机上のクローン
星の少ない夜空を目にし、少し気が緩んだ。
真っ白な霧が詰まっていた閉鎖空間に閉じ込められていた反動だろう、見通しが利く視界と広々とした空間が清々しくてたまらない。人間と物資が大量に押し込められている都会であろうとも、フカセツテンの内部の限られた世界に比べれば雲泥の差だ。武蔵野は縫合されたばかりの腹部を気にしつつ、ベランダから室内に戻った。
状況を理解するだけで精一杯だ。何らかの理由で消失したフカセツテンから、いきなり東京湾上に放り出された武蔵野は死に物狂いで崩れた建物から脱し、鬼無も海面に引っ張り出したのだが、フカセツテンの異変と同時に鬼無は動かなくなってしまった。バッテリー切れでも起こしたのか、それとも傷口から海水が入り込んで回路が故障したのか、と危惧していると、漂流物を掻き分けながら進んできたタグボートが素早く武蔵野と鬼無を回収してくれ、少し離れた場所に放り出されていた一乗寺と周防らしき人影は別の船に回収されていた。だが、寺坂らしき人影が回収された様子はなかった。彼は佐々木長光に操られているままだと思われるので、フカセツテンに異変が起きて間もなく移動したのかもしれない。どうやってどこに行ったのかは想像も付かないが、見つからないと言うことはそういうことだろう。前線を少し離れている間に、随分と昏迷してしまった。
「まあ、あいつらが無事ならそれでいいんだが」
武蔵野は新免工業が支給してくれた新品の携帯電話を操作して自分のアカウントにログインし、溜まりに溜まっていたメールや着信を確認した。佐々木つばめと設楽道子のものが多く、メールを開いてみると、ひとまず船島集落に帰るから気が向いたらこっちに来てね、と悠長な文面で書いてあった。
「気が向いたら、か」
今、やるべきことを片付けたら自分の動向について熟考しなければ。武蔵野は携帯電話から浮かび上がっているホログラフィーモニターを閉じてから、床に横たわったままの鬼無克二を見下ろした。海水と漂流物による汚れと傷が銀色の積層装甲を曇らせていて、鏡面加工された表情の出ない顔も同様だった。
考えてみたら、自分の部屋に誰かを招いたのはこれが初めてかもしれない。海保かと思いきや吉岡グループの海運会社の船に拾い上げられた後、武蔵野は早々に新免工業の人間に引き合わされ、新免工業に引き渡され、気付いた頃には車に乗せられて自宅マンションへと連れ帰られた。遺産争いに加わるために帰国した際に短期間だけ住んでいたマンションの一室で、武蔵野もその存在を半ば忘れかけていたような部屋だったが、新免工業が御丁寧に手を回していたのだろう。やけに小綺麗になっていた。それからしばらくすると、今度は医者がやってきてくれて、武蔵野の腹部の裂傷を縫合してくれただけでなく、他の傷の具合も診てくれた。抜糸するまで無理はするなと言われたが、それこそ無理な相談である。やるべきことが、多々あるのだから。
「お前はまた死んだんだなぁ、鬼無」
武蔵野は窓を閉めてから、同僚だった男を小突いた。だが、反応は返ってこなかった。武蔵野を診察して治療してくれた医者はサイボーグにも通じていたらしく、鬼無の様子も確かめてくれたが、医者はブレインケースの脳波をモニタリングしているモニターを見た途端に首を横に振った。鬼無は脳死してしまったのか、と武蔵野が問うと、医者は言った。脳そのものが存在しなくなっている、だから彼は空っぽなんだ、と。
その原因は察しが付いた。鬼無は弐天逸流が作った人間もどきだ、その大元であるシュユに異変が起きた影響で鬼無の脳が形を保てなくなったのだろう。フカセツテンが消えたのも、恐らくはそういう理屈だろう。鬼無に人生のなんたるかを教えてやれなかったのは心残りだが、鬼無自身はどうなのだろうか。武蔵野如きに人生訓を説かれるのはやっぱり嫌だ、とでも思ってくれていたら、それはそれで気が楽だ。
新免工業の人間が置いていってくれた保存食を胃に詰め込んで空腹を紛らわし、医者が処方してくれた抗生物質と炎症止めを飲んだが、疲労による眠気を招きかねない鎮痛剤を飲むか否かを考えていると、武蔵野の携帯電話が鳴った。着信名は、神名円明だった。武蔵野は少し迷ったが、電話を受けた。
『お久し振りです、お疲れ様でした。武蔵野君』
かつての上司の声色を聞き、武蔵野は鎮痛剤の入ったシートをテーブルに戻した。
「どうも。まあ、色々とありましたよ。それで、鬼無のことなんですが」
『死にましたでしょう?』
「ええ、まあ。あいつのバイタルを本社でモニタリングしていたんですか?」
やけに薄い反応だ。武蔵野が鬼無の抜け殻を一瞥すると、電話口の向こうで神名が声色を和らげた。
『そんなところです。今夜の御予定はありませんでしょう? よろしければ、新宿支社にいらして下さいませんか』
「今からですか?」
『ええ。出来れば、それがよろしいでしょう』
「二度とお会いすることはないと思っていたんですがね。俺を呼び付ける理由は、つばめの状況を探りたいからだけではないでしょう。ろくでもない誘いでしたら、丁重にお断りしますが。俺はもう、社長の部下じゃないんでね」
武蔵野は洗い流したばかりの短髪を掻き、夜気に湯の熱を逃がした。
『克二君のことは、どうかお気になさらずに。あれは人間ではないのですから、気に病むようなものではありません。不肖の息子は充分に役割を努めましたので、休ませてさしあげるつもりですしね。克二君のボディも、武蔵野君のマンションに誰かを寄越して回収いたしますよ。サイボーグと言えど、遺体があるのは気分が悪いでしょう』
「人間ではなかったとしても、ちゃんと供養してやった方がいいと思いますがね。その方が、鬼無も浮かばれる」
『武蔵野君らしい御言葉ですねぇ。まあ、考えておきましょう。本題に入りましょう、武蔵野君に会って頂きたい方がいるのです。お会いしなければ、後悔いたしますよ?』
「そいつは何ですか」
『それは御自身でお確かめ下さい』
「では、一時間後に」
『お待ちしております、武蔵野君』
そう言い残し、神名は電話を切った。武蔵野はその言い草が癪に障り、太い眉根を曲げた。確かに鬼無は一度死して人間もどきにされてしまったが、だからといってその命は無限ではない。同型のサイボーグに別人の脳を宿して鬼無だと言い張るのだろうか。武蔵野の脳裏に嫌な想像ばかりが駆け巡ったが、実物を目にして見ないことには何も始まらない。神名がつばめを陥れるために武蔵野を再び手中に収めようとしているのかもしれないが、だとすれば叩き潰してやるまでだ。この部屋の存在は忘れていたが、武器の在処までは忘れていない。
数えるほどしか横にならなかったベッドのマットレスの下、衣服といえば戦闘服しか下がっていないクローゼットの奥、調味料も食器も入っていない食器棚の裏側。少し埃っぽい戦闘服を着込みながら、至るところに隠しておいた拳銃や弾丸を取り出しては装備していき、ジャングルブーツの両の脛にナイフを仕込んだ。武装を隠すために裾の長い黒のトレンチコートを羽織り、携帯電話を戦闘服の内ポケットに入れた。
クローゼットの引き出しを開けると、いくつ壊れても替えが利くように、と複数買いしたサングラスが並んでいた。それを一つ取り出して掛けようとしたが、躊躇った。サングラスを掛けるようになった動機は、右目の義眼と古傷を隠すためだった。傷を隠しておけば、ひばりが負い目を感じずに済むのではと考慮したからである。その効果の程は定かではないが、ひばりは武蔵野に妙な気を遣ってこなかった。つばめの安否が気掛かりだったから、武蔵野に気を回すだけの余裕がなかっただけなのかもしれないが。
「思い上がってんじゃねぇよ」
ひばりの心を占めていたのは、長孝とつばめだけだ。武蔵野が割り込む隙間は、最初から存在していない。それなのに、自分勝手な思い込みで次から次へとろくでもないことをしでかした。最たる愚行が、新免工業の大型客船での戦闘だ。あの時、武蔵野が少しでも冷静になっていれば、つばめを苦しませずに済んだ。感情のままに動いた結果、つばめに無用な苦しみを与えてナユタを暴走させてしまった。個人的な感情を抑えるのは、戦闘員として初歩の初歩ではないか。それなのに、青臭い初恋をいつまでも引き摺っている。
我ながら、笑えてくるほどの愚かさだ。だから、サングラスを掛ける必要はない。素顔と傷を隠すのは、惚れた女が決して向けてくれない目線を気にしている証拠だからだ。武蔵野はクローゼットの引き出しを閉じ、扉も閉じると、コートの襟を立てた。呼吸を整えてから、全身を縛る武器の重さを感じて口角を緩めた。
懐かしささえある、戦闘の重みだった。
電車を乗り継いで二十数分、更に徒歩で五分。
武蔵野が新免工業の新宿支社に到着した頃合いは退社時間を過ぎており、他のオフィスビルほとんど窓明かりが消えていた。正面玄関は施錠されてシャッターも閉められている。ビジネス街を行き交う人々は疲弊していて、皆、虚ろな顔をして駅へと向かっていく。あの分では、彼らは翌日も早朝から出勤しなければならないのだろう。
正面玄関から入れないのであれば、どこから入るべきか。どうせ、神名には居所を感付かれているだろうから、妙な行動を取ると警戒される。さてどうしたものかと武蔵野が思案していると、携帯電話が鳴った。神名からの着信で、裏口を開けておきましたのでそちらからどうぞ、警報装置も切ってありますので、と言われた。言われた通りに敷地に入ってみると無反応で、監視カメラは武蔵野に照準を合わせてきたが、それだけだった。裏口に回ってドアのノブを回すとすんなりと開き、緑色の非常灯が付いているだけの廊下が伸びていた。
神名は最上階の支社長室にいるのだろう、とエレベーターホールに行くと、地下階に繋がるエレベーターが到着してドアを開いた。武蔵野が来るタイミングを見計い、操作していたらしい。底冷えする闇に支配された社内で煌々と光る箱に乗り込むと、淀みなく下っていった。地下一階、地下二階、と進んでいき、地下二階を過ぎて更に下っていった。武蔵野の記憶では新宿支社の地下階は二階だけであり、駐車場のある地下二階で止まるとばかり思っていたので戸惑ったが、顔には出さないように努めた。
それから数分間、エレベーターは下り続けた。箱が最下階に到着してドアが開くと、自動ドアが待ち受けていた。その奥では微粒子の水蒸気が噴出されていて、人工の日差しが四方から注がれ、植物を潤していた。こんな場所に温室を作っていたのか、と武蔵野は意外に思いながら進むと、自動ドアが開いた。どうせ後戻りは出来ないのだ。腹を括った武蔵野は温室の中に入り、鬱蒼と茂った植物の群れを見回し、肝を潰した。
「こいつは、まさか!?」
肉厚で幅広の葉を広げる植物は、特徴的な赤黒く太いツタを伸ばして天井や床に貼り付いていた。花弁と果実もまた人肉を思わせる赤黒さで、完熟した果実は大人の腕で一抱えもある大きさだった。息が詰まりそうな、甘く濃い匂いが立ち込めているが、不快感しか覚えなかった。熟しすぎたのか爆ぜる寸前の果実の皮が破れ、とろけた果肉を滴らせており、その中から種子が覗いていた。それは、人間の胎児だった。
弐天逸流が育てていた、人間もどきだ。武蔵野は激しい動悸を感じ、心身を落ち着かせるために脇のホルスターに差した拳銃を握り締めた。フカセツテンの外側に美野里らが出ていった後、弐天逸流の本部の中を探索した際に惨殺された人間もどきをいくつも見つけた。彼らはマンドラゴラのように生まれてくるらしく、ヘソの緒の代わりに根が付いていて、本部の周囲に広がる畑に生えている作物を引き抜くと、未成熟の胎児が泥まみれになって出てきた。気が狂いそうな光景だったが、武蔵野は意地で堪えて鬼無の元に戻った。弐天逸流の本部が消えたことで、人間もどきが栽培出来る環境が失われたのだと内心で安堵していたのだが、そうではなかったらしい。
どれでもいいから殺さなければ、生と死の狭間が不確かになる。武蔵野はべとつく空気を吸って深呼吸してから、拳銃を引き抜こうとしたが、背後に足音が近付いてきたので、素早く振り返って後退して距離を取った。
「……あ、あぁ?」
思わず、我が目を疑った。それでも、武蔵野はベルトの裏からナイフを抜こうと左手を背中に回していたが、相手の笑顔に毒気を抜かれてしまって手を緩めた。
「会いたかったぁ、武蔵野さん!」
佐々木ひばりだった。あの日、あの時、暴走したナユタに身を投じた時と同じ年齢のひばりが、武蔵野を見上げてにこにこしている。これは人間もどきだ。考えるまでもない。ひばりは死んだのだから。
「私に会えて嬉しい、わけないか。でも、私は嬉しいよ。だって、ずうっと待っていたから」
笑顔を保ったまま、ひばりは近付いてくる。武蔵野はかすかに震える手で柄を握り締め、ぱちんと鍔を切る。
「寄るな! お前はひばりじゃない!」
「わあ、嬉しい。やっと、私のことを名前で呼んでくれたね!」
子供っぽくはしゃいで、ひばりは両手を重ねる。武蔵野はぐらつく自制心を押し止めようとするが、無意識のうちにつばめを通じて求めていたひばりが目の前にいる事実に、心根が傾きそうになった。それではダメだと思おうとするのに、手が震えてナイフが抜けない。ひばりの偽物を切り裂いて殺せばいいものを、刃を振るえない。
わあい、と感嘆しながら、ひばりは躊躇いもなく武蔵野に体を預けてきた。分厚いベストを通じても彼女の柔らかさは感じ取れ、クセの強い髪が広がると、年頃の女性の匂いが漂った。彼女が死する寸前にただ一度だけ触れた、二の腕が武蔵野の胴体を挟み、細い手が背中に回される。籠の中の鳥だったひばりが逃げ出した夜、夫である佐々木長孝に抱き締められていた時と同じように、武蔵野を求めている。もう、耐えきれなかった。
右手で引き抜いた拳銃をひばりの側頭部に突き付け、撃つ、撃つ、撃つ。傷口のすぐ傍だったので衝撃波がもろに響いてきたが、幸い、縫合は緩まなかったようだ。手応えは生身の人間となんら変わらなかったが、貫通した弾丸がぶちまけたものは脳漿ではなかった。崩れるほど熟れ切った、甘ったるい汁を含んだ果肉だった。
「さすがですねぇ、武蔵野君」
金属製の手を軽く叩き合わせながら、温室の奥から出てきたのは神名円明だった。
「社長」
武蔵野は肩で息をしてから、ひばりの紛い物を引き剥がすと、無造作に投げ捨てた。神名は頭を吹っ飛ばされたひばりを見下ろし、上手く出来たと思ったんですけどねぇ、と残念がってから武蔵野を奥へと促した。嫌な予感しかしなかったが、ここで逃げ出しては何の意味もない。武蔵野は腐った桃のような人間もどきの死臭で吐き気を覚えながらも、堪えた。
所構わず成長しているツタと葉を掻き分け、人工の霧が噴出するパイプのトンネルを通り、剪定された未熟な果実の山を横目に歩いていくと、開けた空間に至った。円形の庭園には白い石を切り出したベンチが据え付けられ、同じ素材の円形のテーブルには水を張ったガラス製のボウルが置かれ、花弁が浮いていた。もちろん、その花は人間もどきを生み出す植物から摘み取ったものだ。神名は円形のテーブルを囲んでいるスツールに腰を下ろすと、武蔵野にも勧めてきた。武蔵野は躊躇いながらも、冷たい丸椅子に腰掛けた。
「どうです、お気に召しましたか?」
自慢げな神名に、武蔵野は渋面を作る。
「悪趣味なだけですよ」
「そうですか。私はとても素晴らしく、居心地の良い、この世の楽園だと思っていますけどねぇ」
ねぇ藤原君、と神名が庭園を囲むツタの奥に声を掛けると、ツタを掻き分け、大柄なサイボーグが現れた。
「うむ! 掃いて捨てるほど出てくるのが偽物の矜持だ!」
「藤原忠? だが、あんたは」
武蔵野が身構えかけると、神名がそれを制してきた。
「死にましたよ、確実にね。一度は我々の攻撃で肉体を失い、二度目は高守君に脳を破壊されてね。ですが、私は藤原君を回収して手を加え、こうして蘇らせたのですよ。黄泉の国に追いやるには、惜しい逸材ですからね」
「ふはははははははは! どうだ、御約束の再生怪人は面白味に欠けるだろう!」
生前通りに高笑いしながら、藤原忠は石製のスツールにどっかりと腰掛ける。
「しかし、ひばりちゃんをああもあっさりと殺してしまうとはなぁ。可愛かったのになぁ」
藤原が頬杖を付いて残念がると、神名が慰めた。
「まあまあ、そう気を落とさずに。十六日もすれば、また出来上がりますから」
「十六日? たったそれだけで?」
武蔵野が訝ると、神名はアイロンの効いたスラックスを履いた足を組んだ。
「生育環境と肥料さえ整えれば、いくらでも育ちますよ。ここは本来、弐天逸流の関東支部があった場所でしてね。十五年前の一件の後に買い上げまして、以来、私の趣味と実益を兼ねた秘密の場所となっているのですよ」
「敵の本拠地を占領して利用する、実に悪役らしくて素晴らしいではないか!」
藤原が大きく頷くと、神名は小さく笑みを零した。
「ありがとうございます。これがなければ、我が社は傭兵産業で利益を得られませんでしたからね。武蔵野君のように戦闘能力に秀でた人材はおりますが、皆さんは他の大手警備会社に取られてしまいますし、兵器売買の海外の企業に比べるとどうしても売り上げが鈍かったのです。サイボーグのシェアも同様で、他の企業より抜きん出た要素を作れませんでした。そこで、私は弐天逸流の関東支部に目を付けたのです。私の何人目かも解らない息子にはひどいことをしてしまいましたが、克二君の母親は私の気を惹くためならば手段を選ばない女性でしたので、息子が私に使い切られて、さぞや本望でしょう」
「それじゃ、あいつを追い詰めて死なせたのは」
武蔵野が腰を浮かせると、神名はしなやかな手付きで顎に手を添える。
「克二君の母親が私に付き纏うようになった頃、この温室は手に入れていましたが、実験不足で戦闘員の量産体制が整わなかったのです。ですから、少し手を緩めて克二君だけを私の懐に招き入れ、彼の母親に一言二言含ませて克二君に向精神薬を暗に服用させたのです。その結果、克二君は一瞬で数百個の肉片と化し、戦闘員の量産実験に大いに貢献してくれました。ですが、克二君は私が手を掛けたことを薄々感じ取っていたのでしょうね、私を殺しにやってきました。おかげでこの有様ですよ。まあ、自社製品の実動試験が出来るのは良いことですが」
「ナユタで吹っ飛ばそうとしたのは、このビルの地下だったのか」
そのせいで、ひばりは。武蔵野が歯噛みすると、藤原は高笑いした。
「ふははははははは! それが解ったところで何がどうというわけでもないことは事実だ、アメコミのように簡単にIFを作れるわけではないからな! あれはシリーズごとに作者が違うせいでもあるが、ああいうジャンルだから許されているのであってだな、面白そうだからと迂闊に手を出すと痛い目を見るジャンルだぞ!」
「誰もそんなことを聞いちゃいませんよ」
藤原のやかましさに辟易した武蔵野がぼやくと、神名は小首を傾げた。
「ですけど、それに近いことが出来るとすれば、とても素晴らしいとは思いませんか? 愛して止まない方達を再びこの世に呼び戻し、安寧の日々を過ごすのです。先程のひばりさんでは武蔵野君は満足出来ないようでしたから、今度は武蔵野君の好みに合わせたひばりさんを作り直しますよ。何をしようが、思いのままです」
なんて安い誘いだ。こんなものに引っ掛かる者がいるものか。ひばりを幸せに出来るのは武蔵野ではない、長孝とつばめだけだ。武蔵野はテーブルの下で拳銃を引き抜こうとすると、突如、藤原が反応した。分厚く重たい石製のテーブルを思い切りひっくり返したかと思うと、武蔵野の手元から拳銃を弾き飛ばしてしまった。黒い鉄塊は猛烈な速度で武蔵野の目の前を突っ切り、葉とツタを貫通した末に壁に激突し、一握の鉄塊と化した。
「私に再び銃を向けられるとお思いですか? 私は彼らにとっては神なのですよ。シュユの影響下でなければ形を保つことさえ出来なかった彼らに改良を加え、私が惜しみない愛を与えることで人としての姿を保てるように設定を施したのですから。ですから、私に銃を向けると言うことは、彼らの命の源を奪うということです。伊達に、長年遺産と向き合っていたわけではないのですよ。つばめさんが傷付けられたことでナユタが暴走した様を目の当たりにしてから、調査と研究を重ね、遺産とは遺伝子情報を鍵として目覚め、人間の精神を糧として働く道具であると見出したのです。そして、数々の実験と犠牲を繰り返した結果、私はナユタの破片を手に入れたのです。そうです、藤原君を殺害するために使用した、中性子砲の動力源ですよ。ですが、あれほど万能なエネルギー源を兵器利用に止めておくのは愚行の極みですのでね。ここに収めておきました」
目を細めるようにゴーグルの光量を絞りながら、神名は頭部を小突いた。
「あんたはどうかしている」
武蔵野が呻くと、神名は肩を軽く揺すった。
「自覚しておりますよ。ですが、それぐらいの覚悟でなければ、このイカレた戦いは勝ち抜けませんよ」
「そうまでして、あんたが欲しいものはなんなんだ」
戦闘態勢を緩めていない藤原を警戒しつつ、武蔵野が問うと、神名は悪びれずに答えた。
「愛ですよ」
愛の形は人それぞれだ、とはよく言われる。ドラマやら映画やら歌謡曲やら何やらで散々取り扱われてきた、手垢が付きすぎてどす黒くなっているテーマだ。そんなものは個人の裁量で決まるものであり、ある人物にとっては極上の愛情が他の人物にとっては愚劣な悪意、というのも頻繁に見受けられる。だから、神名が欲して止まない愛が、他人からすれば最悪のものだと考えるべきだ。そもそも、神名はなぜ愛を求めるのか。
それを知りたいとは思わなかったが、ここで逆らえば命はないと見ていい。だが、いくらでも替えが利く忠実な部下がいるのならば、武蔵野を呼び付ける理由がないはずだ。神名の求める愛とやらを見る観客として招かれたのか、それとも別の目的のためか。いずれにせよ、戦うべき相手は見つかった。
かつての上司、神名円明だ。
目的地まで移動する車中で、妙な光景を目にした。
道路の至るところでサイボーグが倒れ、動かなくなっている。一人や二人であったらボディの動作不良の範疇で済むが、その数は十や二十では足りなかった。横断歩道の真ん中で、歩道橋の階段で、踏み切りの中で、ビルの壁に激突している車の運転席で、サイボーグというサイボーグが機能停止していた。人々はそれを遠巻きに眺め、異変に怯えていた。救急車を呼ぼうと行政に通報している人間もいたが、似たような状況のサイボーグが大量にいるのだろう、救急車のサイレンがひっきりなしに行き来していた。
黒塗りのリムジンの窓から見える抜け殻のサイボーグの群れに辟易し、武蔵野は頬を引きつらせた。藤原忠の偽物は巨体を窮屈そうに背中を丸め、車内に収まっている。武蔵野は後部座席の端に座っていたが、居たたまれなくなってサイボーグ達から目を逸らすと、テーブルを隔てた座席に身を沈めている神名は頬杖を付いた。
「彼らはハルノネットのサイボーグですよ。彼らの生命維持装置に使われている部品の一部に、シュユの生体組織を培養、加工したものがありましてね。それを用いて、決して交わるはずのない人間と機械を融和させてサイボーグを完成させたのですよ。言ってしまえば、根です。シュユとクテイの肉体は、こちらの宇宙で言うところのシリコンで出来ていますが、分子構造が若干違いますから絶縁体ではないのです。サイボーグ化手術を受けた方々の脳内に神経細胞に成り代わる根を張り巡らし、生身の脳とコンピューターに接続したのですが、開発当初は何人もの被験者が死亡しました。当たり前ですが、人間の技術だけでは彼らの技術は手に負えませんからね。なので、ハルノネットの方々は弐天逸流に助けを求めたのですよ」
「道理で、異次元から携帯が通じるわけだ」
都合が良すぎる話には裏があるのが当然だ。武蔵野が呟くと、神名は続けた。
「ですが、ハルノネットは利用したはずの弐天逸流から利用されるようにもなりました」
「技術提供した代わりに布教を手伝え、とでも弐天逸流が迫ってきたのか?」
「おや、崇高な彼らのことをそのような粗野な名称で括っているので
すか。……まあ、いいでしょう。ええ、大筋ではその通りですよ。ハルノネットのサイボーグはシュユの部品を使い、シュユの管理下でなければ動作出来ない以上は、どうしても弐天逸流に頼らざるを得ませんからね。携帯電話とインターネットを主流とした通信のシェアはいずれ埋まってしまいますし、売り上げも落ちてきます。それらを活用しつつも更なる業績を得られる分野を開拓出来たのですから、そう簡単に弐天逸流とは縁を切れません。ですから、弐天逸流もハルノネットを利用しに掛かってきたのですよ。サブリミナルとでも言いましょうか、ネットのそこかしこに弐天逸流の教義を紛れ込ませてユーザーの意識に刷り込んでいったのです。その最たる例が、魔法少女ぱすてるチェリーのネットゲームです」
「……はぁ?」
突如出てきた異様な単語に武蔵野が面食らうと、藤原が割り込んできた。
「では説明しよう! 魔法少女ぱすてるチェリーというのは、いわゆるタイトル詐欺のアニメで、キャラクターデザインは子供向けのようでいて、ストーリーは大きなお友達向けのハードSFで敵も味方も死にまくりという、オタクの琴線をじゃらんじゃらん掻き鳴らすアニメである! ガイノイドの魔法少女に科学で魔法を完全再現した敵幹部に異星人のマスコットに、とまあやりたい放題だったのだ! だがしかし、その設定の詰め込みぶりと超展開ぶりが二次創作の標的となった挙げ句にやたらと持ち上げられて受けてしまい、その結果、アニメの放映から五年後にネトゲ化されたという次第だ!」
「知らん、そんなもん」
武蔵野がぞんざいにあしらうと、藤原は首を捻る。
「ぱすてるチェリーの脚本家とムラクモの脚本家は被っているのだがなぁ。筆名は違うが。まあとにかく、一度見てみるといいぞ。監督が弐天逸流の人間もどきなのでな、必然的に弐天逸流の教義がSF設定に偽装されて大量に練り込まれているのだ! それを踏まえて見ると尚面白い! そのおかげで、弐天逸流は信者の数を増やすことに成功し、シュユを半覚醒状態にまで引っ張り上げたのだ!」
「日々数十万のユーザーで溢れかえるサーバー内で、ハルノネットの当時の社長はある実験を試みたのです。弐天逸流が与えてくれた教義と技術を利用し、遺産と通じ合える人間がいるのかどうか、と。その当時、我が社を始めとした企業が遺産を操るための手段は佐々木長光が法外な値段で売り捌いている生体安定剤だけでしたので、それを買い付けずに済むようになれば大幅なコストカットが望めますし、遺産の能力も今以上に引き出せる、と踏んだのです。ですが、なかなか上手く行くものではありませんでした。第一、遺産の適合者を探そうにも、探すための手段が限られていたからです。遺産そのものに接触させてみれば一目瞭然なのでしょうが、我らの事情を何も知らない一般人に稀少な遺産を触れさせるわけにはいきませんし、適合者の選定でさえも一苦労でしたからね。ですから、ハルノネットの系列会社が製作していたアニメ、魔法少女ぱすてるチェリーに手を加えたのです。アニメの効果音にシュユの固有振動数を変換した音を含ませ、放映したのです」
そして道子さんが目覚めたのです、と神名が頷いてみせた。武蔵野は疑問に駆られ、言った。
「道子がアマラと合った理由はそれだけなのか? たったそれだけの切っ掛けで、あいつはああなったのか?」
「ええ、そうですよ。ハルノネットは精神的に打ちひしがれた道子さんが受診した精神科医に手を回し、精神安定剤との名目で生体安定剤を多量に服薬させていたようですけどね。その甲斐あって、道子さんはアマラと通じ合えただけでなく、電脳体にまで上り詰めることが出来たのですが」
「何の目的で、ハルノネットは道子をいじくり回したんだ」
「それは解り切ったことですよ。最も身近でありながらも最も遠い並列宇宙、ネットワークを支配するために決まっているではありませんか。通信技術が発達し続けている現代社会に置いては、電脳体である道子さんは神にも等しい存在です。その彼女を掌握出来てさえいれば、いかなる戦いにも負けることはありませんよ」
「一介の通信会社が、どこの誰と戦うんだよ」
「それこそ解り切っておりますよ。佐々木長光さんですよ。遺産を手にしていても操れないのでは、刃向かうことすらまず不可能ですからね。ですから、あの手この手で同じ土俵に上がろうとしているのです。もっとも、私はその段階を当の昔に超越しておりますけどね」
赤信号を灯した交差点に差し掛かると、リムジンの速度が緩み、止まった。神名が交差点の至るところに倒れているサイボーグ達を一瞥すると、彼らは前触れもなく再起動し、ぎこちない動作ではあるが立ち上がった。
「ほら、この通り。私の可愛い子供達はクテイの苗床を使って育てたものですから、チャンネルをほんの少し操作してやればシュユの人間もどきにも命令を下せるのです。もっとも、プログラム言語に差異があるので、私の命令の細かな部分は通じないようですけどね。いずれ、その辺もアップグレードするつもりではおりますが」
十数分のドライブを終えてリムジンが到着したのは、ハルノネットの本社だった。もちろん、業務は終了していて、窓明かりはほとんど付いていない。ビルを彩っているホログラフィーも消えていて、夜景を跳ね返すミラーガラスは夜空へ屹立している箱を包み込んでいた。
ビルの正面玄関では、警備員として配備されている武装サイボーグが何体も倒れていた。異変が起きたことすら察知していないのだろう、立ったまま機能停止している者もいる。受付では見栄えのする美人の女性型サイボーグが沈黙していて、両目を見開いた状態で凍り付いていた。広々とした吹き抜けのあるロビー、近未来的な装飾が施されているエレベーターホール、各部署に繋がる廊下、など、路上と同じくサイボーグ達が倒れていた。人間の社員もいないわけではないのだろうが、皆、早々に逃げ出したのだろう。その証拠に、社員の私物やタブレット端末が廊下に点在している。神名は躊躇いもなくエレベーターホールに入ると、タイミング良く一基が到着した。
神名に促され、武蔵野と藤原はそのエレベーターに乗った。またも地下に向かっていき、階数表示の番号が徐々に進み、数十秒を経て地下四階に到着した。外気よりも遙かに冷え込んだ空気が足元から流れ込んで、武蔵野は思わずコートの襟を立てた。ぴんと張り詰めた内気が宿っている空間はおかしな装飾が施され、さながらゲームのダンジョンのようになっていた。だが、遺産絡みの争いでコジロウが暴れたせいであちこちが損傷し、破損しているコンピューターが一箇所に積み上げられていた。見上げるほど大きなコンピューターの群れを横目に進んでいくと、最深部では一人の男が待ち構えていた。
「夜分失礼いたします、吉岡君。先日のお話の答えをお持ちいたしました」
神名が一礼すると、スーツ姿の男は武蔵野を見咎めた。
「この方は、確か」
「ええ、そうです。娘さんのお付きの一人であり、我が社の優秀な戦闘員でもあった、武蔵野巌雄君です」
神名は武蔵野を紹介してから、こちらはハルノネットの社長である吉岡八五郎君ですよ、と武蔵野に男の素性を明かしてくれた。ならば、この男こそがりんねの父親なのか。武蔵野は複雑な思いに駆られたが、顔に出さないように尽力した。りんねの父親であろうが何だろうが、事と次第によっては銃を向けるだけだ。
「でしたら、私の話を快諾して下さったんですね?」
吉岡は武蔵野を一瞥してから、表情を緩ませた。銀縁のメガネは、りんねのそれに似ていた。
「武蔵野君はサイボーグの類ではありませんが、抜きん出た実力の持ち主ですからね。一個中隊を貸すことは少々難しいですが、武蔵野君でしたらお貸しいたしましょう」
「はい?」
武蔵野が聞き返すと、神名は武蔵野を軽く小突いてから、話を進めた。黙って聞いていろ、ということか。
「ですが、武蔵野君はしばらく前までは我が社の社員ではありましたが、今やつばめさんの個人資産であると言える人材ですねぇ。よく考えてみなくとも、吉岡君に雇用されてしまったら、武蔵野君は二重契約になってしまいますし、敵なのか味方なのか解らなくなってしまいます。それに、船島集落は現状でも長光さんの私有地ですから、みだりに攻撃を仕掛けると恐ろしい額の損害賠償を吹っ掛けられてしまいますよ? それ以前に、吉岡君が立案した作戦は穴だらけですよ。第一、準備期間がろくにないのに制圧なんて出来ませんよ。一個中隊を動かせる、とは言いましたが、動かすとは一言も申し上げておりません。更に言えば、御相手は人智を越えた存在なのですから、通常兵器が通用すると考えることからして浅はかですよ。今まで誰も手出ししなかった、というか、出来なかった御相手なのですから、そう簡単にやられるとは思いがたいですけどね。路上で横たわっているサイボーグ達を見る限りでは、シュユは致命傷を負ったようなので私としては手間が省けて何よりなのですが」
「私はあの連中を倒さなければならないんです。私は、そのために生きてきたんですよ」
吉岡は理性的な態度を保とうとしていたが、歓喜が口角を上向かせていた。
「私の両親は、非常識と不条理の固まりなんです。母は言うまでもなく、父もまた正気ではありません。そんな父に縋り付いているあの虫女も、兄の子も、皆が皆、まともではないんですよ。ですから、私だけはこうして正気を保ち、至極真っ当な方法で事を片付けようとしているんですよ。神名さんはそれをお解り頂けると思ったのですが、あなたも遺産に魅入られた人間の一人に過ぎませんでしたか。シュユがやられたせいでハルノネットのサイボーグは全滅してしまいましたが、新免工業のサイボーグは無事ですよね。ですから、彼らをお貸し下さい。フカセツテンがこちらの世界に戻ってくる前に、戻るべき場所を潰してしまいますから」
「彼らは私の子供達ですよ。私の愛なくして、呼吸をすることすらままなりません。それを、自社製品のサイボーグも管理しきれない吉岡君に預けることは出来ません。小児性愛者に愛娘の子守を任せるようなものです。こんな場所に引き籠もっている暇があるのでしたら、外に出て自社製品のユーザーのサポートに回ったらいかがです? 少しは役に立てますよ。どうせ、彼らの命は助かりませんけどね」
「どうせ、何度死んでも作り直せるものではないですか。あなたが作っていた人間もどきは」
「吉岡君も、そう思っておられるのでしょう? だから、りんねさんを複製させて父親に弄ばせていたのですよね? 私も人のことは言えませんけど、それだけ嫌っている相手に従うなんてどうかしていますよ。人間に生まれなかった長孝さんに対してコンプレックスを抱くのも、長光さんが吉岡君に真っ当な愛情を注いでくれなかった不満を歪曲させてしまうのも、その延長で文香さんに物を与えるだけ与えたくせに構わずに放っておくのも、全て吉岡君の勝手ですよ。その勝手を私達に押し付けないで下さいませんか? 私はあなたの欲望なんて、叶えたくありません」
「今まで、私達は上手くやってきたではありませんか」
「上手く? 何をどう、上手くやってきたのですか? そもそも、私達は共闘関係ではありません。遺産を巡って財力と策謀をぶつけ合い、互いをいかに消耗させるかと画策しながら拮抗してきたではありませんか。それなのに、何を急に女々しいことを仰いますか。屈折した両親の愛情に飢えていた子供時代を引き摺るにしても、どうして文香さんに甘えておやりにならなかったのですか。文香さんも哀れな女性ですよ、あなたが文香さんに目を掛けてやらないから、文香さんはあなたの気を惹くためにりんねさんを利用しようとしているではありませんか。そうでもなければ、あんなに派手な作戦は行いませんよ。それなのに、あなたと来たら、奥様と娘さんの顔を見もしないで……」
余程呆れているのか、神名は首を横に振った。吉岡は言葉に詰まりかけたが、言い返す。
「襲撃作戦のために手を回していたから、現場に出向く時間が取れなかったんですよ」
「それはどうですかねぇ。私の注意を引き付けておいて、無線封鎖した空間に閉じ込めるのが狙いなのでしょう? そして、私の脳を吹っ飛ばしてナユタの破片を回収し、私の子供達を支配下に置く、と。警備員の武装サイボーグは製造元が違いますし、遺産のテクノロジーを使わずにサイボーグ化した人間も多々おりますからね。それぐらいの区別が付けられなくて、サイボーグなど売り捌けはしませんよ。ですが、勝ち目はありませんよ?」
神名が己の側頭部を小突くと、前触れもなく防火扉が作動して自動ドアを塞いだ。更に隔壁も下り、エレベーターとサーバールームを隔絶した。武蔵野は若干動揺したが、ホルスターに手を滑り込ませて拳銃を握り締める。吉岡は短く悲鳴を漏らして身動ぎ、慌てている。ハルノネットのサーバーにもシュユの部品を使用していたのだろう、そうでもなければ神名の能力は及ばない。
「半殺しにするのは、もう少し後でもよろしいですよ」
神名は武蔵野を制してから、吉岡に歩み寄る。
「凡庸であることがそれほど屈辱ですか? 退屈ですか? 無益ですか? ええ、解ります、解りますけど、だからといってあなたの言うことを鵜呑みにするわけがありませんよ」
身長の高い神名に迫られ、吉岡は壁まで後退し、背を当てる。
「ビジネスですからね」
「私を殺したところで、何も」
苦し紛れに吉岡は喚くが、神名は吉岡の襟首を掴んで持ち上げ、足を浮かせる。
「何も生まれない、何も終わらない、何も出来ない、何も始まらない、何も解決しない、とでも仰りたいのでしょうが、そういうのは退屈なので止めて下さい。私があなたから知りたいことはただ一つ、桑原れんげのデータやプログラムを保存してあるサーバールームの住所です。私はアソウギは持っておりませんから、あなたの脳をかち割って中身を啜り上げても情報は読み取れませんしね。言ってしまえば、吉岡君にその他の価値はないんです。あなたは自分にどれほどの価値があるのかと思い上がっているようですが、吉岡君はハルノネットを一から起こしたわけでもないですし、奥様は飼い殺しにされているから吉岡君に執着しているだけですし、御両親だって御兄様だって、吉岡君が何を画策しようとも気にも留めておりませんよ。どうしても関わってほしければ、御自身で遺産を扱えるように命でもなんでも掛ければよろしいのです。それが出来ないのであれば、つまらない人間に成り下がることですね」
神名は吉岡の襟首を離して床に落とすと、後ろ手に手信号で合図を送ってきた。今のうちに殺せ、と。武蔵野が行動するよりも早く、藤原が右腕の外装を開いて熱線銃を出し、一筋の光線を放った。空間を貫いた閃光は呆気なく吉岡を抉り、焼いた。蛋白質の焼ける匂いがじわりと漂い、冷気に混じる。焼き付けられた胸部の傷口からはほとんど出血しなかったが、吉岡は目の焦点を失い、壁からずるりと滑り落ちる。すると、吉岡の傷口と同じ位置に丸い焼け焦げが出来ていて、壁の塗装が変色していた。
「まだ喋れますでしょう? 桑原れんげさんの居場所を、お教え下さい」
神名は胸部に穴が空いた吉岡に迫り、問うた。
吉岡は懸命に抗おうとするが、神名は再度問うた。
「お教え下さい」
吐息を吐き出しているだけの掠れた声が、途切れ途切れの言葉を成した。関東近郊の住所を告げたが、吉岡の唇は動きを止め、不規則に手足を痙攣させた。肺に残っていた空気を残らず吐き出した後、吉岡の四肢はだらりと弛緩して首が垂れた。事切れたのだ。
「さあ、愛して差し上げましょう」
神名は吉岡の死体にマスクフェイスを寄せると、細長い指で男の顔を柔らかく包み込む。
「私があなたを愛すれば、あなたは私を愛さずにはいられなくなります。私が子供達を愛せば、子供達は私からの愛を得ようと忠実になります。私が誰かを愛さなければ、誰もが愛し合えないようにしてしまいましょう。弐天逸流が潰えてシュユが屈した今こそ、私の子供達を野に放ち、私の子供達の元となる人々を手に入れる絶好の機会なのです。そして、私の温室で無垢な命を芽吹かせ、私の愛を注いで育て上げるのです」
愛、愛、愛。つまり、神名の欲する愛の形とは求められることなのだ。ナユタを通じて人間もどき達にエネルギーを与えなければ人間もどき達は長らえられないから、必然的に神名を肯定し、崇拝し、欲するようになる。あの温室を手に入れる以前に、鬼無の母親を始めとした女性達に手を出しては距離を置いたのも、女性達に追い縋られたいがためだ。求められることは自分を肯定されることでもあり、認められることでもある。
武蔵野にも、解らない感覚ではない。ひばりから頼りにされた時、武蔵野はそれまでの暗澹とした人生が許されたかのような気分になった。他愛もない話を、強いね、凄いね、と褒められたら、万能感に浸れた。つばめに雇われてからも、つばめに頼られるのは嬉しかった。佐々木長孝がいないのをいいことに、つばめの父親代わりになれた気になっていた。ひばりに愛されることは不可能だから、つばめからも愛されないだろうから、せめて自分自身を肯定出来る材料が欲しかった。だから、神名の欲望の一端は共感出来るが、それだけである。許されることではないし、武蔵野自身が許せない。神名が悪用している道具も、弄ばれる命も、在るべき姿に戻してやらなければ。
武蔵野はコートを脱ぎ捨てた。
体に染み付いた動作を行うために、意識する必要はなかった。
視界を塞ぐコートを藤原が振り払う一瞬の隙にホルスターから拳銃を抜き、安全装置を外してすぐさまチェンバーをスライドさせて初弾を装填する。藤原の巨体が捻れ、鉄塊の右腕が武蔵野に振り下ろされる。後方に軽く跳ねて直撃を回避してから、藤原が顔を上げる前に引き金を絞った。腹に響く炸裂音が凍えた空気を砕き、大柄な戦闘サイボーグの関節に弾丸が埋まる。右腕の肩関節を押さえて身動いだ藤原目掛け、ベストから取り出した手榴弾のピンを抜いて投げ捨てる。かこん、と頭部のアンテナの隙間に挟まった手榴弾を抜こうとするが、藤原の左腕が楕円形の爆弾を掴んだ瞬間に炸裂した。
骨の髄まで揺さぶる衝撃波と爆風をやり過ごしてから、武蔵野は敵の様子を確かめた。新免工業製の積層装甲の性能はさすがで、藤原の頭部は多少ひしゃげていたが破損してはいなかった。レトロささえある丸いレンズ型の視覚センサーは粉々で、露出した部品からヒューズが飛んでいる。外見さえ見れば、藤原は無事だった。だが、彼は微動だにせず、バランスを失って床に突っ込んだ。サイボーグを倒すのは簡単だ、脳をシェイクすればいい。
「古い手を使いますねぇ」
神名は吉岡の死体を横たえてから立ち上がり、武蔵野に向き直った。武蔵野は、新たな手榴弾を取り出す。
「伊達に生き延びちゃいねぇさ」
「なぜ、武蔵野君は戦うのですか?」
「三流の悪役のセリフ回しだな。そんなことを言った時点で、あんたの価値は下の下に下がっちまったよ」
武蔵野は手榴弾のピンを引き抜くタイミングを窺いながら、神名との距離を測る。
「そうですか。ですが、私は武蔵野君が面白くて面白くてたまらないのです。愛した女と同じ姿の生き人形が目の前に現れたというのに、押し倒して貫きもせずに撃ち殺してしまうのですから。たまには御自身の欲望に正直になってもよろしいと思いますがねぇ。それとも、御自身の右手の方が女性よりも具合がよろしいとでも?」
神名の下品な言い回しに、武蔵野は喉の奥で笑いを漏らした。
「かもしれねぇな。俺は女の扱いが下手すぎる」
「それでこそ武蔵野君ですよ。だからこそ、私はあなたを愛に浸してやりたいと思って止まないのです」
「社長は男でもイケる口なのか?」
「時と場合に寄りますよ。私が愛おしいと思ったならば、性別など関係ありません」
「俺は大いに関係あるな!」
そう叫ぶや否や、武蔵野は手榴弾のピンを歯で引き抜いて放り投げる。神名は長い腕で的確に手榴弾を払うと、サーバールームに飛んでいき、四秒後に爆音が轟いた。余韻で蛍光灯が点滅し、酸素を多量に消耗した末に発生した硝煙の匂いが一層濃くなる。神名と武蔵野の影もまた、薄い煙を含んでぼやける。
「愛し、愛され、愛し合う。それは知的生命体にのみ許された美酒であり、麻薬です。自意識の高さ故に孤独を嫌うようになった人類が行き着いた果てが、この過剰なまでにネットワークが発達した世界です。昔々のサイバーパンクSFで描かれていた科学技術のほとんどは現実に再現されておりますし、SNSを始めとした交流のシステムは日々進化を続けております。それはなぜか」
神名の淀みない言葉に、武蔵野は荒く言い返す。
「退屈だからだよ」
「ええ、そうです、そうですとも。余暇がなければ、愛は生まれるものではありません。衣食住足りて礼節を知る、とはよく言ったものですよ。人並みの清潔で安定した生活がなければ、他人に気を配る余裕などありませんからね。ですから、現代社会は実に便利になりすぎてしまったのですよ。だから、生活に追われることも少なくなった人々は退屈凌ぎに他人と交流を図るのです。ですが、ゲームや娯楽や話題を媒体にした繋がりは薄っぺらく、吹けば飛ぶような脆い関係ばかりなのです。だから、私は皆さんに噎せ返るような愛を与えてやるのです」
「弐天逸流の真似事か」
「新興宗教などとは一緒にしないでくれますかぁっ!」
突如、神名は腕を翻す。仕立ての良いスーツの袖が内側から破け、銀色の刃が放たれる。武蔵野は神名の動作から攻撃を予測して腰を下げ、体の軸をずらして射線から逃れると、細いナイフが自動ドアに突き刺さった。
「仕込み武器とは、またハイソなものを」
武蔵野が元上司の装備を一瞥すると、神名はスーツの袖口を押さえた。
「ですからね、武蔵野君。愛し合いましょうよ。そうすれば、あなたの慢性的な愛情欠乏は補われますよ? あなたの家庭環境は当の昔に調べておりますし、あなたの御両親が子供を大事に扱わない人間であったことも把握しておりますし、あなたに恋人と呼べるような親しい間柄の女性がいなかったことも知っております。女性を自分の部屋に連れ込んで情愛を交わした経験がないことも、性欲は金を払って解消していたことも、何もかも」
そうだ。だから、ひばりを欲して止まなかったのだ。武蔵野はまた別の手榴弾を探りながら、動揺を殺した。
「ああ、なんて哀れな武蔵野君でしょうか。命懸けで愛した女性は夫の子を孕んでいたばかりか、夫の元に戻って逢瀬を交わす様を見せつけられたのですから。長孝さんと御自分の立場をすり替えた妄想で、何度果てましたか? 覚えがないとは言わせませんよ、武蔵野君?」
しゃりん、と神名の両腕から長いナイフが飛び出し、蛍光灯の光を撥ねて青白く輝く。
「つばめさんがあなたの種で出来た子供であったならと、ひばりさんと手に手を取って逃避行をしたいと、長孝さんを亡き者にしてひばりさんを娶ってしまいたいと、つばめさんが成長してひばりさんに似てきたら、自分の伴侶にしてしまおうと、考えなかったはずがないでしょう! ねえぇ、武蔵野君!」
社交ダンスのステップを踏むように、神名は長身をしならせて刃を振るう。武蔵野は文句を喉の奥で殺しながら、サーバーの間に滑り込んで態勢を整える。神名はサーバーの隙間に身を潜めた武蔵野と対峙すると、右腕の刃を収納してから、左腕の刃を解き放って突き出した。武蔵野の銃口と、神名の切っ先が拮抗する。
「考えたからって、何もかも実行に移すわけがないだろうが。妄想だけで止めておくのが普通なんだよ」
詰めていた呼吸を整え、武蔵野は引き金を絞る。だが、神名は避けようともせずに頭部に弾丸を浴びた。額の位置に貼り付いていた潰れた鉛玉を払ってから、神名は首を傾げる。
「それでも男ですか。惚れた女の鞘に己の剣をねじ込めないで、何が人生でしょうか」
「俺の行動理念が、あんたと同じだとは思わないでくれ」
二発目。効かない。
「私の行動理念が、あなたと違うとは思えませんけどね」
三発目。効かない。
「誰からも愛されず、誰を愛しても返されず、ひばりさん以外の誰かを愛そうともしない、武蔵野君を突き動かすものが知りたいのです。性欲でもなければ物欲でもなければ食欲でもなければ、一体何なのですか? 人間、見返りなくして働けないですからね。無償の愛や善意などというものは幻想です、綺麗事に心血を注いでいる自分の姿を他人に評価してもらいたいから、善人の皮を被るのです。そういう武蔵野君は、何の皮を被っておりますか?」
「そんなもん」
四発、五発、六発。やはり効かない、ならば。
「ズル剥けだ!」
ベルトから抜いたナイフを下手に投擲し、神名の顎の下を狙う。腕のナイフで弾かれるのは想定済みだ、相手の動作の方が早いに決まっているからだ。武蔵野のナイフは床に突き刺さり、びぃんと震える。神名は左腕のナイフを振り上げて武蔵野に迫るが、武蔵野はサーバーボックスの横道に入った。神名も横道に入ってきたが、ベストの脇から抜いたミニウージーを乱射して仰け反らせた。すると、神名の腕のナイフがサーバーボックスに刺さる。
狭い場所で使うことは想定せずに装備したらしく、配線と基盤が複雑に絡み合っている箱から刃を引き抜こうとしても、上手くいかないようだった。その隙に、武蔵野はサーバーボックスの列の前方に回ると、壁際の箱の足元にピンを抜いた手榴弾を転がした。距離を置いてから四秒後に爆発し、機械の詰まった箱は傾いて隣り合った箱を倒し、倒し、倒し、その間で藻掻いていた神名ごと倒れていった。ドミノ倒しの要領である。
「……安いハリウッド映画みたいですねぇ」
サーバーボックスに挟まれてもまだ余力があるのか、神名がぼやいた。
「安っぽいのが現実なんだよ」
武蔵野はミニウージーのマガジンを交換してから、サーバーボックスに挟まっている神名の前に回った。いかにサイボーグの腕力といえども、積み重なった機械の箱を持ち上げるのは難しいようだ。倒れてくる箱を受け止めようとして失敗したのか、右腕の肘から先は無惨にも折れている。細身の見た目通りのデリケートなセッティングだったのだろう、破損した関節と配線が露出して火花が散り、人工体液が垂れている。
「本当に、私に愛されなくてもよろしいのですか?」
「真っ平御免だ」
ミニウージーの照準を合わせ、引き金を絞り切る。だだだだだだだだっ、と一息に吐き出された弾丸の雨が神名の頭部を揺さぶり、無数の弾痕を刻んだ。それでも尚積層装甲の頭部は抉れなかったが、神名のマスクが外れてでろりと人工体液が流れ出してきた。渋く鋭い硝煙の煙に紛れて感じ取れた、神名の体液の匂いは、あの温室でひばりの偽物を殺した時に感じたものと同じだった。
「どいつもこいつも、人間じゃないのか」
恐らく、鬼無に殺された時に完全に死亡していたのだろう。その後、神名の本体の意識を宿した偽物が生まれ、神名本人に成り代わって新免工業を運営していたのだ。神名は、自分が人間でなくなっていたことに気付いていたのだろうか。きっと気付いていたのだろう。そうでもなければ、ここまで愛を求めないし、そもそも遺産と通じ合えるわけがない。武蔵野はナイフを使って神名の頭部を外し、ブレインケースを開け、熟れすぎて崩れつつある果実のような腐臭を放つ脳から、ナユタの破片を取り出した。これで、つばめを危ぶませる輩は一人減った。
ナユタの破片を出来る限り拭ってからポケットに収めると、がこん、と隔壁が動いた。何事かと武蔵野が本能的に拳銃を構えると、隔壁が上がりきって自動ドアが開いた。エレベーターの前には、黒を基調としたゴシックロリータの衣装を身に纏った少女が立っていた。ビスクドールを思わせる、透き通るような白い肌に巻き毛の金髪、大きな瞳に艶やかな唇。だが、常人ではないと一目で解った。少女の背中からは、何本ものケーブルが生えていたからだ。
「武蔵野さーん、御無事ですか?」
声色こそ違うが、その口調で誰が宿っているのかを察した。
「道子か?」
警戒心を緩めた武蔵野が銃口を下ろすと、少女型アンドロイドに意識を宿している道子は手招きした。
「ええ、まあ。とにかく外に出てきて下さいよ。手当たり次第にいじくってきたので、このビルは小一時間もしないうちに吹っ飛んじゃうんですから」
「お前は何を仕掛けてきたんだ」
武蔵野が若干呆れながらサーバールームから出ると、道子はしれっと言った。
「うちの社長が密輸して隠し持っていた爆薬とその他諸々ですよ。船島集落を攻撃しよう、っていう作戦は、至って本気だったってことです。まあ、実行されたら後片付けが大変なので、神名さんと潰し合ってくれて大いに助かってしまいました。うちのはともかくとして、武蔵野さんとこの社長さんは現場主義だったんですね」
「割とな」
連れ立ってエレベーターに乗り込んで、階数ボタンを押すと、数十秒で一階に到着した。道子に促されるがままにハルノネット本社から脱し、都市のエアポケットのような暗がりに身を潜めた頃、濁った花火のような炸裂音が何度も起きた。遺産絡みの争いに関わる情報を保存しているデータベースを主に破壊したのだろう。
夜気で冷え切った壁に寄り掛かり、武蔵野は嘆息した。これで遺産争いの一角は潰せたことになるが、つばめに合わせる顔はない。結局のところ、武蔵野に出来ることと言えば殺しだけなのだ。なんだかんだで子供らしい優しさを持っているつばめには、近付いてはいけない。武蔵野がいなくなっても、コジロウがつばめを守ってくれる。本当の父親である佐々木長孝も、いずれつばめに会いに行くだろう。そうなったら、武蔵野が収まるべき場所はない。夏から初秋に掛けての短期間だったが、合掌造りの家で一緒に暮らしたのは、良い思い出だ。その優しい思い出さえあれば、今までの寂しさも、これからの空しさも振り払える気がする。
「つまらない意地を張らずに、つばめちゃんのところに帰ってきて下さいよ」
道子に裾を掴まれ、武蔵野はぎくりとした。本心を見透かされていたのか。
「だがな、道子。俺はお前らみたいな遺産の産物でもないし、コジロウに比べれば弱いし、色々と負い目が」
「私達のマスターは、そんなことを気にするほどデリケートじゃないですよ。武蔵野さんが素人童貞でひばりさんの綺麗な思い出をズリネタに出来ないような純情クソ野郎であると知ったところで、出迎えてくれますって」
「女がそんな言葉を使うなよ」
「とにかく、船島集落に帰ってきて下さいね。でないと、とっておきのディナーを御馳走しちゃいますよ?」
「それだけは勘弁してくれ。あんなもの、二度と喰いたくない。もう一度喰えと言われたら、俺は鉛玉を喰う」
「素直で結構です、ふふふ。じゃ、約束ですね。詰まるところ、武蔵野さんの行動理念って何だったんですか?」
「俺と社長の与太話を聞いていたのか」
「そりゃまあ電子の妖精ですから、大抵のことは出来ますよ。で、何ですか?」
「言えるか、そんなこと」
じゃ、帰ってきて下さいね、と再度念を押し、道子は動きを止めた。電脳体を退けたのだろう、少女型アンドロイドは四肢を脱力させてその場にへたり込んだので、武蔵野は見た目の割に重たいボディを引き摺って壁際に置き、その場から離れた。一度自宅マンションに戻ろうか、と考えたが、新免工業の新宿支社ビルから火の手が上がっているのが窺えた。道子が手を回してきたのか、それとも神名が自身のバイタルサインが消えると同時に発火する装置をセットしていたのか。どちらにせよ、これでまた一つ、遺産争いの証拠は灰燼に帰す。
何台もの消防車がサイレンを鳴らしながら幹線道路を通り、消火活動に特化した装備を持つ多脚ロボットが後を追っていった。この分では、武蔵野の自宅マンションに警察が雪崩れ込んでくるのは時間の問題だ。僅かばかりのプライベートを蹂躙されるのは嫌だが、つばめに会えなくなるのは、それ以上に嫌だと思った。道子の言った通り、つまらない意地は捨てた方が余程楽だ。
今の武蔵野を突き動かすものは、至って単純だ。つばめにひばりの墓に案内してやると言ったきり、連れていってやれず終いだった。だから、せめて他愛もない約束だけは守らなければ。鬼無との約束も守れなかったのだから、それぐらいは果たさなければ、死んでも死にきれない。どうせ何も残せない人生なのだ、愛した女の娘に思い出を残してやっても、罰は当たらないだろう。壁から背を外し、武蔵野は闇に紛れて歩き出した。
帰るべき場所はないが、向かうべき場所があるのは幸福だ。
武蔵野の後方支援とハルノネットの大掃除を終えてから、道子は女性型アンドロイドに意識を戻した。といっても、道子の意識は通常のインターネットの中に複数存在しているため、意識のチャンネルを切り替えた、と言った方が正しい。メインと複数のサブ、更にそのサブ、そして全てのバックアップ、と、作れるだけ作っておいた。異次元宇宙の演算装置との接続が切れているので情報処理能力は大いに低下したが、まだまだ自由は利く。
武蔵野の現状を報告するべきだと判断し、道子は主を見やったが、ベッドに潜り込んだつばめは熟睡していた。髪を乾かしている余裕もないほど眠かったのだろう、生乾きの髪が枕カバーに貼り付いている。この分では、明日の朝は大仕事だ。ヘアアイロンが調達出来るような店があったかな、と道子は考えると同時にインターネットで検索を始めると、ドアの前に立っているコジロウが振り向いた。
「大丈夫ですよ。このホテルの近辺の監視カメラを全部探ってみましたけど、監視は最低限で戦闘員は配備されていません。吉岡グループの手の者も少しはいますけど、何か仕掛けてくる気配もありません」
道子はつばめの髪の水気を取ってやろうと、洗面所からバスタオルを一枚持ってきて、つばめの頭を持ち上げて髪を包んでやった。こうしてあげれば、翌朝の寝癖はひどいことになるかもしれないが、寝冷えせずに済むはずだ。布団を掛け直してやると、つばめは小さな声を漏らしたが起きる気配はなかった。無理もない。ここしばらくで、物事が激変してしまったのだから、心身が疲れ果てるのは当然だ。
東京から船島集落に戻るためにつばめが選んだ手段は、公共交通機関だった。道子がハルノネットの社員だった時代に貯め込んでいた給料を路銀にして、鉄道とバスを乗り継いでいったが、途中で日が暮れたので一泊することに決めたのである。だが、車両であるコジロウは普通の宿には入れないので、モーテルを見つけた。検索して探し出したはいいが駅からは遠かったので、到着した頃には深夜になっており、つばめは道中のコンビニで買った夕食を食べ終えて風呂に入ったらすぐに寝入ってしまった。その間に、道子は武蔵野と接触したというわけだ。
「設楽女史。質問の許可を」
「はい、どうぞどうぞ」
「設楽女史を経由し、本官も情報収集と状況把握に努めていた。神名代表取締役は不特定多数の執着を得ようと画策していたと判断するが、その執着に意味が見出せない」
「人間に戻りたかったんじゃないですか、あの人」
私だってそうですよ、と呟いてから、道子はコジロウに笑いかけた。特定の人物から感情を注がれれば、擬人化されて扱われれば、古道具ですらも人格を持った存在に昇格するのだから、遺産の産物も人間になれる可能性がなきにしもあらずだからだ。だが、神名は当の昔に人間ではなくなっていた。それ故に、人間に戻るための手段が目的へと入れ替わってしまった結果、愛への妄執に取り憑かれてしまったのだ。
複製体も人間もどきも、ただの偽物だ。遺産の産物は道具が造り上げた道具であり、そこから先はない。それを最も良く理解しているのはコジロウだ。情緒的な主観を廃絶してしまえば、主人に、人間に近付きたいと思わないで済むからだ。狭い机の上の小瓶の中に生まれたホムンクルスは、小瓶の外へは出られないのだから、憧れた分だけ苦しみが深まるだけだ。道子はかつて人間であったからこそ、その隔たりの深さがよく解る。
人間と道具は寄り添えるが、決して相容れるものではない。




