坊主が憎けりゃケースも憎い
最悪の気分だった。
気晴らしに吹かしたタバコは一際苦く、腹の底で悪感情が渦巻いている。西日の切れ端が薄く差し込む倉庫の裏で、無惨な姿を晒している少女達を今一度見下ろす。間違いない、夏祭りの最中に行方不明になった香山千束とその友人達だ。彼女達は死んでいる。生きているわけがない。だから、きっとアレなのだと判断して処理した。
何度経験しても、苦痛に苛まれる。寺坂は頭部や胸部を撃ち抜かれて絶命している少女達に背を向け、タバコを深く吸い込んだ。吐き気とため息を誤魔化すために鋭く煙を吐いていると、武蔵野が戻ってきた。熱を帯びた愛銃をホルスターに差し、携帯電話をポケットに戻した。
「政府の連中、事後処理をしてくれるそうだ。御丁寧なことだな、一乗寺がいないってのに」
「あいつがいようがいまいが、関係ねぇんだよ。人間じゃねぇ連中が人間の振りをして社会に紛れていても、常人にはそれを見分ける手段はないからな。解剖しても人間そのものだし、上等なクローンみてぇなもんだから、本人の記憶もクセも引き継いでいるから区別の付けようがないんだ。だから、俺と一乗寺にゴミ掃除をさせるんだ」
寺坂は右手の袖口から零れている触手を伸ばし、涙を流しながら絶命している少女達に似た別物の口に触手をねじ込んだ。香山千束の細い食道には胃の内容物と血液が混じったものが迫り上がっていて、寺坂の触手という異物によって押し出され、口の端からだらしなく溢れた。触手に探られているために顎を逸らして胸を波打たせた少女は息を吹き返したかのようだったが、アスファルトに投げ出された手足は微動だにしなかった。
この瞬間が、一番嫌だ。寺坂は香山千束の体温と肉の柔らかさを出来る限り感じないようにしつつ、触手の感覚を研ぎ澄ませて異物を探り出した。触れた瞬間に微細な電流が駆け抜け、直感する。寺坂のそれよりも少々細いが、確かに同じ触手だ。それを絡め取り、香山千束の喉から外界に引き摺り出して地面に放り投げた。体液と胃液にまみれた極太のミミズは乾いた土と砂を掻き混ぜるようにのたうち回り、武蔵野が声を潰した。
「うへっ」
「キモいったらないんだよ、毎度毎度」
寺坂は香山千束の体液と胃液と内容物がたっぷりと付いた触手を払ったが、滑り気は取れなかった。ねばねばと糸を引く触手を束ねる気には到底ならず、土と砂で身を覆う触手を拾い上げた。後でこれを自分の触手と同化させておかなければならないかと思うと、寒気がする。けれど、そうしなければ触手は何をするか解らないのだ。
「悪かったな、手ぇ貸してもらって。いつもなら一乗寺の奴に手伝わせるんだが、今のあいつはつばめの傍に置いておかねぇとどうなるか解らねぇからな。遺産の産物も管理者権限が効くからな、そのおかげで一乗寺はあの格好を保っていられるようなものなんだ」
寺坂はタバコの灰を落としてから銜え直し、自身の携帯電話を取り出して時刻を確かめた。ロボットファイトの公演時間は当の昔に終わっていて、道子からの着信が数件入っていた。武蔵野の助力を受けて香山千束とその友人達を追い詰めることで忙しかったから、気付かなかったのだ。メールも届いていたので見てみると、つばめと一乗寺は道子が寺坂の車を借りて送り届ける、とあった。武蔵野の車は後日取りに行け、とも。ロボットファイト自体は大好評を博して終了したそうで、次回の興行の予定も早速組み始めているそうだ。
REC会場の高揚した空気に浸って現実逃避をしたくなったが、今、終えるべきは触手の処理だ。寺坂は吐き気を堪えるために強く煙を吸い込んでから、汚れきった触手の表面に自身の触手を食い込ませた。が、手応えがやけに硬かった。これまで引き摺り出してきた触手とは違い、重量もあった。何事かと訝っていると、触手の表面が割れて金属製のカプセルが零れ落ちてきた。それもやはり体液にまみれていたが、明らかな異物だった。
「なんだ、これ?」
武蔵野に問われ、寺坂は眉根を寄せる。
「知るかよ、こんなもん。今までに何人も触手を引っこ抜いてきたが、こんなのが出てきたのは初めてだ」
「爆弾かもしれんな。吹っ飛ぶ前に壊しちまうか?」
「爆弾だったとしても、俺の触手が何十本か細切れになるだけで済む。開けてみらぁ」
寺坂は触手でカプセルを掴むと、捻ってみた。多少滑りはしたものの、拍子抜けするほど簡単に開いた。上下に分かれたカプセルの中から出てきたのは、ビニールで厳重に包まれた物体だった。寺坂が顎で示すと、武蔵野は渋々それを拾い、ビニールを切り裂いた。幾重ものビニールの中から現れたのは、二つの小さなカードだった。
「携帯のSIMカードとSDカードか」
「なんでそんなもんが、こいつの胃袋に入ってたんだよ」
「俺に聞くな」
武蔵野はSIMカードとSDカードを眺めていたが、寺坂に向いた。
「で、どうする。壊すか?」
「なんで初っ端からその発想しかねぇんだよ。それ以外の選択肢を考えろよ」
寺坂が若干呆れると、武蔵野はサングラスを上げて二枚のカードを入念に眺め回した。
「中身を見てみたいもんだが、ここじゃ拙いな。誰が見ているか解ったもんじゃない」
「差し当たって思い付く場所っつったら、あそこかな」
「女の部屋か? だったら勘弁願うね、お前のお手つきの女なんかを回されたらたまったもんじゃない」
武蔵野に茶化され、寺坂は口角を上げた。
「半分正解だな」
人間もどきの少女達の死体を隅に追いやり、倉庫裏に捨てられていた擦り切れたビニールシートを被せて隠してから、寺坂は武蔵野を案内した。その道中でどこに行くか見当が付いたらしく、武蔵野は苦々しい顔をした。夕刻の商店街を行き交う人々の間を擦り抜け、かつて生身の人間として生きていた道子が美作彰に轢殺された大通りを渡り、店仕舞いを始めた個人商店を横目に一本奥の通りに入ると、古い雑居ビルが建っていた。
塗装が剥げかけた階段の脇に設置された看板に、まだ新しいネームプレートが填っている。備前弁護士事務所。狭苦しい階段を昇りながら、武蔵野はふと疑問に駆られた。寺坂は合い鍵を持っているのだろうか。
「おい、寺坂。鍵、あるのか」
武蔵野の言葉に、寺坂はスポーツカーのキーがじゃらじゃらと付いたキーホルダーを出した。
「そりゃもちろん。でなきゃ、来るわけがねぇっての」
「備前美野里の部屋から勝手に拝借してコピーしたんだな」
「人聞きの悪いことを言うなよぉー。ドジッ子なみのりんがうっかり事務所の鍵をなくしたら大事だから、俺が首尾良く予備を作って手元に置いておいたんじゃないか」
「どこのストーカーの理論だ、それは」
武蔵野が顔をしかめると、寺坂は事務所のドアに鍵を差し込んで回し、開けた。
「人の嫁さんに横恋慕して十五年も引き摺りまくって童貞を拗らせすぎて魔法使いどころか大賢者にジョブチェンジしたむっさんにだけは言われたくねぇなー。それ、精神的なストーカーじゃん?」
「現実に行動していないだけ、俺はまともだ。それと、俺が女を知らないように見えるか?」
「ふはは、言ってみただけ。ぐずぐず腐っているよりも、すぱっと切り替えた方が潔くて格好良いと思うけどなぁ」
寺坂は少し埃っぽい事務所に入り、蛍光灯のスイッチを入れた。武蔵野は寺坂の後頭部を引っぱたく。
「だからって、手当たり次第に他の女に手を出すな! 備前美野里が好きなんだろうが!」
「特定の女がひたすら好きだからってなぁ、下半身が大人しくしているわけがねぇだろ! むっさんはその辺の妄想とか安いAVで満足出来るタイプなんだろうが、俺はそうじゃない! 六十分コースで本番有りじゃねぇと抜けん!」
やたらと誇らしげな胸を張った寺坂に、武蔵野は下痢でも起こしたような顔になりつつ、後ろ手にドアを閉めた。
「お前が一乗寺と仲良く出来ていた理由が解ったよ。いや、解りたくもなかったが……」
「で、むっさんは右手なの、左手なの」
「そんなもんを知ってどうする! シモの話から離れろ!」
年甲斐もなく羞恥心を覚えた武蔵野は、それを誤魔化すために寺坂を怒鳴りつけてから、件のカードを机に叩き付けた。道子がこまめに掃除をしていても埃は溜まるらしく、空気に流れに応じて埃の粒が舞い上がった。
「ん」
寺坂に手を差し伸べられ、武蔵野はそっぽを向いた。
「俺の携帯は貸さんぞ。新免工業との繋がりが切れちまったから、支給品もなくなった。俺の今のボスは、唸るほど金を持っているくせに払いが渋いからな。変なカードを突っ込んで携帯が壊れたから買い換えるための金をくれ、と言ったところで、汚物を見るような目を向けられるだけだ」
「あー、それもそうだな。むっさんを雇うと、弾薬代が馬鹿にならないしな。みっちゃんを雇った時は電気代が増えただけで済んだだろうけど、むっさんはメシも喰うし風呂にも入るし出すもの出すし、その分の出費が増えちまっているもんなぁ。となると、俺の御布施の額もまた減るな。むっさんに経費が割かれた分」
仕方ねぇ、と寺坂は二台目の携帯電話を取り出した。
「あーあーあー。出勤したってメールがあるよー、同伴OKだってー。あーあー勿体ないなぁ、今から行って閉店まで粘ればアフターでお持ち帰り出来るかもしれねぇのになぁー。なー、今からキャバ行かね? 俺の奢りで」
「いいから、さっさとやることを済ませろ。中身を確認したら、その情報に応じて今後の行動が決まるんだから」
「たまには景気良く遊ぼうぜー、むっさん。でねぇと、いつか潰れちまうぞ?」
「生憎だが、俺は女と遊ぶのは好きじゃない」
「じゃ、ニューハーフ系? あれは嫌いじゃないけど、この辺にはそういう店はないぜ?」
「そういう意味じゃないと何度言えば解るんだ!」
苛立ち紛れに武蔵野が机を叩くと、書類が舞い上がった。すると寺坂は仰け反り、げらげらと笑った。
「どぅえあははははははっ! んだよそのリアクション、昔の中坊かよー! どんだけエロ耐性低いんだよー!」
「一から十までシモの方面に向かうのが嫌なんだよ、俺は!」
「いいじゃん。シモっつーかさ、エロは生殖本能に直結した生物の在り方そのものだろ?
だから俺はエロが好き、化粧を盛りまくったお姉ちゃんと酒を飲むのが好き、でもってオスの象徴みたいなもんである車とバイクが大好き。開き直っちまえばいいんだよ、むっさんも」
ボテ腹が好きだって、と寺坂が付け加えたので、武蔵野は反射的に引き金を引きかけた。が、押し止める。
「ひばりを侮辱するような言葉を二度と吐くな」
「へいへい」
肩を竦めた寺坂は、応接セットに腰掛けてテーブルの上に両足を投げ出し、携帯電話の裏蓋を外した。一度電源を落としてからSIMカードを抜き、香山千束の体内から出てきたSIMカードを差し込んでから再度電源を入れた。数秒の間の後、ホログラフィーモニターには寺坂のものではないユーザー名が表示された。〈Viper〉
途端に電話が掛かってきて、寺坂はぎょっとして携帯電話を落としかけた。すかさず触手を伸ばして床に激突する寸前で拾い上げ、耳元に運んだ。武蔵野も寺坂の背後に立ち、音声に耳を澄ました。
「誰だよ、お前」
寺坂が不躾に質問すると、若干間を置いて返事があった。
『この素晴らしき才能の権化である僕に質問するだなんて、百科事典で焚き火をするような愚行だよ』
「だから、誰だよ」
寺坂が再度問い返したが、思い当たる節がある武蔵野は心底うんざりした。
「羽部だ。羽部鏡一。お嬢の部下だったことがある、フジワラ製薬の造ったヘビ怪人だ」
『おやおや。その品性どころか知性に欠ける物言いと錆びた有刺鉄線を引きずり回したような聞き苦しい声色は、対人戦闘しか能がない武蔵野巌雄じゃないか。なんであんたが寺坂善太郎と一緒にいるんだ? まあ、新免工業も佐々木つばめにしてやられたから、ってところだろうけど。計算違いだな。ああもう腹が立つね、屈辱的だよ』
羽部の修飾が多すぎる言い回しに、寺坂は早々にげんなりした。
「何だよこいつ。勘違いインテリが無駄なプライドと無意味な上から目線を煮詰めた感じ?」
「まあ、間違いじゃない。だが、羽部は俺達に味方するような奴じゃない。佐々木つばめにもだ。おい羽部、今、どこから電話を掛けているんだ? まずはそれを教えろ」
武蔵野が尋ねるが、羽部は鼻で笑い飛ばした。
『教えたって解るわけがないじゃないか。この優秀という言葉を体現している僕ですらも理解し切れていない場所だから、最終学歴が高校中退のあんた達なんかに理解出来たら、地球が爆発してしまうよ。でも、そっちにいる設楽道子になら解るはずだ。あの女も大概に頭が空っぽなスイーツだけど、アマラが使えるからね。同封したSDカードを設楽道子に渡せば、ある程度のことが解るはずだ。おおっと、この全宇宙からの賛美に値する僕に対して叫ぶのはなしだ。顎で使うな、使われるだけの理由がない、とかね。それがあるんだよ、充分に。特に、寺坂善太郎』
急に名指しされ、寺坂は舌を出した。
「うげぇ。俺、ヘビは嫌いなんだけどなぁ」
『この血肉を持った叡智の結晶たる僕を侮らないでくれる? 一度しか言わないからよく聞け。今、この秀麗という表現が相応しい僕がどこにいると思う? 弐天逸流の本部だ』
え、と寺坂が目を丸めると、武蔵野は訝った。
「お前、いつから弐天逸流に鞍替えしたんだ? 何でこんなに回りくどい方法を取って連絡をしてくるんだ?」
『その辺のことはSDカードを見れば解るんだから、いちいち説明させないでくれる? カロリーの無駄だし。とにかく、寺坂善太郎。あんたが長年探し求めて止まない弐天逸流の教祖が、ここにいるんだ。それだけ解っていれば、この天賦の才を体現している僕の言葉に従って行動せざるを得ないはずだ。じゃあね』
そう言い残して、羽部は通話を切ってしまった。武蔵野は精神的な疲労に苛まれ、一人掛けのソファーにどっかりと腰を下ろした。寺坂だけでも鬱陶しかったが、羽部はその倍以上の鬱陶しさだった。寺坂は羽部の無遠慮極まりない言葉の嵐にさぞや文句を言うだろう、と武蔵野は覚悟を決めていたが、寺坂は真顔で通話の切れた携帯電話を見つめていた。サングラスを外して目元を押さえた寺坂は、くくっと笑みを漏らして背中を引きつらせた。
「行くしかねぇなぁ」
「嘘じゃないのか? あのヘビ男は他人を騙すことなんて屁とも思っちゃいないだろうし、お前のことだって利用するつもりだろう。一応、道子には連絡を取ってみるが、真に受けるもんじゃない」
武蔵野は応接セットのテーブルに転がっているSDカードを取ろうとすると、寺坂の触手に阻まれた。
「いや、俺がやる。一から十まで俺がやる。弐天逸流に突っ込んで引っかき回して教祖の首を跳ね飛ばすまでは、誰にも邪魔はさせやしねぇ。それが誰であれ」
「粋がるなよ。俺達だけじゃろくなことが出来ねぇのは、身に染みているはずだ。気持ちは解るがな」
武蔵野はテーブルでうねる触手を払ってから、姿勢を戻した。寺坂は吹き出し、大笑いする。
「解る? 解るわけねぇだろうがよ、どこの誰にも俺のことなんか! 調子のいいこと言ってんじゃねぇぞ!」
次第に語気を荒げた寺坂は身を乗り出し、触手を使って武蔵野の胸倉を掴んだ。
「解ってほしくもねぇし、解ってもらうつもりもねぇが、二度とそんな戯れ言を吐くな! 内臓を引き摺り出すぞ!」
「……その前に、お前の脳天が消し飛ぶ」
後ろ手にホルスターから拳銃を抜いた武蔵野は、寺坂の眉間に銃口を据えた。ほのかな余熱を内包した鉄塊が骨に当たり、硬い手応えが返ってきた。掛け時計の秒針が動く音と互いの呼吸音が緊張感を促し、束の間、両者は睨み合う格好になった。事務所の手前の道路で車が通りすぎたのか、ブラインドの隙間から差し込んできたヘッドライトがぐるりと室内を巡り、二人の薄い影を際立たせた。
一度、深呼吸した後、寺坂は触手を緩めて武蔵野を放り出した。舌打ちし、ポケットから出したタバコを銜えて火を灯した。武蔵野は少々乱れた襟元を直してから、禿頭の男の横顔を見やった。
「寺坂。お前は、弐天逸流と何があったんだ」
「訊いたからには最後まで付き合えよ、むっさん。だが、素面じゃ話す気にならねぇや。酒だ酒、どぎついの」
寺坂が腰を上げたが、武蔵野は渋った。
「他人の仕事場で酒盛りか? 頭の足りない高校生みたいな発想だな」
「なんだかんだでむっさんは育ちがいいよなぁ。あれか、玄関先で靴を揃えちゃうタイプ? そそるねぇ」
適当に見繕ってくらぁ、と言い残し、寺坂は事務所を後にした。それから十数分後に戻ってきた寺坂は、ボトルのウィスキーとワインをこれでもかと詰め込んだ買い物袋を提げていた。ボトルをがちゃがちゃ言わせながらテーブルに荒っぽく置くと、おもむろにウィスキーを一本取り、瓶から直接呷った。度数のきつい蒸留酒を喉を鳴らして飲む様に、武蔵野は思わず口元を押さえた。見ているだけで悪酔いしそうな光景だ。
「さぁーてぇとぉ、世にも気色悪い身の上話の始まり始まりぃー!」
早々に酔いが回ったのか、寺坂は右腕を振り上げた。その拍子に大量の触手がばらけて扇状に広がり、不規則な影が武蔵野の頭上を過ぎった。武蔵野も酒は嫌いではないし、それなりに飲めるのだが、寺坂のような無茶な飲み方に付き合っては身が持たないので、給湯室にあった緑茶を入れて文字通り茶を濁すことにした。
触手と共に、生臭坊主の過去が紐解かれた。
十四年前。
寺坂善太郎は、僧侶である父親によって力ずくで仏門に入らされていた。生まれ持った素行の悪さで中学校では数え切れないほど問題を起こし、偏差値が恐ろしく低い高校に入ったはいいが間もなく退学になった。だから、そのねじ曲がった性根を叩き直すために戒律がかなり厳しい寺院に預けられ、これでもかと抑圧された。しかし、それが血の気が有り余っていた寺坂を一層鬱屈させることとなり、隙を見て寺院から脱走した。十八歳の時だった。
けれど、逃げ出したはいいが、行く当てはなかった。携帯電話も奪われたので不良仲間との連絡も取れなくなっているし、手持ちの現金は数えるほどしかないし、寺院の近隣には頼れる人間もいない。少し悩んだ末、寺坂は実家に帰ることにした。だが、真っ当な交通手段で帰れるほどの資金はなかったので、通り掛かったコンビニの駐車場に止まっていたバイクを拝借した。水素エンジンではあったが、ガソリンエンジンと同じ方法で直結出来た。
それから数日間、寺坂は走り通した。水素エンジンの燃料を確認しながら、国道の看板と勘を頼りにハンドルを切っていった。そのうちに次第に見覚えのある地形や道路が現れ、一ヶ谷市に辿り着いた。久し振りに帰ってきた地元は訳もなく懐かしく、家族に会いたい、という珍しく殊勝な気持ちになった。けれど、それも束の間で、家族から巻き上げられる金はどのぐらいになるのか、と考え始めていた。寺坂が事ある事に盗んでしまうので、生活費の隠し場所は何度も変わっているが、それがどこなのかは大体見当が付く。生まれ育った家だからだ。
最後に残った小銭で買ったジュースで胃を膨らませ、船島集落に向かう道路を駆け抜けた。目の前に待ち受ける自由と両親の持つ現金が楽しみでならず、ヘルメットの下で寺坂は口角を吊り上げていた。日も暮れ始めていて、曲がりくねった山道には古びた街灯が灯り始めた。濃いオレンジ色の光が丸くアスファルトを照らし、寺坂の行く先を示していた。体重移動しながらハンドルを切り、鋭いカーブに滑り込んだ。カーブを曲がりきる直前、寺坂の目前に何者かが過ぎった。動物にしては大きく、人間にしては奇妙なモノが現れた。それが何なのか認識出来ないまま、ハンドルを切り損ねた寺坂はガードレールに直撃し、バイクごと宙を舞った。やけに綺麗な夜空が見えた。
それから、どれほどの時間が過ぎたのだろう。意識を取り戻した寺坂は、頭上にある歪んだガードレールと斜面に突き刺さって破損しているバイクを視界に収めた。雨が降り出したのだろうか、ぽたぽたと雫が垂れてくる。しかし、それにしては生温いし、やたらと生臭い。額から鼻筋を通って顎に垂れた液体が口に入り、鉄錆の味が舌を刺してきた。我に返って咳き込んだ寺坂は意識が明確になり、頭上を凝視した。女物の長手袋によく似たモノが、太い枝に刺さっていた。それにしては厚みがあり、見覚えもある。
「あぁ……?」
あの腕時計、あの袖口、あの傷跡。寺坂自身の右腕だった。現実を思い知りたくなく、寺坂は目線を外そうとするが目が動かせない。垂れ落ちてくる血が目に入ろうとも、瞼すらも閉じられなかった。顎が震えて呼吸が荒くなり、鼓動に合わせて流れ出す生温いものが枯れ葉に染み込んでいく。腹を括って強引に目を動かすと、右腕の根本からは骨と筋とぶつ切りの血管が露出していた。どくん、どくん、と鼓動が耳元で騒ぎ、それが聞こえるたびに血液が押し出されていく。鼓動が一つ起きるたび、寺坂は死に迫っていく。
「うあ」
悲鳴が出せたのはほんの一瞬で、恐怖と喪失感でそれきり出せなくなった。笑えてくるほど情けない掠れた吐息だけが零れ、身動きすることすらも出来なかった。ああ死ぬのだ、死ぬのだ。散々ろくでもないことをしてきたから、その罰が当たったのだ。死ぬことなんて怖くないし、どうせいつか死ぬのだから遊び尽くしてやると思って生きてきたのに、いざ死を目の当たりにすると怖くてたまらない。醜悪な嗚咽を漏らしながら、骨折した両足も動かせず、芋虫のように身を捩っていると、影が被さった。
「ああ、なんということを……」
お迎えが来た。その者の影を見た時、寺坂は失笑した。なぜなら、その者の姿は寺院で嫌になるほど目にしてきた千手観音に似ていたからだ。背中に光る輪を背負い、無数の腕をくねらせている。その者は腕を一本伸ばして寺坂の血溜まりに触れたが、火傷をしたかのようにすぐさま引っ込めた。
「私は償わねばなりません。新たな罪を犯してしまったのですから」
御仏が罪を犯すものか。罪を犯すのは人間であり、御仏に許しを請うのだから。
「どうか、どうか、長らえて下さい。どうか、どうか……」
哀切に繰り返しながら、その者は細くうねる腕を寺坂の傷口に押し込んできた。ぐじゅっ、と裂けた肉が抉られて血が噴き出したが、不思議と痛みは感じなかった。それどころか、穏やかな温もりが隅々に広がっていった。失った血を補うために暖かな液体を流し込まれたかのような、心地良い感覚だった。意識を失えば死ぬ、と解っていたが、寺坂はその心地良さに抗えなかった。千手観音に似た者は、無数の腕で寺坂を抱き締め、さめざめと泣いた。
目も鼻も口もない顔で、泣いていた。
目が覚めたのは、数日後だった。
寺坂は、太い梁と年季の入った板張りの天井と障子戸に囲まれた和室に寝かされていた。だが、それは実家の部屋とは大きく違っていた。実家である浄法寺には障子戸の部屋は仏間しかないし、仏間だとしたら本尊があるはずだ。仏壇もあるはずだ。しかし、そのどちらも見当たらず、線香の匂いもまるで感じられなかった。布団は寝心地が良く、障子越しに降り注いでくる日差しが柔らかかった。
喉の渇きを覚えた寺坂は、枕元にあった水差しから水を飲もうと右腕を伸ばした。利き手だからだ。けれど、脳裏に枝に突き刺さった自分の右腕が蘇り、引っ込めた。右腕が繋がっているわけがない。保険を掛けていれば事故で欠損した部位をサイボーグ化して補えるだろうが、生憎、寺坂はそんなことはしていない。だから、寝て起きて右腕が再生しているわけがない。あの事故は夢だったのか、とも思ったが、体中が傷だらけで両足も折れたままだ。ならば、この右腕は一体何なのだ。寺坂は怯えながら、右腕を挙げた。ぬるり、と赤黒い肉の帯が伸びた。
「うおあああああああああああっ!?」
腹の底から絶叫し、寺坂は自分の右腕から逃げようとする。だが、両足が折れているので布団を蹴り上げることすら出来ず、悶えるだけで精一杯だった。その動きに合わせて数十本の赤黒い肉の帯も波打って、四方八方に散らばった。そのせいで水差しが倒れてしまい、中身が全て畳に吸い取られた。
「目が覚めたのかい」
不意に障子戸が開き、一人の男が現れた。絶叫し続けて喉が嗄れた寺坂は、粘つく唾液を嚥下してから、その男を見やった。見覚えがある。確か、浄法寺の檀家の一人だ。
「私は佐々木長光だ」
くすんだ抹茶色の着流しを着た老人は裾を下りながら、寺坂の前に正座した。
「君は善太郎君だったかな」
「あ……はい」
まともな人間に出会えた安堵と命が助かった嬉しさで、寺坂はいつになく素直に答えた。
「三日前だったかな。夜中に物凄い音がしてね、何事かと思って外に出てみたのだよ。崖下に行ってみたら、君が倒れていたではないか。家まで運ぶのは骨が折れたが、生きているのであれば何よりだ」
長光は乾いた皮膚をぐにゃりと曲げて、目を細めた。
「すぐに医者を呼んで診てもらったのだが、よくもまあ生きていたものだよ。若さとは素晴らしいねぇ」
「お、俺の腕は」
陸揚げされたタコのようにのたうち回る右腕を指した寺坂に、長光は首を傾げる。
「それがねぇ、良く解らないのだ。私も手を尽くして調べたのだが、どうにもこうにも」
「じゃあ、俺、一生このままなんすか!?」
寺坂が食って掛かると、長光は宥めてきた。
「まあ、落ち着きなさい。まずは体を治しなさい、親御さんには私から連絡しておくから」
水を入れ替えておくよ、と言い、長光は畳に零れた水を拭いてから空っぽの水差しを抱えて出ていった。寺坂は呆然としながら、自分の意思とは無関係に蠢く触手を視界の端に収めていた。長光がいなくなってからは絶望感が一気に増大し、寺坂は泣きに泣いた。これまでの自分の人生を振り返りながら、恥も外聞もなく泣き喚いた。
それから、寺坂は両足の骨折が治るまでの数ヶ月、佐々木長光の自宅で過ごすことになった。両親が訪れることも何度かあったが合わせる顔がないので、応対は長光に任せて寺坂は横になっていた。身の回りの世話は長光が呼んでくれた医者と看護師が行ってくれたが、最後まで慣れなかった。リハビリをしていくうちに、寺坂はあることに気付いた。右腕の欠損と両足の骨折だけでなく、背骨と骨盤にヒビが入り、内臓もいくつか損傷を受けていたにも関わらず、ケガをする前よりも体が軽くなっていた。というよりも、身体能力が全体的に上がっていた。
日を追うごとに触手の操作にも慣れていったが、触手そのものには慣れなかった。普通の指よりも遙かに本数が多く、長く、何かと便利ではあるのだが不気味極まりなかった。寺坂が生き延びられたのと身体能力が上がったのはこの触手のおかげなのだろう、と薄々感づいていたが、感謝の念は湧かなかった。
春が過ぎ、夏が過ぎ、秋が過ぎて初秋を迎えた頃、寺坂はふと思い立った。一度は実家に顔を出しておきたい、今度こそ勘当されるだろうが挨拶ぐらいはしておきたい。満身創痍であるが故に平穏な生活を送っていたからか、寺坂の暴力的な若さが凪いでいた。だから、両親に会いたいとすら思っていた。
その日は長光が留守にしていたので、寺坂は車庫の片隅で埃を被っていたスーパーカブを拝借しようと決めた。イグニッションキーは電話台の引き出しに入っていると知っていたし、長光も使ってくれてもいいと言っていたので、今回は問題はない。寺坂はスーパーカブの砂埃を払い、ガソリンを給油し、ちゃんと動くことを確かめてからシートに跨った。今度はガードレールを突き破らないように注意しつつ、実家を目指した。
二年と数ヶ月振りに目にした浄法寺は、変わっていなかった。それ故に胸が締め付けられ、寺坂はヘルメットの下で洟を啜った。スタンドを下ろしてからスーパーカブを下り、ヘルメットをハンドルに引っ掛けてから、開けっ放しの正門をくぐって入った。境内は静まり返っていて、それがまた切なさを煽ってきた。本堂に入るが人影はなく、線香の匂いがうっすらと籠もっているだけだった。ならば母屋にいるのか、と行ってみるが、こちらも同様だった。
「あれ? なんで誰もいねぇの?」
不安に駆られた寺坂は、家中を探し回った。部屋という部屋から納戸や押し入れまで手当たり次第に開いて中身を引き摺り出していった。けれど、どこにも誰もいなかった。冷蔵庫の中身はまだ新しく、開封済みの牛乳や賞味期限が今日の生鮮食品が入っていたので、今し方まで人間がいた痕跡はあった。だが、当の住人がいない。両親がいない。その事実に打ちのめされた寺坂は、荒れ放題の家でへたり込んだ。
「んだよ、なんで誰もいねぇんだよぉ……」
確かに、悪いことばかりをしてきた。許されないことの方が多いだろうし、瀕死の重傷を負っても心を入れ替えられないだろうし、まだまだ他人に迷惑を掛け続けるだろう。両親には当の昔に愛想を尽かされている。だが、両親は何度も佐々木家を訪れていたし、長光は見舞いの品を持ってきてくれた。だから、一度ぐらいは会ってくれるものだと思っていた。それなのに、誰もいない。書き置きすら見当たらない。
寺坂は日暮れまで実家でぼんやりとしていたが、結局、誰も帰ってこなかった。途方もない喪失感に襲われた寺坂は縋るような気持ちで佐々木家に戻ると、長光が出迎えてくれた。使用人が作ってくれた夕食を食べながら、寺坂は実家に戻ったが誰もいなかったと話した。長光はうんうんと頷きながら聞いてくれた。
「この前お目に掛かった時は、善太郎君の御両親は変わりなかったんだけどねぇ」
食後の番茶を啜りながら、長光は眉を下げた。寺坂は片膝を立てながら、触手で湯飲みを掴んだ。熱かった。
「俺、もう何が何だか解らないっすよ。頭ン中、ぐっちゃぐちゃで」
「私は色々な方向に顔が利くから、その伝手で調べてみるとしようじゃないか」
長光は枯れた手で湯飲みを包み、大事そうに撫でた。
「私には二人の息子がいてだね。次男が吉岡グループに婿入りしていて、おかげで色々と繋がりがあるのだよ」
「いいんすか?」
「何がだい」
「俺にそこまでしてくれても、何もないっすよ。俺、こんなんすから」
「そんなことはないよ、善太郎君。君はね、私にとてもいいものを与えてくれるのだから」
そう言って、長光は一際柔らかな笑顔を見せた。寺坂はなんだか照れ臭くなり、背筋がむず痒くなった。この家に来てからというもの、迷惑しか掛けていない。だから、感謝されても意味がないのに。居心地が悪くなった寺坂は食卓を後にすると、長光に何を返せるかを考えた。だが、学もなければ知恵もない馬鹿な若者が思い付くことなどろくなものではなく、我ながら自分の知識の浅さに呆れてしまった。なので、開き直って長光に聞いてみることにした。
弐天逸流を倒してくれまいか、と言われた。
弐天逸流。
それは、およそ五〇年前に出来た新興宗教である。御神体を模した像に毎日念仏を挙げる、という点では仏教の色が濃いのだが、崇め奉るのは神だという。右から左へ聞き流していたが、仏教に関する知識が少しこびり付いている程度の浅学な寺坂でも違和感を感じるのだから、その筋の専門家であれば、突っ込みどころを次から次へと見つけ出してくれるだろう。だが、信者達は何の疑問も感じずに日々念仏を挙げ、祈り続けているのだから、洗脳とは恐ろしいものだと長光は嘆いていた。
広大な土地と大量の会社の株や利権などを有している佐々木長光は、近年希に見る規模の個人資産の持ち主だ。寺坂のようなろくでなしを拾ってくれたばかりか、療養まで満足に受けさせてくれたので、吝嗇家ではない。それどころか、これと思った相手には労を惜しまない懐の広さも持ち合わせている男だ。長光は、弐天逸流に囚われてしまった古い友人を助け出したい、だが、そのためには弐天逸流の本部を見つけ出さなければならない、しかし、その役割を引き受けてくれる人間が現れなかったのだ、と寺坂にやるせなさそうに語ってきた。これまで受けた恩を返すために、寺坂はその役割を快く引き受けた。長光は心の底から喜んでくれた。
長光が集めた情報を元にして行動に出る際、長光は寺坂に莫大な資金と共に足をくれた。美しい流線形のボディと凄絶なパワーを持つエンジンを備えたスポーツカーで、艶々に磨き上げられた新車だった。イグニッションキーを渡された寺坂が唖然としていると、引き受けてくれた礼だと長光は言った。寺坂はさすがに戸惑ったものの、素直に喜んだ。そして、そのスポーツカーで弐天逸流の調査に乗り出すことにした。
調査といっても、素人のやることなのでいい加減極まりなかった。名簿にリストアップされた信者の元に乗り込み、脅し、殴り、暴れ、本部の居場所を吐かせようとした。だが、そんな方法が成功するわけもなく、望み通りの情報は一切引き出せなかった。当初、信者達は怯えていたが、回を重ねるごとに反応が変わってきた。皆、寺坂が三下のヤクザのような格好で現れて暴れても、文句を言わなくなった、逃げなくなった、怖がらなくなった。それどころか、寺坂が来てくれたことを感謝するようになった。拝まれ、ありがたがれ、手も合わせられた。
さすがに薄気味悪くなってきた寺坂は、行き当たりばったりで力任せの調査を一時中断した。調査資金として長光から渡されていたカードを使って山ほど金を引き落とし、来る日も来る日も遊び呆けた。弐天逸流から感じる違和感と気色悪さを忘れようとしたが、酒を飲もうが夜通し騒ごうが女を組み敷こうが、振り払えなかった。そのうちに調査の仕事を放り出して金だけもらって逃げようか、と思うようになったが、それはさすがに気が咎めた。長光を裏切ることになってしまうからだ。だが、また仕事をする気にはなれない。悶々としながら、寺坂は現実逃避を続けた。
疑問が疑問を呼び、見通しが利かなくなっていた。
調査を始めてから四年の月日が過ぎ、寺坂は二十二歳になっていた。
その日もまた、寺坂は都内のクラブに入り浸っていた。原色のライトが目まぐるしく回転し、重低音の効いたダンスミュージックが流れる店内で、一人でひたすら酒を飲んでいた。女性客を何人か引っ掛けようとしたのだが、今日に限って一人もモノに出来なかった。彼女達の連れの男達には睨まれてしまうし、そのせいで他の女性客からも敬遠されてしまうしで散々だった。包帯で戒めて人間のそれに形を近付けた右腕で頬杖を付くと、この店は切り上げて他の店に向かおうかと考えていると、寺坂の隣に人影が近付いてきた。
「ここ、いいですか?」
若い女性だった。寺坂はすぐさまサングラスを上げて、声を掛けてきた主を見上げた。クラブで遊び慣れていないのか、露出の低い服装をした女性だった。タイトなキャミソールとホットパンツが体の丸みを引き立てていて、脱色していない長い黒髪がさらりと肩から零れ落ちた。化粧も控えめで、幼さの残る顔立ちによく似合っていた。
「友達に誘われて初めて来たんですけど、楽しみ方が解らなくて」
彼女はばつが悪そうに眉を下げていたが、その表情すらも可愛らしかった。
「俺もさー、全然。でも、今、すっげぇアガった」
君が来たから、と寺坂がグラスで彼女を指し示すと、彼女は恥じらった。
「そうですか? でも、私と話してもあんまり面白くないですよ?」
「話す必要なんてなくね?」
そう言うや否や、寺坂は彼女の肩に右腕を回した。触手の使い道は色々とある。この手は女性の体を探るためにもってこいだ。それに気付いてから、女性を誘うのも楽しませるのも、面白くなっていた。指の数も多ければ感覚も鋭敏なので、相手の弱いところを見つけ出すのも責め抜くのも以前よりも遙かに容易だ。だから、彼女のこともまた徹底的に弄んでやろう。酔いと高揚に任せ、寺坂はグロスをたっぷりと塗った彼女の唇に喰らい付いた。
直後、意識が途切れた。
重たく濁った眠りの果てに、激痛で意識が戻った。
ただ一つだけ確かなのは、全身隈無く痛みが駆け巡っているということだけだった。寺坂は二日酔いの何十倍もの気分の悪さと懸命に戦いながら、強引に瞼をこじ開けた。ぼやけた視界に入ってくるのは、薄暗い天井と四方の壁に飛び散った不規則な柄だった。それは放射状に液体を散らしたかのようなもので、空気が全体的に生臭い。饐えた匂いもする。ぎこちなく眼球を動かしていると、部屋の中に人影が立っているのが見えた。
それは、彼女だった。服装こそ違っていたが、見間違いようがなかった。あの日、クラブで寺坂に話し掛けてきた若い女性だ。色気の欠片もないジャージの上下を着ている彼女は、肩で息をしながら口元を拭った。手の甲と袖に液体が染み、彼女の胸元から腹部に掛けて食べこぼしをしたような汚れが付いている。行儀が悪い。
「ダメ、ダメ、全然ダメ……」
彼女は何度か咳き込んで赤黒いものを吐き出してから、その場に座り込んだ。寺坂は声を掛けようとしたが、口が動かなかった。というより、言葉を出すために必要な横隔膜が破られている。彼女の背後にある汚れた窓ガラスに映る自分の姿を捉え、寺坂は冷えた頬を歪ませた。無事なのは頭と左腕と上半身と左足だけで、鳩尾から下の腹部と右腕の触手と右足は取り除かれていた。素人の仕事丸出しで、皮の切り方がぎざぎざで筋肉がぶつ切りで、右足の大腿骨を強引に曲げたが外れなかったらしく、筋が伸びきって垂れ下がっている。
「ごめんなさ、ごめ、んな、さい……」
彼女は再度咳き込むと背中を丸め、ひ、と悲鳴混じりに息を飲んだ。すると、丸まった背中の布地が盛り上がり、異物がそれを突き破った。薄い皮膚が破られる際に生じた痛みで涙を落としながら、彼女は両腕を強く握り締めてがくがくと震える。葉脈に似た黒い線が駆け巡る、儚げに透き通った一対の羽が、彼女の忙しない呼吸に合わせて開閉する。妖精のようなシルエットではあるが、返り血がこびり付いたジャージ姿の妖精などいないだろう。
虫の翅だ。寺坂はそう思ったが、言葉には出せなかった。出血がひどすぎたのか、左腕も指先すら動かすことが出来ず、慎重に息を吸って肺を膨らませるだけで精一杯だった。
「ああ、ああ、ああああっ!」
嗚咽を漏らしながら彼女が顔を引っ掻くと、皮膚の下から黒く厚い外骨格が迫り上がってくる。感情の高ぶりで力を押さえられないのだろうか。数分の時間を経た後、彼女は変貌していた。それまで着ていたジャージは細切れになり、無惨な布切れと化して床に散らばっていた。六本足の巨大な昆虫怪人に変わり果てた彼女は嗚咽と共に肩をひくつかせながら、ひたすら泣いていた。涙の出ない複眼に爪を立て、誰かに謝り続けていた。
このまま死んでしまうのだろうか、と寺坂は密かに覚悟を決めていたが、痛みのあまりに走馬燈は過ぎっても死に瀕する気配は訪れなかった。それどころか、彼女が細々と与えてくるスポーツドリンクや栄養剤を口にしているだけで肉体が徐々に再生していった。我ながら信じがたかったが、目視している間に触手が生え替わり、骨が元に戻り、皮膚が張り詰めて筋肉が膨らみ、水分を口にするたびにそれと同量の血液が作られ、流れていった。
それもこれも、触手の影響なのだろうか。
それから、寺坂の容態は快方に向かった。
一週間足らずで寺坂は元の体に戻ったのである。その間、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれていた彼女は泣き通しだったので、名前を聞く機会すらなかった。もっとも、横隔膜と喉が再生するまでは声が出せなかったので、寺坂も質問のしようがなかったのだが。彼女が持ってきてくれた水とタオルで体を拭いてから、誰かの使い古しと思しき油染みが付いた作業着を着ると、寺坂は人間らしくなった。だが、この時を境に体毛が一切生えなくなった。
「んでよ、あんた、俺に何したわけ?」
寺坂は伸び放題の触手を使い、窓を開けた。血肉の腐臭と諸々の匂いが籠もっていたからだ。窓の外は針葉樹が生い茂った深い森で、人気は一切なかった。人里離れた山奥なのだろう。携帯電話が使えれば、現在位置ぐらいは簡単に割り出せるのだが、生憎、携帯電話は手元に見当たらなかった。彼女が隠しているのかもしれない。
「私……普通じゃないんです」
「いや、そりゃ見りゃ解るけど」
寺坂は窓枠に寄り掛かり、綺麗に禿げ上がった頭部を左手で撫でた。寺院で剃髪されていた時もあったが、頭がすかすかしてどうにも慣れない。これでますます坊主らしくなっちまったなぁ、と内心で寺坂は嘆きつつ、昆虫怪人の姿を保っている彼女を見下ろした。外骨格に覆われた下両足を折り曲げて正座しているが、人間とは足の形状が違うので収まりが悪そうだった。膝崩せよ、と言い、寺坂は触手を伸ばして部屋の隅の段ボール箱を開けた。
「でさ、あんた、俺に何したの?」
「あの日の夜、あなたにこれを」
そう言いながら、彼女がバッグから取り出してみせたのは、ペン型の注射器だった。糖尿病患者がインシュリンを注射する時に用いるものだ。その中には、薬剤が僅かに残っていた。
「中身は麻酔です。ほんの少しだけのつもりだったんですけど、力加減を間違えて大量に注射してしまって……」
「あーそう。んで、死にそうなぐらい熟睡した俺をぐちゃぐちゃにしたのはなんでだ?」
すっかり治っちまったけど、と寺坂が腹部をさすると、彼女は俯いて触角を伏せた。
「あなたは普通じゃありません。だから、その血肉を欲しがっている人達がいるんです。それを阻止するために、私はマスターに命じられてあなたを捕獲したんです。ですが、あなたが生きていると、きっとまた同じことになると危惧したマスターは、あなたを解体するように命じたんです」
「なんだよ、その三段論法みてぇーなの。つか、俺が普通じゃないのは一目瞭然だけどさ、俺の肉なんか欲しがってどうなるってんだよ? マジ意味不明なんだけど。説明してくんね?」
寺坂が少し凄むと、彼女はびくついた。根は気弱なのだろう。
「それは、その……。長い話になっちゃいますけど」
「別にいいよ。どうせ退屈だし」
寺坂は段ボール箱の中からスポーツドリンクを取り出し、蓋を捻った。その時は気にしていなかったが、今にして思えばこれはフジワラ製薬の製品だった。栄養剤も同様で、部屋の隅に積み重なっている段ボール箱にはフジワラ製薬のロゴが印刷されていた。段ボール箱の数は十箱を超えていたので、彼女が事前に準備しておいたのだろう。寺坂を捉え、ここまで運び入れ、陰惨な食人を行うために。もっとも、どちらも人間とは言い難いのだが。
「マスターは、危険な思想を抱いている弐天逸流を警戒しているんです。あなたも弐天逸流を探っていたから解っているでしょうが、弐天逸流は人智を外れた存在を教祖として崇めているんです。表立って布教はしていませんが、水面下で弐天逸流の教えは広がりつつあります。経済界にも、政財界にも。ですから、遠くない未来、弐天逸流の教祖が一声掛ければ、この国が転覆してしまうかもしれません。それどころか、世界全体が掌握されてしまうかもしれません。そうなったら取り返しが付かなくなってしまいます。ですから、マスターは敢えて非情な手段に出ることにしたんです。肉体的に限界を迎えた弐天逸流の教祖が次なる肉体として、更に万能の霊薬として目を付けている、あなたの肉体を処分してしまうことにしたんです」
彼女は若干目を逸らし、苦悩を押し殺した声色で語った。寺坂は眉間に皺を寄せる。
「んだよ、そのマスターって奴は自分の手は汚さねぇのか?」
「マスターはあまり人前にお出ましになりませんし、私のような力も持っていないので」
「つか、なんであんたのマスターはそんなに弐天逸流に明るいんだ? 俺も知らねぇし、そんなん。つかさ、マスター本人が教祖なんじゃねーの? で、あんたを働かせて弐天逸流にちょっかいを出す俺を遠ざけてー、っつう寸法。そういうオチなんじゃね?」
寺坂が頬を歪めると、彼女は触覚を片方上げた。
「違います。それだけは違うと断言出来ます。理由は言えませんけど」
「俺の触手を一本だけ切って殺したことにして、ズタボロにする前に解放してくれりゃよかったのによー」
寺坂がむくれると、彼女は触角を左右に揺らした。
「出来ませんでした。そうしようと思ったんですけど、何度かマスターが様子を見にいらっしゃったので」
「あー、そう。お前らも弐天逸流もクソだな、ウゼェったらありゃしねぇ」
「埋め合わせはいくらでもします! ですから、マスターにだけは手を出さないで下さい!」
彼女は腰を浮かせかけたので、寺坂はへらへらした。
「どこの誰とも知らねぇおっさんに手ぇ出すかよ。手ぇ出すんならあんただ、俺の女になってくれねぇ?」
「えっ、あ、あの?」
彼女が戸惑うと、寺坂は捲し立てる。肉体が再生したら、欲望まで再生したからである。
「あんたの怪人体はそうでもねぇけど、人間体はすっげー好みなの。ちょっと童顔なのに体はむっちりしててさ、胸も尻もちゃんとある。で、顔ね。化粧を盛りまくった女も悪くねぇけど、ああいう感じの遊び慣れていないですよーって言わんばかりの女子大生丸出しのメイク。あれがいい、ナチュラルメイクを目指しつつもOLみてぇにきっちりと色を載せてあるのがいい。汗やら何やらでぐちゃぐちゃにさせたくなる。香水がないのもポイント高いし」
「私のこと、怖くないんですか? だって虫だし、あなたのことを滅茶苦茶に」
「ん、別に? 右腕がこうなる時にもっと怖い目に遭ったから、別になんとも。生きたまま解体されたのだって、麻酔のおかげで痛くもなんともなかったしよ。だから、今度は俺があんたを滅茶苦茶にする番だ。性的な意味で」
「信じられない! 最低です!」
声を裏返しながら彼女が後退ると、寺坂は大笑いした。
「最低っつったら、どっちが最低だよ! 人のこと言えるかよ!」
「それは……その……」
負い目があるのか、彼女は言葉に詰まった。
「大体、神様なんて当てになるものじゃねぇよ。いないんだし来ねぇんだし。いくら実在しているっつっても、俺なんかを当てにしてどうなるんだよ。俺だって俺が馬鹿でダメでクソなことぐらい、自覚していらぁな。筋違いだろ、それ」
寺坂はスポーツドリンクを飲み干すと、空になったペットボトルを投げた。軽い音を立てて壁に当たり、転がる。
「まずはあんたがどこの誰だか知る。それぐらいの権利はあるだろ、被害者なんだからよ」
寺坂は触手を天井伝いに伸ばし、彼女のバッグを掠め取った。あっ、と彼女は慌てたが、寺坂は素早く触手を引っ込めてバッグを手中に収めた。小振りな円筒形のバッグで、ファスナーは既に開いている。逆さにして中身を全て出し、彼女に取り戻される前に携帯電話と各方面で使える身分証であるIDカードを拾った。携帯電話はロックされていたが、IDカードの裏側には個人名と共にプリクラが貼ってあった。人間体の彼女と幼い少女だ。
「これ、あんたの妹?」
寺坂がプリクラを指すと、彼女は慌てふためいた。
「返して! その子に触らないで!」
「ただのプリクラじゃねぇの、そんなにぎゃあぎゃあ騒ぐほどのことでもねぇだろ」
寺坂はIDカードをひらひらと振りながら、彼女との距離を取る。彼女はいきり立ち、顎を開く。
「返せ!」
「返さなかったら、今度こそ俺を殺してくれるのか?」
寺坂はドアに背を当てると彼女を見据え、IDカードを突き付けた。彼女は腹部を大きく上下させる。
「……殺せない。殺そうとしても、殺せない。私は殺せない」
「そりゃまたどうしてだ。俺が本当に神様の器で、ガチで不死身だからか? どこの誰なら、俺を殺せるんだよ」
軽薄な笑みを消し、寺坂は不意に真顔になる。あれだけのことをされたのに、死ぬどころか僅かばかりの栄養だけで生き返った自分が恐ろしくなっていたからだ。人間から懸け離れていく自分に危機感を抱いたことは、過去に何度かあったが、寒気を覚えたのは今回が初めてだ。このまま衰えることもなく、触手に肉体を食い尽くされて異形の生物と化しながら長らえていく自分を思い描いただけで、怖気立った。欲望のままに振る舞っていれば忘れられたものの、彼女との日々は退屈すぎて我に返る瞬間が何度もあった。だが、誰かが殺してくれるのなら。
「誰も私達を殺すことも出来なければ、人間に戻すことも出来ないんです。マスターでさえ」
彼女はうずくまり、頭を抱える。寺坂はその怯えきった様を見、場違いな感情を抱いた。あれ、なんか可愛い、と。寺坂には女を痛め付けて興奮するような性癖は備わっていないのだが、姿形と言動の落差に心が動いた。きっと、寺坂の肉体を切り裂く時もごめんなさいと連呼しながら切り裂き、ごめんなさいと連呼しながら血肉を捕食し、時折嘔吐しながらも寺坂を生きたまま解体していったのだろう。
寺坂の中にあるイメージの怪人とは、懸け離れすぎていた。子供の頃に見た特撮番組に出てくる悪役の怪人は堂々と悪事を行っていたし、映画に出てくる殺人鬼も殺人を楽しむよう
な性分の持ち主ばかりなので、そのどちらの要素も持ち合わせていない彼女は違和感の固まりだった。人間体の外見の可愛らしさも相まって、寺坂の心中の変な部分を刺激してきた。そして思った。家族愛と本能の狭間に揺れ動く怪人をいじり倒してしまいたいと。
「なー、みのりん」
寺坂が不躾に呼ぶと、彼女は顔を上げた。
「あんまり馴れ馴れしく呼ばないで下さい。親しくはないんですから。それと、IDカードを返して下さい。それがないとろくなことが出来ないんですから、今の世の中は」
「返さねぇ。どうせこれから親しくなるんだし、あんたがやらかした分、俺もあんたにやらかすし」
寺坂はIDカードをちらつかせながら、彼女に迫る。顔を近付けると、彼女は腰を引く。男に不慣れなのだ。
「やらかすって、何を」
「付き合えよ、俺と」
「嫌です! 絶対に嫌です! あなたみたいにどこもかしこもだらしなくて生臭くて酒臭くてタバコ臭い人なんて絶対に嫌です! 初対面の相手にいきなり、あ、あんなことをしてくる人なんてお断りです!」
触角がなびくほど盛大に首を横に振った彼女に、寺坂は子供染みた加虐心が煽られた。
「減るものじゃねぇだろ。どうせこれから、飽きるほど」
「しませんっ!」
そう言うや否や、彼女は勢い余って寺坂を突き飛ばそうとした。しかし、その手というか上右足には草刈り鎌のような長く鋭い爪が生えていたので、寺坂の首筋を掠めただけで皮膚が切り裂かれた。当然、動脈が真っ二つに切断されて天井まで血液が噴き上がり、彼女がけたたましい悲鳴を上げた。自分でやっておいて怖がるのかよ、と寺坂は内心で彼女のリアクションに突っ込みつつ、多少の貧血を感じてよろけた。
これで、当分は楽しめそうだ。寺坂は日本刀で切り付けられたかのような鋭利な傷口を触手で塞ぎ、皮膚と血管が再生するまでの応急処置を行いつつ、新たな血にまみれた彼女のIDカードを眺めた。東京都区内の住所と市民番号と氏名、個人情報が山ほど入力されているICチップ、そして裏面には彼女と妹のプリクラ。
備前美野里。それが、彼女の名前だった。
美野里がマスターと連絡を取った翌日、プレハブ小屋の前に寺坂の愛車が運ばれてきた。
アストンマーチン・DB7、ヴァンテージ・ヴォランテ。美野里に出会ったクラブに程近いコインパーキングに駐車したままになっていたのだが、マスターはその車をわざわざ運んできてくれたようだった。運転席を覗くと、イグニッションキーが刺さっていた。恐らく、美野里の手からマスターに渡ったのだろう。ダークグリーンの車体は傷一つなく、色気のある光沢を保っていた。寺坂は口笛を一つ吹いてから、運転席のドアを開けた。
「乗れよ、みのりん」
「どうして乗らなきゃいけないんですか」
人間体に戻った美野里は、あの日と同じ服装に着替えていた。それしか持ってこなかったのかもしれない。彼女は不機嫌そうにそっぽを向いているが、その横顔すら可愛いと思ってしまう。寺坂は運転席に座ると、シートベルトを締めてから助手席のシートを叩いた。張りの強い革が跳ね返る。
「ここにいたって、退屈なだけだし。憂さ晴らしにぱあっと遊ぼうぜ、今度こそ」
「嫌です。私の役目は終わりましたし、マスターが迎えに来てくれる約束ですから」
「そのマスターが来なかったら? この小屋には車もバイクもねぇし、電話もみのりんの手持ちの携帯だけ。俺のはみのりんが真っ二つにしちまったからなー。おかげで、散々集めたキャバ嬢のアドレスが全部パーだよ。No.1の子のやつもあったんだぜ? 仕事用の捨てアドじゃなくて本アドもいくつかあったってのにさー、あー勿体ねぇー。いくら注ぎ込んだと思う? 札束でビンタ出来るぐらいよ? 何本ドンペリ開けたと思う? なー?」
「知りませんよ、そんなの!」
美野里が声を荒げると、寺坂は左腕で助手席のヘッドレストを叩いた。
「だからさー、乗ってくれよー。俺とデートしてくれよ、それがダメならメシでも喰いに行こうぜー」
「嫌です」
「いいっていいって、俺はどうせ暇だからいくらでも我が侭を聞いてやるよ。なんだったらさ、都心までぶっ飛ばして馬鹿高いレストランにでも連れて行ってやろうか? 金ならあるんだ、金だけは」
「そういう意味じゃありません」
美野里は寺坂に背を向け、肩を落とす。首筋で長い髪が二つに割れ、肩から垂れた。
「御存知の通り、私は人間じゃありませんから。だから、普通の食べ物は体が受け付けないんです。食べようとしても吸収されないので、そっくりそのまま出てしまうんです。だから、奢ってもらうだけ、お金の無駄なんです」
「だったらさ、俺の触手でも喰えば? 次から次へと生えてくるし、なんか本数も増えてきているから、正直鬱陶しいんだよな。味も食感も成分も違うだろうけど、腹の足しにはなるんじゃねぇの?」
寺坂は冗談のつもりだったが、美野里はいやに真剣な顔をした。
「お気持ちだけ、受け取っておきます」
「なあ、みのりん。もっと気楽に生きようぜ。俺もみのりんも、どうせ堅気の人生なんて歩めないんだし。こんな体になっちまった時点で、それは決定事項なんだ。だから、好き勝手にやっちまった方がいい。みのりんがマスターとやらにどんな義理があるのかは知らねぇけど、頭の先から爪の先まで支配される必要なんてないぜ? どうせ、ここにはマスターはいないんだ。こんなクソ田舎に見張りに来るほど、暇な奴でもなさそうだしな」
触手の尖端を曲げた寺坂は、美野里の太股を軽く撫でた。途端に美野里は赤面する。
「なんっ、なっ、何を!」
「俺が珍しく真面目に話をしているってのにリアクションが薄いからさ、セクハラをだな」
「そんなデタラメな理由で変なことをしないで下さい!」
「なあ、遊ぼうぜ。ちょっとでいいから、ドライブだけでもいいから、メシは俺の血でも肉でもなんでもやるから」
「私にそこまでの価値はありません」
「当人の主観による価値観は底辺でもな、第三者の主観による価値観は青天井なんだよ。だから乗れよ、いいから乗れって、俺の車に乗ってくれよ! 乗ってくれないと、みのりんの可愛い妹をナンパして悪いことを教え込んじまうぞー? ケバい格好をさせて連れ回しちまうぞー? それでもいいのかー?」
「あなたって本当に最低ですね! 底辺オブ底辺ですね!」
すぐさま美野里は振り向くと、大股に歩いて助手席に乗り込んできた。ドアが壊れかねないほど力一杯閉めてシートベルトをすると、これで気が済みましたかっ、と喚いてきた。寺坂はうんうんと頷いてから車を発進させた。初夏の風に長い髪を靡かせてはいたが、仏頂面の美野里は寺坂と一度も目を合わせようとしなかった。徹底的に嫌われちまったなぁ、と思う一方、寺坂は美野里が素の感情を覗かせてくれたことで少し安心していた。
彼女は途方もなく無理をしている。愛して止まない妹に殺されるかもしれないという恐れを抱きながら、マスターに命じられるがままに寺坂を襲い、切り刻み、泣き叫びながら仕事をやり遂げていた。幾重もの矛盾と葛藤を胸中に宿しながらも、マスターに従うことで疑問を振り払おうとしているように見える。
嫌なら嫌だと言ってしまえばいいのに。辛いなら辛いと打ち明けてくれればいいのに。出会ったばかりで信用してくれるはずもないと解っているが、一言、助けてくれと言ってくれれば、寺坂は美野里のために戦ってやるものを。やりきれなさを持て余しながら、寺坂は美野里を連れてドライブに明け暮れた。
それから二週間程度、寺坂は美野里と時間を共にした。行く当てもなく目的もなく、時間を浪費した。長光から寺坂の口座に振り込まれた金だけは腐るほどあったので、行き当たりばったりでコテージやホテルを泊まり歩いた。だが、美野里と部屋を共にしたことはなかった。美野里から徹底的に拒絶されたからではあるが、不用意に手を出したくなかった。傍にいればいるほど、無数の棘を薄膜で覆ったような生き方をしている美野里の危うさに惹かれていった。いっそ壊してしまいたい衝動と庇護欲が鬩ぎ合うほど、寺坂の奇妙な恋心は熱していった。
出会ってから一ヶ月ほど過ぎた頃、大学の休学届が切れてしまうから、と言って、美野里は寺坂の元から強引に去っていった。結局、最後まで彼女は心を開いてくれなかった。海や山に出掛けた時に明るい表情を見せてくれたものの、ほんの一瞬だった。一度だけ手料理を振る舞ってくれたが、食べられたものではなかった。もっと、もっと、美野里と時間を共有していたい。寺坂はその気持ちを隠さずにストレートに伝えたが、美野里は寺坂の好意を絶対に受け取ろうとはしなかった。プレゼントを贈っても寂しげに目を伏せるだけだった。金をどれだけ積んでも、彼女の心は手に入らないのだと思い知らされた。それがまた、寺坂の見苦しい恋心を燻らせた。
そして、その恋は今も続いている。
それからどうした、と武蔵野は続きを乞うた。
だが、返事は返ってこなかった。ウィスキーやらワインやらの空き瓶を周囲に転がしている寺坂は、みっともない格好で爆睡していたからだ。ソファーの上に寝転がってはいるが上半身はずり落ちていて、右腕を縛っている包帯はほとんど解けていて大量の触手がでたらめに蠢き、Tシャツは胸までずり上がっていてベルトの外れたジーンズはずり下がって尻がはみ出しそうになっている。サングラスはあらぬ方向に吹っ飛んでいる。悲惨である。
「そこから先が肝心だろうが! オチを話す前に潰れる馬鹿があるか!」
武蔵野は苛立ち紛れに声を上げるが、泥酔している寺坂は妙な言葉を漏らしただけだった。
「うにょわぁ」
「全く、どうしようもない野郎だな」
武蔵野はぼやきながら、ミネラルウォーターで割った薄いウィスキーを傾けた。本気で飲むつもりはない、寺坂の話を素面で聞くのが耐え難かったからだ。生臭い話には慣れているし、傭兵時代に拷問や虐殺は何度も目にしてきたし、目の前で血が流れようが臓物が散らばろうが脳髄が吹き飛ぼうが、最早吐き気すら覚えない。だが、寺坂が経験してきたことには、血生臭さと共に人間の悪意が多分に含まれていた。それが、嫌なのだ。
「あーあーあー、なんてことに」
事務所のドアが開き、道子が入ってきた。酒瓶に囲まれた寺坂を指し、武蔵野はぼやいた。
「こいつをどうにかしないとな。酔いが覚めるまでは動かせんだろう、軟体動物みたいなもんだから」
「私が来るって解っていたんですか? 鍵も掛けていないなんて」
そう言いながら事務所に入ってきた道子は、バニーガール姿から私服に着替えていた。派手な顔付きとプロポーションのボディには今一つ馴染まない、飾り気のないワンピースだった。道子は文句を零しながらも、寺坂の足元に散乱している酒瓶を集めてレジ袋にまとめた。
「俺の携帯にもGPSぐらいは付いているし、お前の機体の固体識別番号ぐらいは拾える。丁度良い、こいつの中身を見てくれないか。この事務所にはパソコンはあるが、他人のものを使うわけにはいかんだろう」
武蔵野は道子にあのSDカードを差し出すと、道子はそれを受け取り、眺め回した。
「これ、なんですか?」
「ヘビ野郎からのプレゼントだよ。SIMカードもある」
武蔵野が寺坂の携帯電話を投げ渡すと、それを受け取った道子はSIMカードを外して見回した。
「あの人、死んでいなかったんですか? まあ、死んだなら死んだで解りますけどね。あの人にちょっかい出されたせいで、私の思考波とあの人の脳波がほんの少し重なっているので。それで、羽部さんはどこで何をしているんですか? 何の目的があって、私達に接触を図るんですか? どうやってこれを手に入れたんですか?」
「あいつは今、弐天逸流の本部にいる。理屈は解らんが、異空間なんだそうだ。あいつは寺坂を鉄砲玉にして弐天逸流の教祖兼御神体を破壊しようと目論んでいる。そのために俺達に電話をし、そのSDカードも寄越したってわけだ。誰に付こうが、どこの組織に属そうが、裏切ることしか考えていないらしい」
武蔵野が薄いウィスキーで喉を潤すと、道子は首筋のカードスロットを開いてSDカードを差し込んだ。
「とりあえず、中身を見てみますね。プロテクトがあるようなので解析にはちょっと時間が掛かりますけど、五分もあれば充分ですね。羽部さんにも困ったものですねー、開き直ってつばめちゃんに頭を下げればいいのに。私達みたいに。そうすれば、色々と楽なんですけどね」
「それが出来たら羽部じゃないさ」
「でーすよねー」
武蔵野の軽口に道子は笑い、手近なソファーに身を沈めた。
「つばめはどうした」
「つばめちゃんはですね、美月ちゃんと一緒ですよ。あの後、二人とも試合のテンションが下がらなくなったみたいで、そのままお泊まりすることになりまして。もちろん、コジロウ君も一緒ですから大丈夫ですよ。その場所は小倉重機が借りている倉庫の宿直室です。楽しいのなら何よりです」
「そうか。だったらいい」
武蔵野は軽い酔いを感じながら、寺坂を指す。
「道子。こいつの過去について知っていることがあれば、話してくれ。途中までは本人が喋ってくれたんだが、肝心なところで潰れちまってな。怪人に変身した備前美野里が寺坂を襲って細切れにしたが、寺坂が元通りに回復した傍から備前美野里に言い寄ったところまでだ」
「話していいのかはちょっと迷っちゃいますけど、そこまで寺坂さんがお話ししたのなら、いいんですよね」
道子は少し躊躇いつつも、語り出した。
「あの後、寺坂さんは美野里さんを口説いて行動を共にしようとするんですけど、美野里さんはそれをお断りしたんです。美野里さんはマスターの部下であって、寺坂さんを狙う立場の人ですから。それから、寺坂さんは以前と同じく弐天逸流の信者の元に怒鳴り込んで暴れ回って本部の場所を突き止めようとしていくんですけど、行き着いた先の家にいたのは寺坂さんの御両親と、寺坂さん御本人だったんです。右腕を失ってもいない、体毛も抜けてもいない、ごく普通の人間の寺坂さんが御両親と仲睦まじく暮らしていたんです。その寺坂さんはとても大人しくて、いい人で、御本人とは正反対の性格でした。御両親は本物の寺坂さんを見ようともせず、関わろうともせず、追い出そうとすらせず、ただ日常を続けていました。だから、寺坂さんは耐えきれなくなって」
「全員、殺そうとしたのか?」
武蔵野の呟きに、全く別の方向から答えが返ってきた。
「俺が殺したの。全部」
一乗寺だった。
ドアを細く開けて滑り込んできた一乗寺は、道子と武蔵野の間に座り、足を組んだ。男物でサイズの大きいTシャツとジーンズ姿で、メイクも全て落としてある。一乗寺は酔い潰れた寺坂を見、少し笑う。
「だって、よっちゃんは殺せないもん。自分の家族だし。だから、俺が代わりに殺したんだ。目の前でこれでもかって撃ちまくって、三人ともミンチにしてあげたの。ゲームより簡単だったよ」
「それから、どうしたんだ」
武蔵野が道子に乞うと、道子は続けた。
「寺坂さんは、闇雲に信者を襲うことを止めました。その代わりに、相手の話を聞くようになったんです。そうしたら、弐天逸流の信者達が口を揃えて言うんです。奇跡が起きて生き返ってきた家族や友人や恋人は、以前よりも遙かに優しくて落ち着きがあるけど、どうしようもなく気持ち悪い。けれど、見た目も中身も人間だから手を下すのは気が引けるし、生き返った人々を処分したら弐天逸流に何をされるか解らない。それが怖い。中には、生き返ってきた相手ではなく自分を殺してくれと寺坂さんに懇願する人もいました。そうすれば、相手と同じ生き物になれるから、気持ち悪いと思わなくなるから、と……。浄法寺にある大量の骨壺は、生き返ってきた人々の遺骨なんです。当人が目の前にいるのにお骨をお墓に収めるのは薄ら寒いし、かといって手元に置いておくと当人とその遺骨が同時に存在している違和感が恐ろしいし、けれど捨てられるわけもないし、といった理由で寺坂さんの元に次々と預けられるようになりました。相談に来る人もいました。生き返った人を引き摺ってくる人もいました。どうしても殺すことが出来なかった、と泣きながら来る人もいました。大勢、大勢、いました」
道子は立ち上がると、書類棚の上に置いてあった毛布を取り、寺坂に掛けてやった。
「その度に、寺坂さんは長光さんから褒められるんです。君はとてもいいことをしている、過去の悪行を償うために得を積み重ねている、だから何も迷うことなどないよ、君は立派だよ、君は素晴らしいんだよ、と。そして、その都度大金を渡されました。スポーツカーも渡されました。女性さえも工面してきました。寺坂さんも最初の頃は長光さんにされるがままになっていたんですけど、次第に怖くなってきて、もう止めてくれと言ったんです。ですが、長光さんは止めません。墓守になってくれ、見届けてくれ、と言いながら、大金を渡してくるんです。だから、寺坂さんは大金を一刻も早く使い切ろうとするんですけど、それを上回る額が口座に送金されてきてしまうんです」
「んで、よっちゃんは佐々木長光を経由してみのりんと再会するの。それが三年前の話。俺もそう。まあ、出会い頭に殺されそうになったけどね。でもって、よっちゃんはつばめちゃんの正体を知るんだよ。佐々木長光が懇意にしている弁護士一家に預けられている、佐々木長光の孫娘だってね。そこで気付いた。いかによっちゃんが鈍くて馬鹿で脳みそ海綿体の下半身直結男でも、ここまでされたら気付くよね、普通」
一乗寺が肩を竦めたので、武蔵野は彼女を一瞥した。
「マスターの正体か」
「そうです。美野里さんが言うところのマスターとは、遺産の一つである無限情報記録装置のラクシャに転写された意識と記憶の主のことです。アマラとアマラが情報処理媒体として使用している異次元宇宙を併用すれば、ラクシャをアバターとして同一次元に同一の意識を宿した自我を同時に複数存在させることが可能なんです。なんていうか、ドッペルゲンガーとは違いますし、SNSやネットゲームで複数のアカウントを作って別人を演じることともまた違うんです。自我は複数ですが意識は一つしかありませんから」
「俺だって気付いていたよ。気付かないわけがないんだ。だって、つばめちゃんの他に遺産を扱える人間なんて、この大宇宙にもう一人しかいないだろ? 消去法以前の問題じゃんよ」
「つばめですらも感付いたからな。脇が甘いんじゃない、それだけ自分を過信しているんだ」
一乗寺の言葉に武蔵野が続けると、寺坂が目を開けた。酔いで濁った視線が三人を捉える。
「寝取ってやろうと思ってんだよー、俺。あの野郎から、みのりんをさぁー」
のそのそと毛布の下で動いてソファーによじ登った寺坂は、うー、と力なく唸った。
「でねぇと、なんか、死んでも死にきれねーっつーか、みのりんが惨めでさぁ。もっとこう、あるだろ。良い人生が」
「だからって、お前なぁ。自分を生きたまま解体するような女に惚れるなよ」
武蔵野が呆れると、寺坂は管を巻いた。
「仕方ねぇだろおー。顔も体もぜーんぶ好みだったんだからよー。俺だって人間じゃねぇんだしさー、相手も人間じゃないんだから受け入れてくれるって思っちまうだろー。思うだろー、思わないわけがねぇだろー。俺だって寂しいんだよ、一人で生きたくねぇんだよ、どうせ死ぬなら好きな女に抱かれて死にたいんだよー。なー、解るだろぉー」
「ああー、やんなっちゃうー。なんだって、俺達の人生はこんなんなんだろー!」
一乗寺は足を投げ出し、子供のようにばたつかせた。
「俺達はまだいい。ある程度歳を食っているし、どんなことになったとしても自分の行動による結果だと理解しているから妥協も出来るさ。だが、つばめがな」
武蔵野が嘆くと、道子は頬に手を添えた。
「ですよねぇ。大人の身勝手に巻き込まれて割を食うのは、いつだって子供なんですから。弐天逸流がバックボーンの御鈴ちゃんっていうアイドルの子も……。その子の情報も欲しかったんですけど、羽部さんは出し惜しみをしやがったみたいで何も解りませんでした。きっと、御嬢様絡みだとは思うんですけど」
「ああ、あれかぁ。確かに御嬢様にちょっと似ているなーって思ったけど。色んな動画サイトで再生回数が常にトップの超新星未来型アイドル、御鈴ちゃん。化粧と髪型と服装を変えちゃうと、女の子って大分印象が変わるよね」
一乗寺がやる気なく言うと、武蔵野は訝った。
「その後、どうなるんだ? シュユを復活させて弐天逸流の思想で世界を牛耳るとでも?」
「それだけなら、まだいいんですけどね。アマラでどうにでも出来ますから。気掛かりなのは、御鈴ちゃんの歌の歌詞が終末思想だらけってことです。人間では聞き取れない音域に超音波を仕込んである歌なので、常人では聞いているだけでも弐天逸流の思想に染まっていく寸法になっているんですけど、決定打には欠けるんです。御鈴ちゃんの歌が途切れてしまうと、低レベルな洗脳も途切れてしまうので。今時のアイドルは旬が短いですし、ネットでの評判がリアルでも通じるとは限りませんからね。それに洗脳が通じない人間だって多々いますから、歌を聴いた人間を全員操るのは不可能です。アマラでさえも不可能でしたしね。ですから、本当の狙いはその先なんじゃないかなーって羽部さんも考えているみたいです。で、弐天逸流本部とその周辺の地形を測量したデータがあったので、それを元にして簡単にモデリングしてみたんですけど」
道子は寺坂の携帯電話を使い、ホログラフィーを浮かび上がらせた。
「見覚えしかなーい」
一乗寺が噴き出すと、武蔵野は首を捻った。
「だが、これが本当だとすると異空間ってのは目と鼻の先にあるってことか?」
「問題は、その出入り口がどこにあるかってこったよ。俺だって、十年近く探しても見つけられなかったんだぞ」
寺坂は横目にホログラフィーを窺い、嘆息した。
「とりあえず、一通り調べてみるさ」
楕円形で両端が狭まっている、船に似た地形のホログラフィーを見据えながら、武蔵野は薄い水割りを呷った。建物の配置こそ違っているが、その地形は船島集落そのものだった。羽部の情報を信じずに突っぱねるのは簡単だが、羽部のように自尊心が天よりも高い男が自分の価値を貶めるような行動を取るとは思いがたい。だから、この情報を一度は信じてみる価値はあるだろう。そう思い、武蔵野は口元を拭った。
「あーあ。シュユのせいで頭が痛いや。あいつがもっとしっかりしていたら、こんなことにはならかったのに」
「一乗寺さん、シュユとお知り合いか何かですか?」
道子に尋ねられ、一乗寺は挑発的な笑みを見せた。
「知りたい? でも、知らない方がいいよ。俺のこと、好きでいたいのなら」
お前は何なんだよ、と寺坂が呟くと、一乗寺は笑い返した。俺は俺だよ、と。それ以上質問したところで、彼女が一から十まで答えてくれるとは思えなかった。正確に答えてくれたとしても、情報が増えすぎて難解になってしまうだけだろう。だから、今はそれだけでいい。解っていること、出来ること、成すべきことだけを見定めて動けばいい。
窓の外では、夜空の端が白み始めていた。
興奮の余韻が抜けず、眠りが浅かった。
つばめは寝返りを打ち、天井を見上げたが、見慣れないものだったので一瞬混乱した。だが、すぐに同じ布団で寝息を立てている美月を見、思い出した。大盛況の内に終了したロボットファイトの打ち上げで散々飲み食いして、騒ぐのが楽しすぎて帰るのがなんだか億劫になってしまって、美月とその父親の言葉に甘えて一夜を共に過ごすと決めたのだ。そして、小倉重機が借りている倉庫の宿直室に泊まり込み、夜通し語り合った。
語り合ったまま、いつしか寝入っていたらしい。その証拠に枕元には二人分の缶ジュースと食べ散らかしたままのスナック菓子が残っていて、ひどい有様だった。軽い筋肉痛と頭痛に苛まれながら、つばめは携帯電話を手にして時刻を確かめた。午前四時過ぎ。二度寝すれば、丁度良い時間になるだろう。
「うーん」
だが、お喋りしながら散々飲んだジュースが膀胱を膨らませている。二度寝して起きる頃には、もっとひどいことになってしまうだろう。ここは素直に用を足しておいた方がいい。
「む……」
つばめは眠気を堪えながら、毛布を捲って起き上がった。美月が起きる気配はなく、だらしなく寝入っている。長い髪は乱れていて、つばめもぐちゃぐちゃだった。
シャワーを浴びた後に髪を乾かす手間を怠ったせいで、元々クセの強い髪は跳ね放題だった。鏡を見たくもないが、トイレに行けば鏡を見ないわけにはいかない。
飲み残しの缶ジュースを一口飲んで乾いた喉を潤してから、つばめは慣れないハイヒールを履いたせいで脹ら脛が痛む足を引き摺りながら、宿直室を後にした。隣接している事務室を通り抜け、雑魚寝している小倉重機の社員達を横目にトイレに向かった。鏡を視界に入れずに用を足し、ついでに顔を洗った。濡らした手で髪を少し整えてみたが気休めにもならず、改めてクセ毛の強さにげんなりするが、それは母親の血だと思うとなんだか嬉しくなる。
「で、結局、この人ってなんなんだろう」
社員達に混じって雑魚寝している岩龍のオーナーを見下ろし、つばめは首を捻った。彼女の名が柳田小夜子で、ロボットを操る才覚は人一倍だということはレイガンドーと岩龍の試合で思い知らされた。小夜子は人間型の人型重機に人工知能を移してロボットファイターに返り咲いた岩龍を完璧に使いこなしていて、レイガンドーを徹底的に責め抜いてバッテリー切れ寸前まで追い詰めた。3ラウンドが終了しても決着が付かず、2ラウンド延長した末に、レイガンドーが岩龍のダウンを取って勝利した。全ての試合が終了した後、岩龍は別の工房で整備すると言って、小夜子は自前のトレーラーで岩龍を運び出していった。その後、この倉庫に戻ってきて小倉重機の社員達と酒盛りに興じていた。小倉貞利は小夜子とは面識があるらしく、酒を酌み交わしながら親しげに話していた。
柳田小夜子は敵ではないようだが、味方だと思い込むのは早計かもしれない。これまでの前例があるのだから。つばめは、小夜子の締まりのない寝顔から目線を外したが、疑念を抱く自分に少し嫌気が差した。
そのまま宿直室に戻ろうかと思ったが、トイレの窓から外が窺えた。ビニールシートを掛けられているロボット達に混じって、シリアスの格好のままのコジロウが突っ立っていた。ああ、いつもの彼だ。
訳もなく安堵したつばめは、今度こそ戻ろうとするとコジロウが振り向いて目が合った。つばめはひどい格好をしている自分が恥ずかしくてたまらず、トイレから逃げ出した。だが、コジロウは倉庫内に入ってきて、トイレから出てすぐのところで鉢合わせした。つばめは一瞬で頬が火照り、彼に背を向ける。
「あっ、あう」
「つばめ」
コジロウは銀色の手を差し伸べ、つばめのTシャツを着た肩に触れてきた。朝露を薄く帯びていた。
「な、何? 今、あんまり顔とか見られたくないよ。だらしなさすぎて」
羞恥に駆られたつばめが顔を伏せると、コジロウは膝を曲げ、レイガンドーとの試合で傷付いたマスクを寄せる。
「本官は敗北した」
「そりゃ、試合だし、ショーだからね。格好良かったよ」
つばめは彼の手に自分の手を重ねると、太い指を二本だけ握った。
「不良品だとは見なさないのか」
コジロウの声色は、心なしか弱っていた。ムリョウの生み出す動力は無限であるはずなのに。
「全然。コジロウは私の我が侭を聞いてくれたもん。後から考えてみると、私のやったことは無謀すぎたよね。いくらお姉ちゃんの居所を炙り出すためだっていっても、ちょっとやりすぎたよ。だけど、後悔はしていないよ。コジロウが私のことを守ってくれるし、それにさ」
つばめは彼の胸に寄り掛かり、上目に見上げた。悪辣な白抜きのドクロが視界に入る。
「良い思い出になったでしょ?」
「ロボットファイトの試合を最重要事項として認識、情報を整理した後にプロテクトを掛けて保存する」
「大袈裟なんだから。でも、そういうところが好き」
つばめはコジロウらしい物言いに笑ってから、彼の腕を引き寄せて抱き締めた。その仕草でコジロウはつばめの意図を理解したのだろう、先程以上に腰を曲げてもう一方の腕もつばめの体に回してきてくれた。チェーンとパイプだらけのボディではいつもとは勝手が違うのか、若干力加減も違っていた。それでも、コジロウはコジロウだ。
これから何が起きようとも、彼がいてくれるのであれば怖くない。つばめが考えた通りに、全ての出来事の黒幕が祖父だったとしても、そうでなかったとしても、コジロウを信じ抜けばきっと乗り越えられる。
乗り越えた先に、何があるかは解らないが。




