百害あってイマジナリーなし
再起動完了、充電完了、各部異常なし。
見慣れないトタン屋根の天井が視界に入ってくるが、若干ピントがずれていた。それをオートフォーカスで調整すると、梁に当たる鉄骨からぶら下がっている太い鎖を捉えた。首を捻ると、倉庫と思しき空間の隅にはロボットの部品が山盛りになっていた。ネットオークションの類で買い付けたものらしく、梱包材の詰まった段ボール箱が至るところに乱雑に重なっていて、分解された部品から取り出された細かなパーツが艶やかに磨き上げられて並んでいた。
死んだはずではなかったのか。今度こそ死ねたのではなかったのか。生身の脳を拳銃で吹き飛ばされれば、いかにサイボーグといえども生きていけるはずがない。そうでなければ、ここはあの世なのか。だとしても、トタン屋根の倉庫とは天国も財政政難なのだろう。
「そんなわけ、ないか」
諦観と共に呟いた言葉は、見知らぬ男の声だった。今までの使い慣れた成人女性の合成音声ではなく、機械的な強張りと低音を含んでいる、どことなく親しみを感じるものだった。どこかのサイボーグの機体に、死に間際の意識が滑り込んだのだろうか。そうだとすれば、自分はどこまで意地汚いのだろう。死にたいと望んで撃ってもらったくせに、死ねていないなんて、武蔵野が知ったらどう思うやら。笑うのか、怒るのか、それとも。
「おはよう、レイ!」
不意に、少女の声が掛けられた。思い掛けないことにぎょっとしながら振り返ると、倉庫のシャッターがモーターで巻き上げられていき、一メートル程の隙間が空くと制服姿の少女が体を滑り込ませてきた。いかにも夏らしい水色の半袖のセーラー服に紺色のスカーフが翻り、外界の日光が差し込んできた。レイ、とは誰のことだ。
「体の調子はどう? この間、人型重機と戦った後に色々と手を加えたんだけど……」
長い髪をサイドテールに結んでいる少女は、しきりにこちらを見回してくる。その顔には見覚えがあった。
「小倉、美月さん?」
記憶を元に名を呼ぶと、少女は面食らった。
「え? な、何、どうしたのレイ、他人行儀だなぁー」
「じゃ、この機体はレイガンドーってこと? でも、どうして私がレイガンドーの中に?」
右手を挙げてみると、視界に入ってきたのはサイボーグの人工外皮に包まれた手ではなく、人間大の人型重機の作業用アームだった。ねえどうしたの、レイってば、と美月はしきりに話し掛けてくる。だが、レイガンドーの内に意識を宿した道子は、その質問にすぐには答えられなかった。何が何だか解らないのは、自分も同じだ。
解っていることは一つだけだ。設楽道子は、かつて桑原れんげだった。だが、今は桑原れんげは独立した自我を持っているばかりか、良からぬ目的を持って行動している。道子の脳内に埋め込まれていたアマラは、れんげの手に渡ったものとみてまず間違いないだろう。りんねに命じられて道子を処分しに来た武蔵野に殺してくれと懇願した時は錯乱してしまったが、今は違う。レイガンドーの冷却装置が効いているからだろうか、道子の思考からは動揺や不安といった感情の熱が引き、事実と現実を見据えることが出来ていた。
「まあいいわ、細かい詮索は後回し」
とにかく、行動を起こさなければ。レイガンドーとなった道子は立ち上がると、充電用ケーブルを引き抜く。
「あの人だったら、きっと力になってくれる」
「ちょ、ちょっとレイ、どこに行くの! ねえっ、レイっ!」
道子がシャッターの外に出ようとすると、美月が慌てふためきながら追い掛けてきた。
「この機体……レイガンドーの無事は保証できないけど、出来る限りダメージを与えないうちにお返しするって約束します、美月さん。だって、彼はあなたの大事なお兄さんだから」
「あなた、誰?」
ようやく事態が飲み込めてきたのか、美月は硬い表情で問い掛けた。道子は少々躊躇ったが、答えた。
「私の名前は、設楽道子です」
「道子さん、って、りんちゃんのメイドさんの? でも、なんで? あっそうか、サイボーグだったんだ!」
「物解りが早くて嬉しいです。でも、これから先は関わらないで下さい。あなたの安全のためにも」
梅雨の晴れ間の空は底抜けに明るく、冴え冴えとした青がアイセンサーに滲みてくる。道子が美月を遠ざけようと歩調を早めるが、美月は精一杯走って道子の前に回り、立ちはだかってきた。
「私も一緒に行く!」
「でも、美月さんには学校が」
「あんな場所、行きたくない」
美月は道子を、いや、レイガンドーを見つめて唇を歪ませた。あの頃の自分もこんな顔をしていたのだろうか、と道子はふと追憶に駆られた。歯を食い縛って何かを堪える美月に、道子は片膝を曲げて手を差し伸べた。途端に美月は駆け出してきて、制服が汚れるのも構わずに抱き付いてきた。震える背中に分厚い鋼鉄の手を添えてやると、美月は深く息を吐いて体からは強張りが抜けた。東京に住んでいた頃もひどい目に遭っていたが、母親の実家に越してきてからも心労が絶えなかったのだろう。
少女を肩に乗せて歩き出した道子は、美月の持っている携帯電話に無線接続してGPSを作動させ、現在位置と目的地の位置関係を確かめた。驚いたことに、美月の母親の実家と目的地の浄法寺は同じ一ヶ谷市内にあった。ということは、吉岡りんねの別荘もそれほど遠くない。ならば、りんねとれんげに感付かれないうちに、寺坂善太郎と合流しなくては。下半身の関節が著しく摩耗することを美月に断ってから、道子は駆け出した。
桑原れんげを始末するために。
設楽道子は、一般的な家庭に生まれた。
アパートとマンションの中間のような半端な広さの住居で生まれ育った。両親は裕福でもなかったが貧乏でもなく、欲を出さなければそれなりに満ち足りた生活を送れるだけの収入もあった。どちらも生真面目な人間で、清廉潔白という言葉がよく似合った。子供心に、この二人が結婚したのは自然の摂理だと理解していたが、夫婦であろうとも異性には必要最低限の接触しか行わない両者が夜の営みに励み、自分が生まれたのは不思議だと思っていた。ありとあらゆる欲望が氾濫している時代だからこそ節度を弁えなければならない、と、両親は道子に言い聞かせていた。道子はそれを真っ当に信じた末、流行りも知らなければテレビも見ない子供に育った。
そんなある日、両親が残業で遅くなるので学童保育に行った道子は、同年代の子供と一緒にアニメ映画を見た。学童保育所の職員が持ってきたもので、一昔前の魔法少女アニメの劇場版だった。アニメに登場するキャラクターのイラストが入った服を着ている子供達を見かけはしたが、テレビアニメを一度も見たことがなかったので、道子はこれといって興味を持っていなかった。両親がたまに見せてくれる映画は大人向けの洋画ばかりだったので、新鮮だった。原色の髪とフリルとリボンが目立つ衣装を翻し、煌びやかなエフェクトの魔法を使い、愛と友情と正義こそが世界の真実だと謳う魔法少女達の活躍が、二時間弱に凝縮されていた。
良くも悪くも擦れていなかった道子にとって、そのアニメ映画は強烈だった。感動を上回る感情の奔流にふらふらしながら帰宅し、魔法少女達の零れんばかりの大きさの星の入った瞳が忘れられず、ぼんやりしながら作り置きのカレーを食べ、ぼんやりしすぎて皿洗いを忘れて母親から叱責された。風邪でも引いたのかと問われたが、道子は否定した。けれど、本当のことは言えなかった。アニメ映画を見た、なんて言えば、きっと怒られるから。
それからというもの、道子は両親に隠れて魔法少女アニメを見るようになった。限りあるお小遣いでレンタルDVDを借りてきては、両親のいない隙を見計らって食い入るように見入った。そこには、底抜けに純粋で、眩しくて、綺麗な世界が完成されていた。オモチャ売り場で魔法少女達の変身アイテムや魔法のステッキを見かけ、猛烈に欲しくなった挙げ句にお年玉の残りで買ってしまったこともある。けれど、大っぴらに遊べた試しはなかった。
愛と夢と友情と正義の幻想にどっぷりと浸り、擦れていなかったがために人並み以上に吸収してしまった道子は、いつしか周囲から浮くようになっていた。勉強も疎かになり、友達付き合いもしなくなり、一人で魔法少女達と世界を危ぶませる悪魔達と戦っていた。もちろん、空想の中での話だが。
それが両親に露呈するのは、時間の問題だった。ある日、道子が帰宅すると、父親がいつもよりかなり早い時間に帰宅していた。残業の予定が立ち消えになったのだ。道子が靴を脱いで玄関に上がるや否や、宝物にしていた魔法のステッキが廊下に叩き付けられて割れた。大事に隠しておいたピンク色の箱は引き裂かれて部屋中に散り、こっそり描いていた魔法少女達の下手なイラストも破られていた。それから、父親からは散々怒鳴られた。その間、道子は玄関から上がることも出来ず、ランドセルを置くことも出来ず、ただただ三和土に棒立ちしていた。
以後、道子は今まで以上に世間から隔絶された。今にして思えばあれは一種の虐待だったと思う。それほどまでに両親は世間を嫌い、娯楽を憎み、空想を蔑んでいた。ある程度成長してから両親の行動の理由を知ったのだが、知ったからといって納得出来るものでもなかった。父親の妹、つまり道子の叔母が漫画家として大成していて、その漫画はアニメ化もされていて、父親の親戚の間では叔母が成功者として認められていた。どうやら父親はそれが心底不愉快だったらしく、叔母の描いた漫画を疎むがあまりに漫画やアニメといったものを憎まずにはいられなくなったらしい。母親はそれを止めるどころか父親を煽るばかりだった。母親もまた、学生時代に反りが合わなかったクラスメイトが声優デビューしていた、というだけの理由で全てを否定していたからだ。
けれど、否定されればされるほど反発したくなるのが思春期だった。特に娯楽であれば尚更だ。中学生になった道子は部活に入りはしたが行きはせず、その代わりに漫画喫茶に通い詰めるようになった。目的はインターネットと漫画とアニメDVDだった。おかげで成績は底辺にまで一気に落ちたが、その代わりに魔法少女アニメのことを熱く語れる相手とモニター越しに知り合えた。彼らは皆、実生活に支障を来すほどに魔法少女アニメに浸り切っているディープなオタクだった。それ故に裏設定やコミカライズのシーンなどを知らないと嘲笑されもしたが、すぐに調べて頭に入れるようにした。その頃になると両親はそれぞれの会社で昇進して、道子に過干渉する暇もなくなったのか、それとも道子の入れ込みように呆れたのか、パソコンを買い与えてくれた。おかげで漫画喫茶に通い詰めることはなくなったが、学校にも行かなくなった。現実を生きているクラスメイトが疎ましかったからだ。
気付いた頃には、道子は空想の世界だけで生きていた。魔法少女アニメだけでなく手当たり次第にアニメを見てはアニメから派生したゲームをプレイし、後は眠るだけの生活を送るようになっていた。自宅から一歩も外に出なくなり、身なりにも気を遣わなくなり、空想の世界にこそ真実があるのだと信じ込むようになっていった。
そして、十五歳になった時、あの魔法少女アニメを原作にした大規模なネットゲームが開始された。もちろん道子は即座にプレイを始めたが、そのゲームはプレイヤー同士でアイテム交換を行ったり、協力してクエストをクリアしていかなければレベルが上がらないシステムになっていた。そのせいで、中身が人間だと解っているプレイヤー達を遠ざけていた道子は、早々に行き詰まってしまった。特殊アイテムを集めて装備を強化しようにも、目的のアイテムをドロップするモンスターがいるダンジョンは高レベルプレイヤーでなければ生き残れないような場所で、かといって他のプレイヤーとゲーム内通貨で取引を行おうにも、ゲーム内通貨を貯められるほど高値で売れるアイテムを収拾出来ていない。こうなったらゲームを止めるか、違法なBOTツールでレベルアップするか、と考えていると、道子のキャラクターに他のプレイヤーが話し掛けてきた。
『君のこと、しばらく前からこのダンジョンで見かけるけど、レベルが上がらないみたいだね』
その男性キャラクターは高レベルな装備で身を固めていて、魔法少女達と敵対する悪魔軍の上級幹部に当たる役職、ダークプリーストだった。対する道子は駆け出しの魔法少女のままで、装備も見るからに乏しかった。
『なんだったら、協力してあげてもいいよ。パーティを組む仲間がログインしてくるまで時間があるから』
そのキャラクターの名前は、ヴォーズトゥフといった。対する道子は。
『桑原れんげちゃん』
道子がメインに使用していた女性キャラクターの名前は、魔法少女アニメの主人公の一人である、クールな言動と凛とした外見で絶大な人気を誇っている魔法少女の名前を改変したものだった。
それから、道子は桑原れんげとして生きるようになった。ヴォーズトゥフはれんげとのやり取りが楽しいのか、頻繁にれんげと共にダンジョンに潜るようになり、あれよあれよという間にれんげのレベルは高レベルになっていった。転職を重ね、装備も強化に強化を重ねた結果、魔法少女達の最終形態である神聖天使の役職になった。そこまでのレベルに達すると大抵のダンジョンを遊び歩け、大型アップデートによってダンジョンが増えてもモンスター退治にはそれほど手こずらなくなった。その頃は神聖天使にまで転職出来たプレイヤーは数えるほどしかいなかったこともあり、街を一歩でも歩けば話し掛けられた。
その、万能感たるや、凄まじい快感だった。インターネットを見回れば、どこぞの掲示板では桑原れんげに関するスレッドがあり、不特定多数の人間がれんげの話題を語り合っていた。中には桑原れんげを元にしたイラストを描く者もいて、桑原れんげの後に神聖天使に転職したプレイヤーを口汚く批判する者もいた。何もかもが桑原れんげを中心に回っている。それもこれもヴォーズトゥフが話し掛けてきてくれたからだ。れんげはそれを感謝し、毎日のようにヴォーズトゥフに好意を示した。アイテムを貢ぎ、経験値を貢ぎ、ダンジョンでは代わりにダメージを引き受け、蜜月を過ごしていった。美しく、素晴らしい時間だった。
けれど、一度ゲームから離れるとその幻想は潰えた。長年パソコンに向かっているだけの生活を送っていた道子は不健康極まりなく、体もだらしなく緩んでいた。髪も伸び放題で、御世辞にも清潔とは言い難かった。薄汚れた窓の外を見れば元気よく通学する制服姿の少年少女の姿があり、それが腹立たしかった。以前は家庭訪問を行ってくれていた担任教師ですら愛想を尽かし、最近では連絡すら来なくなった。両親も道子には一歩も近付かなくなり、会話もしなくなり、部屋の外に食事が置かれているだけだった。
現実の絶望感を忘れるために道子は今まで以上にネットゲームに、いや、ヴォーズトゥフにのめり込んでいった。
今にして思えば、一日中ログインしている道子と同じように長時間ログインしているヴォーズトゥフも、かなりの廃人で日常生活に支障を来しているのは明白だった。だが、その頃の道子は自分自身からも目を逸らすほどのめり込んでいたせいで、そんなことには気付けなかった。だから、レベルアップして転職を行い、ダークプリーストから氷結魔王となったヴォーズトゥフと同様に、プレイヤー自身もそうなのだと信じ込んでいた。馬鹿げた話である。
そしてある日、現実に会おう、とヴォーズトゥフからメールが届いた。道子は嬉々として部屋の外に出ようとしたが、自分自身が二目と見られないほど醜悪になっていることに気付いた。本当の自分など見せられるはずもないので、都合も予定もないのだが、嘘八百を並べて誘いを断った。だが、ヴォーズトゥフは食い下がってきた。何度も何度も道子にメールを送ってきた。そのうちに少し怖くなってきて、ネットゲームにログインする頻度も減ったが、それでもヴォーズトゥフはメールを止めなかった。いつしか、メーラーを開くことすら怖くなり、パソコン自体からも遠ざかるようになった。
その結果、道子の日常がほんの少し変わった。
数年振りに部屋から外に出て、仕事の頻度を下げていた両親と対面した。最初は母親とだけ対面し、食卓で一言二言だけを交わした。日常的に風呂に入るようになり、服も毎日着替え、髪も母親に切ってもらい、手付かずだった部分を全て手入れをした。父親とも会話するようになり、少しずつ、少しずつ、在り来たりの生活に心と体を慣らしていった。そうやっていくうちに、次第に両親も道子の変貌振りに気に病んでいたことを知った。頭ごなしに否定し続けてはならないと考え方を直してくれていて、ゲームがやりたかったらやっていい、アニメを見たかったら見てもいい、欲しい物があったら買っていい、と言ってくれた。あの日、父親に壊された魔法のステッキも買い直されていて、綺麗な包装紙に包まれた新品がリビングテーブルに置かれていた。
それから、十七歳になった道子は時間を掛けて元に戻っていった。母親に付き添われてカウンセリングに通い、両親と連れ立って買い物に出かけ、無理をしない程度に運動をして、年相応の外見になるようにファッション雑誌を買ったり、街を歩く少女達の格好を見て勉強した。子供の頃には出来なかったことをやり直そうと、家族揃って遠出をした。漫画を読んで感想を言い合ったりもした。崩れ落ちたものを、丁寧に一つずつ積み上げていった。
高校に進学するために必要な勉強の範囲を調べようと、道子は久し振りにパソコンを立ち上げた。ヴォーズトゥフから来ていた大量のメールを見ないように、それまで使っていたメーラーとアドレスはすぐに削除して新たなアドレスを作成し、ネットゲームもアンインストールし、魔法少女アニメ絡みのブックマークも削除し、ブラウザを開いた。
すると、作成したばかりのメールアドレスに新着メールが届いた。サーバーからのメールかと思い、メーラーを立ち上げた。僅かな間の後に表示された名前を見、道子は悲鳴を上げた。
ヴォーズトゥフからだった。
ヴォーズトゥフとは何者なのか。
心底恐ろしくなった道子は、両親にこれまでの経緯を話し、ヴォーズトゥフから来た大量のメールを見せた。最初は訝しげではあったが、ヴォーズトゥフからのメールを開いて読み進めるに連れて両親の顔色が変わっていった。何百通にも及ぶメールを読み終えた両親は険しい顔をして、誰も知らない場所へ行きなさい、と言ってきた。過去の道子を知る人間が一人もおらず、桑原れんげとしての道子も知らない場所の当てなどどこにあるのだろうか。桑原れんげは今や世界規模で知れ渡っている、架空の人格だ。あの魔法少女のネットゲームをプレイした人間ならば、一度は見聞きしているだろう。たとえプレイヤーでなくとも、桑原れんげというキャラクターは最早独立して一人歩きを始めており、道子の想像が及ばないジャンルで弄ばれている。
だから、桑原れんげに固執するヴォーズトゥフは必ず現れる。たとえ道子が道子を知らない土地に引っ越して息を潜めて暮らし始めたとしても、きっとすぐに見つけ出すだろう。なぜなら、道子が桑原れんげだからだ。ゲームの中で桑原れんげを綺麗さっぱり殺したとしても誰かの中では桑原れんげは生き続け、イラストとなり、自作フィギュアとなり、動画となり、進化していく。そして、それを執拗に追い続けるのが、ヴォーズトゥフなのだ。
どこに逃げても見つけられる。架空の人格を求められる。理想を押し付けられる。元はと言えば、道子が空想の末に生み出した理想の自分だったはずなのに、いつのまにか道子は桑原れんげに食い尽くされそうになっていた。その恐怖のせいで、ようやく立ち直りかけていた道子は再び心が折れかけていた。それでも両親が見つけてくれた場所へは辿り着こうと、他人の視線に怯えながら電車に乗り、リニア新幹線に乗り、遠くへと向かった。
一ヶ谷駅でリニア新幹線を降りた道子は、目当ての場所に向かうためのバスに乗ろうと時刻表を見たが、バスが来るのは二時間後だった。しかも、そのバスは目的地から何キロも離れた停留所が終点だった。バスを降りたら、その後は延々と歩くしかなさそうだ。日が暮れる前に到着できればいいなあ、と思いながら、道子は地元住民達が行き交う駅前のロータリーから駅ビルに戻ろうとすると、路線バスのものとは懸け離れたエンジン音がした。
道子が思わず振り返ると、そこには目の覚めるような鮮烈な真紅のフェラーリが停まっていた。駅前を行き交う人々も足を止め、田舎の市街地には不釣り合いな車を凝視している。運転席のドアが開き、派手な車の主が下りてきたが、その姿を見た途端、道子は先程とは別の意味で面食らった。サングラスを掛けた僧侶だったからだ。
「ヒュー! 今日もいい音してるぜぇ、V型八気筒は! 相変わらずセクスィーだぜぃ!」
この手の人種と関わり合いになるべきではない、と道子が顔を背けると、その僧侶が手招きしてきた。
「おーい、そこのお嬢ちゃん。さっさと乗れよ。そのために峠をぶっ飛ばしてきたんじゃねぇかよ」
「……人違いだと思います」
道子が小声で言い返すと、僧侶はにやりとした。
「俺はそうは思わねぇが。そうだろ、設楽さんちのみっちゃん?」
道子の名前を知っているということは。道子は僧侶の正体を悟ったが、警戒心は緩められなかった。それが顔に出ていたのか、僧侶は法衣を引っ掛けている肩を竦めた。
「あんまり怖がるなって。俺のストライクゾーンは成人済みであることが第一条件なんだよ」
「で、でも……」
道子が逃げ腰になると、僧侶は包帯を巻いた右手の親指で助手席を示してきた。
「いいから乗れよ、俺の愛車に。御両親から話は聞いている。でないと、あいつから一生逃げられないぜ?」
その言葉に、道子は顔を上げた。逃げるためにここまで来たのに、逃がしてくれる相手から逃げてどうする。そう思い直した道子は、躊躇いながらもフェラーリ・458の助手席に乗り込んだ。だが、スポーツカーなど生まれてこの方乗ったこともなければ近付いたこともなかったので、シートのスレンダーさと車高の低さに驚いた。身軽に運転席に身を沈めた僧侶はシートベルトを締め、道子にも締めさせると、嬉々としてエンジンを掛けた。
ジェットコースターのようなドライブの後、到着したのが、浄法寺だった。
道子が僧侶に事の次第を説明出来たのは、夕食後になってからだった。
慣れない長旅でリニア新幹線に少し乗り物酔いをしていたところにフェラーリで振り回された結果、道子の乗り物酔いが著しく悪化したせいだった。さすがに車中では戻さなかったものの、車を出てすぐに限界が訪れた。僧侶は気まずげに道子の背中をさすり、俺が悪かったよ、と平謝りしてきた。道子は荷物も解かずに寝込んでしまったが、一眠りすると気分は大分落ち着いてきた。空腹と共に食欲も戻ってきたので、食べられる物だけを胃に入れた。
それから、道子は僧侶と向かい合って話をした。最初から話した方が理由と経緯が解りやすいだろうと思い、両親の性格の潔癖さから始めることにしたせいで、随分と長くなってしまった。おかげで、話が一段落した頃には夜中になっていて、窓の外では虫が大合唱していた。根気よく道子の話を聞いてくれていた僧侶は、懐から出した右手で顎をさすっていた。しばらく考えた後、口を開いた。
「俺、ネトゲってやらねぇからなー……」
あの辛い日々に対する感想がそれか、と道子は苛立ちそうになったが、ぐっと堪えた。
「俺の専門ってさ、本来はあれだよ、弐天逸流の信者と支部を叩きのめすことなんだ。だから、みっちゃんみたいなタイプが来るのは初めてなんだ。寺なのに正義の味方ごっこしてんのかよー、ダセェー、とか思っても言うなよ、俺もよくよくそう思うんだから。ふと我に返る瞬間もいくらでもあるんだから。でも、まあ、新興宗教よりも悪いことじゃねぇから仏さんだって許してくれるだろ、っていう希望的観測な」
僧侶は冷めた緑茶を飲み干してから、包帯を巻き付けた右手で禿頭を押さえたので、片肌が脱げかけた。
「だが、なんとなーく想像は付いてきたぞ。あの爺さん、まーたろくでもねぇことやらかしやがって」
「何がどうなっているのか、知っているんですか?」
「これっぱかしな」
そう言って、僧侶は右手の親指と人差し指を曲げて一センチ程度の隙間を作った。
「でも、それだけでも知っていると知っていないとじゃ大きな差があるんだ。敵を知り己を知れば百戦危うからず」
中国の故事、と僧侶は付け加えてから、胡座を掻いていた足を伸ばした。
「これは俺の主観に過ぎないが、みっちゃんが言うところのヴォーズトゥフっていうストーカー野郎は、みっちゃんが桑原れんげとして振る舞っている時にだけ動いていることから察するに、桑原れんげが持っていた何かの力の影響を受けて作動するシステムだろう。でないと、メルアドを変えた途端にメールが届く説明が付かねぇ。もしかすると、みっちゃんの個人情報をネトゲの運営会社から引っこ抜いてきて、その情報を使ってみっちゃんのパソコンを監視するコンピューターウィルスでも仕込んだのかもしれねぇしな。キーボードに打ち込んだ内容がリアルタイムで他のパソコンに転送される、っつーのがあるらしいし。キーロガー、つったかな」
「ネトゲはしないって言ったのに、なんで詳しいんですか」
「あー、こんなん受け売りだよ受け売り。あのろくでもねぇ爺さんを監視するために政府が派遣してきた公務員がな、俺が言うのもなんだけどとんでもねぇ野郎でよー。だから、俺の情報を自衛するだけでも一苦労なんだよ。おかげで集めに集めたAV動画を詰めた外付けHDDを持って行かれて、キャバ嬢のメルアドと口紅がべったり付いた名刺もほとんど盗まれて、行きつけのソープのポイントカードも……」
「え……」
僧侶らしからぬ生臭さに道子が身を引くと、僧侶はむくれた。
「いいじゃねぇかよ、俺だって生き物だ。人間だ。色々と溜まりもするんだよ。で、相手をしてくれるケバい姉ちゃん達は金が欲しくてああいう仕事をしてんだ、当然の権利じゃねぇか」
「帰っていいですか。なんか、ヴォーズトゥフよりもそっちの方が嫌になってきました」
道子が真顔で言うと、僧侶は苦笑した。
「貞操観念、しっかりしてんなぁ」
「御住職が緩すぎるんだと思います」
「それは桑原れんげの設定に入っているのか? 鉄のパンツを履いていそうなガチな処女、ってのは」
不意に、僧侶が口調を改めた。道子はそう言われて気付き、考えてみた。
「え、ええ、はい。そうですけど、でも、それは私がそういう性格だからであって、桑原れんげはその延長上で」
「本当にそうか?」
僧侶はやや前のめりになり、道子に近付いてくる。道子は臆し、身を引く。
「だって、私は引きこもりっぱなしのひどい生活をしていたから、余計にそうなっちゃって」
「じゃ、これはなんだ?」
僧侶は部屋の隅に放置されていた道子のボストンバッグを開き、その中から衣装を引っ張り出した。白いフリルと淡いピンクのリボンが付いたチューブトップに、パニエで大きく膨らんだミニスカート、付属品と思しき白い翼、天使の輪を思わせるデザインのカチューシャ、大量のメイク道具。どれもこれも、道子の身に覚えのない荷物ではあったが、それが何の衣装であるかは一目で解った。神聖天使、桑原れんげだ。
道子は声を失って震え出した。僧侶は無造作に衣装を放り捨ててから道子の元に戻ってきた。温くなったポットの湯で薄い茶を淹れ直し、道子の茶碗に注いでから、僧侶も自分の茶碗に注いだ。
「こりゃ、いよいよ深刻だな」
「もしかして、リニア新幹線の中で……?」
道子が泣きそうになると、僧侶は頷く。
「だろうな。誰だってトイレに立つだろうし、そのタイミングでやられたんだろう。透けないビニール袋に詰めて丸めておけば案外目立たないもんだし、押し込めてカバンの蓋を閉めちまえばいいだけのことだ。だが、ここで疑問が発生しやがる。なんで他の乗客は、それを咎めなかったんだ? 視線誘導なんて出来るもんじゃ……」
いや待てよ、と僧侶は考え込み、道子に尋ねてきた。
「あのネトゲの親会社はどこだ?」
「ゲームの運営会社ですか? それだったら、フィフスっていう会社で」
「違う、その親会社だよ。えー、と」
僧侶は懐から携帯電話を取り出すと、ホログラフィーモニターを展開して検索した。ほんの数秒で検索結果が表示されると、僧侶は顔を引きつらせた。
「ハルノネットかよ。なるほど、携帯と通信インフラとサイボーグの会社ね。だったら、顧客の携帯に適当なメールを送って視線を動かすのも簡単だよな。それがサイボーグであれば尚更だ。根深いかもなぁ」
「そんなに?」
「まあでも、なんとかなるだろ。気を抜かなきゃな」
「だけど、具体的にどうするんですか?」
不安に駆られた道子に、僧侶は遂に諸肌を脱いで意味もなく上半身を曝した。筋肉質だった。
「桑原れんげからは懸け離れた暮らしをすりゃいいってことだ!」
「そんなことでいいんですか?」
道子がますます不安に駆られるが、僧侶は根拠もなく自信に溢れていた。
「大体よー、桑原れんげのキャラが成り立っているのはみっちゃんがそれらしい感じだからじゃん? だから、それを根っこから引っこ抜いて引き千切ってひっくり返してこねくり回すのさ。そうすりゃ、キャラ萌えなストーカー野郎は萎えること間違いなしよ。だ、か、ら」
僧侶は意味もなく胸を張り、だらしない法衣に似合わぬ屈強な肉体を見せつけた。
「やりたいように生きてみやがれ、みっちゃん」
やたらと気合いの入った僧侶の笑顔に、道子は釣られるように頬を持ち上げてみた。それで良し、と念を押されると、ほんの少しだが恐怖が薄れてきた。とりあえず一眠りしてこいよ、と促され、道子は荷物を抱えて割り当てられた部屋に向かった。いつのまにか空は白んでいて、眩しい夜明けが訪れていた。
畳敷きの六畳間に布団を敷き、その中に潜り込んで眠った。携帯電話で両親に無事到着したことを連絡しようと思ったが、それをヴォーズトゥフに気付かれては元も子もないので、電源を切ってボストンバッグの底に押し込めておくことにした。それ以降、道子は自分の携帯電話に触ることはなかった。
丸一日眠ってから目覚めた道子は、一念発起した。切り揃えてはいたが肩に当たる程度に伸びていた髪を自力でベリーショートに切り揃え、あの衣装を枯れ葉と共に燃やした。僧侶、寺坂善太郎が買い集めているハイスペックなスポーツカーの機能を調べてみたりもした。寺坂の蔵書を手当たり次第に読み漁り、それまでのアニメとゲームと漫画だけで成立していた薄っぺらい価値観を鍛え上げた。ほとんどしたことがなかった料理にも挑戦したが、結局、上手くいったのは卵料理ぐらいなものだった。そのうちに寺坂の自堕落さと寺全体の小汚さが鼻に突くようになったので、朝早く起きて一日中動き回り、至るところを掃除した。忙しく働いていると体も引き締まってきて、運動だけでは絞れなかった部分も絞れた。目の前にやることがあると、やるべきことが見つかると、活力が湧いた。
だから、街に出かけたいと思うのは、ごく自然なことだった。それまでは、必要な生活物資は配達で済ませていたのだが、一度しか目にしたことのない一ヶ谷市内に行ってみたくなった。けれど、寺坂は渋った。
「この辺一体は、色んな事情と思惑と利権が絡み合った結果、監視衛星がスルーしてくれる場所なんだよ。だから、ハルノネットだろうが何だろうが、みっちゃんを見つけられないんだ。だが、一ヶ谷市内となるとそうじゃねぇ。いかに田舎であろうとも監視カメラはいくつかあるし、ハルノネットの顧客が使っている携帯のカメラを遠隔操作されて映像を捉えられたんじゃ、手の打ちようがないんだ。悪いが、諦めてくれよ」
「だけど、私は随分変わったから、ヴォーズトゥフも私のことはすぐ解らないと思うんです」
道子はベリーショートにした髪を撫で付け、庭仕事で日に焼けた頬を手のひらで包んだ。
「そりゃまあ、そうだが……」
寺坂の返事は歯切れが悪かったが、仕方ねぇ、と顔を上げた。
「じゃ、俺も付き合ってやるよ。但し、絶対に俺の傍を離れるな」
「わぁい、ありがとうございます!」
道子が喜ぶと、寺坂は困り気味ではあったが笑い返してくれた。この三ヶ月間の同居生活で、寺坂と道子の関係は家族と友人の間とも言うべきものに変わりつつあった。同じ空間で寝起きしていると、道子も寺坂の男の本能の固まりのような趣味にも慣れてきた。スポーツカーやバイクを手当たり次第に買う金遣いの荒さと底なしの女好きにはまだ少し辟易するものの、それもまた彼の個性なのだと思えてきた。男女として対等に付き合うには向かない男ではあるが、身近に接している分には楽しい相手だった。
だから、いつしか道子は、寺坂に対して年上の従兄弟に向けるような感情を抱いていた。恋愛感情よりは遙かに冷ややかで、家族愛にしては淡泊だが、なくてはならない人間だと思うようになった。ヴォーズトゥフが桑原れんげに飽きて他の美少女キャラクターに興味を移し、道子が完全な自由を取り戻せる日が来たら、寺坂とは別れて家族と暮らす日々が戻ってくるのだろう。それを想像するとほんの少し寂しくなるが、人として地に足を着けて生きていける自信を得る機会を与えてくれた寺坂との関係は、そう簡単には断ち切れないだろう。だから、東京に帰っても、また一ヶ谷市に戻ってきて寺坂に会いに来よう。その時は、車を運転出来るように免許を取っておこう。あのフェラーリで送迎されるのはごめんだからだ。そんな未来が来るものだと、道子は漠然と信じていた。
信じすぎていた。
目に映るものが全て新鮮だった。
どうということはない地方都市の一角なのに、道子には真新しく感じた。山奥の浄法寺で体が求めるままに働いていた時はテレビを見る時間も余裕もなかったので、外界の情報から隔絶されていたも同然だった。ネット配信される新聞にはある程度目を通していたが、興味のない記事は読みもしなかったこともあり、必要最低限の物事しか頭の中に入っていなかった。まるで脳の新陳代謝が行われたかのような感覚があり、心地良ささえあった。
真紅のフェラーリ・458は滑らかに峠道を走行して市街地に下りていくと、青々とした田んぼだらけだった景色に民家が点在するようになり、次第に民家が密集していき、行き交う車の数も徐々に増えてきた。山の側面を貫いているトンネルから伸びているリニア新幹線の高架橋が見えてくると、リニア新幹線が走行することによって発生する電磁波を防ぐための防御板の群れも見えてきた。どこに行きたい、と聞かれ、道子は駅前に行きたいと答えた。
目的などあってないようなものだった。ただ、道子は外の世界に行きたかった。妄想を切り捨てて身も心も綺麗に洗い流した自分が社会に適合出来るのかどうか、試してみたいからでもあった。寺坂は道子の少し後を付いて歩いてきてくれ、道子が興味の赴くままに動き回ることを咎めはしなかった。離れすぎた場合は駆け寄ってきて、道子の袖口を引っ張って諌めはしたが、それぐらいだった。手も肩も腕も掴んでこなかった。あれはきっと、寺坂なりに道子との距離感を保つためだったのだろう、と後にして思う。キャバクラやソープなどで若さと性を売っている女達には、春を買う代金に見合った行為を行うのと同じことだ。道子は寺坂に何も支払いはしなかったし、寺坂も道子に対価を要求することもしなかったから、利害関係自体が成立していなかった。だから、二人の間には越えるべき線も出来てなければ、それを越える理由も意味もなかった。奇妙ではあるが、健全だった。
その瞬間が訪れたのは、僅かな隙が生まれた時だった。駅前商店街を歩き回っていた道子は、向かい側にある書店に目を留めた。横断歩道を渡るために信号待ちをして、ちゃんと青信号になったことを確かめ、対向車が来ていないことも確かめ、歩き出した。寺坂は道子の一歩後ろを付いてきていた。初夏の眩しい日差しを受けて白んだアスファルトと白線を踏み締め、前に進んでいく。発光ダイオードの青信号が光り、仄暗いアーケードの下では書店の店先に置かれている鉢植えが揺れている。
次の瞬間の記憶はない。ただ一つだけ覚えているのは、駅前交差点に停車していたトラックが急発進してきた、ということだけだった。宙を舞った際に見た空の青さと、肉片混じりの血と、寺坂の絶叫が脳にこびり付いている。
痛みを感じる暇なんて、なかった。
目覚めると、そこは見知らぬ場所だった。
鮮明ではあるがざらついた視界。良く聞こえるがどことなく鈍い聴覚。手足を動かそうとしても、それがあるという感覚が返ってこない。息を吸い込んだはずなのに、肺が膨らんだ感覚がない。ない、ない、ない。何もかもがない。薄暗く、冷たく、寂しい。寺坂はどうしたのだろう。自分はどうなったのだろう。そもそも、何が起きたのだろう。
疑問と不安を巡らせながら、道子は思い悩んでいた。すると、視界に何者かが入ってきた。ピントが合っていないのか、輪郭がぼやけている。目を凝らしたつもりでも、何も変わらなかった。すると、その何者かは道子の目元に手をやって水晶体を外し、別のものを填め直した。今度は目の焦点が合い、道子はその者を捉えた。
「ひっ!」
そこにいたのは、ヴォーズトゥフだった。桑原れんげとセットで描かれることが多かった、ヴォーズトゥフそのものの男が目の前に立っていた。色白で彫りの深い顔に切れ長の目、長い手足とすらりとした体躯を、氷結魔王の衣装で包んでいた。だが、あれはゲームの中のことだ。プレイヤーキャラクターのうちの一体だ。ポリゴンで描かれただけの実体のない存在だ。等身を高くしてかなりリアルな絵柄で描けばこうなるかもしれないが、ゲームの中では三等身のキャラクターだった。だから、これはヴォーズトゥフの格好をしただけの人間だ。
「やっと助け出せたよ、君を」
男は道子に触れてきたようだったが、道子には感じ取れなかった。
「あんた、誰……?」
身動き一つ出来ないため、その手を払うことすら出来ない。男は過剰に装飾が付いた手袋で、道子を撫でる。
「私だよ、解るね」
「知らない、あんたなんか知らない!」
「そんなわけがないだろう。私と君は、共に幾度も世界を救ったではないか」
冷酷さの内に秘めた一抹の優しさ、という設定通りにヴォーズトゥフは片頬を持ち上げて笑みを作る。それから、男は桑原れんげと潜った高レベルダンジョンの話、プレイヤー同士で交流を持った時の話、運営側のトラブルでゲームが一時中断していた時に交わしたチャットの話、ゲーム内で結婚し、夫婦ごっこをしていた話。恍惚として語る男の姿から目を逸らそうとしても目は動かず、耳を塞ごうとしても手が上がらず、拷問も同然だった。
ようやく逃げ出せたはずなのに、切り捨てたはずなのに、本来あるべき自分に戻れたはずなのに。それなのに、ほんの一瞬の油断に付け込まれてしまった。寺坂と両親には迷惑を掛けてしまった。こんなことなら、あの時、魔法少女アニメの映画なんて観るんじゃなかった。そんなものには興味がないと振り切って、児童館から出て家に帰るべきだった。アニメなんて子供っぽいと見切りを付けて、部活動にも参加して同級生と会話すべきだった。自宅から外に出て青春を謳歌するべきだった。ネットゲームなんかプレイするべきではなかった。そのどれか一つさえ免れていれば、きっと今頃は。涙が出そうになったが、道子の視界は歪まなかった。ただ、ピントがずれただけだった。
「不安にお思いでないよ、我が愛しの神聖天使」
男は道子の視界の下に指を添え、ねっとりと語り掛けてくる。
「君は長い間、悪魔に魅入られていたんだ。肉の器に捉えられていた魂を解放し、本来の姿に戻してあげるには、少々手荒な手段に及ぶ他はなかったのだ。どうか許しておくれ。人間界における仮の肉体は、君の神をも屈する力を秘めた魂を収めておくには脆弱すぎた、それ故に」
男は道子の目の前に、一枚の写真を提示した。大型トラックに轢かれ、無惨に轢死した少女がいた。変な方向に捻れて傷口から頸椎が覗いた首、折れた肋骨の間から肺が零れた胸、ぬめぬめとした腸が垂れ下がる破れた腹、根本から引きちぎれた手足、赤黒く光る血溜まり。そして、それに駆け寄ろうとする寺坂の姿が真上から撮影されていた。間違いようがなかった。これは道子の死に様だ。
気も狂わんばかりの悲鳴を上げ、道子は視線を外そうとするが、男はそれを力任せに押さえてくる。写真を目に押し付けられ、ねじ込まれ、強引に画像を見させられる。嫌だ嫌だと何度叫んでも、男はまるで聞き入れようとしないどころか、嬉々として桑原れんげの設定を羅列している。神聖天使の自己再生能力は無限に等しい、だの、肉体が滅びても精神体は不死身だから他人に憑依して生き長らえる、だの、どれもこれも馬鹿げている。それは過去に道子が作り、声高に喋っていた設定だった。だが、そんなものを真に受ける人間なんて。
「平行世界にこそ真実がある。私にはそれが見えるのだよ」
神託の針だ、と言い、男は懐から革製のケースを出して、その中から針を取り出した。道子の目には、どこにでもある縫い針にしか見えなかった。長さも一〇センチ足らずで、裁縫箱の針山に突き刺さっているべき代物だ。妙な点があるとするならば、糸通しの穴が空いていないことだった。
「これはさる人物から入手したものでね。この針は、神の意志を宿している」
男はそれを道子に向け、一際楽しげに笑う。
「だが、私は魔性に堕ちた身。針を使うに値しない力が細胞の隅々にまで宿っている。よって、この神秘の力は神聖天使たる君が持つべきだよ、れんげ。さすれば、この世は浄化され、真実の愛と幸福が花開くだろう」
「あんた、頭おかしいよ!」
男の妄言に耐えかねて道子は叫ぶが、その声は音割れした。
「私を本気にさせたのは君ではないか、麗しの天使。悪魔と人の間に産まれ落ち、魔界と天界の狭間にて終わりのない戦いに明け暮れていた私に愛を教え、慈しみを伝え、温もりを授けてくれたではないか。故に、今こそ私は君に報いなければならない」
そう言いながら、男は何かの容器の蓋を開けた。蓋の内側は薄黄色い液体で少し濡れていた。男の手が上がり、針を抓む指が進んでいく。それが視界から消えて箱の中に差し込まれた瞬間、道子は痙攣した。かのような感覚が全身を駆け抜け、言葉さえも出せなくなった。男は箱の蓋を閉め直し、にやついている。脳内に差し込まれた異物から電気信号が迸り、神経伝達物質を焼け焦がしながら、膨大な情報を流し込んできた。
その時、設楽道子は死んだ。
ふと気付くと、道子はどこでもない空間に浮かんでいた。
そして、自分が何者でもないことも認識していた。今の自分はただの情報の固まりであり、設楽道子という人間が完成させた人格の残滓であり、膨大な情報が生み出した幽霊のような疑似人格なのだと。外界の様子は解らず、デタラメな流星雨のように四方八方から襲い掛かってくる電波と情報の嵐をぼんやりと見つめていた。見覚えのある映像が浮かんでいる電波を見つけたので、拾ってみると、そこにはヴォーズトゥフの姿があった。
人形だらけの白い部屋の中心で、ヴォーズトゥフは脳が浮かぶ箱を覗き込んでは汚らしくにやけていた。ヴォーズトゥフの周囲に設置されている医療設備はサイボーグ手術を受ける人間の生命維持用だ、と誰に教えられるまでもなく悟った。更には、この部屋がハルノネット本社の三十八階にある研究室で男の本名は美作彰であり、ゲーム内でのプレイヤーネームがヴォーズトゥフであるということも。自分が生み出したキャラクターを愛するがあまりに外見にも手を加えて整形手術を重ねたが納得出来ず、最終的には自分がデザインした美形の男性型サイボーグボディに脳を移し替えたということも。その際に、佐々木長光なる人物がハルノネットに売却された謎の針を脳に差すという人体実験を引き受け、多少のハッキング能力を手に入れたことも。その力を使い、桑原れんげとして振る舞っていた過去を捨てた道子を執拗に追い掛けていたことも。浄法寺に住むようになってからは、道子の生活の一部始終を観察出来なくなったことで余計に執着心が増したことも。あの日、寺坂と道子が親しげに街を歩く様を見て執着心が滾り、道子を取り戻さなければ桑原れんげが宇宙から消失すると思い込んだことも。
別の映像を絡め取り、再生してみると、寺坂が法衣が汚れるのも構わずに瀕死の道子を抱き起こそうとしている様子が映し出された。あの横断歩道に設置されていた監視カメラだ。だが、寺坂が道子を抱き上げると道子の首が外れて転げ落ち、一際激しく出血が起きた。寺坂はアスファルトに叩き付けられそうになった道子の首を受け止め、遺体を守ろうとすると、美作が遠隔操作していたサイボーグ体であるトラックの運転手が下りてきて、道子の頭部を無造作に運転席に運び入れた。生命維持装置に道子の首を接続すると、トラックは何事もなかったかのように走り去っていった。後に残されたのは、原形を止めていない道子の遺体を抱き締めている、寺坂だけだった。
「ああ……」
得も言われぬ感情が道子を満たすと、周囲の空間が波打った。電波も波打ち、揺らぎ、波紋が広がる。途端に周囲がざわつき、通信障害、読み込みエラー、通話が切れた、との報告が矢のように降ってきた。それを受け、道子はようやく自分の現状を認識した。道子は肉体的に死した。だが、精神体とも言うべき意識はあの針の力によって切り離され、電脳の世界に閉じ込められたのだと。
そして、あの魔法少女アニメを原作としたオンラインゲームのメインサーバーであり、ハルノネットのネットワークを支えているスーパーコンピューターであり、道子の脳に突き刺された針の正体は、アマラという名の遺産なのだと。佐々木長光なる老人が所有する遺物の中の一つであり、異次元宇宙に接続して量子レベルで演算を行う恐るべき情報処理能力を持つ無限情報処理装置なのだと。その役割は炭素生物に演算能力を与え、異次元宇宙に意識を接続出来るような感覚と概念を授け、知的生物の自我を一括管理するための装置なのだと。
「桑原れんげ」
情報の波に揺られながら、道子は架空の自分の名を呟いた。すると、アマラは得意げに教えてくる。桑原れんげの姿と性格と設定が気に入ったから、その姿を借りて現実に現れてやる、と。だが、そのためにはアバターが必要だったので、美作彰の脳に接触した際にサイボーグ技師としての才能を引き上げると同時に現実を認識するための能力に少々手を加え、桑原れんげと設楽道子を同一視させて執着させたのだと。けれど、現実での力加減がよく解らなかったから、うっかり道子を轢き殺してしまったのだと。だから、脳だけを回収させてサイボーグ化するように仕向けたのだと。一から十まで明るく喋るアマラは、幼子そのものだった。
けれど、それはいずれ成長する。道子の人格を喰い、記憶を喰い、経験を喰い、電脳の世界に囚われた道子を取り巻く電波を拾い、情報を弄び、メモリーを囓りながら、肥え太っていく。アマラが確固たる自我を持つまでに成長してしまえば、その時はアマラは己の機能を認識し、立場を理解し、道具の役割を果たそうとするだろう。
そうなれば、人間の根幹が失われてしまう。世界はそう簡単には滅びはしないが、砂の粒を一つ一つ裏返すように価値観をねじ曲げていけば、人類にとって良くないことになるだろう。種としては生存していくだろうが、自分と他人の境界がなくなってしまう。アマラは、全ての知的生物の意識を繋げてしまうのだから。
それを誰かに知らせられるのは、防ぐことが出来るのは、道子だけなのだ。自分が選ばれたのだ、などとは微塵も思わない。厄介な出来事に巻き込まれた自分の不幸を呪うつもりも毛頭ない。これが運命なのだと妥協することも一切ない。だが、アマラを阻むべきだと解っていた。そして、人間として生き返って、今度こそ街で遊びたい、と。
あまりにも稚拙な憧憬ではあったが、自我を造り始めたばかりのアマラには理解も処理も出来なかったらしく、電子的な拘束が緩んだ。すかさず道子はあらゆる情報網を辿り、巡り、あの場所を見つけ出した。
浄法寺だった。ご本尊の前には似付かわしくない大型テレビとゲーム機の散乱する本堂で、酒瓶に囲まれている寺坂は血の染み付いた法衣を睨み付けていた。時折、畜生、と腹立たしげに毒突いては酒を呷っている。道子は少々躊躇ったが、意を決して大型テレビの無線LANに侵入した。テレビの電源を入れてから、立体映像として認識出来るように外見の情報を調節してから、ホログラフィーを投影させた。
『あの……』
恐る恐る寺坂に話し掛けると、寺坂は缶ビールを落とし、盛大に畳に零した。
「お」
それから、長い長い間があった。道子がはにかむと、我に返った寺坂が詰め寄ってきた。
「みっちゃん! そうだよな、みっちゃんだよな!? なんでそんな格好してんだよ!」
『ええと、詳しく説明すると長くなるから、要点だけ掻い摘んで説明すると……』
道子は思考に流し込まれたばかりの用語を使いこなせているかが心配だったが、ヴォーズトゥフの正体と遺産であるアマラの能力と目的、アマラに生まれたばかりの自我について説明した。寺坂は次第に酔いが冷めていったのか、真顔になって道子の話に聞き入っていた。説明が一段落すると、寺坂は舌打ちした。
「俺の想像よりも遙かに悪かったな。あのクソ爺ィめ、こうなると解ってアマラを売り払やがったな?」
『ごめんなさい、寺坂さん。私がもっと気を付けていれば』
道子が項垂れると、寺坂は右腕を振った。包帯が緩んでいて、触手が何本か零れ落ちた。
「いいってことよ。俺も一瞬気が抜けちまったんだ。あと、みっちゃんの首から下はちゃんと荼毘に付しておくから、安心してくれよ。遺骨になったら骨壺に入れて、この寺に置いておいてやる。ずっとここにいていいんだ」
『その名前は、桑原れんげにしておいてくれますか?』
「そりゃまたどうして。みっちゃんはみっちゃんだろ」
『桑原れんげにしておけば、アマラは見逃してくれると思うんです。設楽道子のままだったら、アマラが鬱陶しがって浄法寺ごと寺坂さんを葬り去ろうとするかもしれないから。だから』
「解ったよ。だが、俺の中には桑原れんげはいない。みっちゃんは最初から最後までみっちゃんなんだ」
『……ありがとうございます』
気遣いに道子がちょっと泣きそうになると、寺坂はへらっとした。
「気にするな、俺とみっちゃんの仲じゃねぇか。で、これからどうする」
『私はこっち側から出られそうにないから、アマラが悪いことに使われないように、封じ込めておこうと思うんです。私自身がアマラと桑原れんげに関する記憶をなくせば、アマラも身動きが取れなくなる。アマラは桑原れんげっていう概念を得て初めて自我が完成するから、それさえなくなればなんとかなるはず。ネットに散らばっている桑原れんげ関連のデータも一切合切消していきます。そうすれば、きっと上手くいくから』
「頑張れよ、みっちゃん」
『うん。寺坂さんも』
道子は笑い返すだけで精一杯だった。次の瞬間、道子はアマラによって電脳世界に引き摺り戻された。しかし、必死に抵抗し、ネットワークを利用して引き上げた演算能力でアマラを抑圧し、その隙に行動に出た。まずは自分の脳に手を加えて過去の記憶を全て消し、桑原れんげに関するデータを保存しているパソコンや携帯電話などを全てハッキングして削除に削除を繰り返し、アマラが桑原れんげに成り切るために必要な土壌を壊し尽くした。
やるべき事を終えた後、道子は再び目覚めた。ハルノネットのサイボーグであり、会社に仇を成す者達を処分する工作員として。直属の上司となった美作彰に関する記憶も失っていたため、憎悪も嫌悪も覚えず、一定の距離を保ちながら裏工作に明け暮れていた。アマラの存在は認識していたがその用途も意図も忘れていたため、使うことはなかった。三年後のある日、吉岡グループの社長令嬢、吉岡りんねがハルノネット本社を訪れた。
そして、道子はりんねの部下として引き抜かれた。
三年ぶりに訪れた浄法寺は、変わっていなかった。
庭が荒れ放題であることと、車庫に納車されているスポーツカーが増えていることで時間が経過したことを認識した程度だった。レイガンドーの機体を借りている道子は歩調を緩め、寺の正門を潜った。肩に乗っている美月は、山道を走り回るロボットの肩の上にいたせいか若干酔っていて、顔色が悪かったので地面に下ろした。美月は多少足元がふらついていたが、しばらく座り込んで休んでいると調子が戻ってきたらしく、顔色も良くなってきた。
「ごめんなさい、美月さん。こんなことに付き合わせちゃって」
道子が謝ると、美月は首を横に振る。
「いいの。こっちこそ、レイのこと、大事にしてくれてありがとう。バランサーのクセが解っていた走りだったし」
「さすがはマスターですね。それに気付くなんて」
「へへへ」
道子が褒めると、美月は照れ笑いした。
「あれ? ミッキーにレイ、なんでここにいるの?」
不意に、聞き覚えのある少女の声がした。道子と美月が寺の境内に振り返ると、そこには警官ロボットのコジロウを伴ったつばめがいた。美月が気まずげに口籠もったので、道子は一歩前に踏み出して胸に手を当てた。
「驚かせてごめんなさい、つばめちゃん。私はレイガンドーじゃなくて、訳あって彼のボディを借りているんです。寺坂さんに伝えてもらえませんか。設楽道子が戻ってきたって。そう言ってもらえれば、解ってくれるはずです」
夜露が残っていた草の葉が垂れ、雫が地面を叩いた。つばめはしばしの間言葉を失っていたが、コジロウに道子を見張っておいてくれと命じてから本堂に駆け戻っていった。美月とコジロウの視線を浴びながら、道子は境内の空気を吸い込んでみたが、生憎、ロボットの吸排気フィルターでは朝露の匂いが解らなかった。
また彼に会えると思うと、嬉しくなった。




