ウェットより育ち
赤いカプセルを頭上に翳し、見つめる。
生体安定剤、との名目で、フジワラ製薬が吉岡グループ傘下の製薬会社から買い取っている薬剤だ。その中身が何なのかは、出来るだけ考えないようにしている。飲み下す瞬間や、胃の中に落ちて硬いゼラチンが溶けた瞬間や、その中身が消化されて体内を循環し始める瞬間を、意識しないように務めている。けれど、吉岡りんねの配下となって戦い始めてからは、嫌でも意識せざるを得なくなった。伊織は虚ろな目で、赤い楕円を捉えていた。
このカプセルの中身は、吉岡りんねだ。りんねの分泌物や血液から成分を抽出し、凝縮し、作成した薬剤なのだ。佐々木つばめの生体組織を使えばもっと効力を上げられるだろうが、その佐々木つばめのガードは文字通り硬く、コジロウを倒すか、先日、ジャスカで鉢合わせした時のように不意の隙を衝かなければ、佐々木つばめの生体組織はまず手に入らない。だから、遺産の管理者権限が発動する条件を備えているもう一人の少女、吉岡りんねの身を削って薬剤を造っている。りんね側はフジワラ製薬に生体安定剤を与えることで怪人とアソウギの暴走にブレーキを掛け、フジワラ製薬側はりんねの生体組織を多く含んだ薬剤を買い付けることで他の企業からは頭一つリードすることが出来るので、利害関係はある程度一致している。だが、拮抗しているわけではないのだ。
「今になってビビってきちゃった、とか言わないでくれる? クソお坊っちゃん」
唐突に伊織の視界に入り込んできたのは、羽部鏡一だった。伊織は毒突く。
「んだよ、てめぇ」
「この作戦はねぇ、面倒臭い会議と手回しを重ねに重ねて、頃合いを見計らって、人員を調整して、ついでに怪人の能力も調節して、どうにかこうにか漕ぎ着けたんだから、肝心のクソお坊っちゃんがビビっていたんじゃ何も始まりはしないの。それどころか大いに損失が出るの、ざっと十億ぐらいかな。この僕の才能を持ってすれば、それぐらいの損失はすぐに補填出来るけど、高校中退が最終学歴のクソお坊っちゃんじゃねぇ」
羽部は胡座を掻き、にやにやしてきた。伊織は苛立つよりも先に、その趣味の悪い服装に心底辟易した。紫色のバスローブを着ていて、サテンのような艶を帯びた生地には妙にリアリティのあるムカデの刺繍が這い回っている。気色悪いことこの上ない。上背があるか、武蔵野のように顔形に凄みがあればそれなりに格好が付くのだろうが、羽部はどちらかというと小柄で猫背気味なので、バスローブの袖も裾も少々余っていて、服に着られているかのようだった。伊織はげんなりして寝返りを打つが、羽部は伊織の視界にまたも顔を入れてくる。
「何? どしたの? この僕に言い返す勇気もないんだ? まあ、この僕に敵うはずもないって理解したんだったら、君みたいな単細胞生物でも脊椎動物ぐらいには進化出来るかもしれないねぇー」
さすがに苛立った伊織はカプセルを握り締め、おもむろに羽部を殴り付けた。羽部は避ける暇すら与えられずに伊織の拳を頬骨に喰らい、仰け反った。だが、伊織に打たれ慣れてきたのか、前ほど派手なリアクションはせずに殴られた部分をさすって愚痴を零すだけだった。伊織は仰向けに寝転がり、板張りの天井を見上げる。
「ビビるわけねーし? つか、俺がビビる意味すらねーし?」
「あー、そう?」
羽部は伊織の隣に敷いてある布団に寝そべると、少し不満げな顔をした。何が悲しくてヘビ男と同じ部屋で寝起きを共にしなければならないのだ、と伊織は常々思うのだが、りんねがそう決めたのだから仕方ない。別荘の部屋も無限ではないし、道子が私室の他にもサーバールームとして二部屋を占領しているので、羽部に宛がうべき部屋は元より存在していなかった。おかげで私物が二倍、いや、十倍に増え、部屋の空間を大いに狭めている。
「うっ……あー……。すっご、うーわぁー……」
前触れもなく、羽部は身震いして恍惚とした。さながら性的快感を覚えているかのような格好と声色なので、伊織はまたも苛立ちが蘇ってきた。だが、そんな状態の羽部に近付くことすら嫌なので、伊織は苛立ちを黙殺した。
「いやもう本当に凄い、凄すぎてアレだね、うん、んふふふ」
満足げにため息を吐いた羽部は、うっすらと汗ばんだ額に手を当て、だらしなくにやける。
「ねえクソお坊っちゃん、群体って知っているかい? ああ知らないよね、聞いたこの僕が愚かだね、ふふ」
「は? それぐらい、知らないわけがねーし」
伊織は飲まず終いだったカプセルを枕元の薬袋にねじ込んでから、乱暴に答えた。
「あれだろ、アメーバの固まりみたいな、無性生殖で繁殖した連中がくっついて固まってるやつだろ?」
「そうそう、軍事組織じゃない方ね。クソお坊っちゃんのくせに正解するなんて生意気だなぁー。あー、でも、この場合は超個体って言った方がいいかな?」
羽部は仰向けに寝転がったままで足を組んだので、バスローブの裾がはだけて朱色の裏地が露わになった。
「この僕の素晴らしい研究成果をちょっとだけ特別に御披露目してやるよ、クソお坊っちゃん。この僕の見解では、アソウギは魔法の液体でも何でもない、一個の生命体なんじゃないかってね。でも、何らかの理由で遺伝子情報をいじくられまくってただの液体と化して、無限バイオプラントにさせられたんじゃないかってね」
「は?」
そんなこと、初耳だ。伊織が聞き返すと、羽部はきょとんとした。
「あー、そっか。知らないのかぁー。やっぱりクソお坊っちゃんは果てしなくクソだねぇ」
「うるせぇ死ねよ」
「そう言うわりには率先して人殺しには出かけないくせに? まあいいや、特別の更に特別で続きを話してあげる。いいかいクソお坊っちゃん、この僕達は人間を凌駕した進化した生命体であることは確かだけど、高みに昇ったかと言えば、そうでもなかったりするんだなぁ。地球上のほとんどの生物はL型アミノ酸で構成されていて、アソウギはD型アミノ酸で構成されていて、この僕を始めとした怪人はD型アミノ酸しか受け付けられない体なのに、その体の方は未だにL型アミノ酸で構成されているという、ややこしい事態になっている。それはなぜかって? 答えは至って簡単だよ、アソウギが癒着した細胞だけがD型アミノ酸に変換されているからさ。人間から怪人に変身するってことは細胞そのものを大きく変化させて体中の構造を組み替える必要があるんだけど、組み替えないでいた方が都合が良い部分もあったりしちゃったりする。脳だよ。でも、その脳を支えるための細胞や神経も一杯あるから、結果として脳に関わる細胞の大半がそのままになっちゃっている。それはなぜか? 生物の本質を変えないためさ」
羽部は、いやに真面目な口調で語り続けた。
「僕が思うに、アソウギの役割は生物を進化させることじゃなくて、土着の環境に合わせた改造を施すための道具に仕立て上げられた群体、或いは超個体の生物なんじゃないかって。遺伝子情報を切り貼りするにしても、根っこから変えているわけじゃない。ぐちゃぐちゃにして一から作り直しているわけじゃない。人間なら人間で、ヘビならヘビで、虫なら虫で、環境に適応させつつも誰かにとって都合の良い形に作り替えているような気がしてならないんだよね。だってそうだろ、この僕はヘビになったのに脱皮もしやしないし、クソお坊っちゃんは軍隊アリになったのに女王様を探そうとはしていないじゃないか。どこまでも人間である証拠だよ」
「あー、そうだな」
言われてみれば、そうかもしれない。伊織が少し納得すると、羽部は頭を小突いた。
「これだって妙な話なんだよ。この僕の高潔で完璧な生体組織に佐々木の小娘の生体組織をちょろっと混ぜたモノをサイボーグ女の脳みそに流し込んでやったんだけどさ、驚いたことにテレパシーみたいなので繋がってんの」
「嘘吐け」
伊織は半笑いになったが、羽部は真面目な口調を崩さなかった。
「遺産同士に互換性がある、ってのは随分前から言われていたことではあるんだよねぇ、うん。サイボーグ女の脳に突き刺さっている遺産と、我らがフジワラ製薬が有する遺産のアソウギは、性質も違えば用途も能力も違っているんだけど、互いを補えるんだよ。アソウギ自体にも理屈はさっぱり解らないけど演算能力が備わっていてね、おかげで生体改造が出来るんだけど、それにも限度ってものがあるんだ。アソウギと何らかの生物を与えられることによって人間は変身能力を得ることが出来るんだけど、それだけなんだよ。そこから先はない。吉岡グループが暴利を貪るために売り付けてくる生体安定剤を使わなければ、変身前後の姿を安定させることもままならない。それはなぜか、至って簡単な話、アソウギで体を作り替えたことによって後天的な染色体異常を罹患したからさ。その染色体の穴を埋めるために生体安定剤が必要、ってわけね。でも、あのサイボーグ女の遺産を使えば、これからはそんなこともなくなるんだよ。染色体異常の穴を埋めるための染色体を造るために必要な情報を処理出来るばかりか、それを元にした情報をアソウギに与えて再改造出来る、ってわけ。んで、今、この僕はその情報処理作業をやっているんだよ。意識が一枚引っぺがされたみたいな感覚には慣れないけど、作業効率は最高だね」
「再改造出来たら、どうなるんだよ」
「わっかんないかなぁ、これだから低脳な昆虫はダメなんだよ。ま、それは後のお楽しみなんだけどね」
羽部は答えをはぐらかすと、もう寝ようよ、と急かしてきた。
「勝手に寝てろ、死ね」
羽部の得意げな語り口に飽き飽きした伊織は、薬袋を引っ掴んでから自室を後にした。羽部の名残惜しげな声が聞こえてきた気がしたが、無視した。あのヘビ男の傍にいるだけで腹が立ってくる。二階の廊下を通ってリビングの吹き抜けに面した通路に出るが、リビングの明かりは落とされていてダウンライトだけが弱く灯っていた。
道子の眠るサーバールームからは、絶え間ない機械の唸りが聞こえてくる。武蔵野と高守が寝起きしている部屋は人の気配が希薄で、何をしているのかも解らないが、誰かが傍にいることだけは確かだった。それを知ると安堵するのは、根っからの人間嫌いではない証拠だ。伊織は他人と接するのは煩わしいとは思うが、心底憎んでいるわけでもなければ、一個人に恨みを抱いているわけでもない。それなのに、他人を殺したいと願って止まない。
特に、あの女だ。伊織は階段を下りると、静まり返ったリビングに留まっている少女を見据えた。別荘の主であり、一味のリーダーであり、フジワラ製薬から伊織を買い取った女は、暗がりの中で読書に耽っていた。その手元にはベネチアングラスのスタンドライトがあり、淡いオレンジ色の柔らかな光を丸く広げていた。
「伊織さん」
とろけるようなシルクのネグリジェを着てストールを肩に掛けているりんねは、振り返り、銀縁のメガネの内に伊織の姿を収めた。りんねは本を閉じてリビングテーブルに置いてから、立ち上がった。
「いかがなさいましたか?」
「どうもこうもねぇよ」
伊織がリビングに至ると、りんねに大股に近付いた。だが、りんねは動じない。
「お休みになれないのでしたら、外出なさっても結構ですが。朝食の時間までにお戻り頂ければ結構ですので」
「そんなことじゃねぇ」
伊織はりんねの襟首を掴み、力任せに引き寄せる。それでも、りんねは表情一つ変えない。
「持て余していらっしゃるのでしたら、私でよろしければ御相手いたしますが?」
「……相手、って」
シモの世話か。伊織が言い淀むと、りんねは涼やかに返した。
「ええ、御想像の通りです。こういった環境ですから色々と鬱屈したものも溜まられるでしょうし、それは生物の摂理としては自然なことです。伊織さんもですが皆さんは特殊な身の上ですので、持て余したものを外部に向けられると困ってしまうのです。後から手を回して事後処理をすると、経費も手間も掛かってしまいますので」
ですから、手近なところでお済ませ下さい、とりんねは躊躇もせずに言い切った。
「黙れ!」
伊織はりんねを床に放り投げると、肩を怒らせた。これだから、この女は腹が立つ。
「気に障ったのでしたら、申し訳ございません」
りんねは事も無げに立ち上がると、ネグリジェの裾とストールを直した。襟元から覗く首は白く薄い皮膚に包まれ、細い鎖骨の間では水晶のネックレスが転げ、年齢にそぐわない大きさの乳房が絹の生地をふんわりと押し上げている。真っ当な人間であれば、多少なりとも扇情されるだろうが、生憎伊織には真っ当な性癖は備わっていない。
だから、殺意しか感じなかった。
目が冴えて、どうしようもない。
それもこれも、コジロウが傍にいるからだ。布団の中なのに居心地が悪く感じ、つばめは目を開いた。ナツメ球のオレンジ色の光が暗がりを溶かしているが、その色はどことなく不安を誘う。とてつもなく嫌な夢を見て、夜中にふと目が覚めると必ず目に入る色だからだ。彼が帰ってきたのは心の底から嬉しいのに、少しだけ怖い。
何度も寝返りを打ったせいでぐちゃぐちゃになった薄い掛け布団を剥がし、起き上がったつばめは、縁側に面した障子戸越しに彼の背を見上げた。少し前まではその位置に金属の棺のタイスウが控えていたのだが、コジロウが帰ってきたことでタイスウは物置に戻り、それまで通りにひっそりと横たわっている。
手を伸ばせば触れられる、一歩踏み出せば近付ける、声を掛ければ返してもらえる、そんな距離だ。だが、それが余計に不安を煽る。笑顔を作り、他人との距離を測り、可もなく不可もない人間として生き延びてきた頃の感覚が拭えないからだ。コジロウにはそんな建前は通用しないのに、本音も素顔も曝け出してきたのに、それでも尚、心のどこかが竦んでしまう。全身で寄り掛かりたいのに、縋りたいのに、甘えたいのに、萎縮してしまう。
布団から起き上がったつばめは、恐る恐る障子戸に近付いた。政府による整備を終えたコジロウは今まで以上に素晴らしく、力強く、磨き上げられた塗装は美しささえあった。トレーラーから出てきた彼を見た瞬間、飛び付きたい衝動に駆られたが寸でのところで押し止めた。それから、コジロウを出迎えてやった。といっても、人間ではないので手の込んだ夕食や熱い風呂や片付いた家に喜びを感じることもないのだが、心行くまで出迎えた。何度言っても気が済まなかったので、何度も何度もお帰りと言った。美野里に苦笑されるほど、つばめは喜び倒した。
けれど、喜びが収まると不安だけが残った。コジロウの左胸には翼のステッカーが残っていたし、つばめが何度もお帰りというとそれに応じた言葉を返してくれたが、どうしても胸中がざわめく。何かが引っ掛かる。
「ん……」
つばめは障子戸に手を掛けようとしたが、思い止まった。
「所用か、つばめ」
不意に、障子戸越しに声が掛けられた。つばめは動揺したが、呼吸を整える。
「ううん、なんでもない。なんか、寝付けないだけ」
「備前女史の助力が必要か」
「大丈夫だよ、お姉ちゃんを起こすほどのことじゃないから」
つばめは淡い月明かりでコジロウの影絵が映る障子戸に近付き、彼の影の手元に自分の手を重ねた。障子紙と木枠のざらついた手触りしか返ってこなかった。
「つばめ。報告すべきことがある」
「なあに? 珍しいね」
つばめはコジロウの影絵をなぞるように、手を挙げる。
「本官は、つばめが本官に譲渡した装飾品を保護するため、命令を無視した」
「いいよ、そんなこと。コジロウが自分を守るためには仕方ないことだし、ロボット三原則にだって自分を守るためには命令を無視しても構わない、ってあるんだし。だから、気にしないでよ」
コジロウも気が引けることがあるのか。そう思うと、つばめは少し気持ちが楽になった。
「本官は……」
言い淀み、コジロウの頭部が傾く。顔を背けたのだろうか。
「整備作業に関連する事象で、本官とつばめの身の安全は他者の犠牲によって成り立っていると認識した。また、機密保護条令によって本官に開示されていない情報も多々あると認識した。しかし、本官はそれに対していかなる主観も得てはならないと認識している。また、情報を多く得ることで判断と認識が無数に蓄積し、疑似人格に等しい情緒が発生することもあってはならないと認識している。また、情緒的に累積したパターンに基づいた判断を下すことはあってはならないと認識している。よって、つばめに本官の判断の是非を判断してもらいたい」
「判断の判断、って」
つばめは笑い出しそうになったが、コジロウの語気は至って真面目なので抑えた。確かに、コジロウとつばめの今の生活を支えているのは、周囲の大人達の力に他ならないのだ。美野里や一乗寺や寺坂だけでなく、政府関係者の助力がなければ、徹底的にやり込められて押し潰されているだろう。だから、個人の一時の私情だけで動くことは許されない。ほんの小さな判断ミスがドミノ倒しのように連鎖し、大きなトラブルを生みかねない。
だから、コジロウが片翼のステッカーを守るためにつばめの命令を無視したのは、主従関係としては正しい行動かもしれないが、大局で見れば正しいことではない。そう思ったつばめは、答えた。
「約束を守ってくれてありがとう。でも、次からは気を付けて。それでいいのかどうか、コジロウがちゃんと考えてから行動してね。私の判断じゃ頼りないから」
「了解した」
コジロウは簡潔に答え、首の位置も戻した。つばめは障子戸を開けようと思ったが、やはり手を止めて、そのまま布団に戻った。コジロウでさえも不安になることがあるのだから、自分の不安など些細なことだ。体温の残る布団に潜り込んで体を丸めたつばめは、目を閉じた。気持ちが落ち着き、すんなりと寝付くことが出来た。
そして、懸念を忘れようとした。
片手で絞めても指が余るほど、細い首だった。
薄い肌の下では頸動脈が穏やかに脈打ち、小さな唇の間からは吐息だけが漏れる。抵抗する素振りもなければ苦しがりもせず、伊織の短絡的な激情を静かに受け止めていた。メガネの奥では澄んだ瞳が瞬き、人間と怪物の狭間に揺らぐ青年をじっと見つめていた。これなら、作り笑いでも笑顔を浮かべている道子の方が余程人間らしい。そう思った途端、伊織は急激に殺意が萎え、首を掴んで足を浮かせていたりんねを放り出す。
浅く、弱い、呼吸が繰り返される。伊織の手形が付いて赤らんだ首筋を押さえ、小さく咳き込んだ。なんだ、やはり苦しかったのではないか。ならば、そう言えばいいものを。そう言ってくれれば、今すぐに殺してやったのに。
「殺して下さっても構わなかったんですよ?」
りんねは呼吸を整えてから、乱れかけた襟を直した。その首筋を緩く戒めている銀のチェーンが崩れる。
「吉岡グループが所有する遺産はコンガラと申します。その能力は複製です」
「……んだよ、知らねぇよ、そんなもん」
りんねの肌の感触が残る手を持て余し、伊織が毒突くが、りんねは淡々と言葉を連ねる。
「コンガラは与えられた物体が無機物であろうと有機物であろうと関係なく、複製します。複製する際に必要な物質は存在しません、コンガラ本体が無限に物質を生み出しているのです。ですから、原型となる試作品さえ完成させてコンガラに与えてしまえば、資材を調達する必要もなく、工場を建設する必要もなく、工場を運営するために必要な人間を雇う必要もなく、無制限に生産が可能です」
その続きを聞きたくない。しかし、伊織はりんねの言葉を一心に聞き入っていた。当然のことながら、各企業から派遣されている面々は諜報員としての側面も持っている。それぞれの動向を見張り、遺産の在処と能力を探り、佐々木つばめのみならず、遺産を奪う機会も虎視眈々と狙っているのだ。だから、りんねの言葉を聞き流すわけにはいかない。役割が果たせなければ、伊織には何の価値もないのだから。
「ですが、コンガラは命までも複製出来ません。肉筆で書かれた書類をコピー機で印刷しても、インクの潤みや紙のへこみまでも模倣出来ないように、コンガラは形だけを複製します。よって、コンガラは動植物を与えられても、全く同じ遺伝子情報と形を持ったものしか生み出せないのです。人間にも同じことが言えます」
りんねは俯きがちに立ち上がり、長袖を捲った。小枝のような腕には、注射針の痕がいくつも残っている。
「私の生体情報はつばめさんの管理者権限とほぼ同等ではありますが、つばめさんの管理者権限のような絶対的な効力は持っていません。以前、つばめさんの生体情報を入手することが出来ましたので、それを元にして複製を行ってみました。つばめさん本人には程遠いですが、コンガラに与えたものと全く同じ物体が、全く同じ生体情報を持って生み出されました。ですが、管理者権限に値する能力は半減し、私と同等かそれ以下に劣化していました。恐らく、コンガラ自体にそういった設定が施されているのでしょうね。管理者権限を持つ人間の生体情報を無尽蔵に複製出来てしまったら、管理者権限が存在する意義が失われてしまいますからね」
りんねは腕の内側に付いた注射針の痕を握り、隠した。
「私は自分がつばめさんの代用品であることぐらい、承知しております。私という個人には、何の価値もありません。この御時世、外見などどうとでもなります。知識はいくらでも詰め込めますが、それがイコールで知性だというわけではありません。両親が繁殖行動を行えば、私に近しい遺伝子情報の人間は産み出せます。いえ、その相手が私の母である意味はどこにもありません。管理者権限は父方の遺伝ですから、母親の血は関係ありませんので、父が若い女性を見繕って産ませればいいのですから。私はあなたと同じです、伊織さん」
純然たる商売道具です、とりんねは言葉を締めた。伊織は文句をぶつけてやろうかと口を開いたが、喉の奥から罵倒も侮蔑も出てこなかった。その通りだからだ。伊織の感情なんて会社の動向には関係なく、伊織の意志なんて最初から存在せず、伊織に人間らしさなんて誰も求めてはくれない。それが、伊織という商品だ。
「フジワラ製薬の方で、何か動きがあるようですね」
りんねは分厚いハードカバーの洋書を開き、その間から手のひらに隠れるほど小さなPDAを出した。その画面には録音された音声ファイルが表示されていて、りんねが液晶画面のボタンを押すと音声が再生された。伊織と羽部の下らない会話から始まった、フジワラ製薬の作戦についての会話が鮮明な音質で録音されていた。いつのまに、と驚いたが、伊織は怒る気は起きなかった。この別荘を造ったのは吉岡グループだ、商売敵でもある部下を見張るために盗聴装置の一つや二つ、仕掛けていてもおかしくはない。むしろ、その方が自然だ。
「じゃ、どーすんだよ? 俺とあのヘビ野郎を殺すのか、あ?」
「いいえ。私は、伊織さんと鏡一さんの会話を耳に入れなかったことにいたします。また、その情報を記憶に留めていないことにいたします。フジワラ製薬がいかなる手段でつばめさんを奪おうとなさるのかは、後学のためにも是非とも拝見させて頂きたいのです」
「商売敵を泳がせる理由にしちゃ、弱すぎじゃね? 裏があんだろ、どーせ」
伊織が訝るが、りんねは表情すら変えずにPDAの電源を落とす。
「御想像にお任せいたします」
失礼いたします、とりんねは伊織に深々と頭を下げてから、自室に戻るために階段を昇っていった。その頼りない後ろ姿を見上げていると、腹の底に嫌なものが煮えてくる。以前から薄々感じ取っていた、りんねと伊織は同類だという根拠を得たからか、一層熱を増してくる。黒く粘ついたものが内臓を侵食し、神経を逆立ててくる。
一度、伊織は自分の部屋に戻った。だらしなく惰眠を貪っている羽部を苛立ち紛れに蹴り飛ばしてから、充電器に突っ込んだままにしてあった携帯電話を取り出した。ホログラフィーモニターを開き、以前、父親が送ってきたメールを再度開いて文面を確かめる。電話連絡もあったのだが、その後、同じ内容のメールが届いた。まるで携帯電話が普及し始めた頃のアナログ人間のようで癪に障るが、重要事項なので消去出来なかった。
準備が整い次第、戦いに来い。場所は羽部に聞け。短い文面には父親の権力と威圧感が漲っているかのようで、長時間直視出来なかった。けれど、父親から頼りにされているのだと思うと不思議と気持ちが浮き立ってくる。初めて他人を傷
付けて大喜びされた時と同じような、くすぐったい感触が背筋を這い上がってくる。
「おい」
伊織は羽部を蹴り飛ばすと、羽部は布団の上で一回転した後に床に落ち、渋々目を開けた。
「なんだよう、もう」
「俺は誰を殺せばいい?」
伊織がメールの文面を羽部に突き付けると、羽部はかったるそうに瞬きした後、頭の下で手を組んだ。
「あのさあ、準備が整い次第、ってあるでしょ? すぐに何をどうこう出来るほど、単純じゃないんだからね? その準備ってのはこの僕の優れた頭脳による綿密な計算を元にした情報をアソウギに与えてやって、その上でどうにかなるものなんだからさぁ。あーやだやだ、社会経験がない奴ってこれだから。もうちょっと寝かせてよ、この僕はクソお坊っちゃんと違って二十四時間頭脳労働をしているんだから、ちったあ休ませてくれないと発狂しちゃう」
「黙ってろ、クソヘビが」
思い通りの答えが返ってこなかったので、伊織は羽部の脇腹を蹴り付けてやった。羽部は呆気なく吹き飛んで壁に激突するも、痛いとは言わなかった。眠気の方が勝っているのか、壁に激突した格好のまま、薄手の掛け布団にくるまって動かなくなった。その反応もまた苛立ちを誘い、伊織は派手に舌打ちしてから窓を開けた。
ジーンズのポケットにねじ込んでいた薬袋を引き裂き、シートも破り、生体安定剤を一錠残らず口に放る。それを水も使わずに飲み下し、D型アミノ酸で作られたゼラチンのカプセルを胃液に浸して溶かしていく。この中身はきっとりんねの血であり、皮膚であり、分泌物であり、髪の毛だ。立場も存在も近しいからこそ憎たらしいあの女を喰ったような気分になれるのは清々しいが、一方で実物を切り裂けもしない自分に腹が立ってくる。
それはなぜか。五臓六腑に染み渡る少女の味に打ち震えながら、伊織は黒光りする外骨格に包まれていく己の手を凝視した。それは恐らく、りんねに同情しているからだ。殺したいと願って止まないのは、りんねを通じて自分を殺したいと思っているからだ。それはなぜか。物心付いた頃から暴力に染まり切っている自分に飽き飽きしているからだ。けれど、暴力を知らない自分は藤原伊織ではない、とも思う。また、人間が理性で忌避している快楽に全身でどっぷりと浸っている自分が誇らしい、とも思う。そして、暴力は他人に評価されるためには最も確実な手段だと知っているからだ。だから、伊織は自分とりんねを殺す代わりに他者を殺す。
ぎちぎちぎち、と軍隊アリが顎を鳴らす。ベランダからはみ出した体躯を縮めて触角を左右に揺らし、空気の流れに混じる人の匂いを絡め取る。古臭い排気ガスの匂いが濁った刺激をもたらしてくる。敢えて古い動力機関の車に載って爆音を轟かせるのを好む人種は少なくない、そういった連中が賢かった試しもない。
ベランダの柵に爪痕を残して踏み切った怪物は、ぬるりとした夜気に身を躍らせる。生体安定剤は何も人間体にだけを安定させるものではない、怪人体も安定させてくれる。だからこそ、生体安定剤なのだ。一息に別荘の敷地を脱した伊織は、カーブのきつい道路に着地した。汚らしい爆音と煤けた排気ガスを辿り、ブレーキ痕を辿っていくと、大人数が乗れるSUVがアイドリングしていた。ヘッドライトを煌々と灯したまま、カーブの隅に停車している。
「ホントにここでいいの? てか、道に迷ったっぽくない?」
化粧臭い女が、脳天から出したような甲高い声で喋る。
「でも、ここ以外の道はなくね? 引き返したら余計に迷いそうじゃね?」
整髪料の匂いがどぎつい男が、へらへらと笑っている。
「いっそ引き返すか? でも、ここまで実況しちゃったしなー、心霊スポットに来たーって」
SNSの投稿画面をホログラフィーモニターに表示させた携帯電話をいじりながら、別の男が喋る。
「そんなん、別にどうにでもなるし。だってこの辺、GPSが通じないんだろ? で、衛星写真も撮れねーっつーから、謎の廃村扱いされてんじゃん。適当にやべーやべーって言っておけば、ちょっとは盛り上がんじゃね?」
SUVの運転席に座っている男が、退屈そうにハンドルにもたれかかっている。
「でもさでもさー、途中に寺あったじゃん、寺。そこの墓場の写真とか撮って加工してアップすれば、少しはマジっぽくなるんじゃないの? そしたらネタ扱いされなくて済むし?」
助手席のドアにもたれている女がデジタルカメラを取り出し、いじっている。音もなく杉の太い枝に飛び移った伊織は、複眼を凝らして若い男女グループを眺め回した。大方、船島集落が心霊スポットとしてウェブサイトかSNS辺りに取り上げられたのだろう。船島集落近辺で市販の携帯電話のGPSが機能しなくなるのも、ウェブ上の地図で衛星写真が撮影されていないのも、全て吉岡グループが手を回しているからだ。
「ねえねえ、途中に別荘とかあったよね? そこに行って探険してみようよ!」
「でも、あそこって廃墟じゃないっぽくない? 車とか停まってたし、人型重機も置いてあったっぽいから、ヤクザのだったりするんじゃない? 近付かない方が良いよ、絶対」
化粧臭い女の提案に、もう一人の女が意見してきた。だが、他の男共は急に乗り気になり、そこまで引き返そうと言い始めた。男共の匂いにどぎつさが加わった。りんねの別荘が廃墟だと頭から決め付けているばかりか、無料のホテル代わりにして一夜を楽しもうと考えたに違いない。もう一人の女はしきりに他の面々を止めようとしているが、ノリ悪ぅーい、と言われて渋々SUVに乗り込んだ。
さあ、お楽しみの時間だ。伊織は顎を大きく開いて笑みのような表情を作り、枝を踏み切った。エンジンを蒸かして発進したばかりのSUVの前に着地すると、ヘッドライトに浮かび上がった伊織を見た途端に車中の全員が絶叫する。けれど、皆、恐怖を感じる前に喜んでいた。待ちに待った心霊現象が始まったからだ。
「何これ何これ、ヤバーい!」
デジタルカメラを持った女が率先して伊織を撮影し始める。助手席の窓から首を出してファインダーを覗き込んだ無防備な女に、大鎌の如き爪を振り下ろす。呆気ない手応えの後に首が跳ね飛び、宙を舞う。期待に満ちた顔が歪んだのは、アスファルトに激突した頭蓋骨が割れた瞬間だった。
男女は凄まじい絶叫を上げ、首を失って弛緩した助手席の女を遠のけようとする。それ幸いと、伊織は絶命したばかりの女を助手席から引き摺り出して切断面に喰らい付いて、死した瞬間から腐敗が始まった体液を嚥下する。味がする。鉄と蛋白質と塩分の味が舌に絡み付き、生温い温度が胃袋に広がっていく。
感じ慣れた味、いつもの味、おいしい鉄の味、懐かしささえある死人の味。それをひとしきり味わってから、伊織は怪獣のように吼える運転席の男の胴体を三本の爪で貫くと、肋骨を折り、心臓を抉り出して口に放り込んだ。筋肉の噛み心地は心地良く、すぐに噛み千切るのが勿体ないと思った。後部座席に収まっている二人の男と一人の女は醜悪に泣き叫んで、車が揺れるほど暴れている。伊織は高揚感に任せて笑いながら、運転席と助手席のシートを乗り越えて顎を開き、その間に女の首を挟んで切断した。赤い噴水が上がり、雨も降ってくる。反応を楽しむために男を一人だけ殺し、最後の一人は足を折ってその辺りに放り投げた。もっとも、怯えられるのに飽き飽きしたら、すぐに殺して胃袋の中に収めてしまうのだが。
殺したての死体を道路に引き摺り出し、生き残った最後の一人に命乞い混じりの罵倒をされながら、伊織は久々にまともな食事に有り付いた。ずっとずっとそうだった。気付いた頃からそうだった。伊織に与えられてきたのは血と肉と悲鳴と暴力だ。ごきゅごきゅと骨を噛み砕きながら、愉悦に浸った。
ああ、美味しい。
翌朝。コジロウと連れ立って、つばめは登校していた。
だが、その途中で足を止めた。コジロウに対して何が引っ掛かっていたのかということを、思い出したからだ。立ち止まった主を追い越しそうになったコジロウは足を止め、つばめを見下ろしてきた。初夏の朝日は朝露に潤う草木に鮮やかな光を与え、二人の長さの違う影を作り出していた。手入れもされていなければ人通りもないために雑草が伸び放題の畦道ではちりちりと虫が鳴き、山間では野鳥が朝を告げている。
「思い出した」
つばめはコジロウに詰め寄り、指差した。
「どうしてタイスウのこと、教えてくれなかったの!」
「タイスウがつばめを保護するように設定を施したのは本官ではない。よって、本官の関知するところではない」
「だからって、何も言わないで行っちゃうことないじゃんかー。おかげでひどい目に遭ったんだから」
「ひどい目、とは」
コジロウに聞き返され、つばめは待ってましたと言わんばかりに捲し立てた。
「そりゃひどい目って言ったら、ひどい目だよ! 朝起きたら棺桶みたいな箱に閉じ込められちゃうし、蓋の開け方を知らなかったからトイレにも行けなかったし、そのまま軽トラの荷台に括り付けられて無理矢理社会科見学に連れ出されちゃうし、帰り道は帰り道でトンネルに罠が仕掛けてあったみたいで閉じ込められちゃうし、先生が箱を砲弾代わりにして落盤した岩をぶち抜いてくれたおかげで外に出ることは出たんだけど、体中が痛いしで!」
「それらを総称し、ひどい目、というのか」
「そうだよ!」
つばめが拳を固めると、コジロウは少し考えた後に返した。
「ならば、本官もそれに相当する経験を経ている」
「え? そうなの?」
つばめが首を傾げると、コジロウは羅列した。
「政府管理下の整備施設にて整備作業を終了し、船島集落へと本官を移送する際、外部からインフラをハッキングされて整備工場が爆破された。寸でのところで本官を搭載し、発進したトレーラーが奇襲攻撃を受けた。あらかじめ陽動として配備されていたトレーラーを走行させたがことごとく看破され、陽動のトレーラーは全て破壊された。その際、政府関係者は十八名、民間人は十七名、うち十五名が死亡、十二名が重体、八名が重軽傷を負った」
「え」
そんな話、聞かされてもいない。つばめは言葉を失ったが、コジロウは続ける。
「吉岡グループを始めとした企業、団体が狙うのはつばめだけではない。遺産の一つである本官もまた、その標的の一つであると断定されている。よって、本官とつばめを引き離せば、本官を狙う人間が暗躍することは十二分に予測出来た事態だ。よって、本官はつばめに整備作業の同行と指示を乞うべきだった。本官とつばめが行動を共にしていれば、陽動作戦の失敗によって発生した被害が軽減されたのではないか、と……」
「それ、全部、私のせい?」
よろけかけたつばめに、コジロウは真新しい外装の手を差し伸べ、支える。
「それは違う。つばめの意志と行動が関与する事例ではない。遺産を巡る争いを始めた者達に全ての責はある」
「でも……」
少し泣きそうになったつばめに、コジロウは膝を曲げて目線を合わせてきた。
「よって、つばめ。今後は本官と離別するべきではない。たとえ短期間であろうとも、危険が及ぶ可能性が高い」
「うん、そうだね」
コジロウと向き合い、つばめは目元を拭ってから顔を上げた。
「じゃ、まずは学校に行こうか。自分のやるべきことをやってから、色んなことを考えよう」
「それが賢明だ」
コジロウは膝を伸ばし、つばめの後ろに下がった。だが、つばめはコジロウと隣り合い、顔を背けながらその右手の指を二本掴んだ。コジロウは戸惑ったように僅かに体に制動を掛けたが、つばめの意志を尊重してくれた。彼の手の冷たさを味わいながら、つばめは唇を結んで前を見据えた。緩やかな坂道の先には、こぢんまりとした分校が二人を待ち構えている。この景色もいつ壊されるか解らないのだ、と痛感する。
だから、何が起きていようとも立ち止まるわけにはいかない。遺産を巡る争いでどれほどの犠牲が出たとしても、それはつばめとコジロウに注がれる敵意と欲望を和らげる緩衝材にはならない。むしろ、無差別に犠牲者を出してこちらを脅しに掛かってくるだろう。心が痛もうと、辛かろうと、悲しかろうと、そんなものは現実から逃げ出す言い訳にすらならない。今までもそうやって踏ん張ってきた、だから、これからも踏ん張って進んでいこう。
愛すべき警官ロボット、コジロウを守るためにも。