仕事なのだと気持ちを切り替え、武蔵野は一乗寺とコジロウが追い掛けてくる前にホームセンターを後にした。
市街地を離れて別荘に向かいながら、武蔵野は一応別荘と連絡を取ってみた。道子の媚の固まりのような喋り方が鼻を突いて仕方なかったので無線を強引に切ったので、何を頼みたいのか聞きそびれていた。もしもその用件がどうでもいいことでなかったら、後々大事になりかねない。先日の雪が山盛りで残っている待機所にジープを留めてから、無線機のスイッチを入れた。かすかなノイズの後、暗号回線で別荘と繋がった。
『はぁーいん、お仕事ご苦労様ですぅーんっ』
「報告は帰ってからする。で、道子、お嬢の用件って何なんだ」
『えぇとぉーん、それがぁーんっ』
モニタリングはしていないが、その声色だけで意味もなく体をくねらせている様が容易に想像出来る。
『御嬢様はぁーん、ちくわパンを御所望ですぅーん』
「は?」
なんだ、その珍妙な食べ物は。
『私がネットで流通ルートを調べた結果ぁーん、関東近隣には売っていませんでしたけどぉーん、この辺りのお店だと売っていることが判明しましたぁーん。ですのでぇーん、よろしくお願いしますぅーん』
「この辺の店、ってぇと」
先程破壊したホームセンターの斜向かいにある、大型スーパーぐらいなものだ。コンビニは更にその先であって、もう一つの大型商業施設であるショッピングモールは一ヶ谷市内の中心部まで出向かなければならない。小売店のスーパーも探せばあるだろうが、地理が掴み切れていないので、どこにあるかすらも見当が付けられない。しかし、今からあの大型スーパーまで戻るのは危険すぎる。つばめ達と鉢合わせる可能性は非常に高い。いずれにせよ、今から移動するとなると、別荘へ帰投するのは午後九時を過ぎてしまうだろう。小娘の我が侭だとはねつけてしまうのは簡単だが、作戦を失敗した身だ、上司の命令には逆らいがたい。
「了解した」
それだけ返し、武蔵野は無線を切った。
「にしたって、どれだけちくわが好きなんだ、お嬢は?」
運転席に身を沈めた武蔵野は、思わず笑ってしまった。世界規模で展開している大企業の社長令嬢であり、滅多にいないレベルの美少女なのに、どうしてそこまでちくわに執着するのだ。ちくわを頬張っている最中だけは、氷の如く取り澄ましている面差しが年相応に綻ぶ様は見ていて微笑ましい。それ以外の愛嬌は亡きに等しいが、それがあるだけで随分と人間らしく感じられる。報告では残念がらせるだろうが、土産では喜ばせてやれるだろう。
「何を下らねぇことを考えていやがる」
そんな思考に陥っては、また前と同じ轍を踏んでしまう。仕事の上の付き合いなのだから、そこまで執着する理由も意味もないはずだ。そんなふうに思うのは自分だけだ、りんねは武蔵野を部下であると認識してはいるが、家族であるとは認識していない。しかし、武蔵野は一足飛びに家族のような感覚になってしまっている。二十年以上も気を張って生きてきた反動で、少しでも密な関係になると甘ったるい気持ちになるのは武蔵野の悪いクセだ。
だから、今度こそ仕事をやり遂げなければ。武蔵野はりんねに対する親心に似た気持ちを振り払うため、ジープのギアを切り替えてUターンさせて発進した。ビジネスライクであれ、と己に言い聞かせながら、店を探した。
優しさと易しさを履き違えてはならない。
どうしてこう、毎日毎日。
つばめは恨み言を言う気力すらなくなり、膝を抱えていた。スプリンクラーでびしょ濡れになったブレザーを脱ぎ、一乗寺がジャンパーを貸してくれたのだが、硝煙臭かった。それがまた一層悲壮感を煽り立ててきて、怒り狂おうにも余力も潰えてしまっていた。ただ買い出しに来ただけなのに、なぜ銃撃戦になってしまうのだ。軽トラックの助手席で縮こまってから、かれこれ小一時間が過ぎていた。その間、コジロウは無言で荷台の上で待機している。一乗寺はと言えば、手近な自動販売機で調達してきた缶コーヒーでちくわパンを食べていた。気楽すぎやしないか。
「いい加減に機嫌直してちょうだいって、ねえ?」
コジロウからもなんか言ってやってよう、と運転席から顔を出した一乗寺がコジロウに声を掛けるが、コジロウは押し黙ったままだった。それもそうだろう、つばめが話し掛けるなと命令しておいたのだから。
「明日は土曜日だし、みのりんと一緒に出かけたら? 身の安全は保証しないけどねっ」
一乗寺は親指を立ててみせたが、つばめは無視した。
「……考えてみたら、相手は五人なのに私は一人なんだよ。てことは、あっちはローテーションを組んで襲撃すれば疲れはしないけど、こっちは私の代わりなんていないんだからそうもいかないし。考えてみりゃ変だよ、理不尽だよ、コジロウがどれだけ強くたって毎日毎日襲われたら身が持たないよ。特撮だって週一で怪人一人じゃん、最近のは二週で前後編をやるから週一で〇.五怪人じゃん。なのに私はそうじゃないじゃん、日刊じゃん、新聞並みじゃん」
こんなことでは、いつか倒れてしまう。ならば、いっそのこと。
「直談判しよう。耐えられるか、こんな生活」
つばめは目を据わらせ、膝の間から顔を上げた。
「あ、それいいね!」
一乗寺が独り言に割り込んできたので、つばめは睨んだ。
「それ、ちゃんと考えた上での発言ですか?」
「そりゃあもう。だって、相手は仕事なんだろ?」
「普通、どんな取引先とだって意見の摺り合わせをする。契約する場合でも、交渉する。だから、ダメ元でもなんでもいいから交渉してみたらいいんじゃないの? ま、言ってみただけだから、保証はしないけど?」
「そこでお姉ちゃんですよ」
「あーそうだねー、みのりんってそういうトラブルの仲立ちをするのが仕事だもんねー」
「てなわけですから、先生、吉岡りんねの居場所を見つけ出して下さいね!」
「えぇー、なんで俺がぁ」
「だって私は成金御嬢様の居所なんて知らないし、情報を調査するのが先生の本来の仕事でしょ!」
「そりゃまあ、衛星写真とか暗号電波の発信源とかである程度の目星は付いているけどさぁ」
「じゃ、ちゃんとやっておいて下さいね!」
そう言いきってから、つばめは助手席を出た。日が落ちたので辺りは暗く、冷え込んでいる。だが、そのおかげで鬱屈としていた気持ちが引き締まった。意味もなく拳を固めて気合いを入れ直してから、疑問を感じた。そういえば、なぜコジロウはつばめの元に駆け付けたのだろうか。彼が来てくれなければ、今頃は一乗寺か武蔵野という名の男のどちらかが殺されていたに違いない。
「そういえば、なんでコジロウは私のところに来たの? 私が危ないって解ったから?」
つばめが若干ときめきながら問うと、コジロウは平坦に答えた。
「その認識は誤っている、つばめ。本官はつばめが一時的に管理者権限を譲渡していた備前女史に命令と言伝を仰せつかり、それを伝えに来たのだ。そして、つばめの身辺が危険だと判断し、護衛行動を行ったのだ」
「あー、そういうこと」
つばめが今時珍しく携帯電話を持っていないのが功を奏したのだが、なんとなく釈然としなかった。
「で、そのお姉ちゃんの伝言って何?」
「語弊がないように、原文ままに伝える。あのねぇつばめちゃん、着替えの服とか下着とかないから適当に見繕ってきてくれないかなぁ? お金は後でちゃんと返すから! ストッキングもお願いしちゃっていい? ブラジャーはサイズが解らなかったら買わなくてもいいよ、余裕があればナプキンも買ってきてくれないかな。そろそろって感じだし」
と、コジロウは美野里の口調を見事にコピーして言い切った。声はそのままなので異様ではあったが、美野里の言いたいことはちゃんと伝わってきた。となれば、真っ直ぐ帰らずにここから少し離れた場所にある衣料品の量販店に向かうべきだろう。ついでに自分の服も買い込んでしまおう、ジャージ以外の着替えも欲しいし、下着も足りないので増やしておきたい。つばめは財布を開いて残金を確かめてから、一乗寺を急かした。
「てことで買い出し続行です、先生」
「それ、長くなりそうだねぇ」
一乗寺がぼやいたので、つばめはシートベルトを締めた。
「当たり前ですよ、服を買いに行くんですから。コジロウも付き合ってよね、手当たり次第に買ってやる!」
「了解した」
コジロウは頷き、荷台に腰を下ろした。ショッピングに耽ればストレスを少しは晴らせるだろうが、買い物の快感を忘れられなくなると後が怖いので、程々にしておこうとも思った。目先の欲望に負けて莫大すぎる遺産を食い潰してしまえば元も子もないし、それこそ敵の思う壺だ。ぐちぐちとぼやきながらも一乗寺はハンドルを回し、大型スーパーの駐車場から出ていった。つばめはコジロウを横目に窺うと、少しばかり元気が戻ってきた。
ホームセンターが滅茶苦茶になったので買い物どころではなくなり、コジロウを手入れするための道具を調達してやれなかったが、つばめが手入れをしたらコジロウは喜んでくれるのだろうか。などと甘ったるいことを考える一方で、コジロウがつばめを守るのはプログラムによる行動なのに思い上がるな、との冷徹な判断も下していた。
主従と愛情を履き違えてはならない。