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機動駐在コジロウ  作者: あるてみす
 

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信じる者はスクラップ

 体が重い。

 瞼を開く動作で、今の自分は人間体なのだと自覚する。視界にはぼやけた空が広がり、素肌に触れる空気は朝の冷たさと湿り気を帯びていた。地面に投げ出した手足には少し傷が付いていたが、大したことではない。どうせ、すぐに治ってしまうのだから。関節と筋肉が軋む体を起こすと、胸の上に掛かっていた布が落ちた。藍染めの着物だった。それを抓んでぼんやりと眺めていると、背後に足音が近付いてきた。

「着ておけ。でないと、目のやり場に困る」

 美野里が振り返ると、そこには一人の男が立っていた。顔の右半分には派手な傷跡が残っていて、抜糸も済んでいなかった。右目の瞼も完全に切断されていて、奇妙に引きつった皮膚の下からは義眼が覗いている。男の左目の瞳孔とは色が合っていないので、オーダーメイドの部品ではなく間に合わせの義眼を填めたのだろう。歩き方も右足を軽く引き摺っていて、余程手酷くやられたらしい。迷彩服の上には拳銃を差したホルスターを身に付けていて、硝煙の匂いがつんと鼻を突いた。見覚えがあるような、ないような。

「え、っと……」

 美野里が辿々しく漏らすと、男は目を逸らした。

「なんだ、覚えていないのか。俺はお前と似たようなもんだ、マスターの手下に成り下がったんだよ。周防国彦だ」

「マスターの?」

 その言葉で我に返り、美野里は体を探るが、あの水晶玉のペンダントはなかった。

「マスターはどこにいらっしゃるんですか、マスターは?」

 ひどく動揺した美野里は着物を剥いでラクシャを探そうとすると、周防と名乗った男は背を向けた。

「あいつなら、体を乗り換えたんだよ。お前から、弐天逸流の神様にな」

 では、自分はもう用済みなのか。美野里は外気とは異なる冷たさを感じて、着物を羽織って前を合わせた。帯が見当たらないので片手で襟元を押さえながら、慎重に立ち上がった。足腰はしっかりしていて、思ったよりも体力の消耗は少ないようだった。芝生と砂利が混じった地面を素足で歩くのは痛かったが、その痛みが生きている実感を味わわせてくれた。よろめきながら進んでいくと、全壊した本堂の前に右足を失ったサイボーグが転がっていた。

「あーもう、やってられないんですけどー」

 細身で長身のサイボーグは頬杖を付き、美野里を見上げた。

「もうちょっとさあー、やり込み要素の高いシナリオにしてくれないー? 一本道にも程があるんですけどー。てかー、ループ系のダンジョンだなんて聞いてないんですけどー。攻略サイトー? そんなもんはググれカスー? つっても、ググりようがないんですけどー。ネットの回線は全部死んでいるしー。てかー、なんか言えよゲロビッチ女ー」

「へ?」

 サイボーグに捲し立てられ、美野里はきょとんとした。意味が掴めるようで掴めない喋り方に戸惑ってしまい、ひどく汚い罵倒に言い返すタイミングを失ってしまった。周防と同じく戦闘服姿のサイボーグは寝転がると、頭の後ろで手を組んで寝そべった。鏡面加工が施されていて凹凸が一切ないマスクフェイスが、美野里を映す。鬼無克二だ、と今度はすんなりと思い出せた。ラクシャによって一時的に生体電流が乱されていた美野里の脳内の生体電流が元に戻り、神経伝達細胞が繋がりを取り戻したからだ。

「死ねよゴミカス虫女」

「あなたの語彙は貧相極まりないですね。もう少しまともに罵倒して頂けないと、自尊心が傷付きもしないんですけど。それとも何ですか、それは盛大なブーメランですか? そう言われるとあなた自身が一番傷付く言葉だからこそ、他人も傷付くと思って言いはなっているんですよね? あなた自身がゴミカスサイボーグだから、私にそう言えば泣いて喚いてぎゃあぎゃあ騒ぐと思い込んでいるんですよね? なんて程度の低い発想でしょうか」

 冷静さも戻ってきた美野里が言い放つと、鬼無は身動いだ。

「な、あっ?」

「ネットスラングを多用するのも程々にしておかないと単調な感情しか表現出来なくなりますよ? 人間らしさの象徴とも言える感情の機微の表現を疎かにしておきながら、他人に意思を汲んでほしがる言動だけは止めて下さいね。ああいうのって心底嫌なんですよ。自分をどれだけ買い被っているのか知りませんけど、自分の評価がイコールで他人からの評価だと思い込んでいるタイプには虫酸が走ります。だって、自分が思っているほど、他人が自分のことを気に掛けてくれるわけがないじゃないですか」

「虫女、キャラ改変ひどすぎじゃないのー? 原作レイプキタコレー」

「キャラってなんですか? それはあなたの主観であって、私自身の人格を差す言葉じゃないですよね? どうして他人の人格を表面だけで決め付けるんですか? そういうの、鬱陶しいを通り越して気色悪いです。何もかもアニメやゲームに当て嵌めて表現するのは稚拙すぎやしませんか? それだけで世の中が成り立っているとでも? 馬鹿じゃないですか? そうやって斜に構えて現実を捉えることが格好良いだなんて、思っていませんよね?」

 美野里を言い負かすのは無理だと判断したのだろう、鬼無は顔を背けて喚いた。

「あーあ。三次元は総じてクソだー。無理ゲーだー」

「備前。お前はそういう女だったのか?」

 美野里の背後に近付いてきた周防に話し掛けられ、美野里は振り返った。

「ええ、まあ。あなたも私のキャラが違うだのなんだのと仰るつもりですか?」

「いや、別に。マスターに操縦されていない素のあんたと、マスターに操縦されているあんたに大して差がないことが少し意外だってだけだ。佐々木つばめにまとわりついていた頃のあんたとは大違いだが、嫌いじゃない」

 周防は美野里に布の固まりを差し出してきた。

「適当に見繕ってきた。その辺の物陰で着てこい」

「御世辞とお気遣いをありがとうございます」

 美野里は周防の手から受け取った布の固まりを広げてみると、細めの袴と襦袢と下着、帯と草履だった。いずれの服にも誰かが着ていた痕跡があるが、今はそんなことを気にしている場合ではない。美野里は辺りを見回して、崩壊した屋根の影に隠れると、それらを身に付けた。どれも和服であり、着慣れていないものばかりだったので、四苦八苦しながら着込んだ。合わせ目の左右も確かめてから、草履を突っ掛けたが、足の指の間が痛くなったので足袋が欲しくなった。だが、それは後で自分で捜しに行くしかないだろう。周防も、そこまで美野里に世話を焼いてくれるとは思えないからである。

 ぼさぼさになった長い髪を指で梳いて少し整えてから、美野里は今一度状況を確認した。濃霧が立ち込めた空間はやけに静まり返っていて、そこかしこから鉄錆の匂いが流れてくる。だが、人間のそれではない。人間に酷似してはいるが、動物性蛋白質の生臭さが足りない。目を凝らしてみると、本堂と他の建物を繋げている渡り廊下に矮躯の男の死体が横たわっていたが、切断面から零れているのは内臓ではなく、触手の切れ端だった。

「弐天逸流に一杯食わされましたね?」

 草履をぺたぺたと鳴らしながら美野里が周防に歩み寄ると、周防はぼやいた。

「ああ、そうだよ。俺達が皆殺しにしたのは、あいつらのお得意の人間もどきだったんだ。でもって、マスターが手に入れようと目論んでいた御嬢様とヘビ野郎はどさくさに紛れて逃げおおせて、これも空っぽだった」

 そう言って周防が放り投げたのは、十五枚の青い金属板だった。

「ムジン、ですか」

 美野里は少し濡れた雑草の間に埋もれた集積回路を一枚取り、眺める。

「どういう仕掛けを施したのかは解らんが、マスターがそいつから情報を引き出そうとしても何も取り出せなかった。中身がない、ってことしか解らなかった。その上、俺達はこの空間から出る術を失った。いつのまにか、出入り口が閉じていたんだ。おかげで、文字通り八方塞がりなんだよ」

 苦々しげに漏らした周防を横目に、美野里は冷え切った集積回路に舌を伸ばした。怪人に変化しなくても、相手が遺産絡みのモノであれば多少の互換性はあるからだ。集積回路を少し舐めてみるが、金気臭い味がするだけで確かに電気信号は返ってこなかった。他の集積回路も同様だった。

「もしかすると」

 美野里は淡く発光する集積回路を見つめ、思案した。

「羽部さんがりんねさんの脳にムジンのプログラムを全て移動させたんじゃないでしょうか」

「そんなこと、出来るわけがないだろうが。いくらあの御嬢様が優秀でも、そんな外付けHDDみたいな真似は」

 周防は半笑いになったが、美野里は続けた。

「出来ますよ。だって、りんねさんも遺産の産物じゃないですか。おまけに、りんねさんは産まれてからずっとマスターの支配下に置かれていたので、その脳は真っ新です。人間としての動作を行うために不可欠な行動記憶やそれに関連した情報処理に必要な部分は発達しているでしょうが、それ以外は手付かずです。幼児以下です。ですから、その脳の神経系にプログラムを与えてやれば、短期間で全て記憶してくれるでしょう。記憶させる方法は簡単です。りんねさんに、ムジンのプログラムを複写した生体組織を摂取させればいいんです。反復学習よりも余程手っ取り早いですし、本人の意志に関係ありませんから、確実です。きっと羽部さんがその方法を思い付いたんでしょうが、自負するだけのことはありますね。ですが、マスターはそれを敢えて見逃したんですね?」

 瓦礫の山が盛り上がり、巨躯の異形が立ち上がる。無数の触手に積もった破片が崩れると、背中から生えている光輪が発光した。集積回路から漏れる光と同じ青い光が輪を描いて広がり、三人の影が濃くなる。

「ええ。御明察ですよ、美野里さん」

 シュユだった。瓦礫を踏み砕きながら歩み出したシュユに、美野里はごく自然に膝を付く。

「マスター。そのお体の具合はいかがですか?」

「憎らしい男のものであるとはいえ、収まりは良いですよ。それもこれも、美野里さんが私に尽くしてくれたからこそ、得られた成果です。今一度御礼を申し上げますよ、美野里さん」

 シュユが目も鼻もない顔で美野里を見下ろすと、美野里は薄く頬を染めた。

「ありがとうございます、マスター」

「えぇー? 全部手の内ってことー? てかー、それってぶっちゃけ負け惜しみじゃないですかー?」

 寝そべったまま鬼無が毒突くと、シュユは触手を一本伸ばし、鬼無に向ける。

「克二さんはそうお思いになりますか?」

「思う思うー。てかー、物理的に閉じ込められたってのに有利なわけないしー。やり込められてばっかりだしー。ガチでつまんないしー。リアルFPSが出来ると思ったのにー、相手は人間じゃなかったしー。マジクソゲー」

 鬼無が文句を零すと、シュユは瓦礫を掻き分けながら鬼無に迫り、目も鼻もない顔を寄せた。

「ええ、解りますとも。現実とはひどく退屈で鬱屈としておりますからね。安易な暴力を短絡的な娯楽として好む性癖も理解出来ます。ですが、本番はこれからなのですよ、克二さん。よく考えてご覧なさい、この異次元空間に標的を誘き寄せ、奥深く入り込ませた後に出入り口を閉ざしてしまえば、彼らは二度と外界に出られません。私がこうしてシュユを支配し、彼の上位意識である限り、異次元もまた私の支配下です。ということは、どういうことでしょう」

「あいつらを死ぬまでいたぶり放題? ガチFPS?」

 途端に鬼無が跳ね起きたので、シュユは満足げに頷いた。

「ええ、その通りです。克二さんがお望みの御相手で、心行くまでお楽しみ下さい。その御相手が命を落としたとしても、シュユの苗床を使って蘇らせてしまえばいいのですから」

「え? じゃ、何度でも殺し放題? 殺した直後の記憶だけ切り取るのもOK?」

「お望みとあらば」

「ひゃっほーい! じゃ、俺、殺すから! どいつもこいつも殺すから! でもさ、どうやって誘き出すわけー?」

 鬼無が首を捻ると、シュユの触手が美野里を示した。

「それは簡単です。美野里さんに御電話を掛けて頂ければよろしいのです」

「電話って、誰にですか?」

 美野里が聞き返すと、シュユは首を傾ける。

「美野里さん御自身がお決めになればよろしいですよ。御相手が善太郎さんでも、つばめさんでも、それ以外の方でも誰でも構いません。同情を誘う演技をしてもいいですし、悪辣非道な女性に成り切ってもいいですし、美野里さんの御判断にお任せいたします。つばめさんとその一派を私の懐に招き入れられれば、それでいいのですから」

「承知いたしました」

 美野里は深々と頭を下げてから、口角を吊り上げた。すると、目の前に触手が差し出され、美野里の携帯電話が提示された。美野里はそれを受け取ると、ホログラフィーを展開して操作した。電波は入っている。着信履歴を見てみると、寺坂からの着信が五件、つばめからの着信が十六件入っていた。どちらも間隔を開けながら掛けていて、二人が美野里の行方を案じている様が目に浮かぶようだった。寺坂からの着信が思いの外少なかったことが少し残念だったが、所詮、自分はその程度の女なのだ、と美野里は自虐した。

 少し迷ったが、美野里はつばめからの着信に掛け直すことにした。空間を隔てているから、呼び出し音が始まるまでにしばらくタイムラグがあった。深呼吸して気持ちを落ち着けていると、着信された。

「もしもし? つばめちゃん?」

 僅かなノイズの後、応答があった。

『……お姉ちゃん?』

「うん、そうよ。つばめちゃん、元気にしていた? 私はね」

 と、美野里が口から出任せの話を始めようとすると、つばめが金切り声を上げて遮った。『本当にお姉ちゃんなんだね! ねえ今、どこにいるの! どうして急にいなくなっちゃったの! 何かあったの! 大丈夫! そこ、どこなの! お姉ちゃあん!』

 必死に語り掛けてくるつばめに、美野里は頬を持ち上げた。

「大丈夫よ、つばめちゃん。だから、落ち着いて、ね?」

『お姉ちゃん、あのね、お姉ちゃんがいなくなっちゃってから、私、ずっと心配で心配で心配で』

「だから、大丈夫だって。すぐに会えるから、そんなに心配しないで? ね?」

『うん……』

 テレビ電話ではなく音声だけの通話だが、電話口の向こうでつばめが今にも泣きそうなのは解った。声色が弱り切っていて、語尾が上がり気味だ。余程、美野里がいなくなってから寂しい思いをしていたのだろう。それを知ると、美野里の胸中が疼いた。美野里は目を細めながら、つばめに語り掛ける。

「あのね、つばめちゃん。私ね、今、大変なことになっているの」

『大変って、どんな? ひどい目に遭っているの?』

 つばめの口調が一際上擦り、動揺が増した。

「体の方は大丈夫よ、なんともないから。でもね、私、外に出られなくなっちゃったの。弐天逸流の人達に攫われて、本部に閉じ込められちゃったのよ。でも大丈夫よ、ひどいことはされていないし、変なこともされていないから。でも、このままだと、弐天逸流の人達が遺産を使って世の中を滅茶苦茶にしちゃうかもしれないの。あのね、弐天逸流の人達はね、御鈴様っていうアイドルを利用して信者を集めて、その信仰心でシュユっていう御神体を目覚めさせようとしているの。目覚めさせてはいけないの。弐天逸流の信者の人達だけじゃなくて、他の人達も頭がおかしくなってしまうかもしれないから。だから、シュユを止めて」

『シュユ? それが、弐天逸流が持っている遺産の名前?』

「ええ、そうなの。それで、シュユは今、りんねさんに姿を変えて人間のふりをしているの」『え、え? それ、どういうこと?』

「信じられないかもしれないけど、そういうことなのよ。遺産って本当に不思議よねぇ」

『てことは、その御鈴様っていう、吉岡りんねの格好をしたアイドルをどうにかすればいいんだね?』

「うん、そういうこと。相手は人間じゃないから、コジロウ君だって本気を出せるはずよ。御鈴様さえなんとかなれば、弐天逸流の本部に通じる出入り口が開くわ。その場所は、船島集落にある叢雲神社なの。自力で脱出出来ると思うから、つばめちゃんとコジロウ君が御鈴様を倒した後、そこで落ち合いましょう?」

『解った! 頑張る!』

「ありがとう、つばめちゃん。でも、無理だけはしないでね?」

『大丈夫だって! コジロウがいるし、他の皆もいるから! じゃ、またね、お姉ちゃん!』

 そう言って、つばめは通話を切った。美野里も携帯電話を耳元から外すと、顔に貼り付けていた笑顔を緩めた。耳から脳天に突き抜けた少女の声は甲高く、不愉快な余韻が残っている。こうしておけば、逃亡した御鈴様とその一行はつばめ達によって迎え撃たれるはずだ。そして、この異次元を突き崩す切っ掛けも作ってくれるだろう。

 なんて馬鹿な子だろう。



 前途は多難だった。

 他人の車なんて運転するものではない。しかも、じゃじゃ馬のスポーツカーなんて。そんなことを痛感しつつ、羽部はハンドルを握っていた。長すぎるヘビの下半身は運転席の足元には収まりきらないので、中間部分はくねらせて後部座席側に置いておき、ペダルを踏むために尖端部分だけはハンドルの下に横たえておいた。徒歩で移動するだけなら便利なのだが、車を運転するとなると、足が二本なければ難しい。アクセルとブレーキをほぼ同時に操作しなければ通りづらい道もあり、クラッチペダルの操作が必要となる場面も多かったが、別の車に乗り換えるのは面倒なので、羽部は四苦八苦しながら進めていた。

「これ、クラッチが重いんだけど。おかげで動かしづらいったらありゃしないよ、全く」

 寺坂善太郎のガレージから拝借した、攻撃的なメタリックオレンジのシボレー・コルベットZ06を操りながら、羽部がぼやくと、助手席に収まっているりんねの姿をした伊織が言い返した。その膝の上には、高守信和の意思が宿る種子が置いてある。2シーターなのだが、高守の体格が縮んでいたので狭い思いをせずに済んだ。

「んなもん、どうでもいいし。つか、どこに行くつもりなんだよ?」

『寺坂君が通話を着信した場所に向かってくれればいいよ。GPSで見てみたけど、羽部君の名義の携帯電話の位置が移動している様子はないからね。放置されていて罠を張られている可能性もないわけじゃないけど、寺坂君と接触出来れば佐々木つばめとも接触出来る。ややこしくなる前に、話を付けておかないと』

 高守は細長い触手を伸ばし、ダッシュボードに載せた携帯電話を操作して筆談した。

「まー、そうだな。ヘビ野郎の携帯が通じるっつーことは、他の連中の携帯も通じるっつー意味だし。それを利用してあいつらが佐々木つばめを丸め込んでいたりしたら、マジ厄介だし」

 伊織は足を組み、眉根を寄せる。羽部は傾斜のきついカーブを通り抜けながら、横目に二人を見やる。

「それじゃ何か、この賛美という賛美を全宇宙から捧げられるに値する僕はあの小娘の味方になれと? 嫌だよ」

『そういう意味じゃないよ。今までの経緯があるんだ、つばめさんだって僕達のことを信用してくれるとは思えないし、つばめさんの周りにいる面々だって僕達を警戒するだろう。それに、僕だってつばめさんの味方になるつもりはないしね。利用させてもらうだけだよ、彼女の管理者権限を』

 高守はホログラフィーキーボードを素早くタイピングし、長文を一気に書き上げた。

『とにかく、シュユに目覚めてもらわなければ彼はあの男の支配から逃れることは出来ない。ラクシャはその内部に蓄積した膨大な情報を操ることで人を操ることが出来るけど、それは操られる当人の意識が薄弱な場合に限った話なんだ。どれだけ凄まじい量の情報を流し込んで生体電流を乱したとしても、当の本人が激しく拒絶すればラクシャの支配は及ばないからね。何事に置いても、生きた人間はやっぱり強いんだよ。けれど、御嬢様のように産まれてすぐの自我が弱い状態で支配されてしまえば、完璧な操り人形になってしまう。シュユは仮死状態に近かったから、ラクシャに安易に支配されてしまうだろう。今まで散々シュユを喰い物にしてきた僕が言うのもなんだけど、シュユを利用させてはいけないんだ。彼が可哀想だから』

「んじゃ、状況を整理しようぜ」

 伊織は高守を小突いてから、羽部に向く。

「腹の底から気に食わねぇけど、俺らはつばめのところに行く。んで、あいつの管理者権限を使ってシュユを起こせって頼む。でもって、シュユを叩き起こして、ラクシャっつー遺産をぶちのめす。で、いいんだな?」

『要点だけ掻い摘むと、そうなるね。でも、一つ問題がある』

「異次元のことでしょ? 弐天逸流の本部に面倒臭い仕掛けをしておいたおかげで、侵入者達はこの僕達を追ってくる様子はないけど、逆に言えば侵入者達をやり込めるには、同じ袋のネズミになる必要がある。そのためにまたあの霧の中を通り抜けて行くの? 嫌だよ。それに、この素晴らしき発想の泉である僕は戦闘なんてするべき立場の存在じゃないし、そもそも知的階級の中でも飛び抜けた特権階級に位置する僕としてはだね」

 レスポンスが異様に良すぎて逆に扱いづらいハンドルを回しながら羽部が喋ると、伊織が口を挟んだ。

「黙れよウゼェ」

「とにかく、あれだ。この僕が思うにだね、ラクシャと侵入者達を異次元に閉じ込めたままにしておくのが最善であり最良の結論なんじゃないの? 下手に事を荒立てても疲れるだけだし、異次元から出られさえしなければ、あいつらは脅威でもなんでもないじゃないか。異次元を支えているのがシュユの精神だというのなら、佐々木つばめに適当な遺産を操らせてそれに成り代わるエネルギーを与えればいいじゃないか。そうすれば、万事解決だ」

 狭い山道を抜けて少しだけ幅広の県道に滑り込みながら、羽部が続けると、高守が返した。『そうでもないんだよ。あの異次元はね、空間そのものが遺産の一部なんだ。その名もフカセツテン。今はコンガラが複製した空間を維持するための外殻に転用しているんだけどね。もちろん、そうしたのはシュユだ』

「は?」

「あぁ?」

 羽部と伊織の疑問符が重なるが、高守は淡々と続けた。文章では抑揚が現れないから、というからでもある。

『フカセツテンは、人類の概念で言うところの宇宙船に値する遺産なんだ。今でこそ異次元で大人しくしているけど、通常空間に現れて好き勝手なことをされたら、大変なことになる』

「そりゃーまー、確かに遺産はどれもこれも人智を外れた代物だし、出所はそんなところじゃねーかなーって薄々感じてはいたが、きっぱり言い切られると萎えるな。在り来たりで」

 伊織が真顔になると、羽部も同意した。

「訳の解らないモノは外宇宙から来た、ってことにしておけば一応収まりが付くからねぇ。大雑把すぎるけど」

『君達の感想は尤もだけど、事実だからね。フカセツテンこそが五〇年前に船島集落に飛来した流星の正体であり、フカセツテンを構成していた部品が遺産なんだよ。その部品がどういった経緯で分離、拡散されたのかは僕も把握し切れていないけど、シュユが目覚めてくれれば教えてくれるはずだよ。きっと』

「ま、期待もしてねーし、興味もねーけどな。つっても、今のところ、りんねを普通の人間に出来るかもしれねーのは遺産の力しかねーから、俺も一応乗っかってやるけどよ。つばめがやられちまったら、遺産を動かせなくなるしな」

 まだらに脱色した長い髪を抓み、伊織が呟くと、羽部は先の割れた舌を出した。

「この僕は出来れば付き合いたくないけど、途中で放り出すのは性に合わないし、御鈴様のシワ一つない脳に力業でねじ込んだムジンの情報を無駄遣いされたくないから付き合ってやるけど、勘違いしないでよね?」

「なっ、あっ、いつのまにそんなことをしやがった!」

 思わず伊織が腰を浮かせると、羽部はハンドルを切りながら素っ気なく言った。

「あれぇ、気付かなかったの? 佐々木つばめに準じた管理者権限を持つ生体情報の持ち主である御嬢様の肉体をただの偶像として終わらせるのは勿体なさ過ぎるし、これ以上ない隠し場所でしょ? まあ、クソお坊っちゃんの粘菌以下の知性と知能じゃ到底扱えないだろうし、御嬢様だって意識的に操作出来るものじゃないから、頭がどうにかなるってことはないから安心していいよ。たぶんね」

「りんねの体を勝手にいじくりやがって! このクソヘビ野郎が!」

 怒りに任せて伊織は羽部に掴み掛かろうとしてきたが、丁度カーブに差し掛かったため、羽部がハンドルを大きく切ると、伊織の小柄な体は呆気なく仰け反ってドア側に押し付けられた。その際に後頭部を打ったのか、痛ぇなこの野郎、と毒突きながら起き上がり、助手席に座り直した。

「なんでもいいけど、この僕達を襲おうとした不敬極まりない連中の素性は解っているんだろうね?」

 羽部が高守に問うと、高守は頷くように触手の尖端を上下させた。

『それはもちろん、シュユも解り切っているよ。異次元に接触してきた時からね。アソウギを用いた怪人である備前美野里、一乗寺昇の元同僚である周防国彦、新免工業の元戦闘員である鬼無克二、そしてラクシャだ。彼ら一人一人も厄介ではあるけど、最も警戒すべきなのはラクシャだ。無限情報記録装置であると同時に、無限制御装置でもあるんだよ。要するに、管理者権限所有者と遺産同士の仲介となる部品なんだけど、ある男の意思が強烈に焼き付けられていてね。だから、今、ラクシャはシュユの管理下からも完全に離れている。恐らく、佐々木つばめの管理も受け付けないだろう。それもまた重大な問題なんだけど、危惧すべきことは、ラクシャの元にフカセツテンを再起動させられる遺産が揃ってしまうことなんだ。アマラは情報を処理するだけで、ムジンは情報を処理するためのプロセスを記録しているだけだけど、与えるべき情報と手段を備えたラクシャが収まれば……』

「最悪だな」

 伊織が一笑すると、羽部は肩を竦めた。

「こんなことになると解っていたら、もっと早く裏切っておいたのになぁ。出し惜しみなんかするんじゃなかった」

『ともかく、急ごう』

 高守に急かされ、羽部は再びアクセルを踏んで車を滑り出した。シュユの子株を使って生み出した、香山千束の偽物の胃の中に入れておいた羽部の携帯電話のSIMカードとSDカードは思惑通り寺坂善太郎に回収され、その手元にある携帯電話に差し込まれた。そして寺坂と電話連絡を取り、更には発信場所も突き止めることが出来た。ホログラフィーモニターの中に浮かぶGPS画面には、一ヶ谷市内の地図が表示されていて、通話の発信地点には赤いマーカーが浮かんでいた。その真下にある建物は雑居ビルで、マーカーの傍には階数が表示されていた。

 三階。備前法律事務所。



 そして、その備前法律事務所では。

 息を切らしながら、つばめが狭い階段を駆け上がっていた。その途中で立ち止まり、街外れの貸倉庫から一ヶ谷市内まで車で送り届けてくれた小倉貞利に礼を言ってから、再び駆け上がっていった。コジロウの改修が済むのは夕方頃になる、との言葉を背に受けながら、つばめは一段飛ばしで昇っていった。

 美野里が無事だった。居場所も解った。後は、助けに行けばいい。そのためには、彼らに動いてもらわなければ。薄暗く少し冷える階段を昇り切り、三階に到着したつばめは一度立ち止まって呼吸を整えた。道子に連絡を取り、皆がここにいると教えてもらったのである。コジロウも連れてくるつもりだったが、シリアスと化したままで市街地を動き回るわけにはいかないので小倉重機の社員達に任せてきた。機体の改修作業とメンテナンスが終わり次第、コジロウもつばめと合流する手筈になっている。

 それにしても、なぜ美野里の仕事場に皆が集まっているのだろうか。つばめに雇われている面々を集める手間が省けてやりやすいのは確かだが、引っ掛からないわけがない。だが、それについて問い詰めるのは事を終えた後にしよう。つばめは嬉しさで緩みそうな頬を引き締めながら、備前法律事務所と書かれたドアをノックし、開けた。

「あのね、お姉ちゃんがねぇっおうあっ!?」

 事務所に飛び込んだ途端、つばめは猛烈な酒臭さに圧倒されて後退った。原因は応接セットの周囲に散らばる大量の酒瓶で、アルコール度数が強い蒸留酒やワインの瓶がことごとく空になっていた。吐き気すら催させる酒臭さと戦いながら、つばめは気まずげな顔をしている武蔵野と、弛緩しきって触手を四方八方に散らばらせている寺坂と、作り笑いを浮かべている道子と、不機嫌そうな一乗寺を見回した。

「えーと、説明してくれなくても大体解る。あのお酒を全部飲んだの、寺坂さんでしょ」

 とりあえず換気しなければ、当てられてしまいそうだ。つばめはすぐさま窓を開けてから、触手男を指した。

「俺も少し手伝っちまったが、もう抜けたよ」

 武蔵野は苦笑し、両手を上向けた。ラフな格好の一乗寺は寺坂の触手を一本拾い、弄ぶ。

「この分だと、よっちゃんが起きるのは夕方ぐらいになるんじゃないの? いくらよっちゃんが普通の体じゃないから酒の利きが悪いっていっても、あれだけ一気に飲めば二日酔いしちゃうって」

「誰も止めてやらなかったの?」

 つばめが呆れると、道子は酒瓶を集めてレジ袋に詰めた。

「寺坂さんにも色々とあるんですよ。お酒の力を借りないと言い出せないことだってありますって」

「にしたって、限度があるでしょ。しかも、お姉ちゃんの仕事場でなんて非常識すぎるよ」

 つばめがむくれると、武蔵野が聞き返してきた。

「それはそれとして、備前美野里がどうかしたのか。道子に電話してきた時も言っていたが」

「そうそう、今朝方、お姉ちゃんが電話してきてくれたの! お姉ちゃんはね、今、弐天逸流の本部に捕まっているんだって!」

 と、つばめが捲し立てると、死体の如く伸びきっていた寺坂が跳ね起きた。

「んだとぉうげあおうろぉっ!」

 だが、跳ね起きた勢いで散々飲んだ酒が戻ってきたらしく、道子の手元にあったレジ袋を触手で引ったくり、その中に盛大に吐き戻した。胃袋の中には酒しか入っていなかったのか、少し粘っこい水音が響いた。その様子を見ていると気持ち悪くなりそうなので、つばめは顔を背けてから、話を続けた。

「でっ、だ、だから、お姉ちゃんを助けるには弐天逸流をどうにかしなきゃならないんだって。なんでも、弐天逸流は遺産のシュユってのを使って信者を増やそうとしているんだって。シュユは人間の信仰心をエネルギー源にして動く遺産で、その信仰心を掻き集めるために御鈴様っていうアイドルを使って布教活動しているんだってさ。んで、その御鈴様はシュユが吉岡りんねに良く似た姿に化けたものだって、お姉ちゃんが教えてくれたんだ。で、お姉ちゃんが閉じ込められているのは弐天逸流の本部で、なんかよく解らないけど異次元にあるんだって。で、御鈴様を倒せば異次元が壊れて、お姉ちゃんも外に出てこられるんだって」

「なんでもいいから便所で出してこい。床を汚されたら後始末が面倒だ」

 武蔵野はよろける寺坂をトイレに押しやってから、つばめに向いた。

「となると、備前美野里が姿を消していたのは、弐天逸流に情報源として誘拐されていたからか。だとすると、寺坂が動揺しなかったも頷けるな。あいつは弐天逸流と付き合いが長いから、手出ししないって解っていたんだろう」

「御鈴様ですかー。ここんとこネットで大評判の新進気鋭のアイドルで、御嬢様に酷似した外見だと思っていましたけど、クローンでもなければサイボーグでもないので、不思議で仕方なかったんですよ。でも、そう説明されると筋が通りますね。シュユはアマラのメモリーに遺産として記録されていますし、その機能も美野里さんの説明と合致しています。御嬢様の外見に似せた格好になったのは、恐らく、生体安定剤として御嬢様の生体情報を与えられていたからでしょうね。アイドル活動にしても、信者を集めるには打って付けですし」

 道子が納得すると、一乗寺は前髪を掻き上げて眉根を寄せる。

「それはそうかもしれないけど、みのりんをどこに攫っていったんだよ? ヘビ野郎から送り付けられたSDカードのデータを全面的に信じるなら、弐天逸流の本部は船島集落そのものじゃないの。相手がどれだけ非常識な存在だっていっても、船島集落には弐天逸流の本部を収めておけるような場所もないし、そんなものがあったとしたら俺達が絶対に気付いているはずだよ。それ以前に、みのりんを誘拐したルートが不可解だよ。新免工業が俺達に奇襲を仕掛けてきた後、みのりんが姿を消したけど、その前後にこの事務所の近辺に不審な車両は見当たらなかった。衛星写真もあるし、監視カメラもあるし、政府の諜報員も配置してあるから、目撃証言と証拠は充分。だけど、みのりんは事務所からも出た形跡はなかった。なのに、行方不明になった。どうして?」

「どうして、ってそれを突き止めるのがお前の仕事だろうが」

 武蔵野が言い返すと、一乗寺は唇を尖らせた。

「そりゃそうだけどー、捜査を煮詰める暇がなかったんだもーん。みのりんをマークしていた捜査員の目は節穴じゃないし、監視カメラだって安物じゃないし、衛星写真だって解像度は高いから、徹底的に調べたよー。それなのに、みのりんが誘拐されたルートは割り出せないままなんだもん。新免工業がみのりんに差し向けたスナイパーの身柄は確保して逮捕拘留してあるけど、あいつら、ろくに証言しないから埒が開かなくて。むっさんは知らない?」

「知るか、そんなこと。知っていたら、とっくの昔に売り渡している。今の雇い主にな」

 テーブルに横たえていた拳銃をショルダーホルスターに戻しながら武蔵野が返すと、道子は首を捻る。

「そう言われてみれば、そうですねぇー。一ヶ谷市内の監視カメラの映像はリアルタイムde

ハッキングして、記録と同時に精査していますけど、美野里さんが姿を消した前後の時間帯の映像は普通すぎましたね。スナイパーさん達の姿は捉えてありましたけど、ほんの数フレームの間に消え失せちゃいましたし。でもって、その後、政府の人達がスナイパーさん達を発見、確保した地点と消失した地点の間を調べてみましたけど、どの映像でも異変は見当たりませんでしたし。だから、私もあんまり重要視していなかったんですけど」

「泳がせすぎたかなぁ……」

 一乗寺はいつになく真剣な口振りで漏らし、唇の端を引きつらせた。

「つばめちゃん。今後一切、みのりんを信じちゃダメだ。あの女はつばめちゃんを裏切った」

 寺坂が吐き出したものを流しているのだろう、トイレの水音だけがやけに響いた。つばめは視界がぐるりと回転したかのような目眩を覚え、よろけ、美野里が乱雑に書類を積み上げている机に寄り掛かった。

「ど……うして、先生、そんなこと言えるの? だって、お姉ちゃんはお姉ちゃんであって」

「備前美野里は俺達を騙す気すらないんだよ。だから、つばめちゃんに手の内をべらべらと明かしたんだ。考えてもみてごらんよ、捕虜に詳細な情報を与える組織があるわけないでしょ? 

 あったとしても、十中八九罠だ。罠でさえなかったら、その組織が組織として成り立っていないっていう証拠だ。だけど、今までの経緯を顧みると弐天逸流は新興宗教としての立場を存分に利用して立ち回ってきたし、よっちゃんにもボロを出していなかった。なのに、急にヘビ野郎が情報を流してきた。挙げ句に、備前美野里がつばめちゃんに直接連絡を取ってきた。安直な罠ですらないよ、挑発だ。絶対に勝てる自信があるからこそ、誘いを掛けてきたんだ」

 ほうら来た、と一乗寺は開け放した窓の外を指し示した。片田舎の早朝の街並みには似付かわしくない攻撃的なエンジン音が朝の静寂を切り裂き、それが徐々に迫りつつあった。

「俺の読みだと、御鈴様とヘビ野郎じゃないかな。その正体がシュユそのものであろうが、なかろうが」

 少しサイズの大きいTシャツを捲り上げた一乗寺は、タンクトップの上に身に付けていたショルダーホルスターから二丁の拳銃を引き抜いた。

「ぶっ殺すだけだけどねっ!」

 そう言うや否や、一乗寺は三階の窓から身を躍らせた。慌てふためきながらつばめが窓に駆け寄ると、一乗寺は器用に雑居ビルの壁を蹴って跳躍し、手近な位置に立っている電柱に飛び移った。シボレー・コルベットZ06を運転している人物はスポーツカーを操り切れていないのか、走りが不安定だった。一乗寺は細い鉄棒一本しかない電柱の足場に立つと、愛銃のハードボーラーを構えて照準を合わせ、引き金を絞った。

 直後、スポーツカーのフロントガラスが白く砕けた。



 硝煙が立ち上る銃口は、二つあった。

 一つはスポーツカーを狙撃した一乗寺の拳銃であり、もう一つは武蔵野の拳銃だった。一乗寺の顔の真横にある電柱に弾痕が残り、潰れた鉛玉が転げ落ちていった。その音に反応して振り返った一乗寺が銃口を向け返してきたが、武蔵野の背後に控えていたつばめに気付いて銃口を下げた。

「なーに、つばめちゃん。むっさんなんか使って、俺を止めちゃう気?」

「先生の言うことはもっともらしいけど、一から十まで信じるわけにはいかないよ」

 努めて冷静さを保ちながら、つばめは一乗寺を見下ろした。あの美野里が、つばめのことを裏切るはずがないという確信があるからだ。血は繋がっていないが、美野里は姉としてつばめを大事にしてくれていた。どんな時も第一に考えてくれていた。遺産相続争いに巻き込まれても、美野里だけはつばめを見放さずに傍にいてくれた。つばめの生活には常に美野里がいて、美野里の生活にもつばめがいた。事ある事に抱き付いて、年上なのにべたべたに甘えてくるが、それは美野里がつばめを欲してくれている証拠だからだ。そして、つばめも姉を欲している。

「私はお姉ちゃんを信じる」

 かつて、美野里がつばめを裏切ったことがあっただろうか。否。

「だから、先生は勝手なことをしないで」

 つばめが強く言い切ると、一乗寺は嘲笑する。

「あのさぁつばめちゃん、もうちょっと現実を見たらどうなの? そりゃ、だーい好きなお姉ちゃんがいなくなったのがショックなのも解るし、寂しかったのも解るけど、だからって妙な情報を流してきた相手を盲目的に信じるなんて素人判断もいいところだよ。あのね、こっち側に有益な情報ってのは裏を返せば敵方を有利にするための情報でもあるんだよ。大体、弐天逸流の本部に俺達が突っ込んでいっても、袋叩きにされるだけだよ。連中が備前美野里を囮に選んだのは至って簡単、そうやってつばめちゃんの心根を鷲掴みにしてぐらぐらに揺さぶれるからであって。大体、俺が御鈴様とやらを殺しちゃえば始末が付くじゃん、相手の思う壺かもしれないけど、それ以上のダメージを与えられるじゃん。それなのに、なんで止めるわけ?」

「うるさいっ!」

 聞くに耐えられない言葉の数々に、つばめは窓から身を乗り出して叫んだ。

「さっきからひどいことばっかり言って! そんなにお姉ちゃんのことが嫌いなの? 先生にとってはどうでもいいかもしれないけど、私にとってはコジロウの次に大事な人なんだよ! 信用して何が悪いの!」

「ああ悪いね、つばめちゃんの感情的な判断のせいで俺達は被害を受けるからだよ! 別にあの女のことは嫌いでもなんでもなかったけど、裏切ったからには大嫌いだよ! すーちゃんと同レベルで大嫌いだよ! それまでにどれだけ積み重ねてきたとしても、裏切ったって時点でその積み重ねを全否定することになるからだよ! そこまで言うなら勝手にしやがれ、痛い目を見ろ、俺がここまで心配してやってんのにさぁ! やってられっかあ!」

 一乗寺は怒りを露わにして叫び散らした後、電柱の足場を使って道路に下りた。ふて腐れた一乗寺がその場から走り去ろうとすると、フロントガラスがひび割れたスポーツカーが突如スキール音を上げた。通行人や通り掛かった車が逃げ出して空っぽになった道路を突っ切ってきたコルベットは、一直線に一乗寺に迫ってくる。

「うひょっ」

 ちょっと楽しそうな声を上げて一乗寺が飛び退くと、コルベットは隣接している個人商店の店先に突っ込む寸前でハンドルを切って滑らかにドリフトし、黒々としたブレーキ痕を付けながら停車した。

「何、俺とやる気?」

 一乗寺がへらっと笑うと、コルベットの運転席のドアが開き、見覚えのある男が現れた。羽部鏡一だ。

「そっちこそ、出会い頭になんてことをしてくれるのさ。おかげでこっちの手筈が台無しじゃないか」

「マジ気持ち悪ぃ……」

 弱々しい声を発しながら助手席から下りてきたのは、顔色が真っ青な少女だった。その手元には、無数の触手を伸ばす種子が収まっていた。その触手には、なぜか携帯電話が絡み付いていて、触手の尖端が動くたびにボタンを押して文章を打ち込んでいた。距離が離れすぎているので、それを読み取ることは不可能であったが。

 あれは一体何なのだろうか。美野里の話には含まれていなかったが、弐天逸流の何かであることは確かだろう。一乗寺と口論したせいで頭に血が上りきっていたが、コルベットから這い出してきた羽部の下半身を目にした途端、つばめは全身が総毛立った。なぜなら、羽部の下半身は巨大なヘビと化していたからだ。ひっ、と短く悲鳴を上げて窓から遠のいたつばめは、道子の背中に隠れた。道子は微笑み、つばめを宥めてきた。

「大丈夫ですってー、この距離なら近付けるはずが」

「いや、そうでもないかもしれんぞ」

 武蔵野は拳銃を握り直しつつ、羽部と少女から目を離さずに言った。だが、この事務所はビルの三階に位置しているし、直線距離でも三〇〇メートル近い距離が空いている。一乗寺もいるのだし、そう簡単に近付けるわけがない。武蔵野の考えすぎではないだろうか。つばめは怖々と羽部を見下ろすと、羽部は脇に少女を抱えると長ったらしい下半身を幾重にも折り曲げた。一度腰を落とした羽部は吊り上がった目で事務所を睨み付けていたが、下半身をバネのように一気に伸び切らせ、数十メートルの高さまで跳躍した。恐るべき筋力だ。

 電線を尻尾の端で弾き、電信柱を足掛かりならぬ尻尾掛かりにして、羽部は一直線に事務所へと向かってきた。開け放たれている窓に狙いを定めてきたので、武蔵野が射線から退くと、少女を抱えた羽部は下半身をくねらせながら室内に突っ込んできた。机の上の書類やパソコンを薙ぎ倒しながら転げ落ち、応接セットのソファーの中をひっくり返してから壁に激突し、やっと止まった。それでも、羽部は少女を守り通していた。

「あーもう……最悪なんてもんじゃない、おかげでこの僕の黄金よりも貴重な脳細胞がいくつ死滅したと……」

 強かに打ち付けた後頭部をさすりながら、羽部が起き上がると、少女が毒突いた。

「ウゼェな、ちったぁ黙れよヘビ野郎」

「あらまあ、リアルで見るとますます御嬢様にそっくりさんですねー。髪の色と態度は大違いですけど」

 御鈴様と思しき少女を見下ろし、道子が感心すると、少女は羽部を蹴り飛ばしながら起き上がった。

「つか、てめぇら、あの変な女をどうにかしろよ! ハンドガンであの距離を狙撃するってどういうこった!」

「止める暇もなかったし、正直命中すると思っていなかったんだ。だが、あいつは目視しただけで弾道計算をして、おまけにそれが完璧だったようだ。しかし、やけに既視感のある言動をするな、このネットアイドルは」

 武蔵野が銃口を上げながら感想を述べると、道子はつばめを庇いつつ報告した。

「今し方、御鈴様の動画をざざっと見てみたんですけど、御鈴様ってこういうキャラじゃないですよ? ブリッ子路線のアイドルとも歌ってみた系の素人歌手ともちょっと違っていて、正統派とでも言いますか、アイドルとしてのキャラを最大限に生かしているというかで。ブログもSNSも綺麗なもので、アイドルのイメージを崩す発言はゼロだし、変なファンに煽られても、揚げ足を取られても、にこにこしてスルーしているタイプなんですけど。こんな感じだとすぐに大炎上して祭りだわっしょいになっちゃいますよ? リアルとネットでの差がひどすぎません?」

「そんなもんはな、全部別の奴がやってんだよ! ゴーストライターに決まってんだろ! 俺が知るか、んなもん! つか、いつのまにブログとSNSなんて始めたんだよ! 俺の知らない間にまた余計なことしやがって!」

 御鈴様が髪を振り乱して種子を揺さぶると、種子は携帯電話に文字を打ち込み、答えた。

『知らないよ、それは僕の領分じゃないし』

「だぁあああもうっ! ウッゼェなぁっ!」

 荒々しく吼えた御鈴様は種子と携帯電話を壁に叩き付けてから、武蔵野と道子に凄んだ。

「つか、てめぇらも現金過ぎやしねぇか? りんねに雇われていたくせに、コロッと鞍替えしやがって。クソが」

 これが、ネットで大評判のアイドルなのだろうか。つばめはやや臆したが、弐天逸流の布教活動のために外見に合わせたキャラ付けをされていた、と考えれば筋が通る。恐らく、こちらが本性なのだろう。羽部はひどく乱れた髪を撫で付けて整える努力をしながら、御鈴様の背後に控える。

「で、どうする? 当初の予定通りに動く?」

『彼らが攻撃してくるなんて、計算違いだ。だけど、他に頼る当てがあると思う?』

「だからって、やられっぱなしでいいわけねぇだろ」

 三人は短く言葉を交わしてから、つばめ達に向いた。束の間、双方に緊張が訪れた。だが、それはあまり長続きしなかった。一乗寺が事務所を狙撃したからである。つばめは武蔵野に言われるがままに書類棚の影に身を隠し、他の面々も身を隠した。繰り返される銃声にびくつきながら、つばめはますます混乱した。

「先生、一体何がしたいの?」

「俺に聞くなよ。さっぱり解らん。備前美野里が裏切ったと言ったと思ったらあいつらの車を迎撃して、いきなりブチ切れて俺達を攻撃するとは。脈絡があるようでない行動ばっかりだ」

 横倒しになったソファーに大柄な体を隠しながら、武蔵野がぼやくと、つばめを抱えた道子は嘆いた。

「あの人は元々変な人ではありましたけど、こうもぶっ飛んじゃったのは女体化したせいでしょうかねー?」

「女体化なんてエロ漫画でしか聞かない単語なんだけど、それって誰に対しての発言なの?」

 書類棚の影に御鈴様を押し込めながら羽部が失笑すると、つばめは外を指し示した。

「一乗寺先生のことだよ。よく解らないけど、大ケガしたと思ったら女の人になっちゃって」

「あ、そうなんだ」

 不意に、御鈴様が安堵した。羽部にはその意味が解るらしく、半笑いになったが、それ以外の面々には御鈴様が安堵する理由が見当も付かなかったので、更に混乱が深まった。銃弾が尽きたのか、一乗寺の銃声は止まった。だが、これで攻撃が終わったと判断するのは余りにも浅はかだ。武蔵野は壁に背を当てながら、外の様子を窺いに窓際まで移動していった。つばめは武蔵野を気にしつつ、羽部と御鈴様を注意深く窺った。

 羽部鏡一は、以前に会った時とあまり印象は変わらない。モンスターのラミアに似た状態になってはいるが、言動も服の趣味も相変わらずだ。彼が弐天逸流に加わっていたとは知らなかったが、御鈴様とのやり取りから察するに全面的に味方というわけではないようだ。対する御鈴様は、外見は吉岡りんねその人だ。つばめがりんねと接触したのも数えるほどだが、あの整った顔立ちと体形は見間違えようがない。長い黒髪に趣味の悪いメッシュを入れ、態度も男のように様変わりしているが、それはシュユがりんねに擬態する際に足りない情報を他人から補ったからそうなったのではないのだろうか。だから、性格と外見がアンバランスになっているのでは。

 御鈴様を倒せば、弐天逸流の本部が隠れている異次元が維持出来なくなる。そして、異次元が壊れてしまえば、出入り口が開いて美野里が逃げ出せる。美野里と再会出来れば、真偽が明らかになる。そうすれば、誰も美野里を裏切り者だと言えなくなる。だって、美野里はつばめを裏切らないのだから。血の繋がりはなかろうと、十四年の月日を共に過ごした正真正銘の家族なのだから。だから。

 シュユが擬態している御鈴様を機能停止させてしまえば。そう考えたつばめは、御鈴様に手を伸ばした。相手が遺産であるならば、つばめの意思で制御出来る。外の様子に気を取られている御鈴様の手を掴むべく、若干身を乗り出したが、当人に気付かれた。御鈴様は振り返り、訝しげにつばめを見返す。

「んだよ」

「あんたが何をしようとしているのか、解っているんだから!」

「あぁ?」

 御鈴様はつばめを睨んできたが、つばめも負けじと睨み返す。

「だから、あんたの好きにはさせない! お姉ちゃんだって取り戻して、先生の誤解を解いて、遺産だって私がどうにかしてやる! コジロウがいなくても、私の力でなんとかしてやる!」

 強引に御鈴様の手を握ってつばめが決意表明をすると、御鈴様はその手を振り解こうとした。

「離せ! 今、てめぇにどうにかされたら俺がどうなるか!」

「離すわけないでしょ! あんた達みたいな悪い奴らが遺産で好き勝手なことをするから、お姉ちゃんもひどい目に遭わされてきたんじゃない! どうにか出来るか解らないけど、どうにかしないとダメなんだ!」

 御鈴様の手は体温が低く、柔らかく、骨も脆弱だった。それを、つばめは力一杯握り締め、機能停止しろと全力で念じた。口頭で命令しても受け付けてもらえないと思ったからだ。その命令が通じたのか、御鈴様は貧血を起こしたかのように脱力して座り込み、額を押さえた。

「てめぇ……いい加減にしやがれ……」

 すると、つばめの携帯電話が鳴った。つばめがすかさず受信すると、美野里からだった。

「お姉ちゃん! あのね、今、私ね!」

『つばめちゃん、今、大変なことが解ったの! 今すぐ、そこから離れて!』

 美野里の声色は上擦っていて、ひどく動揺していた。つばめは気圧されながらも聞き返す。

「どうかしたの、お姉ちゃん」

『つばめちゃんの周りにいる皆は、シュユに操られているの! 桑原れんげの時と同じ、いいえ、もっと悪い状況になるかもしれない! 何か、おかしなことが起きていない?』

「さっき、先生がお姉ちゃんが裏切ったって言い出して、私達を攻撃してきて……」

『やっぱり! 一乗寺先生だけじゃない、他の皆だって信用出来ないわ! つばめちゃん、今すぐシュユを機能停止させるのよ! そうすれば、皆、おかしくなるのを防げるわ!』

 美野里が矢継ぎ早に伝えてくる情報を受け止めながら、つばめは皆を見回した。だとすると、一乗寺が美野里が裏切ったと言い出したことにも説明が付く。自我を得たアマラが暴走して桑原れんげという架空の人格を造り上げ、ハルノネットのユーザー達を掌握しようとした時と同じような現象が起きているのが本当であるならば、一大事だ。つばめは携帯電話を切らずに通話モードにしたまま、今一度、御鈴様に向き直った。

「眠って」

 つばめが御鈴様の額に手のひらを当てると、御鈴様は歯を食い縛り、抗おうとする。

「俺に、触るなぁっ……」

 しかし、御鈴様はつばめの命令には背けず、膝を付いて項垂れた。意識を失って床に倒れ込みそうになった彼女を羽部が尻尾で受け止めてから、つばめに文句を付けようとしてきたが、羽部にも触れた。この男には触れるのも嫌だったが、上半身ならまだマシだ。つばめに触れられた右手を見、羽部は頬を引きつらせる。

「まさか、この僕まで止める気?」

「アソウギを使っているなら、止められないわけがないじゃない」

 眠って、とつばめが命じると、羽部は御鈴様を抱いたまま仰け反り、昏倒した。

『そう、それでいいの。次は、アマラを止めて。でないと、シュユがアマラを操ってしまうかもしれないから』

「うん、解った。アマラだね」

 つばめが道子に振り返ると、道子は後退る。

「つばめちゃん、美野里さんとどんなお話をしているんですか? それに、なんで私まで機能停止する必要があるんですか? ねえ、つばめちゃ……」

 困惑する道子の手を取って、つばめは命じた。女性型アンドロイドのマザーボードに差し込まれているアマラにもその命令が届き、道子のボディも機能停止して膝を付いた。戸惑った表情を貼り付けたままの彼女は、人形も同然となって横たわり、コンピューターがシャットダウンされたことを知らせる電子音を発した。

『次はナユタよ。それが動いていると、ナユタを動力源にして他の遺産が目覚めてしまうかもしれないから』

「解った」

 つばめは首から提げていたペンダントを握り締め、命じると、ごくごく弱い光を放っていたナユタが黙した。単なる結晶体となったナユタから手を外してから、再度姉に尋ねた。

「次は?」

『逃げて、とにかく逃げて。シュユの支配が抜け切っていない以上、武蔵野さんも何をするか解らないから』

 美野里の言葉をつばめは疑いもしなかった。武蔵野はつばめを制止してきたが、聞き入れるだけ無駄だ。どうせシュユに操られているのだから、惑わされてしまう。つばめは事務所を飛び出し、階段を駆け下りていった。正面の道路には不機嫌極まりない一乗寺がいるので、雑居ビルの裏通りを選んで走り出した。

 きっと、これで美野里を助け出せる。姉の力になれる。また、これまで通りに一緒に暮らせるようになる。息を切らして走りながら、つばめは感情と共に込み上がってくるものを目元から拭った。離れてみて改めてよく解る。つばめの中で美野里がどれほど大きい存在だったか、大切だったか、愛おしかったか。

 一刻も早く、姉と再会したい。


 吐きすぎて、内臓まで出てしまいそうだった。

 出すだけ出して少し気分が落ち着いた寺坂がよろけながらトイレから脱すると、事務所の中は様変わりしていた。一乗寺がいなくなっていて、美野里の仕事机の上のものがそっくり床に散乱していて、道子と吉岡りんねに酷似した少女と羽部鏡一が昏倒していた。武蔵野は少女と羽部を介抱していたが、寺坂に気付いて振り向いた。

「つばめがやったんだ」

「機能停止させた、っつーことかぁ?」

 給湯室に入った寺坂は手近なコップに水を注ぎ、一気に飲み干した。

「そうだ。備前美野里から電話が来たと思ったら、お嬢に良く似た御鈴様とやらを眠らせて、羽部も黙らせて、ついでに道子もやられた。一乗寺も何を考えているのか解らんが、あいつも何を考えているのかさっぱりだ」

 武蔵野が嘆くと、寺坂はひどく痛む頭を押さえながら事務室に戻ってきた。

「えぇー、みのりんがぁ?」

「裏切ったんだよ、あの女は。でもって、つばめちゃんを唆しやがったんだ」

 事務所のドアを開けて大股に入ってきた一乗寺に、武蔵野は身構える。

「その気なら、相手をしてやる」

「俺が殺したいのはむっさんじゃない。よっちゃんでもない。裏切り者の虫女だ」

 一乗寺が吐き捨てると、寺坂は一乗寺に詰め寄る。

「たったそれだけのことでみのりんを殺そうってのか、おい、一乗寺!」

「事と次第によっては、よっちゃんだって例外じゃない」

 かすかに熱を含んだ銃口を寺坂の下顎に突き立て、一乗寺が目を据わらせると、寺坂は言い返す。

「一度裏切ったぐらいで、なんだってんだよ。可愛いもんじゃないか。それで被害を被るとしても、どうってことねぇ。つばめを唆した? 馬鹿言うな、美しい姉妹愛じゃねぇか。つばめがみのりんの言うことを疑いもしねぇっつーことは、みのりんがつばめに注いだ愛情が真っ当だった、何よりの証拠だ。それぐらいで、ぎゃあぎゃあ騒ぐな」

「あの女のどこがいいのさ。俺、よっちゃんのことは好きだけど、女の趣味だけは理解したくないね」

 引き金に指を掛けた一乗寺が銃口を寺坂の喉に押し付けると、寺坂は少し噎せたが唇の端を上げる。

「なんだ、妬いてんのか? 女になったからって俺に欲情されないのがそんなに悔しいか?」

「好意がイコールで恋愛感情になるわけないじゃんか、脳みそ下半身直結男。俺はよっちゃんから欲情されなくても別になんとも思わないし、何も感じないし。欲情しているだけの相手の行為を全肯定するだなんて、短絡的を通り越してアメーバ以下の思考だよ、プラナリアだってもうちょっと物事を考えて繁殖するよ」

「だからって、最初から殺そうとするんじゃねぇ。とりあえず、話を聞いてやろうぜ。つばめも、みのりんも」

 寺坂は触手を用いて銃口を下げさせようとするが、一乗寺は腕に力を込めて抵抗した。

「嫌だね。裏切られたのになんとも思っていないふりをする、よっちゃんが一番嫌だ!」

「そういうお前は、誰に裏切られたんだ。そうでもなきゃ、そこまでいきり立たんだろ」

 少女と羽部の様子を気にしつつ、武蔵野が指摘すると、一乗寺は勢いを失った。そのまま銃口も下げ、身も引く。

「すーちゃんだよ。あいつ、馬鹿だ。本当に馬鹿だ。俺の正体を解っているなら、俺の傍から離れていく必要なんてどこにもなかったのに」

「周防国彦は男だぞ」

 武蔵野が怪訝な顔をすると、一乗寺は子供っぽい表情で拗ねた。

「今の俺は女だし、元々女なんだよ、俺っていう生き物は。だから、別にいいじゃんか」

「だったら解るだろ、俺がみのりんを裏切りたくねぇ気持ち」

 寺坂は脱ぎ捨てていた服を着込み、右腕の触手を腕の形に整えてから包帯を巻き付けた。

「そう言うわりに、商売女に手を付けるのか。矛盾しているな」

 武蔵野が嘲笑すると、寺坂は舌を出す。

「だーから、それは別腹っつってんだろー。相手も商売なんだしさぁ」

「惚れた男に突っぱねられて寂しいからって、俺達に八つ当たりするもんじゃない」

 拳銃の残弾を確かめながら武蔵野が言うと、一乗寺は予備のマガジンを差し込みつつ、むっとした。

「余所様の人妻に横恋慕しておいて、よく言うよ。よっちゃんもむっさんも、人のことなんか言える義理かっての」

「で」

 寺坂に乞われ、武蔵野はジャケットからイグニッションキーを取り出した。

「つばめを止めに行く。コジロウと合流される前に正気に戻せればいいんだが、俺達よりも早くコジロウがつばめの元に来ていたらお手上げだな。だが、その時はその時だ」

「あーあー、どいつもこいつも見苦しいったらありゃしない」

 俺もだけどさ、と一乗寺がぼやくと、武蔵野は苦笑する。

「色恋沙汰ってのは、歳を食えば食うほど難しくなっちまうからな」

「その点、商売女の単純なこと! 金さえ出せばいいんだもんなー! だから止めらんない」

 事務所の鍵を弄びながら、寺坂は真っ先に事務所を出た。武蔵野は少女と羽部の様子を確かめ、外に出ていったという旨のメモを書いて応接テーブルに置いて、事務所を後にした。一乗寺は全開になっていた窓とカーテンを閉めてから外に出てくると、さっさと行くよ、と二人を急かしてきた。

 だが、外に出たところで三人は気付いた。誰も車を持っていない。寺坂と武蔵野の車は、前日のロボットファイトの会場である郊外の自然公園の駐車場に駐めたままだった。一乗寺は奥只見ダムへと通じるトンネル内での一戦で軽トラックが破損して以来、自家用車を持っていないし、乗ってきていなかった。昨夜、一ヶ谷市内へ移動してきた際は、小倉重機の社員が運転するトラックに便乗してきたそうだ。となれば、今、動かせる車といえば。

「おい、出るとこ出ようや」

 フロントガラスが大破した愛車を見つけた寺坂が一乗寺に凄むが、一乗寺はしれっとした。

「だって、非常時だったんだもーん。大したことないって」

「お前はあれが俺の車だって知っていて攻撃したんだな、そうだな!? 八つ当たりするにしたってな、もうちょっと相手を選んで八つ当たりしやがれ! むっさんとか!」

 一乗寺を揺さぶりながら捲し立てた寺坂に、武蔵野は渋い顔をした。

「どさくさに紛れて俺に変な役割を振るな」

「えー、いいじゃん。むっさんは人畜無害なんだから」

「あなたっていい人ねポジションなんだもん、むっさんは」

 今し方まで言い合っていた寺坂と一乗寺が妙なことで同調したので、武蔵野は嘆く気すら失せた。

「いいから黙って車に乗れ。運転は俺がする、寺坂は酒が抜けていないし、一乗寺に任せたら事故っちまう」

 えー俺の車なのにー、えーつまんなーい、と二人から文句が上がったが、武蔵野はそれを無視して運転席に乗り込んだ。幸いにもイグニッションキーは刺さったままで、エンジンも動きっぱなしだった。狭い2シーターではあるが、頑張れば全員乗れなくもない。大柄な寺坂が助手席に収まると、一乗寺はその膝の上に収まった。シートベルトを付けられる余裕はなくなったが、この非常時に細かいことを気にしていては始まらない。

 寺坂の携帯電話は持ってくるのを忘れてしまっていたのと、武蔵野の携帯電話は充電し忘れてバッテリーの残量が心許ないので、一乗寺の携帯電話のGPSを利用してつばめを捜すことにした。以前、道子がアマラが情報処理に用いる異次元宇宙と遺産同士の互換性を利用して作ったつばめちゃんホットラインを使えばもっと早く見つかるのだが、当の道子とアマラが機能停止している影響か回線が繋がらなかった。恐らく、道子が安全のために機能停止した場合には全回線を凍結させる設定を施しておいたのだろう。だが、それはつばめを探し出すための障害にはならない。砕けたフロントガラスを突き破って視界を確保してから、武蔵野はコルベットを走らせた。

 GPSには、つばめの現在位置を示すマーカーが表示されていた。



 走り続けた末、市街地から脱して農耕地に至った。

 つばめは疲れた足を曲げて倉庫の壁に寄り掛かり、額から流れ落ちてきた汗を拭い取った。念のために武蔵野達の携帯電話の現在位置を確かめるためにGPSを見てみると、武蔵野と一乗寺の名前が明記されたマーカーが立体地図を移動していた。それを見た途端、どっと疲れが出た。また走らなければならないのか。

 自転車もなければ、乗せてくれるような車もない。これでは、すぐに捕まってしまう。武蔵野も信用出来ないとなると頼る相手はいない。美月や小倉重機の面々を巻き込むわけにはいかない。コジロウさえ来てくれれば、そんな心配をする必要すらないというのに。つばめは汗ばんだ頬を押さえてから、俯いた。

「コジロウ……」

 少し離れただけなのに、寂しくてたまらない。またすぐに会えるのと知っているのに、一刻も早く会いたい。つい先程まで一緒にいたのに、触れ合っていたのに、彼がいないだけで切なくてどうしようもない。コジロウの動力源であるムリョウも当然ながら遺産だ。それもまた、シュユの支配を受けているかもしれない。ならば、つばめの手でコジロウを機能停止させなければならないのだろうか。

 美野里の指示であろうと、それだけは聞き入れられない。コジロウは正気を保ってくれる。彼にとってはつばめが最優先事項なのだから。たとえ操られていたとしても、つばめが触れ、語り掛ければ、きっとすぐに元通りになってくれると信じている。新免工業に嵌められた時と、同じ過ちを繰り返したくはない。

 お揃いにするために買ったはいいものの、結局、自分の私物に貼り付けられていない片翼のステッカーの片割れを撮影した写真を待ち受け画面に設定している。それを見つめ、つばめは唇を噛んだ。一乗寺の言っていたことはもっともらしかったが、だからといって美野里を無下に出来るものか。

 どこからか、甲高いスキール音が聞こえてきた。もう追い付かれたのか、とつばめが腰を浮かせると、蒸気の白煙を纏った影が滑り込んできた。倉庫の裏手にある雑草を蹴散らし、更に砂利と土を盛大に抉りながら減速したのは、白と黒の外装に張り替えたばかりのコジロウだった。つばめは嬉しさと驚きが入り混じり、目を丸めた。

「コジロウ!」

 廃熱のために開いた外装を閉じてから、コジロウはつばめに向き直った。真紅のゴーグルと白いマスクフェイス、そしてパンダカラー。つばめは鼓動が早まり、コジロウに駆け寄っていった。

「どうしたの、改修は夕方まで掛かるんじゃなかったの?」

「本官の自己診断により、外装の張り替えのみで通常業務への移行が可能だと判断した」

「じゃ、メンテナンスとかは」

「部品の消耗は問題はない。機体の駆動に支障を来さない」

「本当に大丈夫なの?」

 昨日、レイガンドーと壮絶な試合を繰り広げたのだから。つばめが心配すると、コジロウは食い下がった。

「大丈夫だ」

「でも、ちょっと呼んだだけですっ飛んでくるなんて、心配性だなぁ。電話も掛けていなかったのに」

 彼の忠実さが微笑ましく、つばめは少しだけ気持ちが緩んだ。コジロウだけは、つばめを裏切らないのだから。

「つばめに関する通信は、音声、文書、映像、画像、全てを傍受している。よって、容易だ」

「うえ?」

 コジロウが真顔で述べた事実に、つばめは声を潰した。確かにつばめを守るためならば、それが安全であり確実ではあるのだが、さすがに引っ掛かった。やりすぎだ。となると、嬉しすぎてちょっと泣きそうになりながら美野里と交わした電話の内容も、昨日の試合後に高揚した気持ちのまましたためて美月に送ったメールの文面も、ここぞとばかりにシリアスの格好をしたコジロウを撮影しまくった写真も、動画も、コジロウ本人に筒抜けだったのだ。

 途端に状況の深刻さが吹っ飛びかねないほどの羞恥心に襲われ、赤面したつばめはコジロウに背を向けて頭を抱えた。恥ずかしすぎて喉の奥から変な声が漏れてしまった。コジロウはつばめに近寄り、訝ってくる。

「何事だ、つばめ」

「ストーカーって罵られても文句言えないよ、それ! 匙加減ってのがないよ、コジロウのやることって常にゼロか一〇〇かのどっちかだよ! いやああ恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしいー!」

 つばめが壁に頭をぶつける勢いでうずくまると、コジロウは少し首を傾げた。

「本官はつばめの状況を把握し、認識し、分析した上で判断を行うべく、常に情報収集を」

「こ、今度からは、情報を保存するだけしておいて必要な時だけ見て! 必要じゃなかったら見ないで! でないと、もう電話もメールも出来ないし携帯で色々と遊べない!」

 つばめが半泣きになりながら意見すると、コジロウは更に首を傾げる。

「しかし、本官はつばめを守るという職務が」

「だーからっ!」

 暖簾に腕押しとはこのことだ。つばめは倉庫の壁に背を当てて、とりあえず気分を落ち着けようと深く息を吸った。コジロウの排気に混じっていた真新しい機械油の匂いも吸い、一層胸が詰まってしまった。一度でも意識してしまうと、そう簡単に振り払えるものではないからだ。コジロウはつばめの言いたいことが理解出来ないのか、首を傾げた角度を保っている。その仕草に彼らしからぬ人間臭さを感じ、あ、可愛い、と場違いな感情を覚えた。

 二人のいる倉庫に向かって、車のエンジン音が近付いてきた。すかさずコジロウは音源へと振り返り、つばめは彼の背中越しに車の姿を捉えた。一乗寺の狙撃によって、フロントガラスが砕けたスポーツカーだった。運転席から下りてきたのは武蔵野で、助手席からは一乗寺を抱えた寺坂が下りてきた。

「ここにいやがったか。手間を掛けさせてくれるぜ」

 寺坂は酔いが抜けきっていないのか、足取りが不安定だった。一乗寺は寺坂の腕を振り払い、拳銃を抜く。

「ありゃりゃ、コジロウが来ちゃった。仕事が増えちゃったけど、ま、なんとかなるでしょ」

「つばめ、悪いことは言わん」

 武蔵野はつばめに近付きながら、皮の分厚い手を差し伸べてきた。

「俺達を」

 信じてくれ、と言われた気がしたが、その言葉が脳に至る前につばめは行動に移っていた。コジロウの首に腕を回してしがみつき、船島集落に向かってくれと命じた。コジロウは左腕でつばめを抱えると、脚部から雑草で汚れたタイヤを出し、先程刻み付けたタイヤ痕をなぞるように発進した。あっという間に三人の姿が遠のいていき、つばめはちょっとした優越感すら感じながら、進行方向を指し示した。コジロウは頷き、船島集落に至る道路に入った。

 もうすぐ、美野里に会える。



 船島集落の奥へと進み、叢雲神社に到着した。

 コジロウは徐々に減速して鳥居の前でブレーキを掛けると、抱えていたつばめを地面に下ろした。つばめは骨身に染みた震動のせいで乗り物酔いに陥っていたが、なんとか堪えた。コジロウに抱えられて移動するのはとても好きなのだが、彼は普通の車やバイクとは違ってクッションというものがないので、乗り心地は最悪だ。おまけに顔も丸出しだったので、髪もぼさぼさで目も乾いてしまった。つばめは何度も瞬きして眼球を潤し、髪も少しばかり整えてから、叢雲神社を仰ぎ見た。

 叢雲神社は変わっていなかった。忘れもしない夏休みのあの日、新免工業の戦闘部隊に襲撃された時と同じく、うら寂しく佇んでいた。赤い塗料が剥げかけた鳥居も、枯れ葉が堆積した石段も、雑草が生え放題の境内も、時間が止まっているかのように変化がなかった。本当に、この向こう側に弐天逸流の本部があるのだろうか。

「んー……」

 つばめは訝しみながら鳥居に近付き、石段を見上げてみた。だが、そんなものがあるとすれば、夏休みに訪れた時にコジロウが気付いているはずだ。鳥居を出たり入ったり、と繰り返してみるも、やはりただの鳥居に過ぎない。もしかして美野里に担がれたのでは、とつばめの心中に疑念が過ぎった。が、すぐに否定した。

「お姉ちゃんを信じるって決めたんだもん!」

 しかし、どうやって異次元に繋がる出入り口を開くのだろうか。そもそも、本当にそんなものがこの世に存在しているのだろうか。あったとしても、こちらの空間で生きているつばめが入れるのだろうか。一度疑うと、次々に疑問が湧いてきてしまい、つばめは今更ながら不安になってきた。けれど、正気かどうか疑わしい一乗寺達を信用する気は全く起きず、つばめは悶々と思い悩んだ。

「ねえコジロウ、異次元ってどうやって行くの?」

「本官はその質問に対して答えることは不可能だ。情報が不足している」

「じゃあ、言い直そう。弐天逸流の本部がある異次元って、本当にここから行けるの?」

「本官はその質問に対して答えることは不可能だ」

「情報が不足しているから。うん、私もそんな気はした。じゃ、もう一度言い直そう。異次元空間が作れるような遺産ってあるの? もしかして、それがシュユなの?」

「遺産に関する情報についてはプロテクトが施されているが、つばめによって遺産の識別名称を呼称されたため、プロテクトの全段階を解除する。よって、その質問に対する返答が可能となった。シュユとは遺産の一つであり」

「で、その続きは?」

「明文化されていない。よって、口頭による説明は不可能だ」

「へ?」

 それでは、シュユがどういった遺産なのかコジロウにも解らないのか。つばめは理不尽だと思ったが、コジロウの口振りからすると、コジロウ自身はシュユがいかなる能力を持った遺産なのかは理解出来ているのが、その能力を説明するための文章が出来上がっていないから説明出来ない、ということか。歯痒くなったが、それもまた祖父の手によるセキュリティの一つなのかもしれない。

 しかし、シュユの正体が解らなければ手の打ちようがない。美野里の話では、弐天逸流の本部が存在している異次元はシュユが掻き集めた信仰心によって支えられていて、シュユが機能停止すれば異次元の出入り口が開く、とのことだった。そして、叢雲神社で落ち合おう、と言われたので来てみたのだが、当の本人が見当たらない。自力で脱出出来ると言っていたのに、途中でトラブルでも発生したのだろうか。

 美野里に会いたいと思うからこそ、思い切った行動が取れたのに。つばめは無性に切なくなり、冷え切った鳥居に寄り添った。コジロウはつばめの挙動を見つめているだけで、突っ立ったままだった。縋るような気持ちで胸元に下げているナユタを握り締めたが、指の間から光は漏れなかった。機能停止させているからだ。

 不意に、コジロウが反応した。両耳のパトライトの明かりがいやに目立ち、辺りが薄暗くなった。雲が流れてきて太陽が翳ったのだろうか、とつばめは空を見上げるが、空は曇っていなかった。けれど、空とつばめを隔てている空間に水分の微粒子が流れ込んできていた。霧だ。

「どこから流れてきたの、これ?」

 船島集落の中を通り抜けてきた時は、なんともなかったのに。つばめが周囲を見回すと、ペンダントのチェーンが何かに引っ掛かった。そのせいでつんのめり、転びそうになり、鳥居に手を付いて凌いだ。枝に引っ掛けてしまったのだろうか、とチェーンを引っ張ってみると手応えがあった。ペンダントトップ、すなわちナユタが空中で消えていた。何事かと目を丸めたつばめは今一度引っ張り返してみるが、ナユタは出てこない。鳥居の真下の空間にチェーンが縫い付けられたかのような状態で、引っ張り返すと、それ以上の力で引っ張られてしまう。

「うわわわっ!」

 このままでは引っ張り込まれる。つばめが必死に抵抗していると、コジロウがすぐさま駆け寄ってきた。つばめの首の後ろにあるチェーンのホックを指で潰し、引き千切ると、チェーンは空間に吸い込まれていった。コジロウの手で背中を支えられたつばめは、訳が解らずに口を半開きにした。一体、何がどうなっている。

 ナユタを飲み込んだ後、鳥居に囲まれた空間から白い靄が溢れ出してきた。それは霧を一層濃密にし、視界を狭めた。つばめがコジロウにしがみつくと、コジロウはつばめの肩を優しく押して背後に移動させた。霧を掻き分けて鳥居の中から出てきたのは、小柄な人影だった。その姿が視認出来た途端、つばめは歓喜した。

「お姉ちゃん!」

 姿を消した時とは服装は異なるが、美野里に間違いない。つばめが駆け寄ると、着物に袴姿の美野里はつばめに向かってきた。いつも通りの明るい笑顔を浮かべながら、つばめに抱き付いてきた。

「つばめちゃーんっ!」

 この柔らかさ、この匂い、この声、この笑顔。つばめはいつになく力を込めて美野里に抱き付き、これまでの寂しさを振り払うために笑い返した。つばめの背中に回されている美野里の手中には、ナユタが収まっていた。

「さっき、ナユタを引っ張ったのはお姉ちゃんだったの?」

「ええ、そうなの。異次元からこっちの空間に移動するためには結構な量のエネルギーが必要だから、ちょっとナユタを借りたの。おかげで、またつばめちゃんに会えたの。お姉ちゃん、嬉しい」

 そう言って美野里が掲げてみせたナユタは、淡く発光していた。その光を受け、つばめは不思議がる。

「あれ? ナユタはお姉ちゃんが言う通りに機能停止させておいたのに、どうして再起動しているの?」

「ふふ、それはね」

 笑顔を保ったまま、美野里はつばめに手を差し伸べてきた。頭を撫でるのか、頬に触れるのか、とつばめが子供染みた期待を抱いていると、美野里は躊躇いもなくその手を振り上げた。乾いた破裂音が響き渡り、つばめの頬が平手で殴られた。衝撃と痛みでつばめがよろけると、美野里は小首を傾げた。

「本当のマスターが使っているからよ、つばめちゃん」

「お、あ……」

 予想外の出来事と痛みで混乱したつばめが口籠もると、コジロウが美野里の前に立ちはだかった。

「つばめに危害を加えた。よって、現時刻より、備前女史を敵対勢力として認識する」

「どうぞ、御勝手に。大したことじゃないもの」

 美野里は柔らかな語気で返し、ナユタのチェーンを絡めている左手を下げ、袖口に別のペンダントを滑り落として手首に引っ掛けた。それは、以前吉岡りんねが身に付けていた、水晶玉のペンダントだった。

「お姉ちゃん、どうしちゃったの? ね、ねえ、お姉ちゃん!」

 つばめは赤く腫れた頬を押さえて後退ると、美野里は薄く目を開いた。

「お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん、ってしつこいわね、つばめちゃん。私はあなたのお姉ちゃんじゃないし、あなたにはお姉ちゃんなんて存在していないの。解るでしょ、あなたの両親がろくでもないから、うちの親があなたのことを引き取ってくれただけって。だから、あなたはお金が大好きで打算的で他人の顔色を読んで行動するような腹黒くて浅ましい子供になったってことも。それなのに、なんで私にはしつこく甘えてくるの?」

「だ、だって、それは」

 お姉ちゃんが私に甘えてきたから、とつばめが言おうとすると、美野里は頬を歪ませた。笑みではない。

「私が本当にあなたのことを好きだとでも思っていたの? そんなわけないじゃない、私はあなたを大事にすることで家族の中でポジションを保っていたのよ。うちの家族にいきなり入ってきて、私のお父さんとお母さんを独り占めにしたあなたのことなんか、好きになるわけがないじゃない。妹なんて欲しくなかったし、私以外の子供なんていらないのに、マスターがどうしてもって言うから引き取ってあげて、可愛がってあげたんじゃない」

「マスター……?」

 つばめが聞き返すと、美野里は水晶玉のペンダントを掲げた。

「そうよ、マスターよ。あなたは所詮、マスターが作った管理者権限保持者のスペアなのよ。吉岡りんねはスペアのスペアではあったけどね。マスターがラクシャの内部で情報を整理して管理者権限を上書きするための準備が整うまでの間、他の組織に狙わせるためのデコイ、オモチャ、人身御供、なんとでも言えるわ。あなたは偽物なの」

 奥歯ががちがちと鳴り、膝が笑い出していた。つばめは心臓を握り潰されたかのような痛みと戦いながら、美野里を見上げていた。姿形は美野里だ。確かに美野里だ。だが、その中身は別人と化してしまった。いや、違う。今までつばめに見せていた顔の方が演技で、これこそが本当の美野里だ。だから、美野里の表情はいつになく活気が漲っていて、口調も滑らかだった。嘘を吐いていないから、躊躇いもないのだ。

「つばめちゃん。あなたはね、何も得ていないの。遺産は最初からマスターの所有物であって、あなたの所有物じゃないのよ。だって、そんなに都合のいい話があるわけないじゃない。親のいない子供に莫大な財産が相続されたとしても、宝の持ち腐れよ。あなたが莫大な財産とオーバーテクノロジーの産物を生かせるわけがないし、たとえ使い道を見出したとしても、児戯に過ぎないわ。だから、マスターのものなのよ。解る? そのゴミみたいな脳みそで」

 美野里は口角を吊り上げながら、つばめに迫ってくる。つばめは怯えで心臓が高ぶり、呼吸も浅くなっていた。

「う、ぁ」

「だから、この木偶の坊もマスターのもの。あなたの兄弟でも家族でも、恋人ですらないわ」

 そう言って、美野里は水晶玉のペンダントをコジロウの目の前に突き出した。コジロウは身構えかけるが、毒気を抜かれたかのように解いた。両肩を落として項垂れた警官ロボットは、ゴーグルからも両耳のパトライトからも光を失い、微動だにしなくなった。つばめは何度も彼の名を呼ぶが、応答はなかった。

「ただのエンジンよ。それなのに、名前まで付けて可愛がるなんて笑えちゃう。馬鹿馬鹿しすぎて」

 コジロウを小突いて転倒させてから、美野里はつばめに近付いてくる。つばめは顔を背けるが、顎を掴まれた。

「マスターの御命令には入っていないけど、あなたを処分してあげる。大丈夫よ、あなたの血肉は無駄にはしないから。肉を一つ一つ綺麗に切り刻んで、血も一滴残らず抜き取って、骨も粉々に砕いて、内臓も取り出して、全部加工して、マスターが管理者権限を上書きするために使う生体安定剤にしてあげるから」

 つばめに触れている美野里の手が変化していく。細く長い指が硬く黒い爪となり、つばめの頬の皮を薄く切った。そればかりか、美野里自身も変貌した。藤原伊織と同じように、皮膚の下から分厚い外骨格が迫り上がり、体格が膨張し、着物が破れた。黒い外骨格、艶やかな複眼、長く節の付いた触角、一対の透き通った羽、薄緑の光を放つオーブ状のものが体の至るところに備わっている。ホタル怪人だった。

「あ、あ、ああぁっ……」

 つばめの脳裏に記憶が迸る。ぼんやりとした視界に捉えていた、産まれて間もない頃に目にした光景だ。それを覚えていることを自覚したのは、今、この瞬間だったが、それは真実なのだと本能で確信する。このホタル怪人が、つばめを攫っていったのだ。都内のマンションに移送された母親を襲撃し、武蔵野の右目を潰し、つばめを母親の元から引き離した張本人だ。覚えている。ホタル怪人の腕の中で泣き叫んだことも、産着と毛布にくるまれて備前家の玄関先に置かれたことも、その後、何食わぬ顔で現れた美野里に笑顔を向けられたことも。

 それなのに、つばめは美野里を愛していた。慕っていた。好いていた。家族だから、本当の姉も同然だから、全力で信頼していた。けれど、美野里は最初から全てを知っていた。知っていたから、美野里は、つばめを。

 ホタル怪人は、淀みない動作で爪を振り上げる。つばめは途方もない絶望で硬直し、逃げるという選択肢すらも思い浮かばなかった。コジロウは機能停止された。再起動させるためには口頭で命じるか、触れて念じるか、そのいずれかを行わなければならない。だが、声が出ない。コジロウには手も届かない。いつのまにか滲み出した涙が顎から首筋に伝い、襟元が濡れていた。では、一乗寺も、誰も、操られていなかったのか。全部、美野里がつばめを言いくるめるための嘘だったのだ。その嘘を嘘だと思わせないために、今の今まで、姉を演じてきたのだ。

 猛烈なエンジン音と共に光条が差し込み、更に銃声が降ってきた。つばめが我に返ると、ホタル怪人は被弾して仰け反っていた。船島集落に繋がる狭い道を強引に駆け抜けてきたのは、フロントガラスがなくなってオープンカーと言っても差し支えのない姿のシボレー・コルベットZ06だった。そのフロントガラスから銃身を突き出していたのは、ライフルを担いだ一乗寺だった。この濃霧の中、移動しながらホタル怪人に命中させたのか。

「あら、もう来ちゃったの」

 ホタル怪人は少し残念そうに漏らしてから、おもむろにコジロウを掴んだ。それを軽く持ち上げて一振りし、機体が宙を舞った。手足を前後に揺らしながら重力に従って落下した警官ロボットは、真っ直ぐ突っ込んでくるコルベットのボンネットに突き刺さった。途端にコルベットは蛇行し、急ブレーキを踏んで草むらに突っ込んだ。

「あっぶねーなーもー!」

 死ぬかと思った第二弾だ、と叫びながら助手席から出てきたのは寺坂で、同じく助手席から下りてきた一乗寺はスナイパーライフルを放り投げてから、ハンドガンに持ち直した。

「あーあ、ひっどいの。女の子をいじめるなんて」

「つばめ、大丈夫か!」

 運転席から下りてきた武蔵野に呼び掛けられ、つばめは緊張の糸が緩んで号泣した。武蔵野はすぐさまつばめに駆け寄って宥めてから、ホタル怪人に銃口を据えた。

「お前は備前美野里だったのか」

「ええ、そうですよ。もう少し早く気付いていれば、とか思いましたか? でも、気付いても無駄なんです、ただの人間でしかない武蔵野さんが私に勝てるわけがないんですから」

 ホタル怪人が触角を靡かせると、一乗寺が躊躇いもなく発砲した。複眼に被弾したホタル怪人は首を後方に逸らすが、仰け反りはしなかった。薄い煙が晴れると潰れた鉛玉が複眼から落ちたが、複眼に弾痕は空いておらず、無傷だった。一乗寺が舌打ちすると、ホタル怪人は一乗寺を捉えると同時に足元を踏み切り、距離を詰めた。

「ほら、この通り」

「げぐぅっ」

 背を丸めた一乗寺が、濁った呻きを漏らした。その腹部には、ホタル怪人の爪が深々と埋まり、彼女の背中には赤黒い染みが広がりつつあった。一瞬、と呼ぶにも短すぎる時間で移動したのだ。ホタル怪人は一乗寺の下腹部から爪を抜き、血を払うと、今度は武蔵野に向かった。

 銃声が上がった。だが、弾丸は虚空を貫いただけだった。反射的に応戦しようとしたが間に合わず、武蔵野の手は脱力してだらりと落ちた。その下腹部にも爪が差し込まれ、生温く鉄臭い液体が地面に零れ落ちた。膝を折って掠れた呼吸を繰り返す武蔵野の後頭部にかかとを落とし、昏倒させてから、ホタル怪人は寺坂に向いた。

「イカスぜ、みのりん」

 寺坂は肩を揺すって笑いながら、ホタル怪人に無防備な足取りで向かっていく。

「それで口説いているつもりですか? 商売女にしか相手にされないくせに、金をばらまかなければ男として認識されないどころか拒絶されるくせに、実の親にも見限られたくせに」

 ホタル怪人の刺々しい言葉に、寺坂は足を止めた。が、高笑いした。

「本当のことを言われて傷付くようなタマに見えるか、この俺が? そんなに弱っちいタマをぶら下げているような男になったつもりはねぇよ。だったら、俺も本当のことを言ってやる。みのりん、お前ってさぁ」

 黒い爪が、寺坂の言葉を遮った。同時に、彼の右腕の根本を切り裂いていた。ぼとん、と地面に転げた触手の束はぐねぐねと不気味に蠢き、血と体液にまみれた輪切りの切断面を砂利に擦り付けていた。寺坂は笑みを保とうと尽力していたが、血が滝のように流れ落ちる右肩を押さえて片膝を付き、唸った。

「馬鹿、最後まで言わせろよ。そんなに急かすと暴発しちまうぜ?」

「あなたって、本当に不潔ですね」

 軽蔑しきった声色で言い放ち、ホタル怪人の爪が翻る。寺坂の首筋が裂かれ、鮮血が噴き上がる。彼の足元には血の海が出来上がり、赤黒いものが円形に広がっていく。逃げろ、行け、絶対に振り返るな。半死半生の武蔵野と一乗寺に命じられ、つばめはだくだくと涙を流しながら立ち上がった。ホタル怪人が追ってくる気配があったが、武蔵野の渾身の銃撃がそれを阻んでくれた。恐怖を少しでも紛らわすために絶叫しながら、右も左も解らない霧の中を走っていった。道なき道を掻き分け、死と絶望に押し潰されそうになりながら、つばめは走り続けた。

 立ち止まることが怖かった。

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