一寸先はダークサイド
山奥に進みすぎて、最早、どこを走っているのかすら解らない。
街灯は一切なく、ピックアップトラックのヘッドライトだけが光源だ。月明かりさえも木々に阻まれているので遠く、少しでも気を抜けば闇に飲み込まれてしまいそうだった。体中の痛みが不安感を一層煽り立て、唇の傷口から滲む鉄の味に軽く吐き気を憶える。運転席で鼻歌混じりにハンドルを切るのは美野里ではなく、ライダースジャケットの男だった。基本的につばめは人見知りをしない性分ではあるが、こうも立て続けに騒動が起きると警戒心を抱かずにいられなかった。シートベルトを握り締め、助手席側のドアに身を寄せた。
「大丈夫だって、そう怖がらなくても」
男はへらっと笑い、慣れた仕草できついカーブにいかつい車体を滑り込ませた。その際に発生した遠心力でドアに押し付けられたつばめは、男の横顔を睨み付けた。
「怖がるなって方が無理ですって。てか、なんでお姉ちゃんを帰しちゃうんですか?」
「だって、彼女は部外者じゃないか。同行させるだけ、手間も書類も増えちゃって困るんだよね」
「お姉ちゃんは部外者なんかじゃありません、私の」
つばめは反論するために身を乗り出しかけたが、シートベルトで胃袋が圧迫されてしまい、気分の悪さが一気に高まったので口を閉じてシートに座り直した。青い顔をして俯くつばめに、男はちょっと肩を竦める。
「解る解るぅ、この道には俺も慣れるまでは酔いまくったもん。辛かったら無理せずに言いな」
「いえ……大丈夫です……」
つばめは頭痛と腹部のむかつきと戦いつつ、力なく返した。寂れたドライブインに辿り着くまでにも、これでもかと言わんばかりに曲がりくねった山道を通ってきたが、その先は更に曲がりくねっていて車酔いするなと言う方が無理な話だ。祖父が没するまで住んでいた集落は、山奥のそのまた奥にあるようだ。
ドライブインでの騒動から、既に三時間程度経過していた。大型トレーラーで乗り付けた吉岡りんねとその部下と思しきアリ型怪人に襲撃されたが、祖父と共に棺に収まっていた警官ロボットが目覚めたおかげでつばめは命拾いした。が、その後が大変だった。どこからともなく現れた政府名義のヘリコプターが駐車場に降りてきて、つばめに矢継ぎ早に難しい単語で捲し立てた後、訳が解らずに呆然としていた美野里をヘリコプターに連れ込み、いずこへと去っていった。後に残されたのは、状況を理解出来ずにいたつばめと、コジロウと名付けたばかりの警官ロボットと、なんとなく胡散臭いライダースジャケット姿の男だけだった。
するとその男は、つばめの目的地である船島集落に連れて行ってやる、と言ってきた。どう考えても怪しすぎるのだが、つばめは当然のことながら車は運転出来ず、かといって先程目覚めたばかりのコジロウも当てには出来ず、ドライブインに長逗留するのもよくなく、にっちもさっちもいかなくなってしまったので男に頼る他はなかった。退路を全て断ち切られた、と判断すべきだろう。やはり、つばめの意志などどこにもないのだ。
けれど、彼は違う。つばめは荷台を見下ろせる窓から荷台を窺うと、男が乗ってきたバイクの隣にコジロウが片膝を付いて待機していた。つばめが彼の赤く輝く目を見つめると、コジロウはすぐさまマスクフェイスを上げてつばめと目を合わせてきた。途端に気恥ずかしくなったつばめが身を引くと、男が茶化してきた。
「気になる?」
「いえっ、そんな!」
つばめが慌てて否定すると、男はにやける。
「ま、そりゃそうだよな。つばめちゃんにとっちゃ、あいつはスーパーヒーローだもんな。俺だってちょっと燃えたもん、あの登場には。で、なんで名前がコジロウなわけ?」
「あ、それは……このぬいぐるみので、咄嗟に口から出ちゃったというかで……」
つばめは座席の足元のスポーツバッグに目を落とすと、引き裂かれたパンダのぬいぐるみが詰まっていた。
「ひどいことするよねー、全く。あの烈女が君と同い年とは、ちょっーと信じられないかもかも」
「ええ全く。見た目が美少女だけど中身は極悪ですね。で、今更なんですけど、あなたはどこの誰ですか?」
なけなしの財産を切り刻まれた怒りを思い出したつばめは、ついでにすっかり失念していた用件も思い出したので、男に尋ねた。男は声を上げて笑ってから、ハンドルを切り、カーブミラーの付いた農道から集落に入った。
「そうだねー、俺もなーんか忘れちゃってたかも。んじゃ、改めて自己紹介。俺、一乗寺昇。君の担任教師。んでもって、ここが船島集落。俺が知る中でもベストオブ田舎だね」
「え、学校なんかあるんですか、こんなド田舎に」
「なんかって、そりゃ心外だなぁもう。分校ってやつだよ。でも、それはあくまでも表の顔であってだなー」
ごっとんごっとんと側溝を塞ぐ蓋の上に車体を乗り上げてから、古い家の庭先に車を止めた。降りて、と一乗寺に促されたので、つばめは車酔いで若干ふらつきながら外に出ると、そこには合掌造りの民家があった。こんな家はテレビのニュースか教科書でしか見たことがないので、つばめは少し見入った。
「ほら、これこれ。一番大事なモンでしょ」
一乗寺はつばめに骨壺を渡してから、自分の荷物を抱えて民家に向かった。つばめも自分の荷物を抱えて民家に入ると、コジロウも荷台から飛び降りてつばめの後を追い掛けてきた。一乗寺は引き戸を開けて玄関に入ると、スイッチを入れて明かりを付けた。太い梁が張っている土間にオレンジ色の電球が灯ると、その明るさで一瞬目が眩みかけた。すると、土間の奥にもう一枚引き戸があったので、つばめは訝った。
「あれ? 玄関ってここじゃないんですか?」
「雪国仕様だからね。風防室がないと、冬場は寒くってやってらんないの」
一乗寺はライダースブーツを脱いで玄関に上がったので、つばめもそれに続いた。ローファーを長らく履き続けていたせいでつま先が痛んでいたので、脱いだ途端に解放感に襲われた。コジロウはどうするのかな、と振り返ると、彼は玄関の隅に置いてあった雑巾で足の裏の汚れを丁寧に拭いてから上がってきた。一乗寺はこの家には慣れているらしく、廊下、居間、台所、と次々に明かりを付けていった。最後に仏間の明かりを付けた一乗寺は、つばめを手招いて仏壇に導いた。古びた家に見合った立派な仏壇には、斎場で見たものと同じ遺影が飾られていた。
仏壇の左隣にある掛け軸の下がった床の間に骨壺を置いてから、つばめは手を合わせた。一乗寺と共に線香を上げてから居間へと戻ると、コジロウが直立不動で二人を待っていた。古い家なので天井が高いおかげで、図体のでかいコジロウでも頭が引っ掛からずに済んでいる。だが、違和感が半端ではない。背景はいかにも古き良き日本なのだが、コジロウの風貌は特撮番組に登場するヒーローのようなので、似合わないことこの上ない。けれど、つい見つめてしまうのはなぜだろう。またコジロウと目が合い、つばめは慌てて顔を逸らした。
「お茶でも淹れてくるから、ちょっと待っててね」
一乗寺は台所に向かい、湯を沸かしながら二人分の湯飲みや急須を出し始めた。訳もなく胸が痛くなったつばめはぎこちなく後退り、コジロウと距離を空けると少しだけ胸の痛みが薄らいだのでため息を吐いた。居間の隅に積み重ねられていた厚手の座布団を二枚取って、自分の分と一乗寺の分を敷いてからなんとなくもう一枚敷いてみた。こんなことをするべきなのかと少し迷ったが、つばめはその座布団を軽く叩いてから、コジロウを見やった。すると、コジロウはつばめの意図を察したのか、モーターを唸らせながら歩み寄ってきて座布団に正座した。
「何やってんの、イヌネコじゃあるまいし」
茶葉を急須に入れながら一乗寺が笑ったので、つばめは自分の行動が照れ臭くなった。
「あーいや、その、立たせっぱなしってのもなんだなぁ、とか思っちゃって」
「御厚意に感謝する、マスター」
と、コジロウが唐突に喋ったので、つばめは照れ臭さが突き抜けて目眩すら起きた。
なんだ、なんなんだこれは。こんなことは初めてだ。相手はロボットなのに、ただの機械の固まりなのに、目を合わせるだけで混乱に襲われる。それどころか、声を掛けられただけで頭の芯がくらくらしてくる。手足が付いていて精密な回路が詰まっている金属の固まりから一本調子に礼を言われただけなのに、どうしてこれほどまでに動揺しなければならないのだろう。
数分後、一乗寺が二人分の緑茶を入れた湯飲みと茶菓子を載せた盆を携えて戻ってきた。彼はそれをつばめと自分の間に置いて胡座を掻いてから、灰が溜まっている囲炉裏を指し示した。
「これがなきゃテーブルでも何でも置けるんだけどね。まあ、古い家だから勘弁してね」
「ここってお爺ちゃんの家なんですか?」
「そうでなかったら、どこの誰の家なのさ。ちなみに俺は学校に住み込みだからね」
一乗寺は菓子鉢から小袋入りの堅焼き煎餅を取ると、煎餅を砕いてから袋の口を開けた。
「この家もそうだけど、冷蔵庫の中身も昨日付で君の所有物になったから適当に食い潰しちゃって。よかったら俺も付き合っちゃったりするよん、タダメシだったらいくらでも入るからさぁ」
「はあ……」
つばめは一乗寺の軽さに呆気に取られながらも、菓子鉢からバターどら焼きを取り、袋を開けて囓った。サービスエリアで昼食に食べたきつねうどんも、あのドライブインで小休止した際に胃袋に入れたクリームソーダも、すっかり消え失せていたので空腹だったこともあり、あっという間にそれを食べ終えて堅焼き煎餅に手を伸ばした。
「俺、前振りとか嫌いだから、ドストレートに本題に突っ込んじゃうけどね」
一乗寺は袋の底に残った煎餅の粉を食べてから、ぐしゃりと袋を握り潰した。
「つばめちゃんが成金御嬢様から狙われる理由は至って簡単で、なんか超凄い遺産を得たから、なんだよね」
「端折りすぎて何が何だか解らないんですけど」
若干濃すぎる緑茶を啜ってからつばめが苦笑いすると、一乗寺は頬杖を付く。
「だって、俺だってそのなんか超凄い遺産の正体なんて知らないんだもん。俺が知っているのはねー、政府の機密の範囲内でしか言えないのが歯痒いんだけどさ、コジロウがその一部だってことぐらいかな」
一乗寺がコジロウを示したので、つばめはコジロウを横目で見やった。直視するとまた混乱するからだ。
「でも、コジロウは見るからに警察のものじゃないですか。白と黒だし、白バイみたいな見た目だし、パトライトもあるし、背中には警視庁って字があるし、同型のロボットが交番に立っているのも何度も見かけたし。だから、コジロウは純粋な警官ロボットであって、個人の所有物になんか出来るものじゃないはずですよ。なのに、そんなコジロウもお爺ちゃんの遺産なんですか? それって根本的におかしくないですか?」
つばめが疑問をぶつけると、一乗寺はにっと口角を持ち上げた。
「おお賢いっ! んじゃ、そんな御利口なつばめちゃんにいいことを教えてあげよう。日本全国に警官ロボットが普及したのは何年前からでしょーか? はい答えて」
「えぇと、確か」
急に問題を振られて戸惑ったが、つばめは懸命に記憶を掘り起こした。弁護士一家の会話に付いていくために、テレビも新聞も毎日欠かさず見ていたので、覚えている。それまでは頭打ちだった人型ロボットの開発が一足飛びに発展した挙げ句、行政用、工業用、民間用、とあれよあれよという間に普及していったのだ。その中でも特に力を入れて開発されていたのが警官ロボットである。犯罪加害者と被害者を瞬時に識別し、複雑な法律や条令を的確に判別して行動を取り、警官の命令であっても法律違反だと判断した場合は自動的にシャットダウンするという、高度な人工知能を備えていた。犯罪者を取り押さえるための機体性能も抜群で、一体で機動隊一個小隊分もの活躍を行う、という触れ込みで全国各地に配備したのだ。それは確か、三年前の出来事だったはずでは。
「三年前、でしたっけ」
つばめが答えると、一乗寺は頷いた。
「うん、そう。大正解。で、コジロウがその警官ロボットのオリジナル。今、普及しているやつは全部コジロウのコピーってわけ。動力機関も人工知能も機体性能も何もかも劣化しているけど、充分使い物になるからね」
「へ?」
話が見えない。つばめが変な声を出すと、一乗寺は緑茶を啜る。
「で、工業用とかその他諸々のロボットも大体がコジロウを元にして製造されているんだ。んでもって、その特許やら利権やら何やらが全部長光さんのものであって、コジロウを元にしたロボットを稼動させておくだけで自動的に金が流れ込んでくるっていう寸法。最早税金みたいなもんだね」
「うえ?」
つばめが目を丸めると、一乗寺は急須からお代わりを自分の湯飲みに注いだ。
「てなわけだから、オリジナルのコジロウの性能はもうとんでもないの。オーバースペックなんてもんじゃないし、その動力源だけでもえげつないぐらいだし、とにかく常人の手に余るんだよ。スペックダウンさせた量産機の警官ロボットも充分すぎるぐらいだってのにねぇ。だから、コジロウは佐々木長光氏の所有物であると同時に、政府の管理下にもあったんだ。で、俺はその監督役であり、長光さんの後見人でもあり、政府側のコジロウの管理者でもあるという、激務を押し付けられていたわけ。ま、実のところは結構楽だったけどね、見ての通りのガチ田舎だったから。でも、長光さんがお亡くなりになってしまったから、コジロウの立場が宙ぶらりんになっちゃった。常識的に考えれば政府が所有するべきではあったんだろうけど、どうにも至るところがきな臭いし、ドサマギで変な法律を打ち立てられたら色んな意味で最悪じゃねぇのこれ、って意見が出てきたから、政府の管理下にしないために、コジロウの所有権を長光さんの血縁者に譲渡することになったわけ。それ自体は前々から決められていたけど、遺言書の中身までは知らなかったんだなぁこれが。俺だって葬儀で知ったぐらいだもん」
「ドサマギって何の略ですか」
「どさくさに紛れて。解りづらいもんでもないと思うけどなぁ」
一乗寺は渋い緑茶で喉を潤してから、続ける。
「てなわけで、つばめちゃんは晴れてコジロウとなんか超凄い遺産の相続者になったってわけさ。コジロウって、言うならば金の卵をぼっこんぼっこん産み落とすガチョウだから、吉岡グループみたいな大企業はそりゃあ喉から手がびろびろ出るほど欲しいわけよ。オリジナルを分解でもして超高性能の秘密を研究すれば量産機のグレードだって上げられるし、それでなくても金が入ってくるからね。でも、それを分不相応なつばめちゃんが手に入れちゃったからさあ大変。だから、成金御嬢様が部下を引き連れて襲撃してきたってわけ。解った?」
「まー、なんとなくは」
つばめは曖昧に答えた。こうして茶を飲んでいるだけでも金が入ってくることだけは十二分に理解出来た。そんなことが出来るのは甘い汁を吸い続けて肥え太った古ダヌキの政治家ばかりだと思っていたが、まさか自分がその立場になるとは夢にも思っていなかった。税金で大半は毟り取られるかもしれないが、手元に残る金額だけでも相当なものになるだろう。つばめがちょっと浮かれかけると、一乗寺はさらりと言った。
「だから、あの御嬢様達に殺されても誰も同情しちゃくれないからね?」
「そりゃー、まあ……」
つばめは、納得したくはなかったが理解した。自分とりんねが逆の立場であれば、死に物狂いになるだろう。
「でも、常識で考えると、吉岡りんねのしたことって犯罪ですよね。それについては何もしないんですか?」
「あのさぁ、つばめちゃん。これまで、改造人間が実在したって報道されたことある?」
サラダ煎餅を割ってから口に放り込んだ一乗寺の言葉に、つばめは首を捻った。
「ありません。てか、あれは特撮の世界であってリアルじゃないですから」
「だから、罰する法律がないの」
「へ?」
つばめが声を裏返すと、一乗寺は強調した。
「だから、法律が、ないの!」
「でも、いましたよね、改造人間。イオリさんって呼ばれていた、アリみたいなやつが」
「うん、いたよ。俺も実物を見たのは初めてだったけど、まーさかあんなに凄いとはねぇ。感心しちゃったぁ」
「じゃ、実在しているんじゃないですか」
「実在はしているけど、国が認知していないんだよ。だから、存在していないし、罰するための法もない」
「だったら作ればいいじゃないですか、そんなの!」
あまりの理不尽さにつばめが食って掛かると、一乗寺も負けじと言い返す。
「法律をそんなのとか言わない! てか、法案一つ通すのにどれだけ時間と手間と金が掛かると思ってんだよ! 大企業の横暴なんて今に始まったことじゃないし、国家全体からすればつばめちゃんの生殺与奪なんて毛の先ほどの価値もないんだから、そのためだけに法律を作るわけがないじゃんかよ!」
「つまりは私に死ねと!? 国にも法にも大人にも守られずに嬲り殺されろと!? 挙げ句の果てに全財産をあの強欲成金御嬢様に毟り取られろと!?」
「おういえーす」
変な言い回しで親指を立ててみせた一乗寺に、つばめは強烈に腹が立った。
「……コジロウにドタマかち割ってもらっていいですか」
「そりゃ困るなぁ。俺のとってもとっても大事な任務と輝かしい未来がパーになる。んじゃ、言い方を変えよう」
一乗寺は表情を元に戻すと、コジロウを指し示した。
「つばめちゃん。君は途方もない額の財産となんか超凄い遺産を手に入れると同時に、地上最強のボディーガードを手に入れた。相手は存在していないことになっている連中で、どれほど叩き潰しても罪には問われないし、相手も非合法だと解った上で行動に出ているから訴え出たりはしないだろう。て、ことはぁ」
コジロウに振り向いたつばめは、及び腰になった。
「吉岡りんねとその愉快な仲間達と、戦争してもいいってことですか?」
「おういえーす!」
無駄に元気良く答えた一乗寺に、つばめは眉を下げた。
「それ、どう考えたって私の身に余りすぎる力なんですけど。場合によっては殺人すら許されちゃいそうだし」
「まあね。でも、相手も手段を選ばないってことは、つばめちゃんも身に染みているだろ?」
「そりゃ、あんな目に遭ったんじゃ」
常人の力では、イオリの相手など出来なかっただろう。つばめがコジロウをそっと窺うと、コジロウはつばめに顔を向けてきた。また目が合いそうになり、つばめは逃げるように目を逸らした。
「だから、やっちゃいなよ。ドログチャな裁判沙汰よりも単純明快だろ?」
ねっ、と一乗寺が軽い調子で念を押してきたが、つばめは頷けなかった。そう言われても、簡単に開き直れるものでもない。出来ることならばコジロウを手放したくはないが、そのために得る財産も代償も大きすぎる。楽をして金が手に入るのはこの上なく嬉しいが、対価として被る危険が多大だ。今更ながら怖くなったが、コジロウを起動させた時点で遺産を放り出せる立場ではなくなったのだ。となれば、腹を括るしかないということか。
こうなったら、なるようになるしかない。
船島集落から山一つ越えた場所に佇む、ログハウス調の別荘。
その表札には、吉岡グループの名が仰々しく刻まれていた。雪国仕様の三階建てで一階部分は駐車場兼作業場になっており、隅に汚れた残雪が寄せ集められている庭には、やはり吉岡グループの名が印された大型トレーラーが収まっていた。この別荘を建てるためだけに森を切り開いて作った道の前後には警備用ロボットが十数体も配置され、赤外線センサーで辺りを窺っていた。雪が傾斜で滑り落ちるように設計されている屋根の端からは、暖炉が付いていることを示す煙突が伸びていて、バルコニーが備え付けられているリビングには明かりが点っていた。
最新家電と調理器具が揃ったダイニングキッチンと併設した三〇帖のリビングは天井が吹き抜けになっていて、その隅にあるレンガ組みの大きな暖炉の中では、薪が火の粉を弾けさせながら燃えていた。リビングに揃っている者達を見渡してから、吉岡りんねは一人用のソファーに腰掛けると膝の上で手を重ねた。青年は気怠げに背中を丸めてあらぬ方向を見つめていて、大柄な男は拳銃を組み立て直していて、矮躯の男は細々とした機械部品を黙々といじくり回していて、りんねの隣に控えているメイド服の女性は笑顔を絶やさなかった。
「皆さん。今しばらく、ご静聴願えますでしょうか」
りんねが切り出すと、皆、りんねに注意を向けた。りんねは彼らと一人ずつ目を合わせてから、話す。
「私達がこうして集まっている理由も、目的も、存じておられますね?」
「はぁーいんっ」
メイド服の女性、設楽道子は挙手して快活に答える。実用性重視のブリティッシュメイド形式のメイド服に包まれた体は、身長こそ女性の平均的な体格だが、重量感すらある胸がエプロンを押し上げていた。長い黒髪は三つ編みにして後頭部でくるりとまとめてあり、金色のバレッタが光っていた。目は大きめでやや丸顔ながら、美人だと言える条件を充分に備えていた。道子は両手を顔の横で重ね、弾むように喋る。
「私達はぁーん、御嬢様と御一緒にあの小娘の命と財産を狙う悪の組織みたいなものですぅーんっ」
「人聞きの悪いことを言うんじゃねぇ。大体、俺達は仕事でやっているんだ。なあ、お嬢」
大柄で凶相の男、武蔵野巌雄がりんねに向いた。骨格が太く筋肉質の体を覆っているのは、不釣り合いにも思える上等なスーツだった。角張った顔付きによく似合う色の濃いサングラスを掛けていることもあって、威圧感は相当なものでヤクザの筋者にしか見えない様相だった。りんねは、武蔵野を一瞥する。
「その通りです、巌雄さん。ですから、効率の面でも、経費の面でも、荒事を起こす前に穏便に事を解決すべきだと判断して、通夜の段階からつばめさんに接触して遺産の譲渡をお願いいたしましたが、ご承諾頂けませんでした。なので、あのドライブインで戦闘に及んだのは致し方なかったのです。ああでもしなければ、つばめさんは御自分の立場を理解すらなさらなかったでしょうから」
「そりゃそうだろ。お嬢みてぇな理屈っぽいのにぐちゃぐちゃ言われちゃ、超ウゼェし」
まだらな金髪と長い手足が目立つ青年、藤原伊織が毒突いた。軍隊アリに似た怪人体から人間体に戻っており、だらしなくパーカーとジーンズを着込んでいた。伊織から離れた位置にうずくまっている矮躯の男、高守信和は擦り切れた作業着を着ていた。だが、身長がりんねよりも低く手足も寸詰まったように短いので、両手足の裾を幾重にも折り返している。しかし、頭部と胴体はそれに反して丸っこく、ベルトもほとんど余っていないので、起き上がりこぼし人形のような印象を受ける。高守は小さな目でりんねを窺うと、喉の奥から小さく声を漏らした。
「……ん」
「あぁーいっけないんですよぉーん、私達の雇い主にそぉんな口効いちゃあーん」
道子がにこにこしながら伊織を指差すと、伊織は口元を歪める。
「雇い主っつったって、スポンサーってだけだろ。てか、俺らって、全員所属は違ぇし? つか、お嬢の親父に勝手に引っこ抜かれたつーだけで、俺は元々吉岡グループの味方でもなんでもねーし?」
「それは俺もだ。だが、名義の上じゃ俺らのリーダーはお嬢だ」
分解したオートマチックの銃身を上げて武蔵野がりんねを示すと、りんねは深々と頭を下げる。
「若輩者ではありますが、何卒よろしくお願いいたします」
「俺はそんなん納得しちゃいねーし、てか理解出来るかっつの。アホくせ」
伊織が苛立ってつま先で床を叩くと、りんねは伊織を一瞥した。
「ですが、伊織さん。佐々木つばめさんの身柄と財産を奪取する、ということが、私達の共通の目的であることにはなんら変わりありません。私達が共同戦線を敷いたのも、あちら側の戦力に対抗するためであって、馴れ合うためではありません。伊織さんに納得して頂く必要もなければ理解して頂く理由もありませんが、私達が手を組む上では多少の上下関係が必要だと判断したので、私があなた方のまとめ役を務めさせて頂くこととなったのです。あなた方がどれほど優れた能力の持ち主であろうと、使いどころを誤れば何の意味もありません。それどころか、今や無敵の財力とボディーガードを得た佐々木つばめさんにやり返された挙げ句、あなた方の母体組織すらも買収されて、佐々木つばめさんの傘下に収められてしまうかもしれません。そうなれば、戦う前に終わってしまいます」
「馬鹿言え。相手はただの中学生だぞ、お嬢と違ってな」
武蔵野が一笑すると、りんねは冷ややかに返した。
「何も違いはありませんよ、巌雄さん。私の背後には御父様と吉岡グループが控えておりますが、つばめさんの傍らにはあのロボットと無限の財力が控えております。要は、それをどう使うかです」
「金に溺れさせてぇーん、さくっと破滅させればいいんじゃないですかぁーん?」
んふーん、と道子が小首を傾げたが、りんねは意に介さなかった。
「そのような小手先の手段が通じるとお思いですか? つばめさんを養育なさっていた御家庭は、それはそれは腕の立つ弁護士一家なのです。となれば、安易な大金を得て破滅した人間の話や、借金まみれで自殺寸前に陥った人間の話を寝物語に聞いて育ったと考えておくべきです。それでなくとも、最近の子供はリアリストですから、目先の金に溺れるような素直さは持ち合わせていないと踏まえておくべきでしょう」
「お嬢、それ、買い被りすぎじゃね?」
伊織が可笑しげに肩を揺すると、りんねはきつい眼差しで伊織を見下ろした。
「敵を見くびって判断を見誤るよりは余程良いと思いますが、伊織さん?」
「そうですよぉーん、伊織さぁーん。丸腰のガキ一人なんて確実にヤれるーとか調子ぶっこいてぇーん、いの一番に突っ掛かっていったくせにぃ、回し蹴り一発で吹っ飛ばされちゃったじゃないですかぁーん。やだもう最低ぇーん!」
道子が嘲笑すると、伊織は腰を上げた。
「んだと、この脳みそ女!」
「お静かに。まだ話は終わっておりません」
りんねがやや語気を強めると、道子はちょっと物足りなさそうだったが引き下がり、伊織は忌々しげだったが腰を下ろした。りんねは今一度彼らを見回してから、深く息を吸った後に話を再開した。
「ですから私達は、効率良く、確実に、つばめさんを攻めていきましょう。各々の得意分野と能力は異なりますので、それを存分に生かしながら、全てを奪い取るのです」
「おお、おっかねぇ。だが、派手な手段は嫌いじゃないぜ」
武蔵野がにたりとすると、道子は両手を組んで身をくねらせる。
「いやぁーん全てだなんてぇ、御嬢様ったら過激ぃーん! でもそれが素敵ぃーん!」
「てか、やっぱり殺すのはダメなん?」
伊織が残念がると、高守がぎこちなく頷いた。
「ぬ」
「逆に言えば、つばめさんを殺しさえしなければ何をしてもいいということです、伊織さん」
りんねが目を細めると、伊織は肩を揺すって笑みを零す。
「手足切り落としたって構わねぇってか、っひゃっひゃひゃひゃ!」
「だったら御嬢様ぁ、次は私に行かせて下さいなぁーん!」
目を輝かせながら道子がりんねに詰め寄ると、武蔵野が片眉を吊り上げた。
「いや、俺だ。敵が俺達を見くびっている隙を衝いて攻め落とす」
「……む」
高守が丸く小さい手をおずおずと挙げると、伊織が彼を押し退けて立ち上がる。「いいや今度こそ俺だ、メスガキがあの木偶の坊を使いこなす前だったらどうにでもならぁな!」
「今夜中に、誰がつばめさんを襲撃するかを決める方法を決めてまいります。それまで、どうか大人しくなさっていて下さい。下手に暴れ回られると、必要経費が嵩んでしまうのです」
りんねが皆を見渡すと、伊織が変な顔をした。
「決めるための方法を決めるって……なんかおかしくね?」
「あなた方全員の生殺与奪、つばめさんの生殺与奪、そして私自身の生殺与奪の決定権を得ているのが、リーダーであるこの私なのです。よって、全てに置いて決定権を得ているのが私なのです。それをお忘れなく」
ソファーから腰を上げたりんねは、再度深々と頭を下げた。
「では皆様、お休みなさいませ。私はこれから入浴した後、就寝いたします。また明日、お会いしましょう」
そう言い残してから、りんねは装飾が多い螺旋階段を昇っていった。お待ち下さいませぇ御嬢様ぁんっ、お手伝いいたしますぅーんっ、と道子がその後を追い掛けていった。
「で、俺らはどこで寝るんだよ」
伊織がだだっ広いだけのリビングを見渡すと、武蔵野は分解した拳銃の整備作業に戻った。
「知らん」
「……ぬ」
気まずげに顔を逸らした高守も、それまでいじくり回していた機械部品を掻き集め、逃げるようにリビングを去っていった。伊織は仕方なく手近なソファーに座り直したが、落ち着かず、武蔵野の大きな背に声を掛けた。
「なー、おっさん」
「無駄に話し掛けるな。お前らと馴れ合うのは仕事の内に入っていない」
武蔵野が荒々しく言い捨てるが、伊織は構わずに喋り続ける。
「晩飯、死ぬほど不味かった気がしねぇ?」
伊織のストレートな言葉に、武蔵野はぎくりと厳つい肩を竦めた。ドライブインでの戦闘後、当面の活動拠点となる別荘に引き上げた。その後、メイドの道子が作った夕食が振る舞われた。肉厚のハンバーグをメインにしたコースで、前菜、スープ、肉料理、デザートと出されたのだが、どれもこれも見た目は完璧なのだが味がひどかった。
「だが、お嬢は普通に喰っていたぞ」
俺の味覚だけが変なのかと思った、と口の中で呟いてから、武蔵野は返した。
「だろ? ハンバーグなのにゲロ甘って有り得なさすぎだし、てか異常すぎだし。なんとか胃に詰め込んだけどさ」
伊織が盛大にぼやくと、武蔵野は嘆息した。
「デミグラスソースだと思ったらチョレートソースだったんだよな……。あれなら俺が作った方がまだマシってもんだ」
「にしたって有り得るかよ、あの味。あーやだやだ、明日の朝飯もあんなんだなんてマジヤベェ」
「食事は士気に直結しているってぇのになぁ」
武蔵野が伊織に同調すると、伊織は武蔵野を指した。
「んじゃ、明日っからおっさんが作りゃいいし。それで解決しねぇ?」
「生憎だが、俺の労働契約書には家事全般は含まれちゃいない」
「はぁ?」
伊織が聞き返すと、武蔵野は組み立て直したオートマチックの拳銃を握り、異常がないかを確かめる。
「俺の仕事はお嬢の身辺警護と佐々木つばめの襲撃しかしねぇ、ってこった。無駄なことをしたくはねぇんだよ」
「あー……そう言われてみりゃあ……」
伊織も自分の労働契約書の内容を思い出して、納得した。そういえば、この一味に加わる前に書いた書類には、吉岡りんねの身辺警護と佐々木つばめに襲撃を行うことで賃金が発生する、とあった。となれば、食材への冒涜のような不味い料理をそれなりに食べられるものに作り直したとしても、労働に対する対価は発生しないということだ。不味い料理に辟易した伊織や武蔵野が台所に立って料理をしたとしても、家事をしたことで発生する賃金は、全て設楽道子のものになる。彼女の場合は、戦闘員であると同時にメイドとして労働契約を交わしているはずだからだ。そう考えると、これほどまでに無駄なことはない。
「ま、どーでもいいか。てか、俺も味覚はそんなにねぇし」
だから、味にこだわる理由もない。伊織が諦観すると、武蔵野も独り言のように漏らした。
「まともに喰えりゃそれでいい」
互いが黙ると、リビングは静まり返った。二階の浴室でりんねが浴びているであろうシャワーの水音と、メイドらしくりんねに甲斐甲斐しく世話を焼く道子のブリッコ声が別荘全体に響いている以外は、耳に付いてこなかった。夜風に揺さぶられる木々の葉音や警備用ロボットの駆動音も聞こえなくはないのだが、それ以外には何もない。窓の外は墨をぶちまけたように暗く、別荘以外の建物は一切ない。生まれも育ちも都会の伊織は、落ち着かなくなってきた。こんなにも静かすぎると、逆に神経がざわついてくる。先程満たしきれなかった衝動が燻ってくる。
「うっだぁーあああっ!」
奇声を上げて跳ね起きた伊織を、武蔵野は鬱陶しげに見やった。
「なんだ、いきなり」
「っだぁーもう落ち着かねぇ!」
「暴れるなら外へ行け。俺は関わらんぞ」
「てめぇみてぇなクソ人間が、この俺の相手なんか出来るわけねぇだろ!」
伊織はそう叫ぶや否や、ベランダに面した窓を開け放った。肉の薄い背中が膨張し、色褪せたTシャツが破れて外骨格が迫り出してくる。顔が変形して複眼が現れ、一対のノコギリじみたアギトが生え、手足が更に伸びて凶悪な爪を帯び、脇腹からはもう一対の足が伸びた。2.5メートル程度の異形へと変化した伊織は、黒光りする外骨格に貼り付いている細切れのTシャツとジーンズを放り捨てると、ベランダの手すりに飛び乗り、力を溜める。
「殺しきれなかったんだよ、殺し足りねぇんだよっ!」
直後、伊織は黒い矢となって夜空に上昇していった。が、屋根を越えるかと思われた瞬間に、二階のベランダから跳躍してきた道子によって捕獲された。笑顔を全く崩さない道子は、伊織に見事なラリアットを加えて首を絡めとり、二階のベランダに舞い戻った。そのまま首を極めて伊織を引き摺っていき、脱衣所のドアを開け放った。
「御嬢様ぁーんっ、伊織さんが余計なことをなさりそうになりましたぁーんっ!」
シャンプーとリンスの甘い香りが混じった湯気を触角で感じ取った伊織が複眼を上げると、そこにはバスローブを着た濡れ髪のりんねが立っていた。湯気で若干曇り気味のメガネを掛けてから、水気を含んだ長い黒髪をタオルでまとめた後、恐ろしい腕力で伊織を拘束している道子に近付いてきた。
「ありがとうございます、道子さん。では、罰を与えないとなりませんね」
「はぁーいんっ、ではではぁっ」
道子は伊織を床に放り投げると、スカートを持ち上げながら後退した。
「お嬢、てめぇがこの俺に罰なんか……」
と、伊織は丸腰のりんねに襲い掛かろうとしたが、りんねは香水瓶を構えて吹き付けてきた。その細かな水の飛沫が触角を濡らした途端、伊織の戦闘衝動が削げ、猛烈な脱力感に苛まれた。六本の足を踏ん張って意地で起き上がった伊織は、顎をぎちぎちと鳴らしながらりんねを睨み付ける。
「てんめぇえええええっ……」
「伊織さんを改造なさった方々から頂いたもので、昆虫の鎮静と麻痺作用を含んだフェロモンだそうです。その効果が切れるまでは五六時間ありますので、その間に頭を冷やして下さい。参りましょう、道子さん」
りんねは伊織の傍を通り過ぎると、道子もそれに続いた。
「はぁーいんっ、御嬢様の仰せのままにぃーんっ」
次第にぼやけていく複眼で力一杯りんねを睨み付けながら、伊織は顎を最大限に開いて胸郭を震わせて罵声を放ったが、その語気に力はなかった。ワックスの効いた廊下に突き立てていた爪も全て抜け、俯せになると、腹部を上下させて喘いだ。だが、フェロモンに抗うことなど不可能だった。だから、あの女は嫌いだ。佐々木つばめの身柄を奪い去った後、真っ先に吉岡りんねの首を跳ね飛ばしてやる。そして、その暁には。
暴力と殺戮の快楽に浸ってやる。
人心地ついたのは、湯上がりのビールを飲んでからだった。
美野里は生乾きの髪にタオルを被せ、リビングのソファーで胡座を掻いた。大型液晶テレビのリモコンを取って、チャンネルを回してみるが、これといって興味を引くような番組は見当たらなかった。最近のドラマに面白味は感じないし、元々バラエティ番組を好んではいないし、かといって辛気くさいドキュメンタリーや堅苦しい報道番組を見るような気分でもない。だからといって、ブルーレイレコーダーに撮り溜めてある映画を見るような余裕もなく、美野里は色々と持て余した気持ちになりながらビールをもう一口啜った。
「あの子、どうしてるかなぁ」
リビングテーブルに手を伸ばし、酒の肴に持ってきたチーズ載せクラッカーを囓った。あの寂れたドライブインでの戦闘の後、美野里は政府関係者によって強引に移送された。どこからともなく飛んできたヘリコプターに乗せられ、あれよあれよという間に都内に戻されて車に乗せられ、書類の束を渡された後、両親が経営している弁護士事務所の前に放り出された。呆然としながらもその書類を見てみると、佐々木つばめと関わらないと約束するならそれ相応の対価を支払う、という内容だった。それが何を意味しているかなど、考えるまでもない。
「とことんあの子を追い詰めて身も心も痛め付けて、弱った瞬間に何もかも毟り取ろうって腹ね」
チーズとクラッカーで乾いた喉にビールを流し込み、炭酸混じりのため息を吐く。
「じょおーだんっじゃないっ!」
唐突に美野里が叫んだので、キッチンで朝食の仕込みをしていた母親の景子が驚いて駆け寄ってきた。
「な、何よ、美野里ちゃん?」
「つばめちゃんのことに決まってんじゃない! なんであの子があんな目に遭わなきゃならないのよ!」
疲労と苛立ちでいつも以上に酔いが早く回った美野里は、勢い良く立ち上がり、母親に詰め寄る。
「なんでって、そりゃ……私達は納得ずくだからよ」
景子は柔和な表情を崩さずに、美野里を宥めてきた。
「いいこと、美野里ちゃん。つばめちゃんが来てくれなかったら、お父さんの事務所も今みたいに大きく出来なかったのは間違いないし、この家だって建たなかったのかもしれないのよ」
「あの子をうちで育てていたのって、全部お金のためだったの!?」
美野里が語気を荒げると、景子はやや目を逸らす。
「あなたも弁護士の仕事をしているんだから解っているでしょうけど、世の中、綺麗事だけじゃやっていけないのよ。でもね、これだけは勘違いしないでほしい。つばめちゃんのことはあなたと同じぐらいに愛しているし、本当の娘だと思っているわ。けれど、長光さんの遺言があったから……」
「あの遺言の中身、お父さんとお母さんは知っていたの? なのに、公開したっていうの?」
「長光さんとは生前からお付き合いがあったから、薄々は。遺言があるってことは長光さんの子供さん達には既に知られていたから公開しないわけにもいかなかったし、公開しなければ私達の身が危うかったのかもしれないのよ。昼間のことで解ったでしょう、吉岡さん達は手加減もしなければ遠慮もしない方々なのよ。そりゃ、つばめちゃんが危ない目に遭うのはとても辛いし、可哀想だけど、あの子にはあのロボットが付いているから大丈夫よ」
「どれだけ凄くても、ロボットはロボットよ!」
「あのロボットの性能は、美野里ちゃんだってよく知っているでしょう? だから、後のことはあのロボットに任せてしまえばいいのよ。寂しいし、切ないことではあるけど、私達はつばめちゃんがいなかったことにして暮らしていくのが一番安全なのよ。私もお父さんも、この家と美野里ちゃんを守りたいの。解ってちょうだい」
「だからって……」
美野里は目元を手で覆うと、唇を噛んだ。母親の気持ちもよく解る。吉岡グループの権力も同然の財力を味方に付けている吉岡りんねがとんでもない少女だということも、身に染みて理解している。その部下である面々が常人でないことも、政府が渡してきた書類の内容で把握している。だから、備前家でつばめを引き取らなかったことにしてしまえば、何もかもが上手くいく。口封じのために政府からも補償されるだろう、吉岡グループも何かしらの手を回してくるだろう、少なくとも昼間のような常識外れのトラブルには巻き込まれずに済むだろう。だが、しかし。
美野里は二階の自室に戻ろうとしたが、思い直してつばめの部屋に入ってみた。佐々木長光の葬儀に出るために出かける支度をした時のままで、つばめの私物がそこかしこに残っていた。中学生二年生の女の子らしい趣味の水玉模様のベッドカバーが掛かったベッドに腰掛け、脱力感に苛まれた体を横たえた。天井にも壁にもポスターの類は貼っていないのですっきりしていて、整理整頓が行き届いている。余所者だからだ、と思っていたからだろう。
「そんなこと、ないのに」
美野里の弱い呟きは、白い天井に吸い込まれて消えた。つばめが備前家にやってきたのは、美野里が十五歳の初夏の日のことだった。一学期の中間テストが近いので午後の授業も部活もなかったので、昼をまたいで友人達とお喋りに興じた後に帰宅すると、赤ん坊の泣き声が聞こえた。乳児を連れて知り合いでも尋ねてきたのだろうか、とそっとリビングを窺うと、母親がピンク色の産着を着た赤ん坊を抱えていた。その子はどこの子、と美野里が母親に尋ねると、母親は少し嬉しそうに笑った。つばめちゃんっていうのよ、今日からうちの子になるのよ、と。物珍しさも手伝って美野里が赤ん坊を覗き込むと、笑い返してくれた。途端に、胸中に熱いものが湧いた。
その日から、美野里には十五歳年下の妹が出来た。赤ん坊が両親の関心を奪ったことによる妬ましさを感じないこともなかったが、それ以上につばめが可愛くて可愛くて仕方なかった。一人っ子なので、兄弟に憧れを抱いていたこともあり、お姉ちゃんになれたのがとても嬉しかった。だから、美野里はつばめとは対等に接してきた。姉としての立場を弁え、ケンカする時は全力でケンカして、遊ぶ時は全力で遊んで、実子と養子の間に差を付けないようにしてきた。両親もつばめを大事に育ててきたが、それは金蔓で借り物だったからなのか。
「どうすりゃいいのよ、これから」
政府から押し付けられた書類一式に署名捺印して返したら、二度とつばめに会う機会はなくなる。それどころか、つばめが家族だったという証拠さえ揉み消されてしまう。そうなってしまったら、つばめは正真正銘天涯孤独になる。十四歳なんてまだまだ幼い、周囲の大人から支えられてやっと独り立ち出来るかどうかという年齢だ。それなのに、莫大な遺産を継ぐ羽目になり、醜悪な欲望の渦中に放り込まれてしまった。
「ロボットなんかに守れるもんか」
物理的には守れるだろうが、本当の意味でつばめを守ることなんて出来ない。美野里は歯痒さを紛らわすため、力一杯枕を抱き締めた。確かにあのロボットは有能だ。五年ほど前、父親に連れられて船島集落に赴いた際に佐々木長光と連れ立って現れたのが、つばめにコジロウという名を与えられた警官ロボットだった。あの頃は長光が管理者権限を有していたので、名前は違っていた。美野里の記憶が確かなら、ムリョウと呼ばれていたはずだ。彼は長光の指示を受けて甲斐甲斐しく働いていて、長光以外の住民が退去したことで荒れていた集落全体の田畑をたった一体で耕したり、薪割りをしたり、買い出しに行ったり、と雑用をこなしていた。長光本人は善良な老人で、美野里と父親を暖かく出迎えてくれた。日当たりのいい縁側で茶を酌み交わしていると、つばめがどうしているか、と長光が尋ねてきたので、元気に暮らしています、と美野里が答えると長光は、それならいいんだ、と言った。
長光がつばめを佐々木家から引き離したのは、こういった仰々しい揉め事から遠ざけるためではなかったのか。美野里が長光であれば、そういう判断を下す。つばめの両親はどちらも行方知れずになっているのだから尚更だ。真っ当な家庭に引き取られて健やかに育ってくれ、と願うだろう。だとすれば、遺言など開くべきではなかったのだ。それなのに、美野里はろくに考えもせずにあの遺言書を開いてしまった。その結果がこれだ。
「私、お姉ちゃんなんかじゃない」
ただの頭の悪い女だ。美野里は髪がぐちゃぐちゃになるのも構わずに、体を丸めて頭を抱えた。どうすれば、妹を守ってやれるだろうか。救い出せはしなくても、支えてやれるだろうか。いい考えがちっとも浮かんでこない。
美野里は自室には戻らずに、そのままつばめの部屋で寝入った。上っ面だけの関係なんて嫌だ。本物の姉妹になれたと思っていたのが自分だけだとしたら、滑稽にも程がある。己の無力さと弱さを嫌になるほど味わいながら、美野里は泥のように眠った。混濁した記憶がランダムに繋ぎ合わされて出来上がった夢は、最悪だった。
どう動くことが、最善なのだろうか。
どうしても寝付けなかった。
つばめは布団の中で何度も寝返りを打ったが、目を開け、太い梁が横たわった暗い天井を見つめた。一乗寺が学校に戻った後、冷蔵庫の中身で在り合わせの夕食を摂り、風呂を沸かして入り、コジロウに押し入れから布団を出してもらって和間に敷いて眠ることにしたのだが、いつまでたっても神経が凪いでくれなかった。
何百回目かも解らないため息を吐いて、つばめは起き上がった。寝間着代わりにジャージを着ていたが、やけに冷え込むので、布団と一緒に出してもらった厚手の綿入れ半纏を羽織った。眠くなるまで気を紛らわそうとテレビが置いてある客間に行こうとふすまを開けると、暗闇に赤い瞳のロボットが立っていたので、つばめは心底驚いた。
「ひぃ!?」
「マスター、驚愕には値しない。本官だ」
無論、コジロウだった。つばめは二三歩後退ってから、深呼吸して落ち着きを取り戻した。
「……うん、知ってる。でも、まだ慣れていないだけ」
「マスター、本官に所用でもあるのか」
「ううん、別に。寝付けないの」
素足で板敷きの廊下を歩くと寒いので、つばめはショルダーバッグの中から靴下を取り出して履いてから、改めて和間から出た。昔の農家なので部屋がやたらに広く、つばめが寝ていた部屋も二〇畳はある。なので、廊下もそれに応じて長かった。おまけに明かりが付いていないので、コジロウがLEDで弱く灯している両耳のパトライトと赤い瞳だけが光源だった。使い込んであるので滑りがいい廊下を歩いていき、ふすまを開いたが、そこは客間ではなく別の部屋だった。もう少し歩いてから別のふすまを開くが、またしても別の部屋だった。
「ねえ、コジロウ。客間ってどこ?」
「客間は更に二つ先の部屋だ、マスター」
コジロウが廊下の奥を指し示したので、つばめは寒さで体を縮めながら進んだ。二つ先の部屋のふすまを開けると今度こそ目当ての客間で、茶箪笥の上に小さめの液晶テレビが鎮座していた。だが、何もないよりはいいので、つばめは蛍光灯を付けてからリモコンを探した。茶箪笥の引き出しの中に入っていたので、無事テレビを付けると、見慣れない深夜番組が映った。それでも音がないよりは寂しくないので、つばめはふすまを閉じてから、部屋の隅にあった石油ストーブに点火した。鈍い着火音の後に灯油独特の匂いが立ち込め、芯が赤々と輝く。
「コジロウもこっちにおいで」
「了解」
つばめが手招きすると、コジロウはつばめの傍にやってきた。つばめが座布団を持ってきてテレビの前に座ると、コジロウもその隣に正座した。ぼんやりとテレビを見つめながら、つばめはコジロウの横顔を見上げた。何度見ても胸の奥がずきりと痛む。ただの機械の固まりなのに、変に意識してしまう。今だって、隣に座っているだけなのに、夜気で冷え切っていた頬が火照ったかのように暖まってくる。
吊り橋効果ってやつかな、とつばめは中途半端に冴えた頭で考えた。あれほど解りやすい命の危機に瀕したことは初めてだったし、助けられたのも初めてだった。だから、こうも惹かれてしまうのだろう。これは恋などではない、ほんの少し恋に似た感覚に陥っているだけだ。何せ、相手はロボットなのだから。
「ねえ、コジロウ」
綿入れ半纏の袖を合わせ、その中で冷えた両手を握り締めながら、つばめは呟いた。
「お爺ちゃんって、どんな人だった?」
「本官の主観では判断を付けかねる」
「なんで?」
「本官は先代マスターの設定により、明確な人格を得るように設定されていない。どんな人か、という質問は対象者の人格を回答者の主観によって評価を下す言葉であり、本官はその主観に相当する自己判断能力を得るほどの人格は完成されていない。よって、マスターの質問には答えかねる」
「でも、優しい、とか、いい人だった、とかあるじゃん」
「それもまた、主観に基づいた感想だ。だが、本官には主観に相当する自己判断能力は備わっていない」
「面倒臭いなぁ、もう」
「より正確な情報を認識し、分析し、判断し、行動するのが本官の役割だ」
「じゃあ、別の質問にするよ。コジロウは、どうして私を守ってくれたの?」
つばめが問い直すと、コジロウは平坦に答えた。
「本官は管理者権限を有している生命体を護衛するように設定されているからだ」
「コジロウが入っている棺に触っただけだよ? そういうのって、書類の上の話でしょ?」
「それは認識を誤っている。本官を始めとした遺産の管理者権限は、ゲノム配列に記載されている」
「ゲノム配列って……遺伝子のこと?」
「そうだ」
「じゃ、私はお爺ちゃんの遺伝子が入っているから、コジロウを動かせたってこと?」
「そうだ」
「それじゃ、従兄弟の吉岡りんねも同じだってこと?」
「その可能性は非常に高い。よって、マスターが管理者権限保有者第一位であり、吉岡りんねは第二位に当たる」
「それダメじゃん」
「何がダメなのだ、マスター」
「だって、私よりも先に吉岡りんねがコジロウに触っていたら、コジロウは」
つばめが今更ながら動揺すると、コジロウは淡々と返す。
「吉岡りんねの元に下る可能性があったと同時に、全く別の固体識別名称で呼称されていた可能性があった」
「あれ? でも、そうなると変だな。コジロウを起動させることが出来るのが私とあの成金御嬢様だけだったとすると、通夜の段階でコジロウを起動させておくもんじゃないのかな? そうしておけば、成金御嬢様側が戦う前に勝てるわけだし、余計な戦いをしなくて済むし」
「その理由は明白だ。先代マスターによる本官の使用権限が完全に抹消されるのは、先代マスターが生体活動を終了したと同時に本官がコールドスリープモードに入った後、四十八時間後だ。吉岡りんねは、その情報を把握していたと仮定出来る。実に合理的な判断に基づいた行動だ」
「変って言えばさ、なんで私のお父さんとか吉岡りんねの親が先に出てこないの? 普通の遺産相続もそうだけど、遺伝子が管理者権限ってことは、その人達にも遺伝しているわけじゃん」
「管理者権限は、直系の一親等ではなく直系の二親等に遺伝するように設定されている」
「そりゃまた、ややこしいことをしてくれちゃったもんだなぁ」
つばめが綿入り半纏の袖に顔を埋めると、コジロウは言った。
「マスターは先代マスターの計らいにより、本官を始めとした遺産から遠ざけられていた。よって、マスターが本官と遺産に関わる情報を取得していないのは当然だ」
「ねえ、その遺産ってのは一体何なの? コジロウは、それが何なのか知っているんでしょ?」
「遺産の全容についての情報は取得しているが、先代マスターによりプロテクトが掛かっている。よって、現マスターの命令であろうとも情報の開示は不可能だ」
「意地悪ぅ」
「本官はシステムに則った行動を取っているだけであり、意地が悪いと称されるような行動を取ったわけでは」
「解っているって、そんなの」
コジロウには意地悪するだけの感情がないからだ。つばめはコジロウを気にしないように、テレビを見つめた。
「私がマスターになって、嬉しいとか嫌だとか、そういうのはないんだよね」
「本官には情緒的な自己判断プログラムは存在していない」
「だから、解っているっての」
「ならば、なぜマスターは質問する」
「いけない?」
「そのような禁則事項は存在しない」
「じゃ、文句言わない」
「本官の問答には、人間的な感覚で文句と呼称すべき語彙は存在しない」
「それが文句だってんの。もっと可愛げのあることを言ってよ」
「それは了解すべき事項ではない」
テレビの騒がしい音声に、二人のやり取りが重なった。しかし、それが途切れると、なんともいえない侘びしさが石油が燃える匂いと共に室内に立ち込めた。
適当な世間話を切り出そうにも、そもそも相手は世間を知らないロボットなのだ。つばめの触れる話題は限られているし、コジロウの反応も決まり切っている。だが、もっと長く話していたいと思ってしまった。それは、一人きりの寂しさを紛らわしたいからだ。決してコジロウと仲を深めようと思っているわけではない。単調な主従関係から先に進むために不可欠な土台作りだなんて、考えるわけがない。万が一考えていたとしても、それは恋心などではない。
考えれば考えるほど頭に血が上ってきたつばめは、頬を押さえた。
「コジロウ。昼間、助けてくれてありがとう」
照れる場面でも相手でもないはずなのに気恥ずかしくなり、つばめは絞り出すように呟いた。
「マスターの護衛は本官の主要任務だ。よって、礼を述べられる事項ではない」
と、コジロウが無感動に返したので、つばめは空回りする自分を情けなく思いながら顔を背けた。
「その、マスターってのはやめてくれない? なんかやりづらい」
「その理由は」
「マスターなんて柄じゃないし」
つばめは膝を抱え、肩を縮める。マスター、と呼ばれるとコジロウと自分の間に絶対的な溝が出来るようで嫌だ。コジロウは機械然としたロボットではあるが、ただの道具として扱いたくない気持ちが生まれていた。
どうせこの先、つばめは独りぼっちだ。一乗寺昇は教師であり政府の人間なので、つばめに深入りしてくれないだろう。最低限の世話は焼いてくれるだろうし、守ってくれるだろうが、あくまでも仕事の上でのことだ。だから、つばめと対等に接してくれる人間なんて二度と現れないだろう。自分を取り巻く状況の全容さえも掴み切れていないし、これからどうやって生きていけばいいのかすら把握出来ていないのだから、せめて心の拠り所だけは欲しかった。
「だから、私のことは名前で呼んで」
人形遊びの友達ごっこかもしれないが、寄り掛かる相手がいないよりはいい。
「了解した」
つばめの言葉を受け、コジロウは頷いた。短いモーター音の後、赤い瞳がつばめを照らす。
「マスター・つばめ」
「だから、そのマスターがいらないんだってば」
「では、改めて呼称する。つばめ」
「それで良し」
つばめは頬を緩ませ、頷き返した。たったそれだけのことではあったが、随分と気が休まった。不意にコジロウがふすまの外に向いたので、つばめはふすまを開けて外を見た。すると、いつのまにか雪が降り出していた。白い息を吐きながら目を丸めたつばめは、芯まで凍えるような寒さと安堵感から目尻に僅かばかり涙が浮かんだが、それをすぐさま拭い去った。
これからは、今まで以上にしっかりしなければ。身も心も強くなり、余りある財産と正体不明の遺産に押し潰されないようにしなければ。両の拳を固め、突き上げる。
「うおっしゃあああああっ!」
雪の綿帽子を被った裏庭に、つばめは意気込むために叫ぶ。
「この家も、この土地も、なんか超凄い遺産も、ざっくざく入ってくる金の山も!」
ふすまの隙間から正座しているコジロウを窺うと、途端に猛烈な戦意が沸き起こり、全力で叫ぶ。
「でっでもってぇ、コジロウも! 全部が全部私のモノだ、誰にも渡してやるもんかぁっ!」
叫び終えたつばめは拳を緩めると、白い吐息を散らしながら、自分の言葉の余韻に浸った。我ながら過激なことを言い過ぎたかな、と再度コジロウを窺うが、コジロウは少し訝しげな目線を送っているように見えた。
そう見えるのはあくまでもつばめの主観であって、コジロウの真意はそうではないのであって、と先程の機械的なやり取りで得た知識を元に考えた。だが、つばめはどうしようもなく恥ずかしくなってきて、後退った。
「つばめ。誰に対して本官の所有権を主張したのだ?」と、ふすまを開けながらコジロウが首を傾げたので、つばめは今までになく赤面して逃げ出した。
「誰だっていいだろうがそんなもんーっ!」
逃亡する理由が見受けられない、とコジロウの訝った言葉が背中に掛けられたが、つばめは涙目になるほど赤面してしまい、振り返ることなど出来なかった。
寝室である和室に飛び込んで布団に潜り込むと、暴れ狂う心臓と高熱を出した時のように火照った頬を持て余しながら、そば殻の枕を抱き締めた。こんなことでは、吉岡りんねとその一味と戦う前に悶え死んでしまう。否定に否定を重ねて自分を誤魔化してきたが、最早小手先の言い訳は通用しない。
イカレているのは自分の頭か、心か、それとももっと根本的なものだろうか。いずれにせよ、つばめが莫大すぎる遺産を相続する意志を固めた動機が、非常にどうしようもないことだけは明白だった。
一目惚れしたロボットを手放したくないがために、戦う道を選んだのだから。