知らぬがホームルーム
食卓の空席が、再び埋まることはなかった。
伊織と羽部の分の食事が並ぶこともなくなり、椅子も撤去された。マホガニーのテーブルを囲む人数は六人から四人に減り、食器が擦れる音だけが繰り返された。武蔵野は上座に座って黙々と朝食を消化しているりんねを窺うが、りんねは無言で皿を見つめ、小麦粉の味しかしないムニエルをナイフで切り刻んでいた。道子は時折二人の席を見やって何か言いたげな目をしたが、りんねの面差しを見て食事に戻った。高守は何事も起きていないかのように、矮躯を縮めて齧歯類のようにコーヒー色の苦いパンを囓っていた。
「お嬢」
居心地の悪さに辟易した武蔵野が呟くと、りんねはオレンジジュース味のスープを一口含み、返した。
「なんでしょうか、巌雄さん」
「探せと言われれば探してやるぜ、あの跳ねっ返りとイカれたヘビ野郎をな」
「いえ、お構いなく。伊織さんと鏡一さんを回収せずとも、業務は続行出来ます」
「しかしだな」
「巌雄さんは競争相手に対して、随分とお優しい御判断をなさるのですね?」
銀縁のメガネの位置を整えてから、りんねは武蔵野を見据えた。軽蔑さえ籠もった、鋭い視線だった。
「私はこれを好機とみています。伊織さんと鏡一さんが手を引いて下されば、当然ながらお二人の背後組織であるフジワラ製薬も、つばめさんには直接手出しは出来なくなります。もしもフジワラ製薬が別動部隊を組織してつばめさんを襲撃なさったら、重大な契約違反とみなして、それ相応の制裁を加えて叩き潰して差し上げます。それはあなた方についても同じことを言えます。今でこそ、私と同列に位置しておりますが、私共が定めた契約から一歩でも外れた行動をなされば、吉岡グループは全力で排除いたしますので覚悟をなさっていて下さい」
りんねは空席を一瞥する。
「それとも、何ですか? 巌雄さんは、私が伊織さんと鏡一さんに対して稚拙な仲間意識を抱いているとでもお思いだったのですか? そんなこと、有り得ません。お二人とも能力は突出しておりますが、部下としては有能さに欠けておりましたし、元来私は他人に対しては個人的な執着を抱くことはありません。同じ部署で働いているからといって、イコールで馴れ合いの関係になるわけがありません。巌雄さんも随分とロマンチストなのですね」
「……別にそういう意味じゃないんだが」
矢継ぎ早にきつい語気で言い返され、武蔵野はやや臆した。りんねは一度瞬きする。
「では、どういう意味で仰ったのか、御説明して下さい」
「殺してやるって言いたかったんだよ。あいつらは、俺達のこともある程度は知っている。それをフジワラ製薬に流されて利用されたら、後が面倒だろうと思ってな」
「道理ですね。ですが、それについては既に手を打っておりますので、御心配なく」
武蔵野の返答に納得したらしく、りんねは食事に戻った。インスタントではなくレギュラーコーヒーの粉をそのまま混ぜ込んであるパンを千切ってオレンジジュースのスープに浸し、頬張って咀嚼している。その食べ方だったらまだまともなのか、と武蔵野は苦いパンと嫌な甘酸っぱさのスープを見比べたが、どう考えても味が馴染むとは思えないので、結局試しはせずに別々に食べた。相変わらずの不味さだった。
だが、珍しいことに、スクランブルエッグは程良い塩味でまともな味付けになっていた。いつもであれば、クリームやジャムといった甘いものが掛けてあったり、ドライフルーツが混ざっていているのだが、今日に限ってごくごく普通にバターと塩コショウだけで味が調えてあった。嬉しいと思う前に、武蔵野は不安に駆られた。
「おい、道子」
武蔵野はスクランブルエッグを半分ほど食べてから、練乳まみれのサラダを食べている道子を見やった。
「なんですかぁーん、武蔵野さぁーん?」
道子が聞き返してきたので、武蔵野は味付けのことを指摘しようかと思ったが、思い直した。
「いや、なんでもねぇ」
「お代わりでしたらぁーん、仰って下さいねぇーん」
道子は暖かみのない笑顔で返してから、サラダを食べ終えてスープに取り掛かった。武蔵野はまともな味付けのスクランブルエッグを残しておき、それを心の支えにしてから、甘ったるい料理を消化していった。もしかすると、今回の味付けは道子の感覚では失敗作なのかもしれない。それを指摘してしまったがために、道子が躍起になってトンチンカンな味付けに拍車が掛かってしまったら目も当てられない。だから、何も言わないでおこう。
そう判断した武蔵野は、レモン水を飲んで口の中を洗い流してから、朝食を平らげていった。伊織と羽部の行方とフジワラ製薬の今後の動向について考えるのは、久々に有り付けたまともな料理を味わい尽くしてからにしよう、と思った。そして、こうも思った。見た目と味が合致するだけで、こうも幸せな気分になれるのかと。
食事とはこうでなくては。
つばめの目の前には、フジワラ製薬の各種権利書が差し出されていた。
どれもこれも会社の経営には不可欠なものばかりだとは薄々感じ取れるが、内容はさっぱりだった。細かい文字が紙面を埋め尽くしている書類と、それを運んできた二人の女性を何度となく見比べた。紺色のスーツを着込んで頑丈なジュラルミンケースを携えているメガネの女性は、フジワラ製薬の社長であった藤原忠の秘書、三木志摩子だと名刺を差し出しながら名乗ってくれた。三十代後半から四十代に差し掛かっているようだが、言動の力強さと芯の通った立ち姿は年齢を感じさせなかった。それどころか、若々しささえあった。
もう一人の女性は五十代手前の品の良い婦人だったが、薄手のカーディガンに包まれた上半身は、左腕が欠損していた。顔色もあまり良くなく、疲れ切った様子ではあったが、言動の端々に育ちの良さが見受けられた。藤原忠の妻であり藤原伊織の母親、藤原真子だと名乗ってくれた。
美野里の法律事務所には、いつになく緊張感が漂っていた。開業してから一ヶ月近く経過したにも関わらず、未だに整理出来ておらず、未開封の段ボール箱がそこかしこに山積みになっていて、部屋の隅には埃が溜まっている。客を通せる状態とは言い難かった。だが、非常にありがたいことに、二人の来客はそんなことは気にしないと言ってくれた。無理矢理片付けた応接セットの周囲にも段ボール箱が散らかっているので、美野里はタイトスカートを若干捲り上げて大股に歩きながら、人数分のお茶を運んできた。足元が悪いせいで盆を変な角度に傾けるので、熱い緑茶が入った湯飲みが転げ落ちそうになることが何度もあり、つばめはその度に肝を冷やした。
「お姉ちゃん、せめてこの辺だけは片付けようよ。手伝うからさ」
つばめが呆れると、美野里はつばめの隣に座り、苦笑した。
「えへへ、お願いね。お手伝いしてくれた分は、ちゃーんと御礼するから」
「それで、その、私に何の御用ですか?」
つばめは畏まりながら、二人の来客に向き直った。志摩子は緑茶を一口飲んでから、言った。
「佐々木さんは御存知かと思いますが、弊社は先日の戦闘で社長を失いました」
「えっと、御愁傷様です」
で、良かったんだっけ、とつばめが美野里に小声で尋ねると、美野里はそれでいいのよと頷いた。
「御丁寧にありがとうございます。ですが、私共は社長の死亡を確認したわけではありません。地元警察からも医療機関からも死亡診断書が発行されておりませんし、死亡届を出しておりませんので、戸籍上では生存しております。御子息である伊織さんについても同様のことが言えます。ですが、存在していないものが会社を経営出来るわけがありませんので、社長が役員会議で選抜なさっていた役員を新社長に据え、経営しております」
「はあ、そうなんですか」
「そして、新社長の元で役員会議を行い、アソウギの処分について充分話し合いました。佐々木さんの祖父である佐々木長光さんと浅からぬ縁を持つアソウギは、弊社にも莫大な利益を授けてくれましたが、一方で甚大な被害を発生させました。怪人増産計画もその一つです。新社長によって解体された怪人関連の部署から、怪人化された人々の名簿を回収してまいりましたので、どうぞお納め下さい」
志摩子はジュラルミンケースを開き、一枚のディスクを差し出してきた。つばめはそれを受け取る。
「怪人にされた人って、全部で何人いるんですか?」
「今回の戦闘でアソウギに合体した人々は二五二人、研究施設にて液状化した状態で保存容器に収納されていた人々は六十八人です。伊織さん、羽部研究員もその中に含まれております」
「で、その人達の名簿をもらっちゃっていいんですか?」
「一乗寺諜報員からフジワラ製薬にリークされた情報によりますと、佐々木さんの持つ管理者権限ともう一つの遺産の能力を用いることで怪人化された人間は元の姿に戻れると聞きました。その作業が完了し、アソウギから解放された人々の身元を調べるためには不可欠な資料ですので、佐々木さんが手にして頂かなければ三〇〇人強の人々が路頭に迷ってしまいます。そのディスク一枚に、顔写真、住民票、指紋、DNAのデータが入力されておりますので、御活用下さい。それ以外の用途に使う場合は、私共に御連絡下さい。協議の末、御返答いたします」
「解りました」
つばめはディスクを丁寧にテーブルに置いてから、緑茶を一口飲んだ。やけに渋かった。
「アソウギの所有権に関する書類はこちらです。佐々木さんの名義にお書き換え下さい」
志摩子は書類の束をつばめに差し出してきたので、つばめは再び受け取った。
「どうもありがとうございます」
つばめはその書類に目を通してみたが、やはり意味が良く解らなかったのでテーブルに置いた。恐ろしく渋い緑茶をもう一度飲むか飲むまいかを考えたが、結局手を付けなかった。そして、恐る恐る、藤原真子を窺った。藤原忠の話によれば、藤原真子は息子である伊織に捕食されて死んでいるはずではなかったのか。だとしたら、この女性は一体何なのだろう。つばめが幽霊でも見たような顔をしていると、真子は少し笑んだ。
「そう怯えなくてもよろしいですよ、つばめさん」
「え、でも……」
つばめが言い淀むと、真子は空っぽの左袖を押さえた。
「大方、夫が私のことを死んだと言ったのでしょうが、私は死んではおりませんよ。幽霊でもありません。夫が伊織にそう言い聞かせているだけなのですから」
「え?」
つばめがきょとんとすると、真子は伊織によく似た面差しでつばめを見つめた。
「御存知の通り、私はアソウギの力を借りてあの子を授かり、産みました。けれど、あの子は夫と私の子ではなく、実質的には人間と遺産の間から産まれた子です。会社の設備で伊織の遺伝子を調べてみたことがあるのですが、あの子の遺伝子情報は私を模倣したものであり、夫の部分はほとんど含まれておりませんでした。それ以外のものは、アソウギだけでした。ですから、あの子は元から人間とは言い難い生き物なのです」
淀んだ沼のような色味の緑茶に目線を落とし、真子は表情を陰らせる。
「産まれて間もないあの子に母乳を与えようとしましたが、胸を囓られて肉を持って行かれましたわ。その時の傷はまだ残っております。粉ミルクを与えても、飲んだ傍から排泄されてしまいましたし、離乳食も同様でした。唯一排泄されずに済むものは、医療機関から入手した輸血用の血液ぐらいでした。おぞましくはありましたが、それでもその頃は穏やかな日々でした。地獄が始まったのは、あの子に歯が生えてきた頃です」
左腕があるべき空間を撫で、真子は薄化粧した顔を強張らせる。
「無関係な人間に危害が加えられてはならないと、家政婦やベビーシッターも断って、私一人だけであの子を育てていました。夫は伊織が化け物であればあるほど喜んで、どこかの誰かから切除された腫瘍や切断された手足を持ってきては切り刻み、離乳食代わりに伊織に与えていました。私はそれを止めさせようとはしましたが、伊織はそれを食べてしまうのです。普通の離乳食を作り、食べさせても、口に入れた途端に吐き出してしまうのに、人間の血肉に限っては喜んで食べるんです。そして、与えられた分だけ、伊織は日に日に大きくなっていきました」
奥様、と志摩子に気遣われたが、大丈夫よ、と言って真子は話を続けた。
「何度、あの子を殺そうと思ったのか解りません。ですが、どうしても出来ませんでした。長年の辛い不妊治療の末にようやく授かった一粒種でしたし、抱き上げると良く笑う子でしたから。人間の血肉を食べることにさえ目を閉じていれば、可愛い我が子には違いありません。お腹を痛めて産んだ子ですから、愛情もあります。だから、最後の最後に躊躇ってしまったんです。あの時もそうでした」
真子は左腕の付け根を青白い指先で押さえ、背を丸める。
「あの日、私は伊織が寝付いた頃合いを見計らって、台所から包丁を持ち出しました。あの子を始末するためだけに買ってきた新品の包丁で、刃はぞっとするほど良く切れました。あの子はリビングのベビーベッドで大人しく眠っていて、片手にガラガラを握っていましたが、歯形だらけで壊れる寸前でした。一度寝付いたら二時間は起きないので、次に起きるのは夕方だと思っていました。だから、私はあの子の柔らかい首に包丁を押し付けて横に動かそうとしましたが、あの子は無意識に私の指を掴んできたんです。その手の熱さは、今も忘れられません」
つばめは思い描く。やっとのことで産んだ我が子が、世にも恐ろしい化け物であったことを。赤子特有の乳臭さの代わりに血生臭さにまみれ、濁った血液が入った哺乳瓶を銜え、人間の病んだ肉を囓り、大きくなっていく乳児を。けれど、夫はその化け物の成長を何よりも喜ぶ。化け物を愛で、慈しみ、愛情を注いでいる。その姿を目にしていると、段々と不安に駆られてくる。化け物だからと言って我が子を恐れるのは間違いではないか、と。だから、懸命に化け物の我が子を愛そうとする。我が子もまた、愛情を返してくる。ほら、やっぱり間違いだった。指を掴んでくる手はこんなにも小さく、腕はぷっくりしている、笑顔だって天使のようだ。そのあどけない仕草に、頬を緩めた瞬間。
「……伊織は、私の指を噛み千切りました」
テーブルに目線を落としている真子は、幻肢痛を紛らわすかのように、左手のあるべき部分を握る。
「あっという間に中指を食べられて、次は人差し指、親指と順番に喰われていき、とうとう手首の骨が噛み砕かれてしまいました。包丁を投げ捨てて逃げた私に、伊織は背後から飛び掛かってきました。まだハイハイが出来るようになったばかりだったのに、不思議なものです。辛うじて首に噛み付かれることは免れましたが、肩に喰らい付かれ、一息で骨を砕かれました。筋も千切れ、神経も途切れていたので、それ以上の痛みを感じなくて済んだのは不幸中の幸いかもしれませんね。私の左腕をもぎ取ると、伊織は床に叩き付けられたのに、泣き出しもせずに私の左腕を囓り続けていました。失血で意識が朦朧としていましたが、私はなんとか這いずって廊下まで逃げました。そこに夫が帰ってきました。助けてもらおうと右腕を伸ばしますが、夫は私を素通りして、私の左腕を食べている伊織の元に駆け寄っていったんです。そこで、あの男はなんて言ったと思います?」
惜しみない憎悪を宿している真子の顔には、一線を越えたが故に醸し出される奇妙な美しさがあった。
「これぞ世界征服の第一歩だ、って、心底浮かれた声で言いました。伊織に関すること以外は真面目で常識的な人だったので、いつかはまともになってくれるんじゃないかって期待していたんですけど、それを聞いた途端に全てに諦めが付きました。それから、私は志摩子さんと他の社員の方々に助けられて、なんとか命を繋ぎました。けれど、二度と自宅には帰りませんでした。夫は私が死んだのだと伊織に言い聞かせていると志摩子さんから聞きましたけど、もう怒る気にもなれませんでした。体中が傷だらけで痛かったし、恐ろしかったけれど、夫と伊織を野放しにしておくのはもっと恐ろしかったので、離婚はしませんでした。けれど、私には何も出来ませんでした。アソウギの力で怪人にされた人々が増えていっても、力を得たことで夫の愚行に拍車が掛かっていっても、ただ見ているだけで手出し出来ませんでした。口を出したところで、止まるわけがないと知っていましたから。だから、誰かが夫と伊織を止めて下さるのを待っていたんです」
そう言って顔を上げた真子は、満面の笑みを浮かべていた。けれど、そこに柔らかさはない。
「ありがとうございます、佐々木さん。夫と息子に引導を渡して下さって」
「あ、う……」
藤原忠を狙撃したのは、つばめでもコジロウでもないのに。つばめが言い淀むが、真子は笑みを保つ。
「伊織と羽部さんの行方は解らないらしいですけど、二人が餓死するのは時間の問題ですから。生体安定剤の供給も途切れてフジワラ製薬の援助もなくなったのですから、人間を捕食すればすぐに表沙汰になり、政府が殺処分して下さるでしょう。そうすれば、あの子は死んで、私はやっと自由になれます。あの子の母親でも、藤原忠の妻でもなくなれます。言い値で謝礼をお支払いいたしますわ」
本人は至極真っ当なことを言っているつもりなのだろう、真子の口調は晴れやかだった。これまで彼女が語った過去を顧みれば、真子はフジワラ製薬の最大の被害者だ。どんな形かは想像すら付かないが、遺産と交わって人間ではない我が子を産み落とした末、その我が子に左腕を喰い千切られ、挙げ句の果てに瀕死の重傷を負っていたにも関わらず夫に目もくれられなかったのだから、悲惨としか言いようがない。しかし、真子は夫と息子の元からは逃げ出したが、フジワラ製薬とは関わり続けていた。その理由は恐らく金だろう。左腕を欠損してしまったのだから、生活に支障が出るのは確実だろうし、治療や支援を受けるためにはまとまった金が必要なのも知っているが、それをフジワラ製薬から毟り取る必要はどこにもない。だから、真子も普通とは言い難い価値観の持ち主だ。
「いりませんっ!」
そんな価値観を受け入れたくないつばめは、腰を浮かせ、テーブルに両手を叩き付けた。
「アソウギの権利と怪人にされた人達の情報だけ頂ければ、それで結構です!」
「あら。それでは私の気が済みませんわ」
「どうしてもって言うなら、怪人にされた人達が元に戻った時のための施設を作るために使って下さいよ! てか、それが道理じゃないですか! 誤解されているようですけど、社長さんを撃ったのは私でもコジロウでも先生でもないんですからね! それだけは、ちゃーんと覚えていて下さい!」
言うだけ言って気が済んだのでつばめが座り直すと、真子は少し考えた後、志摩子に言った。
「では、志摩子さん。そのようにいたしましょう。佐々木さんがそう仰るんでしたら」
「はい、奥様」
と、志摩子もすんなりと承諾したので、つばめは拍子抜けした。
「え? いいんですか?」
「だって、佐々木さんは弊社の大株主ですもの」
真子の言葉につばめは心底驚き、美野里を問い質した。
「そうだったの?」
「あれ、知らなかったっけ? 長光さんはねー、吉岡グループの会社のいくつかとフジワラ製薬とハルノネットと新免工業の大株主なのよ。三割はカタいわね。まあ、弐天逸流だけはそうじゃないけどね。あれ、宗教法人だから」
しれっと答えた美野里に、つばめはこめかみを押さえた。
「てぇことは何、私が吉岡一味に負けて、あっちに利益が出たら、その分の配当金がざざっと入ってくるわけ?」
「そういう理屈になるわね」
「でも、私が最悪のタイミングで持ち株を売り払ったら、吉岡一味とその背後の会社に損失を出せるよね?」
「そういう理屈にもなるわね」
「で、私が色々とやりすぎて、吉岡グループもフジワラ製薬もハルノネットも新免工業も弐天逸流も倒しちゃったら、私の懐に入る利益も大幅に減って、共倒れしちゃうかもしれないってこと?」
「そういう理屈でもあるわね」
「ややこしいなぁ、もう」
敵対関係ではありつつも、つばめとりんねは微妙な均衡を保ち合っているとは知らなかった。持ちつ持たれつ、ということだが、利害関係が釣り合っているわけではない。吉岡一味とその背後組織が持っている遺産をつばめが手に入れたところで、イコールで利益になるわけではなく、むしろマイナスかもしれない。アソウギに溶けている人々を元に戻して社会復帰させるための手伝いをするとなれば、それ相応の支出が嵩むし、元怪人の人々がちゃんと社会復帰したからといってつばめに利益を還元してくれるという保証もないのだから。
だが、奥只見ダムの橋に散乱したアソウギを一滴残らず回収し、無限防衛装置である金属の棺、アソウギの中に収めたのはつばめとコジロウだ。アソウギを手放したり、フジワラ製薬に突き返してしまえば、前回の二の舞になるだろう。それどころか、吉岡グループがアソウギを買い上げて他の遺産と併用した攻撃を行ってくるかもしれない。事態の悪化を免れるためには、多少の損失は仕方ないことなのだ。しかし、つばめはしばらく前に三五〇〇億円もの相続税を納めたばかりであり、懐具合は暖かいとは言い切れない。それに、三〇〇人強の人間を社会復帰させるためにはどれくらいの資金が必要なのか見当も付かないので、不安になってきた。
けれど、威勢良く啖呵を切ったからには引き受けなければなるまい。つばめは必要書類に署名捺印し、美野里と志摩子に何度も内容を確認してもらい、書類の内容と意味も確認して納得してから、アソウギと三〇〇人強の人間の身柄を引き受けるという取り決めを交わした。人々が社会復帰するための下準備に必要な一時収容施設を作っておけ、という約束もきちんと行った。その後、細々とした話し合いを終えてから、志摩子と真子は東京に帰った。
その間、コジロウは事務所の出入り口を守っていた。
朝からどっと疲れてしまった。
どうせなら、このまま今日は学校を休んでしまいたい、とつばめは思っていた。
一乗寺は教師としても大人としてもいい加減だから、一日ぐらいサボったところで文句は言わないだろう。だが、一日休んだ分だけ翌日の授業内容が濃くなってしまう。普通の教師であれば数日分に分けて教えるものを、一乗寺の場合はたったの一限で教え込もうとしてくるのだ。そのせいで、一学期の半ばであるにも関わらず、既に二学期の指導要領にまで及ぶ始末で、夏休みの宿題に相当するものもとっくの昔に終わってしまった。教える方は手っ取り早くて楽なのだろうが、教えられる方はたまったものじゃない。復習するだけでも大仕事になるのだから。
堕落と勤勉の狭間で揺れながら、つばめは美野里の車に乗った。コジロウは車中にいては行動が妨げられると言って、今回はトランクには乗らずに後続してきた。助手席に座ってシートベルトを締めたつばめは、電気自動車特有の穏やかな振動に身を委ねながら、ぼんやりと車窓から景色を眺めていた。
ハンドルを握っている美野里の横顔を見、つばめは胸が少し痛んだ。奥只見ダムでの戦いの後の記憶は曖昧ではあるが、目の前で藤原忠が狙撃されたショックが抜けず、ひどくうなされて悪夢を見続けたことと、美野里がずっとつばめの傍にいてくれたことはよく覚えている。何度か目を覚ましたが、その度に錯乱したことも。
「お姉ちゃん」
「ん、なーに?」
船島集落に至る八重山方面に向かう交差点で止まり、美野里は助手席に向いた。つばめは姉に笑いかける。
「なんか、色々とごめん。でも、もう大丈夫だから」
「辛いって思ったら、ちゃんと言うのよ。私も、出来るだけのことはするから」
「お姉ちゃんは事務所が出来たばかりだし、仕事があるんだから、前みたいにべたべた甘えられないって」
「ねえ、つばめちゃん。私って、そんなに頼りにならない?」
美野里は愛車を緩やかに発進させてから、語気を低めた。
「そうじゃないけど……。でも、どうしたの、急にそんなこと言い出すなんて」
美野里らしからぬ態度につばめが戸惑うと、美野里はバックミラーに映るコジロウを捉えた。
「そりゃ確かに、私はコジロウ君みたいに頑丈じゃないわ。一乗寺先生みたいな無茶苦茶なことなんて出来ないし、寺坂さんみたいに変な体をしていないわ。政府の人達みたいにしっかりしていないし、弁護士って言ってもまだまだ駆け出しで、本当なら今もお父さんのところでイソ弁をしているべき身分と腕前で、独立なんて以ての外で。そんなことぐらい、自分が一番解っているわ。だから、私が出来ることをしようって、ずっと思っているの」
いつもよりも少しだけ速度を上げながら、軽自動車は山間の細い道に入っていく。
「それなのに、どうしてつばめちゃんはいつもそうなの?」
人通りの気配すらない交差点で一時停止し、美野里は悲しげな目でつばめを見下ろす。
「だって、私はお姉ちゃんとは違うもん」
つばめはその眼差しが耐えられず、目を逸らすと、美野里は身を乗り出してくる。
「違うって、私とつばめちゃんは何も違わないわよ! ずっと同じ家で暮らしてきたじゃない、お父さんとお母さんが育ててくれたじゃない、何度もケンカだってしたじゃない! どうしてそんなことを言うのよ!」
「だって……」
そう言われて嬉しいのに、腹立たしくもなる。つばめは俯き、美野里の視線から逃れようとした。自分一人だけで生きていけるように、いつ備前家からも世間からも放り出されてもいいように、ずっと気を張って生きてきた。それはこれからも同じで、遺産相続争いにしても、コジロウさえ傍にいてくれれば乗り越えられると信じている。美野里には迷惑は掛けたくないし、つばめの傍にいるせいで無用な被害を被ってほしくない。だから、出来ることなら、美野里は東京に帰ってほしいとすら思っていた。一緒に住むのは楽しいし、落ち着くが、それは姉のためにはならない。
「一人にはしないわ、絶対に」
美野里はつばめが膝の上で固めている右手を取り、握り締めてきた。少し冷たい手だった。
「だから、お願い。私のことも頼って」
「う、うん」
気圧される形でつばめが頷くと、美野里は見るからに安堵した顔になった。もっと自分のことを考えてほしいと思うからこそ、つばめの方から美野里と距離を置こうと考えていたのに、結局こうなってしまうのか。心配されるのも大事にされるのも可愛がられるのは嫌ではないし、もちろん嬉しいのだが、少し前までの生活とは大違いなのだ。命が危険に曝されることも少なくないし、敵は美野里でさえも利用してくるのだから、もっと危機意識を持ってほしい。
けれど、途端に上機嫌になった美野里を見ていると、何も言えなくなってしまった。にこにこしながら運転を再開した姉の横顔に釣られるように、つばめも自然と顔が緩んできた。頭は良いのに生活能力が皆無で、優しくて心配性な美野里を放ってはおけないし、変に突き放せば大泣きしてしまうだろう。だから、今のところは美野里のやりたいようにさせてあげよう。ならば、差し当たって出来そうなところから頼ってみよう。
「それじゃお姉ちゃん、今日からお米研ぎしてよ」
つばめの提案に、美野里は勇ましく親指を立てた。
「解ったわ! お姉ちゃんの本気を見せてやろうじゃないの!」
「力は入れすぎないでねー。デンプン糊になっちゃうから」
「大丈夫よ! あの時は、研げば研ぐほど水が濁るって知らなかったから、やりすぎちゃっただけなんだから!」
そう言った美野里の横顔は、自信と不安が鬩ぎ合っていた。たかが米研ぎ、されど米研ぎ。ちゃんと出来るかどうか見張ろうかな、とつばめはちらりと考えたが、任せると言った手前、横から口出しすると鬱陶しがられてせっかくの美野里のやる気を削いでしまいかねない。だから、御飯が炊き上がるまでは何も言わないことにしよう。つばめはいつになく気合いの入った美野里に頬を緩めつつ、パワーウィンドウを下げて風を入れた。
少しだけ、気持ちが晴れた。
一旦自宅に戻って制服に着替えた後、つばめは登校した。
きっと今頃は、一乗寺が退屈していることだろう。職員室でぼんやりとパソコンをいじっているか、教室中に手持ちの武器を広げて恍惚としながら手入れをしているか、暇潰しにトレーニングでもしているか、のどれかに違いない。そして、つばめが運んでくる弁当を心待ちにしているはずだ。一乗寺もまた、美野里と同等かそれ以上に家事には疎く、食生活は散々たるものだ。だから、一食でもまともな食事を与えなければ、栄養失調で倒れてしまうだろう。そうなれば被害を被るのは確実なので、手間は掛かるが、弁当を持って行くに越したことはない。
弁当箱が二つと麦茶を詰めた水筒の入った重たいトートバッグと通学カバンを肩に提げ、つばめはコジロウと共に歩いていった。コジロウはつばめに弁当箱だけでも持とうかと言ってきてくれたが、なんだか気が引けるのでその申し出を断った。これを食べるのはつばめと一乗寺なのだから、食べる当人が持ち運ぶべきだ。
分校の昇降口に入り、スニーカーから上履きに履き替えながら、つばめはふと違和感を感じた。生徒の数に比例しない大きさの下駄箱はほとんど空で、つばめの上履きと雨の日用の長靴と、一乗寺のジャングルブーツと上履きとスニーカーがねじ込まれている程度だ。の、はずなのだが、見覚えのないローファーが一組収まっていた。
「ねえコジロウ。私、ローファーなんか、履いていたっけ?」
つばめは使い込まれた茶色のローファーを眺め、首を捻った。
「本官は記憶していない」
と、コジロウがすかさず捕捉してきたので、つばめは腕を組んだ。
「だぁよねぇー。ローファー、好きじゃないんだもん」
東京に住んでいた頃も、船島集落にやってきてからも、つばめは通学時にはスニーカーを履いている。ローファーは靴擦れを起こしてしまうし、どうにも履き心地が今一つだったので、ローファーを履いて通学したのは入学式ぐらいなものである。美野里の両親が送ってくれたつばめの私物の中にはほぼ新品のローファーが入っているが、それを出して履いたことはない。もしも履くことがあるとすれば、雨に降られてスニーカーがびしょ濡れになった場合だ。だが、梅雨に突入したにもかかわらず、ここ数日は雨も降っていないので、つばめは今日も履き慣れたコンバースのスニーカーを履いている。かといって、成人している美野里がローファーを履いて分校に来るわけがない。
「謎が謎を呼ぶねぇ」
つばめが不思議がると、コジロウはローファーを取り出し、靴底を上向けた。
「所有者の名前は記名されていない」
「サイズは23.5かぁ。私は24でお姉ちゃんは24.5だから、ちょっと小さいね。まさかとは思うけど、吉岡りんねが分校に転校してきたってこともないよねー」
そう言いつつ、つばめは上履きのつま先を軽く小突いてから、通学カバンとトートバッグを持って教室に向かった。コジロウは謎のローファーを下駄箱に戻してから、両足の裏を雑巾で拭い、天井に頭を引っかけないために少し腰を屈めながら付いてきた。この中にいるのが誰かは解り切っているが、礼儀は弁えるべきなので、つばめは引き戸をノックしつつ声を掛けた。
「失礼しまーっす」
「あいよー」
「はーい」
返事が二つあった。片方はやる気が心底抜けている一乗寺の声で、もう一人は。
「……女の子、だったよね?」
つばめが戸惑いながらコジロウを見上げると、コジロウは答えた。
「本官もそう判断し、識別する。だが、先程の声は吉岡りんねの声ではない。小倉美月にも当て嵌まらない」
もしかして、転校生だろうか。だとしても、そんな話は聞かされていない。そもそも、こんなド田舎の分校にどこの誰が転校してくるのだ。つばめの身の上を哀れに思った政府関係者が手を回してくれたのかも、と思ったが、今までの事例を顧みると、一乗寺を含めた政府関係者はつばめに対して優しくない。むしろ、刺々しいほど辛辣だ。同年代の子供をクラスメイトに宛がってくれるような思い遣りを持っているとは考えられない。だとすれば、吉岡りんねが手を回して転校生を派遣し、つばめを陥れようとしているのだろうか。だとすれば、断固戦うべきだ。
「何してんの? さっさと入ってきてよ」
すると、痺れを切らした一乗寺が内側から引き戸を開けた。片手に箸を持ったままで、行儀が悪い。
「あー、もうそんな時間ですか」
つばめは一乗寺の肩越しに、教室内の掛け時計を見やった。とっくに昼休みに突入している。
「そうだよぉ。だから、さっさと今日の分のお昼を上納してくれよぅ。れんげちゃんのだけじゃ足りないんだもん」
一乗寺はぼやきながら教卓に戻ったが、つばめは面食らった。
「え? れんげ、ちゃん?」
そんな名前、聞いたこともない。一乗寺は面倒そうに振り返る。
「何、変なリアクション。記憶喪失ごっこ? 流行んないよー」
「いや、その、そうじゃなくて、れんげちゃんって誰ですか?」
つばめが一乗寺を引き留めると、一乗寺は片眉を曲げる。
「だから、れんげちゃんはれんげちゃんじゃないの。何言ってんの、さっきから。みのりんと出かけている間に宇宙人に攫われて記憶を引っこ抜かれでもしたの? でなきゃ、中二病に目覚めた?」
「だーかーらー!」
まるで話が噛み合わないことに苛立ち、つばめが声を荒げると、教室の中からまた声が掛かった。
「早くおいでよ、つばめちゃん。今日の御料理はね、結構自信あるんだから」
先程と同じ、つばめと同年代の少女だった。もういいでしょ、と一乗寺はつばめを振り払って教室に戻っていった。こうなったらコジロウだけが頼りだ、とつばめが祈るような気持ちでコジロウに振り返ると、コジロウは言った。
「つばめ。あの通学用革靴と声の主は、つばめのクラスメイトである桑原れんげだ」
「だから、それって誰のこと!?」
コジロウまでおかしくなってしまった、とつばめが半泣きになると、教室の引き戸が開いた。
「あーあ、冷たいんだ。私のこと、忘れちゃうだなんて。お弁当、分けてあげないんだから」
視界の隅に、紺色のスカートが過ぎった。その言葉を発した人影は、確かな重みを持った足取りでつばめの背後に近付いてくると、つばめの肩に手を掛けてきた。色白でほっそりとした指先がブラウスに掛かり、夏服の薄い布地越しに柔らかな感触と体温が染み込んできた。生きている人間だ。と、いうことは。
恐怖すら感じながら振り返り、つばめが目にしたものは、柔和な笑顔を浮かべた少女だった。丸顔で目鼻立ちはこぢんまりとしているが、それ故に親しみやすさがある。身長はつばめと大差はなく、量が多めの黒髪を短く切っていて、両耳の上に銀色のヘアピンを留めている。制服もつばめと同じ、紺色のジャンパースカートだ。
これが、桑原れんげなのか。つばめは彼女をまじまじと眺めたが、全く記憶になかった。東京で通っていた中学校にもいなかったし、船島集落に引っ越してきてからも、同年代の少女とまともに接したのは、美月が最初で最後だ。だから、面識もなければ記憶にもない。つばめは混乱が極まってしまい、その場に立ち尽くした。
「え……?」
「ほら、一緒に食べようよ」
そう言って、桑原れんげと思しき少女は机を指した。つばめの机の右隣にもう一つの机がくっつけられていて、もう一つの机の上には小さな弁当箱が置いてあった。その中身は白と黄色だけだった。その正体が気になったつばめが目を凝らしてみると、白飯と炒り卵しか入っていなかった。二段重ねで楕円形のファンシーな弁当箱なので、余計に単調な色彩が目立ってしまうようだった。一乗寺の分の弁当箱もティーンエイジャー向けの小さなもので、その中身も白飯と炒り卵だけだったのだろう。家庭科を習ったばかりの小学生でも、もう少し頑張れそうな気がするが。
「いいよ、私のを分けてあげるから」
この少女の正体がなんであれ、弁当の中身が二種類だけでは不憫だ。そう思ったつばめは、自分の机に弁当箱を広げた。二段重ねで円形の弁当箱はつばめの分、平べったいアルマイトの弁当箱は一乗寺の分だ。ちなみに、このアルマイトの弁当箱は食器棚の奥から出てきた年代物であり、一乗寺のために新しく買ったわけではない。
「わーいわーいわーい! これで夜まで持つぞーぅ!」
すぐさま、一乗寺は自分の分の弁当箱を掠め取っていった。
「はい、麦茶も」
毎度ながら大袈裟な喜びように呆れつつも、つばめが水筒を差し出すと、一乗寺は自分のコップを出した。
「うんうん、これがなくっちゃねぇ。冷たいのが好きー」
「それぐらい自分で沸かして冷やして下さいよ」
「冷蔵庫が空いてないんだもん」
「それはお酒が無駄に多いからです。あと、お菓子とアイスと冷やす意味がないレトルト食品と……」
「いいじゃんかよぉ、職員室と冷蔵庫は俺の世界なんだからぁ。だらしなくしても罪はないだろ?」
「罪はなくても害はあります。たまには掃除機ぐらい掛けて下さい、窓も毎日開けて換気して下さい」
「えぇー、面倒臭い。つばめちゃんのことは好きだけど、そういうところは嫌っ」
小学生のような文句を言って、一乗寺は弁当箱を抱えて教室から逃げ出した。コジロウは一乗寺を止めることもせず、体を引いて避けただけだった。どうせ、逃げ込んだ先は職員室だからだ。肉体年齢に応じた精神年齢に達してほしいものである。つばめは苦笑しつつ、自分の席に付いて弁当箱を開けた。
「午前中の授業の分のノートを取っておいたから、見せてあげる」
れんげは机の中からノートを出すと、広げてみせた。一乗寺の内容と順番にばらつきがある板書をきちんと整理して書き込んであり、おまけに字も綺麗で見やすかった。これがあれば、今日の授業内容は完璧だ。
「ありがとうっ、れんげちゃん!」
それを見た途端、つばめは歓喜してれんげの手を取った。暖かく小さな手だった。れんげは照れ笑いする。
「へへ、そりゃどうも」
「じゃ、お弁当の中身、分けてあげる。何がいい?」
「えーとねぇ……」
つばめが弁当箱の上段を開いてやると、れんげは目を輝かせた。内容はこれといって特別なものでもなく、昨夜のおかずを作るついでに作ったピーマンの肉詰めと春雨サラダにホウレン草を巻いた卵焼き、キュウリのぬか漬けといった具合だ。れんげは散々迷っていたが、気恥ずかしげに頬を赤らめながら卵焼きを差してきた。既に炒り卵を食べているのにまだ卵料理が食べたいとは、余程の卵好きらしい。つばめはれんげの弁当箱の蓋にホウレン草を巻いた卵焼きを分けてやってから、水筒の蓋のコップに麦茶を注ぎ、それを飲みつつ昼食を摂った。
重大な疑問を残したままではあったが。
そして、本日の授業が終わった。
部活動など存在していないので、つばめはれんげと一緒に帰ることになった。コジロウは二人の少し後ろを付いてきていて、付かず離れずの距離を保っている。誰かと一緒に下校するのは初めてだったので、つばめはなんとなく居心地が悪かった。れんげはつばめと親しい仲だと思っているらしく、しきりに話し掛けてくる。昨日見たテレビ番組の話、アイドルグループの新曲の話、一ヶ谷市内にあるファンシーショップの話、などなど、中学生女子の頭の中に詰め込まれている情報を次から次へと出してくる。だが、生憎、つばめはそのどれも興味がなかった。元々テレビはそれほど好きではないし、どうせ見るなら内容が出来上がっている映画の方がいい。アイドルグループはメンバーの顔の見分けがほとんど付かないし、恋だの愛だのを繰り返すばかりの曲も好きにはなれない。ファンシーショップを覗いてきゃあきゃあ騒ぐよりも、預金通帳を広げて金勘定をしている方が性に合っている。
「あ、そうか」
だから、今の今まで同年代の友達が出来なかったのか。今更ながら悟ったつばめが独り言を漏らすと、れんげはにこにこと笑顔を保ちながら、聞き返してきた。
「ん? どしたの、つばめちゃん」
「ごめん、なんでもない」
つばめは取り繕い、間に合わせの笑顔を作った。けれど、この場でれんげに話を合わせることもないのでは、とも思わなくもなかった。れんげの正体が何であれ、クラスメイトがイコールで友達というわけではないからだ。それだけで友達という括りが出来上がるのなら、誰も苦労もしないだろうし寂しい思いもしない。だが、無理に話を合わせても面白くもなんともないし、それでは接していても苦痛しか感じなくなる。
れんげは黙り込んでしまったつばめを訝ってきたが、それ以上話し掛けてはこなかった。それがありがたくもあり、気を遣わせてしまったという心苦しさもあった。そんなことを思ってしまうから、つばめはいつまでも十四歳の子供に相応しい言動を取れないのだ。胃腸の辺りがきりきりと絞られる。
桑原れんげの住まいは、船島集落の一角にあった。合掌造りではないが古びた日本家屋で、れんげ以外の誰も住んでいないのは一目瞭然だった。倉庫を兼ねた車庫の中には車もなければ農耕機もなく、れんげが乗るであろう自転車だけが寂しげに佇んでいた。表札の名字は桑原なので、元々はれんげの親戚が住んでいたのだろう。それがなぜ、れんげ独りだけで住むようになったのかは解らない。なぜなら、つばめはれんげのことを一切合切知らないからだ。もしかすると、れんげはあのパンダのぬいぐるみと同じなのかもしれない。
「良かったら上がっていく? まあ、大したものが出ないことは知っているだろうけどさ」
れんげは恥じらい混じりに引き戸を開け、薄暗い玄関先に、ただいま、と声を掛けた。だが、中からは誰も答えてはくれなかった。当然だ、れんげには家族はいないのだから。と、つばめの脳裏に覚えのない記憶が過ぎった。
「いいよ、気を遣ってくれなくても。それに、復習と予習をしなきゃならないし」
と、つばめがれんげのノートを掲げると、れんげは笑った。
「うん、解った。じゃ、また明日ね!」
「また明日」
つばめはれんげに手を振ってから、帰路を辿った。コジロウもまた、つばめの後に付いてくる。夏の兆しが着実に歩み寄っているから、午後四時を過ぎていてもまだ日が高く、二人の影もそれほど長くなかった。空っぽの弁当箱と水筒が入ったトートバッグの軽さと通学カバンの重さを両肩で感じながら、つばめは思い悩んでいた。
桑原れんげの正体は解らない。だが、堰を切ったように、れんげに関する記憶が蘇ってくる。れんげは家庭環境が複雑で、幼い頃に両親が離婚して母親に引き取られたが、母親の恋人である男に虐げられた末に持て余され、捨てられるような形で遠方の親戚の家に預けられた。けれど、遠方の親戚はれんげを持て余してしまい、最後には親戚一家の父方の叔父が住んでいる船島集落に連れてこられた。しかし、佐々木長光が莫大な資産で船島集落を買い上げたために、父方の叔父一家は土地を売り払って得た大量の金を持って引っ越していったが、れんげだけは船島集落に取り残されてしまったのである。だから、れんげは未だに分校に通っている。頼るべき大人がいないから、一人で古く広い家で暮らしている。だが、つばめはいつのまにそんなことを知ったのだろうか。
いや、そうではないのかもしれない。そもそも、知っている、というのは思い込みであって、一から十までつばめの空想の産物である可能性が高い。過去にもそんなことがあったからだ。同年代の子供と仲良くしたいのに、一緒に遊びたいのに、触れ合いたいのに、気が引けてしまうから、都合の良い友達を頭の中に作り上げていた。
それが、パンダのコジロウだ。
いわゆる、イマジナリー・フレンドというものだ。
帰宅したつばめは自室の押し入れを開け、数少ない洋服を掻き分けてパンダのぬいぐるみを取り出した。伊織に切り裂かれてボロボロになってしまったが、どうしても捨てられなかったので、暇を見て縫い合わせて修繕している。その甲斐あって切り裂かれた胴体は繋がったが、体毛に似せた化学繊維には古傷のような筋が出来てしまい、綿を詰め直しても直りそうになかった。以前のような物入れを腹の中に作るべきか否かは、未だに迷っている。あんなものを入れていたから、大事なパンダのぬいぐるみは狙われ、切り裂かれてしまった。だから、これからは、大好きなぬいぐるみは隠し金庫扱いはするまいと胸に誓った。
「友達かぁ」
フランケンシュタインの怪物のように縫い目だらけになったパンダのぬいぐるみを抱っこすると、つばめは背中を丸めて座り込んだ。小学生の頃は、パンダのコジロウが動いて喋ってくれたものである。もちろん、つばめの想像上の世界での話だ。パンダのコジロウは丸っこくてふわふわしているが、気高く勇ましい性格の持ち主だ。クラスメイトから心ない言葉を投げ付けられた時には本気で怒ってくれ、備前家の予定が狂って一人だけで夕食を食べることになったら同じテーブルに付いてくれ、夜中にトイレに行くのが怖い時は同行してくれ、具合が悪くて心細い時はずっと励ましてくれていた。そんなパンダのコジロウの勇姿を、美野里やその両親に語って聞かせたこともあるが、笑って受け流すばかりだった。その度に、ただ一人の友達を蔑ろにされたように感じ、心苦しくなった。
だが、それが普通だ。パンダのコジロウは他人から見ればただのぬいぐるみであって、動くことも喋ることもなく、ボタンの目と刺繍された口元は、いつも同じ表情を浮かべているだけなのだから。ぬいぐるみが好きなのだろう、と美野里とその両親が新しいぬいぐるみをプレゼントしてくれたが、新しいぬいぐるみ達にはパンダのコジロウほどの執着心は抱けなかった。どれもこれも、パンダのコジロウのように動いてはくれなかったからだ。
「あの子も、そうなのかなぁ」
だとしたら、なぜ、他の皆にも見えているのだろう。知らず知らずのうちに、つばめは桑原れんげがいるかのような言動を取っていたのかもしれない。それを見ていた一乗寺達が話を合わせてくれているのかもしれない。だとすれば重症だ。けれど、そんなことは考えたくはない。自分は正気なのだと、真っ当だと、普通だと、信じていたい。
「でも……」
つばめの想像上の産物だと知った上で、れんげと仲良くしても罰は当たらないのでは。パンダのコジロウを撫でてやりながら、つばめは目を伏せた。だとすれば、れんげには一切害はない。むしろ、つばめの心の拠り所が増えて好都合なのではないだろうか。コジロウや美野里に対しては好意を向けることに躊躇いはないが、心を全て曝け出せるというわけではない。相手が好きでたまらないから、気が引けてくる部分も大きい。だが、れんげはどうだろう。好きだからこそ嫌われたくない、という抑制心が起きずに済む気がする。
「うん、そうだね、そうしよう!」
つばめはパンダのコジロウを掲げ、その両手を動かしてやった。
「クラスメイトなんだもんね、仲良くしなきゃ勿体ないよ! ね、コジロウもそう思うでしょ?」
「本官に主観的な判断は不可能だ」
すると、つばめの独り言に対して的確な反応が返ってきたので、つばめはぎょっとした。縁側と室内を隔てている障子戸が開き、警官ロボットの方のコジロウが入ってきた。その手には、折り畳まれた洗濯物があった。
「あ、ありがとう」
つばめは若干照れ臭くなりながらも、ブラウスやTシャツを受け取り、押し入れに入れた。
「つばめ」
不意にコジロウが膝を曲げて目線を合わせてきたので、つばめは距離の近さに戸惑った。
「えっ、あ、うん、なあに?」
「桑原れんげと親交を深めることに対し、本官は関与しない。小倉美月の事例と同様に」
「うん、ありがとう」
「礼を述べられるような事例ではない」
コジロウはやや俯き、赤い光を帯びるゴーグルを翳らせた。つばめは腰を曲げ、下からコジロウを覗き込む。
「どうしたの? 首の調子でも悪い?」
「いや……」
コジロウは若干間を置いてから、顔を上げ、返答した。
「桑原れんげに関する情報が不充分なのだ。本官の記憶容量に保存されている情報を検索、展開、照会してみたが、情報量が不足していて、桑原れんげはつばめに害を成さないと判断するのは判断するのは早急だと認識した。しかし、本官はつばめの意志を尊重すべきであり……」
「心配してくれてありがとう、コジロウ」
つばめは一歩身を引くと、にんまりした。コジロウは膝を伸ばし、直立する。
「本官にそのような主観的な意図は存在していない」
「でも、いいの。私がそう思うから」
つばめはパンダのコジロウを抱えたまま、警官ロボットのコジロウに背を向けた。
「着替えるからさ、ちょっと外に出てよ」
「了解した」
コジロウは承諾すると、つばめの自室を後にした。つばめはパンダのコジロウを机に置いてから、深呼吸した後、障子戸の内側に設置したカーテンを引いて明かりを遮った。コジロウの影絵も見えなくなってしまうが、無防備な姿を曝してしまうよりは余程いい。ジャンパースカートのファスナーを下ろして脱ぎ、ハンガーに掛けて押し入れ上段のラックに引っ掛け、ブラウスのボタンを外して脱ぎ、紺色のハイソックスから部屋着用の靴下に履き替える。
締まりに欠ける部屋着に着替えてから髪を結び直した後、パンダのコジロウを再度撫でてやった。カフェオレでも淹れてから予習と復習に取り掛かろうと思い、つばめは台所に向かった。冷蔵庫を開けると炊飯器の内釜が丸ごと入っていたので、中を覗いてみると一応原形を止めている生米が水に浸っていた。美野里が言われた通りの家事をこなしてくれたのだ。つばめはなんだか感動しそうになったが、予習と復習に意識を戻した。れんげが取ってくれたノートさえあれば、一乗寺のハイペースな授業内容にも追いつける。
その正体が何であれ、クラスメイトとはありがたい。
この記憶は何なのだろう。
夕食の仕込みをしながら、道子は考え込んでいた。身に覚えのない記憶、というよりも、リアルタイムで中継された映像のようなものが直接頭の中に流れ込んでくる。電波に乗って飛び交っている情報を偶然拾ったにしては、妙に内容が生々しいし、主要な登場人物が見知った者ばかりだ。佐々木つばめ、コジロウ、一乗寺昇、備前美野里、と、敵対している相手ばかりが目に映る。そんな彼らの背景は船島集落だが、道子が監視衛星を経由して閲覧することが出来る角度ではない。アングルもつばめと同年代の子供の目の高さで、サイボーグをハッキングして視覚情報を奪い取ったかのようなシチュエーションだが、船島集落にはサイボーグは存在していない。だとすれば、一体どこから得ている映像なのだろうか。そんなことを悩みながら作業をしていると、料理が出来上がっていた。
「……あらぁーん?」
道子はフライパンに横たわる卵焼きを見下ろし、きょとんとした。今夜はフレンチのコース料理にする予定なので、卵焼きなんて作る予定すらなかったというのに。はっと我に返ると、ボウルには卵を溶いた痕跡があり、キッチンに作り付けられているディスポーザーを開けてみると、その中に割られたばかりの卵の殻が四個分入っていた。だとすれば、やはり道子が卵焼きを焼いた、ということか。だとしても、いつのまに。
「とりあえずぅーん、切ってみましょーん」
道子は包丁を手にし、熱々の卵焼きを切り分けてみた。黄色い卵の内側に巻き込まれていたのは、色鮮やかなホウレン草だった。今夜の夕食でホウレン草を使う予定はあったが、茹でた記憶もなければ、小分けにして冷凍しておいたという記憶もない。となれば、とシンクを見やると、ホウレン草の緑色の茹で汁が残る鍋が置いてあった。無意識の行動が連鎖している、と悟った瞬間、道子は息を飲んだ。飲めもしないのに。
「ブレインケースと本体の接続が外れた? いや違う、それは正常。補助AIの異常? いや違う、エラーメッセージも出ていないし、デバッグはこの前済ませたばかり。外的刺激による遠隔操作? そんなわけない、私をハッキング出来るような人間もサイボーグもロボットも、現時点では一人も……」
道子は目眩を感じたような気がして、額を押さえた。感じるはずもないのだが。
「どうした、貧血か? って、サイボーグには貧する血はねぇな」
他愛もない軽口を叩きながら、トレーニングを終えた武蔵野が冷蔵庫を開けようとしてきたので、道子は作り笑いを顔に貼り付けて身を引いた。
「あははーん、大丈夫ですぅーん」
「またメンテした方がいいんじゃないか? この前だって、股関節のグリースがどうのと言っていただろう」
「御心配には及びませぇーん。大したことないですからぁーん」
道子が小首を傾げてみせると、武蔵野は骨格の太い肩を竦める。
「なら、いいんだがな。脳みそだけとはいえ、お前も女なんだ。無理はしすぎるなよ」
「へっ?」
予想もしていなかった言葉に、道子は思わず素が出てしまった。武蔵野はスポーツドリンクのボトルを取り出すと、口が滑っちまったな、とぼやきながらキッチンを後にした。生体部品が脳だけのサイボーグは性別なんてあってないようなものなので、男だろうが女だろうが扱いは変わらない。だから、これまで道子を女性扱いしてくれるような人間はほとんどいなかった。ハルノネットの技術主任である美作彰は道子を着せ替えて遊ぶが、それはあくまでも人形の延長でしかない。ハルノネットの工作部隊は更にそれが顕著で、下の名前で呼ばれたことなど数えるほどでしかなかった。だから、りんねや武蔵野に下の名前で呼ばれるのはくすぐったくもあり、心の片隅で喜んでいたのだが、そこから先はないのだと諦観していた。それなのに、こんな直球を投げられるとは。
「あ、あー、はぁーい……」
道子は武蔵野の分厚い筋肉が付いた逞しい背中を見送りながら、どんな表情をしたものかと悩んだ。だが、それを悩むこと自体が無駄なのだとすぐに思い直した。女扱いされたところで、行き着く先は性欲処理の道具なのだから、嬉しがってはいけない。性別を捨てたフルサイボーグの女性が異性からちやほやされて女らしさを取り戻したところで、首から下の制御を物理的に切断されて蹂躙されてしまう、という話は珍しくもなんともない。武蔵野がそんな歪んだ性癖を持っているとは思いたくはないが、柔らかな態度には裏があるのだと勘繰らずにはいられなかった。
結局、謎の卵焼きを食べる気にはなれなかった。