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機動駐在コジロウ  作者: あるてみす
 

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柔よくゴングを制す

 待ち遠しかった夏休みが始まった。

 けれど、小学校の頃のように心が弾むわけではない。ただ、安堵感が増すだけだ。夏休みの間ならば、登校せずに家にいてもなんら不思議はないからだ。居候している家に元々住んでいる親戚から向けられる視線も、母親から浴びせられる小言も、少しだけ気にならなくなる。だが、家の外に出たいとは思えない。外に出たところで、今度は中学校の同級生と顔を合わせてしまうからだ。東京に戻りたい、と何度願い、何度声を殺して泣いただろうか。

 美月は学習机代わりの座卓に置いたままの宿題の山を一瞥したが、中身を見ようとすら思わなかった。プリントの束には手を付けることすらしていないので、夏休みの宿題の全容すら把握していない。それではダメだ、勉強だけはきちんとやらなければ、と思うものの、勉強しようとするだけで嫌な気持ちが蘇る。

 父親が違法なロボット賭博で身を持ち崩してからというもの、美月の生活は下へと落ちる一方だった。それまでは、都内の有名私立大学付属の中高一貫校に通っていた。成績優秀とは言い難かったが、気の合うクラスメイト達と談笑し、部活動にも励み、洒落た制服に身を包んで通学していた。中でも一番仲良くなったのが、あの吉岡りんねだった。世界規模で事業展開している吉岡グループの社長令嬢でありながらも気取らない性格のりんねは、美月の父親が経営する小倉重機に興味を示してくれた。りんねが切望したので、一緒に小倉重機の本社工場を見学したこともある。知性と気品の高さが感じられる立ち振る舞いと、美月など足元にも及ばない美貌を備えたりんねの傍にいるだけで、美月は多少なりとも優越感を覚えていた。美月自身の価値が高まったわけではないし、りんねは美月を特別扱いしていたわけではなく、他のクラスメイト達と同じように接していた。それなのに、美月はりんねに何度かこんなことを聞いてしまった。私とりんちゃんは一番の友達だよね、と。

「一番……」

 その言葉に、りんねは少し躊躇った後に頷いてくれた。不本意だっただろうが。後から考えるに、美月はりんねが他のクラスメイト達と仲良くしていることで危機感のようなものに駆られていた。りんねが仲良くなる相手が増えるに連れて、りんねの美月に対する優先順位が下がっていくかのような、吉岡グループの社長令嬢と親しくしているという付加価値が薄まっていくかのような、手前勝手な感覚だった。だが、りんねは他人に優劣を付けるような性格ではなかった。むしろ、優劣を付けられることを嫌がっていた。どれほど外見を褒められようと、成績を讃えられようと、それは自分だけに与えられる評価ではないから、と謙遜してばかりいた。それなのに、美月はりんねの一番の友達になろうとした。一番でなければならないとすら、信じていたからだ。

 りんねが交通事故に遭ったのは、冬休みが明けてから間もない日のことだった。その日、美月はりんねと一緒に登校しようと待ち合わせをしていた。中高一貫校では富裕層の生徒とそうではない生徒に溝を作らないため、車による送迎を禁止していたので、りんねも美月と同じく電車通学をしていた。最寄り駅で降車した美月は、駅前広場でりんねを待っていたが、登校時間が押し迫っても現れなかった。携帯電話にも連絡はなく、美月はりんねの約束を破られたと腹を立てながら登校した。教室で会ったら文句の一つでも言ってやらなければ気が済まない、と苛立ちを募らせながら、一月の教室に入った。だが、そこにもりんねはいなかった。ホームルームが始まると、青い顔をした担任教師が教壇に立ち、りんねが登校中に事故に遭った、と告げてきた。途端に生徒達は大騒ぎし、女子生徒は揃って悲鳴を上げ、男子生徒はざわめいた。誰かがお見舞いに行こうと提案したが、当分の間は面会謝絶だから、と担任教師に宥められた。呆然とした美月は、騒ぐことすら出来ず、自分の席に座り込んだままだった。

 りんねがいなくなると、教室は華やぎが失われた。いや、学校全体から光が消えたかのようだった。けれど、それは一週間足らずのことで、週が明けると皆はいつも通りに戻っていた。りんねが事故に遭った直後はひどく悲しみ、嘆き、騒いでいたのに、何事もなかったかのような雰囲気になっていた。りんねの空っぽの机には、近付くことすら憚られていたのに、今となっては男子生徒達が無遠慮に腰掛けては馬鹿笑いしている。美月はそれを咎めようかと思ったが、言うだけ無駄だと解っていた。りんねがいなくなってからは、女子生徒達は声高にりんねの悪口を言い、あの子って外面良すぎて気に食わないよね、ちょっと美人だからってね、金持ちなら奢れよ、などと誰かが言うたびに笑い声が爆発していた。だが、美月はそれに混ざらなかった。話を振られても曖昧に返し、りんねの悪口が聞こえてくるたびにその場から逃げた。その結果、クラスからは孤立したが、りんねを心の支えにして踏ん張った。

 そう信じていたから、美月は吉岡邸に出向いた。りんねに面会させてくれと懇願したが、りんねの母親は哀切な微笑みを浮かべてはいたが断ってきた。頑なにりんねの所在を伝えようとはせず、どこの病院に入院しているのかも教えてくれなかった。だったらせめて学校のプリントだけでも渡そうとするが、やんわりと遮られた。あの子と仲良くしてくれて嬉しいわ、けれどあの子はもう学校には戻れないと思うから、とりんねの母親は言い、美月を吉岡邸から追い返してしまった。玄関先にすら上げてもらえず、門すら通らせてもらえなかった。

 それから、美月は自分の考えを改めることにした。お見舞いすらも許可してもらえなかった自分は、りんねの一番ではなかった。りんねの一番にはなろうとしてもなれないのだと、ようやく認められた。だから、自分も誰かに対して一番であることを求めたり、一番になろうとすべきではないと思い知った。それと同時に、最上と最下も定めるべきではなく、中間地点を見出した方が安泰だとも。八方美人だと言われるかもしれないが、自衛のためだ。

「大丈夫、大丈夫」

 だから、まだこの生活は底辺ではない。美月は自分にそう言い聞かせ、深呼吸する。梅雨の名残が残る湿っぽい空気は埃混じりで、軽く咳き込んでしまった。掃除が疎かになっているからだ。最近では母親だけでなく、その親族も家事をしなくなっていて、この家は荒れつつある。美月は自分の生活を維持するために、自分の洗濯物を洗って干したり、割り当てられた部屋を掃除したり、食事を見繕っているが、それにも限界があった。もう一人の居候である謎の多い青年、羽部鏡一は当てには出来ない。彼は異様に頭が良いが、生活能力は皆無だからだ。

「う」

 立ち上がろうとすると、下半身に違和感を感じた。ぬるりとした感触が下着に広がる。

「そういえば、そんな時期だっけ」

 数日前から軽い頭痛に悩まされていたが、レイガンドーの整備と改造にばかり入れ込んでいて、自分の体調管理と準備を怠っていた。手元にあるナプキンの量は心許ないので、買いに行かなければ。

「歩いていける場所にあったっけ?」

 東京であれば、自宅の近所には何軒もコンビニがあったのだが。美月は不安に駆られたが、一ヶ谷市内の地理を覚えようとしていない自分が悪いのだと自責した。外に出て市街地に向かえば、ドラッグストアはなくとも、コンビニぐらいはあるだろう。そう決心した美月は、汚れた下着を洗い流してから干し、生理用の下着に履き替えた。ついでに寝間着代わりにしているジャージから私服に着替えようとしたが、迷った。

 あまりに気取った格好をすると、中学校の同級生に見咎められてからかわれる。かといって、いい加減な服装で外を出歩くのは美月の自尊心が痛む。しばらく悩んだ末、まだ色褪せてないスポーツブランドのTシャツとジーンズのハーフパンツに着替えた。本当はふわふわしたスカートやキャミソールを着たいのだが、その格好をしている時に馬鹿にされると服自体に嫌気が差してしまうので、嫌気が差しても問題のない服ばかりを選ぶようになった。

 下半身の重苦しさと気分の悪さを堪えながら、美月は外出の準備を整えた。日除けのためにスポーツキャップを被り、玄関で履き古したスニーカーを履いていると、足音も立てずに彼が二階から下りてきた。

「何、出かけるの?」

 羽部鏡一だった。美月は振り返り、笑みを作る。

「ええ、まあ。ちょっと」

「ふうん」

 気のない返事ではあるが、羽部の視線は美月を入念に観察してきた。この、爬虫類が絡み付いてくるかのような冷たい視線が苦手だ。けれど、それさえ我慢してしまえば羽部は美月に害を成さないのだから。だから、美月は羽部には蔑まれないように、精一杯愛想良くしていた。最近では、それが演技ではなくなりつつあるのだが。

「ああ、アレね。なんだったら、この僕が付き合ってあげてもいいと言ってあげるかもしれないよ?」

 なんだ、その言い回しは。美月は本当に笑ってしまい、頬を持ち上げた。

「かもしれない、って、結局どっちなんですか」

「君がこの僕を必要とするか否かを意思表示してくれればいいんだよ。もっとも、この僕を必要としない人間なんてこの世にいるはずがないんだけどね。なぜならこの僕は、世界に乞われるべき知性と才能がある」

 羽部の自信がありすぎて溢れ返っている態度に、美月は可笑しくなった。

「そうですねぇ」

「で、君の結論を早いところ教えてもらいたいんだけど。でないと、この僕が次に取るべき行動を割り出せないなんていう、あってはならない事態に陥っちゃうんだけど?」

 羽部は腰を曲げ、美月を睨んでくる。吊り上がった目と青白い肌と他人に噛み付かずにはいられない性分はヘビを思わせる。きっと、彼の内には猛毒が宿っているのだろう。その毒を注いでもらえれば美月も楽になれるのだろうか、という考えも時折過ぎる。だが、それではレイガンドーが不幸になってしまうから、思い止まっている。

 で、どうするの、と羽部にせっつかれ、美月は答えに詰まった。生理用ナプキンを買いに行くのだから、出来れば男性とは一緒に出掛けたくない。だが、具合が良くないのも事実であり、徒歩では不安も多い。

「お願いします。よければ車を出してもらえませんか」

 美月が一礼すると、羽部は腕を組み、見下ろしてきた。

「この僕を顎で使おうだなんて、良い身分じゃないのさ。でも、この僕も用事がないってわけでもないから、特例として君の用事に付き合ってあげなくもないよ。そこで待っていろ、支度をしてくる」

 そう言って、羽部は二階に上がっていった。今日はどんな服を着てくるんだろうか、と美月は不安を上回る期待を抱いた。羽部の服装のセンスは凄まじく、常人の感覚からは懸け離れている服ばかりを着てくるのである。配色もエキセントリックなら、デザイナーの正気を疑うようなジャケットやパンツを持っている。あまりにも変なので、美月は嫌悪感を覚えるよりも先に面白くなってしまい、今では羽部の私服を見るのが楽しみになっている。もっとも、一歩でも外に出れば奇異の目で見られるので、美月自身もちょっと変なのだと自覚している。だが、楽しみなのだ。

 十数分後、二階から下りてきた羽部は、美月の期待通りにとんでもない格好をしていた。蛍光グリーンの合皮製のジャケットの下に目が痛くなるほど鮮やかな赤と紫のドット柄のカッターシャツを着ており、黒地に黄色のトカゲ柄のネクタイを締めている。柄物同士なので、余計にインパクトが強い。下半身はといえば、レザーとジーンズが交互に繋がっているパンツで、見るからに洗うのが面倒そうな代物である。そして靴はといえば、つま先がやけに尖ったエナメルブーツだった。美月が歯を食い縛って笑いを堪えていると、羽部は片眉を曲げた。

「この僕の崇高なセンスのどこが笑えるって言うんだよ、身の程知らずめ」

「ふぁい」

 美月は笑い転げたいのを我慢しながら、羽部に続いて外に出た。ガレージで待機しているレイガンドーに外出してくると言うと、充電中のレイガンドーは快く送り出してくれた。羽部は愛車のイグニッションキーをやる気なく振り回しながら車庫に入ると、派手なスポーツカーのエンジンを暖機した。アストンマーチン・DB7、ヴァンテージ・ヴォランテと仰々しい名前のスポーツカーの発するエンジン音は、物心付く前から機械と接してきた美月には心地良い音楽も同然だった。ガソリン特有の排気ガスも嫌いではない。羽部に急かされて助手席に乗った美月は、滑らかな加速によって生み出された風を感じ、吹き飛ばされそうなスポーツキャップを押さえた。

 短いドライブの最中は、嫌なことを忘れられた。



 それから、二人は最寄りのドラッグストアに向かった。

 最寄りといっても、美月の住む家からは徒歩では三十分近く掛かる。だだっ広い駐車場に駐めた濃緑のオープンカーは嫌でも目立ち、そのイグニッションキーを弄んでいる羽部もまた無駄に目立った。美月は少し気後れしそうになったが、わざわざ車を出してくれた羽部に悪いので顔には出さなかった。

 生理用品売り場に向かい、いつも使っているメーカーの生理用品をカゴに入れた。そのついでに必要になりそうなものを物色していると、羽部の姿が見えなくなった。羽部も用事があると言っていたので、自分の買い物を済ませているのだろう。そう判断した美月はカゴに入れた商品を会計しようと振り返ると、見覚えのある人影を見て身動いだ。すぐさま商品の陳列棚に隠れようとしたが、相手もまた美月に感付いていたらしく、足音が近付いてきた。

 逃げ出そうとするが、貧血による目眩で立ち竦んだ。青ざめた美月が気分の悪さを堪えて俯いていると、足音が背後で止まった。何もしないでくれ、何もしないから。だが、美月のささやかな願いは叶わず、声を掛けられた。

「あれぇ、小倉さんじゃーん」

「う……」

 気分の悪さも相まって、美月が唇を噛み締めながら振り返ると、同じクラスの香山千束(かやまちづか)が立っていた。

「何、死にそうな顔してんの」

 と、言ってから、千束は美月が買いに来たものを見て納得した。

「ああ、そういうこと」

 そう言うや否や、千束は美月の下腹部を狙ってきた。美月はよろめきながらも後退り、千束の拳を逃れると、カゴを抱き締める形で自衛した。千束は空振りに終わった拳を下げると、物足りなさそうに舌打ちする。

「あんたさー、なんで生きていられんの?

 てか、なんでこの辺で買い物していいって思っているわけ?」

 美月が俯いて押し黙ると、千束は嫌らしく顔付きを歪ませる。そのせいで、可愛い顔が台無しだった。

「成金の孫と話した時点で、あんたはあたしら全員にケンカ売ったの。その意味、解る?」

 つばめのことだ。美月は目を伏せ、唇をきつく噛む。

「あいつのクソ爺ィがあたしらの家の土地を買い上げなきゃ、あたしらの家族は今でもあの土地に住んでいたんだよ。そりゃ金を山ほど寄越してくれたかもしれないけど、金は金であって土地じゃないじゃん? 孫が相続したっつーけど、あいつ、あたしらのことなんて知りもしないじゃん。土地返せって手紙とか電話とか、うちの親も他んちの親もしたみたいだけど、弁護士だっつー女が全部切りやがって取り次ぎもしねぇの。それ、おかしくね?」

 おいなんか言え、と千束は美月の肩を小突くが、美月は黙し続けた。反論しても無意味だからだ。

「だから、あの成金の孫と馴れ合うなんて有り得ないんだよ。いくら金だけもらったってさ、作付けする土地がねぇと農家なんてマジ成り立たないし、家は建てられたけど農地を買う金は寄越してくれなかったし。だから、ちったあ気を回せよ。あの成金の孫にたかれよ、金を毟り取ってこいよ、そうしたら許してやらなくもないんだけど」

 そんなことは自分でやればいい。そして、コジロウに倒されればいい。

「おい、聞いてんのかよ!」

 千束は美月のサイドテールを掴み、力任せに顔を上げさせた。それでも、美月は口を閉ざした。

「聞いてんのかよっ!」

 再度、耳元で怒鳴られる。美月は肩を震わせるも、必死に目を逸らす。

「あいつが一ヶ谷に来てからは、変な事件ばっかり起きてんじゃんか。船島集落に肝試しに行った連中が事故ったと思ったら、その身内に馬鹿みたいな金が転がり込んでくるし、船島集落に近い集落に住んでいた連中が一晩でいなくなっちまうし、変なのがうろつくようになるしさぁ」

 あんたの連れとか、と千束は付け加えた。それは確かにそうだが、羽部の正体については美月もよく知らないのだから答えようがない。千束は美月の髪に触れた手をジーンズで拭ってから、美月の脛を蹴った。

「いい加減にしろよ? あんたが持っているロボットも訳解んないし、つか、あんなデカいのを持ってて良い身分とか思ってんの? あんなの持ってんだったら、さっさと成金の孫を潰せよ。そしたら、許してやらないでもないけど」

 それでも、美月は反応しなかった。千束はそれが面白くないのか、今度は美月が抱えているカゴを蹴り付けようと足を上げた。だが、それがカゴの側面を抉る前に、千束が変な声を漏らした。

「うへっ」

 美月が目を上げると、千束の目線の先に羽部がいた。羽部はフジワラ製薬が製造販売しているスポーツドリンクを箱買いするつもりらしく、カートの下の段に箱が積み重なっていた。千束が臆した理由は至って簡単で、羽部の服装が奇妙だったからだ。羽部が美月に近付いてくると、千束はあからさまに怯えて後退る。

「んだよ、死ね! お前ら死ね! キモッ!」

 そう毒突いてから、千束は身を翻して駆けていった。美月は安堵して脱力すると、羽部は舌を出した。

「あれ、不味そうだね」

「……おいしくはないと思いますよ」

 美月は家族と合流してドラッグストアを後にする千束を見つつ、苦笑した。散々蹴られた脛には赤い痣がいくつか出来ていて、しばらくは痛みそうだった。それを気にしながら、美月は用事を済ませるために会計に向かった。羽部はスポーツドリンクの他にも欲しいものがあるのか、辺りを見回しているので、美月だけがレジに並んだ。

 必要物資を買い込んだ美月は店の外に出ると、羽部が会計を終えるまで待つことにした。一ヶ谷市内の市民祭りの日時を告知するポスターが貼られていて、打ち上げ花火もあるそうだ。だが、美月には関係ない。千束のように、つばめと親しくしていたからと言うだけで美月を敵対視する人間がいるかもしれないのだから。打ち上げ花火だったら自宅からも見えるだろうし、どうせならレイガンドーと一緒に楽しみたい。

「ああ、それね」

 会計を終えて出てきた羽部は、美月が眺めているポスターに気付くと、催し物の項目を指し示した。

「これ、って」

 美月は今一度ポスターを眺め、目を丸めた。

午後三時半より、市役所駐車場にて、ロボットファイトを開催。

「レイガンドーの整備は充分にしておくことだね、そうでないと後悔するのは君だ」

 帰るよ、と羽部にせっつかれ、美月は羽部に続いた。各地で人型重機や人型ロボットが戦い合うロボットファイトが開催されていることは知らないわけではなかったが、公式リーグが存在していないため、天王山工場で夜な夜な繰り広げられていた賭博目的のロボット同士の格闘戦となんら変わりはない。違いがあるとすれば、賭け金が動くか否かだ。美月は俄然興味が湧いてきたが、ぐっと堪えた。ようやく完成に漕ぎ着けたレイガンドーに無理をさせて、小遣いを掻き集めて買った部品を鉄屑に変えてしまうのは嫌だ。父親はそれなりに腕の立つオーナーだったかもしれないが、美月は素人なのだから、無理をするべきではない。

 だから、観戦するだけに止めておこう。



 と、思っていたのだが。

 なぜ、こんなことになったのだろう。美月はセミの声が降り注いでくる雑木林を背にしながら、ロボットファイト用にセットされたリングを見上げた。天王山工場に設置されていたリングは、元々自動車部品の工場だったこともあって造りがしっかりしていたが、こちらはアスファルトが敷かれた駐車場の一角なので地面には杭は打ち込めないこともあって、支柱を立てて鎖で四方を囲っただけだ。野良試合と言った方が正しいだろう。もっとも、ロボット同士の格闘自体がアンダーグラウンドの娯楽なので、野良でない試合の方が珍しいのだが。

 ロボットファイト、とのやる気に欠けるゴシック体の看板が立て掛けられたリングを見、美月は腹を括った。ここまで来てしまったのならやってやるしかない。自信は欠片もなかったが、戦う前に逃げ出してしまっては勝負する以前の問題だし、レイガンドーに悪いからだ。

「やっはー、ミッキー!」

 縁日の露店が並ぶ大通りから、コジロウを伴ったつばめがやってきた。

「つっぴー、来てくれたんだ」

 美月が遠慮がちに手を振り返すと、つばめは片手に提げていた袋を差し出した。

「お昼、まだでしょ? 差し入れ!」

「ありがとう。これって縁日の?」

 美月はつばめの差し出した袋を受け取ると、出来たてで熱々だった。つばめは笑い、手を横に振る。

「違うよ、ああいうところのは原価の割に味がイマイチだから。だから、そこんとこのスーパーのイートインで」

「つっぴーらしいや」

 つばめが指し示した方向にある大型スーパーマーケットを確かめ、美月は失笑した。二つ買ってきたから一緒に食べようね、とつばめに促されたので、美月はリングの裏手に設置された関係者用のテントに入った。といっても、長机とパイプ椅子が置かれているだけなのだが。

 つばめが買ってきてくれたのはイタリアンだった。この県内にあるチェーン店でしか販売されていない御当地料理というやつで、もやしとキャベツの入った太麺の焼きそばの上にミートソースが掛かっている。他のファーストフードに比べると値段が格段に安いので美月も何度か食べたことがあるが、焼きそばとミートソースの味付けが程良い加減なのでどちらもケンカしていない。水気も欲しくなるからついでに買ってきた、と言って、つばめは良く冷えた麦茶のペットボトルも渡してきてくれた。美月はそれに心底感謝して、喉を潤した。

「で、レイはどこにいるの?」

「お呼びかな、お嬢さん」

 つばめの呼び掛けに応じ、雑木林の奥からレイガンドーが現れた。彼は親指を立て、背後を指し示す。

「この林の向こう側にある臨時駐車場の方に、待機所を作ってあるんだよ。だから、俺と対戦相手のロボットは出番が来るまではそこで大人しくしていなきゃならんのさ。バッテリーに余裕があれば、適当にシャドーでもやって客寄せが出来るんだが、生憎、俺はコジロウとは違うからな。派手に動きすぎると、本番でへばっちまう」

「対戦相手のロボットって、どんな奴だっけ」

 つばめはミートソースの絡んだ麺を咀嚼し、嚥下する。美月は携帯電話からホログラフィーを投影する。

武公(ぶこう)って言う名前の人型ロボットで、スペックはなかなかだよ。フレームはうちの会社の人型重機を払い下げしたやつを流用しているけど、それ以外はかなり改造してある。特に凄いのが腰回りだね、背骨に当たるシャフトの強度とギアの大きさが段違いだから、モーターの性能以上の重たいパンチが出せる。レイみたいに人型重機のパーツを掻き集めて造ったロボットなんかじゃない、最初から純粋に戦うためだけに造られている。怖いぐらいに」

「……そうなの?」

 つばめは今一つぴんと来ないのか、武公の画像が表示されたホログラフィーと美月を見比べてくる。コジロウというハイスペックな警官ロボットが傍にいても、ロボット自体に興味がないのであれば、凄さが解らないのは仕方ない。美月は夏の暑さとは異なる汗が滲み出し、顎から首筋に滴った。これは、単なる遊びでもトレーニングでもない。

「でも、なんでミッキーとレイがそんなロボットと戦うことになっちゃったの?」

 つばめに問われ、美月は気を戻した。

「ああ、それなんだけどね。なんでも、最初は武公と適当な人型重機でエキシビジョンマッチをする予定だったらしいんだけど、自治体の人の中にロボット格闘技が好きな人がいたらしくてね。で、私がレイの部品を馴染ませるためにランニングをしていたところを見ていたらしくて。で、是非とも出てくれって言われてさ。解る人には解るものなんだね、機体が全部変わってもレイはレイだって。でも、嬉しくはないかな。そういう人達がいたから、お父さんは……」 

 美月が憂うと、レイガンドーは美月の小さな肩に太い指を添える。

「大丈夫だ、美月。今回のファイトは賞金も出ない代わりに賭け金もない、純粋な戦いだ」

「じゃ、その武公ってロボットもレイと似たようなことをしていたのかな」

 つばめが言うと、美月は顔を上げた。

「みたいだね。でも、武公ってネットで調べてみてもあんまり情報が出てこなかったんだ。大抵のロボット格闘技は、さっきの自治体の人みたいなコアなファンがいるから、画質は荒いけど動画がアップされていることが多いんだよ。だから、昔のレイと岩龍のファイトの動画は山ほどあるよ。だけど、武公は地方の地下闘技場にデビューしたばかりらしくて、ほとんど出てこなかったんだ。この画像だって、個人のブログを回って回ってやっと見つけたやつだし」

 美月は、その名の通りの武骨なマスクフェイスの武公の画像を掲げる。暖機している最中なのだろう、武公は拳を振り上げて虚空を殴り付けている。ボディカラーは黒に稲妻のような赤いラインが差し込んであり、所々にアクセントとして蛍光イエローが加えられている。そして、左右の二の腕には草書体で武公と書き記されている。ヒールとしては最高の外見だ。対するレイガンドーは、継ぎ接ぎの部品で組み上がっているいびつなロボットだ。せめて塗装だけはきちんとしてやりたかったが、メインカラーを決める前に夏祭りの当日が来てしまったので、結局、外装の地の色が剥き出しのままで戦うことになった。せめてもの情けで、霊巌洞、と印刷したステッカーを背中に貼った。

「あのさ、つっぴー」

 美月は縁日を行き交う人々の流れを見つつ、言った。つばめは顔を上げる。

「ん、なあに?」

「ここに来るまでの間に、誰かに変なこととか言われなかった?」

「色々と言われような、言われなかったような。顔はそんなに売れてないと思ったんだけど、考えてみれば、コジロウを連れている時点でバレバレだしね。でも、そういうのを気にしていたら面倒臭いしさ、言うだけで何かしてくるってわけでもないし。うちのお爺ちゃんが先祖代々引き継いできた土地を全部買い上げて私有地にしちゃったんだから、その土地に住んでいた人達から反感買うのが当たり前なんだよ。私だって、そういうことをされたら恨んじゃうって。それこそ、七代先まで」

「でも、辛くないの? だって、外に出るだけで……」

「ミッキーはどう思うの?」

 つばめに逆に聞き返され、美月はやや口籠もった。

「つっぴーは悪くない、何も悪くない。だって、訳も解らないうちに相続させられたわけだし。だけど、それだけのことで疎まれるのはひどいし、嫌だって思う。でも、やり返すのは良くないかなって」

「悪くないからって、無抵抗になる意味もないと思うけど。だけど、コジロウを前に出すと過剰防衛になるし、コジロウは原則的に対人戦闘は出来ないように設定されているから、コジロウの手を汚させるべきじゃないって思っているから言いたいように言わせているだけ。そこから先をしてくる人間なんて、吉岡りんねとその一味だけだから。それ以外の人達は何もしてこない。出来ないんだと思う。でも、ミッキーは違ったみたいだね」

 不意に日差しが翳り、コジロウのパトライトの淡い光を受けたつばめの眼差しが美月を貫く。

「ミッキー、誰かに何かされているの?」

「大したことじゃないから。つっぴーと友達になりたいって言ったのは私だし、クラスの人達と話を合わせようとしないのも私だし、つっぴーの事情を知った上で仲良くなりたいって思ったのも私だから。だから」

 美月は笑みを作ろうと頬を持ち上げようとしたが、上手く動かなかった。相手に上と下を作らずに、中立でいようと決めたのも自分だ。そうしていれば敵を作らずに済むからだ。つばめの眼差しは揺らがない。

「だったら、なんでレイを戦わせるの?」

 つばめの言葉は、セミの鳴き声には掻き消されなかった。美月はその理由を明言しようとしたが、具体的な動機が思い浮かばなかった。そもそも美月は、兄も同然のレイガンドーが本来の用途とは異なった使い方をされていることに心を痛めていたはずだ。父親が地下闘技場でロボット賭博に明け暮れていたことも嫌だったが、それ以上に人型重機であるレイガンドーが土木工事を行わずに、鉄屑とオイルと火花が飛び散るリングの中で夜な夜な死闘を繰り広げているのが辛かった。けれど、かつての美月には父親を止める術はなく、レイガンドーを実家から逃げ出させるだけの力もなく、レイガンドーと岩龍が対戦するための賭け金にされた。

 そんな目に遭っているのに、なぜ自分はレイガンドーを誤った道に進ませようとしているのだろうか。セミの鳴き声もつばめの眼差しも遠のき、レイガンドーの駆動音すらも聞こえなくなる。あんなに恨んだのに、疎んだのに、美月は父親と同じことをしようとしている。穏やかな心と豊かな情緒を備えた彼を、美月を守るためならば己の犠牲すらも厭わない彼を、物心付く前から一緒に育ってきた彼を、再び暴力と狂気の世界に引き戻そうとしているのか。

 なぜ。



 ロボットファイトの開始時間までには、まだ余裕があった。

 レイガンドーが死闘を繰り広げるリングが設置された第一駐車場と雑木林を隔てた場所にある、第二駐車場にて羽部は時間を持て余していた。レイガンドーとその整備道具を満載してきたせいで、愛車のアストンマーチン・DB7の後輪は大分くたびれてしまった。美月と羽部が居候している親戚の家は兼業農家なので、中型トラックはあるにはあるのだが、それを運転するのは羽部の自尊心を損なうので、輸送能力が乏しかろうとアストンマーチン・DB7を運転したかった。弐天逸流から与えられた車ではあるが、なんだかんだで気に入ってきたのだ。

 シートも敷かずにロボットが乗ったせいで多少なりとも汚れてしまった後部座席を気にしながらも、羽部は周囲に気を付けていた。雑木林を隔ててはいるが、コジロウとつばめがいるのだから、見つかってしまえば対処するのが面倒になる。コジロウとつばめに見つかれば羽部は美月の傍を離れざるを得なくなるだろうし、そうなれば弐天逸流と交わした交換条件を果たせなくなり、羽部の後ろ盾がなくなってしまうからだ。決して美月とレイガンドーから別離するのが惜しいわけではない。

「ああ、あれねぇ」

 エンジンの余熱が残るボンネットに腰掛けた羽部は、第二駐車場に駐まっているトレーラーを認めた。コンテナの側面には、草書体で武公の文字が書き記されている。コンテナの裏手には、レイガンドーの対戦相手である武公という名のロボットが搬出されていた。黒地に赤い稲妻に似たラインが走る外装がインパクトを与え、レイガンドーとは根本的に異なるパターンのマスクフェイスには凄みがある。

 動作テストをしているのか、武公は二メートル半の巨体ながらも軽快にステップを踏んでいる。レイガンドーの格闘スタイルはボクシングがメインだが、武公もそうらしく、蹴りはほとんど出さずに拳を繰り出している。腰を捻る角度はレイガンドーよりも大きくモーションも派手だが、そこに隙はない。間合いに入られたら最後、首が跳ね飛ばされることだろう。武公の足元には、ノートパソコンを膝に広げている男が座り込んでいた。

 携帯電話を取り出した羽部は、ホログラフィーモニターを展開して画像を開いた。美月の親戚の家にあった写真を携帯電話のカメラで撮影した画像で、その中に写っている男の顔と現実の男の顔を重ね合わせる。過ぎた年月の分だけ、年齢を重ねてはいるが骨格も輪郭も一致した。弐天逸流から受け取った情報は正しかった。

「実のある仕事をしようじゃないの、この僕に相応しい規模と内容の仕事をね」

 機械油に汚れた作業着を着ているが、上半身は脱いで袖を腰で縛っており、白いランニングを着た上体を暑気に曝している。日に焼けた体は御世辞にも引き締まっているとは言い難いが、体格は羽部よりも一回りは大きく、上腕は逞しかった。横顔は険しく、しきりに武公とモニターの間で視線を行き来させている。が、その視線が上がり、羽部を見咎めてきた。羽部は組んでいた腕を緩めると、ポケットから小さな金属板を取り出した。途端に男は目を剥く。

「やあ」

 羽部は指の間に挟んだ金属板を振ってみせると、男はノートパソコンを武公に投げ渡してから立ち上がる。

「それをどこで手に入れた?」

「さあね。お前なんかにそれを答える義理が、この僕にあると思う? ないよねぇ?」

 羽部は男と一定の距離を保ちながら、カード状の金属板を見せびらかす。

「だったら当ててやろう。小倉貞利の女房の実家だな?」

 男の言葉に、羽部は目を丸めた。

「へえ。下劣な生物にしてはそこそこ発達したニューロンを持っているみたいじゃない」

「俺のことも、そこで知ったな?」

「まあね。小倉の嫁さんの結婚式の写真があったんで、そいつを見たのさ。この僕の優れた頭脳による鋭敏な推理に寄れば、こいつは小倉貞利の義弟である美作彰が小倉貞利の手元から盗んだんだ。んで、小倉貞利はあんたの手元から盗んだ。だから、あんたはこいつを取り戻すために一ヶ谷に来た、ってわけ。当たりでしょ?」

「どうとでも思うがいい」

「で、あんたと小倉貞利はどういう関係なのさ。その辺を洗い出させてくれる?

 色々と腑に落ちなくてね」

「そこまで話す理由も義理もない。お前はどこの輩だ。吉岡か? 弐天か?」

 男は羽部に詰め寄ろうとするが、羽部は身軽に避ける。

「そっちがそのつもりなら、この僕も答える義理はないね。そのお粗末な脳みそで考えるといいよ。で、あんたはこれの扱い方を知っている、ってことをこの僕は知っているんだよ。だから、あんたは性能のいいロボットを次から次へと作れるんだ。量子アルゴリズムを単純化させたプログラムを用いた順応性の高い人工知能なんて、そうそう作れるものじゃないしね。だけど、それだけじゃ宝の持ち腐れだ。だから、こいつの扱いをこの僕に教えるという素晴らしい栄誉を授けてあげようじゃないか」

 羽部が口角を吊り上げて先の割れた舌を覗かせると、男は顔を歪める。

「アソウギを使ったな?」

「それが解るんだったら、それなりの審美眼を持っているとこの僕が判断してあげてもいいよ。この僕は舌が肥えているから、お前みたいな中年のおっさんに食欲なんて微塵も湧かないけど、場合によっては頭から喰ってやらなくもなかったりするよ? もっとも、骨格をへし折って殺すだけで、消化する前に吐き出すけどね」

 羽部は金属板を口元に寄せながら、目を細める。

「教えないんだったら、そうだね、この僕が日々見張らされている娘から喰ってあげようか? あの年頃は肉も脂肪も薄いけど、その分苦味がなくてね。一度食べたら、また食べずにはいられないんだよ」

「……喰うな。人間を喰うな。アソウギの用途からは大いに外れている。そもそも、あれは」

「アソウギの本来の用途がなんだったとしても、この僕は自分の生き方について悩むほど青臭くはないよ。だから、この僕にこいつの正体を教えるか、殺されるか、してくれる?」

 まどろっこしくなってきた羽部が舌を波打たせると、男は躊躇いながらも口を開いた。

「そいつは、集積回路だ」

「全部で十五枚もあったけど、全部が全部そうなの?」

「そうだ。俺は答えた、だから人は喰わないでくれ。誰の娘であろうと、手は出すな」

「手は出さないよ。この僕はヘビだよ、手なんか出すわけがないじゃないか。でも、口から牙を出して頭から丸飲みにしちゃうよ?

 血抜きもしなければ内臓も洗っていない生身の人間を丸ごと胃の中に入れて消化するのはちょっと大変だし、出すものも増えちゃうけど、その分旨味は格別なんだ」

 自分の想像に浸りかけた羽部に、男は腕を振り上げた。だが、間隔が空きすぎているから無意味だ。そう思った羽部の足元に、前触れもなく衝撃が訪れた。次の瞬間には仰向けになり、背中がアスファルトに叩き付けられた。何事かと驚きながら起き上がってみると、男と武公は姿を消していた。毒々しいカラーリングのジーンズの裾を捲り上げてみると、衝撃を感じた部分が溶けていて骨が露出していた。否、羽部の体液に宿っているアソウギに何かの力が作用して制御を失ったのだ。羽部はそれを元に戻そうとするも、相手の制御能力の方が高かったのか、すぐには肉と皮が戻ってこなかった。ダメージ自体は大したことはないが、心底腹立たしく、舌打ちした。

 このままでは気が収まらない。なんだか空腹も感じる。羽部は溶けた左足を引き摺るようにして立ち上がり、第二駐車場の片隅で女子中学生達が集まって喋っていた。精一杯のお洒落をした少女達の会話の内容は、いかにして美月の邪魔をするか、だった。話題の中心になっているのは、先日、ドラッグストアで美月を蹴っていた女子中学生だった。美月が生意気で態度が面白くないから、というだけで過剰な加虐心を抱いている。これだから、生きた人間は汚らしい。血の気が失せて生体電流が止まれば、知恵の足りない脳もとろりと美味な蛋白質に変わるのに。

「冷凍物ばっかりじゃ飽きちゃうんだよねぇ」

 羽部は少女達に振り返ると、久しく伸ばしていなかった牙を出して毒液を滲ませた。弐天逸流が日々送り届けてくれる人間の血肉は悪くないのだが、血も肉も冷凍されているので新鮮味に欠ける。瑞々しく鉄錆の味が充ち満ちた柔らかな肉塊を、つるりと喉から胃に滑り落としたい。その衝動に任せ、巨大なヘビに変化した。

 少女達は笑う。思い通りにならないからと言うだけで、輪を乱すからと言うだけで、なんとなく気に食わないからと言うだけで、他者の人生を蹂躙しながらも笑う。笑う。笑う。笑いすぎていたから、背後に迫る人喰いヘビの姿には気付きもしなかった。最初の一人は丸飲みし、次の一人は喉を牙で噛み砕いて黙らせ、他の二人は長い下半身で締め付けて窒息させて悲鳴を殺し、最後の一人である香山千束を凝視する。可愛らしいが品のないデザインの浴衣を着ている少女はがちがちと顎を震わせ、羽部から逃れようと後退ったが、恐怖のあまりに失禁したのか水の帯を引き摺った。ああ、なんて汚らしい。けれど、死の恐怖に瀕した人間でなければ醸し出せない風味もある。羽部は瞬膜を開閉させて瞬きした後、顎を最大限に開き、香山千束を内臓に引き摺り込んだ。

 ああ、美味しい。



 なぜ、戦うのだろう。

 レイガンドーの最終チェックを終えた美月は、機械油に汚れた軍手を外して作業着のポケットにねじ込んだ。肌という肌から流れ出してくる汗を首に巻いたタオルで乱暴に拭い、荒く息を吐く。本番が始まる前には着替えておこうと思ったのだが、整備を始めると次から次へと気になってしまい、結局その時間すらもなくなった。けれど、それでいいのだと思う。ロボットを扱っている人間が、妙に小綺麗な格好をしていたら奇妙だからだ。

 作業着の上半身を脱いで袖を腰で縛り、汗を吸わせるために着込んでいたTシャツを曝した。そうすると、まるで工場で日々ロボット達を扱っていた父親のような格好になる。ロボット賭博で身を持ち崩す前の父親の背中は広く、厚く、遠かった。ロボットと人型重機に関することには恐ろしく長けていたものの、家庭には馴染めない人間だったと今にして思う。休日には家族で連れ立って出かけることもなく、美月のことは疎んではいないようだったがあまり重きを置いていないようだった。美月にレイガンドーを宛がったのは、父親なりの罪滅ぼしだったのかもしれない。だが、そのレイガンドーを使ってロボット賭博に興じた末、美月を賭け金にしてまでも戦いを求めた。なぜだ。

 なぜ。なぜ。なぜ。その疑問を振り払えぬまま、美月はリングサイドに立っていた。ロボット同士の格闘戦におけるセコンドとはオーナーと同義語であるからだ。急拵えのリングの周囲にはちらほらと観客が集まっていたが、その中に転校先の中学校の生徒の姿も見えた。男子生徒が多く、美月を窺っては笑い合っている。

「美月、落ち着けよ。クールに行こうぜ」

 レイガンドーは腰を曲げ、美月の肩越しに顔を寄せてくる。美月は頷き返し、周囲を窺う。

「うん。でも……」

「あいつがいないのが気になるのか?

 まあ、俺の戦いを見に来るような性分じゃなさそうだしな」

「違うって、そんなんじゃないよ」

 美月が慌てると、レイガンドーは軽く笑う。

「俺はいつだって美月の味方だ。誰に惚れようが、止めもしないし咎めもしない」

「急に色気付いちゃって、もう」

 美月はレイガンドーの軽口に辟易しつつも、そうなのかな、と自問した。どういう経緯かは定かではないが、美月と同じ家で暮らす羽部に対して少なからず好意は覚えている。爬虫類のような目付きには生理的な嫌悪感をいくらか感じるものの、腹の底から嫌いだと思ったことはない。頭もかなり良いようで、日々部屋に籠もっては何かの作業に没頭している。服装は最低最悪のセンスだと解ってはいるが、見慣れてくると面白い。だが、これまで美月は特定の異性に好意を抱いたことはない。だから、羽部に対する好意が家族としてなのか、年上の友人としてなのか、はては異性としてのものなのかは定かではなかった。だから、レイガンドーには明確な答えを返せなかった。 

「レディースッ、アーンド、ジェントルメェーンッ!」

 お決まりの掛け声を上げながら長机に設置されていた実況用のマイクを握ったのは、僧侶の寺坂善太郎だった。いつもの締まりのない法衣姿なので、実況席には馴染んでいない。美月が唖然としていると、寺坂はマイクのコードを振り回し、どっかん、と雪駄を長机に乗せた。

「ドマイナーかつアングラな娯楽であるロボットファイトを、牧歌的極まりない田舎の夏祭りに開催する自治体ってのがまずアレだがよ、そんなアングラファイトを見に来てくれたお前ら! 相当キてるぜ、ロックだぜぃ!」

 寺坂はいつにも増して調子付き、観客達は呆気に取られている。というより、滑っている。

「正式な団体もなければリーグもない、ロボット同士のオイルでオイルを洗う戦いは地下で繰り広げられていたのさ。そう、お前らが生温い布団の中で惰眠を貪っている最中、血と暴力に飢えた人間共が人間同士では成し得ない破壊と衝撃と快楽を求めてロボット同士を戦わせていたのさぁっ! どうだぁっ、更にロックだろう!」

 むしろメタルだ、と美月は言いたくなったが堪えた。

「だからって、金は賭けるなよ? 賭けたくなる気持ちはよーく解るぜ、俺はそういうのは嫌いだが心情としては理解出来ないもんでもねぇからな。どうしても賭けるってんなら、その辺の店の喰い物にしておけ。そうしておけば、誰も損をすることもねぇし、しょっ引かれることもねぇからな。よぉし、俺と約束しろ。いいな、解ったな、ガキ共!」

 寺坂は一層強く声を張り上げると、スピーカーからハウリングが生じた。

「ロボットファイトがアングラでロックな娯楽である限り、俺達と奴らの出会いは一期一会だ! 携帯で動画を撮影している奴、その程度のヘボな画質でガチの迫力が伝わるとか思い上がるんじゃねぇぞぉ! この瞬間、この一撃、この技を、その目と脳みそに焼き付けやがれこの野郎! さあてお待ちかね、本日の主役、大本命、戦うためだけにこの世に生まれたロボット共の登場だぁああああああーっ!」

 寺坂が煽りに煽ったからか、いくらか盛り上がってきた。

「青コーナーッ! 地方のインディーズリーグに参入して間もないが連戦連勝、初参戦でチャンピオンベルトを手中に収めやがった常勝のスーパールーキー! その実力はコアでガチなマニアを唸らせ、凄烈な技はリングを震わせ、見る者全てを痺れさせる、新進気鋭の超新星! その名も、武公ぉおおおおおーっ!」

 大袈裟に思えるほど派手な手振りで、寺坂が右側のコーナーを指し示すと、その方向から一体のロボットがリングへと近付いてきた。黒に赤、武公の文字。美月は唇を噛み締める。

「赤コーナーッ! 知る人ぞ知るアングラの極致、天王寺工場で慣らした腕は折り紙付きどころか百年保証! そのアングラもアングラなリングで防衛戦を繰り広げ、常にチャンピオンの座に立ち続けた猛者の中の猛者! 仇敵とのタイトルマッチで大敗を喫するも、彼を愛して止まない少女に手によって再び立ち上がった、ロボットファイト界の伝説にして王者こそ! レイ! ガン! ドォオオオオオオーッ!」

 そこまで煽らなくても。美月は気圧されそうになったが、観客達の注目を受けて我に返り、一礼した。レイガンドーは慣れた様子で手を振ってから、リングを囲んでいるチェーンに手を掛けた。寺坂の煽りがハッタリか否かは観客達には判別が付けられないらしく、大多数が半笑いを浮かべている。嘘ではないのだが煽りすぎなのだ、と美月は訂正したくなってきた。レイガンドーと組んで戦うのはこれが初めてなのに、ハードルを上げられすぎた。対する武公のオーナーでありセコンドでもある人間は、長年ロボットに接してきたであろう年季と風格が感じられる、作業着姿の中年の男だった。擦り切れて機械油の染みが付いたキャップで目元が翳っているが、その顔には見覚えがあるような気がする。美月が目を凝らしていると、男は美月を見下ろしてきた。

「戦うからには、覚悟をしておけ。お前の大事な相棒が鉄屑になったとしても、俺を恨むなよ。恨むなら、自分と相棒の軟弱さを恨むといい」

「……レイは負けません。私の、レイは」

 美月は男を見返し、じっとりと汗の滲んだ手のひらでズボンを握り締めた。そうは言ってみたが、勝てる気はまるでしなかった。自分が強気でなければレイガンドーまでも怯んでしまうかもしれないからだ。レイガンドーと武公は共にリングの中に入り、互いに向かい合ってステップを軽く踏んでいる。レイガンドーはボクシングを主体とした打撃系の技が得意だが、武公の得意技はよく解っていない。ロボット同士の格闘戦は、基本的には総合格闘技を主体としたルールで執り行われるものであり、今回のロボットファイトも例外ではない。だから、足技も関節技も適応されるし、場合によっては金的目潰しもアリだ。レイガンドーはあまり足技は得意ではないが、武公はどうだろう。

 美月は猛烈な不安に駆られたが、リングの中のレイガンドーと目が合った。ゴーグル型のスコープアイを一度点滅させ、ウィンクしてみせた。美月はぐっと不安を押さえ込むと、強引に頬を持ち上げてみせた。レイガンドーは美月に頷いてみせてから、拳を固め、武公と睨み合った。武公は美月を見返してきた。

「ラウンド1、ファイッ!」

 御丁寧に用意されていた立派なゴングを、寺坂が盛大に打ち鳴らす。同時にレイガンドーと武公は距離を詰めていき、互いに拳を繰り出して距離を測る。レイガンドーのジャブが届く寸前に武公は後退し、武公のジャブが胸部装甲を掠める寸前でレイガンドーもバックステップを踏む。両者の脚部のシリンダーが上下し、関節が唸り、モーターが喚き、外装が鬩ぎ合う。

 レイガンドーは左右に体を揺らしながら、武公の隙を窺っている。武公は関節技でも仕掛けるつもりなのか、腰を落とし、レイガンドーを掴むタイミングを計っている。次第に緊張感が漲って、美月は握り締めていたズボンを外して拳を固めた。考えろ、冷静に考えろ。何の技を仕掛ければ、組み付こうとする相手を圧倒出来る。

「DDT」

 男が命じると、即座に武公が反応する。

「りょーかいっ、とぉ!」

 武公が矢のように駆け出す。美月が回避しろとレイガンドーに命じようとした瞬間、武公はアスファルトを蹴って跳躍し、その勢いを使ってレイガンドーの首に腕を巻き付けてきた。そのまま、レイガンドーは後頭部から地面に叩き付けられ、外装を鳴らしながら躍動する。

「痛烈なDDTが炸裂ゥーッ!」

 寺坂の実況が迸ると、観客達が沸き上がった。武公はレイガンドーの背後に回り込んできたので、美月はリングを囲んでいるチェーンを掴んで叫んだ。手が焼けるほど熱していた。

「レイ、立って、早く立って!」

「ってぁ!」

 レイガンドーは両足を曲げてから伸ばし、その勢いを使って起き上がる。直立すると、武公と向き合う。

「たかがDDTでカウントなんて取らせはしないぜ、新入り!」

「経験だけがイコールだと思うだなんて、ロートルらしいね!」

 武公はレイガンドーとの間合いを取りながら、男を窺った。男は低い声で命じる。

「延髄斬り」

「りょーかっい!」

 途端に武公は少し後退した後、駆け出してきた。レイガンドーは腰を落とし、両腕を広げる。

「させるかっ!」

 助走を付けた武公が飛び上がろうとする寸前、駆け出してきたレイガンドーがその腰を力強く押さえ込む。両者が激突した瞬間、互いの外装の摩擦が火花を散らした。自動車事故を彷彿とさせる衝突音が真夏の熱気を震わせ、リングを囲む太いチェーンが揺らぐ。

「美月ぃっ、次はどうする!」

 武公の腰を捉えたレイガンドーに指示を乞われたが、美月は口籠もった。この次はどうすればいい、腰を掴んだ態勢から出せる技は何なのだ、プロレス技なんてほとんど覚えていない。どうする、とレイガンドーから再度指示を乞われたが、美月は混乱から抜け出せない。すると、武公はレイガンドーの両肩を掴み、膝を入れてきた。

 痛烈な膝蹴りが、何度となくレイガンドーの胸部に激突する。レイガンドーは美月の指示を待ち続け、その攻撃を逃れることすらなく頑なに耐えている。このままでは、レイガンドーの頭部が外れるのは時間の問題だ。次第に武公の名を呼ぶ観客が増え始め、レイガンドーに対する文句が入り混じる。美月は更に混乱し、落ち着こうと息をするも脳に酸素が回らない。レイガンドーのマスクフェイスが削れ、火花の量が増え、割れた部品から漏れた機械油の雫がアスファルトに落ちる。どうする、どうする、どうする、どうする、どうする。

「そこで必殺、アッパーカットォ!」

 観客達の罵声を圧倒する、一際大きな声が上がった。それは、コジロウに肩車された状態で観戦していたつばめだった。美月が我に返って目を上げると、つばめは親指を立ててみせる。美月は額の汗を拭い、一瞬のうちに頭を巡らせる。そして、今一度、武公のプロポーションを観察した。武公は足技をメインにしたプロレス技が主体の人型ロボットだと短時間で判明した、それ故に両足が長く、下半身のバネが柔軟で両足関節の駆動域が恐ろしく広い。だが、その体形は人型ロボットとしてはアンバランスであると同時に、足とは反比例して腕の長さが短めだ。ならば、勝機はある。それに気付いた美月は、腹の底から叫んだ。

「右ブローで押せ、続いて左フックでロープ際まで追い詰めろぉっ!」

「その言葉を待っていたぜ!」

 膝蹴りを受け続けた傷だらけのマスクフェイスを上げ、レイガンドーは武公の腰を抱えていた右腕を引いた。武公はすかさず腰を引いたが、レイガンドーのリーチはそれよりも長かった。鍛え上げられた腹筋を思わせる外装に拳が深く沈み、武公のボディがしなる。立て続けに重たいボディブローを叩き込まれた武公は、姿勢を制御するために徐々に後退していくが、チェーンに接する前に武公は上体を前に倒し、レイガンドーを打ち返そうとする。

「浅いっ!」

 武公がパンチを放った瞬間、レイガンドーは腰を落として武公の間合いに滑り込む。そして、流れるような動作で左フックを喰らわせた。両者の腕が交差した瞬間、誰もが目にした。人型重機の作業用アームを流用したがために伸縮性を持つレイガンドーの腕が、キック力を得るために両腕の長さを犠牲にした武公の腕と絡み合った末、武公の傷一つなかったマスクフェイスを荒く抉る、強烈なクロスカウンターを。

 武公が仰け反った。レイガンドーはその隙を見逃さずに武公を押さえ込み、体重を載せたボディブローを連打して武公の滑らかな黒と赤の外装を歪ませていく。得意な局面に持ち込んでしまえば、こっちのものだ。徐々に場の空気も塗り替えられていき、レイガンドーを呼ぶ声が増える。最初はつばめが、次は寺坂が、その次は見知らぬ誰かが、レイガンドーの名を呼ぶ、叫ぶ、勝利を乞う。それが、美月が腹の底に押し殺していた異物を目覚めさせる。喉の渇きすらも遠のき、歓声も遠のき、目に映るのは猛攻を繰り広げるレイガンドーの勇姿だけになった。

「……そうだ」

 美月は自分にしか聞こえない声量で呟き、目を見開く。

あの夜、父親が美月を賭け金とするために天王山工場の地下闘技場に連れて行った夜、美月の人生の転換期と言っても過言ではない猥雑にして醜悪な夜。美月は初めてレイガンドーが戦う様を目の当たりにした。十数回も行われたタイトルマッチの末にバージョンアップを果たした岩龍が、兄でもある人型重機を圧倒する様を。そして、寸でのところで岩龍の攻撃を阻み、堪え、逆転劇を繰り広げては観客を湧かせていたレイガンドーの姿を。

その時は気付いていなかった、それからも気付きたくなかった、今までも気付くことを恐れていた。だが、もう迷いはしない。

「レイっ! そのままパワーボムだぁっ!」

「ハッハァー!」

 美月が拳を振り上げると、レイガンドーは両の拳を固めて武公の後頭部に振り下ろした。その一撃で前のめりになった武公の頭部を、レイガンドーは太股の間に挟んで武公の胴体を腕で抱え込むと、頭上に持ち上げる。武公は頭部の打撃が強すぎてバランサーの制御が戻らないのか、抵抗はするがレイガンドーの腕とは見当違いの場所に拳を振り回すだけだった。レイガンドーは武公を担ぎ上げた状態で観客達をぐるりと見回してから、上下逆さにした武公をアスファルトに投げ付けた。がしゃあああっ、と金属とアスファルトが激突した瞬間、歓声が爆発する。

「ワン!」

 レイガンドーが武公の両肩を地面に押し付ける形で丸め込むと、寺坂がカウントを取る。

「ツー!」

 寺坂の指が二本立つと、観客達もそれに釣られてコールする。と、その時、武公が両足を振り上げてレイガンドーのホールドから逃れようとするが、レイガンドーは武公の胴体に跨って彼の片足を抱え込み、エビ固めに持ち込む。重みさえある間の後、寺坂の指が三本立ち、遂に。

「スゥリィイイイイイイーッ!」

 狂ったようにゴングが打ち鳴らされる。途端に歓声が熱を帯びる。

「勝者あっ、レイ! ガン! ドォオオオオーッ!」

 寺坂が大きな身振りでレイガンドーを示すと、レイガンドーは武公を解放して立ち上がった。レイガンドーが緩やかに手を振ってみせると、観客達が彼の名を呼ぶ、呼ぶ、呼ぶ。そうだ、この感覚、この状況、この快楽。忘れられるものではない。忘れようとしても、目を逸らそうとしても、疎もうとしても、不可能だ。

 レイガンドーはリングの中に呼ぶ。美月はチェーンの下を潜り抜けると、彼の元に駆け寄る。レイガンドーは先程の激闘とは打って変わった優しい動作で美月に手を差し伸べてきたので、美月は彼の手を経由して肩に腰掛けた。求められるがままに手を振り返しながら、勝利の勲章を全身に刻んだレイガンドーを慈しみながら、美月は胸の内に広がる充足感に酔いしれていた。そうだ、あの夜、美月はレイガンドーに心を奪われた。

 これまで美月が接してきた、穏やかで優しい兄であるレイガンドーとは懸け離れた、破壊の権化と化した彼の姿に圧倒された。そして、兄と妹という長年の関係を完膚無きまでに突き崩されてしまった。それを自覚した今、美月に躊躇いもなければ後悔もなかった。これからは真っ向から彼と向き合い、己の本性を認めよう。

 レイガンドーと共に、戦いの快楽に身を投じよう。



 夏祭りのメインイベントである、花火大会が佳境を迎えた頃。

 一乗寺昇は、人並みに逆らって移動していた。出店の並ぶ市役所前の大通りを行き交う人々は、花火が上がるたびに足を止めては同じ方向に振り返る。炸裂音と同時に閃光が花開き、藍色の夜空がカラフルな光に彩られる。浴衣を着た若い娘達は同年代の男と手を組み、明るい言葉を交わしている。今夜だけは夜更かしと外出が許された小学生達は一塊になり、騒いでいる。原価と売値に大幅な差があり、かき氷や焼きそばを売り捌く出店では堅気とは言い難い者達が暴利を貪っている。ソースの焼ける匂いと綿飴の甘ったるい熱が漂う一角を通り過ぎ、弱った金魚を泳がせている金魚掬いの出店を過ぎ、夏祭りの運営本部を目指した。

 大通りから一本外れた路地に入ると、途端に喧噪は遠のく。市役所とは別にある公民館に入り、その中の大広間ではそれぞれの自治体から引き抜かれた住民達が運営委員会として詰めていた。畳敷きの広い和間に上がろうと一乗寺が靴を脱ごうとすると、通り掛かった者に怪訝な顔をされた。それはそうだろう、一乗寺は一ヶ谷市内のどの自治体にも青年部にも属していないのだから。

「さよさよ、いるぅ?」

 一乗寺が馴れ馴れしく声を掛けながら上がると、運営委員会の中の一人である女性が顔を上げた。

「だからなんだってんだよ、宇宙人」

 それは、政府直属のロボット技師である柳田小夜子(やなぎださよこ)だった。相変わらず色気のない格好で、使い古したジャージの上下を着込んで長い髪を無造作に引っ詰め、銜えタバコでノートパソコンと向かい合っていた。一乗寺が彼女の背後からノートパソコンを覗き込むと、その中ではレイガンドーと武公の死闘が繰り広げられていた。

「思った通り、レイガンドーにはあいつが食い付いてきやがった。首尾は上々だ。しかし、何度見ても完成度の高いパワーボムだなぁおい。レイガンドーの体重移動が完璧だ。あの小娘、やりやがる」

「んで、武公のマスターの尻尾は掴めた? 懐まで招き入れたからには、掴んでくれないと困るんだよねぇ」

 一乗寺は小夜子の隣に腰を下ろすと、差し入れと思しきおにぎりを取り、囓った。塩気が強めだった。

「だがな、懐まで招き入れた上で泳がせる必要があるのかよ?

 さっさと確保しちまえよ、面倒臭い」

 小夜子は一乗寺を咎めもせず、吸い終えたタバコを吸い殻が山盛りの灰皿にねじ込んだ。

「それはそれとしてだ、清掃ボランティアの爺様がゴミ捨て場で変なものを拾ったんだそうだ。検分してこいよ」

「えぇー、そんなのやだぁ」

「それがお前の仕事だろうが、イチ。勝手口に置いてあるから、適当に調べてこいよ」

 小夜子に睨まれ、一乗寺は食べかけのおにぎりを手にしたまま、渋々腰を上げた。

「はいはーい。さよさよってば厳しいんだから」

 おにぎりを咀嚼しつつ、一乗寺は大広間のふすまを開けて廊下に出た。柳田小夜子は内閣情報調査室の関係者ではあれど捜査員ではないが、本人のたっての希望で一ヶ谷市内に配属された。一ヶ谷市の商店街にある電気屋の親戚、という名目で自治体の青年部に潜り込んだのである。だが、小夜子の真の目的が小倉美月の手によって再起動したレイガンドーであることは火を見るより明らかだ。レイガンドーと武公のロボットファイトをセッティングしたのも、もちろん小夜子だ。趣味が実益を兼ねているのだ。

 塩昆布入りのおにぎりを食べ終えた一乗寺は、指先に付いた御飯粒を舐め取ってから、一階の奥にある台所の勝手口のドアを開けた。そこは臨時のゴミ置き場として扱われているので、ビールの空き缶や仕出し弁当の空箱が詰まったビニール袋が山盛りになっていたが、その間に奇妙なものが詰まったビニール袋が転がっていた。じっとりとした粘り気のある液体を多量に含んだ、数人分の少女の衣服だった。浴衣にキャミソール、レギンスにミュールにハンドバッグ。靴の数から察するに、少なく見積もっても三四人は犠牲になったのだろう。

「悪食だなぁ」

 一乗寺はそのゴミ袋を引き摺り出すと、きつく縛られている口を開いた。途端に饐えた匂いが辺りに漂い、一乗寺は噎せ返った。先程食べたばかりのものが戻ってきそうになったが、ぐっと堪えて、ゴミ袋に手を突っ込んで生温い粘液にまみれた浴衣を掻き混ぜる。ぐちゅぐちゅと泡立つたびに酸の臭気が増え、気分の悪さが増す。浴衣の奥に手応えを感じたので、それを掴んで引っこ抜いてみた。ストラップが大量に付いた携帯電話だった。

 ダメ元で電源を入れてみると、ハート型で少し厚い金属板からホログラフィーが浮かび上がった。頑丈な防水加工とコーティングのおかげで、酸性の液体に腐食されなかったらしい。男性アイドルの画像が待ち受けになっていて、メーラーには短文のメールがいくつも残っている。その内容を確認した後、ユーザーの個人情報が記載されている項目を選択し、開いた。電話番号、メールアドレス、そして持ち主の名前。香山千束。

 彼女は喰われたのだろう。粘つく糸を引く浴衣を広げると、内側には溶けた皮膚の切れ端や筋繊維がちらほらとこびり付いていた。服の数から察するに、五人は喰われたことになる。頭から丸飲みしたはいいが、衣服は消化も出来なければ吸収も出来ないので、どこかから拝借したゴミ袋の中に吐き出したのだろう。そんな芸当が出来る輩は限られている。逃亡先を突き止められていなかったが、死んだとは誰も思っていなかった。これではっきりした。

 羽部鏡一は、生きている。

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