一を聞いてジャンクを知る
浅い眠りが、古い記憶を解いていた。
母親は笑顔を作りながら、拳を振り下ろす。何度も何度も何度も振り下ろす。痛みを受けながら、こちらも必死に笑顔を作る。それはなぜか。それが特別である証しなのだと、特別でなければ意味がないのだと、特別であるだけで全ては許されるのだと、母親はいつも語っていた。焦点の合わない目で、度重なる自傷行為の傷跡が両手首に刻まれた腕で、フラッシュバックを起こすたびに部屋の隅に丸まって誰かに必死に謝りながら、言っていた。
一乗寺皆喪と昇の母親である、立花南は高級官僚の一人娘としてこの世に生まれ、周囲から大事にされて育ってきた。苦労もしなければ我慢もせず、欲しいものはなんでも手に入れた。だが、外見も中身も十人並みでしかなく、秀でた才能もなかった南が壁にぶち当たるのは、時間の問題だった。日頃から見下していたクラスメイト達が南の成績を上回る成果を上げたり、結果を残すようになり、南はその度に両親に泣き付いた。両親は南に家庭教師を付けてやったが、自分には特別な才能があると信じて疑わない南は努力や苦労をしようと思うはずもなく、成績は底辺を這いずるようになった。幼い自尊心は無惨に引き裂かれてしまったが、普通なら、そこで現実を思い知って自分の程度を把握するようになり、身の丈に合った生き方を見つけていくものだ。
だが、南はそうではなかった。頑なに自分は特別で優秀で素晴らしいのだと信じ、信じ抜き、両親でさえも愚かだと言い捨てるようになった。特別でありたいという幻想から抜け出せないまま、小中高とエスカレーター式の私立校を辛うじて卒業し、成績に見合わないレベルの大学を受験しては失敗し、ろくな準備もせずに就職しようとしては失敗し、タレントだ女優だ作家だ漫画家だと特別な職業を目指してはすぐ挫折した。それでも、南は自分が特別であると疑おうともせず、目新しいことに手を付けては両親の財産を食い潰していった。
そして、南が誰よりも特別になろうとした結果、皆喪と昇が生まれた。弐天逸流に入信してきた南はただの人間に過ぎなかったが、少しでも神の領域に近付こうと、本来は不要な生体安定剤を大量に摂取した。それが南とシュユを束の間だけ結び付け、異次元宇宙と物質宇宙の隔たりを溶かした。だが、シュユには繁殖能力はないため、厳密に言えば皆喪と昇は南の分身である。単体繁殖といっても過言ではないが、シュユから流れ込んできた数多の情報が遺伝子を少々狂わせてしまったため、人間離れした身体能力と再生能力と生存能力を得た。生死の境を彷徨うと皆喪の性別が変異し、女から男に、男から女になったのは、そのためである。
だから、あなたは特別なのよ。特別だから、特別でいなきゃいけないの。弟を妊娠して膨らんだ腹を抱えながら、母親は皆喪に笑いかけている。特別だから、人殺しをしなければならない。特別だから、誰かを殺しても悲しんだり辛い思いをしてはいけない。特別だから、痛い思いをしても笑っていなければならない。特別だから、特別だから、と母親の呪詛が脳裏に木霊する。一言言い返してやりたかった。けれど、最後まで出来なかった。
あんたはただの屑だ、と。
あんたはただの屑だ。
口の中でもう一度言葉を繰り返してから、一乗寺は慎重に意識を引き上げた。布団から手を出して拳を固めると、筋力が大分戻ってきていた。体中が鈍っているので、少し慣らしてからでなければ戦闘は無理だろう。拳銃を撃つにしても、頭がはっきりしなければ無理だ。眠っている間にも、頭の中には遺産の情報が流れ込んでくる。道子が異次元宇宙から物質宇宙に戻ってきてくれたのはよかったが、シュユが道子と異次元宇宙の接続を切ってしまったのは頂けない。シュユの肉体を潰された影響でフカセツテンが物質宇宙から消失したが、行方は知れない。こちらの世界にいないとすれば、見つけられるわけもない。もっとも、一乗寺を始めとしたフカセツテンの中身はそっくり海に投げ出されたので、武蔵野も寺坂もきっとどこかで元気にやっているだろう。彼らは殺しても死なない。
気怠い体を起こし、伸びてきた髪を掻き上げる。あれから、何日が過ぎただろうか。備前美野里に刺され、周防に回収されてフカセツテンの内部に連れ込まれたのが十月の中旬だったはずだ。壁に投影されているホログラフィーのカレンダーを見ると、今日の日付が点滅している。十一月の上旬になっていた。
「あー……」
今頃、皆はどうしているだろうか。特に、つばめのことが気掛かりだ。コジロウと道子がつばめの傍におり、彼女の手元にコンガラがあるのは遺産の互換性を通じて理解しているが、それだけでは足りない。他の遺産も全てつばめの手中に収めなければ、事態は混迷し続けてしまう。また戦いたい。たった一人の生徒のために。
「でもなぁ」
一乗寺は布団を剥ぎ、刺し傷が自然に塞がった下腹部を確かめてから、傍らで睡眠を貪っている男を見やった。一乗寺を手に入れた周防国彦は、内閣情報調査室の捜査官として働いていた姿は見る影もなくなり、金と時間と体力を浪費するだけも日々が始まってからは、堕落が顕著になった。鍛え上げて絞られていた肉体は弛みが出てきて、生活態度もひどいものだ。部屋の至るところにゴミが散らかり、床が見えない。
周防を起こさないように出来るだけ慎重に動き、布団を抜け出した一乗寺は、ゴミの山に埋もれかけている服を見つけた。この服を洗濯をした覚えはないが、この際、仕方ない。夜通し耽っていたために下半身が怠いが、周防はそれ以上に疲れているのか、身動き一つしなかった。それはそうだろう、連発したのだから。好きになってくれるのはとても嬉しいし、欲情してくれるのは女冥利に尽きるが、このままでは取り返しの付かないことになる。
政府から離れて久しいので、残弾には限りがある。一乗寺は部屋の隅に追いやられているバッグを開き、中身を確かめた。SIG・SAUER・P220。愛用していたハードボーラーに比べれば威力も軽ければ重量も少ないが、銃があるに越したことはない。これさえあれば、どうにでもなるはずだ。
「イチ」
起き抜けの覇気のない声で名を呼ばれ、布団の下から太い男の腕が伸びてきた。
「何してる」
「もうちょっと手入れした方がいいと思うよ、これ。いざって時にジャムっちゃうじゃん」
一乗寺はSIGを弄びながら振り返ると、周防は布団を跳ね上げた。
「お前はもう、銃は握るな」
「すーちゃんのだけじゃ飽きるんだもん」
「俺のだけにしろ」
「えぇー、朝っぱらから何言うのー」
いくらなんでも、どちらも寝起きなのだから。一乗寺がやり過ごそうとすると、周防は有無を言わさずに一乗寺の腕を掴んできた。せめてトイレに行って顔を洗う余裕ぐらいはくれたっていいじゃない、と内心でぼやきながら、一乗寺は二人の体温と昨夜の余韻が染み付いている布団の中に引き戻された。
荒い欲望を打ち付けられ、揺さぶられながら、一乗寺は込み上がるものを押し殺した。自分は周防の特別であり最上であり最高であり最良なのだ、という優越感に襲われる。母親があれほど願っても手に入れられなかったものなのだから、尚更だった。だが、この怠惰な生活がいつまでも続くものではないと知っている。周防は一乗寺の体を独占しておきたいがあまりに、周囲に目を配る余裕すら失っているらしい。だから、二人が流れ着いた古いアパートの周辺に捜査員が配置されたことも、それに準じた包囲網が敷かれたことも、気にしていない。政府側が裏切り者である周防を放っておくわけがないし、一乗寺も同様だ。殺されるだけで済めば、まだいい方だ。
長いようで短い一時が終わると、周防はふらつきながら風呂場に向かっていった。だらしない歩き方に気の抜けた後ろ姿は、無意識のうちに罪悪感を滲ませている犯罪者と同じだ。それはそうだろう、堕落と犯罪は直結しているものなのだから。このまま、落ちるところまで落ちてしまえ。そうすれば、どれほど幸せだろうか。
「……でもなぁ」
幸せになればなるほど、頭の中が煮詰まってくる。性別が変わって周防に見初められ、どさくさに紛れて駆け落ち同然の逃避行に出て、それから先はどうなるのだろう。周防の貯金にも限りがあるし、政府の捜査員がこの部屋に踏み込んでくるタイミングも掴めないし、つばめ達の動向も気に掛かる。
それに、幸せになった後で何をすればいいのだろう。確かに周防は好きだ。一乗寺にこれでもかと欲望と感情をぶつけてきてくれるから、好きにならないわけがない。だが、それが幸せの結末であるならば、そこから先には何が待ち受けているのだろうか。解らない、真っ暗闇だ、虚無だ、絶望だ。周防を好きになるだけで充分なのに、好きになってくれるだけで事足りているのに、そこから先なんて必要ないのに。
だから、戦っている方がまだ楽だ。頭がすっきりするし、気持ちも晴れ晴れとする。楽しくて楽しくて仕方ないから、拳銃を握ってナイフを振るっていた。それなのに、周防はそれを禁じてきた。訳が解らない。あんなに楽しいことを止めてしまったら、幸せになった苦しみが振り払えない。好きだから、好きなのに、好きになってくれたのに、などと一乗寺の脳内でぐるぐると思考が巡る。思い返してみれば、昔もそうだった。
小学校、中学校のクラスメイト、上級生、下級生。根本的に理性を欠いている一乗寺は、子供の頃は天真爛漫という言葉で誤魔化されていた。仲良くしてくれたクラスメイトもいて、特に仲良しだった女の子と一緒に帰っている時に不意に不安に駆られてしまった。毎日が楽しくて楽しくて、嬉しすぎて混乱してしまった。女の子はにっこり笑って一乗寺の手を引いてくれた。明日もまた一緒に遊ぼうね、ミナモちゃん、と。それが幸せすぎて、至福で、余計に頭が混乱して、彼女を歩道橋から突き落とした。ランドセルを引き摺りながら階段を滑り落ちた女の子は、アスファルトに後頭部から激突し、大量の血と共に脳漿を噴出した。それを見、一乗寺は安堵した。混乱も収まったので、何事もなかったかのような顔をして帰宅した。これであの子とずうっと友達でいられる、と鼻歌さえ漏らしていた。
だから、このままでは周防を殺してしまう。殺してしまえば、ずっと幸せでいられるからだ。けれど、殺さなかったらどうなるのだろう。周防は一乗寺を求め続けてくれるだろうが、そこから先に何があるのだろう。周防が生き続ける未来が想像出来ない。混乱する、頭がぐちゃぐちゃしてくる、息が詰まる。
この苦痛だけは耐えきれない。一乗寺は呼吸を荒げながら、バッグを探って拳銃を取り出した。辛くて苦しくて重くて怖くて寂しくて悲しくて、一乗寺は冷たい鉄塊を汗ばんだ手で握り締める。風呂場から聞こえる水音が止まると、廊下に立ち込めていた湯気が薄らいだ。衣擦れの音に周防の喘ぎ、濡れた足音。一乗寺は服も着ずに風呂場に向かうと、後ろ手に拳銃を隠した。カーテンが開き、タオルを頭から被っている男が現れた。
「イチ、一緒に入るなら入るって」
先に言え、と言いかけた周防の口に銃口をねじ込むと、一乗寺はほっとした。
「ありがとう、すーちゃん。大好き!」
周防の歯が銃身に当たり、がちんと鳴る。飽きるほど絡め合った舌が鉄を舐める様は、いやに扇情的だ。だが、その手の欲望は先程満たしたばかりなので、未練はない。これで怖くなくなる。心からの笑顔を浮かべた一乗寺は引き金に掛けた指を曲げ、絞り切ろうとした瞬間、ちゃちな作りのドアが蹴破られた。
途端に、武装した男達が雪崩れ込んできた。すぐさま身を翻して応戦しようとしたが、その前に取り押さえられて埃っぽい床に押し付けられた。拳銃も奪われ、両手を拘束され、背中に跨られる。周防も風呂場に追い詰められ、複数の銃口を向けられている。髪を掴まれて顔を上げられると、見覚えのある人影が土足で入ってきた。
「おーす」
銜えタバコで悠長な挨拶をしてきたのは、柳田小夜子だった。一乗寺は気恥ずかしくなり、身を捩る。
「やぁだ、さよさよのエッチ!」
「お前らのつまんねーアレを毎日聞かされた、あたしらの身にもなれってんだよ。あー面倒臭かった」
小夜子は気まずげに髪を掻き乱してから、離してやれ、と紺色の戦闘服を着た男達に指示してから、ジャケットを脱いだ。それを投げ渡されたので、一乗寺はジャケットを羽織ってから顔に付いた埃を払った。
「で、なんで今の今まで泳がせてくれたの? その間に、すーちゃんのアレを何十回搾り取ったことか」
「あたしの知るところじゃねーよ、それは。上の事情だ。てか、あたしは小隊長でもなんでもねーからな。あんたらと面識があって話も通じるから呼ばれたんであってだな」
「ふーん。で、すーちゃんはこれからどうするの?」
「それも知らねぇが、当分は逮捕拘留だろうな。余罪は山盛りにあるんだ、しょっ引く材料には事足りねーからな」
「ふーん」
一乗寺は風呂場を覗こうとしたが、男達に押しやられて外に出された。裸足では歩きにくいので、脱ぎっぱなしになっていたスニーカーを突っ掛けた。二人の体液や情念で淀んでいた室内の空気とは打って変わって、早朝の外気は爽やかだった。周防を殺せなかったのは物足りないが、周防が生きている限りはまた殺す機会がある。周防の頭部を吹っ飛ばす瞬間を思い描いていれば、幸せになってしまった不安も紛れる。
来いよ、と小夜子に促され、一乗寺は軽い足取りで歩いていった。寂れた住宅街は、警察車両や量産型の警官ロボットがひしめき合っていて、アリの這い出る隙間もなくなっている。白と黒に塗られたワゴン車の中に乗り込み、小夜子と向かい合って座席に座ると、小夜子はそれまで吸っていたタバコを携帯灰皿にねじ込んだ。
「まーさか、一ヶ月も持つなんてなぁー。イチのおかげで一〇万は儲けたぞ」
可笑しげに肩を揺すりながら、小夜子はタバコのケースをポケットから出し、一本銜える。
「何、俺とすーちゃんのことで賭けたの? だったら、俺にも配当金をかっさらう権利があるんじゃないの?」
一乗寺はむっとして、小夜子の手元からタバコを掠め取った。小夜子は顔をしかめる。
「ねーよ、そんなもん。しかし、相変わらずだよなぁ、お前は」
「何が?」
殺人の晴れやかさと不安から逃れられた解放感で、一乗寺は周防への思いが吹っ飛んでいた。罪悪感の欠片もない目で見つめられ、小夜子は調子が狂ったのか、一乗寺の銜えたタバコに火を付けてやった。
「まあ、いい。仕事だよ、仕事」
「どんなの?」
久々に吸ったニコチンを味わってから、一乗寺が問うと、小夜子は携帯灰皿を出して灰を落とした。
「そりゃ決まってんだろ、備前美野里の殺処分だ。あの虫女の行く先々の映像やら何やらが当局に流されてきて、動かないわけにいかねーんだよ。泳がせておくと、無駄な死人を出しそうだしなぁ」
「でも、警察だってサイボーグ部隊はいるじゃない。俺よりも弱っちいけどさ」
「そいつらが全員御陀仏なんだよ」
「え、なんで?」
「ネットはともかく、テレビぐらいは見とけよ」
そう言って小夜子はタブレットを操作して、一乗寺の目の前にホログラフィーモニターを浮かばせた。ニュースサイトのトップページに、サイボーグが次々に原因不明の死を遂げている、とあった。ハルノネットのサイボーグユーザーは一人残らず死亡し、皆、脳が溶解しているのだそうだ。新免工業のサイボーグも大多数が死亡し、海外メーカーのサイボーグも特定のメーカーのサイボーグは全て死亡していた。死因は不明だが、脳が溶けたことは全員に共通していた。少し世間から離れている間に、こんなことが起きていたとは。
「葬儀屋さんはてんてこ舞いだね」
一乗寺が筋違いな感想を述べると、小夜子は口角を曲げた。
「ま、そうだな。脳みそも荼毘に付す必要はあるだろうしな。てなわけだから、現状であたしらが保有している人外の戦力はイチだけっつーことになる。ロボットファイターは民間のものだから使えねぇし、量産型の警官ロボットは一体破壊されるだけで大損害だから却下な。フェラーリ並みの高級品なんだぞ、あいつらは」
「えぇー、俺の命って量産型よりも軽いのー?」
「公僕の命が重かった試しがあるかよ。増して、イチには戸籍もねぇんだから」
「まあ、それもそうか! てぇことは、あの虫女を殺してもいいんだね、ね?」
一乗寺が身を乗り出すと、小夜子は一乗寺の襟元を掻き合わせて乳房を隠した。
「無駄にでかい脂肪の塊を垂らすな。目障りだ」
「さよさよ、自分の胸が貧相だからってそんなこと言わなくても」
「あたしの体には無駄がねぇんだよ。つか、あたしの役回りじゃねぇだろうが、こんなの。あー、さっさと小倉の社長んところに戻って岩龍をいじってやりたいよ。メンテも途中だったんだぞ」
「てことは何、ミッキーの親父さんとデキたの?」
「馬鹿言え、あたしは有機物には欲情しない」
「無機物フェチかー。金属は文字通り鉄板だとして、プラスチックとシリコンはイケる?」
「モノにもよるが、それなりにな」
ほれ資料だ、と小夜子がPDAを突き出してきたので、一乗寺はそれを受け取って操作した。備前美野里の行動したルートが事細かに記録されているが、秒単位で現在位置を特定しているので、人間業ではない。ということは、道子が情報源なのだろう。大方、つばめに美野里を見張っておくように命じられているのだ。
美野里の行動と共に、美野里の身に訪れた災難も記録されている。御鈴様のライブ会場近くの倉庫で羽部鏡一を殺し、倉庫に保管されていたシュユに致命傷を与え、美野里も負傷して逃亡した。だが、移動した先で暴走した車やバイクやロボットやサイボーグに襲われていた。美野里が人間を喰おうとするたびに異変が発生し、もう一歩というところで食事に有り付いていなかった。となれば、美野里の苛立ちと飢えは凄まじいだろう。近付いただけで、間違いなく捕食される。常人ならば勝ち目はない。ロボットやサイボーグでさえも怪しいのだから、一乗寺如きが確実に勝てるという保証はない。だが、性欲に耽って鈍った体を温めるには丁度良い。
「やってあげるから、武器をちょーだい」
一乗寺が軽く言うと、小夜子は肩を揺すった。
「小遣いをせびるんじゃねーんだから」
まあいい、手ぇ回してやるから、と言ってから、小夜子は政府関係者の専用回線で連絡を取り始めた。一乗寺はPDAをいじり回してネットを検索したり、ここしばらく見ていなかったサイトを閲覧して、情報を掻き集めた。大手を振って美野里を倒せるのかと思うと、楽しくて仕方ない。周防からどれほど愛を注がれていても、周防が一乗寺を裏切った事実と落胆が消え失せなかったように、美野里がどうなっていようともつばめを裏切った事実は消えない。とことん追い込み、苦しめ、痛め付け、思い知らせてやる。
誰も特別ではないことを。
裏切るということは、それだけの価値があると自負している証拠だ。
自分にとっての味方側に損失をもたらし、寝返る先である敵側に利益をもたらす行為なのだから、それなりの価値がなければ成立しない行為だ。だから、それ相応に自惚れていなければ、裏切ろうとは思わない。羽部鏡一が正にそういう性格で、自分が宇宙で最も重要で完璧で優秀だと思い込んでいたからこそ、フジワラ製薬にも弐天逸流にも逆らおうとした。羽部は自分の利益を思い求めていたわけではなく、自分の価値を底上げするための箔を付けるために裏切りを繰り返そうとしていたが、それが果たされる前に遺産争いが激化し、挙げ句の果てに羽部は美野里にやられてしまった。彼は誰かを裏切れたのだろうか、裏切ったことで自分の価値を上げたのだろうか。
だが、そんなことを気にしている暇はない。一乗寺は弾丸を込めたマガジンをハードボーラーに差し、チェンバーをスライドさせて初弾を装填させた。愛用していた拳銃ではないが、馴染み深い重量がある方が使いやすいので、入手してもらった。それ以外のハンドガンや自動小銃、ナイフ、手榴弾などの一通りの装備を揃えてもらったので、それらを身に付けていった。体中に武装を纏うと、女性化して細くなった骨格と筋肉に重みが加わるが決して不快ではない。むしろ、自分の中で暴れる衝動を縛る枷が出来た、と喜ばしく思った。
関東近郊の市街地に、備前美野里が潜伏しているとの情報があった。負傷したことで一層血に飢えた美野里は、人間を喰らおうとするが、その度に偶然にしては出来すぎている事故が発生して妨げられてしまった。いくら怪人と言えども、何度も何度も車やロボットに激突されては無傷では済まない。道中で奪い取った生肉などを食した様子はあったが、食い散らかした後のすぐ傍に嘔吐した痕跡があったので、L型アミノ酸の食品を消化吸収出来ないのは相変わらずのようだった。ここまで弱り切っているのであれば常人が通常兵器で倒せるのでは、と思わないでもなかったが、政府側は美野里を倒すことよりも、一乗寺の能力を試したいようだった。
そうでもなければ、ここまで周到に手回ししたりはしない。一乗寺は人払いの済んだオフィスビルから、美野里が潜伏している民家を見下ろした。美野里がこの街に到達する前に、不発弾が見つかったとの名目で住民を排除しておいたので、民間人が美野里に捕食される心配はない。このビルを始めとした背の高い建物にはライフルを構えたスナイパーが配備され、地上には自衛隊の戦闘部隊が待機し、装甲車まで配置されている。民家を取り囲んでいる迷彩服姿の男達を双眼鏡越しに眺めてから、一乗寺はハードボーラーを無造作に回した。
「あそこの家の人だけを残したのって、囮にするため?」
「平たく言えばそういうことになる。御立派な家に住んでいるが、生活保護の不正受給と脱税と云々、っつーろくでもない家族が住んでいたから、政府も良心が痛まないのさ。大事の前の小事だ。これまでの前例を考慮して、あの家の周りの監視カメラを全部潰して、車も一台残らず撤去したのも政府だ。監視網の空白地帯を作ったんだ」
「それって、みっちゃんに邪魔されないためだよね。どう考えても、今まで備前美野里を邪魔してきたのはみっちゃんだし、てか、それ以外に考えられないし」
「そうだ。設楽道子にどうにかされたら、手間掛けた作戦が台無しになっちまうからな。あの電脳女は、アマラが手元にあろうがなかろうが関係なく出てこられるようだ。まるで幽霊だ」
「そっかー、みっちゃん、帰ってきたの。で、政府は何がしたいの?」
「ざっくりと言っちまえば、人外の性能テストだな」
小夜子は一乗寺の見張りを命じられているのか、一乗寺を連行してからというもの、常に目に付く場所にいた。社員が出払ったオフィスのデスクに腰掛けながら、小夜子は一乗寺の背中越しに街並みを見下ろす。
「今の今まで、うちの国は人外共に支えられていた。人間もどきもそうだが、サイボーグもシュユに頼っていたからこそ成立していたんだ。だが、それがどっちもダメになっちまったから、人口が目減りしたんだよ。ハルノネットと新免工業のサイボーグが全員御陀仏なんだ、各方面で大打撃だ。あいつらがいてくれたから、生身の人間じゃ厳しい原発の解体作業も進んでいたんだが、あいつらが死んじまったから作業は中断しちまったんだ。宇宙ステーションの建設とか月面基地の建設とかもだ。真っ当なサイボーグの社会的立場を保証する法律のせいでもあるが、連中はロボットには出来ないが生身じゃきつい、って率先して仕事を引き受けてくれていたからな。警官ロボットと同型のロボットを量産して後釜にするにしたって、一台一台の製造コストが馬鹿にならねぇし、ムジンと同レベルの演算能力が備わってねぇと、どれだけ機体性能が良くても出来の良い等身大フィギュア止まりなんだ。だから、今まではムリョウとムジンのネットワークを利用して警官ロボットの性能を底上げしていたってわけなのさ。だが、つばめが遺産争いに辟易して、ムリョウっつーかコジロウを機能停止しちまったら、そうもいかなくなっちまう」
「でもさ、政府はアマラを押収したんでしょ?」
「まーな。でも、あれはどうやっても扱えなかった。設楽道子の電脳体が離れたせいなのかもしれねぇが、つばめの生体組織をくっつけても、電気刺激を与えても、反応すらしなかった。アマラさえ使えれば、そこから引き摺り出した情報やら演算能力やらでコジロウネットワークなしでも警官ロボットを操れただろうし、他にも色んなことが可能だったんだが、アマラが動かないんじゃどうしようもねぇ。っつーことで、イチに目を付けたわけだ」
「だけど、俺は遺産の産物であって遺産を扱えるわけじゃないよ。馬鹿じゃないの?」
「あたしもそう思うんだが、他の連中はそうは思わないみてーでさ」
小夜子は天井に向けて煙を吐き出してから、フィルターを浅く噛んだ。
「で、つばめを飼い殺しにする計画もないわけじゃない。遺産を思い通りに動かしてもらう代わりに欲しいものを全部やる、って感じらしいが、それが上手くいくわけがねぇよ」
「そりゃそうだよ。つばめちゃん、そういうのが一番嫌いだもん」
「だろ? ガキの頃から頭捻って要領良くして媚び売って、ぬいぐるみの腹の中に現金を詰めていた性格だからな。旨い話に裏がある、ってことぐらい解っているさ。利益を得る分だけの弊害だって承知している。遺産を相続する時にはお得意の損得勘定は鈍ったみてぇだが、まあ、解らんでもない。コジロウに惚れるなっていう方が無理だ」
あたしだって一目惚れする、と小夜子ははにかんだ。
「だから、上の連中は本音を言えばつばめとコジロウを手に入れたいんだが、そうもいかないだろうってことでイチで手を打とうと考えたんだよ。んで、シュユの肉体を掻っ払って、フジワラ製薬の研究員を抱き込んでいじり回させて、行く行くは怪人未満人間以上の連中を量産しようって腹だ。その時に役立つのが、イチの体だ。人間と人外の違いを炙り出すためのサンプルとしては最適だし、ともすればイチの生体組織を中和剤にして人間を改造出来るかもしれないからな。スーとの子供でも出来ていたら、それを英才教育するつもりなんだろうさ」
「胸糞悪ぅ」
一乗寺が唇を尖らせると、小夜子は後頭部で手を組んで胸を反らした。
「ま、言ってしまえば家畜の品種改良みたいなもんだからな。イチは人間とそうでないもののハイブリットだからな、利用価値を見出さない方がおかしい。藤原伊織は人間の腹を借りて生まれた化け物だが、借りただけだから、人間の遺伝子はほとんど混じっていねぇし、この前のゴタゴタで吉岡りんねから分離した後は人間的な要素が一切合切消えちまったから、サンプルにもなりはしねぇ。当てになりそうだった羽部鏡一は備前美野里に殺されたし、元怪人共は綺麗さっぱり人間に戻ってやがるから、行き着く先はイチなんだよ。アソウギと怪人を扱うノウハウを熟知している藤原忠は、新免工業の神名円明が人間もどきにしてオモチャにしていたんだが、そいつも武蔵野のおっさんに殺されちまったから手に入れようがなくなっちまったし」
「皆、忙しかったんだねー。てか、人外の戦力って、そこまでして欲しいものなの?」
「あたしもそれはちょっと疑問なんだが、まー、あるとないとじゃ大違いだしな。人間じゃないとかなり無理が利くってのもあるが、人権が無視出来るのが最大のポイントだ。怪人が死のうが生きようが誰も気にしないし、ヤバい薬をどれだけ打たれても文句も言えないし、爆弾括り付けられてテロリストの本部に送り込まれても逆らえないし、実験って銘打てばどれだけ虐待しても裁判沙汰にもならないし、治安の悪い国で無茶な仕事をさせて死なせても、誰も何も悲しまないし、責任も取らないで済むんだ。これ以上ない人材だよ」
「さよさよは、それでいいと思うの?」
「まさか。あたしは嫌いだよ、反吐が出るぐらいに」
小夜子は苦々しげに吐き捨てた後、一乗寺を見やる。
「なんだったらトンズラしてもいいんだ。スーを確保してある車両のナンバーも教えてやる」
「そしたら、さよさよはどうなるの」
「間違いなく殺されちまうな。重要機密を知りまくりだし、イチとスーの関係も、遺産とそれを利用しようとしている奴らの腹積もりも解っているから、ただでは済まんさ。でも、気に入らない仕事をするぐらいなら、別に良いかなーって思わんでもないんだ」
「なんで?」
「あたしには顧みるものがないってだけだ。男もいないし、家族もいないし。だから、思い切って生きたいだけだ」
「ふーん。さよさよは、俺のこと、特別だと思う?」
小夜子の荒削りな優しさに、一乗寺はちょっと照れ臭さを感じつつも問うた。小夜子は少し考えた後、言った。
「いや、別に。そりゃー人格が根っこから破綻していて、価値観も倫理観も人間じゃなくて、生まれも育ちも普通とは言い難いのがイチだが、それはそれだろ。スーにとっては特別かもしれんが、あたしにとってはそうじゃない。あたしの特別はロボットだからな。愚問だ」
「だろうねぇ」
小夜子のぶっきらぼうな答えに、一乗寺は無性に安堵した。普通の一端を担えるのかと思うと体中の力が抜けてしまいそうになる。そうだ、そうなのだ。特別になんてなりたくない、人智を越えた存在になんてなりたくない、特別であればあるほど母親は殴ってくるからだ。ただでさえ脆弱だった弟は、弐天逸流とフジワラ製薬に散々弄ばれた末に喰い殺された。特別だったからだ。特別という言葉は呪縛であり、呪詛だ。そんなものは、いらない。
だから、誰かの特別になるのが怖い。特定の人間に好かれるのが怖い。怖いから、殺したくなる。それなのに、その恐怖に抗って殺せば殺すほど特別になってしまう。犯罪者は普通ではないからだ。だから、普通の代名詞とも言える公務員になれるならば、と政府に言われるがままに内閣情報調査室に入ったのだが、そこでも人間を殺せと言われる。真っ当に仕事をこなせば普通になれるのでは、と戦い続けたが、普通とは程遠かった。当たり前の日常が何なのかを根本的に知らないから、普通に至る道が解らない。それが解らないと、自分は未だに特別のままだ。そして、特別とは屑の代名詞だ。世間からはみ出したものを嘲笑する、侮蔑の言葉だ。
「男に戻っても、すーちゃん、俺のことを好きでいてくれるかな」
飢えた獣そのものである美野里と戦えば、無傷で帰ってこられるわけがない。重傷を負えば今度こそ命を落としてしまうか、再び性別が変わってしまう。一乗寺が懸念すると、小夜子は口籠もった。
「あー……まあ、大丈夫だろ、たぶん。あいつ、変だから」
「そっか、そうだよね」
一乗寺は笑いを噛み殺し、窓際から離れた。作戦開始時刻が近いからだ。
「とりあえず、帰ってこいよ。手足が落ちたら拾ってやる」
小夜子に見送られて、一乗寺は彼女に手を振り返してからオフィスを後にした。静まり返った廊下を歩きながら、政府から支給された携帯電話を取り出した。つばめ達に連絡が取れるようにとアドレスを一通り入れてもらったが、つばめには一乗寺の新しいアドレスを伝えていない。だから、メールを送ったところで不審がられるかもしれないが、メールを送らずにはいられなかった。戦闘前に何らかのメッセージを残すのは女々しいし、死亡フラグを立ててしまうことになるから、いつもなら敢えて避けていた。それなのに、なんでもいいから残したいと思ってしまったのは、死にに行くつもりだからだろう。
周防の特別でいたい。周防もろくでもない男だが、そうでもなければ一乗寺を好いたりはしないし、一乗寺も彼の素の部分に惹かれたりはしない。けれど、一乗寺の中で周防が特別になればなるほど、一乗寺は周防を殺したくてどうしようもなくなる。だから、周防から離れるべきだ。堕落しきった日々の甘ったるさを噛み締めながら、一乗寺はオフィスビルを出た。手慰みに回していたハードボーラーのグリップを握り締め、引き金に指を掛ける。
いつになく、戦意が湧いた。
同時刻。
座卓の隅に置いた携帯電話が鳴り、メールを受信したとの表示が現れた。つばめはそれが誰からのものなのかが気になったが、今、集中すべきはそちらではない。目の前にあるプリントだ。だが、ここしばらく勉強を疎かにしていたせいで、思うように問題が解けなかった。計算式や応用は以前に一乗寺から習っていたのだが、予習と復習をする時間がなくなってしまったので、習ったきりだった。だから、つばめは頭を抱えていた。
「もうちょっと、って感じなんですけどねー」
教えたら意味ないですし、とプリントの端の書き損じを見て言ったのは、座卓の向かい側に座る道子である。女性型アンドロイドに合うメイド服をどこからか調達して着ているので、最初に会った時と似たような格好になっている。コジロウはつばめの背後で正座していて、授業の時間を計るタイマー代わりにされている。時計で充分ではないのだろうかと思わないでもなかったが、コジロウの視線があると勉強に気が入るので、これはこれで有益だ。
勉強したいと言い出したのは他でもないつばめだ。だが、ここまで頭が鈍っているとは思わなかったので苦戦していた。意味もなく目を動かしてみても、周囲に答えのヒントなどない。あるのは、年季の入った仏像と祭壇と卒塔婆と位牌と大量の遺骨だ。それもそのはず、ここは寺坂の実家である浄法寺である。船島集落に戻ってきたはいいが、自宅に戻れそうになかったので、近所で暮らして見張っておこう、ということになった。船島集落に最も近いドライブインは吉岡文香の所有する店舗なので勝手に暮らすわけにもいかず、寺坂の実家である浄法寺に転がり込んだ。玄関の合い鍵は道子が在処を知っていたので、コジロウが玄関の引き戸を破壊せずに済んだ。
しかし、その後が大変だった。寺坂が長年好き勝手に暮らしていたので住居も寺も荒れていて、散らかり放題だったので、それらを一通り片付けて人間が暮らせる環境を整えるまで一週間は掛かってしまったのだ。その後も、道子が家事の合間に時間を見つけては片付けていて、つばめもコジロウも手伝っているが、境内にゴミの山が増える一方である。
「残り時間は十七分だ」
コジロウが冷淡に告げてきたので、つばめは言い返した。
「解っているってば。やっぱり、先生がいた方がやりやすいなぁ」
「一乗寺さんって、教えるのがそんなに御上手でしたっけ?」
道子に不思議がられ、つばめはプリントの端をシャープペンシルで小突きながら答えた。
「先生の授業は上手っていうか、早いの。だから、それが割と面白かったんだよ」
「それはそれで結構ですけど、そのやり方だと追いつけなくなったら置いてけぼりじゃないですか、それ」
「まー、そりゃそうなんだけど。先生が楽しそうだったから」
つばめは一乗寺の授業風景を思い出し、頬を緩めた。生徒が一人しかいないのに、一乗寺はいつでもやたらとテンションが高かった。隠れ蓑に過ぎない教師の仕事は退屈だの面倒だのと言っている割に、授業内容はみっちりと詰め込んできて、進行も早かった。寺坂と一緒でろくでもないことしかしないが、学校生活を全力で楽しんでいる姿は妙に微笑ましかった。今にして思えば、一乗寺はつばめを通して青春をやり直そうと思っていたのかもしれない。彼女の素性も真っ当ではないから、平凡な生活に憧れていたのでは、とも思う。
「先生、今頃、どこで何をしているのやら」
つばめの独り言に、道子は目を瞬かせた。
「調べましょうか? 政府が追い掛けているみたいですから、それを辿ればシュパッと見つけられますよ」
「いいよ、プライベートだから。それに、また会った時に話を聞けばいいだけのことだから。武蔵野さんも、寺坂さんも、先生も、お姉ちゃんも。本当にヤバそうな時だけ、教えてくれればいいから」
『僕もそれがいいと思うよ。で、問四なんだけど、そこは』
座卓の隅に置かれたタンブラーの中で水に浸かっている高守が、携帯電話をタイピングした。
「教えちゃダメですってば。そりゃ、じれったいのは解りますけど」
道子が高守を遮ると、高守はばつが悪そうに触手を曲げた。
『まあ、うん、そうだけど、退屈で』
「でしたら、今度、適当なロボットでも拾ってきましょうか? そうすれば、高守さんも家事が出来ますから」
道子の提案に、高守は渋った。
『遠慮しておくよ。さすがに僕でも、ロボットを動かすのは難しいんだよ。土もそんなに合うわけじゃないし』
「じゃあ、何がいいんですか」
『シリコンかなぁ。シュユの肉体に近い植物があれば一番いいんだけど、それがある場所は、しばらく前に道子さんが吹っ飛ばしちゃったから手に入れようがなくなっちゃったし』
「船島集落に入ればクテイさんの影響を受けた植物が山盛りにありますけど、今は物理的に入れませんからねぇ」
選り好みしますねぇ、と道子にぼやかれ、高守は細い触手をくねらせる。
『それは僕の責任じゃないよ。物質宇宙に適合していないニルヴァーニアンの責任だ』
「そろそろ買い出しに行かないと、冷蔵庫の中身が寂しくなっちゃいますね。近場のお店、開いていましたっけ?」
『一ヶ谷市内全域の避難勧告が命令に変わったから、さすがに難しいんじゃないかなぁ』
「そうなると、通販の配送もストップしちゃいますよね。保存が効くものは買い込んでありますけど、生鮮食品ばかりはそうもいきませんからねー」
『僕は水にD型アミノ酸のスポーツドリンクをちょっと垂らしてもらえばなんとかなるし、道子さんもバッテリーが充電出来る環境があれば大丈夫だし、コジロウ君は言わずもがなだけど、御主人様がね』
高守の触手の一本が向き、つばめはむっとした。
「普通の人間なんだから仕方ないじゃない。ナユタと一緒にコンガラは持ってきたけど、あれで複製した食べ物ってちっともおいしくないんだもん。それに、ちゃんとしたものを食べておかないと力が出ないじゃん」
「それは道理ですけど、改めて考えてみると人間って手間が掛かりますよね」
道子に苦笑され、つばめは拗ねる。
「生き物なんだもん、仕方ないじゃない。当たり前のことを責められても困るんだけど」
「いえいえ別に、そんなつもりでは」
道子は手を横に振り、はぐらかそうとした。脳を酷使したせいか、つばめは無性に甘いものが欲しくなった。
「なんか、甘ぁーいのが食べたいなぁー。カステラを牛乳に浸したのがいいなぁ」
「びんぼ……庶民的ですねー」
道子が言い淀むと、つばめはへらっとする。
「いいの、事実だから。それに、こうも変な生活が続くと、そういう普通さが懐かしくなってくるから」
「あー、解ります。番組改編期の特番ラッシュが終わって帯番組が復活すると、なんだか落ち着きますもんね」
つばめの言葉に道子が同意していると、廊下に面した障子戸が閉じた。何事かと皆が振り返ると、仏間の隅からコジロウの姿が消えていた。パトロールにでも出たのだろうか。だが、今は授業中だ。真面目を絵に描いて額縁を付けて床の間に飾ってあるかのようなコジロウの性分からすれば信じがたいが、非常事態が続いていることを考慮すれば理解出来なくもない。だが、警官ロボット型のタイマーがいなくなったからといって授業が中断するわけでもないので、つばめは再びプリントと向き合った。だが、いくら考えても考えても、答えが解らなかった。
こんな時、管理者権限なんて何の役にも立たない。
玄関のチャイムを押すと、家の中で電子音が響いた。
一度、二度、三度、とボタンを押し込むと、それと同じ回数のチャイムが鳴った。だが、誰も出てこない。美野里のリアクションが知りたかったが、リビングの掃き出し窓はカーテンに塞がれているので覗けなかった。家主は当の昔に逃げ出しているので、勝手に上がり込んでいる美野里が出迎えるのが道理なのだが、その気配すらない。それが少し癪に障ったが、一乗寺は門を開いて敷地内に入った。
玄関のドアを開けようとするが施錠されていたので、すかさず発砲して吹き飛ばした。鍵が砕けたことを確かめてからドアを押し開けると、すんなりと開いた。三和土の洒落たタイルには無惨に穴が空いて、鉛玉が埋まっている。本来の家主はインテリアに凝っているのだろう、靴箱の上にはアンティークの楕円形の鏡が掛かっている。一乗寺は楕円形でツタの絡まったデザインの鏡を覗き、いい加減な長さの前髪をちょっと整えてから、土足で上がった。
「おっじゃましまーす!」
一発、天井に向けて威嚇射撃をする。泥の足跡を残しながら、リビングに向かう。
「みーのりちゃーん、あーそびましょー!」
リビングに入るドアの影に隠れ、内部に発砲する。革張りのソファーとシャンデリアにも発砲し、艶のあるカバーに焦げた穴を作り、澄んだクリスタルガラスを砕く。熱を持ったハードボーラーを上げたまま、一乗寺は周囲を窺う。美野里がこの場にいる痕跡は、すぐに見つかった。リビングに面している対面型キッチンの奥では、冷蔵庫がドアを開け放たれ、冷気と中身を零していた。作り置きのおかずが入った器が床で砕け散っていて、いかにも家主が好みそうなチキンの香草焼きが落ちている。牛乳やアイスコーヒーの入ったポットも転がっていて、白と黒が混ざり合った浅い池が出来ていた。良く冷えた輸入物の黒ビールを見つけた一乗寺は、久しく酒を飲んでいなかったのでそれを拝借したいなぁと思ったが、戦闘中に一杯引っ掛けるわけにはいかないので渋々冷蔵庫を閉じた。
キッチンから出てバスルームに向かうが、こちらにも美野里の気配はない。大きな楕円形の浴槽と暖色系の配色のバスルームには、オーガニック素材のシャンプーや石鹸が並んでいて、品の良いハーブの香りが漂っていた。ドラム式洗濯機を開け、洗濯物をひっくり返したが、こちらにも異常はない。和室の客間に納戸を探したが、ここも美野里の姿はなかった。ならば、二階にいると見て間違いない。
螺旋階段を意識して作られた階段を昇り、二階に至ると、フローリングの床に鋭い爪痕が付いていた。案の定だ。両親の寝室はベッドが乱れたままで、着の身着のまま逃げ出したのが解る。余程慌てていたのだろう、携帯電話や財布がサイドボードに置かれたままだ。二階の廊下の窓が割られ、細切れになったレースカーテンが揺れている。クローゼットを開けてみる。異常なし。ドアの裏側を見てみる。異常なし。ベッドのマットレスを撃ってみる。異常なし。続いて書斎に入るが、こちらも異常なし。爪痕もない。ならば、行く当てはただ一つだ。
子供部屋のドアは、力任せに割られていた。破片が床に散乱し、中が覗いている。ドアノブを慎重に回して開けてみると、鉄錆の匂いが押し寄せてきた。ウサギ柄の可愛らしい壁紙、花柄のカーテン、ピンク色の掛け布団に白いベッド、小学校の制服にぬいぐるみの山、子供向けのファッション雑誌、そして部屋の主。
「わお」
少女の死体を見、一乗寺は低く呟いた。年端もいかない少女の死体はフリルの付いたパジャマ姿で、恐怖と痛みで可愛らしい顔が歪んでいる。抵抗されないように顔を押さえ付けたのだろう、額と首筋に深い切り傷が付いている。両手足はほぼ無傷だったが、肉の薄い胴体は切り裂かれて中身が失われていた。野生動物と同じく、柔らかい部分を選んで食べたのだ。キャラクターもののラグに染み込んだ血は乾き切っておらず、臭気もまだ新しい。
「美野里ちゃん?」
血の雫が点々と連なり、向かっていく、クローゼットに銃口を向ける。
「遊びましょ!」
だんだんだんだんっ、と残弾を全て撃ち込み、素早くマガジンを交換する。クローゼットの薄いドアに複数の焦げ穴が空き、銃声の余韻と硝煙が晴れると異音が聞こえた。硬い外骨格を擦り合わせる音だ。クローゼットのドアが内側から押し開かれると、それは現れた。少女の返り血と肉片を顎に貼り付けた人型昆虫、備前美野里だ。
「いーけないんだ、いけないんだっ! せーんせいは知っているーっ!」
間髪入れずに撃つ、撃つ、撃つ。美野里の折れ曲がった触角が弾け、複眼が抉れ、折れた顎が割れる。次々に飛び出した薬莢を靴底で追いやってから、一乗寺はふらついている美野里と対峙した。美野里は頭部の痛みに怯み、呻き声を漏らして上両足で顔を覆う。だが、嗚咽ではなく、明らかな笑い声だった。
「ふは、は、はぁ、あ、はっ」
厳つい肩をぎしぎしと軋ませながら、美野里は己の頭部に爪を立てる。
「マスターはどこ?」
「知らないよ、そんなもん。てか、俺があんな奴のことを知っていると思うの?」
一乗寺が素っ気なく返すと、美野里は折れ曲がりかけた羽を振るわせる。びいいいんっ、と空気が鳴る。
「マスターは私を必要としてくれる、マスターは私の本当の価値を解ってくれる! マスターは特別なんだ!」
「あー、そうか、よっ!」
大きく腰を捻り、美野里の頭部に回し蹴りを加える。薙ぎ払われて床に転げた美野里は、ぎいぃっ、と昆虫じみた悲鳴を漏らした。美野里の頭部を踏んで逸らさせてから、首と胴体の繋ぎ目の膜に銃口を当てる。
「特別ってのはね、俺が殺したくなる相手のことなんだよ。あんな奴、本当はどうでもいい。よっちゃんの体を奪っていったことも、本当はどうでもいい。だって、よっちゃんだから心配するだけ無駄なんだもん」
だぁん、とゼロ距離で発砲すると美野里の頭部が上下し、穴が空き、生温い体液が噴出する。それを浴びた顔を乱暴に拭ってから、一乗寺はナイフを出して美野里の首に刺し、肩と胴体の繋ぎ目に刺し、中両足の根本に刺し、下両足の根本にも刺した。激痛で痙攣する美野里を押さえ付け、顎の間に拳銃をねじ込んだ。
「あのさぁ、みのりん」
美野里に食い散らかされた少女を一瞥してから、一乗寺は口角を歪める。
「人間捨ててまで手に入ったものってある? ないよね? 俺だってないよ、何もないんだよ。人間の振りをしていたけど、人間じゃないから、手に入れたつもりでもなくなっちゃうんだよ。だってさ、この世界は人間社会であって人外社会じゃないんだよ? 馬鹿だよね? 人間の振りをして生きていった方が、余程賢いと思うけど」
「げぐっ」
ごぎり、と美野里は拳銃を噛み砕こうとしたので、一乗寺はもう一丁の拳銃を抜いて美野里の顎に突っ込む。
「大体、本当の価値って何? 必要としてくれるのが一番偉いんだったら、この世で最も偉いのは空気とか水とか穀物とかだよ。みのりんってさ、自己評価が低すぎてウザがられるタイプだよね。実際、死ぬほどウザいんだけど。ウザすぎてゲロ吐きそうなレベルでウザい。誰かに褒められるまで卑屈になるの? 卑屈になっていたら、誰かが必ず褒めて認めてくれるの? 馬鹿すぎて頭痛いんだけど」
がちがちがちっ、と美野里は必死に顎を動かしてきたので、一乗寺は喉の奥に二つの銃口を抉り込ませる。
「だから俺はね、自分最高って感じで生きてんだよ!」
ぐりっと二つの銃口を上向けさせて、美野里の脳に狙いを定める。両手の人差し指が引き金を絞り切ろうとした、正にその時、何者かが一乗寺の体を引き剥がした。抵抗する間もなく壁に叩き付けられ、拳銃も両手から落ちる。咳き込みながら顔を上げると、奇怪なシルエットが窓から滑り込んできた。複数の触手がうねり、絡まる。
寺坂善太郎だった。厳密に言えば、寺坂善太郎とは別人の顔なのだが、寺坂と同じ触手を備えている男だった。一乗寺の知る限りでは、人間大の大きさで触手を繰り出す男は寺坂しかいない。だから、ハルノネットが一般向けに発売している男性型サイボーグと同じ、日本人の平均を割り出してシリコンシートをプレスして作り上げられた、特徴らしい特徴が一切ない男であろうとも、寺坂だと判断した。一乗寺は別の武器を取り出そうとすぐに手を動かしたが、寺坂が素早く伸ばした触手に手足を縛られて吊り上げられ、天井に押し付けられた。
「これってヒロインの仕事じゃないの? 俺、そういうんじゃなーい」
天井の隅に押しやられた一乗寺が文句を言うが、寺坂は反応しなかった。いつもの鋭角なサングラスの奥の目元はいつになく険しく、顔付きも強張っている。だが、寺坂の真意が何であろうと関係ない。仕事の邪魔だ。
「いよ、っとぉ!」
力一杯天井を蹴って前のめりになった一乗寺は、触手の端が天井から離れた瞬間を見逃さずに身を捻り、触手に捻りを加えて絞った。それが元に戻ろうとする筋力を利用してカーテンレールに突っ込み、背中からずり下がった際に手首を拘束している触手をカーテンレールに引っ掛けて緩める。その瞬間に右手を引き抜くと、小型の拳銃をポケットから抜いて発砲する。だが、寺坂の触手が弾丸を阻み、主人の代わりに肉片が吹き飛んだ。
「ちぇー」
一乗寺が残念がると、触手の本数が数倍に増えた。再び壁に力一杯押し付けられ、両手足を戒める筋力も先程の何倍もの力になり、両手足の骨が折られかねないほどの激痛が走る。それでも首を絞めに来ないのは、殺す気がないからか、それとも美野里に殺させたいのか。どちらにせよ、これは寺坂の形をした別物だ。
寺坂は一乗寺を拘束している傍ら、美野里の関節の至るところに刺されたナイフを一本一本引き抜いてやった。噴出する体液の量も増えて、美野里は不規則に痙攣していたが、ぎこちなく起き上がって寺坂に縋った。マスター、マスター、と譫言のように漏らしながら、美野里は震える爪で男の触手で出来た足にしがみつく。その様の女々しさと主体性のなさに、一乗寺は一層の苛立ちを覚えた。だが、これでは何も出来ない。
寺坂との下らない日々が脳裏を過ぎり、一乗寺は場違いな感傷に駆られた。周防も好きだが、寺坂はまた別のベクトルで好きな相手だ。幼馴染みのような、悪友のような、共闘関係のような、敵対関係のような、曖昧で微妙な均衡の元に成り立っていた関係だった。美野里の一挙手一投足に腹が立つのは、美野里が寺坂を独占するのが許せないと、心のどこかで思っているからだろう。今更ながら、寺坂とは対等な友人になれていたのだと気付く。
だが、屑は屑だ。寺坂はどこまでいっても屑であり、褒められる要素は何一つない。佐々木長光はそれを遙かに上回るレベルでの屑であり、更にその長光に平伏している美野里もまた屑だ。そして、一乗寺もまた屑だ。屑でしかないから、こんなことでしか自分を生かせない。
「マスター、ますたぁ、ますたぁあああっ、ますたぁあああああっ!」
美野里はその言葉だけを繰り返し、寺坂の足から腰へと這い上がっていく。寺坂はそれを振り払おうとはせず、一乗寺だけを睨んでいた。いつになく表情が乏しい寺坂は勢い良く触手を振るったが、一乗寺に当たらず、頭上を掠めただけだった。直後、体の芯を奪われたかのような脱力感に襲われたが、一乗寺は腹に力を込める。
「いい加減にしろよ、よっちゃあん!」
美野里が寺坂の特別であるのが面白くない。寺坂が美野里を特別扱いする意味が解らない。
「その女のどこがいいんだ! よっちゃんのことなんか全然見ないし、自分勝手だし、プライドが高いくせに卑屈で卑怯で底なしの馬鹿なんだ! なのにさ、なのにさぁっ、なんでそいつばっかり構うんだよぉおおおおっ!」
それが、どうしようもなく。
「ムカつくんだよぉ……」
心臓が潰され、好意と殺意の中間の感情が噴き上がった。粘っこく、重苦しく、生臭いものが、脊髄を昇って脳を煮詰めてくる。シュユとクテイのどちらも喰いきれないほどの熱量を持つ感情が初めて精神に至り、一乗寺は嗚咽を漏らした。面白くない、心底面白くない、けれど寺坂を殺したくない。周防も殺したくない。
不意に触手の拘束が緩み、壁伝いに滑り落ちて床に座り込んだが、一乗寺は立ち上がれなかった。こんな感覚は生まれて初めてだ、あしらい方が解らない、心が重たすぎて体の動きが鈍っている。政府に利用し尽くされるのは嫌だが、今、ここで美野里を殺さなければ自分の価値がなくなってしまう。価値がなくなれば、一乗寺は周防の傍にはいられなくなるかもしれない。屑は屑なりに、身の置き場を見つけていたつもりでいたのに。
「辛いか」
触手の男は美野里を従えたまま、一乗寺へと近付いてきた。一乗寺は反射的に銃口を上げたが、震える奥歯を噛み締めすぎて、その震えが腕まで伝わって狙いが定まらなかった。触手に銃身をそっと押さえられて床に銃口を向けられたが、振り払えなかった。引きつった声を漏らしながら滂沱する一乗寺は、頷くことしか出来ず、触手の男が美野里を連れて脱しても身動き出来なかった。手足に力が入らず、溢れ出る涙を拭えなかった。
彼は一乗寺に何をしたのだろう。人間と化け物のハイブリットで、好意と殺意の境界が非常に狭く、殺人に躊躇いを覚えず、殺すことが究極の愛情表現だと信じて疑わなかったはずなのに、彼を殺せなかったのがとても嬉しい。周防を殺せなかったこともとても嬉しいが、彼の口に銃口を突っ込んだ罪悪感が拭えない。
もう、戦うのは嫌だ。怖い、辛い、悲しい、苦しい、痛い、寂しい、空しい。一乗寺は美野里に喰われた少女の死体にタオルケットを掛けてやってから、ふらつきながら子供部屋を後にした。泣きじゃくりながら玄関から出ると、武装した自衛官達に混じって戦闘服姿の周防が待っていた。辛い気持ちを知ってもらいたくて、苦しさを和らげたくて、一乗寺は周防に縋り付こうとした。だが、彼の突き出した拳銃に額を抉られ、阻まれた。
殺される理由は、考えるまでもない。他人を殺すことを厭わないことこそが美徳だった者が、今更ながら罪悪感に苛まれて泣いているのだから。だから、一乗寺にはもう利用価値はない。周防にとっても、きっと無価値だ。屑以下のゴミだ。一乗寺は苦しみの上に悲しみが上乗せされ、抗う余力すら削がれて目を閉じた。
周防に存分に愛された。だから、死ぬのは惜しくない。
苦痛と苦悩の果てに書いた答えは、大半が間違っていた。
道子の手による採点の終わったプリントと向かい合い、つばめは泣きたくなっていた。あまりにもひどすぎて、自分で自分が情けなくなってくる。これでは授業内容を進められない。二学期初期まで戻って徹底的に復習しなければ、今後に響いてしまう。これまでも成績優秀とは言い難い人生を送ってきたが、ここまでひどい点数は初めてだった。つばめはぐっと唇を噛んでから、忌々しいプリントを裏返した。
向かい側に座っている道子はちょっとばつが悪そうだったが、一緒に頑張りましょうね、と励ましてくれた。つばめは大きく頷いてから、一度深呼吸した。気を抜くと涙が出てきそうになるので、気晴らしに外に出ることにした。寺の中では比較的片付いているので教室代わりにしている本堂を後にし、正面に向かい、玄関でスニーカーを履いた。すると、馴染み深いスキール音と共に白と黒の機体が滑り込んできた。
「あれ、コジロウ」
遠くまで移動したのか、関節部からの排気熱が多く、薄い陽炎が生まれていた。コジロウは速度を緩めて境内に入ってくると、正面玄関前で停止してタイヤを脛に収納した。廃棄熱を多量に含んだ蒸気を排出してから、コジロウはつばめに歩み寄ってきた。
「帰還した」
「うん、おかえり。でも、どこに行っていたの? パトロール?」
「物資の調達だ」
「お使いなんて、頼んだ覚えはないんだけど」
「本官の判断によるものだ」
そう言って、コジロウはつばめにレジ袋を差し出してきた。
「嗜好品の欲求が満たされなければ、精神状態に著しい影響が現れる。よって、今後の行動のためにも、その欲求を満たしておくべきだと判断した」
「あ、うん」
つばめはきょとんとしながらもレジ袋を受け取り、中身を確かめた。紙パックの牛乳とカステラだった。
「……え?」
「つばめが所望していた食料品ではなかったのか」
「いや、違う違う、違わないけど! でも、お金はどうやったの、どこで買ってきたの?」
つばめがコジロウに詰め寄ると、コジロウは本堂を指した。
「前回同様、設楽女史の銀行口座から拝借した」
「あー、そういえば……」
この寺に来た日の夜、気が抜けたのか、つばめは月経が始まってしまったのである。その時に手持ちの生理用品がなかったので、恥を忍んでコジロウに買ってきてくれるように頼んだのだ。その時は道子の移動手段がなかったから、ということもある。その時に道子が、当面の生活費にしてくれ、と言って銀行口座の番号とパスワードをつばめとコジロウに教えてくれた。その現金を使って買ってきてくれたようだが、一体どこの店まで行ったのだろう。
訝りながらレシートを出してみると、一ヶ谷市に隣接した町の街道沿いにあるコンビニの住所が印刷されていた。一ヶ谷市内の店舗は、政府が一ヶ谷市内全域に避難勧告を公布したので客どころか店員もいなくなっているから、わざわざ市外まで買いに行ってくれたらしい。
「ありがとう、コジロウ。一緒に食べられないのが残念だなぁ」
つばめはコジロウに微笑みかけ、レジ袋を掲げた。
「カステラはパンではない。カステラとパンは形状こそ似ているが、材料と製造方法が根本的に異なる」
コジロウの返答に、つばめは一瞬面食らった。が、すぐに思い出した。うんと小さい頃、つばめはカステラとパンを混同して覚えていたことがある。だから、カステラが食べたいと言ったつもりでパンを食べたいと言ったら、おやつに出てきたのが普通のパンだったので泣き喚いてしまった。語彙が貧弱すぎて、自分の思い違いを正すための語彙すら持ち合わせていなかったせいだ。備前夫妻を大いに困らせてしまったことも思い出し、つばめは照れた。
「解っているって」
つばめは照れ隠しにはにかんで、コジロウの手を取った。夕方に差し掛かってきているから、夜気を含み始めた外気に曝されていた彼の手は冷え切っていた。その手を軽く引っ張ると、コジロウはつばめの意図を察してくれたのか、つばめを持ち上げて肩に載せてくれた。座り心地は今一つだが、視界がぐっと高くなるので見通しが利くので彼の肩に載るのは大好きだ。そこから見える景色が素晴らしければ、今以上に好きになれるのだが。
浄法寺の境内から見下ろした船島集落は、在りし日の姿を失っていた。背の高い針葉樹に覆われた土地には、恐ろしく巨大な結晶体が身を沈めていたからだ。西日を帯びて煌めく様は美しかったが、異様だった。シュユが致命傷を負ったことで安定を欠いたフカセツテンは一瞬にして移動し、船島集落に戻ってきたのだが、それきり何の動きも見せなかった。つばめが近付いて触ってみても、語り掛けてみても、他の遺産を通じて感じ合おうとしても、無駄だった。シュユの肉体は政府によって保管されているが、厳密にはつばめの所有物ではないので、シュユは未だに引き渡されていない。シュユを目覚めさせられれば、フカセツテンを操作出来るかもしれないし、事態の活路が見出せるのだろうが、このままではそれさえも不可能だ。何度も政府側に掛け合ったが返答は鈍く、シュユを渡す気は更々ないようだった。かといって、シュユを強奪して事を荒立ててしまっては、ごく普通の人間に生まれ変わった吉岡りんねと、ただの人型昆虫となった藤原伊織に何かしらの影響が及ぶだろう。
だから、身動きが取れない。気落ちしていても何も始まらないから、勉強したり、遊んだり、家事に勤しんだりして日常の続きを再開している。長らく住んでいた土地を追いやられた一ヶ谷市民達からの非難も聞こえてくるが、それを気にしていられるほどの余裕はなかった。
「何があっても、傍にいてね」
つばめはコジロウに寄り掛かると、コジロウはつばめの背を大きく硬い手で支えた。
「それが本官の任務だ」
皆、遺産とは関わらずに生きていければいいのに。けれど、それは浅はかな理想でしかない。それぞれの用事が終わって、皆が再び船島集落に来てくれたとしても、どんな行動を取るのが正しいのだろうか。シュユをどうにかしてクテイもどうにかしたら、遺産をどうするべきなのだろうか。コジロウとは別れたくないが、他の遺産を処分してもコジロウだけを手元に置いておくのは変だ。コジロウだけを優遇したら、他の遺産が哀れだ。だが、遺産を人間の手が届く場所に止めておく方が余程危険だ。これ以上の悲劇を防ぐためにも、決断を下さなければ。
でも、まだその時ではない。だから、今しばらくは一緒にいられる。つばめはコジロウを小突いて地面に下りると、道子と高守の姿がないことを確かめてから、コジロウの胸部装甲に寄り掛かった。同じものを見つけて買い直し、また前と同じ位置に貼ってあげた片翼のステッカーを手でなぞり、決意を新たにした。
最後の最後まで、踏ん張ってみせる。