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機動駐在コジロウ  作者: あるてみす
 

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メモリーは心の窓

 海に没した異物は、あまりにも巨大すぎた。

 東京湾に沈んだフカセツテンを眺めながら、つばめはぼんやりしていた。気付いた頃には夕暮れ、茜色の西日が鋭く差し込み、空の端が藍色になりつつあった。あの壮絶なライブと戦闘の後も、慌ただしく事は進んだ。

 紆余曲折を経て再びつばめの手中に戻ったナユタを使い、フカセツテンを浮かばせて最悪の事態は回避したが、問題はその後だった。ライブ会場から全ての人間を退避させたが、フカセツテンをいつまでもライブ会場の真上に浮かばせているわけにはいかない。だが、全長三千メートルもの結晶体をどうやって移動させるのか。宇宙船だというからには操縦出来るのだろうが、頼みの綱であった高守信和はそれを把握していなかった。フカセツテンと密接な関係にあるシュユは岩龍との格闘戦の末に昏倒し、未だに目覚める気配はない。武公との戦闘で手痛い敗北を期した美野里は政府の人間に回収されてしまい、意識不明だという。コジロウのパンチを喰らってステージから転落した羽部鏡一も病院に搬送されたが、彼もまた目覚めていない。そして、コジロウは満身創痍だ。

 だから、フカセツテンの移動はつばめがナユタを使って外側から行うしかなかった。しかし、つばめがナユタの力を操れる保証はない。出来ることといえば、せいぜい弱重力の空間を生み出すことだけである。ナユタを握り締めてフカセツテンを動かそうと何度も何度も念じたが、上手くいかず、最終的にはフカセツテンを浮かばせている原動力であるナユタごとつばめを東京湾上に移動させ、安全地帯に回避してからナユタの出力を切り、フカセツテンを海中に落とすしかなかった。それもすんなり進まなかったので、移動させるだけで何時間も掛かった。

「疲れた……」

 エンヴィーの衣装から私服に戻ったつばめが項垂れると、肩に触手を絡ませている種子、高守が慰めた。

『本当に御苦労様。後はフカセツテンの中に入って、佐々木長光と彼に囚われた面々を解放しないとね』

「でも、どうやってあの中に入るの? 爆薬をセットしてドカンってやっても効かなかったんでしょ?」

 つばめが波間に没した結晶体を指すと、高守は携帯電話のボタンを叩いて文章を書く。

『フカセツテンを構成している物質は、こっちの宇宙には存在していないからね。当然だよ。タイスウと同じく、異次元宇宙に物質だけ存在していて、その次元をねじ曲げてこっちの宇宙にあるかのように見せかけているだけだから。だから、どんなに威力の強い兵器を使っても穴は開けられないよ。シュユの心を開かせるしかない』

「シュユは外の世界が嫌いなの?」

『というより、許せないんだろうね。クテイも、クテイを奪った佐々木長光も、奴を増長させた僕達にも』

「私のことは?」

『御鈴様の歌で目覚めた時に認識しただろうけど、そこから先については解らないな。僕はシュユの分身も同然ではあったけど、彼の意識と繋がりがあったのは、肉体に見せかけていた子株から親株を切り離す前までだったからね。それに、今のシュユは完全に独立している。もしかすると、遺産同士の互換性すらも切断している可能性が否めない。だから、彼に期待しすぎないことだ』

「あれだけ苦労して叩き起こしたのに敵側に回って、そのくせいじけているっての? 根性曲がりめ」

 つばめがふて腐れると、高守はつばめの肩を軽く叩いてきた。

『まあまあ、そう言わず。大体、シュユにも同情の余地が大有りじゃないか。宇宙船の故障か何かの理由で墜落した惑星でパートナーと離れ離れになった挙げ句に原住民に大事な道具が売り払われて、触手を切り刻まれて分身を山ほど造られて、それが崇められて、気付いたら新興宗教の神様にされていたんだから。いじけたくもなるよ』

「ほとんど高守さんのせいじゃん。新興宗教なんて、とっとと止めておけばよかったじゃん」

 苛立ち紛れにつばめが触手を弾くと、高守は携帯電話ごと仰け反ったが、踏み止まった。

『そうもいかないんだよ。一度始めたものを止めるのは、なかなか大変でね』

「上納金を荒稼ぎしたかったの? それとも、シュユを半覚醒状態にしておいて良いように扱いたかったから?」

『それもないわけじゃないけど、なんというか、良心が咎めたんだ』

「良心? 詐欺師の代名詞みたいな新興宗教の幹部には一番似合わないセリフだよ、それ」

 つばめが腹の底から疑って掛かると、高守は若干気圧された。

『そりゃまあ、そうだけど。でも、シュユを信じていることで救われている人がいたのも確かなんだ。どう生きるのか、何を信じるべきなのか、迷っている人は大勢いたんだ。僕だってその一人だ。剣術の腕はそれなりにあったけど、道場を継げるほどじゃなかったし、再興出来るほどの人徳もなかったんだ。だから、シュユと出会って彼の種子に寄生されたのは、嫌じゃなかった。むしろ、僕みたいな人間でも何かの役に立つんだって思えたんだ』

「でも、弐天逸流のせいで不幸になった人は、救われた人の何倍もいるんだよ。誰だって何かに縋りたくなるのは解るし、私だってこの前みたいに弱り切った時に都合の良いことを言われたら、ぐらって来ちゃうもん。でも、それは正しいことじゃない。シュユは人間の常識を越えた世界から来たのは確かだけど、神様じゃない。神様なんてものはいないんだ。本当にそんなのがいるとしたら、こんなことにはならない」

 つばめは高守の種子を握り、肩を怒らせる。高守の触手はつばめの指を剥がそうとしたが、止めた。

『そうだね。全ては人の悪意から始まったことだ。僕や他の皆は、その人の悪意の隙間を埋めるような商売をして長らえてきたんだ。約束通り、僕は弐天逸流を解体するよ。シュユが目覚めたことで、信者達の洗脳も解けたはずだしね。解けていなかったとしたら、僕が生体接触して解除する。もっとも、フカセツテンとその中に入っている複製された異次元だけは僕の手に負えないと先述しておくよ。あれはシュユの領分だ』

「シュユがまた目を覚ましたら、今度は私が話を付ける。でないと、何も終わらない」

『そうだね。それがいい』

 高守は頷くように触手を上下させた。つばめはその日和見な態度が若干癪に障ったが、高守に対して怒る余力もなく、文句も言えなかった。二人が会話をしている間にも、背後では大勢の人間が忙しく動き回っていた。ライブ会場の後片付けに奔走する人々や人型重機、周囲を封鎖するためにやってきた政府関係者、フカセツテンの警護に当たる巡視船とヘリコプター、負傷者達をピストン輸送している救急車両、大騒ぎを聞き付けて忍び込もうとするマスコミを排除する警察官達、などなど。この場で何もせずにいるのは、つばめと高守ぐらいなものだ。

「あ、いたいた。おーい、つっぴー!」

 背後から声を掛けられ、振り返ると、疲れた表情の美月が手を振っていた。つばめは振り返り、駆け寄る。

「ミッキー! そっちはどう、大丈夫だった?」

「うん、まあ。気持ち的には修羅場だけど。羽部さんがヘビだったから」

 美月は眉を下げ、首を竦める。罪悪感を覚え、つばめは苦笑する。

「羽部さんが人間じゃないってこと、もっと早くに教えておいたらよかったかな」

「うん、まあ、それはちょっとね。ひどいなー、薄情だなー、ってちらっと思ったけど、羽部さんの正体を事前に教えてもらっていたらそれはそれで面倒なことになったかもしれないから、あのタイミングでよかったのかなって。だけど、あの人、これからどうなっちゃうのかな」

 美月は着替えている暇もなかったらしく、アイドルの衣装のままだった。それが汚れることすら躊躇わずに羽部を抱き起こしたのだろう、チェック柄でフリルの付いたスカートの裾が赤黒く汚れていた。鮮やかな輪郭を帯びた横顔はやけに大人びて見え、つばめは複雑な気持ちに駆られた。美月本人は無自覚なのだろうが、彼女が羽部に好意を抱いているのは確かだ。それが友人に対するものであれ、異性に対するものであれ、釈然としない。

 幼稚な嫉妬か、浅ましい羨望か。どちらでもあるのかもしれない、とつばめは胸中の疼きをやり過ごした。羽部は人間ではないし、ろくでもない性格だし、美月と親しくさせるのはとてつもなく嫌だ。羽部のことだ、美月の真っ直ぐな思いを踏み躙って嘲笑い、弄ぶかもしれない。それでも、美月の羽部に対する好意は届くだろう。なぜなら羽部には感情が備わっているからであり、捻くれて拗くれて曲がっているが人格も存在する。だから、伝わる。

「やっぱり、羽部さんのいる病院に行ってくるよ。だって、起きた時、傍に誰もいなかったら寂しいから」

 しばらく逡巡した後、美月は顔を上げた。

「コジロウ君の改修作業は進んでいるから、安心してね! じゃあね、つっぴー!」

 そう言い残し、美月は駆け出した。通り掛かった小倉重機の社員に父親の居所を聞き出すと、教えられた方向に向かって迷わず走っていった。スカートの裾が翻り、リボンが靡き、サイドテールが躍る。彼女の活力の漲った背に手を振りながら、つばめは唇を噛んだ。羽部と美月がどうなるのかは解らない。だが、美月が傍にいてくれるなら、羽部も悪いようにはならないだろう。そう思いたい。

 太陽が完全に没すると、潮風がぐっと冷え込んできた。吉岡グループの社員に促され、つばめは控え室にしていたコンテナに戻ることにした。あれほどまでに巨大なフカセツテンを世間から隠すのは容易な作業ではないが、つばめが見ていても事態が好転するわけでもないからだ。ライブ会場の裏手を横切り、セットを輸送してきたトラックの群れが駐車している臨時駐車場に入り、控え室のコンテナに入った。

「おう」

 その中では、御鈴様の衣装を脱いだ伊織が簡易ベッドに横たわっていた。その様に、つばめは懸念する。

「大丈夫? 具合悪いの?」

「悪いっつーか、疲れやすいんだよ。りんねの体は。自分の意思でほとんど動いたことなかったせいでな」

 微熱が出ているのか、伊織の白い頬は血色が良くなっていた。不謹慎ではあったが、目元がほんのりと赤らんで瞳も潤んでいるから、氷細工の人形が溶けて消えてしまうかのような、儚げな美しさを感じずにはいられなかった。伊織はつばめを手招きしたので、それに甘えてコンテナの奥へと進んだ。伊織の身辺の世話をしていた吉岡家の使用人達は、すぐさま道を空けてくれた。

「何か用?」

 つばめが簡易ベッドの傍にあった椅子に腰掛けると、伊織は薄い唇を綻ばせた。

「俺がどうなろうが、りんねだけは死なせないでくれ。それだけだ」

「やだなぁ、縁起でもないこと言わないでよ。死亡フラグが立っちゃうよ?」

 伊織らしからぬ弱気な言葉につばめが笑い出すと、伊織は口角を吊り上げる。

「馬鹿言え、俺は一度死んだんだ。もう一度死のうが、どうってことねぇよ」

「体が良くなるまで、大人しくしているんだよ。これからも大変なことがあるだろうしさ」

「言われるまでもねぇし。つか、寝るから出ていけよ。ウゼェ」

 伊織は寝返りを打ってつばめに背を向けると、手で払った。その態度につばめはむっとしたが、弱っている相手に文句を言うべきではないので、素直に引き下がることにした。一旦コンテナの外に出てみたが、その後、中に戻るのはちょっと気まずくなった。かといって、海風が吹き付けてくる外にいるのも寒い。はてどうしたものか、と高守と共に思い悩んでいると、赤い光を放つ物体が後片付けで忙しく働く人々の間を縫ってきた。

「つばめちゃん!」

 ぎゃぎゃぎゃぎゃっ、と砂利を蹴散らしながらブレーキを掛けて止まったのは、一体の警官ロボットだった。現場には事後処理のために多数の警官ロボットが派遣されているので、機能停止したコジロウがコジロウネットワークを使って一時的に動かしている下位個体なのだろうか。だとしても、ちゃん付けするなんて彼らしくもない。

「……え?」

 だとしたら、この警官ロボットは一体。つばめが呆気に取られると、警官ロボットはつばめの手を取った。

「こんなところにいたんだね、僕が来たからもう大丈夫だよ!」

「ぼ、僕?」

「一緒におうちに帰ろう! 暗くなる前におうちに帰らないと、お母さんが心配するよ!」

 そう言うや否や警官ロボットはつばめを横抱きにし、脛から出したタイヤを再び回転させた。

「ちょ、ちょ、ちょっとぉ!」

 思わぬことに動揺したつばめが警官ロボットを引き離そうとすると、警官ロボットは首を傾げた。

「どうしたの、つばめちゃん? おトイレ? だったら、ドアの前まで付いていってあげる」

 ね、と警官ロボットが頷いてみせた。その仕草に、つばめは抵抗を止めた。

 この言葉は、この態度は、この仕草は。

『つばめさん。彼はコジロウなのかい?』

 高守が問うてきたが、つばめは答えられなかった。答えたくなかった、と言うべきかもしれないが。警官ロボットはつばめを抱え直すと、人並みと瓦礫の山を擦り抜けていき、ライブ会場に隣接した車道に出た。政府と警察による封鎖も検問も通り抜けていき、制止する声がいくつも投げ掛けられたが、警官ロボットは止まらなかった。

 僕がいるから大丈夫。僕はいつでも君の味方だ。僕が守ってあげるから。いつも、いつも、いつも、彼はつばめに優しい言葉を掛けてくれた。彼はつばめの兄だった。彼はつばめの弟だった。彼はつばめの父親だった。彼が彼であったなら、と何度願っただろう。これが夢なら覚めないでくれ、たとえ悪夢であろうとも。

 警官ロボットの首の後ろに手を回し、きつく手を握り締めながら、つばめは警官ロボットの肩に顔を埋めた。警官ロボットはつばめの肩に大きな手を添えて、大丈夫だよ、と一際柔らかな声色で囁いてくれた。寝入る前に、一人で留守番をしている時に、仮初めの家族の帰りが遅い時に、怖い話を読んで怯えている時に、不意に寂しくなった時に、彼はいつもその言葉を与えてくれた。綿の入った手で頭を撫でてくれた。抱き締めると抱き締め返してくれた。つばめが少し大人になり、それが妄想であると割り切るようになると、彼はいつのまにか喋らなくなった。いつまでも甘ったれた子供ではいられないと覚悟を決めて、彼を仕立てている糸を解き、綿を抉り出し、袋を作り、そこに現金を入れるようになった。大事な友達だったのに、金庫代わりにするようになった。

 否。大事だから、何があっても傍にいたかった。小さな子供の頃と同じく、つばめを守る武器である現金を守ってほしかった。金庫代わりにしておけば、いつも連れて歩いていても不思議はないと自分に思い込ませるためだった。ずっと、ずっと、ずっと、傍にいてほしかった。もう一人のコジロウに対する憧れとは異なる、暖かな気持ちが全身の隅々まで行き渡っていく。つばめは頭を撫でてくる手付きの優しさで、確信した。

 この警官ロボットには、パンダのコジロウの心が宿っている。



 埋立地から都心に向かう車中、美月は外界を見つめていた。

 運転席には父親の小倉貞利が収まり、ハンドルを握っている。事後処理とロボットファイター達の改修で忙しいのは確実なのに、重要な仕事を部下に一任して、美月を羽部が搬送された病院まで送り届けると言った。羽部と美月の仲を勘繰っているのか、それとも他の理由があるのだろうか。いずれにせよ、父親が傍にいてくれるだけで、美月の気持ちは和らいだ。親子二人の時間が取れたのは、久し振りだ。

 街灯の傍を通りすぎるたびにオレンジ色の光の帯が伸び、縮み、暗い車中に半円を描く。カーステレオから流れてくるのはFMラジオで、CDショップの売り上げランキングの合間に埋立地で起きた異変に関するニュースを報じているが、どれもこれも捏造されたものだった。吉岡グループが早々にマスコミに手を回し、情報操作を行った証拠である。この分では、政府すらも吉岡グループの財力に丸め込まれているかもしれない。

「こんな時に言うのはなんだが」

 交差点で一時停止し、小倉は赤信号を見上げながら話を切り出した。

「いずれ、レイガンドーを解体することになる」

「それって、あのムジンって回路のせい?」

 美月はなるべく感情を押さえようとしたが、言葉尻は上擦った。想像するだけで、気が狂いそうになる。

「そうだ。だが、レイガンドーを廃棄するわけじゃない。ムジンに頼ったシステムを一から構築し直して、俺達の手が及ぶ範囲の技術で生まれ変わらせるんだ。もちろん、岩龍もだ。二体から取り外したムジンは、コジロウに使用したムジンと接続させることになっている。タカがそう決めたんだ。図面も引いてあるし、部品も届いている。後は俺達の手で組み立てて、つばめさんにコジロウを再起動してもらえば完成する。どういう意図があるのかは解らんが、それに逆らう理由もないからな」

「そう、だね。でも、レイはどうなるの。ムジンの回路があったから、レイと岩龍は人工知能があそこまで成長したんでしょ? そうなんでしょ? だから、ムジンを外しちゃうと、二人は今までの二人じゃなくなっちゃうんでしょ?」

「ああ、その通りだ。三体のロボットに分けられていたムジンは常に情報を共有し、並列化していたから、人工知能を成長させることが出来たんだよ。言ってしまえば、理性はレイガンドーが、感情は岩龍が、知能はコジロウで分け合っていたんだ。だから、ムジンを一つにしてコジロウにだけ搭載することになれば、レイガンドーはお前の知るレイガンドーではなくなるかもしれない。だが、あいつはあいつなんだ」

「うん。解っているよ」

「俺だって、タカの言うなりにしたいわけじゃないさ。だが、ムジンが手元にある限り、俺達はいつまでも佐々木家のゴタゴタに巻き込まれちまうんだ。今回はなんとか上手くいったが、何度も荒事に巻き込まれてたまるか。RECはやっと世間に認知されたんだ、アンダーグラウンドの娯楽でしかなかったロボットファイトを表舞台に引き摺り出せたんだ、ここで躓いてたまるもんか。吉岡グループはヤバいんだ、これ以上馴れ合うべきじゃない。だから、ムジンさえ俺達から遠ざけてしまえば、俺達は地に足を着けたまともな商売が出来るんだ」

 か細く答えた美月に、小倉は懸念を吐露した。父親も、十五年もの月日を共にしたレイガンドーがレイガンドーでなくなってしまうことを惜しんでいる。だが、遺産が生み出す利益とそれを上回る危険を目の当たりにしたのでは、反論の余地もなかった。信号が青に変わると、小倉はアクセルを踏んだ。

「羽部って奴とは、どうなんだ」

「友達ですらないし、あの人も私のことをそう思っていないよ。でも、羽部さんのこと、放っておけないの」

「……ああ、解る。解るさ。若い頃の母さんがそうだったから」

 小倉は美月以上に感情を押し殺して、ハンドルを切った。羽部が収容された吉岡グループ系列の病院の看板が見えていた。搬送された患者の数が多いのだろう、駐車場は騒がしかった。先に話が通っていたのか、小倉重機の社名が入ったワゴン車が玄関前のロータリーに入ると、女性看護師が現れて案内してくれた。車を降りた美月は父親に礼を言ってから、羽部が運ばれた部屋まで急いだ。レイガンドーの今後を考えるだけで涙が出そうになったが、メイクが落ちるのも構わずに目元を拭った。羽部に下手な心配を掛けたくないからだ。

 行き着いた先の病室には、化け物が横たわっていた。医師も看護師も下半身がヘビの男に対して困惑気味ではあったが、的確な処置を行っていた。尻尾はベッドからはみ出してとぐろを巻き、コジロウの拳で強かに殴られた顔の右半分は止血のためのガーゼが分厚く貼り付けられ、尻尾の長さを含めた体格に合わせた量の点滴のパックが吊り下げられていた。身内の方ですか、と看護師に問われ、美月は知り合いだと答えた。

 慌ただしく病室を出入りする看護師達を横目に、美月は病室の隅にあったパイプ椅子に腰掛けた。羽部が人間ではないと知って、なぜか安心していた。彼が常人だったなら、受け止めきれない部分が多すぎたからだ。掛布の下から出ている手は青白く、日々ロボットを相手に奮闘している父親とは違い、皮も薄ければ骨も細いので男の手というには軟弱すぎた。けれど、疎ましいとは感じなかった。生きてきた世界が根本的に違うのだから。

「ねえ、羽部さん」

 色々と話したいこと、聞きたいこと、教えたいこと、教えてほしいことが山ほどある。だが、どれから話せばいいのか解らなかった。レイガンドーを失うやるせなさと、つばめとの濃い繋がりが途切れる恐怖と、かつての友人であるりんねに対する戸惑いと、目の前のベッドに横たわるヘビと人間の混在した男への感情が絡み合っていたからだ。恐る恐る指を伸ばし、羽部の手に触れてみると、ぞっとするほど冷たかった。

 それでも、縋らずにはいられなかった。



 部下の報告を受け、現場に駆け付けた。

 文香はフェラガモのハイヒールを脱ぎ捨てたい衝動に駆られながらも、ヒールを鳴らして走り、つま先に刺すような痛みを感じながら、小倉重機に割り当てられたスペースへと駆け込んだ。臨時の整備場として解放されている二十メートル四方の空き地には、所狭しとロボットが詰め込まれていて外装を開かれ、部品交換を行われている。主な患者はRECのロボットファイター達であったが、瓦礫が散乱しているライブ会場の後片付けの最中に故障した人型重機やロボットの応急処置も行われていた。

 息を切らして現れた文香に、小倉重機の社員達は一度手を止めた。ライブで使用していた照明を四方に置いてライトとして使っているので周囲との明暗の差が激しく、一瞬、目が眩みそうになった。文香は走っている間に太股までずり上がったタイトスカートを整えてから、呼吸も整え、声を上げた。

「つばめさんと、コジロウ君のムリョウとムジンが消えたって、本当?」

「はい、文香さん。こちらです」

 小倉重機のサポートに回っていた吉岡グループの社員がやってきて、文香を案内した。そこかしこに散らばっている工具や部品に足を引っかけないように気を付けながら、野戦病院のような光景を横目に進んでいくと、頭部と右腕を破損した警官ロボットの元に辿り着いた。右胸に付いた片翼のステッカーで、それが量産機ではなくコジロウ本体だと解る。レイガンドーとの激闘で著しい損傷を受けたコジロウは、割れた外装から幾筋もの機械油を垂らし、渾身の一撃で砕かれた腹部から覗く部品は内蔵じみていて、頭部と右腕は原形を止めていない。

 小倉重機の整備士は顔を見合わせてから、文香にコジロウの損傷部分を見せた。レイガンドーの拳が掠ったことで破れてしまった片翼のステッカーが付いた胸部装甲が開かれたが、その中には何も入っていなかった。無限動力炉であるムリョウが収まっているべき縦長の金属枠からは肝心要の中身が抜かれ、ムリョウの真下に設置されていたはずの回路ボックスも抜かれていて、コードだけが垂れ下がっていた。

「どういうことよっ!?」

 文香は激昂し、整備士と社員に迫る。ムリョウとムジンがなければ、佐々木つばめとコンガラを利用してまで実行した馬鹿げた作戦の意味がない。フカセツテンが吉岡グループの手中に収まったとしても、佐々木つばめが味方に付いてくれなければ起動させるすら出来ず、ムリョウがなければ微動だにしない。そして、遺産を使える者が手元にいなければ、哀れな娘、りんねを人間にしてやることすら出来ないではないか。全てはりんねのためなのに。

「警備員は何をしていたの!? これだけ人間がいながら部外者を見逃したって言うの!? 有り得ない!」

 こうなったら、なんとしてでも取り戻さなければ。文香は携帯電話を取り出し、ハルノネットの社長を務めている夫に電話を掛けようとしたが、背後から携帯電話を取り上げられた。何事かと振り返ると、あの男がいた。

「あまり騒ぐな。ムリョウとムジンを外して量産型の警官ロボットに入れ直したのは、俺だ」

 佐々木長孝だった。文香は思わぬ事に身動いだが、携帯電話を奪い返して言い返す。

「今の今まで何もしようとしなかったくせに、よくもおめおめと顔を出せたものね!」

「そうだな。その通りだ」

 佐々木長孝が音もなく歩み寄ってコジロウの残骸の上に顔を寄せると、整備士や社員達は距離を開けた。長孝は作業着の袖口から腕を伸ばして、コジロウの外装を慈しむように撫でた。

「この損害は予想以上だな。俺の設計が甘かったのか、それとも小倉の腕が上がったのか……。拳の侵入角度と破損状況から考えると、後者だな。初期の機体に比べればパワーゲインが倍、いや、三倍だ。あいつは勉強熱心だからなぁ、俺よりもずっと」

「あんたの娘の居所は見当が付いているんでしょうね?」

 長孝の悠長さに文香は苛立ったが、一度深呼吸してから語気を改めた。長孝は顔を上げる。

「ああ。強制終了後に無理矢理初期化された状態で起動させられたコジロウは、損傷のショックで一時的に記憶も初期化されてしまったようだからな。自己修復能力は死んでいないから、アマラがなくとも十二時間過ぎれば、アマラの異次元宇宙にバックアップされていた記憶やら何やらがダウンロードされて、時間経過と共に元に戻るはずだ。だが、理論の上では、ムリョウもムジンもあの程度の攻撃じゃびくともしないんだがな。コジロウ本人が現実逃避をしたがった、と考えるべきか、つばめを労ってやりたいのか。そのどちらとも取れるな」

「そんなことは聞いていないわよ。私が知りたいのは、あんたの娘の居所と、ムリョウとムジンの在処よ。それさえ手元に戻ってきたら、私はりんねを助けられるのよ。藤原伊織からも遺産からも解放してやって、私達の愛する娘を人間らしい生活に導いてあげられるのよ。それがどんなに素晴らしいことか。解るでしょ、あんたでも」

 文香は苦々しく口角を吊り上げる。長孝はコジロウの頭部を見下ろし、傷だらけのマスクを撫でる。

「ああ。解るさ。だが、それは文香さんの考えであって、りんねさんの意思じゃないな。彼女が本当に人間に戻って人間らしい生活を送りたいのかどうか、ちゃんと聞いてやってくれ。伊織君にもだ」

「戻りたいに決まっているでしょ! あの子はずっとあんたのクソ親父の操り人形にされていて、自我が目覚めそうになったら自分の境遇に折り合いが付けられなくなって自殺を繰り返していたような繊細な子なんだから! まともな人間に戻って当たり前の生活を送りたいに決まっている、遺産絡みの荒事からも世間の猥雑さからも隔絶した場所で清らかに生きてもらうのが一番なのよ! それがりんねの本来あるべき人生なんだから!」

 俯いてコジロウと目を合わせている長孝に、文香は鬱積した感情をぶつけた。この男さえ、いなければ。

「大体、何もかもあんたが悪いのよ! あんたがあの子を作らなければ、あんたがクソ親父が買い取った女を嫁にしなければ、こんなことにはならなかったのよ! 親に宛がってもらった女とよくもまぁヤれたものね! 相手の女も女よ、あんたみたいな化け物に股を開くだなんて心底イカレてる! 産まれる前に潰そうとは思わなかったの!? その上、新免工業に攫わせて安全を確保してから産ませようだなんて、とんでもないことよ! 産ませたら産ませたで迎えにも行かなかったから、結局あの女は死んだじゃない! あんたと関わったからよ!」

 長孝は反論もせず、機械油をレンズの縁に溜めているコジロウの頭部と見つめ合っていた。

「なんとか言いなさいよ、この化け物が!」

 文香の金切り声に、長孝はコジロウの頭部を抱き寄せた。機械油が布地に吸い込まれ、黒く染まる。

「俺のことはどう言ってくれても構わない。事実だからだ。だが、ひばりとつばめをこれ以上侮辱したら、俺はあんたを絞め殺す。死にたくなければ、ひばりの人生を否定しないでくれ」

「そ」

 そんな度胸もないくせに、と言いかけて、文香は硬直した。長孝の作業着の裾から伸びてきた細長い異物が文香の首を捉え、ひたりと吸い付いていた。冷え切った肉の帯に圧迫された動脈が激しく脈打ち、喉を押さえられたことによる圧迫感が呼吸を妨げる。目鼻のない顔を上げた長孝は、文香を見据える。

「俺は出来るさ。それだけの覚悟はある」

 文香の首を戒めたまま、長孝は腰を上げた。繋ぎの作業着の裾からは足ではなく無数の触手がはみ出していて、靴を履いていなかった。シュユとは異なり、光輪は背負っていなかったが、それに準じた部位が存在しているのか、作業着の背中が奇妙に盛り上がっていた。それが、佐々木長孝という男である。

 力任せに長孝の触手を振り解いた文香は咳き込み、喉を押さえた。人間大に縮小されたシュユ、寺坂善太郎が触手に侵食され尽くされた姿、とでも言うべき人外の男を涙の滲んだ目で睨む。普段は人間に紛れて生活するためにサイボーグが使用する人工外皮を被って人間の恰好をしているが、今日に限って本来の姿を露わにしていた。文香は夫であり長孝の実弟である吉岡八五郎から、長孝の異様さは話に聞いていたが、実物を目の当たりにすると腹の底から嫌悪感が湧く。不規則にうねる無数の触手を気色悪いと思わない人間は、まずいないだろう。そんな男との間に娘を設けた佐々木ひばりは、正気ではない。

「明日になってもつばめが戻ってこなかったら、俺の体を切り刻め」

 長孝は一際太い触手をにゅるりと伸ばし、文香の目の前に差し出した。

「俺の体に残留している管理者権限はつばめの三分の一もないが、使えなくもないだろう。つばめが自分の人生を選べる、最後の機会なんだ。お前らにそれを潰す権利はない。あったとしても、俺が潰す。真っ先に、あんたを」

「あの子は子供なのよ? 子供が遺産を操る能力を持っていることだけでも非常識なのに、その子供を大人が管理してやらなくてどうするのよ! どう考えても、ろくなことにならないに決まっているじゃない!」

 負けじと文香は長孝の触手を弾き、喚くが、長孝は目元と思しき部分に深いシワを刻んだ。

「だったら聞こう。今までつばめが遺産を使って誰かを殺したか、傷付けたか、陥れたか? 

 お前らが寄って集ってつばめを追い詰めるから、遺産を使わざるを得ない状況になっただけじゃないか。遺産を巡って殺し合ったのも、遺産による利益を見込んで莫大な金をやり取りしたのも、注ぎ込んだのも、お前らの勝手じゃないか。フカセツテンが再起動した経緯も把握しているが、つばめを陥れたのは備前美野里だ。責任転嫁するんじゃない」

「だからって、放っておいていいわけが!」

 文香は長孝に詰め寄ろうとするが、長孝は身動ぎもせずに文香と向き直る。

「どうせ既に監視しているんだろうが。設楽道子とアマラが構築したハルノネットのネットワークと監視網で追跡しているんだろうが。そうやって俺に食って掛かるのも、俺を釘付けにしておきたいからだろう。つばめが行く当てなんてたった一つだ、そこまで潰す気なのか。備前夫妻に余計な手を打ってみろ、あんたの内臓を引き摺り出す」

 長孝の目のない視線がぐるりと辺りを見回すと、吉岡グループの社員がびくつき、文香に指示を乞うてきた。確かにその通りだ。吉岡八五郎は思慮深く、抜け目のない男だ。文香から連絡がなくとも、御鈴様のライブが始まる以前から、いや、つばめが文香に接触した時点からつばめを監視しているだろう。

 文香は長孝の察しの良さが鬱陶しくなったが、長孝の触手で内臓を引き摺り出されては元も子もないので、監視中止のメールを打ち、送信した。もっとも、それを夫が受け入れてくれる保証はどこにもないのだが。

「俺はここから動かない。つばめが帰ってくるまでは」

「帰ってこなかったら?」

「先刻通り、俺を好きにしてくれていい。俺はつばめの人生に従う」

 そう言うと、長孝は触手を引っ込めてその場に座り込んだ。文香は喉元に突き付けられていた触手が退いたことで安堵しかけたが、気を取り直して社員達に指示を送った。仕事は文字通り山積みなのだから、休んでいる暇などない。ライブ会場を片付けたことで出た廃棄物の処理、フカセツテンが沈んだ海域を封鎖し、フカセツテンの管理と調査を吉岡グループだけで独占するために、政府に圧力を掛けなければ。より強固な情報統制も行い、遺産関連の情報を外部に漏らしている人間を掃討しなければ。長孝を一瞥してから、文香は整備場を飛び出した。

 佐々木長孝が、佐々木つばめが、腹の底から憎たらしい。自分の禍々しさを知りながらも無計画に佐々木ひばりを妊娠させて子供を産ませた考えなしの男に、道具としての価値以外は皆無なのに感情的に生きようとする愚かな小娘に、愛して止まないりんねの生殺与奪を握られているなんて、許し難い。あの親子の命に比べれば、りんねの命は遙かに重く、儚く、脆いものなのに。歯を食い縛りすぎて唇を切り、文香は口紅ごと血を拭った。

 愛されるべきは、りんねだけだ。



 およそ半年振りに訪れた備前家は、何も変わっていなかった。

 三階建ての大きな家は窓明かりが点いていて、玄関には季節に合わせた花が咲いている鉢植えが整然と並び、二台分のスペースがある車庫は一台分が開いていた。美野里の車がなくなっているからだ。備前、と立派な草書体の文字が刻まれた金属製の表札の下にある呼び鈴を押そうとして、つばめは躊躇った。散々迷惑を掛けてきたのに、備前家に甘えていいものか。だが、他に行く当てはない。船島集落には、つばめが住む家はないのだから。

 呼び鈴を押せずに身を引いたつばめは、待っていてくれたコジロウに寄り掛かった。理由は不明だが、パンダのコジロウの人格を宿した警官ロボットは、つばめの頭を撫でてくれた。手触りこそ硬かったが、仕草は同じだ。

「つばめちゃん、大丈夫だよ。僕が一緒にいるからね」

 お母さんに叱られたのかな、とコジロウに問われ、つばめは彼の機械熱が滲む胸部装甲に額を当てた。

「それだったら、まだ良かったんだけどね」

 ごめんなさい、反省しています、今度からは気を付けます、と言えば、美野里の母親である備前景子はつばめを許してくれた。実の子ではないことで常に気後れしていたから、つばめは景子に対して気を遣っていた。景子もそれを汲んでくれていて、つばめとの距離感を保ってくれた。どうしても寂しくて母親が恋しい時は甘えさせてもらったが、普段は景子を美野里に譲っていたつもりだった。それなのに、美野里はそう思っていなかったようだ。

 胸が詰まるほどの懐かしさを味わってから、つばめは目元を擦り、備前家に背を向けた。これ以上、誰かに迷惑を掛けるわけにはいかないからだ。コジロウと手を繋いで、肩からずり落ちかけている高守の意志が宿った種子を携帯電話と共にポケットに入れてから、立ち去ろうとした。すると、慌ただしい足音の後にドアが開いた。

「つばめちゃん?」

 つばめがぎこちなく振り返ると、逆光の中に景子が立っていた。夕食の支度をしていたのだろう、エプロン姿だ。見つかる前に立ち去るつもりだったが、気付かれてしまったようだ。つばめは一礼してから、今度こそ立ち去ろうとすると、景子はサンダルを突っ掛けて門を開けて外に出てくると、つばめの手を握り締めた。

「こんなに冷えちゃって、さあ早く来なさい、風邪引いちゃう! お腹空いていない? 御飯、あるわよ!」

「でも……」

 つばめは語尾を濁した。今し方まで水仕事をしていたであろう景子の手は冷たいが、力強かった。

「コジロウ君、でしょ?」

 景子はつばめの手を離さずに警官ロボットを見上げると、警官ロボットは頷いた。

「はい。僕はつばめちゃんの一番の友達のコジロウです!」

「一緒に来て。つばめちゃんもコジロウ君も、大事なうちの子よ」

 景子に促されるも、つばめは渋った。嬉しさよりも申し訳なさが先に立ち、俯いてしまった。

「でも、私のせいでお姉ちゃんが」

「美野里ちゃんのことは全部知っているわ。だって、私達の娘ですもの」

 だから大丈夫よ、と景子に優しく肩を抱かれ、つばめは意地が綻んだ。コジロウと共に備前家に入ると、玄関にはキッチンから漂う暖かな料理の匂いが立ち込めていた。今夜はクリームシチューだろうか。泥で汚れたスニーカーを脱いでスリッパに履き替え、躊躇いがちに歩いてリビングに入ると、美野里の父親である備前柳一が寛いでいた。普段は弁護士事務所の仕事が忙しいので帰宅時間も遅いので、珍しい。

「早く入ってきなさい」

 部屋着姿の備前に手招かれ、つばめはコジロウを指した。

「コジロウも?」

「もちろんだ。うちの床は、そんなに柔な作りじゃない」

 度の強いメガネの奥で、備前が目元を綻ばせる。つばめはほっとして、コジロウの手を引いてリビングに入った。今夜は冷え込みが強いからか、暖房が効いていて心地良かった。壁際にある三人掛けのソファーに座ると背中が沈み、足が浮いた。これもまた、昔から変わらない。

「あ、そうだ」

 ポケットに入れている高守と携帯電話を潰しては大変なので、つばめは出窓に飾ってある花瓶に高守の種子を置くと、彼は細い触手を解いて水に浸した。これでしばらくは保つだろう。つばめがソファーに座り直すと、コジロウがつばめの傍に座りたいのか、しきりにつばめを気にしている。

「僕が大きくなったのはいいんだけど、これじゃつばめちゃんに抱っこしてもらえないや」

 残念、と首を横に振ったコジロウに、備前は噴き出した。

「そうだなぁ。そうだったもんなぁ、君は」

「……あれ?」

 パンダのコジロウと話が出来るのは、つばめだけではなかったのか。彼はつばめのイマジナリーフレンドであったのだから、その空想の生みの親であるつばめとしか話は出来ないのでは。ふと疑問に駆られて思い返してみるが、コジロウがつばめ以外と会話していた記憶はない。コジロウはお話しするんだよ、と言って備前夫妻にコジロウを見せたことは多々あるが、それだけだ。つばめが悶々としていると、紅茶を運んできた景子が言った。

「コジロウ君はね、つばめちゃんのお父さんからのプレゼントだったの」

 ダージリンの紅茶と共にカボチャのパイを載せた皿を差し出してから、景子はつばめの向かい側に座った。

「お父さんの?」

 頂きます、と言ってから紅茶に口を付けたつばめは、その暖かさが胃に広がると、凝り固まっていた感情や諸々が解れていった。ああ、この味、この香りだ。再度紅茶を飲んでから、カボチャのパイをフォークで切って口に運ぶと、優しい甘さとバターの香りが広がった。食べながらでいいから、と言ってから、景子は話を続けた。

「そうなの。つばめちゃんのお父さんの長孝さんはね、とても器用で、機械技師をしているの。専門分野は人型重機の設計と開発なんだけど、図面を引いてから自分で組み上げることも多いわ。だけど、色々と事情があってつばめちゃんに会えないから、いつも仕送りをしてくれるのよ。だから、つばめちゃんを育てるために使ったお金の出所は、ほとんどが長孝さんなの。お誕生日やクリスマスにも、必ずプレゼントを贈ってくれたわ。コジロウ君も、その中の一つだったの。つばめちゃんがうちに来てから、三年目のことだったかしらね」

 景子が警官ロボットに笑顔を向けると、コジロウは小首を傾げた。

「うん、僕は覚えているよ。サブマスターが僕のことを綺麗な包装紙でくるんで、リボンを掛けて、お誕生日おめでとうって書いたカードを貼ってくれたんだよ。それからお父さんの車で運ばれて、おうちに来て、つばめちゃんがケーキを食べた後に出してもらったんだよ。それで、その時に僕はお喋りしたんだよ。僕の名前はコジロウ、って」

 ちょっと得意げなコジロウに、つばめは徐々に目を見開いた。そうだ、今でもはっきり覚えている。三歳の誕生日、幼児の体では一抱えもあるパンダのぬいぐるみをプレゼントしてもらったのだ。おいしい御馳走とケーキを食べて、備前家の皆からお祝いをしてもらって、景子からプレゼントを渡された。ありがとう、と家族に礼を述べてからリボンを解き、包装紙を剥がすと、とても可愛いパンダのぬいぐるみが出てきた。それを抱き締めると、彼は名乗った。

 そうだ。彼の名は、つばめが名付けたのではない。コジロウ自身が名乗ったから、つばめは彼をコジロウと呼ぶようになった。けれど、それは自分にだけ聞こえている言葉なのだと信じていた。なぜなら、家族の皆にコジロウが喋った、動いた、と報告しても笑って受け流されたからだ。だから、空想の友達なのだと思うようになった。けれど、そうではなかったのだ。ならば、なぜコジロウは動かなくなってしまったのだろう。

「なのに、なんで動かなくなったの? 私が捻くれて、こういう性格になっちゃったから?」

 つばめが罪悪感に似た思いに駆られると、コジロウは少し笑う。

「そうだね、いつか僕はつばめちゃんから別れなきゃいけないからね。つばめちゃんが大人になるためには、僕の存在はちょっと厄介だからね。でも、つばめちゃんが嫌いになったわけじゃないし、僕が必要ないって判断したわけじゃない。お別れも言わずに、急にいなくなっちゃってごめんね。本当に急な話だったから、つばめちゃんに御手紙を書いている時間もなかったんだ。僕がいなくなった本当の理由はね、サブマスターが僕のことを呼び戻したんだ。今みたいな、警官ロボットに改造するために」

「本当に、お父さんが?」

「うん。マスターのつばめちゃんの三分の一しか管理者権限がないから、サブマスター。でね、僕はサブマスターからとっても大事な命令を下されているんだ。つばめちゃんを守ってくれ、って! いつも傍にいてあげて、正しいことをしたら一杯褒めて、間違ったことをしたらちょっと叱って、寂しい時は抱っこしてあげて、悲しい時は良い子良い子ってしてあげるのが僕の役目なんだ」

 コジロウはつばめの前で片膝を付き、目線を合わせると、つばめを覗き込んでくる。

「だから、僕はつばめちゃんが大好きなんだ。だって、僕のことをとっても大事にしてくれるから!」

「……うん」

 つばめは照れ臭さで赤面し、顔を伏せたが、コジロウがコジロウであったことが本当に嬉しかった。警官ロボットのコジロウに迷わずコジロウと名付けたのは、パンダのコジロウが大好きだったからだ。だから、二人が同一の存在であると解って気恥ずかしくなった。パンダのコジロウに惜しみなく注いでいた拙い好意が、警官ロボットのコジロウにぶつけていた手探りの恋心が、どちらでもある彼に向かっていたのだから。幼馴染みに初恋をしたのだ。

「お父さんは、私に会いに来てくれたのかな」

 つばめはコジロウに問うと、コジロウは首を横に振った。

「サブマスターは一度もつばめちゃんには会っていないよ。この僕が言うんだ、間違いない」

「長孝さんは、そういう人だから」

 景子が物悲しげに微笑むと、備前はつばめの肩に大きな手を乗せた。

「話しづらいかもしれないが、夕飯の後にでも美野里の話を聞かせてくれないか。あの子がどうなったのか、私達は知っておかなければならない。時間はどれだけ掛かってもいい」

「つばめちゃん。コジロウ君と一緒に、いつまでもうちにいてくれていいのよ。お部屋はそのままだから、お部屋から着替えを持っていらっしゃい。お風呂、湧かしてあげるから」

 ゆっくりしていてね、と景子はつばめに微笑みかけてから、キッチンに戻っていった。その後ろ姿を見送ってから、つばめは少し冷めた紅茶を啜った。そういえば、備前夫妻は何をどこまで把握しているのだろう、と思い、つばめは尋ねてみた。すると、意外なことに備前夫妻は御鈴様のライブとその目的についても知っていて、情報源は他でもない長孝だという。となると、つばめの父親は、つばめが思っている以上に身近にいたのだろう。だが、決して姿を見せなかった。気に掛けているくせに、つばめには会いたくないのだろうか。それが腹立たしくもあり、無性に悲しくなった。気に掛けてくれるのに、会おうとしてくれないのか。

 食卓に並んだのは、予想通りクリームシチューだった。ホームベーカリーで焼いた柔らかなパンに、甘辛いソースが絡められた野菜の肉巻き、ブロッコリーとエビのサラダ、と景子の得意な洋食のメニューだった。つばめはそれを味わいながら、リビングで大人しくしているコジロウが気になり、何度も振り向いた。その度にコジロウと目が合い、彼は手を振ってくれた。食事中にも夫妻からは話し掛けられたが、その内容は主に学校や友達のことで、つばめが船島集落に行く以前と変わらなかった。その気遣いに甘えながら、つばめは楽しいこと、嬉しかったことから最初に話した。そうすることで、辛いことを話すための心構えを作っていった。

 美野里のいない、備前家での夜は更けていった。



 それから、つばめは備前夫妻と夜遅くまで話をした。

 夕食を終えて風呂から上がってから、リビングで緩やかな時を過ごした。つばめは景子が作ってくれたまろやかなマシュマロココアを傾けながら、美野里がつばめを裏切り、皆を手に掛けるまでの経緯を語った。夫妻は神妙な顔をしてつばめの拙い話に聞き入ってくれ、特に辛い出来事を話す時につばめが言い淀んでも、無理に急かしたりはしなかった。おかげで、つばめは最後まで話し切ることが出来た。

 つばめの話が終わると、今度は備前夫妻が話してくれた。これまで、美野里に弁護士になれ、と言ったことは一度もないと。どう生きるのかを決めるのは美野里自身であって、両親が歩いてきた道に沿うことはないと言ったことはあったが、それだけだとも。それなのに、美野里は両親の意に反して弁護士を志すようになった。正直、美野里には無謀な挑戦だった。美野里の学力は安定しているものの、司法試験に合格出来るほどの力はないと早くから悟っていたこともあり、学習塾も無難なものにしていた。両親と比較されることは少なからずあっただろうが、親と子は違うのだから、と度々言って聞かせていたし、美野里も納得している様子だった。

 だが、美野里は中学三年生に進級した頃から、弁護士を志すようになった。夜遅くまで根を詰めて勉強するようになり、学習塾もかなりレベルの高いものを自分で選び、そこに通うようになった。熱中していた部活動も急に止め、帰宅時間は深夜になり、帰宅した後も勉強するようになった。その当時は備前夫妻は娘の変貌に戸惑うばかりで、変貌の理由までは気が回らなかったが、後に、佐々木長光が備前夫妻と密に接するようになった時期と、美野里が変貌したのは同時期だと解った。けれど、それに気付いた時には、もう手遅れだった。

 ある時期を境に、美野里は抜群に頭が良くなった。成績も学年では群を抜き、学習塾でも何度となくテスト順位の上位に入り、定期テストの答案には丸ばかりが付いていた。しかし、成績が良くなればなるほど、美野里の行動は不穏になっていった。景子の作る食事をほとんど摂らなくなり、少し食べてもそっくり吐き戻していた。その代わりに自室で隠れて食べているようだったが、食べているものが何なのかは解らなかった。夜遅くに外出しては日が昇る前に帰ってきて、一睡もせずに通学していた。それが数ヶ月続いた後、備前家の玄関先に赤子が置かれた。

 産まれて間もない赤子を冷たい玄関先に横たえた者の姿を、景子は見ていた。その日、景子は予定より早く仕事を切り上げることが出来たので、午前中に帰宅して夕食の仕込みをしていた。今日こそは美野里にちゃんと食事を食べてもらおうと、美野里の好物を作っていたのだが、キッチンの窓に大きな影が過ぎった。鳥にしてはやたらと大きく、人間にしては奇妙すぎた。その影が玄関に向かったので、不思議に思いながら覗き穴から玄関を見ると、人型の巨大な虫がおくるみに包まれた赤子を玄関先に寝かせ、羽を震わせて飛び去った。

 この世のものとは思えない光景に景子は動揺したが、とにかく赤子を助けなければ、とすぐさまドアを開けて赤子を抱き上げた。生後一ヶ月ほどなのだろう、首も据わっていなかったので危なっかしかった。柔らかなおくるみには名前が刺繍されていて、佐々木つばめ、と印されていた。となれば、この赤子は佐々木長光と関わりが深い血縁の子なのだろうか、と景子が悩みながらも赤子の世話をしていると、一本の電話が掛かってきた。

 佐々木長光からだった。長男夫婦に娘が産まれたが、諸事情で世話が出来なくなってしまったので当分預かってもらいたい、もちろん養育費は払う、とのことだった。景子は電話口では平静を装って応対したが、本当にそういう事情ならば、佐々木長光本人が赤子を連れてくるはずだ。それなのに、長光でも誰でもない虫の化け物が赤子を連れてくるなんて、どう考えても異常だ。けれど、今は長光に探りを入れるよりも、虫の化け物の正体を突き止めるよりも、赤子を無事に育てることが最優先だと景子は腹を括った。

 それから、中学校の下校時刻を過ぎた頃、美野里が帰ってきた。いつもは塾やら何やらで深夜になっても帰ってこないのに、今日に限ってやけに帰りが早かった。その時点で景子は懸念を覚えたが顔に出さず、佐々木つばめという名の赤子を美野里に見せた。その時、美野里は驚かなかった。驚いた振りをしたのだろうが、娘の演技など母親には簡単に見抜ける。どこの子、誰の子、と問い詰めもせずに美野里は笑ったのだ。可愛いね、と。

「だから、私はつばめちゃんを育てることにしたのよ。つばめちゃんを守ることは、美野里ちゃんを守ることにもなるんじゃないかって思ったから」

 景子は冷めたコーヒーが残るマグカップに目を落とし、静かに述べた。

「あの子が人間じゃない、ってことをすぐに信じることは出来なかったわ。だって、私達の前では普通にしていたし、吐き戻しはするけど普通に食事を摂っていたもの。だから、私もお父さんも美野里ちゃんには今まで通り接するようにしていたの。そうすることで、日常を守ろうとしていたの。でも、十年前の夏、美野里ちゃんが一ヶ月も家を空けていた時に確信したの。だって、あの子……生理が止まっていたんだもの」

 少し話しづらいのか、景子はつばめから目を逸らした。

「美野里ちゃんがいない間に、お部屋を片付けたの。そこで、私が買い込んできて美野里ちゃんにあげたナプキンが全然減っていないことに気付いたのよ。美野里ちゃんが同じものを買っておいたのかもしれない、ってその時は思ったんだけど、ドラッグストアの袋もそのままで、中には私が買った日付と時刻が印刷されたレシートがそのまま残っていたから、間違いようがないの。でも、妊娠している様子はなかったし、美野里ちゃんにはそういう御相手がいないってことも知っていたわ。お友達も少なかったから。それで、一体どういうことなんだろうって美野里ちゃんのお部屋を調べたの。机の引き出しの奥に、赤いカプセルが山ほどあったわ」

「それはドラッグじゃないかと疑って、私達はそのカプセルを拝借して製薬会社に分析を掛けてもらったんだ。だが、その中身は違法薬物なんかじゃなかった。人間の体の一部だったんだ。そのカプセルを常用している患者について調べてみると、フジワラ製薬が作った怪人の情報に行き当たった。患者のリストを入手してみると、それは怪人達のリストで、その中に景子が見たホタル怪人のものもあったんだ。その写真の下には、施術前であろう美野里の写真が一枚貼り付けてあったんだ。私服には着替えていたが、中学時代の美野里に間違いなかった」

 備前はメガネを外し、目頭を押さえる。

「人間が人間を食べるなんて、あってはいけないことだもの。それから私とお父さんは、何度も話をしたわ。このまま美野里ちゃんを放っておいてもいいのか、つばめちゃんをうちに置いていていいのか。でも、答えは出なかったの。二人とも大事な娘だから、突き放すようなことだけはしたくなかったのよ。だから、考えて考えて考え抜いて、美野里ちゃんにも何も言わず、つばめちゃんにも何も言わず、普通の家族のままでいようって決めたのよ。事を荒立ててもが解決するわけでもない、って考えたからでもあるけど、何よりも美野里ちゃんを刺激したくなかったからなの。私もお父さんも、つばめちゃんも幸せでいたかったの」

 ごめんなさいね、と景子が俯くと、備前は妻の肩に手を回した。

「真実から目を逸らして隠し続けていたのは、私達のひどいエゴだ。長孝さんにも、美野里の異変についてはずっと伝えていなかった。いつか美野里は人間に戻ってくれるのだと信じて、つばめを可愛がってくれているあの子の良心に期待を抱いていたんだ。だが、そんなものは私達の身勝手に過ぎなかったんだ」

「つばめちゃん。今度、美野里ちゃんに会ったら伝えてほしいの。一度、ちゃんと話をしましょう、って」

 頼める立場じゃないけど、と景子が苦笑すると、つばめはココアを飲み終えたマグカップをテーブルに置いた。

「気にしないで。私も、お姉ちゃんとはちゃんと話さないといけないって思っているから。私なら、お姉ちゃんを人間に戻せるかもしれないし。お姉ちゃんもアソウギを使って怪人になったんだから、きっと出来るよ。そうしたら、また一緒に帰ってくるね。話し合うんだったら、その時にしようよ」

「ありがとう、つばめちゃん」

 景子に礼を述べられ、つばめは笑んだ。

「だって、お姉ちゃんのこと、好きだもん。だから、当たり前だよ」

 嘘でもなんでもない。手酷い裏切りをして皆を傷付け、つばめを追い詰めても、美野里のことは心の底から憎いと思えなかった。だが、だからといって全て許すつもりではないし、今までのように無条件な好意を注ぐわけではない。美野里が怪人に至るまでの経緯を知り、踏まえた上で、改めて美野里と接するつもりだ。べたべたに甘える相手ではなく、一人の女性として対等に向き合うのだ。そうすれば、活路を見出せるだろう。

 午前二時を回り、つばめはさすがに眠気を覚えて二階の自室に上がった。掃除が行き届いていて、部屋の空気も埃っぽくはなく、つばめが備前家を出ていった時から全く変わっていなかった。ベッドも、本棚も、机も、クローゼットの中の服も、前の中学校の制服も、そのままだった。あの時に時間を巻き戻せたら、とつばめはちらりと考えたが、それだけは遺産を使っても不可能なのですぐさま払拭した。

「どう? ちょっとは元気になった?」

 つばめは新鮮な水を入れたコップに移した高守の種子を、携帯電話ごと窓際に置くと、高守は触手を動かした。

『大分落ち着いてきたよ。君達の話も聞こえていた。そういうことだったんだね』

「やっぱり割り切るのは難しいよ。お父さんとお母さん……じゃないや、小父さんと小母さんはそういうことを割り切るための仕事をしているのに、お姉ちゃんのことだけは割り切れなかったんだから」

 つばめはベッドに腰掛けると、コジロウが水玉のカバーが掛かったベッドを見下ろし、首を捻った。

「また一緒に寝たいなぁって思ったけど、この体じゃ無理だね」

「だったら、私がそっちに行くよ」

 その辺に座って、とつばめがコジロウを床に座らせると、つばめはベッドの足元に転がっていたクッションを取り、胡座を掻いたコジロウの足の上にクッションを置き、そこに腰を下ろした。ついでにベッドから毛布を引き剥がして被り、コジロウに寄り掛かると、コジロウはつばめを見下ろしてきた。

「これじゃ、昔とは逆だね。つばめちゃんが小さい頃は、僕はいつも抱っこされていたのに」

「うん。でも、これでいいの」

 つばめはコジロウの右腕に腕を回すと、コジロウはつばめの肩に毛布を掛け直してきた。

「ごめんね。私が色んなことを間違えたから、また、あんなひどい目に遭わせちゃって。痛かったよね」

「平気だよ。僕はつばめちゃんが痛い思いをしないために、痛い目に遭うのが役目だから」

 コジロウは背を丸め、つばめの髪にマスクを寄せる。

「お姉ちゃんの正体はね、僕も知っていた。サブマスターが教えてくれていたから。だから、つばめちゃんが危ない目に遭いそうになったら、僕は戦うつもりでいたんだ。でも、お姉ちゃんはつばめちゃんに手出ししなかったから、僕も何もしなかったんだ。お姉ちゃんも、僕がぬいぐるみだった頃は何もしてこなかったからね」

「今度お姉ちゃんに会ったら、その時は戦ってくれる? 手加減なしで、本気で」

「もちろん。つばめちゃんがそれを正しいと思うのなら」

「正しくなかったとしたら?」

「正しくなくても、疑わないよ。それが僕達の役割なんだから」

 コジロウはつばめをそっと抱き寄せ、毛布ごと胸に収めた。

「じゃあ、コジロウが私を好きだって言ってくれたこともそうなの? 私がコジロウを好きだから、コジロウも私に好きだって言ってくれただけなの? パンダのコジロウだった頃も、やっぱり感情がなかったから? 私が求めたことを返すだけのロボットだったから? コジロウは私の鏡でしかないの?」

 それがコジロウなのだから。つばめは居たたまれなくなり、毛布に顔を埋めると、コジロウは躊躇った。

「それは……」

「いいよ、答えられないのなら。だって、コジロウだもん」

 つばめはコジロウの重みを背中に感じながら、唇を噛んだ。備前夫妻にああは言ったが、美野里を人間に戻せる確証はない。アソウギは遺産の中でも特に厄介だ。つばめの独力では、美野里とアソウギを分離出来ても美野里を元に形に戻せるかどうか解らない。せめて、アマラを操れる電脳体である道子が戻ってきてくれなければ。それ以外にも、懸案事項は山積している。フカセツテンをどうやって動かすのか、どこに移動させるのか、それすらも結論が出ていないのだから。だから、コジロウに八つ当たりしても何の解決にもならないのに。

「僕はサブマスターの設定に従って、つばめちゃんと向き合ってきた。だから、僕は人間っぽい言動が出来ていただけであって、それは僕の本物の感情じゃない。ロボットはね、嘘は吐けないんだ。形だけの好意を示したところで、結局はつばめちゃんを悲しませちゃうだけだって判断したんだ」

「私はそうは思わない。だって、私は!」

 つばめは毛布を跳ね上げ、コジロウに向き直る。パンダのコジロウが、警官ロボットのコジロウが、つばめの傍にいてくれなかったら、ずっと早い段階で折れていただろう。彼がつばめの代わりに戦い、苦痛を肩代わりしてくれていたからこそ、ここまで踏ん張れた。コジロウが好きだったから、胸を張って彼と隣り合っていたかったから、つばめは遺産と遺産を巡る争いを放り出さずにいられた。それなのに。

「ありがとう。いつも僕を大事にしてくれて」

 コジロウは右手を伸ばし、歯を食い縛っているつばめの頬を包んだ。 

「だけど、僕は道具だ。つばめちゃんを守ることは出来ても、幸せにすることは出来ない」

「……幸せなのに。コジロウがいてくれるから、私は幸せなのに」

 堪えきれなくなり、つばめが涙を落とすと、コジロウは指先でつばめの涙を拭ってやった。

「ほら、また泣かせちゃったよ。だから、僕じゃダメなんだ」

「馬鹿ぁっ!」

 そういう意味で泣いているわけではないのに。つばめは反論したくなったが、コジロウと自分の間に横たわる溝の深さを思い知ると、一層悔しくなって涙が出てきた。ロボットで、どこぞの宇宙人が乗ってきた宇宙船のエンジンで、道具で、兄弟で、幼馴染みで、ぬいぐるみだ。それがどうした、と言い張れるほどの気力はなかった。

 美野里のことも割り切れないが、コジロウのことは特に割り切れない。つばめは涙は止まっても、コジロウからはどうしても離れられず、彼の腕の中で一夜を過ごした。パンダのぬいぐるみの頃に比べれば抱き心地も抱かれ心地もよくないが、離れるのが惜しかった。コジロウはつばめが底冷えしないようにと機械熱を少しだけ放ち、低温火傷をしないように時々つばめの体を動かしてやりながら、夜を明かした。

 幸せなのに、切なかった。



 何が正しいのか、何が間違っているのか。

 遺産をどう扱うべきなのか、遺産に関わる者達をどう導くべきなのか、遺産そのものを満たしてやるべきなのか。つばめはコジロウの腕の中で、そんなことを考えていた。寝付きの悪い場所だったのと、気持ちが波立っていたせいもあって、つばめは上手く寝付けなかった。だから、短く浅い眠りと覚醒を繰り返し、答えを出さなければならないことを考え込んでいた。けれど、いずれもつばめだけで決められることでもなければ解ることでもない。

 カーテンの隙間から差し込んでくる朝日を浴びた警官ロボットを見つめながら、つばめは寝癖の付いた髪を手で押さえてみたが、いつも通りにあらぬ方向に跳ねた。滑らかな白いマスクに指を沿わせ、なぞってみる。胸の奥底がじわりと熱くなり、束の間、不安が紛れる。すると、コジロウは首を曲げてつばめと目を合わせてきた。

「つばめの起床を確認」

「もしかして、元に戻っちゃったの?」

 この口調は、警官ロボットの方だ。つばめが残念がると、コジロウは平坦に述べた。

「本官は本官だ。よって、つばめの疑問の意味が解らない」

「この部屋に来た理由は解る?」

「つばめの安全確保、及び、備前夫妻の安全確保、及び、備前美野里に関する情報収集のためだ」

「うん、そうだね」

 つばめは寂しさに駆られたが、笑って誤魔化した。変な姿勢で眠ったので節々が痛かったが、コジロウの膝の上から出て立ち上がり、体を伸ばした。背骨が盛大に鳴り、引きつっていた筋が曲がり、つんのめりかけたが姿勢を戻して踏み止まった。コジロウは膝の上にあったクッションと毛布を剥がし、直立する。

「コジロウ」

「所用か」

 つばめが呼ぶと、コジロウは一歩近付いた。つばめは振り返り、言った。

「朝御飯食べて、着替えて、落ち着いたら、また皆のところに戻ろう。やらなきゃいけないことは、山ほどある」

「了解した」

「それで、さ」

 つばめは一歩前に出て、コジロウを真下から見上げた。彼は顎を引き、赤いゴーグルにつばめを映す。

「なんでもない」

 管理者権限を利用すればコジロウに感情を与えられるのでは、との考えが頭を過ぎったが、振り払った。それが出来たとしても、良い結果を生むとは限らない。自分勝手な欲望を満たすことだけを考えていては、祖父と同じように蛮行に走ってしまいかねない。つばめはコジロウと高守を廊下に出してから、クローゼットから秋物の服を出し、着替えた。跳ね放題の髪を二つに分けて縛り、ツインテールにしてから、底冷えする階段を下りた。

 一階からは、パンの焼ける香ばしい匂いがふわりと流れてくる。暖かな食卓の気配が感じられる。テレビの音と新聞を捲る音、備前夫妻の穏やかな会話。だが、そこに美野里はいない。高守の種子が入ったコップと携帯電話を手にして、つばめに一歩遅れて階段を下りてくるコジロウは昨日とは打って変わって黙っていた。それが少し寂しくもある一方、それでいいのだとも思った。コジロウはどちらであってもコジロウであり、つばめに寄り添ってくれる。

 思い出に浸る時間は、終わった。コジロウが一時的にパンダのコジロウに戻ったおかげで、コジロウの本心を少しだけ覗けたような気がした。とても優しい一時だったが、いつまでも過去に浸っていられない。立ち向かうべき現実と困難は、うんざりするほど転がっている。つばめは安らぎへの未練を振り払うため、足を進めた。

 迷っていたら、再び立ち上がる気力を失ってしまう。

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