急がばマイウェイ
今朝のちくわは、グラタンの中から現れた。
それも、一本丸々。形は似ているが断じてマカロニではない。焦げ目の付いたチーズとホワイトソースをたっぷりと纏ったちくわを頬張って、事も無げに食べ終えたのは、メイドの設楽道子だった。テーブルを囲んでいる皆は彼女を一瞥してから、それぞれで朝食に挑んだ。今日もまた洋食で、朝に食べるものにしてはヘビーだった。
生クリームがふんだんに使われた濃厚なグラタン、バターの香りが豊かなクロワッサン、歯応えも食べ応えもあること間違いなしの太いソーセージ、白身魚のムニエル、と、フルコースのようだった。脂っ気が少ないのは、水菜やレタスの入った野菜サラダぐらいなもので、デザートもまた生クリームが零れんばかりに載せられたプリンであった。
そして、どれもこれも味が異常なのだ。盛り付けも彩りも最高なのだが、一口食べると奇妙な味に襲われてしまう。吉岡グループの食品会社が送ってくれた冷凍食品であるクロワッサンやソーセージはそれなりの味がするのだが、道子の手が加えられているものは全て不味い。とにかく不味い。
「あーはぁーんっ」
それらを全て綺麗に食べ終えた道子は、口元を拭ってから両手を組んだ。
「それではではぁーんっ、今日は私が出撃してもいいってことですねぇーん?」
「そういうことです、道子さん」
妙に甘ったるいグラタンを黙々と消化しながら、吉岡りんねは眉一つ動かさずに述べた。
「ではではぁーん、支度をしてきますぅーん」
道子は食器を重ねてダイニングに運び、食器洗浄機に入れてから、二階へ駆け上がっていった。メイド服の裾が見えなくなると、武蔵野は安堵した。これで道子が外出してくれるのであれば、昼食ぐらいはまともなものを食べられる。レトルトでもインスタントでもなんでもいい、普通の味をしてさえいれば充分だ。
「御嬢様ぁーんっ、ご確認して頂きたいことがあるんですけどぉーん」
すぐさま二階から駆け戻ってきた道子は、りんねの背後に近付いてきた。
「はい、なんでしょうか」
胃薬の味がするムニエルを食べる手を止め、りんねが振り返ると、道子は体をくねらせる。
「私達が襲撃するのってぇーん、佐々木つばめちゃんだけに限定されてはいないんですよねぇーん?」
「そうですね……」
りんねは少し考え込んでから、右手を差し出した。すると、すかさず道子がその手に携帯電話を載せた。
「はぁーいどうぞーん、御嬢様ぁーん」
「ありがとうございます、道子さん」
りんねは銀色の金属板のような最新型携帯電話を作動させて、本体のボタンを操作してホログラフィーモニターを浮かび上がらせた。言うまでもなく、吉岡グループの系列会社の最新機種である。厚さ五ミリもない金属板の内部には膨大な情報処理を行える電子回路と接触型ホログラフィー投影装置が内蔵され、最早、携帯電話の域を遙かに超えているのだが、端末の大きさと基本的な用途の都合で携帯電話会社から売り出しているのである。
長方形のホログラフィーモニターに指を滑らせてラップトップ型に開かせ、透き通ったキーボードとモニターを展開させてから、りんねはメガネの奥の目を素早く動かしながらキーボードを叩いていった。もっとも、物理的な操作ではないのでプラスチックの打撃音はせず、その代わりに電子音がりんねの的確な指の動きに合わせて鳴った。りんねは直接モニターに触れて画面をスクロールさせてから、顎に手を添えて思案した。
「私の会社が定めた共闘規定にも、皆様方の会社が同意して下さった共闘規定にも、襲撃するのは佐々木つばめさんに限定するとは書かれていませんね。佐々木つばめさんの身柄と財産を奪取する権利を平等に得る、というのが共闘規定の主であり、共同戦線を張ることによってお互いの立場を同一化して利害関係の整理を図るのが、もう一つの目的でもあります。規定書にはこう記述されております」
りんねはホログラフィーのラップトップをそのまま回転させ、食卓に向けた。
「共闘規定第一項、この規定書に同意し、署名捺印した者は、佐々木長光の遺産相続権及び佐々木つばめの身柄を奪取するための権利を得る。だが、その場合、同じ規定書に署名捺印した者を処分してはならない。続いて共闘規定第二項、この規定書に同意し、署名捺印した者は、佐々木長光の遺産相続権を奪取する際に障害となる物や人間に危害を加えても構わない。だが、その場合、吉岡グループの補償範囲内とする。第一項と第二項を照会し、見当してみましたが、佐々木つばめさんの身の回りの人間に攻撃してもなんら問題はない、ということです」
「きゃっはぁーん、てぇことはぁーん、私の考えた作戦が実行出来るってわけですねぇーん!」
いやんあっはん、と変なテンションではしゃぐ道子に、武蔵野は忠告した。
「だが、俺らが政府に黙認されているのは、あの娘絡みのことだけじゃないのか? 外堀をどうにかしようったって、下手な手を打てば全員しょっ引かれちまうぞ。どいつもこいつも違法まみれなんだからな」
「それについては問題ありません、巌雄さん」
りんねは携帯電話のボタンを操作し、ホログラフィーのラップトップを消してから、紅茶を口にした。
「この戦いを起こす前に、政府側には私達の情報をリークしてあります。開示出来る範囲内ではありますが」
「おい、クソお嬢! それじゃ政府の連中が俺らを殺しに来るじゃねーか!」
それまで黙っていた藤原伊織が腰を上げ、いきり立った。りんねは悠長に紅茶を傾けてから、言う。
「そうです。ですが、政府側が私達を取り締まる気はないことは昨日も確かめましたし、この別荘が特殊部隊に鎮圧されるという事態も起きてはいません。吉岡グループが摘発されるということもなければ、あなた方の後ろ盾である企業に立ち入り捜査が行われたという報告もありません。そもそも、れっきとした警官ロボットであるコジロウさんが、一市民に過ぎないつばめさんの護衛であることからして異常なのです」
「……ん」
異様に渋いプリンを食べていた高守信和が、小さく頷いた。
「私達の背景も、つばめさんの背景も、異常と違法と違憲の元に成り立っております。政府側としては一個人が保有するべき財産量を凄まじく上回っているつばめさんから財産を奪い去ると同時に、コジロウさんを使って私達を共倒れさせるのが狙いなのでしょう。効率的で合理的ですが、あまり賢い作戦とは言えませんね」
りんねはティーカップを下ろし、艶やかな黒髪を白い指で掻き上げて耳に掛けた。
「はぁーいんっ、あんな警官ロボットにやられる前にぃーん、やっちゃいますぅーんっ」
それじゃ行ってきますぅーん、と道子はウィンクしてから、再度二階に戻っていった。りんねは道子が二階の部屋に入っていったのを見届けてから、朝食を再開した。それから程なくして、吹き抜けから吊り下がっているシャンデリアの明かりが点滅した末に消え失せた。サーバールームを起動させたため、別荘全体の電圧が下がったからだ。
昨日の吹雪が嘘のように晴れ渡っているので、窓から差し込んでくる日差しだけで充分明るい。テレビを付けても面白味のあるニュースも流れていないので、誰も見ようとはしない。
それ以前に、誰も会話らしい会話をしていないので、沈黙が長引こうと関係なかった。沈黙の気まずさが気にならなくなれば、気を回さずに済むのは随分と楽になるからだ。食事というよりも義務に近い朝食を終えると、皆、それぞれで退屈をやり過ごした。
武蔵野は自主訓練と武器の手入れを行い、伊織は焚き付け代わりに倉庫に山積みになっていた数年前の週刊少年漫画雑誌を引っ張り出して読み耽り、高守は飽きもせずに細かな機械をいじくり倒し、りんねは三階の自室で読書か勉強をしているのか静かなものだった。忙しいのは、戦いに赴いた道子だけだった。
日差しで緩んだ雪が屋根から零れ、落ちた。
署名、捺印。署名、捺印。署名、捺印。
その繰り返しで、隣の机には書類の山が出来上がっていた。自分の名前と住所と生年月日を書いて実印で捺印しては、その下にある別の書類に同じ内容を書き、一山終えたと思ったらもう一山押し付けられて、自分の名前を見るのがうんざりするほどだった。つばめは唇をへの字に曲げ、力を込めて実印を書類にねじ込んだ。
教師であり内閣情報調査室の諜報員である一乗寺昇は、つばめの隣の机に山積みになった記入済みの書類を広げ、記入漏れがないかを確かめている。そのうちの何枚かは書き損じていたらしく、弾かれ、新しい用紙がまたも机の一角を占領した。つばめはそれらを書き直してから捺印し、一乗寺に渡した。
「お姉ちゃんに電話して連絡するだけなのに、なんでこんなに許可をもらわなきゃならないんですか」
「なんでってそりゃ、行政だから」
一乗寺は書き直しされた書類に目を通しつつ、教卓に戻っていった。分校に登校してからというもの、ずっとこんな調子だった。昨日は吹雪と襲撃でろくに授業を受けられなかったが、今日は快晴で、コジロウが早朝に除雪してくれたおかげで通学路となる道も歩きやすかったので、五分もせずに到着出来た。だが、教室に入った途端に山盛りの書類を一乗寺から押し付けられ、言われるがままに書いていたというわけである。
「しかもなんですか、この御時世で紙の書類だなんて。電子書類でいいでしょうに」
書き疲れた手を振って嘆くつばめに、一乗寺は書類の束をばさばさと振ってみせた。
「どれだけ時代が進んだって、紙に勝る情報保存ツールはないよん。だから、遺言書も滅多なことがない限りは紙で作るのが普通なのさ。電子書類とかだといくらだって情報が改竄出来るしね」
「で、いつ頃から授業が始まるんですか?」
書類仕事に飽き飽きしたつばめがぼやくと、一乗寺は書類の束を封筒に入れた。
「今日は無理かな。どうしてもやりたきゃ自習ね」
「昨日もそうだったじゃないですか。お姉ちゃんを紹介するって約束したんですから、やる気出して下さい」
「授業計画なんて、立てるの面倒なんだよう」
「じゃ、なんで教師なんて隠れ蓑を選択したんですか」
子供っぽい仕草で拗ねた一乗寺につばめが呆れると、一乗寺は首を捻った。
「んー……それ以外に思い付かなかったんだよなぁ。田舎イコール分校、とくれば教師でしょ?」
「うわぁいい加減。で、先生には教師の能力はあるんですか」
「さあ? 学生時代に家庭教師のバイトなんてしたことないし、小中高と勉強は一人でなんとか出来たし、教えるのも教えてもらうのも大して興味なかったし、教師に理想もなければ憧れもないし」
「じゃ、別の先生を回して下さいよ。せめてまともな人を」
「それは無理無理、また別の手間が掛かるもん」
へらへらと笑う一乗寺に、つばめは嘆息した。
「ああもう……」
何を言っても、一乗寺に手応えはない。軽い態度を取って受け流すことで、つばめが政府側の事情に深入りするのを妨げているのかもしれないが、もう少し真面目に取り組んでほしいものだ。
つばめの人生が掛かっているのだから、とまでは言わないが、せめて大人としての立場を弁えてほしい。何もかも嫌になったつばめは、書類の束が雪崩れ落ちるのも構わずに机に突っ伏した。すると、教室の隅で待機しているコジロウが目に入ってきた。
「あ、そうだ」
戦闘中のコジロウとのやり取りを思い出したつばめは、上体を起こして挙手した。
「先生、質問」
「あーはいはい」
心底鬱陶しげに振り返った一乗寺に、つばめは姿勢良く立っているコジロウを指し示した。
「コジロウが全武装を解除しているのって、どうしてなんですか? 武器いらずのパワーがあるから、ですか?」
「それもそうなんだけど、武装しちゃうと兵器って括りに入っちゃうんだな、これが」
一乗寺は教卓に寄り掛かると、コジロウを見やった。
「世間一般に普及しているロボットは大きく分けて三種類、民間用、工業用、行政用ってことは小学校の授業で習うから知っているよね。で、コジロウは見た通りの行政用の警官ロボットなんだけど、諸外国で軍事用に括られているロボットとスペックだけなら同列なんだな、これが。んでも、日本は諸々の事情で自衛目的ではない兵器を保有するわけにはいかないから、行政用の括りを思い切り引き延ばして軍事用との境目を曖昧にしている。対人殺傷能力の有無でしか区切れないぐらいにね。その結果、警官ロボットは火器は持っちゃダメって法律が出来た」
「でも、普通の警官ロボットは腰に拳銃を提げていますよ?」
「あれ、中身はゴム弾なのよ。そりゃ、至近距離で撃たれりゃヤバいけど、警官ロボットは致命傷を与えない距離を取ってからじゃないと発砲出来ないように設定されているからOKなのさ。機動隊とかSITとかSATとかが使っているロボットの役割は人間の隊員の盾になることだから、あいつらも武装しないようにしてあるのさ。せいぜいスタンガンが限界だな、それでもかなーり電圧を落としたやつじゃないと許可が下りないけど」
「それは道理かもしれませんけど、そんなんじゃいざって時に困るんじゃないですか? 昨日の時みたいに」
「あのね、つばめちゃん。武器なんてものは人間には過ぎた道具だから、ロボットにはもっと過ぎた道具なんだ」
一乗寺は教卓にもたれかかり、頬杖を付く。
「特にヤバいのがお金。あれも道具なんだよ、なのにそれに振り回されて人生を棒に振る人間が多いこと多いこと。だから、つばめちゃんも気を付けておきなよ。道具は知性と理性で使ってこそ生きるものであって、その道具に知性も理性も喰い尽くされるのは以ての外なんだからね」
そう言った一乗寺は、ほんの少しだけ真面目な面差しになっていた。が、それはすぐに崩れてしまった。
「はい説明終わり、解ったらさっさと書き上げてね! 残業なんてごめんだし! 残業代なんて出ないしさぁー!」
「先生をちょっとでも見直しかけた私が馬鹿でした」
真顔で言い返してから、つばめは未記入の書類を手元に引き寄せてボールペンを走らせた。おう頑張ってくれい、と一乗寺の他人事のような声援を無視しつつ、書きすぎたせいでゲシュタルト崩壊を起こしかけてきた自分の名前を書いていると、教室の内線電話が鳴った。黒板の脇にある壁掛け電話を取り、一乗寺は受け答える。
「はーいはい、え、あ、どうもー」
一乗寺は二三答えてから、左手で受話器を塞ぎ、肩を竦めた。「つばめちゃんが電話をする前に、お姉ちゃんの方から掛けてきちゃった。考えてみたら、お姉ちゃんは船島集落に来たこともあるし、長光さんとも懇意にしていたから、分校の電話番号を知っていてもおかしくないよな」
「それじゃ、私が書きに書いた書類は全部無駄ってことですか?」
「そうでもないない、六割は使えるから」
全部ではないのか。つばめはこれまで書き上げた書類の枚数をざっと数えてみたが、五〇枚近くあったような気がする。それなのに四割が無駄になってしまうとは、実に不毛だ。机を蹴り飛ばして文句をぶちまけたい衝動に駆られたが、コジロウと電話口の向こうの美野里の手前、ぐっと我慢した。
一乗寺は明るい調子で美野里と通話していたが、え、と声を潰してやや身を引いた。何か都合の悪いことを言われたのだろうか。
「いいじゃないのさ、こっちに来たらすぐ返せるんだしー。帰りの足なんていくらでもあるじゃーん、ねえ?」
一乗寺は一昔前のドラマのように受話器と本体を繋ぐコードを指に絡める。
「えー、でも、それってあれじゃん、元はと言えば檀家なのに出てこなかったよっちゃんが一番悪いんじゃーん。え、何、怒ってんの。よっちゃんが怒る筋合いなんてどこにもないない、むしろこっちが怒るべき立場であってさぁ」が、話が拗れたらしく、一乗寺は拗ね気味に眉を曲げた。そして電話を切り、つばめに向いた。
「あの車を返せってさ。いいじゃんかよ、どうせよっちゃんが帰ってきたら返すんだからさぁ」
「ああ、あのごっつい……」
つばめは記憶を掘り起こした。〈あの車〉とは、船島集落に来るために乗ってきた黒いピックアップトラックだと察した。思い出してみれば、美野里はあの車を知り合いから借りてきたと言っていた。そして、ドライブインでの戦闘のどさくさに紛れて一乗寺が借りて船島集落までの足に使ったのだ。
その持ち主が誰かは考えたこともなかったが、又貸しになってしまっているのであれば、早々に元の持ち主に返すべきだ。一乗寺の口振りからして、そのよっちゃんなる人物は、船島集落近辺の住人なのだろう。美野里との関係も知りたいので、つばめは挙手した。
「先生、せっかくなんで連れて行って下さい。ちゃんとお姉ちゃんを紹介したいし」
「やだよ、面倒臭い」
「途中でなんか奢りますから」
「じゃ、行こうか!」
途端に快諾した一乗寺は、書類の束を入れた封筒を脇に抱えると足早に教室を出ていった。即物的かつ現金な男だが、回りくどくないのはいいことかもしれない。ああやれやれ、これで書類仕事からは解放される、とつばめは伸びをしてから机から離れた。出かけるための支度をしていると、コジロウと目が合った。
「あ」
「どうした、つばめ」
コジロウに問い返され、つばめは気まずさを覚えた。軍隊アリ怪人との戦闘で、黒いピックアップトラックは盛大に傷付いていて、凹みもあれば塗装剥げもあった。本を正せば吉岡りんねとその一味のせいであって、ボンネットの歪みは伊織という名の怪人が飛び降りたのが原因なのだが、まさか吉岡りんねとその一味を見つけ出して弁償しろとは言えまい。
ピックアップトラックの正確な値段は知らないが、あれほどの大きさと馬力のある輸入車となると、それ相応の値が張るのは確かだ。となると、持ち主は値段の分だけショックを受けるだろうし、責められるだろう。
祖父の名義からつばめの名義になった預金口座の中身だけで、修理費とその他諸々を弁償出来るだろうか。足元を見られて吹っ掛けられるかもしれないが、悪いのはこちらなのだ。だが、あまり過剰な額の金額を出せば損になるどころか、食い下がられて強請られる可能性も無きにしも有らずだ。
「ま、いいか。なんとかなるでしょ」
そんな時こそ、弁護士である美野里の出番だ。正当な代金を支払って依頼すれば、美野里が間に入って意見を摺り合わせてくれるだろう。身支度を終えたつばめがコジロウを伴って教室から出ると、ジャージから私服に着替えた一乗寺が待っていた。
そして二人と一体は、船島集落から出発した。
同時刻。美野里は通話を切り、苦笑した。
都心のオフィス街にあるカフェのテラス席で、美野里はピックアップトラックを貸してくれた男と向かい合っていた。通りに面した席なので、通行人が振り返っては視線を残したまま通り過ぎていく。中には通り過ぎた後に携帯電話のカメラを向けてくる者も何人かいたが、男が睨みを利かせるとすぐに逃げていった。通行人が興味を惹かれるのも無理もない。
何せ、彼は法衣姿なのだ。剃り跡さえない綺麗なスキンヘッドに、未来的なデザインの鋭角なサングラスを掛けていることと上背の高さも相まって、やたらに目立ってしまう。鼻が高く頬骨と顎が尖り気味で、サングラスの奥の目元も吊り上がっているので、僧侶らしさはどこにもない。そのため、僧侶の格好をした不審者として通り掛かった警官に呼び止められた回数も少なくない。そんな彼の名は、寺坂善太郎という。
「あの野郎、バックレるつもりだったな?」
寺坂は包帯を巻いた右腕でテーブルを叩き、八重歯を剥いた。
「一乗寺さんはあの車を返してくれるって言ったんだから、もうそんなに怒らないで下さいな」
美野里は寺坂を宥めるべく、自分が頼んだレモンケーキを半分切り分け、寺坂の空になった皿に移してやった。途端に寺坂はそのケーキをフォークで突き刺し、二口で食べ終えた。
「で、なんでこんなつまんねーところで話さなきゃならないんだよ? 酒の一滴もねぇじゃねぇか」
「そりゃ、昼間っからお酒を飲まれたら困るからです。だって、あの車が戻ってきたら乗って帰るんでしょ?」
「当ったり前だ、俺のなんだから」
寺坂は不満が溜まっているのか、口角を曲げながらアイスカフェラテを啜った。
「で、なんで寺坂さんは長光さんの葬儀にいらっしゃらなかったんですか?」
美野里は、不安げにこちらを窺っていた店員を呼んで二つめのケーキを頼んだ。
「そりゃさっきも言っただろ、二日酔いだったって」
寺坂は早々に飲み終えたアイスカフェラテをストローで掻き回し、氷をやかましく鳴らした。
「ですが、その原因を聞いていませんよ?」
「だぁーから、何度も同じことを言わせんじゃねぇ」顔を背けた寺坂は懐からタバコとライターを取り出すと、無造作に銜えて火を灯した。
「原因なんて解り切っちゃいますけどね!」
美野里は寺坂の手からライターを引ったくると、寺坂は慌てた。
「おい、返せよ!」
「歌舞伎町ですか。お好きですねぇー。でも、本を正せば誰の金だと思っているんですか」
半透明のライターに赤い文字でプリントされているのは、いかにも安っぽいキャバクラの店名と電話番号だった。美野里が心底軽蔑した目を向けると、寺坂は紫煙と共に文句を吐き出した。
「御布施をどう使おうが俺の勝手だろうが、あーうるせぇ」
寺坂善太郎の本職は住職で、佐々木家が長年檀家となっている寺の跡継ぎでもある。だが、僧侶らしさが一欠片もなく、俗っぽさと欲望の固まりだ。酒とタバコと女に浸り切っていて、近年では車とバイクを買い集め始めている。それも高級車ばかりで、山奥の田舎と年季の入った寺院にはまるで似合わない派手なスポーツカーがガレージに並んでいる。
美野里が借りたのはその内の一台であり、佐々木長光の葬儀に合わせて都心に出てきていた寺坂が乗ってきた車だったのだが、諸々の事情で一乗寺昇に又貸しする羽目になった。美野里としてはそのつもりは毛頭なかったのだが、あれよあれよという間に政府のヘリコプターに押し込められて都心に移送され、一乗寺に車を返してくれという暇すらなかった。おまけに車の持ち主である寺坂は肝心要の佐々木長光の葬儀には現れず、連絡すらなかった。
これでは葬儀が成り立たないと慌てた美野里は、斎場のスタッフにも手伝ってもらい、手の空いている僧侶を招いて葬儀を執り行った。そのこともあり、美野里は寺坂に苛立ちを募らせていた。
だから、車を返してほしければ船島集落に帰って佐々木長光の遺骨に経を上げてくれ、と脅すつもりで呼び出したのだが、分校に電話を掛けて一乗寺と連絡を取ると寺坂が無理矢理携帯電話を奪い取って、一乗寺と話を付けてしまった。おかげで予定が狂ってしまったが、これで船島集落に向かう理由が十二分に出来た。それについては、この欲望まみれの生臭坊主に感謝すべきかもしれない。
「帰りたくねぇんだけどなー、あんなしみったれた場所に」
椅子を倒しかねないほど上体を反らした寺坂は、無駄に長い足を組み、雪駄を履いたつま先を揺する。
「あっちのキャバクラにはろくな女がいねぇし、化粧も服も超芋臭ぇし、どこの飲み屋に行っても顔見知りだらけだしよー。その点都会はどうだ、人間の絶対数が多いから顔も体も平均値が上だし、フェラーリのキーを見せればすぐにきゃあきゃあ行って擦り寄ってくるし、札びらバラまきゃどうとでもなる。これがどれだけ楽しいか解るか!?」
急に上体を起こした寺坂は美野里に迫ってきたが、美野里は顔を背けた。
「いえ全く。ていうか、私はそういうのは嫌いですから。夜の世界を否定するわけじゃないですし、ああいう接客業は特殊技能の元に成り立っているのである意味では立派だなぁと思いますけど、生理的に無理なんです」
「ホスト遊びでもすりゃいいのに、みのりんも」
「誰がしますか、あんなこと。それとなんですか、その変な呼び方は。馴れ馴れしすぎて気色悪いです」
「そんなんじゃモテねぇぞ。つか、俺が知り合ってからも男がいた気配は皆無だったな、そういえば」
なるほど処女か、と寺坂が勝手に納得したので、美野里は氷の残る水のグラスを揺らした。「その空っぽの頭にぶっかけてやりましょうか、ちゃちな痴話ゲンカみたいに」
「あーそりゃいいねぇ、エキサイティングだ」
臆するどころか楽しげな寺坂に、美野里はなんだか馬鹿馬鹿しくなって水を呷った。が、冷えすぎていたので奥歯に染みて呻き声を漏らした。寺坂はアイスカフェラテのグラスを呷り、氷を噛み砕く。
「で?」
「で、ってなんですか」
痛みが引いてから美野里が問い返すと、寺坂はカフェの店内を見渡した。
「いつのまに、俺達がこの店を貸し切ったんだ?」
そういえば、二つ目のケーキを注文してから十数分経つのだが、店員が近付いてくる気配はない。それどころか、店内のざわめきも聞こえなくなっていた。
テラス席にいた数名の客の姿もないが、テーブルには注文して間もないであろう湯気の昇るコーヒーと食べかけのリブサンドが残されている。道路を行き交っていた車もなく、歩道を歩いていたサラリーマンやOLも同様で、カフェの周囲一帯だけが時間の流れから切り離されたかのようだった。
寺坂は腰を浮かせると、法衣の襟を正してから右手の包帯に手を掛けた。美野里は不安感に襲われ、他に誰かいないのかとテラス席から身を乗り出すが、やはり見当たらなかった。ビルとビルの先にある交差点から赤い光が滑り込んできたので目を凝らすと、無数のパトカーが道を塞いで車と人間の通行を阻んでいた。カフェを囲んでいるビルを仰ぎ見ると、窓越しに会社員達が鈴生りになってこちらを見下ろしている。
「何が起きたのよ?」
とりあえず状況を把握しようと美野里は携帯電話を開き、インターネットに繋いでニュースサイトを開き、絶句した。美野里と寺坂のいるカフェで爆発物が発見された、とのニュースがトップにでかでかと書かれていた。だが、そんな気配は全くなかった。店内を見渡してみても、それらしい不審物は見受けられなかった。
もしも爆発物があるのだとしたら、他の客達と共に美野里と寺坂も退去を促されるはずだ。けれど、店員も他の客も何も言わずに、会計すらも終えずに出ていった。そして気付いた頃には、警察車両によって道路が封鎖されて包囲されていた。
「そういえばみのりん、なんかヤベェのを敵に回したって言っていたよな」
寺坂は二人が座っていたテーブルに手を伸ばし、伝票を取った。
「もしかして、この店の親会社がそれなのか? ん?」
「あぁっ!?」
伝票の下部に印刷された店名と企業名を見、美野里は仰け反った。グッドヒルズ。
それはあの吉岡グループの飲食系産業を総合して経営する会社名であり、当然ながらこのカフェも吉岡グループの系列店だった。ということはつまり、この爆弾騒ぎは吉岡りんねの差し金ということか。だが、彼女達が付け狙っているのは、つばめだけではなかったのか。美野里は血の気が引き、よろめく。
「それじゃこれって、吉岡りんねって子の一存で起きている出来事なの? 有り得ない……」
「考えてみりゃ吉岡グループはマスコミにも手ぇ出しているし、インフラも警備システムも売り捌いている。警察官僚があの大企業の幹部連中と連んでいるらしいから、たぶん、まあ、そういうことなんだろうなぁ」
うげぇ面倒臭ぇ、と寺坂が声を潰すと、美野里は青ざめながらへたり込んだ。
「も……もしかして、私が狙いだったり、しちゃうの?」
「はぁーいんっ、御名答でぇーすぅんっ」
不意に、明るく甲高い女性の声が響き渡った。今にも泣き出しそうな美野里が顔を上げると、カフェのバックヤードからウェイトレスの制服に身を包んだ若い女性が歩いてきた。寺坂は腰が抜けてしまった美野里の前に進み出ると、ウェイトレスの髪の人工的な光沢とかすかに聞こえるモーターの駆動音に気付いて身構えた。
「てめぇ、サイボーグか?」
「あなたはどこの誰なんですか! 私、あなたのことなんて知りませんよ!」
寺坂の背中越しにウェイトレスを見た美野里は戸惑うが、女性ウェイトレスはにっこりする。
「そりゃそうですぅーん。だってぇーん、この体は私の本体じゃないんですからぁーん。私は吉岡りんね御嬢様の専属メイドにしてぇ、佐々木つばめちゃんの遺産を掻っ払う一味の一員なんですぅーん。それでぇ、備前さんを襲うためにこのお店で働いていた女の子の体をちょいちょいっと乗っ取らせてもらってぇ、使わせて頂いているんですぅーん」
「なんだぁ、あの喋り方。すっげぇ苛つく」
寺坂が眉のない眉間を顰めると、美野里は寺坂の法衣を握る。
「サイボーグ同士のハッキング……? でも、そんなことは不可能のはずよ。第一、サイボーグボディの認証コードは本人の脳波をパスワード代わりに使っているし、生体情報が一致しなければ補助AIだって作動しないわ」
「あーはぁーん?」
女性ウェイトレスは首を傾げると、目を据わらせた。
「そんなものはぁーん、ただの見せかけですぅーん。ていうかぁーん、サイボーグボディを総合的に管理している大元のコンピューターからアップデートプログラムと一緒に侵入すればぁーん、セキュリティなんて無意味ですぅーん」
「なあみのりん、サイボーグの販売会社ってどこだっけか?」
寺坂が美野里を小突くと、美野里は肩を縮めながら答えた。
「業界一位は吉岡グループの系列会社だけど、業界二位はハルノネットだったかしら」
「自己紹介が遅れましたぁーん。私ぃ、設楽道子と申しますぅーん」
ウェイトレスは膝を曲げて一礼してから、笑顔を消し、エプロンのポケットから数本のナイフを取り出した。
「そしてぇ、今し方御紹介に与ったぁーん、サイボーグ業界二位のシェアを誇るハルノネットの社員ですぅーん」
「ああ、そうかい。だからどうした」
寺坂は右腕の袖を捲り上げ、包帯の結び目を解いた。
「相手はサイボーグなんだ、首さえ無事ならそれでいいんだろ?」
緩んだ白く細い帯がウッドデッキで渦を巻き、戒められていた右腕の素肌が露わになる。昼間の明るい日差しが作った彼の影が形を変え、自由を得た右腕が不気味にうねる。禍々しさの権化のような無数の肉の紐が波打って、主の意志のままに翻り、ムチのようにウッドデッキを力強く叩いた。
「ダメですよ、どこから撮られているか解ったものじゃ」
美野里は寺坂を引き留めようとするが、寺坂は赤黒い肉の紐を一本伸ばし、美野里の鼻先を小突いた。
「ケーキ、くれただろ。その分は働いてやらぁ」
そう言うや否や、寺坂は駆け出した。
テーブルと椅子を蹴散らしながら突っ込んでいった僧侶へと、ウェイトレスのサイボーグボディを借りている道子は的確にナイフを放ってきた。ケーキ用のデザートナイフは銀色の弾丸となり、美野里の目前を貫いてウッドデッキの手すりに突き刺さった。続いてフォークが何本も一度に投擲され、テーブルの脚や椅子の背もたれに命中しては抉れる。一般用サイボーグの腕力にはパワーセーブが施されているので、本来であればこんな芸当は不可能だ。モーターが焼き付く前に補助AI側で自動停止を行うからだ。だが、道子は借り物のボディの性能を最大限に引き出しているのか、今度はテーブルを一度に複数担ぎ上げて投げてきた。
「あ、そぉーれぇーんっ!」
バレーボールでトスを上げる時のような気軽な掛け声の直後、三つの円形テーブルがウッドデッキに迫ってきた。そのうちの一つがウッドデッキと店内を隔てるガラスの入ったドアに激突し、双方の破片を撒き散らしながら一度バウンドして道路に落下して粉々に砕け散った。生きた心地のしない美野里は、テーブルの影で身を縮めていた。
美野里の様子を気にしつつ、寺坂は久々に外に出した触手との折り合いを計っていた。ここしばらくはキャバクラやその他諸々の場所で遊び呆けていたため、包帯で縛り付けていた。全部で一二八本に枝分かれする触手の右腕を人間らしい腕の形に保っておくためと、外見を偽装するためには必要なことではあるのだが、いざという時に反応が悪くなるのが難点だ。
肩の骨の根本と繋がっている最も太い触手を長く伸ばして床を殴り付け、バネ代わりにして天井に向かう。狭い店の割に洒落た作りになっているので、天井にある梁に足を掛ける。が、梁に積もっていた埃と雪駄の相性が悪すぎて、寺坂は無様に滑り落ちた。
「うおう!?」
「なぁーにやっているんですかぁーんっ!」
振り返り様に、道子と名乗った女性サイボーグは手近な皿を投げ付けてくる。寺坂は細めの触手を広げて網状に張ると、その皿を一枚残らず受け止めてやり過ごしてから、後退る。
「そう都合良くはいかねぇな」
「そうだと解ったらぁーん、さっさと諦めることですぅーん」
道子はまた笑顔に戻ると、寺坂に詰め寄っていった。程なくして寺坂は壁に背を当てたが、細めの触手を伸ばしてカウンター席と面した調理場に滑り込ませると、冷水が満ちたピッチャーを持ち上げて道子の背中に投げ付けた。だが、道子は軽くつんのめっただけで、動じもしなかった。
床には氷とレモンの輪切りが浮いた水溜まりが広がり、かすかに爽やかな香りが漂った。濡れた背中を気にも留めず、道子はガムシロップ入りのポーションを数個無造作に鷲掴みにしてから、寺坂ににじり寄ってくる。
「水を掛けたら壊れるロボットもサイボーグもぉーん、この御時世にいるわけないじゃないですかぁーん」
「で、あんたはそれをどうする気だ?」
寺坂が訝ると、道子はぐじゅるっと一息に握り潰した。手の甲から肘まで、粘つく甘い液体が絡む。
「こうするまでですぅーんっ!」
ガムシロップの空ポーションを投げ捨てると、道子は滑り気を帯びた右手で、寺坂の触手を掴んだ。その握力に寺坂は呻き、道子の手中から引き抜こうとするが、道子は左手で触手の尖端を握って力一杯引っ張った。すると、ガムシロップの滑り気で一息に道子の懐に引き摺り込まれ、触手と肉体の繋ぎ目に五指が突き立てられた。
「うおヤベェッ!」
その指で触手を引っこ抜かれてはたまらないと、寺坂は道子を蹴り付けて脱し、触手を使って跳ねてカウンターに飛び乗った。道子は不満げに唇を曲げながら、寺坂に向き直る。
「あぁー惜しかったですぅーん。面白そうだからぁーん、一本抜いて持って帰ろうと思ったのにぃーん」
「冗談じゃねぇ! 死ぬほど痛ぇんだぞ!」
寺坂は指を突き立てられた痛みを誤魔化すため、右腕の根本を押さえながら喚いた。
「でもぉ、それが無理なら別にいいんですぅーん。だってぇーん、私の目的はぁーん」
道子は寺坂に背を向けると、テーブルの陰に隠れている美野里を捉えた。美野里はひっと息を飲む。
「御相談なんですけどぉーん、備前さぁーん?」
手近なテーブルにあった厚手のコーヒーカップを握り締めて割った道子は、大振りな破片を一つ取る。
「今後一切、佐々木つばめちゃんに関わらないでいてくれるっていうのならぁーん、これであなたをスパッとやらずに済みますぅーん。私としても荒事は避けたいですしぃーん。でもぉー、どぉーしても嫌だぁーって言うのならぁーん」
美野里の隠れていたテーブルを片手で持ち上げて道路に捨て、道子は美野里の襟首を掴む。
「はいって仰るまでぇーん、とぉーっても痛いことをするかもしれませんよぉーん?」
そのまま、道子は美野里を右手で吊り上げた。左手には先程割ったコーヒーカップの破片が握られていて、黒い液体が返り血のように道子の左手を汚していた。息苦しさと恐怖を堪えながら、美野里は意地で言い返す。
「あの子のもらった遺産がそこまでして欲しいの? 欲しいのなら買えばいいじゃない!」
「買えるものならぁーん、とっくの昔に買っていますぅーん」
さあお返事を、と道子はコーヒーカップの破片を美野里の汗ばんだ首筋に添えてくる。破片自体はそれほど鋭利なものではないが、サイボーグのフルパワーの腕力で斬り付けられれば致命傷を負うだろう。それどころか、頸椎や神経にまでも傷が及ぶかもしれない。まさか本気じゃないよね、と目を動かして道子を見下ろすが、道子の笑みは形が整いすぎていて他の感情が一切窺えなかった。
「さあ、どうしますぅーん?」
道子はテーブルを足掛かりにしてウッドデッキの柵の手すりに乗ると、美野里を空中に突き出した。地面との距離は二メートルもないが、不自然な姿勢で落ちたら足首ぐらいは傷めるかもしれない。ブラウスの襟元を握り締める指の力は増していて、カーラーが歪んで生地が伸び切り、ボタンが弾けてしまいそうだった。
道子の要求には、答えられるわけがない。つばめから離れるなんて考えたくもない。十四歳なのだから、まだまだ手の掛かる妹であり、大人の助力が不可欠だ。
だから、再びつばめと接点を持とうと躍起になり、飲んだくれていた寺坂を呼び出した上で船島集落に連絡を取ったのだ。吉岡りんねとその部下が恐ろしいということはドライブインでの一件で知り得ていたし、今正に身を持って味わっている。
どれだけ金を積まれても、どれほど脅されたとしても、美野里の心情は揺らがない。アスファルトに放り投げられるのを覚悟して、美野里が否定の言葉を吐き付けようと唇を開きかけた時、道子の背後に一本脚スツールに触手に絡み付けた寺坂が立った。
「仏罰下すぞゴルァアアアアアアッ!」
罵声を放ちながら触手をしならせた寺坂は、一本脚スツールの金属製の脚を道子の腹部に叩き込んだ。遠心力と触手自身が持つ強靱な筋力がウェイトレスの制服と人工外皮を破り、脊椎に似た形状のシャフトを破損させる。横一線に幅の太い傷口が生じ、一本脚スツールが道子の胴体に挟まってからからと椅子の部分が回転した。人工臓器の大半が損傷したため、内用液を漏らしながら、道子はぎこちなく振り返る。
「汎用型の耐久性能の低さを忘れていましたぁーん。えへっ」
「ヤベェ俺マジかっけー!」
寺坂は触手を用いて高く跳ねると、道子の壊れた上半身ごと美野里を抱えて道路側に飛び降りた。すると、脊椎とケーブルと人工臓器が露わになった下半身は崩れ落ち、タイトスカートをだらしなく広げながら座り込んだ。美野里はばくばくと高鳴る心臓を落ち着かせるために一息吐き、無駄に格好付けている寺坂を押し退けた。
「いい加減に離して下さい、暑苦しい」
「な、な、な、俺って格好良いだろ? 惚れ直すだろ? なーみのりん!」
道子の上半身を歩道に横たえてから、寺坂が嬉々として詰め寄ってきたので、美野里は辟易した。
「助けてくれたことには大いに感謝しますけど、惚れてもいないので直すものがありません」
「もっとこう、あるだろ。乙女チックなリアクションがさぁ」
寺坂は残念がりながら懐から予備の包帯を出し、いい加減にまとめた触手に巻き付け始めた。
「あなたと知り合ってもう十年ですよ、今更感激することなんてありません。その腕にだって慣れていますし」
美野里はそう言いつつも、態度の変わらない寺坂のおかげで多少は落ち着きを取り戻していた。道子が大人しくなったので見やると、瞼を見開いたまま硬直していた。遠隔操作を切断したのだろうが、不正アクセスの影響で元のボディの持ち主の意識も戻っていないようだった。そうなると、残す問題はただ一つ。
どうやってこの場を脱するか、だ。美野里は一度ウッドデッキに戻り、荷物の詰まったバッグを抱えて戻ってくると、それまで道路を塞いでいたパトカーが一斉に発進した。あれよあれよという間にカフェが取り囲まれて、パトライトが視界を真っ赤に染めた。寺坂は触手の右腕を包帯で隠し終えてから、肩を竦めた。美野里は書類がはち切れんばかりに入っている重たいバッグを縋るように抱え、絶望した。
これで、美野里の短い弁護士人生は終わった。
警察署のロビーで、つばめは呆けていた。
船島集落から都心までは車で四時間程度掛かってしまうので、またもや車酔いの憂き目に遭ったのも原因だが、カーラジオからひっきりなしに流れていたニュースのせいで心底疲れ果ててしまった。警察署にこの上なく馴染むコジロウはつばめの斜め後ろに控えていて、直立不動の姿勢を保っていた。両手で缶を握り締めていたために生温くなったコーラを一口飲み、つばめは体を折り曲げるようにため息を吐いた。そうすれば、少しは疲れが抜けるような気がするからだ。
正面出入り口の左脇に、本日の交通事故件数、負傷者数、死亡者数がホログラフィーで表示されている。小学生が描いた水彩画を使った交通安全標語のポスターが、交通課の受付に張り出されている。運転免許の更新手続きの手順を印した案内板があり、昼間中は大人達が群がっていた記帳台は、今はひっそりとしている。警察署に面した道路を行き交う車の音と時折出入りするパトカーのサイレンで、静寂とは程遠いものの、打ちっ放しのコンクリートの壁と隅々の薄暗さが深夜の病院を思い起こさせた。
「よーっす、つばめちゃん元気ー?」
相変わらずの軽い調子で、一乗寺は二階から降りてきた。
「いいえ全然」
この状況で、元気など出るものか。船島集落を出発して間もなく、ピックアップトラックのカーラジオから流れてきたのは都心のオフィス街のカフェで爆弾騒ぎが起きたというニュースだった。すぐさまワンセグに切り替えて生中継の映像が流れているテレビのチャンネルに合わせてみたところ、事件現場であるカフェのテラス席にいたのは、紛れもなく美野里だった。そして、一緒にいたサングラスの僧侶が、ピックアップトラックの持ち主であるよっちゃんだろうと察した。
それから程なくして美野里とよっちゃんはサイボーグのウェイトレスに襲い掛かられたが、十分もしないうちに中継が途切れてしまった。以後、続報もなく、つばめは不安を持て余していたが、一乗寺がどこかに電話をした後に事件現場の最寄りの警察署に車を止めた。それから、かれこれ二時間は過ぎてしまい、船島集落を出てから七時間弱は過ぎたことになる。一日を棒に振ってしまった。
「まあまあ、そう落ち込みなさんな」
一乗寺は馴れ馴れしくつばめの頭を撫でてから、親指を立てて後ろを指し示した。
「ほれ、お望みのお姉ちゃんだぞ」
階段を下ってきた美野里は、つばめの姿を見つけるや否や駆け出してきた。
「つばめちゃあーんっ!」
一乗寺を押し退けてつばめにしがみついた美野里は、化粧が崩れるのも構わずに頬摺りしてきた。
「良かったぁ、また会えたぁー! お姉ちゃん幸せー!」
「お姉ちゃんも元気そうで良かったよ。逮捕されずに済んだの?」
抱き締められた気恥ずかしさと嬉しさをない交ぜにしながら、つばめが問うと、美野里はしょげた。
「されたのよ、きっちり。でも、一乗寺さんが刑事さん達にないことないこと言って、なかったことにしてくれたのよ」
「頭っから尻尾まで嘘八百の調書を作っちまったんだよ、そこのクソ不良教師がな」
袴を振り回すように大股に階段を下りてきたのはサングラスを掛けた僧侶で、不機嫌極まりない顔をしていた。
「あ、よっちゃん!」
と、つばめが美野里の肩越しにサングラスの僧侶を指すと、僧侶は大人げなく言い返してきた。
「違ぇーよ! 駄菓子みたいな名前で呼ぶんじゃねぇ! てかお前はどこの誰だ!」
「失礼しちゃうわねぇー。こちらは長光さんのお孫さんで、遺産の相続人で、寺坂さんとこのお寺の檀家さんで、私の可愛い可愛い妹のつばめちゃんです。今後は失礼のないようにお願いしますね」
美野里はつばめの肩を押し、僧侶の前に出した。すると、僧侶はにやけた。
「なんだ、だったら早くそう言えよ。みのりんの妹なら、いずれこの俺の義理の」
「ならないならない、ないないなーいっ!」
一乗寺はけたけた笑い、無駄にリズミカルに僧侶の後頭部を引っぱたいた。僧侶はつんのめり、叩き返す。
「やりやがったなこの野郎!」
「身の程知らずの生臭坊主め、悔しかったらやり返してみろー」
一乗寺が子供のように煽ってから逃げ出すと、んだとてめぇっ、と僧侶はすかさず追い掛けていった。どちらもいい大人なのに、やっていることは下校途中の小学生男子と同等なので、馬鹿馬鹿しいったらない。二人を見ていると余計に疲れそうなので、つばめはコジロウを見上げながら僧侶を指した。
「コジロウ、あの人って誰だか知っている? で、よっちゃんってのは渾名?」
「彼の名は寺坂善太郎。外見から解るように僧侶であり、先代マスターを始めとした佐々木家と関わりの深い寺院の住職だ。よっちゃんという名は、一乗寺諜報員が寺坂住職に一方的に付けた愛称だ」
コジロウが淡々と答えてくれたので、つばめは納得した。
「なるほど、ヨシタロウだからよっちゃんか。先生とあのお坊さんって、幼馴染みだったりするの?」
「一乗寺諜報員と寺坂住職が知り合ったのは二年前だ、よって幼馴染みという語彙に値する関係ではない」
「そうは見えないんだけどなぁ」
生まれてこの方腐れ縁、という関係にしか思えないほど、教師と僧侶は乱暴にじゃれ合っている。だが、あの二人に構っていてはいつまでたっても話が前に進まないので、つばめは美野里を促し、くたびれた長椅子に腰掛けた。
「で、お姉ちゃん。何がどうなってこうなっているの?」
「それがねぇ、色々とややこしいことになっているみたいで、一言で言い切れる問題じゃなさそうなのよ」
美野里はストッキングに包まれた両足を投げ出し、パンプスのつま先を上向けた。
「私と寺坂さんを襲ってきたのはサイボーグの女性で、カフェの警報機やら監視カメラの映像に小細工して爆弾騒ぎを仕立て上げた挙げ句、あのウェイトレスさんのサイボーグボディを遠隔操作して襲い掛かってきたのよ。私のことなんてそこまでして襲うべきものでもないような気がするけど、まあ、用意周到なのよ。小細工出来るっていうことは、事前に監視カメラに差し替えるための偽物の合成映像を作っていたってことだし、私達以外のお客さんを店内から立ち去らせるのも打ち合わせをしておかなきゃ、まず無理よ。一乗寺さんがざっと調べてみてくれたんだけど、あの時、店内にいたお客さんは全員吉岡グループの系列会社の社員だったのよね。あの近辺のビルもいくつかは吉岡グループの系列会社が入っているから、当たり前と言えば当たり前なんだけどね。立ち去らせた方法は簡単、爆弾騒ぎを起こす前に関係者全員の携帯電話にメールを送っただけ。といっても、一度に全員が立ち去るとあまりにも不自然だから、数分ごとに区切って送信していたようだけどね」
背を丸めて頬杖を付き、美野里は横目にコジロウを見上げる。
「でもって、そのサイボーグの女性は設楽道子っていう名前なんだけど、吉岡グループの社員じゃなくてハルノネットの社員だって言っていたのよね。つばめちゃんも知っているでしょ、携帯の」
「あー、うん。携帯の他には、通信インフラの整備とか、サイボーグ関連の事業を展開している会社だよね」
「そうなのよ。これって、ちょっと引っ掛からない?」
美野里はトップコートのみのマニキュアが少し剥げた指先で、グロスがほとんど取れた唇を押さえた。
「私はてっきり、吉岡グループの一部門がつばめちゃんと遺産をどうにかしようとしているとばかり思っていたのよ。でも、あの御嬢様の手下が全く別の会社の社員となると、話が変わってくるわ」
「それってつまり、私と遺産を狙っている会社が吉岡グループだけじゃないってこと?」
「そういうことになっちゃうの。それで、一乗寺さんがでっち上げの調書を作っている合間に調べてくれたんだけど、まーどいつもこいつもろくな経歴じゃないのよ。ほら、見てこれ」
美野里はジャケットのの内ポケットから、四つ折りにした一枚のコピー用紙を取り出した。つばめは美野里の体温とほのかな化粧の香りが染み込んでいるコピー用紙を広げ、警察署内のコピー機の類でプリントアウトしたであろう簡潔な書面を読んだが、すぐにはその内容が頭に入ってこなかった。誰も彼も、経歴がぶっ飛んでいたからだ。
粗い粒子の顔写真付きで、吉岡りんねとその部下の名前が箇条書きされていた。一番上は当然ながらリーダーである吉岡りんねの名前と本籍と経歴が書かれていたが、そこからして変だった。書類の上では都内の国立大付属の金持ち御用達の御嬢様学校に通っていることになっていたが、高名な国立大学を飛び級で卒業していた。
「は?」
人間業ではない、それどころか漫画の中の住人だ。つばめは面食らいながら、次の項目を見た。恐らくは履歴書の顔写真であろう極めて目付きの悪い青年は、その顔付きと髪型からして通夜の際にコジロウの棺に横たわっていた青年だろう。彼の名は藤原伊織といい、言わずと知れた大企業であるフジワラ製薬の御曹司だそうだ。だが、昆虫に酷似した形態に変身出来る改造人間、とも書き加えてあった。伊織の顔写真の傍には、あのドライブインでつばめに襲い掛かってきた人型軍隊アリの写真が添えられていた。
続いて三人目は、角張った輪郭と角刈りと顔の傷跡が威圧的な男だった。やはり写真写りは悪かった。彼の名は武蔵野巌雄といい、二十代の頃は自衛隊で自衛官として活躍していたものの海外での活動中に行方不明になり、それから十数年後に発見された時には、中東で軍事会社の社員となり、実質的には傭兵となって戦っていた。一旦帰国させられたが、その後は海外を拠点とする新免工業が身柄を引き受けていた。となると、グレネード弾で雪崩を起こした後につばめを狙って狙撃してきたのは、武蔵野巌雄とみて間違いない。
四人目は、履歴書の写真であることをまるで構わずにポーズを付けているメイドの女性だ。彼女の名は設楽道子といい、今日、美野里と寺坂を襲った張本人だ。電脳工作に特化した性能を持つサイボーグであることと、息をするようにハッキングを行えることが書き記されていたが、過去の経歴は一切書かれていない。藤原伊織と武蔵野巌雄は生年月日と血液型と本籍が記載されていたが、道子は真っ白だった。正体不明ということか。
最後の五人目は、履歴書の写真から見切れかけるほど小柄な中年の男だった。よれよれの作業服姿であるせいで、一層悲壮感を強めている。吉岡グループの子会社の下請けの工場で働いていた男だそうだが、それは表向きの顔であり、実際には弐天逸流という剣術の流派を取り仕切る立場にあるらしい。だが、その弐天逸流もまた偽装した姿であって、正体は過激な思想を持つ新興宗教団体だそうだ。偽装に次ぐ偽装で、こんがらがりそうだ。
「コジロウは、敵がこんなにいるってことを知っていた?」
ちょっと泣きそうになりながら、つばめがコジロウにコピー用紙を向けると、コジロウは書面を一瞥した。
「把握している。だが、彼らは皆、先代マスターが存命していた頃は表立った接触を行ってこなかった。よって、本官が護衛活動を行う機会も皆無だった」
「じゃ、なんで私に代替わりしたら、急に元気になっちゃったわけ?」
「先代マスターは遺産の扱いに非常に長けていた。だが、つばめにはその経験が一切ない。よって、遺産の真価も把握していない。言葉は悪いが、世間知らずの小娘であれば畳み掛けられる、と敵方が判断したと予測している」
「そりゃどうも」
コジロウの的確かつ辛辣な言葉に、つばめはげんなりした。すると、美野里がつばめを抱き寄せた。
「大丈夫よ。これからは私も一緒に住むから、なんとかなるって」
「え? 本当!?」
その言葉でつばめが元気を取り戻すと、寺坂にアームロックを掛けつつ一乗寺が言った。「うん、そうだぞう。ほらほら、授業中につばめちゃんが山ほど書いた書類があるじゃない。あの中にね、みのりんと一緒に住んでもいいよーっていうのがあったの。知らなかった? 途中から読んでなかったでしょ、内容を」
その通りである。つばめは歓声を上げた美野里にのし掛かられ、少し苦しくなったので押し返したが、自然と顔が緩んできてしまった。コジロウと二人だけだと緊張してしまうし、身近な大人が男性だけというのも心許なかったが、美野里なら申し分ない。備前家を出てしまえば、これまで感じていた引け目も感じなくて済むだろう。
「じゃ、帰ろう、お姉ちゃん! コジロウも!」
つばめが美野里の手を取って警察署の玄関に向かうと、コジロウも付いてきた。
「了解した」
「おいこら待てやぁっ! まずは俺の車を返せよ、ついでにみのりんもだ!」
一乗寺を力任せに振り解いた寺坂が駆け出していくと、一乗寺も追い掛けてきた。
「つばめちゃーん! そういえば、まだ何も奢ってもらってないんだけどー?」
駐車場に出たところで男達に追い付かれたので、つばめはピックアップトラックの助手席に乗り込み、シートベルトを締めてから考えた。美野里が運転席に座ると、後部座席に座った寺坂が渋々イグニッションキーを渡してきた。寺坂が隣なのが不満なのか、一乗寺はやや不機嫌そうではあったが後部座席に座った。コジロウが跳躍して荷台に飛び乗ると、彼の重量でサスペンションが上下した。
「じゃ、適当なファミレスで手を打ちましょう。帰り道にあるだろうし」
でなかったらサービスエリア、とつばめが後部座席に収まった男達に振り返ると、一乗寺は承諾した。
「はいはーい」
「教師が生徒にたかるなよ……」
寺坂は極めて真っ当な文句を呟き、一乗寺と目も合わせたくないのか窓の外に向いた。美野里はイグニッションキーを回してエンジンを暖機した後、大きなハンドルを回して一際目立つ車体を幹線道路に滑り込ませた。その後の道中は、一乗寺と寺坂が騒がしすぎたので楽しいとは言い切れなかったが、美野里がいてくれるおかげで少しは懸念が紛れてくれた。
船島集落への帰路の途中で見つけたファミリーレストランに入ると、つばめはオムライスを、美野里はハンバーグセットとケーキセットを、一乗寺はただひたすらサラダバーを貪り、寺坂はタバコを蒸かしながらカレーを二杯平らげ、コジロウは当然ながらピックアップトラックの荷台に待機していた。
その後、美野里から一乗寺に運転を代わり、後部座席で美野里と並んで座ったつばめは車体の揺れを感じていると眠気を覚えた。美野里は昼間の騒動で疲れ果てたのか早々に寝入っていて、つばめに寄り掛かってきたので、つばめも美野里に寄り掛かって目を閉じた。まだ自分には味方がいるのだと思うと、随分と心が安らいだ。
明日からも頑張ろう、と思えた。
サーバールームに籠もった熱が、機体の廃熱を妨げていた。
脳の収まっている本体の機能を回復させていき、全てのシステムに異常がないことを一つ一つ確認してから、瞼を開いた。無数のケーブルが這い回っている薄暗い天井には、ホログラフィーモニターの明かりが届いている。別荘の敷地内に設置してある電波の中継基地局とリンクさせていたネットワークを切断し、四方八方から飛び込んでくる電波を遮断してから、サイボーグボディを起き上がらせる。耳障りな軋みが起きる。いや、最早障る耳すらない。
設楽道子はベッドの端に腰掛けると、廃熱不良を起こさないために脱いでいた服を取った。首の後ろのジャックに差してあったケーブルを一息に抜くと、かすかな頭痛が消え失せてほっとする。手足の関節と外装の隙間を空けて冷却液を巡らせていくと、腫れぼったい過熱が回路や関節から抜けていき、安堵する。人間で言うところの知恵熱が起きていたからだ。脳をフル稼動させてサーバーと同調させ、ハルノネット本社のホストコンピューターを経由して一般女性のサイボーグボディのハッキングを行うと、それ相応の過負荷が掛かった。あの弁護士の女性が言っていたように、本来、サイボーグボディは他人に貸し借り出来ないように作られている。だから、かなり無理をした。
「でも、これで……」
機体性能と己の能力は実証出来た。試験段階ではぎりぎり可能だと言われていたが、実際にサイボーグ同士のハッキングを行うのは御法度だった。同じハルノネットの社員同士と言えども、他人の意識に侵食されたくはないし、下手をすれば機体と電脳の過負荷がフィードバックして脳が損傷を起こすかもしれないのだ。だから、今の今までは実験すら出来ずにいた。だが、これからは違う。思い通りに動き回れるのだ。
「あの子、死んじゃいないよね?」
道子はボディを借りた女性サイボーグの安否が少し気になり、手早くネット上に流れるニュースを見た。情報操作をしたおかげで都心の爆弾騒ぎの扱いは小さくなっていたが、道子が放った情報とは異なる情報も混じっていた。
爆弾自体が狂言だった、という記事の主軸だけは変わらないものの、弁護士の女性と僧侶の男性の扱いが記事によってまちまちだった。二人がカップル扱いされているものもあれば、別のニュースサイトでは見ず知らずの他人になっていて、そうかと思えば別れ話のもつれになり、また別の記事ではウェイトレスの女性も含めた三角関係だった、ともあった。道子とは別ルートで情報を流布した輩が、余程いい加減なことを言ったのだろう。おかげでニュースの扱いが格段に小さくなっているのはありがたいことだが、茶化されているような気がする。肝心の女性サイボーグの生存は確認出来たので、ほっとした。人殺しをする度胸まではないからだ。
「ま、気は抜けないけどさ」
道子は瞬きすると、別荘内にいくつか設置されている監視カメラの映像を得た。サーバールームに入ってからの八時間の間に、皆が何をしていたのかが少し気になったからだ。程なくして再生された映像の中では、別段異変は起きていなかった。
朝食を片付けた後は誰も彼もが暇を持て余して過ごしていたが、昼食の頃合いになると武蔵野が伊織にせっつかれてキッチンに入っていた。武蔵野はぼやきながらも分厚く骨張った手で手際良く調理していき、人数分のうどんを作っていた。りんねの丼には、天ぷらにはしないまでも、フライパンで軽く焼いたちくわが山盛りになっていた。武蔵野に呼び出されて自室から下りてきたりんねは、笑いかけて表情を殺した。だが、嬉しさはどうしても隠し切れないらしく、ちくわを存分に食べながら頬を緩めていた。
武蔵野が作ったうどんは至って簡単なもので、地下階に備え付けられている人間も入れそうな大きさの冷凍庫に保存されていた冷凍うどんを、濃縮タイプのめんつゆを薄めた汁に入れ、湯で戻した乾燥ワカメと火を通したちくわを載せただけのものだ。だが、道子の料理とは食い付きが違っていた。笑いはしないまでも、伊織は明らかに喜んで食べていたし、高守の箸の進みも早く、りんねは食べ終えた後に緑茶を飲みながら弛緩していた。
「へーえ、おいしいんだぁ」
羨ましくなる前に妬ましくなり、道子は己の舌を指先で抓んだ。痛覚センサーがあるので、指がシリコンの固まりを潰した違和感は回路を経由して脳に届くものの、それ以外のものはなかった。肉体がダメになった際に脳も損傷したため、味覚の記憶がほとんど思い出せないことも相まって、道子は鬱屈した思いを抱えていた。
形だけのメイド、形だけの女、形だけの人間。道子を道子たらしめているものは、頭部に詰まっている五キロ弱の蛋白質塊だけだ。それを失ってしまえば、後に残るのは量産されたフェイスパターンとプロポーションのサイボーグボディだけだ。
生前の己の姿は覚えていない。記録すら残っていない。設楽道子という名ではなく、別の人間の名で生きていたことを朧気に記憶しているだけだ。それ以外の記憶はほとんどない。それもこれも、海馬を貫いて大脳に突き立てられている銀色の針のせいだ。 その針がなければ、道子は人間の範疇を超越した電子工作能力は得られず、道子の崩れかけた脳を固めておくことが出来ないのは理解している。だが、これほどまでに疎ましい異物があるものか。
異物に抗うために、道子は戦うのだ。吉岡グループを後ろ盾にハルノネットを滅ぼし、銀色の針の呪縛から逃れ、本当の自分を取り戻し、遺産とやらの力であわよくば生身の体も取り戻し、己の人生も取り戻してくれる。そのためにはどんなことでもしてやる。頭の悪い言動を演じ、甘ったるい媚を売り、年下の少女に傅くことも厭わない。
この感情があるから、人間として生きていける。