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機動駐在コジロウ  作者: あるてみす
 

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掃き溜めのツール

 十五年前。

 備前美野里は凡庸に生きていた。

 なんとなく、ありきたりで、退屈で、平坦で、億劫で、自分の進路を真剣に考えたことはなかった。十四歳の女子中学生なのだから仕方ない、というのは簡単だ。弁護士として日々忙しく働いている両親はどちらも中高生の頃に己の将来を見据え、弁護士を目指して司法試験の下地となる勉強を始めていたのだから。美野里を取り巻く環境も平凡極まりなく、通っていたのも有り触れた公立中学校で、クラスメイトは学力も品性もレベルが低かった。芸能人やアイドルのゴシップでぎゃあぎゃあ騒ぎ、少年漫画の展開に一喜一憂し、些細なトラブルで人間に優劣を付け、矮小な世界で発展途上の自我を鬩ぎ合わせていた。

 その日も、美野里はなんとなく生きていた。どうせ地区大会も勝ち抜けないんだから、という冷めた空気が漂っているせいで顧問も部長もやる気がない部活を終え、コンビニで菓子パンを買い食いして、今夜見るドラマの内容を携帯電話でチェックし、ついでにレコーダーに録画予約を入れてから、手伝うべき家事を思い出していた。

「えーとぉ、お米研いで、冷凍してあるハンバーグ焼いて、それからなんだっけ」

 住宅街に差し掛かり、誰もいないのをいいことに、美野里は独り言を喋っていた。こうやって喋らなければ頭の中を整理出来ないのは、自分が馬鹿な証拠だと思っていたが、幼い頃からのくせなので直せなかった。御飯を炊いておく準備とおかずの調理、それからもう一つが思い出せない。掃除機を掛けておくのか、それとも風呂掃除だったのか、それ以外の何かだったのか。朝、登校する前に教えられたはずなのだが、頭から抜けてしまった。

 そんな自分が嫌になる。両親は理知的で、食卓で交わす会話も難しい言葉が多い。お嬢さん育ちの母親は品が良く、仕事も家事もきっちりとこなしている。父親の書斎の本棚に詰まった分厚い本は、背表紙を見ただけで頭が痛くなりそうなものばかりだ。それなのに、そんな二人から産まれた美野里は、つくづく馬鹿だ。

 一昨日返却された小テストは、点数がひどすぎたので通学カバンの底に突っ込んだままだ。ちゃんと勉強をしようと思うのに、机に向かえば小一時間もしないで眠ってしまう。漫画もセリフをいくつか読み飛ばしてしまい、話の筋をきちんと追えない。文字しかない小説は、三分の一も読まないうちに放り出す。だからといって、運動が出来るわけでもなく、部活でも仲間の足を引っ張ってばかりだ。外見は可愛いと言われることがあるが、モデルや女優になれるレベルではない。不器用で要領も悪いから、家事の手伝いも最低限だけだ。

 次第に気が滅入ってきて、美野里は家に帰りたくなくなった。どうせ、米を研いでも磨ぎ汁を流す段階でシンクにぶちまけてしまうだろうし、母親が冷凍保存しておいた手作りハンバーグも火加減を間違えて真っ黒に焦がしてしまうだろうし、それ以外の家事も未だに思い出せない。家に帰らずに遊びに行こうか、とも思ったが、小テストの点数がひどすぎたせいで追試をしなければならなくなったので、その予習をする必要がある、

「……あー、もう」

 もっと賢くなりたい。まともになりたい。美野里は自己嫌悪を渦巻かせながら、角を曲がった。すると、自宅の前に一台の車が留まっていた。黒のロールスロイス・ゴースト。物々しささえある外車に気圧されていると、その車から運転手が出てきて後部座席のドアを開いた。そこから、和装の老人が現れた。

「備前さんのお嬢さんですね?」

「あ、はい。そうですけど」

 この人はお金持ちだ。美野里が少々臆しながら答えると、老人は愛想良く笑みを見せた。

「東京まで出てきたのだから御挨拶でも、と思ったのですがね」

「だったら、事務所に行けばいいんじゃないですか?」

「御仕事の邪魔をするわけにはまいりませんよ。よろしければお話を聞かせて頂けませんか」

「え、あ、でも」

 美野里は俯き、目線を彷徨わせた。話すことなんてない。自分の話なんてつまらないから、両親に聞かせては無駄な時間を取らせてしまう。毎日毎日、あんなに忙しそうにしているのだから。だから、知らない人になんて。

「御両親の事務所には連絡を入れておきますから、無用な心配は掛けずに済みますよ。私が誰だか知らないから不安なのでしょう、でしたらお宅に上がらせて頂かなくとも結構ですよ。私の車でお話ししましょう」

 老人に促され、美野里は若干迷ったが、車に乗り込んだ。外に突っ立っているのは気まずかったし、かといって家に上げたところで、美野里では持て成せないからだ。母親のようにおいしい紅茶なんて淹れられないし、ケーキを切り分けるのでさえ下手なのだから。だから、その言葉に甘えておくことにした。

 ロールスロイスの後部座席はとても座り心地が良く、内装も洒落ていた。美野里はそれに感嘆しながらも、老人としばらく会話した。彼の名は佐々木長光といい、美野里の父親に財産管理の仕事を任せているのだそうだ。ならば社長なのだろうかと美野里が問うと、長光は笑って言った。無駄に広い土地と小金を掻き集めているだけの世捨て人であり、そんなに大層なものではないですよ、と。

 どんなことでもいいから話してくれ、若い人と話すのは久々だから、と長光に懇願され、美野里は躊躇いながらも話し始めた。内容は特になく、学校のこと、クラスのこと、部活のこと、通学途中で起きた出来事、テレビのことなど思い付く限りに話した。両親に言いたくても言えなかったことばかりだった。自分でも下らないと思っていたが、誰かに話したくてどうしようもなかった。一通り話し終えると、いつのまにか日が暮れていた。

 次に御両親にお会いする時はこちらから連絡します、予定の目処が立ったらこちらに連絡して下さい、と長光は電話番号を書いた名刺を手渡してきてくれた。美野里は深々と一礼してから、長光の車を見送った。

 それが、美野里と長光の出会いだった。



 両親は日を追うごとに忙しくなっていった。

 父親が独立して立ち上げた法律事務所は仕事量に比例して規模が小さく、若い弁護士や事務員の数も少なく、両親はどちらも深夜になるまで帰ってこなかった。それでも、たまの休みに母親が隅々まで綺麗に掃除をして料理の仕込みもしておいてくれるので、自宅は荒れなかった。美野里は退屈な日々を送っていたが、暇を持て余した末に長光に電話してみたところ、長光は嫌がりもせずに受けてくれた。それどころか、東京に出てきた時には直接会ってくれるようになり、あのロールスロイスに乗って美野里を行きたいところに連れていってくれた。

 観光名所、ショッピングモール、遊園地、繁華街、などと休みのたびに遊ばせてくれたばかりか、長光は美野里が欲しがるものを全て買い与えてくれた。流行りの服や靴、最新機種の携帯電話、パソコン、化粧品、本物のブランドバッグ、有名な洋菓子店のケーキ、と美野里の欲求を隅々まで満たしてくれた。どうしてこんなに良くしてくれるのかと美野里が不思議がると、長光は言った。孫が産まれるからですよ、と。

「だったら、私じゃなくてお孫さんを可愛がってやればいいのに」

 ロールスロイスの後部座席で、買ったばかりの服に着替えた美野里は首を捻った。

「私には二人の息子がいるのですが、折り合いが悪いのですよ」

 よくお似合いですよ、と長光は美野里の服を褒めてから、切なげに頭を振る。

「どうしてですか? だって、こんなにお金持ちで、長光さんはいい人なのに」

「それが息子達には鼻に突くようでしてねぇ。長男の長孝は資格を取って早々に家を出て、それきり一度も連絡してくれません。次男の八五郎もです。私の財産を食い潰そうと遊び回っていたようですが、ある時を境にやはり家に帰ってこなくなりました。妻も体が弱り切っているのですから、せめて孫の顔だけでも見せてやりたいのですが」

「こんなことを言うのは失礼ですけど、息子さん達は冷たいんですね」

「ですが、二人にも人生があるのですから、それを咎めてはいけないと思いましてね」

「でも、だからって……」

 美野里は値札を取ったばかりの服を見下ろし、少し気が咎めた。

「私も、御礼なんて全然していないのに、長光さんによくしてもらってばっかりで」

「美野里さんが喜んで下さることが、何よりの御礼ですよ」

「だけど」

 美野里が渋ると、長光は銀縁のメガネの奥で弓形に目を細めた。

「でしたら、少しお付き合いして下さいませんか? あまり時間は取らせませんよ」

 もちろん、美野里は快諾した。まだまだ遊び足りなかったし、長光を慰めてやりたくなったからだ。ロールスロイスは都内の道路を擦り抜け、繁華街を過ぎ、小一時間程で目的地に到着した。だが、そこは美野里が期待していたような場所ではなかった。これまで食事時に値の張るレストランや料亭に連れて行ってもらったことが何度かあったので、今回もそれだとばかり思っていた。しかし、行き着いた場所は病院だった。

 一乗寺私立病院。出産前のお嫁さんのお見舞いに来たのだろうか、と美野里は考えながら、背の高い白いビルを見上げていると、長光に急かされて病院に入った。長光が受付で職員に声を掛けると、少々の間を置き、スーツの上に白衣を着た男がやってきた。その男の胸元には、藤原忠、とのネームが下がっていた。

「やあやあ久しいですな、佐々木さん!」

 藤原が威勢良く挨拶すると、長光は丁寧に頭を下げた。

「忠さんこそ、御元気そうで何よりです。息子さんはいかがですか?」

「イオリは相変わらずだとも。与えただけ喰う、喰っただけ暴れる、そしてまた喰いたがる、その繰り返しだ!」

 そのイオリという少年は、余程元気が良いのだろう。美野里が長光の影に隠れていると、藤原は長光の背後へと回って美野里に近付いてきた。美野里がちょっと身を引くと、藤原は興味深げに見回してきた。胡散臭い男である。その胡散臭い白衣の男に案内されて、美野里と長光は応接室に案内された。

 美野里と長光が並んで座ると、藤原はその向かい側に座った。大柄な体格と濃い顔付きが、気の強い語り口とやたらと堂々とした態度に合っている。大金持ちの長光に会っても下手に出る様子は全くないので、どこかの会社の社長なのかな、と美野里は内心で見当を付けた。

「それで、今日はこちらのお嬢さんとはどんな御用で? アレを見舞おうというのであれば、考え直した方がよろしいでしょうなぁ。あの娘はまた悪さをしでかしてきましたし、弟は大人しくしているだけで精一杯ですからな」

「あの姉弟には近付きませんよ。あなた方も、それは同じでしょう」

「ふはははは、そうとも、そうだとも。いや、解っていらっしゃる。アレは検体としては非常に貴重であり、稀少なので、すぐに手を施すのは勿体ないのですよ。ですから、我らも手を出しません。他の連中もそうでしょうとも」

「エンメイさんは?」

「最近、とんとあれとは顔を合わせませんなぁ。都内に部下をばらまいて、何やらごそごそしているようですが、それが何なのかまでは見当が付いていませんよ。付いていたとしたら、とっくに手を打っておりますがね」

「そうですか。それはあれかもしれませんね、タカモリさんの御家事情と関わりがあるかもしれませんねぇ」

「だとしても、それこそ手を出せませんなぁ。連中の技術は我が社にとっても有益ですが、掴み所がなさすぎて。D型アミノ酸ですら持て余し気味だというのに。佐々木さんが我々に売却して下さる薬も、成分分析が思うように進んでおりませんのでね。化学式の組み方が、我らの知る範疇とは違うのかもしれませんなぁ」

「あれは再現出来ませんよ。あれだけは」

「ふははははは、そうでしょうとも」

 藤原は高らかに笑ってから、今一度、美野里を見据えた。

「して、本題に入りましょう。私が来ている日にここを訪れたということは、そういうことでしょうからな」

「ええ、そうですよ」

 長光もまた、美野里を窺う。美野里は戸惑い、身を縮める。

「あの、私、なんでここに連れてこられたんですか?」

「美野里さん。こんなにも愛らしいあなたと向き合おうとしない御両親は冷ややかですね」

 長光が柔らかく言う。その言葉に美野里は胸中を潰され、う、と声を詰めた。そうだ、そうなのだ。両親が自宅にいてくれる時間はほとんどない。今週だって、朝も晩も顔も見られなかった日がある。美野里の部屋に新しいものがどれだけ増えていようと、両親は気にも留めてくれない。普通の親子だったら、どうやってそんなものを買う金を手に入れたんだ、と詰問してくるはずだ。それなのに、咎めもしない。

 だから、長光に構ってもらいたかった。可愛がってほしかった。一緒にいてほしかった。けれど、長光では両親の代わりにはならない。現実を突き付けられ、美野里は項垂れた。真新しいスカートの布地にぼたりと涙が落ち、染みになった。長光は優しい手付きで美野里の背中をさすってやりながら、言葉を続ける。

「学校で何があったのか、というお話も聞いてくれませんものねぇ。食事時も仕事の話をするばかりで、美野里さんに気を割いてくれませんしね。お休みの時も、家の仕事をしているばかりで一緒に出掛けてもくれませんしね。お辛いでしょう、寂しいでしょう、悲しいでしょう」

 長光の語気の穏やかさに、美野里は震える顎を食い縛ったが嗚咽が漏れた。

「御両親と同じ目線に立てば、御両親は美野里さんを認めてくれることでしょうね」

「……で、でも、わたし、ばかで、ばがでぇっ」

 馬鹿だから、両親には絶対追いつけない。美野里が頭を抱えて嘆くと、長光は美野里の背を軽く叩く。

「美野里さんは賢くなれますとも。ねえ、忠さん?」

「精密検査と免疫反応をしてみる必要はあるが、まあ、アレは何者も拒まないですからな」

 だから大丈夫でしょう、と藤原が念を押したので、長光は美野里の顔を上げさせてハンカチを差し出した。

「美野里さん。あなたは誰よりも素晴らしい存在になれますよ。御両親も、きっと誇らしく思われますよ」

 そうなれば、どんなに幸せか。美野里は感情の堰が切れ、声を上げて号泣した。あまりにも泣きすぎたので、施術をするのは日を改めて、ということになり、長光の車で自宅に送ってもらった。けれど、やはり家の中は冷え切っていて窓明かりも点いていなかった。それが、美野里の決意を一層強くした。

 一ヶ月後、美野里はあの病院で施術を受けた。精密検査を受けた後、何がいいか選んでくれ、と藤原が昆虫標本を差し出してきたので、美野里はホタルを選んだ。他の虫はどれも気色悪かったが、ホタルは光るところが素敵だと思ったからだ。麻酔を掛けられ、半日以上眠ってから目覚めると、美野里は変わっていた。

 薄く霧が掛かっていたかのような頭が冴え渡り、どんな問題でも淀みなく解けるようになり、知識も息をするように覚えられるようになり、運動も出来るようになった。しかし、味覚が著しく変わり、それまで好物だった料理や御菓子を受け付けなくなった。頑張って胃に入れても吐き戻すようになり、仕方ないので病院で処方された赤いカプセルとスポーツドリンクを飲んで腹を満たしていた。そしてある日、ホタル怪人に変貌した。

 恐怖と混乱のあまりに長光に泣きながら電話をすると、長光は美野里にこう言った。落ち着いて、大丈夫だから、それよりも今はその姿を御両親に見られないようにするべきだ、だから外に出た方がいい。それに従って美野里が自室の窓から抜け出すと、長光は続けた。今から言う場所に孫が連れてこられる、息子夫婦は孫を養子に出してしまうつもりだ、だから孫を助けてやってくれ、美野里さんの御両親には話を通しておくから、孫を育ててくれないか、と。なんて冷酷な、と美野里は躍起になり、長光に言われるがままに動いた。

 そして、都内一等地にあるタワーマンションのエントランスにやってきた車を襲い、武装した男達を蹴散らし、一人の男の片目を潰し、長光の孫を奪い取って逃走した。だが、初めて怪人に変身したからだろうか、次第に体の自由が効かなくなってきた。自宅の玄関先に赤子を置いてから自室に飛び込んだ途端、人間体に戻り、美野里は全身を震わせる達成感ととろけるような高揚感に浸った。ああ、これでまた長光から褒められる。褒められる。

 それから、佐々木つばめは備前家の一員になった。



 更に十年後。

 美野里はつばめの立場と能力を知り、つばめに過剰なスキンシップを取ることで管理者権限を利用して人間への捕食衝動と変身を制御しながら、父親の事務所で弁護士として雇われていた。怪人になったことで司法試験も無事合格出来たのだ。大学の在学中に長光から仕事を命じられ、一ヶ月ほど触手にまみれた男と付き合う羽目になってしまったが、なんとか乗り切った。寺坂の性格も触手も何もかも嫌だったが、長光のためならばと思えたからこそ、最後まで踏ん張れた。おかげで両親と対等になれたが、つばめとの付き合い方に困っていた。

 つばめは美野里に甘えてくる。両親にも甘えてくる。独りでに喋って動く、不気味なパンダのぬいぐるみをいつも連れていて、それと会話している。しれっと我が侭を言い、かつて美野里がしてもらいたかったが言い出せなかったことを、難なく両親にしてもらっている。へらへら笑う。人の顔色を窺う。要領が良い。最初から賢い。手先が器用だ。お姉ちゃんお姉ちゃん、と美野里を無条件に慕ってくる。それが、どうしようもなく腹が立つ。

 どろりとした敵意を腹の底に隠しながら、美野里は明るく笑って暮らしていた。そんな最中、父親が長光の実家に招かれたので、美野里は喜んで同行した。長時間のドライブの末に辿り着いたのは田舎という言葉を体現している場所で、山と田畑以外は何もなかった。古い合掌造りの家に一人で暮らしている長光の元を尋ねると、白黒の外装に赤いパトライトを備えた人型ロボットが出てきた。それから、長光が備前親子を持て成した。

「あれは長男が作って寄越したものなのですよ。私の暮らしを楽にするためだ、とは言っていましたが、それがどこまで本当なのやら。ただ、見張っておきたいだけなのかもしれません」

 長光は、背景に全く似合わないロボットを見、苦笑した。それから長光はつばめの近況を訊いてきたので、美野里は元気だと答えた。蹴り飛ばしたくなるぐらいに。長光は満足げに頷き、笑みを零した。こんな顔は美野里に対して見せてくれたことはない。つばめが実の孫だからだ。それなのに、つばめとその両親は長光に会おうともせずに、田舎に押し込めている。許し難い。許せるわけがない。許していいはずがない。

 正義感に似た怒りが、徐々に溜まっていった。



 それから二年後。すなわち、現在から三年前。

 長光が遺言状をしたためた。その理由は、長男である長孝が警官ロボットを改造したからだという。今までの警官ロボットは一般的な動力源と回路を備えていただけだったので、脅威ではなかったが、本来は長光の所有物である遺産を警官ロボットに搭載させた。だが、その遺産、ムリョウはつばめの管理者権限によって長光の所有権が解除され、上書きされていたので、つばめの意思一つで長光を陥れられるようになったのだそうだ。

 それなのに、長光の遺言書にはつばめに全ての遺産を譲渡すると書き記されていた。仕事の合間を縫って船島集落を訪れた美野里は、遺言書の草稿を見て愕然とした。長光はいつものように穏やかに笑っているだけであり、青ざめる美野里とは対照的だった。美野里は震える手で草稿を置き、長光を問い質した。

「なんでこんなことにするんですか!? だって、あの子も、あの子の親も、長光さんにひどいことばかり!」

「落ち着きなさい、美野里さん」

 長光は美野里を宥めてから、緑茶を勧めてきた。美野里はそれに少し口を付けたが、味が解らなかった。

「遠からず、私は肉体的な死を迎えます。妻に尽くしていましたから、あまり長持ちはしないと自分で解っています。ですが、私は精神的な死は迎えません。妻から受け取った遺産に、私の精神体を移してあるからです。今は下の息子の娘に預けてありますがね」

「それ……どういうことですか?」

 長光が死ぬなんて、嫌だ。美野里が泣きそうになると、長光は外を指し示した。

「私の妻、クテイはこの先にある桜の木と一つになっています。妻はこの世の者ではないので、得るものも人間とは違います。ですから、クテイをより満たしてやるために、私は一時的につばめさんに遺産を全て預けるのです」

「でも、それじゃ」

「遺産相続の仕事は美野里さんが引き受ければよろしいのですよ。そうすれば、名義を変えても正規の手続きさえ行わなければ、遺産の名義もそのままです。私の死亡届も同様です。そうすれば、万事上手くいきますとも。クテイも喜んでくれることでしょう」

「奥様が?」

「ええ、そうです。クテイは遺産と繋がりのある者が生み出す、心の揺らぎを喰らうのです。中でも、クテイの管理者権限が隔世遺伝している、つばめさんのものは特に喰らいやすい位置にあります」

「心の……」

 それは、つまり。美野里が浅く息を飲むと、長光は笑みを絶やさずに返した。

「ええ、そうです。つばめさんが苦しんだり、悩んだり、困ったり、怒ったりすれば、クテイは喜びます。そして、クテイの力を受ければ、生まれ変わった私が目覚めるのも早まります。ですからね、美野里さん」

 存分にあの子を追い詰めてやって下さい。長光の言葉に、美野里は軽く目眩がするほど歓喜した。無意識のうちに笑みが顔一杯に広がり、頬が火照り、胸が高鳴り、目尻から滲み出た涙が化粧を溶かしそうになった。つばめを追い詰めて苦しめて痛め付けて悲しませれば、長光の利益になるだなんて。利害が一致している。

 喜びすぎて、船島集落にいつのまにか居着いていた一乗寺に気付かず、檀家の僧侶である寺坂が佐々木家を訪れたついでに美野里をナンパしてきたことも忘れてしまい、鼻歌を零しながら東京への帰路を辿った。

 これで、心行くまでつばめに危害を加えられる。



 懐かしい記憶は、不意に途切れた。

 細切れの夢から意識が浮上してきた美野里は、複眼に映るものを睨め回した。無数に区切られた同じ光景の中には、白い防護服を着た人間が何人も立っている。至るところに訳の解らない計器が置かれ、電子音が耳障りだ。透き通ったビニール製の薄膜が周囲を覆っていて、外界と隔てられている。隔離されているのだ。

 ここは一体、どこなのか。再生を終えた顎を開こうとするが、がつん、と金属に阻まれた。触角もテープか何かで頭部に貼り付けられていて、自由に動かせない。六本の足も同様で、鈍い光を放つ重たい鎖が繋がれた拘束具に戒められていた。ああ、そうだ。化け物だからだ。人間ではないからだ。虫だからだ。

「意識が戻る前に解剖しちゃえばいいのになぁ。ほら、ここ、見てみろよ」

「うわ、もう再生している。さっきまで、内臓も見えていたのに」

 防護服を着た人間達は美野里を眺め、興味深げに小声でやり取りした。声からして若い女性と男性だ。

「採取した体液の分析は出た? フジワラ製薬から横流しされたデータと比較した?」

「それが凄いんだ。もう血液でも何でもない、D型アミノ酸しかないんだ。被験者が施術された直後の成分は限りなく人間に近かったんだけど、今は全然。根本から別の生き物だね」

 タブレットを操作しながら、中年男性が首を横に振ると、首を覆っているカバーも動いた。

「でも、この技術を人間に使えれば不老不死だって目じゃないですよねぇ……」

 女性が美野里を防護服越しに眺め回してきたが、男性が彼女の肩を叩いた。

「それをやると、俺達もフジワラ製薬と同じ道を辿っちまうぞ。大体、こいつらのは不老不死なんかじゃないんだよ。体液に成り代わっている妙な粘液が、その場その場でDNAをいじくっているんだ。だから、そう見えるだけだ」

「え? そうなんですか?」

「そうなんだよ。恐ろしいことにな。先天的にこの生き物として産まれた藤原伊織は別だが、こいつみたいに後天的に体をいじくった連中は、DNAの配列が滅茶苦茶なんだ。何度も切り貼りを繰り返しているから、ほれ」

「うへー……デタラメだ。もう人間でもなんでもないや。でも、そんなのがどうやって繋がっているんです?」

 タブレット端末を覗き込んだ若い男性が尋ねると、中年男性は答えた。

「変身するたびに正確な遺伝子情報がサーバーから転送されてくる、とでも言うべきかな。とにかく、あの粘液だけではこんな能力は得られない、ということは立証されているんだ。それで、こういう連中が人間体から怪人体に変身している最中にも生体組織を採取して分析して、出た結果がこれだ。一秒ごとに配列が組み変わって、最後に元通りに繋がっているだろう?」

「うわー本当ですね。でも、そのサーバーと連絡を取っているって事実をどうやって解明したんですか?」

 女性が不思議がると、中年男性はタッチペンを使って画像をスクロールさせる。

「分厚い鉛で作った箱の中に水を溜めて、更にそれを地中深くに沈めた中に怪人を詰め、脳波に似せた電気信号を流して強引に変身させようとしたんだ。極限状態で生き残れるかどうかの実験だったんだが、実験は成功せず、被験者は溶解してただの液体と化したんだ。だから、外部との連絡が取れないと変身出来ないんじゃないか、という推論が生まれて、それから同様の実験を繰り返した末に判明したんだ」

「非人道的にも程がありませんか?」

 若い男性が不快感を露わにすると、中年男性は肩を竦める。

「相手は人間じゃないんだ。どう扱ったっていいんだし、そもそもこの国には怪人を取り締まる法律がない。イコールで怪人には人権もクソもないってことだ。だから、こいつをどう扱おうとも、何の罪にも問われない」

「でも……この人、弁護士さんなんですよね? それなのに、どうしてこんなことに……」

 女性が少し同情的な眼差しで美野里を窺うと、中年男性は諌めてきた。

「上の連中がアソウギと呼んでいる液体は、本人の意志がなければ決して同化しないんだ。それも実験で判明した事実なんだ。だから、こいつは自分の意思で怪人になり、人間に危害を加え、やり返された。そんなことをいちいち考えていたら、仕事が一向に進まないぞ。試薬を投与して反応を見る。それがなければ、解剖に回す」

「え、でも、上の許可が下りていませんよ?」

 若い男性が躊躇うと、中年男性は急かす。

「そんなものを待っていたら、仕事が終わらんじゃないか。D型アミノ酸の分解酵素を投与してみて、こいつが反応すれば触手の化け物にも効くはずなんだ。出来れば生体解剖したいところが、あの化け物の皮膚はゴムみたいに柔らかいのに刃物が通らないから、負傷箇所から分解酵素を流し込むしかない。内臓が溶けずに出てくる保証はないが、あのまま放置しておくよりはいいさ。どうせ、煮ても焼いても食えない連中だ」

「でも、分解酵素ぐらいで死にますか? って、ああ、さっきありましたね。あの御嬢様が暴走してL型アミノ酸を一瞬で粉々にする分解酵素を作り出して、触れた人間を次々に水に変えた、って。つくづく恐ろしいですね」

 恐怖に駆られて女性が身震いすると、若い男性は白い手袋を填めた手で上腕をさすった。

「こんなことなら、俺、別の会社に就職しておけばよかったなぁ。吉岡グループに入社出来た俺って人生の勝ち組、とか思っていたのに、まさか怪人だの宇宙人だのを相手にしなきゃならないなんて。うーキモッ」

「ごちゃごちゃ言っていないで、さっさと行動しろ。まずは分解酵素を持ってこい」

 中年男性はタブレット端末を振って二人を追いやると、二人はまだ何か喋りながら、ビニールの薄膜の外に出ていった。また、防護服姿の人間が入れ替わり立ち替わり出入りし、吊り下がっている点滴を外したり、計器の数値をチェックしたり、と忙しなくなってきた。分解酵素を投与するための準備なのだろう、瞬膜を貫いていた太い針が引き抜かれて体液が噴出した。銀色の実験器具に映る自分を見、美野里はぼんやりと考えた。

 散々痛め付けられたホタル怪人は情けなく、研究者達のオモチャに成り下がってしまったようだ。あれほど苦労して手に入れた弁護士の肩書きも、それに準じて得た社会的地位も、そこに至るまでの経歴も、備前美野里としての過去も、名前も、何もかもが無視されている。否定されている。なかったことになっている。

 現行の法律では怪人は存在が認知されていないので、人間として扱う理由もなければ義務もないため、怪人に何をしても罪に問われないのは知っている。法律家の端くれであり、我が身に関わることだから、細部まで把握している。だが、人間としての経歴が存在していることすらも無視されてしまうのか。ロボットでさえも、破壊すれば器物破損の罪に問われるというのに、美野里はロボットにも劣るのか。道具ですらないのか。

 確かに美野里は折れた刃だ。コジロウを味方に付けていたのに、武公というロボットファイターに弄ばれ、ご覧の有様だ。自分なりに頑張って研究し、戦い方も学んでいたつもりだったが、対人戦だけを頭に叩き込んでいたから、ロボットの対処法はほとんど得ていなかった。コジロウを相手にすることは想定していたが、その場合は真っ先につばめを手に掛ければいいと考えていたからだ。だが、コジロウ以外のロボットと戦う可能性を見逃していた。浅慮にも程がある、情けない、腹立たしい、馬鹿馬鹿しい。そんな調子で、よくも長光に褒めてもらえると思い上がっていたものだ。自分で自分が憎らしくなり、美野里は拘束具を噛み千切りかねない力で顎を動かした。

 ばぎんっ、と顔の両脇でボルトが吹っ飛び、ビニールの薄膜を突き抜けた。途端に周囲から悲鳴が上がり、何が起きたんだと騒ぎになった。何事かと首を捻ると、美野里の顎に填っていた拘束具が壊れていた。試しに顎を開閉させてみると、それはずるりと抜け落ちて床に転がった。急拵えらしい、不格好な継ぎ接ぎの金属塊だった。

「顎の筋肉も再生していたのか!? まさかそんな、神経まで切れていたのに!」

 中年男性が後退ると、美野里は少しだけ気分が晴れた。そうだ、怯えてくれ。恐れてくれ。

「鎮静剤! いやそんなものは効かない、液体窒素でも持ってこい! あるだろ、成分分析用に持ち込んだやつが! 早くしろ、動き出したら喰われるぞ!」

 中年男性は現場の主任なのか、指示を飛ばすが、部下達の動きは鈍かった。皆、自分以外の誰かが動いてくれと考えているようだった。再度怒鳴られると、少々間を置いてから人々は動き出し、液体窒素のボンベを引き摺って薄膜の中に運んできた。重たそうな円筒形のボンベの下にはキャスターが付いていて、それに繋ぐための安全弁が付いた金属製のチューブも抱えてきた。手が震えているのか、上手く弁が開けないらしく、作業が滞っていた。

 顎が動くのであれば、他の部位も動くはずだ。そう確信を得た美野里は上両足を曲げてみると思い通りに曲がり、鎖が根本から外れ、大きくしなった。鞭のように揺れた太い鎖は液体窒素の安全弁を開こうと苦戦していた人間の頭部に激突し、防護服の内側に赤黒い液体が散り、崩れ落ちた。頭蓋骨でも砕いたのか。

「うっ……」

 それに臆した人間が身を引こうとすると、中年男性が防護服を掴んで引き留めた。

「逃げてどうする! いいから、お前が代わりに開けろ! 早くしないと、被害が出る!」

 続いて中両足、下両足、と鎖を引き抜いて、下両足で直立する。触角を止めていたテープを剥がしたが、爪先に貼り付いてしまったので、爪を擦り合わせてテープを刮げ落とした。触角を揺らして匂いを絡め取ると、様々な薬品の匂いが濃厚に漂っていた。鎖が邪魔なので引っ張ってみると呆気なく千切れたが、手錠のように填っている金属の輪は見事に溶接されていて、美野里の爪だけでは壊せそうになかった。そんなものは後回しでいい、今は早急にここから脱出しなければ。そしてまた、長光の役に立たなければ。

 爪を振るうと、ぐにゃりとした手応えの後に生温い液体が噴き上がった。がなり立てていた中年男性の首が舞い、ビニールの薄膜に突っ込んだ。凄まじい絶叫が窓を震わせ、我先に逃げようとドアに人々が殺到する。美野里は血で汚れたビニールシートを切り裂いて外に出ると、頭部をぐるりと回した。シュユを痛め付けられる、D型アミノ酸の分解酵素を手に入れておくべきだと判断したからだ。だが、それらしいものは見当たらない。

「分解酵素はどれ?」

 逃げ遅れた人間を下右足で踏み付け、無遠慮に尋ねると、防護服の中で荒く息をしながら手を挙げた。がくがくと上下する指が示したのは、錠前が付いているジュラルミンケースだった。拾ってみると、大きさに割に軽かったので保温用に出来ているのだろう。錠前を壊すのは簡単だが、迂闊に中身を出したせいで効力を失っては何の意味もない。シュユの居所を突き止めてから錠前を壊し、中身を出し、シュユを切り裂いて注ぎ込んでやる。

 そうすれば、長光に褒められる。



 頭の奥から、他人の思考が滑り込んでくる。

 遺産の互換性が、無意識と意識の狭間で情報を共有しようとするためだ。つい先程まで、道子を経由した情報の奔流に襲われていたと思ったら、今度はまた別の方向からやってきた。携帯電話なら電源を切ればいいのだが、こればかりはそうもいかない。羽部は鈍い頭痛に顔をしかめながら、上体を起こした。

 それも、備前美野里の思考だ。フジワラ製薬が製造したD型アミノ酸の分解酵素を利用して、シュユを物理的に殺そうとしている。そんなことをすれば、物質宇宙と異次元宇宙の均衡が崩れてしまうではないか。佐々木長光がクテイに人間達の感情を貢ぐために作り上げた、遺産の互換性を利用したネットワークの均衡は危うい。シュユの存在が作り出した均衡によってクテイの精神体が異次元宇宙に留まっているからこそ、捕食対象は佐々木一族に限られているが、それが壊れ、クテイの触手が佐々木一族の外側に伸びてしまえばどうなることか。

「ああもうっ!」

 これだから、危機意識の足りない文系の女は。苛立ち紛れに羽部が怒鳴ると、美月が跳ねた。

「わあっ!」

「なんだ、いたのか」

 存在を思い出した羽部が振り向くと、美月はベッドを囲むカーテンにしがみついていた。

「びっくりしたじゃないですかぁ、いきなり大きな声を出さないで下さいよ」

「それは君が勝手に驚いただけであって、この優れすぎて脳細胞が新陳代謝によって死滅することを拒否する僕に対して失礼極まりないね。大体、なんで病室にいるのさ。着替えるぐらいなら、帰ればいいじゃないか」

 羽部は包帯を巻いたままの顔を背けながら文句を言うと、美月は座り直した。

「なんで着替えたって知っているんですか? 羽部さんの意識が戻ったのって今朝ですよね」

「そりゃあ」

 単純に二度寝したからだ。丸一日眠って目覚めた後、傷の治りが今一つだったのと、設楽道子を経由して流れてくる異次元宇宙とニルヴァーニアンに関する情報の膨大さに辟易したからである。それを説明するのが億劫だったので、羽部が黙ると、作業着姿の美月は自分の服装を見下ろして小声で呟いた。やっぱり可愛くないよね、と。

 それが、無性に気に障った。見た目を気にするような場所か、相手か、状況か。大体、着飾ってこられても反応に困るだけであって嬉しくもなんともない。羽部が日頃から見慣れている美月は、機械油に汚れていてロボットの部品をいじくり回しながら、作業場で鳴らしている大音量のヘヴィメタルを聞き流している姿であって、背伸びをした服装や化粧をしている姿ではない。それに、羽部とはそういったデリケートな関係ではないのだ。近所に住む年上のお兄さんのような立場であれば当たり前だろうが、羽部は美月の監視役として差し向けられたのであって。

「……ん?」

 ふと、自分の立場を思い返してみて、羽部は疑問に駆られた。そういえば、なぜ自分は弐天逸流から美月の監視を任されたのだろうか。美月の母親は、ハルノネットで設楽道子を偏愛していた美作彰の姉であるが、それだけだ。美作彰が所有していたアマラは現状では所在不明だが、恐らく騒動の最中に政府にでも押収されているのがオチだろう。ムジンを奪って弐天逸流の所有物にする、というのが本懐だったのだろうか。だが、羽部が美作彰の部屋から強奪して弐天逸流に持ち込んだムジンは、今や佐々木つばめの手に落ちている。一時的に御鈴様の脳内に転送しておいたムジンのプログラムも、コジロウが所有しているムジンの欠片に移し替えられているだろう。ならば、羽部が美月の傍に置かれた理由はなんだ。なぜ、彼女を見守らなければならない。

 レイガンドーにも、ムジンの欠片は搭載されている。岩龍にもだ。だとすれば、美月はつばめと同じように感情をクテイに喰い物にされるために捧げられた、異形の神への供物なのか。だが、美月の母親である小倉直美が信仰していたのはクテイではなく、シュユである。そして、シュユの分身の一つであるゴウガシャに日々御経を唱え、祈りを捧げ、信仰心を貢いでいた。しかし、当の美月は母親を遠巻きにしていた。疎んでいた。だから、シュユが美月の信仰心を喰えていたわけではない。むしろ、美月がいるから、レイガンドーはつばめとは接触せずにいた。遺産と管理者権限所有者を近付けさせることもなく、均衡を保っていた。それは佐々木長孝の考えであるが、弐天逸流がそれに乗っかってくる理由が見通せない。また苛々してきた。

「君さぁ」

 羽部が包帯に隠されていない左目を据わらせると、美月はテレビを付けようとしていた手を止めた。

「はい?」

「レイガンドーが地下闘技場に入り浸る前までは、毎日何していたの?」

「何って……何も。レイの人工知能を成長させるためでもあったんですけど、毎日一緒にいて、学校であったこととか、テレビのこととか、漫画のこととか、とにかく色んなことを喋ったんです。昔はレイも大人しくて、反応も薄かったんですけど、段々レイも成長してきたなぁって思ったら一気に大人になっちゃって。昔は弟みたいだなぁって思っていたんですけど、今はレイの方がお兄ちゃんって感じで」

 ちょっと照れ臭そうに語る美月に、羽部はまた苛立ちを覚え、無傷の頬を引きつらせた。

「何それ」

「何って、羽部さんが聞いてきたんじゃないですか。失礼な」

「君に礼儀を払うべき立場にあると思うのかい、この素晴らしすぎて非の打ち所を探す意味すらない僕が」

「はいはい」

「なんだよ、そのロープに振っておいたくせに何もしないで場外に逃げたような反応は。気に障るな」

「羽部さんが元気で安心しました。いつもの調子だなぁって。運ばれてきた時、顔の右半分がべっこり抉れていたので死んじゃうんじゃないかって不安で不安で仕方なかったんです。羽部さんまでどうにかなったりしたら、私、さすがに折れちゃいそうでしたから。だって、レイがレイじゃなくなるかもしれないから」

 美月は笑みを保ったままだったが、俯き、油染みの付いた作業着を握り締める。

「お父さんが、レイと岩龍に入っているムジンを外してコジロウ君に移し替えるって言っているんです。その方が良いって解っているし、ムジンはつっぴーのものだし、これから何が起きるか解らないからコジロウ君が強くなった方がいいし、これ以上……怖いことに巻き込まれるのは嫌だし。でも」

「レイガンドーの人格は異次元宇宙に依存している部分が大きいね。それはコジロウと同じだ。ムジンを使っている時点で、連中は遺産に寄り掛かっているからね。だから、ムジンを外せば遺産の互換性から生じたネットワークから乖離することになるのであって、レイガンドーも岩龍も既存の人格を維持するのは技術的に不可能だ。人格ってのは過去と経験と知識の累積だけで出来上がるものじゃない」

「です、よね」

 美月は肩を震わせ、声を詰まらせる。ああ鬱陶しい。

「だが、それはムジンが物質宇宙から乖離した状態であることが前提の話だ。コジロウは知っての通り、物質宇宙に現存している警官ロボットであり、佐々木つばめとベッタベタで事ある事にぶん殴りたくなるぐらいにイチャイチャしている。佐々木つばめのことだ、レイガンドーと岩龍の人格を否定したりはしないだろうし、むしろ残す方向で行くだろう。行かないわけがない。だから、今後はコジロウを経由して異次元宇宙からレイガンドーと岩龍の人格に深く関わる情報を常時ダウンロードするように設定してくれ、とでも頼めばいい。もっとも、そんな小細工が出来るのは佐々木つばめじゃなくて設楽道子だけどね。あいつも戻ってきているし、君の頼みを突っぱねるほど冷酷じゃないだろうさ。余程の問題がない限りはね」

「……そう、なんですか?」

 徐々に顔を上げた美月に凝視され、羽部はちょっと身を引いた。やりづらい。

「これは全てこの僕の仮定に過ぎないから、鵜呑みにすると馬鹿を見る。その通りになるとは限らないけど、それが実行出来る可能性もなくはないってだけだ。だから、そんなにこの僕を見るな」

「ありがとうございます、おかげでちょっと元気出ました」

 ベッドに身を乗り出してきた美月に微笑まれ、羽部は顔をしかめた。ああ、面倒臭い。

「ああ、そう?」

「羽部さんっていい人ですね」

「馬鹿じゃないの?」

 死体を弄び、喰らうのが好きな輩が善良なものか。羽部は吐き捨てたが、美月は上機嫌だ。

「それでですね、羽部さん。全部終わったら、てか、ゴタゴタが一通り片付いたら、うちの会社に来ませんか?」

「はあ? この僕の専門は遺伝子工学なのであって、油臭いロボットなんかに近付きたくもないんだけど?」

「いえいえ、現場じゃなくて事務方です、事務方。社員もロボットファイターも数が増えてきたので、事務仕事も結構多くなったんですよ。ですからね」

「お断りだよ。中学生に就職を斡旋されたくはないね」

「そうですか。でも、丁度良いと思ったんだけどなぁ。そうすれば」

 羽部さんともっと話が出来るのにな、と美月は寂しげに呟いた。鬱陶しい。心底苛々する。煩わしい。面倒臭い。処理しきれない。手に負えない。羽部は温度の高い感情を持て余し、口角を歪めた。自覚するのが嫌だ。こういう柔らかいものは自分とは最も縁遠いから、敢えて自分から拒絶していた。なのに、美月はそれを知ってか知らずか羽部の心中に踏み込んでくる。シュユはこれを求めているのだ、と心の隅で認識する。荒れ狂うクテイを盲信的に愛する佐々木長光と、祖父母に喰い物にされる佐々木つばめを見ているだけでは辛いから、レイガンドーを通じて美月の柔らかさを喰らっているのだ。それを知っていたから、佐々木長光は吉岡りんねの姿で美月を陥れようとしたのだ。シュユを追い詰め、遺産を全て奪い取るために。回りくどいが、周到だ。

「あのさあ」

「はい、今度はなんですか」

「他の男にそういうことしたら、大いに勘違いされてストーキングされて刺されて殺されるからね?」

「なんですか、それ。でも、大丈夫ですよ。レイもいるし、それに」

 美月は語気を濁し、その続きは言おうとしなかった。年相応に幼い横顔には羞恥が浮かび、羽部はまた苛立ちを覚えた。嬉しいと認めてしまえ、と心中で誰かが囁くが、それを認めたら羽部は己を否定することになる。だから、最後まで認めなかった。自分に対して好意を抱いてくれている少女に、生温い好意を抱いた事実を否定した。

 適当な用事を命じて美月を病室から追い出してから、羽部は点滴や計器を外し、ベッドから下りた。体は本調子とは言い難いが、備前美野里の所業を見逃せなかった。だが、それは断じて正義感ではない。倫理観ですらない。単純に、自分の好意をシュユとクテイのどちらにも喰われたくないと思ったからである。尻尾を振り上げて嵌め殺しの窓を叩き、砕いてから、折り曲げた下半身を伸び切らせて跳躍し、空中に飛び出した。

 化け物に少女を好く資格はないが、紛い物の神に好意を喰われる理由もない。



 手当たり次第に人間を殺し、潰し、刻み、シュユの居所を聞き出した。

 少し前であれば、他人を傷付けることに躊躇いがあった。人間を殺さずにいることで、安易に人間を殺傷しては捕食している他の怪人達との差別化を図っていたからだ。自分だけは違う、フジワラ製薬の社長のつまらない趣味で生み出された娯楽の産物ではない、長光に全てを捧ぐために力を得たのだと。後は、当たり前の日常に対する甘っちょろい未練のせいだ。人殺しをしなければ、怪人であっても、後ろめたい気持ちを持たずに実家に帰れるのだと思っていたからだ。だが、備前家はつばめに奪い取られ、美野里がいるべき場所ではなくなった。だから、もう未練の欠片もない。何をしようとも気が咎めない、恐れない、臆さない。

 爪から滴った生臭い体液をぴんと弾いてから、警備員の生首を投げ捨てる。政府の人間も配備されていたらしく、物陰から現れた重武装の戦闘員達が美野里に狙撃を開始した。鋭い破裂音の後に外骨格に激突した弾丸は一つ残らず潰れ、無様な鉛玉が重たい雨となって足元に散らばる。複眼の端で遠方のビルの窓から狙いを定めている狙撃手の姿を捉えたので、すかさず警備員の胴体を拾って盾にする。途端にライフル弾が呆気なく貫通し、臓物の内容物が扇状に飛び散った。それらを受けた複眼を拭わぬまま、美野里は首をぐるりと回す。

「もういいわ」

 再生して間もない羽を広げ、震わせる。警備員の胴体を投げ捨ててから跳躍した美野里は、一息で大きな資材倉庫の天井付近に飛び上がった。銃撃もそれに従って上向いてきたが、美野里の動作を追い切れずにあらぬ方向を狙撃しては跳弾させてばかりだった。彼らに構っている暇はない。

 美野里は体の陰に隠して守ってきたジュラルミンケースが傷付いていないと確かめてから、倉庫の奥を見据え、横たえられているシュユの姿を確認した。それを見た直後に思い出したのは、ガリバー旅行記である。小人の国に漂着して砂浜に打ち上げられたガリバーが小人達の手で綱を掛けられてしまった、という場面の挿絵を思い起こす構図だったからだ。赤黒い触手を両手足に当たる部分から生やし、光輪を背負っている巨体の神、シュユは、触手の根本と首と光輪と腰の部分にワイヤーを掛けられて、コンクリートの床に固定されていた。光輪が光っていないので、シュユの意識は失われたままなのだろう。分解酵素を流し込むなら、今だ。

 今一度、銃撃戦が再開された。だが、美野里を狙っているわけではないらしく、銃弾は見当違いの方向に発射されている。何事かと美野里が天井の梁から下を覗き見ると、にょろりと長い影が見えた。

「当てないでくれる? 一度でも当たったら、傷を塞ぐために余計な体力を使うからね」

 羽部鏡一だった。顔の右半分にガーゼを当てて包帯で覆い、入院着を着ているので、病院から抜け出してきたのだろう。美野里が盾にしていた警備員の胴体を拾い、ライフル弾が貫いた傷口に牙を立て、粘っこい水音を立てて血液ごと臓物を吸い上げた。ぐちゃぐちゃと行儀悪く人肉を喰らってから、眉間を顰める。

「硝煙臭っ」

 入院着の胸元を血で汚した羽部は、ヘビの下半身をくねらせながら倉庫に入ってくる。戦闘部隊の男達は自動小銃をリロードし、羽部に狙いを定めたが、羽部は瞳孔が縦長の目で彼らを一瞥する。

「あれと戦えると思うだなんて、君達は救いようがなさすぎて神仏も裸足で逃げ出すレベルで馬鹿だな。無駄な損害を出したくなかったら、さっさと撤退した方が数十年は長生き出来ると思っていいよ。ああでも、勘違いだけはしないでくれる? この優れすぎて何者にも代え難いがあまりに死することも許されない僕は、君達を守ろうとか救おうとか助けようだとか、そんなクズでクソでヘボな少年漫画のライバルキャラみたいなことは言わないからね? 単純に、面倒臭いんだよ。君達の誰かが情けなく死んだら、それだけ食べなきゃならない肉の量が増えちゃうじゃないか」

 先の割れた舌を出して挑発的に頬を持ち上げた羽部に、戦闘員達はどよめき、小隊長が撤退を命じた。騒々しく倉庫から脱していった人々を見送ってから、羽部は血の混じった唾を吐き捨てた。腹が減っていなければ筋張って油臭い男の肉なんか喰いたくないよ、とぼやいてから、鉄骨の梁に隠れている美野里を見上げてきた。

「さっさと下りてきてくれる? この僕がわざわざ来てあげたんだ、出迎えてくれよ、虫女」

「邪魔をしに来たの、それともマスターに従う気になったの?」

 美野里は言い返しながら身を投じ、羽部の前に難なく着地する。羽部は首を傾げ、一笑する。

「まさか。耄碌して色ボケしたクソ爺ィの手伝いなんて、世界を貢がれたってやりたくない。そんなものに未来があるわけがないし、利益だってないしね。君って本当に馬鹿だよねぇ」

「馬鹿なのはあんた達よ。マスターの恩恵を受けておきながら、マスターに尽くしもせずにあんな小娘に」

「ああ、何か勘違いしているみたいだけど、この僕が佐々木つばめに下るわけがないじゃないか。利害が一致していたから、ここまで付き合ってやっただけであって、そっち側に付いたからってイコールで味方になるわけがないよ。なんだよそれ、小学生の発想じゃないか。なんとかちゃんがあいつと喋ったから絶交ー、ってやつ」

 羽部のへらっとした語り口に、美野里は触角を曲げた。同類であるからこそ目を掛けてやろうと思ったのに、気に食わない。だが、羽部を殺せば、長光の配下に付けられる戦力が目減りしてしまう。ここで丸め込んでおけば、長光からもっと褒められるかもしれないのだから。美野里は殺戮衝動を飲み下してから、羽部に一歩近付く。

「マスターは遺産の優れた使い手。マスターに従ってさえいれば、何も案ずることはないわ」

「どこがだよ。あの耄碌爺ィがやったことといえば、哀れな美少女肉人形を何人も作って乗り回した挙げ句に自殺に追い込んで、企業に遺産をばらまいていい加減な情報だけを与えて手を焼かせて、そのくせ自分は息子の複製体を使って吉岡グループから利益を直接吸い上げ、目先の欲望を満たしているだけじゃないか。下手くそも下手くそ、童貞以下だね。君も処女だから、その辺の手解きをしてやれなかったってわけ?」

 羽部が饒舌に並べた嫌みに、美野里はぎちりと顎を開く。

「黙りなさい!」

「弁護士だって聞いていたけど、君、つくづく頭が悪いね。口も下手だ。この僕に言い負かされちゃってどうするの、そんなんじゃ法廷じゃまず勝ち抜けないよ。ああ、そうかぁ、君って書類仕事ばっかりで裁判沙汰なんかはちっとも手掛けたことないんだねぇ。それじゃ無理もないね。どうせ君は、ただの馬鹿だ」

 馬鹿、馬鹿、馬鹿。羽部の罵倒に美野里は自尊心がぐらつき、顎を最大限に開いて威嚇する。

「黙れぇっ!」

「尽くした分だけ尽くしてもらえる、だなんて、頭の悪さの極みだよね。その理屈で行ったら、肉体労働に準じている現場の労働者達は日々賞賛を浴びて溢れんばかりの給料をもらえるはずじゃないか。外面がいいだけの変な男に引っ掛かって金を毟り取られてサンドバッグにされる女は、賛辞を雨霰と受けてお姫様扱いされなきゃならないじゃないか。大体、好意なんてものは究極の一方通行であって、個人の主観の固まりだ。自分が好きだから相手が好きになってくれる、だなんて希望的観測にも程があるよ。誰だって気付くさ、思春期の成長過程で」

 最後の言葉で、羽部は声を落とした。が、すぐに表情を切り替える。

「だから、本当は誰も君なんか好きじゃない。佐々木長光も、君を使い切るために上っ面を」

「だ、ま、れぇえええええっ!」

 ジュラルミンケースを投げ捨て、美野里はコンクリートを蹴って駆け出した。羽を広げて低い姿勢で滑空し、羽部の懐へと滑り込もうとする。が、羽部は反応が早く、美野里が迫ってくる直前に長い下半身を曲げて身軽に跳ね、倉庫の内壁に付いているハシゴに尻尾を絡み付ける。美野里は素早く方向転換し、羽部に爪を振り上げながら直進するが、羽部は壁伝いにするするっと這い上がっていった。速度を上げすぎたために、一瞬、距離感を失った美野里は内壁に激突しそうになったが、辛うじて下両足を曲げて着地する。と、同時に壁を蹴り飛ばし、羽部を追った。

「この野郎っ!」

「おっと」

 壁を這ってシュユの傍まで移動した羽部は赤い箱を見つけ、消火器を引き摺り出した。美野里は急降下して羽部に突っ込もうとするが、羽部はすかさずピンを抜いて白煙を噴射してきた。視界が奪われて触角も塗り潰され、前後不覚に陥った美野里は、勢いも殺せずにコンクリートに頭から突っ込んだ。ごぎり、と嫌な音が外骨格全体に響き、再生したばかりの頭部が割れたのか、冷たい体液がぬるりと広がった。

 消火剤の刺激と痛みで六本足を痙攣させながら、美野里は底冷えするコンクリートに這い蹲る。白と黒がまだらになった人型ホタルを横目に、羽部は音もなく移動し、美野里が放り投げたジュラルミンケースを拾った。蓋を開けてみると、低温に保たれた箱の中にはフジワラ製薬のラベルが付いたボトルが収まっていた。そこに印された数字と番号だけで、それがD型アミノ酸の分解酵素であると解る。怪人に関わる研究の一環で、羽部も分解酵素の開発に多少携わっていたからだ。藤原忠がこれを利用して伊織を瀕死にしたが、シュユにも通じるのか。

「いや、通じるな」

 アマラと道子を経て脳内に至った、異次元宇宙の情報の波が教えてくれる。シュユの肉体を構成している分子は物質宇宙に存在しているわけではないが、遺産の産物を経由すれば分解酵素はシュユに到達し、シュユの肉体を崩壊させてしまう。肉体を失って精神体だけが放り出されてしまえば、シュユはクテイに占領されている異次元宇宙に戻れずに双方の狭間を彷徨うことになり、クテイの独壇場になってしまう。そして、異次元宇宙に存在している量子コンピューターに依存している遺産とその産物は切り離され、必要な情報が一切ダウンロード出来なくなり、形も保てなくなるだろう。美野里はそれを解っているのか、否、解っていないだろう。解っていたら、こんなことはしない。結果は考えずに、その行為によって生じる利益だけしか認識していないのだ。

 最も簡単な処理方法は、一つだけある。羽部の色素の薄い目は、苦痛にのたうち回る美野里を捉えた。佐々木長光の使い勝手のいい道具である彼女を葬れば、少しは敵の動きが鈍くなる。羽部は分解酵素を入れたボトルの蓋を捻って開くと、美野里に近付いた。ボトルを傾けると液体の水面が移動し、ボトルの縁から零れる。

 ひゅかっ、と黒い鎌鼬が翻る。刹那、右手首が焼けたような感覚を覚え、羽部が目を上げるとボトルを持った右手の手首から先が切断されて宙を舞っていた。当然、分解酵素は遠心力に従って振りまかれたので、羽部はぎょっとして後退る。空になったボトルがコンクリートに叩き付けられ、砕けると、美野里は立ち上がった。

「いいことを教えてもらったわ」

「ああ、そういうこと。互換性のせいで、この僕と馬鹿の代名詞に相応しい君の意識が……」

 だから、羽部の思考が読み取られたのだろう。羽部が血が噴出している右手首を押さえて歯噛みすると、美野里は複眼にこびり付いた消火剤を拭い、払い捨てた。

「生憎だけど、私は利益だけを追い求めているわけじゃないの。その先のことも、ちゃんと考えている」

 美野里は消火剤を振り払ってから、血の筋の先にいるヘビ男との距離を詰めてくる。

「へえ。じゃあ、具体案を聞かせてもらおうじゃない。もっとも、君の頭にはお花畑しか詰まっていないだろうけどね。分解酵素をシュユに入れるにしてもどうやって入れるつもり?         その辺は解らないだろうさ、この僕だって考えていないんだから。考えたとしても、君には教えてやらないよ」

 羽部は血の滴る右腕を曲げて背に隠してから、美野里を睨む。

「レイガンドーのムジンを経由してシュユに通じていた美月ちゃんを殺せば、シュユは安定を失うわ。そんなことまで教えてくれるなんて、親切ね。礼を言わせてもらうわ」

 美野里が顎を擦らせると、羽部は顔を歪めて牙を剥く。

「あの子を喰うのはこの僕だ」

「あんたが美月ちゃんを好きになっても、美月ちゃんはあんたを好きになってくれるとは限らないから?」

 美野里は先程の羽部の言葉を引用すると、羽部は尻尾の先でコンクリートを殴る。

「自分の立場を弁えて開き直れている分、この僕は君の数百億倍はまともだよ。ああそうさ、それの何が悪い、あの子を見ていて何が悪い、あの子を喰いたくなって何が悪い、美月を喰えなくて何が悪い!」

「あんた、意外に純情なのね。笑っちゃう、っ!」

 美野里は分解酵素が溜まっているボトルの破片を拾うと、素早く低空で飛ぶ。痛みと動揺で対応が遅れた羽部は美野里の軌道から逃れきれず、ボトルの破片で頸動脈を切断されると同時に分解酵素を流し込まれ、絶叫した。予想以上の苦痛と威力に、羽部の全神経が暴れる。ボトルの破片に残っていた小さじ一杯にも満たない量の液体が侵入した部分から溶解され、体液に成り代わっているアソウギに馴染み、アソウギを溶かし、細胞同士の繋がりが次々に断たれていく。皮膚が、筋肉が、神経が、骨が、内臓が、血管が、体液が、脳が、崩れていく。

 数分後には、羽部の形をした水溜まりが出来上がっていた。未消化の人肉が漂い、血と体液をたっぷりと吸った入院着が泳ぎ、包帯とガーゼがとぐろを巻いている。美野里は慎重に羽部の残骸を爪先で小突いて、分解酵素の影響が失われていることを確かめた。この分だと、美月を痛め付けてシュユを弱らせる必要はなさそうだ。羽部の体液を利用すれば、シュユに分解酵素を流し込めると踏んだからである。

「馬鹿な男」

 美野里は腹の底から笑いを零しながら、羽部の体液が浸った入院着を拾って手近なバケツに入れ、ジュラルミンケースの中に残っていたもう一つの分解酵素を取り出した。出来ればシュユが最もダメージを受ける部位を探してから分解酵素を与えたかったが、あまり手間取ると戦闘部隊が戻ってきてしまう。政府が手を引いたとしても、吉岡グループは手を引かないからだ。

 とりあえず、頭部を潰しておけばいいだろう。そう考えた美野里は、岩龍の打撃のダメージが消えていないシュユの頭部に羽部の入院着を置くと、ぬるりと羽部の体液が流れ落ちた。その上に分解酵素を垂らしてやると、シュユの触手が暴れ始めた。先程の羽部と同じ反応だ、ならば効いている証拠だ。美野里は嬉々としてボトルの中身を開け、倉庫の二階部分に飛び移って距離を取った。シュユは瀕死の魚のように胴体を跳ねさせ、倉庫全体が軋むほどの振動を起こし、ワイヤーを根本から引き千切り、穴の空いた頭部を掻き毟ろうとするが、触手が触れた途端に溶けて崩れ、新たな水溜まりが出来た。それが数分間続いた後、シュユの痙攣が次第に弱まっていき、内側からどろりと臓物らしき異物を垂れ流して動きを止めた。その様に、美野里は哄笑した。清々しさと誇らしさと、底なしの嬉しさからだった。手近な窓を割って空に昇りながら、美野里は笑い続けた。

 これなら、確実に褒められる。



 フカセツテンが消滅した。

 一度病院を出て状況確認のためにライブ会場に戻ってきたつばめは、異物の消え失せた海を目にしたが、理解出来るまで少々間があった。フカセツテンの内容物らしき、建物の残骸や土の塊が波間に揺られていて、それらが流出してしまう前に急ピッチで回収作業が行われていた。つばめは唖然としながら、隣に立っているコジロウの目にもフカセツテンが見えていないことを確かめ、看護用ロボットから手近な女性型アンドロイドに電脳体を移した道子にも確かめ、成り行きで同行している高守にも確かめた。だが、やはり、フカセツテンは消えていた。

「これ、一体どういうこと? フカセツテンはどこにいっちゃったの?」

 つばめが真っ当な疑問を口にすると、道子が困り顔で答えた。

「恐らく、シュユさんがやられちゃったんだと思います。フカセツテンを支えていたのはシュユさんであって、その中身というか、風船の空気に当たる異次元空間を複製して支えていたのもシュユさんだったので、シュユさんの存在自体が著しくダメージを受けたせいで、物質宇宙ではフカセツテンを維持出来なくなっちゃったんですね」

「え?」

 意味が解らず、つばめが聞き返すと、高守が解説した。もちろん、携帯電話による筆談だ。

『えーと、その、僕達が目にしていたシュユは本体じゃない、というかアバターなんだよ。物質宇宙における仮初めの肉体なのであって、シュユの本体はあくまでも異次元宇宙にある精神体なんだ。だから、シュユが物質宇宙で遺産を操れていたのは、精神体とアバターが繋がっていたからなんだ。でも、アバターの方がやられちゃったから、遺産を保つための力がなくなってしまって、シュユの力を最も強く受けていたフカセツテンと異次元空間が消えた、っていう理屈かな。あれ、もっと解りづらかった?』

「頑張る。理解出来なくても!」

 困惑しきったつばめは強引に言い切って、誤魔化した。シュユと異次元宇宙の関係がよく解らなかったとしても、状況がまた急変したのも確かなのだ。だが、異次元空間が消えては、その中にいた面々は無事ではあるまい。

「武蔵野さん達も消えちゃったの?」

 別れ別れになった者達の安否が気になり、つばめが道子に問うと、道子は一度瞬きした。

「いえ、それはないと思います。フカセツテンと異次元空間にとっては、物質宇宙の存在である武蔵野さん達は異物なので、元々シュユさんの干渉を受けていないんですよね。一乗寺さんと寺坂さんは微妙ですけど、まあ、大丈夫だと思いますよ。お二人は、うっかり殺しても大笑いして墓場から這い上がってくるタイプなので。弐天逸流の本部の残骸と一緒に回収されているかもしれませんけど、会えるかどうかは解らないですね。皆さん、勝手なので」

「あー、うん。だろうね」

 つばめはこの上なく納得し、頷いた。一乗寺と寺坂は言わずもがなであるが、武蔵野もあれで自分勝手だ。そうでなければ、新免工業の大型客船での騒動の際に、あんなに大胆な行動は取らない。となれば、皆が戻ってくるまで放っておいた方が良さそうだ。下手な手出しをして邪魔でもしたら、事態がこんがらがってしまう。

「で、そのフカセツテンはどこに行ったの? ナユタみたいに小さくなっているとか?」

 つばめはポケットから手のひらサイズのナユタを出すと、コジロウが言った。

「フカセツテンの体積は不変だ。それは物質宇宙でも異次元宇宙でも代わりはない」

「てぇことは、本当にどこかに行っちゃったのか。まあ、当てがないわけじゃないけど。だったら、ひとまずうちに帰るとするかー。どうせ、船島集落の辺りにあると思うから。冷蔵庫の中身も傷んでいるだろうから片付けておかないとならないし、掃除もしたいし、冬物も準備しておかないとなぁ。手伝ってね、コジロウ、道子さん」

「了解した」

「そりゃあもちろん!」

 つばめがコジロウと道子を見上げると、二体は快諾した。少し間を置いてから、高守も承諾した。

『僕はこの通りだからろくな手伝いは出来ないけど、つばめさんの傍にいた方がいいと思うから付いていくよ』

「どうぞ御自由に。でも、前みたいな変なことはしないでね? 地雷は勘弁してよ」

 つばめに忠告され、高守は赤黒い触手をちょっと引っ込めてから、文章を打ち込んだ。

『うん、解ったよ。大人しくしているよ、出来る限りはね』

「美野里さんのことはどうします? さっきの騒ぎからすると、きっと……」

 道子が言葉を濁すと、つばめは躊躇いを振り払ってから言い切った。

「お姉ちゃんのことは、ひとまず道子さんに任せるよ。お姉ちゃんがどこかで悪いことをしそうになったら、なんでもいいから利用して動かして止めてやって。道順は違うけど、行き着くところは同じはずだから」

「解りましたーん」

 以前の自分の口調を作って道子が承諾すると、つばめは平静を保とうとしたが、美野里が表立って動き出したのだと知ると動揺が押さえきれなかった。不安を払うために、無意識にコジロウの手を握った。きっと、シュユに危害を加えてフカセツテンを消失させたのも、美野里の仕業だろう。形振り構わず、脇目も振らず、佐々木長光に身も心も捧げているのだ。つばめが好きだった美野里は、もういないかもしれない。それでも、自分だけは最後まで美野里を見捨ててはならないのだと思い直す。備前家で家族として過ごした十四年の月日を否定したくないからだ。

 すると、つばめの携帯電話が鳴った。美月からだった。羽部の傍にいる、と言って病院に行ったきりだったので、外に出てきたのかもしれない。つばめが電話を受けると、美月の不安げな声が聞こえてきた。

『もしもし、つっぴー? 羽部さん、どこにいるか知らない?』

「ううん、見かけなかったよ。今、ライブ会場にいるけど、いたら絶対に解るって」

『そっか……。あのね、羽部さん、いなくなっちゃったの。だから、つっぴーなら知っているかなって思ったんだけど、ごめんね。また探してみる。あの人、大ケガしているのに勝手にいなくなっちゃうんだもん。窓も割れていたし』

「羽部さんのことは、私の方で探してみるよ。道子さんも戻ってきたから、手伝ってもらうし。だから、ミッキーは一度ちゃんと休んだ方がいいよ。色々あって疲れただろうしさ」

『でも』

「RECの興行、まだ次があるんでしょ? オーナーがしっかり休まないと、レイガンドーだって本気が出せないよ」

『うん、そうだね。解った。それじゃお願いしてもいい?』

「もちろん。だから、またね」

『またね、つっぴー』

 そう言って、美月は電話を切った。道子はつばめの肩に手を添えると、膝を曲げて目線を合わせてきた。

「とても言いづらいことなんですけど、羽部さんの反応がないんです。一度、私はあの人とほんの少しだけ物理的に繋がったことがありまして、それ以来、羽部さんと私の間には遺産同士の互換性を上回る繋がりがあったんです。だから、羽部さんがどこで何をしているのかは、アマラと異次元宇宙のネットワークを使わなくてもなんとなく掴めていたんですけど、それが」

 語尾を濁した道子に、つばめは察した。

「あの人、やられちゃったの? お姉ちゃんに?」

「ええ。フジワラ製薬が作ったD型アミノ酸の分解酵素を受けてしまいましたから、アソウギごと、溶けて……」

 動揺を隠しきれないのか、道子は次第に語気を弱めていった。つばめは深くため息を吐いた後、吸って、腹の底から出てきそうになった激情を押さえ込んだ。それでもまだ、美野里を嫌えないのか。美月と通じ合おうとしていた羽部を手に掛けられても、美月の淡すぎる感情が蹂躙されていても、まだ憎めないのか。

 道子にそっと抱き締められ、コジロウに支えられ、高守に慰められ、つばめは声を殺して唸った。泣こうとしても、美野里に対する甘い思い出を振り払いきれない自分に嫌気が差して、涙は一滴も出てこなかった。

 ただただ、やるせなかった。

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