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溺れる者はワームをも掴む

 気晴らしに、タバコに火を灯す。

 人間の手に似せた形にした触手で細い筒を挟み、口元に運ぶ。深く吸い込んでからゆっくりと吐き出した紫煙は、前庭を鮮烈に照らしているライトの切れ端を浴びて朧気に浮かび上がった。片田舎の民家の玄関先には似合わぬ大型トレーラーの群れの周囲では、整備員達が忙しなく走り回っている。当然だ、コジロウは他の警官ロボットとは根本的に違う代物だからだ。ただ部品を組み直しただけで動くほど単純なロボットではない。佐々木つばめが常にコジロウの傍にいて、触れ合っているからこそ、人間の手に余る出力を放つ無限動力炉は安定している。

 だが、そのつばめは、しばらくは動けないだろう。寺坂は縁側でタバコを吹かしつつ、居間と隣り合っている部屋の様子を窺った。風を通すためにふすまが半開きになっていて、その奥には柔らかな布団が一組敷かれていた。そこに横たわっている少女は寝入ってはいたが、うなされている。風呂に入って体の隅々まで洗い流したので、アソウギの粘液は綺麗に落とし、髪も乾かしてあるが、寝汗で襟元と頬に髪が貼り付いていた。

 つばめの枕元に座っている美野里は、つばめの手を握ってやっていた。だが、余程強く握られているのか、右手が鬱血して痣になっていた。それでも、美野里はつばめの手を離そうとしないのは、妹も同然の少女に対する愛情からだろう。寺坂はタバコの灰を灰皿に落としてから、胡座を掻いて背を丸める。

「代わってやろうか? どうせ眠ってんだ、握っている手が変わったって解らねぇよ」

「いいですよ、別に。私は辛くはありませんから」

 美野里はつばめの寝汗をタオルで拭ってやってから、目尻に滲んだ涙も拭いてやった。

「本当に辛いのは、いつだってつばめちゃんなんです。私が出来ることがあるとすれば、これぐらいですし」

「そう意地を張るなよ。俺だって、なんとも思ってねぇわけじゃねぇよ。シートの張り替え、しなきゃな」

 寺坂はトレーラーの群れに紛れている愛車、ポンティアック・ソルスティスを見やった。粘液にまみれて茫然自失のつばめを助手席に載せてやり、一乗寺とコジロウに事後処理を任せてから、船島集落に直帰した。一乗寺から報せを受けて帰宅していた美野里がつばめの体を綺麗にしてやり、着替えさせたが、つばめはしきりに私は大丈夫だと繰り返していた。けれど、大丈夫ではないのは誰の目にも明らかだった。顔色は真っ青で手は震えっぱなしで、一歩歩けば転び掛けていた。少し寝る、と言って横になったが、それきりうなされ続けている。

「一乗寺が言っていたんだが、フジワラ製薬の社長のおっさんの身柄は確保出来なかったんだそうだ。ちょっと目を離した隙に消えていたんだと。たぶん、おっさんを撃った連中が持っていっちまったんだろう。傷口は派手に見えたが一撃で致命傷になる傷でもなかったみてぇだし、実弾じゃなくてレーザーだったから、命中した瞬間に傷口が焼き付いて出血も止まっていたようだったしな。まあ、だからって生きているって保証になるわけじゃないが、死体に用がある人間はそういるもんじゃない。だから、生きているって仮定しておいた方がまだ気が楽だ」

 サングラスを上げて額に載せ、寺坂は遠い目をする。

「ま、前線に出て戦っていたんだから、あのおっさんも覚悟は出来ていただろうしな」

「寺坂さんの場合は、戦おうともしていないじゃないですか」

「きっついねぇ。でも、みのりんのそういうところが好きだぜ」

「こんな時に何を言うんですか、あなたって人は」

 美野里が顔を逸らすと、寺坂は横顔を向ける。

「だが、俺は逃げているわけじゃねぇよ。この腕からも、爺さんが寄越した業からも、みのりんからも」

「むしろ、私の方が寺坂さんから逃げたいんですけど」

 美野里が真顔で言い返してきたが、寺坂は笑っただけだった。逃げられたところで、追い掛けるだけだ。つばめの様子が穏やかであったら、それぐらいの軽口を叩けただろうが、今は止めておいた方がいい。美野里も気が立っているのだから、下手に刺激しては興奮させてしまう。

 煙を充満させてしまってはつばめの眠りを妨げてしまうので、タバコを吸う場所を探すべく、寺坂は灰皿を手にして縁側から腰を上げた。コジロウを組み上げるために右往左往している政府関係者達の間を擦り抜けていくが、誰も寺坂を咎めることはなかった。時折目をやるが、すぐに逸らしてそれぞれの作業に戻っていった。

 忌まわしき新興宗教、弐天逸流の影響は政府の末端にまで及んでいる。そして、右腕の代わりに触手を生やしている寺坂善太郎は、弐天逸流に神として祭り上げられたばかりか、いかなる組織や企業であろうとも寺坂には手を出すべからずという不可侵協定が設けられた。たかが新興宗教の戯言だと笑っていられたのは最初の頃だけで、すぐにその協定の影響力の凄まじさに戦慄した。それまでは、寺坂に政府関係者や怪しげな組織が高頻度で接触を図ってきたのだが、ぱったりと途絶えたのだから。

 弐天逸流は、触手を持つ神を信仰している新興宗教である。およそ十数年前に発足し、それ以来、じわりじわりと根を伸ばして社会を侵食している。本拠地がどこにあるかは解らない。片っ端から信者と集会所を襲撃し、破壊しては暴力を交えて問い質してきたが、誰も彼も役に立たなかった。弐天逸流の幹部を見つけ出して上位幹部の居所を吐かせ、その居所に突っ込んでいってももぬけの殻だったことは一度や二度ではない。その度に悔しさに歯噛みし、苛立ちを酒と女と車にぶつけては金を散財してきた。そうやって自分を貶め、穢し、俗世の欲に首までどっぷりと浸していれば、弐天逸流が見限って来くれるのではないかと期待していたからだ。けれど、弐天逸流の信仰はその程度では揺らぐことはなかった。

「よーっす」

 侘びしくタバコを蒸かしている寺坂に、一乗寺が明るく声を掛けてきた。汚れ切っていたジャージを脱いで体を洗い流したので、小綺麗になっていたが、迷彩柄の戦闘服を着込んでいるので再度汚れるつもりだろう。ライトの逆光を帯びた青年の輪郭には、ずらりと武器が生えていた。一目見て常人が装備出来る重量ではないと解る。自動小銃、対戦車砲を背負い、十数挺の拳銃、何十本ものナイフを体の前面に貼り付けるように装備している。この男が通り過ぎたら、草の一本も残らないだろう。

「小銃だけでも何本ある?」

 寺坂がタバコのソフトケースを差し出して一本出すと、一乗寺は躊躇いもなくそれを銜えた。

「一〇丁。安物のカラシニコフだし。火ぃちょーだい」

「で、誰を殺しに行くんだ?」

「とりあえず、あの集落かなー。万寿(まんじゅ)様の石像を壊したの、よっちゃんでしょ? あれがあるってことは、あの集落一体が弐天逸流の信者だってことは確定だからね。一人一人の腹をかっ捌いていくのは面倒だし、特定の病原体による重篤な病気が蔓延したーって政府がでっち上げてくれちゃったから、皆殺しOKなの。んふふふ」

 一乗寺は寺坂が差し出したライターでタバコに火を灯すと、子供っぽく浮かれた。

「俺も付き合う。気は進まねぇが、弐天逸流の本部の手掛かりを見つけるためには仕方ねぇ。あと、殺す必要のねぇ奴らは殺すなよ。夢見が悪くなる」

「えぇー、そんなん無理に決まってんじゃーん」

 一乗寺がけたけたと笑ったので、寺坂は顔を背けた。

「俺はお前とは違うんだよ」

「とにかく行こ行こっ、ぶっ殺しちゃうぞーぅ」

 一乗寺はほとんど吸わなかったタバコを灰皿にねじ込むと、身軽にスキップしていった。飛び跳ねるたびに大量の自動小銃と拳銃とナイフが擦れ合って耳障りな金属音を立て、火花が飛び散りそうだった。鼻歌はひたすら明るく、まるで遊園地に出かける子供のようだった。実際、一乗寺にとっては人殺しはそんなものなのだ。

 一乗寺の殺意に理由は必要ない。そもそも、一乗寺には人間的な情緒が存在しない。この三年間、日常的に彼と接してきてつくづく思い知らされた。それなりに社会経験を積んだ人間であれば通じる常識や、暗黙の了解といったものが一切合切通用しない。根本的に他人を理解しようとしない。快楽を中心に物事を考えている。つばめの教師としての仕事をこなしているのも、つばめの傍にいれば人殺しをする機会が多いから、というだけであって、つばめの身辺を守るだとか将来のためだとかという大義名分はない。むしろ、大義名分という概念すら理解出来ていないのかもしれない。政府関係者の間では、一乗寺は宇宙人という渾名が付けられているようだが、似合いすぎていて反論の余地もない。だから、寺坂は一乗寺と接していると奇妙な安心感を得る。

 一乗寺と比べれば、寺坂はまだ人間らしいと言える。その証拠に、タバコの味も感じられるし、つばめが苦しんでいる姿を見ると胸がひどく痛むし、辛い立ち位置にいる美野里を守ってやりたいと願って止まない。

 右腕に毒虫を飼っているとしても。



 こんなに惨めな思いをするのは、久し振りだ。

 泥と枯れ葉にまみれた体を必死にくねらせながら、羽部鏡一は深夜の森を突き進んでいた。けれど、行く当てがあるわけではない。奥只見ダムに一旦引き返し、フジワラ製薬の社長である藤原忠の無事を確認すべきだと頭では解っていたが、行動には移れなかった。藤原忠はアソウギについて知っている。怪人を生み出す実験の被験者となった人間の本名もある程度は把握している。管理者権限を持つ佐々木つばめの遺伝子が、遺産のどこに填るのかも知っている。藤原は専門的な知識が欠けているので羽部や研究員達には遠く及ばないが、アソウギの扱い方もそれなりに把握している。本人は差して重要な情報ではないと思っていたらしいが、そんなことはない。どれもこれも重要で、どれか一つでも漏洩したら取り返しが付かなくなるほどの情報だ。

 問題なのは藤原忠本人ではない。藤原忠が保有している情報なのだ。フジワラ製薬自体は、社長が抜けたとしても傾くことはない。その点については用意周到で、佐々木つばめと遺産を巡る戦いが始まる以前から、藤原は重役の中から次期社長に相応しい役員を選び出して副社長の座に据え、万が一のことがあったとしても自分の行方や伊織の行方を追うな、と藤原は部下達に釘を刺していた。遺産争いに荷担するのはあくまでも自分達だけだ、という意思表明だったのだ。アソウギを用いた怪人増産計画に関わっていない一般の社員達に被害が被らないためには至極当然の措置であり、社長としては正しい判断だが、悪の組織の大総統としては大間違いだ。

「この僕が、これからどうすればいいのか解らないなんて、最低最悪じゃないの……?」

 羽部は腐葉土にまみれた体を木の根に預け、先割れの長い舌を出して喘いだ。怪人体に変身出来るような体力もなければ人間体に戻る気力もなく、ヘビの姿のまま、延々と走り続けていた。けれど、どの方角に行こうとも木々は途切れず、道路が現れたとしても心身を休められそうな民家も見当たらなかった。これだから田舎は困る。

 とてつもない不安に駆られ、羽部は顎を震わせた。牙がかちかちと鳴り、神経質な音を立てた。一人でいるのは怖い。一人だけで世の中に放り出されるのが怖い。他人にまとわりつけないのが怖い。

「ああ、あぁ……」

 羽部は今にも泣きそうな声を出しながら、瞬膜を忙しなく開閉させた。羽部鏡一にとって、他人は見下すべき対象であると同時に全力で縋り付く相手でもある。気持ち悪がられようが、蔑まれようが、嫌われようが、憎まれようが、なんでもいいから認めてもらいたい。羽部という存在を認識していてほしい。

「ああ嫌だ、嫌だよぉ」

 孤独になると、安定性に欠ける心が途端に揺らぎ出してくる。羽部は長い体を縮めてボール状にし、その中に頭を突っ込んだが、過去の嫌な記憶が次々と蘇ってくる。物心付く前から爬虫類じみた容姿は疎まれていて、親にさえも認めてもらったことはない。吊り上がった目が反抗的だと不条理に殴られたことも少なくない。真面目に勉強をしてもお前なんかが賢くなっても無駄だと罵倒され、同じ年頃の子供と遊ぼうとしても誰も寄ってこず、仕方ないから藪の中にいる虫や小さなトカゲを見つけ出してはオモチャにしていた。犬猫は牙と爪があるが、毒のない虫と小さなトカゲは羽部に逆らうことすら出来ないからだ。手中に収めたら最後、生殺与奪の権限は羽部にだけ委ねられる。

 その幼い万能感と加虐的な征服感だけが、羽部を支えていたようなものだった。けれど、どこの誰が見ていたのかは知らないが、羽部が無力な虫やトカゲを殺して遊んでいる、と周囲に知れ渡った。すると、それまで以上に他人は羽部に近寄らなくなり、親はますます羽部を突き放すようになって食事の用意すら怠っていた。

 だが、味方が完璧にいなくなると却って諦めが付くもので、羽部は勉強に没頭するようになった。どうせ誰も褒めてくれないが、知識だけは自分を裏切らないと信じていたからだ。実際、その通りだった。虫やトカゲを殺すこと以外は趣味らしい趣味はなかったが、矮小な生物を殺す際に感じた疑問を突き詰めてやろうと生物学に進んだ。それからはひたすらに勉強し、研究し、まともな交友関係を持たず、羽部のレポートやノートを目当てに近付いてきた人間はとことん侮辱して見下してやり、徹底的に他人を遠ざけた。そしてまた、心地良い孤独が出来上がった。

 転機が訪れたのは、新卒採用でフジワラ製薬に就職してからである。フジワラ製薬は怪人を生み出す研究をしている、という噂がまことしやかに流れていたが、誰もそれを本気にはしていなかったし、羽部もその一人だった。もし本当に怪人が作られているのであれば、自分も改造してもらいたいものだと思っていた。研究部に引き抜かれてから間もなく、羽部は社長である藤原忠の元に呼び出された。怪人の研究を行う部署に異動し、羽部の能力を存分に発揮してほしいと言われた。生まれてこの方、言われたことのない言葉の数々に、羽部は喜ぶよりも先に胸が悪くなった。だから、勢いに任せて社長を侮辱し尽くしたのだが、藤原は怒鳴り散らしはせずに笑った。それどころか、君は威勢が良くて好きだなぁ、とも言ってくれた。訳が解らなかった。

 それから、羽部はアソウギの研究に携わるようになった。自分の生体組織を使った実験でアソウギに対する拒絶が少ないと判明したので、自ら改造を施してヘビ怪人と化した。アソウギに溶かして肉体に混ぜたのは、ひっそりと自室で飼っていたペットのヘビだった。この世で唯一心を開ける相手だったからだ。液体と固体の間を彷徨っている中途半端な怪人達を安定させるための実験を繰り返している最中に、藤原忠の息子である藤原伊織に出会った。研究所での伊織の役割は、様々な理由で殺処分対象となった怪人達に引導を渡す、死刑の担い手だった。

 高笑いしながら躊躇いもなく殺戮を行う伊織の姿に、羽部は寒気と共に一種の陶酔感を覚えた。それまで羽部が腹の底で凝らせていた濁った情念が形となって現れたかのような、他人への攻撃性を肯定されたかのような気分になった。ふと我に返り、藤原忠を窺うと、父親は満面の笑みで息子の殺戮を見つめていた。それを見た途端、あの時の言葉の意味が理解出来た。藤原は羽部を認めたのではない、羽部の跳ねっ返りの言動の内に伊織を見ていたからに過ぎないのだと。一抹の寂しさに駆られたが、それだけだった。その頃になると、羽部は自分の心を満たすための手段を得つつあったからだ。

 羽部の目的は社長である藤原忠に認めてもらうことでもなく、圧倒的な力を誇る藤原伊織に付き従うことでもなく、無謀極まりない世界征服計画に乗るわけでもなく、怪人の研究員という立場を最大限に利用することになっていた。怪人と化したことでD型アミノ酸しか受け付けなくなったことから、死体を愛好して止まない性癖にも気付けたばかりか、実験と称して掻き集めてきた見ず知らずの若い女性達を薬殺して遊び尽くした。怪人になりたいと志願してきた者達を気色悪い生物と融合させ、絶望させ、殺してやった。羽部が生まれ育った街に怪人達を派遣し、実験の名目でかつて羽部を疎んだ者達を処分させ、喰わせた。自尊心を満たすために、生体安定剤の投薬と引き替えに羽部の自慢話と無駄話を延々と聞かせた挙げ句に、生体安定剤のカプセルに入れた毒薬を飲ませて殺した。

 死体の山だけが、羽部を認めてくれている。物言わぬ蛋白質塊となった人々は、羽部を支えてくれている。悪意と敵意を向けられた分だけ、羽部は自尊心を満たせるようになる。だが、今は。

「誰でもいい、なんでもいいから、この僕を」

 満たしてくれ。精も根も尽き果てた羽部は、擦り切れた声色で呟いた。一度であろうとも自分の心を満たす方法を知ってしまうと、二度と孤独に耐えられなくなる。飢えと渇きが心細さを強め、涙さえ出そうだった。

 寂しさが五感を鈍らせていたからか、足音に気付くのが遅れた。数人の人間の足が枯れ葉を掻き分け、ライトの強烈な光条が羽部の目を焼いた。暗闇に慣れていたために視界が白み、羽部は身動いだ。その隙に数人の人間は羽部が巻き付いている木を取り囲み、羽部を見下ろしてきた。

「なんだよ、この僕の許しも得ずに近付いてくるなんて」

 そうは言いつつも、羽部は他人に見つけ出されたことで安堵していた。このまま忘れ去られていたら、と思うと気が狂ってしまいそうだ。強力なマグライトの光量が絞られると、羽部の瞳孔も落ち着き、次第に人々の姿が見えるようになった。網膜を通って視神経から脳に伝わってきた情報を知覚した途端、羽部はぎょっとした。

 羽部を囲んでいる五人の人間達は、皆、覆面を被っていた。だが、それは単なる布袋ではなく、覆面のそこかしこに帯が縫い付けられていた。覆面と同じ色の布地で出来ている上着にも奇妙な帯が付いていて、羽部の顔の前に立っている人間は帯の数が最も多かった。その帯の多い人間は、覆面に空いた穴から羽部を見下ろしてくる。

「フジワラ製薬の羽部鏡一だな?」

「ああ、うん、そうだけど? で、何か用? この優秀な僕に」

 羽部は精一杯取り繕ったが、声が裏返り気味だった。帯の多い人間は片膝を付き、羽部と目線を合わせる。覆面を被っているからか、低い声は籠もっていた。声色からして、三十代前後の男だろう。

「我らは弐天逸流の使者だ。羽部氏が窮地だと知り、馳せ参じた次第」

「……えぇ?」

 どこの誰が羽部を助けようだなんて、イカれたことを考えるのだ。羽部が訝るが、覆面の男は話を続ける。

「我らが教祖、シュユ様がその能力と才覚を見込まれたのだ。何、悪いようにはせぬ。出来る限りではあるが、羽部氏の要求も聞き入れよう。フジワラ製薬と同等、いや、三割増で賃金もお支払いいたそう」

「三割ぃ?」

「ならば、五割」

「それなら少しは考えてやらないでもないけど、この僕に何をさせたいっていうわけ?」

 少し余裕が出てきた羽部が牙を剥いてみせると、覆面の男は携帯電話からホログラフィーを浮かび上がらせた。

「この娘、小倉美月の住まう家に住み込み、佐々木つばめの近況を報告してもらいたし」

 目に突き刺さるほど明るいホログラフィーに投影されたのは、吉岡りんねの元クラスメイトである小倉美月の写真だった。御嬢様学校の制服姿の美月とりんねのツーショットで、りんねの表情は羽部が知るものよりも明るく、別人と言っても差し支えがなかった。羽部は控えめな可愛らしさのある美月を眺め、適当に殺して遊ぶには丁度良いな、と判断して覆面の男を見上げた。

「もちろん、この僕が住んでも問題が起きないようにしてくれるんだよね? この僕の口に合う食材を送ってくれるんだよね? この僕の優れすぎて切れ味抜群の頭脳を錆び付かせないためにも、それ相応の研究機材とスペックのパソコンを準備してくれるんだよね? この僕の世界が羨むハイセンスに見合った服もくれるんだよね?」

「無論だ。ならば、そのように手を回そう」

 羽部の傍若無人な要求を、覆面の男は二つ返事で聞き入れた。

「で、その小倉美月って子は、御嬢様のお友達でありながらも佐々木つばめのお友達だったりするの?」

 羽部はしゅるりと体を伸ばして這いずると、覆面の男は道路側を示し、先に歩き出した。

「そうだ。故に目を付けておかねばならぬ」

「でも、この僕は他人の監視なんかごめんだからね?

 適当に引っ掛かったことだけを報告するからね?」

「それで良い。小倉美月のトイレの回数まで報告されても何の意味もないからな」

「されたかったら、してあげるけど? 但し、別料金でね」

「我らにはそういった性癖はない。無論、シュユ様にもだ」

「あんた達のことは遺産絡みの話で聞いたことはあったけど、教祖の名前を聞いたのは初めてかもね」

「そうだろう。我らはシュユ様の手足であると共に、盾であり矛だ。シュユ様の身辺を守り通すこともまた、弐天逸流を信ずる者の証しだ。たとえ神であろうとも、知らしめてはならぬと誓っている」

「じゃ、なんでこの僕には教えてくれるわけ?」

「羽部氏は、シュユ様の素晴らしさにすぐに目覚めると信じておるが故」

「目覚めなかったら、どうしてくれるのよ? 生憎だけど、この僕の頭脳はお前らの想像の範疇をK点越えしていると思ってくれていいからね? 小賢しい宗教になんて心酔するほど軟弱じゃないんだからね?」

「その時は、シュユ様の御判断に任せるだけだ」

 覆面の男は斜面を降り、細い道路の端に寄せてあるライトバンを指し示した。運転手は覆面の男達が戻ってきたことに気付くと、ライトを二三回点滅させた。覆面の人間達が全員ライトバンまで引き上げたのを確認した後、羽部も斜面を降り、ライトバンの後部座席に滑り込んだ。泥まみれの体を座席に横たえると、気が緩んだ。

 そのせいか、いつになく空腹を感じた。弐天逸流の信者達は奇妙な帯の付いた服も覆面も脱ごうとはしなかったが、普通の人間に接するように羽部に声を掛けてくれた。そればかりか、怪人でも食べられるものがある、と言って差し出してくれた。所帯染みたタッパーから取り出されたモノは、暗がりで見るとソーセージに似ていた。つるりとした光沢を帯びた円筒形の肉で、羽部の鋭敏な嗅覚に匂いが流れ込んできた。それは空腹を煽り立てるほど旨そうな匂いで、たまらずに食らい付くと、久しく感じていなかった肉の味が舌から喉から胃袋に広がった。差し出されるままに肉を食べて腹一杯になると、眠気を感じたので甘い安らぎに身を任せた。

 今し方食べた肉の正体を考えることもなく。



 十挺目の自動小銃が無造作に投げ捨てられ、薬莢の海に沈んだ。

 銃撃の余韻が残る両手を振りながら、無数の薬莢に取り囲まれている一乗寺はだらしなくにやけていた。ベストの前面に鈴生りにぶら下げていた拳銃も弾丸を一つ残らず撃ち尽くしていて、ナイフも一本しか残っていない。一乗寺の足元には赤黒い池が広がり、生臭い肉片が散らばっていた。全身隈無く返り血を浴びている一乗寺は、満足げにため息を吐き、余韻に浸った。さながら、トイレから出てきたばかりの子供のようである。

「あはぁーん、気持ちいい……」

 一乗寺は指ぬきグローブを填めた手で両の頬を押さえ、少女漫画のヒロインのように身を捩った。

「ああ、そうかい」

 寺坂は一乗寺の仕草に呆れつつも、自分のやるべきことに集中した。包帯から解き放たれた触手を肉片の中に差し込み、掻き混ぜる。だが、目当てのものが見つからなかったので、触手を引っ込めた。

「まだ生き残りがいるかな? もっと遊びたぁーい!」

 一乗寺は手近な死体の頭部に突き刺さっていたナイフを引き抜くと、脳漿の滴る刃先を振り回した。

「これだけ殺して、まだ気が済まねぇのかよ」

 寺坂が毒突くが、一乗寺は意に介さない。

「うっふふー、たぁのしーいっ」

 軽快にスキップしながら、一乗寺は集落の農道を駆けていった。苗が伸びつつあった田んぼや畦道にも、集落の住民の死体が転がっていた。濁った泥水に血が溶け、黒ずんだ染みが広がっている。一撃で額を撃ち抜かれたにも関わらず、胸や腹に無駄玉を撃ち込まれて血肉を撒き散らしている人間も少なくない。わざと中途半端な位置を撃たれて半死半生にされた挙げ句、一乗寺ににこにこしながらナイフを突き刺された者も少なくない。老人だろうが女だろうが子供だろうが躊躇しなかった。それが一乗寺の強みであり、狂気だ。

 体温が残っている血溜まりを触手を差し込み、弾丸と刃に引き裂かれた肉を探り、寺坂は死体を一つ一つ改めていった。一乗寺と連むようになる前は、調べたい相手を力任せに殴り倒して触手を喉から突っ込んでいたのだが、それでは効率が悪かった。寺坂は殺人狂ではないので相手を殺しはしなかったので、触手を突っ込む際には激しく抵抗されたし、対象者の周囲の人間も黙ってはいなかったからだ。だが、こうやって皆殺しにしてしまえば、寺坂にどれほど調べられようとも誰一人として抵抗しない。不条理だが、効率は良い。

 小さな虫が集っている街灯に照らされ、一乗寺が履いているジャングルブーツの赤黒い足跡がぬらぬらと光っている。寺坂は出来る限り血溜まりを踏まないようにはしているが、どこもかしこも死体だらけなのでそうもいかない。佐々木家を出た後に履き替えた使い古しのスニーカーは、洗い流した後で供養して捨ててしまおう。生と死の狭間に立っている職業であるからこそ、穢れに対しては敏感になる。

「ねーねー、よっちゃーん!」

 錆び付いたトタン屋根の倉庫の前で立ち止まった一乗寺が、盛大に手を振っている。

「なんだよ、うるせぇな」

 寺坂は足元に転がっていた千切れた腕を跨がないように迂回してから、一乗寺に近付いていった。

「ほらほら、まだいたよ? 生き残りが」

 そう言うや否や、一乗寺は足を上げ、隙間から明かりが漏れてくる倉庫の引き戸を蹴破った。派手な破砕音と共に古びた木製の戸は壊れてレールから外れ、内側に倒れ込んだ。土埃が舞い上がり、肥料の饐えた匂いと農機の機械油臭さが混じった独特の空気が流れ出した。手前に停めてあるトラクターのタイヤには乾いた泥がこびり付き、壁に作り付けられた棚にはずらりと農薬のボトルが並び、エンジン式の農薬の噴霧器が控えていた。去年収穫した古米を格納するためのコンテナには農協のカレンダーが貼られ、倉庫の一番奥には二階にまで及ぶほどの大きさの米穀用乾燥機が備え付けてあった。

「見てみて、あそこにいるよ!」

 動物園で珍しい動物を目にした子供のようにはしゃいで、一乗寺はコンテナの影を指差した。途端に短い悲鳴が上がり、何者かの影が揺れた。寺坂はベストの内側から小型の拳銃を取り出した一乗寺を制してから、コンテナの傍に歩み寄っていった。梁から吊されている裸電球の光を跳ねた草刈り鎌を握り締め、震えていたのは、つばめと大差のない年頃の少女だった。地元中学校のジャージを着ていて、日に焼けた頬には涙の痕が幾筋もある。

「ねぇねぇどうするの? 頭を吹っ飛ばしちゃう? 首を切っちゃう? それとも目玉を抉る? あはーん?」

 銃身の短い拳銃をくるくると回しながら、笑顔の一乗寺が寺坂に近付いてきた。寺坂は一乗寺には反応せずに、少女を見下ろした。一ヶ谷第二中学校の校章の下には、少女の名前が刺繍されている。富田六実(とみたむつみ)

「お願いします、こ、殺さないで下さい……」

 ひどく震える両手で草刈り鎌を握り締めた少女は、泣きすぎて充血した目で二人を見上げてきた。極度の緊張による汗なのか失禁した痕なのかは定かではないが、ジャージのズボンの股の部分には哀れな染みが付いていた。少女、六実は必死に後退るが、山積みになっている藁束に阻まれて身動きが取れなくなった。

「えぇー? 殺されることがそんなに怖いのー? だって、殺されても死なないのが弐天逸流が言うところの奇跡ってやつでしょー? んー?」

 寺坂の肩に馴れ馴れしく腕を載せた一乗寺が笑うと、六実はびくりとした。

「うぁっ」

「御布施と奉仕の代償が肉体を伴った輪廻転生だってことぐらい、俺が知らないわけがねぇだろうがよ。何せ、俺はお前らに取っちゃ生き神様なんだからな」

 寺坂は一乗寺の手を払ってから、六実と目線を合わせた。

「フジワラ製薬に手を貸した理由は何だ。教えろ。そしたら、お前の処置を考えてやらねぇでもねぇ」

「知らないよぉっ、そんなこと! 私は変な神様なんて信じていないもん!」

 金切り声を上げた六実は藁に縋り付いたが、汗ばんだ手に藁屑が貼り付いただけだった。

「本当か?」

 寺坂がやや声を低めると、六実はぎこちなく頷いた。

「こんな時に、嘘なんか吐けないよ」

「本当だな?」

 寺坂が念を押すと、六実は必死になって何度も頷いた。

「本当だってばぁ!」

「そうか」

 寺坂は腰を上げ、六実から一歩離れた。六実は見るからにほっとした様子で、涙と鼻水と涎でべとついている顔をジャージの袖で拭った。その様を横目で窺いつつ、不満げな一乗寺を小突いてから、寺坂は倉庫内を見回した。六実が通学に使っているであろう24インチの自転車がトラクターの奥に置かれていたが、サドルに土埃が積もっていた。布を被せられてはいるが、小振りな祭壇が壁際にある。寺坂はここ数ヶ月の記憶を引き出して、この集落についての記憶も掘り起こした。数えるほどでしかないが、この集落には寺坂の寺の檀家もいる。だから、ゴミ捨ての時以外にも訪れていた。その時に目にしていた、富田六実の葬儀を執り行う光景を。

「お前の死因はあれだったな、交通事故だ」

 寺坂の言葉に、六実は目を剥いて硬直した。震えも止まり、涙も止まった。

「休みの日に街に遊びに出て、信号無視して交差点を走っていこうとしたらトラックが突っ込んできてグシャー。って聞いたんだよ、俺んちの檀家からな。葬式もひどいもんだった、棺桶の中身は腐りかけた肉だらけで顔の形も元に戻せなくて、荼毘に付しても骨が折れまくっていたから拾うのが難儀だった、ってな」

「う」

 六実は身動ぎ、見るからに青ざめていった。

「まあ、お前んちは俺の檀家じゃねぇし、俺はお前の葬儀に顔を出しちゃいねぇけど、棺桶に花を入れた後に道端でゲロゲロ吐いているクラスメイトだったら何人も見たぜ。それが、なんで生きている?」

 左手でサングラスを外した寺坂は、射るような眼差しを少女に注いだ。六実は口籠もり、俯く。

「それは……奇跡が起きたからで……」

「信じていないんじゃなかったのか? クソッ垂れで守銭奴な教祖をよ」

 寺坂が凄むと、六実はまた涙目になる。

「でも、奇跡は本当に起きたから……」

「これのどこが奇跡だよ!」

 寺坂は触手を伸ばして六実を戒め、掲げる。胸と首を絞められ、六実は顔を歪めながらも反論する。

「だ、だって、私はこうして」

「死人が墓から出てくるんじゃねぇ。商売上がったりなんだよ!」

 大きく振りかぶり、寺坂は六実を壁に放り投げた。ぎぇっ、との短い悲鳴の直後、灰色のコンクリートに哀れな少女が激突した。頭蓋骨が割れて広がった髪の間から脳漿と血が噴き出す、かと思いきや、割れた頭蓋骨の内側から溢れ出したのは赤黒い触手の固まりだった。体液の汚らしい筋を塗り付けながらずるずると滑り落ちていった六実は、血が流れていくかと思いきや、細い触手が何本も這い出してきてミミズのように悶えた。頭蓋骨のように見えたのはそれらしい色が付いた強化プラスチックで、血と脳漿からは蛋白質の匂いはしなかった。びちびちと薄い体液の中で跳ねていた触手の固まりは、懸命に逃げようとするが、寺坂はすかさず触手を放った。

 どぅんっ、と砲弾が着弾したかの如く、コンクリート壁が抉れた。寺坂の右腕の中で最も太い触手は、六実の振りをしていた触手の固まりを貫通していた。途端に気色悪い色合いの体液が噴出し、触手は萎れていった。細い触手達は一乗寺が嬉々として狙撃していて、ものの数秒で全滅させてしまった。

「ちぇー、これでもう終わりかぁ。つまんねー」

 一乗寺は唇を尖らせつつ、硝煙の立ち上る銃口をふっと吹いた。寺坂は触手を収め、死んだ触手と富田六実の形に作られていた人形を見下ろした。サイボーグやロボットよりも遙かに稚拙な出来ではあるのだが、有機素材で作られているプラスチックの骨格や人工臓器に触手が何かしらの作用をもたらしているらしく、生者の如き瑞々しさがある。体液が抜けて萎れた触手の固まりと、一乗寺の銃撃で千切れた細い触手を掻き集めた寺坂は、それらを右腕の触手に巻き込んだ。程なくして、寺坂の右腕に死んだ触手が同化し、寺坂の触手が一本増えた。

「で、よっちゃん、今日のところはこれで引き上げなきゃならねーの?」

 一乗寺は小型の拳銃の替えのマガジンを探しているのか、しきりにポケットを探っている。

「いや。本番はこれからだ」

 寺坂は触手の具合を確かめつつ、倉庫から外に出た。殺されたばかりの人々が発する鉄錆の腐臭が、冷え込んだ夜風に掻き回される。降るような星空の下に出た寺坂は、富田家の玄関先に腰を下ろした。

「他に誰か生き返ってこねぇか、一晩見張る。そのためにお前に殺させたんだろうが」

「えぇー、めんどっちーい」

 そうは言いながらも、一乗寺は寺坂の隣に腰を下ろした。そして、ようやく見つけ出したマガジンを交換した。

「殺した連中の身元を洗い出すのが面倒臭いが、まあ、十中八九信者共だろうな。俺が知っている人間は、一人もいなかったからな。富田六実は別だが。問題は、土地を離れたがらないであろう田舎の老人共を、どうやって他の土地まで引き摺り出したかってことだ」

 寺坂はタバコを取り出して銜えると、一乗寺に差し出した。一乗寺はタバコを銜え、にんまりする。

「ま、それは追々ってことでいいんじゃねーの? いちいち考えるのは面倒臭いしぃー」

「夜が明けるまで何も起きなかったら、こいつらの死体を掻き集めるのを手伝えよ。荼毘に付してやらにゃならん」

「えぇー。めんどっちーい。適当に腐らせておけばいいじゃーん」

「リアルに感染症が蔓延しちまうだろうが。それに、怪人の生き残りが死体を喰いに来るかもしれないだろ」

「その時は殺して遊べるからいいじゃーん」

「この人でなしが」

「うん! だって俺、宇宙人だもーん」

 一乗寺は寺坂のポケットから勝手にライターを出すと、火を灯し、ライターを投げ返してきた。寺坂はその荒っぽさに辟易しつつも、タバコを付けて蒸かした。新しく生えた触手から流れ込んでくる感覚を紛らわすために、いつになく煙を深く吸い込んで肺に回した。富田六実に成り済ましていた触手は、当然のことながら富田六実の生前の記憶を持っていて、年頃の少女らしい出来事と感情が次々に脳裏に浮かんでは消えていった。その記憶の中に弐天逸流の教祖に関するものはないかと凝視してみるも、無駄だった。富田六実に触手を与えたのは教祖でもなければ上位幹部の信者でもなく、触手を入れた瓶を携えている中年の男であったからだ。その中年の男がどこの誰であるかが解れば、もう少し突き詰めて調べられるのだが、六実の視線が中年の男に定まっていないせいで、肝心の顔がよく見えなかった。そうこうしているうちに触手は寺坂に完全に馴染み、記憶は消え去った。

 戒められていない一二九本の右腕を垂らしながら、寺坂はサングラスを掛け直した。辺りが真っ暗なのでサングラスを掛ければ更に視界が悪くなるだけだが、掛けずにはいられない。目の前に横たわる理不尽を直視したくないがために、薄膜を隔てていなければ世界と向き合えない。寺坂もまた、心が弱いからだ。

 女の肌が、無性に恋しくなった。



 いつのまにか、寝入ってしまっていたらしい。

 美野里ははっと目覚め、上体を起こした。畳の痕が頬にくっきりと残り、剥がれる時に痛みすら覚えた。その部分を手で押さえながら目線を下げると、布団の上ではつばめが眠り続けていた。うなされてはいなかったが、また寝汗を掻いていたのでタオルで拭い取ってやった。ずっと握り締められていた手には、つばめの指の形で痣が付いてしまったが、それが嫌だとは思わなかった。つばめの苦しみを和らげられたのだと、安堵すらした。

 枕元の携帯電話を作動させて時刻を確かめると、夜明けとは程遠い深夜だった。いつのまにか出ていった寺坂が戻ってくる気配はなく、コジロウを組み上げるために働き続けている政府の人間の声ばかりが聞こえてくる。その中には寺坂の声はなく、恐らく一乗寺と連れ立って出かけたのだろう。それを知ると、物寂しくなった。

「いつ頃帰ってくるのかしら」

 あの二人が家族であるかのような独り言に、美野里はふと笑みを漏らしそうになった。いつのまにか寺坂と一乗寺が傍にいる騒がしい時間に慣れてしまったようだ。つばめが蹴り飛ばしていた掛布を直し、すぐに戻るわね、と声を掛けてからつばめの寝床を離れた。続き部屋と居間を通り抜けて台所に至った美野里は、生温い水道水をコップに入れ、喉を鳴らして飲み干した。つばめのことが気になってたまらないから、喉の渇きさえも忘れていた。コップを軽く洗ってから水切りカゴに戻し、替えのタオルをもう何枚か持って行ってやろうと、別の部屋に向かった。

 タンスから洗い立てのタオルを出して腰を上げたが、エンジン音を耳にして顔を上げた。重々しい走行音からしてコジロウの部品を輸送してきたトレーラーか、自衛隊の装甲車だろう。寺坂の車ではないと解ると、美野里はタオルを抱えて顔を埋めた。期待してどうする。何を考えている。

「それだけはダメ」

 寺坂に好意を返したとしても、いいことはないと解り切っているではないか。

「つばめちゃんのことだけ、考えていなきゃダメなんだから」

 肝心なものを守り通してから、余計なことを考えるべきだ。

「だって、そうしないと、私は」

 唇を引き締め、美野里はタオルに爪を立てた。一度深呼吸してから気を取り直し、つばめを寝かせている部屋に戻ろうとすると、ふすまを隔てて泣き声が聞こえてきた。美野里はすぐさまふすまを開け放って駆け込むと、寝床から起き上がったつばめが泣きじゃくっていた。つばめはしゃくり上げてぼたぼたと涙を落とし、喘ぐ。

「おねえちゃあん……」

「大丈夫よ、大丈夫だから、ね?」

 美野里はつばめを撫でてやりながら優しく語り掛けると、つばめは更に泣いた。

「コジロウがまた壊れちゃったよ! そんな目に遭わせたくないのに、大事にしたいのに!」

「大丈夫よ、政府の人達がすぐに直してくれるから」

「直してくれたって、コジロウは私のことなんか嫌いになるに決まってる!」

「コジロウ君はそういうことは考えないから、落ち着いて」

「私なんかが好きになっても大丈夫だって思ったのに! 友達になってくれるかもしれないのに! やっと、やっと、一人じゃなくなったって思ったのに! こんなんじゃ、コジロウにだって嫌われる! そんなの嫌ぁ!」

 つばめは絶叫し、頭を抱える。美野里はつばめの背中をさすってやりながら、語り掛ける。

「大丈夫、大丈夫だから」

「一人になりたくない! 遺産なんかいらない! だからお願い、私を嫌いにならないで!」

 つばめは両手で顔を覆い、振り絞るように叫んだ。後半は嗚咽混じりで上擦っていたので聞き取りづらかったが、心情は痛いほど伝わってきた。美野里はつばめを抱き締めると、大丈夫、大丈夫、と何度も言い聞かせてやった。それでも、つばめは泣き止まなかった。美野里の服を千切らんばかりにしがみつき、怖い、嫌だ、と叫んだ。

 明るくて打たれ強くて度胸があるように振る舞っていても、その強さを成り立たせているのは孤独に対する凄まじい強迫観念だ。外側に強い自分を作っておけば、弱い自分を内包出来てしまうからだ。けれど、見せかけの強さが崩れた時の反動は痛烈だ。外側の自分が強ければ強い分、割れた殻のエッジは鋭く、弱い自分を切り裂いてくる。だから、今のつばめは傷だらけだ。事ある事に命を狙われる辛さは、想像しても余りある。

 その傷口を塞げはしなくとも、痛みを紛らわせたら、と願いながら美野里はつばめを支えてやった。気の済むまで泣かせてやり、叫ばせてやり、喚かせてやった。政府の医療班からは鎮静剤を処方しようかと声を掛けられたが、美野里はそれをやんわりと断った。薬で誤魔化したところで、つばめの心の傷が塞がるはずもない。

 一人にしないで、どこにもいかないで、とつばめは譫言のように繰り返した。その度に美野里は、一人にしないわ、どこにもいかないから、と答えてやった。そのやり取りを何度も繰り返すと、つばめは少しずつだが落ち着いてきた。空が白み始める頃、泣き疲れたつばめは美野里の腕の中で寝入った。つばめの顔を拭って布団に横たえてやってから、美野里も眠りに落ちかけていると、聞き慣れたスポーツカーのエンジン音を耳にした。

 訳もなく嬉しくなった。

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