災い転じてフェイクと為す
板張りの天井には、細切れの日差しが注いでいた。
小さな埃の粒が煌めき、空気の流れと共に漂っている。深く息を吸うと、青々とした畳の香りが肺を満たしてきた。肺が膨らむ、ということは人間体に戻ったのだろうか。両手に触れるのは柔らかな布で、頭の下には心地良い弾力の枕がある。薄い掛布に包まれた体を捩ると、糊の効いたシーツが歪んだ。
布団に寝かされている自分に気付いたが、伊織は抵抗する気持ちは起きなかった。敵意と殺意を漲らせて誰かと戦うことよりも、心身を安らがせていたかったからだ。だから、胎児のように背中を丸めて薄い掛布を抱き締めて、その肌触りを味わった。暑くもなく寒くもなく、ただひたすら穏やかだ。生まれてこの方、伊織はこんなに気を緩めて寝入っていたことがあっただろうか。いつも血生臭い場所に身を置いて、己の狂おしい空腹を堪えながら、化け物になりたい肉体と人間でいたい精神を鬩ぎ合わせていたから、一人きりになろうとも緊張は抜けなかった。布団の中に潜り込もうとも、いつ飢えに襲われるのかと内心で恐れていた。だから、もう少し眠っていたかった。
とろりとした睡眠と辿々しい覚醒を何度も繰り返していたが、次第に意識が晴れ渡ってきた。瞼を閉じていることが億劫になり、縮めていた体を伸ばしたくなってきた。目覚めたら、どうせまたろくでもない現実と立ち向かわなければならないのに、とは思うが、生理現象には敵わない。渋々、伊織は瞼を上げた。
枕と掛布を離して上体を起こすと、やけに視界が低く、狭かった。複眼の視界ではない。人間体に戻ったとしても、伊織の身長は一八〇センチ近くあるのだが、この高さではまるで子供だ。藤原忠の悪辣な攻撃を耐え抜いて生き延びたはいいが、生命維持のために生体組織を犠牲にしたのだろうか。
「意識が戻るまでに一週間と十八時間か。この僕の優秀すぎる頭脳による計算よりも少し早いけど、まあ、誤差の範囲内ってことで特別に許してあげようじゃないか」
この、忘れもしない馬鹿げた口調は。伊織が反射的に振り向くと、部屋を囲んでいるふすまが開き、一人の男が滑り込んできた。羽部鏡一である。相変わらず悪趣味極まりない服を着ているが、なぜか和装だった。原色だらけで目に痛いデザインの着流しの裾から伸びるのは足ではなくてヘビの尻尾だった。
「意識が戻ったのなら、どっちの意識なのかを説明してくれる?
この僕は未来永劫讃えられるほどの知能と技術を持った科学者の中の科学者だけど、超能力者じゃないから、君の意識までは読み取れないんだよねぇ」
するすると畳を這ってきたヘビ人間の羽部は、伊織に近付いてきた。伊織は思わず後退る。
「はぁ!? つか、なんでてめぇが俺の傍に」
と、叫んでから、伊織は自分の声が高いことに気付いた。しかも、聞き覚えのある声だ。
「ふむ。クソお坊っちゃんの方か。ということは、肉体の形状は御嬢様が優先されたけど意識はクソお坊っちゃんが優先された、ってわけね。いや、ちょっと違うかな。御嬢様とクソお坊っちゃんが互いに欠けているものを補い合った結果、融合したと考えた方がいいかな。遺産の産物同士の互換性もなかなか捨てたものじゃないねぇ」
羽部は布団の周りで渦を巻き、伊織を凝視してきた。
「……なぁ、鏡、ある?」
羽部の言ったことは信じられないし、信じたくないが、確かめなくては。伊織がおずおずと頼むと、羽部は心底面倒そうな目で伊織を一瞥してから、部屋の隅にあった小振りなタンスを開けて手鏡を出し、渡してくれた。黒い漆塗りで繊細な蒔絵が施された丸い手鏡を覗き込むと、そこには吉岡りんねが写っていた。だが、表情が違う。至るところの表情筋が引きつっているし、寝乱れた長い髪はぼさぼさで、おまけに滑らかな黒髪がまだらに脱色していて部分的にメッシュを入れたかのような色合いになっている。表情と髪は明らかに伊織だった。だが、顔はりんねだ。
「てぇことは、つまり、こっちの方もお嬢なのか?」
好奇心に駆られた伊織は、死に装束に似た白い寝間着の襟元を広げてみた。案の定、そこにはふくよかな乳房があった。慎重に股間をまさぐってみるが、伊織が慣れ親しんだ手応えはなかった。赤面した伊織が唇を歪めると、羽部は伊織の手から手鏡を奪い返し、タンスに戻した。
「気が済んだのなら、人を呼ぶけど? 身支度をしてもらわないことにはねぇ」
「ウゼェ。なあ、クソヘビ野郎」
「この僕に対してその呼び方をしていいとでも思ってるのかい、クソお坊っちゃん。ていうか、その顔と声でその言葉遣いはやめてくれない? いくら美少女が粗暴な振る舞いをするのが萌え要素として普及しているとしても、許される範囲ってものがあるんだから。ちなみにこの崇高なる僕は、二次元に対しては性欲は微塵も感じないけど」
じゃあまた後でね、と言い、羽部は足音も立てずに部屋から出ていった。出ていく際に尻尾の先で器用にふすまを閉めていったので、モンスターのラミア状態になってからは割と時間が経っているのかもしれない。伊織は布団の上に胡座を掻こうとしたが、白く薄い襦袢のような寝間着の下には下着を着けていないのだと悟り、止めた。さすがに気が咎めてしまうからだ。意識は伊織と言えども、肉体は吉岡りんねそのものなのだから。
枕元に置いてあった水差しの中身をコップに注ぎ、中身がただの水であると確かめてから、伊織はコップを傾けて喉を潤した。粘ついた唾液が解けていき、空っぽの胃袋が少しだけ膨らみ、存在感を持つ。喉越しの良さと程良い冷たさが甘みすら感じさせてきて、いつになく水をおいしいと思った。二杯目の水を飲み干してから、伊織は日差しが降り注いでくる障子戸を開けてみた。板張りの縁側が伸びていて、広い庭に面していた。更にその庭は瓦屋根が乗った漆喰塀に囲まれていて、城郭を思わせる造りだった。
外に出ようかと思ったが、躊躇した。伊織が伊織のままであったなら、迷わずに飛び出していっただろう。そして、空腹に任せて暴れ回っていただろう。だが、今の伊織はりんねなのだ。あの後、何が起きたのかは明確には覚えていないが、命を落とす寸前に高守信和にりんねを頼むと伝えたことは覚えている。だとすれば、高守信和は伊織の願いを聞き届けてりんねを助けてくれたのだろうか。となればこの建物は、高守信和の母体組織である新興宗教、弐天逸流の施設なのか。だとしても、敵対組織の人間に対して待遇が良すぎる。
伊織がそんなことを悶々と考えていると、再度ふすまが開いた。今度は羽部ではなく、清潔な服装をした女性達が入ってきた。彼女達は伊織を部屋の中に連れ戻すと、あれよあれよと言う間に着替えさせ、寝癖が付いた髪も綺麗に梳いてくれた。女性達が深々と礼をしながら出ていくと、伊織はすっかり小綺麗にされていた。顔も濡れタオルで丁寧に拭かれ、さっぱりした。色鮮やかな振袖を着付けられた伊織は、着物の足捌きの悪さに戸惑ったが、脱ぐに脱げないので、着物に慣れるために部屋の中をぐるぐると歩き回った。
「きれい」
不意に、伊織の口から意図せずに言葉が漏れた。他に誰かいるのか、と伊織が辺りを見回すと、再度口が勝手に動いて声が出てきた。舌っ足らずで語彙も貧弱な、幼い少女のものだった。
「今の、俺じゃねぇよな?」
ん、と一度口を閉じてから、伊織は自分自身に語り掛けた。
「もしかして、お嬢なのか?」
こくん、と伊織の意志に反して首が勝手に動いた。だが、それきり、彼女との意思の疎通は出来なかった。伊織がりんねに話し掛けようとしても、りんねにどうやって話し掛けたらいいのか解らなかったからだ。一つの肉体に二つの意識を宿すだけでも大変だが、片方の意識が脆弱だと尚更扱いづらい。結局、伊織はりんねと言葉を交わすことを諦めた。この状況に戸惑っているのは、何も伊織だけではないのだから。
まずは、慣れることから始めなくては。
この施設の中では、伊織は御鈴様と呼ばれていた。
素っ頓狂な状況を甘受した伊織は、それから色々と試してみた。部屋の外に出ようとすると、すぐさま見張りの者が駆け寄ってきて伊織を部屋に押し戻した。雨戸の変わりに掃き出し窓を填め込んだような縁側と中庭に出ることは許されたが、そこから先に行こうとするとやはり押し止められた。畳敷きの部屋には時計もなければテレビもないので、時間の感覚が失われそうだったが、時折身体検査という名目で訪れる羽部に教えてもらったのでなんとかなった。中庭を囲んでいる屏を乗り越えようとも企んだが、二つの意識を宿した少女の肉体は異様に疲れやすい上に筋力がほとんどないので、懸垂すら出来ずに、中庭に転げ落ちただけだった。怪人体に変化しようとしてみたこともあったが、中途半端に外骨格が皮膚から迫り出してくるだけで、身体能力を向上させられなかった。
御鈴様、御鈴様。今日もまた、そう呼ばれた伊織は、女性達が運んでくる御膳に載っている食事を口にした。品の良い味付けの和食で、消化の良い料理ばかりが並んでいる。柔らかく炊けた白飯に野菜を多く煮込んだ味噌汁に、豆腐と鶏挽肉のハンバーグ、ダシの効いた茶碗蒸し、柚子が散らされた白身魚の煮付け。どれもこれも味が解るばかりでなく、まともに消化出来るのが、伊織にはとてつもない喜びだった。それまでは血生臭い肉と骨と内臓しか食べることが許されなかったので、生まれて初めて食事の快感を味わっていた。
心行くまで食事を堪能した伊織は締めの緑茶を飲みながら、心身を暖める充足感に満たされていた。出来ることならもっと食べていたいところだが、りんねの肉体は胃袋があまり大きくないので、食べ過ぎると消化不良を起こしてしまう。普通の食事を食べ慣れていない頃に許容量を超えた食事を詰め込んでしまい、その日は丸一日トイレに籠もる羽目になったからだ。あの時は、本当にりんねに悪いことをしてしまった。
食事中は誰も入ってこないので、それをいいことに伊織は着物の裾を割って座っていた。さすがに胡座を掻くのは気が引けるが、足を曝す程度であれば問題はないはずだ。これでもう何日目になるだろう。外界ではどうなっているのだろう、遺産争いはどう展開しているのだろう、父親はどうなったのだろう。胸中を過ぎる懸念に、伊織は少しだけしんみりした。けれど、外に出られないなら、それはそれでいいのかもしれない。少なくとも、伊織と共にあるりんねは平穏に暮らしていけるのだから。
御膳の下には、懐紙に包まれた粉薬が用意されていた。この薬は恐ろしく苦いので、薬を飲むとせっかくの食事の余韻が台無しになってしまうのだが、飲めと羽部から厳命されているので渋々懐紙を解いた。コップに入れた水を手元に置いてから粉薬を舌の上に載せ、流し込んだが、舌の根本に苦味がこびり付いて伊織は顔をしかめた。
「食べ終わった? で、薬も飲んだ?」
ふすまを開けて入ってきたのは、世話係の女性達ではなく羽部だった。伊織は一応裾を正す。
「あー、おう」
「なー、ヘビ野郎。てめぇはなんで下半身を元に戻さねぇんだ?」
「ちょっとしたトラブルでね、人間体に戻せなくなったんだよ。だけど、特に支障はないからこのままにしているのさ。この優れたる僕が案内してあげようじゃないか、付いてきてよ」
羽部が手招いたので、伊織は立ち上がった。が、これまでのことを思い返して足を止めた。
「また中に押し戻されたりしねぇ?」
「しないよ。ていうか、この素晴らしき才能の泉である僕を何だと思っているんだい」
「てめぇの一人称、ちょっと会わない間に輪を掛けてひどくなってねぇ?」
羽部の自画自賛振りに伊織が呆れるが、羽部は意を介さずにふすまを開き、廊下に出た。
「ほら、行くよ。先方をお待たせするものじゃない」
開け放たれたふすまの先に伸びる廊下では、世話係の女性達が正座して頭を垂れていた。彼女達だけではなく、他の人間達も廊下の両脇に整列して頭を下げていた。伊織と羽部の姿を直視したら目が潰れる、と言わんばかりだった。さながら、大名行列を囲む農民達だ。伊織は散々歩き回ったおかげで慣れてきた振袖の裾を捌きながら、羽部に続いて歩いていった。大勢の人間に敬われるのは悪い気はしない。
だが、そう思ったのも最初だけだった。最初の廊下を抜け、角を曲がっても、人々はずらりと並んで伊織と羽部に頭を垂れていた。二人が通らない廊下も同じ光景で、引き戸が開いている部屋の中でも同じで、何百人という人間が伊織と羽部に従っていた。否、御鈴様と呼ばれている伊織にだ。伊織本人の人格や能力を認めたわけではなく、何らかの理由で御鈴様と命じた偶像に対して礼儀を尽くしているのだ。それだけは勘違いしてはいけない、と伊織は気持ちを引き締めながら、少し前を進む羽部の尻尾を追い掛けていった。
いくつもの部屋を通り、朱塗りの渡り廊下を通った先に、本殿がそびえていた。観音開きの扉の両脇にもやはり人々が這い蹲っていたが、伊織と羽部が本殿に入るとすぐさま立ち上がって扉を閉めた。本殿の中は薄暗く、独特の匂いがする香が立ち込めていた。線香でもなければ白檀でもない、奇妙な香りだった。赤い布が敷かれた板張りの床を通っていくと、その両脇にある燭台でロウソクの炎が揺らぎ、二人の長い影も曲がった。
「やあ」
羽部が不躾に声を掛けると、本尊の前にうずくまっていた小柄な人影が振り返った。高守信和だった。薄汚れた作業着姿ではなかったが、かなり使い込まれた法衣を身に付けていた。彼の丸まった狭い背中を覆っている曲線には馴染み深さがあり、幅広い袖に短い手足を隠している様は長年修練を積んだ僧侶のようだった。濁った目と定まらない視線は相変わらずだが、様になっている。
『待ち兼ねていたよ、伊織君』
高守が袖口から出したのは携帯電話で、テキストを打ち込んでホログラフィーに表示させた。
「前々から思っていたけど、あんたって普通に喋れねぇのか? お嬢と同じような理由か?」
伊織は親指を立てて自分を指し示す。思い返してみれば、水晶玉のペンダントを失ったりんねは高守の言動に酷似していたからだ。高守は小さく頷いてから、別の文面を打ち込む。
『そうだ。彼女はとても哀れな身の上だ。僕はまだ幸せな方だ。彼からは、幾ばくかの自由を許されている。だから、文面であれば意思を伝えられるし、弐天逸流の中でもそれなりの地位を授けられている。だが、彼女達はそうじゃない。自我を認められてすらいなかったんだ』
「彼ってぇのは」
『彼だよ』
そう言った高守は一歩身を引いて本尊を指し示した。羽部が尻尾の先で燭台を持ち上げると、暗がりが和らいで本尊の姿が目視出来た。最初に見た時、それは千手観音かと思った。伊織が寺坂の書斎で読み漁った仏教関係の本には何度となく登場していたし、かなり名の知れた仏だからだ。だが、そうではなかった。シルエットこそ無数の腕を持つ慈悲深い仏に似ていたが、それには顔がなかった。目もなければ鼻もなく、螺髪もなければ蓮の花の上にも座っていない。大量の腕を四方八方に伸ばして、後光のような輪を背負っているが、仏とは似て非なる化け物だ。その奇怪な化け物の全長は三メートル足らずで、全ての腕が鈍く光る鎖で拘束されていた。『彼の名はシュユ。我らが弐天逸流の本尊にして教祖、そして偶像だよ』
高守はまた新たな文面を打ち、見せてきた。伊織は眉根を寄せ、訝る。
「その触手の化け物と、俺とお嬢がどう関係あるってんだ?」
「色々とね。この僕が特別に語って聞かせてあげようじゃないか、彼じゃまどろっこしくてならないから」
羽部は尻尾を使って分厚い座布団を二枚引っ張り出すと、本尊の前に敷いた。高守に促されたので、伊織はその片方に座った。羽部は座布団の上で下半身を丸めると、手持ち無沙汰になった腕を組む。
「シュユも遺産の一つではあるんだけど他の遺産とはちょっと違っていてね。彼は命を生み出すことが出来るんだ。といっても、死んだ人間を生き返らせたり、無機物に魂を与えたり、ただの計算機に感情を植え付けたり、とかいうファンタジーな代物じゃない。生命体を構成する分子に固有振動数を与えて生体電流を発生させる、それがシュユとそれに準じた遺産であるゴウガシャの能力なんだよ。この宇宙にあまねくものは全て、揺らぎによって誕生したと言っても過言じゃないからね。固有振動数とそれによって発生する脳波のパターンを記録しておけば、一度死んだ人間に生前と全く同じ記憶を与えて復活させることも不可能じゃない」
「弐天逸流の信者共は、それを信じているってわけか?」
伊織が頬杖を付くと、高守は答えた。
『事実だからね。事実を信じることは宗教とは少し違うけど、人智を越えた事象を信じることはれっきとした宗教ではないか、と僕は思っている』
「でも、そのシュユとゴウガシャの能力を行使するためにはシュユの生体組織を摂取する必要があるんだよ。この僕も変な触手を喰わされたことがあってね。その時は色々と大変だったから、喰わざるを得なかったし、死ぬのだけは嫌だったから弐天逸流と関わったってだけであって、この凄まじき才能の権化である僕が、新興宗教になんか傾倒するわけがないじゃないか」
「じゃ、俺も喰わされたのか?」
この化け物を、と伊織が舌を出すと、羽部は否定した。
「いや、クソお坊っちゃんと御嬢様は別物だから喰っていないよ。ていうか、高守が運んできた時はクソお坊っちゃんはヘドロみたいなもんだったし、御嬢様もアソウギなんだかクソお坊っちゃんなんだか解らない液体に溺れて窒息していたから、喰わせられなかったっていう方が正しいね。で、その後、御嬢様も溶けた。この僕を小倉美月の元から呼び戻すのがもう少し遅れていたら、この叡智の結晶たる僕の知能とアソウギが発揮出来ずに、クソお坊っちゃんと御嬢様は排水溝行きになっていただろうね」『あの時は焦ったよ。りんねさんまで死んでしまったら、計画に差し障りが出るからね』
高守が文字で言うと、羽部は肩を竦める。
「で、更にその後、クソお坊っちゃんと御嬢様は混ざり合って今の形に落ち着いたってわけ。ニコイチってやつ」
「は? なんでだよ? なんでお嬢まで溶けるんだよ?」
伊織がぎょっとすると、羽部は先の割れた舌をちろりと出す。
「それはこの世界の至宝たる僕が考えることであって、クソお坊っちゃんのお粗末な脳みそなんかで考えるものじゃないよ。思い当たったとしても、理論までは組み立てられないだろうしね。まあ、アソウギ自体が状況に応じて性質を変化させる機能を持っているから、その延長線上の事象なんだろうけど」
「つか、俺とお嬢を回収した理由を聞かせろよ。でねぇと、すっきりしねぇし」
少し焦れてきた伊織が急かすと、羽部は両袖に手を入れる。
「シュユの意思だ。彼は事を急いている。ほら、アマラが佐々木つばめの管理下に置かれてアマラと直結している電脳体である設楽道子が、ここぞとばかりに青春を謳歌しまくっているだろ? その影響で、シュユの信者に対する支配力が薄れてきたんだ。遺産同士の互換性については馬鹿みたいに繰り返して説明しているけど、遺産同士もその互換性を互いに利用し合っているんだよ。だから、この前起きた、新免工業とナユタの騒動のせいでシュユもかなり不安定になったんだ。アマラが人間の意識を統制して知的生命体を一括管理するためのツールだってことが判明しているんだけど、シュユとゴウガシャはその次のレベルを支配するものなんだ」
『そして、シュユとゴウガシャは信仰心とも言うべき人間の意識をエネルギー源にしている。彼はそれを欲している。それがなければ、立ち向かえないからだ』
高守が話を続けたが、伊織は舌を出した。
「んだよ、電波すぎ。つか、立ち向かうって何とだよ?」
「ラクシャだよ。それもまた遺産の一つでね、ついこの前まで御嬢様の首に下がっていた水晶玉の正体がそいつなんだよ。あれは無限情報記録装置で、馬鹿みたいな量の情報を記録しておくことが出来るんだ」
「それだけなら無害なんじゃねぇの?」
『それだけ、であるならばね。あれは悪意が凝固した毒物だ。故に滅ぼさなければならない』
高守はその文面を二人に見せてから、佇まいを直した。
『というわけだから、伊織君。ではなくて、弐天逸流の新たな巫女である御鈴様。手っ取り早く信者を集めるために、布教活動をしてくれないかな。その外見なら、一〇万人は軽いね』
「はぁ?」
伊織が面食らうと、羽部は尻尾の尖端を左右に振る。
「要するにアイドルだよ。ネット発のアイドルなんて、今じゃ珍しくもなんともないしね」
「ちょ、ちょっと待てよ、俺はそんなの絶対に!」
伊織は腰を上げて逃げようとするが、羽部はすかさず尻尾を伸ばして伊織の帯を掴んできた。
「逃げたら、命の保証はないよ? シュユの生体組織を摂取させていないから、クソお坊っちゃんと御嬢様の肉体の融合はいつ崩れてもおかしくないんだよ。毎日一定量の薬を与えているから、人間の形を保てているけど、投薬が途絶えたらドログチャになるのは間違いない。この僕が言うんだからね。クソお坊っちゃんも、御嬢様がスライムになるのだけは嫌でしょ? そうじゃないとは言わないでしょ?」
ねえ、と羽部に念を押され、伊織は言い淀んだ。確かにそうだ。伊織はりんねを守りたいがために単身で別荘に戻り、その挙げ句の果てに父親に倒されてしまったのだ。羽部の言葉の真偽は定かではないが、非力で体力もない現状では、弐天逸流の世話にならなければ生き延びられないだろう。それに、下手なことをしてりんねの体に傷でも付けたりしたら、取り返しが付かなくなる。伊織は吐き出したい文句をぐっと飲み下し、座り直した。
「仕方ねぇな。やってやるよ。つか、なんで俺の呼び名がオリンなんだ? それが解らねぇんだけど」
伊織が不機嫌さを顔に出しながら裾を割りながら座り、長い髪を背中に払った。
「鈴が神聖視されてんのは神道でも仏教でも変わりはねーけどさ、俺の服に鈴が付いていたことは一度もねーし。つか、俺もりんねも鈴とか関係ねーし」
「あれ、意外と学があるじゃない、クソお坊っちゃんのくせに。じゃあ、この類い希なる僕が特別に教えてあげようじゃないの。クソお坊っちゃんと御嬢様の名前をくっつけたんだよ、ただそれだけ。御鈴ってのは当て字ね」
羽部がやる気なく手を振ると、高守が文字を打ち込んだ。
『伊織君とりんねさんの名前をくっつけて、その中間を抜き取るとオリンになるんだよ。今の伊織君は、りんねさんであり伊織君であるという微妙な状態だからね。だから、御鈴様だ。当て字の理由は、伊織君が言ったことと大して変わりはないよ。鈴って付いていればなんとなくありがたみが出るし、ミステリアスな方がそれっぽいしね』
「薄っぺらくて胡散臭ぇなぁ」
伊織が毒突くと、高守はしれっと答えた。
『だって、新興宗教だからね。ある程度は胡散臭くないと、誰も引っ掛かってくれないよ』
この男も、意外に強かだ。だが、それぐらいの腹積もりでなければ新興宗教の幹部など務まらないのだろう。アイドルなんて心底興味がないし、そんなもので本当に信者を掻き集められるのだろうか、と疑わしいが、弐天逸流に生かされている身の上では文句も言えまい。それに、りんねが美しく着飾った姿を見てみたいと朧気に思っていた。中身が伊織なので仕草は粗野だが、姿形は伊織が執心した美少女であることに変わりはないからだ。
物言わぬ千手の御神体は、異形の娘を見下ろしていた。
あれから、誰も帰ってこなくなった。
美月はざらついた畳に座り込み、ただひたすらにぼんやりしていた。音がないと寂しいので、テレビを付けっぱなしにしてはいるが、立体映像の画面を視界に入れていなかった。再放送であろう何かのドラマが放映されているが、面白くもなんともないので内容はさっぱり頭に入ってこなかった。使い古された座卓に差し込んでくる障子越しの光は明るく、それだけでも暑苦しい。クーラーを効かせていても暑く、何もしていなくても汗が滲んでくる。
このまま自分はどうなってしまうのだろう。美月は寂しさのあまりに泣きそうになったが、必死に弱気を堪えていた。この家の主である母方の親戚も、美月の母親も、気付いた頃には帰宅しなくなっていた。そればかりか、居候である羽部までもが姿を消すようになった。一週間ほど前に、ガレージからはアストンマーチン・DB7と共にいずこへと去ってしまったのだ。羽部の私物も綺麗に消えていて、この家に住んでいた痕跡を消していったかのようだ。
頼れる大人は誰一人としていなくなってしまった。一人だけでも頑張ろう、ちゃんとしよう、しっかり生きていこう、とは思うが、そのために必要な現金の在処が解らない。これまでは母親の限りある貯金を切り崩して生活用品などを買い揃えていたのだが、母親本人がいなければその貯金を引き出すためのカードも通帳も一切合切使えない。美月の名義の預金口座には毎年のお年玉や毎月のお小遣いを貯めてあったが、レイガンドーの部品を買い込むためにほとんど使い切ってしまった。手持ちの現金も皆無で、このままでは光熱費すらも払えない。
「……どうしよう」
つばめに頼る、という選択肢も思い付いたが、それだけはダメだと美月は必死に自制した。どうしても辛くなったら佐々木家に居候してもいい、とつばめからは言われているが、まだその言葉に甘える段階ではないと思っていた。この程度のことで音を上げていては、もっともっと辛い目に遭っているつばめに悪いではないか。だが、現金がないのは紛れもない現実であり、冷蔵庫の中身も乏しくなってきていた。電気が止まるよりも先に、栄養失調が原因の夏バテで倒れてしまう方が早いのではないか、という不安も過ぎる。だが、しかし。
「美月」
居間の掃き出し窓越しに、レイガンドーが覗き込んできた。美月ははっとして、彼に向く。
「え、あ、何? どうしたの、レイ?」
「社長が来た」
「え?」
その言葉を耳にした途端、美月はむらむらと腹立たしさが湧いてきた。レイガンドーが社長と呼ぶ人間は、彼を開発製造した倉重機の社長であり美月の父親である、小倉貞利だけだからだ。ここは美月の母親の実家なのでその住所を知っていてもおかしくはないが、なぜ今になって顔を出すのだ。地下闘技場で美月を賭け金にしてまでもロボット賭博を張ろうとしたくせに、よくも美月に近付けたものだ。だが、頭に血が上るよりも先に、父親に甘えたい気持ちが膨れ上がってきた。意地を張って、様々な辛いことを堪えてきた反動だった。
どうする、とレイガンドーに問われ、美月は悩んだ。父親に会いたいが、会ったら何をされるのだろう。天王山工場の地下闘技場にまた連れ込まれて、今度はレイガンドーと美月を一纏めにして賭け金にするのだろうか。それとも、レイガンドーの名義を書き換えて美月の元から奪っていくのだろうか。或いは、レイガンドーを型落ちしたロボットだと廃棄処分して美月だけを引き取るつもりなのだろうか。嫌な想像ばかりが巡り、美月は唇を噛み締めた。
小一時間考えた末、美月は父親に会うことにした。レイガンドーからは無理はするなと言われたが、レイガンドーのためにも父親とは面と向かって話し合う必要があるからだ。寝起きの格好だったので、服を着替えて顔も洗って髪も整えていつものサイドテールに結んでから、美月は腹を括って外に出た。レイガンドーに促されて道路に面したガレージに近付くと、そこには巨大なコンテナを牽引しているトラックが駐まっていた。コンテナの側面には、派手なレタリングが施された文字が躍っている。
〈REIGANDOO!〉
「……え?」
美月が唖然としていると、そのトラックから降りてきた男が声を掛けた。
「おう、元気してたか!」
油染みの付いた作業着姿は以前と全く変わらないが、表情が格段に明るくなった父親、小倉貞利だった。美月が気を緩めてはいけないと身を強張らせたが、父親の大きな手で頭を撫でられると警戒心が吹き飛んでしまった。
「レイとも仲良くやっているみたいだな! どこもかしこも改造してあるとは、さすがは俺の娘だな!」
機械油と金属粉と脂っこい汗の匂いもまた、いつもの父親だった。美月は文句をぶつけたいと思ったが、父親の笑顔を目の当たりにすると何も言えなくなった。無条件で気が緩んでしまうからだ。
「母さんは?」
小倉の問いに、美月は首を横に振る。仕事に行ったまま、戻ってこなくなってしまった。
「親戚の人達は?」
その問いにも、美月は首を横に振る。知っていたら、とっくに捜しに行っている。
「だろうな」
小倉は驚きもせずに、再度美月の頭を撫でてきた。腰を曲げて目線を合わせ、美月の肩に手を添えてくる。
「俺に言いたいことが山ほどあるだろう?」
美月は嗚咽を押し殺しながら頷き、ハーフパンツを力一杯握り締める。美月の背後に膝を付いたレイガンドーは、美月と小倉を見比べていたが、自分の名前が目立つコンテナを指した。
「俺も色々と聞きたいことはあるが、社長。そのトラックは一体何なんだ?」
「興行するために作ったんだよ。コンテナの中はお前の部品と整備道具が一式、その他諸々」
小倉の言葉に、美月は困惑した。
「興行、ってどういうこと?」
「とりあえず、涼しいところで話そう。ここじゃ倒れちまいそうだ」
上がってもいいよな、と小倉が家を示すと、美月は頷き返した。衰えることを知らない暑気が立ち込めるガレージの前に突っ立っているよりも、クーラーの効いた居間に戻った方がいいのは確かである。レイガンドーにも居間の前に来るように言ってから、美月は父親と共に家に戻った。
冷蔵庫で良く冷えていた麦茶をポットごと運び、居間に戻ってくると、小倉は居間と続いている仏間に入っていた。あの怪しげな宗教の御神体やら何やらを見るのが嫌なので、閉め切ってあったため、仏間から流れ出してくる空気は濁っていた。美月が恐る恐る仏間を覗き込むと、父親はいつになく怖い顔をしていた。
「美月。お前はこいつを拝んだことはあったか?」
「ないよ。しろって言われたことはあったけど、どうしても嫌だったから」
美月が小声で言うと、小倉は見るからに安堵した。
「そうか、だったら良かった」
小倉は仏間から居間に戻ってくると、美月が用意しておいた麦茶を呷って飲み干した。すぐさまお代わりをコップに注いで半分ほど飲むと、深くため息を吐いた。美月は少しだけ麦茶を飲み、目線を彷徨わせる。
「で、その、お父さん。どうして、私にああいうことをしたの?」
「言い訳に聞こえるかもしれないが、俺は美月をあの宗教から離そうと思って、ああいうことをしたんだ。荒事にしたのも、そうすれば母さんは手を引いてくれると思っていたからだ。だが、逆効果だったようだな」
小倉は薄く結露の浮いたコップ越しに、暗い表情の一人娘を見つめる。
「母さんが弐天逸流を信じるようになったのは、ずっと前のことだ。俺と出会う前だ。母さんだけじゃなく、この家族、美作家の人間は全員が弐天逸流の信者なんだ。それに気付いていたら、俺は母さんとは一緒にならなかったかもしれないが、そうなっていたら美月とは出会えなかったんだよな」
少々複雑そうに言い、小倉は美月の横顔を眺める。
「弐天逸流は死んだ人間を生き返らせる、ってのが大命題なんだ。新興宗教としてはありがちだし、そんな与太話を真に受ける方がどうかしている。俺だって、そんなものは信じちゃいないさ。そりゃ、誰かが死んだら悲しいし、空しくなるが、だからって墓を掘り起こして生き返らせて何になるんだよ。俺は何度も母さんにそう言ったし、そんなことがあるわけがないと言ったんだが、どうしても聞き入れてくれなかったんだ。それが嫌で何度も別れようかと思ったが、美月もいたし、会社も大きくなってきていたから、そうもいかなかった」
「でも、東京にいた頃のお母さんは普通だったよ?」
「家の中ではな。だが、外に出て信者同士で会っていたんだよ。俺も何度か誘われたが、仕事があるからと言って全部突っぱねたんだ。それがいずれ美月を誘うのかと思うと、俺は怖くなったんだ」
「地下闘技場に行っていたのも、うちに帰ってきたくなかったから?」
「正直に言えば、そうだ。俺が組み上げたレイガンドーの性能を限界まで引き出せるのが気持ち良かったから、ってのもあるけどな。俺に地下闘技場の話を持ち掛けてきたのが吉岡グループの人間だってことも知っていたが、家に帰るのがどうしても耐えられなかったんだ。すまん、美月。元はと言えば、俺が母さんから逃げたのが悪いんだ」
「うん……。だけど、吉岡グループと何かあったの? 確かに、あの会社の人達は私の友達にあんまり良くないことをしているけど、それとお父さんがどういう関係があるの?」
「俺の古い友人があの会社と因縁があるんだよ。大事な預かり物もあったから、極力関わらないでいたんだ。だが、その預かり物も母さんが持ち出して、自分の弟に渡していたんだよ。金庫ごと。そいつはお前の伯父に当たる男で、その預かり物を利用してハルノネットに就職してろくでもないことをしていたらしいが、会ったことはあるか?」
ハルノネット、と聞いて美月が思い当たったのは、設楽道子だった。だが、その設楽道子を追い詰めた人間が伯父であることも知らなかったし、そもそも面識がなかったので、美月は首を横に振った。小倉は余程心配だったのか、弛緩するほど深く息を吐いた。ああ良かった、と小声で呟いてから、話を続けた。
「その預かり物がこの家にあると知ったのは、ごく最近だ。だから、すぐにでも取り戻そうと思ったんだが、俺の方も身動きが取れなくなって機会を逃したんだ」
「それもやっぱり、吉岡グループのせい?」
「広い意味ではな。ほら、少し前にハルノネットが妙な騒動を起こしただろう? それの影響で、俺が新しく起こした会社が大混乱しちまってな。で、その後片付けと再構築を終えたから、ようやくこっちに来られたんだ」
だが、遅かったみたいだな、と付け加え、小倉は眉間を押さえた。
「俺の役割は吉岡グループとその他の連中が目もくれないような位置付けで、預かり物を守ることだったんだ。だが、それすらもまともに出来なかった。どれだけ重要かってことが理解出来ていなかったからだ。最後の最後で自分のことだけを考えていたから、いつもいつもこうなっちまうんだ。だから、今度こそやり通す」
「それで、その預かり物ってどんなものなの?」
美月の問いに、小倉は指を動かして空間に小さな長方形を作った。
「これぐらいの大きさの薄いカードで、金属製で、全部で十六枚ある。そのうちの一枚は破損していて、警官ロボットの一体とレイガンドーと岩龍で分割して使用しているんだ」
「え、それってコジロウ君のこと?」
「ああ、そういえばそういう名前だったな。あの一体は」
知り合いなのか、と小倉に尋ねられ、美月は頷いた。
「うん。友達のボディーガードなの」
「佐々木の孫娘だな。……なんだよ、あいつ。ここまで来たなら、直接会っていけばいいじゃないか」
小倉は苦々しげに零してから、胡座を掻いていた足を伸ばした。
「ねえ、お父さん」
「なんだ」
「これから、どうするの」
帰られたら、心細さでどうにかなりそうだ。美月が弱々しく漏らすと、小倉は笑った。
「一晩泊めてくれ。どうせ誰も帰ってこないんだろうし、俺も長いこと運転してきて少し疲れたからな。なんだったら、夕飯は適当なのを見繕ってきてやるよ。レイガンドーの細かいメンテナンスもしてやりたいし、美月ともちゃんと話がしたい。俺も話したいことが山ほどある」
「……うん」
美月は頷くだけで精一杯で、込み上がる感情を抑えきれなくなった。一時はあんなにも恨んだのに、憎んだのに、こうして傍にいてくれるだけで刺々しい気持ちが消えてしまった。もっと父親と一緒にいたい、色んな話をしたい、と願って止まなかった。父親も似たような心境なのだろう、泣き笑いのような顔で美月の頭を撫でてきてくれた。その仕草は幼かった頃となんら変わらず、胸の奥がじんわりと熱してきた。
それから美月は、思い当たる限りの話をした。庭先にいるレイガンドーも交えて、一ヶ谷市に来てからの出来事を話した。学校のこと、日常のこと、つばめのこと、レイガンドーのこと、羽部のことも話した。小倉も美月と別れてからのことを話してくれた。経営していた工場の従業員を全員転職させ、新しい会社を立ち上げたのだそうだ。その会社はロボット同士の格闘技を専門に扱う企業で、アンダーグラウンドな娯楽であるロボット格闘技を表舞台で通用する娯楽に仕上げるために全国各地を飛び回っていたこと、なども。
夜通し話し込み、いつしか夜中になった。布団に潜り込んで寝付こうとしても、寝苦しさと高揚の余韻でなかなか眠気が訪れなかった。美月は何度も寝返りを打った末、居間で布団を敷いて寝ている父親の元に行った。それだけで神経が落ち着き、すんなりと寝付くことが出来た。寝入りながら、少しだけ泣いた。
悪い夢は見なかった。
翌朝、目覚めると、父親は傍にいなかった。
まさか夜中に出ていったのではないかと美月が慌てると、台所で人の気配と物音がした。急いで駆け込むと、父親は不慣れな手付きで朝食の支度をしていた。冷蔵庫の中身は空っぽだったのでは、と訝るが、ダイニングテーブルに散らかっている食材に混じっているレシートに印刷されている時刻は夜明け前だった。恐らく、美月が起きる前に二十四時間営業をしているスーパーマーケットに買い出しに行ってきたのだろう。
「なんか、拙いことをしたか?」
美月が余程不安げな顔をしていたからだろう、小倉は若干気まずげに呟いた。美月は首を横に振ってから、得も言われぬ暖かな気持ちを持て余しながら、洗面台に向かった。顔を洗って髪を整えながら、次第に緩んでくる頬を押さえた。誰かが家にいてくれるだけでこんなにも安心出来るなんて、久しく忘れていた感覚だ。東京にいた頃は、父親が台所に立つことなんて考えられなかった。料理の出来映えは期待出来ないが、美月のために作ってくれるということだけで嬉しくてたまらない。
台所に戻ると、案の定不格好な朝食が出来上がっていた。火が強すぎたのか白身は焦げているのに黄身の表面は生のままの目玉焼きに、焼き色が濃すぎて歯応えが抜群のベーコンに、いい加減に千切ったレタスと切り口がぐちゃぐちゃのトマト、キツネ色を通り越してタヌキ色に近いトースト、という有様だった。それでも父親なりに努力したのは解っているので、美月は文句を言うよりも先に笑ってしまった。小倉はかなり照れ臭そうではあったが、美月と共に食卓を囲んだ。見た目通りの味だったが、味覚とは別の感覚がとても満たされた。
「へえ、こりゃ凄いな。基礎からちゃんと勉強すれば、もっと過激なセッティングの機体も作れるな」
食後に洗い物をした後、美月が書いたレイガンドーの設計図を見せると、小倉は素直に褒めてくれた。それだけで報われたような気がして、美月は顔が緩んで仕方なかった。細々としたダメ出しはされたが、それは今後に改良を加えていけば取り戻せるミスだと言われた。
「俺の仕事を見ていたんだな。こんなこと、教えてもいないのに」
しみじみと漏らした小倉に、美月は照れた。
「だって、私、レイが好きだから」
台所の窓越しに、そのレイガンドーと目が合った。彼なりに親子の再会を喜んでいるらしく、昨日からガレージにも戻らずに美月の視界に入る位置にいるのだ。
「これからどうする、美月」
小倉は美月の設計図を折り畳むと、美月の前に差し出してきた。
「この家にいたいんだったら、まとまった額の金を置いていってやるよ。レイガンドーの改造がしやすいように部品も回してやるし、俺もたまに様子を見に来る。母さんが帰ってくるのを待つつもりでいるなら、そうしてもいい」
「お父さんは、ここにいてくれないの」
「俺はここにはいられない。俺の家じゃないし、この土地はあまり良くないからな」
「じゃあ、私はお父さんと一緒に行く。レイも一緒に連れていく」
「学校はどうする。今は夏休みだからいいかもしれないが、その後は」
「いいの。私はここには馴染めないみたいだし、友達はつっぴーしかいないから」
「……そうか」
小倉は一呼吸置いた後、笑顔を見せた。
「だったら、すぐに支度をしてこい。長旅になる、レイガンドーの全国興行を兼ねた営業だからな。ついでに地方のプロレス団体も手当たり次第に見るぞ、今後の参考にするためだ!」
「レイもそれでいいよね?」
美月は台所の窓越しに問うと、レイガンドーは親指を立ててみせた。
「無粋な質問だな。この俺がマスターの命令に逆らうとでも?」
今、外の世界に行かなければ一生後悔する。美月は母親がこの家に戻ってくるのでは、という淡い期待を心の隅に抱いてはいたが、何日待っても戻ってこないのだから期待するだけ無駄だと開き直った。二階に上がって自室として宛がわれた部屋に入り、数少ない服と下着と共に夏休みの宿題をスポーツバッグに詰め込んだ。階段を下りる前に一度、羽部の部屋のふすまを開けてみた。なぜ、彼は急に姿を消したのだろう。どこに行ったのだろう。二度と会えないのだろうか。そう思うと、美月は少しだけ切なくなった。
羽部が帰ってきた時にも誰もいなかったら寂しすぎるので、美月は手近なメモ用紙に書き置きを残してから、一階に降りた。小倉はガレージに詰め込んである部品や工具をコンテナに運び入れていて、レイガンドーもコンテナの中を覗き込んでビンディングの具合を確かめていた。美月はトラックの助手席に荷物を投げ入れた後、一度、住人が一人もいなくなった家を仰ぎ見た。けれど、今度は何も感じなかった。
そして、トラックは発進した。
右足の銃創が燃えるように熱い。
負傷したばかりなのにかなり無理をしたから、傷口が広がってしまったのだ。抗生物質と炎症止めと化膿止めと、その他諸々を混ぜ込まれた点滴を受けながら、周防国彦は顔の左半分を覆っている包帯に軽く触れた。この布を剥がせるようになったとしても、自分の顔は元には戻らないだろう。左目は潰れていたので眼球を摘出されているし、頬の切り傷は骨まで達していたからだ。整形手術を繰り返したとしても皮膚が引きつってしまうだろうし、表情筋が切れているのでこれまでのような表情は出せないはずだ。
だが、それも仕方ないことだ。政府を裏切って、内通していた新免工業も裏切ったのだから、命を繋げただけでも御の字だ。ベッドに横たわって発熱と疲労で膨張したかのような脳をやり過ごしながら、周防は笑い声を漏らした。自分が可笑しくてたまらないからだ。職務に対して実直に、正義感の赴くままに生きてきたというのに、こんなことで人生を踏み外してしまうとは思ってもみなかった。自分の劣情の歪み方を思い知ると、腹の底がむず痒くなってきてしまう。それでも否定出来ないのは、その歪み方すらも気持ちいいと感じているからだ。
「失礼いたします。御加減はいかがですか?」
ドアをノックした後に入ってきたのは、スーツ姿の備前美野里だった。その襟元には、かつては吉岡りんねが身に付けていた水晶のペンダントが下がっている。周防は上体を起こしたが、目眩を感じて寝直した。
「いや、まだまだだ。手間を掛けさせてすまん」
「お気になさらず。国彦さんは貴重な人材ですから、本調子に戻るまではごゆっくりなさって下さい」
かつての吉岡りんねと同じ口調で語りながら、備前美野里はベッドサイドの椅子に腰掛けた。
「あのサイボーグの若造はどうした?」
周防が尋ねると、美野里は緩やかな仕草で長い髪を掻き上げた。それもまた、りんねと同じだった。
「克二さんでしたら、機体の修復とアップグレードのために別の拠点にお運びいたしました」
「俺はともかくとして、あいつまで雇う理由が見えないんだが」
「克二さんは価値観と人格に大いに問題がございますが、その分、武器としての切れ味が抜群なのです。自分以外の人間を全て虚仮にしていますから、誰に対して引き金を引くことにも躊躇もいたしませんし、目先の快楽のためであれば如何なる犯罪も厭いません。工作員としては打って付けではありませんか」
「随分とあいつを買い被っているが、だったら俺はどうなんだ?」
「国彦さんは執着心こそが最大の武器です。それがなければ、私はあなたに目を留めることなどなかったでしょう。世の中には様々な性癖が存在していますし、人間の数だけ性癖があると言っても過言ではありませんが、国彦さんのそれは実に興味深いです。私が命じる仕事を大義名分にして、存分にあの方を追いかけ回して下さい」
美野里の微笑みは隙のない美しさを湛えていたが、それ故に真意は窺えなかった。
「……言ってくれるな」
周防が傷の少ない右頬を引きつらせると、美野里はストッキングに包まれた長い足を組んだ。
「ですが、好いておられるのでしょう?」
女性と男性の間を行き来している一乗寺昇を、と美野里に囁かれ、周防は心臓が疼いた。そうだ。だから、周防は一乗寺にどうしようもなく惹かれている。屈託のない笑顔で大量殺人を行う様は、無邪気な幼子が虫を嬲り殺しにする様と同じ背徳感がある。船島集落の分校で対峙した時は、一乗寺は殺す相手をそれなりに選んでいると言っていたが、選考基準が解らなければ、それはやはり無差別大量殺人なのだ。長らく、人を守るため、社会を守るために周防は戦い続けてきたが、それの対極に位置する一乗寺はある意味では清々しい。
「参考資料として、こちらをお渡ししておきます」
そう言って美野里がベッドサイドに置いたのは、デジタルフォトフレームだった。その画面から投影された立体映像に写っていたのは、かつての一乗寺昇だった。十数年前のものだろう、地味なセーラー服に袖を通している、れっきとした女子生徒だった。セミロングよりも少し長めの栗色の髪をシュシュで結び、明るい笑顔を振りまいている。その隣にいるのは弟らしき少年だったが、顔色がひどく悪い上に車椅子に載っていた。病弱なのだろう。
「お前は一体何者なんだ?」
一乗寺が少女だった頃の立体映像から目を外した周防は、部屋を出ていこうとする美野里の背に問うた。
「私はあなたと変わりはありませんよ、国彦さん。愛して止まない人を求めているだけです」
では失礼いたします、と美野里は一礼してから、部屋を後にした。ドアが閉まると同時にオートロックで施錠されたらしく、がしゃりと錠が閉まる音が聞こえた。事実上の軟禁ではあるが、身動きが取れないのだから、それに文句を言えるような立場ではない。それ以前に、ここはどこなのだろう。
ナユタの暴走によって沈没寸前となった大型客船から命からがら逃亡した周防は、手足を外された鬼無を乗せてモーターボートをひたすら走らせた。右も左も解らない夜の海をひたすらに進み、海岸に辿り着くと、備前美野里が待ち構えていた。これは佐々木つばめ側の罠だったのかと身構えたが、備前美野里は水晶のペンダントを襟元に下げていて、別人の表情と口調で話し出した。それは吉岡りんねそのものであり、周防とりんねしか知らない情報を口にし、りんねから美野里に肉体を乗り換えたのだとも言った。半信半疑ではあったが、周防は死にかけていたも同然だったので美野里に頼る他はなかった。その後、車両によって輸送される最中に意識を失い、目覚めた時にはこのベッドで治療を受けていたというわけである。
レースカーテンの掛かった窓の外に見える景色は、周防の記憶にはないものだった。一ヶ谷市でもなければ都心でもないので、全く別の土地なのかもしれない。だが、ここがどこなのかはどうでもいい。周防が思いのままに生きるためには、美野里の体を操っている何者かの助力が必要なのだから。自分を偽る必要がないというだけで、周防は活力さえ湧いてきた。遺産絡みの争いが収束した暁には、思いの丈を遂げよう。
そのためにも、生き延びなければ。
久し振りに目にした我が家は、無性に懐かしかった。
ようやく帰宅したつばめは玄関に荷物を放り投げて、上がり框に座り込んで両手足を投げ出した。体の隅々まで疲れ果てていて、車の揺れが骨の髄まで染み付いている。スニーカーを脱いでからぼんやりしていると、久しく耳にしていなかったセミの声が聞こえてきた。風防室があるために二重に引き戸が付いている玄関から見える山並みは相変わらずで、平穏極まりない。この二週間少々の日々は正に怒濤だったので、涙が出るほど安堵した。
「あー……。気が抜けるぅ……」
つばめがしみじみと漏らすと、大荷物を抱えて戻ってきた道子が笑顔を見せた。
「ですねー。上陸許可が下りてからも、取り調べやら何やらで更に一週間も拘束されちゃいましたからねぇ」
「で、結局、道子さんはそのボディを買い上げたの?」
つばめが指差すと、道子はサイバーパンクなメイド服を着た女性型アンドロイドのボ
ディで一回転した。
「結構具合がいいんですよ、このボディ! 生命維持装置が大部分を占めているサイボーグボディと違って機械部品だけで出来ているので、電脳体とも馴染みやすいんです! それに何よりも、見た目が可愛いですからね!」
「借りパクじゃねぇの、それ」
政府の宿泊施設に滞在中に増えた私物を抱えた寺坂が指摘すると、道子はむくれた。
「いいんです! 新免工業にはちゃんと代金を払いましたし、所有者の名義もつばめちゃんに変更しましたし!」
「その金ってどこから出したんだよ。最近のアンドロイドの値段は馬鹿にならねぇぞ」
比較的荷物の少ない武蔵野に突っ込まれると、道子は笑顔を保ちながら小首を傾げた。
「そりゃもちろん、スポンサーさんですって。えへっ」
「……え?」
つばめが面食らうと、道子は両手を胸の前で組んで身を捩った。
「だってだって、つばめちゃんホットラインとかコジロウ君ネットワークとかも整備しましたし、遺産絡みの情報管理とセキュリティの一切合切は担っていますし、それぐらいのボーナスを頂いてもいいじゃないですかー!」
「で、いくらするの、このアンドロイド」
つばめが渋い顔をしながら道子を指すと、包帯の取れた額を押さえながら武蔵野が言った。
「そうだなぁ、ざっと三〇〇万はするな。余計な機能を付けていれば更に一〇〇万は上乗せされるが、ただの船内活動用のメイドロボなら、それぐらいの値段で済む。まあ、この手の外見重視のロボットはセレブ向けのおもちゃとして販売している商品だから、ちょっとオプションパーツを付ければセクサロイドにもなる仕様だから、内骨格がチタン合金とカーボンで出来ていて体重が軽めになっているんだが、その分割高なんだ。人工外皮の下にも余計なシリコンが山ほど使ってあるから、そのせいで余計に値が張っちまうんだ」
「なんでそんなに詳しいんだよ、むっさんは」
セクサロイドとか好きなの、と寺坂に茶化され、武蔵野は言い返した。
「そんなわけがあるか! 仕事で何度か使ったんだよ、囮にな! この手のロボットはスパイ経験のある娼婦よりも余程信用出来るし、自爆させても気が咎めないからだ!」
「返品は……出来ないよなぁ」
つばめは一足先に居間に上がってはしゃいでいる道子を見、眉を下げた。道子は余程気に入っているのか、少女のようにはしゃぎながら荷物を解いている。その中身は女性型アンドロイド専用の衣装やオプションパーツばかりで、それらを購入した財源も全てつばめの懐だろう。今現在、つばめの複数ある預金口座にはどれほどの現金が溜まっているのか把握し切れていないが、三〇〇万円と少々が安い買い物ではないのは確かである。
これからは、道子だけではなく武蔵野の給料も支払わなければならないし、佐々木家の住民が一人増えたことで生活費もそれ相応に増える。全体を通してみれば微々たるものだろうが、吝嗇家の気があるつばめにとっては懐の痛い話である。預金額という分母がどれほど大きくなろうと、出費が増えるのは嫌なのだ。本能的に。
「よし決めた、道子さんの給料からアンドロイドとそのオプションの代金を天引きする!」
つばめが宣言すると、道子が動作を一時停止した。少々の間の後、泣きそうな顔を作った。
「でっ、ですよねー! つばめちゃんですもんねー!」
「締めるところは締めておかないと後で苦労するのは自分だからね。そうだ、武蔵野さんの部屋を決めておかないと。部屋数だけは無駄に多いから、どこでもいいっちゃいいんだけど」
つばめが上がり框に腰掛けている武蔵野に向くと、武蔵野はジャングルブーツを足から引っこ抜いた。
「ああ、そうだな。適当にやっておいてくれ」
「なあ、こいつはどうする?」
そう言いながら寺坂が背負ってきたのは、熟睡している一乗寺昇だった。但し、その顔付きは丸みを帯び、首から肩に掛けてのラインも柔らかくなっている。日を追うごとに一乗寺の肉体は女性化が顕著になっていて、体形が変化した当日は胸と尻が付いただけのようなものだったのだが、今となっては完全な女性に変貌していた。睫毛も長いし、顎も細いし、指先もすらりとしているし、寺坂が抱えている太股にもまろやかな脂肪が付いている。
「いくら先生でも、今、一人にするのはなぁ……」
荒れ放題の分校に帰すのは心配だし、目を離すべきではないと思う。つばめが逡巡すると、道子も頷く。
「そうですよねぇ。曲がりなりにも女性なんですから、丁重に扱いませんと」
「だが、元々は男だろ?」
武蔵野が半笑いになると、寺坂は起きる気配すらない一乗寺を見やった。
「そうなんだよなぁ。そう思うと、俺の背中にべっとり貼り付いている生乳にも色気を感じねぇんだな、これが」
「とりあえず、御布団を敷いてあげなきゃね」
つばめが寺坂を室内に促すと、敷いてきますー、と道子が早々に動いてくれた。居間と仏間を繋げている和間に道子が来客用の布団を敷いてくれたので、寺坂は触手を用いて一乗寺を転がした。布団に寝かされた一乗寺は瞼を開く様子もなく、ただひたすらに惰眠を貪っている。肉体が激しく変化した影響で体力の消耗も激しいのだろうが、それにしても寝過ぎである。起きていたのは食事時と身体検査の時ぐらいなもので、政府から事情聴取をされる時は半分寝ながら答えていたほどだ。だが、何人もの専門家にどれほど検査されても、一乗寺の肉体に起きた変化を解明出来ず、原因不明、としか説明されなかった。当の本人から聞こうにも、その一乗寺は眠ってばかりなので答えてくれそうにもないし、そもそも本人が事態をきちんと理解しているかも怪しい。
「あ、そうだ、お姉ちゃんは?」
いつもなら、美野里が真っ先に出迎えてくれるはずなのに。つばめは美野里の部屋に急いだが、美野里の部屋は雑然としたままだった。法律関係の分厚い本が詰め込まれた本棚に万年床も同然の布団、アイロン掛けはしてあるが整理されていないブラウスとスーツ、ノートパソコン、ファッション雑誌の束。長い間閉め切っていたのだろう、部屋の中の空気は籠もっていた。パソコンデスクに折り畳まれたメモ用紙を見つけ、つばめはそれを開いた。
〈つばめちゃんへ、ちょっと出掛けてきます。 美野里〉
紛れもなく美野里の字だったが、つばめはその意味がすぐに理解出来なかった。まだ使い慣れていない携帯電話で美野里に電話を掛けてみたが、何度掛け直しても美野里の携帯電話に繋がらなかった。圏外、或いは電源が切られている、とのアナウンスが繰り返されるだけだった。
「これ、どういうこと?」
一体どこへ。何をするために。つばめは不安と疑問に駆られ、どうせすぐに帰ってくるよね、と思い直そうとした。だが、二週間もの間が空いていたのだから、その間に用事を済ませて先に帰ってきていてもいいはずだ。長く留守にするならば、つばめの携帯電話に電話かメールが届いているはずだ。けれど、そのどちらもない。もしかすると、美野里の身も危険が及んでいるのではないだろうか。一度考え出すと、実体験に基づいた嫌な想像が次から次へと溢れ出し、つばめはいてもたってもいられなくなった。
美野里のメモを握り締めたつばめが皆の元に駆け戻り、美野里がいなくなったことを説明すると、意外にも寺坂が最も冷静だった。しつこいぐらいに美野里に好意を示していたのに、美野里の行動を予期していたかのように平然としていた。道子は笑顔を保ちながら、つばめを慰めてくれた。寺坂達と同じように新免工業に襲われた末に誘拐されたのではないか、とつばめが武蔵野に詰め寄るが、武蔵野は訝しげだった。
「備前美野里と小倉美月の奇襲は中止させたし、確実に撤退させたんだがな。独断専行したのかもしれんが、だとしても、あいつらはそう簡単にやられるような連中じゃない。俺達が備前美野里を狙ったのは、あの女が事務所で仕事をしている最中だったから、出掛けてくると書いたメモを残すためには、一度帰宅する必要がある。メールの類じゃないし、手書きだからな。となると、あの女が俺の部下を何らかの方法で全滅させた後、一旦帰宅し、そのメモを書いてから出掛けたと判断すべきだな。備前美野里の私物はなくなっているのか?」
「ううん、全然。そのままだった」
「だとすれば、厄介だな。何も持たずにふらっと出向いても問題がないほど、行き先に準備が整えてあったってことだからな。あの女の背後関係も洗い直さないといかんな、こりゃ」
武蔵野はつばめを一瞥した後、寺坂に向いた。
「お前は何か知っているんだな、寺坂」
「ま、ちょっとだけな」
寺坂は包帯で縛られた右手の指を曲げ、小さな隙間を作った。
「けどな、つばめ。みのりんがどうなっていようと、何をしていようと、みのりんがお前を好きであることには嘘はないんだ。だから、みのりんが帰ってきたら、いつも通りに出迎えてやってくれ」
とにかく信じてやってくれ、と寺坂はつばめの頭を軽く叩き、かかとを履き潰したスニーカーを引っ掛けて玄関先に出ていった。政府から借りたワゴン車を移動させ、車庫に入れるためだ。武蔵野は余計なことをあまり言わない性分なので、つばめを慰めもしなければ煽りもしなかった。道子は少しばかり所在をなくしていたが、埃だらけの家を綺麗にするべく掃除を始めた。つばめは事態が飲み込めず、その場に座り込むだけだった。
聞き慣れた駆動音が近付き、スキール音と共に土埃が舞い上がった。つばめが目を上げると、長距離を自力で移動してきたコジロウが、脚部のタイヤを収納した後に蒸気と共に廃熱を行った。コジロウは廃熱によってほのかに陽炎を纏いながら、逆光の中、つばめに近付いてきた。二週間の中でオーバーホールを行い、人工知能とムリョウ以外の部品は全て交換したため、赤いゴーグルには傷一つなかった。片翼のステッカーは丁寧に剥がされた後に全く同じ位置に貼り直され、コーティング剤に覆われてエナメルのように光り輝いている。
「コジロウ、あのね。お姉ちゃんが、いなくなっちゃったの」
コジロウが玄関に上がってきたので、つばめはメモを広げると、コジロウは平坦に答えた。
「非常事態だと認識する」
「お姉ちゃんのこと、探した方がいいかな?」
「その判断はつばめに委ねる」
コジロウの落ち着いた語気に、つばめは不安に掻き混ぜられた心中が次第に落ち着いてきた。きっと、美野里にも事情があるのだろう。美野里はつばめと共に生きてきたが、つばめは美野里の人生を一から十まで把握しているわけではないし、つばめも美野里には秘密にしていることが一つや二つある。姉に言いたくないことだってあるし、言えないこともある。仲が良いからといって、何もかも曝すわけではないからだ。
だから、美野里の帰りを待つことにしよう。そう判断したつばめは、コジロウや皆にそう伝えた。大人達はつばめの判断を受け止めてくれ、美野里のことも受け止めてくれた。美野里の事情を知っているらしい寺坂も、それがいい、と言ってくれた。どんな事情があるにせよ、美野里自身が打ち明けてくれる時を待つべきだ。べたべたに執着することばかりが好意ではないし、その逆も然りだ。美野里がいつ帰ってきてもいいように、家を綺麗にしてから、夕食の支度をしよう。溜まりに溜まった宿題にも手を付けなければ、夏休みも終わってしまう。
まずは日常を取り戻さなければ。
銜えタバコを外し、灰皿代わりの空き缶にねじ込んだ。
柳田小夜子は首に巻いていたタオルで額と首筋の汗を拭ってから、取り外したばかりのコンピューターボックスをコンクリートの床に置いた。その背後には、単眼状のスコープアイを熱線で焼き切られて機能停止した人型重機、岩龍が頭を垂れていた。吉岡りんねの別荘で破損し、機能停止していた彼を起動して移動させてくれた張本人は小夜子の作業を手伝おうとはせずに、遠い目をしていた。表情が乏しい男だ。
「なあ」
小夜子は紫煙が残る吐息を漏らしてから、作業着姿の男の背を見下ろした。
「会いに行けばいいじゃん。てか、顔を見せただけでどうにかなるもんでもないだろ? 現に、岩龍だってあの土地から引き摺り出せたんだ。だから、娘に会っても大丈夫だと思うぜ?」
「生憎だが、今、あの子に会ったら俺の心が折れちまう。もう一踏ん張り、しなきゃならないからな」
男、佐々木長孝は立ち上がり、スクラップも同然の岩龍を見上げた。
「まずは岩龍を修理してセッティングし直す。手伝ってくれ、柳田」
「充分手伝ってんだろーが。まあ、別にいいけどな。あんたが造ったロボットをいじらせてもらうんだったら、金なんていらねぇよ。血が騒ぐなぁー!」
小夜子が笑いを噛み殺すと、佐々木長孝は苦笑気味に頬を持ち上げた。実際、その通りだからだ。小夜子は彼の作るロボットに心酔して技師を目指していたが紆余曲折を経て公務員となり、長らくロボットへの情熱を持て余していたのだが、小倉重機で警官ロボットを量産する計画の際に実力を認められて今に至る。そして、今、遺産絡みの事件を通じ、地下闘技場で無敗を誇ったロボット、岩龍のオーナーである佐々木長孝に接することが出来た。
これが楽しくないわけがない。初恋に胸を焦がす少女のように浮かれながら、小夜子は佐々木長孝のパソコンからダウンロードした岩龍の設計図をホログラフィーに展開し、凝視した。地下闘技場で夜な夜なレイガンドーと火花を散らしていた頃は、人間型の人型重機を改造したボディだったが、吉岡りんねが岩龍に与えた人型重機を改造して活用するようだった。設計図を見ているだけでも高揚してきて、改造に改造を重ねられた岩龍が動き回る日が待ち遠しくてたまらなくなった。小夜子はタバコのフィルターを噛み、内心で身悶えた。
一ヶ谷市の市街地から離れた廃工場には、立派な工房が出来上がっていた。一ヶ谷市内の商店街の電気屋に転がり込んで生活する傍ら、小夜子が指示をしてせっせと資材と機材を搬入させたのだ。それもこれも、秘密裏に内閣情報調査室に連絡を取ってきた佐々木長孝の要求に応えるためだ。もちろん、ただではない。佐々木長孝にはありったけの遺産の情報を開示してもらい、岩龍に使用したテクノロジーも同様だ。佐々木家の内情は政府側も常々知りたがっていたので、旨味のある取引だった。おかげで、遺産関連の捜査もかなり進展する。
「小倉貞利に預けたブツが美作彰に盗まれた上に遺産の技術と情報が漏れたのは、タカさんの計算か?」
設計図から目を離さずに小夜子が言うと、佐々木長孝は短く答えた。
「ああ」
「けど、なんで? あたしなら、凄い技術を一人で独占していいように扱うけどな」
「どれだけ優れた技術でも、それを受け入れ、使いこなせる地盤が出来上がっていないと無意味だからだ」
「だから、先に畑を耕しておいたってわけか。なるほど、筋が通っているぜ」
佐々木長孝の言葉に、小夜子は口角を思い切り吊り上げた。小倉貞利の脇が甘すぎたせいで、ハルノネットに流出したアマラを含めた遺産の技術により、不特定多数の人間は犠牲になっている。その上、佐々木長孝の管理が不充分だったがために、彼の愛娘である佐々木つばめが最も犠牲になっている。それなのに、表情一つ変えずに我が道を突き進んでいる。小夜子は笑みを収め、設計図越しに彼を見据えた。
どこにでもいる、不器用な父親だった。




