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機動駐在コジロウ  作者: あるてみす
 

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鬼のメンタルにも涙

 家庭訪問に来たはずの教師は、機密情報を漏洩し続けていた。

 座卓の向かい側で胡座を掻いている一乗寺を見つつ、伊織はそれでいいのかと思ったが声に出すことはせずに甘んじて受け止めていた。一乗寺の諜報員らしからぬ行動の意図が何であれ、遺産相続争いの情勢を知っておくに越したことはない。吉岡りんねの配下から抜けてからは情報を得る手段がなかったので正直言ってありがたい。もっとも、その情報を得た伊織が行動に出るか否かは別問題なのだが。

「でさぁ、もう大変だったの。コジロウの独断で警官ロボットが体も動いちゃって、至るところからクレームがじゃんじゃか来てさぁー。まあ、ノーマルな警官ロボット達は一時間もしないで戻ってきたらしいけど、それでも問題であることには変わりないしぃー?」

 一乗寺は三杯目の麦茶を飲み干してから、渋面を作って胡座を掻いている寺坂を揺さぶる。

「ねえ聞いてるぅ、よっちゃーん! おかげで事後処理の書類がわっさわさで、すーちゃんとさよさよに押し付けても切りがないくらいでさぁー! でもって、更に面倒臭いことに、コジロウが小一時間で全滅させた変な組織の構成員は全員死んでいたんだよぅ。あー、でもゾンビとかじゃないよ? コジロウは非殺傷設定が普通の警官ロボットよりも強めだし、負傷させられるのは手足ぐらいなもんだしね。あれよ、この前、俺とよっちゃんが暴れ回った信者だらけの集落の時と同じなの。あいつらはね、戸籍の上では全員死んでいるんだ。まあ、よっちゃんが殺したゾンビ人形の娘はまた別ジャンルだろうけどね。しかも更に更に面倒臭いことに、連中、死んだ時期がバラッバラ!」

 菓子鉢に手を伸ばした一乗寺は、煎餅を囓った。

「それってねー、たぶん、そいつらかその関係者が弐天逸流に入信した時期と照会しないと訳解んないと思うんだ。でも、そっち方面に入れた工作員はことごとくやられちゃったみたいだから、情報が全っ然届かないんだー」

「そろそろ黙れよ、そして本題に入れ」

 寺坂は一乗寺が垂れ流す情報を聞くべきではないと思っているのか、顔をしかめていた。根が善良な男だ。

「でね、なんかね、あのヘビ男が生きているっぽいの。まー、あの程度は死んだとは思っていなかったけど、あいつを野放しにしておくのは俺でもさすがにアレかなーって思うんだ。でも、泳がせないとダメなんだよねぇ。その分人間はいくらか喰われちゃうかもしれないけど、仕方ないんじゃない?」

 ねえいおりん、と話を振られ、伊織は顔を背けた。

「なんでそう思うんだよ、てめぇは」

「そりゃあまあ、いおりん達怪人が人間を喰っちゃうと、その分俺が殺すための取り分が減っちゃうのが勿体ないしつまんないけどさ、いおりんもヘビ男も必死じゃない。生きるために」

「あいつが死のうが生きようが、俺には関係ねーし。てか、どうでもいい」

「そりゃまー、いおりんを見ていれば解るけどね。いおりんもヘビ男も互いを捜そうとしないし、どっちもベッタベタした仲間意識を持つようなタイプじゃないし? だけど、互いに殺し合おうとも思わないんだよねぇ。変なの」

 俺だったら殺し合うけど、と笑う一乗寺に、伊織はぎちりと顎を噛み締める。

「殺し合ってどうなる。何にもならねぇだろうが、そんなもん」

「てぇことは何、いおりんには生存本能に直結した闘争本能ってないの?

 同じアソウギを使って生み出された怪人の失敗作を片付けていたのに、怪人に対してはムラムラっと来ないの? へーんなの」

 おい、と寺坂が一乗寺をたしなめるが、一乗寺は身を乗り出してくる。

「だったらさ、俺のことは殺したいって思う? ねえ? 思うの、思わないの、どっちなの?」

「血の一滴も啜りたくねぇよ」

「そっかぁ、そうだよねー。んふふふぅ」

 一乗寺は、特技を褒められた少年のようににんまりとした。いい加減にしやがれっ、と寺坂は一乗寺の後頭部を引っぱたいたが、一乗寺の笑顔は消えなかった。一乗寺の素性は知らないが、この男は人間ではないな、と伊織は本能的に感じ取っていた。倫理観が致命的に欠如していることもそうだが、匂いが違う。

「別に殺したっていいんだぞ、こいつのことなんか。血が飛び散っても、畳を張り替えりゃ済むことだ」

 心底鬱陶しかったのか、寺坂はサングラス越しに一乗寺を睨め付けた。

「喰いたくねぇ奴を殺すほど、俺は馬鹿じゃねーよ。つか、俺に何を聞きてぇんだよ」

 そのために来たんだろ、と伊織が付け加えると、一乗寺は不意に笑顔を消した。

「話せることを全部話してよ。その情報をどう生かすかは、俺達の匙加減一つなんだけどね」

「話すことなんて、ねぇよ」

 伊織は天井を仰ぎ、あぎとを軋ませた。そもそも伊織は自分のことをべらべらと喋るような性分ではないし、喋ったところで何になると言うのだろう。けれど、こんな生活がいつまでも続かないのは解り切っている。寺坂の住まう寺に居候していれば曖昧な立場を保てるが、政府が野放しにしておくとは到底思えない。フジワラ製薬は一連の争いから手を引いたが、それは伊織を放逐したという意味ではない。羽部共々、いずれ始末されるだろう。遺産が全て佐々木つばめの手に渡り、支配されたら、体液の七割をアソウギに置き換えている伊織はどうなるのだろう。大量殺人を何度も行ってきたのだから、ただの人間に生まれ変わらせてくれるはずがない。

 伊織は伊織だ。藤原忠と藤原真子の血を引かず、その名前だけを受け継いだ、人間でもなければ虫でもない全く別の生き物だ。だから、伊織が死せば、伊織という生き物が生きてきた記憶もまた失われる。それでいい、と以前は思っていたが、好奇心に任せて本を読み漁ったり、分校に通っていると、自分が途切れてしまうのが惜しいと思うようになっていた。その気持ちに任せて、伊織は語り始めた。

 己の過去を。



 十九年前、伊織は産まれた。

 誕生の仕方からしてろくでもなかった。藤原忠と真子はお見合い結婚したが、それから何年もの間、二人は子供に恵まれなかった。結婚して十年が過ぎても兆しすら現れなかったので、両親は病院で精密検査を受けると、どちらにも不妊の原因があった。それから両親は高額の治療費を消耗しながら不妊治療を繰り返し、真子は何度か妊娠したもののすぐに流産してしまった。諦めるか、養子を取るか、そのどちらかを選べと両親は先代社長である祖父に迫られた末に最悪の決断を下した。フジワラ製薬を発展させてきた粘液、アソウギに頼ることだった。

 アソウギと母親を交わらせる方法は乱暴だった。粘度が高いアソウギに身を浸しても胎内に入ることはまずないと解っていたので、フジワラ製薬の医療班はアソウギを太いチューブに吸い上げ、それを真子の胎内に流し込んだ。その苦しみは凄まじく、真子はひどく暴れた。その甲斐あって、真子は伊織を孕んだ。

 それから、真子は下半身から伸びたチューブをアソウギ本体に繋げたまま十ヶ月を過ごした。真子の子宮で胎児が育ちづらいことはこれまでの不妊治療で判明していたので、アソウギ本体から栄養分を得て胎児を育てる方法を取った。その間、真子は当然ながら寝たきりで、人間ではない異物を妊娠した苦痛に耐えかねて自傷行為に走ろうとするのでベッドに拘束されたこともあったほどだ。

 その間、父親である藤原忠が何をしていたのかと言えば、真子が妊娠したことを知って意気揚々と怪人増産計画に拍車を掛けていた。研究員を増やし、被験者を増やし、予算を増やし、趣味に突っ走っていた。仕事帰りに真子の病室を訪れるものの、寂しさと苦しさに参っている真子を尻目に自分のことばかりを話していた。日に日に真子の態度が冷たくなっていったが、藤原はそれに気付こうとはしなかった。鈍感なのだ。

 多量の出血と拒絶反応によって生死の境を彷徨いながら、真子は伊織を出産した。伊織と名付けたのは祖父であったが、本当は違う名前を付けたかった、と幼い伊織を抱きながら真子が零したことがある。その名前がどんな名前であるかは未だに知らないし、これからも知ることはないだろう。

 産まれる前の記憶があるのは、伊織がアソウギと同調しているからだ。アソウギが見ていた記憶がそのまま伊織の脳に染み込んだため、両親の馴れ初めや鬼の所業と言っても過言ではない妊娠の経緯を知っている。アソウギは伊織を外部と接触するための端末として生み出し、長らえさせている節があるようだった。

 母親の腕を喰い千切った時のことも、よく覚えている。あの日、伊織は飢えていた。ミルクや母乳の代わりに人間の血を飲んで成長してきた伊織は、普通の赤子よりも若干成長が早かった。だから、一日に摂取する血液の量も多く、輸血用の血液が何パックも空になった。血液凝固防止剤を混ぜた血液が入った哺乳瓶を何本も空にしては、腹が減ったと泣いていた。その度に、真子は血生臭さで吐き気を催しながらも血液を哺乳瓶に移し替えては伊織に銜えさせてくれた。その日は特に空腹が激しく、飲んでも飲んでも満たされなかった。

 飢えと死への恐怖から泣き喚く伊織を、心身共に疲れ切った真子は抱き上げてくれた。母親の腕の中に収まった伊織は安心感に包まれるよりも先に、天啓の如く閃いた。飲んでも満たされないのであれば、喰えばいい。丁度肉は目の前にある、この女の肉だ。あの鉄錆の味がする肉だ。喰え、喰え、喰え、喰え、喰え。

 腹の中で何者かが暴れ出したかと思うと、伊織は身を躍らせていた。真子のブラウスに包まれた痩せた肩に生えたばかりの歯で喰らい付き、乳児らしからぬ顎の力で皮膚を噛み切り、筋を千切り、骨を砕き、真子の右腕を外して床に落とした。傷口から迸る生温い血の奔流を浴びながら、伊織は母親の右腕ごと床に落ち、幼い体に加わった痛みを気にする暇もなく、食欲に促されるままに喰った。一心不乱に喰っている最中、母親は這いずって逃げようとする。ひいひい、と悲鳴にすらならない声を漏らしながら、血を流しながら、玄関に逃げていく。

 父親が帰ってきても、母親が救急搬送されても、伊織はまだ肉を喰っていた。いつのまにか生えていた牙を突き立て、小さな胃袋に収まりきらない量のものを収めていった。途中で何度か吐き戻してしまっても、食べた。食べずにはいられなかった。食べていなければ、腹の中の化け物がまた暴れ出しそうな気がしていたからだ。

 だから、喰った。



 啜った血の量と貪った肉の量に比例して、伊織は成長していった。

 外見だけは普通の子供と変わらなかったが、頭の中身は別だった。常にアソウギと同調しているせいで、父親が時折連れてきては怪しげな生き物と合成させている人間の意識や記憶が流れ込んでくるのだ。だから、伊織が実際に見聞きしていないものの知識や経験が、幼い体に染み付いていった。何をしてはいけないのか、どんなことをしたら怒られるのか、どこに行ったら危ない目に遭うのか、ということが教えられるまでもなく理解出来た。

 数百人の大人の記憶と意識と知識を備え持った伊織は、実に可愛げのない子供だった。表情も乏しければ愛想もなく、大人に頼ることも甘えることもしなかったからだ。べたべたに甘やかしてくれるのは伊織を過大評価している父親だけであり、それ以外の人間は伊織を恐れていた。人喰いなのだから、当たり前だ。

 年齢を重ねた伊織は、フジワラ製薬の系列会社が経営している幼稚園に入れられた。母親や周囲の人間からはもちろん大反対を受けたが、父親が強引に押し切った。伊織はどうでもよかった。周りに子供がいようがいまいが、なんとも思わないからだ。自分の世界が出来上がっていたから、今更教えられることもないと思っていた。

 父親の部下が運転する車に乗せられ、玄関に可愛らしい装飾が施された幼稚園に送り届けられた伊織は、持病があるからという名目で父親の部下に付き添われた。その時に飲まされた薬が、あの生体安定剤だった。

 自制心もなければ知性の欠片もない幼い子供がぎゃあぎゃあと走り回る部屋の中に入れられた伊織は、自分がすべきことを見つけられずにぼんやりとしていた。部屋の隅で絵本を広げ、黙々と読むしかなかった。他の子供に遊ぼうとせがまれるが、面倒臭いので振り払った。生体安定剤が効いていたおかげなのか、子供に対しては食欲が湧かなかったからでもあった。そのうちに、幼稚園の先生が絵本を読み聞かせる時間になった。

 昔々のお話。とっても怖い人喰い鬼が険しい山から下りてきて、小さな子供を見つけては、頭からむしゃむしゃと食べてしまいました。村の人達は人喰い鬼に食べられてはいけないと子供を隠したので、村からは子供が一人もいなくなってしまいました。若い女性の先生が感情を込めて読むたびに、子供達がぎゃあぎゃあと騒いだ。

 鬼はとってもお腹を空かせて村から村を回りますが、どの村の子供にも子供はいませんでした。そんな時、山道で足を挫いた女の人と出会いました。女の人は人里離れた山奥に一人で住んでいたので、人喰い鬼の話を聞いたことがありませんでした。だから、人喰い鬼と出会っても怖がりませんでした。鬼は女の人を捕まえて、食べてしまおうと自分の住み処に連れて行きますが、女の人はとても喜びました。なぜなら、女の人は今まで誰からも優しくされたことがなかったからです。心の綺麗な優しい人なのに、生まれつき顔に痣があるせいで、鬼の子だと村中の人から嫌われてしまったからです。子供達は息を飲み、女の人の行く末を案じた。

 人喰い鬼は女の人と一緒に暮らし始めました。女の人はとても料理が上手で、毎日毎日、とっても美味しい御飯を作っては鬼に振る舞ってくれました。人間よりもおいしいものがあると知った鬼は、心を入れ替え、女の人と一緒に静かに暮らしていこうと決めました。そして二人はとても可愛い子供達に恵まれ、ずっと幸せに暮らしました。

 おしまい、と先生が本を閉じると、子供達がほうっと安堵した。けれど、伊織は納得出来なかった。なぜ、その鬼は女の人をその場で喰わなかったのだろうか。成人女性は体が大きくなっているし、力もあるから、幼い子供と違って食べづらいからか。それとも、女の人の顔にある痣を見て、彼女も鬼呼ばわりされていることを悟って哀れんだからなのだろうか。自分であれば、その場で喰う。女の人を喰う。喰って腹を満たし、次の村を荒らしに行く。

 幼稚園から帰った伊織は、夕食の席で父親にその話をした。母親は別の部屋で全く別のものを食べるので、同席したことはない。あったとしても、記憶にない。伊織は誰かが病気か事故で切断した腕を囓りながら、言った。

「目の前にあるものを、なんで食べないのかが解らない」

 子供らしからぬ口調で喋った伊織に、藤原忠は出来合いの弁当を食べながら返した。

「それはだな、投資だ」

「先を見通して行動すること?」

「まあ、そうだな。会社経営の中では重要だが、それ故に難しいことでもある」

 藤原は塩気の強いソースが掛かったハンバーグを割り箸で切り、白飯の上に載せて食べた。

「この御時世だ、何が受けるか解らんのだ。これは当たるだろうと思って広告も大々的に打って生産量を増やした商品が売れ筋に乗らないこともあれば、勢いに任せて作ってみただけの商品が当たって在庫切れになることもたまにあるのだ。売れすぎても困るが、売れなさすぎても困る。利益を出すのは大変なのだ」

「だから、女の人を助けたのは投資?」

「そうだ。なぜならば、女性は子供を産むからだ」

 藤原は付け合わせのマカロニサラダを食べてから、お茶を飲んだ。

「私を始めとした人間は繁殖行為によって産まれる。精子が卵子に受精し、子宮に着床し、細胞分裂を行って成長を繰り返し、十ヶ月程で母親の体外に出る。伊織は……生物学的にも倫理的にも人間とは言い難いし、どちらかというとエイリアンシリーズのエイリアンみたいなものだが、雄だ。発達はしていないが生殖器もあるし、染色体もXとYがある。よって、伊織は単体繁殖は不可能だ。そもそも子宮が存在しないからな。だから、我々人間は異性と婚姻し、生殖行為を行い、繁殖しては子孫を繁栄させていく。それが自然の摂理であり、世の常だ」

「だから、女の人を捕まえて、飼った?」

「ふはははははは、伊織はそう認識するのか。さすがは」

 鬼の子だ、と藤原は口角を吊り上げた。鬼。自分は鬼なのか。

「その絵本が気に入ったのであれば取り寄せてやろうではないか」

「……ん」

 そんなに欲しくはないんだけど、と伊織は言いかけたが口には出さなかった。新しい本を読むのは好きだからだ。他人の知識や記憶だけでは補えないものが詰まっているし、世界の幅が広がるような気がして面白いからだ。

「だから、その人喰い鬼は女の人に次々に子供を産ませては喰っていることだろう。絵本の時代背景にもよるが、昔は医療が未発達だったこともあって乳幼児の死亡率は格段に高かったのだ。どうせ山奥の二人暮らしだ、産婆を呼ぶこともないだろうし、医者に診せるなんて考えも起きないだろう。だから、女の人が子供を産み落として心身共に疲れ切っている間に喰ってしまうのだ。死産だった、とでも言えばどうとでも誤魔化せるだろうしな。一度知った味を忘れられるものではない。増して、それが鬼であれば」

 ハンバーグを切り分けながら、藤原は神妙な顔になる。

「人は皆、鬼だ。肉の味を知っているからだ」

「それって悪いこと?」

「少なくとも、私はそう思うのだ。肉の味はイコールで殺しの味だ。脂身を増やすために品種改良を重ねた動物は、種として在るべき姿から懸け離れた異形なのだ。しかし、人間はそれを好んで喰う。特権階級である証しのように、何かといえば肉を喰う。私も嫌いではないし、それがあるから成立しているビジネスも娯楽もある。だが、その肉を口にするたびに業が鬱積するのだ。けれど、大抵の人間はその業を知ろうとはせん。自覚してすらいない」

「それもやっぱり、悪いこと?」

「そうではない、とも言い切れんなぁ。そうだ、とも言い切れんが」

 藤原は曖昧な返事をして、冷めつつある弁当に箸を突っ込んだ。伊織は父親が食べているものが気になったが、人肉以外は何を食べても激しい嘔吐と下痢に襲われるので、すぐに目を逸らした。どうせ食べられないのだから、興味を持っても無駄だからだ。胃袋を満たすために、牙を剥いてどこかの誰かの腕に食らい付いた。

 筋を千切り、皮を裂き、骨を砕き、凝固した血を飲み下す。口に入れた途端に劣化したL型アミノ酸がD型アミノ酸に変換されていくのが解り、それを嚥下すると胃液が消化していく感覚が起きる。死の味だ。人喰い鬼はこの味を知っているからこそ、女の人を助けた。自分の子供を産ませ、死産したと偽って喰うために、だ。合理的だ、と思う反面、自分も人喰い鬼の子であれば良かったと思った。

 幼稚園にはお弁当を食べる時間がある。子供達は、それぞれの母親が作ってくれた料理が入った可愛らしい箱を出して広げ、騒ぎながら食べる。ゲームやアニメのキャラクターを模ったものや、質素ながら手の込んだものや、いい加減ではあるが持たせてくれるだけマシ、というレベルのものまで。だが、伊織は食べられない。

 何も、食べられない。



 伊織は小学校に進学した。

 父親が調達してくる生体安定剤を毎日服用していると、人間に対する欲望をある程度抑えられていたが、それも次第に効果が薄れてきた。最初は一日一錠で済んでいたのに、一日に二錠を飲まなければ抑えが効かなくなってきていた。体が大きくなるに連れて、その大きさに応じた食欲が出てきたからでもある。二錠が三錠、三錠が四錠になるのは時間の問題だった。父親は、何も心配するな、と言って伊織が求めるままに生体安定剤をくれた。

 生体安定剤の正体がただの薬剤ではないことは、伊織は本能的に悟っていた。その材料が伊織の体に馴染むということは、人間の血肉が材料であるのが明白だった。生体安定剤を包んでいる赤いカプセルの原料は人間由来のコラーゲンでなければ、伊織は口に含んだ瞬間に嘔吐感を覚えてしまうだろう。そのカプセルが溶けて胃から腸へと薬剤が吸収され、拒絶反応が起こらないのも、人間の生体組織を加工したものだからだ。だが、それがどこの誰の体を切り刻んで作った薬なのか、伊織には見当も付かなかった。出来る限り考えないようにしていた、と言った方が正しいかもしれないが。それでも、飲まなければ自分が自分でなくなってしまうので、伊織は毎日生体安定剤を飲み、クラスメイトと共に給食を食べられないので、昼食の分まで人肉を喰らってから登校していた。

 一年生、二年生、三年生と、大きなトラブルを起こさずに過ごせていた。生物学的に根本的に異なる子供達とは、仲良くなりたいとは思いつつも遠巻きにしていたし、されていた。伊織は特殊な持病を持っていて、大企業の御曹司だということもあり、教師からも一定の距離を置かれていた。べたべたに甘やかされたり、ウェットな友達関係を作るのは苦手なので、それでいいと思っていたが子供心には寂しかった。だから、唯一伊織を子供扱いしてくれる父親に懐いていた。それ以外の心の拠り所がなかったからだ。

 四年生に進学して、生体安定剤を飲む回数も量も増えてきた頃、父親が伊織をフジワラ製薬本社に呼び出した。それはとても珍しいことだった。それまでは、会社には決して近付くな、と教えられていた。伊織の存在が世間には隠されていることと、アソウギのことを知らない社員達を騒がせないためでもあったからだ。

 つつがなく授業を受けて下校した伊織は、社長秘書が運転する車に乗ってフジワラ製薬本社に向かった。図書室で借りてきた本を広げて読んでいたが、目の焦点が合いづらいので苦労した。今にして思えば、生体組織が人間の構造とは異なっていたからだろう。半分も読み進まないうちに、本社に到着した。

「待ち兼ねたぞ、我が息子よ」

 フジワラ製薬本社の社長室に入ると、おかしな格好をした父親に出迎えられた。

「何それ」

 ランドセルを背負って本を抱えた伊織は、したり顔の父親に心底冷めた目を向けた。なぜなら、藤原は特撮番組に登場する悪役のような服装をしていたからだ。ツノの生えた兜にそれと一体化している覆面、装飾が多く見るからに重たげな甲冑、引き摺るほど長いマント。伊織の背後に控えている社長秘書もまた、冷めた顔をしていた。

「心して聞け、我が息子よ! 長年の夢であった世界征服を目指そうと思うのだ!」

 椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がり、マントを広げた父親に、伊織は顔を背けた。

「俺、付き合わねーから」

「まあ待て、伊織! とりあえず一通り話を聞いてくれ、でないと私は何のために重役会議を小一時間で切り上げ、この格好に着替え、リハーサルを繰り返しながら三十分以上もスタンバっていたのかが解らんではないか」

「解りたくもねぇし」

「お前を生みだしたモノは何なのか、知っているな?」

「……アソウギだろ」

 伊織が面倒臭がりながらも答えると、藤原はにんまりして腕を組んだ。

「そう、そのアソウギだ! あの粘液の固まりの正体は今一つ把握出来ていない、が、しかし、あれが世界中の悪役フェチの夢のまた夢である生きた人間を改造出来る代物であるのは知っての通りだ! もっとも、そいつを自在に操る方法までは解明出来ていないがね。あれは、お前の祖父であって私の父親から受け継いだものではあるが、説明書まではもらわなかったからな。というよりも、説明書のあるような道具ではないからな。祖父にアソウギを譲渡した相手が不親切なのもあるが、功を焦った祖父が聞き出してこなかったから、というのもある。が、私はアソウギの本来の持ち主に近付こうとは思わんね。顧問弁護士や産業スパイの伝手を使って探ってみたが、きな臭いったらありゃしない。触らぬ神に祟りなし、だ」

 藤原は社長秘書のおかげで整理整頓の行き届いているデスクから離れると、伊織の傍にやってきた。

「だが、私はアソウギを単なる万能薬製造器にしておくつもりはない。だって勿体ないじゃないか、そう思うだろ、そう思ってくれ、そう思っていなくても同意してくれ! でないと、つまらないじゃないか!」

 仰々しいグローブを填めた拳を固め、藤原は胸を張る。だが、伊織は冷め切っていた。

「どうでもいいし。つか、早く帰りたいんだけど」

「まあ聞いてくれよ、お願いだから。で、だな、私はいいところまで怪人増産計画を進めたのだ。臨床試験の被験者を掻き集めて、そこら辺の自殺スポットから自殺志願者を掻き集めて、 他にもまあ色々と手を回し、改造出来そうな人間の頭数を揃えた。そして、彼らの体液をアソウギに置き換えてみたのだが、なかなか上手くいかなかった。それはなぜだと思う、伊織?」

 藤原に迫られ、伊織は一歩後退る。

「ただの人間だからだろ」

「そう、その通りだ! 伊織は真子の子宮を借りて産まれ落ちた生命体ではあるが、私の生殖細胞はただの一欠片も混じっていないのだ! だから、真っ当に考えれば、伊織はアソウギの能力を用いて作られた真子のクローンになるはずなのだが、染色体はXYで生殖器も付いている男なのだ。そこが不思議でな、私はそれはもう色々と考えてみたのだ。仕事を半分ぐらいほっぽり出したので、そこにいる秘書の三木君に死ぬほど怒鳴られたがな!」

 藤原はなぜか胸を張って威張ったので、社長秘書の三木志摩子が威圧的に咳払いをした。

「そして私は、考え抜いた末にある結論を導き出したのだ! アソウギとは、状況に適応した生物を生み出すためのプラントであり、分析装置であり、コンピューターなのではないか、とな。真子が不妊症であることは伊織も知っての通りだ。だから、アソウギは真子の遺伝子の欠落した部分を補った結果、女性ではない伊織を産み出したのではないか、とな。だが、それだけでは伊織が人肉しか受け付けないことにも説明が付かん。そりゃ人類は行き詰まっているし、進化の過程にいるのかいないのかも定かではないし、退化しているかもしれないが知能の方はじわじわっと進歩しているかもしれないが、人間を主食にするほどの食糧危機に見舞われてはいない。場所にも寄るが」

 藤原は伊織が抱えている本を見、覆面の下で目を細めた。

「良い趣味をしているな」

 少々気恥ずかしくなって、伊織は本を抱え直した。世界の怪事件、というタイトルの子供向けの本で、都市伝説や怪物の話が載っているものだ。伊織はその中の一つである切り裂きジャックの話に惹かれ、借りたのだ。

「人間を喰う。いわゆるカニバリズムだが、それ自体は歴史を長い目で見ると珍しいことでもなんでもない。現代に至るまでの間に何度も飢饉が訪れ、その度に人間は人間を喰ったのだ。飢えるからだ。喰わなければ死ぬからだ。必要に駆られたのであれば、まだ筋が通る。人間を殺して切り刻んでは商品として店頭に並べた肉屋も何人もいるが、時代背景が異なるし、それぞれの事情もあるから一括りには出来んのだ。人間を殺して喰うことで性的欲求を満たす人間も少なくない。伊織が借りてきたその本に出てくる切り裂きジャックは、娼婦に対して並々ならぬ憎悪と共に一種の愛情を持っていたのかもしれんな。だから、殺し、切り裂き、臓物を持ち帰るのだ」

 その本は昔に読んだことがあるのだ、と付け加えてから、藤原は腕を組む。

「暗く深い洞窟に住み、旅人を襲ってはその金品を奪い去った末に解体して主食とし、近親相姦で繁栄したソニー・ビーン一族、四〇〇人以上もの子供を食したとされる大量殺人鬼のアルバート・フィッシュ、男色と共に人食を好んだジェフリー・ダーマー、などなど、他にも上げれば切りがない。彼らは皆、人間としては常軌を逸しているが、伊織はそうではない。伊織は姿形こそ人間に似ているが、中身はそうではないからだ。だから、伊織は正常なのだ」

「何が言いたいん?」

 段々と焦れてきた伊織が急かすと、藤原はにいっと口角を上げた。

「失敗作の怪人を喰ってはくれまいか、息子よ。それが、人間でないものの正常な行動だ」

 その表情は、最高のアイディアを思い付いた、と言わんばかりの明るい笑顔だった。秘書の三木志摩子は表情を変えまいと歯を食い縛っていたが、見るからに顔色が悪かった。彼女は正常なのだ、真っ当な意味で。

「伊織は人間の血肉を喰らうが、喰らった人肉がラミセ化してD型アミノ酸へと変化しなければ、消化することすらも出来ない理由は未だに不明ではある。今後も解明すべき課題ではある。我が息子がいかなる生き物なのか知っておかなければ、父親としての立場がないからな。が、それはそれとしてだ、伊織の能力は大いに役に立つ。最高の証拠隠滅が出来るからだ。ふははははははははははっ!」

 誇らしげに、藤原は高笑いを放つ。堪えきれなくなったのか、三木志摩子は失礼しますと言い終える前に社長室から逃げ出していった。志摩子のハイヒールの足音を聞きながら、伊織はすぐには帰れなさそうだと判断し、借りてきた本をランドセルの中に入れた。藤原は散々高笑いしてから、やってくれるな、と伊織の肩を叩いた。

 断る理由がなかった。



 それから、伊織は怪人になった。

 人間の子供と同様の身体能力では、出来損ないの怪人達には太刀打ち出来なかったからだ。アソウギが体液の七割を占めているので、多少のことでは死なないのだが、死なないだけでダメージはきちんと受ける。アソウギへの拒絶反応によって心身が狂っている怪人達に叩きのめされたら、ただでは済まない。だから、伊織は怪人増産計画を行っている研究所にて、怪人体に変化するための生体融合を行った。

 その時に与えられたのは、昆虫図鑑だった。研究員がやってきて、伊織にそれを広げてみせたのだ。伊織の生体組織との相性が良いのは昆虫だが、どれにするかは伊織自身が決めてくれ、と。伊織は読書は好きだが動物にはあまり興味がなかったので、なんとなく眺めるだけだった。ぱらぱらと適当にページを捲っていくと、軍隊アリが目に留まった。群れて戦う生き物、大きな虫だけでなく動物でさえも殺し、喰らう生き物、女王の絶対統制の元で命を使う生き物。黒く棘の多い外骨格が勇ましかったのと、単純明快な繁栄目的のために戦う彼らが羨ましく思えた。伊織は自分の正体が解らないが、彼らは明確な目的のために生まれ、女王の手足として行使され、ジャングルの奥地で戦い抜いている。生きる目的がある生き物に憧憬を抱いた伊織が、軍隊アリのページを見つめていると、研究員はそれでいいのかと尋ねてきた。伊織は迷わずに頷いた。

 そして、軍隊アリを溶解したアソウギが伊織の体内に注入された。それから数時間後に効果は現れ、伊織の肉体は膨張し、軍隊アリに変化した。分厚い外骨格に長い爪、首の後ろに伸びる太い棘、艶やかな複眼、鋭敏に匂いを捉える触角、女王に仕える兵士に相応しい筋力。通常の怪人を遙かに上回る結果が出たらしく、研究所が大騒ぎになったことを覚えている。中でも父親は大喜びで、喜びすぎて暴れてすらいた。

 彼らの騒ぎを横目に、伊織は悟っていた。自分が何をするべきで何のためにこの姿を得たのかを。実験室のドアを難なく破壊した伊織は、巨体と化した体を少々持て余しつつ何度か天井に頭をぶつけながら進んだ。伊織が一歩進むたびに研究員達は道を空け、歓声すら上げてくる。それが鬱陶しかった。

 何本もの蛍光灯を頭で割り、渡り廊下の天井を壊しながら、別棟の隔離室に向かった。シェルターのような分厚いコンクリートの壁に囲まれた薄暗い地下室に入ると、折れ曲がった鉄格子が飛んできた。拘束具と思しき太い鉄輪とチェーンが振り回され、壁に叩き付けられて火花が散った。伊織が複眼の焦点を合わせると、人間でも動物でもない生き物が唸っていた。中途半端に迫り出した外骨格の下からは肌色の手足が伸び、ツノか牙か定かではないものが背中や肩から生えている。そのくせ、顔だけは人間で、十代後半と思しき若い男だった。

「これ?」

 伊織が爪を挙げて怪物を示すと、伊織に追い付いてきた藤原はマントを広げた。

「そうだ! さあ、我が息子よ! 彼を苦痛から解放してやるがいい!」

「興味ねぇよ」

 伊織は父親に背を向け、頑丈な扉を足先だけで閉めた。どばぁんっ、とその震動で壁が揺れて埃が舞い落ちた。触角を振って埃を払ってから、伊織は怪物と化した青年に近付いていく。

「来るな、来るな、来るな……」

 怪物の青年は濁った声を発し、醜悪な形相を歪める。

「うっせぇ」

 これから殺す相手の言葉も、過去も、声も、知りたくない。伊織が凄むと、怪物の青年は爪の生えた巨大な手で顔を覆う。呼吸するたびに喉が上下し、嗚咽すら漏れている。

「だ、騙されたんだ、騙されたんだ、あの液体を使えば病気が治るって、騙されんだぁああああっ!」

「はあ?」

 伊織は足を止め、触角を曲げた。怪物の青年は己の顔が傷付くことすら厭わず、爪を立てる。

「長い間、ずっと、外にも出られなかった。歩けなかった。皆と同じ生活なんて以ての外だった。だから、新しい薬が出来たって言われて、本当に嬉しかったんだ。これで僕も他の皆と同じになれる、普通の人間になれるって思ったから! でも、そうじゃなかったんだ! あいつらは僕を騙したんだ! 僕を化け物にしたんだぁあああっ!」

 怪物の青年は怯え、嘆き、外骨格とツノが入り混じって生えた背中をひくつかせる。

「喰ったのか?」

 怪物の青年が喋るたびに感じる、あの匂いを触角で絡め取る。

 伊織の言葉に、彼はひっと叫ぶ。

「嫌だぁあああああああ!」

「喰ったんだな? 喰ったんだなぁっ、人間を!」

 怪物の青年の絶叫を浴びながら、伊織はとてつもない歓喜に打ち震えた。生まれて初めて同類に出会えた。本の中に登場する殺人鬼でもなければ、絵本の中に出てくる人喰い鬼でもなく、現実に、目の前に、人喰いがいる。

「僕は嫌だったんだぁっ、だけど体が勝手に、勝手に、勝手に」

 ねえさんを、と言った青年の口角からは尖った牙が剥き出しになり、不気味に上向いていた。笑っている。

「んなもん、マジでどうでもいいし」

 途端に、伊織の高揚感は冷めた。やっと同類を見つけられたと思った。だが、それは大きな間違いだったらしい。伊織は快楽のために人間を喰ったことはない。罪悪感を伴いながらも食欲には抗えないから、人間の血肉を食さずにはいられない。だが、この青年は人間を喰うことに快楽を覚えている。余程、その姉に対する執着が強烈だったのだろう。だから、捕食した快感に浸り切っている。処分すべきなのは明白だ。

「死ね、クソが」

「し、仕方なかったんだ、仕方なかったんだ、だって、だって姉さんが僕を、姉さんがいなければ僕は!」

 姉さん姉さん姉さん。そう連呼しながら、怪物の青年は伊織から逃れようとする。

「ウゼェ」

 軽やかに、伊織は巨体を踊らせる。嫌だぁっ、と怪物の青年は死に物狂いでコンクリートの壁を掻き毟るが、爪痕が残るだけだった。人間の肌と獣と虫が入り混じった醜悪な背を向けている青年の首に、伊織は鎌のように鋭利な爪を振り翳した。ぶつりと皮膚と筋と血管が千切れる感触、生温い体温、馴染み深い鉄錆の匂い。太い頸椎を断ち切ると、首は重力に従って転げ落ち、天井近くまで飛沫を迸らせる。

「……ウゼェ」

 青年の首を掴んだ伊織は、あぎとを広げて喰らい付いた。汚れ切った髪の下には薄い皮膚と頭蓋骨があり、それを噛み砕くと脳漿が溢れて胸元を汚す。がりぼりと頭蓋骨を噛み砕いて嚥下した後に脳を啜り、眼球を舐め、神経を千切り、喰う、喰う、喰う。肉片を一片も残さずに、伊織は怪物の青年を胃に収めた。

 すると、これまで感じてきたものとは根本的に異なる充足感が全身に広がった。水を得た魚、光合成をした植物、とでも言うような瑞々しさが隅々にまで行き渡っていった。それは一際激しい飢えを呼び覚まして、伊織を苦しめた。青年の血肉で膨れ上がった胃袋は外骨格に包まれていて、押さえようとも頑強な鎧が邪魔をする。あぎとを開いて舌を伸ばすも、だらだらと垂れるのは血液混じりの唾液だけだった。なぜだ、なぜだ、なぜだ。

 伊織は人間ではなかった。だから、人間を喰っても苦しまなかった。血肉の味は知っていても、人間を喰らうことに対して罪悪感を覚える意味がなかったからだ。だが、怪物の青年は厳密に言えば同族だ。伊織と同じアソウギの力を得たが、適合出来ずに人間を喰ってしまった。父親を始めとした人間はそれを暴走と見なしたが、伊織は怪物の青年を同胞として見なした。けれど、彼は人喰いに快楽を覚えていたから、それを罰するために殺し、喰った。

 それなのに、なぜ苦痛を覚える。



 伊織は成長し続けた。

 小学校、中学校と卒業し、高校に進学した。その頃になると、自分の存在意義について思い悩むようになり、その延長で勉強が疎かになっていた。軍隊アリと同化して生体構造を変化させた影響からか、髪色がまだらに脱色したような色合いになったが、気にも留めなかった。高校に通っている生徒達の大半は髪色をいじっていたから、伊織程度では目立ちもしなかったからだ。生体安定剤の摂取量は増える一方で、人前でも飲むほどになっていた。

 怪人を処分する回数もまた、増えていた。それは、アソウギと人間の相性が悪い証拠でもあった。伊織以外での成功例だと言えるのは、新卒採用された研究員の羽部鏡一だけだった。彼は自分のペットであったヘビと同化して人間体と怪人体とヘビの三つの姿に自在に変身出来たが、戦闘能力は伊織よりも遙かに低かった。卑屈で狡猾なインテリであり、その上、死体を愛好する性癖にも目覚めていたので、伊織は羽部を好きになれなかった。怪物の青年に出会った時のような歓喜はなく、嫌悪感が募る一方だった。それは今でも変わらない。

 なぜ、アソウギは人間を捕食しなければならないのか。その疑問が晴れることのないまま、いたずらに時間だけが過ぎた。転機が訪れたのは、高校二年生に進学した後のことだった。

 その日も、伊織は図書室に入り浸っていた。クラスの誰とも付き合わないので、伊織に近付こうとするクラスメイトは一人もいなかったし、伊織も近付こうとは思わなかった。今でこそ生体安定剤で食欲を抑えられているが、それが途切れてしまえばどうなることか。無差別に人間を殺戮し、捕食するほど理性が飛ぶとは思いたくないが、そうなる可能性がないとは言い切れないからだ。だから、伊織は一人でいることを選んでいた。

「藤原君、だったよね?」

 女子生徒が伊織に声を掛けてきたが、伊織は意に介さずに活字を追っていた。再度、藤原君、と呼ばれて伊織は渋々目を上げた。そこには、同じクラスの女子生徒が本を抱えて立っていた。黒髪をショートカットにしただけの古風な髪型がよく似合う、地味な顔立ちで小柄な女子生徒だった。彼女は確か、メグ、と呼ばれていたはずだ。

「んだよ」

 伊織は彼女を直視した途端、腹の底に奇妙な疼きを感じた。

「いつも図書室にいるけど、読書、好きなの?」

 メグの控えめな問い掛けに、伊織はぞんざいに返した。動揺を悟られないように、敢えて語気を荒くした。

「別に。つか、何?」

「……なんでも、ない」

 メグは伊織に話し掛けただけで気力が尽きたのか、顔を背けて足早に去っていった。小さな背中が廊下に消えるのを眺めていたが、伊織は再度違和感に襲われた。空腹とも腹痛とも異なるが、飢えを伴った衝動だった。図書室の常連達は怪訝そうに伊織を窺ってきたので、伊織はそれまで読んでいた本を閉じて棚に戻すと、早々に図書室を後にした。きゃあきゃあと女子生徒達がお喋りに花を咲かせている廊下を大股に歩き、呼吸を整えようと息を吸うが喉が干涸らびる。違和感が徐々に腹部から全身に広がり、苛立ちすら起きてくる。

 このままでは無差別に人間を喰らってしまいかねない。危機感に煽られた伊織は男子トイレに入り、常備している生体安定剤を制服のポケットから取り出した。カプセルをシートから出す手間すらも億劫だったが、歯を食い縛って理性を保ち、生体安定剤を十数錠出して一息に飲み下した。それが胃の中で消化されていくと、次第にあの違和感が薄らいでいった。呼吸も落ち着いてきたので、伊織は気分を直すために顔を洗い、男子トイレを後にした。

 その時は、これで終わりだと思っていた。


 しかし、それは伊織の思い上がりに過ぎなかった。

 メグと顔を合わせるたび、声を掛けられるたび、擦れ違うたびに、伊織は衝動に駆られた。破壊的で貪欲な渇望が沸き上がり、その度に生体安定剤を大量に消費した。さすがに毎日のように何十錠も摂取されると費用が馬鹿にならないらしく、いつもは伊織が何をしても肯定的な父親も難色を示した。だが、伊織はその理由を明言することが出来なかった。メグのことを身内に話すのが猛烈に恥ずかしかったし、なんだか情けなかったからだ。

 同じクラスの生徒ではあったが、メグについては伊織はあまり深く知らない。知らないようにしていた、と言った方が正しい。メグの本名は調べようと思えばすぐに調べられる環境にあったが、深入りしたら取り返しの付かないことになると思うがあまりに、名前すらも目に入れないようにしていた。読書の趣味にしても、伊織と同じように図書室に入り浸っているメグが手に取る本を極力気にしないようにしていた。それなのに、伊織は彼女が本を選んでいた棚に引き寄せられ、いつのまにか彼女が既読した本を選ぶようになっていた。

 意識しないようにと意識しすぎて、伊織はメグを意識するようになっていた。丸顔で地味な顔付きではあるが表情が明るく、クラスメイトと言葉を交わす時に浮かべる笑顔が印象的だった。化粧気がないからか、擦れ違った瞬間に漂う匂いは自然な甘い匂いだった。ショートカットの襟足と制服の襟元の合間から覗く首筋の白さに鼓動が跳ねたのは、一度や二度ではなかった。その度に、伊織は生体安定剤で胃袋を満たしていた。

 だが、徐々に誤魔化しが効かなくなってきた。その頃になると、体も大きくなって戦闘能力も見違えるほど向上した伊織が出来損ないの怪人を処分する回数も格段に増えていた。捕食する数も増えていて、多い時は一日で五人も貪り食ったことがあったほどだった。それだけ、怪人増産計画が行き詰まっていた証拠でもあるのだが。

 それでも、伊織は人間の世界で生きようと踏ん張っていた。怪人達を捕食するたびに膨れ上がり、時に爆発さえする感情をあしらいながら、化け物としての領分を弁えながらも、平凡で平和な日々への憧憬を振り切れずにいたからだった。メグへの淡すぎる思いを切り捨てられなかったのも、そのせいだろう。

 高校二年生の一学期の、ある日のことだった。テスト期間が近いので授業は早々に切り上げられ、多くの生徒達は下校していった。弱い雨が降る中、傘を差して歩いていく生徒達の姿を見下ろしながら、伊織は読み終えた本を返すべく図書室を訪れていた。図書委員はいなかったが、貸し出しカードの扱いは慣れているので、カウンター裏のカードリーダーに生徒手帳を兼ねたカードを滑らせた。本の裏表紙に貼り付けられているICチップを読み取らせて返却されたことを記録させてから、所定の位置に戻しに行った。

「ひゃいっ!?」

 すると、別の本棚の影から悲鳴が上がった。おずおずと顔を出したのは、メグだった。

「あー、びっくりしたぁ……。藤原君だったんだ」

「んだよ」

 伊織はメグを正視しないようにしながら本を戻すと、メグは壁掛け時計を見上げた。

「どれを借りていこうかなーって迷っていたんだけど、もうこんな時間になっちゃった。早く決めないとね」

「知るかよ」

「だよね」

 あ、そうだ、とメグは制服のポケットを探り、縦長の袋を取り出した。フジワラ製薬が製造している、栄養補助食品でもあるドライフルーツ入りのクッキーだった。それを、伊織に差し出してくる。

「これ、食べる? お昼の時間だし、お腹に何か入れておかないと寂しいでしょ」

「そんなもん、喰えねぇよ」

 口にしたところで、どうせ消化出来ないのだから。

「そっか」

 メグは少し残念そうに微笑んでから、海外文学の棚に向かった。伊織はなるべくメグに近付かないようにしようとするが、メグは伊織を窺ってくる。その視線がむず痒く、腹の底の疼きが高ぶってくる。

「あのね、藤原君」

 丸っこい爪が生えた華奢な指が、がっしりとした装丁の本の背表紙をなぞっていく。

「私ね」

 そう言ってから、メグは一度深呼吸した。本の背表紙に添えた指が強張り、半袖のブラウスに包まれた小さな肩が怒る。緊張しているのだ。伊織はあらぬ方向を睨み付け、歯を食い縛るが、力みすぎて外骨格が現れ始めた。

「ずっと、藤原君のことが……」

 意を決したメグは、赤面しながら振り向いた。だが、伊織を目の当たりにした瞬間、その表情が一変した。中学生と言っても差し支えのない幼い顔付きが引きつり、淡い恋慕で火照っていた頬が歪み、目尻に涙が滲んだ。伊織はその眼差しを受けたくなかったが逃げることすら出来なかった。衝動が、渇望が、欲動が、押さえきれなくなっていたからだった。生体安定剤を山ほど飲んだ。怪人を喰っているから、代わりに人肉を喰わないようにした。あの血肉の味を忘れてしまえばいいのでは、という浅はかな考えに囚われていたからだ。だが、そんなものは無意味だった。

「俺は」

 下両足から生えた爪が上履きを破り、床板を叩く。

「てめぇをっ」

 振り翳した上両足の爪が本棚ごと本を切り刻み、木片と紙片が散らばった。

「喰っちまうんだよぉっ!」

 メグの頭蓋骨を叩き割る寸前で、伊織はその爪を壁にめり込ませた。壁紙と石膏ボードが破れて白い粉となり、青ざめて座り込んでいるメグの髪と肩を白く汚した。そうだ、怯えてくれ、恐れてくれ。鬼なのだから。

「……いいよ?」

 小刻みに震えながら、嗚咽に声を引きつらせながらも、メグは健気な笑顔を見せてくれた。

「藤原君にだったら、食べられても平気だから。痛くても、我慢出来るから」

 渇望の正体を知った。と、同時に伊織は激しく混乱した。待って、とメグから引き留められたが、伊織はカーテンを細切れにしながら窓ガラスを破って図書室を飛び出した。雨脚が強くなりつつある正門前に飛び降りると、生徒達が悲鳴を上げた。怪人と化した伊織は触角と気門が濡れるのも構わずに、衝動から逃げるために駆けた。

 けれど、自分自身からは逃げられなかった。気が付くとフジワラ製薬の本社ビルに戻ってきていて、超高層ビルの屋上の片隅で唸っていた。苦しくてたまらなかったが、複眼からは涙が一滴も出なかった。その代わりに、複眼の端に溜まっていた雨水が膨らみ、顎を伝い落ちていった。胸が痛い、腹が痛い、心が痛い。

 鬼なのに、人間ではないはずなのに、化け物なのに。苦痛の海に心身を浸しながら、伊織は何時間もそうやっていた。いつしか雨が止み、鉛色の雲の切れ間から西日が差し込もうとも、立ち上がる気力すら起きなかった。メグを喰いたい衝動と、メグを喰ってしまえば取り返しが付かなくなることへの恐怖が、伊織を乱していた。

 いつしか雨が止み、茜色に染まった水溜まりが煌めいていた。普段は施錠されている屋上の扉が開いたが、伊織は触角を片方だけ上げただけだった。フジワラ製薬の重役と数人の大人を伴ってやってきたのは、少女だった。

「あなたが藤原伊織さんですね?」

 少女は、銀縁のメガネ越しに屋上の片隅でうずくまる巨大な虫を見据えてきた。艶の良いローファーを履いているつま先が水溜まりを軽く踏み、波紋が広がる。一陣のビル風が少女の長い黒髪を扇状に広げていき、ふわりと匂いを漂わせた。途端に、伊織の体液が震えた。今の今まで竦んでいた心が搾られ、何かが沸き立った。

「……てめぇは」

 関節の隙間から雨水を垂らしながら伊織が立ち上がると、有名な私立小学校の制服姿の少女はしなやかな仕草で胸に手を添えた。目の覚めるほど、という表現が相応しい美貌の持ち主だった。

「お初にお目に掛かります。私は吉岡グループの社長である吉岡八五郎の一人娘、吉岡りんねと申します。以後、お見知りおきを。伊織さんとの御面会の許可は、御父様から頂きましたので御安心下さい」

「何しに来やがった」

 訳の解らない高揚感によって、伊織は目の前の少女に殺意すら抱いていた。伊織がぎちぎちと顎を鳴らして威嚇すると、りんねを囲む大人達は身構えたが、当のりんねは身動ぎもしなかった。

「伊織さんを雇用するために参りました。この度、私共吉岡グループは、佐々木長光氏が所有権を持っている遺産を一括して管理、使用するための部署を設立するための人材を確保することとなりました」

「御嬢様にはそんなもん関係ねぇだろ。てか、俺も関係ねぇだろ? 殺すぞ?」

 伊織が攻撃的に吐き捨てるが、りんねは表情を保っていた。

「いいえ、無関係ではございません。伊織さんを形成している液体、アソウギもまた遺産の一つなのですから。吉岡グループも遺産を所持しておりますし、それ以外の企業や団体も遺産を所持しております。諸事情によってそれらの遺産は現時点

 での所有者の管理下に置かれておりますが、本来の所有者である佐々木氏が権利を主張すれば、遺産によって生じた利益も含めた一切合切が佐々木氏のものとなってしまいます。アソウギを大量に得ている伊織さん御自身もまた、例外ではありません。それはお嫌でしょう?」

 りんねは僅かばかり目を細めた。どこの誰かも知らない男の道具になるよりはいいだろう、と脅しているのだ。

「俺が誰かに使われる?」

 そんなこと、考えたこともなかった。伊織が訝ると、りんねは頷く。

「そうです。佐々木氏は管理者権限を有しておりますので、理屈の上ではそうなります」

「その佐々木って奴は何なんだ?」

「私の祖父です。あまり先が長くないようですが」

「身内なら、なんでそんなに回りくどいことをしやがる。正面切って遺産を寄越せって言えばいいだろ」

「遺産の相続権を有しているのは私ではありませんので、私が祖父に申し上げても何の効力もありません。それに、私と両親は祖父からあまりよく思われておりませんので」

「だから、実力行使っつーわけか」

「ええ、そうです。それも、お嫌ですか?」

 りんねは軽く頬を持ち上げてみせたが、笑みには見えなかった。威嚇だ。

「嫌いじゃねーよ。だがな、クソ御嬢様。俺がてめぇを喰わねぇっつー保証はねぇぞ?」

 伊織も顎を広げ、威嚇し返す。それでも、りんねは動じない。

「御心配なさらずとも結構です。私は四分の一ですが、祖父の管理者権限を相続しておりますので、伊織さんを抑制する程度の支配力を行使出来ます。管理者権限とは、ゲノム配列に刻まれている情報ですので」

「それがいつまで通じるか、試してみるか?」

「伊織さんさえ、よろしければ」

「明日にでも喰ってやるよ、クソ御嬢様」

 それが、伊織の了承の言葉だった。りんねは再度頷くと、では、また後日お会いいたしましょう、と一礼してから、りんねは大人達を伴って屋上から去っていった。一人、取り残された伊織は、しばらく考え込んだ。アソウギの正体が何なのかはまた解らなくなったが、一つだけ解ったことがある。

 伊織は道具なのだ。自分が何者なのかが解らないから、父親でさえも良く解っていないのだから、誰かに使われていなければ剥き身の刃となる。収めるべき鞘もなく、切り付けるべき敵もない。だから、伊織を握り締めて操る手が必要なのだと。それがあの美少女であると理解する一方で、反発心も芽生えていた。メグに対する思いが完全に振り切れていないからでもあった。だが、もう彼女のことは忘れよう。人間らしく生きようと藻掻いていたことも、共に切り捨ててしまおう。悩むことを忘れ、肉を喰らい、人を殺す、武器となろう。

 道具は、愚かであるべきだ。



 溶けた氷が申し訳程度に浮かぶ、麦茶のコップを爪で小突く。

 結露の輪が付いた座卓に映り込む自分の姿は、あの日から変わっていない。あの日から変わろうとしなかった、と言うべきだ。メグを喰らおうとした自分に抗えなかった伊織は、全てを享受した。それはアソウギの意志であって、伊織自身の意志でもある。人喰いには人喰いなりの、矜持があるからだ。

「他に、聞きてぇことはあるか?」

 爪先に付いた水滴の膨らみは、あの日の雨粒にも似ていた。

「いや、特に。大体のことは解ったよ、いおりん」

 胡座を掻いて頬杖を付いていた一乗寺は、真顔だった。

「いおりんの欠落した情緒が急激に発展した末に苦悩を与えたのは、いおりんが出来損ないの怪人を喰ったからとみて、まず間違いないだろうね。遺産同士にも互換性があるけど、その産物同士にも互換性があるから。いおりんはアソウギが作ったダメ人間処理機だってことは、これまでの殺人遍歴を顧みれば解ることだけど、怪人までもが捕食対象になる意味が良く解らなかったんだ。だけど、これではっきりしたよ。アソウギは、広い意味で佐々木家に害を加える人間を処理するように、いおりん達を促してきたけど、怪人もその中に含まれるんだよ。アソウギが血に汚れれば汚れるほど、それを扱う佐々木家の人間の手も汚れるって理屈になるからね。いおりんがりんねちゃんに嫌々だけど従っていたのも、その延長だよ。つばめちゃんに万が一のことがあったら、そのスペアになるのがりんねちゃんだからね」

「だが、その御嬢様はつばめを目の敵にしているぞ? その理屈はどう付ける」

 寺坂の意見に、一乗寺は弛緩した。

「そこなんだよねー。普通に考えたらさぁ、りんねちゃんがつばめちゃんを手に入れようとする理屈が解らないんだ。効果は半減しているとはいえ、りんねちゃんには管理者権限の予備みたいな生体情報が備わっているわけだしさ、今まではそれを使って吉岡グループを発展させてきた。てぇことはつまり、無理矢理につばめちゃんを手に入れて、遺産を作動させて云々するっていう意味がないわけ。だって、予備でも充分利益は出せていたわけだし。わざわざオリジナルにこだわる理由がない、っていうか、利益以外のものを追求するためにつばめちゃんを追い立てている、と考えるべきかなーこれは。だとしてもなぁ」

「だが、つばめの力がなかったら、アマラとみっちゃんは」

「そう、それもあるの。確かにアマラを放置するのは良くないことだったし、桑原れんげが増長していたら、それこそ人間はろくでもない方向に突き進んじゃっただろうしね。りんねちゃんが桑原れんげ退治に手を貸してくれたのは、今後の吉岡グループの利益のためでもあるんだろうけど、それだけなのかなぁって。桑原れんげを本気でどうにかしたいって考えているんだったら、みっちゃんを手元に置いていた時にでも手を下しておけば良かったじゃん。それなのに、わざわざみっちゃんを殺させて、桑原れんげを乖離させて増長させた。変じゃない?」

「まあ、な」

 寺坂は法衣の袖に両腕を突っ込み、背を丸める。

「御嬢様にも仏心があって、みっちゃんを桑原れんげから解放する手伝いをしてくれた。それでいいじゃねぇか」

「えぇー、そんな甘ったれたことがあるわけないじゃーん。だって、あのド外道で鬼畜な御嬢様だよー?」

「どんな奴だって、最初から鬼として生まれてくるわけじゃないんだよ」

 寺坂は不意に真剣になったが、気恥ずかしくなったのか一乗寺を突き飛ばした。いたぁいん、と一乗寺は媚びた態度で畳に寝そべるが、寺坂は相手にもしなかった。空っぽになった麦茶のボトルをはみ出た触手で掴むと、足早に仏間から去っていった。その足音が遠ざかってから、一乗寺は座り直して伊織に向いた。

「で、いおりんが喰った出来損ないの怪人ってどんな奴だったの?」

「知るか、んなこと。知りたくもねぇし」

「あ、そう。教えてくれたっていいじゃない」

 一乗寺はそっぽを向いたが、伊織もまた顔を背けた。今まで喰ってきた人間も、怪人も、思い入れを作らないように極力情報を遠ざけているからだ。あの時、メグを喰ってしまえなかったのは、メグに甘ったれた思い入れが出来てしまったからだろう。そうでもなければ、今頃、メグは伊織の血肉と化して心身に馴染んでいたはずだ。そうしていた方が、余程幸せだったかもしれない。伊織は、あの絵本に出てくる人喰い鬼のようにはなれないからだ。

 それでも、道具なりに出来ることがある。密かな決意を腹の底に宿した伊織は、氷が一つ残らず溶けて薄くなった麦茶を呷った。障子戸の外では、アブラゼミが己の遺伝子を連ねるために短い命を削って鳴いていた。

 淡い思いが凝り、体液が泡立った。

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