本日はブリザードなり
姿見に映る自分を眺め回し、結んだ髪の出来を確かめる。
セミロングよりも少し長めの髪で作ったツインテールは短く、生まれつきのクセで広がり気味だったが、つばめはその出来に大いに満足していた。ヘアゴムの根本をいじってみたり、毛先を抓んでみたり、首を左右に振って髪の揺れ具合を感じてみたり、とひとしきり楽しんでから、一歩身を引いて頬を緩める。
「結構可愛いじゃーん、この制服」
つばめは丸襟のブラウスの襟元を整え、その下に通したボウタイをリボン結びにした。紺色のジャンパースカートで襟刳りは四角く、プリーツの幅が広いボックススカートは膝丈で、冬服はその上に四つボタンの付いたブレザーを羽織る。これまで通っていた公立中学校は、至って普通のセーラー服だったので、ブレザーの制服が新鮮だった。ブラウスとボウタイ以外は全てが紺色なので地味といえば地味なのだが、それでも心が弾んでくる。
「んっふふふー」
おまけに、髪型も自由自在だ。つばめは年代物の姿見に顔を寄せ、にやけた。
「生徒が私一人しかいないんなら、どんな格好にしたって誰にも文句言われないし、他人の顔色を気にしながら髪型決めなくても済むもんねぇー。あー楽! 最っ高!」
そう言いながら、つばめは両腕を高々と突き上げた。これまでずっと、クラスの中では角を立てないように、上にも下にも突出しないように、空気であれと細心の注意を払って過ごしてきた。成績も友人関係も何もかも、常に周囲に目を配ってきたおかげで、里子であることを知られても、いじめられもせずハブられもせずに平穏無事な学校生活を送れていた。だが、それが楽しいわけがない。
「明日はどんな色にしよーかなぁー」
ヘアゴムの色一つ取っても、髪の結び方一つ取っても、通学カバンに付けるマスコット一つ取っても、誰かと同じであることを強いられていた。そうでなければ、クラスのリーダー格の女子生徒よりも地味であれという暗黙の了解があった。だから、髪をツインテールにするなんて狂気の沙汰だった。けれど、山奥のド田舎の分校にはそんなものは一切関係ない。途方もない解放感と清々しさが、つばめの心中を吹き抜けていった。制服も通学カバンも勉強道具一式も、全て自宅の中に揃っていた。
つばめは姿見に縦長の布を掛けてから、自室を見渡した。二十畳の部屋はだだっ広く、石油ストーブの熱気が届いているのは部屋の一角だけだった。制服などが入った段ボール箱とこれまた年代物の勉強机と小難しそうな本が詰まっている本棚が置いてあるのは、奥の間に繋がるふすまに面した三畳程度だけで、残りの十七畳弱のスペースは盛大に余っていた。押し入れも備え付けられているのだが、それもまた妙に大きく、つばめの分厚い布団を入れてもたっぷりと空間があった。広すぎて寒々しい自室を見渡しながら、つばめは腕を組んだ。
「ラグを敷いちゃうとせっかくの畳が台無しだし、かといってソファーを置くのも変だし、ベッドなんて以ての外だけど、空間が余りまくってんだよなぁー。家具を置くにしても、あんまり新しいと背景から浮きまくりだし」
より快適に過ごすためにはどうするべきか、とつばめは真剣に考え込んだ。先日まで住んでいた備前家は徹底して洋風で家の造りもそんな感じだった。畳敷きの和間は床の間の付いた客間だけで、それも来客がなければ滅多に使わなかった。ほとんどの床がフローリング敷きなので常にスリッパを履き、食事はダイニングテーブルに付いて洋食がメインの食卓を囲み、リビングの大きなソファーで団欒する、という具合だった。だから、畳敷きの部屋で生活したことがなかったので、インテリアが思い浮かばない。
「あ、もうこんな時間か」
横目に目覚まし時計を見やったつばめは、登校時間が近いと知ると、石油ストーブの火を落とし、新しい教科書とノートが詰まった重たい通学カバンを担いで部屋から出た。凍えるほど冷たい板張りの廊下は庭に面しているが、雨戸が閉まったままだった。廊下には光量は乏しいが電球も付いているので足元は見えるのだが、薄暗くてなんとなく気味が悪い。そう思ったつばめは雨戸に手を掛けて引っ張ってみたが、がたつくだけで滑らなかった。
「ん?」
引っ張り方が悪いんだろうか、とつばめは通学カバンを下ろしてから再度雨戸に挑むが、結果は同じだった。指が冷えて少し痛んだので手を振って血流を取り戻し、スカートに擦り付けて暖めてから、つばめは腰を据えて三度雨戸に挑戦した。だが、何度やっても開かない。雨戸の枠は滑らかに光っているので蝋が塗ってあるようなので、滑りは悪くないはずなのだが、何かが引っ掛かっているかのような感触だった。
「まあいいや、後でコジロウに開けてもらおうっと」
雨戸が開けられなければ掃除も出来ないからだ。つばめは通学カバンを担ぎ直すと、長い廊下を通り抜けて角を曲がり、居間に入った。障子戸を開けると炭の焼ける匂いと熱気が漂ってきたので、何事かと見回してみると、灰が溜まった囲炉裏に火が入っていた。部屋を暖めておいてくれたのは、もちろん彼だった。
「つばめの起床を確認」
コジロウは炭壷と着火用のマッチを脇に抱えていて、囲炉裏の傍に立っていた。ロボットが囲炉裏に火を灯す様を想像するとなんだかシュールだが、寒い朝にはありがたいことこの上ない。きっと、コジロウを使役していた祖父が教え込んでくれたのだろう。つばめは手を入念に暖めていたが、ふと異変に気付いた。昨日、伊織という名の怪人と戦った際に破損したはずの背面部の傷が塞がっている。まさか、夜中に部品を交換したのだろうか。
「ねえ、コジロウ。なんで背中の傷が元通りになっているの?」
「本官には自己修復機能が搭載されている。破損の程度にもよるが、およそ八時間で自己修復は完了する」
「理屈はさっぱり解らないけど、便利なもんだなぁ」
もしかしてナノマシンってやつなのかな、と自己完結しつつ、つばめは手を擦り合わせる。
「雨戸を開けようとしたんだけど、私の力じゃ開かなかったから、開けておいてくれる?」
「その命令は受け付けられない」
「へ? なんで?」
「雨戸を無理に開けては、雨戸の枠が破損する可能性がある」
「なんで枠が歪むの?」
「昨夜からの降雪の影響で、屋根に多大な量の雪が積もったため、家屋に歪みが生じているからだ」
「なるほど、そういうことだったのか。とりあえず、囲炉裏に火を入れておいてくれてありがとう」
手を温め終えたつばめは、朝食を見繕おうと台所に向かった。
「礼には及ばない」
背中に掛けられた機械的な言葉に、つばめはぎくりとして敷居につまずきそうになった。だが、柱を掴んで転倒を免れ、ぎくしゃくしながら台所に入った。古い家には似合わない大型冷蔵庫を開けると、昨夜の食べ残しを流用した在り合わせの朝食を見繕いながら、つばめは何度も深呼吸した。言葉を交わすだけでこれとは、手を繋いだりしたら心臓麻痺でも起こすのではないだろうか。それがまるきり冗談だと思えないのが、恋心の怖いところだ。
「疲れるなぁもう……」
つばめは自分の馬鹿さ加減にげんなりしながら、平鍋で湯を沸かした。
ダシを取っている時間も余裕もなかったので汁椀の底に塩昆布と少量の味噌を入れ、その中に湯を注いで即席の味噌汁を作る。昨晩炊いた白飯を小分けにして冷蔵保存しておいたので、それを電子レンジで暖めてからそのまま茶碗に入れる。目玉焼きを焼きたい気分ではあったがそんな余裕はなさそうだったので、小鉢に卵を割り入れて先程沸かした湯の残りを掛け、電子レンジで短時間加熱してから湯を切り、温泉卵に似たものを作った。後は漬物の類を添えれば、それらしい形になる。
朝食一式を載せた角盆を抱え、つばめは居間に戻ったが、この角盆をどこに置いて食べればいいのか解らずに立ち往生した。テーブルがないことは知っていたはずなのだが、作っている間はすっかり失念していた。コジロウはつばめが戸惑っていることを察してくれ、戸棚から御膳を一台出してくれたばかりか、座布団も敷いてくれた。
「物分かりが良くて助かるよ」
つばめは角盆を御膳に据えると、厚手の座布団に座り、手を合わせてから朝食を食べ始めた。コジロウは部屋の隅で突っ立っていたので、つばめはもう一枚座布団を出させてから、コジロウも座布団の上に座るように指示した。コジロウは若干躊躇ったものの、つばめの命令には素直に従った。
「つばめ」
「んー、なあに?」
歯応えのいいタクアンを囓りながらつばめが返すと、コジロウは言った。
「本官を座布団に座らせる意味が理解出来ない。本官は人間とは異なり、畳に正座しても足は痛まない。それ以前に、本官は直立していても疲弊することはない。よって、休息を取る必要がない」
「立っているだけでも関節って摩耗するじゃん、だからだよ」
目を合わせると話しづらいので、つばめは顔を背けながら答えるが、コジロウは続けて言った。
「駐在勤務が主な職務である警官ロボットは直立姿勢が基本姿勢であり、着座している方が却って関節に過負荷を掛けて消耗を速めるというデータが、過去のリコールで判明している」
「自分だけ座っているのにコジロウが突っ立っているの嫌なの」
「その意味が解らない」
「とにかく、私が座ったら一緒に座る! 御飯も付き合う! それだけでいいの!」
「了解した」
コジロウは語気を一切乱さずに答えたが、つばめには嫌味に聞こえてしまった。だが、それはつばめの手前勝手な感覚でしかないのであり、コジロウに悪意など存在していない。嫌味に聞こえると言うことは、ロボットを人間扱いする自分に疑問を抱いているという証拠なのだろう。けれど、それの何が悪いのだともう一方の自分が開き直っている。日本人が道具を擬人化して扱うのは今に始まったことではないし、お人形遊びの延長だと思えばいいのだ。もっとも、人形にしては厳つすぎて可愛気はないが、むしろその機械らしさが彼の魅力であって。
と、どうでもいいことを考え込みそうになり、つばめは気を紛らわすために朝食を詰め込んだ。登校時間は刻一刻と迫りつつあったので、手早く食器を洗い、身支度をしてから玄関に向かった。制服と一緒に置いてあったコートを羽織ってスニーカーを履き、風防室を通って玄関の引き戸を開けた。途端に、吹雪に襲われた。
「わぁっ!?」
ばしゃんっ、とガラスが揺れるほど強く引き戸を閉めたつばめは、今一度思い返してみた。
「今、四月だよね……?」
もう一度、恐る恐る引き戸を開けてみた。風切り音を立てながら滑り込んできた猛烈な吹雪は、ほんの一瞬で顔が凍り付きかねないほどの冷たさだった。風圧に負けそうな瞼をこじ開けて外界を注視すると、色彩は消え失せていた。辺り一面真っ白で、道にも田畑にも起伏がなくなるほど雪が分厚く積もっていた。雨戸が開かないはずだ、と合点が行った。これほど大量の雪が一晩で積もったなら、家が歪んで立て付けが悪くなってもなんら不思議はない。つばめは再び引き戸を閉めてから、主を見送りに出てきてくれたコジロウに振り返った。
「コジロウ、学校はどっちにあるの?」
船島集落の地理を把握していないため、目的地がどこかも解らない上にこの吹雪だ。つばめが問うと、コジロウはスコープアイから立体映像の地図を投影してくれた。
船島集落の構造は単純なもので、山に囲まれた盆地であり、その名の通りに船に似た楕円形だ。つばめが住む佐々木邸は船島集落の南東側、要するに船の船尾に位置しており、今日からつばめが通うことになっている地元中学校の船島分校は船首部分に位置していた。多少の傾斜が付いてはいるが、ほとんど一本道なので迷うことはなさそうだった。つばめはその地図を何度も見て頭に叩き込んでから、再度引き戸を開けた。だが、一歩踏み出したところでスニーカーから靴下から何から玄関先に積もった雪に埋まり、踏み出すことすら出来ずに足を引っ込めた。
「コジロウ、雪掻きってしたの?」
「午前五時三十二分に一度、午前七時二分に二度。だが、この降雪量では焼け石に水だったようだ」
「だろうねぇ……」
こうして会話している間にも、雪は降り積もってくる。つばめはやる気を削がれながら、外を見やった。コジロウの言葉通り、玄関と道路を繋ぐ道には雪掻きをした後が残っていて前庭には除雪された雪が山盛りになっているが、道にも庭にも白く冷たい粒がたっぷりと積み重なっていて行く手を阻んでいる。おまけに風が強いので、吹雪の先に朧気に見える杉林が弓形にしなっていた。これが東京であれば、電車はすぐに全線が止まり、道路も通行止めで、上へ下への大騒ぎになるだろうが、ここは山間の集落なのだ。だから、これが普通であり日常だ。
「ねえコジロウ、防寒着ってある?」
こうなったら慣れるしかない、と、つばめが腹を括って問うてみると、コジロウは即答した。
「つばめの着用に適した防寒具一式は、先代マスターが既に準備している」
「あるの!?」
なんという手際の良さ。つばめは祖父に感心すると同時に、ほのかに心中が暖かくなった。制服や勉強道具一式にしても、防寒着にしても、つばめがこの家に住むと信じて準備してくれていたのだから。顔を会わせたのが祖父の葬儀が最初で最後だったのが、つくづく惜しくなった。存命中に会えていたら、その愛情を直に感じることが出来ただろうと思うと、切なさが喉の奥を締め付けてきた。
「所定の位置は記憶している」
コジロウが答えたので、つばめは切なさを振り払うために明るく命じた。
「じゃ、出してきて!」
「了解した」
コジロウは一度風防室から屋内に戻ると、しばしの間の後に戻ってきた。その手には少し埃が被った段ボール箱があり、箱の側面にはサインペンながらも達筆な字で、つばめちゃん用、と書いてあった。祖父の肉筆はいかにも古風で力強いのだが、その字でちゃん付けされると微笑ましいやら気恥ずかしいやらだった。つばめはコジロウの手から段ボール箱を受け取り、ガムテープを剥がして開くと、心なしかカビ臭い女性用スキーウェアが出てきた。スキーウェアの下には丈の長い長靴とスキー用手袋があり、どちらも新品だった。
これを着るには制服からジャージに着替える必要があるので、つばめは一旦自室に戻ると、着たばかりの制服を脱いでジャージに着替えてからスキーウェアに袖を通した。グレーの分厚いズボンにはサスペンダーが付いているので、そう簡単には脱げなさそうだった。ピンクでチェック柄のジャケットのファスナーを上げてから備え付けのフードを被り、改めて通学カバンを肩に掛ける。玄関に戻ったつばめは長靴を履いてから、コジロウに挨拶した。
「じゃ、いってきます!」
「つばめ。視界不良により、方向感覚を失う危険性がある。本官が同行する」
「大丈夫だって。学校までの道は一本道だから、真っ直ぐ行けば間違いなく辿り着けるって」
「だが、つばめ」
「自分で出来ることは、ちゃんと自分でしなきゃ。学校に行くたびにコジロウにボディガードされてもらうんじゃ、あの成金御嬢様と戦えるわけがないもん。んじゃ、改めていってきます、火の元には気を付けてね!」
「いってらっしゃい」
つばめが手を振ると、コジロウも条件反射なのか手を振り返してくれた。コジロウの律儀さと心配された嬉しさで、寒さで強張った頬がちょっと緩んだが、山の吹き下ろしが入り混じった突風に襲い掛かられ、つばめの甘ったるい感情は一切合切吹き飛んだ。
がちがちと震える顎を噛み締めながら引き戸を閉め、雪の積もった道に踏み出した。だが、長靴の半分以上がすぐに埋まってしまい、踏み出した一歩の次が踏み出せなかった。苦労して片足を抜き、もう一方の足を前に出すが、またもや埋まってしまった。生け垣と柿の木で出来ている表門を睨み付け、つばめは息を荒らげながら歩いた。一歩歩くごとに体力を消耗したが、歩かなければ登校出来ないのだ。登校出来なければ学校生活も始まらず、学校生活が始まらなければ日常は取り戻せず、日常がなければ吉岡りんね率いる一味と戦うための土台も完成しない。だから、まずは登校しなければ何も始まらない。
だが、しかし、目的の校舎は吹雪の彼方だった。
一方、その頃。
吉岡りんねの根城である別荘でも、朝食が振る舞われていた。北欧を思わせる作りのログハウスにはぴったりのマホガニーの大きなテーブルには、所狭しと料理が並んでいた。しかし、そのどれもが計り知れない不味さだった。いずれの料理も、見た目は完璧なのである。山型食パンのトーストはキツネ色に焼け、彩り鮮やかな野菜サラダに湯気の昇るスープ、ふんわりと柔らかいスクランブルエッグ、と一見しただけではホテル顔負けなのだが、一度口に入れると見た目とは反比例した味が舌の上で大暴れする。
武蔵野巌雄はコンソメスープに良く似た色合いの液体を凝視していたが、スプーンの先で少しだけ掬って、口に入れてみた。すると、飲み下すことを脳が拒否した。なぜならば、コンソメスープに似た液体はリンゴジュースがベースだったからである。リンゴジュースを加熱しただけならまだいい、そこに塩コショウと白ワインと煮えた野菜が入っているから、途方もなく不味かった。野菜サラダのドレッシングはマヨネーズのように見えるが実は甘ったるい練乳で、スクランブルエッグには大量のヨーグルトが混ざっているらしく、変な酸味がする。他の連中はどうだろう、と食卓を囲んでいる面々を窺ってみると、寝ぐせで四方八方に髪が跳ねている藤原伊織は早々に食べることを諦めていて、高守信和は矮躯を更に縮めてちびりちびりと奇天烈な料理を食べていて、これを作った張本人のメイドの設楽道子はにこにこしながら平らげていて、吉岡りんねに至ってはトーストを残すだけとなった。
「それでは、皆さん」
寝起きでありながらも身支度をきちんと整えているりんねは、一同を見渡した。
「昨夜、私が取り決めた、佐々木つばめさんを襲撃する人員の選定方法についてお話しいたしましょう」
「んあ」
多少は興味が惹かれたのか、伊織が眠たげな瞼を上げる。高守も舌先で舐め取りながら摂取していたおぞましいスープからスプーンを下ろし、道子は笑顔を保ったまま半身をりんねに向けたので、武蔵野も手を休めた。
「こういった取り決めは平等さが第一ですので、私にも他の皆さんにも解らないようにいたしました。その時が訪れる瞬間まで、誰が行くかすら解らないのです。ですので、あなた方も私も条件は同じです。場合によっては、私が襲撃を行うこととなりましょう。ですが、それも至極当然のことなのです。この場にいる誰もが、佐々木つばめさんと遺産を奪取する権利を得る機会があるのですから」
りんねの丁寧な前置きに、伊織が毒突く。
「なんでもいいから本題に入りやがれ、マジ苛々すんだけど」
「では、御説明いたしましょう。毎朝の御食事の中にちくわが入っている方が、襲撃する権利を得ます」と、真面目腐った顔で言い放ったりんねに、武蔵野は頬を歪めた。笑おうか笑うまいか迷った末の結果だった。
「なんでちくわなんだよ、お嬢」
「ちくわですかぁーん、確かにキッチンの冷蔵庫にたぁーっぷり入っておりましたぁーん」
そのためのものだったんですねぇーん、と道子が両手を組んで頷くと、高守が困惑気味に俯いた。
「……む」
「マジ意味不明なんだけど。てか、お嬢のセンス、最悪すぎだし」
伊織が肩を震わせるが、りんねだけは笑わなかった。それどころか、真顔だった。
「ちくわの何がいけないのですか。あれはとてもおいしい食べ物ではありませんか」
「そりゃそうかもしれねぇがなぁ」
武蔵野は笑いを辛うじて堪えつつ、全員の朝食を見渡した。この寸分も隙のない洋食のどこにちくわを混ぜてあるというのだろうか。本当にちくわが混入されていたとしても、この破滅的に不味い料理に混じってちくわ本来の味が台無しになっているのは想像に難くない。だが、サラダやスープには見当たらず、スクランブルエッグにもそれらしいものは入っていなかった。まだ手を付けていないものはトーストだけだが、と、いうことは。
武蔵野がトーストを引き千切ると、伊織もそれに倣い、高守と道子も同じことをした。最後にトーストを千切ったのはりんねだったが、彼女のトーストの切れ目から、紛れもなくあの円筒形の練り物が現れた。
「あらまあ」
かすかに喜色を滲ませて、りんねはパンと同化していたちくわを頬張った。パンだけはまともな味なのだろうか、といくらか期待を抱きながら、武蔵野は千切ったトーストを囓ってみたが、噎せた。この山型パンはキッチンにあるホームベーカリーで焼いているのだろうが、生地を練る段階で大量のシナモンを混ぜたらしい。あれもれっきとしたスパイスなので、量が多ければ当然辛い。道理で綺麗なキツネ色をしているわけだ、と苦々しく思いながら、武蔵野は口に入れた分を嚥下する努力をした。
「では、今回は私が出ます。よろしゅうございますね」
りんねはシナモン臭いトーストを食べ終えてから、椅子を引いて立ち上がり、一礼した。
「はぁーいんっ、どうぞどうぞぉーんっ」
「てか、俺は外に出たくねーし。雪なんか最悪すぎだし、冬眠しちまうし」
「……ぬ」
三者三様の反応に、りんねは再度一礼してから食べ終えた食器を重ねてキッチンに運んでいった。艶やかな黒髪を靡かせながら通り過ぎていった少女の後ろ姿を見つつ、武蔵野はシナモン臭いパンに挑んだが、やはり二口目は無理だった。唯一まともな味のコーヒーで口中を洗い流してから、深く息を吐いた。
自室で身支度をするためか、りんねは二階に昇っていった。あんな小娘がリーダーだと知った時は正直腹が立ちもしたが、今となっては的確な人選なのだと納得してしまう。感情というものを母親の胎内に忘れてきたかのような少女は動揺せず、戸惑いすら見せず、親から命じられた仕事を淡々とこなしている。
三日前、佐々木つばめを襲撃した際も極めて冷徹で、同い年の従兄弟であるつばめが伊織に痛め付けられても眉一つ動かさず、それどころかつばめをいかに効率良く陥れるかを思案していた。コジロウと名を与えられたロボットさえ起動しなければ、あの場でつばめの手足を折って誘拐する手筈になっていた。若い頃は傭兵として戦場を渡り歩いていた武蔵野でさえ躊躇するようなことを、淀みなく言い放ち、実行する。若さ故の青さも見受けられず、ある意味では武蔵野達以上に老成している。
佐々木つばめを追い詰め、遺産を強奪するにはこれ以上ない打って付けの人材だ。
外気の寒さとは異なる寒気が、武蔵野の足元を擦り抜けていった。
どこを見ても、白しかない。太陽の位置で方角を掴もうにも、分厚い雲が覆い隠しているので光源すら見当たらない。周囲の景色で現在位置に見当を付けようにも、来たばかりの土地なので地理感覚が養われていないので全く無駄だった。
頼りになるものといえば、高精度の軍事用GPSぐらいなものだった。それがあるから身動きが取れているが、万一落としてしまえば一巻の終わりだ。いつになく気を引き締めながら、武蔵野はストックで雪を突き刺して前進した。
「同行して頂かなくともよろしかったのですが」
武蔵野の前方で止まったりんねは振り返り、ゴーグルの下の目元を僅かに顰めた。
「馬鹿言え。お嬢一人にするわけにはいかないだろ」
武蔵野もまたゴーグル越しにりんねを見据え、細いスキー板をVの字に開き、新雪に噛ませながら登っていった。りんねは防寒用マスクの下でため息のように息を吐いてから、武蔵野と同じ格好で斜面を登っていった。この季節の山間部は冬場の積雪が溶けきっていないので、綿のように軟弱な新雪の下にはザラメのような残雪があり、ノルディックスキーの細長い板が噛むたびにがりごりと擦れた。
黙々と斜面を登っていくりんねの背中は頼りないが、足取りは確かだ。別荘に首尾良く用意されていた、りんね専用のスキーウェアは爽やかな水色で、武蔵野が着ている迷彩柄の戦闘服とは大違いだ。武蔵野の場合は薄手の防寒着を何枚も重ねて空気の層を作って体温を維持しているので、りんねが着ているスキーウェアよりも軽いが、その分武装が重たい。自動小銃のコルトM4コマンドーと換えのマガジンを二本にグレネードを三発、ハンドガンのブレン・テンのスタンダードモデルと一〇ミリオート弾を装填したマガジンを一本、ミリタリーナイフを右足首に一本、とその場で見繕える限りの装備を調えてきた。これだけあれば、すぐにやられはしないだろう。
りんねが止まって身を反転させたので、武蔵野もそれに従った。りんねは軍用GPSを取り出して現在位置を確認してから、眼下の景色を見渡した。武蔵野も現在位置を確かめた後、暗視コープも兼ねた双眼鏡で船島集落一帯を見回した。船舶を思わせる楕円形の地形には合掌造りの民家が点在しているが、田畑や道と同じように満遍なく雪に埋もれていた。明かりが付いているのは北西側の分校だけで、その直線上の南東側に建っている佐々木邸の明かりは消えているので、主である佐々木つばめは登校したのだろうと踏んで目線を下げてみると、つばめと思しきピンクのスキーウェアを着た人影が雪の中を突き進んでいた。
「根性あるぜ、全く」
二人の少女に対し、武蔵野は苦笑混じりの評価を述べた。
「双眼鏡をお貸し頂けませんか、巌雄さん。私も拝見いたします」と、こちら側の少女が手を差し出したので、武蔵野はりんねに双眼鏡を手渡してから、手で射線を示した。
りんねはそれに従って双眼鏡を向けて、分校へと突き進んでいくつばめを捉えると、しばらく眺めていた。一歩進むたびにつばめは肩で息をしていて、雪から足を引っこ抜くたびに長靴が脱げかけていた。りんねや武蔵野のようにスキーを履いているか、かんじきを履いているならいざ知らず、長靴だけではまともには歩けまい。都会育ちなのでそれを知らなかったのだろうが、あまりにも無謀である。この分では、分校に辿り着くまでに日が暮れてしまう。
「巌雄さん、ここから狙撃は可能ですか?」
双眼鏡を外したりんねは、メガネを掛けたまま装着出来るゴーグル越しに武蔵野を見上げてきた。
「そりゃ無理だな。視界が悪すぎるし、俺の装備も狙撃用じゃねぇ」
武蔵野は軽く肩を竦めた。アサルトライフルとスナイプライフルでは射程距離からして大違いで、武蔵野が傭兵時代から愛用しているコルトM4コマンドーの有効射程圏内は三五〇メートルなので、この斜面から狙いを付けたとしても、弾丸が命中する前に落下して雪に埋もれてしまう。狙撃に必要なのは何も的確に標的を見定める能力だけではない、弾道がドロップする角度を計算に入れる頭も不可欠なのだ。
「そうですか。でしたら、仕方ありませんね」
りんねは落胆も諦観も示さず、武蔵野に双眼鏡を返してきた。
「それにしてもお嬢、なんだってこんな天気の時に出撃しようだなんて思ったんだ。あのちくわのくじ引きに当たったからっつっても、律儀に出るこたぁねぇだろうがよ」
武蔵野は双眼鏡をケースに収めてから訝ると、りんねは肉眼でつばめを見据えながら言った。「私がまず行動し、実行しませんと、皆さんに示しが付きませんから。リーダーシップを示すのに必要なのは戦略と戦術を組み立てる知能だけではありませんし、私が率先して行動しなければただのお飾りで終わってしまいます」
「そのお飾りで充分だろうが、お嬢は。まだ十四歳なんだぞ?」
武蔵野が半笑いになるが、りんねは語気を平坦に保っていた。
「年齢は関係ありませんし、私の身の上も関係ありません。私はあらゆる情報を総合的に分析し、つばめさんから遺産を奪取すべきだと判断し、行動に出ているまでのことです。巌雄さんもそうではありませんか?」
「そりゃまあ、あの娘をどうにか出来りゃ、俺んところの会社の利益が出るのは間違いないからな」
「そうです。私の両親が経営に携わっている吉岡グループも、つばめさんを支配下に置けば今以上の利益を出せるのは間違いないのです。当期純利益だけでも、数十兆は下らないでしょう」
「だが、今はその権利を得るための権利を、あの娘が握っている」
「そうです。つばめさんは遺産を得る権利を得ましたが、その遺産の実態については私達ほどは把握していないのが現状です。ですが、もしも把握してしまえば、つばめさんは遺産をどう扱うのでしょうか。学もなければ経験もなく、思想も固まっていないであろうつばめさんが万能の力を得てしまえば、世界は破綻します」
「……おいおい」
「考えてみて下さい、巌雄さん。私達の生活を成り立たせている政府を更に成り立たせているのは税金であり、経済を成り立たせている民衆です。そして、民衆の生活を成り立たせているのは通貨であり、通貨の価値を成り立たせているのは他でもない企業であり、企業の価値を成り立たせているのは社会そのものなのです。世界は全て現金で回っているのであり、現金がなければ何事も始まりません。この世界は資本主義社会なのです」
「そりゃあ、まあな」
「ですが、その現金の流れを十四歳の少女が掌握してしまったら、どうなるかお解りですか?」
ゴーグルとメガネの下で、りんねは澄んだ瞳を瞬かせる。
「莫大な資金を元に国内外の企業の株券を膨大に手にしたとするとつばめさんは大株主となり、つばめさんの機嫌一つで景気が大きく変動します。もしくは、莫大な資金で外国為替証拠金取引を始めてしまえば、国内に流入する外貨の価値が一変します。或いは、私達の属している企業を手当たり次第に買収してしまえば、つばめさんは経済の流れを完全に掌握してしまいます。または、口の上手い政治家に乗せられて莫大な政治献金を行い、与野党のバランスを崩してしまうかもしれません。それでなければ、国内の思惑をいち早く察したつばめさんが遺産ごと国外逃亡した末に第三国と取引を行い、日本経済を外から掌握する可能性もあります」
「そんなの、考えすぎだろう」
そうは言いつつも、武蔵野はりんねの言葉に軽く危機感を覚えた。金の流れがこの世の全て、というのは過言ではない。
万が一、りんねの危惧する通りに佐々木つばめが莫大な資産をオモチャにしてしまったら、つばめを巡る争いの輪は今以上に広がっていくだろう。そうなれば、最悪、戦争沙汰だ。つばめの意志一つで全てが決まり、全てが流れ、全てが変わる世界になれば、つばめに気に入られようと画策する者達が掃いて捨てるほど現れる。
つばめ自身がそれを拒めばまだいいのだが、人間とは得てして権力に溺れるものであり、増してそれが即効性のある財力であれば尚更だ。独裁国家の方がまだ快適だと思えるような社会が出来上がるかもしれない。
「私は、何もつばめさんが憎いわけではないのです」
りんねは憂うように、瞼を伏せる。長い睫毛は凍りかけている。
「分を越えた力を与えられた者は己を見失うと、過去の歴史が示しています。経営者にしても、会社の利益を己の私財であると混同した人間が何人もおりますし、いずれも破滅しています。ですから、私はつばめさんの身には余りすぎる遺産を引き受けて差し上げようと申し出ているのですよ。もちろん、つばめさんが生きていくために不可欠なお金はお渡しいたしますし、それ相応の生活環境も整えて差し上げますし、つばめさんの身辺の安全も私達の方で保証いたします。ですが、つばめさんはそれをお解り頂けないようです」
「接触の仕方が悪かったんじゃねぇのか? 話し合いの席を設ける前に奇襲ってのはなぁ」
誰だって嫌になるぞ、と武蔵野が控えめに付け加えると、りんねは目を丸めた。
「巌雄さんはそうお思いなのですか? 私としましては、あれが最も効率的な手段だと思ったのですが。つばめさんには伊織さんに襲撃して頂く前に注意勧告をしていたのですが、二度もはねつけられてしまいましたので、実力行使に出なければこちらの主張がお解り頂けないと思った次第でして」
「それ、誰の意見を参考にしたんだ?」
「私の母ですが」
「ああ、そうかい。親も親なら、子も子だな」
武蔵野は厚手のグローブを填めた手でゴーグルに貼り付いた雪を払い落としてから、周囲を窺う。狙われていると知っているはずのつばめが単独行動を取っているのは陽動で、コジロウに索敵させているのではないか、という考えが過ぎったが、それらしい気配はないので考えすぎだったようだ。
りんねもしきりに目を動かして異変の有無を察知しようとしているが、武蔵野とは着眼点が違うようで、船島集落を囲んでいる山々の奥を見つめていた。軍用GPSで方角を確かめると地形図のホログラフィーを出し、思案する。
「私の読みでは、地形から判断して南西側の山間に政府側の拠点が築かれていると踏んでいたのですが、動きがないところを見るとどうやら政府側は私達に手出しするつもりはないようですね。意外ではありますが」
「それが、お嬢がわざわざ出向いた理由か」
「そうです。ドライブインでつばめさんとその御姉様に接触していた男が政府の人間であると判明しておりますから、その男を通じて私達の動向が政府側にリークされないわけがありません。ですが、私達が住まう別荘にSATが攻め入ってくることもなく、私が外に出ても接触してくることはなく、巌雄さんが銃刀法を豪快に違反していても機動部隊が襲い掛かってくることもなく、怪人体に変身していた伊織さんを目撃していたであろうドライブインの女店主による通報が最寄りの警察署に届いている様子もないので、どうやら私達は黙認されているようです」
「法治国家としちゃ有り得ねぇ対応だな。邪魔されないのはありがたいが」
ますますりんねが恐ろしくなってきたが、武蔵野は声色に出さないように尽力した。自分の立場と背景を見通し、見極めた上で行動まで判断している。下手な大人よりも聡明だが、頭が良すぎていっそ気色悪くなってくる。
「政府側が私達を黙認している理由については、ある程度見当が付いています」
りんねは滑らかに言葉を連ねる。
「吉岡グループが生み出す経済効果を失いたくないからです。今現在、吉岡グループの納税額は国家資産の六割を担っております。吉岡グループから派生した企業の雇用は、昨年の年度末で七千万人に到達しております。吉岡グループ自体が破綻したとしても、独立した子会社の従業員が解雇されることはないでしょうが、母体となる会社がなくなってしまえば経営が不安定になり、遠からず経営が成り立たなくなって従業員達が解雇されてしまいます。そうなれば、従業員達が払っていた税金も滞るようになり、彼らの収入が激減することで活性化していた経済も低迷していき、いずれは円の価値も下がり、またあの不況時代が始まってしまいます。不況になれば、経済の立て直しを成功させたとして安定した支持率を得ている現首相もその座が危うくなるばかりか……」
「解った解った、もういい。要するにあれだ、風が吹かなきゃ桶屋は儲からんってことだな」
「その喩え方は間違っています、巌雄さん」
「いいんだよ、俺が納得出来れば!」
武蔵野は力任せに話題を終わらせてから、本題を切り出した。「で、お嬢、あの娘を襲うのか襲わないのか? そこまで考えているんなら、今、下手に手出しせずに政府側の動きを見たいって思っているんじゃないのか?」
「私は、どちらかと言えば行動に出るタイプの人間だと先述いたしました。ですので、つばめさんを襲撃する絶好の機会を逃したりはいたしません。コジロウさんの姿も見えませんし、政府側の男の姿も見受けられませんので、奇襲には打って付けです。ですが、この距離と風と視界の悪さでは狙撃には不向きですし、巌雄さんのアサルトライフルの有効射程圏外ですので、狙撃は行いません。その代わり、この天候と降雪を利用いたします」りんねは武蔵野に向き直り、つばめの進行方向である斜面を手で示した。
「巌雄さん、あなたのグレネード弾で斜面を砲撃して人工的な雪崩を起こして頂けませんか。大寒波の影響で降った新雪が根雪の上に降り積もっておりますので、表層雪崩が起きやすいのです」
「そんなこと、造作もない」
武蔵野はやっと出番が来たコルトM4コマンドーを肩から外すと、手早くグレネード弾を装填した。照準器を覗いて狙いを付けながら、坂の上にある分校を目指して黙々と雪原を突き進んでいくつばめとの位置関係を調節した。
「だが、雪崩を起こすだけじゃ決定的なダメージは与えられんな。二発目も撃っていいか?」
「構いません。ですが、命中はさせないで頂けますか。つばめさんが木っ端微塵になってしまわれたら、回収作業がひどく手間が掛かってしまいますので」
「ああ解っている、手足が潰れる程度に留めておくさ」
ノルディックスキーを新雪にめり込ませて腰を据え、高低差のある両足を上手く曲げて重心を定めてから、武蔵野はアンダーバレル・グレネードランチャーを握り締めた。冷え切ったU字型の鉄板を強く引き、撃鉄を叩き付けると、弾薬内の炸薬が着火する。高圧のガスを噴出しながら発射されたグレネード弾は、新雪に埋まると同時に炸裂し、白煙と爆風が巻き上がって一瞬視界が塞がった。慣れぬ音にりんねは顔を背けた。
「おっと」
耳を塞いでおけ、と忠告し忘れていた。武蔵野は硝煙の昇るアサルトライフルを下げると、ストックを突き立てながら斜面を登る。りんねは爆音の余韻で眉根を顰めていたが、武蔵野が顎で示した方向へと登っていった。程なくして、グレネード弾が大きく抉った雪面が崩れ始め、めきめきと木々を軋ませながら集落に向かって滑り落ちていった。雪崩の行く末を見守りながら、武蔵野は二発目のグレネード弾を装填した。
吹き飛ぶのが、手足だけで済めばいいのだが。
前触れもなく、閃光と爆音が轟いた。
何事かと立ち止まったつばめは、汗の浮いた額を上げて息を吸おうとしたが止めた。右手の斜面が動いている。柔らかな新雪がひび割れながら下ってきていて、枯れた枝を折り、巻き込みながら、真っ直ぐ突き進んでくる。
ひっ、と悲鳴を上げかけたが咄嗟には逃げ出せなかった。足場は最悪だし、ここまで強引に歩いてきたので体力も気力もかなり使い果たしている。身を隠せる場所がないかと辺りを見渡すが、民家も納屋も遙か彼方にあった。目測でも二三百メートル以上はあるので、歩いていったのでは十数分は掛かる。中にポンプが収納されているトタン小屋は背後五〇メートル先にあり、そちらに向かったとしても所要時間は変わらない。
「田んぼの真ん中なんて来るんじゃなかったぁー!」
分校までの近道をしようとして、田んぼを一直線に突っ切ろうとしたのがまずかった。つばめは八つ当たり気味に喚きながら、雪煙を上げながら近付いてくる雪崩に背を向け、少しでも距離を稼ごうと必死に足を動かした。実際、逃げなければ必ず死ぬので必死である。巻き込まれたら無傷では済まない、全身打撲か骨折か窒息か、いずれも大ダメージを受けることは間違いなしだ。
そもそもなんで雪崩が起きたんだろう、さっきの謎の爆発のせいか、だとするとそれってもしかしなくても、とつばめは三段論法で考えながら振り返り、喚いた。
「やっぱりあんたらかチクショー!」
雪崩の発生源よりも数メートル上の斜面には、水色のスキーウェア姿の人影と迷彩服姿の人影があった。それが誰なのかは考えるまでもない、いや、それ以外には考えられない。吉岡りんねとその部下だ。しかし、今はりんねとその愉快な仲間達に恨み言を吐いている暇はない。逃げなければ死ぬからだ。
だが、どれほど歩いても歩いても、思うように足は進まない。焦れば焦るほど長靴は雪に取られ、左足の長靴が脱げて雪の中に没してしまった。長靴が抜けた拍子に前のめりに転んだつばめは、顔面から雪に埋もれ、ただでさえ凍えていた顔に細かな針を突き立てられたような痛みを感じた。地鳴りのような衝撃が雪から伝わり、白い瀑布が吹雪をも掻き消しながらやってくる。田んぼの畝の上に降り積もって出来上がった雪の畝に雪崩の先陣が乗り、波のように翻った。そして、それがつばめを覆い隠すかと思われた、その瞬間。
「廃熱噴射!」
雪に馴染む白い影がつばめと雪崩の間に入り、超高温の蒸気を噴出させた。一瞬、視界がホワイトアウトする。暖かみの残滓が宿った蒸気に頬を撫でられ、無意識にきつく閉ざしていた目を開いたつばめは、警視庁の文字が眩い彼の背を捉えた。紛れもなく、コジロウだった。
コジロウは両腕の関節と外装を全て開いていて、その足元とつばめの周囲だけは雪が円形に溶けていた。直後、二人の脇を雪崩が通り過ぎていき、田んぼの脇に建っていたポンプ小屋を紙屑のように押し潰していった。
「こ……コジロウ……」
嬉しさよりもショックが強く、つばめはぺたんと座り込んだ。コジロウは両腕の関節のカバーと外装を閉じてから、吹雪の中では一層目立つ赤い瞳とパトライトを向けてきた。
「つばめ。負傷はしていないか」
コジロウは積雪に両足を深く埋め、掻き分けながら近付いてきた。つばめは、ぎこちなく頷く。「ああ、うん、なんとか。でも、どうして?」
「爆発音を感知してから二秒後に発進し、三秒で現場に到着した。本官の最優先事項はつばめの安全確保であるからして、いかなる場合に置いてもつばめの安全を最優先しなければならない」
「だけど、ここまでどうやって歩いてきたの? すっごい時間掛かるじゃん」
「本官は歩行していない。悪天候であることを考慮して、脚部スラスターによる超低空飛行を行って移動した」
「あ、なるほど」
つばめは、コジロウと自宅の間に伸びる一筆書きのような雪解けを視認し、納得した。地面に近い超低空で移動すれば、吹雪による乱流の影響をあまり受けずに済むだろうし、最短距離でつばめの元に辿り着ける。コジロウは脚部スラスターの過熱を廃熱しきっていなかったのか、彼の両足の周囲の雪が湯気を上げながら溶けていた。
「つばめ、指示を」
「あー、えーと……」
コジロウから命令を乞われたが、つばめは言い淀んだ。このまま登校すれば、一乗寺が暖めてくれているであろう教室で日常を始められる。一旦家に戻れば、明確に命を狙われた恐怖で二度と外に出たくなくなる。あの軍隊アリに似た怪人に襲われた時は非現実的だったので、まだ心のどこかに余裕があったのだが、今し方の爆発と雪崩によってそんなものは一切合切吹き飛んでしまった。
吉岡りんねは、本気でつばめを殺そうとしている。
「アッタマ来た!」
つばめは手近な雪を握り締めながら己を奮い立てた。敵意を抱かれるのならそれ相応の敵意を、命を狙うのであればそれ相応の対応をしてやらなければ気が済まない。そこまでして訳の解らない遺産が欲しいのか。そんなことで遺産相続が嫌になれば敵の思う壺であり、人生の帳尻が合わないどころの話ではない。
「コジロウ! なんか武器あるでしょ、あいつらを攻撃して!」
「本官は武器を搭載していない」
「えぇっ?」
拍子抜けしたつばめが声を裏返すと、コジロウは平坦に答えた。
「本官は先代マスターの判断により、武装を全解除している。よって、つばめの命令は実行不可能だ」
「でっ、でも、普通の警官ロボットだって拳銃持っているじゃん! 警棒ぐらいならあるでしょ!?」
「先述した通りだ。本官は武装を全解除している」
「えぇー……」
そんなことでは反撃出来るわけがない。沸き上がってきたばかりの戦意が削がれたつばめが肩を落とすと、コジロウが顔を上げた。直後、何かの発射音と同時に猛烈な速度で物体が迫ってきたが、コジロウが手刀で削ぎ落とすように薙ぎ払った。正体不明の物体は雪に没し、炸裂する。先程と同程度の爆発が生じ、黒煙が噴き上がる。
「つばめ、指示を。本官は基本プログラムによってマスターの護衛行動と自衛行動は許可されているが、対人戦闘はマスターの許可がなければ実行不可能だ。対人戦闘を行わなければ、つばめは再び危険に曝される可能性は非常に高い。繰り返す、つばめ、本官に指示を」
「そんなこと言われても、私はそういうの知らないよ!」
「本官は道具に過ぎない。よって、本官を生かすも殺すもつばめの判断一つなのだ」
「ついでに言えば、私が死ぬか生きるかも、だよ! だけど、そんなの思い付くわけないじゃん! だって相手はミサイルみたいなの持っているんだよ、ただの中学生に戦略も戦術もあるもんか!」
「つばめ! 二度攻撃を行ってきた火器は爆弾ではない、正確には四〇ミリグレネード弾だ!」
コジロウがやや語気を強め、つばめに振り返った。つばめは混乱と恐怖に任せ、雪玉を投げ付けた。
「そんなこと聞いちゃいないー!」
べちゃっ、とコジロウの顔面に雪玉がぶつかって弾けた。赤い瞳が隠れて薄らぎ、雪玉の飛沫を浴びたパトライトの閃光が心なしか弱まった。コジロウは今にも泣きそうなつばめと視界の半分を塞ぐ雪玉を見比べ、頷いた。
「了解した」
「え、何を?」
つばめがきょとんとすると、コジロウはおもむろに雪を掬って握り締め、投擲した。ひゅっ、と超高速の物体が吹雪断ち切って突き進み、一秒も経たないうちに着弾した。雪面が円形に抉れて衝撃波の形を露わにし、白煙が昇る。着弾地点の間近では、吉岡りんねと思しき少女が迷彩服姿の男に守られていた。どちらもまともに立っているので、ダメージは与えられていないようだ。コジロウは二発目の雪玉を両手の間で圧縮しながら、つばめに乞うた。
「指示を」
「コジロウ、今の雪玉って……」
「本官の投擲性能は戦車砲に匹敵する。毎秒一八〇〇メートルだ」
「それ、時速に換算すると?」
「時速六四八〇キロに相当する」
「てことは、マッハ6ちょいってこと?」
「そうだ」
「そりゃ武器なんかいらないなぁ」
つばめは凍えた頬を引きつらせ、乾いた笑いを漏らした。
「じゃ、その調子でお願い。でも、命中はさせないでね。死んじゃったら後味悪いもん」
「無論だ」
コジロウは雪玉を振りかぶり、放った。甲高く短い風切り音の後、斜面に抉れが新たに出来上がっていく。握っては投げ、握っては投げ、握っては投げ、を繰り返すと、先程の雪崩で緩んでいた雪が再び崩れたが小規模な雪崩だったのでつばめ達の元には到達しなかった。投擲した雪玉が貫通したのか、数本の木が中程からへし折れ、枝を地面に突き立てながら転げ落ちてきた。コジロウの廃熱による蒸気と吹雪の間から、つばめは目を凝らす。
吉岡りんねとその部下は無事だったが、身動きが取れないようだ。それもそうだろう、コジロウが立て続けに放った戦車砲に匹敵する雪玉が作ったクレーターから、ひび割れが生まれているからだ。不用意に体重を掛けてしまえば、そこからまた新たな雪崩が発生する。そうなれば、今度はあちらが命の危機に瀕するだろう。だが、つばめは二人を助けに行くような間柄ではないし、命を狙われた側なので救う義理も何もない。
「行こう、コジロウ。学校に行かなきゃ、先生が待っているから」
つばめは雪の中から長靴を掘り返すと、逆さにして中の雪を出してから履き直し、歩き出した。
「ならば、本官も同行する」
「囲炉裏とかストーブの火、大丈夫だよね? 電気も付けっぱなしじゃないよね?」
「無論だ」
「じゃあ、良かった」
つばめはそう言いつつ足を進めようとするが、やはり一歩を踏み出しても二歩目が踏み出せない。四苦八苦していると、コジロウが余熱の残る腕でつばめを抱え上げてきた。軽々と横抱きにされたつばめはぎくりとし、恐怖よりも戦意よりも遙かに熱烈な動揺に竦み上がった。
「歩行は極めて困難だ。本官が送り届ける」
「だっ……だけどさぁ……」
コジロウの腕の中でつばめが恥じ入ると、コジロウは少々首を傾げながら見下ろしてきた。「本官は判断を誤ったか?」
「そんなことないない、ないないなーいっ!」
「そうか」
コジロウは顔を上げ、手袋で顔を覆ったつばめから視線を外した。それから数十秒後、つばめは脚部スラスターで超低空飛行したコジロウによって分校まで送り届けられたが、その後の記憶は曖昧である。手狭な教室は教師の一乗寺昇がストーブで暖めていてくれたが、恐怖がぶり返してきたためと、コジロウに横抱きにされた戸惑いと興奮で震えが止まらなかった。一乗寺はへらへら笑いながら、つばめの滅茶苦茶な説明を聞いてくれたが、相槌が適当だったので聞き流してくれたといった方が正しい。
一時間ほど過ぎると、ようやくつばめの心身が落ち着きを取り戻してきた。と、同時に空腹も蘇った。登校するまでに二時間以上掛かってしまったこともあり、気付けば昼の十二時を回っていた。コジロウは教室の隅で関節と外装の隙間に溜まった雪を溶かして乾燥させているので、一言命じれば自宅まで連れ帰ってくれるだろうが、授業を何一つ受けていないのに帰るのは癪だった。
教室を出たつばめは、職員室の引き戸をノックした直後に開けた。
「失礼しまーっす!」
つばめが勢い良く引き戸を開け放つと、外見は教師っぽいジャージ姿の一乗寺が、カップラーメンの外装フィルムを剥がしていた最中だった。一乗寺が使用している古いスチール机には教科書とノートと書類の山が複数出来ていて、ノートパソコンを取り囲む城塞と化していた。そして、開きっぱなしの引き出しには多種多様なカップラーメンが溢れんばかりに詰め込まれている。主食なのだろう。
「ん、なあに、つばめちゃん」
一乗寺は不服げに眉を曲げて、口に挟んでいた割り箸を外した。よく見ると、ノートパソコンの傍らにはカップ酒が鎮座していた。つばめは、一乗寺に対して抱いていた僅かばかりの敬意を失った。
「昼間っから何やってんですか、先生」
「いーじゃんかよぉ、どうせ仕事もないんだしさぁー」
授業なんかめんどっちいしぃー、と一乗寺は教師らしからぬ言葉を吐き、カップラーメンの蓋を半分剥がしてから電気ポットの下に持っていった。つばめは一乗寺がお湯を入れ終わるのを待ってから、話を続けた。
「先生は面倒臭いかもしれないけど、私にとっちゃ大事なことなんですよ?」
「授業が? でも、つばめちゃんはもう義務教育なんかどうでもいい身分でしょーが」
一乗寺はカップラーメンの蓋を浮き上がらせないための重しとして、無造作に拳銃のマガジンを置いた。火薬の匂いが付きそうだ。
「お金は腐るほど入ってくる、良い子にしていれば適当な大人が擦り寄ってきてちやほやしてくれる、おまけに超強い警官ロボットが傍にいる。俺だったらいくつかの権利だけ手元に残しておいて、なんか超凄い遺産なんてうっちゃるけどなぁー。遊ぶ金と生活費には困らないようにしておいてさ、吉岡りんねに厄介事をぜーんぶ任せちゃう。そしたら、命を狙われるのも吉岡りんねだし、なんか超凄い遺産で起きるトラブルも吉岡りんねにだけ集中するしね。いいアイディアだと思わない、ねえ? それでなかったら、政府にちょうだいよー。そしたらカッツカツで借金まみれの国の資金繰りも楽になるし、もしかすると増税されずに済むかもしれないんだよ?」
「だから、私はそれが嫌なんですってば。政府にあげるのも嫌です、なんとなく」
間髪入れずにつばめが否定すると、一乗寺はにやりと口の端を持ち上げた。
「あ、そうなの」
「てか、なんで先生は私が成金御嬢様にしてやられる方に期待しているんですか?」
つばめが目を据わらせると、一乗寺は肩を竦める。
「だって楽じゃん。そしたら、俺の仕事も終わりだし、つばめちゃんの先公なんかしなくてもいいしさぁ」
「では質問しますけど、なんでですか?」
「だぁーって実入りが悪いんだもん、公務員なんて。いくら内閣情報調査室っつっても、危険手当だって限度があるし、弾薬だって使用制限がギッチギチの縛りプレイだし、制約も山ほどあるし。通常業務だってあるのにさぁ、教師だなんて過剰労働だよ。諜報員の仕事じゃないし。だから、やる気なんて毛の先も出ねぇの」
一乗寺はキャスター付きの椅子を引くと、カップラーメンを机に置いてから座った。
「じゃ、今度から先生の分もお弁当作って持ってきますから。どうせ私だけじゃ食べきれないし」
つばめが提案すると、一乗寺は頬杖を付いた。
「なんだい、それだけか?」
「だけって、まだ何か欲しいんですか」
心底呆れながらもつばめが問うと、一乗寺はにんまりした。
「つばめちゃんのお姉ちゃん、紹介してよ。だったら、授業やってあげなくもないぞ」
「あげなくもない、ってそれがあんたの仕事なんですよ、先生」
こんなに不真面目な男に美野里を紹介するだなんて、とつばめはむっとしたが、一乗寺は食い下がる。
「あの美人で巨乳のお姉ちゃんだって、こっちに呼び寄せてあげれば身の安全が図れるじゃないかよぉー。つばめちゃんと関わっている時点で、あのお姉ちゃんだって危ないんだからなぁー?」
「先生と関わる方が何百倍も危険な気がするんですけど」
「大丈夫だぁってばぁ、俺はちゃんと付き合ってからじゃないと寝ないタイプだから」
「どっちにしろ、不安しか沸いてこないんですけど。最早、油田を発掘した勢いで沸いてくるんですけど」
「で、どうなんだ? うんって言うのか言わないのか?」
期待に目を輝かせる一乗寺に詰め寄られ、つばめは渋々了承した。
「解りました。でも、お姉ちゃんに電話をする代わりに、引き出しにあるカップラーメンを一個もらいますからね」
「えぇー。俺にお昼御飯作ってくれるって約束したのに、人の戦闘糧食を掻っ払っていくのか? お代は払ってよ」
「私が死にそうな目に遭っても助けに来てくれないどころか、人の大事なお姉ちゃんに手を出そうとするような最低最悪な公務員に払うお金はありません。とにかく、午後の授業はきっちりしてもらいますからね!」
つばめは引き出しの中から塩バター味のカップラーメンを取り出すと、ついでに割り箸も一つ失敬した。
「金なら嫌になるほどあるくせに、ケチ臭いなぁもう」
一乗寺がこれ見よがしに拗ねたが、つばめはカップラーメンを開けて電気ポットから湯を注ぎ、その上に割り箸を置いて蓋をしてから職員室の引き戸に手を掛けた。
「ケチなのはどっちですか!」
そう言い捨ててから、つばめは職員室を後にした。湯気の昇るカップラーメンを両手で支えながら教室に戻ると、行儀が悪いと知りつつも足で引き戸を開けてから中に入った。それを自分の机に置いてから、湯の熱さで暖まった手を握り締め、雪の降り止まない外界を見やった。
コジロウは機体の乾燥が終わったらしく、ダルマストーブのある教室の隅から後ろの引き戸の傍に移動していた。彼を横目に窺うと視線が合いそうになったので、つばめは慌てて目を逸らした。体が温まってくると、横抱きにされた嬉しさが蘇ってきた。コジロウの目がなかったら、机を両手で殴り付けながら悶えていたことだろう。少女漫画の主人公が陥りがちなファンタジックな妄想も頭の中で入り乱れてしまい、ふと我に返った瞬間、カップラーメンの麺は伸びに伸びていた。
我ながら、情けなくなってきた。
体温が戻ってくると、生きた心地も戻ってくる。
暖炉の中では薪が弾けて火花を散らし、西日のような炎が頬を熱く照らしてくる。武蔵野はウィスキーが半分以上を占めているアイリッシュティーを呷り、熱く薫り高い液体を胃袋に流し込んだ。
無言で空のティーカップを差し出すと、人形じみた笑顔を絶やさない道子がすかさずティーカップを受け取り、お代わりを作ってくれた。これでもうグラスで三杯は飲んだ計算になるのだが、まだまだ足りない。寒気は抜けても、酔いが回ってこないからだ。
「お嬢は?」
武蔵野が道子に問うと、道子は上の階を示した。
「はぁーいんっ、御嬢様はぁーん、お風呂でお体を温められておりまーすぅんっ」
「で、ちゃんと自分の足で部屋まで行けたのか?」
「はぁーいんっ、至ってノーリアクションでしたぁーん」
「有り得ねぇな」
武蔵野は驚くよりも先に、笑ってしまった。いかに戦い慣れた兵士であろうとも、十発も戦車砲に匹敵する攻撃を受けては体が竦む。攻撃された直後は逃げるために動けるだろうが、問題はその後だ。腰が抜けるか、夢に見るか、或いは二度と戦おうという気が起きなくなるか。いずれにせよ、無傷では済まない。
武蔵野でさえも、コジロウの性能を目の当たりにして少々臆していた。量産型ロボットの性能を遙かに上回ると聞いていたし、資料でスペックもある程度把握していたつもりでいたが、認識が甘すぎた。戦略を練り直す必要がありそうだ。
「それでぇーん、武蔵野さんと御嬢様はぁーん、どうやって別荘までお帰りになったんですかぁーん? 足場がガタガタだったのでぇーん、スキーで移動するのも無理な感じだったんですよねぇーん?」
道子が首が転げ落ちそうなほど首を傾げたので、武蔵野はアイリッシュティーを啜ってから返した。
「なんのことはねぇよ、船島集落とは反対側の斜面に回ってきたんだ。そっちは戦闘の影響も受けていねぇし、北側だから雪も締まっていたからな。かなり遠回りにはなったが、おかげでこの通り無事だ」
「御嬢様共々遭難して頂ければぁーん、遺産争奪戦の競争相手が減りましたのにぃーん」
えへっ、と道子はわざとらしく舌を出してから、アイリッシュティーのポットを抱えてキッチンに戻っていった。それはそうかもしれないが、武蔵野の趣味ではない。それに、相手があの吉岡りんねでは、罠に嵌めようとすればこちらが逆に罠に嵌められそうだからだ。今は、皆、探り探りだ。武蔵野も例外ではないが、手の内も真意も明かしていないので連帯感すら生まれていない。もっとも、そんなものが必要になるとは思いがたいが。
別荘の広すぎる居間の片隅では、高守信和が背中を丸めていて、ただでさえ丸い体を球形に近付けながら機械を細々といじくり回している。藤原伊織はだらけきっていて、ソファーに仰向けに寝そべって週刊漫画雑誌を読んでいるが、あまり面白くないのか、退屈極まりない顔をしていた。暖炉に薪を投げ込んでから、武蔵野は上等なラグに胡座を掻いてコルトM4コマンドーからマガジンを外したが、ブレン・テンは左脇のホルスターから抜かなかった。
こんな連中に、気を許せるものか。