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機動駐在コジロウ  作者: あるてみす
 

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泣きっ面にピンチ

 逃げて、逃げて、逃げ切った。

 ふと気付くと、つばめは体中が泥だらけになっていた。アスファルトで舗装された道路を走ればいいのに、恐怖のあまりに道なき道を進んでしまったせいだった。髪の至るところに枯れ葉が引っ掛かっていて、ツインテールの片方は解けかけている。スニーカーは泥水をたっぷりと吸い込み、靴下が濡れて気色悪い。スカートの下に履いていたレギンスも木の枝や雑草に引っ掛けてしまったのだろう、所々が破れていた。

 振り返るのが怖くて、立ち止まるのが怖くて、つばめは涙を拭いながら歩き続けた。少しでも立ち止まると、背後からあのホタル怪人が襲い掛かってくるかもしれない。疲れ切っていても足を動かさずにはいられなかった。一乗寺が、寺坂が、武蔵野が、そしてコジロウが次々に敗れた様が瞼の裏から離れない。薄暗い濃霧の中で、皆の体が黒い爪に切り裂かれて血が飛び散る光景が忘れられない。姉が、美野里が、つばめを完全に拒絶していた。あの冷たい目、蔑んだ態度、つばめの自尊心を抉る言葉の数々、ホタル怪人と化してからの凶行。

 全部、悪い夢だったらいいのに。そう願うも、つばめはこれは現実なのだと思い知っていた。自分が判断を誤ったからこんな事態になってしまったのだと、一乗寺の意見を聞き入れようとしなかったから美野里に付け込まれたのだと、自覚していた。美野里から電話が来たという事実が嬉しくて、その嬉しさに酔ってしまって、つばめは冷静さを失っていた。だから、美野里の言葉を疑いもしなかった。だから、皆、傷付けられてしまった。

「あ……」

 雑草が途切れ、視界が開けた。つばめが目を上げると、そこには見覚えのある光景が広がっていた。船島集落に程近い山道にある、寂れたドライブインの駐車場だった。当てずっぽうに逃げたと思っていたが、実は船島集落を囲んでいる斜面を昇り続けていただけだったらしい。店の人がいるかな、と一抹の期待を抱いて近付いてみるが、無情にも定休日のプレートが下がっていた。

 日焼けした柄物のカーテンが掛けられている磨りガラスの窓には、ひどい顔の自分が写っていた。どこもかしこも汚れていて、涙の痕が幾筋も付いていて、可笑しくなるぐらい汚れていた。けれど、笑い出す余裕すらなく、その場に座り込んでしまった。せめてトイレに行って顔を洗ってこなきゃ、とは思うが、体が動かなかった。

 誰かに助けを求めたら、その誰かもまた傷付いてしまうのではないだろうか。美野里の境遇を顧みることすらなく、備前家の愛情にぬくぬくと浸っていたから、美野里に手酷く裏切られたのだ。自分の立場を解り切っていなかったからとはいえ、美野里に遠慮したことはなかった。

 つばめと美野里が逆の立場だったら、きっと美野里と同じ感情を抱いていただろう。両親に大事に育てられてきた一人っ子だったが、いきなり家族に入り込んできた赤ん坊に御株を奪われたばかりか、両親の愛情も関心も次々と奪っていく。それなのに両親はこの子は身の上が可哀想だから優しくしてあげなさい、お姉ちゃんでしょ、と我慢を強いてくる。相手は脆弱な赤子だから逆らえず、笑顔を作って頷くしかない。その時は両親の言う通りだと思っても、腹の底に濁った敵意が溜まってくる。赤子は日に日に成長し、お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん、とまとわりついてくる。事ある事にお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんと甘えて、真似したがって、持ち物を欲しがって、泣いて喚いて我が侭を言って、それなのに両親は我慢しなさいと。

「お姉ちゃん……ごめんなさい……」

 つばめは俯いて、コンクリートにぼたぼたと涙を落とした。あれだけ泣いたのに、まだ涙が出てくるなんて。それがなんだか不思議だったが、止める気にもなれなかった。止めたら、もっと辛くなってしまうから。

「ごめんなさい」

 コジロウにも、皆にも、どうやって謝ればいいのだろう。罪を償えばいいのだろう。母親にすら償えていないのに。つばめが掠れた嗚咽を漏らしていると、不意にポケットから電子音がした。携帯電話の着信メロディーだ。あんなに荒れた道を通ってきたのに、落とさなかったようだ。恐る恐る取り出すと、美月からの電話だった。

「もしもし?」

 つばめは少し声を整えてから応じると、電話口から明るい声が返ってきた。

『つっぴー、美野里さんには会えた? いきなり飛び出していっちゃうんだもん、驚いちゃった。コジロウ君も外装の換装が終わったかと思ったらすぐに飛び出していっちゃって。マスターもロボットも似た者同士だねー』

「うん。そうだね」

 つばめは笑おうとしたが、声が上手く出なかった。泣き喚きすぎたから、喉がひどく痛い。

『それでね、つっぴー。急な話なんだけど、次の興行が決まったんだ! でね、あの倉庫からは撤収して移動中で、もう高速道路に入ったところなの。つっぴーの荷物は、岩龍のマスターの小夜子さんに預けておいたから』

「えっ」

 それでは、美月にも会えないのか。つばめが絶句すると、美月は平謝りしてきた。

『ごめんね、本当に急で! でも、また一ヶ谷に戻ってくるから! 電話もメールもするし! じゃあね!』

 そう言って、美月は電話を切ってしまった。つばめは呆然としてへたり込み、携帯電話の透き通った液晶画面に浮かぶ、通話OFF、の文字を見つめた。掛け直して窮地を伝え、美月に助けてもらおうと考えたが、すぐにそんなことをすれば美月の迷惑になると思い直した。これまで、美月も散々な目に遭ってきた。だから、父親や兄弟同然のレイガンドーとの刺激的だが暖かな生活に戻ることが出来たのだから、水を差してはいけない。小倉重機が始めたRECも軌道に乗り始めているのだから、つばめが余計なトラブルを持ち込んでは台無しだ。

 だから、今だけは辛いことを我慢しよう。辛いことなんて、今まで散々経験してきたではないか。遺産相続争いに巻き込まれてからは尚更ではないか。それでも、踏ん張ってきた。生き延びてきた。挫けなかった。大丈夫だ、まだ立ち上がれる。つばめの手元には、祖父の遺産が残っている。機能停止させてしまったが、道子もいる。御鈴様と羽部鏡一は当てになるかどうかは解らないが、彼らは事情を知っている。金をちらつかせれば、羽部も少しだけはつばめに協力してくれるかもしれない。そうと決まれば、美野里の法律事務所まで行かなければ。いつまでも泣いてばかりでは埒が開かない、と決心したつばめが立ち上がると、ワゴン車がドライブインに入ってきた。

 白と黒に塗装されてパトライトを付けた、警察車両だった。もしかして、コジロウがシャットダウンされたから、それに気付いて出動してきたのだろうか。つばめが突っ立っているとワゴン車のスライドドアが開き、見覚えのある女性が下りてきた。柳田小夜子だった。

「おーす」

 銜えタバコでやる気のない挨拶をした小夜子は、油染みの付いた作業着姿で、髪に寝癖が残っていた。

「あ、あの」

 つばめが事の次第を説明しようとすると、小夜子は紙袋を放り投げてきた。

「あんたの私物だ」

「あの、えっと」

「んでもって、これが書類。よく読んどけよ」

 小夜子が突き出してきた紙の書類を見、つばめは息が止まった。不動産の登記事項証明書だったが、その名義が佐々木長光になっていた。他にも様々な権利書が提示されたが、全ての名義が佐々木長光に換えられていた。美野里は遺言書に従ってつばめの名義に換えたと言っていたし、つばめもそれを確認して署名捺印したはずだ。それなのに、なぜ、祖父の名前に戻っているのだ。死んだ人間なのに。

「あたしにごちゃごちゃ聞くんじゃねー。詳しい事情は知らねぇし。でも、あんたの爺さんの死亡届が未提出だったつーことは確かだ。だから、戸籍の上では、あの爺さんは生きている」

「でも、お葬式の時に死亡診断書が」

「診断書を作ったからって、それを役所に持っていかなかったら死亡届が成立しねぇだろ?  恐らく、そういう小細工をしたんじゃねぇの。あたしの推論に過ぎないけどさ。で、他の書類も備前美野里は名義を書き換えただけであって届け出はしなかったんだろ。法律家だもんな、そういう知恵は回るさ」

「あの、私、そんなの全然」

 つばめが小夜子に縋り付きそうになると、小夜子はつばめを遠ざけた。

「てなわけだから、あたしらも手を引く。あんたの爺さんが生きている以上、あんたが遺産を相続するのは不可能になっちまったし、遺産を相続していないんだったらあんたはただの未成年に過ぎない。だから、政府が税収欲しさにあんたを守る必要もなくなった、っつーわけだ。まあ、本当ならこういう仕事はイチとかスーがやるもんなんだけど、あいつら、どっちもいなくなっちまったからなぁ。おかげで、技術屋のあたしがやる羽目になっちまった。んで、設楽道子っつーか、アマラは政府が押収した。物騒すぎるからな」

 じゃーな、と素っ気なく手を振って、小夜子はワゴン車に戻っていった。ワゴン車が去っていき、水素エンジン特有の匂いのない排気ガスが混じった風が通り抜けると、手渡された書類が数枚舞い上がった。だが、つばめは書類を掻き集める気力も失い、立ち尽くした。吐き気と共に迫り上がってくる嗚咽を懸命に堪えながら、紙袋を開けてその中に書類を突っ込もうとすると、エンヴィーの衣装が見えた。

 コジロウと共にリングに上がって試合をしたのは昨日のことなのに、昨日と今日では別世界のようだった。ずっと昨日の延長であれば、つばめは今も笑っていられただろう。次の試合に向かう美月を笑顔で見送って、コジロウ達と一緒に帰宅して、道子に手伝ってもらいながら家事をして、武蔵野が運転する車で夕食の買い出しに出掛けて、暇を持て余した寺坂に居座られて、教師としての仕事を完全に放棄した一乗寺が寺坂と遊び呆けて、騒々しいがそれ故に退屈しない日常が戻ってくる。だが、皆がいない。つばめのせいで傷付いたのに、皆を助けようとすらせずに自分だけ逃げ出してしまった。絶対に、許してくれないだろう。コジロウでさえも、こんな主は嫌うだろう。

 自分でさえも、自分を許せない。



 小刻みに揺れる床とエンジン音で、ここは車内なのだと気付いた。

 だが、気付いたところで何がどうにかなるわけでもない。羽部鏡一は寝起きで動きの悪い頭を働かせるために、深呼吸してから、目を動かした。羽部は横長の座席に横たえられていて、両手首は紐で縛られていた。口にも布がきつく巻かれていて、声を出せないようにされている。ヘビと化している下半身だけは縛りようがなかったのか、座席の下の床にだらりと渦巻いていた。その床にはカーペットが敷き詰めてあり、内装は豪奢だった。

 この車はストレッチ・リムジンだ。それも、湯水の如く金を注ぎ込んだ代物だ。シートは本革張りで運転席と客席を区切る間仕切りにはテレビが設置され、Uの字型に配置されているシートの中央にはテーブルがあり、テーブルの下にはカクテルキャビネットと冷蔵庫までもがある。絵に描いたような成金の車だ。

『羽部君、起きた?』

 と、テキストリーダーの電子合成音声で話し掛けられたので、羽部は訝りながらも音源を捉えた。テーブルの上に置かれた水差しの中に、あの種子が沈んでいた。水耕栽培のクロッカスのように水の中に根を張り、水差しの上から垂らしている触手でテーブルに横たえた携帯電話を操作していた。高守である。

 口を塞がれていて返事のしようがないので、羽部は尻尾の先を振って応じた。高守は羽部が覚醒しているのだと察してくれたらしく、頷くように触手の一本を上下させた。

『御鈴様もいるよ』

『どこに』

 羽部は尻尾を伸ばして尖端を曲げ、携帯電話のホログラフィーモニターに文字を打ち込み、言い返した。高守はテキストリーダーのソフトを閉じてメモ帳のソフトを開くと、今度は文字だけを打ち込んだ。言わば、チャットである。

『御鈴様は別の車で運ばれているよ。この車は吉岡グループのものだ。VIP扱いだよ』

『えー? 今度は吉岡グループに拾われたのかい?』

 羽部も高守に倣って文字だけを入力し、改行した。高守は、羽部が打ち込んだ次の行に打ち込む。

『そうなんだ。政府の捜査員が備前美野里の弁護士事務所に立ち入る前に来て、羽部君と御嬢様と僕を回収したんだよ。あっという間だったし、君達は気絶していたから、どうにも出来なかったんだ』

『次から次へと盥回しとは……うんざりするね』

『それは羽部君が組織に対する忠誠心がないからじゃないか。僕は今の今まで、弐天逸流一筋だったんだから、同類扱いされるのは心外だな』

『で、これからどうなると思う? この零れんばかりの才能故に世界が放っておかない僕としては、吉岡グループの連中は、クソお坊っちゃんが多分にブレンドされた御嬢様を切り刻んで生体安定剤を作って、コンガラを作動させて何かしらをやらかすつもりだと読んでいるけど』

『それは君でなくても読めると思うけど。僕だって、そのぐらいの見当は付くよ』

『なんだよ、高守信和。君ってネット弁慶ってやつか? シュユのせいで失語症も同然だったことを差し引いてもだ、この右に並ぶ者がいたら宇宙が反転するほどの知性を持つ僕に口答えするだなんて』

『御嬢様の部下だった頃は、羽部君ってそういう言動だから取っ付きにくくて物凄く嫌な奴だと思っていたんだけど、弐天逸流に取り込んで利用して面と向かって付き合うと、そうでもないなぁってことに気付いただけだよ』

『何それ、正気なの。有り得ないんだけど』

『だって、羽部君って仕事熱心だし、ちょっと褒めてあげると調子に乗って期待以上の成果を出してくれるし、馬鹿みたいに自画自賛するだけのことはある知能はあるし。話していると、結構面白いし』

『うsi』

『あ、タイプミスした。そんなに驚くほどのことでもないと思うけど』

『嘘だよ嘘嘘、嘘に決まっているだろうがそんなもの。大体、この僕が他人の賞賛なんて欲しいわけが』

『そうやって強がって生きるのって、楽じゃないよね』

 高守が打ち込んだ言葉に、羽部は尻尾を動かす勢いが止まった。それは事実だ。だが、だからといって、それが他人に弱みを見せていい理由にはならない。誰かが自分を守ってくれるわけがないし、自分に対して興味を持ってくれるわけでもないし、無条件の好意を注いでくれるわけでもないし、実力を認めてくれるわけでもないのだから。

『良い機会だ。少し立ち止まって、よく考えてみようよ。僕も、羽部君も、伊織君も、御嬢様も、これからどうするべきなのか。どういった行動を取れば最善なのか。僕達が遺産争いをすれば、誰が得をするのか』

『勝手にすればいい。この全宇宙の賞賛をいう賞賛を一心に浴びる僕は知らないからね』

『またそんなことを言って。本当に根性曲がりなんだから、羽部君は』

『うるさい黙れよ。水差しをひっくり返すぞ』

『でも、どうせ暇じゃないか。何か、話そうよ』

『この僕とお前に共通の話題なんて……ありまくりだねぇ』

『でしょ?』

 笑みを零すように、高守は触手をざわめかせた。その仕草に好意が含まれているような気がしたが、そんなものは思い上がりだ、と自嘲する。羽部はスモークスクリーンが張られた窓越しに見える景色を捉えながら、高守とのどうでもいい会話に明け暮れた。どちらも口が利けないので文字でのやり取りに終始したが、口頭で言い合うよりもいくらか気楽だった。怪人になり、自信が付いたとしても、やはり羽部という男の性根は変わらないのだ。

 リムジンは走り続けた。



 水音が聞こえた。

 僅かなさざ波が肌を舐め、水滴が落ちて額を叩き、手足が浮いている。薄く目を開けてみると、白い靄が辺りに充満していた。だが、冷たさはなく、噎せ返るような熱が籠もっていた。風呂だ、と弱い意識の中で悟った一乗寺は起き上がろうとしたが、腹部から凄まじい激痛が迸り、掠れた悲鳴を漏らした。かはっ、と声にすらならなかった息が喉の奥から迫り上がり、同時に胃液もいくらか昇ってきた。

 なんて情けない。一乗寺は唾液と胃液の混じったものを唇の端から垂らし、自分が浮かんでいるぬるま湯の中に落としながら、自虐した。濡れた指で腹部を探ってみると、腹部のダメージは予想以上にひどかった。怪人体に変身した備前美野里は一乗寺の下腹部から背中に掛けて、爪を貫通させてきた。その際に内臓も随分損傷したらしく、口の中に鉄の味がこびり付いている。手を横に這わせてみると、女性化して薄くなった腹筋が綺麗に切り裂かれていて、切断面に指の腹で確かめてみた。出血は止まっているようだが、傷口をほんの少し開いただけで電流の如き激痛が脳天を痺れさせた。瞼の裏で火花が散り、無意識に体が仰け反りかけるが、その動作で背中側の傷口が開きかけて別の痛みにも襲われた。あの女は、本気で一乗寺を殺しに掛かっていたのだ。

 それなのに、なぜ生きているのだろう。涙なのか湯なのか解らないもので目尻を濡らしながら、一乗寺がぼんやりしていると、軽やかに引き戸が開く音が鼓膜をくすぐってきた。場所が場所だからだろう、温泉旅館の風呂場を連想してしまった。更に、つばめちゃんと箱根に修学旅行に行けたらいいなぁ、と思った。あの時は何も考えずに言っていたのだが、今はそんな他愛もない言葉にも縋りたい気持ちだった。

「湯加減は丁度良いか?」

 一乗寺の浮かぶ湯船に近付いてきた人影を捉え、一乗寺は胸中がざわめいた。

「すーちゃん」

 周防国彦だった。右目を失い、左足も引き摺り気味ではあったが、生きていた。ということは、一乗寺の想像した通りの道を辿ったのだろう。政府の支給品ではない迷彩服に身を包んでいる彼は、一乗寺の容赦ない攻撃による傷によって派手な傷跡が顔に残り、そのせいで面差しが変わっていた。以前の姿を保っている左目に浮かぶ表情も俗っぽく、一乗寺と共に重大事件の捜査に明け暮れていた頃の正義感や、倫理観や、道徳観といった理性の光が失われていた。一言で言うならば、犯罪者の目になっていた。

「こうして見ると、男だった頃と大して変わらないな、イチ」

 周防は湯船の縁に腰掛けると、一乗寺の顎に手を添えて傾けさせた。目が合う。

「……そう?」

 腹に力が入らないので、一乗寺が弱々しく答えると、周防は一乗寺の血の気が失せた頬を撫でてきた。

「この風呂には、マスターがシュユを使って作った生命維持装置みたいな植物が入っているし、お前の腹の中にもその植物を埋め込んだから、傷もじきに治る。それでなくても、イチは打たれ強いからな。すぐに元通りになるさ」

 周防の手の甲は生温く、骨張っていた。一乗寺は緩やかに瞬きする。

「なんで、俺を裏切ったのさ。新免工業と船でパーティした時に、潜入捜査だったんだーって言い張って戻ってくれば良かったのに。そうすれば、俺もすーちゃんのことを嫌いにならなかったのに」

「公僕でいるのに飽き飽きしたんだよ」

「それだけ?」

 一乗寺が少し首を傾けると、周防の手がそれを柔らかく受け止める。

「いや、建前だ」

 その手付きの優しさで、周防がどれだけ一乗寺に執着していたのかが充分に理解出来た。指の曲げ方も、力の入れ方も、怯えに似た躊躇いが含まれている。好きだからこそ触れがたかった。それが今、存分に触れられるのだという歓喜も、一心に注がれる眼差しに宿っていた。皮膚の厚い親指の腹が、一乗寺の唇をなぞる。

「よっちゃんと、むっさんと、コジロウは?」

 一乗寺が友人達の名を口にすると、周防は不愉快げに眉根を寄せた。明らかな嫉妬だった。

「あいつらも死んではいないが、気にするほどのことじゃない。今は、自分のことだけを考えていればいい」

「つばめちゃんは?」

「知るわけがないだろう。外に出たのは備前だけで、俺達はずっと弐天逸流の本部にいたからな。それを知っていたとしても、教える理由がない。あいつの護衛から政府は手を引くから、イチも任務を外される。遺産絡みの事件も収束に向かうしな。事が荒立っていたのは吉岡グループが他の企業や組織を焚き付けたからであって、その吉岡グループという資金源がなくなれば、どの企業も組織も手を引く。最初から、吉岡グループの自作自演だったんだ。だから、それさえなくなれば、俺もイチも自由になる。佐々木つばめさえいなければ、上手くいく」

 周防の手が頬から離れ、首筋から襟元に向かっていく。風呂に入れられる際に着替えさせられたらしく、Tシャツとジーンズではなく、薄い肌襦袢を着せられていたことに今更ながら気付いた。水を吸って素肌に貼り付いた布地は一乗寺の体を際立たせ、湯に浮いている丸い乳房が軽く握られた。

「ぁう」

 痛みも刺激も感じなかったが羞恥に駆られ、一乗寺は呻いた。

「本当に、女に戻ったんだな」

 貼り付いた布地の上から肉の柔らかさを確かめた周防が心底嬉しそうで、一乗寺は目を逸らした。

「そうだよ。すーちゃん、知っていたの?」

「そりゃあな。お前がとんでもない経歴の同僚だから、調べずにはいられなかったんだよ」

 周防は一乗寺の傷口に触れないようにしつつ、一乗寺の胸から腰、太股から尻を確かめていった。女性に対する賛美の言葉もいくつか聞こえてきて、一乗寺はますます頭に血が上ってきた。風呂にのぼせているから、というわけではなさそうだ。意識しないようにしていたのに、嫌いになってきたのに、憎めるとすら思っていたのに。

「中学時代のイチは可愛かったな。でも、人殺しなんだな」

 そうは言いつつも、周防の口調は弾んでいた。

「男になったのは、弟に上半身を食われて自分で自分を産み直した時なのか?」

「……うん。あの時は、どうにもならなくて」

 一乗寺が目を伏せながら頷くと、周防は少し笑った。

「だが、また女になった。それはどうしてだ」

「知らないよ、そんなこと」

 はぐらかそうとした一乗寺に、周防は上体を曲げて顔を寄せてきた。再び顎を掴まれ、顔を上げさせられる。

「俺の子供を産めるのか」

「解らない。だって、俺、人間じゃないもん。人間の形をした、別の生き物だもん」

 周防と視線を交わらせただけで、一乗寺は心臓が痛んできた。否定しようと思えば思うほど、痛みが増してくる。頭の芯が痺れてくる。心身共に弱り切ったところで、女性化した自分を肯定する言葉を投げ掛けられては、理性が少しは綻んでしまう。遊びで体を弄ぶのであれば、何も感じないし気も咎めない。良い友人である寺坂が相手なら、きっと何も感じずに済んだ。男なんてそんなものだ、人間なんてこんなものだ、とやり過ごせたはずだ。だが、周防はそうではない。一乗寺という不確かな存在に明確な価値を認め、執着し、愛してくれているのだから。

「もう少し、まともな口説き文句を考えておくんだったな」

 周防は気恥ずかしげにしながら、一乗寺の肩に腕を回して抱き起こしてきた。その際に、背中の傷口に繋がっている細い触手が伸びてきた。首を動かしてみると、彼の言った通り、湯船の底には水草に似た植物が生えている。うねるツルの下には栄養の詰まった丸い実があり、その栄養を一乗寺に注いでいるのだ。さしずめ点滴だ。

「イチ。いや、ミナモ」

 かつての名前を呼ばれ、一乗寺は身を強張らせた。

「マスターが世の中を引っかき回している間に、俺達は逃げよう。どこでもいい、仕事もなんでもいい、ミナモが俺の傍にいてくれたら、どうにでもなる。お前が人間だろうがそうじゃなかろうが、俺には関係ない」

 周防の太い腕が一乗寺を抱き寄せると、彼の肩に顔を埋める格好になった。噎せ返るほどの男の匂いがした。

「そのために、全部裏切ったの? 俺をどうにかするためだけに、政府も、俺も、全部?」

 一乗寺が頬を引きつらせると、周防は一乗寺の濡れた髪に指を通してきた。女慣れしていない手付きだ。

「悪いか?」

「うん。最悪だよ、すーちゃん」

 だから嫌い、と一乗寺は呟いたが、体力が著しく消耗していたので意識がまた薄らいできた。周防は一乗寺の体を再び湯船に横たえたが、去り際に唇を重ねてきた。それもまたぎこちなくて、周防は赤面すらしていた。そんなに好かれていたのかと思い知り、一乗寺まで照れ臭くなってきた。けれど、それを否定しなければ。

 彼の足音が遠ざかり、引き戸が閉められた。二度と周防が現れなければいいのに。そうすれば、一乗寺は余計な感情を覚えずに済む。体が治らないように、止めを刺せばいいのに。そうすれば、彼は悲劇に見舞われずに済む。せっかく生き延びたのだから、右目にも義眼を移植したのだから、もっと自分を大事にすればいいのに。

 このままでは、周防を好きになりすぎてしまう。



 思いの外、傷は浅く済んだ。

 腹部の裂傷は鍛え上げた腹筋のおかげで薄めで、後頭部の打撲も重大ではなさそうだ。脳までダメージが及んでいないとすれば、の話だが。医療設備もなければ医療従事者もいないので、そんなことを調べることは到底不可能なので、今は自分の頭蓋骨の頑丈さを信じるしかない。武蔵野は血をたっぷりと吸い込んだ末に凝固して硬くなったガーゼを剥がし、猛烈に染みる消毒と止血を終えてから、新しいガーゼを貼り付けて包帯を巻き直した。己の傷口を直視した程度では気は遠くならないが、痛みだけは慣れない。だが、それも生き延びた証しなのだ。

 包帯などを寄越してくれた主は、黙々とゲームに興じていた。右足を失って片足になった鬼無克二は、テレビの前で胡座を掻いて背中を丸め、細長い指でひたすらボタンを連打していた。武蔵野は鬼無が包帯やガーゼなどと共に持ってきてくれた薬袋をひっくり返し、中身を確かめた。鎮痛剤と抗生物質だった。

「礼は言っておこうか。だが、このクスリはどこにあったんだ? どれも病院で処方するやつだろう」

「んー、その辺にあったから掻き集めてきただけですけどー?」

 武蔵野は鬼無の姿勢の悪い背中を見、訝った。ホタル怪人と化した備前美野里と戦った三人の中で、武蔵野は最も軽傷だった。一乗寺と寺坂は半死半生の重傷で、意識すら失っていた。美野里は三人とコジロウを霧の立ち込める鳥居に放り込むと、早々に立ち去っていった。息も絶え絶えの一乗寺は周防が早々に回収していき、寺坂とコジロウは巨体の異形を連れて戻ってきた美野里に回収されたが、武蔵野は放置された。そこにやってきたのが、切断された右足を鉄パイプで補っている鬼無だった。彼は武蔵野を畑仕事に使う手押し車に放り込むと、がたごとと揺らしながら建物まで運んでくれた。そして、今に至る。

 一乗寺も寺坂もコジロウも、無事とは言い難いだろうが命は繋げているだろう。このメンバーの中で、最も価値が低いのは武蔵野だからだ。一乗寺は人間の姿をした異形であり、寺坂は触手を宿しているし、コジロウに至っては遺産の一つであるムリョウに手足を付けた代物だ。だが、武蔵野はただの人間に過ぎない。だから、鬼無が拾ってくれなければ、ろくに傷の手当ても出来ずに倒れ伏していただろう。

「鬼無。お前は俺が嫌いだったんじゃないのか?」

 武蔵野が一笑すると、鬼無はホログラフィーモニターの中に浮かぶキャラクターを操作しながら返した。

「そりゃー嫌いですよー。おっさんだしー、萌えないしー、なんか説教臭いしー」

「だろうな」

 武蔵野が肩を竦めると、鬼無は一時停止をしてから振り返った。以前と変わらぬ、表情の見えない顔だ。

「でもー、他の連中がマジキチだからー、武蔵野さんみたいなノーマルキャラも必要かなーってー」

「だから、俺を助けたのか? 変な理由だな」

「んでー、親父ー、なんか言っていましたかー?」

「いや、別に。俺を解雇して、つばめに雇わせた時に会ったぐらいだな。だが、何も言っていなかった」

「そーですかー。まー、予想の範疇っつーか、親なんてオワコンっていうかー」

「目を掛けてくれるような親ならありがたいが、そうじゃなければ、さっさと縁を切りたいものだしな」

「ですよねー解りますー」

 鬼無はうんうんと頷きながらも、指先の動きは鈍らず、的確にボタンを操作し続けていた。

「てかー、知っていたんですかー?」

「そりゃあな。新免工業がタンカーに乗せたナユタで都心を吹っ飛ばそうとした後に、調べたんだよ。佐々木つばめの母親を死なせた原因を作ったのが新免工業だってことは、覆しようがない事実だからな。その当時、弐天逸流の本部は都心にあると仮定されていた。その理由は、死んだ人間が頻繁に蘇ってきたからだ。鬼無もその中の一人だった。お前は自殺したんだ、鬼無。世にも下らない理由で、私鉄の特急に身を投げて細切れになったんだろ?」

「まー、そんなところですねー。親父のカードを使ってネトゲに課金しすぎて半殺しにされてー、なんかもー、全部が嫌になっちゃってー、ふらーっとしたらグモってー。んでもー、気付いたら生き返っていてー、訳解らないから実家に帰ってみたらー、親父の会社に就職させられてー、紛争地帯に飛ばされてー、また死んでサイボーグになってー」

 鬼無は淡々と話していたが、ボタンの操作を何度か誤っていた。動揺しているのだ。

「鬼無ってのは、お前の母親の名字か。で、俺達も、ひばりも、お前と社長の派手な親子ゲンカの巻き添えを食ったってわけか。割に合わない仕事ばっかりだな」

 武蔵野は水差しからコップに注いだ水を舐め、味を確かめてから、薬をシートから出した。

「まー、そんなとこですー。あの親父ってばー、博愛主義っつーか人類愛っつーかをのたまう自分に酔いまくっているせいで金目当てで言い寄る女を全部引き受けちゃってー、リアルハーレムってかでー。だから母親はちっこい俺を連れて逃げたんですけどー、母親は頭が弱くて独り立ち出来るような女じゃなくてー、すぐに生活出来なくなってー、弐天逸流に引っ掛かっちゃってー。んでー、俺が死ぬことが大前提の前金をたんまりもらっていてー。俺を自殺に追い込むためにメシに変なクスリみたいなのを混ぜていたみたいでー、そのせいで高校中退してクソニートになってネトゲ廃人になってー、親父に泣き付いてー、クレジットカード盗んでー、それを使い込んで叱られまくってー。んで自殺してー。気付いたら生き返っていてー、んで戦闘訓練を受けさせられて傭兵になってー、親父もクソウゼェーって思ってドサマギで殺したんですけどー、親父はあっさりサイボーグになって生き返ってー。でも俺も殺し返されてー、サイボーグになってー。まー、そんな感じでー」

「社長をやったのはお前だったのか。なのに、脳天は吹っ飛ばさなかったんだな」

 武蔵野が驚きもせずに返すと、鬼無は少し間を置いてから答えた。

「なんてーか、一瞬迷っちゃったんですよー。こんな野郎でも親父なんだよなーって。そしたらー、ちょっと手元が狂って心臓と肺と胃をぶち抜いただけにしたっていうかー。そしたらー、俺も同じ場所を撃たれたんですけどねー」

「そこまでされれば、新免工業に愛想を尽かすのも無理はないな。納得出来ただけで理解したわけじゃないが」

「ですよねー。俺の場合ー、二度もリセットボタンを押したのに強くてニューゲームにならないどころかー、異世界に召喚されて俺TUEEEEEEにもなれないしー、これだからリアルはクソなんですよーもー。馬鹿なの死ぬのー?」 

「現実はそんなもんだろ、諦めろ」

「あーそれそれー、そういうのー。俺が武蔵野さんに求めていたのはそれ系のキャラでー」

「だからどうした」

「だからですねー、なんか教えてくれませんー? 俺の人生に一本筋を通して尚かつ意味が生まれてくるようなー、そういうことー。自分でうだうだ考えてみたりーググってみたりースレ立ててみたりーツイート投げてみたりー知恵袋に投稿してみたりもしたんですけどー、誰も良い感じのレスをくれなくってー。だからー、武蔵野さんならWikipediaより当てに出来るかなーって思ったんでー。他人に説教垂れるっつーことはー、それに裏打ちされた人生経験と確固たる自信と持論があるからじゃないですかー。ないとは言わせませんよー?」

 ぐいと首を曲げて、鬼無が武蔵野を見据えてきた。鏡面加工が施されたマスクフェイスに写った武蔵野の顔は、いつになく戸惑っていた。そんなに立派な人生論があれば武蔵野はもっと楽に生きられている。他人に教授出来るほどの自信があれば、もう少し上手く立ち回っている。そんなものがないから、当たり障りのない一般論を流用した言葉を並べるのではないか。どうせいつもの軽口だ、と武蔵野はタカを括っていたが、鬼無はやけに真剣で態度を変えようとも、自分の発言を茶化そうともしなかった。

「もし、俺がそいつを教えられなかったら?」

 少々の間を置いて武蔵野が問い返すと、鬼無は首を傾げた。

「ぶっ殺しますよー? 脳天ぶち抜きますよー?」

「……まあ、待て。しばらく待て。今はさすがに頭が回らん、腹も痛いし、頭も痛いし、結構血も出た」

「その辺は考慮しますけどー、被ダメ回復したらお願いしますねー。なんかもー、頭ん中がぐちゃぐちゃでー。虫女とマスターに言われるがままに戦いまくって大虐殺してもいいんですけどー、シュユがマスターに乗っ取られてからはしっくり来なくなっちゃってー。アルェーって感じでー。だからー、武蔵野さんとダベって考えてみようかなってー」

「だったら、徹底的に迷えばいい。行動に移すのは、それからでも遅くはない」

 鎮痛剤が回り始めたことを感じつつ、武蔵野は呟いた。生き方に迷っているのは鬼無だけではないし、弐天逸流に蘇らせられた人間もどきだけでもない。普通の人間でさえも人生に悩み、つまずき、藻掻きながら苛烈な現実に向き合っている。四捨五入すれば五十路になろうかという男でさえも、この有様なのだから。

 ちょっと付き合って下さいよーオフラインプレイなんて張り合いなさすぎてー、と鬼無がゲーム機のコントローラーを投げて寄越したので、武蔵野は渋々コントローラーを握った。痛みと眠気を紛らわすには丁度良いかもしれない、と思ったからでもある。それから、二人並んでひたすらゲームに興じて時間を潰した。ゲーム自体に不慣れな武蔵野はろくに勝てずにやり込められてばかりで、極めて無益で無駄で非生産的な時間だった。

 けれど、余暇としては最適だった。



 寺坂善太郎は、本尊のいない本堂の大黒柱に磔にされていた。

 これって宗教観が混ざりすぎじゃねぇの、と内心で思うが、それを言葉にすることは出来なかった。寺坂は心臓の位置を貫通している楔を見下ろし、細い吐息を漏らした。これでもまだ、生きているのだからおぞましい。ホタル怪人としての本性を露わにした美野里に切断された右腕の根本からは、新たな触手がにゅるにゅると生え始めていた。夥しく出血して体力は底を突いているのに、どこにそんな余力があるのだろう。

 触手の生命力の強さに少しだけ感心しながら、寺坂は荒涼とした景色を見渡していた。恐らく、ここは弐天逸流の本堂が建っていたのだろう。無数の木片は年季が入った色味で、太い梁には分厚く埃が積もり、散乱した屋根瓦は風化して色褪せている。寺坂が磔にされている柱の下には祭壇があり、供え物と思しき水や酒や米と仏具が粉々に砕けていた。罰当たり極まりない。もっとも、罰を下すべき神はいなくなってしまったのだが。

「よう、みのりん」

 寺坂が喉だけで掠れた声を出すと、屋根瓦を踏み砕きながら近付いてきたホタル怪人は触角を曲げた。

「まだそんな元気があるんですか、寺坂さん」

「そりゃあな。みのりんが相手なら、一晩中頑張れるな」

 寺坂が血と体液に汚れた頬を持ち上げると、美野里は不愉快げに顔を背けた。

「まだそんなことを……。いい加減にして下さいよ、私はあなたのそういうところが嫌いなんですよ。女と見れば誰彼構わず声を掛けて、手を出して、金をばらまいて。どこの女からどんな病気を移されたのかも解らない男になんて、触られたくもありません。気色悪い」

「おーおーおー、言ってくれるじゃねぇの」

 姿形が変わろうとも、中身は相変わらずだ。寺坂は楔に貫かれた状態で再生した横隔膜を使い、喋った。

「いいから、素直になれよ。安心しろって、デタラメなことはしねぇから。優しくするからさぁ。中に出さねぇし」

「黙って下さい! でないと、もう一度その体を切り裂きますよ?」

 美野里に凄まれるが、寺坂は臆さなかった。それどころか、悪役を気取ろうとする姿がいじらしいとすら思う。

「可愛いぜ、その格好も。考えてみたら、全裸なわけだし」

「あっ、うっ、あ、ば、馬鹿なことを言わないで下さいよ!」

 そう言われて自覚したのか、美野里は上両足を曲げて胸を隠してから寺坂に背を向ける。

「なあ、みのりん。俺に好かれるのが、そんなに迷惑か?」

 寺坂が笑みを零すと、美野里はぎちりと顎を軋ませる。

「……当たり前です。あなたみたいな頭も悪ければ倫理観も欠如した男に好意を寄せられたところで、鬱陶しいだけなんですから。あなたと過ごした時間は私の人生に置いて最大の汚点です、あなたと関わったことで浪費した労力は極めて無駄でした、あなたの傍にいたせいで被った迷惑の損害賠償を払って頂きたいものです。それと、どうしてへらへらしていられるんですか。私はあなた方を裏切ったんですよ? それなのに、なんでまだ笑えるんですか」

「すっげぇ可愛いから」

「ふざけないで下さい、私は本気なんですよ?」

「俺だって本気だよ、美野里」

 彼女の複眼を見つめ、寺坂は声色を落とした。嘘ではない、心からの本音だ。美野里がいつ、どんな事情で怪人になる道を選んだのかまでは寺坂は把握していない。けれど、それが美野里が己の人生を捧げるに値するほどの理由であったのは確かだ。そうでもなかったら、ここまでマスターに尽くしはしない。捧げたものが大きすぎたから、美野里は自分を省みる余裕すら失ったのだ。それが寺坂の心を締め付けてくる。

 男の意地、とでも言うのだろうか。最早、寺坂の美野里に対する恋心の軸は、美野里への同情心や好奇心ですらなくなっていた。どうにかしてこの女を振り向かせたい、マスター以外の男を教えてやりたい、寺坂なしでは呼吸すらもままならないような人生に引き摺り込んでやりたいという、加虐的な衝動すらも生じるほどだ。

 愛称ではなく名前で呼んだことで、美野里は微妙に反応したが、それだけだった。長い触角の尖端が波打つが、振り返りもしなかった。そのまま、彼女は飛び去ってしまった。当然、羽を振るわせて飛ぶ美野里の下半身を真下から見上げる構図になるので、寺坂がそれを茶化すと本気で怒鳴られた。だが、それすらも可愛らしく感じ、寺坂はにやけてしまった。攻撃的な意地を一枚残らず剥がした後に現れる美野里の本心を想像すると、尚更だった。

 かすかな地鳴りと共に震動が起き、本堂の残骸が浮き上がっては落下した。深い霧を掻き分けながら、寺坂の元に迫ってきたのは、光輪を背負って無数の触手を生やした巨体の異形だった。弐天逸流の本尊だ。

「こいつがシュユか」

 高揚の抜けない寺坂がへらっとすると、シュユは腰を曲げて寺坂に凹凸のない顔を寄せた。

「お久し振りですね、善太郎君。あの頃から、お変わりないようですが」

「ねぇよ、そんなもん。変わったことがあるとすりゃ、俺の経験人数が増えまくったってことだな。あんたに拾われた頃の俺はまだまだ大人しいもんでな、女を引っ掛けるのも下手くそだったからな。で、そっちはどうだ。未だに惚れた女に惚れられてないんだろ? だから、俺や他の連中を巻き込んで大騒ぎしているってわけだ。良い迷惑だよ」

「迷惑だなんて、とんでもない。善太郎君や他の皆さんが、私とクテイの間に割り込んでくるのではありませんか」

 シュユは触手を曲げ、寺坂に突き立てられた楔を捻る。激痛に襲われ、吐血したが、寺坂は平静を保つ。

「馬鹿言え、あんたがろくでもねぇことばっかりやらかしているから、俺達が火消しに回ってやっているんじゃねぇか。感謝してほしいぐらいだよ。勝手にマス掻いていやがれ」

「私の全てはクテイに捧げていますので、そのような言葉で罵倒されたところで何も感じませんが」

「そうやって言い返すってことは悔しいんだろ、おい」

 寺坂が笑い出そうとすると、シュユの触手が右腕の根元に押し込まれ、生えかけてきた若い触手が千切られた。若芽を千切られるたびに赤黒い体液が噴き出し、剥き出しになった神経と肩の骨の付け根を抉られ、寺坂は舌を突き出して喘いだ。先程の痛みならば耐えられたが、骨と神経を直接痛め付けられるのはさすがに耐えきれずに絶叫を上げていた。体が仰け反りかけるが、楔で柱に繋ぎ止められた体は下半身しか自由が効かず、その両足も地面から浮いていたので救いは何もなかった。

 寺坂の血と体液と肉片が絡み付いた触手が離れても、激痛の余韻で痙攣した。寺坂はびくつく手足を垂らしながらも、少しだけ気が晴れていた。あの日、あの時、寺坂があの男の本性に気付いていれば、こんなことにはならずに済んだのだから。つばめも、美野里も、一乗寺も、武蔵野も、りんねも伊織も羽部も他の面々も、平穏な人生を送ることが出来たはずだ。だから、これは寺坂の責任だ。

「長光のクソ爺ィがぁああああっ!」

 余力を振り絞り、寺坂は叫ぶ。再び千切れた横隔膜と潰れた肺のせいで、思うように声は出なかったが、それでも無駄ではないと信じて声を張り上げる。

「惚れた女を靡かせられなかったのがそんなに悔しいか! ああ解るね、俺だって何度口説いても振り向きもしてくれねぇ女がいるからな! だがな、その女を逃がさないためとはいえ、手足を潰して半殺しにして閉じ込めておくのは大間違いなんだよ! 女は男の道具でもなんでもねぇ! それでも股間にブツをぶら下げてんのかよぉっ!」

「善太郎君の恋愛観を私に押し付けないで頂けますか。それは君の主観であって、私の主観ではありません」

 シュユの顔が歪み、シワを刻んで表情を作った。口に当たる部分に弓形のシワを寄せて吊り上げたが、目元に出来たシワは深く、敵意が滲み出ていた。笑顔ではない、威嚇だ。

「あんたの息子共だけじゃなく、その嫁さん達も、孫も道具にしやがって。俺の親も巻き込みやがって」

 寺坂が息も絶え絶えに吐き捨てると、シュユは触手を緩やかに波打たせる。

「実に正義感溢れる言葉ではありますが、善太郎君らしくありませんね。そういった青臭い言葉がお似合いなのは、巌雄さんではありませんか?」

「俺だってな、ちったぁ良心はあるんだよ。これでも坊主だ、死人をあの世に叩き込むのが仕事だ。経文読んで線香上げて鐘を叩いて木魚鳴らして、供養してやったじゃねぇかよ。それなのに、どうして潔く死のうとしねぇんだよ。納骨だってしてやったじゃねぇか。四十九日の法要だって済ませてやったじゃねぇか。戒名だって書いてやった、卒塔婆も仕立ててやった。なのに、まだ生き返ろうってのかよ。死人のくせに、未練たらしくこの世にしがみついて迷惑掛けてんじゃねぇよ。クソ爺ィ、あんたは今、最高に格好悪いぜ」

 最後まで言い切った瞬間、寺坂に触手が襲い掛かった。シュユは寺坂の胸の傷口に細めの触手を割り込ませ、皮膚と筋肉と骨の間に押し込んできた。めきめきと骨から肉が剥がされていき、皮膚が捲れ、破れて潰れた内臓がぼろりと零れ出し、肋骨が外気に曝された。原形を止めていない鈍色の肉塊が転げ、潰され、体液が散る。

「お黙りなさい、善太郎君。美野里さんと同じように私に従っていれば、あらゆる苦痛や苦悩から解放されていたというのに。痛いでしょう、痛いでしょう、痛いですよね、痛くしているのですから」

 けひっ、かひゅっ、と最早吐息にも至らない空気が喉から押し出され、寺坂は喉を逸らした。

「片思いの辛さを理解しているのでしたら、私の苦悩も理解して頂けたと思っていたのですが、見当違いでしたね。そこまで自我がお強いのでは、もう少し失血して頂いて意識を失ってからでなければ、私は忌々しく穢らわしい肉体から離れることすら出来ませんね。段取りが狂ってしまいます。美野里さん、私はラクシャにコピー済みのムジンのプログラムの微調整とムリョウのセッティングがありますので、後はお願いしますよ。弐天逸流がこの空間をかなりいじくり回してしまったせいで、機関室を見つけ出す手間が増えてしまいましたのでね」

 シュユは踵を返し、下半身の触手を器用に使って瓦礫の山から去っていった。寺坂はその様を目の端で捉えてはいたが、それだけで精一杯だった。露出した肋骨の隙間を擦り抜ける外気が恐ろしく冷たく、血を垂れ流す筋肉に掠める霧の水蒸気ですらも痛みを呼び、軽口を叩ける余裕は失せていた。柱に寄り掛かっているだけでも傷口が歪み、死体のように冷え切った手足は少しも動かせなかった。指先も凍り付き、肌を舐める血の雫が痒い。

 ぼやけて狭まってきた視界には、美野里の姿があった。止めを刺しに来たのか、それとも。こんな時でも期待してしまう自分の欲深さが可笑しくなるが、表情筋を動かせるほどの血圧は残っていなかった。ぶちゅり、ぐちゅ、づぷ、と黒い爪で内臓を切り分けられる。弱り切った意識を手放す寸前、寺坂は彼女の言葉を耳にした。

 ああ、清々する。



 日が暮れ、夜気が忍び寄ってきた。

 明日になったら、全て元通りになるのだろうか。否。つばめは虚ろな自問自答を繰り返しながら、膝を抱えて体を縮めていた。どこに行くこともなく、ドライブインの木造平屋建ての裏口に隠れていた。どこへ行こうと、つばめを迎え入れてくれるわけがないのだ。手持ちの現金も少なすぎて、リニア新幹線の代金には程遠い。それが足りていたとしても、どこに向かえばいいのだろうか。備前家の両親も、きっとつばめを蔑むだろう。経緯はどうあれ、美野里が蛮行に走る原因となったのだから、備前家の両親がつばめを喜んで出迎えるはずがない。

 タイヤが砂利を踏む音と共にヘッドライトが差し込み、駐車場に車が入ってきた。山道に入り込んだドライバーが休憩しに来たのだろうか、それとも政府の人間が戻ってきたのだろうか、或いは吉岡グループの差し金がつばめを捉えにやってきたのだろうか。だが、もうどうでもいい。誰に何をされようが、辛いとすら思わない。

 車から降りた足音は、真っ直ぐに裏口へ向かってきた。あら、との声で目を上げると、ジーンズとスニーカーを履いた足が目の端に入った。つばめが恐る恐る見上げてみると、それはドライブインの店主である中年女性だった。彼女はつばめの傍に屈むと、少し戸惑いがちではあったが労ってきた。

「どうしたの、こんなところで。あらまあ、ひどい顔」

「あの、えっと」

 気まずくなってつばめが目を伏せると、彼女はつばめの腕を取って立たせようとした。

「こんな薄着でこんな場所にいちゃ、風邪引いちゃうわ。ほら、私の車に乗って。自分の家に帰りづらい事情があるんだったら、今夜はうちに来ればいいわ。どうせ独り暮らしだもの」

「でも」

 きっと、この人にも危害が及んでしまう。つばめは彼女の手を振り払おうとするが、乾いた泥が貼り付いている袖から染み込んでくる人間の体温と手の感触に、強張らせていた気持ちが緩みかけた。尽きたと思っていた涙が少し蘇ってきて、嗚咽が漏れた。彼女はつばめを宥めながら、ヘッドライトが点灯したままの軽自動車に乗るように促してきた。その好意の暖かさにはどうしても逆らえず、つばめは助手席に収まった。

 それから十数分のドライブの後、彼女の住まいに到着した。集落から外れた山奥に佇む、こぢんまりとした一軒家だった。言われるがままに風呂に入り、泥だらけの体を洗って涙の筋が付いた顔も洗い流してから風呂から上がると、温かな食事が用意されていた。白い御飯に豆腐の味噌汁に大根と鮭の煮物だった。

 つばめは気後れしながらも箸を取り、口にしてみると、優しい味わいの料理だった。御飯は炊き立てで柔らかく、味噌汁は少し煮詰まっていたが疲れ切っていた体には丁度良い塩気で、大根は箸を入れただけで崩れるほどよく煮込まれていて、鮭には味がしっかりと染み込んでいた。自分以外の手料理を食べるのは、久し振りだ。船島集落に引っ越してきてからは、つばめが料理するしかなかったからだ。

「おいしかった?」

 女性に明るく尋ねられ、食事を綺麗に平らげたつばめは素直に頷いた。

「色々とありがとうございます。お風呂も、御飯も、着替えも」

「いいのよ、気にしないで。一度、あなたとちゃんとお話がしてみたかったのよ、つばめちゃん」

 女性は微笑みを保ちながら、髪を下ろしたつばめを眺めた。その眼差しに、つばめは少し照れ臭くなった。

「こうしてみると、やっぱり似ているわね」

「小母さんは、私のお母さんを知っているんですか? それとも、お父さんのことですか?」

「いいえ、私の娘よ」

 そう言ってから、女性は腰を上げた。狭い居間から台所に戻ってきた彼女が携えていたのは、写真立てだった。つばめの前に差し出された写真立ての中には、今よりもいくらか若い彼女と、彼女に寄り添う制服姿の少女が写る写真が収まっていた。その洒落た制服にも、少女にも見覚えがある。吉岡りんねだ。ということは。

「私の名前は、吉岡文香」

 つばめに写真立てを手渡してから、彼女はつばめを見下ろしてきた。

「つばめちゃんのお父さんの弟の妻、つまり、あなたの叔母さんに当たるわ」

「じゃあ……」

 つばめが言葉を失うと、文香は向かい側の席に座り直した。

「明日の朝には、ここを発って吉岡グループの本社に向かうわ。長旅になるから、充分休んでおいてね」

 つばめは写真立てを見つめながら、頷くしかなかった。逆らえるわけがない。文香はつばめに危害を加えてくる様子はなかったが、油断させるための作戦かもしれない。だが、抗う余力が一欠片もないつばめは、文香に言われるがままに促されて和間に敷かれていた布団に潜った。今のつばめに、コジロウや皆を助ける手立てはない。だが、だからといって、こうも呆気なく吉岡グループの手中に落ちていいものか。疲れ切った頭では対抗策を考えることも出来ず、つばめは次第に暖まってきた布団の中で丸まり、瞼を閉じた。

 自分の不甲斐なさに、また少し泣いた。

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