アバターも笑窪
カメラのフラッシュが大量に瞬く。
画面が白飛びするほどの閃光が延々と続き、フラッシュの数に応じたレンズを向けられている少女はにこやかに手を振っていた。四方八方からもテレビクルーがライトを照射しているが、少女の足元には影はなく、どれほどの光を浴びようとも体の色彩に変化は起きなかった。会社関係者がずらりと揃っている長机に用意されていたミネラルウォーターのボトルを手にしようとするも、少女の指先は擦り抜けてしまい、はにかんでみせるとまたもフラッシュが瞬く。本尊と豪奢な仏壇が備わった仏間には似合わない大型液晶テレビの中で、微笑み、全方向に愛想を振りまいているのは、桑原れんげだ。ハルノネットの新社長として、就任記者会見で発表を行っている。
「要するに、あれは概念の固まりなんだよ。立体映像とはちょっと違うんだな」
そう言ったのは、法衣を着崩して胡座を掻いた寺坂善太郎だった。
「概念?」
って何、とつばめが問うと、寺坂の隣でだらしなく寝そべってテレビを見ている一乗寺昇が言った。
「あれをこうすりゃこうなる、っていう法則みたいなもんだね。その辺を説明するのは面倒臭いしー、学校から資料を引っ張り出してきてまとめるのも面倒臭いから、もう俺の主観で説明しちゃう。そもそも、本を正せば桑原れんげっていうのは普通の人間だったのね。まー、紆余曲折あって死んじゃって、よっちゃんの寺に納骨されているけどね。で、あの概念娘は、その桑原れんげの名前と外見の情報と人格の残り滓みたいなものを掻き集めて出来上がっているのね。でも、それだけじゃ桑原れんげは具現化しない。せいぜい、ちょびっと成長した人工知能になるのが限界だったのよ。だけど、あいつは遺産であるアマラの能力を使って明確な概念を形作ったの」
アマラってこれくらいの長さの針ね、と一乗寺は指を開いて数センチの空間を作る。
「でも、どうやって桑原れんげはアマラを手に入れたの? そもそも、なんで遺産がばらけているの?」
つばめが問うと、寺坂は禿頭を掻き毟る。
「その辺のことは知っていたって教えられるかよ。一乗寺に聞け、そんなもん」
「えー、俺もよく知らないー。桑原れんげってのが俺達の意識に滑り込んできて第三者的な視点を作ってその延長で自我を拡張した挙げ句に個体として明確な自我を確立したってことは把握しているんだけどー」
ごろりと回転した一乗寺に、寺坂は毒突いた。
「だったらなんで俺んちに来たんだよ! 帰れよ!」
「えぇー、いいじゃーん。どうせ暇なんでしょー?」
一乗寺は頬杖を付き、にやにやする。寺坂はつばめとコジロウを見、残念がった。
「だったら、せめてみのりんも連れてこいよ。つっまんねー」
「お姉ちゃんは仕事だし、私も訳が解らないうちに先生に連れてこられたんだもん」
ねー、とつばめがコジロウを見上げると、コジロウは頷いた。
「その通りだ」
「だって、あのままの状態だったら、俺達だけじゃなくてコジロウまで桑原れんげに意識を侵食されたままだったんだもーん。だから、差し当たって桑原れんげが手を付けられない場所に来たの。よっちゃんちはまあ、なんていうか、桑原れんげにとってはエアーポケットみたいな場所だからね」
うふふ、と一乗寺は笑う。
「でも、それの何が拙いのかすら私にはよく解らないんだけど。そもそも、桑原れんげって……誰?」
つばめは法事などで使うであろう厚手の座布団に座り、テレビを見上げていた。ドライブインにて小倉美月とそのロボットであるレイガンドーと会い、突如現れた吉岡一味の配下である人型重機の岩龍と一戦交えた末、コジロウと手を繋いで帰宅したことはよく覚えている。その道中で、今日の夕飯は何にしよう、予習と復習が早めに終わったらコジロウの外装を磨いてあげようか、などと他愛もない会話をしていたことも、しっかりと記憶している。だから、今夜の夕食は冷蔵庫に残っている食材で在り合わせのカレーを作ろう、との結論を出したことも、コジロウの外装を磨くために買い込んでおいたカーワックスとスポンジを玄関先に出しておいたことも、美野里の帰宅時間を把握するために事務所に電話したことも。けれど、桑原れんげに関する記憶は一切合切残っていない。
けれど、つばめの手元にあるノートには、見知らぬ人間の字で一乗寺の板書を書き写してある。ドライブインにて誰かが抹茶アイスを食べていたのはうっすらと覚えているが、それが誰なのかがよく見えない。美月とその誰かが会話している様を目にしたが、興奮気味にレイガンドーの部品について熱っぽく語る美月の横顔しか覚えていない。その誰かが桑原れんげなのだということは薄々覚えているのだが、桑原れんげに関する記憶が焦点を結ばない。まるで、誰かが記憶の中に細切れにした写真をばらまいていったかのように。
「まあ、元を正せば、これなんだがな。桑原れんげってぇのは」
腰を上げた寺坂は廊下に面した障子戸を開き、中庭に面した窓の下にずらりと並ぶ骨壺の中から、骨壺を一つ手にした。ぱっと見ただけでも、数十人分の遺骨があった。うえ、とつばめが思わず声を潰すと寺坂は、仏さんには礼儀を弁えろよ、と諌めてきた。寺坂はつるりとした白磁の骨壺を持ってくると、つばめ達の前に置いた。
「これが、桑原れんげだ」
ごっとん、と重みのある音と共に畳に据えられた骨壺には、その通りの名札が貼られていた。桑原れんげ、享年十七歳。名札には細かな個人情報が記載されていたが、住所や電話番号を見てみても、つばめには今一つぴんと来なかった。それどころか、薄ら寒くなってきた。
「……もしかして、あれ、幽霊とかじゃないよね?」
怯え半分につばめがテレビを指し、ハルノネットの今後の展開について語るれんげを指すと、寺坂は笑う。
「そんなに可愛いもんじゃねぇよ。幽霊ならまだマシだ、人間をビビらせるだけなんだから。だが、この桑原れんげはそうじゃねぇ。被害者って言えば被害者ではあるが、加害者って言えば加害者だ。アマラにいいように使われているんだからな」
「そもそも、アマラは情報処理能力に特化した遺産なの。つまり、遺産全体を管理するスパコンみたいなもん」
「こんなに小さいのに?」
と、つばめが先程の一乗寺の手振りを真似て指を曲げ、数センチの隙間を作ると、一乗寺は頷く。
「そうなの。ま、オーバーテクノロジーに人間の感覚を適応するのがそもそもの間違いなんだよね。アマラの本質は情報処理能力じゃなくて、ネットワーク内に意識を連結した異次元宇宙を構築することにあるの」
「へ?」
いきなり話がぶっ飛んだ。つばめは面食らうが、寺坂は続ける。
「噛み砕きまくって消化出来るレベルで言うとだな、インターネットとかの中に新しい世界を作れるんだよ。一昔前の語彙で言うところのバーチャルリアリティだな。だが、バーチャルでもなんでもないんだよ、アマラに掛かると。あれはまた別の高位次元宇宙と接続して量子アルゴリズムで情報処理を行うから、つまりなんだ、っておいどうした?」
「意味解らない! 何言ってんのかさっぱり解らない!」
つばめは畳に突っ伏し、意味もなく殴り付けた。そうでもしないと、発散出来そうになかったからだ。
「SFとか読まないのかな、最近の子供は。ハイペリオンでも読めば解るよ、なんとなーく」
「俺だって隅から隅まで理解している訳じゃねぇが、そういうことだってことぐらいは解るんだがな。なんとなーく」
「結局あんたらもなんとなくじゃないか」
大人二人の頼りない語彙に、つばめは顔を上げた。すると、コジロウが腰を曲げて覗き込んできた。
「一乗寺諜報員と寺坂住職の意見を総括すると、アマラとはネットワーク上に形成した異次元宇宙の内部にて量子アルゴリズムによる情報処理を行う能力を備え持った量子コンピューターの一種であり……」
「もっと総括して。要約して」
「その命令は」
コジロウが言い淀んだので、つばめは押し切った。
「要約して! 未だに携帯も持たないしネットもやらないアナクロな私が解るぐらいに!」
「……了解した」
コジロウは頷き、しばしの間の後に言い直した。
「アマラとは佐々木長光氏が所有権を持つ遺産の一つであり、とにかく物凄いコンピューターである」
「また随分とざっくりした語彙にしやがったな」
寺坂が苦笑すると、一乗寺はへらっとする。
「つばめちゃんだからねぇ」
「うん、まあ、なんとなーく解った。で、そのアマラがテレビに映っている桑原れんげの正体なの?」
とりあえず話の軸を理解したつもりになり、つばめが二人に話を振ると、一乗寺は座布団を抱いて寝そべる。
「そう言うとちょっと語弊があるんだな、これが。桑原れんげっていうのは、その骨壺の中の人の名前なのであって、テレビの中の桑原れんげはその名前をファイル名にして作り上げた疑似人格みたいなもんなのね。名前を付けると概念が個体化するってのは昔からよくあるじゃない、都市伝説とかね。口裂け女とか人面犬とか、いたかもしれないけど本当にいるわけじゃないモノの噂だけが世間を駆け巡った挙げ句、今では立派な妖怪扱いだ」
それと一緒、と一乗寺が締めたが、つばめはまた混乱してきた。
「え、えー? つまり、ええと、そのなんだ、桑原れんげは妖怪になるの? コンピューターなのに?」
「まあ、桑原れんげ本人に取っちゃ妖怪レベルの怪異だろうぜ」
寺坂は灰皿を持ってくると胡座を掻いて座り、法衣の懐から出したタバコを吸った。
「つまり、桑原れんげってのは不特定多数の人間の意識で作った幻影なんだよ。で、その型になっているのが本物の桑原れんげの人格であり、外見であり、人生なんだ。だが、あくまでも情報だけで作った空っぽの偶像に過ぎないから、見る者によってその外見や性格が微妙に違ってくる。だから、つばめの見た桑原れんげは、つばめの理想を写し取ったものなんだ。都合の良い友達だっただろ?」
「う、うん」
そう言われてみると、確かにそうだ。つばめは俯き、畳の目を凝視した。朧気な記憶を貼り合わせ、繋ぎ合わせて思い出してみると、そうかもしれない。いや、そうなのだ。具合が悪くなったりして授業に出られなかった時、ノートを取ってくれるようなクラスメイトなんて今まで一人もいなかった。自分より不幸な身の上の誰かが欲しかった。そうであれば、なんで自分だけ、と腐らずに済むからだ。そして、自分が言えないことを言ってくれる誰かがいてくれたら、自分だけが抱え込まずに済むのに、とも。
「だが、それもさっきまでのことなんだ。他人の主観と視点を元にして自我を構築した概念は、最早一個の人格だ。放っておいたら拙いことになるのは、まず間違いない」
寺坂はタバコの煙をため息混じりに吹いてから、灰皿に灰を叩き落とした。
「具体的には?」
つばめが尋ねると、一乗寺がごろりと一回転して仰向けになった。
「さぁて問題です、桑原れんげが人格構築のための糧にしてきたのはなんでしょーか?」
「えーと、私とかミッキーとかの意識?」
つばめの頼りない答えに、一乗寺は天井を指差した。
「及第点。ですが、桑原れんげは人格を構築しただけでは飽き足りず、ハルノネット自体を利用して社長に就任するというマジ有り得ねーエクストリーム暴挙に出ましたー。その動機と理由はなんでしょーか?」
「なんですかその語彙は。えーと、ネットを利用して他人の意識を集めるため、とか?」
「及第点。では、そのエクストリーム暴挙の果てには何が待っているでしょーか?」
「そんなもん知りません。私は桑原れんげじゃないんだし」
「せめて回答欄には記入してから提出しろよぉー」
「えー、うーんと……」
一乗寺に不満を漏らされ、つばめは渋々考え込んだ。正直言って、何が何だかさっぱりなのだが。
「桑原れんげが全世界的ブームになるように情報操作される、みたいな?」
「大正解」
「え?」
いい加減な答えだったのに。つばめが目を丸めると、一乗寺は起き上がり、乱れた髪を掻き上げる。
「桑原れんげは他人の主観や意識を束ねて確立した自我に明確な情報と概念を与え、こっちの世界にアバターを生み出すつもりでいるんだよ。たかがコンピューターの分際で生意気にも」
「アバターって何?」
新しい単語の意味が解らず、つばめがコジロウに問うと、コジロウは答えた。
「アバターとは、インターネット上のコミュニティ内にて作り出した仮想現実内の分身という意味の英単語だ」
「じゃ、その桑原れんげ自身がそのアバターってことじゃないの? こっちの桑原れんげの」
と、つばめが骨壺の桑原れんげを指すと、寺坂は手を横に振る。
「だから、骨壺の桑原れんげがアバターになる、ってことだ。異次元宇宙と現実を入れ替えるつもりなのさ」
「そんなこと出来るの?」
嘘だぁー、とつばめが半笑いになると、コジロウが真顔らしき声色で返した。
「理論の上では可能だ」
「で、その桑原れんげの突拍子もない計画が成就したらどうなるんですか?」
つばめが挙手しながら質問すると、一乗寺はにこにこしながら答えた。
「別にどうもしないよ。世界がひっくり返るわけでもなければ核戦争が起きるわけでもなし、量子コンピューター内の仮想現実がマジモンの現実になって逆転するわけでもなし、ゲームがリアルになるわけでもなし。だけど、一つだけ問題がある。それはなんでしょーか?」
「桑原れんげの人格を構築するために必要な意識と主観と視点を作るために、アマラは不特定多数の人間の脳に働きかけてくる。要は洗脳みたいなもんさ。だが、誰も彼も洗脳される自覚もねぇし、洗脳されたところで別段支障は出ねぇけど、アマラを使って人間の思考と意識を掌握出来るとどこぞの誰かが知ったら、どうなると思う?」
つばめが答える前に寺坂が言い、サングラスの下から目を上げる。
「たとえば、吉岡りんねとか?」
怖気立ったつばめに、一乗寺は親指を立てる。
「この世は資本主義の地獄と化すね! 間違いなし!」
「じゃ、止めないとヤバいじゃん!」
つばめが今更ながら危機感を覚えると、たぶん無理だな、うん無理、と寺坂と一乗寺が同意見を述べた。今までの回りくどくて理屈っぽい説明は何だったのだ、とつばめが苛つきそうになると、寺坂は本物の桑原れんげの遺骨が収まっている骨壺を触手の右手で撫でさすりながら、桑原れんげの現状と現時点での名前を口にした。その名を聞いた途端、つばめもすぐに諦観に襲われた。それでは、勝ち目すらないではないか。
「ところでさぁ、物凄ーく根本的な質問なんだけど、寺坂さんと先生はどこでその話を知ったんですか? その、なんだ、量子コンピューターだとか異次元宇宙だとかいう、すんごい電波な話を」
動揺と混乱と危機感が一巡した末に冷静になったつばめが質問すると、寺坂は骨壺を小突く。
「そりゃ、桑原れんげから教えてもらったんだよ」
そう言われた途端、混乱が再び舞い戻ってきた。桑原れんげと言われても、どの桑原れんげなのかすらも判別が付けづらい。最低でも、桑原れんげは三人、いや、三種類ある。本物の生きた人間であった桑原れんげ、電脳世界の概念を人間にもたらして幽霊のような幻影を見せて自我を作り上げた桑原れんげ、そして、両者の狭間に存在するアバターの桑原れんげ。区別を付けるだけで手一杯になり、つばめは頭を抱えてしまった。
ふと気付くと、再び降り出した雨が屋根を叩いていた。
風呂から上がった羽部が居間を覗くと、美月がぼんやりとテレビを見ていた。
ニュース番組がトップニュースとして取り上げているのは、案の定桑原れんげだった。それはそうだろう、十四歳の少女が、しかも人間ではない存在が大企業の取締役に就任するという異例の中の異例なのだから、取り上げない方がどうかしている。羽部鏡一はのぼせかけるほど暖まった体を持て余しつつ、髪を拭いながら居間に入った。
少し毛羽立った畳が足の裏に擦れる感触がむず痒く、居間に籠もっている団欒の余韻が嗅覚を突いてくる。羽部が足音も立てずに近付いていき、声を掛けると、美月はあからさまに驚いて被っていたタオルを落とした。
「うへあっ!」
「もうちょっとさ、可愛い悲鳴を出せないわけ?」
「あ、すみません」
「別に謝る必要はないけどさ」
羽部は美月の背後に胡座を掻くと、美月はタオルを拾って被り直した。さっさと乾かせばいいものを。
「で、その……」
美月は十四歳らしからぬ語彙と態度で喋る桑原れんげを見、羽部を窺ってきたので、羽部は訝った。
「なんだよ。この僕に対して勿体振った態度を取るなんて万死に値するんだけど?」
「ああ、いえ。そうじゃなくて。羽部さんはこの子についてどう思いますか? 私はただ凄いなーって」
「どうって、別に」
「羽部さんらしからぬ薄ーいリアクションですね」
「なんだよ。それじゃ何かい、この僕は四六時中他人の粗探しをして揚げ足を絡め取りまくった挙げ句に放り投げて蹂躙して高笑いしているとでも思っているのかい?」
「あれ、羽部さんってそれが趣味なんじゃないんですか?」
「そんなわけないじゃないか。この僕は愚劣な人間を遙か高みから見下ろすべき高尚な存在ではあるけど、評価に値する人間に対しては小指の爪の先程度は敬意を払うつもりでいるよ」
「じゃ、この桑原れんげって子は凄いってことですか?」
「いや、こいつは……」
そもそも人間じゃない。だから、人間相手の評価を付けるべきではない。桑原れんげの映像を一目見てそう判断したからこそ、羽部は曖昧な返事をしたのだ。美月は桑原れんげが一番の友達だ、と言っていたはずだが、それを綺麗さっぱり忘れている。というより、そもそも桑原れんげと接していた記憶がないのだろう。だから、桑原れんげに関する記憶が抜けたところで何も感じていないのだ。
だが、羽部はそうではない。桑原れんげという存在に対し、最初から疑念を持っていた。ということから察するに、桑原れんげの何かしらの手段による情報操作を受けずに済んでいたのだろう。しかし、それはなぜか。そもそも、桑原れんげとは何者なのか。それ以前に、なぜ羽部は桑原れんげが人間ではないと直感したのだ。勘に頼った判断をすること自体、羽部の性格からすれば有り得ない。羽部の体内に残っているアソウギの存在をちらつかせて、ハルノネットの人間を利用すればある程度は情報を得られるだろうが、他人に情報を乞うのは癪だ。まだテレビを見ている美月に早く髪を乾かして寝ろと急かしてから、羽部は二階の自室に戻った。
ふすまを開けようと手を掛けたが、ふすまと柱の隙間から細い光が漏れていた。部屋を出る時に明かりはちゃんと消してきたはずなのだが。不審に思いながらふすまを開けると、この部屋のかつての住人が使っていたであろう、古びた学習机のライトが点いていた。電源コードを差し込んだ覚えなどないのだが。
「どういうことよ、これ」
羽部は疑問に思いながら学習机に近付き、裏を覗き込むと、ライトの電源コードに人形が絡み付いてコンセントに差し込んでいた。その人形は数年前に流行ったアニメキャラの可動フィギュアであったが、改造して配線を仕込んであるのか、背中にはボタン電池用の電池パックとスイッチが付けられていた。余程器用でなければ、まずこんなことは出来ないだろう。羽部はそのフィギュアを外してから、電源コードを抜こうとしたが、ふと手を止めた。
学習机を壁際から押しやってから背面部を覗き込むと、見るからに怪しげな紙の束が挟まっていた。羽部はそれを引き抜いて机の上に広げ、顔をしかめた。可動フィギュアと同じキャラクターのアニメ画像やファンアートの首から上を、全く別人の少女にすげ替えた画像ばかりだった。いわゆるアイコラにも似ているが、あちらはアイドルとヌードという同一の次元の存在同士を合成した画像だが、これは違う。根本的に違うもの同士を混ぜている。
「ん……」
紙の裏地から文字が透けて見えたので、裏返してみると、そこには件の少女に宛てた妄執的な文章がみっちりとしたためられていた。桑原れんげ様。文面の内容から察するに、この画像を作ってプリントアウトして文章を書いた人物と桑原れんげなる少女は、ネットゲームを通じて出会ったようだった。これらを書いた主は、この部屋のかつての主であるとみてまず間違いないだろう。そんな人間の名前ぐらいは、把握しておくべきかもしれない。
羽部はコラージュ画像の手紙を学習机に放り投げてから、部屋の隅に追いやっておいた中学校の通学カバンを手にした。埃を払い、擦り切れかけたビニール製のカブセを上げ、ネームプレートを見つけた。
一ヶ谷市立第二中学校、三年D組、美作彰。
紅茶の淹れられたティーカップを取った手は、テレビの中に映っている手と同じだった。
暖炉の手前に設置されている応接セットには、桑原れんげが腰掛けていた。紺色のジャンパースカートにボウタイを襟元の結んだ半袖ブラウスという、佐々木つばめの通っている分校と全く同じ制服姿だった。白いハイソックスを履いている足はスリッパには履き替えておらず、ローファーのままだった。
桑原れんげと対峙しているのは、別荘の主である吉岡りんねだった。だが、紅茶に手を付けようともせずに桑原れんげを凝視していた。大型液晶テレビでは、先程から同じニュース映像が延々と流れ続けている。桑原れんげのハルノネット社長就任会見である。アナウンサーが次の話題に移行しようとするも、新たなニュース原稿の内容はまたもや桑原れんげのものだった。アナウンサーはそれに対して疑問を抱きかけるが、愚直に読み続ける。同じ少女の名前と話題だけを繰り返し、繰り返し、繰り返し。
「頭の良いあなたのことだから、事の次第はすっかり把握しているだろうけど」
桑原れんげはティーカップを軽く回してから、くいっと紅茶を飲み干してソーサーに戻した。
「私を手に入れたいと思わない? りんねちゃん?」
「確かに、あなたは遺産の産物としてはかなり優れたものです。ハルノネットの通信網とそれに関わるデータバンクを掌握した上で人心に働きかけることが可能になれば、吉岡グループのマーケティングが容易になることでしょう。たとえ吉岡グループに反感を抱く者がいたとしても、その人心を操作してしまえばいいのですから。ですが、それがイコールで利益に繋がるというわけではありません。需要と供給のサイクルを支配することが、企業の成功であるとは限らないからです。早計です」
りんねは辛辣な言葉を浴びせるが、れんげは動じもしない。
「でもね、りんねちゃん。私と手を組めば、いいお金儲けが出来るんだけどなぁ。お金は嫌いなのぉ?」
「いえ。この資本主義社会においては、現金に勝る権力はないと判断しております」
「だったら、ぱあーっとお金儲けをしようよ!」
景気良く両手を広げたれんげに、りんねは聞き返す。
「具体的にはどのような計画をお持ちなのですか」
「んーと、そうだなぁ。とりあえず、ハルノネットの携帯とかを使っている人間の脳を一括で管理しちゃうの。で、皆の頭をダメにしてから嘘八百の病気をでっち上げて、効きもしない薬にお金をジャブジャブ使わせる」
「大規模なリコールと集団訴訟を受けてハルノネットが破綻します。却下します」
「じゃ、これはどう? 人間の意識を拾い上げて私の作った異次元宇宙に引っ張っていって、そこからこっちの宇宙に意識を引っ張り下ろす時に通行料を取るの。問答無用で」
「あなたが言うところの異次元宇宙における通貨が現実世界で換金出来る保証はありません。却下します」
「厳しいなぁー。だったら、これでどうだ! ハルノネットのスパコンを経由して世界中のコンピューターをハッキングしまくって、核兵器を発射するぞーって全人類を脅して」
「そんな稚拙な作戦は、どこぞの地上の楽園と大差がありません。却下します」
「そっかぁー、先手を打たれていたか……」
ちっ、とれんげは悔しげに舌打ちした。りんねは、ここでようやく紅茶に口を付けた。少し冷めていた。
「あなたは御自分の立場をあまり理解していないようですね」
「そんなことないってばー。だって私は、とにかく物凄いコンピューターから生まれた妖怪で都市伝説でアバターなんでしょ? だから、その立場を大いに生かしてエクストリーム暴挙をやらかそうって企んでいるんじゃないの」
「それは誰の語彙ですか?」
少々不愉快げにりんねが眉根を顰めると、れんげはにんまりした。
「えっとねー、教えてあげてもいいんだけど、教えてほしかったら私の言うこと聞いてくれないかなぁ?」
「その必然性が見当たりません」
「えぇー、遺産の恩恵を受けた仲じゃんかー。それに、これからはりんねちゃんとは対等なビジネスパートナーとしてやっていくつもりなんだから、もちろん、タダでとは言わないよ。だけど、どんなことにも対価が必要なんだ。だから、さくっと言うことを聞いてくれないかな? でないと、りんねちゃんと言えどもタダじゃ済まさないよ?」
「具体的には、どのような手段を講じるおつもりですか」
「聞いて驚くがいいよ、りんねちゃん。私は遺産同士の互換性を利用した微弱なネットワークを利用した結果、ムリョウの制御システムにアクセスすることを成功させたのだ! どうだ参ったか」
起伏のない胸を張るれんげに、りんねは少しばかり反応した。
「あらゆるネットワークから独立して稼働している、コジロウさんにですか?」
「そうだよ。コジロウ君自身がそれに気付いてシャットダウンしてシステムをリカバリーしたとしても、完全に私を排除することは無理だね。だって、私って概念なんだもん。そういうモノがいるって認識したり、見たり、聞いたりしただけで頭の中に進入出来ちゃうんだから。それが概念」
れんげはテーブルに置いてあった焼き菓子を口に放り込み、咀嚼する。
「で、そのムリョウの制御システムを私の支配下に置いちゃう。そうしたら、コジロウ君は私のアバターになる。んで、佐々木つばめを適当に半殺しにして生体組織だけを半永久的に搾り取れるようにサイボーグ化して、採取した体液から作った薬剤を利用して、私達遺産は晴れて自由を手にするの。どう、楽しそうでしょ?」
「そうですか。ですが、その計画には大きな欠点があります」
「なーに?」
にっこりと笑ったれんげを、りんねは睨み付ける。
「道具如きが自我を得たところで、作業効率が低下するだけです。あなたを始めとした遺産が独立した一個の人格を得て稼働したとしても同じことです。道具の自己判断能力など、当てにならないからです」
「あんたも道具のくせに、なーに言っちゃってんだか。てぇことはあれだね、商談不成立?」
「そもそも、あなたと私は商談の席を設けておりません。思い違いも甚だしいです」
「あ、そう」
途端にれんげは不機嫌になると、ソファーから立ち上がって腕を組んだ。
「じゃ、りんねちゃんは友達なんていらないんだぁ? そっちがそのつもりなら、私はこうしてずーっとあなたの自尊心を満たせる話をしてあげたのにね。りんねちゃんよりもちょっとどころか大分頭が足りなくて、りんねちゃんの言うことよりもかなり馬鹿なことを喋って、そのくせ難しい語彙を使っちゃうような、そんな都合の良い友達がね。そんなことだから、りんねちゃんはずうっと独りぼっちなんだよ。たった一人の友達も、つばめちゃんに取られちゃうんだよ」
「私には友人などおりません」
「開き直っちゃうの? でも、そういうのって格好悪いんだよ」
「私に必要なのは、部下だけです」
りんねは立ち上がり様に、ソファーのクッションの裏側から拳銃を抜いた。躊躇いもなくれんげに照準を合わせて引き金を引くも、放たれた弾丸は虚空を切り裂いただけだった。額を撃ち抜かれたはずのれんげは無傷で、わざとらしい笑顔を貼り付けていた。一筋の硝煙越しに、りんねはれんげを見据える。
「お引き取り願えませんか」
「じゃ、何も教えてあーげない。アマラがいないと何も出来ないくせに、アマラ以外の遺産は自分で考えることすらもろくに出来ない馬鹿ばっかりのくせに、そんな馬鹿共を大事に大事に使う奴らなんてもっと馬鹿なくせに!」
苛立ちを露わにしてれんげは歩き出したが、リビングを出る前に立ち止まり、振り返った。
「あ、そうそう。そのアマラだけどね、返してくれる? でないと、困っちゃうんだよね」
「アマラの所在など、存じ上げておりませんが」
「嘘だぁ」
れんげは振り返り、口角を弓形に吊り上げた。
「それじゃ、どうしてりんねちゃんは私のアバターの桑原れんげを雇用して使っているの? 利益とお金が大好きなりんねちゃんだもん、それ相応の価値があるって判断した人材じゃないと、そんなことするわけないじゃない。ねえ、言ってよ。嘘なんでしょ?」
「では、訂正いたしましょう。アマラという遺産の現在位置については認識しておりませんが、アマラの保持者については認識しております。ですが、私は管理職として部下を守る義務があります」
「へーえ。じゃ、どうしてその大事な部下がいなくなったことに気付いていないの?」
れんげの浮かれた言葉に、りんねは目を配らせた。キッチンにいるべき者の姿がない。
「そのようですね。ですが、彼女は」
「あいつが役に立ったことってある? ないよね? 何をやらせても失敗ばっかりで、料理はゲロマズで、ハッキングが趣味の覗き魔で、サーバールームを維持するための電気代が馬鹿にならない。なのに、どうして捨てないの?」
「それは」
「遺産を持っているからだよね? でも、その遺産をちっとも使いこなせていないよね? なのに、どうして?」
「それは……」
「その遺産を使いこなせていれば、仕事だってとっくに終わっていたのにね。部下は部下でも、使えない部下なんて必要ないじゃーん。それなのに、なんでそんな下らない意地を張るの? ねえ、どうして? それともなあに、幼稚な仲間意識に目覚めたとか? 有り得ないよね、だってりんねちゃんだもん。友達を売った、りんねちゃんだもん」
「黙りなさい」
再び、りんねは銃口を上げた。一発、二発、三発、と的確にれんげに照準を据えて発射するが、鉛玉はいずれも壁に飲み込まれただけだった。れんげは高笑いを放ちながら駆け出して、そのままいずこへと消え去った。足元に薬莢を散らしながら、りんねは珍しく呼吸を荒げていた。リビングの物陰から事の次第を窺っていた高守がりんねに近寄り、言葉少なに案じてきたので、りんねは矮躯の男に弱々しく言った。
「お気になさらず。どうということはありませんよ、信和さん」
いつのまにか浮き出していた脂汗が、りんねの頬に数本の髪を貼り付けさせていた。それを剥がしてから余熱が残る拳銃をテーブルに置き、発砲の余韻が重たい肩を回して解した。人型重機の駆動音とジープのエンジン音が近付いてきたので、りんねはベランダの窓を開けた。夜風と共に排気が吹き込んできて、リビングに濃く立ち込める硝煙の匂いを散らしていった。ジープから降りた武蔵野は、りんねを見上げる。
「どうした、お嬢。お出迎えとは珍しいな」
「姉御、テレビがちぃとも面白うないんじゃい! 同じ娘の話ばっかりじゃい! DVDでも見させてくれんかのう!」
ヘッドライトを照らしながらベランダに近寄ってきた岩龍は、幼子のように両腕を振り回す。
「巌雄さん、岩龍さん」
「ん、なんだ」
「なんじゃい、姉御」
りんねに弱い語気で呼び掛けられ、二人は不思議がりながらも言葉を返す。りんねは深呼吸した後、言う。
「道子さんを捜索して頂けませんか。そして、脳を破壊して殺害して頂きたいのです」
思わず、武蔵野と岩龍は顔を見合わせた。少々の間の後、武蔵野はりんねを問い質す。
「だが、なんでそんなことをする必要があるんだ? まずは理由を言ってくれ、お嬢」
「道子さんに利用価値があると判断出来なくなったからです。では、よろしくお願いいたします」
おいお嬢、と武蔵野から呼び掛けられたが、りんねはリビングに戻って窓を閉めた。高守は未だに熱を持っている薬莢をちまちまと拾い集めていたが、りんねに次の指示を乞うた。ソファーに身を沈めて深く息を吸い、吐き出してから、りんねは壁に埋まった弾丸の回収と壁の修繕を頼んだ。高守は短い返事をすると、すぐさま行動に移った。矮躯の男の迅速かつ的確な行動を視界の端に捉えながら、りんねは紅茶の入ったティーカップを見下ろした。
自我に目覚めた道具ほど使い勝手の悪いものはない。妙なクセが付いてしまえば、道具としての利用価値が大いに損なわれてしまうからだ。だから、この紅茶を淹れた女にも、最早興味もなければ用もない。アマラの保持者ではありながらアマラの能力をほんの少しだけしか活用出来なかったような女にも、部下としての価値はない。かすかな苛立ちに駆られたりんねは、中身の残るティーカップを持ち上げると、しなやかな手付きで暖炉に放り込んだ。
役に立たないものは、壊すに限る。
ここはどこだろう。
記憶がない。行動履歴がない。各種センサーに記録も残っていない。痛覚がないはずの脳にじわりと広がってくる圧迫感が焦燥感を生み、荒れるはずのない呼吸が乱れたような錯覚に陥っていた。記憶が正しければ、ついさっきまで別荘にいて、キッチンで夕食の支度をしていたはずなのに。その最中にりんねに紅茶を二杯淹れてくれないかと頼まれ、その通りにした。りんねが持て成した相手が誰なのかは解らなかった。否、見えなかった。
暖炉の前の応接セットに紅茶を運んでいき、りんねの前に紅茶を並べると、りんねは視線で向かい側にも紅茶を置けと合図してきた。疑問を抱きながらもそれに従い、盆を抱えてキッチンに戻り、夕食の仕込みを再開しようとしたところで記憶が途切れている。茫然自失として、道子は暗闇を仰ぎ見た。
「一体……何がどうなっているの?」
現在位置を突き止めようとGPSを作動させようとするが、回線が繋がらなかった。
「あれ? 電波が入らないの?」
無線回線の再接続を行うが、やはり繋がらない。ハルノネットのサイボーグ専用回線のサーバーがダウンしたのかと思い、携帯電話と同じカテゴリーのシステムを使ってみるが、結果は同じだった。
「え、なんで!?」
今度は別の回線を試してみるが、やはり。ならば手近な携帯電話の基地局をハッキングし、そこを経由してハルノネットに接続しようとするが、ハッキング自体が行えなかった。今し方まで目に見えるように絡め取れていた電波が、情報が、ネットワークが、何一つ感じ取れなくなっている。もしかして、銀色の針、アマラが道子の脳からサイボーグボディを侵食したのだろうか。だとしても、その理由が解らない。
ふらつきながら、道子は歩き出した。何はなくとも、この場所から移動しなければ。背の高い針葉樹と雑草が生い茂っている山の斜面を進んでいくが、裾の長いメイド服と革靴では動きづらかった。至るところで虫が鳴き、金属質な鳴き声が耳障りだ。辺りには明かりらしいものは何一つなく、夜間も見通せる機能が付いたサイボーグでなければ足元も見えなかっただろう。スカートを持ち上げながら歩き、枯れ枝と腐葉土と化しつつある落ち葉を踏み締めると、ぐじゅり、と大量の水気が溢れ出して靴下にまで染み込んできた。恐らく雨が降っていたのだ。だが、道子にはそんな記憶はない。ない。ない。何もかもがない。
高波のように襲い掛かっては収まり、思い出したように噴出してくる絶望感と戦いながら、道子は現状を打破するために歩き続けた。もしかして、自分はりんねから捨てられたのだろうか。利用価値がなくなったから、情報だけを抜き取って廃棄したのかもしれない。そうでなかったら、ハルノネットが成果を上げられない道子に見切りを付けて遺棄したのかもしれない。いや違う、そんなわけがない。自分はまだまだ戦える、アマラを持つ者として能力を全て発揮したわけではない、つばめとコジロウの思い掛けない行動によって戦況を覆されたことはあったかもしれないが、今後はそれらを踏まえた作戦を展開する。だから、お願いだ。まだ捨てないでくれ。
「いぁっ!」
不意に足を踏み外し、道子は転倒した。石か太い枝でも踏んだらしく、足首が曲がった。倒れるまいと周辺の木に手を伸ばすも、指が届く前に重量のある体は滑り落ち始めた。水気を含んで柔らかくなった枯れ葉は潤滑剤の如く道子を滑らせていく。木の根に衝突して跳ね返り、勢いを余って岩に乗り上げても、落下速度は落ちなかった。手足を必死に踏ん張って滑落を止めようとするが、木々に弄ばれるように闇の底へと吸い込まれていった。
幾度となく回転した世界が停止し、三半規管に当たるバランサーが地面との平行を取り戻した頃、道子はようやく平たい場所に落ち着いていた。だが、かなり強く叩き付けられたらしく右肩のフレームが歪んでいる。人工外皮にも損傷があるのか、破れたメイド服の下から微細な漏電が起きている。全身隈無く泥だらけで、乱れた髪の間からはムカデが一匹滑り落ちてきた。すぐさまチェックを行い、両足が稼働することを確認すると、道子は立ち上がった。
すると、聞き覚えのあるエンジン音が近付いてきた。白いヘッドライトを背中から浴びた道子が振り返ると、武蔵野のジープが道路を上ってきていた。どうやら、別荘からそれほど遠くない山道に転げ落ちてきたらしい。気が抜けるほど安堵した道子は、道路の脇に身を引いた。ジープは速度を緩めながら、道子の前に停車する。
「よう、元気か」
運転席のパワーウィンドウを下ろした武蔵野が顔を出したので、道子は笑みを見せた。
「武蔵野さぁーん、どうしたんですかぁーん?」
「何がどうなっていやがるのかは、俺の方が聞きたいぐらいだ」
武蔵野は窓枠に肘を載せ、道子を窺ってきた。道子は最低限の身だしなみとして、顔の泥と枯れ葉を拭う。
「御嬢様はいかがなさっておりますかぁーん? 御夕食の支度、まだなんですよぉーん」
「そのことなんだが、道子」
「はぁーいん?」
道子が聞き返すと、武蔵野はいやに神妙な顔をした。
「お前、お嬢を怒らせるようなことをしたのか?」
「いいえぇーん、そのような心当たりはございませぇーん」
「そうか。だったら、俺も気兼ねなく仕事が出来る」
無造作に運転席の窓からブレン・テンが突き出され、銃口が道子の額を捉えた。
「へ?」
これは何の冗談だ。道子が呆気に取られると、武蔵野は躊躇いもなく引き金に指を掛ける。
「お嬢に限って、私情で物事を判断するなんてことは有り得ないもんな。全く、信頼の置けるボスだよ」
その言葉が終わる前に発砲された。が、道子は反射的に身を下げて初発を避け、不具合の生じていない両足を使って跳躍と同時にブレン・テンを力一杯蹴り上げた。拳銃が虚空を舞うと、武蔵野に毒突かれたが、道子はその隙に逃げ出した。一層混乱を来し、目眩すら起こしそうだった。武蔵野の言葉を信じるならば、りんねは道子を殺せと武蔵野に命じたことになる。だが、何のために。役に立たなくなったからなのか。
革靴が脱げて靴下が千切れても構わずに走り続けるが、ジープの速度には敵うはずがなかった。すぐさま道子は武蔵野に追い付かれて進路を塞がれ、身を翻して元来た道を戻ろうとすると、破損した右肩を的確に狙撃された。人工外皮の裂け目に吸い込まれた弾丸は右肩の接続部分を破壊して貫通し、人工体液の循環チューブが切れ、凄まじい衝撃に道子は仰け反った。ブレン・テンとは異なる拳銃を構えた武蔵野は、運転席から下りる。
「あまり手間を掛けさせるな」
「う、うぅ……」
接続部分の金具が弾けたことで右腕が完全に壊れた道子は、苦痛に呻きながら後退る。
「何があったんですかぁ、せめて教えて下さいぃ……」
「俺に聞かれても困っちまう。俺は兵士で、武器で、道具なんだ。俺に考える頭は求められちゃいねぇんだよ」
武蔵野の語気はいつもとなんら変わらなかったが、それ故に冷酷さが際立っていた。同じ空間で暮らして日常的に接していたから少しばかり忘れていたが、この男の本分は人殺しなのだ。恐らくは道子が生まれるよりもずっと前から、他人に銃口を向ける仕事をしていたのだろう。だから、サイボーグの女を一人殺すぐらい訳もない。傭兵時代には、きっとかつての仲間を何人も殺してきただろう、殺されかけただろう。だから、人殺しこそが武蔵野の日常であり、現実なのだ。命乞いをしたところで、聞き入れてもらえるわけがない。聞き入れる価値がないからだ。
サングラスに隠されている古傷の残る目元は険しく、暖かみはない。拳銃を握る手の皮は分厚く、一歩歩くたびにナイフの鞘が重たげに揺れる。使い込まれて革が弛んでいるジャングルブーツは水溜まりを軽く踏み、ヘッドライトを受けた浅い水面が場違いなほど眩しく煌めいた。一撃で殺すつもりだ。銃口は道子の額ではなく、比較的強度の弱い人工眼球に狙いを定めているからだ。ロボットじみた外見のサイボーグであれば人工眼球とブレインケースは直結していないが、道子のように人間的な外見のサイボーグは人体の構造を模倣して作り上げられている。だから、眼球の奥にはブレインケースに包まれた脳がある。武蔵野が使用しているのが徹甲弾であればブレインケースを貫通し、確実に殺されるだろう。
「なあ、道子」
「……ふぁい」
死への恐怖で半泣きになった道子が弱く答えると、武蔵野は女の名前を口にした。
「桑原れんげって、知っているか?」
桑原れんげ。
「それ、って」
道子は恐怖も混乱も忘れ、立ち尽くした。それは、とても重大な単語だ。道子の脳が、アマラが、その単語を元に情報を検索し、索引し、展開しようとしてくる。だが、思い出したくない。それを思い出してしまえば、きっと。
「殺して下さぁあああああいっ!」
記憶のファイルを開くことすらもおぞましく、道子は絶叫する。武蔵野は身動ぐ。
「そいつはお前にとって何なんだ? 俺が見る限り、そいつはお前を中心にして発生している現象のようだが」
「お願いします、殺して下さい、武蔵野さん!」
大股に踏み出した道子は、武蔵野の握る拳銃を自身の人工眼球に押し付ける。ごり、とシリコンが潰れて内用液が滲み出し、睫毛が鋼鉄に擦れる。武蔵野は道子の豹変に戸惑うも、引き金は緩めなかった。
「そのために俺は来たんだ。確実に殺してやるよ、道子」
一つだけ言っておく。この前のスクランブルエッグだけは旨かった、それ以外の料理は最悪だった。その言葉の後、武蔵野は引き金を絞り切った。腹に響く発砲音の後に硝煙が立ち込め、サイボーグの女は眼球に焼け焦げた弾痕を空けて仰け反った。泥と雨水をたっぷりと吸い込んだメイド服の襟元に人工眼球の内用液が染み込み、人工脳漿が眼球の穴から噴出した。湿ったアスファルトに倒れ込んだ女は、会心の笑みを顔に貼り付けていた。
「で、どうする?」
武蔵野は拳銃を下げてから、ジープに振り返る。
「回収して。ブレインケースを開けて、脳みそを切り分けて、無駄遣いされていたアマラを引っ張り出すの」
ジープの後部座席から下りてきたのは、桑原れんげだった。
「うふふふふ。これでやっと、私のアバターを削除出来た。今、この瞬間から、私がオリジナルなんだ」
桑原れんげは上機嫌に浮かれながら、設楽道子であったモノに近付いてきた。
「ボディごと運んでいくのか? 脳を回収するんだったら、首だけでいいだろう?」
誰が持ち上げると思っていやがる、と武蔵野が億劫がると、れんげはにんまりした。
「首だけなんてケチなこと言わないでさぁ、全部持っていこうよ。ね? そしたら、とっても格好良いしぃ」
「効率を重視した方がいいと思うがな」
「そうかなぁー。あの人もタフな男の方が好きだと思うよ? んふふふ」
ほら早く、とれんげに急かされ、武蔵野は渋々従った。だが、それについて疑問を抱くことはなかった。なぜなら、桑原れんげは桑原れんげなのであり、桑原れんげ以外の何者でもないからだ。薄く、弱く、真水に塩水を一滴ずつ垂らすように人間の意識がたゆたう階層を侵食し続けていたからだ。携帯電話を遺棄しようと、ネットワークを全て切断させようと、サーバーをハードごと壊そうと、皆、桑原れんげからは逃れられない。
それが桑原れんげだからだ。
寺坂の住まう寺に来るのは、これが初めてだった。
初七日、月命日、四十九日と、いずれも佐々木家の自宅で法要を執り行っていたからだ。更に言えば、佐々木家の先祖代々が眠りに付いている墓も自宅の敷地内にあったので、納骨でさえも自宅の中で行った。それ故、これといって用事も私事もなかったのと、寺坂本人がちょくちょく佐々木家に入り浸っていたので、敢えて寺坂の寺へと赴く必要がなかった。だから、今の今まで、寺坂の寺がどこにあるのかすらも把握していなかった。
浄法寺。それが寺坂の実家でもある寺の名だった。つばめは自分の身長ほどもある表札を見上げながら、今更ながら寺坂善太郎が本物の住職であると認識した。経を読む姿は様になっていたが、法衣を着崩しているのと言動が仏門の人間らしからぬものばかりだったので、今一つ信用出来なかった。だが、これからは寺坂に対する認識を改めた方が良さそうだ。もっとも、尊敬に値するかどうかは別問題であるが。
「まーだゲームやってる……」
明かりの消えない本殿を見、つばめは愚痴を零した。あの後、暇を持て余した寺坂と一乗寺はゲーム機とソフトを引っ張り出してきて遊び始めたのだ。つばめもほんの少しはプレイさせてもらったが、今までテレビゲームに触れたことすらなかったので面白味が解らないうちにゲームオーバーになってしまった。だから、早々に二人に明け渡してやったのだが、二人はきゃあきゃあ騒ぎながらゲームに没頭した。時折、恐ろしく口汚い罵倒を言い合いながらも、やけに仲良く遊んでいる。爪弾きにされてしまったが、不思議と悔しいとは思わなかった。
「これからどうしよっかなぁ。ね、コジロウ?」
つばめは雨の降り止まない夜空を仰ぎつつ、傍らに立つ警官ロボットに話し掛けた。
「本官はその問いに対して答えるべき情報を持ち合わせていない」
「解っているってぇ、そんなこと。でも、何もしないってわけにもいかないんじゃない?」
つばめが階段に腰掛けると、コジロウはつばめの一つ下の段に腰を下ろした。
「だが、つばめはアマラの行動に対して攻撃を行うべきではない。その手段も持ち合わせていない」
「うん」
それはそうだ。つばめは素直に頷き、コジロウを見上げた。体格差のせいで、一段下に腰掛けていてもコジロウの頭はつばめの目線よりも高くなっている。一番近いのは肩で、その次は胸だ。
「私だって、戦うのは嫌だよ。そりゃあ、命を狙われたら、それ相応の報復はするけどさ。でないと気が済まないし、自分の身を守れないし。でも、なんだか悪いことをしているからとりあえずぶっ潰してやろう、とは思わないんだなぁ、これが。人助けなんてお金にならないしね」
「それは道理だ」
「人として間違っているー、みたいなことは言わないんだ」
「本官は人間的な主観を持ち合わせていない」
「うん、解っているって」
つばめはスニーカーを履いた両足を伸ばすと、二段下の板にかかとを付けた。
「でも、ちょっとほっとしたかな」
「その理由が見受けられない」
「そりゃ、私の中でのことだからだよ。だってさ、最初は桑原れんげって子は私のイマジナリー・フレンドだって思っていたんだもん。でも、そうじゃなかったんだ。他の誰かの想像で出来上がったモノが、アマラっていう遺産の力で増幅されて形を成しているモノなんだって解ったら、なんか、安心しちゃって。まあ、コジロウには解らないだろうけど」
つばめの呟きに、コジロウは僅かに首関節を軋ませてマスクフェイスを伏せた。彼には、解らない方がいいような気もする。想像を働かせて自分を満たすことで現実に耐えて生きているのは、つばめに限った話ではない。それを知ることが出来ただけで他人との境界が薄れたような安心感を覚える。桑原れんげがつばめを含めた人間にとって脅威となることは確実であると理解しているのに、奇妙に落ち着いた。自分の想像が投影されたものが具現化するというのは、万人にとっての理想ではないのか。虚像であろうとも、感情の逃げ場が生まれることで人間同士の軋轢が弱まるのではないか。だとすれば、桑原れんげを全否定するのは間違いではないのだろうか。
「ねえ、コジロウにも桑原れんげは見えていたんだよね?」
「本官のメモリーにはそう記録されている」
「じゃあ、コジロウの目には、桑原れんげはどう見えていたの?」
「誰でもない。本官は、その個体を桑原れんげだと確認、認識しただけであり、特定の一個人に酷似した個体として認識したわけではない。よって、つばめの問いには返答しがたい」
「……そっかぁ」
降りしきる雨の冷たさが、心の底に追いやっている薄暗い感情をざわめかせてくる。つばめはコジロウの肩装甲にそっと寄り掛かると、外装の冷たさとその奥の機械熱を感じ取り、寂しさを紛らわした。美野里はいつ頃帰ってくるだろうか。一乗寺の携帯電話を借りて法律事務所に電話し、諸々の事情で寺坂の寺にいるという留守電を残したが、それに対する返事は未だにない。気付いていないだけだろうか、或いは桑原れんげに魅入られたのか。
底知れぬ、暗い夜だった。




