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機動駐在コジロウ  作者: あるてみす
 

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23/69

窮鼠、ネットワークを噛む

 許容出来るものでもなければ、理解出来るものでもなかった。

 目の前に立つ人型ロボットはマスクフェイスであるが故に表情が一切窺えず、それが余計に不信感を煽ってきていた。つばめはコジロウの背後に隠れるか否かを若干迷ったが、美月はなんだか気恥ずかしげな顔でレイガンドーの前に立っていたので、気圧されてはいけないと妙な意地でコジロウの前に出た。赤と青の中間のような色合いのアジサイの花が咲いている浄法寺の正門の内側で、二体のロボットと二人の少女は対峙していた。

 外見こそレイガンドーだが、今、彼の中には設楽道子が入っている。どういう理屈で意識を転送したのかはまるで見当が付かないが、とんでもない事態なのは確かだ。だが、美月は道子に警戒心を抱いていないどころか親しげですらある。外見が兄も同然のロボットだからだろうか、だとしても無防備すぎやしないか。この前はつばめに嫉妬心を抱いていたというのに。美月は、道子の入っているレイガンドーを手で示す。

「えっと、私にも何が何だかよく解らないけど、今、レイの中には設楽道子さんがいるんだ。道子さんはりんちゃんのメイドさんで、サイボーグで、前に困っていた時に助けてもらったことがあるの」

 つまり、美月は以前道子に親切にしてもらったので、気を許しているということらしい。だが、それは美月の事情であってつばめの事情ではない。その気持ちが顔に出ていたのか、美月は訝ってきた。

「どうしたの、つっぴー? 道子さんと何かあったの?」

「何ってそりゃあ……」

 つばめは過去の出来事を思い出し、レイガンドーの内側に潜む道子を見据えた。設楽道子は女性サイボーグを遠隔操作し、東京にいた美野里と寺坂を襲った。吉岡りんねの別荘に話し合いに出向いたつばめと美野里に銃口を向けた。ついでに言えば、米の磨ぎ汁で淹れた変な味の紅茶を出してきた。そして、コジロウを整備に出した際には輸送トラックを襲撃し、無関係な人間を多数死傷させた。だから、つばめにとっての道子は敵であり、人殺しだ。

 足音と話し声が聞こえてきたので振り返ると、あからさまに眠たげな寺坂となんとなく楽しそうな顔をした一乗寺が本堂から出てきた。寺坂は寝乱れた法衣をいい加減に直し、欠伸を噛み殺しながら近付いてきたが、レイガンドーと美月を見て表情を変えた。戸惑いとそれを上回る嬉しさが、サングラス越しでもよく解った。

「本当に、みっちゃんなのか?」

「お久し振りです、寺坂さん。その節は御世話になりました」

 道子が深々と頭を下げると、寺坂はすぐさまレイガンドーの姿をした道子に駆け寄った。

「みっちゃん! 帰ってきてくれたのか!」

「ええ。だけど、生身の私は死にました。いえ、殺してもらったんです」

 道子は膝を曲げて寺坂と視点を合わせながら、胸に手を添える。

「ごめんなさい。桑原れんげの記憶がフラッシュバックして、どうしても耐えられなくて……。電脳体になったら随分と落ち着きましたけど、今度は別のことまで思い出してしまいました。全てを忘れていたとはいえ、寺坂さんと備前さんを襲ってしまったなんて。他にも、色々と悪いことをしてきました。選りに選って、あの男の手駒となって」

 胸に当てたマニュピレーターを握り締め、道子は背を曲げて俯く。

「そっか」

 寺坂は顔を上げると同時に憂いを振り払い、道子の大きな肩を叩いた。

「ま、気にするな。俺は気にしない」

「ですけど、私はアマラの能力に酔って沢山の人を……」

「それはそれ、これはこれだ。とりあえず、上がろうぜ」

 そう言って、寺坂は道子を本堂に手招いた。

「ちょ、ちょっと!」

 つばめが慌てて引き留めようとすると、寺坂は面倒臭そうに振り返った。

「んだよ。久し振りにみっちゃんと会ったんだから、ちったぁ話し込ませろって」

「寺坂さんと設楽道子ってどういう関係なの!」

 混乱してきたつばめが寺坂の法衣を引っ張ると、寺坂は引っ張り返す。

「どうってそりゃ、えーと」

 なんて言えばいいのかな、と寺坂が禿頭を押さえると、道子は少し笑って答えた。

「被保護者と保護者でいいんじゃないですか? 別に男女関係だったわけではありませんし」

「ま、そういうことだ」

 だから、一体何がどういうことなんだ。つばめは再度寺坂を詰問しようとするも、寺坂は道子が戻ってきてくれたのが余程嬉しいのか、軽い足取りで本堂に入っていった。その場に取り残されたつばめが立ち尽くしていると、美月が背後に近付いてきて、正面玄関を潜り抜けていく寺坂とレイガンドーの後ろ姿を見上げた。

「でも、道子さんは悪い人じゃないよ。前に会った時とは随分と印象は違うけどね」

「そうかなぁ……」

 美月のニュートラルな思考は、つばめには今一つ理解しがたい。頭ごなしに他人を否定し、害悪だと決め付けるのは良くないことではあるのだが、だからといって信用しすぎるのもどうかと思わないでもない。

「そうそう、誰だって本当は悪くないの。誰だって自分が一番正しいから。でも、悪意がない犯罪ほど手に負えないものはないんだよねぇ」

 ほら行こ行こ、と一乗寺が急かしてきたので、つばめと美月も本堂に促された。コジロウもまたそれに続く。畳の上をレイガンドーのようなロボットが歩き回っていいものか、と悩みかけたが、そんなことは自宅でもいくらでもしているので今更悩むようなことでもなんでもないと思い直した。

 本堂に至ると、御本尊の前に道子が正座していた。寺坂は仏具の前に敷いてある座布団に胡座を掻いている。一乗寺はレイガンドーを間近で見るのが面白いのか、その傍に座り、好奇心を剥き出しにして凝視している。美月が所在なさそうに目線を彷徨わせたので、つばめは本堂と隣り合っている部屋の押し入れを開けて座布団を出してやった。ついでに自分の分も出して敷いてから、動こうともしない男達に文句を言った。

「お客さんが来たのにお茶も出そうとしないのか」

「いいよ、そんなに気を遣ってもらわなくても。急に来ちゃったわけだし」

 美月は遠慮したが、つばめはそれを制した。

「いや、私の気が済まないから!」

「そんなにやりたいんだったら、つばめが勝手にやってくれ」

 寺坂に手で示され、つばめはむっとしたが台所に向かった。

「だったら勝手にやらせてもらいますよ!」

 これだから男って奴は、とつばめは内心で愚痴りながらも、渡り廊下を通って住居に向かった。浄法寺は古くから建っている寺に住居用の民家を併設した作りになっていて、その中間に中庭があり、寺の背後には手入れの行き届いていない墓地がある。ちなみに、寺坂のスポーツカーとバイクの群れが収まっているガレージは民家側にある。ずらりと並んだスポーツカーを窓越しに見、つばめは苛立ちが再燃してきたが、美月を持て成してやる方が先だと思って台所に入った。ゴミは溜まっていないが、至るところが散らかっている。

「栄養失調で死なないのが不思議だ」

 つばめは思わず嘆いた。台所の隅には箱買いしてあるインスタント食品が山積みになっていて、一乗寺の荒んだ食生活と大差がないようだった。炊飯器はあり、ガスコンロは多少汚れているので、普通の料理もしているようではあるのだが、大部分はカップラーメンやらレトルト食品で済ませているのだろう。田舎の住職なんてそんなに忙しくもないだろうに、そういう食品の方が金が掛かるだろうに、ゴミはちゃんと分別しているのだろうか、とつばめは次第に細かいことが気になってきたが、上げたら切りがないので考えないことにした。

 冷蔵庫を開けてみると、そこには多少なりとも食材が入っていた。だが、野菜は申し訳程度しかなく、それ以外はキロ単位はありそうな肉のブロックばかりだった。ついでに冷凍庫を開けてみると更に肉塊がごろごろ入っていた。牛、豚、鶏が網羅されている。見ているだけで胸焼けがしてきたが、寺坂はこれを一人で食べているのだろうか。

「まあ、あの人も厳密に言えば人間じゃないしなぁ」

 だから、食べるモノが変わっていてもなんら不思議はない。自分なりに納得してから、つばめは水を入れたヤカンを火に掛けて湯を沸かしながら、人数分の湯飲みと急須を探し出して洗い流し、うっすらと埃を被っていた盆をさっと水洗いして布巾で綺麗に拭き、食器棚の引き出しから未開封の緑茶を見つけたのでそれを開封し、急須に入れておいた。湯が沸くまでにはまだ少し間があるので、その間に御茶請けになりそうなものを見繕うことにした。こちらは探すまでもなく、そこら中に転がっている。けれど、袋のままで出すのはあまりにも品がないので、菓子鉢を引っ張り出し、その中に個包装のクッキーやチョコレートやサラダ煎餅を入れた。

 湯が沸いたので保温ポットに入れてから、つばめはお茶道具一式を載せた盆を右手に持ち、左手にポットをぶら下げて台所から出ようとした。すると、廊下でコジロウが待機していた。

「わ」

 不意打ちにつばめが驚くと、コジロウはつばめの左手から保温ポットを取った。

「こちらの方が重量がある。よって、本官が輸送する」

「あ、うん。ありがとう」

「礼には及ばない」

 コジロウが歩き出したので、つばめもそれに続く。

「ねえ、コジロウ。道子……さんって、信用出来るのかな。だってあの人、今までは敵だったじゃない」

「つばめはアソウギに同化した人間を元の姿に戻し、社会復帰させたいと願っている。それには、設楽道子の所属するハルノネットが所有している遺産、アマラの能力が不可欠だ。よって、設楽道子は利用すべきだ」

「うん、それはそうなんだけどさ」

 手狭な渡り廊下を進みながら、つばめは湯飲み同士ががちゃがちゃと鳴る盆を抱え直した。

「ミッキーの言うことも解るよ。誰も彼も敵だと思っていたら、味方になってくれる人もいなくなっちゃうだろうし。でも、今までが今までだったから、不安にもなるよ。桑原れんげのことだってそうだよ。あれって、自分が気付かないうちに頭の中に入り込んできて、その……概念っていうか、観念っていうかをいじくっちゃうんでしょ? そんなのを相手に何をどうしろって言うのさ。そもそも、アマラはどうしてそんなことをしようとしているの? 自分の存在を他人に認めてもらいたいから? 遺産なのに自我が芽生えたから? それとも、もっと他の理由で?」

「本官は桑原れんげの分析に不可欠な情報が不足している。よって、つばめの疑問に答えられない」

「だよねぇ」

 それこそ桑原れんげ本体に聞いてみなければ解るわけがない。つばめは歯痒さを覚えつつ、本堂に戻ってきた。美月は知らない大人ばかりの場所に取り残されたのが心細かったのか、つばめとコジロウが戻ってくると安堵した。寺坂は考え事でもしていたのか、横顔はいつになく真剣だった。一乗寺はといえば、相変わらずだった。

 今時珍しいエアー式の保温ポットから急須に湯を注ぎ、人数分の湯飲みを並べて、つばめは気付いた。無意識に道子の分も計算に入れてしまったのか、五つも持ってきてしまった。だが、運んできたからには出してやらなければ無礼だと判断し、つばめは道子の分も緑茶を入れてから出した。

「コースターとかないの?」

 下が畳では湯飲みが不安定だ。つばめが寺坂に尋ねると、寺坂は渋い顔をした。

「そんな洒落たもん、あるわけねぇだろ」

「ああ、それなら」

 と、道子が腰を上げかけたが、ふと我に返って座り直した。

「ごめんなさい。差し出がましいことを」

 レイガンドーのマスクフェイスがつばめに向いたが、憂いを含んだ仕草で顎を引いていた。

「いいよ。で、どこにあるの?」

 つばめが聞き返すと、道子は人差し指を上げて指し示した。

「湯飲みの受け皿なら、食器棚の下段の戸棚に新聞紙に包んで片付けてあります」

「本当にみっちゃんなんだなぁ。台所の大掃除をしたのは俺じゃないからなぁ」

 緑茶を傾けながら寺坂がしみじみと呟くと、道子は少し笑った。

「ええ。出来れば、もっとちゃんとした格好でお会いしたかったですね。レイガンドーさんの機体は大きすぎるから、少し目線が高すぎて」

「んで、みっちゃんはこれから何をどうしたいわけ?」

 クッキーを貪り食いながら一乗寺が問うと、道子は躊躇いつつも答えた。

「アマラは物理的に破壊出来ませんけど、桑原れんげを削除することは出来るかもしれません。量子アルゴリズムを使用したインサーションソートによってハルノネットのユーザーはほぼ全てが桑原れんげに侵食されたと言っても過言ではありませんが、まだ完璧ではありません。レイガンドーさんの機体に入ってから、彼のマイクロプロセッサを利用して分析をしてみましたが、容量不足で分析しきれませんでした。完璧ではないと判断しましたが、どこが完璧ではないのか、まではまだ把握していなかったので。並列処理出来るほどのプロセッサを搭載したロボットかパソコンがあれば別なんでしょうけど」

「コジロウは貸さないからね!?」

 つばめがすかさずコジロウの前に立ちはだかると、道子は残念がった。

「そうですよね。コジロウ君ほどの情報処理能力があれば可能かと思ったんですけど」

「相変わらずケチだなぁ、お前って奴は」

 寺坂に毒突かれるも、つばめは負けなかった。

「今の今まで敵だった相手に貸せるわけないでしょ! 自分のを貸せばいいでしょ!」

「まあ、それはそれとして、みっちゃんが思うに桑原れんげの隙ってどこよ? 多少の見当は付いてんでしょ?」

 チョコレートを次から次へと消費しながら、一乗寺が問うた。道子は少し考えた後、答えた。

「あれは他人の主観に頼って自我を確立しているから、自分というものがないんです。だから、インサーションソートを使用して人間の脳内に滑り込み、その人間の願望を引き出して都合の良いことを言い聞かせては、人間が桑原れんげに対して好意的な感情を抱くようにしているんです。よって、桑原れんげの外見もインサーションソートを受けた人間の主観に基づいたものなので、特定の外見はないんです。いえ、ゼロというわけではないんですけど、固定化されていない、というべきかもしれません」

「じゃ、誰も彼もが桑原れんげを嫌うように情報操作でもしたら?」

 つばめの提案に、道子は首を横に振る。

「いえ、それでも結果は同じです。感情のベクトルが違うだけで、桑原れんげを認識し、主観に上書きし、概念と化すことには変わりありません。一番良いのはなかったことにしてしまうことなんですが、この社会ですから、誰かが所有する電子機器や記憶に残っていたら、桑原れんげは何度でも蘇ります。データを全て削除したとしても、桑原れんげというキャラクターがいた、と誰かが思い出すだけでダメです。あれは人間ではありませんからね」

「……何が何だか」

 半笑いになった美月に、つばめはその肩を叩いた。

「大丈夫、私も何が何だかさっぱりだから」

「じゃ、こうすればいいじゃない?」

 サラダ煎餅を咀嚼して飲み下してから、一乗寺がにんまりした。

「桑原れんげの情報の上に、桑原れんげを連想しただけで激萎えしちゃうような情報を上書きするの」

「ドンペリを見たらシャンパンタワーをやらかした挙げ句に酔い潰れて路地裏に捨てられていたことを思い出させるようなもんか。うん、あれはちょっとな……」

 余程ひどい目に遭ったのか、寺坂が嘆くと、つばめは先程の仕返しの意味も込めて追い打ちを掛けた。

「自業自得でしょうが。この不況な時代に時代錯誤なことをやらかすからだ」

「あー、ないわけじゃ、ないかも。随分前に本社の作業場に遊びに行った時、モンキーレンチを持ち上げようとしたら手が滑って足の上に落ちてきて。安全靴なんか履いていなかったから、骨は折れなかったけど爪は割れちゃって、それからしばらくは作業場に近付くのも怖かったっけ。今でもモンキーレンチを持つのは怖いし」

 思い出すだけで痛みも蘇るのか、美月は右足のつま先をさすった。

「うん、まるっきりないわけじゃない。小学生の頃だったかなぁ。お姉ちゃんからお下がりのバッグをもらって、それを持ってお姉ちゃんと一緒に出かけるのを凄く楽しみにしていたんだけど、一人だけで外に出かけてお姉さん気分を味わってみたかったから、外に出てみたんだ。で、しばらくは楽しかったんだけど、クラスメイトに見つかって何かを言われたら面倒だし嫌だからって知らない道をどんどん進んでいったら、当然ながら迷子になっちゃって、歩いても歩いても元来た道には戻れなくなって……。ううう」

 あの時の寂しさと切なさまで思い出したつばめが唸ると、一乗寺がつばめの後頭部を撫でてきた。

「よしよし」

「そうですね。それなら、いけるかもしれません。インサーションソートの量子アルゴリズムを分析して改変したものをアマラを通じて人間の深層意識にインストールさせれば、きっと」

 道子が顔を上げると、寺坂はにっと笑いかけた。

「やりたいようにやってみやがれ」

「はい!」

 威勢良く返事をした道子の声色は、ロボットの合成音声らしからぬ生気に充ち満ちていた。寺坂は満足げに頷き返してから、無意識に右手の包帯を緩めて触手を伸ばし、菓子鉢からチョコレートをごっそりと抜き取ろうとした。が、美月が文字通り飛び上がって驚いたので、寺坂は慌てて触手を引っ込めるが、美月は恐怖のあまりに気が遠くなったのか仰け反っていった。それを道子が受け止めてやり、ついでに倒れかけた勢いで捲れ上がったスカートも直してやってから、座布団を枕にさせて仏間の隅に寝かせてやった。

 つばめは美月の初々しいリアクションに、女の子らしくて可愛いなぁ、と場違いな感想を抱いた。最初に見た時はつばめもそれなりに驚きはしたが、寺坂の触手にすっかり慣れてしまって、今となっては恐怖も嫌悪感も感じない。それ自体は悪いことではないのだが、このままでは人殺しにも慣れてしまうのかもしれない、と思うと、背筋が冷え込んだ。気持ちを落ち着けようと、緑茶に口を付けた。

 中途半端に冷めていた。



 道子が組み立てた作戦はこうである。

 まず、ハルノネット本社に乗り込む。武蔵野に銃撃されて生身の脳を破壊された後、道子の脳内に埋まっていたアマラは桑原れんげに奪われたと見て間違いない。ハルノネット本社にはアマラの情報処理能力をこちらの宇宙で生かすためには不可欠なスーパーコンピューターが設置されており、それと連動したサーバーを通じてハルノネットのユーザーの脳に働きかけるとみていい。社長就任会見によって世間に認知されはしたが、桑原れんげの存在はまだまだ朧だ。それに肉付けし、骨子を組み立て、血を通わせるためには、桑原れんげに心酔するような人間達が現れる必要があるからだ。だが、そこまで強く働きかけるには、携帯電話やインターネットなどの情報媒体だけでは効力が弱いので、直接接してインサーションソートを送り込まなければならない。よって、ハルノネットに対して元から好意的な人間達が一堂に会する一大イベント、株主総会に桑原れんげが登場する可能性が極めて高い。

 不特定多数の脳に強く働きかけるのは、同じプログラムと似たり寄ったりの電子回路で組み上げられている携帯電話やパソコンに侵入するのとは訳が違う。皆が皆、一人一人違う人生を送り、異なる価値観を持ち、それぞれの視点で物事を見ているから、神経伝達細胞の繋がり方からして違えば生体電流の流れ方も違うので、その人間に合うように量子アルゴリズムを調節していかなければならない。もちろん処理すべき情報も増えるので、異次元宇宙にて量子並列計算を用いて処理した情報をハルノネット本社のスーパーコンピューターへと転送し、人間の意識に作用するように変換して微調整した後に刷り込む。つまり、情報を処理するためのプロセスが増えてしまうので、その分、桑原れんげ本体の動作も重くなる。といっても、実時間では0.1秒よりも短い時間だろうが、そのラグを狙って桑原れんげを形成しているプログラムの中に侵入出来れば、僅かだが勝ち目はある、ということだ。

 しかし、その作業を行うためには、有線で侵入する必要がある。無線ではかつての道子がしていたように呆気なく電波を絡め取られてハッキングし返されてしまうだろうし、ルーターを経由するので情報処理速度が遅くなり、すぐにこちらの居所を感付かれて倍返しをされるだろう。だから、桑原れんげとアマラと密接な関係にあるハルノネット本社のスーパーコンピューターに接触しなければならない。

 と、道子から一通り説明を受けたが、つばめにはやはり解らなかった。言いたいことは解らないでもないのだが、要所要所の単語が理解出来ないので、結局は解っていないことになる。それがなんとも悔しかったが、これまでは学校の授業以外ではほとんどIT機器に触れてこなかったので、感覚的に飲み込めないのだ。桑原れんげの一件が片付いたら携帯電話を買ってやろう、とつばめは密かな野望を抱いた。

 設楽道子の過去を含めた事の次第を説明され、桑原れんげを打ち倒すための作戦の説明も終わると、気付けば昼を過ぎていた。寺坂の触手に驚きすぎて気が遠くなった美月は、そのまま一眠りしてしまったらしく、ぼんやりした表情で仏間の隅に座り込んでいた。つばめはぶっ続けで授業を受けたような感覚に陥り、気疲れした。

「頭ん中、ぐっちゃぐちゃ……」

「となるとあれだね、みっちゃんの作戦を遂行するに当たってやらなきゃいけない仕事が増えたね」

 一乗寺は道子のややこしい説明を理解しているらしく、にこにこしている。

「変なことをやらかすんじゃねぇぞ? 後始末で無駄な税金を使っちまうんだから」

 寺坂はタバコを銜えて火を灯し、深く煙を吸った。

「んふふふふ」

 しかし、一乗寺は寺坂の忠告を耳にすら入れていないらしく、上機嫌だった。またろくでもないことをやらかすのは間違いなさそうだが、それを止める意味もなければ理由もない。道子の立てた作戦を成功させるには、桑原れんげとその取り巻きのような位置付けの株主や社員達の注意を惹き付けておく必要がある。だから、一乗寺の仕事が派手であればあるほど作戦成功の確率は高くなるが、嫌な予感しかしない。いや、厳密に言えば予感などという不確かなものではない。確信ですらある。

「あれぇ……」

 寝起きでぼんやりしている美月が、不思議そうに辺りを見回している。ここがどこなのか、すぐには思い出すことが出来なかったのだろう。つばめは頭の中を整理することを諦め、寝起きの美月を案じた。

「ミッキー、具合、大丈夫?」

「あ、うん、どうってことない」

 少し間を置いてから現状を思い出したのか、美月は頷いた。が、寺坂を見た途端、凄い速さで後退った。

「ぎゃあ!」

「ゴキブリを見た時みたいなリアクションしないでくれよ、いい歳こいたおっさんだけど傷付いちゃうぜ」

 寺坂があからさまに嫌がると、一乗寺がけたけたと笑った。

「えぇー、よっちゃんにも人並みに傷付くような繊細な心が存在してたのー? 信じがたーい!」

「寺坂さんの触手は無害だから、そんなに怖がらなくてもいいですよ、美月さん」

 レイガンドーの姿をした道子は立ち上がり、部屋の隅で縮こまっている美月に近付き、優しい声色で宥めた。美月は嫌悪感と不信感で顔を強張らせていたが、ね、と道子が小首を傾げると、美月は恐る恐る寺坂を窺った。

「……本当に? てか、なんでつっぴーは怖くないの?」

「こいつなー、美月ちゃんと違って擦れてんだよ。ガキのくせに斜に構えちゃってさー、子供らしさの欠片もねぇんだ。だから、俺の触手にもほぼノーリアクションだったんだよ。美月ちゃんのリアクションが普通なんだよ」

 寺坂は右手を挙げてつばめを指し示すと、つばめはむくれた。

「次から次へと非常識なことが起こるから、触手如きでビビっている暇もなかったんだもん」

「で、でも、それはつっぴーの事例であって私の事例じゃないですからね! だから、その、出来れば近付かないで下さいね! なんかもうヤバいから!」

 美月はレイガンドーの機体を盾にしながら声を上げたので、寺坂は右手を振った。

「へいへい。まあ、もう五年分は成長していたら、追いかけ回してぎゃあぎゃあ言わせたかもしれないけどな」

「美野里さんに言い付けますよ?」

 道子の忠告に、寺坂は拗ねた。

「ああ、存分に言ってくれよ。怒られるだけでも、みのりんが俺を構ってくれるんならそれで充分なんだよ」

 なんで知ってんだよ、俺とみのりんのこと、と寺坂が道子に聞き返すと、誰だって解ります、と道子は肩を竦めた。

「あ、そうだ。お姉ちゃんに連絡しておかないと」

 つばめは浄法寺の電話を借りようと腰を上げると、境内の外から聞き慣れた走行音がした。排気音のない低騒音型電気自動車特有の、アスファルトをタイヤで踏み締めるだけの気配だった。つばめは仏間のふすまを開けて廊下を走り、境内から正面玄関に向かうと、今し方連絡しようと思っていた美野里が正門を通ってきていた。

「お姉ちゃーん!」

 外に出たつばめが駆け寄ると、スーツ姿の美野里も駆け寄ってきて抱き付いてきた。

「きゃーつばめちゃーん! お出迎えしてくれるなんて、お姉ちゃん嬉しいっ!」

「なんで家じゃなくて、真っ直ぐお寺に来たの?

 お寺に来るよっていうメモも残していなかったはずなんだけど」

 しがみつく美野里を剥がした後、つばめが疑問をぶつけると、美野里はきょとんとした。

「なんで、って。つばめちゃんがこっちにいるってこと、教えてもらったんだけど」

「それって、桑原れんげ?」

「んー……誰だったかしらねぇ。でも、教えてもらったのは本当よ。でね、これがハルノネットの電子株券で、こっちが株主総会の入場票で、これが日程表」

 曖昧な返事をしてから、美野里は重たげな書類カバンからデジタルパッドを取り出し、立体映像を展開した。

「ああ、うん、ありがとう」

 つばめはデジタルパッドを受け取りつつ、微妙な気持ちになった。美野里に連絡しようと思っていたのは、これらの情報とデータを持ってきてもらうためだったのだが、桑原れんげに先手を打たれていたらしい。ということは、こちらの考えも筒抜けだと思ってもいいだろう。だが、だからといって、負けるとは限らない。挑みもしないで敗北を決め込んでしまうのは性に合わないし、他人の妄想で出来上がった疑似人格に思考を支配されてなるものか。

「で、株主総会は」

 つばめは株主総会の日程表を見、日付を見て慌てた。

「明日ぁ!?」

「そりゃそうよ、株主総会は大体が六月末に開催されるんだから。一昔前は一律で六月二十九日だったけど、最近じゃばらつきが出てきたのよね。だから、ハルノネットの株主総会は少し早めの六月二十一日なの」

 五月期決算だからね、との美野里の言葉を最後まで聞かずに、つばめは本堂に駆け戻った。玄関でスニーカーを脱ぎ捨ててデジタルパッドを落とさないように抱えながら仏間に入り、株主総会の日程を説明すると、コジロウ以外は焦った。それはそうだろう、作戦を展開するためには下準備は欠かせないのだから。美月は事の次第が把握しきれていないはずなのだが、皆に釣られてしまったらしく、戸惑っていた。

「どうしようよっちゃん、圧倒的に武器が足りない!

 支給された弾薬、この前の大暴れで使い切っちゃった!」

「知るかそんなもん! それよりさっさと移動しないと妨害工作の雨霰だ!」

 法衣の裾に縋り付いてきた一乗寺を振り払ってから、寺坂は大股に歩き出した。

「高速で飛ばせば四時間弱で東京には着くが、問題はその後だ。ハルノネットなんかを敵に回しちまったんだ、道中にサイボーグやら人間やらがごろごろ転がってくるぞ。そいつらを轢かずに行けるわけがねぇ。かといって、リニア新幹線なんか使えば架線故障でも仕組まれて閉じ込められて、それで終わりだ」

「俺に良い考えがあるぅ!」

 畳に這い蹲っていた一乗寺が威勢良く挙手したので、寺坂は振り返り様に怒鳴った。

「んだよ、その不吉な語彙は!」

「オスプレイとチヌーク、どっちがいい?」

 一乗寺は頬杖を付くと、したり顔で寺坂を見上げてきた。

「そうか、空路があったか。だったら、ミサゴだ。で、何時間あれば引っ張ってこられる」

 平静を取り戻した寺坂が聞き返すと、一乗寺は起き上がって両腕を掲げた。

「一時間もあれば持ってこられるよーん! 米軍から買い上げたやつが五十キロ圏内で演習しているから、そいつをこっちに向かわせちゃう! あれだったらよっちゃんの車も輸送出来るし、コジロウだって楽々だよ! で、ついでに適当なサイボーグボディでも持ってきてもらおう。レイガンドーの格好じゃ、みっちゃんも動きづらいだろうし」

 まるでオモチャの貸し借りのようである。だが、一乗寺は至って本気らしく、携帯電話で連絡を取り始めた。美月は半信半疑だったが、それから小一時間後、どこからか大型ヘリコプターの爆音が聞こえてきた。着陸出来るような場所があっただろうか、と、辺り一帯に暴風を撒き散らすティルトローターのヘリコプターを見上げながら、つばめは一抹の不安に駆られた。梅雨の晴れ間の空から下りてきたオスプレイは器用に大きな機体を微調整し、浄法寺の手前にあるロータリーに着陸した。大方、寺坂が車の出し入れを楽にするために拡張しておいたのだろうが、こんなところで役に立つとは寺坂自身も思ってもみなかっただろう。

 唖然呆然としている美月を横目に、作業はあれよあれよと進んでいった。本当に演習中だったのだろう、機体からは戦闘服に身を固めた自衛官達がどやどやと下りてきて、隊長と思しき自衛官が一乗寺に指示を乞うた。一乗寺は弾薬と銃器と共にオスプレイを要求すると、彼らは驚くほど簡単に快諾してくれた。そればかりか、寺坂の鮮烈な真紅のフェラーリ・458を載せる手伝いもしてくれただけでなく、どこからかやってきた警察車両が未使用の女性型サイボーグボディを運んできてくれた。至れり尽くせりである。

「ねえつっぴー、いつもこんなことが起きているの?」

 大人達の邪魔にならないように、美月は本堂の縁側に腰掛けてカップラーメンを啜っていた。昼食を見繕っているような余裕と材料がなかったから、寺坂の買い置きを拝借したのである。つばめは美月の隣に並び、チリトマト味のカップヌードルを啜った。

「いつもってわけじゃないけど、まあ、大体は」

「面白いねぇ」

「誰にも言わないでよ。でないと、先生がとっちめに来るから」

「大丈夫だって、言わないよ。言ったって、誰も信じないし」

 言うような相手もいないし、と小声で付け加えた後、美月は塩豚骨味のスープが染みた太麺を啜った。

「事が落ち着いたら、私がおうちまで送っていってあげるわ。寺坂さんからトラックのキーを借りたから、レイガンドーも一緒に連れて帰れるから安心してね、美月ちゃん」

 細麺の醤油ラーメンを食べていた美野里が笑いかけると、美月は頷いた。

「ありがとうございます」

「というわけだから、頑張ろうね。コジロウ」

 麺を食べ終えたカップを置き、つばめは庭先に立っているコジロウに声を掛けた。コジロウは振り返る。

「了解した」

 これからが大変だ。まず東京に移動しなければならないし、その後もドタバタするだろうから、気合いを入れなければ踏ん張れない。フジワラ製薬とやり合った時は巻き込まれていただけだったが、今回はこちらから攻勢に出るのだから、生半可な覚悟では乗り切れないだろう。そのための腹拵えがカップラーメンなんかでいいのか、と思わないでもなかったが、手元にあったのがこれだけだったのだから仕方ない。

 残ったスープも飲み干したせいで喉が渇いたので緑茶を淹れ直しながら、つばめはふと思った。そういえば、吉岡りんねはハルノネットの株主なのだろうか。あの性格だから、部下の会社の株券をいくらか買い付けていてもなんら不思議はない。それどころか、株の相場の変動を見逃さずに売り買いしてマネーゲームを行っているかもしれない。桑原れんげに促されるままに設楽道子を処分したが、その脳内に埋まっていた遺産を手に入れたのが桑原れんげ本人であるとすれば、あの吉岡りんねが手を打たないわけがない。だとすれば、また厄介なことになる。

 湯が切れて、エアー式の保温ポットが情けない音を立てた。



 一方、住人が一人欠けた別荘では。

 着々と身支度を済ませていく主を見つつ、武蔵野は腑に落ちなかった。人間一人が入れそうなほど大きなトランクの中に折り畳んだ衣類を詰め込み、化粧品や日用品も詰め込んでいき、理路整然と並べていた。りんねは作業の邪魔にならないようにと、長い黒髪をポニーテールにしていて、動き回るたびに艶やかな黒が跳ねていた。彼女の指示を受けて細々とした準備をこなしているのは、矮躯の男、高守信和だった。少し前であれば、その仕事はメイドである道子が行っていたのだろうが、当の道子は武蔵野が昨夜撃ち殺してしまったのだ。

「なあ、お嬢」

 愛銃を分解して整備を行いながら、武蔵野が声を掛けると、クリーニング済みの制服をトランクに入れたりんねは目を上げた。銀縁のメガネの奥の眼差しは、いつも以上に鋭かった。

「御用がなければ話し掛けないで頂けますか、巌雄さん」

「なんで高守を連れて行くんだ? 俺で良いだろう」

 武蔵野は若干の不満を込め、齧歯類のような機敏な動作で動き回る矮躯の男を示すと、りんねは答えた。

「今回のハルノネットの株主総会に信和さんを同行させるのは、明確な理由があります。第一に、道子さんが私の配下でなくなったことによって、私の日常生活の補助と護衛という業務を担当する者がいなくなりました。巌雄さんは戦闘が専門ですので、別荘の管理維持には向いておりませんし、伊織さんも鏡一さんも別荘に戻ってくる気配すらありませんので当てには出来ませんし、岩龍さんは論外です。第二に、ローテーションです」

「ローテーション、って、ああ」

 ちくわロシアンルーレットだ。武蔵野は今朝の朝食を思い起こすと、納得した。近頃は騒動続きで本来の業務から懸け離れていたため、りんねが決めたちくわロシアンルーレットの存在も忘れかけていたが、今朝の朝食の中にはちくわが入っていた。高守が茶碗に盛った白飯に埋まっていたのである。

「だが、お嬢が直接行くことはないんじゃないのか。桑原れんげは俺達の味方でもないが、敵でもない」

 武蔵野は銃身の煤を取りながら意見すると、りんねは肩に掛かったポニーテールを払った。

「いえ、あれは異物です。味方であるわけがありません」

「そりゃまあ、たかが人工知能に利用されてやり込められたのはムカつくだろうが、そう意地になるな」

「意地になってなどおりません。ですが、あれに強烈な不快感を覚えているのは事実です」

「それが意地だってんだ」

 りんねの態度に少しだけ可愛気を感じ、武蔵野は口角を綻ばせた。

「本来、道具とは自我を持つべきではないのです。ですが、あれは道具としての本分を弁えないどころか、その機能を応用して自我を確立させ、道具の範疇から逃れようとしています。私は、それが許し難いのです。増して、あれは遺産の能力を行使しております。その自我が増長し、自立してしまえば取り返しが付かなくなります」

 りんねは以前通っていた中高一貫の私立校の洒落た制服を畳み直し、ビニールカバーをそっと撫でた。

「人に抗えるほどの自我を得た刃物が真っ先に出る行動は、それを操る手の主を切り裂くことでしょう。彼らは日々身を削って調理を行っておりますが、その犠牲が報いられることはありません。道具ですから、主に従って働くのが当然だからです。ですが、使役されることに苦痛を感じ、磨り減るのが嫌だと思ってしまえば、彼らは自由を求めてその刃を人に向けるようになります。あれは、桑原れんげは、その段階に片足を掛けた状態なのです」

「正義感か? らしくねぇな、お嬢」

「何を青臭いことを仰りますか。私の行動理念には正義は存在しません」

「じゃあ、なんで行く。意地でも正義でもないとしたら、お嬢を動かしているものはなんだ」

「労働意欲です」

 では失礼いたします、とりんねは一礼してからトランクを閉じ、縦に起こしてから、ローラーで玄関先まで引き摺っていった。りんね専用のベンツは既に運転手が手配してあるらしく、銀色の車体はガレージから出てきてロータリーに進んできていた。少し遅れて二階から下りてきた高守は、自分の荷物と思しきくたびれたショルダーバッグを肩から下げていて、片手にはりんねの物と思しき上品なハンドバッグを持っていた。窓の外から、留守番をさせられることに不満を漏らす岩龍を宥めるりんねの声が聞こえたが、程なくして収まった。相変わらず子供っぽいロボットだ。

 寂しい寂しいと嘆く岩龍をあしらいながら、武蔵野は拳銃を組み立てていった。チェンバーをスライドさせて動作を確認してから、広々としたリビングを見渡し、ほんの僅かながら空虚感に駆られた。道子の人工眼球から生身の脳を撃ち抜いた手応えを思い出すと、自虐的な笑みが苦味と共に喉の奥から込み上がってくる。

 女を殺すのは苦手だ。



 都内某所。

 気付けば、事は大事になっていた。オスプレイで都内に輸送されると、今度は車に乗せられてどこぞのホテルへと連れ込まれ、やたらと間取りが広い部屋を割り当てられた。政府要人を移送する際に使うような重装備のハイヤーに乗せられ、寺坂は自前のフェラーリの助手席に一乗寺を乗せて後続してきた。おかげで無駄に目立ってしまい、道中、政府関係者が殺気立っていたのは気のせいではないだろう。

 嵌め殺しの大きな窓から下界を見下ろして、つばめはちょっと臆した。このホテルは超高層なので、周囲のビル群からは頭一つ二つ抜きん出て高い。よって、当然のことながら人も車も建物も小さく見えるのだが、見慣れない景色なので背筋の辺りがぞわりとする。高度で言えばオスプレイの方が余程高かったのだが、飛行中は窓の外はあまり見られなかったし、状況に付いていくだけで精一杯だったので景色を楽しむ余裕なんて皆無だった。だから、ホテルに到着して一休みして乗り物酔いも収まり、ようやく周囲を眺めることが出来るようになった。

「一泊でいくらぐらいするのかな、この部屋」

 つばめが何の気無しに漏らすと、女性型サイボーグのボディに意識を移し替えた道子が教えてくれた。

「エグゼクティブスイートなので、ざっと二〇万といったところでしょうか」

「それを税金で落とすわけ?

 うっわー、無駄だー、超絶に無駄だ。私だったら、そのお金で一ヶ月分の生活費でも見繕っちゃうけどな。株主総会までのボディガードだったら、コジロウがいるわけだしさぁ」

 こっちはロハだもん、とつばめがリビングの出入り口を守っている警官ロボットを示すと、道子は笑う。

「そうですね。ですけど、政府が絡んできたとなると、あちら側にも体面というものがありますし、一乗寺さんの作戦にも準備が必要ですから、あちら側の態勢が整うまでは私達の身の安全を確保しておかなければならないんですよ。この手のホテルはそういった警備にも長けていますし、従業員の身元も洗い出しているでしょうから、安心して休んでいいですよ。高いお金を払って借りた部屋なんですから、使い切ってしまえばいいんです」

「つばめと設楽女史に危害が及ぶ可能性があれば、本官が応戦する」

 ドアを背にしているコジロウが平坦に述べたので、つばめは座り心地が抜群のソファーに腰掛けた。

「そりゃそうだけどさぁ」

「何か懸念でもありますか、つばめちゃん?」

 誰かに似ているようで誰にも似ていない顔と日本人女性の平均的な体系で出来上がっている道子は、表情のクセが全く付いていない顔の人工外皮を動かして、少し不安げな面差しを作ってみせた。つばめはソファーの上で胡座を掻いて後頭部で手を組み、煌びやかなシャンデリアが下がっている天井を仰ぎ見た。

「懸念っていうか、道子さんはどうして桑原れんげを倒したいの?

 説明されたことを全部理解出来たわけじゃないけど桑原れんげは道子さんが作ったキャラクターのスペックを元にして出来上がったモノであって、道子さんの人生の断片を喰い千切って成長していったモノなんでしょ? だから、分身そのものじゃない。なのに、消すの?」

「分身だからこそ、消すんですよ。あれを成長させたのは私自身ではないけど、生み出したのは私ですから、責任を取らなければならないんです。記憶を一切合切消去していたとはいえ、ハルノネットから命令されるがままにアマラの能力を悪用して犯罪を重ねていたことも、そうです。私は肉体的には完全に死亡しましたから、現行の法律では私を裁くことは出来なくなってしまいました。被疑者死亡で告訴されるでしょうが、それだけです。私は罪の意識こそあれども、罰を受けることは適わないんです。だから、私は出来ることをやり抜こうと思っているんです」

 道子は政府関係者が支給してくれたリクルートスーツに袖を通し、寸法を確かめた。ぴったりだった。

「本来は私一人ですべきことなのですが、つばめちゃんや皆さんを巻き込んでしまって申し訳ありません。今にして思えば、寺坂さんの元に赴くべきではなかったのかもしれません」

「いいよ、こういうことには慣れてきたから。それに、私もアマラに用事があるし。だけど、そのアマラを回収するためには、桑原れんげをどうにかしなきゃならない。桑原れんげをどうにかするためには、サイバーパンクな世界にいる妄想の固まりと直接対決出来る人材が必要。だから、道子さんが必要。ってことだから」

 複雑な感情は残っていたが、今は私情を抜きにするべきだ、と判断した末の結論だ。

「そうですか。それで、アマラを何に使うんですか?」

 道子は真新しいパンプスを箱から取り出すと、ストッキングを履いたつま先を差し込んだ。

「フジワラ製薬に誑かされて怪人にされた挙げ句、アソウギに溶かされちゃった人達を元に戻すためにはアマラの情報処理能力が必要だってコジロウが言うから。そのままにしておくのは、色々とアレかなぁって思って。そりゃまあ、フジワラ製薬の人達からアソウギを怪人達ごと寄越された時には戸惑ったけどさ」

「つばめちゃんは正義感が強いんですね」

「まっさかぁ」

 道子の思い掛けない評価に、つばめは失笑する。

「そりゃ、ちったぁそういう気持ちもないわけじゃないよ。可哀想だって思うし。だけど、本命はそれじゃない。怪人にされていた人達を元に戻して恩を売っておけば、何かの役に立つかなぁって考えたから」

「あらまあ」

「道子さんって、そういうの嫌い?」

「いいえ。御嬢様を相手にするだけでも御苦労をなさっているのに遺産まで相手にしなければならないんですから、つばめちゃんはそれぐらい強かでないと乗り切れません。だから、そのままで結構です」

「で、モノは相談なんだけどさ」

「はい、なんでしょう?」

 ドレッサーと向かい合ってセミロングの髪をまとめていた道子は、一旦振り返った。

「アマラと桑原れんげのことが片付いたら、道子さんはどうするの? また吉岡りんねのメイドさんに戻るの?」

 つばめは手を伸ばし、リビングテーブルに用意されたウェルカムチョコレートを一つ取る。

「私は御嬢様から処分された身の上ですので、不可能です。かといって、美作彰が勤務しているハルノネットで今後も業務を行えるとも思えませんし、あの男の傍にいたくありません。ですから、事を終えたら、私は潔くこの世界から消えるつもりでいます。電脳体の寿命は解りませんが、広大なネットワークを泳いでいれば時間なんて忘れることが出来るでしょうし、寂しくありませんから」

「じゃ、雇われてくれる? あのヘビ男の時は失敗しちゃったけど、今度は大丈夫そうだし」

「はい?」

 きょとんとした道子に、つばめはチョコレートを食べつつ畳み掛ける。

「私は管理者権限を持っているけど、だからって何から何までコントロール出来るわけじゃないってこと、これまでの事で身に染みているから。だから、アマラを使ってアソウギに溶けた人達を元に戻せるような技術を持った人材が不可欠ってわけ。で、その仕事が出来そうなのは、道子さん以外にはいない。お姉ちゃんと寺坂さんを襲ったことはチャラにはしないけど、これ以上はゴチャゴチャ言わないよ。もちろん、給料も出すし、私んちで良ければ住まわせてあげるし、休みの日にはサイボーグボディで遊びに行ってもいいし」

「え? いいんですか、街に遊びに行っても!」

 唐突に道子が食い付いてきたので、つばめは若干気圧されながらも頷いた。

「う、うん。電脳体って言っても、道子さんは若い女の人だから、色々と遊びたいだろうし」

「後で契約書を作って下さいね。俄然、やる気が出てきました!」

 道子は両手で拳を固め、意気込んだ。どこにツボがあるか解らないものだなぁ、とつばめは意外に思いながらも、話し合いがすんなりと終わったことに安堵していた。これで、アマラとアソウギを持て余さずに済む。上手くすれば、アソウギを収めているタイスウも活用出来るようになるかもしれない。

 機嫌が良くなった道子がサイボーグの人工外皮用のメイク道具を広げ始めた頃、ドアがノックされた。つばめが腰を上げかけると、コジロウがそれを制してドアに向かった。コジロウが電子ロックを解除するや否や、廊下側から全力で蹴り開けられて二人の男が飛び込んできた。

「いっえーい!」

 絵に描いたようなテロリストの格好をした一乗寺が、黒いスーツ姿の寺坂を引き摺っていた。

「変な具合に掴むんじゃねぇ、シワになっちまうだろうが!」

「どう、似合う? 似合うよね、似合わないわけがないよね、似合わないって言ったらぶっ飛ばすぞーう!」

 一乗寺はお気に入りの服を着た少女のように飛び跳ねながら、迷彩柄の上下とニット帽と鼻から下を隠すためのバンダナを見せつけてきた。ホルスターには愛銃のハードボーラーが下がり、背中には自動小銃を担ぎ、ベストには手榴弾が下がり、中東帰りといっても差し支えがない。対する寺坂は、サングラスと黒いスーツが相まって凄腕のシークレットサービスのような印象を受ける。その右手は相変わらず包帯に戒められている。

「はいはい、お似合いでーす」

 つばめがぞんざいに返すと、一乗寺は満面の笑みを浮かべた。

「てなわけだから、明日はよろしくね。俺、頑張っちゃうから! なんだったら、二三人殺したっていいよ?」

「余計なことをやらかすんじゃねぇ、後始末でまた無駄な税金を使っちまうだろうが」

 寺坂は一乗寺の後頭部を左手で押さえ込むと、一乗寺は幼い表情で頬を張った。

「スーツのよっちゃんってなんか変ー。可愛くなーい」

「てなわけだから、明日はよろしくな。俺達はやれるだけのことをやる、だからつばめもやれるだけのことをやれ」

 寺坂は右手でつばめの頭を押さえたので、包帯越しの触手の感触に戸惑いながらも、つばめは目を上げた。

「解っているって。にしても、寺坂さんの触手って結構ぶよぶよしてんだね。縛るの大変でしょ」

「そうでもねぇよ。全部筋繊維みてぇなもんだから、力さえ入れりゃどうにでもなる」

 じゃあまた後でな、と寺坂はつばめと遊ぼうとする一乗寺の襟首を掴んで、廊下に放り投げてから自分も廊下に出てドアを閉めた。つばめがなんとなく手を振ると、コジロウはつばめの動作を真似て手を振った。こんなことで無事に事が済むのだろうか、そんなわけがあるものか、だがその時はその時だ。諦観を交えながらも腹を据えたつばめは、自分の服を広げることにした。株主総会の場に着ていくのは、学生の身分で最もフォーマルな服装である制服だと決まり切っているが、それは明日の話だ。まだ十時間ほど時間があるのだから、それまでは自由だ。ホテルの中であれば歩き回ってもいいだろうし、滅多に来ない場所なのだから目一杯楽しんでおかなければ損だ。

 宿泊料金分の元を取らなければ。



 翌日。株主総会当日。

 ハルノネット本社に寺坂のフェラーリ・458で乗り付けたつばめは、助手席から下りた途端、他の来場者の注目を一心に浴びた。猛烈な羞恥心に駆られているつばめを横目に、運転席から下りてきた寺坂は悦に入っているのか、意味もなくサングラスの位置を直している。つばめ達に少し遅れて駐車場に滑り込んできたコジロウはフェラーリの横でブレーキを掛けて制止すると、両足を変形させてタイヤを引っ込め、蒸気を噴出して廃熱を行った。コジロウと寺坂に左右を固めてもらってから、つばめはトランクを軽くノックした。すると、内側からノックが返ってきた。

「大丈夫だって」

 つばめがトランクの中に収まっている道子に代わって答えると、寺坂はほっとした。

「そりゃ良かった。2シーターでさえなければ、ちゃんと乗せてやれたんだが」

「で、コジロウ、タイミングは解っている?」

 寺坂がイグニッションキーでトランクのロックを開けたのを確認してから、つばめはコジロウに念を押した。

「理解している」

「あの馬鹿がパーティーを始めたら、すぐに来いよ。手間取ると後に響くからな」

 じゃあな、と寺坂はコジロウの肩を叩いてから、つばめを促してきた。つばめは後ろ髪を引かれつつも、駐車場を後にした。ハルノネットの駐車場には、今回の株主総会に赴いた株主達の自家用車がずらりと並んでいた。寺坂のようなフェラーリとまではいかなくとも、それなりに値の張る車が多く、資本主義の力強さを思い知る。株主達の服装はスーツであったり着の身着のままであったりと様々ではあったが、圧倒的に中高年の男性が多いので、中学校の制服姿のつばめは果てしなく浮いていた。場に馴染んでいないどころか、一体誰がこんな子供を連れてきたんだ、と言わんばかりに凝視された。が、SP紛いの格好の寺坂が愛想良く笑い返すと、男達は慌てて目を逸らした。

「なんだかんだで面白がってない?」

 つばめが寺坂を見上げると、寺坂は口角を上向ける。

「そりゃあな。何事も楽しんだもん勝ちよ」

「悲観的になるよりはマシかもね」

 程度にもよるけど、と付け加えてからつばめは先を急いだ。ハルノネットの本社に入ると、株主総会会場、順路、との矢印が書かれた貼り紙がそこかしこに掲示されていた。それを辿って進んでいくと、本社一階を通り抜け、別館である講堂に到着した。受付の女性型サイボーグに電子株券と入場票を提示し、未成年なので付き添いを連れてきました、と言い張って寺坂も中に連れ込んだ。寺坂は作り物らしい整いすぎた美貌を持つ受付嬢に興味津々ではあったが、本懐を忘れられたら困るので、力任せに引き摺っていった。

 ハルノネットの講堂は立派なものだった。緩やかなカーブを描いてステージに面している観覧席は全部で一千人弱を収容出来るばかりか、音響設備も整っているのでコンサートも開催出来そうだ。資料として渡された会社役員を紹介する小冊子を広げると、真面目な顔をした重役達の顔写真とプロフィールは隅に追いやられていて、新社長に就任した桑原れんげがアイドルグラビアのようなポーズで笑顔を振りまいていた。その顔は、つばめの記憶の中にかすかに残っている桑原れんげのものよりも遙かに派手で、美少女と呼ぶべき容貌に変化していた。そして、服装が呆れるほど煌びやかだった。

 金髪ツインテールにサファイアのような青い瞳、背中からは純白の翼が生え、胸の大きさと腰の細さを強調するコルセットにバレリーナを思わせるチュチュスカート、腰には針金が入っているであろう巨大すぎるリボン、太股にはレースたっぷりのガーターベルト、両足はピンヒールのショートブーツ、両腕はシルクのような艶を持った長手袋に包まれていた。更に言えば、少女漫画のようなキラキラしたエフェクトも加えてある。

「どう、これ?」

 つばめは隣の席に腰掛けた寺坂に桑原れんげのグラビアを見せると、寺坂はげんなりした。

「これは媚びすぎだろう……。今時、こりゃねぇよ。ウィンクしながら小首を傾げて腰を半端に捻って右腕で胸を強調しながらも投げキスなんて、くどくて胃もたれがする。しかもこれ、衣装があの神聖天使のじゃねぇか。うげぇ」

「へえ、これがねぇ」

 つばめはその衣装をまじまじと眺めてみたが、可愛いと思うよりも先にデザインが重たいと思った。元々魔法少女アニメに登場する魔法少女の最終パワーアップ形態なので、ごてごてしているのが当然ではあるのだが、いっそのこと装飾を削ぎ落とした方がいいのでは。特に不要なのが、この腰のリボンだ。戦闘中に敵に掴まれたら、一巻の終わりではないか。更に言えば、このツインテールもひどい。ツインテールだけならまだしも、その結び目には宝石と思しきハート型の飾りがあり、前髪からは触角のように二本の髪が跳ね、両サイドの髪もやたらと長くて胸の谷間に届いている。中身がアレだと知っていると、一層萎えて仕方ない。

 渋面を作ったつばめは小冊子を閉じてカバンにねじ込み、講堂のステージ前を見下ろした。そこで、見覚えのある人影に気付いた。同じように小冊子を広げて眺めている後ろ姿は、吉岡りんねに間違いなかった。しっとりと濡れたような艶を帯びた長い黒髪に御嬢様学校の制服、銀縁のメガネ。通り掛かる男達は、りんねの前を意味もなく何度も行き来しては好色な目を向けていた。一人きりってことはないよね、と思ったつばめは身を乗り出し、りんねの周囲を窺うと、りんねの隣の席には矮躯の男がすっぽりと収まっていた。吉岡一味の一人、高守信和だ。

 なんて珍しい。それがつばめの率直な感想だった。こういった場では、りんねの護衛役に付くのはサイボーグであり女性である道子なのだろうが、当の道子は今やつばめ側に付いたも同然だ。だったら武蔵野が適任ではないのだろうか、とは思ったが、高守を護衛役にすると判断したのはりんね本人だ。きっと思惑があるのだろう。それに、相手は敵対しているのだ。気に掛けておく義理はない。そう結論付け、つばめは座り直した。

 司会役のハルノネット社員から席に着くようにとのアナウンスの後、講堂のドアが閉められた。道子の言っていた通り、警備員である武装サイボーグが三箇所の出入り口を固めている。彼らは軍用サイボーグ顔負けの重装備で、全員が脇のホルスターに銃を携帯している。といっても、実弾ではなくゴム弾だろうが。

 ステージの左脇からは、会社役員達がぞろぞろと登場してきた。彼らはステージに一列に並べられている椅子に腰掛けて、神妙な顔をして株主達を見回してきた。つばめはちょっと居心地が悪くなり、身を縮めた。だが、寺坂は殊勝な気持ちはないらしく、前の座席に誰も座っていないのをいいことに、足を組んで背もたれに乗せた。

 行儀が悪いとつばめが寺坂の足を引っぱたこうとした時、講堂の照明が落ちた。途端に株主達はざわめいたが、会社役員達は無反応だった。すると、ステージ中央にスポットライトが落ち、眩い光の輪の中に少女が現れた。

「はあーいっ、皆、元気ぃー!」

 神聖天使の格好をした桑原れんげだった。アイドルコンサートの出だしのようなセリフの後、手にしていたマイクを観覧席に向けるも、返事は返ってこなかった。当然である。

「もお、皆、ノリが悪いぞー!」

 スポットライトの中で飛び跳ねた桑原れんげは、ポーズを決めた。

「この私、桑原れんげちゃんがハルノネットの新社長であり、人間をもっともーっと素晴らしい高みに導く存在なの! 好きって言ってよ、言ってくれたらその分だけあなたのことも好きって言ってあげるから!」

 だが、反応はない。皆、呆気に取られているからだ。

「誰だって、自分のことを他の人に知ってほしい、認めてほしい、褒めてほしい、解ってほしいって思っていることを、れんげは知っているんだから。でね、れんげはね、皆の気持ちが解るんだ。ふふ、それはなぜかって? それはね、れんげが神聖天使だから! この世を愛で満たすために全宇宙の希望と夢を得てパワーアップした、魔法少女の中の魔法少女だから! だからね、人間同士が解り合えるように出来るだけじゃなくて、幸せな気持ちにも出来るんだよ。だって、皆の心の中にはれんげがいるんだから」

 ねっ、と愛らしい笑顔を浮かべたれんげが小首を傾げると、つばめと寺坂とりんねと高守以外の株主達が一斉に立ち上がった。そして、中年の野太い歓声が講堂を揺らがした。きゃあーんありがとぉー、とれんげは媚びた仕草で株主達に手を振り返している。一瞬のうちに彼らの思考を掌握したらしい。れんげの能力につばめが僅かに臆すると、れんげの視線がつばめに定まった。媚びた笑顔が消え去り、氷の刃の如く冷えた眼差しが上がる。

「でもぉー、れんげのこと、嫌いな子もいるみたい。れんげ、悲しいっ」

 れんげが口元に両手を添えて体をくねらせると、株主達がつばめを凝視してきた。すかさず寺坂が立つ。

「生憎、俺もお前みてぇなメスガキには興味ねぇよ。株主総会だったら、会社経営について話せよ」

「だぁーからっ、今、お話ししているんじゃない。れんげはね、ハルノネットの電波をちょっぴり強くして、皆をとってもとってもとおっても幸せにする会社にしようって思っているんだぁ。皆は現実を生きていくのが辛いって言っているし、疲れ果てている皆を見ているとれんげは悲しくなっちゃうの。だからね、皆を幸せにしてあげて、生きていくのが辛くないようにしてあげるの。どう、素敵でしょ? 夢みたいでしょ?」

「うん、夢だね。悪夢以外の何物でもない、変な妄想だよ」

 つばめも立ち上がり、れんげを見下ろす。れんげはマイクを胸元で持ち、上目遣いにつばめを見つめる。

「ひどい……。れんげは、皆のためを思って一生懸命考えたんだよ? それなのに」

 潤んだ瞳から、透き通った涙が音もなく零れ落ちる。だが、ステージに滴っても水音はしなかった。株主達の視線に突き刺すような敵意が加わり、つばめは身を引きかけたが意地で踏ん張った。気合い負けしている場合ではないからだ。寺坂は右手の包帯を緩めるために左手の指を掛け、つばめを背にしている。と、その時。

 ガラスが破られた破壊音、受付嬢達の絹を引き裂くような悲鳴、警備員の武装サイボーグ達が壁に激突したであろう鈍い金属音、そしてスポーツカー特有の鋭いエグゾースト。それは真っ直ぐ講堂に接近し、そして。

「いっええええーいっ!」

 講堂の正面出入り口のドアを吹き飛ばして突っ込んできたのは、寺坂の愛車であるフェラーリ・458であり、その運転席にはテロリストの格好をした一乗寺が乗っていた。真紅の車体は見るも無惨な傷が付き、ボンネットは激突した武装サイボーグの形にへこみ、滑らかな塗装はそこかしこが剥げ、フロントガラスにはクモの巣状のひび割れが出来ていた。寺坂は呆然としていたが、我に返り、喚き散らした。

「てめぇっ、よくも俺の可愛いフー子ちゃんを! エンジン直結させやがったなぁああ!?」

「何それ」

 フェラーリに付ける名前にしては地味だ。つばめが呆れるが、寺坂はエキサイトする。

「いいから下りてこい、俺と戦え、今日という今日は絶対に許さねぇからなぁっ!」

 今にも包帯を解きそうな寺坂を横目に、一乗寺は悠長な足取りでフェラーリ・458から離れると、おもむろに発砲した。弾丸は天井に命中し、スプリンクラーを損傷させたのか、一筋の水が降り注いできた。

「いいから黙ってくれる? 月並みな文句でなんだけど、この会場は俺が占拠したー! でもって、今、この瞬間から社員全員が人質だぁーい! ちょっとでも逆らってみろ、脳みそがバーンだ!」

 これこそ、一乗寺が思い付いた作戦だ。テロリストがハルノネットの株主総会会場に襲撃して騒動を巻き起こし、桑原れんげの注意と支配力を逸らさせた上でフェラーリ・458のトランクに仕込んでおいた、妨害電波発生装置を作動させる、というものだ。どこぞの中学生の妄想にありそうな展開であり、単純すぎやしないかとつばめは懸念を示したが、こういうのは解りやすい方が良いんだと一乗寺は笑うだけだった。だが、怒り狂っている寺坂の様子から察するに、フェラーリ・458が株主総会会場に突っ込んでくるのはアドリブだったらしい。つくづく不良教師だ。

 余程楽しいのか、一乗寺はハイテンションだった。銃声を聞いたことで桑原れんげの支配が緩んだのか、株主達は動揺し始めた。れんげはまた株主達に語り掛けようとするも、一乗寺は再度発砲してその言葉を遮った。一乗寺は硬直した男達を見て満足げに頷いてから、観覧席の階段を下りていき、ステージ前の座席にいる吉岡りんねの元に到着した。りんねはすぐにテロリストの正体が一乗寺だと悟ったのか、身動ぎもせずに一礼した。

「これはこれは御丁寧に」

 一乗寺はりんねに頭を下げ返したが、直後、りんねを左腕で拘束して銃口を突き付けた。

「さあ見ろお前ら、これがリアル美少女だ! その名も吉岡りんね、かの有名な吉岡グループの御令嬢にして管理職であり、超絶美少女だ! 色白黒髪だぞ、もちろん処女だぞ、CGなんかで出来た妄想アイドルとは訳が違う!」

 それは脅し文句になるのか。それ以前に凄まじいセクハラだ。つばめは、初めてりんねに同情した。

「どうせ慰めてもらうなら、自分の妄想の延長なんかよりも、生身の女の方がずっとマシだろ?」

 一乗寺はまだ熱を帯びている拳銃を差し込み、りんねの制服の裾を持ち上げ始めた。ジャケットの下のブラウスが覗き、更にブラウスがずり上がっていくと細い腰が垣間見え、つばめは気まずくなって目を逸らしかけた。けれど、当のりんねは抵抗すらせずに一乗寺に拘束されていて、高守も上司を助ける気配もない。このまま放っておいたら一乗寺は何をしでかすか解らない、かといってりんねを助けては今後の戦いに響くのでは、とつばめが悩んでいると、寺坂はつばめを小突いてりんねに向き直らせた。

 りんねはつばめを見上げて、声を出さずに口だけを動かした。早く行きなさい。だとよ、と寺坂に強調され、つばめは観覧席に棒立ちになっている男達を押し退けて階段を駆け上がっていった。寺坂も後に続く。フェラーリ・458が破壊した出入り口とは別の出入り口から廊下に出ると、生き残っていた武装サイボーグがつばめを取り押さえようと飛び掛かってきた。が、白い機体が駆け抜け、鈍色の武装サイボーグは廊下の奥へと吹き飛ばされた。

「コジロウ!」

 つばめが歓声を上げると、コジロウは頷いてみせた。フェラーリ・458のトランクが中から開き、リクルートスーツ姿の道子が現れた。彼女はトランクの片隅からランドセルよりも一回りは大きい箱、大型の外付けハードディスクを取り出すと、それを背負って頸椎のジャックにケーブルを接続した。通常のサイボーグボディではアマラのプログラムを解析出来るほどの演算能力がないため、増強するために持ってきたのだ。コジロウは物凄く残念そうな寺坂を一瞥した後、フェラーリ・458のテールバンパーが歪むほど強く蹴り付け、講堂に叩き込んだ。途端に凄まじい悲鳴と怒号が上がり、開いているドアからは人々が我先にと逃げ出してきた。本社の正面玄関を目指して走っていく男達を見送った後、道子は皆に向き直った。

「行きましょう、皆さん。メインコンピュータールームは地下二階から四階にあります」

「みっちゃん、トランクの中に仕込んだ装置は作動させたか?」

「ええ、もちろん。あの程度の衝撃では破損しないでしょうし、バッテリーも三時間は持つはずですから、桑原れんげの動きを封じられないにしても、多少は足止め出来るはずです。もっとも、あれに足はありませんけどね」

 寺坂に返しつつ、道子はフェラーリ・458が空けた大穴を一瞥した後、駆け出した。

「じゃ、私達もおう!?」

 つばめはコジロウに指示を出そうとすると、言い終える前にコジロウに横抱きにされた。サイボーグの強靱な脚力を発揮して駆けていく道子の後をコジロウが追い掛けていくと、こら待てよ、と取り残された寺坂が追い縋ってきた。革靴で走っては間に合わないと踏んだのだろう、右腕の触手を全て解放して天井や床に叩き付けて体を飛ばしながら追ってきた。ああいう使い方も出来るのか、とつばめはちょっとだけ感心した。

 地下室に通じる階段は、もうすぐだ。



 ハルノネット本社の地下室は、異世界だった。

 それを見た途端、つばめはやる気が失せかけた。金を掛けるところを根本的に間違えている。地下一階は至って真っ当な作りだったのだが、スーパーコンピューターを収めている地下二階以降はダンジョンに変わっていた。内壁には赤茶けたレンガを貼り付けてあり、床は石畳で、LEDが炎の代わりに点灯するロウソクが立てられている燭台が等間隔に壁に作り付けられていて、剣と魔法の世界そのものだった。おかげで全体的に薄暗く、足場も良くないので転びかけたのは一度や二度ではなかった。

 先頭を行くのは道子、その次につばめ、寺坂、コジロウの順番で狭いレンガ造りの地下道を歩いていると、実際にゲームの中に入り込んだかのような錯覚に陥りかける。その感覚自体が桑原れんげが仕掛けた罠である可能性が高いので、つばめはとことん冷めていることに決めた。日頃からゲームで遊び呆けている寺坂は楽しいらしく、地下道の完成度の高さに歓声すら上げていたので、つばめはその都度冷淡に言い捨てた。

「モンスターなんて出てこないからね?

 てか、そもそも寺坂さんがそっち側だからね?」

「馬っ鹿、俺はリアル僧侶だから回復魔法全般が扱えるんだよ。この中で一番役に立つジョブなんだよ」

 寺坂は子供っぽい文句でつばめに言い返してから、道子の背に声を掛けた。

「で」

「で、って、ああ、そうですね。ダンジョンの入り口から六十三歩進んできましたから、この辺りに……」

 先頭を歩いていた道子が立ち止まったので、つばめも足を止めた。

「何かあるの?」

「ええ。ちょっと面倒なものが」

 道子は右側の壁のレンガに触れ、ボタンを押す要領で叩いた。数秒後、電子音が響いた。

「これで第一のトラップは解除されました。次はアイテムが必要なんですが、それを取りに行くためには三十七歩先の地点にある隠し扉を開けて鍵を手に入れて、その鍵を使って地下牢獄にある宝箱を開けて……」

「まどろっこしーい。いつもそうやって地下室に入っていたの?」

「ええ、まあ。セキュリティの都合もありましたし」

「よくもまあ、誰からも文句が出なかったもんだなぁ。そもそも、こんな作りに設計させたのはどこの誰? 社長?」

 つばめが不満を漏らすと、寺坂は触手で壁を軽く叩いた。乾いた音がした。

「美作彰だけじゃなく、社長やら重役も桑原れんげに思考を乗っ取られていたんだろうさ。そうでないと、色々と説明が付かないことが多すぎる。だが、今はそいつを調べ上げている時間はないし、俺達の仕事じゃない」

「そりゃそうだよね。でも、このダンジョンに付き合う義理はないよ。ねえ、コジロウ」

 つばめはコジロウを手招くと、コジロウはつばめの背後にやってきた。

「所用か、つばめ」

「地下室の構造は把握出来る?」

「設楽女史から譲渡されたハルノネット本社の見取り図を記憶している」

「じゃ、ビルが壊れないように壁をぶっ壊してよ。狭いし、暗いし、段取り悪いし、嫌になっちゃうから」

「了解した」

 すぐさまコジロウが拳を固めて振りかぶると、道子が慌てた。

「壁の中には配線があるんですよ、それが切れてしまうとコンピュータールームの電圧が落ちてしまいます!」

「だってさ。配線を切らないように壊せばいいんじゃない?

 出来るよね、コジロウ」

 つばめが命令を訂正すると、コジロウはセンサーで壁を走査し、構え直した。

「可能だ」

 そう言い終えた直後、警官ロボットは銀色の拳でレンガの壁を破壊した。気分台無し、と寺坂がぼやいていたが、つばめは無視した。敵に辿り着くまでにいちいち手順を踏まなければならないなんて、時間の無駄だ。ゲームの中ではそれが楽しみの一つなのだろうが、生憎、これは現実だ。そして、戦う相手は妄想を糧に生まれた電脳世界の疑似人格なのだから、手っ取り早く済ませるに限る。これまでの経緯が面倒臭かったのだから、尚更だ。

 コジロウは壁に開けた大穴を通り抜けて隣の通路に入ると、周囲を見回して走査した後、頷いた。つばめは隣の通路に入り、寺坂と道子を急かした。二人は釈然としていない様子ではあったが、効率がいいに越したことはないと解っているので文句は言わなかった。

 壁を壊し、機械仕掛けのモンスターを文字通り一蹴して破壊し、ややこしいトラップを破壊し、破壊し、破壊し尽くしていった結果、三人と一体は地下ダンジョン内を直線移動していた。途中で足を止めて振り返ってみると、コジロウが壁を破壊し始めた地点までが真っ直ぐに見通せた。つばめが命令した通りに配線には掠り傷すらも付けていないらしく、壁の内部から垂れ下がったケーブルからはヒューズは飛んでいなかった。さすがコジロウ、とつばめは彼の背を見上げて感嘆し、惚れ直した。元々惚れているのだから、乗算したようなものではあるが。

 ものの十数分で、つばめ達は地下四階に到着した。どの階も階段がバラバラな場所に設置されているので、律儀に地下ダンジョンを通っていったとなれば小一時間では済まなかっただろうが、ゲームではないのでいくらでも融通が利く。地下三階は配線と配管が複雑に入り組んでいたので、コジロウが壁を破壊するペースが少しばかり落ちたものの、大した問題ではなかった。やたらと古めかしい装飾が施された地下四階に通じる階段を下り、地下四階に通じるドアの前にやってきたつばめは、牙を剥いた怪物が大口を開けているドアを仰ぎ見た。

「ねえ道子さん、これってカードキーとかで開けるの?」

 つばめが道子に問うと、道子はドアの右脇に設置されているカードリーダーとテンキーを示した。

「ええ、そうです。でも、きっと桑原れんげがパスワードを変えているだろうから……」

「じゃ、コジロウ、これもお願いね」

「了解した。破壊する」

 コジロウは石造りに見えるように塗装されたドアの前に立つと、腰を捻り、右腕を振りかぶった。回転を加えて勢いを乗せた拳がドアを抉ると、外れ、内側に倒れた。地下四階の内部からは、ぞっとするほど冷え込んだ空気が流れ出してきた。機械の唸りも聞こえてきて、青白い光がそこかしこに灯っている。道子は真っ先に中に入り、ドアの左右の壁を探ってスイッチを押した。途端に蛍光灯が発光し、大型の筐体が部屋全体を埋め尽くしている様が露わになった。これがハルノネットが所有するスーパーコンピューターであるとみて間違いなさそうだ。

「ここ、なんでこんなに寒いの?」

 冷房の強さに耐えかねたつばめが二の腕をさすると、道子が説明してくれた。

「コンピューターは稼働中に大量の熱を発しますから、冷まさないと熱暴走を起こしてしまうんです。だから、こうして冷却しておかなければならないんですよ。でないと、フリーズしてしまったりしますから」

 詳しい説明はまた後日に、と言いつつ、道子は背中に担いできた大型の外付けハードディスクドライブを下ろして頸椎からケーブルを外し、筐体に接続させた。

「私とこの外付けHDDの情報処理能力では量子アルゴリズムを全て変換することは出来ませんが、インサーションソートを構成しているプログラムを書き換えて、作用を反転させることは出来ましたから、改変プログラムをこれからスーパーコンピューターにインストールしていきます。アマラの所在を割り出すための作業も平行して行えればいいんでしょうけど、そこまでやるとこのボディが熱暴走してしまいますから……」

「桑原れんげは俺達の工作活動を妨害してくる様子がねぇなぁ。意外だな」

 天井を仰ぎ見た寺坂が不思議がると、つばめは独りでに動き出した防火扉を指し示した。

「いや、そうでもないみたい」

 破壊されたドアの代わりに防火扉が閉まり、施錠された。そればかりか、更にはシェルターと見紛うばかりの隔壁が下りて完全に封鎖された。隙間さえなくなり、あの仰々しいダンジョンも遠のいた。寺坂は少しばかり呆気に取られていたが、動揺もせずに笑い出した。肝の据わった男である。だが、つばめは危機感に駆られた。

「今、この中にガスとか水を流し込まれたらアウトじゃない?」

「その前に作業を完了すればいいだけのことだ。万一の場合は、本官が対処する」

 コジロウの力強い言葉に、つばめは不安が紛れて口角を上向けた。

「うん、だよね」

「んじゃ、アマラを探すとするかねぇ。どうせこの辺にあるだろ」

 寺坂が見通しの悪い室内を見渡すと、コジロウも周囲を走査した。

「前方十七メートルの地点にサイボーグを発見、及び確認。アマラの反応も確認」

「何体いる?」

「一体だ」

「それぐらいだったら、俺一人でどうにでもならぁな。さくっと手に入れてくる」

 みっちゃんを頼むぜ、と言い残し、寺坂は筐体の間を駆け抜けていった。道子は作業に集中しているのか、寺坂を見送ることすらせずに押し黙っている。つばめは少々心配になったが、寺坂も常人ではない。触手を使えば大抵のことは凌げるだろうし、相手が美月のような真っ当な歓声の持ち主であれば、戦う前に触手に臆して逃げ出してくれるはずだからだ。黒いスーツ姿の背中がドミノのように並んでいる筐体の影に隠れてから程なくして、その背中が突如として吹き飛ばされた。天井に激突した寺坂は蛍光灯を数本割ってから筐体の上に落ちた。

「だ、大丈夫!?」

 つばめが駆け寄ろうとすると、寺坂は左手でつばめを制してきた。

「大丈夫だ、どうってことねぇ」

 冷房の風に混じり、つんとした血臭が流れてきた。黒いスーツの布地が破れてワイシャツには血が滲み、右腕の根本に巻き付けていた包帯も千切れたのか、細切れの布が袖口から滑り落ちてきていた。筐体と天井の間にある狭い空間に中腰で立った寺坂は、サングラスを外して胸ポケットに差し込んだ。吊り上がった目元は研ぎ澄まされた刃の如く、鋭い光を帯びている。口角を弓形に持ち上げた寺坂は、一点を見据えた。

「俺にやらせてくれ」

 その語気には、有無を言わせぬ迫力が宿っていた。つばめはコジロウに振り返るも、命令出来ず、その場からも動けなかった。一乗寺と連んでいる時の幼馴染みの少年のような態度からも、美野里の気を惹こうと躍起になった時の表情からも、スポーツカーを乗り回して悦に浸っている様子からも懸け離れていたからだ。声も表情も荒らげずに余裕を保っている様が、一層寺坂の怒りの強さを感じさせる。つばめは浅く息を飲んだ。

「よくぞここまで辿り着いた、などという陳腐な賞賛を贈ることすら疎ましい」

 筐体の影から、一人の男が立ち上がる。夜の闇を切り取ったかのような暗黒のマントに濁った銀色の甲冑、邪竜を模した兜を身に付け、腰には西洋剣を携えていた。長身の男の外見は恐ろしく整っていて、目鼻立ちも肌の色も日本人離れしている。だが、それは不思議でもなんでもない。なぜなら、男自身が等身大のフィギュアのようなものであるからだ。この男こそが道子の人生を歪めて命を蹂躙したヴォーズトゥフであり、美作彰その人だった。

 つばめは道子を隠すために後退し、コジロウも道子を守る姿勢を取った。寺坂は現代日本には似付かわしくない格好をした男を睨み付けていたが、触手を解放してうねらせた。

「ああ、そうかい。俺もお前みたいなキモオタな童貞野郎には褒めてほしくねぇな」

「穢れた魔物め! 貴様さえいなければ、神聖天使は堕天せずにいたものを! リオート・ヴァルナー!」

 美作は剣を抜き、振り上げてきた。が、寺坂はその場から動きもせずに触手を放ち、美作の手首を戒める。

「ダメだダメだ、なっちゃいねぇ。大振りしすぎなんだよ」

「この私に触れるなぁあああああっ!」

 美作は寺坂を蹴り付けて脱そうとするが、寺坂は無遠慮に振り上げられた足を掴んで捻り、床に叩き付けた。

「俺だって大した腕じゃねぇんだぞ? 一乗寺の奴が教えてくれた適当な格闘術しか知らねぇんだよ」

「一度ならず、二度までも……。だが、私はまだ負けたわけではない!」

 美作は長い銀髪を振り乱しながら起き上がるが、寺坂はへらっとした。

「お前ってさ、本当に童貞だよなぁ」

「ええい黙れ! そのような言葉、神をも屈服させた私を惑わせることなど! アルマース・ラヴィーナ!」

 と、言いつつも、美作の整った顔には明らかに動揺が現れていた。でたらめに両手剣を振り回して寺坂に攻撃を仕掛けようとするが、寺坂は軽い足取りでそれらを全て避けていった。作り物の両手剣は壁や筐体に傷を付けては耳障りな金属音を立て、美作の必殺技と思しきセリフを掻き消した。

「いつまでごっこ遊びしてんだよ」

 頭上に振り下ろされた両手剣を絡め取った寺坂は、それをぞんざいに投げ捨てた。

「私は世界の真実を知っている、ただそれだけのこと。下劣な魔物には到底解るまい、高位次元に住まう者の苦悩は宇宙の深淵よりも深いのだ。この世界は紛い物だ、神聖天使が存在する高位次元にこそ現実は存在し、全人類を救済せんがために私と彼女はこの世界に堕とされたのだ。故に、私はその責務を全うすべく、人間に姿を窶して正体を隠し、暗躍してきた。彼女もまた同様だった。だが、彼女は慈愛に満ちているが故に人間への憧憬を抱いてしまった。挙げ句の果てに翼を捨て、猥雑な人間社会に穢されてしまった。だから、私は彼女を!」

 美作は奇妙な笑顔を顔に貼り付け、馬鹿げたことを捲し立てる。つばめは冷房とは異なる寒気を覚えてコジロウに縋り付くと、コジロウはつばめの肩を支えてくれた。

「お前、それ、本気で言っているのか?」

 寺坂は触手を曲げて美作を引き寄せ、額を突き合わせると、美作は短く悲鳴を漏らした。素の声だった。

「ひ」

「中二病も大概にしやがれ!」

 寺坂は触手をしならせて美作を壁に叩き付け、ぐ、と力を込める。仰々しい格好をした男の体に絡み付けた触手が歪み、見た目は派手だが実用性が皆無の鎧が折れ曲がり、落下した。

「そりゃ俺だって、好きな女と面と向かって話すのは気合いがいるさ。風俗の姉ちゃん達は割り切っているから俺も割り切っていられるんだが、心底惚れた女は別だからな。けどな、その女もれっきとした人間であって、当人の人生があるってことを忘れちゃいけねぇんだよ。それが解らねぇから、童貞だっつってんだよ」

 美作の首に巻き付けた触手を捻ると、ごぎ、と鈍い音がしてシャフトが折れた。

「思い通りにならねぇのがいいんじゃねぇか、人生ってのは。増して、それが女であれば!」

 抉れた壁から引き抜いた美作に遠心力を加えた運動エネルギーを与え、奥の壁に再び叩き付ける。

「最高にそそるってもんよ」

 壁の破片が舞い上がり、僅かに辺りが白む。寺坂は挑発するように触手を波打たせるが、頸椎のシャフトを損傷した美作は身動き一つしなかった。寺坂は悠長な足取りで美作に近付くと、うう、ああ、と力なく呻いた男を見下ろしていたが、殺す価値もねぇ、と呟いて止めは刺さなかった。

「男を脱がすのは趣味じゃねぇんだけどな」

 寺坂は美作の衣装の間に触手を滑り込ませると、一息で鎧と服を引き剥がしてしまった。見たくもないものを見るのは嫌だったので、つばめはコジロウの背中に顔を埋めた。衣装を引き裂き、金属に見えるような風合いの塗装が眩しい合板の甲冑を割り、現実では付加価値のない装備品を一つ一つ壊していく寺坂に、美作は唸る。

「やめろ……やめてくれぇ……」

「お前は嫌がるみっちゃんに付き纏うのを止めたか? 止めなかったよな?」

 合成樹脂製の宝石を触手で握り潰し、撒き散らす。

「やっと、やっと、私は理想の自分に有り付いたんだ」

 今にも泣きそうな声を出した美作に、寺坂は辛辣に言い放つ。

「だからって、赤の他人にクッソ下らねぇ妄想を押し付けていいのか? 良くねぇよなぁ?」

「アマラの力は得られたが、選ばれたのは私ではなかった……。だから、アマラが選んだ彼女を手に入れようと」

「選ぶ選ばない、ってなんでそんなに偉そうなんだよ、お前もアマラも。優越感がねぇと息も出来ないのか?」

「だが、彼女は落ちた、本物の神聖天使になれる資格を得ていたのに! 外見の醜悪さなどサイボーグ技術でどうにでもなる、量子宇宙とこの宇宙を反転させられれば彼女は女神たり得たのだ! だが、あの女は屑と会話した、この私を差し置いて貴様のような屑の元に逃げ込んだ、屑のくせに天使を惑わした、屑のくせに屑のくせに屑のくせに屑のくせに屑のくせに!」

 顔を歪ませて口汚く罵倒してきた美作を、寺坂は心底蔑んだ目で見下ろした。

「それが本音か。だからって、みっちゃんを轢き殺して脳みそだけ盗んでいいわけねぇだろ、屑が」

「天使は穢れたんだ! 貴様のせいで! だから天使を転生させて浄化するにはあれしか方法がないと、アマラが私に命じたのだ! アマラは絶対だ、アマラこそ女神だ、そのアマラに選ばれていたからこそ彼女は天使だ!」

 噛み付かんばかりに喚き散らしてくる美作に、寺坂は顔を背ける。

「みっちゃんは良い子だが天使でもなんでもねぇよ。それはお前の脳内にいるダッチワイフだ、理想の女なんてもんは男の頭の中にしかいねぇし、胸がでかいわりに腰が五〇センチ台なんつーふざけたスリーサイズの女はリアルにはいねぇし、ある程度は体重がねぇと骨と皮だしよ。で、お前、知っているか? みっちゃんのスリーサイズ」

「私は神聖天使を守護する使命を帯びたがために天界へと導かれた魔王だ、天使について知らぬことはない!」

「でも、私はあなたのことなんて知りませんでしたよ?」

 不意に、道子が作業を中断して会話に割り込んだ。美作は目を剥き、道子を凝視する。

「……まさか、君は」

「かつてあなたが殺した女であり、過去の自分に再び殺されかけた女です。さぞ楽しかったことでしょうね、私の人生を蹂躙して独り善がりな妄想を押し付けて執着するのは」

 道子は頸椎にケーブルを繋げたまま、美作を見据える。美作は臆し、怯える。

「だ、だけど、君は、れんげはずっと私のことを」

「世間知らずで愚かで打たれ弱かった昔の私が執心していたのは、あなた自身ではなくて、あなたがネットゲームの中に作り出していたキャラクターの方ですよ。もっとも、あなたが私に執着するようになってからは、ヴォーズトゥフに対する気持ちもすぐに冷めましたけどね。それなのに、あなたは一体何を勘違いしていたんでしょうね? 私自身はどこにでもいる平凡な人間なのに、何が天使ですか、馬鹿じゃないですか? 美作さん?」

 道子の語気は平坦で、それが一層濃い怒りを感じさせた。美作は整った顔を歪める。

「馬鹿と言ったのか、君をずっと見てきたこの私を馬鹿と言ったのか? そこの屑に毒されたからなのか!? 君も楽しんでいたじゃないか、アマラの能力を行使して電脳世界を支配していたではないか、それなのになぜ地に堕ちて愚鈍な人間に成り下がろうとするんだ! なぜあのゲームを止めたんだ! あの中にさえいれば、君と私は永遠に神にも等しい存在でいられたんだぞ! なぜ桑原れんげを否定するんだ! あれこそ真実の君じゃないか!」

「美作さん。あなた、今年でいくつになりましたか? 確か……三十七歳でしたよね? あのゲームを始めた時点で、あなたは既に三十四歳だったんですよね? それまでのあなたは何をして生きていたんですか? 恋人の一人でもいましたか? 友達はいますか? 同窓会には出られますか? 実家に帰れますか? ああ帰れませんよね、姿形を変えすぎましたし、お姉さんは小規模ながらも一流の重機会社の社長と結婚しましたしね。 でも、姪御さんはあなたのことなんて知りませんでしたよ? 存在していたということ自体を知りませんでしたよ? それは一体どうしてなんでしょうね? ハルノネットに就職する前は何をしていたんですか? 教えて下さいよ、美作さん」

 道子は美作に据えた目線を揺らがさず、一息に言い切った。美作の動揺は激しくなり、耳が痛くなるほどの絶叫を上げていた。心なしか、道子の横顔に愉悦が滲んでいた。だが、それを非難出来るはずもない。道子が受けてきた苦痛に比べれば、言葉で心を抉られることなど針の一差しにも満たない痛みだ。

「それが真実なんです、美作さん。だから、私はあなたが嫌いなんです。どうして、現実を見ないんです?」

 道子が言い捨てると、美作の絶叫は激しさを増した。寺坂は可笑しげに肩を揺する。

「そりゃそうだよなぁ、だってお前って気持ち悪いもんなぁ。俺の触手の方がまだマシだ」

 そして俺もお前が嫌いだ、と寺坂が付け加えたが、美作にそれを聞き取れるほどの余裕はなくなっていた。作り物の顔からは血の気は引かないはずだが、人工外皮の下の表情を生み出す部品が悲壮感に歪み、唇は泣き出すのを堪えるかのように震え出した。つばめはコジロウの影から美作を窺うが、同情心は全く湧かなかった。そもそも、同情に値するような男ではないからだ。

「れんげぇ、れんげっ、私を肯定してくれぇ! 君だけは私を否定しないでいてくれるよな、私にはもう君しかいないんだ、お願いだからここに来てくれ、私を認めてくれ、褒めてくれ、愛してくれぇえええええっ!」

 癇癪を起こした子供のように喚き散らす美作に背を向けて、寺坂はボロ切れも同然のジャケットを脱ぐと、左手で内ポケットからタバコを取り出して銜えた。寺坂がライターを見つけ出した頃、道子が立ち上がった。

「作業、完了しました」

「で、首尾は?」

 口角の端から紫煙を漏らしながら寺坂が訊ねると、道子は答えた。

「上々です。ですが、一つ問題があります」

「ん、言ってみろ」

 火を灯して煙を深く吸った後、寺坂が問い返すと、道子はぎゃあぎゃあと騒ぐ男を一瞥した。

「ハッキングを行ううちに判明したのですが、アマラはあの男の脳内に……」

 だが、道子の言葉はそれ以上続かなかった。美作は痙攣するように頭を仰け反らせたかと思うと、制御を失った胴体からヒューズが爆ぜて頭部の外装が開いた。と、同時にブレインケースの人工体液も流出していき、無防備な脳が外界に曝け出された。更にブレインケースと頭部を繋げているジョイントとケーブルが独りでに外れ、ケースも全開になり、ぬるりと脳が零れ落ちた。床に叩き付けられた脳はプリンのように崩れ、銀色の針が垣間見えた。

「うげっ」

 つばめは嘔吐しかけたが、根性で飲み下した。アマラに触れて管理者権限を用いて制御下に置かなければ、桑原れんげが野放しになってしまうからだ。心底気持ち悪かったが、嫌がっていてはここまで来た意味がない。腹に力を入れてから深呼吸した後、つばめは大股に歩いて美作彰の残骸に近付いた。寺坂も直接触るのは気が進まないらしく、美作が着ていた衣装の破片を使って脳を掻き分けてアマラを脇に避けてくれた。そうやってくれただけでも充分ありがたかったので、つばめは一層決心を固めた。

 人工体液のなんともいえない生臭さに辟易しながらも、唇を結んで奥歯を噛み締め、つばめはそっと手を伸ばしていった。崩れた脳にまみれた短い針に指を伸ばし、間隔を狭めていく。人差し指の腹を銀色の針に付けようとした、正にその時。つばめの目の前にアイドル紛いの格好をした少女が舞い降りた。桑原れんげだった。

 だが、神聖天使の顔には笑顔は貼り付いていなかった。ブレインケースを解放して己の脳を床に落とした美作の姿を捉えると、サファイアのような瞳からは青い色味が消え失せて茶色に変わった。引き摺りそうなほど長い金髪のツインテールもカツラが剥がれるように消え、凡庸な黒髪のショートカットに変わり、顔付きも地味になり、服装もごてごてした派手な衣装から、どこにでもあるセーラー服に変わった。それを見、私の中学時代の、と道子が呟いた。

「どうして……?」

 桑原れんげは神聖天使ではなくなった自分自身を見下ろし、泣きそうな顔をした。

「私は、皆を幸せにしてあげられるんだよ?

 それなのに、どうして」

 ひぃ、と声を引きつらせ、れんげは仰け反る。道子が仕掛けたプログラムが作動したことで、桑原れんげの概念を知覚している人間達の感情が好意から嫌悪へと反転し、フィードバックし始めたのだ。つばめもまた、桑原れんげを直視しているだけで嫌な記憶が次から次へと蘇った。思い出したくない、目にしたくない、辛い、嫌だ、気持ち悪い、寒気がする、おぞましい、などと、鉄格子が精神に絡み付いたかのように負の感情が噴出する。道子も寺坂もまた例外ではないらしく、桑原れんげから目を背けている。れんげは頭を抱え、首を横に振り、呻いた。

 電脳の少女の動揺に応じたかのように、明かりが瞬いた。



 スクラップと化したフェラーリ・458のボンネットに、一乗寺は腰掛けた。

 鼻から下を覆っている迷彩柄のバンダナを外すと息苦しさが解消されて、清々しくなった。講堂を見渡してみると、株主達は一人残らず逃げ出してしまったので人影はなく、壊れた座席の破片や投げ捨てられた資料が散らばっていた。正面出入り口から寺坂の愛車が叩き込まれたので、雪崩でも起こしたかのように座席が薙ぎ払われている。これも政府の金で保証しなきゃならないのかなぁ、と思いつつ、一乗寺はステージに上がった少女を見やった。

「で、これからどうするの、りんねちゃん?」

「馴れ馴れしく話し掛けないで頂けますか」

 司会役の社員と重役達も早々に逃げ出したために椅子ばかりが散らばるステージに立ったりんねは、一乗寺の拳銃によって乱された制服を整えてから、ステージの隅で黙々と作業をしている矮躯の男を見やった。

「信和さん、手筈はよろしいですか」

「ぬ」

 肉の厚い背を丸めているので球体に近い形状と化した高守は、短い首を前後させて頷いた。

「ああ、配電盤ね。で、何をどうする気なの? 俺に教えてよぉ」

 ステージによじ登った一乗寺は、拳銃をぶらぶらさせながら近付いていく。だが、りんねは無反応だった。高守も同様で、講堂内の配電盤に小型の端末を接続させてハッキングを行っているようだが、一乗寺には目もくれようともしなかった。その感心のなさに少し苛立ったが、互いの立場を考えればそれが当たり前なのだ。

「道子さんがつばめさんの元に下ってしまわれるのは非常に惜しいことですが、仕方ないのです。肉を切らねば骨を断つことは出来ないからです」

 りんねは蹴り倒された椅子を起こし、悠長に腰掛けた。 

「なるほどね。てぇことはあれだね、分校の玄関先にローファーを置いたのはりんねちゃんでしょ?」

 一乗寺は隣の椅子を起こして座り、りんねを覗き込む。りんねは顔を背ける。

「御明察です。あれは道子さんの御家族から頂いた、道子さんの生前の品です」

「で、つばめちゃんの心に疑念を作ってから桑原れんげのイメージを与えて決定的な概念を作り出したわけだけど、俺まで一枚噛ませられちゃったのは不思議なんだよねぇ? どうして?  ねえどうして?」

「つばめさんは心の底から捻くれているように見えますが、一皮剥けば実直な御方なので、目上の意見は真っ当に受け止められるのです。ですから、一乗寺さんが桑原れんげの存在を肯定して頂ければ桑原れんげは管理者権限の主であるつばめさんの概念を得て、確固たる形を得るのだと確信していたのです。そのために、一乗寺さんには早々にアマラによるインサーションソートを与えたのです」

「ふーん。でも、りんねちゃんは桑原れんげを手に入れたいわけじゃないんだよね? だって、手に入れるつもりでいたら、みっちゃんを殺させたりはしないはずだもん。みっちゃんを殺してアマラと桑原れんげから解放したのって、つばめちゃん側に送り込むためなんでしょ? そうでしょ?」

「ええ。私の持つ管理者権限は使用者権限にも劣るものであると共に、立場上、ハルノネットに対して表立った攻勢には出られませんので、つばめさんにその役割を担ってもらった次第なのです。もっとも、ここまで上手く事が運ぶとは思ってもいませんでしたが」

「つばめちゃんはともかく、よっちゃんを怒らせたからねぇ。あれで結構怖いんだよぅ」

 一乗寺はにやけるが、りんねは無惨な講堂を見渡しているだけだった。

「いかに桑原れんげが優れた疑似人格であり、人間の概念の集積体であろうとも、それを構成しているエネルギー源はただ一つです。それさえ遮断してしまえば、桑原れんげは活動不能に陥ります」

「そう上手くいくもんかなー? 地下室の防火扉を塞いで封鎖した上で配電システムをいじくって、スパコンの電気を断ち切ったとしても、あの場にはコジロウとみっちゃんがいるんだよ? その電気を使われれば、意味なくない?」

「道子さんもコジロウさんも、一筋縄で行く相手ではありませんよ。たかが妄想の固まりにお負けになるほどの実力であるとは思っておりません。信和さん、作業は終わりましたか?」

 りんねが問うと、高守は横顔を向けて小刻みに頷いた。

「む」

「では、引き上げましょう。長居は無用です」

 りんねは立ち上がり様にスカートを整え、ローファーの底を鳴らしながらステージを横切っていった。ぴんと伸びた背筋に切り揃えられた長い黒髪が重なり、規則正しい歩調と共に薄い影が揺れる。破損したフェラーリと崩れ落ちた講堂という退廃を感じさせる背景に馴染まない清冽さではあったが、それ故にりんねの美しさが引き立っていた。ステージ脇の階段を下りていく足音には乱れはなく、目線も表情も呼吸すらも落ち着いている。人間味が遠のくほど完成された美少女の後ろ姿を眺めながら、一乗寺はふと思った。

「ねえ、りんねちゃん」

「何か」

 蝶番が外れかけた右側の出入り口の前で、りんねは立ち止まって振り返った。

「これでつばめちゃんに恩を売ったつもり? でも、つばめちゃんは買ってくれないと思うよ?」

 一乗寺が両手を上向けると、りんねは僅かに目を細めた。

「私も元よりそのつもりで出向きましたので、それで結構ですよ。一乗寺さんも、つばめさんに余計なことをお教えにならないべきかと。些末なことを気にしていられるほど、事は小さくはありませんので」

「だーよねー。じゃ、ばいばーい」

 一乗寺はクラスメイトを見送るような笑顔で手を振るが、りんねは軽く会釈をしただけだった。少女の背が廊下の奥に消えていくと、その後を足早に矮躯の男が追い掛けていった。一乗寺は二人の姿が見えなくなるまでは笑顔で手を振っていたが、どちらの足音も聞こえなくなると、潮が引くように表情を消した。

 これで、ハルノネットの中枢にまで捜査の手が及ぶのは間違いない。サイボーグを普及させるために携帯電話の電波や携帯電話の機能を利用してユーザーを事故に遭わせていたということは判明したが、その事件を裏付けるために必要な通信履歴の類が一切照会出来なかった。かといって、強引に踏み込めば本社ごと証拠を抹消されてしまう危険性もあったばかりか、政府関係者にもハルノネットの利権の恩恵に与っている者も少なくなかったので、思うように捜査出来なかった。だが、つばめとりんねが引っかき回してくれたおかげで突破口を作ることが出来た。

 それもこれも、アマラがハルノネットに渡ったからだ。それさえなければ、ハルノネットはサイボーグ化技術を完成させることもなかっただろうが、通信技術を応用して健常な人間に障害を負わせ、無理矢理サイボーグ化させることもなかったはずだ。遺産が世に出なければ技術の革新はなかっただろうが、遺産は現代人の手には余るものばかりであり、使い方も大いに誤っている。だから、遺産は回収し、封印し、管理しなければならない。

 その力を持つ、少女の手で。



 突如、停電した。

 窓のない地下室は当然ながら真っ暗になり、右も左も解らなくなってしまった。つばめはぎょっとして立ち上がろうとすると、気色悪い感触の物体に押さえ付けられた。恐らく、寺坂の触手だろう。非常灯が付くのではないかと期待して周囲に目を配らせるも、その気配はなく、避難経路を示す誘導灯の光すらない。あれは別電源だから停電しても明かりが付いているものだ、と以前に授業で習ったはずなのだが、人型の絵が付いている緑色の看板はどこにも見当たらない。徐々に不安になってきたつばめは、彼に救いを求めた。

「コジロウ……」

 すると、視界の隅に赤いパトライトが灯った。

つばめが安堵しながら振り返ると、目の前には。

「ぎゃあ!?」

 薄く光を放つ立体映像の少女、桑原れんげがいた。つばめは飛び退き、手近な筐体に縋る。

「ねえ、どうして? どうして? どうして? どうして、あの人は幸せじゃなかったの?」

 桑原れんげの外見は徐々に崩壊し始めていて、至るところからブロック状のポリゴンが零れ落ちていく。

「私は彼が幸せでいるために生まれたんだよ、そのための神聖天使なんだよ、そのための桑原れんげなんだよ? 設楽道子が私を否定しても、排他しても、嫌悪しても、彼だけは私を肯定してくれたんだよ? それなのに、なんで彼は私を拒絶したの? なんで自分でブレインケースを解放して脳を捨てたの? なんで? なんで?」

「あんたがあの人を妄想に浸からせすぎたから、現実に耐えられなかったんだよ。だから、あんたのせいだよ」

「……そう」

 つばめの言葉に、れんげは俯いた。その顔は、テクスチャーのラインだけになっていた。

「私が人間だったら良かったの? そうすれば、あの人は死ななくて済んだの? 設楽道子を殺さずに脳を操作してアバターにして、生きた桑原れんげを作り上げていれば、あの人はずっとずっと幸せでいられたの?」

「んなわけないじゃん」

 物憂げなれんげに、つばめはため息を吐いた。理想の固まりだから、そんな考え方しか出来ないのだろう。

「手前勝手なイメージを押し付けて強要した挙げ句、思い通りにならなかったからって道子さんを殺した男が幸せになる権利なんてあるわけないし、道子さんを洗脳して肉体を持った桑原れんげになったとしても、同じこと。だって、あの美作って人が欲しかったのは桑原れんげでも道子さんでもなくて、自分にとって最高に都合の良い女だよ? そんなもんを満たしたところで、幸せになるわけがないじゃない。相手の理想を一から十まで叶えたとしても、今度は十から百、その次は百から千、更に千から万、万から億、って叶えさせられるだけだよ。それって、幸せ?」

「うん。だって、私、道具だから。私が現実の存在になれば、ヴォーズトゥフは幸せでいてくれるって信じていたから、私は彼の言う通りにしてきたの。設楽道子と存在を入れ替えて、本物の神聖天使になれば、ヴォーズトゥフはきっと私を必要としてくれるんだって判断していたの。でも、そうじゃなかったんだ。私も、設楽道子も、ヴォーズトゥフが現実逃避するための道具だったんだ。そのためだけの概念だったんだ。本物の神聖天使なんて、ヴォーズトゥフは、美作さんは必要としていなかったんだ。天使だって思える概念が欲しかっただけなんだ」

 でも嬉しかったな、必要とされて、と切なげに漏らし、れんげは赤いパトライトの光を放つコジロウを一瞥した。

「だけど、ムリョウはそれで幸せなの? それは、あなたの役割じゃないでしょ?」

 光の粒が解け、弾け、闇に飲まれていき、れんげの輪郭がぼやけていく。コジロウは両耳のアンテナから赤い光を放ち、ゴーグルからも少し強めに発光していたが、彼の発する光は微動だにしなかった。それが、コジロウの答えなのだろうか。つばめはれんげの光を頼りに足元を探り、銀色の針を見つけ出すと、改めてそれを拾った。美作の生温い人工体液に濡れていたアマラはぬるついていたが、つばめは嫌悪感を払拭してアマラを握り締めた。

 それから間もなく、地下室に光が戻った。桑原れんげを排除出来たことで安堵したつばめは崩れ落ちそうになったが、足元には美作の残骸が散らばっていたので、慌てて後退した。

「この後、どうしよう?」

 つばめは手の汚れをハンカチで拭ってから、アマラをハンカチで丁寧に包み、ポケットに入れた。このハンカチは気に入っていたものではあるが、二度と使えないだろう。

「とりあえず、あの防火扉をぶちのめして開けようじゃないか」

 寺坂が触手を上げて防火扉を指し示したのとほぼ同時に、防火扉の外側で銃声が鳴り響いた。分厚い扉の隙間から、かすかに硝煙が入り込んできた。程なくして防火扉と隔壁が開いていき、一乗寺が笑顔を見せた。

「やっははーん! よっちゃあーん、元気してたぁー? 俺はね、超元気ぃー!」

「開ける手間が省けたな」

 ほら帰るぞ、と寺坂が道子を立たせてやると、道子は明るく頷いた。

「はい! ですけど、寺坂さん、背中の傷は大丈夫ですか?」

「どうってことねぇよ。だが、どうしても埋め合わせがしたいってんなら、ドライブにでも付き合ってもらおうじゃねぇか。今のみっちゃんは成人済みだからな、同意の上なら何をしても合法なんだ」

「全くもう……。美野里さんに言い付けますよ」

 とは言いつつも、道子はまんざらでもなさそうだった。

「コジロウも。早く外に出ようよ」

 つばめはいつものように手を繋ごうとコジロウに手を差し伸べるが、コジロウの動作にディレイが生じた。

「どうしたの?」

 つばめが首を傾げると、コジロウは改めて手を伸ばしてきたので、つばめはコジロウの人差し指と中指を握った。嬉々として寺坂にまとわりつく一乗寺と、一乗寺を鬱陶しげに追い払う寺坂と、そんな二人の姿を見て笑いを堪えている道子を見ながら、つばめはコジロウと共に足を進めていった。

「私はさ、コジロウがいてくれるだけでいいんだ。そこから先なんて、求めちゃいけないから。だから、桑原れんげが言ったことなんて気にしないでよ」

 ね、とつばめが笑みを見せると、コジロウは少々の間を置いてから答えた。

「了解した」

 地下室の電源を落としたのは俺なんだよう、凄いでしょ褒めて褒めてついでになんか奢ってよぉ、と一乗寺は寺坂にしきりに絡み付くが、その都度触手で叩きのめされていた。にもかかわらず、すぐに起き上がってはまた寺坂の後を追っていく。つくづくタフだが、そうでもなければ政府の諜報員などやっていけないのかもしれない。

 ハルノネット本社から外に出ると辺りは大騒ぎになっていた。至るところに警察官が配備され、会社の敷地は全て封鎖されて駐車場には警察車両がすし詰めになり、上空にはヘリコプターが旋回している。ハルノネットの社員達は一箇所に集められていて、不安と苛立ちが入り混じった様子だった。そんな彼らを横目に、つばめ達は一乗寺の同僚であると名乗った周防国彦なる男に先導されて現場を後にした。一乗寺は本社を出る前にテロリストの扮装から警官の制服に着替えたが、言動は一切変わらないので紛れもしなかった。

 ホテルに戻るために一般車両に見せかけた警察車両に乗せられたつばめは後続のコジロウの姿を確かめつつ、久々に見る東京の街並みを眺めていた。三ヶ月程度で変わるものではないが、山奥の田舎で暮らすことに慣れてしまうと、人工物だらけの景色に新鮮味を覚えた。そういえば、あの後、りんねはどうなったのだろうか。強かな彼女のことだから、警察に絡まれる前に早々に引き上げただろうが、一体何の目的でハルノネットの株主総会に現れたのだろうか。まさか、桑原れんげをやり込めようと奮闘していたつばめ達を援護するためだとでもいうのか。

 いやいやそれはない、絶対にないな、と即座に自分の考えを否定してから、つばめは後部座席のシートに背中を埋めた。せっかく東京に来たのだから、美野里と美月にお土産でも買ってやらなければ。ここ数日間は二人も随分と振り回されてしまったのだから、埋め合わせをしなくては。

 梅雨明けが近いのか、都市の空は晴れていた。



 一方、その頃。

 吉岡りんねの居城である別荘には予期せぬ来客が訪れていた。新免工業に所属する戦闘サイボーグ、鬼無克二だった。彼を招き入れたのは、他でもない、留守番を任されていた武蔵野である。岩龍はといえば、ロータリーにて沈黙していた。水素エンジンも冷め切っていて、いつもは饒舌な発声装置も静まり返っている。定期メンテナンスの名目で人工知能をシャットダウンしたからだ。それもこれも、今後のためだ。

 昆虫のように細長い手足をしなやかに動かしながら階段を下りてきた鬼無の腕には、細かな機械がいくつも抱えられていた。それは、りんねが部下の監視用にと各部屋に取り付けておいた監視カメラや盗聴器の類である。身軽に飛び跳ねて階段からリビングに降ってきた鬼無は、柔軟に手足を曲げて衝撃を和らげ、足音もなく着地した。

「御嬢様も大概ですねー?」

 コインよりも小さく薄い盗聴器とマッチ箱程度の大きさの監視カメラをばらまき、鬼無は肩を竦める。

「お前にだけは言われたくねぇよ。しかし、よくもまぁ見つけ出せたもんだな」

「盗聴器発見器に引っ掛からない周波数のやつもありましたけど、俺の目は誤魔化せませんからー」

「蛇の道は蛇だな」

 武蔵野は監視カメラの一つを取り、眺め回すが、どこに仕掛けられていたのかは見当も付かなかった。この別荘に来た時に部屋中を調べ回って全て見つけ出したつもりでいたのだが、りんねは一枚も二枚も上手だったらしい。つくづく恐ろしい女だ。武蔵野は監視カメラを投げ捨ててから、鬼無を見上げる。

「んで、代わりにお前の監視装置を仕掛けてきたのか?」

「そりゃあもうー。元の場所に同じ周波数の電波を発するダミーと、その中に俺の超高性能な監視装置を仕込んだのを仕掛けてきましたよぉー。りんねちゃんのお部屋には、そりゃあもうごっそりとー。んっふふふふふふぅ」

 得意げににやける鬼無に、武蔵野はげんなりした。だが、この性癖がなければ、鬼無は今の地位を築けなかっただろうし、今回の任務も任せられなかっただろう。

「美少女ー、美少女ー、美少女の生活ぅー。ああんっ、ゾクゾクしちゃいますぅー」

 鬼無は体をぐねりと捩り、悩ましげに身悶えする。黙っていれば見栄えがするスレンダーなサイボーグなのだが、こういった言動で台無しだ。だが、鬼無はそれで満足しているのだから外野が口出しすべきではないだろう。どうせろくな人生を送ってきていないのだから、好きなように生きるのが正しい。それは武蔵野にも言えることだ。

 じゃっ、また後でー、と鬼無は浮かれながら別荘を後にした。武蔵野はスキップするサイボーグの姿が夕暮れの中に消えていく様を見送ってから、武蔵野は久し振りにタバコを銜えて火を灯した。ベランダの柵に背を預けてがらんとしたリビングを見渡すと、一抹の空しさに駆られる。これでいいのか、との疑念も胸中を過ぎったが、前回の失敗を取り戻すためには過激な手段に打って出る必要があるのは確かだ。

 ズボンのポケットにねじ込んである携帯電話が震えた。取り出してホログラフィーモニターを展開すると、間諜からの連絡が届いていた。それに目を通してからホログラフィーモニターを閉じようとしたが、指が動き、画像フォルダが展開された。その中に一つだけ入っている写真を拡大表示させると、懸命に笑顔を見せる若い女性が写っていた。武蔵野はしばらく彼女と見つめ合った後、ホログラフィーモニターを消し、傷跡の残る目元を押さえた。

 失敗は、二度と許されない。

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