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機動駐在コジロウ  作者: あるてみす
 

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49/69

仏の顔もセンチネルまで

 悔しさだけが募っていく。

 後部座席に横たえている彼女をバックミラー越しに一瞥してから、男は嘆息した。至るところが傷だらけの外骨格は痛々しく、六本足には拘束具の鉄輪が填ったままで、羽も萎れている。ぬるりと触手を伸ばし、車の揺れで徐々にずり下がってしまったシートを掛け直してやってから、信号が変わったのを確認した後に緩くアクセルを踏む。

 バックミラーに映る男の顔には取り立てて特徴がなく、自分らしさは皆無だ。それもそのはず、至る所で行き倒れているサイボーグの人工外皮を剥がして被っているからだ。そんなことを躊躇いもなくできるようになった自分に嫌気が差すが、そうでもしなければこの状況は凌げない、と割り切った。人の生皮を剥いで被る悪鬼が出てくる昔話があったよなぁ、と思い返しながらハンドルを切った。

「あー、天の邪鬼だ」

 瓜子姫を唆して山に誘い出し、木から落として殺し、その着物と皮を剥いで被って成り済ます妖怪だ。いたいけな子供の頃は、この手の昔話が怖く思えたものだ。実家が寺だったせいもあり、日本昔話の絵本が揃っていたので、何度も読んだから未だによく覚えている。可愛らしい絵柄とは対照的な残酷なストーリーと恐ろしい妖怪達を見て、ああはなるまい、と幼心に誓っていたような記憶がある。けれど、今はどうだ。

 濃緑のアストンマーチン・DB7・ヴァンテージヴォランテを一般道から高速道路に滑り込ませ、寺坂はカーステレオから流れるラジオのニュースに耳を傾けていた。日本各地で前触れもなく昏睡する人間が増えており、病院に搬送される人の数が多すぎてベッドの数が足りなくなっているらしい。どれほど調べても原因は不明で、サイボーグ達の突然死と相まって世間には恐怖と死の匂いが蔓延している。

 テレビやラジオやネットでは不安を煽らないようするためか、不自然に明るい話題や番組が流され続けているが、そんなものでどうにかなるはずがない。最近の流行りは終末論で、その影響で、終末論を全面に押し出した歌詞の御鈴様の歌がちょっとしたブームになっている。あの大規模なライブの後に実際に発売された御鈴様のCDは、この半月で上位にランクインし続けている。晩秋の曇り空も相まって、世間はどんよりしている。

「あーあ、アクセルベタ踏みでぶっ飛ばしてぇー」

 行き交う車がまばらな高速道路を眺め、寺坂はぼやいた。だが、下手に目立つ行動を取ると、すぐさま高速道路仕様の警官ロボットに追尾されてしまう。そうなったら、後部座席に寝かせている美野里も見つかってしまうし、寺坂の正体も割れてしまうので、これまでの苦労が台無しになる。だから、ひとまず我慢した。

 寺坂が己の肉体を奪い返せたのは、美野里のおかげである。佐々木長光の意識を宿したラクシャをねじ込まれ、長光に肉体を乗っ取られてしまった。その間の記憶は朧だが、長光の支配下に置かれたシュユとコジロウ、そして美野里がフカセツテンの外に出ていったが、誰一人として戻ってこなかった。それは長光の計算の範囲内であったようで、長光は別段慌てもせずにフカセツテンを制御する手段を探していた。元より、美野里は捨て駒にするつもりでいたのだろう。長光一派の奇襲攻撃によって人間もどきの死体だらけになった、弐天逸流本部を散々歩き回り、空間をループさせる作用がある霧を行ったり来たりして、長光は目当てのものを見つけ出した。だが、その直後に美野里が無計画にシュユの肉体を損傷させたため、シュユの精神体が強制的に異次元宇宙に弾き飛ばされ、双方の宇宙の狭間に存在する異次元とフカセツテンに衝撃が加わった。その拍子に寺坂の肉体からラクシャが外れ、寺坂は自我を取り戻した、というわけである。長光は美野里の不安を煽って操っているが、煽りすぎたらしい。

「で、フカセツテンのイグニッションキーがこれかよ」

 寺坂は運転席のドリンクホルダーに無造作に突っ込んである、四角形の金属板を一瞥した。佐々木家の家紋である、隅立四つ目結紋を模ったものだ。大きさは大人の手のひらよりも一回りほど小さく、一センチほどの厚みがあるが重たくはない。材質は金属の棺であるタイスウに酷似しているので、例によって異次元宇宙に存在する物質を物質宇宙に引き摺り出して形作ったのだろう。

 見つけたはいいが、使い方は今一つ解らない。その方法を知っているであろうシュユは、異次元宇宙から精神体を引っ張ってこられないし、連絡を取ろうにも頼みの綱であった道子もそのシュユによって異次元宇宙からブロックされてしまった。かといって、クテイを利用するのは危険すぎる。シュユを始めとしたニルヴァーニアンが、苦労して異次元宇宙に隔離しているのだし、一連の昏睡騒動もクテイが原因だ。異次元宇宙と物質宇宙を隔てる障壁であったシュユが倒れたことで束の間の自由を得たクテイが、手当たり次第、否、触手当たり次第に人間の精神を捕食しているせいだ。空間を転移したフカセツテンが船島集落に戻ってきたのは不幸中の幸いだが、それだけだ。

 だから、手っ取り早い対抗措置を講じた。クテイが精神を捕食対象にしている相手に接触し、クテイによる干渉を阻止することにした。言ってしまえば、兵糧攻めである。ゴウガシャを通じてクテイと接触したために精神を喰い物にされている弐天逸流の信者達に接触してクテイの触手を断ち切り、目覚めさせているが、信者達の数が多すぎるので焼け石に水だ。だが、何もしないで手をこまねいているよりは余程良いと思い、日々動き回っている。

 そんな中で美野里を見つけ、政府の掃討作戦に乱入して助け出したが、そこから先を考えていなかった。彼女を助けるためとはいえ、一乗寺とシュユの接続を切ったのはまずかった。一乗寺は生まれながらにしてシュユと接続していたからこそ、人ならざる力と精神を得ていたが、その力の根源を欠いては彼女はただの人間に成り下がる。今後も荒事が起こるのは想像に難くないのに、一乗寺が脱落すれば大いに戦力が削げてしまう。

「俺の浅知恵でどうにかなるもんかよ、これ」

 寺坂は不安に駆られて呟いたが、いやいやまだこれからだろ、攻略出来るって、と思い直した。だが、そこに根拠はない。異次元宇宙と物質宇宙は根本から異なる世界であり、隣り合ってはいるが近付けないものであり、双方を行き来出来る道子の存在は重要だった。いかに管理者権限を持つつばめだろうと、それだけは不可能だ。

 だから、道子を通じてシュユに接して異次元宇宙の側からクテイを打破出来れば、混迷する事態を解決する糸口が見つけられたかもしれない。だが、双方の世界を跨いでいるシュユが頼りにならないのでは話にならない。だが、しかし。

 悶々と悩みながら、寺坂は関越道を走り続けた。


 一ヶ谷市に向かう途中で、寺坂は高速道路を下りた。

 目的はある。クテイの捕食対象にされている信者達に近付き、異次元宇宙からの接触を断ち切って昏睡状態から回復させるためだ。もちろん、利益などない。だが、使命感というほど崇高な意思で働いているわけではない。昏迷した状況を打開するための近道になるはずだと信じて、それを脱すれば美野里と付き合えるのだという、根拠の薄い下心が原動力だ。当の彼女は後部座席で眠り続けていて、高速道路から下りても触角すら動かなかった。

 昏睡した人々が集められている場所を見つけるのは簡単だ。その街で最も大きな病院に向かえばいい。寺坂はカーナビに従ってハンドルを回し、市街地を通り抜け、市立病院を見つけた。オープンカーのアストンマーチンは良くも悪くも目立つ車なので、病院から離れたコインパーキングに停車してから、市立病院に向かった。

 量販店で手に入れた秋物のジャケットにジーンズという当たり障りのない格好で、いかにもお見舞いに来ましたと言わんばかりの顔をして病院の正面玄関を潜ると、ロビーの長椅子がベッド代わりになっていた。その上には昏睡した人々が横たわっていて、家族が不安げな顔をしている。受付は診察や往診を問い合わせる電話がひっきりなしに掛かってきているらしく、事務員達が応対に忙しくしている。医師や看護師も廊下を行き来していて、余程患者の数が多いのだろう。こりゃ骨だな、と思いつつ、寺坂は鋭角なサングラスを外した。

 裸眼になって目を凝らすと、見たくもないものが見えてきた。異次元宇宙と物質宇宙の隔たりが曖昧な空間を目視出来るようになったのは、欠損した右腕の代わりに触手を移植された後のことである。霊感と呼べるほど素っ頓狂ではなく、能力と呼べるほど便利なものでもなく、無用の長物だった。人間の形を失った精神体やニルヴァーニアンの切れ端を目にすることも多いので、気分の良いものではないから、普段は出来る限り直視しないようにするためにサングラスを常用するようになった。もちろん、ファッションとしての側面も大きいが。

「んじゃ、行きますか」

 寺坂はサングラスをポケットに入れてから、ロビーを歩き出した。美野里に散々痛め付けられ、ラクシャに意識を宿した長光に肉体を奪われたのは散々だったが、そのおかげで新たな能力を手に入れた。フカセツテンの内部という、境界が極めて曖昧な空間で肉体が著しく欠損したため、精神体の触手だけを乖離させられるようになったのだ。言ってしまえば、局部的な幽体離脱のようなものだ。転んでもただでは起きない、ということだ。

 精神体だけで質量を伴わない触手をジャケットの裾から伸ばして、扇状に広げながら、ロビーの外周をゆっくりと一回りした。寺坂の精神の触手でクテイの精神の触手を断ち切っていくと、昏睡していた人間が目覚め、目覚め、次々に目覚めていった。程なくしてロビーに寝かされている人間は全て起きたので、先程とは違った意味で大騒ぎになった。続いて、長椅子や簡易ベッドにずらりと寝かされている人々の間を通り抜けていくと、彼らも目覚め始め、付き添いの家族が泣き崩れたり、看護師が慌てて医師を呼びに行った。

 精神の触手だけ出しておくのは楽ではないし、長時間は持たないので、寺坂は触手を断ち切るペースを速めようと歩調も速めた。診察室が並んだ廊下と階段を通り、病棟に入り、流れ作業のように接触と切断を繰り返していき、手術室、処置室、集中治療室、に程近い廊下を通って中の人間に接触し、通れる場所は全て通っていくと、最後は屋上に辿り着いた。その頃になると寺坂は心底疲弊し、人工外皮の下で束ねている触手が解けそうになっていたが、意地で踏ん張ってベンチに座った。サングラスを掛けてから、ポケットからタバコを出して銜え、火を灯す。

「うっはー……」

 この肉体には肺は存在していないのだが、ニコチンを含んだ煙を吸うと気分が落ち着く。寺坂が脱力しながら紫煙を蒸かしていると、屋上の階段を誰かが昇ってきた。入院患者か、その見舞客だろう。寺坂はタバコを咎められると面倒だと思い、吸い始めたばかりのタバコを携帯灰皿に突っ込もうとした。

「大丈夫ですよ、ここは」

 足音の主は弱い日光の下に出てくると、屋上の隅にあるスタンド型の灰皿を示した。

「あ、どうも」

 寺坂は気を取り直してタバコを銜え、深く吸ってから吐いた。三十代から四十代前半であろうスーツ姿の女性は、ジャケットの内ポケットからタバコを出すと、濃い色の口紅を塗った唇でフィルターを甘く噛み、火を灯した。

「アストンマーチンに載せてあるETCの車載番号、変えておけばよろしかったのに」

「んあ?」

 何を言い出すんだこの女は、と寺坂が面食らうと、女性はローズ系のフレーバーが効いた煙を漂わせる。

「ナンバープレートすらも変えておかないなんて、不用心にも程がありますよ」

「俺はそういう小細工は苦手っつーか、時間がなかったんすよ」

 この女は寺坂の素性を知っているらしい。寺坂は腹を括り、女性を見返した。

「まー、あの車は昔に使っていたやつだから、キーも同じじゃねぇのって思って突っ込んでみたら動いたから乗っているだけであって、それ以外の他意はないっすよ。誰に追われようが、何を狙われようが、俺自身はどうでもいいんすよ。なんとでもなるから。でも、車に乗せてある連れには手ぇ出さないでくれます?」

「言われなくても。あれに手を出して、無事でいられるわけがないもの」

「あんた、どこまで何を知っているんだ?」

 寺坂が二本目のタバコを取り出すと、女性はフェンスの金網に背を預けた。

「大抵のことは把握しています。それと、私は初対面じゃありませんよ、寺坂さん」

「あ、あー……?」

 そう言われても、すぐには思い当たらない。寺坂は首を捻り、今まで金を積んで手を出してきた水商売の女性達と、ナンパが成功して手を出した女性達と、その他諸々の女性達の顔を思い出していくが、目の前の女性の顔にはなかなか当て嵌まらない。この女性は好みのタイプではある。気の強さが現れている目付きとシンプルながらも若干濃いめのメイクにブランドものの白いスーツ、ピンヒールのパンプス、年相応の肉の緩みが熟れた色気を醸し出している長い足、スーツの硬い布地を押し上げている胸と尻、整った顔立ち。だが、その美貌は違和感が否めない。

「おねーさん、整形してんじゃないっすか?」

 寺坂の不躾な言葉に、女性は一瞬動揺したが、深呼吸してから言い返した。

「ええ、まあね。ずっと昔に。でも、どうして解ったんです?」

「どぎつい整形したお水の嬢ちゃん達を、掃いて捨てるほど見てきたから、そりゃまあ。顔の輪郭と体付きの骨格が一致してねぇなーって感じた女は、九割九分そうっすね。目と鼻と唇と頬骨と顎と、胸も」

「胸は自前よ」

「あ、そりゃどーも。そこまで綺麗に仕上げるためには、すげぇ金掛かったでしょ?」

「管理維持費も含めると、億に届くかもしれないですね」

「でしょ? けど、俺はそういうのも嫌いじゃないっすね。整形して自信持った女は結構自意識過剰だから、ちょっとそのプライドをくすぐってやればコロッと落ちちゃうもんなんすよ。で、良い思いが出来る」

「私もそうだと思います?」

 自虐と挑発を込めて女性が囁くと、寺坂は口角を持ち上げる。

「その気があるんなら、本気で落としに掛かりますけど」

「あなたって本当にどうしようもないわね、寺坂さん」

 不意に女性は口調を崩し、噴き出したかと思うと、声を上げて笑い出した。そのリアクションは予想外だったので、寺坂は若干戸惑い、なんだか気まずくなった。仕方ないのでタバコを蒸かしていると、女性はひとしきり笑ってから、目元を拭おうとして手を止めた。マスカラが取れてしまうからだろう。

「あーあ。こんなこと、するつもりじゃなかったのに」

 女性は笑いを噛み殺しながら寺坂に近付いてくると、寺坂の手元の携帯灰皿に自分のタバコをねじ込んだ。

「本当に私のこと、覚えていないの?」

「いえ、全然」

 寺坂は間近で女性の顔を眺めたが、やはり思い当たらず、再度否定した。

「うちの店で、何度もラーメンを食べていってくれたじゃないのよ。まあ、メニューは普通のラーメンと野菜ラーメンとおにぎりぐらいだから、選択の余地がないのは事実だけどね。たまに悪い連中に山道に置き去りにされた女の子が迷い込むから、親切な顔をして近付いてはお持ち帰りしたりして。そのくせ、三年前に少しだけ一緒に暮らしたあの子には手も出さないなんて。女癖が悪すぎるのに変なところが潔癖なのよねぇ」

 女性は首を横に振って嘆いたが、その仕草には見覚えがあった。あの寂れたドライブインの汚れた厨房で、滅多に来ない客を待ちながら、タバコを蒸かして気怠げにテレビを見ている女性店主と同じだった。だが、服装も違えば化粧も大違いだ。寺坂は記憶を反芻し、考え抜き、しばらく悩み、更に考え、ようやく納得した。

「本当に、あのドライブインのおばちゃんなんすね。てか、整形しているかもとは思っていたけど、まさか化粧と服でこれだけ変わるとは思ってもみなかったもんで。色々と有り得ない気がするんですけど」

「失礼しちゃうわね」

 女性は苦笑いしたが、寺坂は彼女の名前を知らないことにも気付いた。今の今までドライブインの経営者の名前など気にしたことがなかったからだ。化粧と服装で化けていなければ、これからも気にしなかっただろう。女性は寺坂の様子で察したのか、内ポケットから名刺入れを出して一枚抜き、差し出してきた。吉岡文香、とあった。

「吉岡? ってことは」

「吉岡りんねの母親よ。色々あったから、厳密には母親とは言い切れないかもしれないけど」

 文香は若干語尾を濁してから、寺坂に向き直った。

「回りくどいことは言わないわ、りんねを起こすために手を貸してくれません? もちろん報酬は出すわ」

「何をどのぐらいっすか?」

「出せる限りの額を出すわ」

「んじゃ、奥さんを一晩借りてもいいっすか?」

「構わないわよ。どうせ、夫はもういないんだし」

 冗談のつもりがまともに受け止められ、寺坂は面食らった。文香は足を組み、パンプスのつま先でコンクリートの床を小突いた。そんなことをすれば革が傷むはずだが、それを気に留めていられる精神状態ではないようだった。ふざけた態度を取っていたのも、寺坂に舐められないようにするための空元気だったのだろう。

「りんねはね、自分で自分を殺したのよ。私は遺産のことはよく知らないから、何がどうなったのかは理解し切れていないけど、あの子が自分を全否定するほど追い詰められていたのは確かなの。それで、つばめちゃん達が力を貸してくれたおかげで、りんねと伊織君は元通りの形に戻ったけど、意識は戻らないままで」

「俺が出来るのは、クテイに精神を喰われている人達をクテイから解放することだけっすよ。御嬢様が同じ理由で昏睡しているんだったら、俺もなんとか出来ますけど、そうじゃなかったら何も出来ないっすよ」

「それでもいいわ。やれるだけのことを、あの子にしてあげたいの」

 文香は神妙な面持ちで述べ、洒落たオイルライターを握り締めた。

「で、御嬢様が首尾良く目覚めた後はどうするんすか?」

 寺坂が率直な質問をぶつけると、文香は俯き、肩を怒らせる。

「解らない。解らないのよ、どうすればいいのか。だって、私、りんねをちゃんと産んであげられなかった。りんねが複製されて肉人形にされていても、逆らえなかった、守ってやれなかったの。りんねを育てられなかったからって、つばめちゃんに八つ当たりしてもどうしようもないのに、ちゃんとした子供を産めたひばりさんを妬んでもどうしようもないのに、どうにも出来ないの。ハチさんも会社の地下室で死んじゃうし、死ぬだなんて思ってもなかったの、だから、これからどうしたらいいのか解らないのよ。解らないから、りんねのために生きるしかないの」

 不安で今にも気が狂いそうなのだろう、文香の声色は次第に上擦り、震えていく。元々、心根が弱い女性なのだと寺坂は悟る。文香もまた夫を通じて少なからず遺産に接して生きてきたので、その精神の変動はクテイに摂取されていた。サングラスを外すと、その様は異なる世界の狭間で目にすることが出来た。文香の精神の波は一際荒く、彼女の苦悩が如実に伝わってきた。縋るものがなければ、不安でたまらなくなるのだ。

 それは金であり、高級ブランドであり、職業であり、男達であり、夫であり、娘だった。周囲に対しては余裕があるように振る舞う反面、自分の足場が壊れることを常日頃から危惧している。強い自分を演じるがあまりに、内面が脆くなってしまっているのだ。だから、最後の砦であるりんねがいなくなれば、文香の足場は完全に崩れる。寺坂はりんねを起こしてやるか否か、躊躇ってしまった。

 りんねと伊織を目覚めさせるのはかなり厄介な仕事だが、今の寺坂であれば、出来るかもしれない。双方の宇宙の狭間に立っていられるのは短い間だけだろうし、その間に出来ることはやり尽くしてしまうべきだ。こうして迷って時間を浪費するのも勿体ない。寺坂はタバコを押し潰してからベンチから立ち上がり、涙を堪える文香の肩に触手を絡ませ、一気に引き寄せた。

 舌とは似ても似つかない触手でも、タバコの渋みが効いた唾液の味は良く解った。口紅のぬるつきを感じながら、人工外皮で出来た唇を離してやると、文香は目を見開きながらたららを踏んだ。寺坂は怪物そのものの舌代わりの触手を体内に収めてから、にいっと笑ってみせた。

「前払い」

 あんなの本気にしないでよ、何考えてんのよ、と文香の弱々しい罵倒を受けたが、寺坂は罪悪感は感じなかった。それどころか、弱りに弱った文香の最も弱い部分を掌握出来るかと思うと、ぞくぞくしてくる。長らく、美野里を支配しようと思っても出来なかった不満が溜まっていたので、尚更だった。

 文香が他人の支えを欲して止まないように、寺坂も他人への支配を欲して止まない。それが最も顕著に表れるのが性行為であり、恋愛だ。束の間だけでもいい、気に入った女性を組み敷けるなら、快感を貪れるなら、どれほど金を注ぎ込んでも惜しくない。だから、根幹では寺坂と佐々木長光は似通っている。だが、長光は美野里を支配し、寺坂は美野里を支配出来ずにいる。それがどうしようもなく悔しいから、戦わずにはいられない。

 美野里を好かずにはいられない。



 美野里を載せたアストンマーチンを走らせ、寺坂は移動した。

 文香の乗ったベンツに先導されて向かった先は郊外にある病院だったが、先程の市立病院とは打って変わって昏睡した患者は一人も搬送されていなかった。一般の外来患者もおらず、ロビーは閑散としている。医師や看護師の代わりに吉岡グループの関係者が多く行き来していて、忙しない。文香の後に続いて病棟に移動すると、一番奥の病室に通された。南側で日当たりも良ければ間取りも広い、特別待遇の患者専用の部屋だ。

 SPらしき人間がスライド式のドアを開けてくれたので、中に入ると、病室の中央にベッドが二つ並んでいた。その窓際に少女が、扉側に人型軍隊アリが横たえられていた。考えるまでもなく、少女がりんねで軍隊アリが伊織だ。少女の面差しは、寺坂の知る吉岡りんねに比べるとかなり地味だった。不細工ではないのだが、人目を惹くほどの華がない。文香の少し気まずげな反応から察するに、整形手術を受ける前の文香にそっくりなのだろう。

 寺坂は無遠慮に二人に近付くと、サングラスを上げて伊織を眺めた。黒い外骨格を備えた屈強な青年の精神を貪ろうとする触手の影は、見えるようで見えなかった。度重なる異変が、伊織と異次元宇宙を遠ざけたのだろうか。目を凝らしながら視線を動かしていくと、伊織の精神体がずれていて、りんねの精神体と重なり合っていた。恐らく、伊織は遺産とその産物を掌握しているシュユの支配から何らかの理由で逃れたが、遺産の産物故に個として独立するのは難しかったらしく、逃れた先でも支配を求めていたようだ。要するに、伊織はりんねに依存している。

「あー、こりゃまずいな」

 りんねと伊織は、精神体が近付きすぎている。微妙なパワーバランスで支え合っているような状態なので、片方を分断すると片方が崩れてしまう危険性がある。かといって、このままでは二人は個としての意識を保てなくなるかもしれない。互いの精神と記憶と自我が溶け合い、絡み合い、伊織でもりんねでもないものに成り果てる。

「りんねは目覚めるの、目覚めないの、どっちなの?」

 文香のストレートな質問に、寺坂は言葉を濁した。

「起こそうとすれば起きるかもしれねぇけど、無理に起こしたら死ぬかもしれねぇんだよ。だから、出来る限り何もしないでおいた方が、御嬢様といおりんのためだ」

 寺坂は二人に背を向けて病室を出ようとすると、文香がジャケットの裾を掴んできた。

「ここまで来ておいて、私にあんなことをしておいて、何もしないで帰るっていうの!?」

「どうしても起こしてほしいんだったら、さっきの続きをしようか」

 寺坂は躊躇いもなく文香の腰に手を回すと、文香は体を強張らせ、寺坂を押し返そうとする。

「止めなさいよ、りんねの前で」

「旦那が死んだんだ、誰の女でもないんだろ?」

 寺坂が文香の首筋に顔を寄せると、文香は唇を噛んで顔を背けた。異形の男に対する恐怖と娘の人生を天秤に掛けているのだろう、寺坂の胸を押す手の力は曖昧だった。もう一押しで簡単に落ちるな、と寺坂は値踏みする。スーツ越しに文香の体を探り、触手で緩やかに太股を戒める。やろうと思えば振り払えるだけの力に止めておくのが肝心だ、無理強いするのは良くない。それでは、どちらも楽しめない。 

「そういう問題じゃ、ないわ」

 文香は唾を飲み下してから、拳を固める。

「どうすればいいのか何も解らないけど、どうしたらいいのかも解らなくなってきたけど、こんなことをするために私は今まで踏ん張ってきたわけじゃないの。りんねのお母さんになりたいって、ずっと、ずっと、それだけを考えてきた。そりゃ、子供のために体を売って日銭を稼ぐ母親はいないわけじゃないし、私だって今よりもっと若くて選択の余地がなかったら、あなたに簡単に股を開いていたかもしれないわ」

 でもね、と文香は寺坂を押しやってから、左手で顔を覆って唇を曲げる。古びた結婚指輪が鈍く光る。

「私、やっぱり、あの人のことが好きなのよ。ハチさんがどういう目的で私と結婚してくれたのかも、まだ解り切っていないけど、あの人が私を拾ってくれたから今があるの。りんねだって、ハチさんとの間に出来た子供だから、どうしても取り戻したかったの。今もそう。りんねのためなら、なんでも出来るって、してやるって思っていたの」

 寺坂の腕の中から脱した文香は、少しよろけながら、りんねの横たわるベッドに近付く。

「でも……無理みたい。ごめんなさい、りんね」

 細い肩を震わせて嗚咽を堪える文香の背から、寺坂は目を逸らした。文香は母親なのだ、寺坂が想像していた以上に。それが無性に煩わしくなり、寺坂は足早に病室を後にした。背筋がむず痒くなり、笑い飛ばしたいような、怒鳴りつけたいような、そんな衝動に駆られる。正面玄関から出て喫煙所に向かい、タバコでも吸って気張らしをしようとしたが、不定型な感情は胸中に淀む一方だった。

 居たたまれなくなった寺坂は、半分も吸わなかったタバコをスタンド灰皿に突っ込んでから、駐車場に向かった。濃緑のアストンマーチンは運転手を待ち侘びていて、後部座席では美野里が未だに眠り続けている。ロックを解除してからドアを開け、後部座席に入る。シートを剥がし、六本足に鉄輪が填ったままの人型ホタルを見下ろす。

「俺とヤるの、そんなに嫌か?」

 寺坂は傷だらけの外骨格に触手を這わせ、苦笑する。我ながら、醜い恋だ。恋愛の泥臭い部分だけを煮詰めたかのような、おぞましい劣情の固まりしか抱けない。それでも、決して振り向いてくれないからこそ、美野里が好きでたまらない。欲しくてたまらない。けれど、美野里が振り向いてくれたら、その瞬間に劣情が消え去ってしまうのではと危惧してもいる。事を終えて果ててしまうと、妙に冷静になる、あの瞬間が訪れるのではないかと恐れている。

 だから、このままでもいいのでは、と頭の片隅で考える。だが、このままではダメだとも思う。美野里が長光に対して執着を抱いているから、長光は美野里の感情を喰らってラクシャを動かしている。美野里の関心を長光から離すことが出来れば、戦況は少しだけ変わる。そのための恋なのだと、クテイとシュユが拮抗している力場の狭間から生じた必然なのだと、うっすらと理解している。それなのに、彼女にだけは躊躇いを覚える。

『女性の寝込みを襲うなんて最低ですねー』

 カーステレオが独りでに作動し、聞き覚えのある声が流れてきたので、寺坂は興醒めした。

「なんだよ、邪魔しないでくれる、みっちゃん?」

 カーナビの画面が勝手に切り替わり、立体映像が映った。そこに写っているのは見覚えのない女性型アンドロイドだったが、背景が浄法寺なので道子に間違いないだろう。

『皆さんの動向を見張っておいてくれ、特に美野里さんに気を付けておいてくれ、ってつばめちゃんに頼まれているんですよ。だから、美野里さんが人を襲いそうになったら色んな機械を遠隔操作して妨害したり、他の皆さんの動きを監視しているんですけど、寺坂さんは相変わらずの絶倫ですねー。普通の神経だったら、文香さんに手を出せるわけないですよね。あーそうですよね、寺坂さんにはもう人間の神経はないんでしたねー』

 いつになく道子は拗ねていて、冷え切った眼差しを注いできた。

「何、怒ってんの」

 道子らしからぬ態度に寺坂が半笑いになると、道子はつんと顔を背ける。

『いーえ、別に』

「てか、なんで俺んちにいるの? 合い鍵は、あー、あったなぁ。ガレージんとこに」

『フカセツテンがつばめちゃんちの上に乗っかっちゃったので、船島集落に入れないんですよ。んで、仕方ないから寺坂さんちに居候しているだけです。どこもかしこもぐちゃぐちゃだったので、片付けたんですけど、なんですかあのAVとエロ本の山、山、チョモランマ! どれだけ隠し持っていたんですか! お寺なのに!』

「えー、捨てないでくれよー。渾身のコレクションなんだから」

『捨てたくても捨てられませんよ、あんなもの! ライトな分野からハードコアまで守備範囲が広すぎですよ、なんでスカトロ本が台所の棚にあるんですか、正気じゃありませんよ、当の昔に滅んだはずのVHSが出てくるなんて異常ですって、しかも動くんですよ、ビデオデッキが! リマスターされたDVDだけじゃ飽き足らなかったんですか!』

「怒るポイント、そこなの?」

 寺坂が不思議がると、道子は目を据わらせた。

『わっざわざ古い映像媒体で見る辺りが変態の極みだなぁと思いまして』

「DVDだと味気ないっつーか、せっかくあるんだから使わないのもなーって思ってさ。VHSを。まだ動くし」

『エロ本やらAVを変な場所から見つけるたびに、つばめちゃんがげらげら大笑いしながら持ってくるので、帰ってきたら綺麗さっぱり処分して下さい。おかげで私もつばめちゃんも慣れちゃって慣れちゃって。私は別にいいですよ、永遠の処女ですから、聖女ですから、天使ですから、電子の妖精ですから。あ、突っ込んでくれないんですか? ……まあ、いいでしょう。私はともかくとして、つばめちゃんは前途有望なうら若き乙女なんですから、そういうのに擦れさせちゃいけないと思うんです。エロ耐性の薄さと初々しさもまた、ローティーンの魅力ですから!』

「俺もそれは解るけどさ、みっちゃんが力説するようなことか? 中身、見た?」

『カテゴリー分けして箱に詰めておくために、私はいくらか目を通しましたよ。つばめちゃんは表紙だけですが』

「えー……それはちょっと嫌だなぁ。男心として」

 寺坂がげんなりすると、道子は喚いた。

『こっちの方が嫌ですよ! 私が御世話になっていた頃からもエロの山に埋もれていたかと思うと、純情だった生身時代の私がエロ同人みたいに陵辱されたような気分になるんですから! 責任取って下さい!』

「だから、何をだよ。あーもう解った、解ったからさぁ。どう考えてもヌケないのは処分しちまうから。黴びてたり、湿気を吸ったやつも後で燃やしちまうよ。だから、ちょっと黙ってくれよ。俺も色々あってだなぁ」

 道子の剣幕に寺坂が辟易すると、道子は嘆息した。

『いいですか、寺坂さん。こうやってぎゃんぎゃん言われている内が花なんですからね、本当にどうでもよくなったら無視しますからね、注意もしませんからね。それと、コレクションするなら保存状態をしっかりしておいて下さい、古いVHSは半分以上黴びていましたし、DVDも埃だらけの傷だらけですし、エロ本は湿気を吸っているのが多かったんですから。あと、タイトルをアイウエオ順で並べておきましたし、エロ本は内容別にしておきましたからね。エロ漫画雑誌も結構ありましたけど、ロリエロ漫画がないのはさすがだと思いました。でも、人妻ものが一定数あるのはなぜですか? 武蔵野さんのことをあんなに茶化していたのに、寺坂さんも結局は人妻が好きなんですか?』

「それはやめてくれる? いやマジで。てか、みっちゃん、ちょっと会わないうちにオカン化してねぇ?」

『しっかりせざるを得ないんですよ、状況が状況ですから』

 だから寺坂さんもしっかりして下さいよ、と道子に念を押されたが、寺坂はシートに隠した美野里を見やる。

「なあ、みっちゃん。俺がみのりんと一緒にいるってこと、つばめには言わないでおいてくれるか?」

『何を虫の良いことを。美野里さんのせいで、つばめちゃんがどれだけ苦しんだと、私達がどれだけ迷惑したと』

「黙ってくれたら、みっちゃんに好きなことをしてやるよ。ボディがロボットでも、どうにかなるだろ?」

 冗談めかして言ったが、寺坂は覚悟を据えていた。道子は、ある意味では寺坂の聖域だ。三年前の数ヶ月間、寺坂と共に過ごしてくれた少女に対して劣情を抱かないことで、自分にもまだ人間性があるのだと思えるようにしておいた。だが、それが結果として道子に手を出さないことで支配することになっていると気付いたのは最近で、結局は道子も他の女達と同じなのだと知ってしまった。最早、自分には人間らしい部分は残っていない。だから、自分をとことん貶めてしまえばいい。そうすれば、美野里への支配欲にも素直になれるだろう。

『嫌ですよ』

 長い長い沈黙の後、道子は弱く答えた。

『私は寺坂さんのことが、その、えと、ああそのなんですか、改まって言うのは死ぬほど恥ずかしいっていうか、既に二度も死んでいて死に損ないの幽霊みたいな奴が言うのもなんですけど、まあ……その、好きっていうか、寺坂さん以外の男の人は気にならないっていうかで。だから、その、生身の頃だったらほだされていたかもしれませんけど、今の私は人間でもなんでもありません。つばめちゃんの持ち物です、道具です、遺産です、アマラです』

 道子は画面の中で寺坂に背を向け、俯いた。髪が滑り落ち、コネクターの付いた首筋が露わになる。

『だから、好きだなんて言っても、言われても、何にもならないんです。だから、何も思いません』

「それ、マジで言ってる?」

 寺坂が意地悪く問うと、道子は頷いた。ロングヘアで黒髪のウィッグが、その動きに合わせて揺れる。

『本当ですってば。クテイさんとシュユさんが何を食べているかも解っているんですから、些細なことでいちいち心を乱していたら、敵の思う壺じゃないですか。だから、尚更です』

 そして、道子は通信を切った。カーナビのモニターも沈黙し、カーステレオも同様だったが、寺坂の心中はひどく波打っていた。この意地っ張り、と道子を小突いてやりたくなった。美野里への劣情も嘘ではないし、道子に対して感じる近親者に似た好意も嘘ではないが、比重は公平ではない。気が多いことが辛いと感じたのは、初めてだ。

 だが、欲しいのは道子ではない。



 毎日、一人分の食事を作るのは億劫だ。

 食べるのが自分だけとなると余計に面倒臭く感じるが、手を抜いてもいいことはないので、つばめは古めかしい台所に立っていた。寺坂がいい加減に使っていた台所はゴミが溢れんばかりに溜まっていたので、ゴミの山を外に出すまでが一苦労だったが、床が見えてくるとその後は楽だった。埃を掃いて拭き掃除をし、油汚れの付いたタイルや水垢が付いたシンクも徹底的に洗い、冷蔵庫もアルコールや重曹で綺麗にし、調理器具も新調した。

 そのおかげで、清々しく料理が作れる。食べてくれる相手がいないのは張り合いがないが。つばめはフライ返しを使い、フライパンの中で柔らかく焼けたオムレツをひっくり返した。が、力加減を少々失敗したらしく、綺麗に巻けていた表面が破れてしまった。だが、自分が食べるのだから気にしない、と思い直してオムレツを皿に移した。

「お帰りー、道子さん。あのエロ本の山、片付け終わったの?」

 勝手口から戻ってきた道子に声を掛けるが、道子は眉根をきつく顰めて唇を噛んでいた。

「うぅ……」

「どうしたの? 段ボールからムカデでも出てきた?」

 ガスコンロの火を止めてから、つばめが台所から廊下に出ると、道子はつばめにしがみついてきた。

「焼き払いましょう、あのエロ本の山! あんな人の所有物なんて、保存しておくだけ宇宙の損失です!」

「でも、あれって一応寺坂さんの私物だし」

 死ぬほど嫌だけど、とつばめが付け加えると、道子は目を吊り上げる。

「だからこそ焼き払いましょう! ガソリンでもなんでもぶっかけて! そうでもしないと気が済みません!」

「もしかして、道子さん、寺坂さんと何かあったの?」

 段ボール箱の山を片付けに行っただけにしては、長々と外にいたから、その間に寺坂と連絡を取っていたとしてもおかしくはない。つばめが指摘すると、道子は半泣きのような表情を作った。だが、ボディがサイボーグではないので生理食塩水は出てこなかった。道子はへなへなと崩れ落ちると、つばめに抱き付いてきた。

「ちょっと慰めて下さーい……。こればっかりは、どんなワクチンプログラムも自己修復システムも効きませんから」

「よしよし」

 つばめは半笑いで道子を撫でてやると、道子はつばめの胸に顔を埋めながら嘆いた。

「あー惨めったら惨めです。でも、これでちょっとスッキリしました。生殖器が服を着て歩いている触手男にいつまでも執着している自分が馬鹿なんですから、少しだけ踏ん切りが付きました。でも、もうちょっとだけ慰めて下さい」

「はいはい」

 つばめは壁に寄り掛かり、道子の重みを受け流しながら、彼女のウィッグを被せた頭を撫でてやった。ふと視線を感じて振り返ると、廊下の角からコジロウがこちらを窺っていた。気になるならいっそ来ればいいのに、体を半分だけ出してつばめと道子を凝視しているから、少し不気味である。つばめはコジロウを追いやるか否かを迷ったが、今は道子を慰めることに集中してやろうと思い、手を振った。コジロウは渋々といった動作で離れ、去っていった。電脳体でも遺産の産物でもなんでもない普通の女性に戻った道子は、年相応に弱く、情けなかった。

 つばめは寺坂が道子に何を言ったのか、道子がどうやって寺坂を振ったのか、ちょっと知りたくなったが、それを聞き出すのは野暮なので胸に納めておいた。これでは、昼食のために作ったオムレツが冷めてしまうが、今ばかりは仕方ない。妙な話ではあるが、道子に甘えられたのが嬉しかったからでもある。

 彼女が気を許してくれている証拠だからだ。



 下半身の人工外皮を剥がし、触手を解いた。

 触手は一本だけでも常人の腕力を越える筋力を備えている。だから、下半身の触手だけでも、寺坂の上半身と美野里の重量を易々と支えることが出来る。それでも、触手だけというのは味気ないので、人工外皮を被せたままの両腕で美野里を横抱きにしてやった。その状態で再び病院に戻ると、人々はどよめき、道を空けた。

 化け物同士の婚礼のようだ。だが、足元に伸びるのはバージンロードではないし、廊下の壁際に避けている人々は寺坂と美野里を祝いに来た客ではないし、向かう先には愛の誓いを立ててくれる聖職者はいない。いるのは、生と死の狭間に揺らぐ少女と異形の青年だ。エレベーターを使うと触手の端が挟まれてしまいそうな気がしたので、階段を一段一段上っていき、最上階の病棟に辿り着いた。

 騒ぎを聞き付けたのか、りんねと伊織が寝かされている病室からは文香が現れた。寺坂に拒絶されたのが余程堪えたのだろう、目元の化粧が崩れかけている。文香の面差しにはほんの少し突けば爆ぜてしまいそうな危うさが張り詰めていて、寺坂への警戒心も漲らせていた。そそるなぁ、と寺坂は内心で少し笑う。だが、今は情を注ぐべきは美野里だけだ。寺坂は美野里を見せつけるように掲げながら、文香に言った。

「気が変わった。出来る限りのことをしてやるよ」

「そう」

 文香は寺坂と美野里を眺めていたが、背を向けた。俯きがちな横顔は、哀切で痛々しかった。

「りんねも、伊織君も、苦しめないであげて」

「ああ、出来る限りはな」

 寺坂は触手を一本出してドアをスライドさせ、開いた。するりと病室に入ってドアを閉めると、板越しに文香の嗚咽が聞こえてきた。りんねを再び失うかもしれない恐怖に苛まれているのだろう。

 改めて、ベッドの上に横たわる二人を確かめる。窓際のベッドにりんねが、壁際のベッドに伊織が横たえられていて、りんねの体にはコードやチューブが付いていた。心電図が規則正しい電子音を鳴らし、酸素マスクから酸素が供給され、脈拍に合わせて点滴が流し込まれている。対する伊織には計器のコードは付けられていたが、点滴や酸素マスクは付いていなかった。人型軍隊アリであり、人間とは体の構造がまるで違う伊織には、余計な付属物を付けられなかった、と言った方が正しいのかもしれないが。

 壁際にあるソファーを引き摺ってきてベッドサイドに横たえ、その上に美野里を寝かせてやる。寺坂は美野里の顔に手を添え、折れた顎の狭間から覗く口に指先を入れてみた。唇よりも遙かに硬く、歯の数十倍の強度を誇る顎は固く閉ざされていて、その中の柔らかな粘膜には触れられなかった。それが少し残念だったが、美野里の外骨格に偽物の唇を当ててから、寺坂はサングラスを外した。

「みのりんもいおりんも御嬢様も、俺が気持ち良くしてやるよ」

 腹に力を込めて、目を凝らす。精神の触手を乖離させながら、寺坂は二人に近付いた。精神の触手がクテイの触手を断ち切れるなら、その理屈で精神体を繋げ合わせている二人のパイプラインも断ち切れるはずだ。そして、そのパイプラインをそっくりそのまま寺坂と美野里に繋げてしまえれば、美野里は寺坂の支配下に置かれることになる。かなり無茶をすることになるのだから、りんねと伊織の精神体は無傷では済まないだろう。だが、最早、寺坂は誰を犠牲にしても厭わない覚悟を据えていた。そこまでしなければ美野里を振り向かせられないのだから、何を壊そうが、失おうが、気にならない。

 思い返してみれば、いつもそうだ。寺坂善太郎は、強欲で貪欲な人間なのだ。子供の頃からそうだった。堪え性がなく、他人の持ち物を羨んでは奪い取り、飽きては捨てていた。だから、誰かが大事にしているバイクや両親が細々と貯め込んでいた金を奪って遊びに使っても心が全く痛まない。だが、右腕を失って触手を植え付けられ、クテイと佐々木長光に利用されていることは気に喰わなかった。利益を得るのが自分ではないからだ。だから、長光には抗い、逆らったが、この体たらくだ。故に、長光を出し抜かなければ気が済まない。

 作業は単純だ。寺坂の精神の触手を使い、りんねと伊織の精神体を引き剥がし、二人を繋いでいるパイプラインを切断し、それを美野里と寺坂の間に移植する。寺坂の精神体は自由に剥がせるし、美野里も意識を失っているから抵抗されないだろうし、遺産の互換性があるから拒絶反応も起こらない。

 息を詰め、気を張り詰め、精密に触手を動かしていく。サングラスを掛けては外し、物質宇宙と異次元宇宙の狭間を見極め、精神と肉体が剥がれかけている部分を見つけ出す。そこに触手を滑り込ませて持ち上げるが、精神体には重量はほとんどないので手応えがないのが心許ないが、躊躇っていては作業が滞る。りんねと伊織の精神体を持ち上げ、両者を結び付けているモノを目視する。触手よりも細く、弱く、白く煌めく糸。さながら蜘蛛の糸だ。

 糸を慎重に切り離し、絡め取ってから、りんねと伊織の精神体を元在る場所に下ろした。その瞬間、二人の肉体は僅かに痙攣したが、意識が戻る兆しは見受けられなかった。糸が消えないうちに、寺坂は脆弱な糸を己の触手に結び付けて溶かしてから、美野里の精神体を乖離させ、糸の尖端を彼女に結び付けた。

「……う」

 ぎぎぃ、と美野里が外骨格を軋ませ、胸郭からくぐもった声を漏らした。美野里からフィードバックしてきた情報と感情の波をやり過ごしてから、寺坂は美野里を優しく抱き起こす。

「おはよう、みのりん」

 人型ホタルの触角が上下し、寺坂の匂いを探る。首を曲げて濁った複眼を動かし、寺坂の姿を映す。

「ます、たぁ……?」

「長光のクソ爺ィはもういない。だから、俺がマスターになってやるよ」

 寺坂は美野里の複眼を覗き込み、笑みを見せる。美野里は六本足を曲げて身動ぐが、抗わず、弛緩する。

「私のこと、褒めてくれる?」

「そりゃもちろん」

「一杯、甘えてもいい?」

「当たり前だ」

「家族になってくれる?」

「言われるまでもねぇよ」

 寺坂が頷くと、美野里は顎を開いて少し力を抜いた。上両足を上げ、寺坂の背中に添えてくる。爪先がジャケットに刺さっていて、手付きはぎこちない。寺坂も人工外皮を被せた左手で美野里を抱き寄せ、その重みを味わう。

「長光のクソ爺ィなんか、すぐに忘れさせてやる。半日も掛からねぇよ」

 精神は既に繋がっているのだから、後は肉体を繋げてしまえばいい。美野里は身を捩り、触角を下げる。恥じらっているのだと察し、寺坂は一際劣情が膨れ上がった。それが流れ込んでいるのか、美野里は寺坂から懸命に顔を逸らそうとする。すかさず触手を添えて美野里の顔を向けさせ、目を合わせ、寺坂は万感の思いを込めて囁く。

「何、してほしい?」

「つばめちゃんを殺して。ぐちゃぐちゃに、めちゃめちゃに、ごちゃごちゃにして、私にプレゼントして?」

 首を逸らし、美野里は触角をびんと強張らせた。黒い爪が寺坂の人工外皮に食い込み、破る。

「ねえ、ねえ、ねえ?」

 ぶちゅぶちゅっ、と人工外皮の下の触手を千切りながら、美野里は上体を起こして寺坂に顔を寄せる。

「私のこと、好きなんでしょ? 好きにしたいんでしょ? 好きになってほしいんでしょ? だったら、なんで私の全部を肯定してくれないの? マスターみたいに、何をやっても褒めてくれないの? マスターがしてくれたことをしてくれないんだったら、好きになるわけがないじゃない。好きになってくれないなら、好きになる意味がないじゃない」

 美野里の上右足の爪が曲げきられると、寺坂の人工外皮を被った左手首が切り落とされる。薄いシリコンで出来た手の形をした袋と触手の尖端が床に転げ、のたうつ。美野里はソファーから起き上がり、ぐるりと頭部を回す。

「どうして、好きになってくれないの?」

 あの細い糸を通じて、激情が逆流してくる。寺坂は目眩と吐き気を堪えながら、美野里と向き直った。美野里の心を満たしているものは、血反吐が混ぜ込まれたヘドロだ。中でも最も強烈な感情がつばめへの嫉妬と憎悪だった。両親に素直に甘えられるつばめが羨ましくて、要領が良いつばめが妬ましくて、愛想が良いつばめが腹立たしくて、それ故に怪人と化した。それでも、美野里は満たされない。つばめがこの世に存在している限り、長光にどれほど褒められようと認められようと頼られようと、劣等感からは逃れられない。

「ああ、そうかよ」

 好きでいたのに、好きでいようと決めたのに、どんな本性を見せられても愛せる自信もあったのだが。猛烈な悪意を流し込まれては、寺坂と言えども萎えてしまう。

「だって、寺坂さんの価値って、私を好きでいてくれることだけでしょ?」

「なんだよそれ。俺はキープなのか? 俺はいつだって、みのりんが本命だったのにさぁ」

 寺坂は切断された触手を再生させて、毒突いた。美野里が好きでいたいのは、他人から常に好かれていて常に求められている自分であって、寺坂自身ではないということだ。その事実を知るのがもっと早ければ、寺坂も美野里にここまで執着せずに済んでいたかもしれないし、事態の悪化を防げたかもしれない。だが、後悔するだけ無駄だ。支配出来ると思っていた、支配したいと願っていた、支配出来ないわけがないとタカを括っていた。だが、そんなことはなかったのだ。美野里は長光に寄り掛かることで、自分自身を最肯定してもらおうとしていただけだった。過剰なプライドと自意識の固まりだ。愛し愛され、という暖かな関係は元より望んでいないのだ。

「あ、ふぁっ」

 甘ったるい声を漏らした美野里は仰け反り、二の腕に当たる節に爪を立て、顎を逸らす。

「は、はぁっ、入って、入ってきちゃ、あぅんっ!」

 びぃんっ、と羽を張り詰め、美野里は下両足を突っ張らせる。その性感に酷似した感覚は、あの糸を通じて寺坂も味わわされていた。同時に、膨大な情報も流し込まれ、その感覚を与えた輩の正体も知らしめられた。この上ない屈辱に歯噛みした寺坂は、せめて美野里の肉体だけでも奪い返そうと触手を掲げ、投じる。

 一閃、黒が翻る。美野里の爪が寺坂の触手を切り捨て、壁へと放った。粘液を撒き散らしながら壁に突っ込んだ触手の切れ端は、ぬるりと筋を残しながら滑り落ちる。寺坂は応戦するべく触手を操ろうとしたが、脳内の神経伝達細胞を駆け巡った電気信号が神経に至る際に異物に阻まれ、突っ伏した。この感覚には、覚えがある。

「……クッソ爺ィ」

 埃一つない床に頬を押し当てながら、寺坂が吐き捨てると、美野里は深々と礼をした。長光の仕草だった。

「お久し振りです、善太郎君。いずれ、こうして下さると思っていましたよ」

「なんでまた戻ってきやがったんだ、今度こそあの世に行ってくれたと思って祝杯上げちまったじゃねぇか」

 寺坂は起き上がろうと触手に力を込めるが、微動だにしなかった。美野里は顎に爪を添える。

「アマラと同様、ラクシャも本体は情報そのものであってデバイスではないのです。まあ、道子さんのようにすんなりとは行きませんがね。シュユの肉体が破壊された瞬間、ラクシャが宿している情報を別の場所に一時的に転送し、退避したのです。以前、桑原れんげさんが構築しておいてくれた、人間の概念という名の最も身近な異次元宇宙の内側に形成されたネットワークにね。おかげで、全ての情報が無事でしたよ。私の記憶も、人格も、何もかもがね。負傷した美野里さんが自己修復のために遺伝子情報をダウンロードしている最中に、それに便乗して私の情報の一切合切も美野里さんにダウンロードさせておいたのです。効率的でしょう?」

「桑原れんげ? あいつも、てめぇの」

「当たり前ですよ。私以外の誰が、あんな大それたことを企てますか。桑原れんげさんは、次男の浅知恵と美作彰君の妄想だけで出来上がるようなネットワークではないのですよ。そして、私以外の誰も、彼女を掌握出来ないのですからね。れんげさんの人格を構築するに当たって、道子さんの感情の変動を引き出すために彰君にストーカーじみたことをさせてみたのですが、いつのまにか彰君が本気になってしまったのは参りましたけどね。そのせいで、道子さんを仕留めてサイボーグ化するタイミングが少しずれてしまいましたよ」

 美野里の肉体に意識を宿した長光は、爪先を使って寺坂の顎を上げさせる。

「美野里さんと共に過ごせて、良い思いが出来たことでしょう。でしたら、もう、思い残すことはありませんね」

「また、俺の体を使う気なのか」

「いえいえ、そんなことはいたしませんよ。もう、善太郎君に用事はありませんからね。りんねさんも伊織君も、皆、私の思い通りには動いてくれませんでしたからね。ですから、二度とお会いすることはないでしょう」

「ああ、とっとと死んでくれよ。閻魔様が勺をフルスイングして地獄に落としてくれるぞ」

 触手のほとんどが脱力していく中、寺坂が意地で言い返すと、美野里の姿をした長光は首を傾げた。

「ああ残念ですね、最後の機会でしたのに。美野里さんを満足させて下されば、美野里さんを善太郎君に譲渡してもよろしいと思っていたのですが、美野里さん御自身が善太郎君を選ばなかったのですから。それだけ、彼女は底なしに飢えているのですよ」

「俺を殺すなら、さっさとしやがれ。まどろっこしい」

「そんなに勿体ないことはいたしませんよ。クテイは恋愛感情も好みますが、ここ最近は憎悪も好んで食するようになったのです。ですから、存分に私を憎んで下されば、それだけクテイは満たされていくのです。次にお会いする時を楽しみにしておりますよ、善太郎君。盗んでいった家紋も返して頂きますからね」

 再び一礼してから、美野里の姿をした長光は窓ガラスを突き破り、脱した。起き上がることも出来ないまま、寺坂は羽を振るわせて飛び去っていく黒い姿を見送った。途方もなく空しさと、更なる悔しさと、一抹の解放感が寺坂の淀んだ心中を塗り潰していった。道子にも振られて美野里にも振られるとは散々だ。

 長光は、恨め、と言い残していった。けれど、そう言われると逆らいたくなる。確かに長光も美野里も心の底から腹立たしいが、かといって、根性も何もかもねじ曲がった寺坂が言われた通りに出来るわけがない。クテイも長光も持て余した末に腹を下すような、感情でも抱いてやろう。だが、それが何なのかを考え付く前に、寺坂はまたも黒い爪に切り捨てられた。下半身を成していた触手が一息に両断され、膨大な体液が噴出する。赤黒い飛沫を浴びて突っ立っているのは、伊織だった。抗えるほどの余力も失せた寺坂は諦観し、意識を手放した。

 そして、寺坂は鮮やかに両断された。



 燃えろよ燃えろ、と道子は高らかに歌った。

 有り余る欲望が詰まっている黴臭い雑誌や写真集は、次々に焚き火にくべられて灰と化していった。鮮やかな炎をぼんやりと眺めながら、つばめは縁側で膝を抱えていた。寺坂への思いをきっぱりと切り捨てた道子はつばめに散々甘えて泣き付き、気が晴れたのだが、晴れすぎて突き抜けてしまったらしい。そして、勢い余って寺坂の蔵書であるエロ本の山を燃やしていた。本格的に黴びていたり、湿気ている本ばかりなのは、道子もそれなりに気を遣っているのからだろう。黒い煙に舞い上げられた薄い灰が、薄曇りの空へと吸い込まれていった。

「ああ、なんて清々しいのでしょう! どんど焼きですね! この辺だと賽の神ですね!」

 満面の笑みを浮かべて振り返った道子に、つばめは曖昧な返事を返した。

「いや、あれはエロ本じゃなくて藁だよ。まあ、道子さんがそれでいいなら、別に何も言わないけどさ」

「焼却灰による近隣地域の汚染濃度をシミュレーションの後、算出し、報告すべきだ」

 竹箒で枯れ葉を集めていたコジロウに忠告され、つばめは苦笑する。

「どこに? てか、こんな山奥なんだし、文句を言ってくるような御近所さんなんていないと思うけど」

「そういえば、高守さんはどこにいるんですかね? 今朝からお見かけしていませんけど」

 湿気を吸って膨らんだエロ本を焚き火に投げ込んでから、道子が訝ると、つばめも気付いた。

「言われてみれば。高守さんって種だけなんだし、そう遠くへは行けないはずなんだけど」

 いや、そうでもないな、とつばめは思い直した。りんねが自殺を企てて伊織のアソウギを暴走させた際に、高守は地面に根を張って土を掻き集め、仮初めの体を作り上げていた。あまり長持ちはしない、と高守は語っていたが、その方法さえ用いればある程度の移動は可能だろう。どこに行ったのかは気掛かりだが、いざという時は道子に探してもらえばいい。それに、他の面々とは違い、高守は攻撃的ではない。寺坂、一乗寺、武蔵野といった男達は血の気が多いが、高守は比較的大人しいタイプだ。だから、そのうち帰ってくるだろう。

 だが、仮にも弐天逸流の上位幹部だった高守が全くアクションを起こさないとは限らない。つばめの目を盗んで、弐天逸流の再興を目論んで暗躍していたとしたら。不安に駆られたつばめが唸ると、コジロウが平坦に言った。

「んー……」

「つばめ。本官が三〇キロ離れた先の量販店の特売で買い込んできた、五パックの卵の処理方法については」

「いや、それはいいから。なんとか食べるから。コジロウの機動力が高いのを良いことに、特売巡りなんかをさせた私が悪かった。賞味期限も長いし、気長に処理するよ。今日の晩御飯も卵料理になっちゃうけどさ」

 つばめが苦笑いすると、道子が両手を重ねた。

「じゃ、私もお手伝いしますよ!

 茹で卵ぐらいだったら、きっと上手く出来ますって!」

「でも、この前、古典的な方法でオーブンレンジを吹っ飛ばしちゃったじゃないの」

「あうぅんっ」

 つばめが先日の失敗を指摘すると、道子は半泣きになった。

「オーブンレンジの新しいやつを買おうにも、電器屋さんも遠いしねー」

 と、こんなことを迂闊に言ってしまうと、また。はっとしてつばめが振り返ると、コジロウの姿は消えていた。今し方まで彼が持っていた竹箒は絶妙なバランスで地面に立っていて、落ち葉の小山は排気で半分以上が巻き上げられていた。道子はすぐさまGPSを作動させてコジロウの行き先をトレースし、目的地は電器屋さんですね、と報告してくれた。これでは、まるでお使いの楽しさに目覚めた子供である。

 悪気はないし、無駄遣いはほとんどしないのだが、行動が迅速すぎて戸惑ってしまう。つばめはコジロウが調達してきてくれるであろう新品のオーブンレンジに思いを馳せ、いっそのことお菓子作りの道具も一通り揃えてケーキを焼いてみるのもいいかもしれないと考えた。備前景子からは、料理だけでなく、お菓子作りも教わっていたからだ。こうも退屈な日々が続くのだから、それぐらいは楽しみがあってもいいだろう。

 余裕を持っていなければ、遺産を巡る争いはやり過ごせない。

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