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機動駐在コジロウ  作者: あるてみす
 

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31/69

案ずるよりもウォーズが易し

 長旅の末、ヘリコプターが降り立ったのは洋上のヘリポートだった。

 それは、大型客船の屋上だった。つばめは乗り物酔いでふらつきながらも床を踏み、ローターが巻き起こす暴風でツインテールが千切られそうになりながらも、辺りを見回した。ヘリの窓から見下ろした時も大きいと思ったが、その上に乗ると更に大きさを実感する。全長は二〇〇メートル以上はあり、客室と思しき窓もずらりと何列も並び、一千人以上の乗客を乗せて大海原をクルージング出来るだろう。だが、つばめが豪華なクルージングに招かれたわけではないことは承知している。その証拠に、つばめの周囲を武装した戦闘員達が固めていた。

「銃を下げろ。大事な客だ」

 つばめに続いて下りてきた武蔵野が指示をすると、戦闘員達は自動小銃を下げて後退した。つばめは武蔵野から距離を置こうと身を引こうとするも、武蔵野はつばめの肩に軽く手を添えて促してきた。皮の厚い手だった。

「風が強いからな、お前なんか吹っ飛ばされちまうぞ」

「コジロウは!?」

 つばめはその手を振り払ってから、風音に負けない声量で叫んだ。武蔵野はつばめに振り払われた手を見、若干残念そうにしていたが、答えてくれた。

「別のヘリで輸送済みだ。あの生臭坊主と電脳女と、不良教師もだ」

「だったら、コジロウの傍に行かせてよ!」

「それは用事を済ませてからだ。まずはうちの社長に会って話をしてくれ」

「そんなの聞いてないよ!」

「別に何もしやしない。ただ、話をしてほしいだけだ」

 武蔵野は腰を曲げ、目線を合わせてきた。その口振りは少々困り気味で、つばめは僅かながら気が引けてきた。だが、こんな男に気を許していいものか。少し前であれば、武蔵野のことも頭ごなしに否定していたのだろうが、迷うようになってしまった。それもこれも、武蔵野が母親のことを口にするからだ。

 この男はつばめの母親を知っているのだろうか。いつ、どこで、何のためにつばめの母親と出会ったのだろうか。母親とどんな言葉を交わし、表情を交わしたのだろうか。母親の行方を知っているのだろうか。母親とどんな約束を契っていたのだろうか。つばめとこの男は、本当に他人同士なのだろうか。或いは、つばめの気を惹くために母親と知り合いであるかのような嘘を吐いたのかもしれない。

 期待と懸念と歓喜と疑念が絡み合い、ねじれて、つばめの心中を渦巻いていた。車とヘリコプターでの移動中に、聞き出そうかと思った。だが、どうしても口に出来なかった。武蔵野が母親のことを口にしたのはあれが一度きりで、それ以降は必要最低限のことしか喋らなかった。つばめが喋りたがらなかったから、というのもあるが。

 屋上のヘリポートから階段で下ると、客船の女性職員が現れて、御客様を客室に御案内いたします、とつばめを促してきた。一抹の不安に駆られたつばめが一度武蔵野に振り返ると、武蔵野は、大丈夫だから行ってこい、不安だったらドアは俺が固めておく、と言ってくれた。つばめはその親切さが少々不気味だと思ったが、コジロウが傍にいないのであれば頼る相手は武蔵野しかいないと判断し、彼の言葉に甘えておくことにした。

 案内された部屋は、煌びやかなスイートルームだった。屋上の真下のワンフロアをぶち抜いた大部屋で、リビングだけでも三十畳はありそうだった。続き部屋の寝室もまた広く、バスルームはサウナ付きだった。ハルノネットの時といい、今回といい、つばめは世間では冷遇される一方で、こういった時には厚遇される立場にあるらしい。

「社長が御用意なさったお召し物がクローゼットにございますので、お好きなものをお選び下さい。美容師もおりますので、御用があればお申し付け下さい。何かありましたら、なんなりとお知らせ下さい」

 それでは失礼いたします、と紺のベストにパンツスーツを着た女性職員は、深々と一礼してからスイートルームを後にした。つばめは反射的に返礼してから、ベランダの外にある丸いプールに気付いた。

「ひょっとして、あれってジャグジーってやつ?」

「そうだ。だが、裸で入るなよ、他の連中が見張っている」

 武蔵野が律儀に答えてくれたので、つばめは言い返した。

「お風呂になんか入るわけないじゃん、この非常時に」

「だが、シャワーぐらいは浴びた方がいいと思うぞ。お前もその方が気分が晴れるだろう」

「晴れるわけないじゃん」

 コジロウが傍にいないし、皆が拘束されているのだから。つばめが顔を背けると、武蔵野は筋肉に覆われた骨太な肩を竦めた。つばめの機嫌を取ろうとしているようだが、上手くいかないのだ。だが、つばめからすれば、機嫌を取られるだけ不機嫌になる一方だ。状況は最悪なのだから、お姫様のような待遇を受けたところで喜ぶわけがない。つばめは自分が賢い方だとは思っていないが、そこまで馬鹿ではないからだ。

「で、外に出ていかないの?」

 つばめが目を据わらせると、武蔵野はリビングの広さに見合う大きなソファーに腰掛けた。

「気が変わった。お前みたいな跳ねっ返りから目を離すと、この部屋がどうなるか解らん」

「じゃ、丁度良いから教えてよ。先生達は、今、どうなっているの?」

 つばめが向かい側のソファーに腰掛け、尋ねると、武蔵野は躊躇った。

「あまり聞かん方がいいと思うぞ。鬼無の奴が、無茶苦茶やりやがったからな。あの野郎、無傷で捕らえてこいって命令したのにことごとく無視しやがって。後で手足をバラしてやる」

「皆のこと、そんなにひどい目に遭わせたんだ」

「だが、どいつもこいつも死んでねぇから安心しろ。男共もそうだが、道子は物理的には不死身だしな」

「この際だから聞くけど、道子さんが私の方に来たことになんとも思ってないの? ほら、裏切ったことになるし」

 つばめはテーブルに用意されていたウェルカムフルーツに手を付けようとしたが、考え直して手を引いた。武蔵野や他の面々がつばめを丁重に扱うのは、飲食物に毒か薬を仕込んでいるからではないのか、と。

「毒も何もねぇよ、安心しろ。俺達はそこまであくどくない」

 そんなに気になるなら俺が先に喰ってやる、と武蔵野はバナナを一本取ると、ナイフでそれを半分に切ってつばめに投げ渡してきた。武蔵野が先に食べる様を目にしたつばめは、躊躇いは残っていたが、乗り物酔いが落ち着いてきたので空腹を覚えていた。程良く熟したバナナの皮を剥き、囓ると、柔らかな歯応えと甘みが口に広がった。

「……おいしい」

「来客用だからな」

 つばめの率直な感想に、武蔵野は色気のない返事をした。他も喰うか、と問われたので、つばめは桃を指した。武蔵野はナイフと共にウェルカムフルーツの器に添えられていた小皿を取ると、その上で桃を切り分けた。職業が職業だからか、ナイフの扱いは手慣れている。程なくして桃が六つに切り分けられ、三切れずつを分け合った。

「さっきの質問の答えだが」

 武蔵野は瑞々しい白桃を食べつつ、言った。悩ましささえある甘い香りが立ち込める。

「俺は道子がお前の方に付いたことに関しては、なんとも思っちゃいない。むしろ、あいつが収まるところに収まってくれてほっとしているぐらいだ。お嬢の部下だった頃の道子は本来の道子じゃなかったし、あの妄想狂の男の人形だったから、色々と不自然だったんだ。だが、今の道子はそうじゃない。生身の肉体は完全に失っちまったが、ありのままに生きている。だから、それでいいんだ」

「なんか、意外だな」

 上品な細いフォークを使って切り分けられた白桃を食べてから、つばめは呟いた。

「吉岡りんねの部下は派遣社員みたいなものだってことは知っていたけど、その割にドライじゃないんだなって」

「それは俺だけだ。連中に仲間意識みたいなものを感じていたのは、俺一人だ。それをお嬢に突っ込まれて散々に言われたこともあるが、俺としては悪いことじゃないと思っている。方向性は違えど、同じ目的を持って行動している以上は連帯感を持つべきだ。そうすれば部隊全体の実力を底上げ出来るし、連携出来るしな。だが、お嬢はそういうのが大嫌いみたいでな。まあ、あの性格だからな」

「じゃあ、吉岡りんねのことも、嫌いじゃないの?」

「嫌いだと思えるほど、感情を抱けるような女じゃねぇよ。感情ってのは、打てば響くものだからな。だがな、お嬢はそれがいくら打ってもまるで響いてこないんだ。お嬢に好かれようとしても、空回りして馬鹿を見るだけだ。それに、お嬢が俺達部下の中の誰かに特別な感情を抱いたら、それはそれで仕事に支障を来すからこれで良かったんだ。そういうお前はどうなんだ、つばめ。お嬢に対して、何か感じているのか?」

 武蔵野から問い返され、つばめは白桃を平らげてフォークを横たえた。

「私のことを目の敵にしているから、嫌い。コジロウや皆を奪おうとするし、傷付けてくるから嫌い。遺産を狙ってくるから、嫌い。ミッキーを傷付けたのに平気な顔をしているから、嫌い。好きになれる要素なんて、あるわけないよ」

「ああ、そうだろうさ。それが真っ当なんだよ」

 武蔵野は白桃の汁で濡れた手をナプキンで拭ってから、つばめが使った皿と皮と種の入った皿を片付けた。

「両親のことは?」

 唐突すぎる質問に、つばめは飲み込んだばかりの白桃が喉に迫り上がりかけるほど驚き、軽い怒りすら感じた。そんなことを言われても、解るわけがない。そもそも、父親にも母親にも会ったことがないのだから、好きだの嫌いだのといった感情を抱けるわけがない。武蔵野にそんな質問を投げ掛けられる義理も関係もない。失礼だ、無遠慮すぎる、といった文句を返そうとつばめは口を開こうとするが、言葉がまとまらなかった。

 つばめの両親について触れようとする人間は、皆無と言っていい。義理の家族である備前家の両親も美野里も、つばめの両親の所在には一切言及しなかった。祖父に会ったことはあっても、両親には会ったことがないからなのだろう。以前通っていた学校でも、教師が過剰な配慮をしていたので、他の子供に両親がいない事実を責められることもなければ触れられることもなかった。だから、つばめは両親が存在していない現実を意識することもなかったし、出来る限り気にしないようにしていた。だが、徹底して排除されている両親に対して、こうも思っていた。そこまでして否定されるほど、両親は罪深いのだろうか。だとすれば、そんな両親から生まれた自分は何なのだろう。両親からも見放された自分は何なのだろう。財産を受け継ぎ、遺産を動かすだけの、道具に過ぎないのか。

「好きになりたい。でも、会ってみないと解らない」

 スカートの裾をきつく握り、つばめは掴み所のない感情をやり過ごした。

「そうか」

 肯定も否定もせず、武蔵野は頷くだけだった。その距離感を弁えた優しさに、つばめは意地が折れかけた。彼が母親の何を知っているのかも知らないくせに気を許すなんて何事だ、とすぐさま思い直すが、心根がぐらついているのは確かだった。コジロウも傍にいない、頼れるかは解らないが心を許せる大人達も恐らく負傷している、つばめの力だけではこの客船から脱出することも出来ない、そもそもここがどこなのかも解らない。だから、目の前にいる男に寄り掛かってしまいたくなる。けれど、それだけはしてはいけない。

 つばめが押し黙ると、武蔵野も黙った。大型客船は錨を降ろしているのか、エンジン音は聞こえず、打ち寄せる波が船体に与える揺らぎが伝わってくるだけだった。重苦しい静寂が漂っていたが、それを払拭するように内線電話が鳴った。すかさず立ち上がった武蔵野は、リビングの一角を占めるバーカウンターに設置されている内線電話を取って言葉を交わした後、電話を切った。

「社長との面会時間が決まったぞ。三時間後だ」

「着替えなきゃダメ?」

「そりゃそうだろう。ディナーなんだからな」

 武蔵野は大型テレビの上に浮かぶホログラフィークロックを示すと、午後四時過ぎを指していた。だから、三時間後は午後七時であり、夕食時である。こんな豪華客船のスイートルームに泊まらせられた客が、適当な仕出し弁当で済まされるわけがあるまい。つばめはそれでも構わないのだが、招かれたからには相手の顔を立てるのが筋だ。三時間もあれば、シャワーも着替えも済むだろうし、背伸びをしてヘアメイクをセットしてもいいかもしれない。

 だったら、まずは衣装を決めなければ。つばめは今まで話し相手になってくれた武蔵野を廊下に追い出してから、寝室に入った。当然ながらオーシャンビューの寝室には、恐ろしく巨大なベッドが中央に横たわり、ベッドサイドにはドレッサーと小振りな冷蔵庫が備え付けてあった。ベッドの右手にあるウォークインクローゼットに入ると、色彩の嵐が襲い掛かってきた。つばめの身の丈に合わせたサイズのドレスやら何やらが詰め込まれていて、ドレスに合わせたハンドバッグや靴といったアクセサリーも充実していた。つばめの乙女心がざわめいた。

「うあ、うあああ……」

 ドレスは可愛らしいものから大人びたデザインまで幅広く、選ぶだけでも一苦労である。更に小物を選ぶとなると、もっと大変だ。ドレス一つを取っても決めかねるのだから、何時間掛かるか解らない。だが、ディナーを兼ねた面会は三時間後なのだから、さっさと決めなければシャワーも浴びられないし、ヘアメイクも出来ない。

 それでも、ドレスを決めるまでに一時間近く掛かった。悩み抜いてつばめが選んだのは、赤と黒のチュールドレスで、両肩がストラップになっていて二の腕と襟刳りが露出するものだった。胸のギャザーがたっぷりとしているので、質量のない胸が増量されたようにも見えるから、というのも理由ではあったが。大きなリボンが付いた太いヒールのエナメルパンプスに、ピンクの丸っこいクラッチバッグを選んだ後、つばめは一旦シャワーを浴びた。髪をある程度乾かしてから、内線電話を使って女性職員を呼び出し、ヘアメイクを頼んだ。

 それから小一時間後、つばめは喜ぶべきか否かを悩んでいた。腕の良い女性美容師が飾り立ててくれたおかげで、つばめは別人と化していた。クセの強い髪はヘアアイロンでくるくるに巻かれ、両サイドの髪は縦ロールと化し、後ろ髪は大人っぽくアップにセットされ、控えめながらも華やかな化粧も施された。あれよあれよという間に別人へと様変わりしていく鏡の中の自分を見つめながら、つばめは戦々恐々としていた。これでは、コジロウや皆に再会した時に解らないのではないだろうか。そんなことを危惧していると、約束の時間になった。

 スイートルームから出たつばめを出迎えたのは、スーツ姿の武蔵野だった。ネクタイが窮屈なのか、早々に襟元を緩めている。サングラスの下では眉根を顰めていて、口元も盛大にひん曲がっていた。余程スーツを着たくないのだろう。つばめが少々戸惑っていると、行くぞ、と武蔵野は急かしてきた。

「どうせならコジロウが良かった」

 つばめが不満を零すと、武蔵野は毒突いた。

「俺だって、胸も尻も真っ平らな小娘をエスコートするほど落ちぶれちゃいねぇよ」

 レストランに繋がる廊下を連れ立って歩いていったが、武蔵野は歩調を緩めていた。慣れないドレスとパンプスのせいで歩調の遅いつばめを追い越さないように、一歩後ろを歩いている。大柄で足も長ければ歩調も早い彼には、面倒なことだろう。コジロウであれば隣を歩いてくれるし、手も繋いでくれる。

 右手が手持ち無沙汰で、つばめはハンドバッグを握り締めて誤魔化した。今頃、コジロウはどうしているだろうか。寺坂も、道子も、一乗寺もだ。この船に連れてこられたのだとしたら、どこにいるのだろう。美野里と美月は本当に無事なのだろうか。船島集落は、自宅は無傷なのだろうか。一度考え出したら切りがなくなり、つばめはそれなりに感じていた空腹が引っ込んでしまった。

 しばらく歩くと、見覚えのある女性職員に出迎えられてレストランに招き入れられた。ウェイターも待ち構えており、つばめと武蔵野を案内してくれた。スイートルームの下の階にあるレストランは広く、白いテーブルクロスが掛かった丸テーブルがいくつも並んでいたが、客は誰一人としていなかった。厨房からは作業音が聞こえ、調理が行われているようだが、それを口にする人数が少なすぎる。ドレスといいヘアメイクといい、たった数人のために大勢の人間の手を煩わせているのだと自覚すると、つばめはなんだか申し訳なくなってきた。

 こちらのお席へどうぞ、とウェイターが示したのは、一番見晴らしの良い窓際のテーブルだった。丸テーブルには食器が既に並べてあり、四人分が揃っていた。つばめ、武蔵野、新免工業の社長、と、更にもう一人が食卓を囲むのだろうが、どこの誰なのだろうか。ウェイターが引いてくれた椅子に座り、ひらひらするドレスの裾を整えたつばめは、夕暮れに染まる海を一望した。夏休み中に一度は海に行きたいと思っていたが、まさかこんな形で海に来る羽目になるとは。結局手付かずだった写生は、せっかくだから海を描いてもいいかもしれない。

 生きて帰れたら、の話だが。

 

 それから、数分後。

 食前酒代わりに出されたミネラルウォーターで喉を潤していたが、緊張しているせいで、飲んだ傍から喉が渇いてしまった。かといって、水だけで胃を膨らませてしまうのは嫌なので、つばめはグラスに入ったミネラルウォーターを飲み干したい気持ちを堪えながら、口の中を濡らすだけに止めておいた。

 おい、と武蔵野がドアを示したので、つばめもそちらに向いた。ウェイターがうやうやしく案内してきたのは、見覚えのある顔のスーツ姿の男と、上等なスーツを着込んでいるスレンダーなサイボーグだった。二人はつばめと武蔵野が座っている窓際のテーブルにやってくると、男はウェイターに代わって椅子を引いてサイボーグを座らせた。その顔を凝視し、つばめは唖然とした。顔の左半分に大きなガーゼと包帯を巻いて松葉杖を突いているが、間違いない。一乗寺の同僚であり、内閣情報調査室の捜査員である周防国彦だ。ということは、周防の正体は。

「もしかして、スパイだったの?」

 つばめが不愉快さを隠しもせずに言うと、周防は淡々と返した。

「人聞きの悪いことを言わないでくれ。俺は俺の信念に基づいて行動しているだけだ。政府の捜査員になったのも、新免工業と手を組んだのも、俺がそうしたいと思ったからだ」

「話したいことは沢山おありでしょうとも。佐々木つばめさん」

 スーツを着たサイボーグは白い手袋を填めた手でポケットを探り、合金製の名刺入れを開いた。そこから名刺を一枚取り出すと、つばめに差し出してきた。

「お初にお目に掛かります。僕は新免工業を経営しております、神名円明と申します、一介のサイボーグにして経営者、そして遺産の所有者の一人です。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします」

「はあ、どうも」

 つばめは名刺を受け取り、しばらく眺めた後でハンドバッグに入れた。周防は神名の右手の椅子に腰掛けたが、ウェイターが運んできた食前酒を断った。ケガをしているからだろう。武蔵野も酒は断り、見るからに値の張りそうなシャンパンをグラスに注がれたのは神名だけとなった。彼はつるりとしたマスクフェイスの外骨格強化型サイボーグなので、食べられないのではと思ったが、マスクを開いて頭部の外装に収納して口を露出した。最近のサイボーグは高性能だ。では乾杯いたしましょう、と神名が細長いグラスを挙げた。

「管理者権限を持つ麗しき女性と再び出会えた喜びと、我が念願を果たせる喜びに」

「その目的も知らないのに、乾杯なんて出来ません」

 つばめがミネラルウォーター入りのグラスを睨むと、神名は穏やかに笑った。工業製品を扱う大企業の社長とは思いがたい雰囲気を持ち合わせている。どちらかというと、名のある大学の教授のようなタイプだ。物腰も柔らかく、態度も紳士的で、絵に描いたようなインテリだ。フジワラ製薬の社長が強烈すぎたので、その反動で、神名円明は恐ろしくまともな人間に見えてしまう。フルサイボーグであるが。

「……ん?」

 前菜のトマトとチーズのサラダに口を付けようとして、つばめは引っ掛かりを感じてフォークを止めた。

「再会、ってどういうことですか? 私と社長さんは初対面じゃないんですか?」

「それについては、武蔵野君に説明して頂いた方がよろしいでしょう」

 神名が武蔵野に顔を向けると、早々に前菜を食べ終えた周防が煽った。

「そうだな、お前以上にあの女について知っている奴はいないもんな。洗いざらい喋ってやれよ、あの女の娘に」

「社長命令じゃ、仕方ねぇな」

 武蔵野は前菜を平らげると、つばめを一度窺ってから口を開いた。

「十五年前のことだ。新免工業は、お前の母親、佐々木ひばりが妊娠したことを知って確保した。うちの社長が遺産を譲渡された時から、遺産の管理者権限を継承するのは直系の孫だと解っていたからな。吉岡グループでも社長夫人が妊娠したとの情報があったが、あっちはガードが堅すぎて手の出しようがなかった。だから、佐々木ひばりが外出したところで確保した」

「誘拐、って言えばいいのに」

 話の触りだけでつばめは胸苦しくなる。産まれる前から、道具扱いされていたのか。

「いや、そうでもないのですよ。確かに弊社の社員は、計画の当初は手荒な手段に出ましたが、それは最初だけのことなのです。ひばりさんは弊社にとても協力的でして、それはそれは丁重にお出迎えいたしました。身重の御婦人ですから、スプーンでクリームを掬うよりも優しく扱わなければなりませんからね。ひばりさんを確保した当初は妊娠初期でしたので、尚更でした。武蔵野君はその当時から弊社の特殊部隊に所属しておりまして、人格も戦闘能力も安定している、との理由でひばりさんの確保と身辺警護の仕事を任せたのです」

 二品目の空豆の冷製スープが運ばれてくると、神名はそれを口にして頷いた。つばめはスープであれば食欲が湧くような気がしたので、神名が使っているものと同じ形のスプーンを探し、スープを一口飲んだ。空豆のまろやかさに程良い塩気とクリームが混じり合った、優しい味わいだった。

「それから八ヶ月近く、俺達と佐々木ひばりは生活を共にした。多少危うい場面もあったが、佐々木ひばりは順調に胎児を育てていき、三時間の陣痛の後に自然分娩で出産した。つばめと名付けたのは、佐々木ひばりだ」

 武蔵野は義務的な口調で話していたが、サングラスの下で時折視線が彷徨った。

「お父さんはどうしたの? お母さんを助けたり、探したり、しなかったの?」

 つばめはスープの続きを飲む気になれず、スプーンを置いた。

「お前の父親である佐々木長孝は、俺達が佐々木ひばりを確保した時から行方が知れていない。だが、佐々木長孝が死んだという情報は得ていない。だから、誰にも見つからずに生き長らえているんだろう」

 武蔵野が答えると、周防は顔の傷が痛むのか、右頬を歪ませながら言い返した。

「見つかってはいるが、手を出していないだけだ。今、佐々木長孝に手を出したら面倒なことになりかねんし、無用な戦闘が起きる可能性が高いからな。だから、現状で最優先すべき作戦を実行したんじゃないか」

「……え? そうなの? お父さんは今も生きているの!?」

 父親は見つかっているのか。つばめが腰を浮かせかけると、武蔵野が制してきた。

「焦るな。まだ話は終わっちゃいない。お前が産まれてから一ヶ月と数日が過ぎた頃だ、俺と佐々木ひばりは隠れ家にしていたマンションから次の隠れ家に移動するために外出した。その時、奇襲を受けてお前が誘拐された。相手は怪人だった。俺は戦ったが、凌げなかった。実弾を至近距離で脳天にぶち込んでも、貫通するどころか穴すらも空かなかったからな。言い訳はしない、俺は負けた。怪人に負けた。だから、右目を持って行かれた」

 武蔵野はサングラスを外し、古傷が付いた右目を露わにした。恐ろしく精巧に出来た義眼が填っていた。

「それから数日後に、佐々木長光が懇意にしている弁護士一家の元で養育されていると知ったが、佐々木ひばりは手を出すなと言った。実力行使で奪い返したら弁護士一家に迷惑が掛かるし、産まれたばかりの娘に傷が付いたら大変だから、と。居所は解っているのだから、何か起きてもいくらでも対処出来る、と俺達も認識して、佐々木ひばりの指示に従った。それから半年後に、ナユタが暴走した」

「ナユタとは弊社が所有する遺産です。見た目は空のように青く澄んだ鉱石なのですが、膨大なエネルギーを発生させる機能を持つのです。小指の先よりも小さな破片であっても、刺激を与えると分子が活性化し、中性子が発生するのです。放射線とは分子構造が違いますので、人体に被害は及びませんが、中性子ですので破壊力は抜群でしてねぇ。あの時も洋上での実験を行っていましたので、工場やその従業員は無事だったのですが、弊社の所有するタンカーが一隻、消滅しました。比喩ではありませんよ、中性子線によって陽子レベルで分解された結果、分子が本来あるべき形状を保てなくなったのです」

 私達は止めたのですが、と神名は首を横に振ってから、空豆の冷製スープを平らげた。

「佐々木ひばりは、お前のヘソの緒を持って現場に行ったんだ。俺は行くなと言った。船もヘリも出さないと言った。だがあの女は、だったら泳いででも行く、と言い張ったんだ。あいつは正義感が強かったからな。だったら俺も付き合ってやると言って、俺はヘリを飛ばした。ナユタは周囲の海水も原子分解していたから、ナユタを中心にして半径五メートル程度の空間がぽっかりと空いていた。中途半端に作動したせいで出力が不完全だからか、エネルギーが放出される範囲が狭かったんだ。ヘリの備品を落として安全地帯を確かめながら、俺はナユタの上空に出た。目測でも一〇〇メートルはあったが、あの女は迷わずに飛び降りたよ」

 武蔵野は僅かな躊躇いの後、言った。

「……佐々木ひばりは消滅した。お前の生体組織を与えられたことで、ナユタは沈静化し、安定した。その後、新免工業のタンカーでナユタを回収したが、佐々木ひばりの遺体は見つけられなかった」

 骨の一つでも拾ってやりたかったがな、と苦々しげに漏らした武蔵野の横顔には、鉛のような後悔が宿っていた。つばめはこの話を理解したくなかったが、真実だと思いたくなかったが、彼らが嘘を吐く利点が見当たらなかった。やっと会えると思ったのに、誰かの記憶の中にいる母親に出会えたと思ったのに、母親を追い求められると思ったのに。やりきれなさと腹立たしさと、母親への恋しさで、つばめはぼろぼろと涙を落とした。

「そんなのって、ないよぉ……」

「ああ、俺もそう思う」

 周防は苦労しながら空豆の冷製スープを飲み干し、スプーンを皿に投げ入れた。

「では、本題に入りましょう」

 次に出てきたパンを千切って行儀良く食べながら、神名はつばめに柔らかく語り掛けた。

「私は、遺産を全て消滅させてしまいたいのです。ナユタの能力を持ってすれば、消滅出来ないものなどないのですから。度重なる実験で、ナユタは遺産に関連するものも等しく消滅させるのだと判明しました。遺産同士の互換性は証明されておりますが、遺産同士での攻撃が無効であるというわけではありませんからね。ですから、私達は怪人やコンガラによって複製された物体などを実験材料にしました。いずれも消滅し、灰すら残りませんでした。ですが、つばめさんの生体組織だけはナユタには消滅されず、それどころかナユタが機能を安定させました。ヘソの緒だけでは不充分なので、その後もつばめさんの生体組織を採取しては実験を繰り返していたのです。尾籠な話ではありますが」

 神名が目を細めるようにゴーグルの光を弱めたので、つばめはぞわりとした。

「もしかして、うちのゴミ袋、漁ったの? で、もしかして……私のアレを……」

「御想像にお任せいたします」

 つばめさんの体が大人になっていて大助かりでした、と微笑んだと思しき声を出した神名に、つばめは喉の奥に胃液が込み上がってきた。今し方、僅かばかり食べたものまでもが戻ってきそうになった。どう考えても、新免工業はつばめの経血を利用したとしか思えない。というか、それ以外に回収出来る生体組織などあるものか。船島集落に引っ越してきてからは散髪にも行っていないし、トイレは水洗式なので、思い当たる節はそれぐらいである。目的のためには手段を選ばないのが悪役の常ではあるが、選ばなさすぎる。

「メインディッシュはこれからですよ、つばめさん」

 神名はしなやかに手を広げ、船首に面した大きな窓を指した。

「あちらをご覧下さい」

 太陽が水平線に没すると、複数のライトが輝いて船首を照らし出した。広いプールに日光浴が出来るデッキの先には、豪華な大型客船には馴染まない人型重機が鎮座していた。岩龍と似通ったシルエットで、キャタピラの付いた四角い下半身に上半身が乗っていた。その片腕は洋上に突き出されていて、何かをぶら下げていた。青白いライトが強すぎるので、すぐにはそれが何なのかが解らなかった。

 上下を板で挟んで網で囲ってある、やたらと大きな箱だった。遠目に見ても、一辺が三メートルはある。その中には二人分の人影があり、忘れもしないモノが蠢いていた。触手である。ということは、つまり。つばめは立ち上がってベランダに駆け寄り、窓を開け放った。猛烈な潮風が吹き込んでドレスを巻き上げ、涙を乾かしていった。

「てぇらさぁかさぁーんっ! みぃちこさぁーんっ! せぇんせぇーっ!」

 つばめが腹の底から声を出して叫ぶと、がしゃっ、と人型重機がぶら下げた箱が揺れた。神名が指示を出したのか、別方向を向いていたライトが人型重機の手中の箱に当てられた。光量が数倍に増したことで箱の中身の輪郭がぼやけたが、夜の帳が追い払われた。つばめが再度凝視すると、箱には寺坂と一乗寺が入れられていた。二人は手酷くやられたのか、服が血で赤黒く染まっている。寺坂は頭部にタオルを巻いていて、いつも右腕を縛っている包帯でタオルを戒めていた。胸も同様で、タオルが詰まっている。一乗寺はと言うと、こちらも胸から腹に掛けて血で染めていた。あの出血量では、生きている方がおかしいレベルだ。どちらも常人ではないのだなぁ、とつばめは感心すると同時に薄ら寒くなってしまった。潮風が強いから、でもあるが。

「なー、つばめー、何喰ってんだー? 退屈すぎて腹減っちゃってさぁー!」

 寺坂は右腕から垂れ落ちている触手で箱を掴み、揺さぶった。その質問の悠長さに、つばめは呆れる。

「そんなの、今はどうだっていいでしょ! んで、道子さんはどうしたの?」

「みっちゃんはねぇ、これの中だよー。ちなみに、新免工業の在庫品ね」

 そう言って一乗寺が掲げたのは、年代物のMP3プレイヤーだった。

「元のサイボーグボディが吹っ飛ばされちゃって、この船を含めた周囲一体は無線封鎖してあるから、みっちゃんが得意などこでもネットサーフィンが出来なくなってちゃってんだぁ。んで、これは仮のハードね。みっちゃんは電脳体で異次元宇宙寄りの存在だけど、こっちの物質宇宙に繋がっていないと接続が切れちゃって、二度とこっちの宇宙に戻ってこられない可能性もあるからねー。んでさ、つばめちゃん、そっちにすーちゃんがいるでしょ?」

「うん、いるよ! 裏切り者だったんだねー、この人!」

 つばめが一乗寺に返すと、一乗寺はいつも通りにへらっと笑った。

「そうなんだよぉー。ひっどいよねー。でも、すーちゃんは俺が殺すから、手出ししないでね。うふふふふふふ」

「だってさぁ」

 つばめが振り返ると、周防が顔をしかめた。

「よく言うよ、死に損ないの宇宙人め」

「もしかして社長さん、あの三人を海に落とすぞーって私を脅すつもりなんですか?」

 つばめが箱入りの二人と一体を指すと、神名は悠長にワインを傾けた。

「ええ。ですが、あのお三方は不死身も同然なので、そのような取引は成立しないと理解しております。寺坂善太郎さんは触手さえ再生出来れば死に至りませんし、設楽道子さんは肉体が存在していないので殺せませんし、一乗寺昇さんはいかなる状況にも適応する肉体の持ち主ですからね。ですから、つばめさんの心を揺さぶるには、彼の力を借りるのが有効だろうと判断しまして」

 神名は立ち上がると、ウェイターに一言命じた。ウェイターは一礼してその場を去った。数十秒後、プールの水が排出されていった。露わになったプールの青い底面が割れて、その下から球体が現れた。直径五メートルほどはある巨大な銀色の球体で、どことなくガスタンクに似ていた。表面に新免工業の社名が刻まれていて、銀色の球体はほのかに光を帯びていた。神名はつばめの背後に近付くと、球体を見下ろした。

「あれはナユタの収納庫です。様々な研究を繰り返した結果、特殊な合金で作った球体に入れておけば、中性子の活性を押さえられると判明いたしましたので、あのような措置を施したのです。今はナユタも安定しておりますので、外気に曝しても平気でしょう。お開けなさい」

 神名が命じると、銀色の球体が割れ、開花する蕾のように開いていった。花びらのように分かれた外殻が螺旋状に収納されると、銀色の太い軸に青白い結晶体が載っていた。だが、それだけではなかった。結晶体には、手足を失った彼が縛り付けられていた。コジロウだった。

「コジロウっ!?」

 思わずつばめが駆け出そうとすると、神名の合金製の手がつばめの肩を押さえてきた。

「彼を助けよう、などとは思わないで下さいね。彼もまた遺産であり、危険なのですから、この世から排除すべきなのです。オーバーテクノロジーが人間の手に余るのは世の常ですし、弊社もまたナユタを持て余しておりますからね。その能力を活用して自社製品の品質を上げようと思っても、ナユタは私達に逆らうのです。劣化ウラン弾を何十発と使用してナユタを砕いたところで、その破片を利用した武器やロボットは自爆するばかりです。暴走する一歩手前で制御出来れば、無尽蔵なエネルギーを生み出せるばかりか、一度も充電せずに稼働出来るサイボーグやロボットを作ることも夢ではありませんし、ともすれば頭打ちになっている宇宙開発も成功することでしょう。ですが、その裏でどれほどの人間や技術や物資が犠牲になることか。技術が躍進すればするほど争いも増え、人間は蔑ろにされていくことでしょう。僕は人間が好きなのです、愛おしいのです。だからこそ、遺産などという異物によって、人間社会が歪んでいくことが我慢ならないのです」

「新免工業は兵器や武器を売っている会社なのに?」

 やっとのことで神名の手を振り払ったつばめが後退ると、神名は胸に手を添えた。

「武器を手にして主義主張を鬩ぎ合わせるのは、古来より受け継がれてきた人間同士の営みです。僕はそれすらも愛しているのです。愛しておりますから、私を狙撃して肉体を破壊したゲリラ兵を恨もうなどとは思いませんし、復讐しようなどとは微塵も考えたことがありません。もちろん、つばめさんや他の方々も愛おしく思っておりますよ。だからこそ、その人間の辿々しい文明の歩みを歪める遺産を廃絶しなければならないのです」

「それ、おかしくないですか?」

 言っていることは正しいのに、何かがずれている。つばめが身動ぐと、神名は微笑んだ。

「そうお思いになるのは、今だけですよ。さあ、つばめさん。あなたの持つ管理者権限を行使し、ナユタを作動させ、愚劣で下品で無益な遺産を消滅なさって下さい。ひばりさんの仇討ちにもなりますしねぇ」

 それがメインディッシュですよ、と笑った神名に、つばめは震えた。この男も、やはりまともではないのだ。平和を重んじるがあまり、平和をなすためにはいかなる武力行使も厭わないのだから。けれど、遺産を破壊するなんて、出来るわけがない。増して、コジロウを消滅させてしまうだなんて。

 つばめは赤い痣が付いた肩を押さえながら、淡い光を放つ結晶体を見つめた。ナユタは美しかった。中心の太い六角柱を包み込むような形で短い六角柱が無数に生えていて、さながら鉱石の花のようだ。その中心にワイヤーで縛り付けられているコジロウは、童話に出てくる親指姫を思い起こさせる。だが、彼の手足は外され、胴体だけになっている。胸部装甲に貼り付けてある片翼のステッカーは無事だが、彼はつばめの命令を頑なに守り通していて、沈黙を貫いていた。俯いたマスクフェイスは翳り、赤いゴーグルは光を失ったままだ。

 どうすれば、彼と皆を救える。



 まずはコジロウを再起動させようと、つばめは口を開けた。

 と、正にその時、つばめは後ろから抱えられた。太く硬い腕の主は武蔵野で、大振りな拳銃を抜いて神名と周防に銃口を突き付けていた。これは一体何事だ。更なる混乱に襲われたつばめが呆気に取られていると、武蔵野はじりじりと後退してベランダからレストランの中に戻っていき、料理が並ぶテーブルを挟んで二人と対峙する。

「どういうおつもりですか、武蔵野君?」

 やや凄みを帯びた声色で、神名は仕立ての良いスーツの懐から拳銃を抜いた。周防もまた同様だったが、左目だけでは照準が付けづらいのか、目元を顰めている。武蔵野の肩の上に載せられたつばめは、急に高くなった視点に戸惑いながらも、懸命に状況を確認しようとした。

 ウェイター達は厨房に早々に引っ込んで、廊下で待機していたであろう戦闘部隊の隊員達が雪崩れ込んできた。彼らの銃口は武蔵野に据えられ、自動小銃の安全装置が外される音がする。大海原を望んでいた窓にはいかにも頑丈そうな合金製のシャッターが下り、完全に封鎖された。新免工業の戦闘員達はつばめには絶対に手を出さないだろうが、武蔵野は別だ。確実に殺される。だが、何のためにこのタイミングで上司に刃向かうのだ。

「ね、ねえ、どういうつもりなの?」

 つばめが武蔵野を問い質すが、武蔵野は短く答えただけだった。

「耳を塞いでいろ」

 銃声、銃声、銃声。最初の一発は神名のゴーグルアイを貫通し、二発目は周防の足を抉り、三発目は戦闘部隊の真上にあるスプリンクラーを破壊した。耳を塞いでも尚脳天を揺さぶる爆発音に、つばめは顔を歪めた。武蔵野は三つの薬莢が転がる絨毯を踏み締めて駆け出すと、テーブルを蹴って転がして戦闘部隊の射線を塞ぎ、その上で消火剤の入ったスプリンクラーを撃ち抜いた。猛烈な勢いで噴出された白煙がレストラン中に立ち込めてくると、武蔵野は自身の胸ポケットからハンカチを抜いてつばめに渡してきた。鼻と口を塞げ、という意味だろう。

 つばめがその指示に従うと、武蔵野は雑な狙いの射撃を回避しながら厨房へと駆けていった。レジカウンターの横を通って厨房に飛び込むと従業員達から悲鳴が上がったが、武蔵野が一発威嚇射撃をすると黙った。ウェイターが拳銃を抜いて武蔵野に向けてきたが、武蔵野はそれを意に介さずに厨房を突っ切って走っていった。コース料理の続きが作られていたらしく、見るからに質の良い食材がまな板の上でカットされ、皿に盛られ、鍋で煮え、オーブンで焼かれていた。けれど、それらの芳しい香りは薬臭い消火剤の匂いで台無しになっていた。

 厨房の奥には裏口と階段があった。従業員が出入りするためのものだ。武蔵野は防火扉を閉めると、その前に消火器を置き、大きな缶詰の入った段ボール箱を引き摺っていき、防火扉の開閉を妨げた。その作業を終えると、武蔵野は咳き込みながら息をした。両手が塞がっていたのと、自前のハンカチをつばめに渡したので、息を詰めていたようだった。武蔵野はつばめを肩から下ろすと、心なしか白くなった短髪とスーツを払った。

「あーあ、やっちまった」

「なんで、あんなことしたの?」

 けふん、と一度咳き込んでから、つばめが再度問い質すと、武蔵野はネクタイを解いてポケットに突っ込んだ。

「気に入らないんだよ。社長のやり方も、考え方も。それだけだ。新免工業とは長いこと付き合ってきたが、時間は人間を変えちまうもんだ。いつのまにか、俺の思想とは根本的に食い違ってきちまったんだ」

「本当に?」

「ああ本当だ。だから、今は黙って俺に守られておけ。後で逃がしてやるよ」

「そんなの嫌」

「はあ?」

 つばめの反論に、武蔵野は声を裏返した。

「お前なぁ、客観視して状況を見たらどうだ。ナユタがお前にだけは危害を加えないという保証はないんだよ。あの実験にしたって、適当なもんなんだ。ナユタのエネルギーフィールドに接触させるために色々な物を放り投げただけであって、御大層なもんじゃない。お前のヘソの緒と……その、なんだ、アレが消滅しなかったのは、ナユタがそれが管理者権限の持ち主だと認識しただけって可能性もある。認識しただけであって、管理者に対して絶対服従しているとは限らないしな。アマラがそうだったじゃないか」

「だからって、なんで逃げなきゃならないの? コジロウも先生達もいるのに、見捨てられるわけがないよ!」

「あいつらを助けたところで、俺達に何か利益が生まれるのか?」

 いやに真剣な顔をした武蔵野に、つばめは少々迷った。寺坂と一乗寺は、生かしておくべきなのだろうか。

「コジロウと道子さんはともかく……いやいや、でも、そんな非人道的な……」

「とにかく、俺と一緒に来い。守ってやる」

 武蔵野に手を差し伸べられたが、つばめはその手と武蔵野の顔を見比べた。

「上司が気に食わないから、ってだけでここまでするわけがないよね、普通は。でも、今は四の五の言っている場合じゃないから、仕方ない。呉越同舟と行こうじゃないの」

 積年の経験が染み付いた兵士の手は大きく武骨で、つばめの手よりも二回りは大きかった。それでも、コジロウの方が大きく、安心感も桁違いだと思ってしまう辺り、恋心とは現金だ。武蔵野はやたらとぎこちな手付きでつばめの手を握り締めてから、今度は背中に背負った。その際に邪魔だからと言われてドレスの裾をナイフで引き裂かれてしまい、悲鳴を上げかけたが口を塞がれて黙らされた。やることがいちいち過激な男である。

 従業員用の階段にも追っ手が来ていて、上下から足音が聞こえてきた。つばめを背負った武蔵野は狭い階段を駆け下りていくと、螺旋状の階段の中心部分に銃撃が放たれた。それらの銃声と足音が近付いてきて、挟み撃ちにされるかと思いきや、武蔵野は階段の中程にあるドアを開けて通路に転がり込んだ。

 倉庫にされている区画らしく、ずらりとドアが並んでいる。程なくして戦闘員達が追い付いてきて階段と廊下を繋ぐドアを破ろうとしてきたので、武蔵野は更に走っていった。このまま倉庫の一室にでも隠れてやり過ごすのだろうか、とつばめが案じていると、武蔵野は倉庫の一つの前で止まり、つばめを下ろした。カードリーダーにキーを滑らせるとドアのロックが解除され、分厚いドアが開いた。そこには、大量の武器が詰め込まれていた。

「うえっ」

 壁に立て掛けられている数十挺の自動小銃、山盛りの弾薬、手榴弾、その他諸々。あまりの物量の多さにつばめが声を潰すと、武蔵野は薄暗い武器庫に入り、大型のショットガンとマガジンを担いだ。

「この部屋に入っていろ、外に出てくるな」

 つばめを武器庫に押し込め、入れ違いに廊下に出た武蔵野に、つばめは察した。

「もしかして、その銃であの人達を吹っ飛ばすの?」

「対サイボーグ用の徹甲弾だからな、あいつらの防弾装備なんてオモチャみたいなもんだ」

「だ」

「殺すのはダメだ、とでも言いたいのか? だがな、あいつらは、いや……俺達は、お前の母親を殺したんだ」

 どれだけ殺し返しても足りるもんじゃねぇ、と吐き捨て、武蔵野は乱暴にドアを閉めた。直後、一際大きい銃声が幾度となく鳴り響いてドアをびりびりと震わせた。火薬臭い空間にへたり込んだつばめは、鉄条網に縛られたかのような緊張感に負けまいと意地を張りながらも、薄々感じ取っていた。武蔵野は、つばめの母親である佐々木ひばりを愛しているのだと。だから彼はひばりを愚弄し、利用し、蹂躙した者達を許せないのだ。

 また一つ、銃声が轟いた。



 退屈と空腹は、底なしの苛立ちを呼ぶ。

 たとえ、真下が海であり、今までにないほどの窮地に陥っていようとも。寺坂は額と胸に空いた傷口からの出血が止まっていることを確かめ、体液と血液を吸い込んでばりばりに固まった包帯を剥がそうとした。だが、再生させたばかりの表皮に包帯が硬く貼り付いていて、再生したばかりの薄皮までもが剥がれそうになったので諦めた。死にづらい体であるとはいえ、脳を剥き出しにして動き回るのはさすがに嫌だからだ。

 日が暮れたせいで、潮風が冷たくなってきた。そのせいで、体温維持のために一層体力の消耗が激しくなり、それに伴って空腹もひどくなってきた。それなりに再生能力があろうとも、肉体を再生させるために必要なエネルギーは無限ではないからだ。新免工業の戦闘部隊に襲撃されたのは午前中だったので昼食前だったし、買い出した食材は手付かずのまま放置することになってしまったので、今頃は暑気を燦々と浴びて腐ってしまっただろう。

「俺のプリン……。俺のコーヒー牛乳プリン……」

 寺坂が嘆くと、MP3プレイヤーに電脳体を宿した道子がモニターに文字を羅列した。

『私のアイス……。冷たくて甘くて後味スッキリな、チョコミントのアイス……』

「うん、俺も腹減ったよぉ。カレー喰いたい。ここさぁ、接待悪くない? 普通、捕虜は丁重に扱うもんだよ?」

 一乗寺が不機嫌さを丸出しにしながら起き上がったが、あいてっ、と胸を押さえた。

「レストランの辺りがゴタゴタしているから、今なら適当に食い逃げ出来るんじゃねーの?」

 寺坂が触手を挙げ、白煙が立ち込めているレストランを指すと、道子が文字で答えた。『うーん、それはちょっと難しいかもしれませんねー。戦闘部隊は武蔵野さんとつばめちゃんを追い掛けていきましたけど、全員ってわけじゃないですし、こっちの守りも堅いんですよ。船首とブリッジ側からは常に狙われていますし、少しでも動けば今度こそ殺されちゃいますね。この船って見た目はセレブ向けの豪華客船ですけど、対空機関銃も装備してあるみたいですしね。詰んでますねー、私達』

「せめてコジロウが動けばなぁ。そうすれば、ちったぁどうにかなるものを」

 寺坂が舌打ちすると、一乗寺がむくれた。

「そうだよぉ。手足をバラされた程度でダメになる奴じゃないしさぁ。つばめちゃんがぴーぴー泣いたら、あの野郎は飛び起きるだろうね。大方、つばめちゃんが連中に脅されてコジロウをシャットダウンしたんだろうけど、だからってずっと寝ている理由なんてなくない? 大体、コジロウって命令違反しまくりじゃんか」

「だなぁ」

『ですねー』

 寺坂と道子に同意され、一乗寺は調子に乗った。

「でっしょでしょー? この際だから言うけど、コジロウってムッツリスケベだよね、ね?」

「ぶははははは、そりゃそうだ、確かにそうだ!」

 寺坂が盛大に笑い出すと、道子も文字を羅列するスピードを速めた。

『言われてみればそうですねー! コジロウ君のデータやメモリーバンクはプロテクトが硬すぎて、アマラを使っても覗き見出来ないんですけど、そんなもんを見る必要ありませんって! つばめちゃんと一緒に住むようになってからはコジロウ君の日々の業務を目にしているんですけど、何かってとつばめちゃんです、何をしていてもつばめちゃんです、それ以外のことは考えられないんじゃないのかって疑っちゃうぐらいにつばめちゃん主義です! 』

「えー、どんな具合に?」

 退屈が紛れてきたので、寺坂が道子に尋ねると、道子はテンションの高い文章で語った。『先日のことなんですけど、つばめちゃんが量産型のコジロウ君とデートに行きましたよね? で、本体のコジロウ君が豪速で任務を片付けて爆走して帰ってきましたー、ってお話もしましたよね? その時に何かがあったみたいで、コジロウ君ってば、つばめちゃんのヘアゴムの色も見咎めるようになったんですよー。それまでは、つばめちゃんがどれだけ可愛い服を着ようが、ツインテールをシュシュで結ぼうが、無関心だったんですけどねー。ああ、その変化の理由を知りたいけれど、遺産同士の互換性を使ってもそれだけは無理です! ああんっ!』

「他にもあるだろ、な、なー?」

 寺坂が食い付くと、一乗寺も元気を取り戻してきた。

「あの二人って手ぇ繋ぐだけで、そこから先はさっぱりなんだもーん。先生はもう焦れ焦れで、何度後ろからどついてやろうと思ったか解らないんだぞー! リア充は爆発しろっての!」

『あははー、やっぱりそうですよねー? んで、つばめちゃんの方も見所満載なんですよ、これがー! コジロウ君のことを意識しすぎているから、家の中でコジロウ君に鉢合わせしちゃうと挙動不審になっちゃったりしちゃったりするのです! 更には、コジロウ君に話し掛ける前にはちょっと深呼吸して顔を作ってから、なのです!』

「うあー、いじらしいっ! 青臭ぇ! リア中だもんな、JCだもんなー!」

 身悶えした寺坂が触手をうねらせて床板を叩くと、大きな檻が左右に揺れた。

「どんだけ好きなのよ、あの木偶の坊のことを。一目惚れみたいだったけど、それにしたってさぁー」

 一乗寺は笑いを噛み殺しながら、結晶体の花の如きナユタに縛られているコジロウを指した。

「え、そうなの?」

『そうなんですかー? わお新情報!』

 寺坂と道子に食い下がられ、一乗寺は目を丸めた。

「あれ、知らなかったの? ほら、あの日だよ。つばめちゃんが船島集落に来た日で、ドライブインでさぁ」

『あー、思い出しました、あの時だったんですね! あの戦闘の時のコジロウ君は登場といい活躍といい、ヒーローっぷりが際立ってましたもんねー! そっかー、あの時からだったんですねー。うふふふふ』

 道子は文字をスクロールさせる速度を更に上げ、テンションの高ぶりを窺わせた。

「だが、愛しのつばめちゃんは、今や武蔵野のおっさんに連れて行かれちまったわけだが」

 寺坂が真顔を作ると、一乗寺はにんまりした。

「そうそう。武蔵野のおっさん、略してむっさんのストライクゾーンからはつばめちゃんは大外れだろうけどさ、つばめちゃんはどうなんだかねー。白馬ならぬパンダカラーの王子様が振り向いてくれないんじゃ、吊り橋効果で現実の男にグラッと来ちゃったりしちゃったりするんじゃないのー? ファザコンの気があればヤバくない?」

『潔癖な武蔵野さんのことですから、まあ、大丈夫だとは思いますけど』

 道子も同調し、文字列の速度をやや落とした。場の空気で、三人は互いの意図を読み取っていた。つばめを第一に考えるコジロウに、今、つばめがいかに危うい状況に陥っているかを伝えれば、つばめの命令を無視して再起動するのではないか、と。だが、コジロウが再起動した様子はなかった。つばめを第一に考えるからこそ、その命令は厳守しなければならない、と認識しているのかもしれない。だとすれば、他の手段で脱出方法を探るしかない。

 コジロウが再起動してナユタに何らかの作用を与えてくれれば、勝機は見出せた。寺坂の触手が万全であれば、この檻を掴んでいる人型重機のマニュピレーターを破壊出来ただろうし、道子の電脳体が入ったMP3プレイヤーを人型重機に押し付けて電脳体を移動させることも出来ただろう。だが、体液と血液と体力を多大に消耗してしまい、寺坂の触手はあまり伸びなくなっている。リーチはせいぜい二メートル程度だ。当てに出来ない。

「あのさー、さっきからうるさいんだけどー? てか、ガチで屑な人質の分際でダベらないでくれるー?」

 ライトの光条を切り裂きながら、一筋の影が人型重機の頭上に着地した。それは、昆虫じみた細長い手足を持つ戦闘サイボーグ、鬼無克二だった。自動小銃を無造作にぶらさげて背中を少し曲げた姿勢は、今時の若者らしく、締まりに欠けている。鬼無は白煙が排出されつつあるレストランと檻を見比べて、つるりとした鏡面加工が施されたマスクフェイスを傾けた。夜の海と煌めく波、囚われの三人が映り込む。

「まー、暇なのは俺も変わりないですけどねー。つか、無線封鎖のせいでネットも出来ないしー、動画の一つも再生出来ないなんてマジ最悪すぎてワロエナイー。速報、俺が退屈ー。あーもう、暇、暇っ」

 鬼無克二は頭を振り、神経質な仕草で人型重機の外装を蹴った。が、不意に顔を上げた。

「あ、そーだ。んじゃ手近なところで暇潰しだぁ、実況してやる、デュフフフ」

 ぐるりと頭を巡らせたサイボーグは即座に電波を絡め取ったのか、満足げな声を漏らした。戦闘員同士の無線は短波無線を使っているんでしょうね、と道子が文字列で言った。鬼無は悠長に胡座を掻き、肩を揺する。

「あ、見つけた。なんだ、十六ブロックにいたのかー。え、あ、何、武蔵野さんがドンパチしてるけど、それはどうでもいいかもー。てか、俺、あの人苦手だしぃー? わ、在られもない姿。ドレスがビリビリってだけでエロシチュでしょ、これは。ひどいことする気でしょう、エロ同人みたいに! あらら、しかも泣いちゃって。美少女じゃないけどちょっとそそるかもなー、これ。でも、ツインテじゃないのが減点かなー。巻き毛なんてビッチ臭くてウゼェー」

 鬼無が誰を盗撮しているのかは、考えるまでもなく解った。レストランで起きた荒事の最中に、つばめは武蔵野に連行されていったからだ。恐らく、反旗を翻した武蔵野がつばめを守って戦っていて、つばめはどこかの部屋に身を隠しているのだろう。鬼無克二という男とその人格についての情報は一乗寺からある程度得ていたが、虫酸が走る趣味の悪さだ。寺坂は居たたまれなくなり、唇を曲げた。

「あー、なんだよ。お母さーん、だなんて。クソ展開すぎ。つか、母親なんて人生最大のクソでしょー」

 けたけたと笑いながらつばめの盗撮を実況中継する鬼無に、寺坂が思わず腰を浮かせかけると、一乗寺が寺坂のベルトを掴んで制してきた。だが、一発殴っておかなければ気が済まない、と寺坂が一乗寺の手を振り払おうとするが、今度は道子も制してきた。今は動かない方がいいですよ、と文字を羅列した。二人揃ってらしくねぇ、と寺坂は言いかけたが、視界の端に捉えたものを正視して、喉元に迫り上がった言葉を飲み下した。

 ナユタが発光していたからだ。鬼無はそれを気にも留めずに、楽しげにつばめの実況中継を続行している。ドレスの裂け目から見える足がどうの、胸の大きさがどうの、化粧をした女は非処女だから死ね、だのと、下品な言葉を好き勝手に並べ立てている。ナユタに縛り付けられている太い鎖が飴細工のように伸びていき、千切れていく様は、彼の怒りの温度を見せつけられているかのようだった。彼が怒りという感情を得ているのであれば、だが。

 直後、ナユタを中心とした半径十メートルに存在する物質が、分子レベルで分解された。


 銃声が途絶えた。 

 膝を抱えていたつばめは、頬に付いた涙の筋を拭いながら顔を上げた。そのせいで、せっかくの化粧が台無しになってしまったが、もうそんなことはどうでもよかった。頑丈な扉の向こうで、たった一人で戦い続けていた武蔵野がやられたのだろうか。彼が持っていた武器は、あの対サイボーグ用のショットガンとマガジンが一つ。もちろん、それ以外の拳銃も装備しているだろうが、弾丸には限りがある。嫌だ、嫌だ、もう嫌だ。

 誰かが死ぬのは嫌だ。辛い目に遭うのも嫌だ。自分がこの世に存在しているせいで、誰かが苦しむ羽目になる。つばめを妊娠していたせいで、母親のひばりは新免工業に誘拐された。産まれて間もないつばめを怪人に奪われ、武蔵野は右目を奪われた。更には、つばめがいなかったから、ひばりはつばめの身代わりになってナユタを止め、消滅してしまった。頭の芯がぐずぐずに腐っていくような、自分への嫌悪感が膨れ上がっていく。

「お母さん」

 出来ることなら、母親に会いたい。直接会って、謝りたい。産まれてきてごめんなさい、自分がいるせいで沢山の人達が無用な争いを繰り返している、お母さんのことも死なせてしまった。償う方法なんて、あるわけがない。

「お母さん……」

 ほんの少しでいいから、母親のことを覚えていたかった。だが、生後一ヶ月ではろくに目も開いていないだろうし、母親の顔どころか声すら覚えていられるはずがない。生きるために無我夢中で、それ以外の余力を割けないのが新生児だからだ。ずっと考えないようにしていたのに、寂しいと思わないようにしていたのに、最初から親なんて存在していないと思うようにしていたのに、母親の存在が証明されると虚勢が壊れてしまった。

「お母さぁん……」

 そして、その母親はナユタが分子レベルで分解してしまった。そもそも、なぜナユタは暴走したのだろう。新免工業がナユタに無茶をさせていたのは明白だが、管理者権限を持たない人間や機械などが働きかけたところで、ナユタは本来の機能の一部分しか発揮出来ないはずだ。その頃、管理者権限を所有していたのは祖父だが、時系列を整理して考えてみると齟齬が生じてくる。祖父は遺産を手放す必要があったのだろうか。莫大な利益を得る意味はどこにあったのだろうか。ありとあらゆる争い事は、祖父がその能力を使って遺産を管理しようとはせずに大企業に売り渡したのが原因ではないのか。

 だったら、ナユタを暴走させて母親を死に至らしめたのは、祖父である佐々木長光ではないのだろうか。その考えに至った瞬間、つばめは悲鳴を漏らしかけた。馬鹿なことを考えるな。そんなこと、あるわけが。

「でも、でも……」

 つばめは先程とは違う意味で涙ぐみながら、乱れた髪を掻き上げる。

「どうして?」

 もう、何が何だか解らない。嫌なことしかない、辛いことしか起きない、苦しいことしか訪れない。頭を抱えたつばめが息を殺して泣いていると、扉の蝶番が軋んだ。武蔵野を倒した戦闘員が来たのだろうか。けれど、つばめは抵抗する意志を完全に失っていた。自分自身で至った答えが誤りであってくれ、と思うだけで精一杯だったからだ。

 細く入り込んできた光が幅を増すに連れ、吐き気を催させる匂いも流れ込んできた。扉が全開になると、蛍光灯の逆光を受けた男が立っていた。その手には硝煙を昇らせるショットガンが一挺と、大型の拳銃が一挺あった。

「片付いた」

 武蔵野だった。スーツは盛大に返り血を浴びていて、元の生地の色が思い出しづらくなるほどの有様だった。彼も無傷とは言い難く、スーツの両袖は幾筋も切り裂かれ、スラックスも同様だった。武蔵野は緊張と疲労を緩めるためにため息を吐くと、弾切れになったショットガンを雑に投げ捨てた。火傷するほど熱した鉄の筒から、ゆらりと陽炎が漂った。武蔵野は手近な自動小銃を拾って担ぎ、ホルスターを身に付けてマガジンを差した。

「立て。行くぞ」

「どこへ?」

「外だ。この船はかなり改造してあるからな、格納庫に行けばモーターボートがごろごろしているし、ともすりゃ屋上のヘリも奪える。生かしてやるよ、お前だけは」

「嫌。どこへも行きたくない。コジロウの傍にいる」

「馬鹿言うな、あの木偶の坊はナユタと一緒に消し飛んじまったぞ。傍にいようがない」

「……ぇ」

 絶句した。つばめは涙も止まり、声も出せなくなった。武蔵野は再度ため息を吐く。

「今し方、ナユタが暴走したんだよ。おかげで船の前半分は滅茶苦茶だ、ナユタを中心に半径十メートルに存在していた物質が綺麗さっぱり消え去った。コジロウも無事じゃねぇだろうし、あの馬鹿共も解らん。だから、諦めろ。俺はお前の母親は守ってやれなかったが、お前のことだけは守ってやる。そうでもしねぇと、筋が通らねぇんだよ」

 武蔵野の言葉が聞こえなくなる。損傷した大型客船の軋みも聞こえなくなる。蛍光灯の光も、ねっとりとした鉄錆の臭気も、硝煙の鋭い匂いも、何もかもがつばめの世界から遠のいていった。おい、どうした、と武蔵野が声を掛けてきたが、つばめは反応出来なかった。倒れそうになったところを支えられ、天井を仰ぎ見る格好になった。ぐるりと世界が捻れている。ナユタは悪い子だ。自分自身のように、産まれながらにして悪い子だ。だから。

 そんな思いが、つばめの心中に凝った。

 


 死ぬかと思った。

 それは、三人に共通する感想だった。ナユタが発光して本来の機能とは異なる破壊を行った瞬間、寺坂は咄嗟に道子の電脳体が入ったMP3プレイヤーを、三人が入っている箱を抱えている人型重機に投げ付けた。外装に接触させただけでは電脳体を転送出来ないのでは、と危惧したが、そこは無限情報処理装置のアマラの能力を操れる道子である。鬼無が盗撮に用いた短波無線の電波を絡め取っていたらしく、それを通じて人型重機に電脳体を転送させたのだ。そのおかげで、ナユタが周囲の物質を消滅させた瞬間に発生した衝撃波で、寺坂と一乗寺は箱ごと海に吹っ飛ばされそうになったが寸でのところで道子の操る人型重機にキャッチされた、というわけである。

「心臓止まるかと思った……」

 心臓に大穴開いているけど、と上下逆さまの寺坂が呟くと、その隣で斜めになっている一乗寺がはしゃいだ。

「ひゃっほう、エキサイティングぅー! ナユタってば過激なんだからー!」

「お二人とも、随分と余裕ですねぇ」

 間に合わせの濁った電子合成音声を発しながら、道子の電脳体が入った人型重機は姿勢を戻した。キャタピラを回転させて甲板の先頭付近にまで後退すると、ナユタの被害を受けていない場所に箱を下ろした。そして、重機のパワーで箱を呆気なく解体すると、ああやれやれ、と寺坂と一乗寺が外に出てきた。

「で、どうする」

 首をごきりと鳴らした寺坂は、ジーンズを引き裂くと、だらしなく伸びる触手に巻き付けていい加減にまとめた。

「ナユタをどうにかするにしても、俺達じゃどうにも出来ないじゃーん」

 一乗寺は笑顔のままで、光を弱める気配すらないナユタを指した。

「だからって、無視出来るかよ。このままじゃ、俺達も豪華客船と一緒にオシャカで御陀仏、三途の川クルージングの後に閻魔大王と御対面だぜ。みっちゃん、なんとかしてナユタにアクセス出来ねぇのか?」

 寺坂が人型重機を仰ぎ見ると、道子は小首を傾げた。

「んー。それはこの船に連れてこられた時から試しているんですけど、ナユタって強情なんですよねー。アマラの方からダウンロードしたアクセスコードを使ってみたんですけど、弾かれちゃうんです。で、船島集落のつばめちゃんのおうちで良い子にしているタイスウとアソウギにも手助けを頼んだんですけど、無駄でした」

「なんだよ、その人間的な表現は」

 寺坂が訝ると、道子は笑った。

「どうしてもそうなっちゃいますって、あの子達と付き合っていると。皆、個性の固まりなんですよ? コジロウ君の核であるムリョウにしても、なかなかの曲者ですし。タイスウは四角四面の真面目な性格で、融通が効かないんです。アソウギは求められればいくらでも自分を差し出すけど、その使い方を他人に教えようとはしません。なんていうか、諦めているんですよ、アソウギは。で、私の人生をひっくり返してくれたアマラは夢見がちなんです。女の子らしいとでも言いますか、常に大量の情報に曝されているからか、ふわふわしているんです」

「で、ナユタはどうなの? そこんそこが知りたいなぁ」

 一乗寺に尋ねられ、道子は少し考えてから答えた。

「ナユタは幼いんです。エネルギーの凝固物ではありますが、普段は分子活動を抑制されていますから、眠っているのと同じ状態なんです。その能力を活用された経験も少なければ覚醒している時間も短いので、おのずと外界からの刺激に敏感になってしまって、他の遺産だとくすぐられた程度の刺激に反応しちゃうんです。だから、本来ならば割れるはずのない表面が割れて、破片がいくつも出来てしまうんです。それと、不純物が混ざったせいで不安定な状態が続いているので、苦しんでいます」

 佐々木ひばりさんの御遺体です、と道子が沈痛に付け加えると、寺坂と一乗寺は表情を一変させた。道子もまたやるせないのか、瞬きをするようにしきりに単眼に似たアイセンサーのシャッターを開閉させた。

「元に戻してやることは出来ないのか」

「出来ません。アマラの情報処理能力でも、アソウギの生体改造能力でも、分子レベルで分解された人間の肉体を回復させるのは不可能です。出来ることがあるとすれば、ナユタが完全に覚醒して、ひばりさんの御遺体の分子を消滅させることです。もっとも、今のナユタは、ムリョウと同調しているので難しいですが」

 寺坂の言葉に道子が返すと、一乗寺は腕を組んだ。

「で、ムリョウっつーか、コジロウはどうなったの?」

「えーと、それがですね、ちょっとヤバめな感じに……」

 道子が答えようとした時、一発の銃声が聞こえた。大型客船の前半分が大きく抉られたことで、甲板やブリッジ上に配備されていた戦闘員達も混乱の極みに陥っていた。バランスを失った船体は徐々に傾き始めていて、船底に穴は空いていなかったものの、竜骨にあたる鉄骨が覗くほどの損傷を受けているので、強度がかなり落ちている。だから、浸水してくるのは時間の問題であった。だが、社長はレストランで撃たれ、武蔵野はつばめを連れて逃亡したことで現場は大混乱していて、統制もかなり乱れているようだった。

 それでも、三人は努めて冷静さを保っていた。なので、銃声の主には即座に対応した。手始めに道子が人型重機の腕力で殴り付けて甲板に転がし、次に寺坂が触手で拘束しながら関節を逆に曲げて壊し、最後に一乗寺が手近な破片を的確に投げ付けて視界を奪った。落下の衝撃で両手足が外れた鬼無は、芋虫状態で情けなく喚いた。

「なんだよもう! クソが! てか、何だよあれ! 俺も死ぬところだったじゃないですかーやだー!」

「それもこれも、お前が悪いんだよ。逆鱗ってぇのはロボットにもあるんだなぁ」

 寺坂が汚れた靴底で鬼無の頭部を踏み躙ると、鬼無は無様に藻掻いた。

「んだよ! 俺に触るな、クトゥルフの親戚! 煽り耐性ぐらい付けておけっての、マジクソゲーすぎだしー!」

「海に捨てちまおうか、これ」

 寺坂は鬼無の胴体を持ち上げて上下逆さまにすると、道子が苦笑した。

「海が汚れちゃいますよ。それに、漂流中に誘導ビーコンでも出されたら、誰かが回収しちゃいますって」

「そうそう。こういう時は確実に仕留めておかないと、後が面倒なんだよねー、っと」

 一乗寺はにこにこしながら、鬼無の破損した腕が握っていた自動小銃を引っこ抜き、担いだ。

「クソガキのくせに、なかなかいい銃を使ってんじゃないのよ。生意気だぁー。うふふふふ」

「ちょっ、待て、俺ってネトウヨじゃないですから! ちょっと煽っただけで叩かれるの!? あんなもんは煽りの内に入らないっつーか、そもそも煽る気はなかったっていうかでー!」

 鬼無は懸命に胴体をよじらせるが、手足がないので寺坂の触手から逃れる術はなかった。無邪気な笑顔を顔に貼り付けた一乗寺の銃口が鬼無の頭部に据えられると、ひぃ、と鬼無は引きつった悲鳴を上げた。だが、寺坂も、道子ですらも、一乗寺を止めようとはしなかった。サイボーグの積層装甲であれば、至近距離で発砲されても弾丸は貫通しないだろう。だが、衝撃を分散することも緩和することも出来ない。つまり、鬼無の頭部に自動小銃を連発してやれば、鬼無のブレインケースに収まっている脳は見事にシェイクされるという寸法だ。

 一乗寺の指が引き金に押し込まれる寸前、再びナユタが発光した。先程の無差別攻撃ではなく、青白い光が収束して夜空を駆け抜けていった。辺りが眩しく照らされ、束の間、大型客船は昼を迎えた。光が球体を成すと、その中心には見覚えのあるシルエットが浮かんでいた。

 赤いパトライト、白と黒の外装、胸部装甲には片翼のステッカー。地上最強の警官ロボット、コジロウだった。彼は新免工業によって解体されたはずの両手足を取り戻しており、発光していた。ナユタの分子構造を変換させて己の両手足を形成し、ボディに組み込んだのだ。コジロウの傷の残る赤いゴーグルが上がり、鬼無を捉えた。

「……つばめの情緒に著しい変動と、損害を確認」

 コジロウが空中から一歩踏み出すと、船体に開いた大穴が衝撃波によって抉れ、船底から海水が噴出した。

「その原因を排除する」

 空中を蹴ったコジロウが身を躍らせ、寺坂達が留まっている甲板の先端部分へと向かってきた。すかさず道子は寺坂と一乗寺を抱えてキャタピラを急速回転させ、折れ曲がった甲板の床をカタパルト代わりにして、大型客船の後ろ半分へと飛び移った。落下軌道を変えられなかったのか、コジロウはそのまま甲板の先端部分に着地する。と、同時に、甲板の先端部分がごっそりと消え失せた。大波が発生し、海水が降り注ぐが、コジロウに触れる寸前で海水は一滴残らず消滅した。これでは、暴走したナユタが自律行動を始めたも同然だった。

「ああっ、うっかり連れて来ちゃったぁっ!」

 急ブレーキを掛けて止まった道子は、寺坂の触手に囚われたままの鬼無を見、ぎょっとした。

「ヤバさがクライマックスだろ、これ」

 少々青ざめた寺坂が今し方まで船首が存在していた空間に浮遊するコジロウを指すと、一乗寺は楽観した。

「まー、でも、なんとかなるってぇ。ロボットと人工知能と謎の古代文明は暴走するのが定番でしょー?」

 お前なぁっ、と寺坂は一乗寺の襟首を掴んで揺さぶったが、一乗寺の笑顔は消えなかった。ふと気付くと、寺坂らの周囲には逃げ延びてきた戦闘員達が固まっていた。彼らは寸でのところでナユタの攻撃を回避したが、その後の行動をどう取るべきかが解らなくなってしまったのだろう。何人かは寺坂らを攻撃しようと銃口を上げたが、現場の指揮官と思しき戦闘員が叱責して銃口を下げさせていた。こうなってしまっては、小競り合いしている場合ではないからだ。戦闘員達がゴーグル越しに注いでくる縋るような眼差しに、寺坂は半笑いになった。

「え、俺? いやいや何も出来ねぇから、触手があるだけの坊主だから、期待するとガッカリ度が半端ねぇから!」

「俺は殺していいよーって言われれば誰でも殺すけど、さすがにアレは無理かなー。えへ」

 一乗寺が変なポーズを取りながらウィンクすると、道子は平謝りした。

「えーと、私は電脳体ですけど、だからって何でも出来るわけじゃないですからね? コンピューターと電子の何某かが万能なのは、ハリウッド映画の中だけですからね?」

 三人の言葉に、戦闘員達はざわついた。プロらしからぬ怯えぶりだが無理からぬ話だ。ナユタを吸収したコジロウの攻撃によって発生した衝撃波は、沈没寸前の大型客船に致命的なダメージを与えていたからだ。爆発音の後に黒煙が噴き上がり、ナユタとは異なる赤い光源が生まれた。轟々と燃え盛る炎を浴びて、コジロウの横顔は異様な凄みを帯びていた。両の拳を固く握り締め、船の後ろ半分に避難した者達を一瞥し、鬼無を見定めた。

「目標、確認」

 コジロウの両足が宙を蹴ると、空間が、否、空気中に含まれている物質が爆ぜて推進力に変換された。炎に似た揺らめきが一瞬生まれ、消えた瞬間には、ソニックブームのような衝撃波を伴った警官ロボットが突っ込んできた。逃げる暇もなければ回避する方法を考える暇もなく、人型重機を間借りしている道子の背後に隠れていた者達以外は紙切れのように容易く吹き飛ばされて夜の海に沈んでいった。

 甲板に足を着けた部分を消滅させたコジロウが、寺坂の触手によって簀巻きにされている鬼無に照準を合わせて拳を振り上げる。コジロウが接近したことで寺坂の触手の尖端も消滅し、巨大な化け物に囓り取られたかのように円形に失われた。青白く発光する拳が鬼無に迫り、積層装甲が蒸発し、内部構造が露出する。そのまま人工臓器とブレインケースにもダメージが及ぶかと思われた、その時。

 突然、コジロウは動きを止めて拳を引いた。寺坂は鬼無と共に崩れ落ち、詰めていた息を少し緩めた。コジロウはマスクフェイスを上げ、度重なる衝撃波によって外壁が割れた客室のブロックを仰ぎ見た。寺坂が恐る恐る目線を上げると、ガラスと壁の破片が散乱するベランダに、上から下まで血塗れの武蔵野が苦々しげな面差しで立っていた。その汚れ切った腕には、気を失っているつばめが抱えられている。すかさず戦闘態勢を取ったコジロウは、武蔵野の目線にまで浮かび上がると、拳を上げた。

 今のコジロウは、つばめに近付く者全てを敵として認識している。そうでもなければ、つばめを守っている武蔵野に対して拳を向けるはずがない。寺坂の触手までもを蒸発させるわけがない。だが、コジロウとナユタを止めることが出来るのは、つばめだけだ。武蔵野は恐れもせずに身構えるが、自動小銃は一瞬で消し飛んだ。

 そして、拳が振り下ろされた。

 蚊の鳴くような声が、衝撃波が作る暴風に紛れた。

「ごめんなさい」

 武蔵野に抱きかかえられているつばめは、破れたスーツの肩に顔を埋めて震えていた。それを感知したコジロウは、武蔵野の腕を消滅させる寸前に拳を引き、後退して戦闘態勢を解除した。コジロウはつばめの汚れた肩に手を差し伸べようとするが、武蔵野は銃身が失われてただの鉄塊と化した自動小銃を捨てた。

「俺を殺すのか」

 構わん、やれ、と武蔵野は、瓦礫の破片が比較的少ない場所につばめを横たわらせた。

 破れたスーツの下に隠し持っていた拳銃やナイフを捨てて、コジロウの前に踏み出した。

「俺も俺を殺さないと、気が済まないからな」

 またどこかでガスボンベの類に引火したのか、周囲の海面を丸く抉るほどの爆発が起きた。沈没寸前の大型客船は恐ろしい高さの大波によって十数メートルの落差を上昇した後に急降下し、凄絶な悲鳴が上がる。だが、コジロウを中心とした半径数メートルの範囲の空間は一切の影響を受けず、コジロウ、武蔵野、つばめがいる場所だけは、瓦礫一つ動かなかった。ナユタによって、一種のエネルギーフィールドが発生しているのだろう。

 武蔵野の割れた額から滲み出した血の雫が汗やら何やらで濡れた襟首に滴り、吸い取られる。静電気を帯びたかのような軽い痺れを生む青白い光が、つばめの顔を死人のような色味に変えていた。コジロウはつばめに近付こうとするも、武蔵野はその前に立ちはだかった。死への恐怖と、それを上回る高揚に息を荒げながら、声を張る。

「さあ来い! 俺もこの船もナユタも全部ぶっ壊して、ひばりの娘を助けてみせろぉ!」

 それが、せめてものけじめだ。不用意につばめを悲しませてしまったのは、武蔵野の判断ミスだ。あんなことさえ言わなければ、つばめは気を失うほどのショックを受けずに済んだのだから。あの時、つばめは激しい戦闘や母親の末路とは別のことで動揺していたように思う。やけに青ざめていたし、表情も不安定だった。だが、今更そんなことに気付いたところで手遅れだ。この戦いを左右するのは、他でもないつばめだ。その少女を守るどころか、気が遠くなるほどの動揺を与えて事態を悪化させてしまった。だから、今度こそ責任を取らなければ。

「お母さん、ごめんなさい」

 つばめは幼児のように泣き、背を丸めて頭を抱える。

「私のせいで、ごめんなさい……」

 土台も金属製の殻も消滅させたナユタが、一際強く光を放つ。チェレンコフ光にも似た青い輝きが柱となり、夜空の彼方に散らばる星々を目指すように飛び抜けていく。その時、どこぞの人工衛星の一部が消滅したのか、破片が赤い流星となって降り注いできた。武蔵野は泣き伏せるつばめを見、考え、悟った。

 ナユタはつばめの精神と連動している。だから、今の今まで、誰も制御出来なかったのではないのか、と。それを踏まえて考えてみると、ひばりの無謀な行動とその最期にも筋が通る。もしかすると、あの時、赤子のつばめの身に異変が起きていたのではないか。病気か、引きつけか、ケガか、生まれたての脆弱な命を脅かす出来事が起きていたのだろう。経緯は想像も付かないが、ひばりはナユタとつばめの関連性を知っていたのだろう。それでなくても母と子の間には、何かしらの繋がりがあるのだから。

「つばめ」

 武蔵野が名を呼ぶと、つばめの薄汚れた小さな肩がひくりと反応した。だが、瞼は開かない。

「起きろよ。そこに、お前の王子様がいるぞ」

 汚れた手を血を吸ったスラックスで拭ってから、武蔵野はつばめを抱き起こしてやる。しかし、手足は脱力していて頭もかくんと反れてしまった。幾筋もの涙の筋が化粧を落とした面差しは、大人になりつつある子供の顔だったが、母親がいないと寂しがる幼子の表情だった。そして、佐々木ひばりにとてもよく似ていた。

「お前は何も悪くないんだ。お前はな、凄く大事にされて産まれてきたんだ。そいつは、俺が保証してやるよ」

 普段はほとんど使わない表情筋を酷使し、武蔵野はぎこちない笑顔を作った。思い返してみれば、佐々木ひばりに笑い返してやったことがあっただろうか。彼女は娘と同様に気丈で人懐っこいから、武蔵野にも何度となく笑顔を見せてくれていたというのに。今にして思えば、笑い返してやるべきだった。

「小指の先程度の大きさでしかなかったお前にストレスを与えないために、って、誘拐した側である俺達と仲良くしてきたんだ。俺が傍に付くようになってからは、そりゃもう扱き使われたよ。それもこれも、お前を元気に産むためだ。毎日毎日話し掛けて、ちょっとでも変なことがあれば医者を呼んで、ひどい悪阻も乗り越えて、やっとの思いでお前を産んだんだ。毛糸の靴下だって手袋だって山ほど作ったし、産着も暇さえあれば縫っていたし、布オムツなんかは馬鹿みたいな量を作っていたんだ。一体何人産むつもりなんだ、って思ったほどだ」

 それなのに、それを使い切る前に母と子は引き離された。

「だから、なあ、頼むよ。そんなこと言わないでくれ」

 武蔵野はつばめを抱き締め、喉の奥に迫り上がる異物を押し殺した。ひばりの命や思いを無下にしないでくれ、と思う一方、つばめが自分を責め立てずにはいられない気持ちも充分解っていた。だから、こんなことしか言ってやれなかった。女性に気の利いた言葉を掛けられるような性格ではないから、いつまでも、武蔵野はこうなのだ。

 ふと気付くと、ナユタの発する青い光が弱まっていた。武蔵野の体温を感じたからか、つばめが少しは落ち着きを取り戻したらしい。腕を緩めて解放してやると、つばめは濡れた睫を瞬かせながら瞼を持ち上げた。目覚めた時に自分が視界に入っては気分が悪かろうと、武蔵野はつばめの視界から離れた。嗚咽を繰り返しながら徐々に意識を引き上げていったつばめは、外界の眩しさを感じた。少々の間の後、光を背負って浮かぶコジロウを認識した。

「コジロウ?」

「本官だ」

 コジロウはつばめに近付こうとするが、破損したベランダから露出した鉄骨の尖端が消滅し、光の粒子となった。つばめは何が起きたのかはすぐには理解出来なかったが、嵐の如く渦巻く感情と誰かに抱き締められていた余韻が収まっていくと、現在の状況を認識した。

 視界に入る光景は凄まじく、大型客船の中間部分は空爆を受けたかのような大穴が開いていて、海面もまた荒れ狂っていて大型客船を中心にして高波が立ち上がっている。大型客船は真っ二つになっていて、沈没するのは時間の問題である。そこかしこで爆発が起きて、黒煙の筋がいくつも上がっている。紛うことなき大惨事だ。これでは、皆、死んでしまう。救命ボートを使って逃げるにしても、その救命ボートのあるブロックは大穴に抉られているので、大多数が壊れているか海に落ちているかのどちらかだった。だから、大半の人間が逃げられない。

「どうにかしないと」

 だが、どうやって。つばめは自分の呟きを自分で否定したが、何か出来る、出来ないはずがない、と必死に考えていた。気を失っていた間の出来事はもちろん覚えていないが、つばめの心中には硬い異物が残っていた。母親の命と人生を犠牲にしてまでも生かされたのだから、つばめは俯いているわけにはいかない。未熟なナユタは主人であるつばめを守ろうとするがあまり、無差別な攻撃に転じてしまう。コジロウはナユタによって両手足を復活させると同時にナユタの攻撃性を得てしまった末、過剰防衛ともいえる行動を取った。

 それもこれも、つばめがしっかりしていないからだ。つばめは笑ってしまいそうな膝を伸ばし切って背筋も伸ばし、一度深呼吸した。帯電したかのような刺激が気管支から肺に至り、消える。煙の匂いもしなければ炎の熱さも一切感じられないのは、コジロウとナユタがつばめを守っているからだ。ならば、その範囲を広げてしまえばいい。

「コジロウッ!」

 つばめが声を上げると、コジロウはつばめに向き直った。

「命令を」

「私をナユタの傍まで連れていって!」

「だが、現状の本官ではつばめの身の安全を保証出来ない」

 コジロウは舞い落ちてきたコンクリート片を受け止めようとするも、手に触れる前に一瞬で消し飛んだ。

「私なら大丈夫、だって私のアレだけは無傷だったってあの社長さんが言っていた!」

 消えるのが心配ならば、最初からなくせばいい。つばめは意を決し、ボロ切れ同然のドレスを脱ぎ捨てた。

「おっ、おいぃっ!?」

 すると、背後から慌てふためいた声が起きたので振り返ると、柄にもなく赤面した武蔵野が後退った。

「あっ、うっ」

 下着姿のつばめは羞恥心に襲われたが、ぐっと堪え、ブラジャーとショーツも脱ぎ捨てた。

「非常事態に恥じらってられっかぁああああーっ!」

 本当は恥ずかしい。のたうち回って布団に頭から突っ込んで隠れてしまいたいほど、恥ずかしくてたまらなかった。だが、自分一人が貧相な裸を曝すのと多数の人命を天秤に掛ければ、もちろん後者の方が重大に決まっている。だが、恥ずかしいものは恥ずかしい。つばめは先程とは違う意味で涙が出てきたが、強引に拭って顔を上げると、コジロウを手招きした。コジロウも若干視線を逸らし気味ではあったが、つばめに接近してきた。

 コジロウを包んでいる光の球体がベランダに及ぶと、ベランダの足場が半円状に削り取られる。下を見ると高さに恐怖を抱いてしまうので、つばめはコジロウだけを見つめながら、身を乗り出して手を伸ばした。コジロウの光り輝く金属製の手が伸び、つばめの手に近付く。互いを隔てる空間が狭まるが、つばめの手は光に負けなかった。その手に付いた武蔵野の血や瓦礫の粒子は掻き消されたが、つばめ自身は無傷だった。太さも長さも素材も違う指が触れ合うと、コジロウはつばめの手を握り締めて引き寄せてくれた。

「コジロウ、あのね」

 コジロウの力強い腕に抱かれたつばめは、ナユタを鎮めてやると共に船の乗員達を救う方法を説明した。

「コジロウが私と武蔵野さんを守ってくれた、あの光の球を船の大きさと同じにするの。そうすれば高波も収まるし、火も消せるようになるし、ナユタだって落ち着いてくれる。その場凌ぎに過ぎないだろうけど、何もしないでいるよりはずっといいから。でも、そのためには、ナユタを直接動かす必要があるの。だから、連れていって」

「……了解した」

「ありがとう、コジロウ」

 無茶な命令を承諾してくれたコジロウに、つばめは笑ってみせた。本当は不安でたまらないが、コジロウまでもを不安にさせてしまうべきではない。コジロウは方向転換してナユタに向き直ると、宙を飛んだ。ナユタに迫るにつれて空気が異様に重たくなっていき、コジロウの滑空速度も鈍くなっていく。それだけ、ナユタはエネルギーを帯びているという証拠だ。光を遮る術もなければ緩める術もなかったが、ここで怯んでは何の意味もない。

 青白い光の中心、全てを滅ぼす結晶の花、ナユタ。周囲に足場がないので、つばめはコジロウに抱えられた状態でナユタの目の前に接近した。膨大なエネルギーは重力すらも歪めているのか、立ち上がるのは至難の業だった。腕を伸ばすだけでも一苦労で、どろりと粘る液体の中を泳いでいるかのようだった。呼吸もしづらく、肺が膨らまない。浅く吸った息を少しだけ吐き、つばめはコジロウの手を借りて身を乗り出し、ナユタの細い六角柱を掴んだ。

「落ち着いて」

 滑らかな手触りの結晶体はぞっとするほど冷たく、硬かった。

「ね、良い子だから」

 自分自身に語り掛けるように、つばめはナユタを慈しむ。

「私の言うことを、聞いて?」

 触れ合った部分から、かすかな電流と共に流れ込んでくるものがある。それはつばめの心中に似ていて、強張りの奥に柔らかなものを隠していた。ナユタが気を許した、というか、つばめの管理者権限が適応されたのか、ナユタが発する光がいくらか衰えた。重力も弱まり、つばめの体は浮き上がったので、ナユタの芯である最も太い六角柱に体を寄せた。水面に落ちた一滴の雫に波紋を広げるように、ナユタの光が更に弱まる。

「私はあなたを悪いようにはしないから。ナユタ、あなたは役に立つの。必要とされているの。私は、あなたを必要としている。だから、お願い。皆を助けて。誰も死なせないで」

 つばめは渾身の思いを込めて、ナユタに祈った。これ以上、同じことを繰り返したくない。ナユタにも繰り返させたくはない。遺産が危険だという神名の言い分も理解出来るし、オーバーテクノロジーの固まりである遺産を活用するのは人間には難しいだろう。それならば、出来る範囲でやれるだけのことをすればいい。

 嫌なことは山ほどあるし、辛いことも次から次へと襲い掛かってくるし、コジロウの言うように人間の悪意には限度は存在していないし、欲望も同様だ。つばめはずっとそれに振り回されてきたが、だからといって人間が嫌いというわけではない。遺産もそうなってほしい。そうであってほしい。だから、つばめが彼らを好いてやらなければ。

 肩から背中に掛けて、触れるものがあった。つばめが振り返ると、コジロウがつばめを背中から抱き締めてくれていた。つばめがコジロウの胸部装甲に頭を預けると、すぐ傍に片翼のステッカーが見えた。それだけで訳もなく安心してくる。だからお願い、とナユタに再度語り掛けると、光の球体の規模が勢い良く広がった。

 真っ二つにされた大型客船が包容され、波も包容され、海に投げ出された者達も包容され、生命球のような球が夜の海に浮かび上がっていく。ナユタのエネルギーの粒子が作用したのだろう、そこかしこで起きていた火災が全て沈静化して煙も消えていた。逃げ惑っていた人々は唖然としながら、甲板やフレームなどにしがみついている。我に返った人々は、荒れ狂う海から乖離された遭難者達を引っ張り上げて無事を確かめている。重力さえも遮っているのだろう、波の雫やガラスの破片や食器などが空中を漂う様は、幻想的ですらあった。

「つっばめちゃあーんっ!」

 不意に人型重機が突っ込んできたので、コジロウが反射的に戦闘態勢を取ると、人型重機は急停止した。

「あ、私ですぅー、道子です。色々あって、この人型重機を間借りしているんです」

「……道子さん?」

 コジロウの影に隠れて体を隠しながらつばめが言うと、やけに明るい口調の人型重機はVサインをした。

「はーい、そうでーす! 色々あって人型重機に電脳体をインストールしまして! あのお二人も無事ですよ、かなりズタボロなので生きているのが不思議ですけど!」

「おう、やってるかー? しっかし、大胆なことをしやがるぜ」

 触手を使って人型重機の肩に昇ってきた寺坂は、返り血らしき赤黒い汚れが付いたサングラスを掛ける。道子の言葉通りに傷だらけで、額に巻いているタオルは血と体液で固まっていた。胸も負傷したらしく、胸から腹に掛けて血の太い筋がこびり付いている。それなのに、寺坂自身は平然としているのが奇妙だった。

「やっほー、つばめちゃーん。格好良かったよー!」

 と、叫びながら、一乗寺がダイブしてきた。つばめが慌てる間もなく、一乗寺はコジロウの肩装甲を蹴って背後に素早く回り込み、つばめを背中から抱き締めてきた。わひゃあ、と変な悲鳴を上げたつばめが、反射的に一乗寺を突き飛ばすと、一乗寺はナユタに激突した。が、怒りもせずにへらへらしている。

「で、この後、どうするー?」

「どう、って、どうしよう」

 皆を助けたはいいが、後始末を考えていなかった。つばめが言い淀むと、道子が挙手した。

「はいはーい、その辺は抜かりありませーん! ナユタが良い子になるタイミングを見計らって、海保と海自に連絡を付けておきました。一乗寺さんの名前も出しましたし、新免工業の裏情報もどばっと流してあげたので、すっ飛んでくるんじゃないですかね? 放っておいたら、どこぞの地上の楽園が襲い掛かってくる口実になっちゃいますよー、って軽ぅく脅しておいたので特急で来てくれますよ!」

「てぇことは、ここ、日本海だったの?」

 つばめが少し驚くと、寺坂は左手を上向ける。

「らしい。まあ、普通に考えりゃそうだよな。一番近いし」

「とりあえず、なんか食べたい! お腹空いた!」

 ナユタの上に仁王立ちした一乗寺が両手を挙げて喚くと、寺坂も同意した。

「だなぁ。適当になんか喰おうぜ」

「ですねー。私も船内活動用のロボットをお借りしないと、身動きが取りづらくて」

 道子が頷いたので、つばめはコジロウの首に後ろから腕を回してしがみつきながら、ベランダを窺った。そこには、やりづらそうな顔をしている武蔵野がいた。つばめと目が合ったが、すぐに目を逸らした。裸身のつばめの背中ですらも、直視するのは居たたまれないらしい。呆れるほど純情だ。

「いいですよ、武蔵野さんも御一緒で。元同僚のよしみですから」

 つばめの視線を辿った道子が言うと、寺坂は触手をぎゅるりとまとめて布切れで縛った。

「俺もあのおっさんには、ちったぁ興味があるしな」

「じゃ、さっさと行こう! あいつらはドサマギに取り逃がしちゃったけど、次がある!」

 力強く親指を立てた一乗寺に、つばめはきょとんとした。

「あいつらって?」

「……まあ、気にすんな。そのうち解る」

 寺坂は言葉を濁し、つばめに笑いかけてきた。つばめは引っ掛かりは残ったが、今は聞くべき情報ではないのだろうと判断して問い詰めなかった。一乗寺は重力が弱いのをいいことに飛び回り、全力ではしゃいでいるが、その胸にも出血の痕跡があった。人間ではない。道子は人型重機を一旦甲板に下ろしてから電脳体を移動させ、船内作業用ロボットを使って再び現れた。それは女性型アンドロイドで、未来的なメイド服を着ていた。

 コジロウの力を借りて比較的損傷の少ない船室に移動したつばめは、道子が持ってきてくれた服を着た。寺坂と一乗寺も血塗れなので、リネン室にあった誰かの服を拝借して着替えた。武蔵野は道子に引っ張ってこられると、居心地は悪そうではあったが、つばめ達と時間を共にしてくれた。道子が呼び付けた救助の船が到着するまでの間、つばめはずっとコジロウの傍にいた。コジロウもまた、つばめから離れようとはしなかった。

 この上なく、互いを必要としていたからだ。



 どうしてこうなった、とダルマ状態のサイボーグはネットスラングでぼやいた。

 文句を言いたいのはこっちだ、と周防は言いかけて、飲み下した。あの場から逃げるだけでも精一杯だったのに、なぜこんなサイボーグを助けなければならなかったのか。寺坂達と一戦交えて戦闘不能に陥っていた鬼無克二は、ナユタが大型客船を光の球で包み込んだ際にバランスを崩した寺坂の触手から滑り落ちていたものを回収し、船倉に用意されていたモーターボートに乗せて運び出した。ナユタの光の球から抜け出すために、まさか、こんなものが活用出来るとは思ってもみなかった。周防はスーツの内ポケットを探り、干涸らびた触手を取り出した。

「なんで、これを投げ付けただけで、あのバリアーみたいなものに穴が開いたんだ?」

 ナマコの干物のような触手を眺めるが、正体が解らなかった。だが、役に立ったのであればそれでいい、と周防は思い直し、干涸らびた触手を内ポケットに戻してから携帯電話を取り出した。鬼無克二を回収した後に向かう上陸地点がメールで送られてきていたので、その座標を地図に入力すると、ホログラフィーが浮かび上がった。ひたすら西に向かっていれば、何事もなければ二時間もしないうちに辿り着くだろう。

「くそ」

 顔の左半分の傷の縫合が緩んだのか、じわりと熱い血が滲み出してきた。鎮静剤を飲んでいないので、鼓動と共に傷口が疼いて顔が引きつる。口の端から入り込んできた鉄の味が舌に広がる。

「ねー、あんた。なんで俺なんか拾ってったんですかー? これなんてフラグ?」

 ロープで座席に縛り付けられている鬼無が話し掛けてきたので、周防は苛立ち紛れに言った。

「断じて俺の意志じゃない。俺はお前みたいな奴は嫌いなんだ、海に放り込んでやりたいよ」

「でもー、そういうあんたも大概ですよねー、すーちゃん?」

「はぁ?」

 なぜ、その子供染みた愛称を知っている。周防が訝ると、鬼無は唯一残った頭部を逸らす。

「俺って盗撮こそライフワークっていうかノー盗撮ノーライフっていうか、他人の秘密とか後ろめたいところとか大好きで大好きでネット社会万歳でビックリするほどユートピアみたいなー? んで、最近の大ヒットは吉岡りんねだったんですけどー、なんか盗撮のし甲斐がなくてクソゲー確定ってかでー。だから、暇潰しに政府側の方も見ちゃったんですけどこれがまた神動画でー。で、特に面白かったのがー、すーちゃんのでぇ」

「黙れ!」

 周防は拳銃を抜き、鬼無の頭部の破損部分に向けるが、鬼無は上機嫌なままだった。

「いいんですかー? 俺を殺せば、ネットに何が流出するか解らないですよー?」

「なんでもいいから、黙ってくれ」

 殺すに殺せない相手に挑発されるのは、心底腹立たしい。だが、海に放り投げては周防の雇い主と交わした契約が成立しなくなる。モーターボートのコンピューターに携帯電話を翳し、目的地の座標を読み込ませると自動運転に切り替えてから、周防は運転席の硬いシートに身を沈めた。今更ながら空腹を覚えたので、モーターボートの座席の下に用意されている非常食糧を開封し、ビスケットを囓った。どうせなら、ナユタによる荒事が起きる前にフレンチのフルコースを平らげてしまうべきだった。だが、口中に血の味がするのなら、どれでも同じか、とも思った。

 アウトサイダーには、血塗られた道しか許されないのだから。

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