サインは投げられた
佐々木つばめが新免工業の手勢に包囲され、吉岡りんねの別荘が奇襲を受けていた、同時刻。
濃密な暑気を切り裂くように、銀色の車体が山道を走り抜けていた。ポンティアック・ソルスティスの運転席に座るのは、ラフなTシャツにジーンズ姿であれどもサングラスだけは欠かさない寺坂善太郎で、助手席に座っているのは若い女性らしいワンピースにレギンスを着ている設楽道子だった。対向車両も後続車両もいないのをいいことに、寺坂は愛車のカーステレオから重低音の激しいヘヴィメタルを流していた。
量産型で廉価版のサイボーグボディを使用しているため、フェイスパターンに特徴のない顔立ちの道子は、ボディの商品カタログに掲載されていた資料画像と全く同じ表情で笑顔を浮かべていた。サイボーグボディでは空気抵抗は解っても、風の匂いや肌触りは感じられない。汗も一滴も浮かばず、季節感を感じることは出来ない。それでも、空の高さと、重低音に負けじと降り注いでくるセミの声と、廃熱の鈍さで夏なのだと感じ入っていた。
「なー、みっちゃん」
カーブに差し掛かり、自慢のスポーツカーの速度を落とした寺坂は、後部座席に載せた買い物袋を示した。
「俺とのドライブって、ただの買い出しで良かったのか? 海でも山でも都会でも、いくらでも連れていってやるのに」
「買い物ついでに、寺坂さんちを御掃除するんですよ。どうせ、伊織さんと二人暮らしじゃ、ろくに片付けもしていないでしょうからね。どれだけ汚れているのか、いっそ楽しみですらあります」
道子がにこにこすると、寺坂はカーブの先にある車止めに滑り込ませ、ブレーキを踏んだ。
「本当に?」
「本当ですってー。てか、なんで車を止めるんです?」
道子が僅かばかりの期待を抱きながら、運転席に身を乗り出すと、寺坂は日差しで熱した禿頭を押さえた。
「もしかしてさぁ、みのりんに気を遣ってたりしちゃったりするわけ?」
そう来ると思っていた。道子は、幽霊のような存在である自分が女として認識されている嬉しさを感じつつも、寺坂の心にいるのは常に彼女なのだと思い知り、頬を持ち上げ損ねた。ずっと前から解っていることではあるし、道子は寺坂とは親戚のような関係でいることを望んでいたし、実際その通りになっているのだが、胸部ポンプに軽い不具合が生じたような錯覚に陥った。生身で言うならば、心臓が絞られるような、とでもいったところだろう。
寺坂はサングラスを外し、メーターの前に置いた。ギアレバーの傍に備え付けられているドリンクホルダーから、飲みかけの缶コーヒーを取って少し口に含んでから、ハンドルを抱えてため息を吐いた。こうして見ると、寺坂という男はなかなか見栄えがする。大して鍛えていないはずなのに硬い筋肉が貼り付いた太い骨格、剃り上げていないので青黒さが一切ないスキンヘッドから鼻筋のかけてのライン、普段はサングラスに隠れている鋭い目。
だらしない法衣を脱いで上等なスーツに身を固め、目を伏せながら酒を傾ければ、夜の世界の女達を引っ掛けることなど造作もないはずだ。これで右腕が触手でさえなければ、引く手数多だろう。
「俺さぁ、どうしようもねぇんだよ」
ハンドルに額を当てた寺坂は、その拍子にクラクションを押してしまったのか、短く警笛が鳴った。
「それは知っていますって。寺坂さんが女性にだらしないのも、男の欲望に極めて忠実なのも、そうやって御自分を誤魔化して生きていらっしゃることも。私を誰だと思っているんです?」
道子はもう一つのドリンクホルダーから小振りなペットボトルを取り、飲みかけのレモンティーを傾けた。
「そうだな、みっちゃんには何もかも筒抜けなんだもんな。どこまで知っている?」
寺坂は右手で持った缶コーヒーを軽く回した後、呷った。道子は少し気まずかったが、答えた。
「全部です。寺坂さんのプライバシーを覗くつもりはなかったんですけど、つばめちゃんホットラインを作る時に遺産に関連した個体との互換性もテストしてみたんです。その時に、寺坂さんに寄生している触手さんの生体電流と意識を絡め取ってしまって、そのまま……。お嫌でしたら、私とアマラのメモリーから削除しますけど」
「いや、いいよ。俺の人生なんだ、覚えておいてくれ」
「でも」
道子が両手でペットボトルを包むと、寺坂は包帯で戒めた右手で空き缶を握り、潰した。
「俺が人間でいた頃の記憶も、記録も、保存しておいてくれ。俺がこの触手に食い潰されちまったら、その時はその記憶やら記録やら何やらをデータ化して、触手の化け物にぶち込んでくれ。そうすれば、俺という人間が死んでも、寺坂善太郎という個体は継続するからな。反吐が出るようなバージョンアップを経てな」
「そ」
そんなことない、と言いかけて道子は口を噤んだ。寺坂の右腕に成り代わっている触手の質量が年々増えていることも、道子は知っていた。寺坂が自損事故を起こして右腕を欠損した際、何者かによって移植された触手は当初は六四本だったが、寺坂が歳を重ねるに連れて触手は分裂して増殖した。弐天逸流の信者の体内から回収した触手も含まれていたので、倍々で増えていき、今となっては一三〇本に及ぶ勢いだ。そして、触手は根を張る樹木のように寺坂の体内に触手を張り巡らせていて、細い触手が寺坂の神経に成り代わった部分も少なくはない。
「なのにさぁ、俺、みのりんが好きなんだ。ヤバいぐらいに」
寺坂は右手で顔を覆い、嘆いた。それが自分であったなら、と願ってしまう自分の浅ましさに、道子は自戒する。
「美野里さんは寺坂さんがお嫌いではありませんよ、きっと。傍にいれば解ります」
「嫌っていてほしいんだよ、俺のことなんか。でないと、どっちも辛いじゃんか」
みのりんの事情も知っているんだろ、との寺坂の呟きに、道子は躊躇いながらも頷いた。
「ええ、少しばかり」
「だからさ、俺は他の女の子を引っ掛けるわけよ。あれだよ、好きな男がいるけどどうせ相手にされないから、って股が緩くなっちまう女と似たような理屈だよ。決まった相手でなきゃ満足しないって解っているくせに、一人でいるのが寂しいから、気持ちが溜まるに従って性欲の方も溜まるから、金を出せば手が届く女で発散する、ってわけ。俺も自分が最低だと思うぜ。でもさ、そうでもしねぇと、誰も俺みたいな奴に近付いてくれないだろ?」
「私は構いませんよ。寺坂さんがどうなっても、何をしていても」
道子が笑ってみせると、寺坂はジーンズのポケットを探り、タバコを取り出して銜えた。
「そりゃ、みっちゃんが俺を過大評価しているからだろ。そう言ってくれるのは嬉しいけど。みっちゃんもさ、俺以外の男に目を向けてみろよ。俺がどれだけ屑でクソで馬鹿な男か、よーく解るはずだ」
「それでも、美野里さんがいいんですか?」
「ああ、そうだ。みのりんに惚れれば惚れるほど、俺のダメさは加速していくんだよ。ちらっとでもいいから振り向いてほしくて、あのクソ爺ィから毟り取った金で何千万もする車を何台も買っちまう。バイクだって買っちまう。そんなことでみのりんが振り向いてくれないって解っちゃいるのに、そうせずにはいられない。で、空っぽの助手席を見るのが辛いから、また適当な女の子を引っ掛ける。悪循環だ」
寺坂は浅く吸っただけの煙を唇の端から零しながら、目元をしかめた。
「だから、みっちゃんは事が済んだら俺からさっさと離れた方がいい。会わない方がいい。みっちゃんが俺を真っ当に好きでいてくれるって解っているから、こうしてみっちゃんに甘えちまうんだ。俺の寺に帰っちまったら、みっちゃんでその場凌ぎの気晴らしをするかもしれない。そうなったら、色々と取り返しが付かない」
「寺坂さんであれば、構いませんよ」
どうせ使い捨ての体なのだから、誰かに使い切ってもらいたい。道子の言葉に、寺坂は呻く。
「……ああ、もう」
優しさってのは残酷だ、と付け加えてから、寺坂はほとんど吸わなかったタバコを灰皿にねじ込み、折り曲げた。それでいい、そうあるべきだ、そうでなければ自分と寺坂の微妙な関係は成り立たない。そう思う一方、道子は無性に泣きたいような気持ちになった。中途半端に大事にされているから、手を出されないし、美野里の代わりになんてなれやしない。若さと肉体を安売りして彼に買われた女性達が心底憎らしくもあり、羨ましくもなる。
エレキギターとドラムに合わせてデスヴォイスで過激な歌詞を連呼していたカーステレオに、一瞬、雑音が混じる。いや、違う。これは道子自身の通信装置に掠めた電波だ。道子は未練がましい思いを振り払って思考を切り替え、周囲を見回した。量産型で廉価なサイボーグボディではあるが、探査能力はそれなりに向上させてある。人工眼球から補助AIに伝わってきたリアルタイムの映像を各種センサーで変換し、走査する。
「寺坂さん、伏せて!」
道子が指示するよりも早く、道子のサーモグラフィーセンサーの隅で銃火が走った。気温の高さのせいで全体的に赤っぽい画面に一際強い赤が生じ、消える。その直後、ポンティアック・ソルスティスのサイドミラーが吹っ飛ぶ。鏡が粉々になって舞い散り、抉られて大穴が開いたサイドミラーがアスファルトに転げ落ちた。サイドミラーを貫通した弾丸がタイヤにも埋まったらしく、右の前輪が次第に萎んできた。
「んだよ、人がしんみりしている時に」
寺坂は動じもせずに運転席に潜り込むと、道子も姿勢を低くした。
「どこの誰でしょうか? えーと、狙撃手と歩兵との間で交わされた無線は電波が暗号化されていますけど、どうってことありませんね。この暗号化プログラムを使用しているのは……ああ、新免工業ですね」
「あー、あれか。あの傭兵崩れのおっさんの雇い主だな?」
シフトレバー越しに道子と目を合わせた寺坂は、サングラスを取り、掛けた。
「そうです。でも、なんで私達を奇襲するんでしょうね? 意図が見えないんですけど」
道子はハンドバッグを探り、小振りな拳銃を取り出した。それを見、寺坂がぎょっとする。
「おいおいおい! そんなもん持ち歩いていいのかよ、みっちゃん!」
「一応、政府の許可は下りていますよ。一乗寺さんの名義のものを貸してもらったんです」
「余計に悪いわい!」
「射程距離が短いのが難点ですけど、サイドミラーを狙撃した狙撃手の位置はさっきの通信電波と弾丸の落下軌道を計算したので割り出せましたので、さっさと反撃しますね。でないと、せっかく買ってきた箱アイスが溶けて台無しになっちゃいます。と、いうわけで」
道子は助手席の背もたれに身を隠しながら、右手に左手を添えて狙いを定め、引き金を絞った。たぁんっ、と少し軽い破裂音と共に放たれた弾丸は、的確に目標に埋まったようだった。うぐっ、との男の濁った唸りが聞こえた後、枝葉を折りながら人影が降ってきた。斜面から道路には出てこなかったものの、動きがないところを見ると、道子の射撃で致命傷を負ったとみていいだろう。殺しに満足してはいけないが、工作員としての腕前は鈍っていないのだと思うと、少しだけ誇らしくなる。だが、安心するのはまだ早い。
寺坂は右腕の包帯を解きながら起き上がり、運転席の背もたれに足を掛けて背筋を伸ばした。前後で待ち構えていたのだろう、整然とした足音の群れが迫ってくる。十秒も経たないうちに銀色のオープンカーは迷彩服を着込んだ男達と屈強な戦闘サイボーグに囲まれ、いくつもの銃口が二人を睨んできた。
「あららー、これで制圧完了ですかー? うっわー、クソゲーすぎるんですけどー?」
樹上から降ってきた一体のサイボーグは、ポンティアック・ソルスティスのボンネットに飛び乗ると、不躾な言葉を並べ立てた。反射的に寺坂が振り返ると、そこには手足がやたらに細長い戦闘サイボーグが、滑らかなボンネットを抉っていた。姿勢が悪いくせに隙はなく、細長い手には似合わない自動小銃を握っていて、それを無造作に寺坂の額に据えてきた。道子が拳銃を上げかけると、寺坂はそれを制してきた。
「あの射線からすれば俺とみっちゃんを撃ち抜くのは簡単だった。なのに、初撃でミラーとタイヤを狙ったってことは、生け捕り狙いなんだろ?
だったら、人のドタマに銃口を向けるなよ。命令違反でバラされるぞ?」
「あららー、結構鋭いんですねー。でも、俺はそこまで真面目ちゃんじゃないですしー、てか、ターゲットにそんなこと注文されたくはないんですよね、っと」
やる気のない言動とは裏腹に、昆虫のようなシルエットのサイボーグは引き金を引いた。小さく乾いた金属音がすると同時に連射された弾丸が、サングラスを掛けた男の禿頭を貫通する。後部座席のクッションが弾け飛んで緩衝材が焼き切れ、赤黒い肉塊が放射状に撒き散らされてワックスの効いた銀色の車体が汚れ、先日交換したばかりのシートには肉片が貼り付いた。額から後頭部に掛けて、拳一つが通り抜けられそうな大穴が出来上がった寺坂は、体液と肉片を零しながら仰け反り、運転席に沈んだ。かと思われたが。
「……いってぇなあチクショー!」
右腕の触手でハンドルを掴んで転倒を免れた寺坂は、大穴の開いた頭を押さえながら悪態を吐いた。
「へっ?」
戦闘サイボーグは面食らい、再度寺坂を銃撃する。が、寺坂は胸に大穴が開いても死ななかった。
「だぁから、無闇に撃つんじゃねぇ! 痛いっつってんだろうが!」
心臓の位置から膨大な血液を漏らしながらも、寺坂は力強く文句を言った。戦闘サイボーグは、え、え、え、と首を左右に振って部下達と顔を見合わせたが、彼が率いている戦闘部隊の面々も硬直していた。不死身の坊主を攻撃するべきか否かを迷っているらしく、しきりに目線を配っている。
「おかげで台無しじゃねぇか、色々が!」
頭部と胸の銃創から夥しい量の血液を流しながらも、寺坂は大股に踏み出して触手を広げた。戦闘サイボーグが戸惑っている隙にその手足を絡め取って捻ると、更には彼を分銅代わりにして戦闘員達を薙ぎ払った。草刈り鎌で雑草を払うが如く、屈強な男達は一瞬にして倒されてしまい、中には斜面から転がり落ちていく者すらいた。寺坂は戦闘サイボーグを持ち上げて反動を付けた後、重量級のサイボーグ部隊にぶつけるも、盛大な金属音の後に細身の戦闘サイボーグは跳ね返ってしまった。ウェイトが違いすぎたらしい。
「うおっ、っとぉ!」
戦闘サイボーグが跳ね返った反動で自分まで車から落ちそうになり、寺坂は触手を解いた。慣性の法則に従い、戦闘サイボーグは情けない悲鳴を上げながらいずこへと吹っ飛んでいくと、数秒後には木々の枝を折りながら墜落した。サイボーグ部隊の面々はすぐさま統制を行い、二体が戦闘サイボーグを捜索するために戦線を離脱し、もう二体は戦闘を続行した。寺坂は血が入ったせいで開けづらい瞼をこじ開け、触手を波打たせる。
いくら寺坂が常人ではなくとも、あまり無理強いさせてはいけない。道子はそう判断し、サイボーグ部隊の補助AIをハッキングするためにネットワークに侵入し、ファイヤーウォールを始めとしたセキュリティを突破していった。どれもこれも子供騙しのような安直で単純なセキュリティで、一秒足らずで遠隔操作出来てしまう。道子は彼らの補助AIと生身の脳の接続を切り離すべく、作業を行おうとしたが、ある事実に気付いた。
「ひぇあっ!」
「ん、どした、みっちゃん」
寺坂に訝られ、道子は青ざめた。ような気持ちで、泣きそうな表情を作った。
「あ、あの、寺坂さん、この人達には攻撃しない方が良いです! 絶対に!」
「えー? これからが本番だってのに?」
「いや、ですから、そうじゃなくて! この人達の動力源はバッテリーじゃないんです、電気じゃないんです、超小型の中性子融合炉なんですよぉ! ナユタの破片なんです!
分子構造は放射線とは違いますけど、中性子であることにはなんら変わりはないわけですから、適当にぶっ壊したりするとそりゃもう大惨事が起きちゃいます!」
道子が寺坂を掴んで揺さぶると、一層出血が増えたので、道子は本当に泣きそうになった。
「わあんっごめんなさーいっ!」
「気にするな。これだけ出ちまったら、大して変わりねぇし」
寺坂は血塗れの手で道子の頭を軽く叩いてから、大柄なサイボーグ達に向き直った。
「で、みっちゃんの言ったことは本当か?」
「間違いない。それを取引の材料とするために、俺達はこの場にやってきたのだからな。我々が自爆すれば被害は甚大だ。理論上では船島集落を中心とした半径五〇キロが消し飛ぶ」
一歩前に踏み出したサイボーグは大型の自動小銃を下ろし、積層装甲に覆われた腹部に手を添えた。
「だけど、そんなことをしたらあなた達も死にますよ? 消し炭も残りませんよ?」
道子が彼らの行く末を憂うが、既に覚悟を決めているのだろう、サイボーグ達は動じない。
「大事の前の小事に過ぎん。我々に従い、連行されるか、それとも我々と死力を尽くして戦い抜いた末に自爆され、大量の無関係な人間を死に至らしめるか。二つに一つだ」
積層装甲が開き、鉛の板に覆われた箱が迫り出してくる。それ自体は小振りで、指輪を入れるビロードの小箱と大差のない大きさだった。だが、その小さな箱の中に恐ろしい量のエネルギーを発生させる物体が封じ込められている。今は分子活動が落ち着いているので安全だが、少しでも刺激を与えれば、中性子が活性化した末に暴走し、大爆発を引き起こしかねない。それが新免工業の所有する遺産、ナユタの力なのだ。
道子は寺坂に目配せすると、寺坂は渋々右腕の触手を戒めて人間のそれに近付けると、両手を挙げて後頭部で組んで降参の姿勢を取った。道子は歯痒くなりながらも、拳銃を置き、両手を挙げて後頭部で組んだ。すると、昏倒していたと思われていた人間の戦闘員達が素早く起き上がり、寺坂と道子を拘束してきた。寺坂は右腕を特に入念に縛り付けられていい加減に止血され、道子に至っては服を引き裂かれてサイボーグボディの人工外皮を裂かれ、内蔵しているバッテリーのコードを切断されてシャットダウンされた。主電源を落としたとしても、バッテリーが生きていたら遠隔操作で再起動する、と踏んでいたからに違いない。実際、そうするつもりでいたのだが。
どこからかやってきたトレーラーに、簀巻きにされた血塗れの寺坂と半壊した道子が搬入されている最中、斜面に転げ落ちた戦闘員が泥まみれになりながら昇ってきた。タフである。そして、あの細身の戦闘サイボーグは、大柄なサイボーグ達と連れ立って戻ってきた。語尾が上がった口調で愚痴を零しながらも、任務が完了していると知ると、浮き浮きした足取りでトレーラーに乗り込んだ。んじゃーしゅっぱーつ、とドライブに出掛ける子供のような口振りで戦闘サイボーグが指示すると、トレーラーは山道を邁進していった。
後に残されたのは、血生臭いスポーツカーだけだった。
夏の昼下がりほど、気怠いものはない。
散らかり放題の職員室で、一乗寺は書類とゴミが雑然と積み上がっているデスクに向かっていた。ホログラフィーのカレンダーを見てみるも、今日はまだ八月の上旬だ。夏休みが終わるまでには二週間程度もあるので、つばめが分校に登校してくるのは当分先になる。それまでは、退屈でどうしようもない。教師の仕事は、慣れてくると面白いものだからだ。つばめは物事の飲み込みが良く、頭の回転が早い生徒だから、というのもあるが、手応えがあると遣り甲斐が出てくる。教えたら教えた分だけ、理解してくれるし、理解してくれたらその次も教えてやりたくなる。
「……あ」
一乗寺はふと違和感を覚え、身を起こした。
「いおりんが死んだ!」
埃っぽく粘ついた空気に広がった叫びが消え失せても、違和感は消えず、一乗寺の血流の鈍り切っていた肉体に活性を与えてきた。神経がざらつき、内臓が熱してくる。一度深呼吸して気分を落ち着けようとするが、無理だった。一度、感じ取ってしまったものは排除出来ないからだ。抗うのを諦め、一乗寺は瞼を閉じた。
意識の端、無意識と意識の狭間、肉体と精神を繋ぐ脆弱な糸。それらが掠め取った情報が映像となり、一乗寺の意識を侵食してくる。アソウギと父親の束縛から脱して己の人生を選ぼうとしていた藤原伊織と、僅かばかりの自我だけを救いにして長らえていた吉岡りんねの末路が、二人の断末魔が、一乗寺を責め立ててくる。どちらも互いを深く思い遣っていて、痛くないか、辛くないか、と案じてばかりいる。それを振り払おうとしても出来ず、伊織とりんねの声が一乗寺の心中に響き渡ってくる。どちらも遺産の産物だから、一乗寺と互換性があるのだ。
「あーくそー、リア充共めぇ」
そうやってふざけた語彙で毒突かないと、やっていられなかった。いつも、こうだからだ。
「そうやって死んでもイチャイチャしてろー、ぶっ殺したくなっちゃうぐらいになぁ」
デスクの上に転がしてある拳銃を取り、弾丸を装填済みのマガジンを差し込んだ。テレパシーというには限定的で、特殊能力と言うには弱すぎて、使い道すら見当たらない。伊織とりんねのような遺産の産物の思考が、アマラの量子コンピューターが存在している異次元宇宙を経由して一乗寺の精神に流れ込んでくるのは毎度のことなので、多少は受け流せるが、フジワラ製薬がアソウギを用いた怪人増産計画を行っていた時はひどいものだった。
アソウギに適応している人間の思考はまだ良い方だった。自業自得の苦痛を嘆いているものばかりではあるが、筋が通っていたし、ある程度は言葉として形を成していたからだ。だが、アソウギに馴染めない人間の思考は乱雑極まりなく、悪意と敵意が容赦なく一乗寺の精神を傷付けてきた。だから、一乗寺は率先して怪人達を殺したのだ。そうでもしなければ、こちらの精神が殺されてしまいそうだったからだ。
「やんなっちゃうなぁ、もう、退屈でぇ」
チェンバーを引いて初弾を装填させた拳銃を挙げ、窓の外に狙いを付ける。気配はすれども、まだ来ない。
「よっちゃんもよっちゃんで、みっちゃんとデートに行っちゃうしぃ。誘ってくれよ、寂しいんだからぁ」
買い出しに出掛けた寺坂と道子に異変が起きていることも、一乗寺は悟っている。アマラと連動している電脳体である道子が働きかけてくるからだ。彼女はアソウギほど無遠慮ではないので、必要最低限の情報だけを掻い摘んで転送してくる。新免工業の戦闘員達によって包囲され、寺坂が負傷し、道子もサイボーグボディを破壊された。二人は無傷ではないが、死にはしないだろう。どちらも常人ではないし、寺坂に至っては、理屈の上では細切れにしても死なないのだから。助けに行きたいのは山々だが、今、分校から動けば無用な被害が出る。
「あーあ、うんざりしちゃう」
誰が襲ってくるのか、誰が何を目論んでいるのか。それも、ある程度は一乗寺の精神に伝わってきている。新免工業が所有し、使用している遺産、ナユタが拾い上げて発信しているからだ。しかも、それらはナユタが放つ無限のエネルギーによって増幅されているので、槍のように突き刺さってくる。敵意と悪意、多少の功名心と金銭欲。彼らはそれぞれに願望と欲望を抱き、銃を握り締め、船島集落へと進みつつある。
「ねえ」
一乗寺は汗でべたつく髪を掻き上げ、窓越しに、青々とした葉を茂らせている桜の木を見つめた。春先に地雷で爆破された菜の花畑はそれなりに回復し、焼け焦げた地面に雑草が生えつつあった。その奥に佇んでいる年季の入った一本の桜の木は、山からの吹き下ろしを受けて煌めく枝葉を波打たせた。
「あんたさぁ。俺達のこと、好きなの嫌いなの、どっちなの?」
好きであれば、こんな仕打ちを受けさせない。さっさと手を回し、事を済ませている。嫌いであれば、今以上の苦痛が待ち受けているだろう。それを考えただけで泣きたくなるが、泣いたところで何も始まらないので、笑うしかない。苦痛を快楽に変換出来るような精神構造に変えることが出来たのは、自衛本能の結果だろう。最近では、それが演技ではなくなってきたのが空恐ろしいが、それならそれで楽ではある。
拳銃を握り慣れた手で顔を覆い、口角を吊り上げる。笑え、楽しめ、面白がれ。そうしていれば、自分の精神の傷は浅くて済む。体だけでなく、心も人間でなくなればいい。だが、姿形が人間のままだから、情けない未練が一乗寺の精神を縛り付けている。人間ではなくなりたいと願っているのに、人間で在り続けてしまう矛盾が、精神を縛る糸の棘を増やしてくる。自分は一体何者なのか。どこへ向かうべきなのか。その疑問が解ける日は、まだ来ない。
「よう、一乗寺」
職員室の裏口から、見慣れた顔が入ってきた。内閣情報調査室の調査官、周防国彦だった。
「やっほー、すーちゃん」
一乗寺が笑顔を作ると、周防は顔をしかめた。
「なんだこの部屋、せめて扇風機ぐらいは回せ! 外より暑いぞ!」
「あー、そうだっけぇ?」
一乗寺はへらっと笑うが、内心では不安が過ぎっていた。体感が鈍ってきたと言うことは、いずれ、人間に似せた化けの皮が剥がれる時が近付いているという証拠だ。その皮が剥がれたら、どんな怪物が現れるのだろうか。汗も大して流れていないし、空腹も感じていない。感じているのは、伊織とりんねの哀切な意識の断片と、寺坂と道子が連行されていく様子だけだった。方角さえ解れば、二人を運ぶトレーラーの行き先の調べが付くのだが。
「ああ全く、嫌になっちまうよ。このクソ暑いのに張り込みだなんて、殺す気かよ」
周防は手近な椅子を引き寄せると、腰掛け、ジャケットを脱いで滝のような汗を拭った。塩気の強い水気を吸ったTシャツが貼り付いて、鍛え上げられた胸筋を強調している。肩に掛けているホルスターには拳銃が下がっているが、硝煙の匂いが感じられないので発射してはいないらしい。ということは、そういうことなのだろう。
「ねえすーちゃん、俺と組んだばかりの頃、覚えている?」
一乗寺が笑顔を保ちながら言うと、周防は生温い水の入ったボトルを尻ポケットから抜き、口に含んだ。
「そりゃあな。忘れられるわけがない。何せ、お前はネンショー上がりなんだからな。有り得ないどころの話じゃねぇ、国家の保全を担う機関に犯罪者をねじ込むだなんて、本気で政府はどうかしていたよ。でもって、その張本人であるお前もどうかしていると来たもんだ。忘れろと言われても、忘れられるもんじゃない」
周防は足を組み、泥の付いたブーツの底を見せる。濡れた枯れ葉が、靴底の形に合わせて曲がっていた。
「イチ、お前はガキの頃に何人殺したんだ」
「何人、だったかなぁ。覚えてないや」
えへ、と一乗寺が舌を出すと、周防は顔を背けた。
「ああそうかい、だったら俺が教えてやるよ。小学五年の時に同級生を一人、転落事故を装って殺害。六年の時に下級生を二人、交通事故を装って殺害。中学一年の時に同級生を三人、上級生を四人、合計七人を通り魔と交通事故を装って殺害。だが、それまでは証拠不充分として立件出来ず。中学二年の時に女子高校生を一人、通り魔を装って殺害。その時に足が着いたんだ。で、中学三年の時、修学旅行先で同級生が満載のバスが海沿いの道を走行中、改造したエアガンで運転手の動脈を吹っ飛ばして走行不能に陥らせるが、担任教師の咄嗟の判断で窮地を免れる。そして、停車したところでお前はSATに拘束され、移送され、余罪を洗いざらい吐いた」
「あー、そうそう、そんな感じだったかも」
一乗寺が頷くと、他人事みたいに言いやがって、と周防は毒突いてから、一乗寺を見据えてきた。
「なんで殺した?」
「殺さなきゃいけなかったから」
「相手は化け物でもなんでもない人間だったんだぞ。そりゃ、中には素行の悪い奴もいたかもしれないが、殺すほどの罪は犯していないじゃないか。それなのに、なんで殺すんだ」
「殺さないと、殺されるんだよ」
「手当たり次第に処分する前に一呼吸置いて考えないのか。だから、お前は」
宇宙人なんだ、と周防が苦々しげに付け加えたが、一乗寺は笑顔を保っていた。好きで殺しているわけではない。実際、殺さなければ殺されるからだ。一乗寺が殺した相手は、皆、人間の形をしている別物だからだ。彼らの思考が精神に触れてくると、居ても立ってもいられなくなる。だから、殺す。殺さなければ、食い潰される。
「ねえ、すーちゃん」
日に焼けて引き締まった男の横顔を見、一乗寺は目を細める。彼は嫌いではない、だから残念だ。
「人間ってさぁ、すごーく曖昧な生き物なんだよね。自我が強いけど自意識は甘くて、ちょっとしたことで周りの意見に流されちゃって、同じ価値観を共有していないと不安になってまとまりがなくなるくせに、頭一つ出た才能がある人間がいないと何も変えられないくせに、実際にそういうのが出てきたら寄って集って叩き潰しちゃう。で、政治でも世相でもなんでも、いい方向に向かおうとすると、耳障りのいい言葉を駆使して悪い方向に向かわせようとする奴が一杯出てきちゃう。で、先導された大衆はざざーっと悪い方向に向かうくせに、いざ悪いところに収まっちゃったら、政治が悪いだのなんだのと責任転嫁する。自業自得なのにね」
「何が言いたい?」
「でも、その曖昧な生き物を統制して、同じ意識を共有させたらどうなるだろう? 一つ一つの個体が不完全でも、駒を置き換えていくみたいに一つ一つを同じ外見の別物にすり替えていって、全体的な質を上げたらどうなるだろう? その数が倍々で増えていって、大衆と呼べるほどの規模になったら、特定の思想と意識によって統率された人間が一度に同じ行動を取ったら、市場や世相に大いに繁栄されるようになるだろう。それが一国家だけじゃなくて、他の国にも広がっていったら、人類全体の質が底上げ出来るだろうね」
「人類全体とは、また大風呂敷を広げやがったな。で、それがお前の大量殺人とどう繋がるんだ?」
半笑いになった周防とは対照的に、一乗寺は表情を消した。
「種としての質、っていうのはさ、あくまでも第三者の視点による主観だよね。超上から目線っていうか、観測者目線っていうか。量子宇宙論的なアレね。佐々木の爺さんが持っていた遺産にはそれが可能になる力があるし、実際、アマラは童貞妄想オタク野郎のせいで変なことをやらかしかけた。それは未遂で防げたわけだけど、ハルノネットのネトゲをプレイしていたり、株主総会に出席していたせいで、桑原れんげの影響をモロに受けちゃった人間の少数は廃人状態だ。現実と妄想の折り合いが付けられなくなって、自分の身の回りのことすらもままならない。そいつらはきっと、元々自我が希薄だったんだ。だから、自分に代わって物事を考えて、決めてくれて、動いてくれるばかりか、ベタ褒めしてくれる桑原れんげが忘れられなくなったんだ。まともな遺伝子情報を持っている人間にも、そんなのが一杯いるのに、わざわざ人間もどきを作ってばらまいて、人類をどうこうしようだなんて考える方がおかしいよ。だから、俺はそういう連中を殺すの。気に食わないから」
「人間に似せた別物だって? だが、お前が殺してきた人間には戸籍もあったし、解剖結果だって正常だぞ?」
「人間とそうじゃないものの線引きも、人間の在り方と同じぐらいに曖昧でしょ?
解剖結果が真っ当だからってだけで、人間だーって断定する方が乱暴だと思うよ」
「それじゃ何か。お前が殺してきたのは、吉岡グループの持つコンガラが複製した人間共だとでも言いたいのか」
「違うよぉ。コンガラは命を持たないものを複製するのが特色だし、屠殺する手間と苦労と罪悪感を与えないために生者をコピーしても死者しか出来上がらないんだ。慈悲深いんだよ、あいつは」
「慈悲深い? たかが道具だぞ?」
さも可笑しげな周防に、一乗寺は窓枠に寄り掛かる。狙いを付けてくれ、と言わんばかりに。
「道具だよ。コンガラも、俺も、すーちゃんもね。俺は、出来損ないを間引きするためだけに作られたんだよ。いや、ちょっと違うかな、その役割が割り振られたってだけだ。人間の出来損ない、道具の出来損ない、命の出来損ない。そういうのは全体的な質を悪くさせるし、何よりも俺自身が気に入らない。だから、殺すんだ」
「それこそ、超上から目線、ってやつだろ」
一乗寺の語彙を使って言い返してきた周防に、一乗寺は眉根を顰める。
「すーちゃんは、どうして道具を下に見るのさ?」
「そりゃ、道具だからだ。道具を敬って何になる。大事にするに越したことはないが、それに人格があるような言動をするのはどうかと思うね。使いこそすれ、使われちゃならない。それが、道具と人間の在り方だろ」
「だから、すーちゃんは新免工業のダブルスパイなんかやっているわけだ」
「そうだな。あいつらの思想と俺の思想が一番馴染むんだ。だから、あいつらに情報を流し、流されていたんだ」
いつから気付いていたんだ、と周防の問いに、一乗寺は幾ばくかの寂しさを覚えながらも答えた。
「ずっと前からだよ。すーちゃんの持ってくる情報は結構偏っていたしね。吉岡グループやら何やらの情報は適度で正確なのに、新免工業に関する情報はちょいと軸がずれていたんだ。それなのに、誰も咎めようとしなかったのは、俺達の上司かその上の官僚か、まあとにかく上の人間がすーちゃんと同じ思想だからでしょ?」
「遺産は膨大な税収と生産能力を持っているから国家の経済の一端を担っているが、その正体が不明であり、それを行使する権力を持つのが十四歳の小娘だからな。耄碌した爺さんよりも、そっちの方が余程危険だから。ついでに言えば、佐々木つばめが遺産の全権を掌握するようになってからは、甘い汁を吸えなくなった連中も多いんだよ。あの爺さんが無尽蔵な金を手に入れられていたのは、それ相応の繋がりがあったからだ。だが、佐々木つばめはあの弁護士の女に守られているから、遺産を相続すると同時にその辺の繋がりを綺麗さっぱり断ち切られたんだ。だから、余計に遺産を排除した方がいいという意見が強くなってきたんだ」
「俺はそうは思わないけどねぇ。使うべき用途があるから、遺産は存在するんだよ。それなのに、その用途が解りもしないうちに粗大ゴミに出そうって言うの? 馬っ鹿じゃない?」
「あんなもの、使い道が解るもんか。解ったとしても、どうせ地球がどうの人類がどうの、ってアニメじみた与太話になるだけだろうが。イチの話もそんな具合だったじゃないか。俺はそんなのに付き合うのは真っ平御免なんだよ」
「事を大きくしないためにも、事態を把握すべきだと思うんだけどなぁ。すーちゃんらしくもない」
「らしくないのはお前の方だよ、イチ。人殺しのくせに、真面目腐った話をするんじゃない」
目を上げた周防は、顎を上げると同時にワンテンポでナイフを翻す。一乗寺は素早く身を下げて足を払い、周防を椅子ごと蹴り倒す。キャスターの付いた椅子は壁まで転がり、激突してゴミを撒き散らした。が、周防は転倒せずに転身して態勢を立て直し、ナイフを閃かせる。一乗寺は教科書と参考書の山を崩し、その裏に投げておいた拳銃を握って周防に突き付ける。が、周防の手中から解き放たれたナイフが一乗寺の眉間に迫ってきた。
上半身を反らして辛うじて避けるも、前髪が裂かれて細切れの髪が散る。上体を起こした時には周防は一歩先までに近付き、二本目のナイフを出そうとベルトに手を掛けていた。元々、彼は銃撃戦よりも接近戦が得意だからだ。空間が狭ければ、その腕前は一層際立つ。牽制を兼ねた小刻みの斬撃が、舞い上がった埃の帯を断ち切る。重心を据えつつも致命傷を受けないように動線をずらす周防に一発、二発と放ったが、付き合いが長いからか動作が先読みされていて掠りもしなかった。そして、壁際に追い詰められた一乗寺の喉に切っ先が向く。
「俺に味方してくれよ、イチ」
暑気を拒絶する冷たさのナイフが首筋に押し当てられ、刃が顎に添えられる。
「そうすれば、お前の首を跳ね飛ばさずに済む。出来ることなら、殺したくないんだよ」
「少年院に収監されると同時に戸籍を抹消されて全く別の名前と経歴を与えられた、政府公認のオーバーキラーがいなくなると、色々と面倒だもんねー。それとも何、すーちゃんは俺のこと、好きなの?」
一乗寺は素早く右手を挙げて銃身を滑り込ませ、顎を削られる前に阻んだ。金属と金属が拮抗する。
「さあ、どうだかな」
「どこまで知っているの、俺のこと」
一乗寺はベルトの裏側を探って細いナイフを抜くと、それを周防の眼球に突き付ける。周防は目の前で輝く切っ先に瞳孔を開かせつつも、声色は平坦に保っていた。
「色々とな。だが、お前みたいな奴は二人といない。だから」
「あーやだやだ、俺のプライベートに踏み込んでくるなんて! すーちゃんなんて、嫌いっ!」
身を乗り出した拍子に手首を返し、一乗寺は周防の顔を削いだ。左頬から額に掛けて一直線の傷が走り、皮と肉が飛散して天井に貼り付く。瞼までもが切り裂かれたのか、周防は左目を片手で押さえて後退る。それでも拳銃を挙げてきたが、右目だけでは焦点が合わないので狙いは定まっていなかった。一乗寺は無表情を保ち、周防の足に一発撃ち込んだ。二つの薬莢が撥ねて埃の溜まった床に転がり、硝煙の筋が昇る。
「俺さぁ、普通の人間を殺すのは嫌なんだよね。天然物と養殖物じゃ罪悪感が違うし、俺の役割じゃないし。だけど、すーちゃんがそんな奴だとは思わなかった。だから、もう、すーちゃんなんか嫌い。いらない」
周防国彦は一乗寺昇という男の上っ面を理解してくれていると思っていた。仕事の上だけではあるが、付き合っていると楽しかった。ふざけるとじゃれ合ってくれた。だが、彼もやはりただの人間に過ぎなかった。真っ当な人間だから、一乗寺の人格を認めてくれないのだ。個体ではなく物体としてしか認識してくれない。それがたまらなく寂しくて、一乗寺は柄にもなく泣きそうになり、引き金を絞る指の力が緩んだ。
その間にも、精神は遺産に蝕まれる。新免工業に弄ばれているナユタが悲鳴を上げている。アマラが情報を滝のように流し込んでくる。アソウギが苦しいと呻いている。コンガラが何事かを喚いている。ゴウガシャが自分の在処を伝えようと必死になっている。ムリョウが力を欲している。タイスウが収める者達を求めている。ラクシャが哀切な声を上げている。うるさい、うるさい、うるさい。どいつもこいつも黙ってくれ。
赤い光の小さな点が、一乗寺の背中に届いた。直後、数百メートル遠方から発射された弾丸が的確に一乗寺を狙い、ガラスをクモの巣状に砕いた後に心臓に命中した。うわー腕の良いスナイパーだなぁ、と内心で感心しつつ、一乗寺は膝を折った。周防の血溜まりに自分の血が混じり合う様を凝視していると、額に火傷するほど熱した銃口が据えられた。脂汗を滲ませながら目を上げると、半死半生の周防が震える手で拳銃を握り締めていた。
勝負、あり。
一乗寺、制圧完了、との報告が無線機を通じて聞こえてきた。
レトロささえある角張った黒い無線機を掲げていた武蔵野は、それを軽く放り投げてきた。思わぬことにつばめがたじろぐと、すかさずコジロウが無線機を受け止めてくれた。無線機のスピーカーからは、新免工業の戦闘員による報告が続いている。寺坂、設楽、共に輸送中。この分では、一乗寺も連行されてしまうのだろう。だが、どこへ。
つばめはコジロウの影に隠れて、武蔵野を見上げていた。色の濃いサングラスと彫りが深く厳つい顔付きからは表情が読み取りづらかったが、威圧感は隠そうともしていなかった。つばめを連行したいがために、つばめと関わりのある者達にこうも簡単に手を掛けてしまうのか。制圧完了、と報告されていたので、皆の安否は定かではないが、殺してはいないと思いたい。殺したのであれば、わざわざ制圧という言葉を使わないはずだ。
無線機が切れると、痺れすら生じるほどの緊張が戻ってきた。つばめは喉が干涸らびそうなほど乾き切っていたが、トートバッグの中にある水筒を手にする余裕はなかった。セミの声はいつも通りにやかましいはずなのに、耳に届いてこない。コジロウの外装から漏れ聞こえてくる僅かな駆動音が、つばめの心中を支えてくれていた。
「次は誰を狙うか、解るな?」
武蔵野は口を開き、銃口を上げる。つばめはコジロウの腕に縋り付き、気力を振り絞る。
「やめてよ、それだけは。お姉ちゃんもミッキーも関係ないじゃない、放っておいてよ!」
「そう思うんだったら、お前の方が誰とも関わるな。それすらも出来ないくせに、遺産を欲しがるんじゃない」
武蔵野の叩き付けるような言葉に、つばめは身を竦めた。
「欲しいわけじゃない。でも、誰かが管理しなきゃならないから」
「だったら手放せ、今すぐに。そうすれば、弁護士の女と友達は見逃してやるよ。他の連中も五体満足とはいかないかもしれないが、解放すると約束してやる」
武蔵野はコジロウを顎で示すと、コジロウはつばめが縋り付いている右腕を曲げ、つばめの肩に触れた。
「口頭の約束は無意味だ」
「俺はお前に話しているんじゃない、木偶の坊。お前のマスターと話しているんだ」
コジロウの影に隠れているつばめを見据え、武蔵野は返事を乞うてきた。
「その木偶の坊も含めた遺産を全て手放して遺産相続争いから逃げ出すか、俺達の要求を突っぱねて弁護士の女と友達に取り返しの付かない傷を負わせるのか、それとも俺達の要求に従って連行されるか。それ以外の選択肢があると思うなよ。木偶の坊に戦わせて俺達全員を始末したところで、俺の報告が途絶えれば、他の部隊は即座に行動に移せと命令してあるからな。だから、この場を凌いだとしても無意味なんだよ」
「そんなの」
「ただの脅しに決まっている、とでも言いたいのか? だったら証拠を見せてやるよ」
武蔵野は少し離れた位置に通信兵に目配せすると、大型の無線機を背負っている通信兵は装備を探り、PDAを取り出して武蔵野に渡してきた。武蔵野はそれを操作してホログラフィーを展開させ、立体的な地図を表示させた。美野里の弁護士事務所が入っている小規模なビル、美月の住まう母方の親戚の家、二つの地図が重なった。更にリアルタイムの映像に切り替わり、戦闘員のヘルメットであろう目線の映像が現れた。
拡大に拡大を繰り返しているので解像度は低かったが、事務所でデスクワークに勤しむ美野里がいた。ガレージでレイガンドーの整備と改造で油と汗にまみれている美月の姿も確認出来た。武蔵野が一言命じると、その視界の中に黒く細長い筒が浮き上がってきた。遠距離からの狙撃が可能な、スナイパーライフルだ。その照準が上がり、何も知らずに日常を謳歌している二人に狙いが定められる。照門に照星が重なり、美野里が、美月が。
「もうやめてぇっ!」
耐えられなくなったつばめが叫ぶと、武蔵野が再度命じ、銃身が上がった。つばめはコジロウの腕を力一杯抱え、泣き出すまいと堪えていた。自分が狙われるのであれば、まだ気が楽だ。コジロウがいてくれればなんとかなるし、自分一人だけなら痛い目に遭っても我慢出来る。だが、美野里は大事な姉で、美月は生まれて初めて出来た友人なのだ。つばめが誤った決断をしたせいで二人が傷付きでもしたら、詫びようがない。
「つばめ」
コジロウは右腕を戒めるつばめの腕を解かせてから、向かい合う形で身を屈めてきた。
「コジロウ……。ねえ、私はどうすればいいの? どうすれば、皆、助けられるの?」
不安に次ぐ不安で押し潰されそうなつばめは、コジロウのマスクフェイスと見つめ合った。コジロウは優しい手付きでつばめの肩と背中を支えてくれながら、武蔵野を一瞥した。
「本官はつばめの安全を最優先する」
「でも、この人達を倒すだけじゃダメだよ。お姉ちゃんとミッキーが無事でいるっていう保証はないもん」
「それについては本官も理解している。彼らを戦闘不能に陥らせても、第二陣、第三陣が控えている。本官がいかに高性能であろうと、同時に二箇所で行われる狙撃を阻止することは物理的に不可能だ。下位個体の遠隔操作ではレスポンスにラグが生じるため、無用な被害を発生させる危険性が高い。寺坂住職と設楽女史、一乗寺諜報員の救出についても同様だ。人工衛星による探査の結果、三人の輸送ルートは大きく分断されており、本官の独力では救出は不可能だ。よって、つばめと備前女史と小倉女史の安全を確保するためには、新免工業側が提示してきた条件を了解する他はないと判断する」
「コジロウを機能停止させて、あの人達の言いなりになれってこと? でも、それじゃ」
コジロウが新免工業に奪われてしまうかもしれない。つばめが悔しさに駆られて唇を噛むと、コジロウはつばめの頬に指先で触れた。角張った指の平たい部分を用い、つばめの薄く汗が浮いた頬をそっとなぞった。
「本官のマスターは、つばめだ」
他の誰のモノにもならない、だから安心してくれ。彼はそう言いたいのだろう。つばめはコジロウの大きな手を両手で包んで頬を寄せ、その硬さと内部の機械熱に感じ入った。コジロウと離れるのは辛いし、怖いし、寂しい。けれど、美野里と美月が犠牲になる方が耐え難い。新免工業が約束を守ってくれるという保証はないが、コジロウの判断を信じなくては。つばめが感情に流されて迷っている時は、彼の冷徹な判断を信じるべきだ。それが、マスターとしての心構えではないか。つばめはコジロウと手を繋ぎながら、一度深呼吸した後、武蔵野に向き直った。
「解った。でも、コジロウを機能停止させる前に、お姉ちゃんとミッキーを狙っている人達を一人残らず退却させて。寺坂さん達がどこに運ばれていくのかも、ちゃんと教えて。私もそこに連れて行かれるんでしょ?」
「言われなくとも、そのつもりだ」
アルファ、ブラボー、共に戦闘態勢解除、退却、と武蔵野は無線機を通じて命じた。
「これでいいだろう。もう一つの要求にも応えてやる。お前とその木偶の坊は新免工業所有の大型客船に移送される。他の連中もそこに移送される。距離も時間も長い、覚悟しておけ。酔い止めぐらいは渡してやるがな」
次はお前の番だ、と武蔵野が急かしてきた。つばめとコジロウを包囲している戦闘員達は自動小銃を構え直したが、武蔵野は彼らを制して銃口を下げさせた。この隙にコジロウを戦わせ、武蔵野と戦闘員達を倒して逃げ出すのは容易いが、それでは寺坂と道子と一乗寺が助けられない。どうやって助けるか、は置いておいて、ひとまず彼らの居場所に辿り着かなければどうにもならないからだ。そのためには、不本意極まりないが新免工業の手中に落ちるしかないのだ。勝機は一筋も見えないが、これ以上事態を悪化させないためには仕方ないことなのだ。
だから、少しの間、彼から離れなければならない。つばめはコジロウと向かい合うと、外装交換によって新品同様になったマスクフェイスを撫でた。先程、コジロウがつばめにしてくれたような手付きで触れてやる、コジロウは瞼を閉じるかのようにゴーグルの光を落とした。彼なりに、覚悟を決めているのだろう。
「お休みなさい、コジロウ」
額を突き合わせ、静かに命じると、コジロウの駆動音が途絶えた。外装が開いて蒸気と共に廃熱が行われ、辺りに暑気を上回る熱が籠もった。それが弱い風で払われると、セミの声が戻ってきた。つばめは後退り、コジロウから離れた。片膝を付いて俯いている警官ロボットは身動き一つせず、試しにつばめが名前を呼んでみてもゴーグルには赤い光が戻ってこなかった。
「連行しろ」
武蔵野の言葉を受け、戦闘員達は慌ただしく動き始めた。曲がりくねった狭い道路を苦労しながら通り抜けてきた大型トレーラーがやってくると、戦闘員達は片膝を付いた格好で硬直しているコジロウを寝かせようとするが、その態勢でロックされてしまったのか、どの関節も全く動かなかった。仕方ないので、片膝を付いたコジロウの胴体や腕にチェーンを巻き付けて持ち上げ、トレーラーのコンテナに搬入された。戦闘員達の大半もコンテナに乗り込むと、発進します、とサブリーダーらしき戦闘員が言った。
「小娘。迎えの車が来るから、俺と一緒にその車に乗れ。あの木偶の坊を再起動されたら、元も子もないからな」
拳銃をホルスターに戻した武蔵野が、戦闘員が満載のコンテナを示した。つばめはコンテナの奥でビンディングに固定されているコジロウの姿を見、不安が戻ってきた。
「あの人達、コジロウに何もしない? ひどいことしない?」
「安心しろ、連中はそこまであくどくない。というか、契約にないことはしない。だから、あいつに触りもしない」
「本当?」
「ああ。それが大人の世界ってやつだよ」
武蔵野はトレーラーの運転手とコンテナに乗り込んだ戦闘員達に出発するように命じると、コンテナの後部ハッチをロックした後に大型トレーラーは発進していった。積み荷がかなり重たいからだろう、エンジン音はどこか苦しげで、カーブを曲がるのは大変そうだった。トレーラーの影が山道に消えていくと、つばめは喪失感に苛まれた。これで本当に良かったのだろうか。コジロウは、皆は、無事なのだろうか。
「とにかく、日陰にでも来い。暑さでぶっ倒れるぞ」
武蔵野は叢雲神社の石段に腰掛けると、日向の下で突っ立っているつばめを手招いた。
「悪役に心配される筋合いなんてない!」
コジロウがいないのだから、敵に弱気を見せてはダメだ、とつばめは言い返したが、緊張の糸が途切れたからか目眩が起きそうになった。踏ん張ろうとしても足元がふらつき、視界が回る。だから言わんこっちゃねぇ、と武蔵野はつばめの手を引いて石段に座らせた。涼しい木陰に入り、トートバッグに入れっぱなしになっていた水筒を取り出したつばめは蓋を開いて中身を飲んだ。氷はすっかり溶けていたが冷たさはそれなりに保たれていて、清々しい液体が喉から胃へと流れ込んでいった。武蔵野も自前の水筒を出し、傾けた。
「悪いようにはしない。お前の母親と約束したからな」
そんなの信じられるものか。つばめは再び言い返そうとしたが、武蔵野はサングラスを外してつばめを見下ろしてきていた。考えてみれば、この男の素顔を見るのは初めてかもしれない。鼻筋と同様に彫りの深い眼窩には、歴戦の兵士らしい鋭さが備わっていたが、鳶色の澄んだ瞳には親愛の情が宿っていた。言うならば、父親が娘を見守るかのような眼差しだった。つばめは戸惑い、張り詰めていた敵意が僅かばかり揺れた。
まさか、とは思うが。
無線機を握り潰すと、バッテリーの内用液が零れた。
ただの黒いプラスチック塊と化した無線機を投げ捨ててから、相手の戦闘服で手を拭う。殺すならまだしも、昏倒させるだけとなると骨が折れる。手加減しなければならないが、半端に手を抜けば返り討ちに遭ってしまうからだ。彼らは武蔵野から撤退しろと命令されたのに、それを無視して攻撃に転じようとしていた。油断も隙もない。
このブラウスは肌触りが良くて気に入っていたのに、台無しだ。けれど、事務所を直接攻撃されていたら、道子が手伝ってくれたおかげで片付いていた部屋が大荒れになってしまう。それに比べれば、ブラウスの一枚ぐらいどうということはない。気絶している戦闘員の装備を剥ぎ、生地が厚くごわごわとした迷彩服を脱がし、それを羽織って肌を隠した。足元がローヒールのパンプスなので歩きづらいが、相手のブーツまで脱がしている時間はないし、彼らが目を覚ませば反撃されてしまう。そうなれば、次こそ彼らを殺さなければならなくなる。
「殺すのは趣味に合わないのよねぇ」
美野里は細切れになったブラウスで汗を拭ってから、細かな虫が飛び交う雑草を掻き分けた。虫達は美野里が一歩踏み出しただけで道を空けてくれ、蚊の一匹も羽虫の一匹も去っていった。皆、解っているのだ。
「さて、とぉ」
美野里は伸び放題の雑草を押し退けながら進み、曲がりくねった道路に出た。きついカーブを縁取っているガードレールの向こうには、市民達が日常を謳歌している一ヶ谷市内が一望出来る。美野里が今し方までデスクワークをしていた事務所の姿も見えるが、ここからでは豆粒も同然だ。目測でも数キロは離れているが、その距離をほんの数分で、スナイパー一人とフロントマン二人を抱えて移動したのだが、疲労は感じなかった。それどころか、肉体が程良く温まってくれた。長らく使っていなかった身体能力を発揮した清々しさが、細胞の隅々にまで染み渡る。
「次の仕事に移りましょうか」
新免工業が表立って行動を開始した今を逃せば、また動きづらくなってしまう。つばめを始めとした関係者が船島集落から離れている間に、やるべきことを済ませておかなければ。美野里は辺りを見回してから、新免工業の誰かが移動手段として隠しておいたバイクを見つけた。草を被せて上手く偽装されていたが、人工物の独特の匂いだけは隠せない。イグニッションキーは刺さっていなかったので、指先を変化させてコードを切断し、それを何度か接触させてヒューズを飛ばす。すると、ガソリンエンジンが作動して黒々とした排気を噴き出した。
タイトスカートを切り裂いてバイクに跨った美野里は、ロングヘアを靡かせながら峠道を駆け抜けた。田舎なので道中では対向車とは擦れ違わなかったので、もちろんパトカーの類とも擦れ違わず、ヘルメットを被っていないことを咎められることもなかった。十数分のツーリングの末、美野里は吉岡りんねの別荘に到着した。
アイドリングを続けるバイクから下りた美野里は、一息吐いてから、ロータリーを見回した。そこにあるべき巨体が見当たらなかった。アスファルトが抉れていたり、別荘の壁が砕けていたり、と戦闘が行われた痕跡はあるものの、勝者の姿もなければ敗者の姿もなかった。ロータリーには、吉岡りんねの部下達が所有していた車両とは異なったタイヤ痕が付いていたので、岩龍はそのタイヤ痕の主に回収されたとみるべきか。ならば、別荘の主と、その部下の矮躯の男はどこにいるのだろうか。階段に足を掛けようとして、美野里は気付いた。
「何、これ?」
コンクリート製の階段には、粘液が垂れ落ちていた。それも一滴や二滴ではなく、太い刷毛で塗りたくったかのように玄関から階段の降り口まで続いている。その液体を指先で掬い取って、美野里は悟った。これは藤原伊織と吉岡りんねの成れの果てであり、それを誰かが回収して運んでいったのだと。
鍵が開け放たれている玄関に入り、足跡を残さないためにパンプスを脱いでスリッパに履き替える。粘液の帯を辿っていくと、リビングに差し掛かったところで途切れていた。恐らく、二人を同じ箱にでも詰めたのだろう。それから先は辿りようがなかったので、美野里は舌打ちした。伊織とりんねを回収したのは、りんねの部下である高守信和だと見るべきだ。二人はともかく、あれが奪われていたら面倒なことになる。
いや、まだ奪われていない。それどころか、置いていったようだ。美野里は数歩後退し、三階の壁に空いた砲撃のような大穴を仰ぎ見た。埃と木片だらけの階段を昇っていき、大穴が開いている部屋に入る。そこは吉岡りんねの自室であるらしく、美野里も見覚えのある服が折り畳まれてベッドの上に置かれていた。だが、私物はほとんどなく、壁の一面を埋め尽くしている蔵書はほとんど読まれた形跡がなかった。
「……あった」
美野里は毛足の長い絨毯に沈んでいる水晶玉を見つけると、口角を吊り上げた。
「吉岡りんねがいなくとも、滞りなく進ませますわ。マスター」
細い銀のチェーンを抓んで水晶玉を持ち上げた美野里は、それを手中に収めた。汗ばんでいるが冷たい皮膚にかすかな電流が駆け抜け、弱い痺れが末端にまで至った。たたらを踏んだ美野里は項垂れ、長い髪が顔を覆う。それを掻き上げながら上体を起こすと、美野里の面差しは一変していた。顔の作りこそ同じだが、表情筋の使い方がまるで違っていた。それまで羽織っていた迷彩服を投げ捨てると、ボロ切れも同然の服を脱ぎ、裸体を曝す。
その背からは、一対の昆虫じみた羽が生えていた。




