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機動駐在コジロウ  作者: あるてみす
 

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42/69

大はショーを兼ねる

 一夜明けると、世の中は激変していた。

 テレビを付ければ御鈴様の歌が全てのチャンネルで流れ、ワイドショーで大々的に御鈴様が扱われ、新聞にはデビューライブの全面広告が躍り、路線バスも御鈴様のグラビアでラッピングされ、本日発売の雑誌という雑誌で御鈴様の特集記事が組まれていた。都心の駅ビルにも巨大なポスターが張り出されて、視界に入るもの、耳に入るもの、その全てが御鈴様一色だった。一体、どれほどの金を積んだのだろうか。

 吉岡邸からライブ会場である臨海副都心へ移動する車中、つばめは車窓から見える市街地の景色にうんざりしていた。御鈴様をこれでもかと持ち上げなければ、ぽっと出のアイドルの社会に対する説得力が出ないのは解るが、これはやりすぎではないだろうか。確かに、アイドルという商売道具は徹底したマーケティングによって成り立っているものではあるが、それがあまりにも過剰だと差して興味のない一般人は引いてしまう。増して、それがネット発のアイドルならば尚更だ。昨今では珍しくない道筋でのデビューだが、これまで一枚もCDをリリースせずに音楽データのダウンロード販売だけでは、客層が限られてしまう。ネットの中だけの評判は当てにならない、と思っている人間は大勢いるからだ。ネットに入り乱れる情報の奔流ほど、不安定で不確かなものはないからだ。だから、御鈴様の動画の再生回数がどれほど多くとも、その再生回数と同等の人間がライブに来るわけではないし、動画のコメントやネット上の批評なんて、情報操作でどうとでもなるからである。

 その謎のアイドルの正体がこれであると知れたら、しばらくは話題に上るだろうが。つばめはリムジンの後部座席で胡座を掻いている、りんねの姿をした伊織を見、半笑いになった。彼はMP3プレイヤーに繋いだヘッドホンを被って歌詞を復習しつつ、膝でリズムを取っているのだが、ワンピースの裾が捲れ上がっていて下着が丸見えになっていた。見ている方が恥ずかしくなってきて、つばめは目を逸らした。

「あのさぁ」

「んあ?」

 伊織はヘッドホンを片方ずらし、聞き返してきた。つばめは目を逸らしたまま、彼女の下半身を指した。地味だが仕立ての良い紺色のワンピースの裾から、十四歳の少女が身に付けるには大人びていたデザインの白いレースのショーツが覗いていた。つばめが指し示した方向を辿った伊織は、ぎょっとして裾を押さえた。

「てめぇ、早く言え! 何、りんねに恥掻かせてやがる!」

「自分の不注意でしょ。てか、パンチラしたのは伊織であって吉岡りんねじゃないでしょ」

「クソが。俺はりんねの体の繋ぎであって、りんねじゃねぇ。俺がりんねの代わりになっているんだ、りんねの面汚しになるようなことだけはしたくねぇんだよ。つか、呼び捨てにすんじゃねぇ、殺すぞ」

 伊織は両足を伸ばして座り直してから、ヘッドホンも戻そうとした。つばめはそれを制する。

「その割には、言葉遣いも態度も仕草も御嬢様っぽくないじゃない」

「ウゼェな。俺は俺であって、りんねじゃねぇ。俺はりんねを守りはするが、俺は俺を否定しねぇ。それだけだ」

「解るようで解らないような。てか、伊織って吉岡りんねのどこがそんなに好きなの? やっぱり、顔?」

「ばっ、おっ、好きとかじゃねぇ! 俺のマスターがりんねだってだけだ、クソが!」

 伊織はつばめに食って掛かるが、語気が明らかに上擦っていた。そのやり取りを見、長い体を床に伸ばしている羽部が生欠伸をした。彼の足元には資料の詰まったファイルが山積みになっていて、その一つを読み耽っていた。離れを埋め尽くすほどの量では、羽部といえども一昼夜では読み切れなかったのだろう。

「どうでもいいけどさ、静かにしてくれる? 君達、どっちも鬱陶しいったらありゃしない。佐々木長光が管理者権限所有者であるように装うために使用していた生体組織はある程度目処が付いてきたけど、考えることは山ほどあるわけだし。この秀ですぎて次元すらも超越した知性を備えた僕が考えなきゃ、誰が考えるって言うのさ。君達はそうやって前線に出て大立ち回りをすれば事態が解決するとでも思い込んでいるんだろうけど、そんなわけがないじゃないか。どんな事態にしても、筋道通して一〇〇ページ超の説明を付けられるほど事細かに解析しておかないと、後で似たような局面に陥った時に手の打ちようがないじゃないか」

「で、どういう目処が付いたの?」

 羽部のねちっこい嫌味を受け流し、つばめが尋ねると、羽部は嫌そうに眉根を顰めた。

「結論だけ提示してもどうしようもないじゃないか。算数の宿題の計算式を解くのが面倒だからって電卓持ち出して答えだけを書き込む小学生じゃあるまいし、もう少しまともな質問をしてくれない? 答える気が失せる」

「その気はあったのかよ」

 うわ珍しい、と伊織が噴き出すと、羽部は不愉快そうに尻尾の先で床を叩いた。

「天啓とも言うべきこの僕の考えだ、この僕の脳内だけで腐らせておくのは全宇宙の損失じゃないか。それを誇示したいと思うのは、ごく当たり前の欲求であってだね」『解った解った。じゃ、羽部君の話を聞かせてよ。どうせ移動時間も長いし』

 リムジンの中央にあるミニテーブルのドリンクホルダーのコップに収まっている種子が、細長く赤黒い触手を伸ばして携帯電話を操作し、文字を羅列させた。高守信和の意志が宿った種子は衰えもせず、生き生きとしている。

「なんだよ、その言い草は。この僕の理論はカーラジオとは訳が違うんだぞ」

 と言いつつも、羽部は資料を掻き集め、テーブルの上に広げていった。

「遺産を操るためには管理者権限所有者の生体接触、或いはゲノム配列を読み取ることが可能な生体組織と接触することが不可欠なのは、頭の足りない君達でも経験で理解しているはずだ。だから現状に置いては、管理者権限を持つ佐々木つばめが遺産本体に触れて直接命令を下せば、遺産は佐々木つばめの管理下に置かれ、遺産が暴走しようが沈黙しようが、君の匙加減一つとなる。だが、ここで一つ疑問が出る。君の生体組織が手に入る以前は、御嬢様の生体組織を加工して作った生体安定剤を用いて遺産を操っていたけど、その前は何を使っていたのかということだ。順当に考えれば佐々木長光の生体組織、ということになるけど、その記録がない」

 羽部は一冊のファイルを手に取り、その中のページを広げて三人に見せた。一枚の古いカルテだった。

「これは、佐々木長光が都内の病院に入院して手術した際のカルテ。というか、一乗寺昇の義理の実家と言うべき病院のカルテだね。よくある話だよ、腸に出来たポリープを内視鏡で切除したんだ。でも、それだけ。その入院した日の前後に病院に出入りした人間の情報を洗い出してみたんだけど、誰も佐々木長光の生体組織を手に入れようとはしていないんだ。医療廃棄物として一旦捨てた後に産廃業者を装って他の組織が手に入れる、という筋書きも考えてみたんだけど、佐々木長光の術後に遺産を使用した組織はどこにもないんだ。むしろ、佐々木長光が入院する前後二週間は遺産の使用が滞っている。それはなぜか。単純な話さ、佐々木長光が船島集落から出ていたからだよ。だから、生体安定剤を作るための材料を手に入れて加工することが出来なかった」

「けど、俺が喰っていた薬の材料はりんねだったぞ。間違いようがねぇよ、あの味は」

 伊織が小さな少女の手を見つめると、まあね、と羽部はりんねの肉体を眺め回す。

「この僕とクソお坊っちゃんが知る限り、生体安定剤の中身は御嬢様の血肉だった。或いは、御嬢様の失敗作の血肉だった。繋留流産で産まれることすらなかった本物の御嬢様をコンガラで複製するとしても、産まれるのは産声すらも上げなかった未熟児なんだから、まともに複製出来るわけがない。今、つばめが御嬢様の遺骨とコンガラを使って複製しても、矮小な未熟児にしかならないはずなんだ。そして、御嬢様の複製が生産されるようになるのは、十四年前だ。だけど、佐々木長光はその遙か前から生体安定剤を各組織に法外な値段で売り渡している。改めて考えてみよう、御嬢様とつばめが産まれる以前はどこの誰が管理者権限を有していたのか。佐々木長光はそれを含有する何かを売っていただけであって、管理者権限を備えていたわけじゃない。そもそも、管理者権限がイコールで遺産の所有者が備えているものだということになったのはいつからだ? 佐々木長光の葬儀後だ。フジワラ製薬の怪人課にも、そういう書類が出回ってきたし、この僕も目を通したからね」

 羽部はつばめに目線を移し、薄い唇の間から尖端が割れた舌を覗かせる。

「高守から文面を聞き出したけど、佐々木長光の遺言書は、財産の一切をつばめに相続させる、って内容だった。もちろんその中に遺産も含まれているけど、遺産の動かし方については誰から説明されたの?」

「誰って、誰にも……」

 つばめはコジロウと出会った日のことを思い出すが、コジロウの収まったタイスウに触れ、その中で機能停止していたコジロウを再起動させたのはつばめの意思だ。誰かに強要されたわけでもないし、説明されたわけでもない。だが、切っ掛けがなかったわけではない。美野里がつばめにこう言ったのだ。

「箱を開けてみれば解るって、お姉ちゃんが」

 つばめが両手を広げながら呟くと、羽部は納得した。

「開けるためには触る必要がある、ってことだ。なるほど、筋が通っているよ。御嬢様の部下に成り下がった時は、つばめの襲撃の本腰を入れようとしない理由が見えなくて苛々していたけど、御嬢様を操っている佐々木長光の下から逃れて距離を置いてからはよく見える。佐々木長光はつばめを本気で仕留めようとしていたんじゃない、つばめの管理者権限で遺産を再起動させたかったんだよ」

「だけど、お姉ちゃんは本物のマスターは私じゃないって」

「そんなの、詭弁に決まっているじゃないか。ちょっとは考えてみたらどうなんだよ、備前美野里の価値観による本物ってのは佐々木長光こそが自分の主人であるという忠誠心に基づいたものであって、理論の上での本物じゃない。クソお坊っちゃんが御嬢様に義理を貫いているのと同じく、誰を主人だと思っているのか、という個人の主観を踏まえれば、読めないこともないよ。姉も同然だった虫女に裏切られて動揺しきったつばめを混乱の極致に叩き落とすためであり、備前美野里が己を肯定するためであり、佐々木長光の自尊心を満たすための、嘘だ」

「でも、現にコジロウはラクシャで機能停止させられたんだよ? なのに、嘘なの?」

 つばめが問い質すと、羽部は顔をしかめて身を引いた。

「それは、ラクシャが君のゲノム配列を模した情報をムリョウに与えて強制的にシャットダウンさせたんでしょ。ほら、たまにあるじゃない、指紋を模写したシールを指に貼って指紋認証を突破する、っての。たぶん、それと同じことさ。でも、ゲノム配列の情報だけじゃ管理者権限とは言えないから、シャットダウンさせるだけが精一杯だったんだよ。佐々木長光は、君達が思うよりもずっと手詰まりなんだよ。起動させた遺産を掻き集める目的が何であれ、彼らに次はない。船島集落の自宅にあるつばめの私物から生体組織を掻き集めたとしても、それはいつまでも持つものではないし、ラクシャには大量の情報は蓄積しているけど、遺産を操るためのプログラムは含まれていないからね。この僕が一五枚もあるムジンの中身を全て吸い出して、御嬢様の頭にねじ込んだから」

「じゅうごまいぃ?」

 不意に、寝惚けた声が割り込んできた。そういえば、あれから一睡も出来なかった美月は、リムジンの助手席に座ると同時に寝入ってしまったのだ。あまりの眠気で、小倉重機のトラックまで辿り着けなかったからである。つばめは運転席と後部座席を隔てるカーテンを開き、美月に声を掛ける。

「ミッキー、眠れた?」

「うー、まぁー、なんとか。で、何が一五枚なの?」

 寝起きの美月は目を擦りながら、つばめに振り返った。つばめは会話を説明するかどうか迷ったが、羽部の存在を美月に知られて不用意に驚かせるのはよくないと判断し、一五枚の部分だけ説明した。

「ムジンっていう遺産がね、一五枚なんだよ」

「ムジン……? 違うよ、あれは一六枚。そのうちの一枚は三つに割れちゃったから、コジロウ君、レイ、岩龍で分けて使っているだよ。お父さんがそう言っていたの」

 ああまだ眠いなぁ、とぼやき、美月は再び助手席で丸くなった。程なくして美月が寝息を立て始めたので、つばめはカーテンを閉めてから振り返ると、羽部が目を見開いていた。縦長の瞳孔が幅広になり、ファイルを落とした。もしかして、だとすると、などと呟きながら別のファイルを手早く捲って目を配らせた後、羽部は髪を乱した。

「この僕としたことが、なんでそんなに原始的なことに気付かなかったんだよ! 要点ばかりを探りすぎて初歩で躓くなんて、上昇志向が行きすぎてノイローゼになった受験生じゃないんだから! ああもう、この僕が、この僕が!」

「ちょっと黙ってよ、ミッキーが寝付いたんだから」

 つばめが羽部を諌めると、羽部は一度深呼吸してから、尻尾でつばめの胴体を抱えて引き摺り寄せた。

「黙っていられる場合か! 十六進法だったんだよ! そうだろ、高守!」

『そうだよ。だから、シュユの触手の数は一〇二四本なんだ。寺坂君の触手は最初は六四本だったんだけど、年を追うごとに増えて今は一二四本だよ。まあ、その時々によって増減しているみたいだけど』

「どうしてそれをもっと早く言わなかったんだよ!」

 羽部は高守のコップを掴んで喚くが、高守は言い返す。

『羽部君みたいな人に、そういう初歩的なことを言うと怒られそうかなぁって』

「ああもうっ!」

 羽部は高守のコップをドリンクホルダーに突っ込んでから、凶悪な目でつばめを睨んだ。

「この僕が吸い出せなかったムジンのプログラムが佐々木長光の手中にあるのは確定だ、更に言えば寺坂善太郎が触手の固まりとして成長しきったことも確定した!

 となれば、佐々木長光が抵抗の意志が強いシュユを捨て、寺坂善太郎を切り刻んで死にかけさせた後、肉体を乗り換えて行動に出るのは必然だ!

 なぜならば、あの生臭坊主は三十二歳だからだ!」

「三十二は十六の倍数だからか」

 伊織が指折り数えると、羽部は唇を曲げて牙を露わにする。

「敵は手詰まりなんかじゃなかった、むしろ本腰を入れてきたんだ! だから、今までのこの僕の話は忘れろ、また一から考え直しだ! 基本理論があるとないとじゃ大違いなんだよ!」

「え、ええー?」

 だったら、今までの長話は何だったのだ。つばめは拍子抜けするが、羽部はそれきり黙り込んでしまい、また資料を貪り読み始めた。だとすれば、どこが要点だったのだろう。これから向かうライブへの緊張感と先行きの見えない状況で頭が上手く働かなかったので、つばめは一番冷静であろう高守に尋ねてみると、高守は答えてくれた。今、最も重視すべき点は、佐々木長光の意志が宿ったラクシャが寺坂善太郎の肉体を操ることと、コジロウの機体に組み込まれているムジンの破片に残留したプログラムがムリョウを起動させ、フカセツテンをも起動させることだ、と丁寧に説明してくれた。だが、やるべきことは当初の予定通りだ、とも。もちろん、御鈴様のデビューライブも。

「生体安定剤の出所なんだけどよ」

 自分の世界に入り込んだ羽部を横目に、伊織がだらしなく足を組んだ。

「俺、見当が付かないわけじゃねぇ。考えてみたら、至って単純な話なんだよ。弐天逸流に捕まった後、俺とりんねはドロドロに溶けた後に一つになったわけだが、その後、ヘビ野郎に薬を飲まされた。その薬ってのは、シュユから株分けされた植物に手を加えたやつなんだ。で、ヘビ野郎はその植物の粉末にムジンのプログラムをコピーして、本体からは削除して、りんねの脳に全部ブチ込みやがった。俺とりんねを物理的にくっつけたのもシュユ、りんねとムジンを同期させたのもシュユ、ついでに言えば人間もどきを作ったのもシュユだ。てぇことはつまり、そういうことなんじゃねぇの。細かい理屈は解らねぇけど」

『クテイだ! 佐々木長光が売り捌いていた生体安定剤の材料は、クテイだったんだ! なんて奴だ!』

 タイプミスをしかねないほどの激しい動作で、高守はボタンを叩いた。

「クテイって誰?」

 つばめが問うと、高守は少し間を置いてから文字を打ち込んだ。

『僕の読みが正しければ、彼女はつばめさんの』

 高守は続きを打ち込もうとしたが、躊躇い、その文面自体を消した。はぐらかすということは、余程重大で、つばめの心中を掻き乱すことなのだろう。ならば一層知るべきでは、とは思ったが、御鈴様のデビューライブという壮大な罠を仕掛けるために出向いている最中に新たな事実を教えられても、困惑して集中出来なくなるだけだ。高守もそう判断したから、はぐらかしたのだろう。つばめは革張りの座席に座り直し、車窓から外界を窺った。

 吉岡グループの工場建設予定地には、一夜にしてライブ会場が完成していた。



 クテイはあの子の祖母なのですよ、とその男は語った。

 中途半端に再生した体を法衣で覆い隠し、はみ出している触手を不規則にうねらせた。人間の皮を被っているのは胸から上と左腕だけで、それ以外は全て触手だった。十五年前、右腕を失った彼の肉体に根付いた異形の生物が深く根を張り、肉だけでなく骨と神経をも触手で侵食した結果、その肉体を包む皮膚だけが人間らしさを辛うじて繋ぎ止めていた。内臓は形こそ人間のそれだったが、触手で成されていた。複雑に絡み合って内臓を織り上げた細い触手が抱いていた薄膜の中身はほとんどが酒で、美野里が爪で切り裂いて中身を出した時にはつんと酒精が漂ったほどだ。余程、彼は深酒をしていたのだろう。

「クテイが私の住まう土地にやってきたのは、五〇年前のことです」

 吉岡りんねが掛けていた銀縁のメガネを手にした彼は、それを掛け、目を瞬かせる。

「あれは、私が英子さんと結婚して間もない頃でした。英子さんは都会から船島集落に嫁いできたのですが、それ故気位の高い女性でした。体はあまり丈夫ではありませんでしたが、学があり、自我がはっきりとした、扱いづらい方でした。私の生家は細々と農作を行って長らえてきた農家でしたし、船島集落に住まう人々もそうでしたので、我の強い英子さんは馴染めませんでした。むしろ、馴染もうとしなかったのでしょうね。彼女は、私も、私の親族も、船島集落に住まう人々も、船島集落自体も、心底見下していましたから。華やかで恵まれた都会暮らしから一転して、不便極まりない田舎に嫁がされたことを疎んでいて、事ある事に文句を言いました。そんな性格だから、あなたは御両親から見放されて泥臭い田舎に追いやられたのだ、と何度言いたかったでしょうか」

 彼がメガネを押さえながら肩をひくつかせると、それに合わせて触手の尖端もざわめいた。

「英子さんは……そういう女性でした。そんな彼女が私に宛がわれたのは、私の周囲に結婚相手に丁度良い女性が見当たらなかったのと、私が家族の中で最も立場が低かったからですよ。どれほど文明が進歩し、時代が変貌していこうとも、閉鎖的な集落の農家の価値観はそう簡単には変わらないものです。ですから、父親と長男が全てに置いて最優先であり、五男であった私はみそっかすでした。ですから、思い切って都市部の大学に進学しようとしても受験票を捨てられ、受験費用すらも使い込まれてしまいました。そんなことを何度も繰り返しているうちに私は英子さんを宛がわれ、気付いた頃には親の手で婚姻届を出されていました。なので、私が英子さんの存在を知ったのは、結婚した後のことだったのです。祝言を挙げたらしいのですが、記憶にありません。現実だと思いたくなくて、脳が記憶することを拒否したのでしょう」

 日焼けした皮膚が貼り付いた左腕で触手を掴み、愛おしげに撫でる。

「結婚生活は最悪でしたね。実家から出ることも許されなかったので、私と英子さんに部屋が与えられたのですが、英子さんは自分の権利と立場をこれでもかと主張して、私の生活出来るスペースを蹂躙していきました。夫婦生活なんて、あるわけがありません。近付くだけで怒るんですよ、あの女は。やれ田舎臭いだの汚いだの低俗だのと、朝から晩まで金切り声で喚くんです。病院に行くために英子さんが街に出ていくと、ほっとしたものです。そのうち、英子さんが船島集落に嫁がされた理由が見えてきました。体の弱さを言い訳にして朝から晩まで遊び歩き、生活費を持ち出して手当たり次第に欲しい物を買い漁るのです。それと並行して、男にも手を出すのです。欲望の固まりが服を着て歩いているようなものでした。生活費を使い込んだ後には私の両親と激しく口論し、跡取りを産んでやるんだからそれぐらい許せ、と何度も喚いていました。その声を耳に入れないために、私は頻繁に散歩に出ました。虫の声と夜露の冷たさはとても優しく、煩わしい現実から逃れることが出来ました」

 口調こそ平坦だったが、彼の語気からは当時の苦しみが痛切に伝わってきた。

「そんな、ある日です。いつものように両親と口角泡を飛ばして口論した末、英子さんは家を飛び出しました。それも珍しくもなんともありませんが、捜しに行かなければ大騒ぎするので、私は渋々英子さんを追いました。その時です、あの美しく素晴らしい流星が降ってきたのは。あの青白い光が降ってくる様は、脳裏に焼き付いています」

 恍惚と目を細め、過去を望む。

「あの船は、フカセツテンは雫型の結晶体でした。全長は船島集落とほぼ同等でしたから、三千メートル弱はあったかと思います。細く尖った部分を下方に向けながら降下してきた流星の光に気付き、皆、家から出てきました。英子さんもその時ばかりは口を休め、この世のものとは思えぬ光景に見入っておりました。みるみるうちに夜空が見える範囲が狭まっていき、星空が青白い光に塗り潰され、昼間のように明るくなりました。このままでは結晶体は集落に墜落すると誰しもが思いましたが、逃げる暇などありませんでした。英子さんは醜い悲鳴を上げて山へと逃げていきましたが、その途中で洒落たハイヒールのかかとが折れたのか、投げ捨ててしまいました。皆が皆、絶望と恐怖に顔を引きつらせていましたが、私は違いました。ああ、この生活が終わるのか、と思うと、嬉しくて嬉しくて嬉しくて、久し振りに心からの笑顔を浮かべました。ですが、結晶体が墜落しても、何も起こりませんでした。結晶体は地面に触れた瞬間に消え失せてしまい、青白い光もなくなってしまいました。何もなかったかのように」

 彼は、悩ましげに眉間を押さえる。

「住民達は訝りながら自宅に引き上げていきました。ですが、私はそんな気は起きませんでした。忌まわしく疎ましい矮小な世界が壊れなかったことが、心底空しかったからです。それに、英子さんを連れ戻さなければ、両親からまたどんな言葉で蔑まれるか、解らなかったからです。両親と英子さんが言い争う様を目の当たりにした兄妹達は全員家を出てしまいましたから、跡取りを産む立場にある女性に去られては困るからです。両親と英子さんは日々、あれほど憎悪をぶつけ合っているのに、英子さんと私の関係は友人にすら至っていないのですから妊娠する可能性は皆無なのに、期待を抱くなんておかしな話ですよね。ですが、家族の中では英子さんは私よりも遙か上に位置しておりましたから、捜さなければ捜さないで怒鳴られます。金切り声で喚かれますし、物を投げ付けられます。折れたハイヒールを拾って渋々山を登っていくと、程なくして英子さんは見つかりました。服が下品でしたので」

 愛おしげに、懐かしげに、彼は頬を綻ばせる。

「英子さんは藪の中で転んでいましたが、私の姿を見つけると自力で立ち上がったばかりか、御心配掛けて申し訳ありませんでした、と頭を下げてきました。有り得ないことでした。英子さんは転んだ時は私に起こせと命じるのに、いざ起こそうとすれば触るなと言って手を弾いてくるからです。私が呆気に取られていると、英子さんは裸足のままで砂利道を歩き始めました。夜も遅いですからおうちに帰りましょう、と柔らかな言葉遣いで英子さんに促され、私は半信半疑で彼女の背を追いました。すると、どうしたことでしょう。英子さんの下品な服の背中が破れていて、その下から覗く素肌から奇妙なものが生えていたのです。ツルのような、ツタのような、根のような、およそ人間のものとは思いがたい異物でした。長さは英子さんの長い髪に隠れる程で、歩くたびに僅かばかり波打ちました。その奇妙さに見入ってしまっていると、英子さんは立ち止まり、私を人気のない物置小屋まで導きました。初めてまともに触れた彼女の手は、ぞっとするほど冷たかったことをよく覚えています」

 彼の語り口は滑らかで、楽しそうですらあった。

「英子さんは私の手を握り、私を見つめてきました。その眼差しは、見ず知らずの相手を観察するものであり、先程までのヒステリックな表情は消え失せていました。英子さんは唇をきつく結んでいましたが、私の手を離さないまま、話し始めました。英子さんは山中で転び、背中を強打した際に脊椎骨折と内臓破裂を併発し、放っておけば一日で死に至る可能性がある、と。今、英子さんの肉体を借りて話しているのは英子さんではなく、先程船島集落に降ってきた宇宙船に乗ってきた存在であると。だが、墜落した際に宇宙船の構造物が破損して機能停止してしまい、修復が出来るまではこの土地を離れられないと。それまでは、どうか英子さんとして過ごさせてほしい、と」

「それが、クテイさんですか」

 美野里が名を口にすると、ええ、と彼は満足げに目を細める。

「そうです。あの日以来、私の生活は落ち着きました。中身が英子さんではなくなった妻はとても大人しく、心遣いと思慮に溢れる素晴らしい女性となり、クテイが間に入ってくれるようになったおかげで両親との不和も収まり、集落の住民達も親しくしてくれるようになりました。クテイは人智を外れた存在ではありましたが、私達の文化や文明を律儀に学習して立ち振る舞い、家事どころか農業もこなしてくれるようになり、おかげで随分と家計が助かりました。そして、私との間に子を設けてくれました。皆、とても喜んでくれました、両親もやっと私を認めてくれました。ですが、実家の奥の間で長孝が産まれた時、全てが露呈したのです」

 あの子は人間の形をしていませんでした、と呟き、彼は触手を絡み合わせた右腕を掲げる。

「赤黒く、のたうちまわる、一抱えもある触手の固まり。それがクテイが産み落とした長男でした。助産師は、悲鳴を上げて逃げ惑いました。あれほど喜んでくれていた両親も私とクテイをひどい言葉で罵倒し、手当たり次第に物を投げ付けてきました。クテイはヘソの緒も切っていない我が子を抱いて守ろうとしますが、弱り切った体では逃げることすら出来ませんでした。クテイは私に縋り付き、どうかこの子は、この子だけは、と哀願してきました。そこで、私は決断しました。愛する人のために力を尽くそうと」

 だから、手始めにクテイを知る人々を葬りました。と、彼は穏やかに陰惨な事実を告白した。あらゆる手を尽くして船島集落の住民達を追い詰め、逃げ出させ、両親すらも徹底的に弱らせた。それから三年もしないうちに船島集落は住民がいなくなり、田畑は荒れ、先祖代々受け継いできた家屋も同様だった。長男の子育てに悪戦苦闘しているクテイの手助けと農業をする中で、クテイが乗ってきたという宇宙船の構造物を畑で掘り当てた。金属の棺に入った異様な物体の数々だった。クテイは、それを返してくれ、それがないと元の世界に帰れない、と言ってきたが、その言葉を聞いた途端、彼の心中で濁った感情が凝った。ようやく出会えた理想の女性と別離しなければならなくなるのであれば、彼女が元の世界に帰るために必要な道具をなくせばいいのでは、と。

「だから、売り払ったのです。クテイは船島集落から外に出られないようでしたので、船島集落を含めた周辺の土地を買い上げるための現金が必要だったこともありますがね。売り払う前に、これはどういう機能があるのかとクテイから聞き出しました。ですが、苦労しましたよ。彼女はそういったことに関しては口が硬かったので、クテイの触手と長孝の触手を何十本も切り落とす羽目になりました。そのせいで、畳を何枚も張り替えなければならなかったのが大変でしたね。クテイと長孝の体液は、人間のそれとは少し違いますから。その甲斐あって、クテイは私の言うことを聞いてくれるようになりました。程なくして次男も産まれましたが、こちらは私の血が色濃く現れていて、ただの人間に過ぎませんでした。退屈な肉塊でした。ですが、クテイはそんな愚劣な次男も可愛がっていましたので、私は上っ面だけは次男も可愛がることにしました。そして、クテイの体液と触手の切れ端を使ってフカセツテンの構造物、今では遺産と呼ばれているものを動かし、その機能を見せつけ、高額で売り払いました。船島集落の土地を全て買い上げ、構造物を売り払った相手からキックバックされた売り上げで懐は潤っていきました。とても、とても、幸せな時間でした。クテイと同じ姿をした長男と戯れるクテイは筆舌に尽くしがたい美しさでした」

 ですが、とため息を零し、彼は顔を上げる。寺坂善太郎の顔で、肉体で、佐々木長光は嘆く。

「月日が経ち、成長した長孝は私の元から去ってしまいました。続いて産まれた次男もです。本来あるべき土地ではない場所で暮らし続けたからでしょう、クテイは日々弱っていきました。それなのに、あの子達は母親を見捨てていったのです。クテイを生かしてやろう、守ってやろう、と私は手を尽くしましたが、クテイはとうとう力尽きてしまい、小高い斜面に一本だけ生えている桜の木と同化して眠りに付きました。それが三年前のことです。それからの日々がどれほど空しかったことか……。ですから、私はもう一度クテイに出会うために、こうしているのです」

 長話を聞かせてしまいましたね、と、長光は詫びてから、腰を上げた。美野里は首を横に振る。込み入った事情を聞かせてもらえたということは、それだけ美野里が信頼されているからだ。だから、苦ではない。むしろ、内心では喜んでいたが、それを表には出さなかった。いい歳をしてはしゃぐのは見苦しいからだ。

「そろそろ出発いたしましょう。準備はよろしいですか、美野里さん」

 長光が美野里を見やると、美野里は一旦帰宅した際に拝借してきたつばめのヘアブラシを差し出した。そこには、つばめの長い髪が何本も絡み付いていた。長光は可愛らしいオレンジ色のヘアブラシを眺め回してから、髪の毛を一本引き抜いた。佐々木ひばりに似た色味の細い髪の毛の感触を確かめてから、長光は頷いた。

「では、ムリョウを起こさなければなりませんね」

「フカセツテンを動かすことを、皆に知らせますか?」

「どうせ、烏合の衆なのです。私が彼らの目的に興味がないように、彼らも私の目的には興味がないでしょう。国彦さんは昇さん……いえ、ミナモさんさえ手に入ればそれでよろしいんですし、克二さんは暴れられるのであればそれでいいのですから、フカセツテンが動こうが、どこへ向かおうが、気にも留めないでしょう。ですから、美野里さんは私の傍に付いていて下さればそれでいいのです。最後まで、お付き合いして下さいますね?」

「はい」

 美野里は顎を緩め、触角を下げて平伏した。欲されているのが、たまらなく心地良い。

「ありがとうございます、美野里さん。頼りにしておりますよ」

 触手の尖端で顎を軽く触れられ、美野里は陶酔した。法衣を靡かせながら歩く長光の姿は、同じ肉体であれども、寺坂とは雲泥の差があった。長身だが姿勢の悪い寺坂では垂れ下がっていた袖も軽やかに翻り、肩で風を切って進んでいく。下半身は触手を束ねて二本足にしているので、足音はいくらか鈍いが、歩調は生前となんら変わりはない。美野里は少し遅れてから、長光の背を追っていった。美野里が長光の言われた通りに働けば、長光は褒めてくれる、認めてくれる、労ってくれる。多忙な両親がしてくれなかったことをしてくれる。実の孫であるつばめに向かうはずの関心を奪い取れる。

 それが、どれほど素晴らしいことか。美野里は長光と共に倒壊した本堂に近付き、その基礎の下に隠されていた異物を見下ろした。直径三メートルほどある、十六面体の透き通った結晶体だった。その中には、ムリョウを動力源とする警官ロボット、コジロウが封じ込められていた。美野里が基礎であるコンクリートを剥がして穴を掘り、その中に放り込んだ時のままの格好なので、四肢はでたらめな方向に投げ出されていた。長光はラクシャを掲げてみせると、結晶体は燐光と共に地面から浮かび上がってきた。それにナユタを差し出し、飲み込ませる。

「コンガラの元へ向かいましょう、ムリョウ。場所は解っていますよね、解らないはずがありませんよね?」

 長光がつばめの髪の毛を差し出すと、結晶体はすんなりと飲み込み、淡く発光した。

「そこに誰がいようとも構いません。何が待ち受けていようとも惑いません。あの子を罠に掛けてコンガラを起動させるように促した後、コンガラごとあの子を奪い去ります。そして、全ての遺産を使い、クテイを目覚めさせてやるのです。ラクシャだけでもシュユを動かせたのですから、全ての遺産を使えば、クテイに再び自由と幸福を与えてやることが出来るでしょう」

 触手の右腕と人間の左腕を広げた長光は、胸を反らし、霧に塞がれた狭い空を仰ぎ見た。

「私はあなたの高みに近付きましたよ、クテイ。あの日、あなたが助けた若者の肉体は無駄にはしませんでしたよ、ほら、この通りです。どうです、あなたに似て素晴らしいでしょう?」

 恍惚としながら愛妻に語り掛ける長光の横顔を見、美野里は胸中が疼いた。クテイへの嫉妬ではない。クテイは長光の行動理念の軸であり、彼の愛情を溢れんばかりに注がれているのだから、薄汚い感情を抱くべき相手ではない。むしろ、長光と同等に敬うべきだ。ならば、長光が肉体を奪った寺坂への同情か。だとしても、寺坂への好意は上っ面だけであり、寺坂が望む反応を返していただけだ。寺坂も、美野里との恋愛ごっこを楽しんでいた。だから、何も感じるはずがない。つばめへの罪悪感など、当の昔に消え失せた。だから、気のせいだ。

 美野里の全ては、長光に捧げたのだから。


 トレーラーのコンテナの中に作られた控え室に、つばめは主役共々押し込められた。

 その中には既に衣装やメイク道具が山ほど揃っていて、どこからか掻き集められたスタイリストが伊織を囲んで忙しく動き回っていた。コンテナの側壁の三分の一を占めるほど大きな姿見の前に突っ立っている伊織の前に、可愛らしいデザインの衣装が差し出されてフィッティングされては次の衣装が差し出され、その間にも伊織の長い髪にヘアアイロンを当ててカールさせていた。

 つばめにもスタイリストが宛がわれ、ツインテールを解かれてクセの強い髪にストレートアイロンを当てられていたが、何度アイロンを掛けても毛先が跳ねてしまっていた。おかげでスタイリストに渋い顔をしたが、母親譲りの髪質だけはどうにもならない。隣を窺うと、同じく髪を整えられながら、美月が膝の上にタブレットを置いてホログラフィーを展開してライブの進行表を確かめつつ、空いた手でサンドイッチを囓っていた。卒倒しそうなほどの眠気で朝食がほとんど食べられなかったからである。こうしていると、つばめと美月まで芸能人になったような気分になってくるが、だからといって状況に呑まれてはいけない。ライブの目的は、敵の挑発と陽動なのだから。

「にしたってなぁ……」

 つばめはメイクボックスの傍に無造作に置かれたコンガラを見、辟易した。虹色に輝くセロファンとピンクのリボンで飾られ、アイドルの小道具らしい装飾が加えられている。プレゼントや花束に紛れて置かれている分にはあまり目立たないが、正体が解っているととてつもない違和感を覚える。その中に、コンガラの他にもう一つ異質なものが隠れていた。季節外れのアサガオの鉢植えで、祝・デビューライブ、神名円明、との札が刺さっていた。新免工業の社長が吉岡グループの社長令嬢に送るものにしては、安っぽすぎる気がしないでもない。

「これを持ってステージに出ろっての? で、ダンスでもしろっての?」

 つばめがコンガラを指すと、美月は口の端に付いたパン屑を舐め取ってから答えた。

「まあ、そういうことだね。つっぴーの事情は全部飲み込めてないけど、そうした方が良さそうだし。コジロウ君、ってかシリアスの代わりに岩龍と組んでね。ロボットファイターとセットじゃないと、エンヴィーの存在意義が訳解らないことになっちゃうし。量産型の警官ロボットを持ってきてもらって改修している時間もないしねー」

「で、ダンスさせるんだっけ。レイガンドーも、岩龍も」

「そうそう、あと、武公ね。武公はレイと岩龍ほど人工知能のスペックは高くないけど、ボディの性能は高いから。でも、武公のオーナーって岩龍のオーナーでもあったんだよね、確か。地下闘技場で色々あって岩龍がりんちゃんに買い取られちゃったから、その後継機として造ったはずの武公まで小夜子さんに差し出しちゃうなんて……」

 美月は衣装のフィッティングをするために立ち上がり、つばめに振り向いた。

「何があったのかは知らないけど、オーナーが二人を手放すつもりでいるんだとしたら、お父さんと相談して二人を買い取るよ。岩龍も武公も物凄く性能が良いし、誰にも必要とされなくなったら可哀想だし」

「うん、それがいいよ」

 衣装も似合うよ、とつばめが笑いかけると、美月は赤面した。

「そお? これ、なんか、凄いんだけど」

 美月は体を捻り、パフスリーブのブラウスとチェック柄のベストと、たっぷりのフリルで膨らませたミニスカートを着た自分の体を見回した。いつものサイドテールもヘアアイロンで巻き髪にされ、髪の結び目には衣装に合わせた色のシュシュとラインストーンのヘアアクセサリーが付いている。美月はそれほど派手な顔立ちではないが下地としては優れていたのか、化粧映えしている。普段は作業着姿が多いので気付かなかったが、美月は足が長く、肉付きも程良いのでミニスカートがよく似合っている。

「やぁーん、りんちゃん、かぁーわぁーいぃーいぃー!」

 唐突に美月が黄色い声を上げたので、つばめが伊織を見やると、伊織は純白のミニドレスを着付けられていて、中途半端に脱色した長い髪は縦ロールのツインテールにされている。ドレスの背中には天使の翼を思わせる飾りが付けられている最中だったが、当の本人は不愉快極まりない顔をしていた。

「んだよ、ウゼェな」

「ね、ね、写真撮っていい? ネットには流さないから!」

 ロボットファイトを取り仕切る立場の人間から十四歳の少女に戻った美月は、目を輝かせて伊織に詰め寄る。

「一枚だけだぞ」

 突っぱねるかと思いきや、伊織はスタイリスト達を下がらせた後、笑顔を作ってポーズを取った。

「この角度だからな、ちょっと左上から見下ろすアングルが一番可愛いんだよ、りんねは!」

「うんうん知ってるー、そうなんだよねー!」

 きゃー可愛いー、と歓声を上げながら、美月はタブレットの内蔵カメラを使って伊織の写真を撮った。それを保存し、つばめの元に駆け寄って見せつけたかと思うと、今度はつばめの手を引いた。

「どうせなら一緒に撮ってもらおうよ、こんな機会は二度とないだろうし、ね!?」

「一枚だけつったろ」

 とは言いつつも、伊織はエンヴィーの衣装を着たつばめを右に置き、アイドルらしい衣装を着た美月を左に置き、センターに収まってからポーズを決め直した。その際、つばめと美月のポーズに細々と口出しをして微調整させ、アングルを指定した後、スタイリストに撮らせた。

「これで良し」

 伊織はタブレットを美月に返してから、ヘアメイクの続きに戻った。保存した写真を確認し、美月はまたも黄色い声を上げて身悶えた。つばめは媚びを売って余りあるポーズを決めた自分を見た途端に猛烈な羞恥に駆られ、顔を逸らしてしまったが、恐る恐る目線を戻してみた。伊織は主役を務める美少女に相応しく、最も派手なポーズを決めていて、フリフリの衣装が引き立つように腰を少し捻ってから、胸の谷間を見せつけるために二の腕で胸を寄せつつ、悪戯っぽく唇を吊り上げている。左側に立たされている美月は、伊織の引き立て役にされてしまったようで、伊織に比べるとかなり地味なポーズになっていた。ウィンクした部分にピースをした手を重ねて、歯を見せる笑顔を作りながら、片足をくの字に曲げている。そしてつばめはと言えば、カメラを上から見下ろすように顎を逸らし、挑発的に腕を組んでいる。エンヴィーの衣装は二人の衣装とは方向性からして違うので、ポーズのタイプも違うのが当然ではあるのだが、釈然としない。綺麗に着飾ってはいるが、こんな写真ではコジロウに見せられない。

「んー、と」

 美月はタブレットを操作してから自前のショルダーバッグを探り、携帯電話を操作したが、手を止めた。

「羽部さんのメルアドって……なんだっけ?」

「あのヘビ野郎と知り合いなのか、美月」

 伊織が不躾に尋ねると、美月はタブレットに保存した写真を自分の携帯電話に転送しつつ、返した。

「りんちゃんも知っているの、羽部さんのこと。てことは、つっぴーも?」

「まー、色々とね。でも、あれとは関わらない方がいいよ。本当にろくでもないから」

 つばめが諌めると、美月は携帯電話を操作し、先程撮影した写真の画像をホログラフィーに浮かばせた。

「私は、そうでもないと思うけど。そりゃ、羽部さんって無限に湧いてくる謎の自信を振り翳してくるし、私服の趣味が悪すぎて最早笑いが取れるレベルだし、物言いも態度も最悪だけど、でも、なんか嫌いになれないんだ」

「はぁ!?」

「嘘ぉ!?」

 伊織とつばめが同時に声を裏返すと、美月は苦笑した。

「まあ、うん、それが普通だよね。てか、私も何も起きていない時だったらそう思ったし、絶対に近付きたくないタイプの人だったけど、あの時は他の誰にも頼れなかったから。でも、少しでも誰かに頼っちゃうと自分はダメになるって思っちゃうぐらい、一杯一杯だったの。羽部さんが私を甘やかすのは簡単だっただろうし、突き放すのはもっと簡単だったと思う。だけど、あの人、近付きもしないけど逃げもしなかった。だから、お父さんが迎えに来てくれるまで、私は踏ん張れたんだ。それがあるから、物凄くひどい人なのに嫌いになれないの」

 悪辣極まるヘビ男でも、誰かの役に立つことがあるのか。それが羽部の意図したことかどうかは解らないが、彼が美月を支えていてくれていたおかげで、今の美月があるのは確かだ。けれど、美月の言葉を羽部に伝えるべきではないだろう。美月と羽部がどういった経緯で出会ったのかは与り知らないが、どこかの誰かの思惑があったからこそ生じた出会いだ。これ以上美月を荒事に巻き込まないためにも、羽部には美月の居所を教えてはいけない。羽部が美月を利用しないとも限らないし、羽部が美月を傷付ける可能性も否めない。

 伊織もそう思ったのか、羽部について言及しなかった。そうだよね、それがいいよね、と美月は物寂しげに呟き、携帯電話をショルダーバッグに戻し、ヘアメイクの続きを始めた。伊織とつばめも自分の場所に戻り、ヘアメイクの締めに取り掛かった。ライブ会場では音響の微調整が行われ、セットを組む時間がなかったのでホログラフィーによる大掛かりなエフェクトが空を彩り、徐々に増えつつある来場者のざわめきが潮騒のように聞こえてきた。ライブ自体は偽物であり、観客も吉岡グループの社員であり、目的がショービジネスではないにしても、大舞台に立って演じなければならないことに代わりはない。

 ナユタはつばめの精神状態に連動している。ならば、それを利用するまでだ。つばめはエンヴィーを演じるために不可欠なマスクを見つめてから、被り、見事な巻き髪に仕上げられた髪を払った。そして、心の底から願った。再びコジロウに会えるように、自分の不手際を謝れるように、この事態を解決出来るように。



 そして、開場時間が訪れた。

 鉄骨で組み上げられたステージには鈴生りに照明が付けられ、煌々と輝いていた。

 単純計算でも一キロ四方はあろうかという規模の会場には隙間なく人間が詰め込まれ、その人いきれがステージ上まで届いてくる。ステージの四方にはホログラフィー投影装置が備えられ、スチーマーが作り出した人工の霧の水分子に光を投影し、立体的な映像を映し出している。会場前から流されている音楽はもちろん御鈴様の楽曲で、インストゥメンタルだったが、それ故に期待を高ぶらせてくる。

 ステージ脇の控え室の中、気持ちを御鈴様に切り替えた伊織は、マイクを手にして階段を昇っていた。その後ろ姿の潔さに、つばめは図らずも呑まれかけた。りんねを生かし切るために己を犠牲にすることを厭わない、人ならざる青年の覚悟が漲っていたからだ。ステージ上のカメラがリアルタイムで捉えた映像が控え室に設置されたモニターに映り、ステージ中央に立った御鈴様と、それを一心に照らす光条が立体映像で浮かび上がった。

 御鈴様の登場で、会場全体が途端に沸き立つ。三十万人の視線が一人の少女の一挙手一投足に注がれるが、御鈴様は臆しもせずに顔を上げる。照明の熱が浮かせた薄い汗が少女の頬を潤ませ、零れ落ちそうなほど大きな瞳が宝石にも勝る輝きを得る。艶やかなリップグロスが載った唇が開き、一呼吸の後、叫んだ。

「はぁーいっ、みんなぁーっ!」

 伊織でもりんねでもない別人のアイドル、御鈴様が大きく手を振りながらステージを歩く。

「今日は私のデビューライブに来てくれてぇっ、本当に、ほんっとぉーにっ、あぁりがとぉーっ!」

 割れんばかりの歓声に、御鈴様、御鈴様、との男女混合のシュプレヒコールが重なる。

「全力で、全身で、全霊で、全細胞で、全、全、全、全、全世界を!」

 御鈴様はマイクを握り締め、ぐるりと会場を見渡す。

「痺れさせてあげる!」

 と、叫ぶと同時に実物の花火が上がり、色鮮やかな火花が飛び散る。御鈴様の合図の後にバックバンドの演奏が始まり、ビートの速い重低音が四方八方のスピーカーから発射される。ヒールの高いブーツを履きながらも軽快なステップを踏んだ御鈴様は片手で振り付け通りのダンスを踊りながら、歌い始めた。そのダンスに合わせ、盛大なパイロと共に登場したロボットファイター達が、それぞれのパートを踊り始める。攻撃的なまでに、過激な演出だ。炎の熱気が控え室まで漂ってきて、つばめは思わず息を呑んだ。

 御鈴様の歌は、圧倒的に上手かった。事前に歌の流れを把握しておくために動画を何本か見たのだが、実際に見ると迫力が段違いだ。声量は力強く、発音が明瞭で、声も掠れずに伸び、音域も恐ろしく広い。ダンスもキレがあり、振り付けを完璧に覚えている。もちろん、肉体の本来の主であるりんねの才覚もあるだろうが、彼女の能力を最大限に引き出している伊織の技量も相当なものだ。これでは売れるのも当然だ。

「だけど、肝心の歌の内容がなぁ」

 今、御鈴様が歌っているのはいわゆる電波ソングで、速いテンポに語感が近い単語をデタラメに並べたもので、正直言ってつばめの趣味には合わなかった。美月はそうでもないらしく、頬を染めて舞台に見入っている。美月はこういう歌が好きなのか、とつばめが内心で意外に思っていると、美月は両の拳を固めた。

「武公の関節の可動域が広い、レスポンスも速い、体重移動も完璧、ああっ凄いぃっ! 設計図見たい!」

「あ、そっちか」

 美月らしい反応だが、つばめはちょっと拍子抜けした。その切り替えの早さが少し羨ましい。

「だって凄いんだよ、ダンスのプログラムはインストールしたけど微調整する時間はなかったし、タイミングの設定もいじっていないのに、武公ってば自分で全部調整しちゃってるんだよ、リアルタイムで! ほら見て、レイのダンスはちょっと遅れている、ほら、またステップがずれた! 岩龍も! なのに、武公は違うんだよ! うーわー、どうやって造ったの、あの子!

 コジロウ君も並べて踊らせてみたら、状況適応能力の比較が出来るのにー!」

 美月は声を上擦らせ、身を捩る。次、出番です、とステージ進行のスタッフに急かされ、美月は感激を引き摺ったまま控え室を後にした。バックダンサーとしての仕事を終えて一旦引っ込んだレイガンドーと岩龍と武公に、指示を出すためである。つばめは美月とは担当が違うので、まだ呼び出される段階ではない。

 軽食や飲み物が用意されているテーブルに、場違いなものが沈んだコップが置かれていた。高守信和の意志を宿した種子がだ。つばめがそのテーブルに寄ると、高守はすかさず携帯電話を操作し、筆談する。

『今のところ、予定通りだよ。御鈴様の歌で発生した微細な振動波が拡大しつつある。その証拠に、ほら』

 高守の触手がスナック菓子の山に紛れているラッピングされた箱、コンガラを示した。カラフルなセロファンから、ほのかに青い光が滲み出している。先程まで何もなかったのに。遺産と関わりの深いシュユを目覚めさせる振動波ならば、遺産そのものに作用してもなんら不思議ではないだろう。

『道子さんがいてくれたら、本部に残っている携帯電話の送話器を利用して振動波を直接異次元に流し込めるんだろうけど、生憎、僕にはそんな芸当は出来ないからね。敵がこちらの馬鹿騒ぎを見つけてくれるまで、待つしかなさそうだよ。そんなに長くはないだろうけど』

「コジロウ、大丈夫かなぁ」

 つばめはエンヴィーのマスクをいじりながら不安を零すと、高守は答えた。

『彼は大丈夫だろうさ。ムリョウは遺産の中でも特に丈夫だし、彼のボディも高出力のエネルギーに耐えられる設計になっているから、滅多なことでは壊れないよ。まあ、分解されたら別だけど』

「そうなんだよなぁ。新免工業とやり合った時はコジロウの手足が外されちゃって、ナユタにくっつけられちゃって、挙げ句の果てにナユタがデタラメなエネルギーを出しちゃって、もう大変だったよ。だけど、コンガラはこうして手元にあるんだし、暴走したとしても大したことにはならないよね。てか、暴走しようがないんじゃない?」

『つばめさんの管理下にある限りはね』

 出番です、とスタッフに呼び付けられ、つばめはエンヴィーのマスクを被り直してコンガラを脇に抱えた。

「じゃ、行ってくる! 後はよろしく、主にヘビ男のこと!」

『頑張ってきてね。僕も羽部君も、出来る限り力を貸すよ』

「高守さんって、結構いい人だったりする?」

 緊張を誤魔化すためにつばめが笑うと、高守は一本の触手を左右に振り、ボタンを叩いた。

『まさか。本当に善良なら、新興宗教なんかで小手先の幸福を他人に与えて支配下に置いたりはしないし、シュユの名を借りて自分の考えを押し通したりはしないよ』

「ああ、そうだろうねぇ!」

 つばめは震え出しそうな拳を固め、ぱぁん、と手のひらに叩き付けた。高守は触手をしなやかに振っていたので、つばめはそれに手を振り返してから、スタッフが渡してくれたマイクを握り締めた。ステージに続く細長い階段を昇るに連れて、鼓動が早まり、呼吸が詰まり、緊張が漲ってくる。ロボットファイトの興行とは規模は段違いだ。ステージでは、御鈴様が五曲目を歌い終えていた。ステージ裏手に続く通路に入ると、レイガンドーの肩に腰掛けた美月がつばめに笑みを向けてきたので、つばめはぎこちなく笑い返してから、跪いた岩龍に身を委ねた。

 レイガンドー、岩龍、武公。三体のロボットファイターは盛大なスモークとカクテルビームを浴びながら、一歩前に踏み出した。すると、曲調ががらりと変わり、明るくポップな曲からエレキギターのリフが荒々しいヘヴィメタル調の楽曲が演奏開始された。マイクと共にコンガラを力一杯抱いていると、岩龍がつばめを小突き、ウィンクするようにゴーグルを点滅させた。つばめはその仕草で少しだけ気持ちが緩み、深呼吸した後、唇を引き締めた。

 戦いの始まりだ。



 同時刻。弐天逸流本部。

 度重なる微震が明確な震動となり、あらゆるものを波打たせていた。それは、シュユの産物である植物を満たした風呂も同様で、その中に横たわっている一乗寺を包んでいる生温い水は慌ただしく揺れていた。事の行く末が不安なのか、風呂の縁にしがみついている周防はしきりに目線を彷徨わせている。植物と自身の再生能力のおかげで傷の痛みが薄れてきた一乗寺は、風呂の縁を握り締めている周防の手に自分の手を添えた。

「すーちゃん」

 一乗寺が弱く語り掛けると、周防は情けなさそうに一笑した。

「すまん。格好悪いな、俺は」

「大丈夫だよ。どうにかなるって」

 一乗寺は目を閉じ、感覚を研ぎ澄ませる。遺産同士の互換性によって生み出された情報網が、一乗寺の意識と知覚に絶え間なく情報を流し込んでくる。いつもは鬱陶しくてたまらないが、身動きが出来ず、皆の無事を確かめる術のない今は役立ってくれそうだ。

 シュユは目覚めきっていない。それどころか、打ち捨てられている。フカセツテンは半覚醒状態から再び昏睡状態に陥ったシュユの指示を受けられず、困惑している。フカセツテンの機関室にねじ込まれたムリョウが放つ高出力のエネルギーは不安定だが、フカセツテンの稼働には問題はない。電脳体と切り離されたアマラは完全に沈黙し、彼女の意識はこちらの宇宙からは隔絶されている。ナユタはムリョウを活性化させるために使用されたようだが、現段階では暴走の危険性は見受けられない。船島集落から回収されたアソウギとタイスウは機能停止しているようだが、ラクシャがその気になれば呆気なく操られてしまうだろう。そして、そのラクシャは、今。

「よっちゃんの、腹の中……?」

 一乗寺の感覚が正しければ、間違いない。だが、あの男がそう易々とラクシャに操られてしまうのだろうか。寺坂はその特異な肉体故に昏睡状態に陥らせるだけでも一苦労だし、あれほど自我の強い男が他人の操り人形などに成り下がろうとするだろうか。だが、寺坂に寄生している触手からは、彼の意思は感じ取れない。武蔵野も負傷していたようだが、何度も死地を潜り抜けてきたベテランだから放っておいても生き延びるだろう。しかし、寺坂の状況は芳しくない。彼の意図がどうあれ、佐々木長光の意志が宿ったラクシャに操られていては、いずれ。

「んぐぅっ!?」

 不意に、一乗寺の首が押さえ付けられた。水中に頭が没し、ごぼぉっ、と口に残っていた空気が浮かび上がって無益に弾ける。植物のツルの間でゆらゆらと靡く自身の髪と水面越しに、周防の顔が窺えた。片手で一乗寺の首を締めていて、見開いた目は瞳孔が開き、唇は奇妙に歪み、骨張った五指には万力の如き力が入っていた。

 圧迫された喉が震えもしなくなった頃、周防は一乗寺の首から手を外した。浮力に従って浮き上がった一乗寺が激しく咳き込み、呼吸していると、周防は濡れた右手で顔を覆った。すまん、と一言呟いてから、周防は背を向けて風呂場から去っていった。一乗寺は少し飲んでしまった水を吐き捨ててから、風呂の縁に縋り、荒々しく呼吸を繰り返して酸素を脳に回した。どくどくと高鳴った胸を押さえ、徐々に熱してくる頬を冷ますために再び水に付けた。

 こんなにも自分を思ってくれる彼が、愛おしい。



 トリプルスレットのエキシビジョンマッチで、会場は更に盛り上がった。

 何せ、実況するのが御鈴様なのだから。ステージの中央に設置された十メートル四方のリングで、レイガンドー、岩龍、武公の三体は戦い続けていた。試合をリードしているのは美月が指示するレイガンドーで、つばめが指示を送っている岩龍は二番手に甘んじていた。こればかりは経験の差だ。かといって、オーナーのいない武公が二体に負けているわけではなく、武公はレイガンドーと岩龍の間を上手く立ち回り、見事な魅せ技を決めてきた。

 コーナーに追い詰めた岩龍とレイガンドーを一度に掴んだ武公は、小柄ながらもパワフルな腕力を生かし、二体同時にスープレックスを喰らわせた。頭部のセンサー類にダメージを受けた岩龍がふらつき、レイガンドーも若干立ち上がるのが遅れてきた。武公は追撃を仕掛けようとレイガンドーにニードロップを放ち、レイガンドーはそれを浴びてチェーンまで吹っ飛ばされた。太い鎖がじゃりんと揺れ、武公はレイガンドーを場外に叩き出そうと更なる蹴りを加えようと足を上げるも、レイガンドーも負けてはいない。武公が足を高く上げた瞬間に掴み掛かり、逆さまに持ち上げてパイルドライバーを叩き込む。もつれ合った二体が倒れると、今度は岩龍が武公を肩の上に担ぎ上げ、武公の背を下に向けて豪快なシェルショックを喰らわせる。誰が勝つか解らない、大混戦である。

 ラッピングされたコンガラを抱き締めながら、つばめは力任せに指示を送る。岩龍はそれに従って戦うが、武公はそれを先読みして応戦し、レイガンドーは技を技で切り返してくる。御鈴様は声も嗄れんばかりに煽り、解説し、破裂寸前まで膨張した場の熱気に更に刺激を与える。フカセツテンを歌で引き付けた後に信仰心を集めるという算段は成功している。その影響なのか、コンガラの放つ光がうっすらと熱を帯びてきていた。

 一進一退の攻防を続ける三体が睨み合い、ラウンド3が始まった直後、異変が起きた。全身が総毛立つほどの寒気に襲われたつばめが身震いすると、コンガラが一際激しく反応した。高揚に支配されていたライブ会場が少しずつ静まり始め、空が翳り、風が変わった。それらを感じ取ったのはつばめだけではなく、御鈴様は試合の実況を中断し、三体のロボットファイターも戦いを止めた。というより、強制停止させられた。

「くっ……そぉっ!」

 ラリアットを失敗して空振りをした後に突っ伏したレイガンドーは悪態を吐き、起き上がろうとする。

「なんじゃい、急にパワーが落ちて……」

 チェーンから崩れ落ちて前のめりに倒れた岩龍も唸り、腕を突っ張るが上体が起きない。

「ああもうっ、もうちょっと、で……」

 ポールの上に立っていた武公はバランスを崩し、盛大な金属音と共に床に叩き付けられた。三体とも手足の出力を上げようとしているが、電圧が著しく低下してしまったのか、ギアが空回りする音が繰り返される。美月は真っ先にレイガンドーに駆け寄り、彼の背面装甲を開いてモニターを確認し、困惑した。

「どういうこと!? レイのバッテリー、満タンにしておいたはずなのに! 一試合ぐらいじゃなくならないのに!」

「原因は、ムジン……なのか?」

 途切れ途切れの合成音声を発しながら、レイガンドーはつばめを見やる。

「でも、ムジンにそんな力はないんじゃ。だって、あれはただの集積回路であって」

 つばめが戸惑うと、岩龍は関節から鋭く蒸気を噴出した。

「ほんでも、ワシらに直結しとる部品じゃけぇ、遠隔操作出来ればどうにでもなるんじゃろ……! コジロウの奴ぁ、へたりおったからワシらもこげになってしもうたんじゃいっ! ワシらは元を正せば一つじゃけぇのう!」

「でも、武公はムジンを使っていないんじゃ」

 つばめが崩れ落ちた武公に向くと、武公は這いずりながらつばめに近付いてきた。

「回路はね。でも、僕のプログラムを組んだのは親父さんだ……そのプログラムの原型はムジンのやつだから……僕にも効いちゃうぅっ……」

「立って、立ってよレイ! 私じゃダメなのは解るけど、でも、立って!」

 美月は懸命にレイガンドーのパワーを戻そうとするが、操作パネルからヒューズが飛び、美月は飛び退いた。

「ひゃっ!」

「このまま場の空気が冷えてみろ、俺達の作戦は台無しだ……。そりゃ、コジロウには俺達の状況は解らんだろうが、あれほど気に入っていたつばめ以外の奴に操られる馬鹿がいるかよ……。俺はな、俺の回路が遺産だろうが何だろうが、俺は全部が美月のものなんだぞ? 俺のマスターは、オーナーは、妹は、美月だけなんだぁっ!」

 レイガンドーは強引に電圧を上げようとするが、派手なヒューズが飛び、再度突っ伏した。

「そがぁなことを言うたらのう、ワシのマスターは、親父さんだけなんじゃい。じゃがのう、ワシャあ小夜子のものでもあるんじゃい。ほんでもって、ワシを好きになってくれる皆のもんでもあるんじゃい。こがぁな格好悪い試合、見せてたまるけぇのう!」

 岩龍も起き上がろうとするが、踏ん張りが利かない。

「試合は終わっちゃいない、本番はこれからなんだ、それなのに、それなのにぃっ……!」

 悔しげに声色を震わせながら、武公は空の歪みを睨み付ける。つばめは太いチェーンを潜り抜けて武公と岩龍に駆け寄り、彼らの視線が射抜いている空を仰ぎ見た。そこにフカセツテンがあるのなら、コジロウはすぐ傍にいるということだ。だが、上空にあるのでは近付けもしない。目視して距離を測ろうにも、フカセツテンの形状すらもまともに捉えられない。まるで、透き通った氷の固まりが空に貼り付いているかのようだ。このままでは、為す術もなく接近されてコンガラ共々奪われてしまう。信仰心を募るために掻き集められた人々も、無事では済まない。

 歓声が叫声に変わり、いつしかざわめきに移り変わっていた。観客達の顔からは御鈴様の歌とロボットファイトの高揚が抜けていき、突っ伏したまま起き上がりもしないロボット達へ罵声を飛ばす者も現れ始めた。美月はたまらず罵声に言い返すが、収まらず、却って激しくなってしまった。その不満と苛立ちは人から人へと伝播し、罵声の数も一気に増大した。中には、仕事を中断させられてライブに呼び出された社員達の文句も多く混じっていた。

「どうしよう、このままじゃ」

 気圧されたつばめが後退ると、伊織が舌打ちする。

「つか、ウゼェな。普通はこう、応援する展開じゃねぇの? チャントとかでさぁ」

「入場の時に時間短縮のためにチャントを出さなかったから、皆、解らないんだよ。それに、今、やっても」

 美月はレイガンドーの肩装甲に縋りながら、歯を食い縛る。悪辣な野次を浴びせかけられ、つばめは耳を塞ぎたくなったが、ここで気弱になっては好機を逃してしまう。けれど、気を張ろうとすればするほど膝が震え、マイクを握る手が汗ばんできて手袋の中が湿っぽくなった。どうすればいい、考えろ、考えろ、考えろ。それがマスターとしての役割であり、遺産を管理する者としての義務であり、この馬鹿騒ぎの中心人物としての矜持ではないか。

 ステージが震えているかと錯覚するほどの罵声の嵐に紛れ、音もなく小さな影が忍び寄ってきた。赤黒く細長い触手を器用に使って這い寄ってきた種子は、するするとつばめの足を這い上がって肩に載った。

『やあ』

「わぁっ!」

 全くの不意打ちだったのでつばめは驚くと、種子、高守は携帯電話に文字を打ち込んだ。『状況は芳しくないみたいだね。彼らは仕事でここに来ているのであって、御鈴様の純粋なファンじゃないから、無理もないんだけど。でも、このままだと、フカセツテンは墜落しかねないね。コジロウ君と同じ回路とプログラムを使用している三体に情報のフィードバックがあったってことは、コジロウ君は抵抗しているんだよ、佐々木長光の支配に。つばめさんの話を聞いた限りだと、ラクシャが記録していた情報を利用してムリョウを強制終了させたようだけど、フカセツテンに組み込んだはいいけど再起動しきれていないのかもしれない。だから、コジロウ君は不完全燃焼を起こしてしまったんじゃないか、と。僕の私見に過ぎないけど』

「岩龍の言う通り、これ、コジロウのせいなの?」

 つばめが三体のロボットを指すと、岩龍が呻いた。

「他に誰がおるんじゃい……」

「だったら、コジロウを叩き起こせばいいってことだよね。簡単じゃない」

 それ以外に打開策はなさそうだ。つばめは一度深呼吸をしてからマイクを掲げると、伊織が遮った。

「馬鹿なこと言ってんじゃねぇ。ここでぎゃあぎゃあ騒いでも、あの木偶の坊に聞こえるわけがねぇだろ。クソが」

「聞こえるよ。聞こえないわけがない」

 つばめはマイクを握り直し、フカセツテンを見据えた。徐々に高度が下がってきている。空の歪みの範囲が広がっているように見えるのは、こちらに近付いているからだ。東京湾から吹き付けてくる潮風の流れも変わり、心なしか気温も上がっている。フカセツテンが発するエネルギーの影響なのだろうか。

 羽部が言った通り、つばめが本物だとしたら。美野里が言っていたことが、全て嘘だとしたら。フカセツテンもまた遺産の一つに過ぎないのであれば、つばめが操れないわけがない。増して、その動力部がコジロウであれば尚更だ。だが、どうやって声を届かせる。声、すなわち音とは振動だ。振動が伝わるためには空気が繋がっている必要がある。だが、フカセツテンの中は異次元だ。繋がっていない空間に、音が響くとは思いがたい。

「いや、待てよ?」

 確か、弐天逸流の本部と外界は携帯電話が通じていた。それを思い出し、つばめは高守の携帯電話を掴む。

「ねえ高守さん、あの中に通じる携帯ってある?」

『ああ、いくつかね。信者達の携帯電話は中にあるし、アドレスも覚えているけど……ああ、そういうことか!』

「察しが良くて結構!」

 つばめがにんまりすると、高守は電話番号を入力し、携帯電話をつばめに差し出してきた。

「でも、その携帯がコジロウ君の近くにあるとは限らないんじゃ」

 美月の尤もな意見に、つばめはちょっと照れた。

「だとしても、コジロウなら絶対に気付いてくれる。昨日だって、電話も繋げていなかったのに私がちょっと名前を呼んだだけですっ飛んできてくれたんだもん。だから、聞こえる」

「つか、なんで携帯が通じるんだよ。意味解んね」

 伊織の言葉に、高守は返す。

『本部の敷地内に携帯の基地局を作ってあるんだよ。ハルノネットに手伝ってもらったんだ』

「あーそうかよ。んじゃ、歌ってやる。木偶の坊を叩き起こせるぐらい、強烈なやつをよ」

 伊織はマイクをつばめに向けてきたが、つばめはそれを断った。

「ありがとう。でも、それは御鈴様の歌であって、私の歌じゃないから」

「てめぇのためじゃねぇよ、勘違いすんな。シュユを叩き起こすついでだ。この空気も、俺ならどうにか出来る」

 見ていやがれ、と口角を吊り上げ、伊織は再び御鈴様の顔になった。立ち姿も一変し、その眼差しは切なさと憂いを湛えて観客達を見渡した。すかさずカメラが御鈴様を捉え、ホログラフィーモニターに大写しにする。マイクを両手で握った御鈴様は観客の一人一人と目を合わせるように視線を動かしていたが、少し俯いた。

「今日、こうして皆に集まってもらったのは理由があるの。皆の心を、ほんの少し貸してもらうためなの!」

 いきなり何を言い出すのだ、とつばめが目を剥くと、御鈴様は目元を拭うふりをして悪辣な笑みを作った。が、すぐにそれを打ち消してから、星屑を思わせるエフェクトの付いた照明を浴びつつ、御鈴様は語る。

「レイガンドーを、岩龍を、武公を応援してあげて! 彼らは画期的な新機構を備えた、吉岡グループが新開発したロボットのプロトタイプなの! ロボットファイターとして活躍している彼らの原動力は、そう、人の心なの!」

 御鈴様はやや声を上擦らせ、演技に信憑性を持たせた。

「吉岡グループを支える優秀な社員である皆が、日頃から積み重ねてきた業績と実績の賜物なの! けれど、彼らのシステムはまだまだ発展途上、量産段階には至っていない! なぜならば、彼らを立ち上がらせるために必要な人の心の数はとてつもなく大きいから! 皆、少し考えてみて! 大勢の人が一つのことを信じる心で動くロボットが作り出すのは娯楽でも戦争でもないってことを! 吉岡グループは、いいえ、皆は世界をひっくり返すかもしれない試験運用に立ち会っているのよ!」

 とんでもないことを言い出した。つばめは呆気に取られ、美月は反論しようとしかけて口を噤み、当の本人達であるロボットファイター達は顔を見合わせた。確かに、今し方まで戦っていたロボット達がいきなり倒れた理由を説明しなければブーイングは収まらないだろうが、何もそこまで話を盛ることはないだろうに。

「だから、皆、思い切り応援して! レイガンドーを、岩龍を、武公を、そして私を!」

 と、御鈴様はポーズを決めて会場全体に叫ぶと、観客達は一拍置いてから沸き立った。ほれ繋いでおけ、と素の表情に戻った伊織に急かされ、つばめは高守から借りた携帯電話の通話ボタンを押した。数回のコール音の後に繋がったが、電話口に相手は出なかった。ならば、どこの誰が受信しているのか、とつばめが訝ると、高守が触手を掲げてみせた。弐天逸流の本部に残してきた子株を遠隔操作している、と言いたいのだろう。遺産絡みの者達は皆人間離れしているが、高守は中でも群を抜いている。つばめはそんなことに感心しつつも、御鈴様の呼び掛けに応じて再び熱してきた歓声に携帯電話を向けた。

 一陣の風が、ライブ会場を吹き抜けた。それは東京湾を巡ってきた潮風でもなければ秋口の冷ややかな風でもなく、神経を逆撫でする違和感を帯びていた。その理由を突き止める間もなく、遙か上空に見えていた空の歪みが拡大していく。否、接近しつつあるのだ。御鈴様が信仰心を募ってシュユを目覚めさせたのであれば、フカセツテンが墜落することもないのでは、とつばめは戸惑ったが、今、フカセツテンを支えているのはシュユでもなければ祖父でもない。エンジンであるコジロウだ。コジロウが祖父に逆らい、シュユにすらも抗い、その影響が兄弟分とも言える三体のロボットに及んでいたとしたら。

「コジロウ」

 彼を信じるしかない。つばめは携帯電話を耳に当て、彼に話し掛けた。

「ねえ、聞こえる? コジロウ、起きてよ。戻ってきてよ。コジロウは私のボディーガードで、家族で、友達で」

 恋人なんだから、と歓声に掻き消されるほどの小声で付け加え、つばめは携帯電話を胸に押し当てた。今回の事態を招いたのは、つばめの判断ミスだ。コジロウにも、皆にも、謝っても謝りきれないほどのダメージを与えてしまった。美野里を疑いもしなかったから、無用な損害を生んでしまった。だから、そんなことを言える立場にないとは解っている。人間同士だったら、確実に嫌われる。けれど、もう一度会わなければ謝ることすら出来ないのだから。応えてくれ、聞こえていてくれ。一心に願いながら、つばめは今一度空を睨んだ。

 風が変わった。



 通話中の携帯電話を発見、破壊した時には、既に手遅れだった。

 ムリョウを収めた結晶体が放つ光はナユタを活性化させ、無秩序な破壊が始まりつつあった。鋭い光条が霧が満ちた空を貫き、空間と空間を隔てている外殻ごと穿った。外界と異次元の物理的法則の違いが生み出す衝撃波は凄まじく、崩壊した本堂を一瞬で抉り、塵一つない新地に変えてしまったほどだった。

 爆風が過ぎ去ってから、美野里は触角を上げて物陰から顔を出した。ナユタが暴走した際の光景は、長光に意思を奪われた上体ではあったが海岸から目視していた。あの時と同じように見えるが、攻撃の範囲が局地的だ。新免工業の大型客船を無差別に破壊したのはつばめの無意識下の防衛機制と、コジロウがつばめを守らんとするプログラムの相乗作用によってあのような惨劇を招いてしまったが、今回は違う。明確な敵を見定めている。

 青い光を打ち消しかねないほど強烈な赤い光が、結晶体の中心に宿る。携帯電話越しのつばめの呼び掛けだけで、コジロウが再起動したのだ。警官ロボットは躊躇いもなく結晶体を破壊して脱すると、浮遊しているナユタを回収した後、異次元空間を見渡した。物言わぬマスクフェイスに凄みを感じたのは、気のせいではあるまい。

 ナユタを握り締める手には恐ろしく力が込められ、コジロウの右手のモーターが発熱しているのか、関節の繋ぎ目から薄く煙が漂っていた。人間ならば、怒り心頭、とでも言うべきだろうか。消滅した瓦礫の残滓である粉塵に足跡を残しながら半球状の穴から歩み出してきたコジロウは、再度、辺りを見回した。

「あれ、どうします?」

 少々臆しながら、美野里がコジロウを示すと、寺坂の肉体を借りた長光は顎をさすった。美野里共々、コジロウの前から物陰に逃げ込んでいたのである。

「善太郎君の体は再生しきっていませんし、ムリョウと正面切って戦うのはさすがに分が悪いですので、邪魔者同士で潰し合って頂きましょうか」

「では、シュユを?」

「ええ、もちろん。りんねさんの歌で、半分ほどお目覚めになっているようですからね」

 長光は美野里の目の前に触手を差し出してきたので、美野里はそれを迷わず断ち切った。体液を撒き散らしながらのたうつ触手を拾った長光は、時折痙攣している偶像の神に向けて放り投げた。触手の切れ端はシュユの背中の光輪に落ちて跳ね、転がり、背中の中程に落ち着いた。途端にシュユの触手が反応し、荒々しく躍動した。光輪から放たれる光量も倍増し、シュユは触手を突っ張らせながら緩やかに起き上がっていく。

「この体もクテイの産物なのですから、彼が反応するのは当然ですよ。男なのですから」

 体表面に貼り付いていた砂を落としながら自立した異形を見、長光が挑発的に頬を持ち上げる。コジロウとシュユの視界から遠のこうとしたのか、長光の左腕がごく自然に美野里の腰に回り、引いていた。外骨格越しでも感じる手の感触に、場違いな感情を覚え、美野里は一層体を小さくして庭石の影に身を潜めた。長光の胸の中では心臓はまだ再生していないのだろう、外骨格を接しても鼓動は聞こえてこなかった。それが、いやに残念だった。

 互いの存在を認識した怪物と警官ロボットは、程なくして対峙した。どちらも警戒心を漲らせて身構えたが、それはほんの短時間だった。コジロウとシュユの視線が動き、庭石の影に隠れている長光を捉えた。美野里は反撃しようと腰を上げかけるが、長光は美野里を制してきた。二体は二人の生体反応を検知しているのだろう、迷わずこちらに向かってきた。シュユの下半身を成している触手が通り過ぎた後の地面には、足跡とは言い難い一筋の痕跡が付いた。頭部と胴体こそ人間のそれに近いが、両手足は全て触手で出来ている。神と呼ぶには禍々しすぎる姿に、美野里はぎちりと顎を噛み合わせた。弐天逸流は悪趣味極まりない。

「さあ、お二方」

 長光は恐れもせずに二体の前に出ると、触手を枝分かれさせ、両者に伸ばした。

「私の言葉をお聞きなさい」

 かすかな電流が、美野里の脳内を走る。長光はラクシャを用いて遺産と遺産の産物に直接働きかけ、生体電流を操作したからである。単純だからこそ確実な、服従の命令だった。半覚醒状態で意識が希薄なシュユは自我を揺さぶられたのか、よろめく。再起動したがシステムの立ち上げが不完全なコジロウは赤いゴーグルを点滅させ、戦闘態勢を解いている。すかさず、長光は追い打ちを掛ける。

「あなた方の主は私です。お解りですね?」

 長光の言葉に、巨体の異形と警官ロボットは膝を折って頭を垂れた。思い通りの結果を得られて満足したのか、長光は何度も頷いている。そんな彼に心酔する一方で、美野里はコジロウの反応に驚いていた。あれほどつばめに執着していたのに、長光に小細工をされた程度で、執着心が薄れてしまうとは。ますますつばめを嘲りたくなり、美野里は腹の底から込み上がってくる笑いを堪えた。

 コジロウは動力部こそオーバーテクノロジーの結晶だが、それ以外はちゃちなオモチャだ。その証拠に、簡単な小細工で忠誠心が消え去ってしまったのだから。それでも、つばめはコジロウを慕っているのかと思うと、心底馬鹿馬鹿しい。人形遊びの延長だ、パンダのぬいぐるみの代用品だ、浅はかな家族ごっこだ。そんな茶番劇につい先日まで付き合っていたのかと思うと、我ながら反吐が出る。

 では参りましょう、と長光は外界へと至る穴を指し示した。コジロウは右手できつく握り締めていたナユタを解放し、浮かばせると、長光がそれに触れた。途端に青い光が球状に広がり、重力すらも阻むエネルギーフィールドが発生した。長光、美野里、シュユ、そしてコジロウが光の中に収まると、長光が触手を軽く振り上げた。

 長光の指示に従って、ナユタを核とした球状のエネルギーフィールドは急上昇した。外殻を穿った穴に突っ込み、貫いた瞬間、シュユがびくりと触手を痙攣させた。フカセツテン本体と連動しているから、ダメージが逆流したのだ。霧を抜けると、頭上には青空が広がっていた。足元にはフカセツテンが浮かんでいるが、異次元に存在する物質が形成している結晶体で構成されたフカセツテンは、本来の世界では屈折率が大幅に変化するらしく、完全に透き通っていて目視しづらくなっていた。それでも、遺産と関わりの深い者には見えるのだろう。

 美野里は、ステージ上のつばめと目が合った。フカセツテンの真下には物凄い数の人間がひしめき合っていて、怒濤のような大歓声が湧いている。ステージでは特設のリングが設置されていて、三体のロボットが立ち上がろうと懸命に四肢に動力を注いでいる。手を叩き、声を上げ、衣装を翻して観客達を煽っているのは、吉岡りんねだ。否、吉岡りんねの肉体に同化している藤原伊織だ。恐らく、シュユを覚醒させるために必要な信仰心を掻き集めようという腹積もりで開いたイベントなのだろう。となれば、観客達は吉岡グループの社員であるとみて間違いない。だとすれば、吉岡グループも浅慮極まりない。吉岡グループの社員の大多数は、長光を信奉しているのだから。

 コンガラを奪い返すのは造作もない。更に言えば、コジロウを寝返らせ、つばめが雇用した面々も分散しているのだから、つばめを守れる者はいない。吉岡グループ、或いは政府の戦闘サイボーグが現れたとしても、美野里の敵ではないからだ。コンガラを操って物体を複製するとしても、つばめの足りない頭ではまず対抗策など思い付かないだろう。この戦い、負けるわけがない。美野里は笑みを浮かべるように顎を開き、爪を擦り合わせた。

「美野里さん。あまり、つばめさんのことを嫌わないであげて下さいね?」

 長光は口角を持ち上げ、美野里に柔らかく語り掛けた。

「管理者権限が隔世遺伝するように設定したのはクテイです。その思慮を知っておきながら私の庇護下から離れ、愚かにも人間に紛れて生きようとした長男夫婦の愚行の果てに生まれてしまった、不幸な孫娘です。管理者権限を持て余してしまうのも、遺産に振り回されるのも、それらを利用しようと近付いてくる大人達の喰い物にされてしまうのも、あの子の責任ではないのですから」

「マスターはお優しすぎます」

 そんな祖父を蔑ろに出来るのだから、つばめの神経を疑う。美野里は腹部を膨らませて呼吸を整えて、ステージに立っているつばめを注視した。無数に区分けされた複眼の数だけ、つばめの姿も見え、一層苛立ちが増す。

 長光の元から佐々木長孝とひばりが逃亡しなければ、長光の人生はここまで狂わなかった。長男夫婦が長光を支えていてくれれば、長光はもっと長く生きられた。そればかりか、管理者権限を持って生まれたつばめを完全に支配下に置くことが出来た。そうなれば、桜の木と共に眠りに付いているクテイは目覚め、長光の心身を満たしてくれたことだろう。美野里はクテイの身代わりにすらなれない。だから、クテイを目覚めさせる手助けをすることでしか長光には恩を返せない。長光が遺産を売却して船島集落の土地を買い上げなければクテイが同化した桜の木は現存していたかどうか危うく、遺産が存在していなければ現代社会の基盤は築き上げられなかっただろう。なのに、誰も彼も長光を疎み、恨み、憎んでいる。それもまた、許せない。

 その歯痒さを戦意に変え、美野里は空中に身を投じた。



 フカセツテンから一条の光が放たれ、空を焦がした。

 見間違えようがない。ナユタの光だ。新免工業の大型客船での暴走が脳裏に過ぎり、つばめは臆しそうになったが踏ん張った。ナユタはつばめの精神に連動している、だから、つばめが怯えてはナユタの制御が失われてしまう。フカセツテン内部の異次元と物理的法則が同一のナユタの光がフカセツテンの表面に反射し、次第にその輪郭が縁取られ、視認出来るようになってきた。上空での異変に気付いた観客達の視線は、ステージからフカセツテンに釘付けになり、歓声も弱まってきた。ダイヤモンド型にカッティングされた鉱石を横長に引き延ばしたような、涙型の形状の結晶体は、槍の穂先のような鋭利な尖端を下方に向け、音もなく迫ってきていた。

「あれ、何?」

 レイガンドーの肩越しにフカセツテンを目視し、至極尤もな意見を述べた美月に、伊織は肩を竦める。

「新興宗教の本部。んで、宇宙人の宇宙船? みてーな?」

『これだけの人数をフカセツテンの落下予測地点から逃がすのは骨だ、コンガラを使おう』

 つばめの肩の上で高守が筆談したが、つばめは聞き返す。

「使うっていっても、これ、複製するだけしか出来ないじゃない。何をどうやれっての」

『ステージの構造物を複製するんだ、一つや二つじゃなくて山ほど。考える時間はない!』

 高守に急かされてつばめは改めて危機感を覚え、コンガラを包んでいたリボンとセロファンを外して投げ捨てると、黒い金属製の箱を思い切りステージに押し付けた。コンガラはつばめの手の下でうっすらと光を放ったが、複製は始まらなかった。それもそのはず、つばめの脳内に複製後の明確なイメージが存在していないからだ。ステージの構造物を複製したとしても、真正面に作ってしまっては観客が巻き添えを食ってしまう。かといってライブ会場から離れた場所に複製したところで、突っ込んでくるフカセツテンを防げない。どうすればいい。

 息を詰め、フカセツテンを睨む。結晶体の上部に浮いている光の中から飛び出した一つの黒い影が、真っ直ぐにステージに狙いを定めている。美野里だ。歓声が悲鳴に、ざわめきが怒声に、戸惑いが確信に変わっていくのが肌で感じられる。すると、音もなく這い寄っていた人影がつばめの背後に寄り、目の前に携帯電話を差し出した。

「理解しなくてもいいから、この計算式を頭に叩き込んでくれる? この僕の理論が正しくないわけがないんだから、疑ったりしたらこの場で頭から飲み込んでやるよ」

 羽部だった。携帯電話のホログラフィーモニターには複雑な数式が表示されていて、つばめはそれが何のための数式でどんな答えが出るのかも察しは付かなかったが、数式自体は中学数学のレベルだったので、頭に入らないこともなかった。舐めるように目を走らせ、言われた通りに頭に叩き込んでから、コンガラに念じた。

「作って!」

 命じた途端にコンガラから光と共に僅かな風が生まれ、つばめの前髪を舞い上がらせた。直後、ステージと同一の構造物がライブ会場を囲む形で出現し、更にその上に出現し、またその上に出現し、積み重なっていく。その様は、さながらジェンガのようだった。一晩の突貫工事で鉄骨を組んで造られたステージは増殖に増殖を続け、前後左右に蓄積された複製品のステージは内側に向けて傾きながら更に増殖していき、アーチ構造のトンネルを形成した。美野里は空中で一瞬たじろいだが、ステージの照明と鉄骨の隙間を器用に擦り抜けていき、つばめとの距離を狭めてくる。観客達の悲鳴と鉄骨同士が組み合う騒音に羽音は紛れず、漆黒の複眼につばめが映る。

「次はこれ」

 そう言って、羽部はおもむろにペットボトルを差し出してコンガラに浴びせた。その冷たさにつばめは手を引っ込めそうになったが、堪えて再び念じた。すると、コンガラから猛烈な勢いで水が噴出し、美野里に命中した。

「ぎひっ!?」

 思わぬ反撃を喰らった美野里は吹き飛ばされ、鉄骨のアーチの内側に叩き付けられた。水の複製と同時に噴出が続いている水の勢いは止まらず、美野里とステージの間には薄い霧が掛かった。水圧で鉄骨に押し付けられた美野里は稚拙ながらも確実な攻撃から脱しようと藻掻いていたが、動きが止まり、六本足が弛緩した。このままでは美野里が死んでしまうと危惧し、つばめはコンガラから手を離して水を止めた。羽部はつばめの判断を咎めなかったので、それでよかったのだろう。羽の根本が鉄骨に辛うじて引っ掛かっている美野里が反撃に転じる気配はなく、触角も垂れ下がっている。だが、油断は出来ない。

 不意に、凄まじい衝撃がステージのトンネルを揺さぶった。雷鳴を数百倍に増幅したかのような破壊的な騒音が頭上から轟き、一瞬、観客達の悲鳴が遠のいた。岩龍の影に潜り込んでライトの破片と思しき細かなガラス片から身を守りつつ、つばめは頭上を仰ぎ見てみた。弧を描いて組み合っている鉄骨の上には、一目では見渡せないほどの規模を誇る結晶体が横たわっていた。これが、フカセツテンだというのか。

「……大きい」

 つばめが率直な感想を漏らすと、つばめの肩に昇った高守が筆談する。

『僕も外から見たのは初めてだよ。船島集落と同規模だから、全長三千メートルはあると思っていいね。物理法則が違うから分子の密度も違うとはいえ、並大抵の重量じゃないよ。羽部君の仕掛けがどれほど持つか』

「五分も持たないね」

 羽部はアーチの根本を支えている構造物を指し示すと、眉根を寄せた。地面に接しているステージは鉄骨が既に潰れつつあり、一つ折れるたびに降り注ぐ破片が増した。フカセツテンを乗せた状態が長引けば、その重量に負けてアーチを支えることが出来なくなり、いずれ観客達の真上に落下し、押し潰してしまうだろう。しかし、今度は一体何を複製すればフカセツテンを押し戻せるのだろうか。つばめは嫌な汗が滲み、背中を伝った。

 ライブ会場を設営したスタッフ達が観客達を出来るだけ遠くに逃がそうと尽力しているが、混乱が混乱を呼んで人々の足並みが乱れているので、将棋倒しが起きないとも限らない。美野里が目覚める前に手を打たなければ、次はない。だが、どうすればいい。羽部に次の作戦を乞おうと振り返ると、その羽部が何者かに吹き飛ばされた。頭部を殴打されたヘビ男は派手に横転し、血の筋を引き摺りながらステージから落下した。長い尻尾が地面へと吸い込まれていく様を目の当たりにし、つばめが唖然としていると、拳の主がつばめの背後に立った。

 忘れもしない駆動音、排気熱。彼だ、と確信してつばめが振り返ると、コジロウが立っていた。羽部の血に汚れた右の拳から一際鮮烈な青い光が漏れているのは、ナユタを手に収めているからか。つばめは歓喜して駆け寄ろうとしたが、コジロウは躊躇いもなくつばめに拳を向けてきた。

「コジロウ?」

 つばめが身動ぐと、コジロウは腰を落とし、構える。彼の最大にして最強の武器、腕力を行使するつもりだ。

「敵対勢力、確認。これより、戦闘を開始する」

「お爺ちゃんに、何かされたんだね」

 怒りや戸惑いよりも先に哀れみを覚え、つばめはコンガラを抱き締める。

「本官は、敵対勢力に情報を開示せよとの命令は下されていない。よって、その質問には答えられない」

 羽部の血がこびり付いた銀色の拳は、暴力の生々しさをまざまざと見せつけてくる。彼のマスクフェイスに翳りはなく、赤いゴーグルもつばめに据えられている。伊織はつばめを逃がすつもりなのか、腕を掴んでステージを下りろと促してくれたが、つばめは首を横に振った。コジロウを停止させられるのはつばめだけであって、今、この場から逃げたとしても事態の解決には至らない。それどころか、悪化の一途を辿る。コンガラまでもを奪われれば、祖父は今以上に増長する。そうなれば、つばめの手元に遺産は戻らず、財産も相続出来ず、コジロウとも二度と会えなくなってしまう。つばめはコジロウに向き直り、一歩、踏み出した。

「コジロウ」

「本官には、そのような個体識別名称は設定されていない。本官は、ムリョウだ」

「ほら、丸腰。あんたって、そんな相手に攻撃するようなロボットじゃないでしょ?」

 つばめは唯一にして最大の武器であるコンガラを放り投げると、コジロウはかすかに肩をびくつかせた。が、攻勢には転じる気配はなく、つばめとの睨み合いを続けただけだった。

「本官は命令を行使する」

 コジロウに続き、光輪を背負った巨体の異形も下りてきた。何かしらの力が働いているのだろう、ステージに着地した瞬間に震動は起きず、軽く砂埃が舞っただけだった。これがシュユか。つばめは人智を越えた形状の生物に圧倒され、息を飲んだ。コジロウだけならともかく、どうやってシュユの相手をすればいい。頼りないが頼みの綱であった羽部もやられてしまい、拳大の種子に過ぎない高守は当てにならない。だが、逃げられるはずもない。

「それがどんな命令かは知らないが、本来のマスターに逆らうほどの価値がある命令か?」

 ぐ、と両腕に力を込めて上体を起こしたレイガンドーは、直立してからコジロウを睨んだ。

「コジロウも本心ではそう思っていないから、俺達の回路の電圧が元に戻ったんだろ? 嘘とは言わせないぜ」

「ほんなら、ワシャあこいつを相手にしちゃろうかのう。程々に暖まった体を持て余すのは、勿体のうてな!」

 続いて起き上がった岩龍は拳を叩き合わせ、シュユと向かい合った。

「僕達は人間に対する非殺傷設定は厳重に設定されているけど、相手が非人間型の生命体だとそうでもないんだよねぇ。だから、あのお姉さんの相手をしてあげるよ。どうせ、もうすぐ目を覚ます」

 武公は目線を上げ、鉄骨のアーチの内側で羽を震わせて水を払っている美野里を捉えた。

「レイ、大丈夫なの!?」

 美月はレイガンドーに駆け寄ろうとしたが、レイガンドーはそれを制し、ステージの下を指し示した。

「俺達の試合はこれからが本番だ、トリプルスレットの決着はまだ付いていないからな。それより、美月はあいつの心配をしてやってくれ。いくら人間じゃなくとも、コジロウのパンチをモロに食らって無事でいられるわけがない」

「あ、う、うん!」

 美月は戸惑いながらも頷き、ステージから下りていった。その際に強引に伊織の手も引っ張っていき、伊織の姿もステージから消えた。美月に逆らわなかったのは、無用な戦闘を行ってりんねの肉体を傷付けたくないからだろう。武公の読み通り、程なくして美野里はステージに向かってきた。しとどに濡れた外骨格から水を滴らせながら、肩を怒らせて苛立ちを露わにしている。つばめは不安と緊張と、それらを上回る戦意に駆られた。

 今、ここで一瞬でも怯んだら終わりだ。コンガラで複製した即席の防御壁は長く保たない、よってフカセツテン自体をコントロール下に置かなければ三十万人もの観客の大多数が死傷してしまう。そのためには、シュユをつばめの味方に付ける必要がある。コジロウも倒さなければ、彼の動力源であるムリョウに触れることすら出来ない。美野里は出来れば傷付けたくはなかったが、手加減していたらこちらがやられてしまう。甘い考えは全て捨てよう。

「大人しく、コンガラを渡しなさい。そうすれば、少しぐらいだったら手を緩めてあげてもいいわよ?」

 美野里は触角を振るって水気を払ってから、爪を掲げる。が、つばめは言い返す。

「生憎だけど、コンガラは現時点だと私の持ち物じゃないんだ。買いたければ、吉岡グループと売買契約を結んだらどうなの? もしかして、そっちはそれすらも出来ないぐらい金がないの? ああそうだよねぇ、可哀想な身の上の女の子に相続させた財産を掠め取っていくような、みみっちい根性と金銭感覚しか持っていない、烏合の衆の悪の組織だもんねぇー。で、お爺ちゃんのお姉ちゃん以外の部下って誰だっけ? もしかしていないの? いたとしても、その人達を雇っていられるほどのお金はあるの? ないよね? だとしたら、さっさと書類を書き直して、遺産も財産も私の懐に戻してくれない? 弁護士費用には色を付けてあげるから」

「随分と言うようになったじゃない。でも、口は慎んだ方が身のためよ。お行儀も悪いし」

「人前に素っ裸で出るお姉ちゃんほどじゃないと思うけど」

 はしたない、とつばめが怪人体の美野里を指すと、美野里は触角を立てた。

「解っているわよ、そんなこと! 解っているけど、これはどうしようもないんだから!」

 御鈴様の立ち位置を示すテープがそこかしこに貼ってあるステージを蹴って、美野里は躍り出た。真っ先に応戦したのは武公で、美野里の爪が振り上げられた瞬間に上右足を左手で掴み、腋の下に左腕を潜らせた。武公は淀みない動作で美野里の背後を取ると鮮やかに投げ飛ばし、ステージに叩き付けた。アームドラッグだ。

 だぁあんっ、とステージの床板として並べられている板が暴れ、美野里の体は一度バウンドした。が、転げ落ちる寸前に意識を戻したのか、爪を引っ掛けて体勢を立て直した。背中の外骨格が歪んだのか、羽の付け根がずれて体液が少しばかり滴っている。武公は左右に軽くステップを踏みながら、拳を上げて美野里を挑発する。

「たったそれだけでタップしないでよ? 盛り上がらないからね!」

「ガラクタロボットの分際で、いい気にならないで!」

「いいねぇいいねぇ、その安易なヒールキャラ!」

 素早さを生かし、美野里は一瞬で武公の懐に飛び込む。だが、武公の反応速度も負けてはいなかった。美野里の蹴りが武公の膝関節に加えられたが、武公はよろけもせずにその打撃を受け止めたどころか、打撃を受けた膝とは反対の膝で美野里を蹴り上げた。ウェイトもパワーも差が大きすぎたらしく、黒い人型昆虫は大きな弧を描いてステージの後方へと転がり、照明を支えている鉄骨に激突した。それでも、美野里は立ち上がる。

「こ……のぐらいで、私は負けたりは」

「思わないね。だってまだ、始まったばかりじゃないか!」

 武公は無邪気にはしゃぎながら、美野里に迫った。美野里は逃れようとするも、先程の試合で機体の暖気が済んでいる武公の動きは滑らかで、尚かつ鋭かった。武公は美野里に背を向けて彼女の顎を肩に載せ、その態勢のまま下半身を落とした。ごぎぃっ、と外骨格と合金製の外装が激突して仰々しい打撃音が響く。スタナーである。

「ぐ、あぁはっ」

 折れた顎から体液とも胃液とも付かないものを撒き散らしながら、美野里は倒れ込む。ひどく咳き込む美野里の首を掴んだ武公は、頭上より高い位置に掲げた後、渾身の力で床に投げ落とした。チョークスラム。

「ほらほら、やり返してみなよ? それともなあに、お姉さんって対人戦だとほぼ無敵だけどロボットとなると不得意なのかなー? そりゃそうだよね、ウェイトもパワーも段違い、おまけにスタミナもだ!」

 不規則に足を痙攣させている美野里を見下ろし、武公はせせら笑う。美野里は折れた顎を軋ませ、六本足に力を込めて震えながらも体を起こすが、度重なる打撃で目眩がしているのか、足が真っ直ぐ伸びきっていない。もう一度大技を喰らわせれば、勝負は決まる。つばめは外骨格に大きなヒビ割れが出来て体液を垂れ流している美野里を正視しづらかったが、目を逸らすべきではないと注視した。武公はおもむろに美野里をリングを囲むチェーンに振り、がしゃあっ、と太いチェーンに絡まって項垂れた美野里に狙いを定めた。が、その時。

「どあらっしゃああああーいっ!」

 野太い怒声を上げた岩龍が、シュユの下半身を掴んで豪快なスープレックスを決めようとした。しかし、二本の足ではなく触手で構成されているシュユの下半身は収縮し、岩龍の荒々しいホールドからは逃れたが、慣性の法則に従ってあらぬ方向に飛び出した。ジャーマンスープレックスを決めるはずがバックドロップになってしまい、リングを囲むチェーンを巻き込みながら落下した。シュユは背負った光輪を点滅させながら、怠慢な動きで上体を起こす。

「もっと気張ってこんかい! 面白うないんじゃい!」

 岩龍はシュユに詰め寄ると、シュユはすかさず岩龍に触手を絡ませてねじ伏せようとするが、岩龍はそれ以上の出力でシュユの触手を強引に引き千切った。シュユが僅かにたじろいだ隙を見逃さず、岩龍はシュユの腋の下に頭部を差し入れて下半身を掴み、担いだ。ファイヤーマンズキャリーの態勢だ。

「だあらっしゃーい!」

 意味はないが覇気は上がる雄叫びを上げながら、岩龍は横向きに倒れてシュユの頭部を床へと突っ込ませた。デスバレーボム。すると、まともに喰らった衝撃によって光輪が歪み、遂に光が途切れた。常に発光していたから解りづらかったが、光輪は実体を伴った肉体の一部だったようだ。岩龍からニードロップで追い打ちを掛けられて、シュユは無数の触手をうねらせるも、立ち上がれなくなった。いかに新興宗教の神様であろうと、こんな仕打ちを受けるとは予想していなかっただろう。触手を無造作に掴まれている異形の神に、つばめは少し同情した。

 根性見せんかいっ、と叫びながら、岩龍はシュユを抱え、その首を極めている。異形の神は人間とは体の構造が明らかに違うので、首を絞めれば落ちるのかは解らないが、苦しいことには変わりないらしい。その証拠に、シュユは必死に藻掻いていた。ラフファイトが売りのヒールである岩龍の技の掛け方は特にパワフルなので、並大抵では抜け出せないのだ。次第にシュユはぐったりしてきて、狂ったように乱れていた触手が一本、また一本と脱力していった。このままでは生死に関わるので、つばめは慌てて遮った。

「岩龍、ストップ! それ以上やるとダメだって!」

「なんじゃい、せっかく調子が」

 出てきたのに、と岩龍が言いかけた時、レイガンドーが投げ飛ばされてきた。シュユに気を取られていた岩龍は彼を避けきれ

 ず、まともに突っ込まれてしまった。ぐわしゃあああっ、とけたたましい騒音を生み出した二体は、激突した衝撃で互いに吹っ飛ばされ合った。ステージの外側にいた岩龍は場外へ、内側にいたレイガンドーはセットへ。最新式の大型ホログラフィー投影装置を完膚無きまでに破壊したレイガンドーは、弁償出来るかな、とぼやきつつ、破片にまみれながら立ち上がった。レイガンドーを投げ飛ばした主の赤いゴーグルが、攻撃的に輝く。

「敵対勢力、排除」

「いつまでもじゃれ合っていられないんだがな。アイアンマンマッチは、また今度にしよう」

 レイガンドーは構え直し、コジロウと向かい合う。コジロウはマスクフェイスを翳らせ、拳を上げる。

「排除」

「投げ技は俺の本領じゃないからな、俺もそっちが性に合っている!」

 両の拳を固めたレイガンドーが腰を落とすと、コジロウは両足の脛からタイヤを出して急速発進した。再び激突する、かと思いきや、レイガンドーはコジロウに懐に入られる寸前でコジロウを押し止めていた。コジロウのタイヤが空回りし、悲鳴に似たスキール音とゴムの焼ける匂いが漂う。

「そらよっとぉっ!」

 コジロウを突き放し、コジロウが仰け反った瞬間にレイガンドーはアッパーカットを放つ。白いマスクが銀色の拳に削られ、中空に火花が散った。たたらを踏んだコジロウが体勢を立て直そうとするが、レイガンドーは素早いジャブを小刻みに繰り出してコジロウを揺さぶり続け、バランサーを乱しに乱した後、ダブルアッパーで突き上げた。

「色男を台無しにするが、恨むなよ!」

 コジロウがバランサーを自動補正して姿勢を戻す寸前に、レイガンドーは拳を開いてコジロウにアイアンクローを仕掛けた。本来は土木作業用の人型重機であるレイガンドーは、腕力では岩龍にも引けを取らない。だからこそ、ボクシングを主流とした格闘スタイルで勝ち抜いてこられたのだ。

 コジロウはレイガンドーの手中から逃れようと、レイガンドーの右腕の外装に指をめり込ませてきた。分厚く頑丈な外装が紙屑のように引き千切られ、ケーブルやシャフトが露出する。過電流と機械油が散り、血溜まりならぬオイル溜まりが両者の足を滑らせる。態勢が崩れきる前に力を注いだレイガンドーはコジロウのゴーグルを指先で砕き、アイセンサーを手のひらで潰し、白いマスクの下に隠されている各種センサーを壊しに掛かった。だが、コジロウは手探りにも関わらず、的確にレイガンドーを攻めていた。マスクに深いヒビが走り、内蔵されたセンサーにも損傷が及ぶ寸前、突然、レイガンドーの右手が開いた。コジロウの手刀が、彼の右腕の肘関節を折ったのだ。

「いよ、っとぉ!」

 刹那、レイガンドーは折られた右腕を引いて左半身を捻り出し、コジロウの右肩を殴り付けた。バランサーは正常に作動してもセンサー類の大半が破損したからか、コジロウの姿勢は安定しない。レイガンドーに反撃を加えようとするが見当外れの位置に向かい、結果としてレイガンドーの好機を増やすだけだった。

 左フック、左アッパー、ボディーブロー、ボディーブロー、ジャブ、ジャブ、ジャブ、更に左アッパー。首の付け根の外装が割れて頸椎に当たるシャフトが覗き、千切れたケーブルが何本も零れる。コジロウのあまりの痛ましさに、つばめは吐き気すら憶えた。だが、今は堪えなければ。喉の奥に迫り上がる胃酸の味に辟易しながら、つばめは頭上のフカセツテンを見上げた。巨大な結晶体の底部がステージで組んだ即席のトンネルを破りつつあり、会場に注ぐ鉄骨や破片の量も頻度も目に見えて増えている。もう、時間がない。

「レイガンドー! コジロウの胸の下を狙って! そこを叩けば、コジロウは止まる!」

「なるほどな、ロボットでも急所はハートってことだ!」

 レイガンドーはつばめに応じながら腰を捻り、踏み込み、遠心力を伴った超重量級のパンチを投じた。その一撃でコジロウの胸部装甲は砲弾を飲み込んだかの如く抉れ、バックパックが内側から盛り上がった。臓物に似通ったパイプやチューブごと拳を引き摺り出したレイガンドーは、ふらついたコジロウを強烈なアッパーで仰け反らせた。と、同時に彼の頭部が高々と宙を舞った。度重なる攻撃で外れかけていた首のシャフトが先程の一撃で折れたのだ。黒々とした機械油が噴き上がり、レイガンドーの頭部と拳に滴り落ちる。ごっとん、とステージに落下したコジロウの頭部を直視してしまい、つばめは血の気が引いたが、それも意地で堪えた。

「わっ、私に考えがあるの!」

 つばめが駆け寄ると、レイガンドーは膝を付いて目線を合わせてきた。

「言ってみろ。俺が出来ることなら、やってみせる」

「コジロウの右手の中に、ナユタがあるの。それを使えば、フカセツテンを浮かばせられる」

「よし、解った」

 悪く思うな、と呟いてから、レイガンドーはコジロウの右肩に全体重を掛けて外装を踏み砕いた。半壊した肩関節の根本を潰し、片足でコジロウの胸を踏みながら右腕を引き抜くと、それをつばめの前に差し出してきた。コジロウは最早原形を止めていない。それもこれも、自分のせいだ。その事実に打ちのめされながら、つばめはコジロウの右手を開かせようとした。だが、関節が固まっていて上手く動かない。機械油で手が滑り、力が入らない。

「手伝うよ。君の力だけじゃ、出来ないことは一杯あるからね」

 外装のそこかしこに美野里の返り血を帯びた武公が近付き、コジロウの指を開かせてくれた。

「後で、コジロウに謝らなきゃ。一杯、一杯、一杯……」

 この手で何度守られただろう、支えられただろう、救われただろうか。それなのに。つばめは自責の念から滲んだ涙を拭えず、震える顎を噛み締めた。岩龍がつばめの背後に腰を下ろし、覆い被さってきた。

「何があっても、最後まで一緒にいてやるけぇのう。ワシじゃとコジロウの代わりにはなれんかもしれんがな」

 武公はコジロウの右手の指を力任せに開かせ、その手中に握り締められていた青い結晶体を取り出し、つばめに渡してきてくれた。円筒形のガラスケースは粉々に割れ、チェーンは切れていて、ナユタから零れるエネルギーは途切れ途切れだった。つばめの心中と同じだった。

「ごめんなさい」

 コジロウにも、美野里にも、他の皆にも。

「もっと頑張るから。しっかりするから。強くなるから。だから、お願い」

 これ以上、ひどいことにさせないために。つばめは衣装を千切ってナユタを包んでから握り締め、胸に当てると、傷だらけで首と右腕を失ったコジロウに寄り添った。お揃いにするはずだったのに、コジロウだけが付けた片翼のステッカーも擦り切れていた。レイガンドーの拳が掠ったのだろう、コーティングごと無惨に破れている。ステッカーに手を重ねて慈しみ、つばめは呻いた。コジロウの胸部装甲に額を当て、ナユタに願った。

 清浄な青い光が溢れ、広がっていく。ライブ会場を上回る広範囲にナユタのエネルギーが及び、地球上の万物に等しく与えられる重力から解放された。鉄骨を突き破らんとしていたフカセツテンもまた緩やかに浮かんでいき、徐々に遠のいていった。折れた鉄骨、ライトの破片、観客達の持ち物、ロボットファイター達の部品、機械油の雫、控え室の屋根のシート、誰かが投げ捨てていったペンライト、そしてコジロウの頭部。

 弱重力の中を泳いだつばめは、コジロウの頭部を回収すると、衣装が破れるのも構わずに抱き締めた。どれほど謝っても、償いきれない過ちを犯した。それでも、立ち上がらなければならない。遺産がこの手にある限り、祖父の意思が潰えぬ限り、誰かが遺産を利用しようと企んでいる限り。

「REC所属のロボットファイターによる、エキシビジョン・トリプルスレットマッチ! 勝者、レイガンドー、岩龍、武公ーっ! そしてぇ、彼らを応援してくれた皆さぁーんっ! どうもあぁりがとぉーっ!」

 ステージに戻ってきた御鈴様は叫んだ後に勢い良くマイクを振り上げると、スポットライトが注いだが、御鈴様からは少し外れていた。ナユタのエネルギーフィールドによる影響で誰も彼もが浮かび上がっている状態なので、演出係のスタッフも調整が間に合わなかったようだ。御鈴様はマイクを両手で握り、満面の笑みを浮かべた。

「それでは引き続き私の歌を、って言いたいところだけど、皆、係の人に従って退場して下さい! ちょーっと演出が派手になりすぎちゃったから、セットが壊れちゃったの! 押さない、駆けない、喋らない、を守ってねー!」

 御鈴様が大きく手を振ると、従順な返事が返ってきた。不慣れな弱重力に戸惑う人間が大半だったが、スタッフの懸命な努力のおかげで、観客達はライブ会場の外側に吐き出されていった。御鈴様は笑顔を保ちながら、つばめに目を向けた。つばめは御鈴様に掠れた声で礼を述べてから、コジロウの頭部を掻き抱いて嗚咽を殺した。

「コジロウの奴、俺達にはほとんど攻撃してこなかったな。だから、そういうことなんだよ。だから、あんまり気に病むじゃねぇよ。ウゼェから。どんな形であれ、主人を守れただけで本望なんだよ。道具ってのは」

 俺もそうだから、と小声で付け加え、素の表情に戻った伊織はつばめに少し笑んだ。それは伊織の主観であってコジロウの主観じゃない、とつばめは言い返そうと思ったが、何も言葉が出てこなかった。言葉に出来るほど感情がまとまっておらず、感情と呼べるほどくっきりとした情念はなく、ただひたすらに苦しかった。

 今ばかりは、膝を折っても許されるだろう。

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