背水のジーン
左手が暖かかった。
まるで、誰かに握られているかのように。顔の右半分が抉られたことによる激痛は収まらず、拳の形に陥没した頭蓋骨は元に戻っていない。右目は完全に潰れて砕けた頬骨が顔の至るところに突き刺さり、輪郭が変わるほど顔が腫れ上がっている。口角を動かすこともままならず、視界が狭まっている。
あれから、どうなったのだろうか。羽部は発熱と痛みによって涙が滲んだ左目を瞬かせ、天井を捉えた。見覚えのない壁紙が貼られていて、糊の効いた枕カバーが肌に擦れ、レースカーテン越しに見える景色はビルが多い。ここがどこなのかは、また後で考えればいい。異物が差し込まれている痛みを覚え、右腕を上げると、そこには点滴針が刺さっていて、黄色が鮮やかな栄養剤が混ぜられた生理食塩液のパックがスタンドから吊り下げられ、パックの表面には羽部の名前と点滴液の中身が殴り書きされていた。栄養剤、鎮痛剤、抗炎症剤。
「死にはしなかった、ってところか」
羽部は弱く呟いてから、右手に力を込めようとしたが、上手く指が動かなかった。羽部の記憶に残っているのは、ライブ会場上空に出現したフカセツテンから出てきたコジロウに、強かに殴り飛ばされたことだ。コジロウは羽部が人間ではないと認識していたからだろう、羽部に喰らわせた打撃には躊躇いもなければ遠慮もなく、頭部が粉々に吹き飛ばされたのではないかと思ったほどだった。視界に白と黒のロボットが入った直後、銀色の拳が羽部の顔の右半分を抉り、その勢いのままステージから地面に転げ落ちた。着地する際は最後の意地で下半身を曲げ、バネ代わりにしてダメージを受け流したが、それが精一杯だった。それ以降の記憶はない。
病室と思しき部屋の壁掛け時計の針は早朝で、枕元にあるホログラフィーのカレンダーはライブの翌日の日付が点滅していた。あれから丸一日過ぎたようだ。一晩で意識が戻ったのだから、良しとすべきだろう。アソウギの力がなければ、昏睡し続けて死んでいたに違いない。
これからどうする。つばめの力を借りてアソウギを活性化させ、元通りに再生すべきか。それとも、アソウギを分離してもらってただの人間の成り下がり、他人の目に怯えながら薄暗い人生を送るのか。或いは、佐々木長光の味方をするふりをして状況を引っかき回し、甘い汁を吸うべきか。でなければ。
「……馬鹿馬鹿しい」
羽部の左手を握り締めている少女を一瞥し、自嘲した。ベッドの端に突っ伏して寝入っているのは、アイドル紛いの衣装を身につけたままの美月だった。目元から頬には涙の後が残り、メイクが落ちてシーツに染み込んでいる。羽部の左手に縋り付かずにはいられないほど不安だったのだろう、美月の顔は羽部の左手のすぐ傍にあった。
羽部が最も忌み嫌い、憎しみすら抱いている、甘ったれた感情がふつりと湧く。つばめの力を借りても人間に戻ることが出来なかったとしたら、美月と小倉重機に寄り掛かって生きてもいいのではないか、と。だが、それが一体何になるというのだ。ロボット同士を戦わせる原始的かつ大味な大衆娯楽を世間に認知させる手伝いをしたいのか、美月の素直な語彙で褒められたいのか、美月を含めた他人に自分の力量を認めてもらいたいのか。
「馬鹿だよ、君は」
美月には輝かしい人生が待っている、こんな浅ましい男の傍にいるべきではない。だが、今、美月を突き放せば、羽部に近付いてくれる人間は二度と現れないだろう。それはアソウギを使って怪人になった時点で解り切っていた事実であり、自尊心を満たしてくれない他人に対する渇望が拗くれた末の人間嫌いになった羽部は、敢えて誰にも好かれないような態度を選んでいた。だから、美月に近付かれるのは予想外だ。
「僕も馬鹿だ」
左手を少し上げて美月の手中から抜き、美月の血色の良い頬に添える。暖かく、柔らかく、新鮮な血の詰まった若い女性の肉体だ。羽部の大好物だ。美月は全くの無防備で、シーツの痕を片頬に付けている。起きる気配すらなく、規則的な寝息も途切れない。骨の細い顎から産毛の生えた首筋をなぞり、動脈の位置を確かめる。
今、ここで左手だけを怪人に変化させれば、美月の命は簡単に奪える。動脈を切り裂き、噴出する血の生温さを思い描くだけで食欲が湧く。慣れ親しんだ鉄錆の味が懐かしく、愛おしい。喉越しの良い脂肪と歯応えのある筋肉を囓り、華奢な骨をねぶり、つるりとした内臓を頬張る。きっと、美月は旨いだろう。化け物に相応しい飢えを満たしてくれるだろう。けれど、食欲と相反した衝動が羽部の胃を締め付けてきた。
喰いたいのに、喰いたくない。美月の首筋から鎖骨を撫で、衣装の襟元のボタンを外して骨も肉も頼りない肩に手を差し込み、少女の素肌の脆弱さを楽しんだ。生きた人間にまともに触れるのは、十何年振りだろうか。美月の襟元から手を抜いて再び頬を手のひらに収め、親指の先でリップグロスが残っている唇をなぞった。
悲しくなるほど、柔らかかった。
頭痛と微熱が収まらない。
弱い眠りと覚醒を繰り返していた伊織は瞼を開き、熱を持った額を押さえた。病院にも吉岡邸にも搬送するな、と周囲の人間に命じておいたからだろう、あの控え室代わりにしていたコンテナの中からは移動していなかった。衣装に着替える際に使った間仕切りのカーテンが簡易ベッドを囲み、点滴のパックから一秒ごとに薬液が落ちている。枕元の携帯電話を引き寄せて操作してみると、時刻は早朝だった。あれから、一晩眠り込んでいたらしい。
つばめや美月からメールが来ていないか、と携帯電話を操作しようとして、伊織は気付いた。携帯電話の内部に大量の文書ファイルが保存されていて、そのどれもが伊織が寝入っていた時間帯に作成されていた。内容は一見しただけではデタラメな数字と文字の羅列にしか見えなかったが、伊織はそれらを読み、理解した。これはムジンに保存されていたプログラム言語を地球言語に意訳したものだが、伊織はそんなものを入力した覚えはない。
「んだよ、これ」
もしかして、りんねの仕業なのか。伊織は痛む頭を堪えて起き上がり、一晩で作られた数百個の文書ファイルに軽く目を通していったが、藤原君へ、とのタイトルが付いたものを見つけた。その中身は、こうである。
『こんにちは、藤原君。りんねです。私のために色んなことをしてくれて、本当にありがとう。おかげで、私も短期間のうちに随分と成長することが出来ました。シュユに作用する固有振動数を含んでいる歌は、シュユだけじゃなくて私自身にも影響を与えてくれたから、羽部さんが私の頭の中に突っ込んでくれたけどデタラメな配置だったムジンのプログラムを最適化することが出来ました。最適化したプログラムは私の脳を回路代わりにして動き出し、異次元宇宙に存在する量子コンピューターと接触しました。そのおかげで、短い間に色々なことが解りました。お父さんのこと、お母さんのこと、つばめちゃんのこと、つばめちゃんの御両親のこと、佐々木長光さんのこと、私自身のこと、私のお姉ちゃん達のこと、そして藤原君のこと』
少し前まで、りんねは辿々しい言葉しか扱えなかったはずなのに。伊織は驚きながらも、スクロールを続けた。
『私は生きていてはいけないってことが、よく解りました。私がちゃんと生まれなかったせいでお父さんとお母さんを悲しませてしまったばかりか、長光さんに利用されてしまったからです。つばめちゃんにも、ひどいことをしてしまいました。藤原君や他の人達にも、謝っても謝りきれないことをしました。美月ちゃんにもお別れも言えませんでした。だから、私は自分を許せません』
「そんなもん、後でいくらでも取り返せばいいじゃねぇか」
りんねの文面に言葉で返し、最後までスクロールさせた。
『藤原君。ごめんなさい。私の遺伝子は残しちゃいけないから』
文章の下に、また数字と文字の羅列が入力されていた。それを目にした途端、伊織の脳から脊髄に痛みが走り、仰け反った。たまらず携帯電話を落としてしまい、伊織は息を荒げながら簡易ベッドに突っ伏したが、ぐじゅりと水気のある感触が起きた。目を上げると、シーツに触れた皮膚がずるりと剥げ、真皮の下の筋肉が露出した。
「あぁっ!?」
これは何事だ。ぎょっとして伊織は飛び退くが、今度は服が擦れた部分の皮膚が崩れ、体液と血液の染みが至るところに出来た。せめて顔には触れまいと気を付けながら手を動かし、眺めてみるが、関節を曲げただけで皮膚が破れた。免疫が過剰反応を起こしたかのような、或いは放射能汚染でDNAを損傷した人間が陥る末期症状とでも言うかのような。伊織は動揺しないために息を吸い、吐くが、その動作だけで口と喉の粘膜が破れ、耐え難い激痛が発生した。ぼたぼたと崩れた肉片混じりの体液を唇の端から漏らしながら、伊織は両膝を付いた。
たったそれだけの衝撃で両足の付け根の筋が外れ、骨が割れる。バランスを保てずに横たわると、床と擦れた頬の皮膚がべろりと剥げて頬骨が砂糖菓子のように砕ける。まだらに脱色した長い髪が抜けるのも、最早、時間の問題だろう。りんねは何をしたのだ。これでは、伊織だけでなくりんねも無事では済まない。
りんねは伊織が認めたマスターだ。死ねと言われれば死ぬし、戦えと言われれば戦い、殺せと言われれば誰であろうと殺す覚悟は据えている。だが、これでは戦うことすら出来ない。りんねも死んでしまう。りんねを死なせないために、這い蹲って生きてきたのに。伊織は憤怒に駆られたが、呻き声すら出せなかった。
声を出すために必要な肺も横隔膜も、腹の中で溶けていたからだ。
聴覚が、聞き慣れたスキール音を捉えた。
ライブ会場の特設ステージの影から、佐々木長孝は会場内を見下ろしていた。その傍らでは、不機嫌極まりない吉岡文香が足を組んで座っている。コジロウと共につばめが戻ってきたことで安堵する一方、佐々木長孝を本人の承諾を得た上で切り刻むことが出来なくなったからだ。大量に複製されたステージの残骸が朝日に照らされている様は、退廃的な美しさを宿し、物質文明の不条理さを表現した現代芸術とでも言い張れそうな光景だ。
つばめの気配がする。長孝は人間の手足に似せた形に束ねた触手を少し緩め、一本だけ伸ばした。つばめの手中にあるナユタは安定し、エネルギーの出力も凪いでいる。量産型の警官ロボットのボディにムリョウとムジンの破片を入れて再起動させたコジロウも自己修復が完了し、現在の状態に戻っている。長孝も遺産の産物であることには変わりないので、アマラほどの精度と感度はないが、遺産の現状は互換性を使って感じ取れる。
「これでいい」
長孝は満足し、腰を上げた。つばめに近付けなくとも、その気配を感じ取れただけでも充分だ。
「待ちなさい、どこに行くつもり? そんなにあの子が大事なら、一度会ってやりなさいよ」
文香に引き留められ、長孝は意外に思った。
「あれだけ俺を疎んでいたのに、どういう風の吹き回しだ」
「あんたに会えばあの子は化け物の子供だって自覚するから、私達も仕事が楽になるの」
「ああ、そうかい」
文香にも少しは温情があるのかと感心しかけたが、長孝はすぐにげんなりした。こんなどぎつい女を伴侶に選んだ弟の趣味を疑わざるを得ない。長孝の実弟である八五郎は、長孝とはまた別の意味で事態を達観していた。父親である長光の支配から逃れるために早くから人間として自活する道を選び、機械技師として働くための資格を得て船島集落を飛び出した長孝とは違い、八五郎は父親の財産を食い潰そうとしていた。だが、佐々木長光の懐に日々入ってくる収入が大きすぎたので八五郎が度を超した浪費をしても焼け石に水で、長光を潰すどころか、逆に長光を増長させただけだった。兄弟といえど、根本的に長孝と八五郎では価値観が違うのだ。
「ん」
ふとノイズを感じ、長孝は凹凸のない顔を上げて発信源を辿った。発信源はアソウギだが、アソウギだけでは到底不可能な情報量を処理している。ムジンのプログラムがインストールされていて、異次元宇宙に存在している量子コンピューターにアクセスしているのか、恐ろしく情報処理が早い。だが、その内訳までは解らない。長孝が感じ取ることが出来るのはあくまでも表面的な事象だけであり、詳細までは掴み取れないからだ。
「りんねはね、特別なのよ」
文香は誇らしげで、声色も弾んでいた。
「管理者権限は半分しか持っていないけど、それでも充分よ。管理者権限が半分でもあれば、佐々木つばめの手を借りずに済むじゃない。あんた達に似てしみったれた子供だから、一度でも働かせたらどれだけの金をせびられるか解ったもんじゃないもの。でも、りんねを使えばそんなことにはならないわ。だってりんねは、良い子だもの」
「それは誰にとっての良い子だ」
「こんなに愛しているんだもの、あの子だって私達を愛してくれないわけがないわ。だから、良い子なのよ」
「愛している方が愛していると言い張ったところで、愛されている方がそれを自覚し、理解していなければ何の意味も持たない。だから、俺はつばめには会わないと決めたんだ」
「それはあんたが自分の娘を本当に愛していないからよ。愛していないから、余計なことが気になるの」
文香の口振りには自信が漲っていたが、長孝には自信の根拠が解らなかった。愛とは、一方的なものだからだ。長孝がひばりをどれだけ愛そうと、ひばりは最後の部分で長孝を信じていなかった。だから、ひばりは長孝の元から敢えて離れて新免工業に匿われ、つばめを出産したのだ。ひばりの護衛していた戦闘員であり、現在はつばめに雇われている男、武蔵野とひばりが通じ合っていたのなら、それはそれで構わないと思っている。人並みの嫉妬は覚えるが、ひばりが相手の男を選ぶと言うことは、自分自身の幸せを選べるようになったからだ。武蔵野巌雄には長孝も好感を抱いているし、向こう見ずなほど誠実な男なので、武蔵野がひばりを連れ去ってくれていたなら、彼はひばりもつばめも幸せにしてくれただろう。
どれほど思おうと、愛そうと、慕おうと、人間とそうでないものの隔たりだけは越えられない。長孝は、父親と母親であるクテイが通じ合えない様を目の当たりにしてきたから、尚更そう思っている。長光がどこぞの誰かの会社に出資する代わりに身元を引き受けたひばりは、二度と捨てられまいと思うがあまりに長孝に好かれようとしていた。それは愛とは言い難いが、長孝はそれを受け流してひばりを愛そうとした結果、本当に愛してしまった。けれど、ひばりを妊娠させてからというもの、長孝には罪悪感が付き纏った。クテイの設定により、管理者権限は隔世遺伝すると知っていたのに、ひばりを孕ませた。遠からず、我が子は遺産を巡る争いの火種となると解っているのに、衝動が押さえきれなかった。それがひばりへの愛なのだと自分で自分に言い訳をして、あの日、妻を抱いた。
ナユタの暴走を止めるためにひばりが身を投じたと知ってからは、長孝は己を殺すようになった。だから、娘にも会わず、小倉貞利に警官ロボットの設計図を譲渡して量産させ、政府にも遺産の情報を流し、それがつばめのためになるのだからと信じてきた。愛して止まないからこそ、つばめには近付けない。
だから、愛しているだけで愛されると思い込める根拠が解らない。文香は打算的な人間で、自分を肯定してくれる人間や利益をもたらすものに関しては目聡いが、そうでないものに対しては非常に冷淡だ。りんねに対しても、文香を彩ってくれるアクセサリーが欲しいから、愛していると豪語するのではないのだろうか。文香自身は真っ当に娘を愛しているつもりなのだろうが、長孝にはとてもそうは思えなかった。
「りんねが元に戻ったら、今度は何をさせてあげようかしら。どこの学校に通わせてあげようかしら」
恍惚とする文香から、長孝は顔を背けた。
「過度な期待は抱くな。あれは複製体である以前に、死産した胎児だったんだ。まともに育つとは思えない」
「そのための遺産でしょ。あのイカレた社長の息子の藤原伊織は気に食わないけど、あいつの持っているアソウギさえあれば、りんねは人間になれるのよ。人間になったら、あの子はどれだけ完璧になるのか今から楽しみなの。私の外見とあの人の頭の良さが一つになれば、才色兼備の完璧な子になること間違いなしだもの」
「あんたの傲慢さとハチの欲深さが一纏めになるだけだと思うがな。優れたことほど、受け継がれないもんだ」
「それはあんたの娘のことでしょ? 調査員の情報に寄れば、あんたの娘、あんたの作ったロボットと恋人ごっこをしているらしいじゃないの。それって精神的な近親相姦でしょ? 娘はともかく、ロボットの方はパンダのぬいぐるみだった頃からあの子を知っているんだから、恋人ごっこをさせないようにしておけばいいじゃない。それなのに、設定すらいじらないで放っておくなんて、あんたも大概よ。伊達に化け物とまぐわった女の子供じゃないってことね」
「コジロウはコジロウだ。つばめと同じく、俺の手を離れている」
「それで誤魔化したつもり?」
挑発的な文香の言葉に、長孝は僅かに破壊衝動に駆られた。自分の子供を持ち上げるために、他人の子供を卑下する必要がどこにあるのだろうか。常に自分よりも下の存在がいなければ、気が休まらないのだろうか。だとしても、言葉が過ぎる。今度こそ黙らせなければ、いつかこの女の戯れ言がつばめに届く。そうなれば、愛する娘はどれほど傷付くだろうか。母親に似て強がりだから、その場は笑ってやり過ごすかもしれないが、年相応に繊細な心には毒の楔がいくつも埋まってしまうだろう。長孝は作業着の裾から、太い触手を一本伸ばした。
「大変です、奥様! 御嬢様が、御嬢様が!」
ステージに駆け上ってきた女性看護師が、息を切らして叫んだ。
「りんねが起きたの? だったら、今後について話してあげないと」
文香は喜びながら彼女に駆け寄るが、女性看護師は青ざめていてひどく震えていた。全力疾走してきたからか、息が上がっていて過呼吸気味だった。文香は女性看護師を宥めて笑顔を見せるが、女性看護師は唐突に文香を突き飛ばした。思い掛けないことに戸惑った文香がたたらを踏むと、女性看護師は崩れ落ち、突っ伏した。
ぶちゃあっ、と水袋を地面に叩き付けたかのような異音が起きる。およそ人間のものらしからぬ水飛沫が上がり、ステージ中に飛び散った。看護服は看護師が中に入っていた形を保っていたが、それを着ていた張本人は原型を留めておらず、大きな水溜まりへと変貌していた。人型だった液体が徐々に広がっていく様子を見、文香は口元を押さえて呻いた。長孝は文香を絞め殺すために伸ばしていた触手を垂らし、液体に触れ、確信した。
アソウギの動作不良だ。
人体に限らず、生物を構成しているのは遺伝子を宿した細胞だ。
それをコピーし、絶え間なく分裂し、増殖し、結合し、部位によって機能を変え、生命体はその遺伝子に従って形を整えていく。死に至れば新陳代謝は止まり、生物からただの物体へと変貌するが、遺伝子が崩壊しても新陳代謝が止まらなければ、不完全な形状の細胞が増殖しようとする。本来の機能を損なった細胞は遺伝子の宿主に害を成し、遠からず死に至らしめる。遺伝子こそが生命の本質であり、生命は遺伝子を運ぶ乗り物なのだ。
その遺伝子が、綻んだ。人間としての形を保てるか否かの瀬戸際で、伊織は確信した。ごっそりと頭皮ごと抜けた髪が体液の海に沈み、千切れかけた神経と辛うじて繋がっている眼球が生卵のように床で潰れている。呼吸しようとすれば気道から血が噴き出し、それを吐き出そうとすれば舌が根本から外れ、唇の端から落ちた。
りんねの苦しみには気付いていた。伊織は誰よりもりんねの傍にいたからだ。束の間ではあるが、彼女と時間を共に過ごしていたから、りんねの苦悩は伊織の意識に流れ込んでいた。普通の人間として生きたいと願う一方で、遺産争いの原因を作り、祖父に死すらも蹂躙され、何度も過去の自分が自殺を図っていた過去の重みに耐えられなくなっていたということも、薄々感じ取っていた。けれど、伊織はそれを自覚しないようにしていた。アイドル紛いのことをしたのも、りんねが自分を肯定出来る切っ掛けを得られれば、と思ったからだ。伊織が一心にりんねを思っていれば、りんねも少しは自信を得られるのではないか、とも。だが、それは伊織の思い上がりだったようだ。
「おぇ……ぉ、ぅ……」
もう、声らしいものは出せない。体液の海に這い蹲っている伊織の周囲では、医療スタッフが固唾を呑んで伊織を見下ろしている。医師も看護師も視線は怯えきっていて、皆、及び腰だ。無理もない、伊織を助けようとして体液に触った人間達は全て溶けてしまったのだから。りんねがムジンのプログラムを使ってアソウギを強引に作動させ、遺伝子を操作したせいで、アソウギが動作不良を起こし、無差別に生物の遺伝子を破壊するようになってしまったのだ。だから近付くな、と伊織は彼らを遠ざけようとするが、瞼が剥がれて眼球もまともに動かない。
つばめなら、アソウギを操作出来る。だが、アソウギがつばめをも攻撃してしまったら、オリジナルの管理者権限が破壊されて取り返しの付かないことになる。佐々木長光も、シュユも、遺産を悪用しようとする人間も、止めることが出来なくなる。もしかすると、りんねの狙いはそれなのだろうか。伊織とりんねの身に異変が起きれば、つばめは間違いなく呼び付けられ、伊織に触れと周囲から強要されるだろう。だが、その時、アソウギがつばめの遺伝子情報を破壊しないとも限らない。もしも、そうなってしまったら全てが終わりだ。りんねを元通りにするどころではない、あらゆる生物がアソウギによって滅ぼされてしまいかねない。増して、ここは海に面している。そこからアソウギを流されてしまえば、一巻の終わりだ。
「りんね!?」
血相を変えてコンテナに飛び込んできたのは、吉岡文香だった。が、彼女は骨も内臓も溶けて生温い水溜まりと化した愛娘を直視した途端、顔色を失ってよろめいた。
「あ、あぁ……? 何、何よこれ、どういうことなの……? そんなの、有り得ないわ……」
「いや、そうでもない。彼女の脳には、ムジンのプログラムがインストールされていたからな。それを使ったんだ」
シュユを人間大にしたかのような大きさの触手の化け物が、足音も立てずにするりと入ってきた。医療スタッフ達はすぐさま道を空けたが、文香は触手の化け物の袖を掴んで阻んだ。
「近付かないでよ! どんな姿になったって、りんねはりんねなのよ! あんたなんかに手を出されたくない!」
「近付きたくもないさ。この状態のアソウギは、俺にとっても危険だ。アソウギの分子構造が変換されて、L型アミノ酸の分解酵素を多大に含んでいるから、人間に触れたら即座に皮膚組織を溶解して侵食し、伊織君の意識とは無関係に発生している微細な固有振動波が細胞そのものを破壊して液状化させている。毒よりも凄まじい致死性だ」
作業着を着ている触手の化け物は文香の頭越しに触手を伸ばし、体液がたっぷりと染み込んでいる簡易ベッドの枕元から伊織の携帯電話を取ると、ホログラフィーモニターに表示されている文書ファイルを見た。
「地球言語に変換されてはいるが、ムジンのプログラムに間違いなさそうだ。これを目視して認識したから、アソウギが作動したんだな? そうだろう、伊織君」
触手の化け物に問われ、伊織は頷くような気持ちで辛うじて神経が繋がっている指を曲げたが、その僅かな力に負けて指の骨も神経も崩壊した。触手の化け物は他の文書ファイルも開いて目を通す。
「固有振動数の数値も割り出されている。そしてこれを日本語に変換した語彙が、君の歌に大量に使われている。あの歌の原型は弐天逸流の信者が作ったものだったが、その後で君のマスターが大分手を加えたらしい。効果の程は、言うまでもないようだが」
りんねは、そこまでして自分の死を望んでいたのか。激痛の最中、伊織が心中で呟くと、触手の化け物は部品が存在していない顔を伏せた。伊織の心中を読み取れるらしい。
「生憎だが、そのようだ。伊織君とりんねさんの融合が進みすぎていて分離出来ん」
俺は死ぬのか、りんねと一緒に死ねるのか。
伊織が歓喜を交えて思うと、彼は顔を少し背けた。
「それが君にとっての幸福であるならば、俺はそれを妨げはしない。主と共に果てるといい」
触手の化け物の心遣いに、伊織は溶けきった心臓が疼いた。確かに幸福だ、りんねと死を共有出来るのだから。伊織を成していたアソウギが、操り人形として生まれては死んでいったりんねの忌まわしき業を断ち切る刃となるのであれば、諸手を挙げて享受しよう。忠心とは、そういうものだ。
遺産の産物に対して理解のある触手の化け物がコンテナから去ると、茫然自失に陥っていた文香が我に返り、ふらつきながら伊織に近付いてきた。上等な革に細かな傷跡が付いたハイヒールで、伊織の体液を踏む。
「嘘でしょ、ねえ、嘘だと言ってよ、ねえ、りんね?」
見開いた目から涙を幾筋も落とし、頬紅とファンデーションが溶けている。
「なんで死のうとするの、だってりんねは死ななくていいのよ? りんねは何も悪いことをしていないじゃない、全部あのクソ爺ィのせいじゃない、あの触手男とその娘のせいじゃない、りんねが死ぬことなんてないのよ?」
文香は小刻みに震えながら、ネイルで彩られた指を伊織の体液に伸ばそうとするが、医師と看護師に阻まれた。死ぬことで償えることは数少ない。それは伊織も承知しているし、りんねも解っているだろう。だが、生き続けては更なる不幸を振りまくだけだ。オリジナルの半分以下であれど、管理者権限を持っていることに違いないのだから、それを利用せんとする人間の欲望に巻き込まれ、りんねの自由も人格も軽んじられるのは目に見えている。
「ねえ、どうして私の思い通りになってくれないの?」
その場に座り込んだ文香は、少し乱れていた髪を掻き毟り、頭を抱えた。
「りんねと一緒にやりたいことが一杯あるのに、今度こそ一緒に暮らせるって思っていたのに、どうしてそんなにひどいことが出来るの? りんねは、私達のことが嫌いなの?」
腹の底から憎んでいるわけではないが、無条件に愛しているわけではない。伊織はそう思ったが、文香はそれを感じ取れないらしく、情けなく泣きじゃくっている。りんねは知っているからだ、文香がりんねを妊娠した理由もその前後の出来事も、何もかもを。複製体が肉体的な死を迎えても、精神体は長らえていたため、異次元宇宙の外部記憶容量に接触して全ての情報を認識し、理解していた。
だから、りんねは、底なしの財産を持つ佐々木八五郎を強請るために避妊具に小細工をして妊娠させた文香を最初から信用していない。産まれる前から自分のことを道具扱いしている女だ、りんねが人並み外れた容姿と才覚を備えていれば、それを擦り切れるまで利用するだろう。御鈴様のような活動をさせて金を荒稼ぎさせては文香に貢がせる一方で、りんねを突き放して親の愛情から飢えさせ、ここぞという時だけ母親らしい顔をしてりんねの持つ金やら何やらを掠め取っていくはずだ。今の文香は上っ面だけだ。愛情に溢れた母親のような態度を取れば取るほど、対照的にりんねは実の親の浅ましさを疎むようになる。それでも親は親なのだという寂しさが、りんねの胸中を悩ませている。もっとも、その胸も今は溶けて消えたのだが。
「ねえ、りんね。もう、こんな辛い思いをするのは嫌なの」
化粧を崩しながら滂沱する文香は、この上なく醜悪だった。それを感じたのは伊織ではない、他でもないりんねだ。こんな状態になっても、心配するのはりんね本人ではなく自分のことなのだから文香はつくづく救いようがない。自分が満足したいから、自分を満たしたいから、自分の利益になるから、娘を愛していると言い張っている。それは人間としては間違いではないのだろうが、親としては根本的に誤っている。だから、愛せない。
体液の海が泡立った。
一晩留守にしただけで、事態は急変していた。
事の次第を説明してくれている吉岡グループの社員にも状況が掴み切れていないらしく、途中で何度もつっかえてしまったが、つばめはその度に根気よく聞き返し、混乱している状況を理解した。社員によると、吉岡りんねと肉体を共にしている藤原伊織の容態が悪化し、突如液体と化したのだという。そればかりか、伊織の液体に触れた人間もまた溶けてしまっている、と。何が何だか解らないが、大変だということだけは十分理解出来た。
量産型警官ロボットのボディを使用しているコジロウの肩に担がれ、横座りされた状態で移動しながら、つばめは避難指示に従ってライブ会場から逃げ出していく作業員達を見送った。情報の伝え方が今一つはっきりしていないからか、皆は半信半疑で足取りも鈍かった。だが、パニックを起こさないためにはそれでいいのかもしれない。下手に危機感を煽りすぎたら、無用な事故が起きてしまうからだ。今のところ、伊織がいる控え室代わりのコンテナの外には被害は及んでいないとのことだったので、伊織のアソウギを止めればどうにかなるだろう。もしも、伊織が暴走して危険が及ぶことがあろうと、コジロウがいてくれるから大丈夫だ。そう思えば、少しは不安が紛れてくれた。
瓦礫の山の合間を通り抜けて進んでいくと、あのコンテナが見えてきた。コンテナのハッチが開いて、白衣を着てマスクを付けた医療スタッフ達が逃げ出してきていた。彼らはつばめとコジロウと擦れ違うと、揃って不安げな眼差しを注いできたので、つばめはにこやかに手を振ってみせてから、コンテナに近付いた。
「で、コジロウ、どうすりゃいいと思う?」
つばめはコジロウの肩から下りて地面に足を着けると、コジロウはつばめを見下ろす。
「アソウギを機能停止させることが最良だと判断する」
「だよねー。まずはそれからだけど、触ったら溶けるってどういうこと? アソウギが強酸性か強アルカリ性のどっちかになったってこと? 違うよね?」
「アソウギは中性だ」
「あ、そうなんだ。何にしても、やっぱり触るしかないかなぁ。遺産を操るには、それ以外の方法がないし」
つばめが思案していると、コンテナのハッチから新たな人影が転げ落ちてきた。化粧も落ちて服装も若干乱れているが、文香だった。つばめは驚き、文香に駆け寄った。
「文香さん、大丈夫ですか?」
と、文香に声を掛けた瞬間、つばめは力一杯突き飛ばされた。視界がぐるりと上向き、上体が仰け反り、転倒するかと思いきや、素早く駆け寄ってきたコジロウの両手に受け止められた。何事かとつばめが困惑していると、文香は喘ぐように息を荒げていたが、手元に落ちていた石を掴んでつばめに投げ付ける。
「このっ!」
「うわっ!?」
つばめが慌てると、コジロウはまたもつばめを庇ってくれたので、文香の投げた石はコジロウの外装に激突して跳ね返った。文香は二度三度と石を投げ付けながら、涙を滲ませた目でつばめを射抜かんばかりに睨んだ。
「あんたなんかがいるから、りんねの価値が下がるのよ! あんたがいなきゃ、私が全部手に入れていたのに! どうしていつもいつもいつも、私ばっかり損をしなきゃならないの!」
「え?」
意味が解らず、つばめが聞き返すと、文香は金切り声を上げて逆上して砂利を投げ付けてきた。それがコジロウの外装で跳ね返るたびに硬い金属音が響くが、文香が吐き出す汚い言葉に掻き消された。コジロウは文香に背中を向け、つばめを抱えてくれているので砂の一粒も当たらなかったが、次第に悲しくなってきた。文香がつばめを助けてくれたり、優しくしてくれたのは建前だったのだ。りんねを元の人間に戻したいがための行動であり、つばめを本心から労ってくれていたわけではない。そんなことは解り切っていたのに、暴力で思い知らされると胸苦しくなる。だが、そんなことでいちいち落ち込んでいる暇はない。
「いいよ、コジロウ。先に進もう」
つばめがコジロウに命じると、コジロウはつばめを庇ったまま、文香に向き直った。
「了解した」
「何よ、何する気なの、どうせ人間に手は出せないんでしょ、やるならやってみなさいよ、木偶の坊!」
文香は手のひらから血を滲ませながらも砂を握り締め、激情をぶちまけてくる。
「私の掠り傷一つでも付けてみなさいよ、何十億と賠償金を吹っ掛けてやるから! あんたの父親からも徹底的に毟り取ってやる! りんねに管理者権限を渡さなかったことを一生後悔するぐらい、追い詰めてやる!」
コジロウの左手を握り、つばめは唇を引き締めた。文香に危害を加えるつもりなんてない。ただ、伊織とりんねを助けるためにアソウギを止めに行きたいだけなのに。それなのに、なぜ罵られなければならない。これ以上文香に関わっていては、収まるものも収まらない。そう判断したつばめは、コジロウを小突いて振り向かせると、コンテナの反対側からハッチに向かおうと手で示した。コジロウはつばめの意図を理解したのか、小さく頷き、つばめを左腕で抱きかかえた。文香はひくっと息を飲み、後退る。何よ、何よ、と吐き捨てながら新たな石を握る。
文香の背後で、コンテナが揺れた。その場だけ地震が起きているかのように振動していたが、壁が内側から激しく叩かれてスチール製の壁が呆気なく曲がり、破れた。文香は裏返った悲鳴を上げ、腰を抜かして座り込む。今度はまた何が起きたのだとつばめが訝っていると、一際強烈な打撃でコンテナの屋根が突き破られた。黒々とした巨体の異形が頭を振り、二本の触角を立て、あぎとを開き、吼えた。軍隊アリだった。
「もしかして、伊織?」
つばめが気圧されそうになると、文香は震え出した。
「ほ、本当に死んじゃったの、りんねは死んじゃったのぉ? だったら私はどうなるの? あの子の母親じゃなきゃ、私はあの人からお金をもらえないじゃない、ねえ、りんね」
「死んだ? え、それって伊織っていうか、吉岡りんねが?」
つばめが思わず聞き返すと、文香は喚いた。
「そうよ! それもこれもあんたがしゃしゃり出てくるから、あの子が自分の居場所がないって思い込んでそんなことをしちゃったんじゃないの! 助けるんじゃなかった、御飯なんて食べさせるんじゃなかった!」
「そうですか。でも、あの時はありがとうございました」
つばめは文香の言葉を遮るように一礼してから、コンテナから生まれた巨体の軍隊アリと対峙した。これは藤原伊織の怪人体だ、記憶を手繰るまでもない。この場にいて怪人の要素を持ち合わせているのは、美野里の他には伊織しかいないからだ。伊織はりんねの心身を守るために同化してからは怪人体には変身しなかったが、能力を完全に失っていたわけではないらしい。吉岡グループの社員の話を聞いた限りでは、アソウギが異常を来したのだとばかり思っていたが、伊織が巨大化したのであれば事情は変わってくる。
「私のこと、解る?」
つばめは圧倒されないように気を張ってから話し掛けると、巨体の軍隊アリはぎちりと顎を鳴らした。黒い複眼につばめが映り、潮風に揺さぶられている触角が曲がる。ぎちりと顎を噛み合わせるが、左右に首を傾げているので、つばめの言葉を完全に理解しているわけではなさそうだ。酩酊しているかのような動作で重心を傾かせながら、コンテナに埋まっていた六本足を引き抜いて瓦礫の破片を踏み砕き、再び吼える。
大丈夫、伊織が近付いてきても以前のように触れてしまえば制御出来る。つばめは一度深呼吸してから、伊織と対峙する。以前も自我が希薄だったが、今もそのようだ。コジロウに安全を確保してもらった上で近付けば、確実に伊織を止められる。そうすれば、きっとりんねもどうにか出来る。成功するかどうかは怪しいが、迷っている場合ではない。つばめは拳を固め、コンテナの中身である衣装やタオルや軽食の残骸を外骨格に貼り付けている伊織を仰ぎ見た。顎を最大限に開いて威嚇しながら迫ってくる、哀れな少女の従者に触れるべく、身構える。
軍隊アリの顎から滴った一粒の水が、つばめの頭上に向かってきた。
再び、つばめは突き飛ばされた。
それは、ポケットから飛び出してきた高守の仕業だった。拳大の種子とは思いがたい筋力でつばめの体を後方へ押し出し、自身はひび割れた地面に落下した。胸を強く突かれて勢い良く仰け反ったつばめは、またもコジロウに背中を支えられてから立ち直り、高守に文句を言おうと口を開いた。が、文句が喉の奥で詰まった。
一滴の水を浴びた高守が溶解し、千切れた触手をうねらせながら、細い煙を上げていたからだ。あの水は何だ、とつばめが混乱していると、巨大化した軍隊アリは顎を大きく開いてぬるりと体液を纏った舌を伸ばした。涎のように幾筋もの水を落としながら首を捻る伊織が狙いを定めたのは、文香だった。
「ひっ!」
文香は泡を食って逃げようとするが、足腰に力が入らないのか、ハイヒールの底は土を削るだけだった。伊織は死に神の鎌を思わせる爪が生えた前右足を差し出し、泥まみれになりながら這いずる文香のスカートの裾を差して地面と縫い付けた。文香は震える手でスカートのホックを外そうとするが、汗ばんでいる指ではホックを抓むこともままならず、何度も滑っていた。つばめは文香を助けにいこうとしたが、コジロウが阻んできた。
「……コジロウ?」
「現状の藤原伊織は非常に危険だ。よって、つばめは行動するべきではない」
「でも、このままじゃ!」
つばめは二の腕を掴んでいるコジロウの手を振り解こうとするが、銀色の指は緩まなかった。引き抜こうとしても微動だにせず、腕を抜けるほどの隙間も作ってくれなかった。これでは文香を見殺しにすることになる。それだけは絶対に嫌だ、藤原忠の二の舞だ。文香が心底つばめを疎んでいるとしても、目の前で死なれたくない。
死にたくないそれだけは嫌絶対に嫌お願いだから、と早口で命乞いをする文香に、伊織は最大限に恐怖を与えるためなのか、間延びした動作で迫っていく。舌から垂れ落ちる水の量も目に見えて増え、不規則な水の帯が地面を濡らしている。それが徐々に文香に近付き、ストッキングが破れた足に向かっていった。その雫が文香の冷や汗が浮いた肌を濡らすかと思われた、次の瞬間。
突如、地面が盛り上がった。重機で硬く締められた地面が割れ、泥と砂利が入り混じったものが急激に膨張し、人型を形成する。全長二メートル大の泥の固まりは二本足で直立すると、丸太のように太い二本の腕で伊織の爪を抱え、捻った。思い掛けない攻撃で右前足の関節を逆方向に曲げられた伊織は、その角度に従って胴体が捻れ、巨体を支える五本足が傾いた。泥の固まりはすかさず腰を据えて拳を放ち、伊織を仰け反らせ、転倒させた。
「体を作り替えても、結構覚えているものだなぁ。合気道なんて使ったの、何年振りかな」
泥の内側から、鈍い声が聞こえた。では、こいつの正体は。つばめがびくつきながら、泥の固まりを眺めていると、泥の固まりは恐ろしく太い首を捻って振り返った。砂利を握り固めたかのような顔の中心には、拳大の種子が触手を使って埋まっていた。ということは、これは高守なのか。
「高守、さん?」
つばめが目を丸めると、泥人形の肉体を得た高守は四本指の分厚い手で自分を示した。
「まあ、うん、そういうことになる。緊急事態だからこの姿になったけど、見ての通り耐久性は低いし、僕自身の体力も限られているからあまり長くは持たない。早く片を付けないと」
「だけど、どうやって?」
つばめが問い返すと、高守は顔に埋まった種子の触手を蠢かせながら思案した。
「そうだなぁ。ここはナユタでいこう。そうすれば、事態の収拾は付けられる。二人の命は捨てることになるけど、二人を生かしておけば被害は恐ろしいほど拡大してしまうからね」
「ダメよっ! あんな虫野郎はどうなってもいいから、りんねだけは助けてよ! それがあんた達の役目でしょ!」
懸命に這いずって遠のいてから、文香が絶叫する。高守はその様を見、触手を一本曲げる。
「それは無理な注文だ。僕が感じた限り、御嬢様がじわじわと己の肉体に影響を与えていた固有振動数は、御嬢様の遺伝子だけに強く効くように調整されていた。でなかったら、御嬢様の歌をライブで聴いた観客全員が水になっていたはずだからね。伊織君も御嬢様に逆らう気はないようだしね。この姿を見る限りでは」
「どうして? 吉岡りんねは、自分で自分を殺そうとしているの? お母さんまで殺そうとしたの?」
つばめと違って、あんなに恵まれているのに、こんなにも生を望まれているのに。つばめが仰向けに転がった巨大な軍隊アリを見上げながら、苛立ちと羨望を交えた言葉を漏らした。高守は大きな石が埋まった肩を竦める。
「御嬢様は生まれ付いて聡い御方だ。自分が生きていることで産まれる利益と、それを上回る弊害も理解なさったんじゃないだろうか。御嬢様がお決めになったことだ、外野がごちゃごちゃ言うようなことじゃない」
「だから、アソウギごと伊織も吉岡りんねも蒸発させろっていうの? ダメだよ、そんなの」
「それは綺麗事だよ、つばめさん。伊織君が御嬢様に逆らわずに肉体を明け渡している。それを鑑みれば、伊織君が御嬢様に尽くすと決めたことは解るし、御嬢様の完璧な自殺を阻む理由はない。だって、君がいるじゃないか。遺産を扱える人間がつばめさん一人だけなら、無用な争い事も減るし、遺伝子を完全に破壊してしまえば御嬢様の複製体が新たに生み出されることもなくなる。遺産を巡る不幸の連鎖は、少なくとも御嬢様の分だけは途切れることになるんだ。それはきっと、喜ばしいことなんだ」
高守の弁舌は滑らかで、至極真っ当なことを並べ立てていた。確かに、それはそうなのだ。吉岡グループは、吉岡りんねという鍵を握っているからこそ、絶対的な権力と財力を得られていた。だが、りんねは利用されながら生きることに嫌気が差し、複製体が生み出されてしまうことを嘆き、死を望んだ。つばめにも、悔しいかなその気持ちだけは痛いほど理解出来た。しかし、りんねはまだ子供だ。佐々木長光の手で複製された際の外見年齢を操作されていたとしても、三かける五で、実際に経験した時間はせいぜい十五年、つまり十五歳だ。そこまで達観していいはずがない、していたとしても苦しい強がりだ。良い子でいようとしているだけだ。
「出来るかぁっ、そんなことー!」
誰が好き好んで、自殺幇助などするものか。つばめはスカートのポケットから出したナユタを力一杯握り締めると、その精神の高ぶりに伴って青い光が迸った。指の間を擦り抜けた光条は高密度のエネルギーを含み、僅かばかり重力を弱めてくれた。その影響でつばめの前髪やスカートの裾が持ち上がり、潮風を孕んで翻る。
「死んでどうにかなるんだったら、世界はとっくの昔にパーフェクトに平和だろうが!」
りんねも、伊織も、文香も、高守も、誰も彼も言い分が頭に来る。そんなふうに腹を立てる自分が一番身勝手だとは頭の隅で解っていても、押さえようがなかった。コジロウはつばめに若干気圧されたのか、身動いだ。
「だが、つばめ。高守幹部指導員の意見は」
「理に適っている、とか言うんでしょ? そりゃその方が綺麗さっぱりだし、後腐れもないかもしれないけどさ、私が気に食わない。遺産の所有者はこの私、でもってその遺産を使っているんだから伊織もこの私のもの、でもって、その遺産の産物である吉岡りんねも私の所有物! だから、私の所有物は私がどうにかする!」
「だが、つばめ。具体策は」
「どうにかする!」
「具体策は」
「それは、えー……うー……」
コジロウの無表情なマスクフェイスに問われ、つばめは勢いを失った。啖呵を切ってみたはいいが、どうにかする手立てがないのもまた事実なのだ。そうこうしている間にも、ひっくり返った伊織は六本足を動かして起き上がろうとしている。また起き上がられたら、今度こそ大事だ。先程の衝撃で外骨格が綻んだのか、関節の間からは例の水を漏らしていて、辺りに水溜まりが広がりつつある。作業員達の避難はまだ済んでおらず、まばらに人影がある。
どうする、どうする、どうする。つばめは焦りながら懸命に頭を働かせ、考えた。またアソウギを使って重力を変動させて伊織を浮かばせれば、あの恐ろしい水が地面伝いに流れていくことは一時的に防げるが、根本的な解決には至らない。むしろ、足場をなくした状態で伊織が暴れ出してしまったら、今度こそ手に負えなくなる可能性の方が高い。ナユタのエネルギーでアソウギを蒸発させたとしても、二人が元の人間になる保証はない。細切れにされた遺伝子の繋ぎ方なんて知らないし、知っていたとしてもつばめの頭ではどうにも出来ない。ならば、遺伝子の繋ぎ方を知っている者の力を借りればいい。フカセツテンが機能停止しているのであれば、シュユを利用した妨害工作も止まっているはずだ。つばめは自身の携帯電話を取り出すと、異次元宇宙に飛ばされた道子を呼び出した。
「もしもし、道子さん?」
『はいはーいっ、ネットの都市伝説になることが目標になりつつある電子の妖精ですよー!』
一秒も経たずに明るい声が返ってきて、つばめは拍子抜けした。が、気を取り直す。
「道子さん、そっちのネットからこっちの状況、解る?」
『そりゃもう! オンラインでリアルタイムで情報が垂れ流しですからねー、しっちゃかめっちゃかだなーって思っていたんですけど、フカセツテンとシュユのせいで自力では物質宇宙にアクセス出来なかったんですよ。パスワードもアカウントも書き換えられちゃった、みたいな具合で。だから、つばめちゃんから御電話してもらって大助かりです。んで、早速ですけどコジロウ君の記憶容量に無線接続しますから、御嬢様がいじくったアソウギのプログラムを修復して改良を加えたプログラムを送ってアップデートさせますね。他に御注文はありますか?』
「ドライブスルーみたいなことを言わないでよ、気が抜ける。えーと、吉岡りんねの遺伝子の再構築と、伊織も同じのをお願い。出来る?」
『御注文を承りましたー。御嬢様の遺伝子情報が……うわぁひどいですね、これ。遺伝子を崩壊させると同時にL型アミノ酸の分解酵素になっちゃってますよ。伊織君も似たような状態ですね。二人とも、アソウギ自体に遺伝子情報のバックアップがあるので、それを使えば出来ないこともないです。でも、つばめちゃんの方で物理的に働きかけてくれないと上手くいかないですね、損傷がひどすぎるので。この数値の固有振動数をお二方に与えてアソウギの分子構造を一時的に崩壊させてくれませんか? その後、再構築させるので』
と、道子が言ったので、つばめがコジロウに振り返ると、唐突にコジロウの両耳に付いているパトライトが回転してサイレンが鳴り響いた。これが道子が作ってくれた、固有振動数を含んだ音なのだろう。
「御嬢様と伊織君に抵抗されたら面倒だ。僕も手を貸すよ」
泥の固まりの高守は瓦礫の中から鉄パイプを引き抜くと、それを指で挟んで圧迫し、一振りの刀へと変貌させた。それを振り下ろして鮮やかに風を断ち切り、砂を払う。
「これも僕が蒔いた種だ。汚れ役は引き受けてあげるよ」
重苦しい外見とは裏腹に、高守は身軽だった。地面を踏み切って高く跳躍し、緩やかな放物線を描きながら瓦礫の積み重なった山に飛び移り、そこで新たな鉄パイプを調達して握り潰し、刀に変える。太く硬い六本足を不規則に動かしていた伊織は爪先を手近なトレーラーに引っ掛け、そのコンテナを抱え込むようにして起き上がると、瓦礫の山に立つ高守を見咎めた。ぎちぃ、と伊織のあぎとが擦れ、威圧的に触角が上がる。
粗野な刀が赤らんだのは、振動による熱を含んだからだ。筋肉もなければ骨も入っていない足が踏み切った瓦礫が荒く砕け、後方に散る。巨体の甲虫はトレーラーのコンテナを丸い腹部で押し潰しながら上体を起こすと、高守を迎え撃つべく、前両足を大きく広げた。左前足が怠慢な動作で振り下ろされると、高守は伊織が胴体の下に抱えているトレーラーの屋根を足掛かりにして再度跳躍し、伊織の外骨格に鮮やかな軌道で斬り付けた。黒く分厚い鎧が滑らかに裂け、怒濤の如く体液が噴出する。高守は種子の埋まった頭部を庇いながら前進し、今度は伊織の頭部と胴体の繋ぎ目に切っ先を向ける。が、高守の胴体が中右足に突き破られた。
「痛くないけど面倒臭いな、もうっ!」
高守は外骨格を裂いた切り口に刀を一本没させると、胴体を貫いた中右足を断ち切ってから引き抜き、無造作に投げ捨てる。あの水を多量に吸っただけでなく、土を寄せ集めただけの仮初めの体は呆気なく崩壊を始め、胴体に空いた穴から土塊が零れ落ちていく。高守は
伊織の死角である真下に滑り込むと、残った刀を真上に向けて刺し、駆け出した。トレーラーの屋根を抉り、歪んだコンテナのステンレスで足を削られながらも、高守は進んでいったが、伊織は高守を潰そうと巨体を支えていた足を曲げて空間を狭めてきた。
伊織の圧倒的な重量に負けて両足の膝から下が崩壊し、続いて膝から足の付け根が潰れ、更には腰から胸が粉々にされた。下半身を犠牲にしながら直進した高守は、伊織の胴体がコンテナに接する直前、頭部の口に当たる部分で銜えていた刀を縦一線の傷口に突っ込んでから、種子の触手を用いて首だけを外界に放り投げた。直後、伊織の胴体はコンテナを圧殺し、一枚のいびつな鉄板に変えてしまった。
きぃんっ、と甲高い金属音が響く。伊織の体内で鉄パイプの刀が接した音だった。その金属音が広がると、伊織の胴体の傷口から流れ出す水が一瞬にして沸騰する。外骨格も煮え、胴体の下の切り口からは溶けた内臓と思しき物体がでろりと溢れ、体液が沸騰したことで節を繋ぐ膜が破れ、間欠泉のように水が迸る。
「コジロウ!」
今だ。つばめがコジロウに命じると、コジロウはつばめを抱え、両足から出したタイヤを回転させた。
「了解した」
普段は一切使わない赤色灯を回転させてサイレンを鳴らし、コジロウは急発進する。砂埃を巻き上げながら瀕死の甲虫に向かっていくコジロウの肩に横座りしたつばめは、耳元で鳴らされている凄まじい音量のサイレンに辟易したが堪えた。高守と道子にお膳立てしてもらったのだから、ここで尻込みしては元も子もない。ナユタを思い切り握り締めると光量が増し、蒸気が一瞬にして蒸発し、行く手を切り開いてくれた。大きく腕を振るって光を一周させると、その光が及んだ部分の水分子が一粒残らず消滅し、円形の安全地帯が築かれる。
猛烈な蒸気の白煙に覆われ、巨体の軍隊アリは悶えている。胸郭を震わせて吼えているようだが、肝心の胸郭が煮えて溶けてしまったのか、顎をがちがちと打ち鳴らすだけだった。蒸気ですらも危険だと判断したのか、コジロウはしきりに左腕を振って進行方向の蒸気を振り払いながら、煮えた体液が散らばっている浅い海の隙間を抜けていき、潰れたコンテナから外れたハッチの傍に辿り着いた。伊織の真後ろで、裂かれた腹部が頭上にある。
「今、どんな感じ?」
つばめは携帯電話を耳に当てて道子に問うと、道子は答えた。
『もう一押し、ってところですねー。高守さんのおかげでアソウギとお二方の生体組織の分離は完了しましたけど、遺伝子の再構築には至っていません。コジロウ君のサイレンを、もう十六秒聞かせれば』
「解った、十六秒だね!」
つばめが言うや否や、コジロウはサイレンを鋭く鳴らした。一、二、三、四、五、と、つばめは胸の内で数えていたが、コジロウの足元に溜まっている透き通った体液が凝固した。それは軟体動物のように身をくねらせ、つばめを狙って跳ねてきた。コジロウはすかさずその体液を叩き落とすが、水の礫は見る間に増えていき、つばめの毛先を掠めていく。つばめはナユタの光を収束させてコジロウと自分を包むが、それでも防ぎようがない熱さに臆して身を縮めていると、不意にコジロウのサイレンが止まった。
「どっ、どうしたの!」
すると、コジロウは自身の音響装置ではなく、つばめの耳元の携帯電話を経由して答えた。『地中から噴出した水によって背面部のスピーカーが浸食され、機能を損なった。これではサイレンを放てない』
「携帯じゃダメ?」
『音域と情報処理能力が足りない。これでは、事態の収拾は』
言い淀んだコジロウに追い打ちを掛けるように、煮えたぎった水が吸い寄せられるように一つに固まり、ぶにゅりと不定形に歪みながら地面を叩き、高く跳ねた。不良品のレンズのように、伊織の巨体と冴えた空の色をいびつに混ぜ合わせながら、一抱えもある水の固まりはつばめ目掛けて降ってくる。コジロウはタイヤを急速回転させて退避しようとするも、鋭い破裂音が二つ響いてタイヤが動かなくなった。超高圧の水が、パンクさせたらしい。コジロウはタイヤを諦めてつばめを抱え、右手で頭部、左手で胴体を守りながら、姿勢を低くして水の固まりから逃れた。
だが、コジロウが没した先はまた別の水溜まりだった。着地する寸前に体を反転させてつばめを上に向けたが、コジロウは背面部を泥に突っ込ませて盛大に飛沫を散らした。彼の犠牲のおかげでつばめは少しも濡れなかったが、これではスピーカーは完全にダメになってしまった。地面に激突した水の固まりは磁石に砂鉄が集まるように寄せ集まり、手近な水分も取り込み、膨張していく。つばめはコジロウの胸に抱かれながら、コジロウの倍以上の体積を得た水の固まりを見上げ、息を詰めた。ナユタを突き出して光を放つも、貫通した部分が即座に修復されてしまうばかりか、固有振動数を用いて分子構造を変換しているのか、ナユタすらも通じなくなっていた。
「これって最強アイテムじゃなかったのぉ!?」
つばめは理不尽さを感じて声を荒げるが、コジロウはそれに言い返せるほどの余力がないのか、携帯電話からは何も返ってこなかった。せめて水を遠ざけようとナユタを両手で握り、つばめの手が熱するほど光量を高めるが、水の固まりはそれをものともせずに距離を詰めてくる。じゃぼじゃぼと弛んだ水音が光の球体の外側で弾け、水の球が接触すると同時に蒸発する。だが、それも長くは保たず、水の球の質量が増えるとナユタで蒸発しきれなかった水滴が落下し、つばめの頭上や肩や足に触れそうになる。コジロウの手を握り締めながら、震え出しそうな奥歯を力一杯噛み締める。死ぬ覚悟を決めたくはないが、腹を括った方が良さそうだ。
ごく短いハウリング音の後、瓦礫の山に埋もれている破損した音響装置から、聞き覚えのある歌が流れ出した。あいらぶらぶゆー、アンダーテイカーッ、との少女の上擦った歌声だ。御鈴様の持ち歌の一つであり、あのライブで大好評を博した曲、あいらぶアンダーテイカーだ。つばめは呆気に取られつつも、カウントを再開した。六、七、八、九、十。水の固まりは泥を吸い上げて濁ったかと思うと、水風船を破ったかのようにぱしゃりと破れる。十一、十二、十三。伊織の動きが止まり、外骨格が綻び、蒸気が晴れていき、体液の沸騰が止まる。十四、十五、十六。
カウントが終わると同時に、御鈴様の歌も止まった。つばめがか細く息をしていると、コジロウの胸部装甲の上に転がった携帯電話から道子が話し掛けてきた。異次元宇宙から音響システムを乗っ取って、御鈴様の歌を微調整して流したのだという。抜け目ない。つばめは安堵してコジロウの上で弛緩し、ナユタの光も止めた。
「あー……ヤバかったー……」
『その意見には、本官も全面的に同意する』
道子の音声にコジロウの声が割り込み、つばめはちょっとだけ自負した。
「でも、なんとか出来たでしょ? 伊織も、吉岡りんねも」
『ええ、なりました。アソウギが完全に機能停止しましたから、御嬢様と伊織君の状態は危ういですけどね。お二人が安定するまで、つばめちゃんが傍にいてあげて下さい。その方が、私も調整が進めやすいですから』
「解った。んで、どのぐらい?」
『単純計算で八時間は必要ですねー。だから、一晩は一緒にいてあげて下さい』
「まあ、それぐらいなら」
つばめはコジロウの上から上体を起こし、土塊の中で藻掻いている高守の種子を見つけ出して土を払ってやり、肩の上に乗せた。どうせ体中が汚れ切っているのだから、多少汚れが増えても気にならない。外骨格の名残である濁った水が至るところに溜まっているコンテナに近付くと、コジロウが後から追ってきた。彼はつばめの足元に散乱しているコンテナの破片や瓦礫を払って危険物を取り除き、道を造ってくれた。
巨大化した伊織の形に添って擂り鉢状に歪んだコンテナの中心には、少女と虫が横たわっていた。つばめと遜色のない年相応の幼い体形と、派手さはないが整った顔立ちと、黒く濡れた長い髪。これが本来あるべき吉岡りんねだ。つばめはパーカーを脱いで裸体のりんねに掛けてあげてから、りんねを放すまいと懸命に上右足を差し伸べる人型軍隊アリを見下ろした。りんねの白く細い指と伊織の黒く鋭い爪は、尖端だけを弱く絡み合わせていて、互いを狂おしく欲しているのが如実に伝わってくる。
それが猛烈に羨ましくもあり、切なくもあった。つばめは二人の手をそのままにしておいてやり、つばめの背後に膝を付いたコジロウを見上げると、コジロウはつばめの肩に手を添えて支えてきてくれた。だが、それだけだった。パンダのコジロウに戻っていた時に言っていたように、道具と使用者の境界線を保っているからだ。けれど、伊織とりんねの間にはそれがない。伊織はりんねの道具であろうとする一方で、己の人格や感情に素直だからだ。
だから、りんねは幸せになれる。




