前門のトラブル、後門のオラクル
あれよあれよという間に、事態は進行していった。
気付いた頃には、伊織、もとい、御鈴様の住まう部屋には流行を程良く取り入れた衣装が届けられていた。それも一つや二つではなく、何種類ものドレスがハンガーに吊されて袖を通されるのを待っていた。純和風の部屋の一角は改造されてスタジオと化していて、映像の合成を行いやすくするための青一色のクロマキーにテレビなどで使用する大型のホログラフィー投影装置に音響設備、プロ仕様のステレオミキサー、大型スピーカーもスタジオの上下左右に設置され、ライトも完璧だ。それもこれも、御鈴様を一流のアイドルに仕立て上げるためである。
この設備を造り上げるために投資された資金は、一〇〇万や二〇〇万ではないだろう。そんなことを考えながら、伊織は別世界が出来上がっていく様を眺めていた。弐天逸流の信者達は日々忙しく働いていて、アソウギと伊織の意思によって辛うじて命を繋ぎ止めている脆弱な偶像の世話を行いながら、改装作業を進めていた。着々と仕事を進める彼らを見ていると、その衣装によって階級が分けられていることに気付いた。皆、着物に似た服に帯が付いていて、その帯の本数で階級が決まっているようだった。数が多ければ多いほど地位が高く、発言権もあり、御鈴様である伊織に密接に接してくる世話係は特に帯の本数が多かった。恐らく、御神体であるシュユをモチーフにしているのだろう。だが、最も階級が高いであろう高守信和の着る法衣には帯は一本も付いておらず、紆余曲折を経た末に伊織専属の科学者のような立ち位置に収まっている羽部鏡一についても同じことが言えた。
あいつらって嘱託社員みてーなもんなのかなぁ、と考えながら、伊織は信者達が考えてくれたオリジナル曲の歌詞と楽譜の画像を見た。まずはインターネットの動画サイトでデビューするという手筈になっているので動画サイトに入り浸っている客層に合わせた楽曲なのだが、どれもこれも歌いづらそうだった。曲調は波が激しく、歌詞の語彙も言葉遊びだらけで、こんなものが本当に受けるのかと不安になるほどだった。
「やあ」
ふすまを開けて不躾に入ってきたのは、下半身がヘビのままの羽部鏡一だった。伊織はPDAから投影していたホログラフィーを消してから、着物の上に刺繍が入った白衣を羽織ったヘビ男を見やった。
「こんなん、マジでやんのかよ。イカレすぎだろ」
伊織が毒突くと、羽部はA4サイズのタブレットを持った腕を挙げた。
「そんなこと言われても、シュユが決めたんだからどうしようもないよ。従うしかないよ、不本意極まりないけど」
「つか、最近のアイドルなんか使い捨てだろうが。そんなもんで信者を掴まえられんのかよ」
「使い捨てだから、掴まえられるんだよ」
御祈祷の時間だよ、と羽部に促され、伊織は渋々立ち上がった。すると、改装作業をしていた信者達は全員手を止めて平伏し、長い下半身をくねらせながら部屋を出ていく羽部とそれを追う振袖姿の少女を見送ってくれた。二人が通る廊下だけでなく、本堂に繋がる渡り廊下の左右にも信者達が這い蹲り、額を地面に擦り付けていた。毎度のことながら、大名行列の気分を味わわされる。本堂に入ると、薄暗い中にロウソクの炎だけが灯っている。
無数の腕はあれども千手観音とは似ても似つかない御神体、シュユの前には矮躯の男が座っていた。高守信和はサイズの大きい法衣の裾を引き摺って立ち上がり、二人を出迎えてくれた。職業柄、法衣を日常的に着ていた寺坂善太郎をふと思い出すが、寺坂と高守では同じ法衣でもまるで別物の服に見えるから不思議だ。寺坂の場合は締まりがない上に下手に上背があるので破戒僧っぷりが際立っていたのだが、高守の場合は常に丸まっている背中と撫で肩が法衣に覆われると、敬虔な宗教者に見えてくる。薄暗いから、でもあるのだろうが。
『体の調子はどうだい、御鈴様』
高守は袖口から出した携帯電話にテキストを打ち込み、ホログラフィーを投影した。
「別に。どうってことねーし」
伊織が座布団に胡座を掻くと、すかさず羽部が尻尾の先で足を叩いてきた。
「行儀が悪すぎるんだよ、クソお坊っちゃんは。そんなことじゃ、お里が知れてネットで叩かれてデビュー前からクソビッチだの何だのと言われまくるんだからね?」
「ウゼェな」
そうは言いつつも、伊織は座り直した。自分はともかくとして、りんねに妙なクセが付いたら困るからだ。
『ダンスレッスンやボイストレーニングの方は順調かい?』
高守が文面で問うてきたので、伊織はぞんざいに答えた。
「ああ、まーな。つか、俺はその気はねーんだけど、お嬢の方がやる気みたいで体が勝手に覚えていっちまうんだ。もっとも、体力がねぇから一時間もするとぶっ倒れちまうんだけどな。てか、そんなんで大丈夫なのかよ。アイドルになる頃には、お嬢が死んじまうんじゃね?」
「その点については問題はないよ、ちゃんと考えてある」
羽部は座布団の上でとぐろを巻くと、自分の下半身を盛り上げた部分を背もたれ代わりに寄り掛かった。
「つか、なんで新興宗教がアイドル商法なんだよ。マジ意味不明すぎるんだけど」
伊織が最大の疑問をぶつけると、高守は手早く文面を打ち込み、見せてきた。
『人心を掌握するのに最も簡単な方法は、偶像を崇拝させることだからだよ。最近は情報操作による思想の誘導が可能だからマーケティングもやりやすくなっているし、弐天逸流の信者達をサクラにしてネット上で騒がせてしまえば一気に何十倍、何百倍もの顧客が獲得出来るからね。アクセス数が多いブログとか、有名人のSNSとか、そういうところに名前を出せば小一時間で数千人が目にすることになるし、その一〇〇分の一であっても数十人だ。それだけの人数が君の動画を見て、歌を聴いて、有料の音楽データをダウンロードしてくれればこっちの勝ちだ。ダウンロードした人間が、御鈴様を通じて弐天逸流の信者になるのは時間の問題だし、違法ダウンロードであろうともデータがばらまかれれば万々歳。御鈴様の歌う楽曲を聞いた時点で、シュユが発する固有振動数の影響を受け始めているんだからね。人間の脳の構造は単純だからね、少し揺さぶりを掛ければ呆気なく術中に落ちる』
「道子っつーか、桑原れんげが似たようなことをやったんじゃねーの? で、失敗したんじゃねーの?」
前例を挙げて伊織が嘲るが、高守はそれを気にせずに続けた。
『あれはやり方が極端すぎたから、失敗して当然だよ。それに、あの時アマラを使用していたのは佐々木つばめでもなければ吉岡りんねでもない、佐々木家とは血の繋がりが全くない男、美作彰だったから尚更だよ。彼はムジンに保存されている情報を直接自分の脳にインストールして自分の知能と知性を底上げし、ただの性根の歪んだオタクからハルノネットのサイボーグ技師にまでのし上がったけど、所詮は付け焼き刃。人間の脳では処理しきれない量の情報を詰め込んだせいで精神が歪み、その結果、彼自身が生み出した妄想の権化である電脳体、桑原れんげに殺されてしまった。もちろん、自分の能力を過信しすぎた美作彰も悪いんだけど、彼にムジンの扱い方を教えた人間が一番悪いんだけどね。それさえ解らなければ、彼は今も薄暗い人生を送っていただろうから』
「ムジン? つか、それも遺産なのか?」
聞き慣れない単語に伊織が首を捻ると、羽部は懐から青く光る金属板を出してみせた。
「これのことさ。遺産を操るための集積回路だよ。いわばマザーボードみたいなものなんだけど、マザーボードだけでパソコンが動くわけないってことは子供でも理解出来る話だよ。この僕は生物学とアソウギの研究がメインだから門外漢ではあるんだけど、設楽道子に脳が存在していた頃にほんの少しだけ生体組織を繋げたことがあるおかげでまるっきり使えないってわけじゃないんだ。まあ、この優秀すぎる僕ならば当たり前だけどね」
「で、そのムジンと、アイドルと、俺と、どういう関係があるんだよ」
それが解らなければ、やる気も出るまい。伊織が金属板を睨むと、羽部はそれを懐に戻した。
「だから、最初に説明してあげたじゃないか。低脳すぎて忘れちゃったの? 御嬢様の姿形をしたクソお坊っちゃんが新たな御神体となって弐天逸流の信者を何百倍にも増やして、信仰心を集めてシュユを蘇らせるんだよ」
「この千手観音もどきが復活する、っつーのだけでもマジ意味不明だけど、その後が解らねぇな。千手観音もどきが目覚めたら、何が起きるんだ? つか、お前らの狙いってそれだろ?」
伊織が御神体を指し示すと、高守は更にタイピングした。
『それについては、君が歌う歌に込めてあるよ。今一度、歌詞をよく読んでみるといいよ』
祈祷の時間だから、と書き記してから、高守はのっそりと立ち上がって本殿を去っていった。そして、本殿に伊織と羽部だけが残された。伊織は居心地が悪くなり、ラミアの如き科学者の様子を窺った。高守に助けられて弐天逸流に転がり込んでからというもの、羽部は妙に親切なのだ。羽部は弐天逸流と何らかの取引を交わした上で、伊織とその肉体であるりんねの生命活動の維持の手助けをしてくれているのだろうが、その意図が読めない。天をも貫く高さのプライドを誇る羽部が、なぜ新興宗教に身を落ち着けているのだろうか。羽部の性格からすれば、弐天逸流の信仰を鼻で笑って叩きのめしそうなものなのに。
だが、今はそれを問い詰めない方がいいだろう。以前の伊織ならば、羽部が逆上したとしても自力でねじ伏せることが出来たからだ。しかし、今の伊織は脆弱なりんねの肉体なのであり、丁重に扱うべきだからだ。万が一、羽部に襲われでもしたらやり返せない。それどころか、守ろうと誓った少女に無用な傷を与えてしまいかねない。
「馬っ鹿馬鹿しいったらありゃしない」
高守の姿が消えた途端、羽部は姿勢を崩して寝そべった。その表紙に下半身も崩れ、だらしなく伸びる。
「何がアイドルだよ、何が偶像だよ、何が信仰心だよ。そんなものに価値があるのかって、ないね。不特定多数の人間が共通の価値観を共有することで発生する概念をエネルギー源にして蘇る代物なんて、神様なんかじゃないよ。ちょっとハイレベルな集団ヒステリー、そうでなければ一過性の流行だよ。ああもう、反吐が出る」
「だったら、なんで連中の味方してんだよ。訳解んね」
伊織が毒突くと、羽部は人間の顔であっても爬虫類じみた目を吊り上げる。
「この凄まじき天才の僕が他人に従うだなんて、そんなことがあっていいはずないだろ。君も馬鹿だな、救いようがないレベルのとんでもない馬鹿だな。もっとも、この素晴らしき僕は他人なんか救うわけがないんだけど」
「……ああ、そう」
羽部の相変わらずの態度にげんなりし、伊織が目を逸らすと、羽部は頭の後ろで手を組んで天井を仰いだ。
「システムがいい加減なんだよ、どれもこれも。遺産自体が穴だらけなんだ。それなのに、その穴を埋めようともせずに人智を越えたことをやらかそうとするから失敗するんだよ。アソウギにしても、あれは地球上の生命体を改造するためのツールじゃない。D型アミノ酸の生命体にしか適合しないことで解るはずじゃないか、そんなこと。アマラもそうだよ、それなりにネットワークと文化が出来上がった社会で仮想現実に構築した概念を使って現実に影響を与えて実体化する、だなんてナンセンスにも程があるよ。偏った情報で出来上がっている概念なんか使ったりしたら、ろくでもない結果になるのが目に見えている。ナユタもそうだ。政府関係者が横流ししてくれた情報で新免工業が起こした事件の概要は掴めたけど、そもそもあれは何のために使う道具なんだよ。中性子線を放って分子構造そのものを破壊して物質を消滅させるほどのエネルギーがあっても、利用方法が解らないのなら、無意味の極みじゃないか。無尽蔵なエネルギーを発生させるだけだったら、コジロウの動力源であるムリョウだけで充分なはずなのに。そのムリョウと対になっているタイスウも、ただの箱にしては頑丈すぎるし、異次元宇宙に分子を存在させておく利点はどこにあるんだか。遺産も異次元宇宙に存在していたら、共倒れするだけじゃないか。コンガラもそうだ。物質を無限に複製出来るとしても、複製するために必要な物質はどこから引っ張ってくるんだ? コンガラが何かを複製したら、その分だけ、別の宇宙の物質が間引きされてしまうはずだ。シュユと同等の機能を持ったゴウガシャにしても、なぜその能力で本体を蘇らせることが出来ないんだ? 劣化コピーだとしても程があるよ」
「で?」
羽部の独り言を聞き飽きた伊織が寺坂の口癖を真似ると、羽部は少し考えた後に言った。
「遺産の機能をトータルして考えてみると、未開の地を切り開くための道具一式なんじゃないかって思えてくるんだ。アソウギで現住生物を改造して現地調達出来る労働力を生み出し、アマラでその労働力の思考と思想を統制して管理し、ナユタのエネルギーを適当な方法で変換して文明を進歩させる原動力にして、出来の良い個体が出来たらコンガラで複製してシュユで生命を与え、そしてまたアマラで管理下に置く。そうすると、面倒臭い統治なんかせずに済むからね。ムリョウとタイスウは……輸送手段の一部として考えるべきかな。ラクシャは記憶媒体だから、その中に詰め込んだ膨大な情報を元にして開拓作業を行うんだろう。だが、散らばっているのは道具だけで、それを使用する者が存在していない。管理者権限所有者は存在しているけど、それはあくまでもスペアであって本物じゃないと思うんだよねぇ。どの遺産も人間が作り出せる代物じゃないから、人類を超越した第三者が何らかの意図によって遺産をばらまいた、と考えるべきだね。だとすれば、なぜ管理者権限所有者なんて作っておいたのかが疑問だけど、それはまあこれから考えればいいか。この僕の冴え渡る頭脳を錆び付かせないためにもね」
「開拓しに来たのが誰だか知らねぇけど、だとしたら良い迷惑じゃねーか」
長い歴史の中、開拓の名の下に滅んだ文明は数多くある。
伊織が毒突くと、羽部はにんまりする。
「そうなんだよ。だから、この優れたる僕の能力を生かすべく、獅子身中の虫になったんじゃないか」
あ、これは秘密ね、と羽部は口角を吊り上げた。その表情はやけに楽しそうで、心からの笑顔と称すべきものではあったが悪意が多分に含まれていた。開拓者が羽部の想像上の存在だとしても、人間を越えた生命体である羽部自身を上回る存在を否定したくてたまらないのだろう。たとえそれが神であったとしても、羽部の刺々しい自尊心を損なうものは決して許せないのだ。筋金入りのナルシストだ。だが、自尊心を守るためだけに弐天逸流に潜り込むとは、剛胆ではある。無謀極まりない上に自意識過剰にも程があるが。
伊織も、その考えには多少は同意出来る。彼ほど極端ではないが、弐天逸流とシュユの思い通りに使われるのが面白くないのは確かだ。それに、りんねも本意ではないだろう。弐天逸流の企みが知れたら、その時は手のひらを返してやろうではないか。それもまた、りんねを守ることに繋がるのだから。
味方など、どこにもいない。高守も羽部も弐天逸流の信者達も、伊織とりんねを利用しようとしているだけだ。偶像として、遺産を使うための鍵として。だから、こちらも利用し返してやるしか生き残る道はあるまい。
今一度、伊織は決意を据えた。
九月に入り、二学期が始まった。
それは船島集落の分校でも例外ではなく、九月の第一月曜日から授業が再開された。最後まで頑張ったが時間が足らず、宿題を全部終わらせることが出来なかったつばめは、追試を覚悟して登校した。だが、担任教師である一乗寺が提示したのは追試でもなければ宿題の消化でもなく、自習だった。
自習、と黒板に大きく書き記してあり、一乗寺はその手前にある教卓に突っ伏していた。理由は不明だが、突如として性別が転換して女性化した一乗寺は、未だに男物の服を着ていた。ブラジャーや下着の類は、道子が採寸してくれて通販で購入したものを身に付けているのだが、それ以外はまだ手が及んでいないのだ。だから、肩幅の広いワイシャツの襟元が広がって一乗寺のやたらと大きい胸の谷間が覗き、真正面に座っているつばめにはとてもよく見えてしまうのである。身長も若干縮んだらしく、一乗寺のスラックスの裾は折り畳まれている。
「うぇええ気持ち悪ぅ……」
青い顔をした一乗寺は、今にも死にそうな声を出して呻いた。
「先生、もしかしてアレですか?」
思い当たる節は一つしかない。つばめが自分の下腹部を押さえると、一乗寺は涙目になった。
「俺の体が変わってから三週間経ったでしょー……? だから、きっちりアレが来たってわけ。あーもう……」
「てぇことは、つまり、そういうことなんですか!?」
つばめが目を剥くと、一乗寺は腰をさすった。
「そうなんだよぉ。みっちゃんが色々と用意してくれたから大丈夫だけど、あー、もうやだー、男に戻りたいー」
「そんなにホイホイ戻れるものなんですか」
「戻れるわけないじゃーん! だから苦しんでいるんだよーう! うわああんお腹痛い気持ち悪い頭痛いー!」
ホルモンバランスのせいで情緒が不安定になっているからか、一乗寺は声を上げた拍子にぼろっと涙を零した。理解に苦しむ部分が多すぎて思考停止しそうになりながらも、つばめは事態を理解しようと努めた。まず、一乗寺は常人ではない。だが、先天的に人間ではないのか、後天的に人間ではなくなったのか、で大いに変わってくる。更に言えば、性別が切り替わるのは能力なのか体質なのか、でもかなり変わってくる。けれど、男になろうが女になろうが一乗寺の一人称は俺で固定されているらしい。それでいいのだろうか。
「そんなに辛いんだったら、今日は授業はしないで大人しくしていたらどうですか?」
どうせ自習なのだから、とつばめが提案すると、一乗寺は拗ねた。
「やだよー。俺、先生をやるのって嫌いじゃないんだもーん。それに、戦ってばっかりいるのも飽きるし、こっちの体になっちゃうと男の時に比べて無理が利かなくなるんだもん。骨格も細いし筋力も低いから、戦闘には向いてないんだー。だって、単体繁殖するためのモードだしぃー。俺、そこまでダメージ受けたつもりじゃなかったんだけど」
「単体繁殖ぅ?」
ますます人間離れしていく。つばめが思わず聞き返すと、一乗寺は唸った。
「あー、うん、そうなのー。今は栄養状態が悪いから、それはないみたいだけど、でも、あー気持ち悪ぅー……」
「先生って一体何なんですか」
「えー? 俺は俺、それだけだよう」
一乗寺は少し伸びてきた髪を掻き上げ、眉を下げた。
「まー、慣れてきたから特に何もリアクションしませんけどね」
驚きが収まったつばめが椅子に座り直すと、一乗寺はへらっと笑った。
「うん、ありがとう。そういうのがね、一番楽なの。で、今日のお弁当はなーに?」
「買い出しに行っている余裕がなかったんで、在り合わせですけど。キュウリのたたきと、ハムのピカタと、ツナと卵とマカロニのサラダで。あと、梅干しと塩昆布のおにぎりが二つ」
「わーい、楽しみぃー」
さすがに倒れそうだから一眠りしてくる、と絞り出すように言うと、顔色が一層悪くなった一乗寺はふらつきながら教室を後にした。あんな足取りで無事に宿直室まで辿り着けるのだろうか、とつばめが冷や冷やしていると、一乗寺の不安定な足音が途絶えた。廊下に倒れた様子はないので、最後まで踏ん張りが利いたのだろう。
つばめはほっとしながら、いつも通りに教室の後方で待機しているコジロウに向いた。彼なりに一乗寺の様子が気になるらしく、視線を向けていたが、つばめに戻した。つばめは彼を机の傍に手招くと、やりきれなかった宿題を消化すべく、教科書やノートを広げた。コジロウに問題の答えを聞くのは、どうしても解らないところがある時だけだと決めているし、コジロウもつばめの学習を妨げない程度の情報しか与えてくれないので、答えを羅列するだけにはならない。つばめは一乗寺が作った問題に四苦八苦しつつ、回答欄を埋めていった。
宿題が片付いたら、貧血と生理痛に苦しんでいる教師の元にお弁当を持って行ってやらなければ。鎮痛剤を飲むためには何か食べる必要があるし、痛みのせいで消耗するので体力が保たないからだ。つばめは窓越しに残暑の厳しい外界を見やり、一つ、ため息を零した。
日常が戻ってくると、やるべきことも迫ってくる。放課後には、先月分の税金を支払う手続きをしなくては。これまでは、金銭の絡んだ事務仕事を一手に引き受けてくれていた美野里がいなくなったのだから、自分でやるしかない。
改めて、美野里のありがたみを思い知った。
手のひらを返すにしても、まずは相手の手の内を知らなければ始まらない。
そう判断した伊織は、世話係の者達の目を盗んで部屋から抜け出そうと決めた。これまでは伊織の体液とりんねの肉体が馴染みきっていなかったこともあって体力が続かず、失敗してしまったが、羽部の投薬と日々の穏やかな食事のおかげで体も大分落ち着いてきた。伊織が伊織であった頃の能力も僅かに残っているので、超人的な戦闘能力は発揮出来なくとも、それなりにジャンプ力はある。上手く隙を衝けば、部屋を囲んでいる屏を跳び越えられるはずだ。そんな企みを腹の底に宿しつつ、部屋に戻った伊織は、御鈴様として求められるがままに動いた。
ダンスレッスン、ボイストレーニング、アイドルらしい表情作り、喋り方、立ち振る舞い、などなど、御鈴様をアイドルに仕立て上げるために必要な下拵えを施されていった。体力が続かないので休み休みではあったが、教えられた分だけ出来るようになっていくのは純粋に楽しかった。水晶玉のペンダントを装っていた遺産、ラクシャの支配から解放されたりんねは身も心も真っ新だったので、その清らかな分だけ伸びしろも大きかったのだろう。
そして、練習した分だけ上手くなったダンスや歌をビデオカメラで撮影して編集した後に動画サイトに投稿すると、その傍から視聴されていった。半日で十万回も再生され、滝のようにコメントが付き、反応も返ってきた。その大半は弐天逸流の信者達によるものではあるが、もう半分は訳を知らない一般人なので、彼らが御鈴様を通じて弐天逸流に入信してくれれば作戦は成功である。御鈴様が弐天逸流が作り出した新たな御神体であり偶像であるとはまだ知らしめていないが、シュユの放つ固有振動数を含んだ楽曲を長時間聞いた人間は刷り込みが成功しているので、彼らは何の疑問も持たずに弐天逸流の信者になることは決定している。疑問を持つ、という選択肢が脳から失われるからである。いずれ、御鈴様がテレビで取り上げられるようになれば、更に効果は増すだろう。
栄養補給を兼ねた間食を終えた後、伊織は少し横になるから一人にしてくれと命じると、世話係の者達はすぐに部屋から退出してくれた。部屋の隅に出来上がったスタジオも電源が落とされ、煌びやかなホログラフィーも消え、御鈴様が身に付けていた華やかな衣装もハンガーに掛かっている。
「んで、どうすっかな」
帯を解いて浴衣を脱ぎ、襦袢だけになった伊織は、枕元に用意されている水差しから直接水を呷った。コップも用意されているのだが、なんだかまどろっこしかったからだ。
「えー、と」
ふすまを開けて廊下に顔を出し、狭い中庭を眺める。縁側の突き当たりにあるのがトイレで、その隣にあるのが風呂場だ。伊織が寝起きしている部屋の続き部屋がスタジオになっていて、至るところから電源を引っ張ってきたので太いケーブルが何本も廊下を這い回っている。中庭の植木は手入れが行き届いていて、咲き乱れている花も色鮮やかだ。足音を殺しながら中庭に出た伊織は、両足に力を込めてみた。
が、思うように筋力が高まらない。怪人だった頃は人間体でも無理が利いたのだが、りんねの肉体となるとそうもいかない。だが、ここで弱気になっては人払いをした意味がない。中庭を囲んでいる塀まで一直線に飛ぼうと思うから力が出せないのだ、と考え直した伊織は、ひとまず中庭に出ることにした。狭いながらも池もあり、ニシキゴイが泳ぎ回っている。中庭の中で最も背が高いものは池の側にある庭石で、伊織の背丈よりも少し高い程度だった。その上に乗ってから跳ねれば、塀の上に飛び移れるかもしれない。
履き物で滑っては元も子もないので、伊織は雪駄を脱いで素足になってから、庭石の上によじ登った。その際に襦袢の裾が邪魔だったので腰紐に挟んだため、太股と下着が丸出しになってしまったが、どうせ誰も見ていないのだから気にするものでもない。再度両足を曲げて力を込めた伊織は、息を詰めた。そして、渾身の力を込めて庭石を踏み切って跳躍した。その際に力を入れすぎたのか、外骨格が迫り出して襦袢を突き破ったが、無視した。
「うおっと」
が、圧倒的に高さが足りず、伊織は塀の上に飛び乗るどころか瓦に捕まるだけで精一杯だった。しかし、掴んだ瓦もまた滑りが良すぎるので、ずり落ちるのは時間の問題だった。こうなったら背に腹は代えられぬと両手に力を込めて変形させ、太く曲がった爪を伸ばして瓦に引っ掛けた。それを使って懸垂し、登攀し、やっとのことで塀の上によじ登った。たったそれだけなのに、息が上がるほどの疲労が襲い掛かってくる。
だが、立ち止まっていては見つかって連れ戻されてしまう。伊織はぐっと疲労を堪え、塀の外に雪駄を放り投げてから飛び降りられる場所を探した。比較的柔らかそうな芝生を見咎めたので、その方向に身を躍らせる。着地した途端に訪れた衝撃が予想以上にきつく、伊織はそれが抜けるまでは身動きが取れなかった。屈強な軍隊アリ怪人だった時代は着地の際のダメージも自身の筋力で跳ね返せていたのだが、りんねの体はとにかく脆弱なので、それをやり過ごせるような筋力すらなかったようだ。運動して鍛えてやらなければ。
てんでバラバラな場所に転がっていた雪駄を拾い集めてから履き、伊織は歩き出した。捲り上げたままだった裾を下ろそうかと思ったが、着物の類は布地が長くて足捌きが悪くて歩きづらいので、そのままにしておいた。塀の外の世界は薄い霧に包まれていて、視界が悪かった。標高が高いのだろうか、と思ったが空気は薄くもなんともなく、夏らしく蒸し暑いので、海抜は低いのだろう。
伊織が住んでいた部屋は離れになっているらしく、塀は伊織の部屋だけを取り囲んでいた。本堂に行くために通る通路は渡り廊下になっていて、いくつもの渡り廊下がいくつもの建物を繋いでいた。御神体であるシュユが収まっている本堂は坂の上にどっしりと構えていて、一際巨大な寺院だった。だが、その大きさの割に荘厳さが感じられないのは、凄みが欠けているからだろう。寺坂の蔵書を読み漁って寺院の写真も大量に見ている伊織の目には、華美な装飾が却って安っぽくしているとしか思えなかった。瓦屋根の四方に付いた龍や鳳凰の飾りにしても、朱塗りの柱や階段にしても、いかんせん統一感がない。だから、圧倒されないのだ。
所詮は新興宗教だよな、と諦観しつつ、伊織は足を進めていった。信者達が渡り廊下を通ってそれぞれの仕事に向かう様を横目に、時折草木に身を隠しながら、出口を探ってみた。伊織が住んでいる離れと本堂が一番奥にあるものだと仮定して、渡り廊下を辿っていった。建物と建物を繋いでいる渡り廊下に添って歩いていったが、見覚えのある景色の場所に戻ってきてしまった。首を傾げながら、別の渡り廊下を辿って進んでみるが、同じ結果だった。ということは、建物同士が円を描いて繋がっているのだろうか。それでも玄関や正門はあるだろうと期待を抱き、再度進んでみるが、やはり同じ結果だった。さすがに疲れてきた伊織は、人気のない庭に潜り込んで一休みした。
「あぁ、どういうことだ?」
伊織は髪を掻き乱し、考え直した。伊織の住まう離れとシュユの収まる本堂は対極に位置していて、本堂は坂の上にあり、離れは坂の一番下にある。その両者を繋ぐのは瓦屋根の日本家屋と十数本の渡り廊下で、坂の傾斜に添って建てられている。つまり、建物が点で渡り廊下が線なのだ。改めて視認してみると、それらは一直線になって並んでいる。つまり、延々と昇っていけば、本堂の先にあるであろう山の斜面に辿り着くはずであって、逆に下っていけば離れの先にある麓に辿り着くはずなのだ。だが、そのどちらにも辿り着かなかった。
一度深呼吸してから再び考え直してみるも、答えは出なかった。伊織が悶々としていると、がさりと庭木が揺れて人影が現れた。また離れに連れ戻される、と伊織がびくついて逃げ腰になると、庭木の間から現れたのは剪定鋏を手にした高守信和だった。別荘で暮らしていた頃のような作業着姿で、背負ったカゴには枝葉が入っていた。
「んだよ」
反射的に伊織が凄むと、高守は作業着のポケットから携帯電話を出し、文章を打ち込んだ。
『どこに行こうとしたのさ』
「外だよ。つか、ここ、どこなんだよ」
『どこでもないよ。外には行けないよ。出られなくもないけど、シュユが許してくれなければ無理だね』
「は? 意味解んねぇんだけど」
『この空間は閉じているんだよ。コンガラによって複製された空間をシュユが維持、管理しているんだ』
「コンガラ、ってお嬢んとこのだろ。なんでそれをお前らが使えるんだ? つか、空間なんか複製出来んのかよ?」
『まあ、使ったのは大分前の話だよ。シュユがまだ管理者権限を持っていた頃のことだから。他にも知りたいことがあるんだろう、伊織君。僕が許可するから、教えてあげよう』
「なんか上から目線だな。ウゼェ」
とは言いつつも、伊織は好奇心を抑えられなかった。
「じゃあ聞くけどよ、なんで弐天逸流は人間を生き返らせられるんだよ? コンガラじゃ出来ねぇし、アソウギだってそこまで万能じゃねぇし。つか、肉体とかってどこから調達してんだ? 新興宗教如きが、人間をクローニング出来るような設備も材料もあるとは思えねぇし」
『そりゃ、まあね。でも、似たようなことは出来るようになっているんだ』
「それもシュユのおかげってか?」
『その通り。付いてきて』
高守が手招いたので、伊織は腰を上げて彼を追った。綺麗に整えられている庭木の間を擦り抜けていき、格子に囲まれている畑に行き着いた。高く土を盛り上げた畝からは、野菜のような葉が生い茂っている。だが、その葉には見覚えはない。伊織は野菜に関して詳しくはないのだが、畝で育てられている作物の葉は人間が食べるようなものではないように思えてならなかった。シダに似た葉は細く尖っていたがサボテンのように肉厚で、それでいて生臭い芳香を放っていた。葉の根本には花が付いていて、赤い肉を丸めたような不格好な花弁だった。
「なんだよ、これ」
伊織が訝ると、高守は無言で畝に屈み、土を掘り返した。堆肥と水の混じり合った独特の匂いが零れ出し、土の下で育ちつつあった作物の根が露わになった。一見すると、それは芋のように見えた。白くぶよぶよとした円筒形の根が縮まっていて、曲がりくねった茎が葉の根本に付いていた。更に高守は土を掘り、大人の腕でも一抱えはある大きさの根を掘り出した。不格好なジャガイモに似た丸い根に付いた土が払われると、伊織は間を置いてからそれが何の形をしているのかを理解した。人間の赤子だ。
「人間じゃねぇか、それ」
伊織が身動ぐと、高守は赤子を再度土に埋め戻してから、文字を打ち込んだ。
『シュユはこうやって人間を生み出すんだ。といっても、生物学的には人間じゃないから、人間に酷似した植物とでも言った方が正しいね。生まれ変わった人間達は成熟して収穫されると驚異的な速度で成長し、一週間で死んだ時と全く同じ外見になり、シュユとゴウガシャによって生前の記憶と共に信仰心を与えられるんだ。彼らは生前の個体差はちゃんと残っているし、個性もあるし、自分自身が何なのかも理解している。そして、従順だ。思想も統一することが出来るから、票数を稼がなければ政党と派閥を維持出来ない政治家達には重宝されているんだ。だから、政治家達の思考を誘導して弐天逸流にとって都合の良い条令を制定出来るし、寺坂善太郎に関する不可侵条令や、遺産所持者と遺産関連の事象については一切の罪を問わないという条令も敷けたんだ』
「つか、そんなもん、どうやって育ててんだよ? なんで人間が植物から産まれんだよ? 訳解らねぇ」
『割と簡単だよ。シュユから切り取った肉片を水耕栽培の要領で培養して枝葉を伸ばさせ、その枝葉を株分けして栄養を豊富に混ぜ込んだ土壌に埋めるんだ。その際に、苗の根本に死んだ人間の生体組織を一緒に埋めると、死んだ人間と全く同じ人間が産まれてくるんだよ』
「てか、虫の方が効率良くねぇか? でけぇメスを作って卵をぼこぼこ産ませて、その中に人間の切れ端をねじ込んで培養しちまえばいいんじゃねーの?」
伊織が投げやりに意見を述べると、高守は更に筆談した。
『そうだね、その方法も考えた。だけど、生物学的には植物の方が遙かに古く、生態系もゲノム配列も安定している。虫も歴史は古いけど、植物には敵わないからね。環境への適応能力も、擬態能力も、何もかもがね。だから、シュユはこの方法を選んだんだ。君が飲んでいる薬も、この植物から作り出したものだしね』
「あー、そうかよ。だからって、俺が感謝するとでも思ったのか、クソが。気色悪いったらねーな。つか、前々から疑問だったが、てめぇらは寺坂をどうしたいんだ。掴まえるなら掴まえる、殺すなら殺すでやっちまえばいいじゃねぇか。野放しにしておくだけなのかよ」
『それもまた、シュユの意思だよ。僕達の理解の及ばない話だ』
「寺坂の奴は、てめぇらの本部と本尊を探し回って信者を手当たり次第に触手責めしてるじゃねぇか。それなのに、何もしねぇのか? つか、それでいいのかよ」
『いいんだよ。シュユがそう決めたのだから』
「なんでもかんでもシュユかよ。つか、信じすぎだろ、てめぇらは」
少々気分が悪くなった伊織が毒突くと、高守は土に汚れた手を払った。
『シュユを信じることは肉体を乗り換えることであって、厳密に言えば生と死の境界を越えるわけじゃない。だけど、信者達は、というか、人間はそれを履き違えていてね。そのおかげで、弐天逸流はここまで大きくなったけど』
「てめぇも一度死んだのか?」
『いや、僕は違うよ。シュユに身を委ねているだけだ。支配されてもいないけど、蔑んでもいない』
「んで、俺があの電波ソングを歌えば歌うほど、人間共は馬鹿になって、てめぇらのところに来て肉体を乗り換えるっつー寸法かよ。人間と植物を入れ替えてどうすんだよ。つか、意味あんのか、それ」
『まあ、僕もそれについては疑問だけど、シュユの言う通りにしないと』
「つか、あの触手の化け物の言う通りにしてどうなるんだよ。俺が歌わされている歌みたいに、箱船だの選ばれた民だの運命だのユートピアだの、っつーイカレた世界に連れてってくれんのか? 馬鹿じゃね?」
『そうだよ。君の歌とダンスは終末思想を煽り、終末思想に染まった者に選民意識を与え、付け入りやすくするための歌なんだ。そして、君はその迷える人々を導く女神なんだ』
至って真顔で文章を見せてきた高守に、伊織は頬を引きつらせる。
「あぁ?」
『体力が尽きる前に離れに戻った方が良いよ、御鈴様』
高守はその文面を見せた後、畑の奥へと向かっていった。人間もどきの剪定を始め、剪定鋏を使って伸びすぎた葉を切り落としてはカゴに投げ入れていった。なんとも陳腐な終末思想だ。生きることに疲れた人間がいい加減な宗教に浸った挙げ句に終末思想に染められ、俗世から逃れようと自殺を図るのは珍しくもなんともない。新興宗教であれば、終末思想を利用して信者を掻き集めたはいいが引っ込みが付かなくなり、信者達を大量殺人するという結末も珍しくない。そうでなければ、信者達を利用して無差別殺人を行い、預言を現実にしてしまうのだ。
結局、弐天逸流もその程度か。伊織はなんだか拍子抜けしたが、そんなものだとも思った。いかなる神にせよ、偶像にせよ、大風呂敷を広げた分だけ引っ込みが付かなくなって在り来たりな結末を迎えてしまうものだからだ。そうと解れば、弐天逸流を裏切ったところでなんら気は咎めない。むしろ、やる気が湧いてくる。
行く行くは、りんねのためになるのだから。
二学期が始まったのに、こんな生活をしていていいのだろうか。
ふと頭に過ぎった疑問を振り払いながら、美月は動画編集作業に没頭していた。トレーラーの外では、父親である小倉貞利がレイガンドーの修理に専念している。船島集落の手前にあるドライブインと大差のない、年季の入ったドライブインの駐車場が今夜のキャンプ地だった。今ではすっかりトレーラーで生活するのにも慣れてしまったし、機械油の匂いに包まれて部品に囲まれながら眠ることも好きになっていた。風呂はネットカフェや銭湯を見つけて入ればいいし、洗濯もコインランドリーで済む。この半月はずっとそんな調子で、ちゃんとしたホテルで寝起きしたのは数えるほどしかなかった。父親とここまで密接に生活するのは初めてだったので、最初の頃は言葉の行き違いも多かったが、今ではどちらも距離の置き方を弁えてきたので、諍いも起きなくなっていた。
父親が新たに興したロボットファイトの興行会社の営業を兼ねた全国ツアーは、当初の予定よりも若干の遅れは出ていたが順調に進んでいた。地方のアンダーグラウンドで燻っていた格闘ロボットとそのオーナー達は、ロボット賭博で最強を誇っていたレイガンドーとの対戦に狂喜し、コアなファン達も高揚した。美月はファンの期待に応えるべく、父親の指導を受けながら精一杯戦い抜いた。何度か手痛い敗戦も経験したものの、勝ち星の方が圧倒的に多く、美月とレイガンドーは確実に強くなっていた。
「ぶはー……」
日中の試合の余韻が抜けきらない頭では、動画編集に集中出来ない。試合のダイジェスト版の動画を動画サイトにアップした後も、小倉重機のウェブサイトにリンクを貼る作業も残っている。美月は仰け反り、息を吐いた。
「お父さあーん、動画をアップするの、明日でもいいー?」
「んー、どこまで編集した?」
レイガンドーの股関節のダンパーの具合を確かめながら、小倉が聞き返すと、美月は凝った首を回した。
「えーと、第三ラウンドでレイが3カウントを取り損ねたところまでー。てかさ、ルールがごっちゃごちゃじゃないのー。なんでラウンド制にしちゃったのー? だったらボクシング寄りで10カウントでいいじゃなーい。なんでー?」
「その方が面白くなると思ったんだ。総合格闘技だって、色んなところからルールを引っ張ってきているじゃないか」
「会社の人とさー、もうちょっと会議してから決めた方がよくなーい? ちょっと解りづらいところもあるよ」
「だなぁ。細かいところはまだまだ煮詰めないと」
機械油に汚れた手袋を外してから、小倉は首に掛けていたタオルで額の汗を拭い取った。美月は開け放ってあるトレーラーのハッチから車がまばらな駐車場と夜空に変わりつつある空を見やったが、パソコンに目を戻した。朝から晩まで働き詰めなのだから、少しぐらいは遊んでもいいはずだ。そう思いながら、レイガンドーの試合動画を投稿するつもりでウィンドウに表示していた動画サイトを眺めた。次から次へと投稿される新着動画のサムネイルの中に、ふと気になるものがあった。歌い手と呼ばれる素人歌手の動画なのだが、やたらと凝っていた。
その名も御鈴。サムネイルで笑顔を振りまいている美少女の顔立ちに見覚えがあったが、まさか、いやそんな、との疑念が美月の脳裏を過ぎった。きっと、このアイドル紛いの少女は吉岡りんねに似ているだけだ。だって彼女はこんなに媚びた笑顔は作らないし、こんなにド派手な衣装は着ないし、退廃的な歌詞とサイケデリックなPVの電波ソングなんて歌わない。そして、こんな動画を投稿するはずもない。だが、気になる。どうしようもなく気になる。
見るだけなら問題はないはずだ。ただの動画なのだから。美月はなぜか鼓動を速めながらカーソルを動かして、御鈴の動画のサムネイルをクリックした。一秒もせずにロードが完了し、シンセサイザーの効いた曲が流れた。
「うぐおっ!?」
すると、レイガンドーが突然身悶えた。大技連発の格闘戦で破損した外装の隙間から火花が散り、甲高い警告音が鳴り響いた。ゴーグルの光を点滅させながら崩れ落ちたレイガンドーに、美月は慌てた。
「どっ、どうしたのレイ! そこまでダメージは大きくなかったよね、ね、お父さん!」
「内部のフレームまで損傷したのか、でなけりゃ配線が……」
小倉はレイガンドーに詰め寄るが、レイガンドーは小倉を制し、目眩を堪えるように頭部を押さえた。
「いや、ボディの損傷は軽微です、社長。その変な音を聞いたら、急に電圧がおかしくなって、それで」
「音って、この動画?」
美月がパソコンのモニターの中で踊る少女を指すと、レイガンドーは頷いた。
「そうだ。理由は解らんが、その音を受信した途端にエラーが発生して……」
すぐさま美月はウィンドウを閉じて動画を消すと、レイガンドーは関節から蒸気を噴出して弛緩した。電圧の異常が止まったのか、警告音も止まってゴーグルの光も落ち着いた。レイガンドーが突然不調に陥った原因は不明だが、先程の動画は、インターネット上で見かけても二度と再生しない方が良いだろう。レイガンドーの不調が深刻になれば興行も滞ってしまうし、それはイコールで会社の業績にも関わってくるからだ。吉岡りんねによく似た少女のことは、忘れてしまおう。今、集中すべきは、滑り出したばかりのロボットファイトなのだから。
母親や学校のことを考えたくないからでもある。
日を追うごとに、電脳世界では御鈴が広まりつつあった。
弐天逸流の信者達による布教活動と工作活動によって不特定多数の人間の目に留まるようになり、御鈴の歌う狂気じみた歌詞の楽曲が至るところで流れるようになっていた。最初に動画をアップロードしてから二週間も経っていないはずなのに、ありとあらゆる動画投稿サイトの再生回数ランキングでは常に上位にランクインし、CDの発売も決定している。雑誌に載せるための写真もうんざりするほど撮られ、ゴーストライターが書いたインタビュー記事も出来上がっているし、週刊少年漫画雑誌の表紙を飾るグラビアも出来上がっている。御鈴という偶像の少女は、伊織の理解の範疇を越えて成長し続けている。まるで、自分を覆う殻が厚みを増していくかのようだ。
それが、気色悪くないわけがない。アイドルなんて右から左へと消費される量産品なのだから、偶像としての役割を終えたらフェードアウトするのだろうし、どうせ一年も経たないうちに忘れ去られてしまうだろうが、それでもなんだか落ち着かない。りんねを長らえさせるためとはいえ、本当にこれでいいのだろうか。
悩みすぎて寝付きが悪くなった伊織は、布団の中で何度も寝返りを打った。だが、眠気は一向に訪れず、反対に目がやたらと冴えてきてしまった。退屈凌ぎに枕元にある携帯電話を取り、ホログラフィーを展開させると、青白い光が暗い部屋を照らし出した。御鈴の動画を再生すると、頭痛がするような歌詞が流れ出した。
「うー……」
何度聞いても、恥ずかしくてたまらない。伊織はたまらず布団を被り、耳を塞いだ。一曲目はボーカロイドなどがよく歌っている、テクノポップなメロディーに斜に構えた歌詞を合わせた曲で、伊織もそれは悪くないと思っていたし、これからもそれでいくのかと思っていた。二曲目は、サブカルに傾倒し始めた女子中高生が好みそうなゴシック調のメロディーにバラだの死だの血だのといった退廃的な単語をちりばめた曲だった。もちろん衣装も曲調に合わせたもので、アイラインがやたらと太い化粧に辟易した。三曲目はがらりと趣を変えた正統派のラブソングで、綺麗事をこれでもかと詰め込んだ歌詞に寒気を覚えたものだが、それもまた若年層には受けたようだった。四曲目はロック調のエレキギターのリフが効いた楽曲で、この頃になると終末思想が全面的に押し出されてきていた。
アルマゲドン、ラグナロク、審判の日、天使のラッパ、箱船、ニルヴァーナ。そういった単語か、それに準じた表現の歌詞ばかりになり、最終的には信じる者は救われるといった内容で締めていた。それまでに発表した楽曲も端々にそういった表現があり、甘ったるいラブソングにしても歌詞を要約すれば、世界が終わる日は近いからその前に心中して結ばれてしまいましょう、という代物だった。
そんな歌をりんねに歌わせ続けるべきではない。吉岡りんねが人並みの生活を送れるようになった時に、有名になっていることは彼女の歩みの枷となる。世間からは忘れ去られても、個人からは忘れ去られないだろうし、りんねが御鈴として振る舞っていた頃のことを忘れたとしても、誰かが覚えている。それがある限り、りんねは本当の自由を手に入れられない。いつまでも、いつまでも、誰かの人形として生き続けなければならない。
「つか、これでいいのかよ」
りんねを守り、生かし、長らえるために、弐天逸流に従うことを選んだ。だが、それは正しかったのか。
「お嬢……」
愛しい少女の顔を撫で、華奢な体を抱き締め、背を丸める。誰が敵で、誰が味方で、何が悪で、何が正しいのか。それを見定めて行動するためにも立ち止まることは必要であって、大きなものに縋って流されるのは状況を凌ぐためには必要なことなのだ。りんねもきっと解ってくれる。受け入れてくれる。なぜなら、伊織のいかなる行動もりんねを思ってのことだからだ。だから、りんねも伊織を認めてくれるはずだ。
そこまで考えて、伊織は全力でその思考を否定した。そんな打算的な考えを孕んだ好意なんて、りんねに抱いたことなどない。好かれるために相手を好く、だなんて、その前提があることからして好意ではない。自分を肯定してもらいたいがための手段に過ぎない。伊織も少なからず自分を他人に認めてほしいという欲求は備わっているが、自分を肯定してもらうことを前提とした好意を抱くほど、自惚れてはいない。
「ん」
不意に、右手が勝手に動いた。りんねの意思だ。伊織は布団から這い出ると、肉体の本来の主の意思を妨げないように力を抜いた。りんねの意志が宿った右手は携帯電話を掴み、ホログラフィーを消すと、テキスト入力画面を開いた。ぎこちない動きでホログラフィーのキーボードが叩かれ、入力された文字が並んでいった。
『ふじわらくん』
その呼び方は、りんねが吉岡めぐりという名で生きていた頃のものだ。今となっては遠い過去となった高校時代が思い起こされ、伊織はなんだか柔らかな気分になった。
「お嬢……じゃなくてもいいか、呼び方は」
『うん』
「何がいい」
『なまえ』
「下の方か?」
『うん』
りんねに肯定されて、伊織は妙に気恥ずかしくなった。けれど、悪い気はしない。りんねもまた、伊織に気を許してくれたという証拠だからだ。伊織さん、ではなく、藤原君、に変わったのは、それが本来のりんねの性格なのだろう。今まで伊織達が接してきたりんねは、りんね本人ではなく、その肉体を間借りしていたラクシャのものだった。故に、りんねは長らく本来の自分を押し殺されていた。だから、巣の外に出たばかりの雛鳥も同然であって、言葉も片言なのだ。その辿々しさが愛らしいと感じるのは、冷酷なリアリストだったりんねとの落差が激しいせいだ。
『そと、でた?』
「出てみたが、この建物がある空間は閉じているんだとさ。コンガラで複製された空間だそうだが、俺にはどういう理屈でそうなったのかはさっぱりだ。通常空間への出口はあるらしいが、弐天逸流の教祖のシュユでなきゃ、操作出来ないんだそうだ。だから、俺達は逃げ出せねぇんだ。電波ソングでファンを掻き集めて信者にして、そいつらの信仰心を利用してシュユを復活させたいんだそうだが、その後が解らねぇんだ。俺はともかくとして、お嬢は殺されねぇだろうが、まともに生かすはずがない。フジワラ製薬も、お嬢の血肉を使いまくって生体安定剤を作っていたからな。死なない程度に切り刻まれるんだろうさ」
『なまえ』
「あ、すまん。言った傍から」
りんねに指摘されて気付き、伊織が柄にもなく照れると、りんねは返した。
『きをつけて』
「あー、まー、うん」
意識すると余計に照れ臭くなり、伊織は曖昧に答えた。右手の親指が動く早さが、少しだけ増す。
『ふじわらくん』
「んだよ」
『ごはん、おいしい?』
「割とな。まともに味覚があるっつーのは、結構楽しいことなんだな」
『いいなあ』
「お……じゃねぇ、えーと」
背筋がむず痒くなってきた伊織は、画面から顔を逸らしながら彼女の名を呼んだ。
「りんねも俺らみてぇな具合だったのか? つか、体は人間だったんだろ?」
『うん。でも、ぜんぶじゃまされたから、わからなかった』
「一から十まで?」
『うん。ねるときも、おきるときも、おトイレも』
「そりゃひでぇな」
『でも、ちくわはわかる』
「ああ、だから好きだったのか」
『うん。すき』
「で、その、りんねはアイドルごっこを続けたいと思うか?」
『たのしい。でも、よくない』
「俺も好きじゃねぇよ。自分でもりんねでもねぇ人間がでかくなっていくのが。つか、助けてもらった義理っつーのはあるけどよ、潰れるまで利用されたくねぇんだ。でねぇと、りんねが保たねぇしな。なんとかして脱出して、寺坂にでも連絡を取れればいいんだが。あいつは屑でクソな坊主だけど、俺らみてぇなのを無下にはしねぇから」
『てらさか?』
「酒とタバコと車と女にどっぷりな生臭坊主だよ。出来れば、あの野郎だけはりんねには会わせたくねぇんだけど、四の五の言っている場合じゃねぇしな。なんとかして、外に出る方法を考えねぇと」
『うーん』
「ああ、考えておいてくれよ。俺も考える。なんか思い付くかもしれねぇしな」
『うん。がんばる』
「そのためには、体力を温存しておかねぇとな。おやすみ、りんね」
『おやすみなさい、ふじわらくん』
手短に打ち込んだ後、右手は畳の上に落ちた。それきり、右手は動かなくなった。伊織はりんねが入力した文章を全て保存してから、携帯電話の電源を落として枕元に放り投げた。借り物の心臓が痛み、心なしか顔が火照っている。自分は彼女で彼女は自分なのだから、意識しても照れる意味などないのに。そう思おうとしても、伊織の内に疼く甘ったるい感情が日に日に大きくなっていた。
ただ、吉岡りんねを守りたいだけだ。伊織は遺産から生み出された道具であり、生体兵器であり、それを操る力を備えている者に傅くのが役割なのだから。だから、あまり意識するものではない。大体、伊織は生物学的には人間からは懸け離れているし、りんねに抱いた特別な感情が発展したところで、何にもならない。りんねも伊織のことをそれほど意識していないだろうし、異性として認識されているかも怪しい。吉岡めぐりだった頃も、ラクシャの命令によって伊織に近付いてきたのだろうし、その延長で告白の真似事をしたのだろうから。
あまり考えすぎない方がいい。過剰な期待を抱けば抱いた分、現実に打ちのめされた時のダメージが重大になるのは解り切っているではないか。何度となく自戒した後、伊織は肉体的な疲労とりんねの意思との会話を行ったことで生じた脳の疲労に任せて眠りに落ちた。どろりとした睡眠に浸りながら、夢を見た。
青空の下、見覚えのある田舎道を駆け回るりんね。その表情は溌剌としていて、銀縁のメガネも外していて、素顔で自由を謳歌していた。伊織は彼女に続き、田舎道を歩いている。怪人体だった。二人の進む道はひどい砂利道で雑草も生え放題だったが、りんねはそれに構わずに歩いていく。進んでいく。向かっていく。けれど、不意に彼女の足が止まった。伊織も立ち止まる。怯え気味のりんねが振り返ったので、伊織がその視線を辿ると、輝く光輪を背負った巨躯の異形が触手をうねらせながら二人を見下ろしていた。のっぺらぼうの頭部からは表情が読めず、不気味さに拍車が掛かっていた。触手が迫る。りんねは逃げる。伊織は彼女を守る。
逃げて、逃げて、逃げ切った。
鼻歌交じりにパソコンを操作するサイボーグの背中は、とにかく姿勢が悪かった。
サイボーグボディを交換して無事に復帰を果たした鬼無克二は、現場に配属されると同時に情報収集と工作活動を一任された。以前のスレンダーなボディに酷似したデザインのボディの至るところからケーブルを伸ばし、部屋中を埋め尽くしているコンピューターに接続し、日がな一日パソコンをいじり回していた。
パソコンとコンピューターに備え付けられている冷却装置だけでは到底間に合わないので、室内にはクーラーが何台も設置されている上にサーキュレーターが回転しているが、それでも尚、機械熱が籠もっていた。鬼無の背を見下ろしながら、周防国彦はなんともいえない気持ちになった。壁沿いにずらりと連なるパソコンデスクに収まっているパソコンの壁紙やスクリーンセーバーは美少女アニメばかりで、鬼無が自身の聴覚センサーに直結させているオーディオではアニメソングを延々と流しているらしく、曲が切り替わるたびにアニメのタイトルが表示されていた。
こんな奴が本当に使えるのだろうか。そして、信用出来るのだろうか。最新の医療技術のおかげで右足の銃創が大分回復し、右目に義眼の移植手術を受けた周防は、その右目を通じて部屋を見回した。フルサイボーグほどのずば抜けた性能はないが、ズームが可能なので今後の役に立つだろう。だが、まずは視力の違う両目のピントを合わせることに慣れなければ。そして、この男にも。
「ステマ、ステマ、ステマだらけーっと」
鬼無はぱたぱたとキーボードを叩きながら、小刻みに肩を揺する。
「投稿日時をいくらいじったって、アーカイブに残ってないんだからバレバレなんですけどー? ほとんどがBOTじゃないですかーやだー。コピペツイート多すぎー、どんだけ複アカ持ってんのーうわー。桑原れんげよりもモロすぎー。オワコンー」
「ネットを見回るのがお前の仕事か、良い身分だな」
周防が呟くと、鬼無は横顔だけ向けてきた。鏡面加工されたマスクフェイスに、アイドルの動画が映り込む。
「てかー、今はネットが全てじゃないですかー。テレビはステマだらけでCMだらけでオワコンだしー、ドラマもクソでアイドルとか歌の売れ方なんてマーケティング次第だしー、それでなくてもつまんないしー。だから、どいつもこいつもネットに入り浸るけど、そいつらも頭がクソだから嘘を丸飲みして大炎上しちゃうんですー。てか、この御鈴っていうアイドルもそうですねー。顔とスタイルは吉岡りんね御嬢様のコピペだから、それなりに売れるし受ける感じはするけど、あざとい! ぴかりんジャンケンよりもあざといっ!」
「何だよそれ」
「あざとさの代名詞ですってー、これだから情弱は」
「知らねぇよ、そんなもん」
知っていたとして、何の役に立つのやら。周防が呆れるが、鬼無は饒舌に語り続ける。
「てか、御鈴の歌はどれもこれも狙いすぎてアウトすぎー。ボカロ厨、中二病、スイーツ、と入れ食いなのがまたクソすぎてー。最新の曲はまあいい感じかなーって思うけどー、一般層向けにしちゃカルト的でー。てかー、こんなのが受けるなんて世の中クソ以下だろー。アニソンの方が余程音楽してるしー、芸術だしー」
「お前は否定からしか入れないのか」
「てか、リアルに肯定するようなものなんてありますかー? 俺は二次元の住人ですからー」
「それはそれとして、さっさと仕事を片付けろ。お前の仕事は情報収集と統制だろうが」
「情報収集に切りがあるわけないですってー。てか、統制するにしてもハッキング用のソフトが足りないんでー、適当なサーバーから盗んでこなくちゃならないしー。ネットは広大だわー、ゴーストが囁くのよー」
「ますます意味が解らん」
周防はぼやいたが、情報処理に長けたサイボーグである鬼無が情報を掻き集めなければ、備前美野里率いる一派の出方も定まらない。周防も鬼無も美野里の手足であり武器だが、頭脳である彼女の判断がなければ行動すらも許されていない。実際、周防は美野里に連れてこられた建物に缶詰になっていて、傷の治療が終わっても外に出してもらえなかった。物資は足りているので支障はないが、ストレスは溜まってくる。
「んでー、この御鈴たんの出所を探ろうとしているんですけどー、IPアドレスを辿ってもホストが割り出せないんですよー。動画サイトを覗いてみたんですけどー、海外のサーバーを経由して投稿しているみたいでー。まー、それ自体はあるあるすぎて今更感が物凄いんですけどー。で、その経由したルートを辿ったんですけどー、変なところでブツ切りになっちゃっててー。プロバイダの住所も架空だしー」
「佐々木長光絡みの住所だから、じゃないのか?」
「それだったらー、政府の方にブロックされまくっているから逆にバレバレですってー。設楽道子っつーか、アマラの仕業だったら完璧すぎてやっぱりバレバレですしー。なんてーのかなー、道を歩いていたら途中で急に消えたってな感じですかねー? でもまー、探し出してみせますけどー」
「御鈴が吉岡りんね本人である確証はないが、今はその線しかないからな」
周防は右目を瞬かせ、鬼無の横顔を見据えた。二人に命じられた任務は、新免工業の戦闘員となった藤原忠に襲撃された末に行方をくらました、吉岡りんねの捜索と奪還だった。りんねと共に行方不明になった藤原伊織も、見つけ次第回収する手筈になっている。佐々木つばめの警護は厳しくなる一方だから、佐々木つばめのスペアである吉岡りんねに目を付けたのだろうが、目的はそれだけではないだろう。
「備前美野里の正体は調べたのか」
足元を這い回る大蛇のようなケーブルを跨ぎながら、周防が問うと、鬼無は笑った。
「当たり前ですってー。つか、真っ先に調べましたってー、みのりんのこと。でもー、あの人は行き遅れのスイーツ女のくせしてネットは全然やっていないみたいだしー、SNSだってゼロでー、メールだって他人とはほとんど交換してない感じですねー。友達いないのかなー? うっわぁー、ぼっち乙ー」
「だから、備前美野里の個人情報はほとんど手に入れられなかったのか」
「ですねー。つか、今時有り得ないでしょー。アカウントの一つも作らないだなんてー」
「だったら、我らがボスの正体を突き止めるのは他の方向からだな。あまり探りを入れすぎるとせっかく皮を繋いだクビが飛ぶぞ、いいところで手を引いておけ」
「なんですかー、その上から目線ー。うわームカつくー」
「俺はお前が嫌いだからだ」
「俺だって、すーちゃんのことなんて嫌いですってー。てか、全人類が嫌いですってー。ふへははははっ」
気の抜けた笑いを零した鬼無に、周防は背を向けてドアノブに手を掛けた。
「だったら、お前はどういう人間なら好きになるんだ?」
「人間なんてオワコンですってー」
だから誰も好きになりませんってー、と鬼無はへらへらと笑った。裏を返せば、誰からも好かれる自信がないから先に相手を嫌っておく、という自己防衛だろう。周防はその態度に心底苛ついたが、それを顔には出さずに廊下に出た。残暑の湿った熱気が籠もった廊下は息苦しく、周防の苛立ちを一層増させた。
窓越しに見える夜景は窓明かりがまばらで、ここが地方都市なのだと解った。都心であれば景色に見覚えがあるだろうし、ランドマークになるビルがいくつもあるからだ。だが、このビルの周辺は建物の数も少なく、いずれも低いビルばかりだ。もしかすると、一ヶ谷市に程近い土地なのかもしれない。となれば、一乗寺に再会出来る日も遠くはないと考えるべきか。彼は、いや、彼女は周防にどんな顔を向けるだろう。それを思うだけで、心中が疼く。
業の深さが、劣情を濃くしていく。




