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機動駐在コジロウ  作者: あるてみす
 

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34/69

覆水、ヴェノムに返らず

 夏休みの計画は、完膚無きまでに頓挫した。

 それもこれも、新免工業のせいだ。そして、派手な事件の後に政府に長々と拘束されたせいだ。おかげで夏休みの二週間が無駄になってしまい、その間に終わらせるはずだった宿題も、当然ながらほとんどが残っていた。事情聴取やら何やらを行うと解っていたら、宿題を持ち込んでいたものを。けれど、そんなことは予測出来るはずもなく、無駄にした二週間が戻ってくるはずもなく、宿題の山だけがつばめの目の前に立ちはだかっていた。

 そして気付けば、夏休みは三日しか残っていなかった。一乗寺がこれでもかと出してきた宿題を流れ作業のように消化していくだけで精一杯で、外に遊びに出ることもままならず、コジロウと夏休みの思い出を作ることなど以ての外だった。そんな暇があれば、宿題を終わらせてしまうべきだと解っていたからだ。

 読書感想文を書き上げて清書した原稿用紙を折り畳み、つばめは呻いた。だが、これで終わりではない。写生は下書きしか終えていなかったので絵の具で描かなければならないし、自由研究も資料をまとめるのが面倒になって後回しにしてしまったので未だに手付かずである。コジロウか他の誰かに手伝ってもらえばいいじゃない、と甘えた気持ちが湧いてくるが、つばめはそれを意地でねじ伏せて宿題と戦い抜いた。だが、まだまだ終わらない。

「ううう……」

 半死半生のつばめは、少しだけ気分転換しようと自室から外に出た。室内は冷房が効いていたので快適だったのだが、一歩外に出た途端に猛烈な暑さが襲い掛かってきた。その温度差で軽く目眩を感じたが、とりあえず台所に行って冷たいものでも飲むことにしよう。そうすれば、またやる気が戻ってくるかもしれないからだ。

 庭先では、コジロウがアサガオの種を摘み取っていた。縁側に張った細い紐にまとわりついているツタは枯れつつあり、早朝に鮮やかな花を咲かせるつぼみの数も大分少なくなっている。物干し台では道子がシーツを干していて、目に染みるほどの白がはためいている。彼女が女性型アンドロイドを使って日常を謳歌する姿もすっかり見慣れてしまい、やたらと裾の短いメイド服にも慣れてしまった。女性化した一乗寺は爆睡に爆睡を重ねた末に体力が回復したので、今では分校に戻って気楽な独り暮らしを再開している。暇を見て道子が片付けに行ってくれているが、元々荒れ放題なのであまり作業は進んでいないらしい。寺坂も自宅である浄法寺に戻り、新免工業の奇襲攻撃によってまた汚れてしまったポンティアック・ソルスティスのシートを貼り替えるために、整備工場に運んだのだそうだ。おかげで車が減ってしまったと嘆いていたが、それでもまだ四台はあるので大した問題ではないと思う。

 台所の冷蔵庫で冷えていた麦茶を一杯飲み干すと、つばめは人心地付いた。そして、気が抜ける瞬間に不意に寂しさが押し寄せる。結局、美野里は未だに帰ってきていない。電話もメールもなく、どこにいるのかも解らない。何もせずに待っていると決めたのは自分だが、やはり寂しいものは寂しい。

 すると、二階に繋がる階段から武蔵野が下りてきた。狭い階段なので少々苦労しながら一階に下りてきた武蔵野は、いつものサングラスを掛け直した。その肩には、超遠距離デジタルスコープの付いたライフルが担がれていた。佐々木家に来てからというもの、武蔵野は一日のほとんどを三階で過ごしながら周囲を見張ってくれている。

「何かあったの?」

 つばめが二杯目の麦茶を飲みながら問うと、額から滴る汗を拭いながら武蔵野は答えた。

「来客だ。敵じゃないが、会うかどうかはお前が決めろ」

「それって誰?」

「うちの社長だよ。俺のスコープの射程距離に入った直後にメールを入れやがった、御丁寧なことだ」

 武蔵野は自身の携帯電話を見せてから、銃身が細長いライフルを床に横たえた。

「あの人、無事だったの?」

 つばめは素直に驚いた。新免工業の社長である神名円明はフルサイボーグだが、大型客船での戦闘で武蔵野に頭部を撃たれていた。いかにサイボーグと言えども、頭部を銃撃されては無傷では済むまい。

「あの距離の9パラ如きでくたばるほど、うちの社長はヤワなボディは使っちゃいねぇよ。それに俺も殺すつもりで撃ったわけじゃなかったからな。ちったぁ脳震盪を起こしたかもしれんが、その程度だ」

「だけど、政府が捕まえたんじゃなかったっけ? 武器の売買とかその他諸々の件で」

「保釈金さえ払えばどうにでもなるんだよ、そんなもん。それでなくても、うちの会社は仕事が仕事だったからお抱えの弁護士も多い。そいつらが本気を出せば、うちの社長をシャバに出すことなんて簡単なんだ」

「えぇー……」

 それでいいのか。つばめは腑に落ちなかったが、それが資本主義なのだと割り切ることにした。それから数分後、武蔵野の言葉通りに黒塗りのリムジンが船島集落に入ってきた。護衛の車は付けていなかったが、リムジンの車内にはスーツ姿ではあるが武装しているであろう人間やサイボーグが控えていた。武蔵野が出迎えると、運転手の手で後部座席のドアが開けられ、すらりとした長身のサイボーグが降りてきた。神名円明だった。

「突然の訪問、失礼いたします」

 ダブルの四つボタンで濃紺のスーツに革靴を履いてソフト帽を被っている神名は、仕草も絵に描いたように紳士的で気品があったが、どこぞの大物マフィアと言っても差し支えがない格好だった。つばめは武蔵野の影に隠れながらも神名を窺うと、アサガオの種を入れた袋を下げたコジロウもやってきた。

「どうぞ、お気遣いなく」

 神名は脱帽して深々と一礼すると、武蔵野は敢えて両手を広げてみせた。

「俺を殺しにでも来たんですか」

「いえいえ、そのようなことはありません。僕は武蔵野君のことは恨んでおりませんし、武蔵野君の判断を理解しているのです。僕としては、今後も新免工業でその能力を存分に発揮して頂きたいと思っていたのですが、武蔵野君の意思を尊重しなければ上司とは言えません。なので、武蔵野君を正式に解雇すべく、訪れたのです」

「だったら書類を送ってくれれば」

「ですが、武蔵野君を解雇してしまうと、僕とつばめさんの間にある希薄な繋がりが途切れてしまいます。その細い糸が解けてしまう前に、もう一度つばめさんにお会いしておきたいと思いましてね」

 神名のゴーグルに捉えられ、つばめは身動いだ。大型客船での一件が忘れられないからだ。

「うっ」

 すかさずコジロウが身構え、武蔵野もハンドガンに手を掛けたので、神名は両手を広げて上向ける。

「御安心を。僕はつばめさんにはみだりに近付きませんし、君達を押し退けるようなこともしませんし、以前のような変態じみた行動も行わないと誓いましょう。ナユタがつばめさんの手中にある以上、僕達がつばめさんを攻撃する理由はありませんからね」

 これはせめてものお詫びの気持ちです、と神名が懐から出したのは、細長いネックレスケースだった。コジロウはつばめに命じられてそれを受け取り、開くと、中には透明な筒が付いたペンダントが入っていた。

「つばめさんが沈静化させたナユタのサイズに合わせて作らせたものです。裸のままで持ち歩くのは危険ですからね。そのケースは強化ガラスで出来ていますので、多少のことでは壊れません。もっとも、ナユタが再び暴走すれば一瞬で消し飛びますがね。きっとお似合いになりますよ」

「発信器とかは付いていませんよね」

 つばめが怪しむと、神名は笑った。

「ありませんよ。あったとすれば、そこで洗濯物を干している有能なメイドさんがお気付きになりますよ」

 ねえ、と神名が道子に向くと、道子は空になった洗濯カゴを抱えて玄関先にやってきた。

「あらまあ社長さん、いらっしゃいませー。立ち話ってのもなんですので、今、お通ししますねー」

「てぇことは、本当に何もないの?」

 つばめがコジロウの手からペンダントを受け取ると、道子はにっこりした。

「ええ、なーんにも。攻める時はガンガン攻めるけど、手を引く時はスパッと引いちゃう。そういう潔さが素敵ですね、新免工業の社長さんは」

 ではこちらへどうぞ、と道子が促したので、神名は佐々木家に上がっていった。つばめはネックレスケースの蓋を閉じてから、コジロウを見やった。アサガオの種を入れた紙袋を握り締める手に、やたらと力が籠もっているように見えたのは気のせいだろうか。つばめはネックレスケースを下げ、コジロウの腕に触れた。

「私達も上がろう。お客だけ家に上げても意味がないし」

「了解した」

 コジロウはアサガオの種を入れた紙袋を玄関脇に置いてから、三和土にある雑巾で足の裏を丁寧に拭いた後に上がった。つばめも突っ掛けていたサンダルを脱いで上がると、神名は客間に通されていた。道子は台所で人数分の麦茶と茶菓子を用意していたが、これなら調理する段階が一切ないので大丈夫だろう。それでも、武蔵野は若干不安なのか、しきりに道子の様子を気にしていた。

 神名は客間に面している仏間に入ると、佐々木長光の位牌が鎮座している仏壇に向かって座り、線香を灯して鈴を一度鳴らしてから手を合わせた。細長く煙が上り、独特の香りが漂う。神名は仏間から戻ってくると、道子が用意してくれた麦茶を口にした。味覚の有無は解らないが温度は感じるのか、冷たいですね、と述べた。

「さて……どこからお話しいたしましょうか」

 神名は行儀良く座布団に正座して背筋を伸ばし、つばめを見つめてきた。

「武蔵野君は、ひばりさんのことをつばめさんにお話しされたのですか?」

「いや、特に」

 武蔵野が言葉を濁すと、神名は可笑しげに肩を揺すった。

「でしょうねぇ。想像に難くありませんとも」

「じゃあ、社長さんは私のお母さんのことを話すために来たんですか?」

 先程の麦茶で既に胃袋が膨れているつばめは、道子が出した麦茶に少しだけ口を付けた。

「ええ。長孝さんがお出でにならないのであれば、僕がひばりさんのことをお教えする他はないと思いまして」

 神名は金属板のような形状の携帯電話を懐から出すと、それを座卓に置き、ホログラフィーを投影した。その中に浮かび上がったのは、臨月と思しき大きなお腹を抱えた若い女性だった。クセ毛の強い髪を一括りに結んでいて、少しだけ吊り上がった目元はつばめに良く似ている。彼女の背後でやりづらそうに視線を外しているのは、今よりも格段に若い、スーツ姿の武蔵野だった。右目は健在でサングラスも掛けていなかったが、堅苦しいスーツを着るのが苦手なのは今も昔も変わらないらしく、表情が硬かった。

「これがお母さん?」

 つばめが女性と神名を見比べると、神名は頷いた。

「ええ、そうですとも。可愛らしくて快活で、素敵な女性でした。ひばりさんと最も密接に接していたのは、他でもない武蔵野君です。君が抱える複雑な感情も解りますが、どうかお話ししてあげて下さい。ひばりさんの娘さんに」

 神名に促され、武蔵野はつばめを一瞥した後にひばりの画像を見下ろした。少々の沈黙の後に、武蔵野は口を開いた。つばめとは目を合わせづらいのか、在りし日のひばりを目にしていたいのかは定かではなかったが、彼の険しい眼差しはホログラフィーから離れなかった。つばめもまた、母親の笑顔だけを見つめていた。

 そこには、過去が宿っていた。



 十五年前。

 入隊して間もなく問題を起こして自衛隊を退役した後、傭兵に転身して世界各地を転々としていた武蔵野巌雄が腰を据えたのは、武器の売買を行って業績を上げた大企業、新免工業だった。当初は警備員として採用されたが、傭兵としての実戦経験が買われて戦闘部隊に配属された。その頃は遺産争いのことなど知る由もなく、利権絡みの小競り合いに駆り出されるだけだろう、と踏んでいた。厳しい訓練を乗り越え、思いのままに武器を操り、最前線で戦うことがいつしか日常と化していた。擦り切れるまで自分を酷使するのだろう、とも諦観していた。

 その日、武蔵野が所属する戦闘部隊が差し向けられたのは、東京都内の市街地だった。なるべく常人に紛れて行動せよ、と厳命されていたので、武蔵野を含めた戦闘員は普段着の下に武器を仕込んで行動した。確保せよと上層部から命じられたのは一人の女性で、その名は佐々木ひばりといった。だが、佐々木ひばりはマフィアの情婦でもなければ産業スパイでもなく、その背後関係はあっさりしたものだった。あまり恵まれた人生を送っているとは言い難いが平穏に生きていて、機械技師の夫と新婚生活を過ごしている、ごく普通の女性だった。新免工業が彼女に目を付ける意図が解らなかったのは武蔵野だけではないらしく、他の戦闘員達も不可解そうにしつつも任務を遂行した。昼下がりに買い出しに出たところで拘束し、車に連れ込んだ。それだけで事は済んだ。

「あなた達、どこの人? 弐天逸流? 吉岡グループ? フジワラ製薬? それじゃ、新免工業かな?」

 ワゴン車の後部座席に座らされた佐々木ひばりは、あっけらかんと尋ねてきた。怯える様子もなければ戸惑った素振りも見せず、日常の延長であるかのような態度だった。

「どこに連れて行くのかは解らないけど、遠くへ行くなら電話させてくれないかな? でないと、冷蔵庫の中身がダメになっちゃう。タカ君にも、明日からはお弁当を作れないからねって言っておかないと困っちゃうだろうし。それとね、途中で何度も吐いちゃうだろうから覚悟しておいてね。元々乗り物には弱い方なんだけど、悪阻のせいでいつもの何倍もひどくなっちゃっているの」

 ひばりの態度に面食らったのは武蔵野だけではないらしく、皆、視線を交わし合った。

「でね、今、食べられないモノの方が多いんだ。ちょっとでも食べようとしても戻しちゃうし、体が受け付けないから。揚げ物なんかは特にダメで、匂いがするだけでもうゲロゲロ。その辺、気を付けてくれたら嬉しいな」

 ひばりの明るい口調とは裏腹に、車内の空気はぎこちなかった。それはそうだろう。誘拐されたのに、その当人が深刻になるどころか楽観しているのだから。だが、ひばりはとにかく丁重に扱えとの指示が下っていたので、武蔵野達はひばりの我が侭を全て受け入れた。とてつもなくやりづらく、戦闘を行うよりも何倍も疲れてしまった。

 新免工業の本隊との合流地点に辿り着くまでの間、ひばりは先述した通りに何度となく吐いた。当人が食べられると言ったものを与えても吐き、水を飲んでも吐き、車に酔って吐き。それなのに、ひばり本人は明るいままだったので異様ですらあった。新免工業の日本支社に到着した頃には、ひばりを除いた面々は彼女の終わりのない嘔吐を目の当たりにしたせいで憔悴していた。武蔵野でさえも、喉の奥に胃酸の味を覚えていた。

 新免工業の日本支社にて上層部に丁重に持て成されたひばりは、産婦人科医によって丁寧な診察を受けた後、割り当てられた部屋に入れられた。その時もひばりは楽観していて、笑顔を保っていた。それどころか、用意されたベッドの柔らかさに浸っていた。ひばりの警備を任された武蔵野は、混乱する一方だった。

 当初、武蔵野を始めとした戦闘員達はひばりの部屋の外で警備していたのだが、ひばりは皆に中に入ってこいと言い付けてきた。無論、屈強な男達は揃って困惑したが、ひばりの要求には出来る限り答えてやってくれとの命令が下っていたので逆らうに逆らえず、従うことにした。

 ベッドの上で待ち構えていたひばりは、一休みして吐き気も落ち着いたらしく、上機嫌だった。顔色は決して良いとは言い切れなかったが、表情だけはひたすらに明るかった。壁の前に一列に並んだ戦闘員達を見回し、ひばりはおもむろに両手を広げて胸を張った。

「今日からお友達になりましょう!」

 意味が解らなかった。武蔵野を含めた全員が戸惑っていると、ひばりは笑う。

「だって、その方がストレスがないし、私も寂しくないから! タカ君と一緒にいられないのは超寂しいし、張り合いがなくなっちゃってつまんないけど、お友達と一緒に過ごしているって考えればまだ楽だから! はい決定!」

 返事は、とひばりに急かされ、武蔵野達は曖昧に答えた。新免工業におけるひばりの立場が解っていれば、反論のしようもあったのだろうが、その当時の武蔵野達には一切知らされていなかったので、ひばりの我が侭にどこまで付き合えばいいのかも解らなかった。しかし、下手に逆らうと戦闘員達の立場がどうなるかも解らないので、この場は従っておけと小隊長から指示を受けた。武蔵野達がその通りにすると、ひばりは満足してくれた。

「じゃ、これからは色んなことをお喋りしましょ! 黙っていると死んじゃいそうだから!」

 その途端にまた妙な宣言をした。その言葉通り、ひばりはとにかくお喋りだった。誰かと顔を合わせればひたすら口を動かす様は、その名の通りの小鳥のようだった。だが、肝心な情報は決して漏らすことはなく、自分とその子宮の中で育ちつつある我が子の立場については一切口外しなかった。話題のほとんどは惚気で、ひばりがどれだけ佐々木長孝が愛しているか、佐々木長孝に愛されているかを延々と語っていた。

 それから一ヶ月、二ヶ月と過ぎていくと、佐々木ひばりの下腹部は次第に大きくなっていった。ひばりがいる日常に慣れてくると、友達として認定された戦闘部隊の面々もひばりの存在に慣れてきた。もちろん、仕事の上の付き合いに過ぎないので突っ込んだ話をすることはなかったが、無邪気で明るい態度と可愛らしい外見の女性なので、籠の中の鳥として寵愛するにはもってこいだった。それ故、ひばりと接することで何かしらの救いを見出す者もおり、彼女の立場は新免工業の中で日に日に膨れ上がっていくかのようだった。武蔵野もまた、ひばりと言葉を交わすことで心の平穏を保つ人間の一人になっていた。それまでは他人と距離を置いて生きてきたが、一度でも一線を越えられてしまうと呆気ないもので、武蔵野と他人を隔てる壁は徐々に穿たれていった。

 佐々木ひばりとは、そういう人間だった。



 良く言えば人懐っこい、悪く言えば他人との距離感がない。それが彼女だった。

 佐々木ひばりが底抜けに明るく振る舞うのは、己の精神を守るための手段であると知るまでは、武蔵野は彼女をある意味では神格化していた。彼女の住まう部屋に通うのも日課になっていて、ひばりに声を掛けられればそれだけで一日が晴れやかな気分で過ごせていた。毎日笑っていて、悪阻に苦しみはするが泣きはせず、身の上を嘆くことはなく、離れて暮らしている夫の愛情を心から信じている。そんなひたむきさが美しかったからだ。

 ひばりの下腹部が大きくなり、胎児が人間らしい形を成してきた頃、ひばりを移送することになった。新免工業の日本支社でひばりの身柄を確保していることが弐天逸流に嗅ぎ付けられたため、ひばりを奪取されないようにとの措置だった。日本支社での生活に馴染んでいたひばりは唐突な引っ越しに少々困惑したものの、いつもの笑顔で、それはそれで楽しいかもね、と快諾してくれた。だから、弐天逸流の追跡から逃れることさえ出来れば、何も問題はないだろうと踏んでいた。だが、その判断は甘すぎた。

 新免工業の日本支社から移送先への道中、ひばりはトイレに行くと言ったきり、戻ってこなかった。もちろん見張りは付けていたが、僅かな隙に身重の体でどこかに消えてしまった。その日に限って女性戦闘員が別任務に回されていたので、その代わりに武蔵野がひばりの傍に付けられていた。目を離したのはほんの一瞬で、携帯電話もトイレに放置したまま、いなくなってしまった。当然、武蔵野を始めとした戦闘部隊は大いに慌て、すぐに探し回った。妊娠後期に入ったひばりはお腹が目立っているし、長距離も歩けないだろうから、そう遠くへは行っていないと判断して近隣の商業施設や民家を探してみたが、どこにもそれらしい姿はなかった。そのうちに弐天逸流の追っ手が迫り、ひばりの捜索を中断して戦闘を行った。戦果は上々だったが、このままでは帰れるはずもなく、武蔵野達は必死になってひばりの姿を捜し続けた。

 夜も過ぎた頃、武蔵野はふと思い立ち、ひばりが姿を消した公衆トイレの周辺を行き交うバスのルートを検索してみた。ひばりは携帯電話の中に新免工業から与えられた電子マネーを多額に持っているが、現金は攫われた当時の微々たる金額しか持っていない。その事実があったから、皆、徒歩で移動したものだと信じ込んで捜索していたのだが、微々たる金額の小銭で移動出来る距離であればバスに乗れる。確か、三〇〇円足らずだったと記憶していたので、武蔵野は公衆トイレの最寄りのバス停を三つ割り出すと、それらの路線で三〇〇円以内に到達出来る場所の地図を眺め回した。すると、その中の一つの路線が、ひばりの夫である佐々木長孝の勤務先に向かう路線だった。となれば、考えられる行き先はそこしかない。武蔵野は仲間に連絡をしてから、一足先に行動した。

 ひばりが乗ったであろう路線バスに乗っていくつかの停留所を過ぎ、佐々木長孝の勤務先である工場の最寄りに到着すると、武蔵野はバスを降りて周囲を見回した。日が暮れた住宅街は窓に明かりが点り、それぞれの家庭で家族が団欒している様子が伝わってくる。目当ての工場は倉庫と見紛うほどの小ささで、退勤時間を過ぎているのか駐車場には車はなく、工場内にも明かりは点っていなかった。一箇所を除いて。

 工場の二階にある事務室と思しき部屋にはカーテンが掛かっていたが、その隙間から細く明かりが漏れていた。武蔵野は拳銃をいつでも抜けるように手を掛けながら、施錠されていないドアから中に入った。機械油と金属粉の匂いがつんと立ち込めていたが、不思議と居心地は悪くなかった。硝煙と血の臭いが混じっていたら、落ち着くどころか気が立ってくるのだろうが。そんなことを頭の片隅で考えながら、武蔵野は錆の浮いた階段を昇っていった。

 二階の事務室のドアは開いていた。蛍光灯の青白い明かりが暗い廊下と階段にまで伸び、中にいる人間の影も細長く伸びていた。武蔵野は足音を殺してドアの傍の壁に貼り付くと、拳銃のグリップを握った。

「タカ君、タカ君……」

 ひばりの声だった。日頃の明るさとは正反対の、哀切な囁きだった。

「すまない。迎えに行くべきかと思ったが、俺の傍よりもあちら側の方が安全だと踏んでいた。だから、接触すらも行わずにいた。それが、負担になっていたとは考えもしなかった」

 宥めるような声色で、男がひばりに応えた。それが佐々木長孝だろう。

「あのね、タカ君。私ね、一度も泣かなかったんだよ? 偉いでしょ?」

「ああ、偉い。凄く偉い」

「だってね、私が怖がっちゃうとこの子まで怖がっちゃうでしょ? そうしたら、きっと……可哀想なことになる」

「ああ、そうだ。それでいいんだ」

「でもね、でもね、やっぱりタカ君がいないと寂しいの。新免工業の人達は私をとても大事にしてくれるけど、やっぱりタカ君と一緒に暮らしていたいの。毎日御飯を作ったり、御掃除したり、御洗濯したり、お買い物したり、色んなことをしていたいの。だけど、それじゃこの子を守れないんだよね」

「ああ、そうなんだ。そうなんだ」

 贖罪と悔恨を噛み締めるように、佐々木長孝は漏らした。二人が抱き合ったのか、衣擦れの音がする。

「どうしても、この子じゃなきゃダメなの?」

「ダメだ。母さんが、そういう設定にしたからだ」

「怖い目に遭ったり、辛い目に遭ったりするのかな」

「あの男が心変わりすれば手を引いてくれるだろうが、あの男に限ってそれはない。絶対に」

「うん……。私が代わってあげたいな。そうすれば、まだ平気なのに」

「そうだな。俺もそう思う」

 長孝が泣き出したひばりを抱き締めたのだろう、二人の影が重なり合う。その様を窺いながら、武蔵野は腹の底に嫌な疼きを感じていた。ひばりが泣き顔を見せるのは夫であるのは当たり前で、互いの弱さを補うのもまた夫婦の役割なのだろうと解っている。だが、どうしようもなく面白くなかった。今まで目にしてきたひばりの笑顔は偽りでしかなく、武蔵野を始めとした戦闘部隊の面々への明るい態度も作り物だったのだと思うと、濁った苛立ちが湧いた。それが見苦しい嫉妬であると自覚するのは、もうしばらく後のことだったが。

「あ、パンダちゃん! タカ君、どうしてこの子が仕事場にいるの?」

 泣き止んだが少々声が上擦っているひばりが問うと、長孝がその何かを動かしたのか、影が揺れた。

「母さんが寄越してくれたものを入れてある。結構重いから、気を付けて持ってくれ」

「あ、本当だ。この子もアレなの?」

「そうだ。ひばりの傍に置いておいてくれ」

「うん、解った。大事にするね」

 ひばりが寄り掛かったのだろう、二人の影が交わる。

「どうしても辛いのなら、逃げ出してきてもいいんだ。常人が相手であれば、俺の力でも処理出来る。あの男のことも、なんとかしてみせる。小倉も手を貸してくれると言ってくれた」

「いいよ、タカ君はやることをちゃんとやらなきゃ。そうしないと、お母さんに悪いよ」

「大丈夫か、本当に。あまり強がらないでくれ」

「大丈夫だよ。大丈夫だよ。大丈夫だよ……」

 そう言いつつも、ひばりの語気は次第に弱くなっていった。今、事務室に乗り込んで二人を引き離すのは容易い。むしろ、そうしてやりたかった。武蔵野を始めとした現場の人間に開示されている情報は限られているが、新免工業が佐々木家の当主である佐々木長光から売却された超高密度エネルギー結晶体を活用するために佐々木ひばりの胎内にいる子供の助力が必要なのだ、と教えられていた。その子供の力を借りられれば、新免工業は結晶体を活用して莫大な利益を上げられる、とも。だから、武蔵野の個人的な感情で、ひばりに動揺を与えるのは良くないことだと理解していた。気持ちを殺すのは慣れているし、やり過ごせる。そう、思っていたのだが。

「ねえ、タカ君。私を売ってから、いいことがあった?」

 誰が。何を。どこに。ひばりの言葉に武蔵野はひどく動揺し、腰を上げかけた。

「この会社に入る仕事量が目に見えて増えた。取引先も増えた。収入もそれなりに。そのぐらいだ」

「そう。良かった」

 ひばりの微笑みすら混じった答えに、武蔵野は息を詰めた。この女は、自分が商品扱いされて喜ぶのか。

「ひばりの実家の現状は」

「たまにネットで調べてみると、株価も落ち着いているから持ち直したみたい。この分だと、もうしばらくは保つよ」

「そうか」

「私の名義の督促状とか、届いた?」

「いや、届いていない」

「そっか、だったら良かった。良い買い物だったでしょ」

 ひばりの茶化した言い方に、武蔵野は苛立ちが突き抜けて目眩すら起こしそうになった。二人の会話を額面通りに信じるならば、ひばりは自分を金に換えている。ひばりの親が経営している会社が借金苦になったために、遺産を売却して莫大な財産を得た佐々木長光に出資してもらうために、ひばりを佐々木長孝の元へと嫁がせた、ということになる。そして、新免工業もまた、佐々木長孝への口封じを兼ねた賄賂として工場の利益を上げるために手を回し、佐々木長孝もそれを甘んじて受け止めている、ということになる。

 そんな結婚生活に、愛情があるものか。打算と妥協と欲望しかない。誰がどう見ても人身売買だ、ひばりの人格を全否定している。それなのに、なぜ、ひばりは怒ろうともしない。目の前にいる男を恨もうともしない。ひばりを思うがあまりに、ひばりに対して憤怒すら覚えた武蔵野は、本来の任務を忘れかけるほど心中が乱れた。

 それから数時間後、空が白みかけてきた頃合いに、ひばりは夫の元を離れた。名残惜しそうだったが、事務机に突っ伏して眠っている長孝を一瞥してから事務室から出てきた。存分に泣いたのか、頬には涙の筋が付いていた。我に返った武蔵野は立ち上がり、ひばりを出迎えた。ひばりは武蔵野の存在に気付いていたのか、驚きもせずに武蔵野を見上げてきた。一抱えもあるパンダのぬいぐるみを持ち直し、赤く腫れた目元を擦り、はにかんだ。

「顔、洗ってきてからの方が良かったな」

「何も良くない」

 武蔵野はひばりの腕を掴みかけたが、寸でのところで留まった。触れたら、後戻りが出来なくなる。

「あんたはそれでいいのか。他人に使い捨てられるだけの人生でいいのか。端金のために自分を捨てるのか」

「うん。それでいいの」

 ひばりの疲れ切った笑顔に、武蔵野は慟哭が迫り上がってきた。それもまた、寸でのところで飲み下す。

「私を必要としてくれるなら、それでいいんだ。タカ君と結婚出来たことも嬉しいし、この子が出来たことも嬉しいし、武蔵野さんや皆が私を守ってくれるのも嬉しいし、私に価値を見出してくれるのが凄く嬉しいの」

「だからって、何もかもを享受するもんじゃない。むやみやたらに笑うもんじゃない。たまには怒れよ」

「どうして?」

「そりゃ、お前が人間だからだ」

 武蔵野は足元の覚束無いひばりを支えてやりながら、狭い階段を下りた。佐々木長孝が追ってくるかと思ったが、事務室は静まり返っていた。作業機械だらけの一階に下りると、ひばりはシャッターの隙間から差し込んでくる白い朝日を帯びながら振り返った。赤らんだ目と乱れた髪と青ざめた頬が、異様な凄みを作り出していた。

「私は人間じゃないよ。ただの」

 道具だ。

「早く行こう。でないと、武蔵野さんや皆のクビが飛んじゃうよ」

 ひばりはすぐにいつもの明るい表情を取り戻すと、武蔵野を急かしてきた。実際、その通りだったので、武蔵野は仲間達に連絡して車を回してくれと頼んだ。朝靄の立ち込める住宅街に出たひばりは、早朝の肌寒さで身を縮めていたので、武蔵野は自分の上着を脱いで彼女の背に被せてやった。少しだけ白い息を吐きながら、ひばりはサイズが大きすぎる上着に袖を通して背中を丸めた。そして、ひばりと長孝の逢瀬も終わり、彼女は再び新免工業に身柄を拘束される日々に戻った。武蔵野もまた、ひばりを守る盾であり矛として戦う日々に戻った。

 あの夜の出来事は、忘れようと努めた。



 臨月を迎えると、ひばりの容態が芳しくなくなった。

 関東近郊にある新免工業の保養所に移送されたが、それを境に妊娠中毒症に陥りがちになってしまい、自室から出ることもなくなった。お喋りなのは相変わらずだったが、時折見せる表情は暗澹としていて、しきりに夫の名前を呼んでうなされていた時もあった。切迫早産になりかけたこともあって、彼女の心身に相当なストレスが溜まっていたのは明白だった。それでも、ひばりを佐々木長孝の元へ戻すわけにはいかなかった。そんなことをすれば、新免工業がこれまで費やしてきた労力と費用が全て無駄になるからだ。

 人里離れた山奥にある保養所は木々に囲まれていて、標高がそれなりに高いので夏場を迎えても気候は涼しいままだった。おかげで、ひばりの体調も随分落ち着いてきた。一番眺めの良い部屋の窓際に横たえてあるベッドで、ひばりは安静にしていた。その頃になると、武蔵野はひばりの専属ボディーガードになっていた。あの日、逃亡したひばりを無事に確保した功績が認められたというのもあるが、ひばりが無抵抗で帰ってきてくれたのは武蔵野に対して気を許しているからだ、と受け止められたからである。

 また一回り大きくなった下腹部をさすりつつ、ひばりは窓の外を見つめていた。代わり映えのしない景色が四角い枠に収まっていて、夏の日差しを浴びた枝葉がざわめいていた。武蔵野はベッドの傍の椅子に腰掛けていた。件のパンダのぬいぐるみは、ベッドの枕元で大人しく座っていた。

 あの日、ひばりはそれを受け取るために佐々木長孝の元に向かったのは間違いない。佐々木長孝の言葉通り、全長五〇センチ程度のパンダのぬいぐるみには何かが仕込んであるらしく、やたらと重かった。X線や超音波などで調べてみたが、ぬいぐるみの腹部に正体不明の金属塊が入っていることぐらいしか確認出来なかった。布地と綿を切り開こうとしても、金属塊の表面には奇妙な薄膜が貼り付けてあり、いかなる刃物も通用しなかった。よって、その正体は未だに解らず終いだったが、ひばりはパンダのぬいぐるみを可愛がっていて、ふわふわとした毛並みを撫でながら話し掛ける姿を頻繁に見かけた。

「あのね」

 体力を消耗して疲れ果てているひばりは、武蔵野の方を見ずに呟いた。独り言だったのかもしれない。

「私ってさ、いらないものだったの。どこにでも転がっている話だよ。うちのお父さんは、親の代でそれなりに業績を上げた会社を継いだけど経営者の器じゃなくて、弱くて、ダメで、会社を回すのなんて以ての外で、そのくせ無駄に見栄っ張りで、金をばらまいて女を作ったの。何人も。私はその中の一人から産まれたんだ。だけど、母親は私を産んですぐに死んじゃって、それっきり。お父さんは私を引き取ってくれたけど、愛人の子供がごろごろしている家に居場所なんて最初からなくて。余程ろくでもない目に遭ったんだろうね、子供の頃の記憶が一つも残っていないの。高校に入学してすぐに家を出たけど、今度はお父さんが死んじゃってさ。で、長男が会社を継いだんだけど、これもまたダメな男で。だけど、ダメな男なりに頑張ったみたいで少しは会社が持ち直したんだ。でも、やっぱり限界でさ、潰れる寸前だったの。そんな時に、お父さんが少しだけ関わりを持っていた佐々木長光さんがうちの会社に来て、長男の結婚相手を融通してくれたら融資する、って言ったの。で、私がタカ君のお嫁さんになった」

 ひばりは枕に顔を埋め、目を伏せた。

「タカ君はね、凄くいい人なんだ。ちょっとだけ、本当にちょっとだけ、人間っぽくないところがあるけど、それも含めて大好きなの。私が何をしても褒めてくれるし、御料理をおいしいって食べてくれるし、一緒にいてくれるし、私を大事にしてくれるの。タカ君と暮らしていた時が、私の人生で一番幸せなんだ。でも、タカ君が傍にいない時は私はまた前の私に戻るの。何も考えちゃいけないの。何もしちゃいけないの。嫌だな、辛いな、困るな、怖いな、って感じるのもいけないの。だって私は道具なんだ。お母さんがお父さんの心を繋ぎ止めるために作っただけの子供だし、実家の会社にお金を流すためだけのパイプだし、タカ君のお父さんが遺産を使うために必要な赤ちゃんを産むだけの体であってお腹なの。だから、ね」

 あんまり優しくしないでよ、と零して、ひばりは声を殺して泣いた。武蔵野は腰を浮かせ、ひばりの華奢な肩に手を添えようとしたが、今回もまた堪えた。優しくするなと言われたばかりなのに。会いたい、タカ君に会いたい、とひばりは泣きじゃくった。ひばりと長孝を結び付けている感情の強さを目の当たりにするたび、武蔵野は浅はかな横恋慕を感じる自分が情けなくなった。振り切ろう、切り捨てようとしても、当のひばりが目の前にいるのだから、ひばりと顔を合わせるたびに気持ちが蘇ってしまう。最後までひばりの盾に徹したのは、武蔵野の意地だ。この微妙な均衡が崩れれば、武蔵野は全てを投げ打って彼女を奪うと解っていたからだ。

 それなのに、劣情ばかりが募っていた。



 出産前に写真を撮りたい、とひばりが言った。

 お腹の子が大きくなったら見せてやりたいから、とのことだった。切迫流産の危険は免れたが、体調はまだ不安定だったので、ひばりが住まう部屋で撮影することになった。ひばりが一人で写るものだと思っていたので、武蔵野は邪魔をしてはならないと退散しようとしたが、ひばりに引き留められた。どうせなら一緒に写ってよ、との軽い申し出に武蔵野は戸惑った。どうせなら着替えてこいよ、と撮影係からもせっつかれて部屋から追い出された武蔵野は、散々悩んだ末に面接の際に一度だけ着たスーツに着替えた。すると、ひばりはやたらと喜んだ。

 ほんの数分ではあったが異様に緊張した時間だった。出来上がった写真を眺めながら、ひばりは夫と再会したら武蔵野のことを紹介すると言った。それはひばりに気を許してもらった証拠ではあったが、武蔵野には複雑極まる言葉だった。ひばりは武蔵野の好意に気付いているとすれば、この上なく残酷な行為だが、気付いていないとしたら純粋な好意によるものだからだ。結局、武蔵野は答えられないままだった。劣情を言動に表に出してはいないが、夫である佐々木長孝には引け目を感じていたからだ。

 それから半月後、ひばりは陣痛に苦しみ抜いた末に自然分娩で無事に出産した。三五〇〇グラム前後の女児で、ぎゃあぎゃあと力一杯泣き叫んでいた。ひばりは大きめに産まれた我が子と対面し、この上なく柔らかな笑顔を見せた。それは、いつもの笑顔とは根本から違うものだった。きっと、あれが彼女の素の表情だったのだろうと今にして思う。難産ではなかったが出血が多めだったので、ひばりは安静状態が続いた。ベッドの上で我が子の世話をしながら、ひばりは少しずつ人間らしい顔付きになっていく娘の名を付けた。

「この子の名前は、つばめ」

 パンダのぬいぐるみの手を振ってあやしてやりながら、ひばりはしみじみと語った。

「ツバメってさ、可愛いけど逞しい鳥じゃない? 渡り鳥だから何千キロもの距離を飛んでいけるし、毎年新しく巣を作って沢山子供を作って、また海を渡っていくの。それぐらい、強い子になってほしいから」

「佐々木長孝はそれを知っているのか?」

 ベッドの傍の椅子に腰掛けている武蔵野が問うと、ひばりは初秋を迎えた空を仰いだ。

「うん。タカ君とね、ずっと前に話したの。女の子だったらつばめって名前にしようね、って。男の子だったら付けようと思っていた名前は、この子に付けてあげたの。でも、内緒。なんだか恥ずかしいから」

 そう言って、ひばりはパンダのぬいぐるみを小突いた。彼女のいつになく穏やかな面差しを目にし、武蔵野は得も言われぬ感覚が胸中に広がった。それから程なくして、ひばりに対する劣情の正体を悟った。真っ当な恋愛感情としての側面も大きいが、それ以上に多大なのは母親への渇望だった。だから、母になろうとしていたひばりに無性に心を揺さぶられてしまったのだ。それを自覚すると、自分が心底嫌になった。哀れな境遇の女に、海よりも深い愛情を求めているのだから。

 武蔵野の家庭環境は芳しくなかった。父親は無責任で、母親は淫蕩で、そんな家庭から逃げ出すために自衛官になったと言っても過言ではない。だが、劣悪な環境によって培われた自衛本能が尖りすぎてしまい、集団生活に馴染めなかった。だから、同期の自衛官に些細なことをからかわれただけで攻撃に転じてしまい、退職せざるを得なくなった。しかし、それが何だというのだろう。それは武蔵野の都合に過ぎず、ひばりの人生を歪めてしまうほどのものではない。自覚に自責に自嘲を混ぜ合わせた感情を腹の底に押し込め、武蔵野はやり過ごした。

 それが、彼女の幸せに繋がるのだから。



 更に一ヶ月後。

 すっかり体力が回復したひばりはベッドから起きられるようになって、つばめも日に日に成長していった。武蔵野を始めとした新免工業の関係者が身の回りの世話をしているため、暇とやる気を持て余したひばりは、乳児用の手袋と靴下と布オムツを山ほど作った。元々手先が器用らしく、次から次へと飽きずに縫い、編み、つばめの小さな手足に填めてやっては喜んでいた。これなら引っ越しをさせても大丈夫だろう、と武蔵野や皆は思っていた。

 新免工業の保養所では警備上の問題はないが、新免工業が所有する遺産であるナユタの作動実験を行うために現場まで移動する距離が長すぎて母子の負担になる、とのことで、ひばりとつばめは都内のマンションに移送されることが決定した。その頃になると、新免工業における武蔵野の立場も徐々に上がってきていて、ナユタが何なのかも把握していた。遺産の全貌については理解が及んでいなかったが、それらを動かす能力が幼いつばめの肉体に備わっていること、そのつばめを狙っている者が数多くいること、ナユタを操れれば母子の安全は確保出来ることは解っていた。ひばりとつばめを守れるのなら、どんなことでもやると覚悟を据えていた。どうせ、ひばりへの恋愛感情は燻ったままで終わるのだから、それを無駄にせずに使い切ってしまおうと思っていたからだ。

 産まれて間もない佐々木つばめが宿している能力は、度重なる実験で実証されていた。いかなる物質ですらも拒絶して消滅させるエネルギーを放つナユタは、佐々木つばめの生体組織だけは受け入れていたからだ。だが、母親であるひばりの生体組織では何の意味もないらしく、つばめの短い髪や小さな爪は消えなかったが、ひばりが切り揃えた髪をナユタに近付けると一瞬で消し飛んでいた。それが遺産なのだと、身に染みて思い知った。

 防弾ガラスを装備した車で移動しながら、ひばりは久々に目にする都会を見て懐かしそうにしていた。佐々木長孝の安否が伝えられると、寝入っている娘を撫でて語り掛けた。お父さんにも会えたらいいねぇ、と。長時間のドライブを終えて都内某所のマンションに辿り着き、エントランスホールに面したロータリーで車を止めた時、異変が起きた。先に車を出ていた戦闘員が発砲したが、何者かの襲撃は止められなかった。

「中にいろ!」

 武蔵野はすかさず車のドアを閉め、母子を車内に留めてから拳銃を抜いた。熱の残るボンネットを盾にしながら、最初に発砲した戦闘員を無造作に持ち上げている人物に狙いを定めた。だが、それは人間ではなかった。人間に似たシルエットではあったが、生物学的には人間からは懸け離れた異形の生物だった。艶のある黒い外骨格に一対の透き通った羽を持ち、ヘルメット状に頭部を覆う複眼と節の付いた触角を備え、体の各所に付いているオーブ状のものが淡く発光していた。恐らく、ホタルを原型にした怪人だろう。

「……う」

 フジワラ製薬の差し金か。武蔵野は、敵対組織の一つであるフジワラ製薬が生み出している怪人の存在を知ってはいたが、実際に交戦するのはこれが初めてだった。人間として捉えれば体格はそれほど大きくないのだが、虫として捉えると巨大すぎる。その禍々しさに、武蔵野は一瞬臆しかけた。ホタル怪人は触角を左右に振り、手にしていた戦闘員を軽々と放り投げた。彼はエントランスホールのガラスを砕いてホールに転がり、動かなくなった。

 勝てるとは思えないが、負けるとは思いたくない。武蔵野が発砲すると、他の戦闘員達も一斉に発砲した。だが、通常の弾丸は一切通用せず、分厚い外骨格に弾かれるだけだった。ホタル怪人は鬱陶しげに複眼を逸らしてから、車内で身を縮めている母子に目を留めた。

「やめろ、それだけは!」

 ひばりとつばめを守らなければ意味がない。武蔵野はボンネットを飛び越えてホタル怪人を阻もうとするが、敵は鋭い爪を一振りし、武蔵野の顔を切り裂いた。ぶぢゅりっ、との嫌な音と共に生温い液体が溢れ出し、右の眼球がダメになったのだと悟った。照準の定まらない目で懸命に引き金を引いたが、ホタル怪人は歩みを止めなかった。防弾ガラス製のリアウィンドウに拳を埋めると、分厚く頑丈なガラスは一撃で粉々に砕け散り、透明な破片がシートに降り注ぐ。施錠してあったドアも片腕だけで難なく引き剥がし、投げ捨てる。

 その間にも他の戦闘員達が銃撃を繰り返す。ハンドガンでは通用しないのなら、と自動小銃を乱射する者もいたが、やはり一発も貫通しなかった。武蔵野の頭上にも潰れた鉛玉が飛び交い、薬莢だけが空しく増えていく。ひばりは我が子に覆い被さって守ろうとするが、ホタル怪人は彼女の襟首を掴んで車外に引き摺り出すと、異変を感じてぎゃあぎゃあと泣き喚く赤子をベビーシートごと取り出し、脇に抱えた。

「ひどいこと、しないで」

 羽を震わせて飛び去ろうとするホタル怪人の足に縋り、ひばりは懇願した。

「その子はね、つばめっていうの。連れていくなら、仲良くしてあげて? 乱暴しないで、ちゃんと可愛がってね?」

 怪人の暴力と悪意に抗えないのならば、その矛先を少しでもずらしたいと思ったのだろう。ホタル怪人はひばりを足蹴にしようとしたのか、彼女がしがみついている足を上げたが、途中で気が変わったのか下ろしてくれた。ひばりが痛々しい作り笑いを見せると、ホタル怪人はつばめを上両足で抱え直してから飛び去っていった。

 それから、二度と母子は再会出来なかった。傷の処置を終えた武蔵野がひばりの仮住まいに向かうと、ひばりは使う当てのなくなったベビー用品に囲まれて呆然としていた。武蔵野は慰めの言葉すら失い、ひばりの傍に座ってやることしか出来なかった。ひばりは我が子を奪われた寂しさを少しでも紛らわすためなのか、パンダのぬいぐるみを抱き締めてしきりに話し掛けていた。

「私じゃダメなんだ。私は何の役にも立たないんだ。だから、つばめを守ってやれなかったんだ……」

 パンダのぬいぐるみに涙を吸わせながら、ひばりは嘆き続けた。佐々木長孝であれば、その丸まった背中に手を添えてさすってやれただろう。抱き締めてやれただろう。慰めの言葉を掛けられただろう。だが、武蔵野にはそれが出来ない。出来るわけがない。だから、嘆き悲しむ彼女を見守るだけで精一杯だった。

 その後、佐々木つばめの行方が判明した。佐々木長光が懇意にしている弁護士、備前柳一の家庭に養子として引き取られていた。佐々木長光が孫を取り戻すために手を回し、比較的安全な場所に落ち着けたのだろう。それを知った武蔵野は当然ひばりに報告しようとしたが、新免工業の上層部に止められた。新免工業が攻勢を取れば、佐々木長光も黙ってはいない、そうなれば無用な被害が出てしまう、いざというときの切り札として佐々木ひばりを確保しておいた方がいい、と。武蔵野はやりきれなくなったが、従った。ひばりを守るために受け入れた。

 それしか出来なかった。



 それから、更に半年が過ぎた。

 我が子を目の前で奪われたせいだろう、ひばりの精神状態が危うくなっていた。パンダのぬいぐるみを今まで以上に可愛がり、どこへ行くにも連れて歩くほどになっていた。つばめのことも何度となく語って聞かせていて、つばめの兄弟のように扱っていた。ひばりが笑うのなら、と武蔵野はそれを黙認していたが、パンダのぬいぐるみに触ろうとすると彼女はひどく怒るようになった。この子はつばめのものなんだから、と喚いて遠ざけた。

 パンダのぬいぐるみを構っていない時は何もせずにぼんやりしているか、夫の名を呼びながら泣き伏せているか、そのどちらかだった。食事もろくに摂らないので痩せていく一方で、やたらと重量のあるパンダのぬいぐるみを抱くのも難しくなるほど腕力が落ちていた。目を離すと、その隙に命を絶ってしまいそうな気がして、武蔵野はひばりの傍から片時も離れられなくなった。パンダのぬいぐるみも、彼女の傍から離れなかった。

 佐々木つばめの数少ない生体組織を使用した実験を行うために、ナユタが太平洋上に輸送されてきた。横たえた刃物の上を裸足で歩くような痛々しい日々の中、武蔵野はひばりをこれ以上追い詰めないためにもその実験を行うべきではないと進言したが、上層部からは突っぱねられた。ナユタの作動実験が成功して莫大なエネルギーを供給することが出来れば、新免工業にもそれ相応の利益がもたらされる、武蔵野もひばりもその恩恵を受けられる、と説き伏せられてしまった。つばめのヘソの緒を差し出すことも決定されていて、逆らえず終いだった。

 新免工業が所有するタンカーに搭載されたナユタが東京湾に入り、着岸まで数百メートルという距離になった時、前触れもなくナユタが暴走した。ナユタの保存容器からタンカーの船体から何から何までが消し飛び、海水までもが消失して空虚な空間が造り上げられた。その中心に浮かぶ青い結晶体は、不気味に輝いていた。

 緊急避難命令が下り、武蔵野はひばりを連れ出そうとしたが、つばめのヘソの緒が入っている箱を握り締めていたひばりは武蔵野の手を振り払って外に出た。青白い光が広がる海を凝視し、語気を強めた。

「行かなきゃ」

「どこに行くつもりだ!」

「決まっているでしょ、あの子のところ!」

 ひばりは武蔵野に怒鳴り付け、駆け出した。新免工業の社員や研究員達を掻き分けて港に飛び出したひばりは、そのまま海に飛び込もうとしたので、武蔵野は力任せに引き留めた。

「いいから、落ち着け。あれは」

「私は役に立ちたい! 私はあの子のお母さんなのに、何も出来なかった! タカ君のお嫁さんにもなれなかった! このまま終わるのだけは絶対に嫌、私はお母さんになりたいの!」

 初めて触れた彼女の肩は、痩せて骨張っているのにやけに熱かった。薄手のカーディガンの下で上下する肩から慎重に手を離した武蔵野は、周囲を取り囲んできた社員達を制してから、ひばりを問い質した。

「なんで、ナユタがつばめだと思ったんだ?」

「解るの。タカ君とつばめのおかげだと思うけど、ほんの少しだけ、遺産のことが解るの。つばめは何かが辛いから泣いていて、それと連動してナユタも泣いているの。だけど、つばめがどうして泣いているのかは解らない。だから、私はナユタを泣き止ませることしか出来ないの。そうすれば、壊れるのはタンカーだけで済むの。放っておいたら、どんどんナユタは周りの物を壊しちゃう。そうなったら、どれだけ人が死ぬのか……。だけど、ヘソの緒を落とすだけじゃナユタはつばめを認識してくれない。それぐらいに、あの子は動揺している。もしかすると、つばめを認識する前に消し飛ばすかもしれない。だから、異物を混入してナユタをちょっと驚かせてあげなきゃならないの」

「だが、ひばりも死ぬぞ。間違いなく」

「それでもいい。私が役に立てるのなら」

 そう言い切ったひばりの目は、揺るぎない決意に輝いていた。自分はただの道具に過ぎないと自虐していた彼女が自分の役割を見出し、盤石な自信を得た瞬間だった。けれど、その自信を貫くべきではない。武蔵野はもう一度彼女を諌めようとしたが、ひばりはその前に駆け出していった。破滅に向かうと知っているはずなのに、嬉しそうに走っていった。武蔵野が追い付くと、ひばりはヘリコプターの前で手を振っていた。笑顔だった。

「あんたは本当にそれでいいのか!」

 なぜ、そこまで自分を投げ打ってしまうのだ。堪えきれなくなった武蔵野がひばりに詰め寄ると、ひばりは武蔵野を見上げてきた。消えない傷跡と義眼を埋めた右目を見咎められた気がして、武蔵野は苦々しく顔を背けた。

「確かに俺は、あんたの役に立てなかった。あんたの娘も守れなかった。あんたを旦那のところから攫ったくせに、ろくに役目も果たしもしなかった俺達を見限るのは当然だ。だからって、あんた自身がそこまですることはないんだ。俺を恨みたいなら恨め、殴るなら殴れ。あんたと佐々木長孝から何をされても、文句を言える立場じゃねぇ」

「私は誰も恨まないよ」

 ひばりはナユタが作り出した小規模な嵐の暴風を受けながら、抉れた海を望んだ。

「色々考えて、色々思って、色々悩んで気付いたの。私が私の人生を恨んだり、他人を嫌ったり、恨んだりすれば、その結果で産まれてきたつばめのことも恨むことになるって。でも、それだけはしたくないの。だって、つばめは私とタカ君が愛し合っちゃった結果だもん。タカ君のことを否定するのは嫌だもん。だから、私はあの子の役に立って、ちゃんとしたお母さんになるんだ。そのために、ちょっとだけお手伝いしてくれないかな?」

「だが、他の方法もあるんじゃないのか」

 武蔵野が呻くと、ひばりは首を横に振った。

「あったとしたら、とっくにそうしているよ。この子のこと、お願いね。タカ君に預けてほしいんだ」

 ひばりが武蔵野に渡してきたのは、あのパンダのぬいぐるみだった。渡されるがままに受け取ると、彼女はパンダのぬいぐるみの鼻先を小突いて頬を寄せた。その仕草はベビーベッドに眠るつばめを慈しんでいた時と全く同じで、それが一層武蔵野を苦しめてきた。これは自殺幇助だ、殺人だ。守ると決めた相手が死に向かおうとしているのに手をこまねいていいのか。愛して止まない女性を、塵一つ残らない死に方をさせていいのか。帰るべき場所も家族もいる人間を、みすみす死なせてしまっていいのか。だが、武蔵野はその思いを一つも言葉に出せずに、パンダのぬいぐるみをベルトで腹に括り付け、ヘリコプターの操縦席のハッチを開けた。

 そして、武蔵野はひばりに命じられるままにヘリコプターを飛ばした。ひばりは笑顔を崩すことはなく、死の恐怖に怯えることもなく、つばめのヘソの緒が入った箱を優しく慈しんでいた。ローター音に掻き消されながらも、ひばりはお喋りをしていた。武蔵野がつばめに会うことがあったら優しくしてあげてくれ、守ってあげてくれ、と。語気も語彙も底抜けに明るかったのが、辛さを煽り立てた。それでも、武蔵野はヘリコプターの高度を保っていた。

「あのね、武蔵野さん!」

 ヘリコプターのハッチを開け、暴風に髪を掻き乱されながら、ひばりは思い切り笑った。

「優しくしてくれて、守ってくれて、最後まで付き合ってくれて本当にありがとう! つばめとタカ君の次に」

 大好き、と叫びながら、ひばりはナユタの真上に身を投じた。それから十数秒後、ひばりは粒子の一粒も残さずにこの世から消失し、彼女の命と引き替えにナユタは沈静化した。ナユタの影響を受けて中途半端に浮き上がっていたタンカーが着水し、凄まじい水柱が立ち上がり、ヘリコプターは大きく煽られた。武蔵野は余力を振り絞って港に引き返して着地し、外に出たが、ひばりの痕跡はなかった。荒れ狂う海と、忌々しくも禍々しい遺産と、巨大な鉄屑と化したタンカーしかなかった。大波で濡れたコンクリートに膝を付き、武蔵野は慟哭した。

 誰よりも、何よりも、自己犠牲を選んだ彼女を恨んだ。



 セミの声が、アブラゼミからヒグラシに移り変わっていた。

 西日による濃い陰影に沈んだ武蔵野の表情は窺い知れなかったが、語り口は重たいままだった。麦茶のポットは中身が温くなっていて、結露も乾いていた。神名の静かな駆動音が響き、手袋に包まれた手が麦茶の入ったコップを掴んだ。氷も全て溶けていて、薄まった麦茶が僅かに底に溜まっていた。

「それから、いかがなさいましたか」

 神名に促され、武蔵野はつばめを一瞥した。

「恨んで恨んで恨み抜いて、うんざりするほど恨んだ。つばめのことすらも恨んじまった。だが、恨むことに疲れた。だから、俺はまた戦うことにしたんだ。遺産を狙う連中の内情を掴むために新免工業に留まって、お嬢の部下にもなって、外側からお前を守ることに決めたんだ。だが、そいつも半端に終わっちまって、今に至る」

「あの日、なぜ太平洋上でナユタの実験を行おうとしていたのか、その経緯について御説明いたしましょう」

 神名は膝の上で手を組み、つばめを見つめた。

「新免工業が、というより、僕が長年目の敵にしていたのは弐天逸流なのです。彼らは宗教の名の下に命を弄んでいますので、それがどうにも許し難いのです。死者を蘇らせて生前の記憶と共にシュユという偶像に対する信仰心を植え付け、その人のあるべき人生を根本から歪めてしまうのです。生と死は密接しておりますが、決して交わることのない世界の話です。弐天逸流から何らかの理由で放逐された人々を見つけ出し、回収し、適切な教育を施して弊社の社員として扱っておりますが、それでも彼らを救うことにはなりません。元在るべき常世に戻してやるべきなのですが、僕は殺人は好みませんのでね。彼らの命が尽きるまで社員として生かしてやるのが、彼らの人生に触れた者の責任だと思っているのです。ですが、弐天逸流が所有する遺産を、シュユとその下位個体であるゴウガシャを破壊しなければ負の連鎖は途切れることはなく、哀れな死者達は増え続けるのです。ですから、あのような荒事を起こしてシュユを破壊しようとしたのですが……失敗に終わってしまいましてね」

 神名の目線がコジロウに向くと、つばめの背後で正座しているコジロウは神名を睨み返した。

「ナユタを使用しようとも、管理者権限所有者の意思がなければ遺産の破壊は不可能だ」

「でしょうねぇ。身を持って理解しましたとも」

 神名は正座を崩し、夜風を含み始めた外気を受けて揺れる風鈴と、花の萎れたアサガオを視界に収めた。

「一つ、よろしいでしょうか。先程、コジロウ君がお取りになっていた、アサガオの種を少しばかり分けて頂けませんでしょうか? 本当に、少しだけでよろしいのですが」

「それぐらいなら、ねえ?」

 つばめがコジロウに乞うと、コジロウは頷いた。

「本官はつばめの命令に従う」

「ありがとうございます。命とは、そうやって連ねていくのが正しい姿なのです。一度、誰かの手で歪められてしまった理を正すには、正す方にもそれなりに力が必要なのです。ですが、僕達では力が及びませんでした。つばめさん、弊社の優秀な社員をお預けいたしますので、存分に戦い抜いて下さい。あなたの人生のためにも」

 武蔵野君の書類一式です、と神名は平べったい封筒を差し出してきたので、つばめはそれを受け取った。

「どうも」

「では、これで失礼いたします。長居をしてしまいましたね」

 神名は立ち上がると、一礼してソフト帽を被った。つばめは道子と共に神名を玄関先まで見送ると、社長の帰りを辛抱強く待っていた社員達と礼を交わし合った。約束通り、アサガオの種を紙に包んで渡してやると、神名はとても喜んでくれた。何の変哲もない種なのだが。黒塗りのリムジンに乗って神名が去ると、静けさが戻ってきた。

 仏間との続き部屋に戻ると、武蔵野はやりづらそうな顔でつばめを出迎えてくれた。若い頃の心情まで徹底的に吐露してしまったからだろう、後悔が垣間見えていた。つばめは彼の過去を責めもせず、問い詰めもせず、神名が去った余韻が残る部屋に留まることにした。これで宿題は更に遅れるだろうが、そんなものは後でどうにでもなる。今、大事なのは、武蔵野を通じて母親の生き様と向き合うことだ。

「パンダのぬいぐるみは、あの後、どうなったの?」

 それが自分の手元にあるパンダのぬいぐるみと同じであれば、どんなに嬉しいか。つばめが一抹の期待を込めて問い掛けると、武蔵野は気まずげに眉根を顰めた。

「それがなぁ、どこに行ったのか解らないんだ。ひばりが亡くなった後、その遺品を一つ残らずまとめて佐々木長孝の元に送り届けるはずだったんだが、その作業に追われている間にパンダの野郎は消えちまったんだ。もちろん、俺も他の連中も探したんだが、どうしても見つけられなかった。すまん」

「その子の中には、遺産が入っていたのかな」

「その可能性も高いから、余計に力を入れて探したんだがなぁ。だが、意外と傍にいるかもしれんぞ。遺産は管理者権限所有者の安全を最優先にした行動を行うから、パンダの野郎もそうしているかもしれん。根拠はないが」

「で、パンダちゃんの名前も解らず終い?」

「そうだよ。解っていたら、報告してやったさ。お前の兄弟になったかもしれない人間の名前なんだから」

 武蔵野は全身の力を抜くように嘆息してから、サングラス越しにつばめを捉えた。そこに迷いはなかった。

「つばめ。お前は俺を恨むか?」

「ううん、全然。だって、武蔵野さんはお母さんにも私にもひどいことをしなかったから。恨む理由がないよ」

 つばめが表情を緩めると、武蔵野は一笑した。

「俺は意気地がないだけだ。あんまり買い被ると、痛い目を見るぞ」

 今度、ひばりの遺髪を埋めた墓に連れて行ってやる、と武蔵野は言い残してから、腰を上げた。薄暗く陰った廊下を歩いていく広い背を眺めながら、つばめは自分の携帯電話を操作し、神名の携帯電話からコピーした画像を展開した。大きなお腹を抱えて笑顔を浮かべている母親と、その背後でやりづらそうにしている男と、十五年前に母親の胎内で育ちつつあった自分を慈しむ。母親に触れようと指先を伸ばすが、擦り抜けただけだった。

 それでも、つばめは満ち足りていた。ついこの前までは名前しか知らなかった母親のことを沢山知ることが出来たし、母親を始めとした多くの人々に望まれながら産まれてきたことを知ったことで、これまでは不確かだった自分という人間にしっかりとした地盤が出来上がった。母親も、自分も、ただの道具ではなかったのだ。

 ふと気付くと、背後にコジロウがいた。つばめは彼を手招いて、母親のホログラフィーを見せてやった。コジロウは畳に片膝を付いて、つばめの肩越しに在りし日の佐々木ひばりを見つめた。複雑に入り組んだ感情が解けていき、最後に残った一筋の愛情が心中を緩やかに暖めてくれる、穏やかな一時だった。

 夏は、終わりつつある。

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