表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
機動駐在コジロウ  作者: あるてみす
 

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

45/69

オーダーを仇で返す

 自分がどこから来て、どこへ行くのか。

 地球の一部であり、生態系を成している生命体としてこの世に生まれたのか。精神体が蛋白質で構成された肉体に憑依していただけなのか。物理法則が異なる宇宙からの異物に過ぎないのか。或いは、自分という存在自体が幻想に過ぎず、今、ここで自分を認識しているすら錯覚なのではないのか。異次元宇宙を丸ごと利用して造られた気の遠くなるような規模の量子コンピューターが計算し損ね、削除される前のバグではないだろうか。それらの疑問を払拭し、自分という個を形作ってくれる力は概念であり、概念とは名前であり、名前とは自我の結晶だ。

 電子の海、電脳の世界、意識と無意識の狭間。設楽道子という固体識別名称を持っていた電脳体は、物質宇宙と異次元宇宙を繋げるアマラから切り離されたことで、外部からの刺激が途絶えてしまい、安定を欠いてしまった。それでなくとも、電脳体とは儚い代物だ。炭素生物が日々水や食事を摂取して生き長らえるように、電脳体は貪欲に情報を吸収しては消費し、消化し、変換し、計算していなければ自我を保てない。人間が作り出した、現実と酷似した情報だけの世界を彷徨っていられれば、絶えず流れ込んでくる数多の情報を得られていたのだろうが、ここは異次元宇宙だ。人智を越えた機能を持つ遺産を操作するために不可欠なバックグラウンドであり、言ってしまえば恐ろしく巨大な集積回路の内側だ。外界から隔絶したスタンドアローンの演算装置、それが異次元宇宙だ。

 遙か昔、遠い記憶の彼方、或いは途方もない時間を超えた先の未来にて、進化し続けた種族、ニルヴァーニアンが作り出した、遺産のためだけの異次元宇宙なのだから。元より外部と繋がっている必要はなく、どこの宇宙とも並行している必要もなく、ただただ計算と情報処理のために消費されるだけの世界である。そこには生命が芽吹く余地もなければ、惑星が生まれる種もなく、無限の情報が波状に漂っていた。

 道子は知る。異次元宇宙が孤独に蓄えてきた情報の波を掻き分け、泳ぎ、仮想世界の惑星へと辿り着く。それがニルヴァーニアンの生まれた世界であり、彼らが頑なに守ろうとする場所だった。

 ニルヴァーニアンとは、元を正せば地球人類と大差のない種族であった。しかし、一つ違っていたことは、彼らは生まれ付いて精神力を操る能力を持っていたということだ。彼らの死は浅く、薄い。ニルヴァーニアンの概念による黄泉の国はひどく身近で、彼らは寿命によって朽ちた肉体を捨てて異次元宇宙に精神を預け、遺伝子操作技術で複製された若い肉体に再び精神を戻しては、終わりのない時間を楽しんでいた。技術と文化は進み続け、いつしか彼らは娯楽の多さと比例しない手足の数に不便さを覚え、遺伝子操作技術で手足の数を増やした。生身でも電波を送受信出来るように円形の生体アンテナを生やし、表情を出す利便性を見出せなくなった顔からは部品を全て取り除き、生命維持のために摂取するものも植物と大差のないものにした。そうすることで、農地や食糧を巡る争いを減らそうとしたからである。その結果、ニルヴァーニアンは高みへと至ったが、至った先で知った。

「我らは、精神を喰らう種族と化した」

 触手を備えた異形の神が前触れもなく現れ、語る。穏やかな低音の声が、道子の精神に直接馴染む。

「精神のみの世界は高次元であり、地球人類の語彙で表現するならば、桃源郷であると思い込んでいたのだ」

「肉体を滅ぼそうが、精神体だけになろうが、生きている限りは栄養を欲すると知ったからですね」

 道子が返すと、シュユは眼下に広がる広大な銀河系を捉える。

 目も鼻も口もない顔が、くしゃりと歪む。

「そうだ。それ故に、我らは分散した。我らが共にあれば、いずれ共食いしてしまう。誰かが傍にいれば、その者の心を欲してしまう。興味を求めてしまう。関心を得ようとしてしまう」

 仮想世界の惑星から、異次元宇宙に記録されているニルヴァーニアンの歴史に従い、結晶体の宇宙船が煌めきながら宇宙へと巣立っていく。放射状に光条を描き、無数の結晶体が暗黒物質の海へと消えていった。

「そして我らは、行き着いた先の宇宙で、惑星で、矮小な世界で、人心を導く神となった。我らには遠く及ばぬ技術と文明しか備えていない原始的な種族は多々あり、皆、先の見えぬ世界に不安を抱いていた。その隙間に、我らの触手と技術を滑り込ませ、我らを信ずれば奇跡を起こすと語った。その奇跡とは、君達の語彙で言うところの遺産を利用した手品であり、ペテンだ。だが、異種族達は我らを信じた。それを我らは喰らい、長らえてきたのだ」

「なるほど。需要と供給のバランスが保たれていますね」

「そうだ。我らはこの異次元宇宙によって精神を並列化させ、我らは個体としての自我を持たないことで種族を統一させ、思想と思考を安定させていた。それは異種族達への布教にも大いに役立ち、我らを通じて遙か彼方の惑星同士が通じ合い、とある銀河系の発展に多大に貢献した。その結果、我らが得る精神も数百倍に膨張し、我らは飢えからは遠のき、平静と安定を得た。だが、しかし」

「えーと、クテイさんが変な方向に目覚めちゃったんですよね? ざっくりと要約すると」

 シュユの長話に付き合うつもりはなかったので、道子がこの話の続きの情報を読むと、シュユは口籠もった。

「まあ……そういうことだ。クテイは我らの一部であり、兄弟であり、親であり、子であった。だが、クテイの精神体は未熟であったが故に成長を促すために多大な情報を与えた結果、太古の昔に廃棄した異性間交配の情報を強く欲した。欲する情報を得れば、その分成長も促進するが故、クテイの欲するがままに与え続けたのだが」

「見事な恋愛脳になっちゃったと」

「まあ……そういうことだ。クテイが特に好んで得ていたのは、我らに注がれた精神の中でも際立って強烈なもの、異性関係に関する願いだ。そのどれもが長続きしないため、我らにとっては取るに足らぬものであったが、クテイは束の間の鮮烈な刺激を好んでいた。中でも高頻度に摂取していたのが、望まぬ婚姻に抗った末に逃避行に及ぼうとする男女の精神であった」

「うわぁ悪趣味」

「まあ……我らの内でも、そういった反応はないわけではなかった。我らはクテイを諌め、その精神に高尚な思想と高潔な思考を与えるべく、新たな情報を注いだが、クテイはその情報を上書きしようとはしなかった。更なる刺激を求めて物質宇宙へと下り、束の間、異性間の繁殖衝動に伴った行動を促す、偽りの神となった。その結果、クテイによって本来あるべき道筋を歪められた者は多々生まれ、星間戦争すらも引き起こしたほどだ」

「恋愛成就の神様って一杯いますけど、それは傍迷惑にも程がありますねー」

「うむ。我らもその結論を導き出した。クテイが成長すれば、偏った性癖と歪曲した思想が異次元宇宙を通じて我らに蔓延しかねない。そうなれば、我らが築き上げた安寧と文明は潰えてしまいかねない。よって、我らは合議の末にクテイを追放することを決定した。異次元宇宙から隔絶し、物質宇宙へと下し、二度と我らと交わらぬよう、辺境の惑星に捨て置くこととなった。私がその役目を引き受けたのは、我らの中でも古きものであったからだ」

「ああ、あれと一緒ですね。不祥事の責任を取って会社の重役が辞任する、ってやつ」

「その喩えが合致しているか否かは我らの主観では判断が付けられぬ。本題に戻ろう。我らはクテイの精神と肉体を凍結させ、我らが彼方へと旅立つために用いた珪素の宇宙船、フカセツ・フカセツテンの下位個体、フカセツテンを用いてクテイを移送した。恒星間跳躍航法を用いて辺境の惑星に至り、着陸すべき場所を選んでいると、クテイは目覚め、覚醒すると同時に異次元宇宙を通じて己の末路を悟り、我らに抗った」

「そりゃ逆らうでしょう。島流しされそうになったんですから」

「うむ。だが、クテイの暴挙はそれだけに留まらず、私の精神と肉体の繋がりを破壊した末にフカセツテンから投棄した。そればかりか、遺産の管理者権限をクテイ個人のものに全て書き換えてしまった。偽りではない、本物の神に成ろうと考えていたようだ。仮定形なのは、その時には既にクテイは異次元宇宙から完全に切り離されていたが故、我らはクテイの心中を知ることは出来なかった。そして、その後は地球人類の知る限りだ」

「クテイさんの味方をするわけじゃないですけど、クテイさんの価値観を理解してやろう、とは誰も言い出さなかったんですか? ですよねー、思考が並列化されているのであれば、出る杭はフルボッコになりますからねー」

「我らが欲するべきは、個体同士が共有する好意ではない。広く、深く、価値観の根幹に食い込む信心から生ずる精神力だ。よって、クテイの主観と呼ぶべき凝り固まった価値観は認めるべきではない」

「いや、それこそ認めるべきでしょう。何事も多角的に捉えないと」

「その必然性は見受けられぬ。我らは雑念を排し、邪念を滅し、この高みへと至った。それ故、原始的な炭素生物に過ぎなかった頃のような愚行は許されぬ」

「原始的かつ本能に直結した感情こそ強烈で、摂取しがいがあるんじゃないかと思うんですけど」

「それは汝の主観。我らは教典によって精錬され、修行によって精製された、高潔なる精神こそ我らに盤石な安寧を与えるものと結論付けた。故に、上下の激しい感情は我らが喰らう精神たり得ぬ」

「好き嫌いはいけませんよ。何でも食べないと」

「我らが論じるべきは、そのような単純かつ矮小なことではない」

「いいえ、同じことです。大体なんですか、自分達のことを偉くて凄い種族だのなんだのと言うわりには、恋心の良さに目覚めちゃった女の子一人を押さえきれなくて、挙げ句の果てに逃避行の手伝いまでしちゃって。偉そうな口を利けるような立場ですか。それにですね、シュユさんがずうっと寝ていたせいで色々と大変なことになっちゃったんですからね? 思考が並列化されているとはいえ、刺激が全くなければ停滞するでしょうに」

「停滞は訪れぬ。我らは摂取した精神から数多の情報と刺激を得るが故」

「でも、好奇心もなければ欲求もないんでしょ? それじゃ、刺激とは言えませんよ。クテイさんが恋愛にキャッキャして外に出たがるの、なんだか解ってきちゃいましたよ」

「我らはそれを理解出来ぬ。安寧と秩序こそ、生命の至るべき道」

「その割には、下等な知的生命体を引っかき回しているようですけど? 自分達さえ良ければ他人はどうでもいいってことですか? それって神様って呼べませんよ、非常識すぎますよ。そういう自己主張が強い種族が生き残るのもまた現実ではありますけど、世の中は持ちつ持たれつなんですから」

「その意義とは」

「意義? ありまくりですよ。古い概念にしがみついていても、衰退するだけですよ」

「我らが抱く概念は遠き未来と深き過去により、織り上げられたもの。時間が終わらぬ限り、滅びはせぬ」

「それはどうでしょうかねぇ。未来と過去を繋げるのはどうしたって現在です。先祖と末裔だけがいても、種族は成り立つわけがないじゃないですか。映画の冒頭と結末だけ見たって面白くもクソもないですし。大事なのは経緯です、経験を積み上げる手間を省いたら中身が空っぽです。それこそ、滅びじゃないでしょうか」

「我らに滅びはない。我らは宇宙を担う力場であり、均衡の糸である」

「それはどうですかねぇ」

 と、言い返した時、道子の電脳体にノイズが走った。物質宇宙と異次元宇宙を貫く電波が、一筋の情報を届けてきてくれた。それは、物質宇宙に造り上げたつばめちゃんホットラインを通じ、道子に直接働きかけてきた。つばめちゃんホットラインは、異次元宇宙を経由することで物質宇宙からのハッキングなどを防げるように設定してあったのだが、ハッキングや妨害工作を突破するほどのパワーはない。道子の情報処理能力を利用すれば可能だが、つばめの力だけではまず不可能だ。ということは、物質宇宙でのフカセツテンを使用した次元間通信の妨害工作がなくなったということか。試しにアマラに戻ろうとしてみたが、また別の障壁が道子の移動を妨げた。

「なんて分厚いファイヤーウォール。やろうと思えば破れないこともないですけど、全部破ると時間が掛かりすぎちゃって、外に出た頃には全部終わっていそうですねぇ。これって、シュユさんの仕業ですか?」

 道子が眉根を顰めると、シュユは触手をゆらりと振る。

「否」

「だったら、誰ですか? 寺坂さんの肉体を乗っ取っている、ラクシャに人格をコピーした長光さんですか?」

「否」

「ニルヴァーニアンの他の誰かとか?」

「否」

「となると、差し当たって思い付くのは一人だけですねぇ」

 クテイさん、と道子が名を挙げると、シュユは触手を束ねて道子を示す。

「応」

「でも、クテイさんにそれほどの力がありますか? シュユさんだって、信仰心をあれだけ集めても精神体を完全に物質宇宙に引っ張り出せなかったじゃないですか。いくら長光さんに愛されたとしても、そこまでは」

 道子が訝ると、シュユは背負った光輪から淡く光を放つ。青白い光を帯びた二つの影が、宇宙を翳らせる。

「クテイは生殖衝動に連なる精神を捕食し、学習し、独自の理論を得た。執着と暴力は一対であると。暴力こそが双方の執着を深め、業を与え、愛を強めるのだと」

「暴力? うわ、なんですかそれ、DVじゃないですか。最低ですね」

「応。クテイは貪欲なり。更なる刺激と、過激と、苛烈を欲している。古き時、クテイが数多の情報と精神から学んだのは甘き愛のみにあらず。故に、我らはクテイを排除した。しかし」

「やり返されちゃった、と」

「応」

 少々気が引けるのか、シュユの語気は鈍った。

「我らは物質宇宙への干渉は行えぬ。我らは高みにて、愚かしき異種族を導く光にして道。故に、クテイを阻むべき触手は備えておらぬ。私の肉体は物質宇宙にあれども、精神体は動かせぬ。故に」

「どうにかするのを手伝ってくれ、ってことですか? だったら、早く言って下さいよ」

「クテイと最も強く接続している個体を処分してはもらえぬか」

「はい?」

「クテイが隔世遺伝した個体に授けた管理者権限とは、我らに管理される権限であり、言わば巫女たるもの。故に清冽であり、高潔であり、崇高であり、純潔でなければならぬ。だが、管理者権限所有者は俗だ。猥雑たる欲望と不完全な自我を宿し、精神体を持たぬ虚ろな人形と通じ合おうとしている。それ故、クテイは管理者権限所有者を通じて物質宇宙に繋がり続けている。管理者権限所有者は物質宇宙に依存した生命体であるが故、異次元宇宙に至れぬ精神体しか有しておらぬ。感情の供給源を断ち、クテイを弱らせた暁には、汝らが遺産と呼ぶ道具を全て我らの支配下に戻し、使用し、物質宇宙の再構成を図る」

 遠回しではあるが、クテイと繋がっているつばめを殺せ、と言っている。道子はいきり立つ。

「勝機はあっても正気じゃないですよ! そんなことをしたって、何も変わりはしません!」

「その根拠は」

「私はつばめちゃんの言うことしか聞かないからです! 他の遺産も、きっとそうです!」

「遺産は我らが道具。故に自我は持たぬ。汝の精神体もまた、アマラによって複製、拡張されたもの。よって、汝はアマラであって個体と呼ぶべきものではない」

「神様気取りのくせに了見が狭いですねー。やんなっちゃいます。古道具だって一〇〇年経てば妖怪変化になるんですから、それよりもずっと昔から存在している遺産が自我を持ったって別にいいじゃないですか。もっとも、その自我があなた達や人間の認識する自我に近いかどうかは別ですけどね。だから、お断りします!」

 道子が強く言い切ると、シュユはぐいと眉間らしき部分にシワを刻んだ。

「汝の自我は、アマラの迅速かつ精密な情報伝達の妨げとなる。よって、異次元宇宙より排除する」

「たとえそれが出来たとしても、またすぐに戻ってきますよ! だって私は、アマラそのものなんですから!」

 シュユの触手が道子に触れた途端、膨大な情報が電脳体に流し込まれた。少しでも気を抜けば電脳体そのものを塗り潰されてしまいそうな、ニルヴァーニアンの歴史の渦に道子という個体が掻き消されてしまいそうになったが、余分な情報やプログラムは異次元宇宙の演算装置に流出させて凌いだ。クテイが物質宇宙から組み上げたであろうファイヤーウォールを擦り抜け、セキュリティ、プロテクト、パスワード、暗号化、その他諸々を貫いた時、本来の世界で奮闘しているつばめからの電話を受信した。そして、迅速に厄介な用件を終え、僅かばかり気が緩んだ瞬間に、シュユと異次元宇宙から注がれた情報の奔流に押し流されてしまった。

 道子の意識は揺らぎ、遠のいた。



 情報の波が打ち寄せ、引いていく。

 高い空、柔らかな雲、黒い針葉樹林、作物が実った田畑、そして合掌造りの古い家。道子は意識を戻し、周囲の状況を確認しようと目を動かした。だが、実際に動いたのは高感度カメラで、赤く彩色されたバイザー越しに捉えた映像は自動的に色調が補正されていたため、逆に赤みが損なわれていた。視界の片隅に浮かぶ時刻と日付は、道子が今し方まで生きていた時間よりも前のものだった。[2061:05/25:10:34]

 つまり、三年前だ。道子は若干混乱しながらも、周囲の状況を確認した。束の間ではあったが、つばめ達と平穏な時間を過ごした船島集落は、現在と差して代わりはなかった。合掌造りの家も同様で、開け放たれた障子戸の奥に見える家財道具もそのままだ。太い梁には埃が積もり、囲炉裏には灰が溜まり、強い日差しで薄く毛羽立った畳が目立っていた。縁側の板張りの床に落ちた影を見、道子は自分の現状を悟った。

 それは、警官ロボットのシルエットだった。だが、視覚センサーを通じて外界を視認するだけで精一杯で、道子の意思で行動するのは不可能だった。指一本動かせず、関節のジョイント一つ曲げられない。それはそうだろう、これは異次元宇宙に保存されている無数の記録が道子の電脳体に接触し、再生し、現実に酷似した疑似体験を体感しているだけであって実際に時間を逆行しているわけではないのだから。時間だけは、遺産でも操れない。

「あーあ、つまんなーい」

 幼い語彙で文句を吐きながらやってきたのは、一乗寺昇だった。この頃はまだ、れっきとした男である。彼は拳銃を弄んでいて、空中に放り投げては受け止め、を繰り返している。何かの拍子で暴発しそうで危なっかしい。

「俺の任務ってさ、爺さんの見張り役なの? つまんなーい。もっとこう、ドカンと派手なのがいいなぁー」

 無遠慮に縁側に腰を下ろした一乗寺は、片眉を曲げて警官ロボットを見上げたが、出し抜けに発砲した。間近で放たれた弾丸を脳天に喰らった警官ロボットは仰け反ったが、優れたバランサーを用いて姿勢を戻した。

「こいつも反応が鈍いしさぁ。頑丈なのはいいけど、それだけじゃ俺の遊び相手にもならないじゃーん。政府と爺さんの命令で学校の準備してきたしー、制服も作ったけどー、肝心の生徒がいないんじゃ意味ないじゃーん。俺が先生になったのに、教える相手がいないなんて無駄の極みじゃーん。こいつだって生徒になってくれないしー」

「仕方ねぇだろ。その木偶の坊は、俺達を相手にするように出来てねぇんだよ」

 菓子鉢を小脇に抱えて縁側に出てきたのは、だらしなく法衣を着込み鋭角なサングラスを掛けている寺坂だった。よいせ、と縁側で胡座を掻いた寺坂が菓子鉢を差し出すと、一乗寺はその中身を掴み、雑に食べた。寺坂も醤油煎餅を一枚取り、盛大に噛み砕いた。二人揃ってお行儀悪いなぁ、と道子はちょっと呆れた。

「んーと、なんだっけ」

 一乗寺がゼリー菓子の包み紙を開けて頬張ると、寺坂は酒饅頭を囓った。

「俺達がやるべきこと、だろ。クソ爺ィを看取るのはごめんだが、俺達が見張っておかねぇと何をしでかすか解ったもんじゃねぇからな。長光の野郎の息子が警官ロボットなんか拵えて寄越したとはいえ、そいつが当てになるかどうかは別なんだ。最後の一線だけは越えないようにしておかねぇと」

「するってぇと?」

 一乗寺は円筒形の棒状のハッカ糖を一つ開け、銜えた。寺坂は酒饅頭を食べ終え、ゼリー菓子を取る。

「お前はアレだろ、弐天逸流の御神体のシュユって化け物の私生児なんだろ?」

「うん、まあね。生物学上は」

「だったら、お前がシュユをなんとかしろ。俺の手っつーか、触手には負えねぇ相手だ」

「出来ないってば、そんなの。俺とあいつは似て非なるものなんだよ」

「どういう具合にだよ」

「それが説明出来るようだったら、今頃、俺はノーベル賞でも何でもじゃかすかもらい放題だってば。自分のことではあるけど、解らないんだもん。てか、自分のことだからこそ解らないもんじゃん?」

「まあな、道理っちゃ道理だが。俺だって触手の扱いは覚えたが理屈は解らねぇ」

 寺坂が包帯で戒めた右手を見下ろすと、一乗寺は二つめのハッカ棒を囓る。

「弟はフジワラ製薬に持って行かれちゃったんだけど、イマイチ解らなかったみたい。だって、俺と弟がどういう仕組みの人外なのかが解っていたら、今頃はその理論がアソウギに転用されて、怪人が最強になるはずじゃん」

「なんだ、お前、弟がいるのか」

「過去形が正しいね。だって、その弟は大分前に喰われちゃったから。フジワラ製薬の馬鹿息子にさぁ」

「んだよ、先に言え」

「だからってさ、フジワラ製薬の馬鹿息子を殺したいなー、復讐したいなー、とは思わないの。変かな」

「人に寄りけりだろ、そんなもん」

「それってざっくりしすぎだよ、よっちゃん」

「気の抜けた呼び方で呼ぶんじゃねぇ、馬鹿。俺とお前が顔を合わせたのは、つい最近のことだろうが。そうやって呼ばれると、ガキの頃から付き合っているみたいな気分になっちまう」

「えー、嫌なのー? 俺は好きだけどなぁ、そういうの」

 けたけたと笑う一乗寺は底抜けに明るく、本物の寺坂を見限り、寺坂の紛い物と暮らしていた家族を皆殺しにしたことは微塵も感じさせなかった。寺坂は本当に気付いていないのだろうか、と道子は内心で訝った。寺坂は決して他人の機微には鈍くはないからだ。子供のように茶菓子を貪欲に食べる一乗寺を横目に、寺坂は苦々しげに口角を曲げていたが、不意に力を抜いた。法衣の懐を探ってタバコを出し、一本銜え、ライターで火を灯す。

「……なあ」

「んむ」

 口一杯に頬張った菓子のせいで返事が出来ず、一乗寺は変な声を漏らした。

「いや、なんでもねぇ」

 煙を緩く吐き出した寺坂は、包帯を少しだけ解いて数本の触手を伸ばして居間に滑り込ませると、器用に灰皿を運んできた。その中に灰を落としてから、これでいいんだ、と言葉に出さずに唇だけを動かした。これでいいんだ、と再度繰り返してから、寺坂はタバコを深く吸い込んだ。その険しくも安堵の滲む横顔で、道子は確信した。

 寺坂は、一乗寺が自分の家族を皆殺しにした事実を知っている。覚えている。だが、一乗寺に贖罪を求めるだけ無駄だと悟っているから、殺人者を恨めるほど家族に対して執着を持っていなかったから、遠からず家族は不幸になると解り切っているから、一乗寺の所業を掘り返しもしなければ、責めもしない。客観的に見れば正しいことではないし、重罪人を見逃しているばかりか罪そのものを無視していることになる。一乗寺を許すことは、家族が寺坂の偽物を手に入れる切っ掛けを作ってしまった寺坂自身の過ちを許すことでもある。だから、彼は一乗寺を許すことでほんの少しだけ楽になろうとしているのだ。どれほど人智を離れた肉体になろうと、寺坂はやはり人間だからだ。

「かったりぃ」

 長い沈黙の後、寺坂が呟くと、一乗寺は足をぶらぶらさせた。

「ねえ、よっちゃん。俺達は本当に遺産をどうにかすべきなのかな? アレをどうにかしたところで変わるものなんて何もないよ。そりゃ、経済にはちょびっと影響が出るかもしれないけど、遺産があってもなくても人間は今の技術に辿り着いていただろうし、諍いを起こしていただろうし。放っておいても、悪いようにはならないよ。もっとも、政府の方はそう思ってないみたいで、思想統一だのなんだののために遺産が欲しいんだってさ。前時代的だねぇ」

「俺はみのりんが欲しい。それだけ。だから、お前と連んで長光のクソ爺ィをぶちのめす」

「でも、あの弁護士の女って色々とアレじゃーん」

「面倒臭いからこそ、気になってどうしようもねぇんだよ。あー、みのりんと一発ヤりてぇ」

「俺、よっちゃんのそういうところが好きー! 性病もらって腐り落ちればいいのにー!」

 で、当のクソ爺ィは、と寺坂が床の間に振り返ると、布団で老いた男が横たわっていた。弛んだ皮膚が細い骨格に貼り付き、鼻から管を通され、点滴を投与する医療器具が布団に寄り添っていた。佐々木長光だった。道子はその弱り切った姿を目の当たりにし、内心で驚いたが、警官ロボットの表情には表れなかった。

 一乗寺と寺坂の話から情報を拾ったところに寄れば、佐々木長光は数ヶ月前に倒れ、それ以降寝たきりになっているのだそうだ。医師からは脳梗塞だと診断が下されたが、実際はそうではないと一乗寺は語った。長光は伴侶であるクテイが眠りについてからというもの、遺産を通じてクテイと再び触れ合おうと画策していた。だが、肉体的には管理者権限を持たない長光が遺産を動かせるはずもなく、出来たことといえばクテイの生体情報に汚染されている船島集落に生息している植物や作物を摂取した状態で、遺産に触れることだけだった。それでも、微々たる接触を積み重ねていったおかげでラクシャだけは反応してくれ、長光の意識と記憶が蓄積したラクシャは吉岡グループに売却された。だが、ラクシャの内に佐々木長光の分身とも言うべき人格が出来上がっていくのとは対照的に、長光自身の人格が希薄になっていった。それでも、クテイが現存していたから長光は踏み止まっていたのだが、クテイが桜の木に擬態して生命活動を弱めてからは一気に弱り、この有様となった。

「天女の羽衣を奪って売り払っても、天女は死にはしねぇから寄り添えない、ってことだな」

 寺坂は空になった菓子鉢を触手で掴み、居間のテーブルに戻した。一乗寺は笑顔を崩さない。

「でも、それって天女の匙加減一つだよねぇ。惚れられた相手が気に入らないんだったら、とっとと家捜しして羽衣を奪い返してトンズラしちゃえばいいのに、羽衣の在処を捜しもしないでぐずぐずしていたのは本人の問題じゃん。束縛されている自分のことも、束縛してくる男のことも、好きだったから家捜ししないことを選んだんじゃないか。それなのに、相手をどうにかしないで自分だけのうのうと生きているのは、なんか変じゃない?」

「かもしれねぇなぁ」

「てかさ、そもそも人目に付くような場所で水浴びする天女って何? 露出狂?」

「そこまで知るかよ。まー、俺だったら、羽衣を隠すのはその場だけだな。で、野外で一発ヤッた後に逃がす」

「でも、メルアドは聞くんでしょ?」

「当たり前だ。一度ヤれた女はもう一度ヤれるかもしれねぇからな」

「で、俺達がすべきことって結局なんなの?」

「さぁなー。それは後で考えりゃいいな、うん。なんか面倒臭くなっちまった」

 可笑しげに肩を揺する寺坂に、道子は内心で笑ってしまった。この人はいつもこうだ。なのに、どうしてこんなにも惹かれてしまうのか、自分でも訳が解らない。だが、恋とはそんなものだろう。道子の主観の中に出来上がった寺坂を好いているだけだと、解っているのに。あの頃、寺坂が道子を妹のように扱ってくれた際の嬉しさがあるから、寺坂に対して分厚いフィルターを掛けている。寺坂が道子を思い遣ってくれるがあまりに手を出してくれないのだと知っているのに、未だに諦め切れなかった。誰かを好いているのは、心地良いからだ。

 不意に、道子の上澄みともいうべき、寺坂への好意が拭い去られた。



 無機質な平常心と空虚さを抱えながら、道子は意識を転じた。

 また、別の情報の波が道子の電脳体を揺らがせ、情報の粒子を預けていった。虹色の薄い膜が道子の体の外側を覆っていて、その膜は頭上で平たいリボンで結ばれていた。空間は狭く、身動きが取れない。時折振動が訪れては上下に揺さぶられ、狭く歪んだ視界が掻き混ぜられる。その拍子に横向きに倒れてしまうと、隣から伸びた手が道子を優しく起こしてくれた。リボンに挟まれていたメッセージカードが外れたのか、埃を払ってから差し直した。

「長孝さんも、一度は顔を出してくれればいいのにね。いつもプレゼントばかりで……」

 道子の隣で残念がった中年女性は、備前景子だった。備前美野里の母親だ。運転席でハンドルを握っているのは備前柳一で、バックミラーに映った眼差しは少し切なげだった。

「あの子も、もう三歳か。子供が成長するのは、本当に早いな」

「ええ、本当に」

 景子に覗き込まれ、道子は景子の掛けたメガネに映った自分の姿を捉えた。

 パンダのぬいぐるみだ。

「つばめちゃん、喜んでくれるかしらね」

「喜ぶさ。この前、動物園に連れて行った時にパンダを見て大喜びしていたじゃないか」

「そうねぇ、ずーっとパンダの前から離れようとしなかったものねぇ。他の動物を見に行きましょうよ、って言っても、パンダをじっと見ているばかりで。本当に気に入っちゃったのね」

 景子が笑いを噛み殺すと、備前は交差点で車を止めた。

「美野里のことも、もっと気に掛けてやらないとな」

「もちろんよ。そりゃ確かに、つばめちゃんは可愛いわ。賢いし、お行儀も良いし、ちょっと気が強いけどそれもまた愛嬌だもの。美野里ちゃんだって大事な娘よ」

「気掛かりなのは、美野里が佐々木長光と接触していることだな。大口の仕事を寄越してくれた上客だから、決して関わり合うなとは言わんが、用事がない限りは近付くべきじゃない。あれは、妙に口が上手い」

「美野里ちゃん、あれで真面目だから。おかしなことにならなきゃいいんだけど」

 備前夫妻が我が子と養子の扱いについて話し合っている間に、車は備前家へ到着した。つばめの誕生日祝いに買い込んだ食材やケーキを運んでいったのは景子で、備前は日用品などを詰めた袋にパンダのぬいぐるみを紛れ込ませて家に運び入れた。夫妻が帰宅すると、リビングから少女が顔を出して出迎えてくれた。

「おかえりなさい!」

 十一年分幼いが、つばめだった。少し伸ばした髪を高い位置で二つに結んでいて、デニムのジャンパースカートにオレンジ色のチェック柄のシャツを着ている。その背後から、やはり十一年分若い美野里が現れた。

「お帰りなさい、お父さん、お母さん。手伝おうか?」

「大丈夫よ。それより、つばめちゃんは良い子にしていたかしら」

 景子はリビングと隣り合ったキッチンに入って、食材を冷蔵庫に入れていった。つばめはキッチンに駆け寄ると、カウンターの影から顔を覗かせ、自慢げに報告した。

「うん! おねえちゃんがね、ごほんをよんでくれたの! だからね、いいこにしてたよ!」

「あら、それは良かったわねー。それじゃ、後でおやつにしましょうか」

「ぎゅーにゅーとパン?」

「今日は違うわ。ちょっと待っていてね」

「はーい」

 つばめは挙手し、明るく答えた。つばめへのプレゼントを隠し終えた備前は、美野里に話し掛けるが、十八歳で思春期真っ直中である美野里は、父親への態度がやや冷淡だった。この頃は、両親に黙って怪人と化したことに引け目を覚えていたのかもしれない。つばめは景子にべったりと甘えていて、おかーさんおかーさん、と舌っ足らずに喋っている。美野里は母親にまとわりつくつばめを抱き上げて遠ざけたが、逆に美野里が諌められ、つばめはまたキッチンに下ろされた。その様に、道子は美野里の心中が少し解った。両親は美野里とつばめの扱いを平等にしようと配慮しているつもりなのだろうが、十八歳と三歳では扱い方が大違いだ。だから、受け取る愛情の量も、回数も桁違いなのだ。そういったことが積もり積もった末、美野里は長光に下ったのだろう。美野里が抱えている苦しみの端を捉え、道子は少し同情した。両親に甘えられない寂しさは、痛いほど解るからだ。

 夜も更け、景子の料理が出来上がり、つばめの三歳の誕生日祝いが始まった。子供向けの御馳走にお待ちかねの丸いケーキ、そしてプレゼント。つばめは終始上機嫌で、御馳走もケーキもお腹一杯食べてから、プレゼントを受け取った。セロファンを縛っているリボンを解き、広げると、パンダのぬいぐるみが現れた。

「初めまして、つばめちゃん!」

「わたしのおなまえは、ささきつばめです。パンダちゃんのおなまえは?」

 つばめが目を輝かせながら問うと、パンダのぬいぐるみはつばめの小さな手と握手しながら名乗った。

「僕の名前はコジロウ! これから仲良くしようね!」

 つばめは歓喜してコジロウにしがみつき、ふかふかした毛並みに頬摺りし、短い腕で思い切り抱き締める。パンダのコジロウはそれに応え、つばめを撫でてやる。噎せ返るような幸福、涙が滲むほどの充足。備前夫妻にパンダのぬいぐるみと会話出来たことを嬉々として報告しているつばめを、美野里は自己嫌悪と共に羨望を含んだ眼差しを注いでいた。それから、つばめはパンダのコジロウと遊んでいたが、はしゃぎ疲れてリビングで寝入った。

 パンダのコジロウと抱き合ったまま熟睡したつばめを子供部屋に運んでから、備前夫妻は佐々木長孝に電話を掛け、つばめの様子を報告していた。つばめの気の緩みきった寝顔を間近で眺めながら、道子は綿の詰まった胸が締め付けられる思いがした。思い遣りに溢れた暖かな日々が遺産に破壊されてしまうのかと思うと、やるせなさが去来する。円筒形の腕でつばめのふっくらとした頬に触れると、愛おしさが込み上げた。

 すると、波が引いていった。記憶と記録が閉ざされ、道子が感じた感情だけが浮き上がり、絡め取られる。先程は不意打ちだったので対応しきれなかったが、二度目はない。道子は情報の波を起こした存在を、不定型な感情を拭い去ろうとする存在を捕捉し、追尾し、電脳の海を泳いだ。遺産と遺産に関連した者達の数多の記憶を貫き、過ぎり、振り切り、異次元宇宙を支えている軸でもある演算装置に辿り着いた。

 そこには、肥大した電脳体が触手を絡ませていた。



 視界が捻れ、捩れ、巡り、転じた。

 見覚えのある社章が印刷された旗が壁に吊り下げられ、上等な革張りのソファーがガラステーブルを囲み、花瓶には秋の花々が見事に生けられて季節感を与えていた。ここがハルノネット本社の応接室であるとは、道子は即座に理解したが、ここに至った理由が解らなかった。今度は誰の記憶なのか。

 ドアが開かれ、社長秘書の女性が来客を案内してきた。その二人は体格の良いサイボーグで、片方は新免工業の社長である神名円明だとは一目で解ったが、もう一人のフルサイボーグの男の正体が掴めなかった。フレームの形状と積層装甲の配置と関節の駆動範囲からして、新免工業の工業用サイボーグを使用しているのだとは察しが付いたが、それだけだった。物質宇宙との接続さえ取り戻せていれば、ハッキングして調べられるのだが、異次元宇宙に電脳体だけを縛り付けられていては何も出来ない。

 程なくして、ハルノネットの社長が応接室に入ってきた。アイロンの効いたダークグレーのスーツに紺色のネクタイを締め、引き締まった顔付きが若々しい。これがオリジナルの吉岡八五郎だ。だが、道子を始めとしたハルノネットの社員は、本宮春信と名乗っていた。吉岡グループの社長であった彼の複製体は、いかにも社長然とした恰幅のいい脂ぎった男だったが、本物の吉岡八五郎は無駄を削ぎ落としている。表情も乏しく、遺産を巡って敵対関係にある神名円明と対峙しても、眉一つ動かさなかった。

「お呼び頂き、ありがとうございます」

 マフィアのボスのようなスーツとソフト帽を身に付けていた神名は脱帽し、一礼する。

「うむ! 悪役が雁首揃えて悪巧み、といった構図だな! いやあ楽しみだ!」

 もう一人のサイボーグが喋った途端、その正体が判明した。藤原忠である。大柄な戦闘サイボーグなので常人の服は身に付けられないからだろう、ライダーススーツを思わせるツナギの服で銀色の肌を覆っていた。

「私達は手を引いた立場ですよ、藤原さん。もっとも、遺産絡みの争いを繰り広げていた時の緊張感は、ビジネスの駆け引きとはまた違った楽しさがありましたけどね」

 神名がマスクに手を添えて笑みを零すと、藤原は太い腕を組んで胸を張る。

「で、だ。かつては中ボスか四天王にも匹敵する立場であった我々だが、手痛い敗北を期した後、遺産争いの前線から叩き落とされて敗者復活戦のようなイベントすら起きなかったわけだが、その辺については吉岡君はどう思うかね? 私としては、再生怪人の如くばったばったと薙ぎ倒されたいなぁとうっすらと願っているわけだが」

「長らく御迷惑をお掛けして、申し訳ありませんでした」

 娘に似た銀縁のメガネを掛けている吉岡は、深々と頭を垂れた。

「いえいえ、お気になさらず。ナユタのことは、私の好きでやっていたことですから。それに、吉岡君や他の皆さんにナユタを売り払わなかったのも、私が遺産争いから離れるのを惜しんだからですよ」

「そうだ! アソウギがなければ、私は心行くまで悪役ごっこを楽しめなかったからな!

 調子に乗りすぎて新免工業に狙撃されて死んだのも、その後に生首を拾われてサイボーグに改造されたのも、伊織と思い切り戦って良いところまでいったが結局負けたのも、全て私の自己責任だ! 訴訟とか面倒臭いし、賠償金だの何だのとやり取りしては表沙汰になってしまうし、そうなると裁判で陳述書に悪役ごっことか怪人のことを一から十まできっちり書いたものが公文書として保存されてしまうし、そうなるとさすがの私も恥ずかしいからだ!」

 藤原は意味もなく仰け反り、ソファーの背もたれに埋もれた。

「吉岡君がわざわざ正体を明かして私達を呼び付けたのは、何も謝罪のためだけではありませんでしょう。昨日のあのライブといい、何といい、事が大きく動いているようですからね」

 お掛け下さい、と促してから、神名は秘書が運んできてくれた紅茶に、角砂糖を一つ入れた。

「単刀直入に申し上げます。船島集落を破壊する工作活動に、手を貸して頂けませんか」

 吉岡は二人と向かい合う位置に腰掛けると、強く言い切った。藤原は快諾するかと思いきや、渋った。

「その利益が見当たらんなぁ。というか、私は既にフジワラ製薬の社長からは退いているし、個人資産であった裏金は前のボディに注ぎ込んでしまったからすっからかんだし、その手の業界にコネはないぞ。あるのは神名君だ」

「やろうと思えば、世界各国に散らばっている子会社の社員と兵器を動かして一個中隊程度の戦闘員と兵器を動員出来ないこともないですけど、日本国内でそれをやるのは厳しいですね。確かに船島集落は法律のエアーポケットではありますけど、それは長光さんの個人資産から生まれる莫大な税収を見込んでいるから、政府が黙認しているからであって、長光さんとその近親者であれば見逃してもらえますけど、部外者はそうもいきませんよ」

 神名が肩を竦めると、吉岡は落胆を滲ませた。

「そうですか。無理を言ってしまいましたね」

「まあ、気持ちは解らんでもないぞ。つばめちゃんの生体組織を入手出来なくなってしまえば、遺産を持った者共が次に狙うのは船島集落の植物だからな。あれは、吉岡君の御母堂なのだな? りんねちゃんが生まれる前の生体安定剤の成分は、弐天逸流が作った人間もどきと酷似していたからな。一乗寺昇がシュユと人間の私生児だという事実を踏まえるならば、その考えにしか行き着かん。この際、非科学的だのなんだのというのは置いておく」

 藤原の言葉に、吉岡は目を上げた。

「ええ、そうですよ。私は今でも母を理解し切れていませんが、あれが良くないことだけは解ります。あれがこの世に現れなければ、何事も起きなかったのですから」

「御母堂はお亡くなりになったのでは、と思いましたが、愚問でしたね。相手は人智を越えたモノですから」

 神名が少し笑うと、吉岡は膝の間で組んだ自分の手を見下ろす。

「母は亡くなりませんよ。母が被っていた人間の皮、というか、私と兄の本当の母は当の昔に亡くなっていますがね。もっと早くに気付くべきでした。母が一体何を求めて、父の元にやってきたのかを」

「と、仰ると?」

 藤原が問うと、吉岡は項垂れる。

「母は人の心を喰うのです。厳密に言えば、母は遺産同士を繋げているネットワークを利用し、人間の感情の波をを捕食するのです。だから、母は父を追い詰めていきました。父は人間でもなければ地球上の生き物でもない母を受け入れ、伴侶として暮らしていましたが、人間の感情は慣れるに従って凪いでいきます。情熱は真っ先に衰えるものです。ですが、恐らく、それが母が最も好む食事だったのでしょう。片田舎の農夫に過ぎない父に、過剰な愛情表現を求めるようになりました。……居たたまれませんでした」

「子供の目からすれば、それは確かに」

 普通の両親でもちょっと嫌です、と神名が苦笑すると、藤原は大きな肩を揺する。

「いや、すまん。クテイとはシュユと同種族なのだろう? それが、その、うん……想像した私が馬鹿だった」

「いえ、笑って下さい。笑って頂ければ、少しは私の気が晴れます」

 吉岡は過去の苦労を思い出したのか、伏せた眼差しがどろりと淀んだ。

「母と良く似た姿の兄は早々に家を出ましたが、私は父を見捨てることが気が咎めて、なかなかそれが出来ませんでした。帰宅すると色んな意味で気まずいので、外で遊んでいてくれと父から金を持たされて、結果として放蕩息子になってしまいました。そして、文香に出会いました。金銭欲と物欲が服を着て歩いているような女で正直辟易したんですけど、こうも思ったんです。父と母の暮らしを支えている、遺産絡みの莫大な資産を浪費してしまえば、両親はあの奇怪な生活から解放されるのではないかと。ですが、文香にどれほど貢いでも、文香の努めるキャバクラの売り上げに貢献しても、現金が減らないんです。むしろ、増えていたんです。母は賢かったので、父の名義で株券やら何やらを買い込んでいたからなんですよ。絶妙なタイミングで売り買いしていたらしく、後から株取引のデータを見てみると、一円も損をしていませんでした。内助の功、というか、今にして思えばアマラの力ですよね」

「演算能力の精度を恐ろしく高めれば、未来予知も可能ですからね。上手い使い方ですよ」

「そうです。それから、思ったんです。父は母に魂を食い潰されようとしているけど、母の所業を咎めないばかりか自由が効く時に何も言わないのだから、父と母は互いの関係に満足しているんじゃないかって。そうしたら、急に何もかもが馬鹿馬鹿しくなって家を出たんです。その頃には文香も落ち着いていたし、文香の妊娠を期に結婚したんですが、その子はきちんと産まれませんでした。人間からは懸け離れた兄の子は、まともに産まれたのに」

 吉岡の目が上がり、口角が僅かに持ち上がる。笑顔を作るか否か、悩んだのだろう。

「母は私と兄からも激しく変動する感情を喰らいたいがために、私と兄の体に手を加えていました。お二方も御存知でしょうが、管理者権限は隔世遺伝するのです。だから、兄の子にその管理者権限が備わったのですが、それは好機ではないかとも思ったんです。兄の子を、つばめさんを母の餌にしようと考えたんです。そうすれば、私と文香は母に感情を喰われずに済みますしね」

「では、りんねさんの複製体を作ったのは?」

「私ですよ。母の下に育っていたのですから、コンガラの扱いぐらいは覚えますよ。昔は、コンガラを使って足りない食料品や日用品を複製していたのでね。ですが、微調整は出来なかったので複製するたびに外見年齢がちぐはぐになってしまいましたけど。だから、今のりんねは成功作なんです。我ながら惚れ惚れする出来です。まあ、文香には父の仕業だと言い聞かせておきましたけどね」

「ならば、我が息子の伊織と出会った、意思のあるりんねちゃんの複製体はどうなのだ? あれはラクシャに憑依している御尊父の意識がりんねちゃんを操り人形にしていたのだろう?」

「あれは、父の意思です。吉岡グループを動かしていた、私と文香の複製体を作ったのも父です。私はようやく父が母に逆らってくれたのだと喜んで、父の言うがままに働きました。吉岡グループの経営も、私自身が回すよりも余程上手くいくようになりましたし、こうしてハルノネットの取締役に収まって、思うようにやれていますし」

 吉岡の語り口は、いくらか得意げだった。

「君の部下であった美作彰に、集積回路のムジンとアマラを手配したのも吉岡君かね?」

 藤原が挙げた名に、道子は凍り付いた。あの男だ。忘れもしない、忘れようがない、あの妄想狂だ。

「美作彰ですか。あれは、兄と親しい小倉重機の社長の妻の弟、という立ち位置だったので、兄を追い詰めるためにムジンとアマラを与えたのですが、美作は思ったよりも成果を上げてくれませんでしたよ。設楽道子という逸材を発掘してくれたことは大いに評価していますけどね。それと、桑原れんげを生み出してくれたことも」

 近視用のレンズの奥で目を細めた吉岡は、ホログラフィーモニターを作動させる。そこには、削除したはずの道子の忌まわしき分身であり概念の集積体、桑原れんげが浮かび上がった。吐き気がするほど甘ったるいアイドル風の衣装を着ていて、きらきらと光るエフェクトが掛かっていた。

『はぁーいっ! 皆の心にズッキュンバッキュン、御鈴様なんて目じゃないハイパーアイドルにして全世界のファンのもの、桑原れんげちゃんでーっすぅ!』

 桑原れんげは微笑み、ひらひらと手を振ってピンクのハートを撒き散らした。

「驚くことはありませんよ。本社並みのパワーがあるサーバーは複数ありますからね、そこにバックアップを取ってあっただけのことです。アマラが政府に押収されている今であれば、設楽道子に妨げられずに桑原れんげをネットワークに放逐出来ます。そうすれば、今度こそ遺産を掌握出来るでしょう」

「桑原れんげ嬢で世間を撹乱している最中に、船島集落を落とせと?」

 顎に手を添えた神名が声を低めると、藤原はごきりと首を曲げる。

「まあ、効率的ではあるな」

「必要経費はこちらでお支払いいたしますよ。なんでしたら、フジワラ製薬にも一枚噛んで頂きましょうか。一ヶ谷市内全土に感染症を蔓延させて周囲から隔離させる、というのはどうでしょう。在り来たりですが」

 吉岡の提案に、神名は少し首を傾げる。

「お話は解りましたが、そこまで私達に暴露してよろしいのですか? このままですと、私と藤原君はあなたの部下のサイボーグ部隊に蜂の巣にされてしまいそうなんですけどね」

「まさか。取引を持ち掛けた相手ですよ、丁重に扱いますとも」

 吉岡は人当たりの良い笑顔を作るが、メガネの奥の目は笑っていなかった。

「ですが、事を円滑に進めるために必要な作業があります。それもお手伝い頂けますね?」

「あのフカセツテンの処理ですか?」

「それもそうですが、まずは母の気を逸らしておかなければなりませんので、シュユを破壊して頂けませんか。あれは藤原さんが開発なさったD型アミノ酸の分解酵素を使えば、痛め付けられますので」

「ふむ、ならば化学式は教えてやろうとも。酵素の精製は、吉岡君の方で勝手にやってくれ」

「ありがとうございます。神名さんはいかがなさいますか」

「少し時間を頂けませんか。シュユの件も、船島集落の件も」

 神名が吉岡を遮ると、吉岡はすんなりと引き下がった。

「ええ。ですが、こちらにも準備がありますので、今週中にはお返事を下さい」

「では、失礼いたします」

 神名が腰を上げると、藤原も立ち上がった。

「さらばだ、吉岡君!」

 二人のサイボーグが退室する様を見送ってから、吉岡はソファーに座り込み、頭を抱えた。後ろへ撫で付けている髪が乱れるのも構わずに掻き毟り、荒い息を吐き出しては焦って吸い込み、を繰り返している。口元はぐにゃりと歪み、混乱と歓喜が混じっていた。この時、道子はようやく誰の記憶を覗き見しているのかを悟った。吉岡八五郎は呼吸を乱しながら、道子の視点の位置に近付いてきた。視界が上下し、ぶれ、デスクに横たえられると、吉岡は何かを探っていた。彼のメガネに映っているのは額縁で、その中には小さな絵が収まっている。額縁の合わせ目のほんの僅かな隙間に監視カメラのレンズが填っており、吉岡はそれと記録装置を外した。一連の映像が保存されているメモリーカードを抜き、デスクのパソコンに差すと、程なくして桑原れんげが現れた。

『データのダウンロードと同時に暗号化を実行中でーっす! もうちょっとだけ待ってね!』

「れんげ。あの男は、確実に死んでいたはずではなかったか?」

『うん、れんげはそう思っているよ。でも、あの人、元気だったね。れんげにはよく解らなぁーい』

「行き先はトレースしているな?」

『もっちろん! すぐに割り出してあげるね、パパ!』

 愛想の良い笑顔を振りまくれんげに、吉岡は破顔する。

「私の味方は、お前だけだな」

 怒濤のように押し寄せる、感情、感情、感情。吉岡八五郎は、実兄に凄まじいコンプレックスを抱いている。同様に母親に対しても、父親に注がれる愛情の一欠片でもいいから自分に注がれればと願って止まない。それなのに、己の家族の異様さから、欲することが出来なかった。人間ではない肉体であるにも関わらず、まともに我が子を産ませられた兄が妬ましい。おぞましい。羨ましい。だから、どちらも滅ぼさねば収まらなかった。いかなる手段を使ってでも、陥れなければ気が済まない。吉岡の心身に淀む泥濘とした感情を、あの触手が掬い取る。

 育てた作物を、収穫している。



 神とは道具だ。

 知的生命体が猥雑な意識を律するために、本能的に生み出す手段の一つでしかない。彼らは欲求を排して高みへと上り詰めたが、その結果、宇宙に点在している知的生命体同士を結び付ける糸でしかなくなり、異次元宇宙に完成された演算装置は、恋愛感情を好みすぎて中毒を起こした個体に占領されてしまった。彼女は欲望に従って愛を貪り尽くし、伴侶をも食い尽くしても飽き足らず、遺産に連なる者達の情念を求め続けている。

 それを止める術は、あるのだろうか。そんな疑問を抱きながら、道子は携帯電話のネットワークを経由して手近なロボットに滑り込んだ。多少のプロテクトはあったが、電脳体を阻むほどの硬さはない。プログラム、システム、設定、メモリー、その他諸々を手早く確認し、このロボットは看護用ロボットだと把握した。安定性を重視した多脚型の女性型ロボットで、太いアームは患者を抱き上げるためのパワーを備えている。安心感を与える丸い体形とピンク色の外装に、ナースキャップを思わせるパーツが頭部に付いていて、ゴーグルには多彩な表情を浮かばせるために様々な表情パターンがプログラムされている。そのロボットを通じて周囲の環境を確認し、理解した。

 看護ロボットがいるべき場所、病院だった。道子はその病院のシステムに難なく潜り込むと、この看護ロボットの個体識別番号を探し出してメンテナンス中にして非番にすると、仕事を他の看護ロボットに振り分けた。そうやっておけば、病院の業務にそれほど支障を来さずに済むだろう。

 廊下をスムーズに進むためのタイヤと階段を昇降するための多脚を切り替えながら、病院の中を歩き回るうち、状況が見えてきた。この病院は御鈴様のライブ会場に最も近いだけでなく、吉岡グループの子会社が経営していたので、ライブ会場で負傷した人々が多く搬送されていた。患者リストを閲覧し、その中に羽部鏡一の名があったことに少々驚いたが、顔には出なかった。目元以外は、警官ロボットに似たマスクフェイスだからだ。

 エレベーターを乗り継ぎ、八階にある集中治療室へと進む。もちろん関係者以外立ち入り禁止で、看護ロボットも専用のものでなければ入れないように設定されているのだが、少しそれに手を加えて、エレベーターホールにあるゲートを通り抜けた。先程閲覧した患者リストに記載されていた通り、吉岡りんねが入院していた。

 パスワードをクラックして電子ロックを解除し、物々しささえある分厚い扉を抜けると、広い病室の中央のベッドに一人の少女が横たわっていた。隣接されたベッドでは、大柄な人型昆虫が背中を丸めている。少女と人型昆虫は互いの指先と爪先を触れ合わせていた。二人の傍には、つばめと警官ロボットが座っていた。

「あれ? 道子さん?」

 つばめに名を呼ばれ、道子はぎしりと身動いだ。まだ名乗ってもいなかったのに。

「設楽女史の電脳体の存在を確認」

 警官ロボット、コジロウは赤いゴーグルで道子を捉えた。機体の固体識別番号が違っていたので、コジロウではないのかと一瞬勘繰ったが、つばめの傍にいる警官ロボットがコジロウではないわけがないのだ。道子はタイヤをころころと転がしながら二人に近付くと、額を小突くような仕草をして小首を傾げた。

「恥ずかしながら帰ってまいりましたー。でも、どうして私だって解ったんですか?」

「だって、その看護ロボットはピンクだから外来用でしょ。水色は病棟用で、クリーム色がICU用だって、ここに来た時にナースさんが説明してくれたんだよ。で、どのロボットも絶対に違う持ち場には行かないようになっているって。だから、外来用の看護ロボットが病棟に来るはずがないじゃん? だけど、そういうことが出来るのは道子さんだけだよなーって思って。その通りだったし」

「わあ、名推理ですね!」

 道子が褒めると、つばめは照れた。

「いや、別に、全然。でも、道子さんが戻ってこられたってことは、フカセツテンの妨害はなくなったってこと?」

「いえ、そういうわけではないんですよ。異次元宇宙に閉じ込められている時に、同じような立場になっていたシュユとちょっと揉めてしまいまして、追い出されちゃっただけなんです。情けないですけど。だから、異次元宇宙との接続も切れているんです。なので、アマラが手元に戻ってきても、以前のようには……」

「それでも、こっちの世界のネットの中は自由に動き回れるんでしょ? 今だってそうだし」

「そりゃあもう! 携帯ゲーム機からスーパーコンピューターまでなんでも!」

「じゃ、大丈夫だよ。なんとかなるって」

「ですよねー」

 それ以外の障壁も多かったのだが、気付いたら、物質宇宙に電脳体が戻っていた。道子は曖昧な返事を返してから、ベッドに横たえられた二人に近付いた。人型軍隊アリは、伊織だと一目で解る。少女のベッドに付いた名札は吉岡りんねだったが、顔付きも体形も道子の記憶の中の御嬢様とは違う。一度、りんねの意思によって遺伝子が破壊されたので、それを道子が再構築させてから二人の肉体を繋ぎ止めていたアソウギを分離させ、更に二人の肉体を形成する分子に振動を与え、本来あるべき形に整えたからだ。だから、この姿こそがりんねが生まれ持った遺伝子の形であり、文香が死産した胎児が成長した姿でもある。

「一応、コジロウのムジンを使って、吉岡りんねの頭の中にあったプログラムは全部吸い出したんだけど、意識が戻るかどうかは解らないんだってさ。伊織もそうだって」

 つばめは二人の寝顔を眺め、複雑な感情を吐露した。

「二人共、意識が戻った方がいいんだろうけど、戻らないのなら、それはそれならそれでいいのかもしれない。これ以上、辛い目に遭わなくて済むから」

「ですね。そればかりは、お二人の意思で決まることですからね」

 道子が同意すると、つばめは目元を擦った。気が立っていたからか、寝付けなかったようだ。

「とりあえず、うちに帰らないとね。フカセツテンも持って帰らなきゃならないし。その中にいる、武蔵野さんとか先生とか寺坂さんとか、外に出してあげないと。どうやればいいのか解らないけど、きっとなんとかなるよ。私がなんとか出来るんだから、なんとかしなきゃダメなんだ。でないと、何も終わらない」

「どうしてもダメだと思ったら、遺産を捨ててもいいんですよ? 管理者権限は、そういうものでもあると思います」

「それだけはダメだよ。それだけは」

 この気持ちも、クテイは喰らっているのだろうか。背中を丸めがちなつばめの後ろ姿はいつになく小さく見え、道子はつばめにそっと寄り添った。つばめはちょっと照れ臭そうにしたが、道子を振り払おうとはしなかった。病室には少女と人型昆虫に付けられた心電計の電子音が規則的に響き、嵌め殺しの窓から降り注ぐ陽光は暖かい。

 異次元宇宙との接続を断ち切っても、コジロウと通じ合おうとするつばめの思いがある限りは、クテイはつばめの精神を貪るだろう。誰を恨もうと、誰と憎み合おうと、誰と愛し合おうと、クテイは貪欲につばめを喰らい続けている。今、この瞬間でさえもそうだろう。異次元宇宙から追放されてしまったのは困るが、シュユの命令を受け入れることは出来なかった。だから、全力で刃向かおうと決めた。コジロウや他の皆と共に、つばめを守り、助け、支えてやり、遺産を巡る争いを生き抜こうと決意を据える。道子は人間ではなくなった。だから、動かしてもらう手が必要だ。

 その手の主が、他でもないつばめだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ