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機動駐在コジロウ  作者: あるてみす
 

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雨降ってジョブ固まる

 ふと気付くと、夜が明けていた。

 読み終えた本が周囲に何本もの塔を築いていて、立ち上がるためにはいくつかの塔を崩さなければならないほどだった。長時間集中していたことによる心地良い痺れが脳に広がり、複眼の奥に疲労による疼きが溜まっている。文字の羅列をひたすら頭に詰め込む快感があらゆる欲望に勝っていたのだろう、今の今まで、空腹も眠気も忘れていた。伊織は抱えていた両足を伸ばして筋も伸ばすと、固まっていた外骨格がぱきぱきと鳴った。

 本の塔を崩しながら立ち上がり、部屋の掛け時計を見上げると、午前七時を回っていた。だが、今日は何月何日の午前七時なのだろう。閉め切っていたカーテンを開けて付けっぱなしになっていた蛍光灯を消し、窓を開け放ち、数日ぶりに新しい空気を入れた。雨上がりの柔らかな湿気を含んだ風が触角をくすぐっていき、初夏を感じさせる朝日が黒い外骨格を暖めてくれた。窓枠に寄り掛かってぼんやりとしていると、ガレージに物音がした。

「んあ」

 上体を出して外を窺うと、ガレージの前で寺坂善太郎が鉄屑も同然の愛車の前で打ちひしがれていた。いつもの法衣姿ではなく黒いスーツを着ていたが、所々が汚れていた。肩に引っ掛けているジャケットの背中には破れ目が出来ていて、干涸らびてはいるが鉄錆の匂いが触角を掠めた。

「なんかあったん?」

「おー、いおりん。留守番御苦労」

 寺坂が力なく挙手すると、伊織は首を捻った。

「留守番? っつーことは何か、お前、出かけたのか?」

「ああ、野暮用でな。一乗寺とつばめちゃん達も来たんだが、気付かなかったのか?」

「いや、全然」

「てぇことは何だよ、俺の蔵書を延々と読んでいたのか? トイレ休憩もせずに? メシも喰わずに?」

 寺坂に驚かれ、伊織は爪先で顎を軽く引っ掻いた。

「まー、そうかもしんね」

「で、何を読んだんだよ。漫画かラノベかゲームの攻略本か」

 寺坂はスクラップと化したイタリアの跳ね馬を撫でてやりながら、伊織を仰ぎ見た。

「それも読んだけど、ほとんどは仏教のやつ。てか、そっちの方が内容が濃くて面白いし」

 伊織は本の塔の上から、今し方読み終えたばかりの一際分厚い仏教書を取り、窓の外に掲げてみせた。

「これとか」

「で、なんか悟ったか?」

「んー……。まだ、解んね」

 伊織が触角の片方を曲げると、寺坂はにっと笑った。

「そうか! じゃ、待ってろ、メシでも作ってやらぁ!」

 フー子ちゃんの供養はまた後だっ、と寺坂は意気込んでから、本堂に隣接した住居に駆け込んでいった。読書に没頭している間に何があったのかは見当が付かないわけでもないが、それを問い質すのは後でもいいだろう。そう思った伊織は、部屋中に散乱した本を跨いで脱出を計ったが、手当たり次第に読んでは積み重ねていったせいで足場はかなり悪くなっていた。それとは対照的に、部屋の壁の三面を塞いでいる本棚は空っぽになっていて、棚の中には薄い埃が残っているだけだった。血糖値は極めて下がっているが、不思議と空虚感はなかった。

 それどころか、心の中が満ち足りている。長い間欲していたものは、もしかするとこれだったのかもしれない。人の血肉でもなければ暴力でもない、知識と学問だ。伊織の体重を受けて軽く軋む階段を下り、一階に入ると、確かに寺坂の言った通りの人間の残滓が感じられた。佐々木つばめの匂い、一乗寺昇の匂い、コジロウの匂い、それに混じって見知らぬ女の匂いと少女の匂い、更にはロボットと思しき機械油の匂いが、廊下の隅に淀んだ空気に僅かに含まれている。雑然とした台所には、彼らが食事をした痕跡もあった。それなのに、伊織は一切気付かなかった。常人の何十倍も優れた感覚と動物的な戦闘本能を持ち合わせているのに、知識欲に負け、見逃していた。

「本を読み漁るの、楽しかったか?」

 スーツからジャージに着替えてきた寺坂は、包帯で触手を戒めている右手に使い捨てのゴム手袋を被せた。

「まぁな」

 伊織が返すと、寺坂は冷蔵庫を開けて良く冷えたスポーツドリンクを投げ渡してきた。

「ひとまず、そいつで血糖値を上げておけ。でないと、メシが出来るまで持たんからな。俺の料理は時間が掛かる」

「おー」

 伊織はフジワラ製薬が製造元のD型アミノ酸を多量に含んだスポーツドリンクを開け、顎を開いて流し込むと、久々に摂取した水分が煮詰まりかけていた体液を薄めてくれた。血糖値がじりじりと上がる感覚に神経が波打ち、読書の快感で忘れかけていた即物的な衝動が燻ってきたが、それを発散したいとは思わなかった。読書の余韻が台無しになってしまうからだ。寺坂が不器用に料理の支度をする気配を感じつつ、伊織は雨の筋が残っている窓から中庭を見やった。朝日を受けた草花が、青々とした葉を広げている。

 ふと、思い出す。伊織がまだ、普通の人間の振りをして人間の世界に馴染もうとしていた頃の記憶だ。あの頃の伊織は自分が化け物であることを認めきれず、日々人間の血肉を主食にして生き長らえながらも、普通でいることに固執していた。だから、同年代の少年達と同じように制服を着て、生体安定剤を湯水のように摂取することで人間への渇望を誤魔化しながら、学校に通っていた。皆と同じものを食べられないのは病気だからだ、と周囲に言い訳をして給食の時間をやり過ごした。皆と上っ面だけでも仲良くなれば人間に対して食欲が湧かなくなるのでは、そうすれば人間を食べずに済むようになるのではないだろうか、と淡い期待を抱いていたが、成長するに連れて伊織の肉体は欲望を抑えきれなくなった。だから、高校二年生になったある日、伊織はクラスメイトを喰おうとした。

 だから、伊織は学校に通えなくなった。通いたいと思っていたのに、通い続けようと頑張ったのに、肉体が精神を阻んできた。化け物であることを認識せざるを得なくなり、人生を曲げるしかなかった。

「なー、クソ坊主」

 伊織は左前足を伸ばし、朝露と雨に濡れたアジサイの葉を爪先で弾いた。輝く雫が跳ね、転がる。

「俺、学校、行きたいかもしんね」

 もう一度、普通の生活を味わえるならば。かすかな期待を込めた小さな呟きは、水気の多い食材を煙が出るほど熱したフライパンに落とした際に発生した騒音と、寺坂の上擦った悲鳴で掻き消された。はずだったのだが。

「んじゃ、どうにかしてやるよっ、おおう!?」

 フライパンから上がった炎に仰け反りながらも、寺坂は快諾してきた。

「や、別に」

 本気じゃねーし、と伊織は言おうとしたが、発声されずに胸郭の中に留まった。そう言ってくれるのは、たとえ義理であっても嬉しいものだ。屍肉喰いとしてではなく、一個の人格を持った人間として扱ってくれている証拠だからだ。それだけで充分だ、現実にならなくてもいい、と軽い諦観を覚えながら、伊織は台所に背を向けた。

 けれど、また学校に通いたい、という願望が膨れ上がっていく。何を馬鹿なことを、期待した分だけ痛い目を見るのは自分じゃないか、人間らしさなんて求められていないから化け物らしく振る舞って生きてきたんじゃないか、との声が頭の中を駆け巡り、体液の海に浮かぶ内臓がきつく引き絞られる。

 ガレージの前で物悲しげに佇む、全壊したフェラーリ・458を一瞥する。あれは本来の役割を全うした末に、道具として使い果たされた。それが羨ましい。だが、伊織はどうだろう。知性も人格もないただの大量殺人兵器であれば、こんなことに悩まずに済んだものを。けれど、その悩み自体が疎ましくならないのは、人間らしさが残っていることを感じられるからだろう。窓を開けて身を乗り出し、触角を上下させながら、伊織は顎を広げた。

 久し振りに、笑った。



 東京銘菓、ひよ子。

 可愛らしい黄色いひよこが描かれた包装紙に包まれた平べったい箱を差し出すと、美野里は笑顔でひよ子の箱を受け取ってくれた。後でお茶を淹れてくるわね、と言った美野里につばめは笑顔を返してから、本題に入ろうと居間に横たわる鉄の棺を見やった。遺産の一つである無限防衛装置、タイスウだ。その傍らには間に合わせのサイボーグボディに電脳体を収めた設楽道子が正座しており、更にその隣にはコジロウが正座している。

 ほんの二三日空けていただけなのに、合掌造りの佐々木家に戻ってくると、得も言われぬ懐かしさに感じ入った。つばめは太い梁や煤けた天井を見上げて頬を緩めていたが、道子に向き直った。

「それで、あの契約だけど」

 つばめは美野里に見繕ってもらった書類を取り出し、道子の前に差し出した。

「こんなところでどうかな? 他の家を掃除して住めるようにするのは手間が掛かるのと、諸々の都合でうちに住み込みになるけど、道子さんの仕事はアマラとアソウギの管理ってことで。家の仕事はコジロウが大体やってくれるし、ご飯は自分で作れるから」

「え? 家の仕事、やっちゃダメなんですか?」

 道子に残念がられ、つばめは戸惑った。

「え、ええ?」

「だって、私は御嬢様のところではメイドだったんですよ?

 御料理の腕前はイマイチかもしれませんし、本物のメイドじゃなくてなんちゃってメイドだったかもしれませんけど、そこはほら、最近のものですけど取った杵柄が!」

 身を乗り出してきた道子に、つばめは若干気圧された。

「だけど、アマラの演算能力を使ってアソウギに溶けた人達を元に戻すのは大変だろうし、道子さんも今までの生活がアレだったから、自由時間が増えた方がいいんじゃないかなぁって」

「それは私の努力でどうにでも出来ますし、自由時間が多すぎてもそれはそれで持て余しちゃいますよ!」

「でも、その」

「つばめちゃんのプライベートゾーンには踏み入りませんから! 引き出しも押し入れも絶対に開けません!」

「だ、だけどなぁ」

 及び腰になったつばめはコジロウを窺うが、コジロウは無反応だ。それはそうだろう、彼は自分の仕事が増えようが減ろうがなんとも思わないのだから。美野里は食い下がる道子の様子を見、言った。

「もしかして、道子さんってメイド服がお好きなの?」

「えっ」

 途端に道子は硬直し、少々の間の後に座り直した。赤面こそしていなかったが、俯いた顔には強い羞恥が現れていたので、美野里の言葉は的を射ていたのだとつばめは悟った。確かに、メイドの仕事をしていればメイド服を着る口実になるが、メイド服を着るためだけに家事をするのでは何か違う気がする。世の中にはあの制服が着たいからこの学校に進学する、この職業になる、という人種もいるだろうが、それでは手段と目的がすり替わってしまう。

「だ、だぁってぇ、可愛いんですよぉやっぱり!」

 羞恥のあまりに開き直った道子は、ぐっと両の拳を固める。生身であれば、涙目であろう声色だ。

「人生を軌道修正するために一度は足を洗いましたけどね、私の根っこは未だにガチガチのオタクなんですよぉ! だから、御嬢様の元ではメイドになっていましたし、あの妄想男の部下でハルノネットの工作員だった時はゴスロリなんて着て戦っていたんですよ! スーパードルフィーみたいな外見のサイボーグボディで拳銃を振り回して戦う、だなんて中二病の代表みたいなものじゃないですか! でも、でも、私はそれが嫌じゃなかったんですよ! あの男の存在は今でも嫌で嫌でどうしようもないし、黒歴史の中の黒歴史である桑原れんげは地球をぶん投げてしまいたいほど恥ずかしいですけど、気付いたんです! 人間、一度覚えた旨味を忘れることなんて出来ないって!」

「……だから、メイド服を着たいがために家事をしたいの?」

 道子の熱い語り口につばめが苦笑すると、道子は力一杯頷いた。

「はい、そうなんですよ。だって、メイド服だけだとただの痛すぎるコスプレじゃないですか。でも、家事をしていると、それは仕事着であってコスプレではないじゃないですか」

「同じことだと思うけどなぁ」

 道子の感覚が今一つ解らないつばめの冷めた反応に、道子は我に返った。

「で、ですよねー。一般の方々には……」

「世の中、色んな世界があるわねぇ」

 そう言いながら、美野里が湯飲みの載った盆を持って台所から戻ってきた。が、居間に入ったところで躓きかけたので、すかさずコジロウが立ち上がって盆を受け止めた。美野里は非常に情けなさそうではあったが、コジロウから盆を返してもらい、三人分の湯飲みを囲炉裏の回りに並べた。つばめは美野里が淹れた緑茶を一口啜ってみたが、案の定、異様に濃かった。茶葉の配分が未だに解らないのだろう。

「で、結局、ハルノネットはどうなったんだっけ?」

 ひよ子の包装紙を開けながらつばめが訊ねると、美野里が答えた。

「桑原れんげの一件は、表向きはネットゲーム用の映像を間違ってニュース映像として配信してしまいましたー、ってことにしちゃったみたい。結構無理があるし、桑原れんげのファンアートとかはそこかしこに残っているから、そういったデータを地道に削除して証拠隠滅を計っていくつもりみたいよ。株主総会の騒動は死人も出なかったし、被害は講堂と寺坂さんのフェラーリぐらいだから、一通り捜査した後は政府の圧力で有耶無耶にするんですって。唯一の犠牲者である美作彰さんは、サイボーグボディの整備不良による事故死扱いにする、って一乗寺さんが懇切丁寧に教えてくれたわ。守秘義務の範疇ではあるんだろうけどね」

「なんだかなぁ」

 つばめはひよ子を取り分けながら、複雑な気持ちになった。つまり、道子の苦悩もつばめの苦労もなかったことにされてしまうのだ。だが、それでいいのだ。なかったことにならなければ、いつまでも道子は桑原れんげと美作彰に縛られるのだから。道子は緑茶を一口飲んでから、ひよ子の包み紙を開けた。

「もうしばらくすれば、サイボーグボディの大規模リコールが起きるでしょうが、ハルノネット自体はそう簡単には倒産しませんよ。ハルノネットが作り上げた通信網の管理を担う子会社を買収して、どさくさに紛れてサイボーグ関連の技術者を大量に引き抜いて別の会社に転職させ、その会社でハルノネットと同格の事業を行えばいいんですから。いくらでも誤魔化しが効きますからね。世の中、そんなものです」

 道子はひよ子の頭から食べようとしたが、ひよ子と見つめ合い、躊躇した。

「可愛い……。でも、御菓子だし……」

「そういう時は、こう、思いっ切り」

 と、つばめが自分のひよ子を真っ二つに割ると、ああっ、と道子は動揺した。

「そんな御無体なぁっ!」

「目が合う前に始末しちゃうんだよ、可愛いからこそ」

 ひよ子を頬張りながらつばめが力説すると、美野里はひよ子を後ろから囓った。

「或いは、目が合わない方向から攻めるのよ」

「次からはそうしてみます。まずはこの子を食べてあげないと、御菓子としての本分が……」

 ああ、でも可愛いっ、とひよ子と見つめ合う道子の姿に、コジロウは訝しげな視線を注いでいた。つばめは半分になったひよ子も頬張り、時折渋い緑茶を飲んで口を潤してから、コジロウにもひよ子を一つ渡してやった。もちろん、彼は食べられないと言ったが、箱に戻そうとはしなかった。つばめの気持ちを汲んでくれたらしい。

「よし、ここは妥協点を探ろうか。道子さんはメイド服を着たい、でも私の方はコジロウもいるし、自分のことは自分でなんとか出来る。でも、道子さんを持て余すのは色々と勿体ない気がするし。ううむ」

 つばめは腕を組み、思い悩んだ。が、唐突に思い付いた。

「あ、そうだ! お姉ちゃんの事務所、まだ片付いてなかったよね? だったら、昼間はそっちに行ってもらえばいいんじゃないかな? で、その間はメイド服を着ればいいじゃない。もちろん、公序良俗は弁えてもらうけど」

「え、でも、悪いわぁ。だって、散らかしたのは私なんだし」

 美野里は申し訳なさそうに眉を下げるが、道子は深々と頭を下げた。

「それならいいですね、外に出る時は着替えればいいですし!

 では美野里さん、よろしくお願いします!」

「まあ……つばめちゃんがそう言うのなら。こちらこそ、よろしくお願いします」

 美野里は承諾し、頭を下げ返した。道子の仕事の内容については今後も細々と調整していく必要があるだろうが、ひとまずはこれで落ち着いたと思っていいだろう。これまでの経緯が経緯なので、道子に対しては真っ当な好意を抱くことは難しいがビジネスライクに付き合うのなら問題はない。紆余曲折を経て実体を持たない電脳体になったとはいえ、敵であったことには代わりはないのだから。私情を挟んで判断を下す辺り、自分はまだまだ甘っちょろいのだとつばめは自覚する。だが、私情があるからこそ、割り切れるところが見定められるのだとも思う。

 二つめのひよ子に手を伸ばそうとしたつばめに、コジロウが銀色の手のひらにちょこんと載っているひよ子を差し出してきた。持て余した末につばめに渡すべきだと判断したのだろう。つばめはコジロウとひよ子のアンバランスさに笑みを零しつつも、コジロウの手のひらからひよ子を受け取り、それを食べた。

 白餡の饅頭は甘かった。



 薄い包装紙の中から、キツネ色に焼けたひよ子饅頭が現れた。

 なんてベタなお土産だろう、だが外れはないか、と思いつつ、羽部はそれを囓った。味は今一つ解らなかったが、粉っぽい触感と砂糖の甘さが口の中に広がった。それを麦茶で胃に流し込んでから、隣に座って嬉しそうにひよ子を頬張る美月を一瞥した。しかし、何もこんなところで佐々木つばめのお土産を広げることはないだろう。

 羽部と美月の前には、レイガンドーが胡座を掻いていた。もちろん、彼はひよ子饅頭を食べられないので、二人が食べる様を眺めているだけだ。佐々木つばめから東京土産のひよ子をもらった、と嬉々として報告してきた美月は、羽部を半ば強引にガレージに連れ込んでひよ子を渡してきた。突っぱねることも出来なくはないのだが、美月を無下に扱うと後が面倒なので付き合ってやることにした。徹夜明けで小休止したいと思っていたのも事実だが。

「こんな場所で喰うことないじゃないか」

 包装紙を握り潰した羽部がぼやくと、美月は照れた。

「家の中よりもこっちの方が落ち着くから、つい」

 ガレージの隅に掛かっている砂埃を被った掛け時計を見ると、登校時間はとっくの昔に過ぎていた。今日は平日であり、世間が機能を保つために人間が動き始める午前九時を回っている。美月の母親とその親族は、それぞれの仕事に向かっていったので家はがらんとしている。それなのに、美月は未だに家にいる。

「学校、そんなに嫌?」

 羽部が素っ気なく言うと、美月は躊躇いがちに頷いた。

「前の学校は嫌じゃなかったんですけど、こっちのは……どうしても合わなくて。だから、この前、つっぴーが色々と大変なことになっていた時に行かなかったから、そのまま行かなくなってもいいかなぁって思って。お母さんも羽部さんが一緒にいるなら、って文句も言わなかったから」

「へえ、そう。でも、この僕と一緒にいることほど危険なこともないんだけど? 君ってさあ、この僕に対する警戒心が薄過ぎやしないかい。そんなことじゃ、本当に危険な目に遭った時に何も出来ないよ?」

 この場で羽部が美月に咬み付いて毒を与え、殺すことなど容易なのだから。羽部は目を細めるが、美月は笑う。

「大丈夫です! その時はレイがいるから!」

「対人戦闘は行えないが、人間を照準にさえ収めていなければどうにでも出来るからな」

 レイガンドーが拳を掲げてみせると、美月は自慢げに語る。

「それに、この前のことでレイのプログラムが整理されたみたいで、状況を認識して判断して行動に出るまでの時間がかなり短縮されるようになったんです。最近の人型ロボットは思考パターンの短絡化が進んではいるんですけど、あんまり単純にしすぎると今度は細かい判断が出来なくなっちゃうって言う弊害があるんです。警官ロボットの思考パターンを例に出してみると、右の道に行けば最短ルートで犯罪者を追跡出来るけど信号に引っ掛かる可能性が高い、でも左の道に行けば迂回路になるけど信号には引っ掛からない、っていう状況を判断するためにはどちら側のルートの情報収集を優先すべきかをまず判断しなきゃならないんです。もちろん、その判断と情報収集能力自体は人間よりも遙かに迅速で的確なんですけど、優先順位の選定基準が微妙すぎて、結局は人間に判断を任せる場合が多いんです。でも、レイはそうじゃなくなったんです!」

「へえ、たとえば?」

 羽部がやる気なく問うと、美月はレイガンドーの仕草を真似て麦茶の入ったコップを掲げる。

「相手の体格に合わせてプログラミング済みの戦法を使用するのではなく、相手の動作を常時分析して自己判断した上で戦法を決められるようになったんです! まだホログラムのシャドートレーニングの段階ではありますが!」

「でも、それじゃセコンドの意味がないでしょ」

 羽部が突っ込むと、美月は勢いを失って腕を下ろした。

「そうなんですよー。レイが賢くなるのは嬉しいんですけど、あんまり賢くなりすぎても困るなぁって」

「その心配は必要ないさ。俺がいかなる行動を取るにしても、最優先すべきは美月の安全、そして判断と命令なんだからな。大体、俺達ロボットは、最後の最後では人間を越えないように出来ているんだ。最後の一線を越えるようなことがあったとすれば、遠からず自滅する。俺達は、使ってもらってこそ価値が生まれるからな。立場が逆転したところで、俺達は自分の能力を生かせなくなるのが関の山だ。生き物と人工物の間には越えられない壁がいくらでも……って、なんだ? こんな思想、俺の中にはプログラミングされていないはずだが」

 長々と語った末にレイガンドーは我に返り、言い淀んだ。美月も不思議そうにきょとんとしたが、羽部にはそれが誰の思想であり、なぜレイガンドーの思考回路に残留しているのかは、見当が付いていた。桑原れんげという名の疑似人格を作り上げて自我を確立していた遺産、アマラの思想だ。レイガンドーがソフトのオンラインアップデートをするために接続していたインターネット回線を経由して彼の中に侵入し、一時的にボディを間借りしていた設楽道子の電脳体の基礎は、もちろんアマラの量子アルゴリズムで出来上がっている。故に、その複雑な量子アルゴリズムが、レイガンドーの単純なアルゴリズムに焼き付き、更に人格に思想を与えてもなんら不思議ではない。

 と、いう情報が羽部の脳内に注ぎ込まれているのは、今は亡きサイボーグの設楽道子の脳内にアソウギを含んだ体液を侵入させてアマラに接触し、羽部の肉体を構成しているアソウギと同期させたからだ。遺産同士は互換性があると同時に、ごくごく微弱な生体電流程度の電波で同調している。それがなければ、羽部には今の状況はまるで解らなかっただろう。それがありがたい反面、佐々木つばめの管理者権限によって完全な制御下に置かれたアマラを管理している設楽道子の電脳体から流れ込んでくる無秩序な思考が、羽部の脳内を掻き乱していた。

「そういうのは削除しておくべきだよ、この僕が言うんだから間違いなんてあるわけがないんだからね」

 羽部がレイガンドーを示すと、美月は麦茶のコップを両手で包んだ。

「やっぱりそうですよねぇ……。私も、レイに特定の思想が生まれるのは良くないことだって思うんです。だって、レイはロボットだから、誰に対しても中立であるべきなんです。ロボットに対しても中立であるべきなんです。そりゃまあ、何も考えられない木偶の坊になったりしたらそれはそれで困るんですけど、ロボットであることを卑下しすぎる思想を持ったレイは嫌だなぁって。でも」

「でもって何だよ、鬱陶しいな」

 羽部が軽く苛立つと、美月は兄でもある人型ロボットを見つめた。

「レイが人間に近付いていくのは嬉しいなって、思っちゃうんです」

「それこそ、削除すべき思想だよ」

 羽部は冷たく言い放ち、麦茶を呷ってから腰を上げた。美月はまだ何か言いたげではあったが、母屋に戻っていく羽部を引き留めようとはしなかった。靴の数が減った土間で靴を脱いでから薄暗い玄関に入り、階段を昇って二階の自室に入った羽部は、腹の底からため息を吐いた。人間に近付いても、いいことなんて何一つない。

 その証拠がいくらでもある。ただの人間だった頃の羽部は誰にも認められず、愛されもせず、息を殺して生きようともそれすらも許してもらえなかった。だから、人智を越えた怪人になり、人間達を脅かせる立場になってようやく自分を心の底から肯定出来るようになった。美月だってそうではないか。本人に非がないのに、その身を取り巻く環境に非があるからというだけで転校先の中学校で蔑まれている。それなのに、なぜ人間を羨むようなことを言う。

「僕は……」

 知っている、解っている。ただ、認めたくないだけだ。人間に恋慕を抱くからこそ、疎ましくなるのだと。

「この僕らしからぬ考えじゃないのさ。全知的生命体を凌駕する知性を持った高等生物たるこの僕が、ねぇ」

 自虐しながら、羽部は学習机に腰掛ける。再度ため息を吐いてから、つま先で一番下の引き出しを開けると、そこには美作彰の通学カバンの中から取り出したものを押し込んである。角が擦り切れた封筒の中に、半透明の薄い板が入っている。大きさはいずれもタバコ大ではあるが、板の一枚一枚に恐ろしく細かい文字が模様のように刻み込まれ、触れると淡く発光する。板はガラスのように美しく透き通っているが、異様に硬く、いかなる金属でも傷一つ付けられなかった。現代科学の産物ではないのは確かだ。だが、問題は板の正体でも出所でもない。

「美作彰が、なんでこんなものを持っていたのか。それが大いに問題じゃないか」

 板を一枚手にした羽部は、目を凝らして模様を凝視した。規則正しい羅列と形状からして文字と見ていいだろうが、羽部の知る文字ではない。これもまた遺産の一種か、或いは遺産に関するものか。羽部の脳内に流れ込んできた設楽道子の過去の記憶が正しければ、美作彰もまたアマラを有していたが、その入手経路は不明瞭だ。どこの誰が美作彰などというイカれた男に、アマラという過ぎたオモチャをプレゼントするのだろうか。佐々木長光が遺産を所有していた時代の管理態勢に不備があったのだろうか。美作彰とアマラを繋ぐものが思い当たらない。

 それを考え込んでしまったから、久々に徹夜をしてしまった。羽部自身もアマラを操れたら、そんな情報などすぐに割り出せるのだろうが、生憎、そこまでいい立場ではない。羽部の能力は微弱なテレパシーのようなネットワークを通じてアマラの受けた情報を感じ取れることと、怪人体とヘビへの姿の変身能力ぐらいなものだ。それだけの力では、このややこしくも根深い戦いを乗り切れない。だから、妥協して弐天逸流の手先になり、小倉美月の監視役という名の子守役を務めて首の皮を繋ぎ止めているのではないか。

 もう少し建設的な仕事をしたいものだ。だが、何の仕事をしたものか。吉岡りんねに頭を下げてまた雇ってもらうのは死んでもごめんだ。あの美少女は有能ではあるが、それ故に欠けた部分も多すぎる。かといって、佐々木つばめの配下となって扱き使われるのも猛烈に嫌だ。しかし、フジワラ製薬に戻ったところで居所もなく、他の企業にしても羽部を雇ってくれるとは思いがたい。雇ってくれたとしても、必要な情報や体液だけを毟り取って捨てるだろう。だとすれば、やはり、小倉美月の子守に甘んじているしかないのか。

 それを思うと、気が滅入ってくる。



 仕事の量が増えるのは、良しとすべきことである。

 それだけ、計画が順調であるという証拠だからだ。仕事の量に応じて現場にやってくる従業員も増えてくれれば、個人の作業量も分担されて負担が軽減する。だが、それは仕事の内容にもよるものだ、と武蔵野は痛感していた。手狭なプレハブ小屋の中には、所狭しと大量の液晶モニターとパソコンが置かれていた。至るところにケーブルが這いずり、機械熱が籠もっていて真夏のような暑さになっている。一応、換気扇を回しつつも冷房を効かせているはずなのだが、全く効果がない。それどころか、エアコンの室外機の機械熱さえも籠もっているようだ。

 あまりの蒸し暑さに軽く吐き気すら覚えながら、武蔵野は機械の中心で上機嫌な鼻歌を漏らしているサイボーグ、鬼無克二の背中を見やった。こちらは全身隈無く汗を掻いているのだが、鬼無は汗を一滴も掻くはずもなく、水冷式の外付け冷却装置であるチューブの付いたジャケットを羽織って景気良くキーボードを叩いていた。こういう瞬間だけは機械の体が途方もなく羨ましくなる。

「おぅふ、順調順調ー。んふふー」

 鬼無は細長い体を左右に揺らしながら、液晶モニターに映る監視映像を見てにやけた。

「お嬢に感付かれた様子はないか?」

 武蔵野は額から流れた汗が目に入りかけたので、タオルでそれを拭い取った。

「いいえー、そんなヘマをこの俺がするわけがないじゃないですかー。感付かれたとしたってー、別回線で傍受していますからどうってことないですってー。映像のデータにしても、受信した瞬間に外部サーバーに転送しつつもこっちのパソコンに保存して、同時に一五個の外付けHDDに同じデータをコピーするように仕込んでありますから、どれか一つがパーになったって大丈夫ですー。んふふー」

「そうか、ならいいんだ。様子を見に来ただけだからな」

「武蔵野さんこそー、大丈夫ですかー? この監視小屋がある場所って普段のランニングのルートからは大分外れているんですよねー? 帰投する時間がずれたりしたら、御嬢様に怪しまれませんかー?」

「それについては大丈夫だ。俺の自主トレの時間帯と所要時間に規則性は持たせていないんだ」

「それってー、俺が作戦に加わるって解った上の行動ですかー? だったらマジキモーい」

 首を百八十度回転させて振り返った鬼無の軽口に、武蔵野は辟易した。

「それもないわけじゃないが、俺の習慣だ。行動に規則性を持たせると、敵に行動パターンを読まれやすくなるなんてことは常識だろうが、俺達の世界じゃ。だから、そういうふうになっちまったんだよ」

「そりゃまー、そうですけどねー。だとしたら、御嬢様はどちらかってーとパンピーな感じですかねー」

 行動パターンが一定なんですよー、と言いつつ、鬼無は手近なノートパソコンを操作してグラフを表示させ、それを武蔵野に見せてきた。りんねの監視を始めたのはごく最近のことではないので、りんねの行動パターンを割り出すために必要な情報は集まっていたのだろうが、それをグラフにしていたとは知らなかった。出来ればあまり見たくはないものではあるが、これも仕事の一つなので、武蔵野はりんねの行動パターンの回数と所要時間が仔細に記入されたグラフに目を通した。

 起床時刻、顔を洗う時刻と所要時間、身支度を調える時刻と所要時間、朝食を取る時刻と所要時間、トイレの回数と一回ごとの所要時間、などなど、項目を見ていくだけでうんざりしてきた。だが、そのどれもが計ったように正確で、人間なら一回ごとに多少のばらつきがあるはずのトイレの所要時間すらも同じだった。しかも、秒単位で。

「この変態が」

 武蔵野が毒突くと、鬼無は肩を揺すった。

「その変態に仕事をさせているのはどこの会社ですかー?

 んふふー。我々の業界ではご褒美ですー」

「確かにお嬢は規則正しい生活を送っているとは思ったが、ここまでとはな。となると、予想通りか」

「かもしれませんねー。出来れば、考えたくないことですけどー」

「だとすると、あの社長の使い道も若干変わってくるな。承諾してくれるかは解らんが」

「でも、あの社長は口先で誤魔化せばどうにでもなりそうですから、よろしくお願いしますー」

「使い勝手の悪い戦闘員をあしらうのは俺の仕事じゃない」

 武蔵野が身を引くと、鬼無はノートパソコンを棚に戻し、キーボードを叩いて画面をリアルタイムの映像に戻した。

「でー、気付いたんですけどねー」

「何をだ。しょうもないことだったら聞かんぞ」

 暑苦しい場所から一刻も早く退散しようと、武蔵野がドアに手を掛けると、鬼無はにやけた。

「武蔵野さんも大概にアレな感じの特オタですよねー? 規則正しい生活を送っちゃいない、とか言ったくせに日曜朝七時半前にはテレビの前に来てこっそりと録画予約をして、岩龍にも見せてあげたりしてー。んふうん」

「馬鹿言え、あれは岩龍が」

「っていうのは嘘なのは知ってますからねー? だって岩龍が来る前から、武蔵野さんがニチアサタイムに間に合うように起きてきているってことは見ていましたしぃ、武蔵野さんの携帯の着メロはニンジャファイター・ムラクモの変身BGMの中でも神曲と評判の一つ目入道のタンガンのでぇー」

「じゃかあしいっ!」

 反射的に武蔵野は拳銃を抜くが、鬼無は両手を上げるが悪びれもしなかった。

「ツンデレヒロインでおねショタ要員で最強サイボーグの鬼蜘蛛のヤクモはいいっすよねー。薄い本が厚くなる展開ばっかりでー。あー、武蔵野さんはそういうのダメな感じですかー?」

「俺はお前とは違う。ただ、純粋にだな」

 武蔵野は凄みながら鬼無の頭部に銃口を押し付けるも、内心は戦々恐々としていた。

「あー、そうですかー? じゃ、エロ同人に免疫なんかもない感じですかー? 人生の八割を損してますよー」

 鬼無は銃口を突き付けられながらもマイペースで、上機嫌さを保っていた。神経の図太い男だ。武蔵野は未知の世界に対する好奇心と羞恥心とその他諸々の感情が燻っていたが、これ以上深入りするとろくでもないことになると察して銃口を下げた。あららん、と鬼無はなぜか残念がりながら、パソコンデスクの椅子に座り直した。そこで残念がる意味が全く解らないので、武蔵野は顔を引きつらせながらブレン・テンを左脇のホルスターに戻した。

「とにかく、お嬢には感付かれないように仕事をしろ。余計なことは気にしなくていい」

「はぁーい」

 秘蔵のエロ同人フォルダを解放してあげようと思ったのにぃー、とぼやきながら、鬼無はキャスター付きの椅子を回転させて一際大きなデスクトップ型のパソコンに向き直った。盗撮趣味だけに飽き足らず、二次元の美少女達のポルノにも手を出しているらしい。性的な欲求を持つのは男としては健全かもしれないが、そのベクトルがいずれも不健全すぎる。だが、若くなければそこまでぎらぎらした欲望は持てないのも確かだ。呆れると共になんとなく敗北感を感じてしまうのは、年齢を重ねているからだろう。

 木造の物置小屋に偽装したプレハブ小屋を出た途端、清々しい解放感が訪れた。べとつく汗が乾いていき、少し冷たい山風が肌を舐めていく。陽炎が昇りそうなほど熱しているプレハブ小屋から漏れ聞こえる鬼無の変な笑い声に、なんともいえないむず痒いものが込み上がってくる。だが、あまり長居をすれば感付かれかねないので、獣道を掻き分けてアスファルトに舗装された山道に出た。ジャングルブーツに付いた泥と枯れ葉を叩き落としてから、顔を上げて駆け出した。自身が発する熱で体に籠もった機械熱が晴れていき、汗が流れるに連れて鬱屈とした感情もまた溶けていくような気がする。体を動かすことは好きだ、そうでもなければここまで鍛え上げたりはしない。

 いくつものカーブを曲がり、昇り、下り、梅雨の終わりを感じさせる熱を帯びた日差しはサングラス越しであろうとも眩しかった。あの日、彼女はどんな心境でこの道を通ってきたのだろう。それを思うと、年甲斐もなく胸の奥に鋭い痛みが生じる。振り切ろうとしても、忘れようとしても、目を逸らそうとしても、罪悪感を伴う恋慕がそれを許さない。二度と会えない相手だから、いつまでも胸の底に焼け付いている。

 船島集落からも別荘に向かう道からも逸れた脇道に入って、車が通った痕跡が少しばかり残る雑草を掻き分けて進んでいく。呼吸を荒げ、汗を散らしながら、ただひたすらに求める。その瞬間だけは、自分の馬鹿げた思いを肯定してもいいような錯覚に陥る。こんなにも必死なのだから、こんなにも強いのだから認めてもいいだろうと。

 一際長く伸びた雑草を押しやると、広場に出た。その空間だけは雑草が一本も生えておらず、ほのかに湿り気を帯びた地面が外気に曝されていた。測量して切り取ったかのような、綺麗な円形だ。その中心には、小さな石碑が佇んでいた。苔生すこともなく、枯れ葉に包まれることもなく、立てた時と全く同じ姿を保っていた。

「久し振りだな」

 こんな時でさえも気の利いた言葉を掛けられない、自分の無粋さに腹が立ってくる。石碑に近付き、汗と草の汁に濡れた手をズボンで拭ってから、慎重に触れた。冷たく硬い、死の温度がした。

「ひばり」

 名前を口にするだけで心臓が跳ねる。笑顔を思い出すだけで息が詰まる。手触りを思い起こすだけで体の奥底が熱する。温もりを、匂いを、表情を、声色を、態度を、瞳の色を、髪の艶を、記憶から掘り起こすだけで、恋を知ったばかりの少年のように身動きが取れなくなってしまう。思いを遂げられなかったから、伝えることすら臆してしまったから、未だに忘れられない。それがどんなに愚かなことか、身に染みているくせに。

 増して、相手はあの娘の母親だ。解っているくせに、解っているからこそ、どうしようもなく惹かれる。触れられないからこそ、欲してしまう。届かないからこそ、求めてしまう。サングラスを外して目元を押さえ、武蔵野は呻いた。

 あの時、手を離すべきではなかった。



 つばめは面食らっていた。

 黒板の前でちょっと居心地悪そうにしているのは、転校生だ。今度は、人間の意識を使って自我を確立した疑似人格ではなく、しっかりと生身を持った三次元の存在だ。それについては問題はないし、肉体を持った存在が机を並べて勉強してくれると張り合いも出るし、クラスメイトがいるのはいいことだ、と桑原れんげの一件で身に染みているので追い出す気は失せていた。だが、問題はある。山ほどある。数え出したら切りがないほどに。

 数日間留守にしていた分校は、心なしか埃っぽくなっていた。つばめとしては朝方に軽く掃除をしようと思っていたのだが、道子と雇用契約について話さなければならなかったので、登校時間がすっかり遅くなってしまった。生徒が一人きりしかいない上に教師の勤務態度が悪いので、遅刻しようがサボろうが文句は言われないのだが、そういう環境だからこそ自律していなければならない。だから、つばめは出勤する美野里と道子を見送ってから、登校時間に間に合うように自宅を出て教室に入ったのだが、そこに教師と転校生が待ち構えていたというわけである。

「というわけで、転校生の藤原伊織君でぇーす」

 教壇に立った一乗寺が黒板の前に立っている軍隊アリ怪人を示すと、藤原伊織は触角を片方曲げた。

「おう」

「……ちょっと待って、今、言いたいことを整理するから。何がどういうわけなんだか」

 自分の机に付いたつばめはカバンを置き、中身を取り出し、コジロウを背後に待機させてから、一呼吸置いた。

「あんたってさ、あのダムの戦いで死んでなかったの?」

「まぁな。見りゃ解るし」

「転校してきたのって吉岡りんねの命令?」

「違ぇし。俺の独断っつーか」

「今までどこで暮らしていたの?

 てか、何を食べて生きてきたの?」

「クソ坊主の寺。で、クソ坊主のろくでもねぇ料理」

「え、ええ!? まあいい、驚くのは後だ。で、なんで転校してこようだなんて思ったの?」

「思ったっつーか、学校には途中までしか行ってねぇから、また行きてぇなーって言ってみたらクソ坊主が勝手に」

「あんたが転校してくることに、先生は反対しなかったの?」

「全然」

「ここ、曲がりなりにも中学校なんだけどさ、それでもいいの?」

「気にしねーし」

 伊織は言葉短く、だが的確に答えた。つばめは一旦椅子に座り直し、担任教師を見上げる。

「先生、それでいいんですかぁ?」

「いいんじゃないのー? まあ、よっちゃんがいおりんを匿っていたのはあんまり良くないことではあるけど、政府に通報しちゃったら狙撃されて確保されて冷凍保存されて死刑よりもひどい目に遭うのが目に見えているから、そっちの方が人道的に正しいって言えば正しいからね。面白味はないけどぉ。で、いおりんは俺が教鞭をベチンバチンと振るう分校に通ってくれれば監視する手間も省けるから、無駄な税金を使わなくて済む。それどころか、いおりんの更正プログラムを組めるようになるかもしれなーい。でもって、つばめちゃんが寂しくなーい」

 一乗寺のへらへらとした語り口に、つばめは再び腰を浮かせた。

「だっだけど、こいつは私を殺しかけたんですよ! 先生も見てたでしょ、ドライブインで! でもってダムの時には巨大化して私を腹の中に入れて、人喰いの化け物で! てかなんですか、いおりんって! 呼びやすいけど!」

「でも、いおりんの体液はアソウギだし、アソウギは今はつばめちゃんの所有物だから、つばめちゃんがみっちゃんの力を借りて管理しておけば、いおりんはつばめちゃんを襲わないんじゃない?」

「そ、そりゃそうかもしれないけどっ!」

 つばめは歯痒くなるが、一乗寺は黒板に伊織の名を書いたチョークをペン回しの要領で回す。

「それにさぁ、みっちゃんもビジネスライクに雇ったじゃない。だから割り切っちゃえば? 今度のクラスメイトだって、まともとは言い難いけど桑原れんげに比べれば何十倍もマシだって。俺もちょっとは遣り甲斐が出るしー」

「でも、道子さんとこいつは根本的に違うような……」

 つばめが目を据わらせて軍隊アリ怪人を睨むと、伊織は艶やかな複眼につばめを映し込んだ。

「んだよ。道子、お前の方に付いたのか?」

「付いたっていうか、色々あって遺産を管理してもらうために雇ったんだよ、道子さんのこと。でも、それとこれとは全く関係ないからね! 道子さんのことも全面的に信用したわけでもなければ許したわけでもないし、あの人がいないと、遺産を管理出来ないからアソウギに溶かされちゃった人達が元に戻せないからであって!」

 気圧されないようにとつばめが力一杯声を張ると、伊織は触角を両方立てた。

「あいつら、元に戻るのか?」

「うん、まあ。時間も掛かるし、一度に元に戻せる人数は限られているけどね」

「そっか。なら、いい」

「いいって、何が?」

 つばめが聞き返すと、伊織は爪を上げて隣の教室を示した。

「ウゼェな、てめぇにはどうでもいいだろ。つか、俺の机、持って来なきゃならねーし」

 伊織は引き戸を開けて廊下に出ようとしたが、体格が良すぎるので頭部が引っ掛かってしまい、一度腰を屈めてから廊下に出た。コジロウも似たようなことをしなければ教室には入れないので、つばめは若干親近感を抱いたが、すぐに振り払った。いかなる事情があろうとも、藤原伊織が敵だったのは明確な事実であり、人喰いの化け物であることも変えようのない現実だ。だから、机を並べることには抵抗があったが、伊織も一個の人格を持った存在であり、十代の青年であることもまた変わりはない。頭ごなしに否定するのはどうかと思うが、自衛のためには危険を排除すべきだ。だが、しかし。

 つばめが悶々としていると、伊織は埃まみれの机と椅子を担いで戻ってきた。机を並べるためには移動する必要があったので、つばめはコジロウの手を借りて自分の机と椅子を窓際に運んだ。伊織は自分の机と椅子を廊下側に置くと、座ったが、怪人体なので腰の後ろから飛び出した腹部が邪魔をしてしまい、中腰のような状態になった。これでは勉強するどころではない。見るに見かねたつばめは、倉庫も同然の隣の教室に入ると、制服が汚れるのも構わずに掘り返した。そして、ようやく背もたれのない椅子を見つけ出し、教室に戻った。

「これで良し」

 つばめが背もたれのない丸椅子を伊織の前に置くと、伊織は丸椅子とつばめを見比べた。

「つか、てめぇ、なんでそんなことすんだよ」

「どうせ勉強するなら、座り心地の良い椅子の方がいいに決まっているからだ」

 つばめは制服に付いた埃を払ってから、自分の席に着いた。伊織は不可解そうではあったものの、つばめの好意を無下にはしなかった。自分が持ってきた椅子を教室の隅に移動させてから、丸椅子に腰掛けた。丸椅子の脚が長めであるのと伊織自身の体格が大きすぎることが相まって、机の中に膝を入れたら机が浮き上がってしまった。なので、伊織は下両足を外に出して座り直した。大股開きで行儀は悪いが、机は浮き上がらなくなった。

「よぉーし、それじゃ授業を始めちゃおう」

 一乗寺はにんまりしてから、黒板に書き記した伊織の名を消し、板書を始めた。相変わらずのハイペースな授業で、受ける方の苦労を一切考えていない内容ではあったが、まどろっこしくないので飽きが来ない。伊織は授業内容を解っているのかどうかが少し気掛かりだったが、中学校までは卒業している、と言ったので大丈夫だろう。つばめは背後のコジロウを見やると、コジロウはすかさず身構えてくれた。何か起きたとしても、彼がいるならば。

 不安と警戒心と共に一抹の嬉しさを抱えながら、つばめは今日の分の授業を全うした。数学、国語、英語、体育、と一通りこなしていったが、伊織は暴れ出すことはなかった。それどころか授業を受けるのが楽しいらしく、触角が時折跳ねていた。体育の時間はドッジボールだったが、伊織が加わってくれたおかげで初めてまともにゲームが成立した。いつもはコジロウを含めても三人しかいなかったので、三角ベースをするのが精一杯だった。

 だが、そのドッジボールは壮絶だった。故に、つばめは早々に緩いボールを受けて外野に避難すると、同じく緩いボールを受けて外野に避難した一乗寺と共に、恐ろしい速度でボールを投げ合っているコジロウと伊織を眺めることに決めた。コジロウは外野にいるつばめを守るという大命題があるので一歩も引けを取らず、伊織は生来の性分が負けず嫌いなのか、コジロウのボールを確実に受け止めて力一杯投げ返した。どちらも剛速球で、殺人的な速度が出ていた。その結果、ドッジボールであるにも関わらずラリーが続き、昼休みも午後の授業も潰れてしまった。

 その後、伊織は寺坂が作ってくれたといういい加減な料理が詰まった弁当を喰らい、午後の授業が潰れたせいで多くなった宿題を受け取って下校した。登下校の道中で吉岡一味の残党に見つかったりはしないのか、とつばめが懸念を示すと、伊織はその質問には答えずに跳躍した。見つからないほどの速度で移動すればいい、ということを言葉ではなく行動で示したかったらしい。実際、伊織の姿は一瞬で遠ざかり、気付いた頃には山間に消えていた。

「……これでいいのかなぁ」

 つばめは通学カバンを背負い、コジロウを伴って下校した。

「アソウギがつばめの管理下にある以上、藤原伊織はつばめに危害を加えることは不可能だ。よって、危険はないと判断する。藤原伊織が反逆した場合、本官がつばめを護衛する」

 コジロウは冷静に述べてくれたが、つばめはもやもやとした感情を拭いきれなかった。

「うん。それは大丈夫だと思うんだけど」

 これでは、誰が敵で味方なのかが解らなくなりそうだ。だが、そもそも敵とはなんだろう。つばめが相続した遺産と莫大な財産を目当てに襲ってきた吉岡一味は、明確な敵ではあるが、その吉岡一味から別離した者達は敵だとは言い難くなってきた。当初は、吉岡一味はつばめを手に入れたいがために狙ってきたのだ、とばかり思っていたが、事が進展してくると、吉岡一味の構成員はそれぞれの背後組織の方針に従って行動しており、それぞれの背後組織が所有する遺産を管理したいがためにつばめの管理者権限を手に入れようとしている、ということが解ってきた。前回のアマラの一件のように、状況に応じて手を組んだ方が事態が好転するということも。吉岡りんねが助力してくれたか否かは、未だに不明だが。

 世の中は、つばめが思っているよりもずっと複雑だ。遺産一つ取っても、その能力は遺産の本来の用途に従って使われていることは皆無だ。コジロウの動力源である無限動力炉のムリョウにしても、人間大のロボットを動かすだけでは役不足だ。けれど、遺産を有している者達はその使い方が間違っていないと信じ、その結果、多数の人間に多大な悪影響を及ぼしている。何が正しくて何が間違っていて何が歪んでいるのか、見極めていかなければ。

 それが、遺産を管理する力を持つ者の責任であり、仕事だ。



 伊織、羽部、そして道子。

 短い間だったが、彼らと共に過ごした時間は濃密だった。皆、己の個性を尖らせて生きていた。最終的には人間ではなくなった道子でさえも、常に作り笑いではあったが生き生きと日常を過ごしていた。メイドとしての仕事は偽りではあったが、本当に家事をするのが好きだったのだろう。そうでもなければ、毎日のように隅々まで掃除し、洗濯をしてアイロンを掛け、味は最悪だったが料理を振る舞うことなど出来はしない。

 冷蔵庫に残っていた料理を取り出し、電子レンジで温めてから、少し食べてみる。案の定の不味さで、甘いものと塩辛いものが全く馴染んでいなかった。見栄えだけを重視した結果、そうなってしまうのだと薄々感づいていたが、それを指摘するのは気が咎めた。道子が楽しそうに料理をする様を見るのが好きだったから、余計なことを言って道子の顔を曇らせたくなかった。もっとも、いずれ注意しなければならない、とは思っていたが。

 だが、その機会は失われた。二度と彼女は戻ってこない。それはそうだ、自分が殺せと命じたからだ。武蔵野は命令には逆らわないし、こちらの命令に対して疑問を抱くような男ではない。だから、現に道子は死に、狙い通りに電脳体となって桑原れんげに反逆し、佐々木つばめと共にアマラを沈静化させた。それでいい。

「静かですね」

 それなのに、後悔が過ぎる。

「それでいいのです」

 りんねはティーカップを持ち、唇に寄せるが、不意に桑原れんげの言葉が蘇る。そんなことだから、りんねちゃんはずうっと独りぼっちなんだよ。たった一人の友達も、つばめちゃんに取られちゃうんだよ。

「お黙りなさい!」

 それを振り払うべく、りんねは虚空に声を張る。しかし、それが消え失せると、耳が痛むほどの静寂が訪れる。気を逸らそうと本を広げるが、文字の羅列は頭に入ってこない。紅茶の味も解らない。

「ああ……」

 真意を口に出そうとしても、喉が震えない。言葉にならない。それが当たり前であって、疑念を感じるだけ無駄だと知っているはずなのに、今だけはそれが憎らしい。だが、もう涙も出ない。出せないからだ。

「いえ、お気になさらず。なんでもありません」

 地下階から上がってきた高守が不安げな目を向けてきたので、りんねは首を横に振った。高守は後ろ髪を引かれつつも階段を下りていき、作業に戻った。また何かしらの工作を行っているのだろう。彼の手先の器用さは驚異的だ、ハルノネットの電源を掌握する作業もほんの数分で行ってしまったほどだ。船島集落の菜の花畑に対人地雷を埋めて地雷原にした時もそうだった。だから、まだ大丈夫だ。高守と武蔵野がいるのだから、勝ち目はある。

「姉御、おるけぇのう!」

 ベランダ越しに、人型重機の岩龍が呼び掛けてきた。りんねは顔を上げ、彼に向く。 

「何か」

「姉御、ワシャあ必殺技を習得したんじゃ! 水神のムラクモの激龍斬なんじゃ!」

 ほうれっ、と岩龍はニンジャファイターの真似事をしてみせる。余程りんねに見てもらいたかったのか、何度も何度も同じポーズと決めゼリフを繰り返している。御上手ですよ、とりんねが御義理で褒めてやると、岩龍はキャタピラであるにも関わらず、その場で飛び跳ねてはしゃいだ。岩龍が幼い仕草で飛び跳ねるたびにその重量に応じた震動が発生し、ティーカップもがちゃがちゃと飛び跳ねて中身が飛び散ったが、りんねは岩龍を咎めなかった。

 他人が自我を惜しみなく発揮している様を見るのは楽しい。自分にはそれが出来ないからだ。唯一許されているのが、ちくわである。だからこそ、りんねはちくわを愛して止まない。穴の開いた円筒形の練り物が自由を与えてくれる。だから、今夜は思う存分ちくわを食べよう。夕食のメニューは決まっていないし、ちくわだけは冷蔵庫に常備してある。どうやって食べよう、焼くのもいい、煮るのもいい、揚げるのもいい、細かく刻んで煮付けて炊き込みご飯にしてもいい。ちくわでさえあれば、りんねに束の間の自由を与えてくれるのだから。

 小さな球体の水晶のペンダントを握り締め、口角を上向けた。

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