オーガニックの心、子知らず
ざ、ざ、ざ、と枝葉が揺れる。
気配を殺し、息を殺し、風に紛れながら黒い影が跳ねていく。木々の間を渡る瞬間に漆黒の外骨格が眩しい陽光を浴びるが、それは束の間に過ぎない。数枚の葉が散って地面に舞い降りた頃には、黒い影は空に吸い込まれていった。淀みない体重移動によって枝を軋ませることなく、伊織は矢のように進み続けた。
無心に、一心に、触角を立てる。濃密な夏の匂いで噎せ返りそうになりながら、ただひたすらに彼女を求めて前に進んでいく。それが伊織の行動理念の軸であり、アソウギが生み出した道具としての本能とも言えた。だが、伊織が守りたいと願って止まないのは佐々木つばめでもなければ佐々木家でもなく、吉岡りんねだった。
それを恋と呼ぶのはあまりにも浅はかだ。類い希なる美貌を持つ少女に対する一抹の支配欲と、同じような道具でありながらも人間に近しい振る舞いを許されていることへの嫉妬と、淡い思いに囚われてメグを喰い損なった過去の自分を乗り越えたいという、複雑な感情が幾重にも絡まり合ったものだった。
別荘の屋根が見えたので、伊織は太い枝に下両足の爪を食い込ませて制止した。丸木組みの大きなログハウスの屋根越しに、ロータリーで暇を持て余している岩龍の姿が見える。話し相手がいないのか、一人で何かのごっこ遊びに興じている。派手なセリフ回しと手振りから察するにヒーローの真似事らしいのだが、生憎、伊織は子供騙しのヒーローには興味がないので見当も付かなかった。
「お嬢……」
無意識に呟きながら、伊織は目を凝らす。りんねの部屋は三階の南側だ。南側の木に飛び移るのは容易いが、そのためには岩龍の頭上を飛び越えなければならない。人型重機と言えども、吉岡グループの有り余る資金を惜しみなく使って改造を施してあるのだから、伊織を捉えられるほど高性能なセンサーも搭載しているはずだ。外からでは気配を感じるのは難しいが、高守信和も別荘にいるだろう。あの男こそ、油断出来ない。武蔵野はどうなのか、と車庫を窺ってみるが、彼の愛車であるジープの影は見えなかった。外出しているのか。
暑気が籠もった一陣の風が通り抜け、伊織の触角を揺らしていった。その中にかすかに混じっていた少女の匂いの粒子を感じた途端、伊織はざわりと神経が毛羽立った。りんねの部屋の窓が、開いているに違いない。別荘には近付くだけに止めておくつもりだったのだが、居ても立ってもいられなくなった。
次の瞬間には、伊織は肢体を踊らせていた。岩龍のセンサーや別荘の警備システムに引っ掛かるであろう位置を掠め、本能と感情に従い、屋根へと飛び降りた。爪を立てながら上下を反転させ、三階の南側の窓を覗き込む。風を孕んだレースカーテンが舞い上がると、触角に接する匂いの粒子が増大する。花よりも甘く、蠱惑的な少女の匂い。レースカーテンが落ち着くと、開け放った窓の奥に彼女の姿が見えた。
久々に目にした吉岡りんねは、夏を楽しんではいなかった。それ以前に、一人の時間を楽しんでいる様子もなく、長袖で裾の長い紺色のワンピースにストールを掛け、一人掛けのソファーに身を沈めていた。これなら、一人遊びに興じている岩龍の方が余程生き生きしている。バッテリーを抜かれたアンドロイド、脳のないサイボーグ、といった単語が伊織の脳裏を過ぎっていく。銀縁のメガネの下でりんねの眼球が動き、伊織に焦点を合わせた。
「い」
伊織さん、と呼ぼうとしたのだろうか。だが、言葉は紡がれず、乾いた唇が半開きになっただけだった。
「邪魔するぜ」
伊織は体をしならせると、レースカーテンが広がった瞬間を見計らってりんねの部屋に滑り込んだ。分厚い絨毯が敷かれた床は伊織の体重を難なく受け止め、足音も殺してくれた。りんねは伊織を捉えるも、立ち上がることすらも出来ないようだった。具合でも悪いのだろうか、と伊織が懸念しながら近付くと、りんねは震える瞼を細めた。
「お」
お会い出来て嬉しいです、とでも言いたいのだろうか。伊織はりんねの前に片膝を付き、見上げる。
「どうした、お嬢。いつもみてぇにべらべら喋らねぇなんて、らしくねぇな」
「わ」
私は大丈夫です、御心配なさらずに。そう言いたげに、りんねの瞳が動く。
「お嬢?」
これはりんねなのか。これでは、りんねの姿形をした抜け殻のようだ。動揺した伊織が身動ぐと、りんねは口角を上向けようとするが、頬の薄い皮膚が僅かばかり動いただけだった。汗ばんですらいない襟元が緩み、細い鎖骨が垣間見える。そこには、あるべきものがなかった。銀の鎖の水晶玉のペンダントが下がっていなかった。
あれは何かの特殊な装置で、りんねを支えているものだったのだろうか。ならばすぐに見つけ出さないと、りんねが元に戻らない。伊織は部屋の中を窺うと、絨毯の毛並みに埋まっている水晶玉を見つけた。それを掴もうと伊織が爪を伸ばすと、りんねが小さく呻いた。必死に眼球を動かし、触るな、とでも言いたげに見つめてくる。だが、これがなければ、りんねが。伊織は義務感に駆られ、黒く鋭い爪先で水晶玉を挟んだ。
少女は、悲鳴にすらならない掠れた吐息を漏らした。
曲がりくねった山道に、大型トレーラーが滑り込んできた。
予定通りだ。武蔵野はリストバンドをずらして腕時計の文字盤を隠してから、食品会社の車両に偽装している大型トレーラーと向き直った。愛車のジープの傍では、久々にフル装備を身に付けた鬼無克二が細長い手足を曲げては武装の動作を確認している。少しでもはみ出せば崖から落ちかねないほど手狭な道に見合った幅の、申し訳程度の幅しかない待避所に停車した大型トレーラーは、鋭い蒸気混じりの排気を噴出した。
すぐさまコンテナが開き、コンテナを左右に揺らしながら輸送物が歩み出してきた。一歩進むごとにタイヤが大きく歪み、サスペンションがぎしぎしと嘆く。それは外界に現れると縮めていた手足を伸ばして分厚い胸部装甲を張り、直前まで充電を行っていたのか、外装を閉じて差し込み口を隠した。案の定、恐ろしく燃費が悪いようだ。
「よう」
武蔵野が素っ気なく片手を上げると、巨体のサイボーグ、藤原忠は拳を固めた。
「見ての通り、私は力を手に入れたぞ! フジワラ製薬の裏金を三億も注ぎ込んだ甲斐があったというものだ!」
「うっわ、キモ」
鬼無は肩を竦め、昆虫を思わせる腕で自分を抱き締めた。その感想は間違いではない、と武蔵野も思ったが口には出さなかった。それが大人というものだ。新免工業に特注したサイボーグボディによって強大なパワーアップを果たした藤原忠は三メートル近い巨体と化したが、その手足は過剰な武装によって二〇〇キロ近い重量を誇るボディを支えるためにおのずと太くなり、丸太が生えているようなものだった。それは大昔の漫画に出てくるロボットとよく似ていて、人間工学を極めた現代のサイボーグとは懸け離れたロートルなシルエットだった。その上、光学兵器のバッテリーなどを背負っているために上半身が肥大化してバランスが悪い。機能を高めて突き詰めたボディを持つ鬼無からすれば、産業革命時代の遺物を見ているような感覚になるのだろう。
「なんとでも言うがいい。まあ実際、これは見せかけだがな。こうでもせんと、我が息子は食い付いて来ない」
あれで気が優しいんだ、と呟いた藤原に、鬼無は嘲笑する。
「えぇー? 大量殺人鬼のカニバリストのどこに優しさがあるってんですかー? キッモ」
「今まで、伊織が無駄に人間を殺した試しがあったか?」
右腕の外装を開いてレーザーガンの銃身を伸ばして動作を確かめてから、藤原は鬼無を一瞥した。武骨で古風なマスクフェイスには、レトロな単眼型のスコープアイが備わっていた。いわゆるモノアイだ。
「あれは喰うために殺すのだ。それ以外は、私が命じて処分させただけだ。自分の意志で人間を望んで殺すことはないのだ。それが我が子だ。先日、この近辺で伊織が若者達を捕食したようだが、あれは自衛行為を伴った捕食行動なのだと判明している。あの若者達の携帯電話に残っていたSNSへの投稿ログやメールから察するに、彼らは御嬢様の別荘にみだりに近付こうとしていたようだからな。伊織の感情表現は非常に極端だ。あれを人間として育ててやらなかったのは、伊織自身の業と苦悩を深めないために情緒を発達させないためでもあったのだが、それが果たして良かったのか悪かったのか……。いや、それはこれから解ることだな」
いつになく真面目な口振りで、藤原は巨体を揺らしながら別荘を目指して歩いていく。
「私は大いに間違いを犯してきた。が、それを反省する気もなければ後悔する気も毛頭ない!
私は思うがままの人生を謳歌出来たことを誇り、今までも、そしてこれからも、胸を張って生きていくからだ! しかし、吉岡グループが所有する遺産であるコンガラは万物を無限に複製出来るものだ、それを用いて伊織が複製されでもしたら、私の悪辣極まる人生が中途半端な結果を迎えてしまうではないか! 悪鬼として産まれ落ちた我が子を屠ることこそが悪の真骨頂であり、越えざるべき一線を越えることとなるのだ! 故にだ、伊織を絶望の奥底に叩き落とし、殺してしまうのだ! ふははははははははは!」
「だが、あんた一人で大丈夫か? ろくな戦闘経験もないんだから、伊織と差しで戦えるとは思えんが」
「それについては心配無用だ! なぜなら私は、秘密兵器を携えているからだ! ああっ、なんと心地良い言葉の響きだろうか! 秘密なのに兵器、兵器だけど秘密、秘密にしているけど御披露目しなければ無意味な秘密!」
誇らしげに高笑いする藤原は、いつもの調子に戻っていた。武蔵野は少々胸が悪くなった。
「んじゃー、俺は別行動ですからー。あのイカれた坊主と電脳女を適当にやっちゃってきますー」
鬼無は草陰に隠していた大型バイクを引っ張り出すと、跨り、イグニッションキーを回した。
「俺も別の作戦があるんでな、ここで失礼するよ。本隊と合流しねぇと、コジロウと佐々木の小娘は捕らえられん」
武蔵野が愛車を示すと、藤原は一旦立ち止まって指を折った。
「ふむ。だが、それではあの素っ頓狂な教師と脳みそがゆるふわ系の弁護士を確保する人員がいないように思えるのだが。別働隊を編成してあるのかね?」
「余計な心配をするな。俺達はやるべきことをやるだけだ」
武蔵野は藤原に背を向けると、歩調を早めた。事前に確保した情報に寄れば、佐々木つばめとコジロウは宿題の一つである写生をするために連れ立って出掛けているようだった。先日、アソウギから再生された元怪人の人々をフジワラ製薬が造った療養所に移送する際には、コジロウは戦闘員として駆り出されて一時的につばめと距離を置くことになったのだが、コジロウはつばめを気に掛けるがあまりに量産型の警官ロボットを遠隔操作してつばめの護衛を行っていた。そんな芸当が出来るほど高度なネットワークを作ったのは、設楽道子だろう。電脳体となってアマラの能力を制御出来るようになってからは、これまで以上に力を発揮している。
そのネットワークを阻害出来なければ、武蔵野の作戦は失敗する。他の人員が確保出来なくとも、佐々木つばめは確実に身柄を取り押さえなくては。コジロウに対する対処方法も考え抜いた。これまでの戦闘で培ったデータを元にして立てた作戦と、自分の実力を信じるしかない。
今度こそ、確実に。
清々しい夏空だった。
船島集落を囲んでいる山々の上には、柔らかな雲が散らばる青空がどこまでも広がっている。どこの風景を切り取ったとしても、いい絵になるだろう。スケッチブックと画材を入れたトートバッグを肩に掛け直し、つばめは木陰に入って足を止めた。鳥肌が立つほどの涼しさが火照った肌を冷まし、全身に滲む汗を乾かしてくれた。
写生の宿題を片付けるべく、つばめはコジロウを伴って船島集落近辺を散策していた。出掛けた時は朝早かったので涼しかったのだが、日が昇るに連れて気温は上昇していき、陽炎が揺らぐほどの暑さになっていた。風通しがいいので、都市部のようなねっとりとした重たい暑さではないが、それでも暑いものは暑い。凍らせた麦茶を入れてきた水筒は大分溶けていて、道中で少しずつ飲んだので中身も随分と減っていた。
「どの辺がいいかなぁ」
つばめはタオルで汗を拭ってから、景色を見渡した。長時間歩き回るので動きやすい服装にしたが、コジロウが一緒となると、さすがにジャージ姿では気が咎める。なので、明るいピンクのTシャツにデニムスカートを合わせて、その下に七分丈のレギンスを付けてスニーカーを履いた。
「ね、コジロウ。写生するなら、どのアングルがいいかな?」
少し遅れて木陰に入ってきた警官ロボットに尋ねると、コジロウはマスクフェイスを上げて景色を見渡した。
「本官には」
「判断を付けかねる、でしょ? ふふ」
つばめは彼のお決まりの言葉を先に言ってから、木陰の奥に進んで石段に腰掛けた。朱色が剥げた古びた鳥居に守られている石段の先には、神社があるのだろう。
「ね、こっちに行ってみようよ」
興味が湧いてきたつばめが立ち上がり、促すと、コジロウは従った。
「了解した」
二人で並んで鳥居をくぐり、つばめが無意識に手を伸ばすとコジロウも手を伸ばしてきてくれた。彼の太く硬い指を二本だけ握り締めると、不意に照れ臭くなった。意識してしまうのはいつものことではあるが、郷土資料館に行った際に勢い余ってキスをしたことまでも思い出してしまうからだ。だから、手を離して距離を置こうとは思うが、コジロウの手を離したくないとも思ってしまうから、結局はいつもの構図に落ち着いていた。
苔生した石段の左右には雑草が生い茂り、コオロギか何かの虫が鳴いている。つばめのスニーカーを履いた足が石段を一つ登ると、コジロウの角張った足が石段を一気に三段も登っていく。なので、コジロウはつばめとの間隔を開けすぎないために歩調をかなり遅くしてくれていた。おかげで、石段を登り切ったのはほぼ同時だった。
もう一つの鳥居を潜ると境内に至り、視界が開けた。苔と雑草による緑の絨毯に囲まれているのは、今にも倒れてしまいそうな朽ちかけた御社だった。風化しかけた御社の門柱には、文字が刻んであった。叢雲神社。
「って……ああ、あれかぁ」
少しの間を置いて、つばめはこの神社が何なのかを思い出した。郷土資料館で聞かされた戦国時代の妖怪譚を自分なりに突き詰めて調べた際に、叢雲神社の名前が出てきたのだ。憎悪と執念に狂う女郎蜘蛛を、藩主である荒井久勝が退治する時に雨を降らせてくれたのが、長らくこの土地を守ってくれていた水神の叢雲であった、という伝承があったのだ。それ以外にも叢雲の伝承は残っていたが、いずれも農民達を土砂崩れや嵐から守ってくれた神々しく慈悲深い龍神、という内容だった。
けれど、それは昔話に過ぎないのだろう。今では誰からも見向きもされなくなったのか、叢雲神社の境内は雑草が伸び放題で落ち葉も散乱している。賽銭箱の中身は空っぽで、鈴も錆び付いている。土埃を被った縄を掴んで軽く振ってみるも、中もひどく錆びてしまっているのか、ごろごろと鈍い音がした。
「この神社が荒れちゃったのって、やっぱり集落に人がいないからだよね」
「そうだ。かつて船島集落の住民が持ち回りで手入れを行っていたが、前マスターが船島集落の土地を全て買い上げて住民を退去させたため、手入れを行う人間がいなくなったからだ」
「お爺ちゃんは、コジロウにそういう仕事は命令しなかったの?」
「本官が命じられたのは、前マスターの身辺の警護と介護だ」
「そっか」
つばめは御社の階段に腰を下ろし、境内を見渡した。セミの声が全方向から降り注いでいるが、背の高い杉の木に囲まれているので日差しはほとんど届かなかった。コジロウはつばめの隣に腰掛けようとしたが、古びた板では彼の体重は支えきれなかったらしく、ぎぎぃ、と嫌な音がした。途端にコジロウは腰を浮かせ、直立した。
「あの学芸員の人は言っていることが極端だったけど、間違いじゃないんだよなぁ……」
つばめは木漏れ日を仰ぎ見、憂う。
「正しいことをしているつもりはないけど、悪いことをしているつもりもないんだよ、私は」
「だが、学芸員はつばめに明確な悪意を持っていた。よって、本官の行動は」
「うん。コジロウが守ってくれたのは正しいし、嬉しいよ。でも、私が何もしないままでいると、もっともっと悪いことが起きるような気がするんだ。だけど、何をしたらいいのかが解らないの」
つばめはコジロウを手招きすると、その腹部装甲に額を当てた。外気よりも熱い、機械熱が籠もっていた。
「私も遺産を使って変なものを作って、襲ってくる連中にやり返せばいいの? それとも、遺産を全部集めてタイスウの中に収めておけばいいの? それとも、全部放り出して逃げればいいの? だけど、それはどれも嫌だよ」
不安に任せて、つばめはコジロウの腹部に腕を回す。抱き締められないほど、彼の腰回りは立派だった。
「一番嫌なのは、コジロウが壊れることだよ。でも、コジロウが戦ってくれないと、もっともっとひどい目に遭っちゃう。私だけじゃなくて、お姉ちゃんやミッキーもひどい目に遭っちゃう。だけど、私が何をしたら、遺産争いが止められるのかが解らない。一生懸命考えようとするんだけど、全然思い付かないんだ。……ごめんね」
「つばめが謝罪する理由はない」
コジロウはつばめを押しやって離してから、身を屈めて目線を合わせてきた。
「あるよ、一杯。ありすぎて、自分で自分が嫌になる」
つばめはコジロウの赤いゴーグルから目を逸らし、スカートの裾を握り締める。
「私はお金が欲しかったの。一人で生きていけるように、誰の力も借りずに済むくらいの、山ほどお金が欲しいって思ったから遺産を相続しようって決めたんだ。吉岡りんねとその部下に襲われるようになっても、お金が欲しいって気持ちは変わらなくて。コジロウが命懸けで私のことを守ってくれるから、余計にそんな気持ちが大きくなってきて。でも、お金があったって、良いことなんて何もないんだよ。探偵とか興信所とかに頼んで探してもらおう、ってずっと考えていたんだけどさ、こんな状況じゃお父さんもお母さんも出てきてくれないよね、きっと」
「つばめは両親に会いたいのか」
「当たり前だよ。お姉ちゃんのお父さんとお母さんはいい人だし、とっても可愛がってくれたけど、お姉ちゃんと私とで扱いが違うことがたまにあってさ。そういう時に、本当のお父さんとお母さんに会いたいなって思ったんだ。だけど、どこにいるのかも解らないから、パンダのコジロウにね、どこにいるんだろうね、会いたいね、って話したの。それで少しは気が収まるし、パンダのコジロウは私を慰めてくれたから。まあ、私の想像に過ぎないんだけどさ」
冗談めかして笑おうとするが、つばめは次第に声が詰まってきた。両親の名前は祖父の死亡届に記載されていたので知ったが、それだけに過ぎず、顔も知らなければ声も知らない。祖父の部屋や仏間を探したが、両親の写真は一つもなかった。結婚式の写真すらも見つからなかった。なぜ、生まれて間もないつばめを備前家に預けていったのだろう。余程深い事情があったのか、それともつばめが生まれて困ることでもあったのか、或いはつばめの出生自体を望んでいなかったのか。考えれば考えるほど、嫌なことばかりを思い描いてしまい、喉の奥が痛んだ。
「つばめ。本官はつばめの傍にいる」
コジロウの大きな手が肩に添えられると、つばめはその手を取って頬に寄せた。
「お父さんとお母さんが見つからなかったら、コジロウが私の家族になってくれる?」
「無論だ」
「そう言ってくれるだけで嬉しいよ。コジロウには、家族が何なのかは解らないだろうけど」
私もよく解らないんだけどね、とつばめは茶化して笑おうとしたが、唇が震えてきて口角が上手く上がらなかった。すると、コジロウは片膝を付け、つばめの額に自身の額を当ててきた。そして、背中に手を回してきてくれた。その仕草に、つばめは今にも破裂しそうだった不安が緩み、溶けていった。
「本官は最善を尽くす。よって、つばめも最善を尽くせばいい」
「うん。頑張る」
つばめは滲みかけた涙を拭ってから、笑顔を見せた。コジロウはつばめを離すと、了承したというように頷いた。が、コジロウはあらぬ方向に顔を背けてしまった。まるで、恥じらっているかのようだった。そんなわけがない、彼が抱き締めてくれたのはつばめの真似をしたからだ、そもそもコジロウには感情なんてない、と、つばめはコジロウの横顔を見上げながら甘ったるい考えを否定した。どうせこの恋は片思いで終わるのだから、過度な期待を抱かない方が傷付かずに済む。小さな棘が胸を刺したが、振り払った。
「一休みしたことだし、写生しに行こう!」
つばめは照れ臭さと甘ったるい余韻を振り払うため、トートバッグを振り回しながら境内の外に駆け出していった。コジロウはつばめの少し後ろに付いてきた。二人が石段を下りるペースは登る時と全く変わらず、石段から下りて鳥居を潜ったタイミングは同時だった。薄暗い木陰から白むほど明るい日差しの下に、つばめが躍り出た。
その時、一発の銃声が響いた。
少女の悲鳴に驚いた伊織は、水晶玉を掴み損ねた。
伊織が振り返ると、りんねは唇を歪めて何かを伝えようとしている。やはり声はほとんど出せないらしく、唇は動くが舌は引きつっていて、彼女の意志は言葉として紡がれずに空しく空気が漏れるだけだった。伊織は水晶玉を床に転がしたまま、りんねに近付いた。伊織の黒い影が掛かると、りんねの面差しが心なしか綻んだ。
二人分の体重を受けて、一人掛けのソファーが軋んだ。弱い風で翻ったレースカーテンが薄い影を作り、りんねの乱れた黒髪の毛先が脆弱に揺れる。少女らしからぬふくよかな胸元が上下し、何度も呼吸を繰り返す。彼女は懸命に言葉を発しようとするが、ぇあ、うぉ、というような母音同士が辛うじて連なったものしか出せないようだった。
「お嬢、何があったんだ?」
伊織の問いに、りんねは眼球を左右に動かす。首を横に振る代わりだろう。
「何もなかった、って言いてぇのか?」
りんねは瞼を閉じる。肯定だ。
「じゃ、お嬢は元からこうだったってのかよ?」
瞼は閉じたままだ。
「けど、お嬢は理屈っぽいことをべらべら喋りまくっていたじゃねぇか。自分で動いて、俺達にずばずば命令して」
瞼が開き、眼球が動く。否定だ。
「それじゃ何か、誰かがお嬢の体を間借りしていたとでも言いてぇのかよ?」
瞼が閉じる。肯定だ。
「意味解んねぇ……」
伊織はよろけ、後退る。自分自身も非常識な存在だと解っているが、身動き一つ出来ないりんねが伝えてきたことはまるで理解出来なかった。りんねの返答が正しければ、ついこの前まで伊織が接してきたりんねは本当のりんねではなく、別人がりんねとして振る舞っていた、ということになる。だとすれば、伊織が焦がれていた相手はどこの誰だというのだ。そもそも、本当のりんねとは何なのだ。混乱した伊織は、もう一歩後退した。
「もしかして、これがお嬢を操っていたのか?」
伊織が水晶玉を指し示すと、りんねは瞼を閉じる。眉間が歪んでいて、明らかに苦しげだった。それでも、りんねは自分自身の意志を伝えようとしてくる。伊織は水晶玉のペンダントとりんねを見比べ、触角を上下させた。ならば、この水晶玉も遺産の一つなのだろうか。だが、伊織の知る限りでは遺産は七つだ。八つ目があるという情報は聞いたことすらなく、そんなものがあるとすればフジワラ製薬を始めとした企業や組織が感付くはずだ。現代の技術ではまず生み出せないオーバーテクノロジーを用いた製品を生産したり、企業の規模には見合わない業績を急激にアップさせることがあれば、遺産に通じている者達はおのずと察しが付く。吉岡グループは、コンガラを使用して自社工場の生産能力を超える生産を行って市場を独占しているが、コンガラ以外の遺産を有し、事業に用いているようには見えなかった。遺産同士であれば、遺産から生まれた伊織は本能的に感じるものがある。だが、りんねが常に身に付けていた水晶玉からは何も感じ取れなかった。ただのアクセサリーだとしか認識していなかった。
触れてみれば真偽が解る。だが、りんねは頑なに触れるなという態度を示す。伊織は若干逡巡したが、かつての主の判断に従う
ことにした。伊織が水晶玉から離れると、りんねの表情は明らかに緩んだ。
「なんで俺がここに来たのか、解るか」
伊織が胸郭を震わせて穏やかな言葉を連ねると、りんねは不安げに眼球を彷徨わせた。
「お嬢を殺しに来たわけじゃねぇ。喰う気もねぇ。アソウギが佐々木の小娘の支配下に置かれたことで、俺もあいつの持ち物になったらしいが、従うつもりは更々ねぇ。俺は」
不意に、別荘全体が震動した。咄嗟に伊織はりんねを抱えて飛び退くと、伊織が今し方まで立っていた場所の床が真下から破壊された。床板と太い梁を粉々に砕きながら現れたのは、ずんぐりとした巨体の機械だった。それは両足の噴射口から青い炎を走らせて三階の床に軟着陸すると、半球状の頭部の単眼を動かして伊織に定めた。
「んだよ、てめぇは」
伊織が身構えると、巨体の機械は肩を揺すって笑った。
「ふははははははははは! そうだろう解らんだろう、だがそれがいい、それこそ私が望んでいたリアクションだ!」
こんな言い回しをするような輩は、一人しか思い付かない。伊織は片方の触角を曲げる。
「……親父?」
「ってああっ、そんなにあっさりと看破しないでくれないか!
奇襲を仕掛けてきた相手の正体が友人や肉親や恩師でしたーっとなって、躊躇ったり迷ったりする展開になるためにはもっとこう前振りが必要ではないか!
だが、看破されてしまったのであれば仕方ない!
さあ伊織、私に聞きたいことがあるだろう!」
巨体のサイボーグと化した藤原忠は太い指を上げ、伊織を指す。が、伊織は複眼を背けた。
「別に。興味ねーし」
「腹を撃ち抜かれたのになんで生きているんだろう、とか、なんでサイボーグになったんだろう、とか、ほらぁ!」
「別に。てか、俺、親父が撃たれたことは知らねぇし」
「ああっ、そういえばそうだったぁっ! 私が撃たれた時、お前はドロッドロになっていたもんなぁ! 一生の不覚! 時系列調整のミス! うおおおおっ!」
余程悔しいのか、藤原は円筒形の腕を振り回して壁を叩いた。腕力が有り余っているのか、簡単に壁が抉れた。
「用事がねぇんなら、俺、帰るけど」
伊織はりんねを抱えて藤原の脇を通り過ぎようとするが、藤原は伊織の足に縋り付いてきた。
「そんなことを言わずに、もうちょっと私の相手をしてくれたまえ! 伊織との再会の時にはああ言おう、こうしよう、と何度も脳内リハーサルを重ねていたのに、本番がこれでは寂しいじゃないか! というか、どさくさに紛れて御嬢様をどこに連れて行くつもりだ! それ以前にどこに帰るつもりだ!」
「教えるかよ、そんなもん」
寺坂ならば、りんねも受け入れてくれる。そう判断した伊織は、父親の機械の腕を蹴り飛ばしてから、別荘の外に出ようと窓枠に足を掛けた。が、藤原は右腕を上げて銃口を伸ばし、伊織が飛び出そうとした窓を狙撃した。太い熱線を浴びた途端に窓ガラスは粉々に砕け散り、木製の窓枠には円形の大穴が開いた。伊織が複眼の端で父親の姿を捉えると、藤原は床板を軋ませながら直立し、バックパックにコードが繋がっている両腕を上げた。そこには、光学兵器と思しきレンズの付いた銃身が生えていた。
「クソ親父のくせに俺とやるってのか? 面白ぇ」
伊織はりんねを背負うと、短めの中両足で彼女の手足を掴んで支えてやりながら、戦闘態勢を取った。
「悪いことは言わん、伊織。その御嬢様は捨てておけ」
「親父に命令される筋合いはねーし! つか、俺はお嬢に買われたんだよ!」
「その御嬢様が本物でないことは、お前も薄々感づいているだろう?」
藤原の単眼が蠢き、りんねの首筋を見据えた。伊織はぎくりとしたが、平静を保った。
「俺は佐々木のメスガキの道具に成り下がるより、お嬢の部下でいる方が性に合うんだよ! ウッゼェな!」
「吉岡グループが有するコンガラが無限複製能力を持っていることは、伊織も知っているな?」
藤原は大股に歩いてくると、伊織ではなく、その背中にいる少女の額に銃口を据えた。
「んなもん、どうだっていいだろ!」
伊織はすかさず藤原の銃口を払って後退するが、藤原の照準は変わらなかった。
「伊織。お前が高校に通っていた頃に執心していた少女のことを覚えているか?」
メグのことか。だが、いつのまにそんなことを調べた。伊織は凄まじい羞恥心と共に苛立ちを覚えて、顎を開いて呻いた。藤原は両腕の光学兵器にエネルギーを充填させながら、人型軍隊アリの息子に語り掛ける。
「お前は彼女の名前を知ろうとしなかったようだが、私は調べたさ。あの少女がお前に喰われたら、その親御さんに賠償金を払わなければならないからな」
「ウゼェ」
りんねの体温を背中に感じながら、伊織は精一杯の意地で毒突く。外骨格に包まれている柔らかな内臓をヤスリで削られるかのような痛みと、毒を飲み下したかのような苦々しさが体液を汚す。出来ることなら、メグに対する淡く儚い感情には触れてほしくなかった。それが親であるならば、尚更だ。
「いいから黙って聞け、伊織!」
藤原は一度視線を逸らし、木片の散らばる絨毯に埋もれている水晶玉を見咎めた。
「お前のクラスメイトの名前は、吉岡めぐりだ」
メグミではなかったのか、と伊織は意外に思ったが、その名字を知って更に驚いた。
「吉岡っつーことは、メグは」
「そうだ。今、お前が背負っている、吉岡りんねのベータ版とも言うべき少女なんだ」
「で、でもよ、俺は十九で、お嬢は十四で」
「年齢が合わないよな? 私も最初はそう思ったさ。だが調べたんだよ、徹底的に。用務員に金を渡して汚物を回収させ、彼女の遺伝子情報も洗い出したんだ。するとどうだろう、吉岡家の娘達に一致するのさ」
「お嬢は一人娘だろ?」
「戸籍の上ではな。だが、吉岡家の娘達が生まれた時期も、場所も、外見も、性格も、何もかも異なるのに遺伝子情報だけが同じなのさ。コンガラが複製しているんだよ、より優れた吉岡家の娘を完成させるために。そこの御嬢様の知能がやたらと高いのも、子供らしくない言動なのも、過去の御嬢様達が積み重ねてきた経験や記憶が後続の個体に継承されているからなのさ。年齢なんて外見をいじればどうにでもなるし、人生経験の有無は他人の情報を使うことでいくらでも補えるし、あの吉岡グループであれば戸籍上の情報をいじるのも造作もないことさ。だが、私は決して騙されはしない。なぜなら、私はこれまで吉岡グループから買い付けてきた生体安定剤を全て保管し、分析し、解析していたからだ。生体安定剤の中身が御嬢様の血肉であることは、伊織も知っているだろう?」
「……ああ」
そうだ。それを体で知っていながら、喰い続けていた。罪悪感に駆られた伊織が唸ると、藤原は言う。
「問題は、その御嬢様方の使い道だよ。ただのクローン体であれば外見を変える必要もないし、違う経験を与えて自我を成長させる必要もないし、そもそも御嬢様方を別人として振る舞わせる意味がない。吉岡りんねの影武者であるならば、全く同じ外見の複製体で充分だ。だが、そうじゃないんだ」
誰かが御嬢様の人生を繰り返させているんだ、と藤原は語気を強めた。そこに何の意味がある。誰が得をする。当のりんねがこんなにも苦しそうなのに、人間らしく振る舞えていないのに、操り人形として生きることしか許されていないのに。伊織は腹の底で衝動が燻り、ぎちり、と顎を噛み締めた。
「放っておけば、伊織もコンガラで複製されるかもしれん。そして、御嬢様の人生の一部に組み込まれるかもしれんのだ。それを思うと、私は胸が痛む。ただでさえ、伊織の人生は不条理で不本意で不合理だから、これ以上の不幸を与えてしまうのは心苦しい。が、しかぁしっ!」
しんみりとしていた口調を一変させ、藤原は両腕を突き上げた。
「それがどうだというのだっ! 伊織がどれだけ可哀想な身の上であって、御嬢様がどれだけ惨い仕打ちを受けているとしてもだ、それと私の最大にして最強の楽しみを天秤に掛ければ、私の楽しみの方が遙かに比重が重い! というわけであるかして伊織よ、哀れな身の上のお前とそこの少女を共に殺してやろう! 悪役らしく!」
「このクソ親父が」
長々と語っておいて、結論はやはりそれか。伊織が威嚇すると、藤原は高笑いする。
「ふははははははははははっ! いいか伊織、これもまた御約束の世界だ! 悪役ってぇのは大事な戦いの前にいっちいち長い自分語りをするものであって、ついでに重大な情報をボッロボロと零すものであって、一抹の同情を誘ったくせに非人道的な言動を取るものであってだな! 更についでに言えば、伊織、お前は御嬢様自身に魅力を感じて心を動かされているわけじゃないんだぞ! お前はその姿形の通りの軍隊アリであり、アソウギの端末の一つに過ぎないのだ! だが、特別な感情を抱いていることには変わりない! それを叩き潰すのが楽しみで楽しみで仕方ないから、私はテンションが上がりまくってどうしようもないのだ! 青天井なのだ!」
「いいから、黙れよ」
伊織はりんねを背負い直すと、巨体のサイボーグと向き合い、爪を上げた。
「ふふん、そう来なくちゃ面白くないぞ! お前の目の前でその御嬢様の頭を叩き割る、という絵コンテもシナリオも脳内に繰り広げていたのだが、お前が吉岡めぐりと同様に御嬢様に特別な感情を抱いていると仮定したシナリオも組み立てておいてよかったなぁ! おかげで私はフジワラ製薬の技術者の優秀さを自慢することが出来たばかりか、吉岡グループに関する重要機密情報を垂れ流しにすることが出来た! ああっスッキリした!」
今までになく饒舌な藤原は、腰を落として四股を踏むように太い足を広げる。
「やり合う前に、一つだけ、俺から聞いてもいいか?」
伊織が問うと、藤原は快諾した。
「おおっいいぞ! 取っ組み合いながらべらべらと長話をする余裕なんて、現実にはあるわけがないもんな! 漫画の大ゴマかアニメや特撮の長尺では頻繁に見られるシーンではあるが、あれって不自然の極みだもんな! そんなに頭が回るんだったら、さっさと手を動かして次の攻撃に移れって思うもんな! 特にラノベになると、必殺技を一つ出すだけで解説の地の文でページが半分ほど真っ黒に!」
「いいから、俺の質問にだけ答えりゃいいんだよ!」
「少しは喋らせてくれないか、やっと出番が来たんだから。で、なんだ?」
話を中断させられたのが面白くないのか、藤原は不満げに問い返してきた。
「クソ親父がアソウギで俺を作った目的は何なんだ?」
藤原忠を殺してしまえば、聞き出す機会はなくなる。伊織の問いに、藤原は肩を竦める。
「我が子が欲しかったんだ。それだけなんだ」
「嘘吐け」
「それを嘘だと思うのなら、思っておくがいいさ。この辺で愚にも付かないけど一部の人種は楽しんでくれるであろう会話を断ち切っておかないと、展開もダレてくるからな。そういえば、伊織とは外で遊んでやったことがなかったな。お前が人間でないからというのもあるが、私の仕事が忙しかったせいで、父親と息子のキャッキャウフフの象徴ともいえるキャッチボールすらしたことがなかった。まあ、私は運動は得意ではないから、楽しくはないだろうが」
と、いうわけでだっ、と藤原は叫んだ直後、両足のスラスターを全開にして猛烈な粉塵を巻き上げた。
「お父さんと一緒に外で遊ぼうじゃないかあっ!」
巨体のサイボーグによる超重量級の体当たりを喰らい、伊織は窓を突き破りながら外界に吹き飛ばされた。頑丈な積層装甲は加速によって重量を増し、伊織は受け止めることすら出来なかった。次の瞬間には、真昼の高い空を仰ぎ見ていた。山からの吹き下ろしで触角が靡き、濃厚な夏の匂いを絡め取る。
我に返った伊織は上下を反転させ、背負っていたりんねを抱え直すと、地面に叩き付けられる前に手近な杉の木の枝に飛び移った。枝に爪を食い込ませると、二人分の重量を受けて枝葉がしなる。その枝が加重に負ける前に再度蹴り、別の木に飛び移った後、ロータリーに舞い降りた。下両足を曲げて落下のダメージを軽減させたが、それでも逃がしきれないダメージが外骨格と瞬膜を歪ませてくる。
「何があったんじゃい!? 姉御、どげんしたんじゃ!」
キャタピラを鳴らしながら駆け寄ってきた岩龍に、伊織は喚いた。
「この木偶の坊が、なんであのクソ親父を別荘に入れやがった! その図体は飾りかよ、役立たずが!」
「わあっ、そげん怒らんでくれんかぁ! ワシャあ、兄貴の親父さんが突っ込んできた方向とは反対側にいたんじゃけぇ、気付いた時には壁をぶち抜かれとったんじゃあー! ひーん!」
岩龍は両腕で頭を抱え、半泣きになった。伊織は岩龍の相変わらずの幼さに腹が立ちそうになったが、今は岩龍に怒っている場合ではないと思い直し、背負っていたりんねを差し出した。
「木偶の坊、お嬢を預かっておけ。俺がクソ親父をぶっ殺すまでの間、てめぇがお嬢を守れ」
「ワシがかいのう?」
「他に誰がいる。さっさとしろ!」
「お、おう」
岩龍は精一杯腰を曲げて片手を差し出してきたので、伊織は分厚く巨大な金属の手に少女を横たえた。りんねは弱々しく瞼を開き、声にすらならない吐息を零しながら、伊織の上右足を離すまいと指を掛けてきた。その手に力は一切なく、死に瀕しているかのようだった。伊織はりんねの手を握り返してやりたくなったが、それは父親と遊んだ後にしてやるべきだ。岩龍がガラス細工を扱うような仕草でりんねを手に収め、ロータリーの隅まで後退ったのを確認してから、伊織は三階の壁に空いている大穴を見上げた。
「どちらかが倒れ、どちらかが残る! って、一度言ってみたかったのだ!」
藤原は断熱材の切れ端が零れ出ている大穴に足を掛けると、タンクのような円筒形の胸を張った。
「今こそ、中途半端な位置付けでふらふらしている我が息子に悪役の素晴らしさを体に叩き込んでくれよう! なぜ人は悪役を欲するのか、そりゃカタルシスが好きだからだ! なぜ怪人の方がヒーローよりもデザインが格好良いのか、そりゃ悪役が格好良くないとヒーローが引き立たないからだ! なぜヒールのプロレスラーがベビーフェイスになったら評判がイマイチになるのか、そりゃ悪い方がキャラ立ちもするし見栄えが良いからだ! 正義だ愛だのと謳うくせに人間はことごとく道を踏み外すのか、そりゃ人間の本質が悪だからだ! 欲望を理性で抑え込むことは、文明社会にとっては必要であり美しいかもしれんが、不自然なのだ! よって、悪こそがこの世の真理!」
とおっ、と穴から身を躍らせた藤原は落下し、ロータリーのアスファルトに着地した。その瞬間に両足のスラスターで逆噴射を行ったが、出力が足りなかったのか、両足がめり込んでアスファルトにヒビが走った。熱風混じりの粉塵が落ち着くと、藤原は銀色の巨体を見せつけるように両腕を広げた。伊織は腰を落とし、ぎち、と顎を鳴らす。
藤原忠という人間は伊織の父親であり、人間から生まれた化け物である伊織を息子として認めてくれたばかりか、捕食すべき人肉も毎日用意してくれた。伊織が人間に混じって生きようとしていた頃も、高価な生体安定剤を大量に買っては伊織に渡してくれた。食人鬼であり殺人鬼でもある伊織の人格を尊重してくれたのも、藤原忠ただ一人だった。だが、その男は快楽主義者だ。伊織を育ててくれたのも、伊織という化け物を養育するのが楽しいと思ったからなのだろう。そして今も、伊織と共にりんねを嬲り殺しにすることで快楽を得ようとしている。
外道だ、と伊織は内心で吐き捨てて憎悪を燻らせた。伊織は、人間を殺すことに快楽を覚えたことはない。人間を捕食する際に食欲が満たされる充足感こそ感じるが、殺戮にも、蹂躙にも、快楽は覚えない。増して、悪行など以ての外だ。それなのに、この男は自分を満たすためだけに他人を踏み躙っている。
正義と呼ぶには禍々しい衝動が、伊織の体液を煮立たせた。
銀色の砲丸が、一直線に突っ込んでくる。
馬鹿正直に受け止めるものではないので、伊織はステップを踏んで弾道から回避する。目標を失ったが方向転換出来なかったのか、藤原はそのまま突き進んでロータリーを囲んでいる草むらに頭から突っ込んだ。湿った土と草の切れ端が飛び散り、杉に激突する。距離感と出力が今一つ掴めていない様子からして、サイボーグボディを持て余しているようだった。スラスターを何度か空吹かししてから、藤原は起き上がって振り返る。
「ちょ、ちょっと失敗してしまったようだな……。だぁがっ、まだまだこれからだぁっ!」
と、叫ぶや否や、藤原は泥まみれのまま駆け出してきた。伊織はまたも回避すると、藤原はバランスを崩して派手に転倒した。アスファルトに体の前面を擦り付けながら火花を散らし、車庫の外壁に激突して止まった。これでは、戦闘にすらなりはしない。父親が肉体を失ったのは奥只見湖での戦闘の際で間違いないだろうが、時系列を逆算するとサイボーグ化してからは二ヶ月も過ぎていない。通常のサイボーグボディでもリハビリを重ねなければ操縦が難しい、と道子が以前言っていたような気がする。だとすれば、サイボーグ化すると同時に武装サイボーグとなった父親は、己の体に振り回されるのは当たり前だ。もう少し考えてから行動してくれ、と伊織は呆れた。
摺り下ろされたように塗料が剥げた胸部装甲を張りながら、藤原は起き上がった。パワーに応じて機械熱もそれ相応の高さなのか、早々に泥が乾いて落ちていく。関節から蒸気を噴出した後、藤原は身構える。
「さあ、どうする、伊織? ふははははは!」
「ウッゼェんだよ、クソ親父!」
さっさと片付けてしまうに限る。伊織は日差しで熱したアスファルトを蹴り、一直線に藤原に迫っていった。外装はいずれも分厚く、頑丈そうだが、関節だけは防御し切れていない。そこを狙って攻撃を仕掛ければ、数分で決着が付けられるだろう。一息に藤原の懐に滑り込んだ伊織は、長い下両足を生かして連続した蹴りを放ち、藤原の巨体が仰け反った瞬間に右肩のジョイントに右上足の爪を食い込ませた。が、しかし。
「ふんっ!」
藤原は伊織の爪が差し込まれた右肩を締め、ジョイントに伊織の爪を挟んできた。
「くそっ、何しやがる!」
伊織は慌てて爪を抜こうとするが、ジョイントに充填されている緩衝材に爪先が入り込んでしまったのか、粘着質な感触だけが返ってくる。伊織が暴れるも、藤原は脇を緩めようとしない。それどころか、伊織を抱きかかえた。
「伊織、お前の最大にして最強の武器はその爪と敏捷力だ。その程度のことが解らないほど、無能な父親だとでも思っていたのかね? うん? 攻撃方法も場所も予想通りすぎて、用意してきた緩衝材が早々に役立ったぞ!」
「ウッゼェっつってんだろうがぁあああっ!」
伊織は藤原の胸部装甲を蹴り付け、引っ掻き、左上足の爪も使って右上足の爪を引き抜こうとするが、抜けそうな気配すらなかった。めり込んだ爪先が肩のジョイントやシリンダーに触れている手応えはあれど、爪を動かせないのであれば無意味だ。そうこうしているうちにも、藤原は両腕を大きく曲げて伊織を抱き締めてくる。
「更に言えば、お前の外骨格はキチン質だ。カニやエビの殻と同じく、軽くて頑丈だが、熱にはそれほど強くない。というわけでだ、私は裏金を湯水のように注ぎ込んで、これを造り上げたというわけだ!」
藤原の両腕の外装からレンズの填った銃身が現れ、それが伊織の側頭部と胴体に据えられる。
「喰らうがいいっ、秘密兵器その一であるレーザーガンを!」
全ての足を押さえ込まれている伊織には、その攻撃を逃れる術はなかった。側頭部と胴体に押し付けられた銃口が発する超高温の光線は黒い外骨格を熱し、青白い光を零す。外骨格では防ぎようのない熱が体液を直接熱して濁らせ、蛋白質を過熱して凝固させ、火傷よりも遙かに激しい苦しみが襲い掛かる。何本か神経が焼き切れ、内臓が固まっていくのが解る。悲鳴を上げようとするも、あまりの高熱に胸郭が割れてしまい、声が上手く出なくなる。
熱線が止まるまでの僅かな時間が、永遠のように感じられた。側頭部と胸部装甲が焼け焦げて無惨に割れ、体液を垂れ流している伊織を、藤原は無造作に放り投げた。複眼が己の体液の海に没し、触角が折れ曲がる。
「どうだ、それでもまだ喋れるかね?」
「……ぐぅえぁ」
割れた胸郭を押さえて伊織は濁った声を発したが、言葉にはならなかった。この世には、生きたままのエビやカニを火炙りにして食べる人間が多くいるそうだが、人間とは残酷すぎる、と伊織は身を持って痛感した。過熱するなら、せめて止めを刺してからにして欲しいものだ。生きながらにして体液が煮える音を聞かされるのは、精神までもを痛め付ける拷問だった。神経が切れたために上両足の制御が出来ず、がくがくと痙攣している。
上右足の爪は未だに藤原の右肩関節に埋まっていて、伊織はぶら下がるような格好になっていた。藤原は伊織の爪を再びレーザーガンで過熱して呆気なくへし折ると、更には伊織の爪を根本から一気に引っこ抜いた。当然、神経と筋繊維が繋がっていたため、伊織は壮絶な痛みに仰け反った。が、悲鳴は上げられなかった。
「どうだ、痛いか? 痛いだろう、痛いだろう、痛いだろう?」
藤原は伊織の爪の根本から零れ落ちた太い神経糸を抓むと、捩った。途端に新たな痛みの奔流が伊織の全身を貫き、痙攣が激しくなる。その度に割れた外骨格から体液が漏れる量が増し、空っぽになるのは時間の問題だ。
「いいか、伊織。強さの本質は、即物的な攻撃力でもなければ凶暴性でもないのだ。インテリジェンスだ!」
抗うことすら出来ずに伊織が突っ伏していると、藤原は両足の外装を開き、白く濁った液体が詰まったシリンダーを取り出した。それを右腕に装着し、畳針のような極太の注射針と右手の人差し指を連動させたのか、人差し指を曲げるたびに白い液体が数滴飛び出した。それは伊織の体液に滴ると、体液が溶けて色を失った。
「これこそが真の秘密兵器であり、お前のD型アミノ酸を分解する酵素だ。私とて科学者の端くれだ、D型アミノ酸の分解酵素の化学式ぐらいは頭に入れてある。だから、新免工業に身柄を引き取られた後でも、こうしてお前のために秘密兵器を用意出来たのだ。さて本題に戻ろうか、お前の体液は七割がアソウギで出来ている、それを分解する酵素を体内に流し込んだら……どうなると思う?」
藤原は伊織の目の前に注射針をちらつかせ、単眼を瞬かせる。どうなる、と尋ねられても、伊織の肉体が酵素によって分解されるとしか思えないのだが。そんなことになれば、伊織は今度こそ死ぬだろう。触手を仕込んで伊織の肉体を元に戻してくれた寺坂からも、伊織の体はガタが来ていると言われた。自分でも、あまり無理が利かなくなってきたとは実感しつつあった。だからこそ、学校に行きたいと願い、りんねを守ろうと思い、行動したのだ。
それなのに、こんなところで死んでたまるものか。伊織は最後の気力を振り絞ってアソウギを操り、外骨格の穴を塞ぎ、神経を強引に繋ぎ合わせ、ふらつきながらも立ち上がった。藤原の右腕を払おうとするも、腕力が著しく低下していたせいか逆に上右足を掴まれた。が、今度は勝機はある。伊織は下半身を曲げ、藤原の右肩のジョイントに埋まっている己の爪を全力で蹴り付けた。割れ目の入っていた緩衝材が破れ、金属の軸と歯車が露わになる。
「うっ!」
藤原は反射的に伊織を離して後退ったが、伊織の爪先はジョイントの歯車を割ったのか、少しの間を置いてから藤原の右腕が落下した。伊織は肩を上下させ、複眼に父親を映し込む。
「てめぇの勝手なことばっかりしてんじゃねぇよ、クソが、屑が、ゴミがぁっ!」
「何を怒っている、伊織。私は今、最高に楽しいっ! 楽しすぎてブッ飛んでしまいそうなぐらいに! この世を楽しむためにはドラッグなんぞ不要なのだ! 必要なのは妄想と行動力と信念だ!」
落ちた右腕からシリンダーを外して左手に握った藤原は、本当に楽しそうだった。
「勝手に俺を作って、散々遊んで、殺して、それで終わりなのかよ!? クソッ垂れが!」
何を言っても通じない相手だと解ってはいたが、言わずにはいられない。伊織が喚くが、藤原は笑い続ける。
「そうか、私の相手をするのはつまらないのだな? そうだろうなぁ、私は生身ではないから喰うべき部分はほとんど残っていないし、怪人の中では最強と言っても差し支えのないお前をこうもあっさりとやり込めてしま
ったのだから、腹も立つだろうなぁ。だが、安心しろ。私はバッテリーがそれほど長持ちしないから、戦闘を長引かせはせん」
「だから黙れよ、黙ってくれよ、俺の話を聞けよクソが!」
伊織は藤原を睨み、叫ぶ。そうでもしなければ、心臓が潰れてしまうような気がした。
「聞くべき話など、あるものか」
藤原は口調を改めることすらなく、笑みも押さえようとしなかった。シリンダーを構えながら、伊織に迫る。
「いいか良く聞け、伊織。お前は私の崇高にして偉大な実験の産物であって、世にも哀れで稀少な人喰いの化け物であって、私の最大の娯楽にして快楽の坩堝には欠かせない人材なのだ」
ごり、と注射針が伊織の複眼の間に押し当てられ、針の先端に溜まっていた分解酵素が外骨格を溶かした。
「私はお前を愛しているんだ、伊織! 愛しているからこそ、お前で遊び尽くしたいのだ!」
「それが本音かよ」
怒りも苛立ちも通り越した伊織は、声を上擦らせた。剥き出しになってはいたが直視しないようにしていた父親の本性を目の当たりにして、絶望して泣くべきなのか、呆れ返って笑うべきなのか、迷ってしまった結果だった。
「まあ、真子はそれなりに愛してはいたが、あの女はダメなんだ。真子はな、秘書の三木君と通じ合っているのだ。真子が私と結婚してくれた理由も、三木君に近付くためだったのだよ。私を伊織と怪人増産計画に熱中させ、結果として会社から追い出したのも、真子と三木君が連れ添っていても不自然ではない環境を作るためだったのだよ。社長秘書と元社長夫人であり現大株主であれば、親しく接していても平気だと踏んだのだろうさ」
「知らねぇよ、んなもん」
連れ添った妻が同性愛者で自分の秘書を愛していた、となれば、藤原の受けるストレスは並大抵ではなかったかもしれない。だからといって、真子とアソウギを交わらせて伊織を産ませていいわけがない。その伊織を子供染みた願望に付き合わせたばかりか、弄んだ挙げ句に殺していいはずがない。人間ではないからといって、法律では認知されていない存在だとしても、許されるわけがない。伊織自身が、父親を許していないからだ。
「というわけでだ、伊織! お前はもっと私を楽しませてから死んでくれ!」
藤原は左腕を上げ、レーザーガンの銃口を掲げた。伊織の頭上を通り過ぎたレーザーポインターが捉えたのは、岩龍の手中で横たわっているりんねだった。伊織はすかさず駆け出し、飛び上がって射線上に入る。直後、背中の外骨格が焼けて嫌な煙が立ち上った。その一撃で辛うじて再生させた傷口が再び開き、体液を幾筋も流しながら、岩龍の足元に転げ落ちた。何度か回転した後、岩龍のキャタピラに激突する。
兄貴、と岩龍の不安げな声が掛けられたが、その岩龍もまたレーザーガンで狙撃された。単眼のスコープアイを的確な射撃で砕かれてしまい、視界を奪われてよろめいた。その拍子に右腕が傾き、未だに体の自由が効かないりんねが滑り落ちてきた。少女の体がアスファルトに叩き付けられる直前に、伊織は余力を振り絞ってアスファルトと少女の間に割って入った。四十五キロ少々の肉体が胸部装甲にめり込むと、その重量で更に体液が溢れ出すが、最早気にならなかった。そんなことを気にしていられる余裕など、なかった。
「ふむ。黒幕かと思いきや操り人形にすぎなかった悲劇の美少女と、それを身を挺して守ろうとするダークヒーローもどきのヴィランか。そう、これだ、これを求めていたのだよ! たまらんなぁ! ゾックゾクする!」
藤原は悠長な足取りで近付いてくると、レーザーガンの銃口を伊織とりんねの頭の上でふらつかせる。
「さあて、どっちから殺してくれようか! 先に御嬢様の頭を吹っ飛ばして、その脳を伊織が喰って一発逆転狙いの展開も捨てがたいのだが、伊織を分解酵素で完全に殺して御嬢様に骨の髄まで絶望を味わわせてしまうというのも燃えてくる! ふはははははははははっ!」
笑いながら、藤原は伊織を踏み付けてくる。伊織はりんねが踏まれてはたまらないと上下を反転させ、りんねの体を下にして全ての足を突っ張らせた。すかさず、藤原は伊織の背中を体重を掛けて踏んできた。僅かばかりの空間に守られたりんねは、伊織が踏まれるたびに飛び散る体液の雫を浴びると、蝋人形も同然の顔が青ざめていった。次第に前のめりになってりんねの肩に顔を埋める格好になった伊織は、爪が一本折れた上右足で出来る限り優しくりんねを抱き寄せた。それ以外に、出来ることがないからだ。
「だが、抵抗しないのであれば、面白くもなんともないな。ならば、時間の無駄だ」
興醒めだな、と呟き、藤原の攻勢が止まった。汚れて割れた複眼の隅でシリンダーが上がり、白い液体が注射針から零れて伊織の割れた背中を濡らし、溶かした。冷たく硬い異物が割れた外骨格を乱暴に破壊し、体液と内臓に侵入してくると、生温い液体が注入された。それは体液に馴染むことなく、広がり、中和し、溶解し始めた。
涙すら流せないりんねの頬に触れようとするも、上右足が内側から溶けてしまい、ずるりと外れた。外骨格が一つ一つ外れ、離れていくと、よく煮込んだ具材のように溶けた内臓がアスファルトに叩き付けられた。複眼に映る少女の顔を見つめながら、伊織は意識を離すまいと踏ん張っていた。そのおかげか、その後の出来事が解った。
伊織に分解酵素を流し込んだ後、藤原は思い違いだったと愚痴を零しながら別荘に背を向けた。が、振り返って左腕で何かを弾き飛ばした。高々と宙を舞った後にアスファルトに突き刺さったのは、一振りの日本刀だった。それを投げた張本人は、別荘の地下一階である駐車場から現れた。作業着姿の矮躯の男、高守信和だった。
貴様は何者だっ、とテンションを戻した藤原は高守に襲い掛かるが、長さの違う日本刀を左右の手に携えている高守は藤原の荒々しい打撃を鮮やかに受け流し、軽妙な足捌きで藤原の懐に入り込むと、丸太のように太い足を切り付けた。ただの日本刀では効き目はあるまい、と伊織は思ったが、積層装甲が一太刀で断ち切られて内側の配線や配管までもが切断された。火花を散らしながら藤原が転倒すると、高守は身軽に飛び跳ねて藤原の胸部に乗り、太刀を一振りして藤原の頭部を切断した。最後に小太刀で止めを刺され、藤原は動きを止めた。
人工体液の飛沫を全身に浴びた高守は、伏せがちだった目を上げて伊織とりんねを見据えてきた。伊織はその力強い眼差しに一瞬臆しかけたが、お嬢を頼む、との意志を送るために触角を曲げた。
そして、伊織は事切れた。
状況を理解するまでに、少々の間を要した。
銃声に驚いて立ち竦んだつばめの前に、駆け出してきたコジロウが立ち塞がる。叢雲神社を囲んでいる茂みの中から足音と呻き声が聞こえてくると、二人の人影が日差しの下に出てきた。片方は重武装した武蔵野で、もう片方は迷彩服を着ていて顔もペイントを塗っていたが、見知らぬ若い男だった。スナイパーライフルと思しき銃身の長い銃を肩に提げている。武蔵野はその男の襟首を掴んでいたが、ゴミを捨てるかのように地面に投げた。その拍子に首の後ろから夥しく出血し、絶命していることが解った。つばめが青ざめてコジロウの影に隠れると、武蔵野は硝煙の昇る大型の拳銃を軽く振って煙を払った。
底抜けに明るい真昼の景色には似合わない、陰惨極まる光景だった。引っ込んだばかりの涙がまた出てきそうになったが、つばめは意地で堪えた。いちいち弱気になっていたら切りがないし、コジロウを困らせてしまう。けれど、人間の死体を目の当たりにしたショックは予想以上に大きかった。
「勘違いするなよ、佐々木の小娘。俺はお前を助けたわけじゃない」
武蔵野は絶命している男をつま先で蹴ると、ブレン・テンの照準をつばめに合わせた。
「この馬鹿野郎は作戦の趣旨を理解していなかったみたいでな、お前を殺そうとしていたんだよ。だから、俺は現場の判断で奴を処分した。いくら人件費が安いからって、半島の軍人崩れなんか雇うもんじゃねぇな。抵抗するなよ、抵抗しただけ時間と手間を喰う羽目になるからな。佐々木の小娘、コジロウを機能停止させて連行されろ」
「そんなの、絶対に嫌って言うよ?」
コジロウの腕を握り締めて震えを誤魔化しながら、つばめが言い返すと、武蔵野は引き金を軽く絞った。
「すぐに言えなくしてやるよ」
どうすればいい、何をすればいい、コジロウをどう動かせばいい。つばめは頭を巡らせようとするが、迷彩服姿の男の傷口から広がった生温い血の臭気が鼻を掠め、胃袋を締め上げてきた。喉の奥に嫌な酸味が迫り上がるが、必死に歯を食い縛る。武蔵野が左手を挙げると、雑草の中を駆けてきた数人の男達がつばめの前後左右を固め、自動小銃でつばめとコジロウを威嚇してきた。吐き気と緊張感と恐怖で、つばめは唇をきつく噛んだ。
写生の宿題は、まだ手付かずだというのに。




