毒を喰らわばサラリーまで
吉岡グループの給料日は、一律で毎月末日である。
給料日当日が土日である場合や企業側の都合によっては、給料日が前後する時もあるが末日が基準であることにはなんら変わりはない。だが、佐々木つばめ攻略作戦に携わっている面々は、攻略対象である佐々木つばめが吉岡りんねに直談判を行ったために勤務時間が大いに変更されてしまい、それによって給料の合計額にも影響が出た。ここ最近、りんねが自室に籠もっていたのは、五人のややこしい給料を計算し直すためだった。それは本来部下がやるべきでは、と道子が申し出たのだが、りんねは全員の背後組織が違うので条件も賃金も手当も微妙に異なっていて、それを吉岡グループ側の賃金体系に摺り合わせて計算しなければならないので、全員の背後関係を把握している立場にある自分でなければ出来ない、と言い返されてしまった。
そういった込み入った事情と、吉岡グループがカレンダー通りの連休に入っていたので、吉岡りんねの部下達がそれぞれの給料を手にすることが出来たのは、連休も明けた五月最初の平日からだった。
朝食の席で、りんねは皆に給料明細の入った封書を手渡した。給料自体は各人の口座に振り込みではあるが、明細書を作っておくに越したことはないからだ。月額五十万近くの給料からは襲撃の際の必要経費が差っ引かれているらしく、武蔵野と道子は渋い顔をしていた。高守は必要経費は別口で落としているのか、それとも弐天逸流からの給料が破格だから必要経費を差っ引かれても痛くも痒くもないのか、ノーリアクションで明細書を見回していた。吉岡一味に加わったばかりの岩龍には給料はまだ出ていないらしく、リビングを覗き込んで羨んでいた。
「んー?」
ささやかな期待を抱きながら、伊織は窓付きの封筒を破って明細書を引っ張り出して広げ、目を丸めた。伊織が事前に聞かされていたフジワラ製薬の賃金の、およそ半額しか振り込まれていなかった。その原因は、半額が経費として掠め取られていたからだ。一瞬にして怒りが湧いた伊織は明細書を握り潰し、りんねに詰め寄る。
「おい、クソお嬢!」
「何か御不満ですか、伊織さん」
りんねが涼やかに聞き返すと、伊織は明細書をりんねの鼻先に突き付ける。
「なんで俺の給料が半分なくなってんだよ、殺すぞ!」
「あーそれ、説明してなかったの? この僕のこと」
伊織の荒い言葉に応えたのは、りんねではなく、吹き抜けに面した二階の廊下にいる青年だった。赤と紫が螺旋を描いているような気色悪い柄のフェイクレザーのジャケットに、鮮やかすぎるグリーンのタイトなジーンズを履いていて、毒虫のようだった。フジワラ製薬の研究員でありヘビ怪人の能力を持つ男、羽部鏡一である。
「うお」
あまりの服の趣味の悪さに武蔵野が一瞬臆すると、道子は半笑いになり、高守は目を逸らし、りんねですらも眉間にシワを刻んだ。こんな服を売って販売するメーカーもメーカーではあるが、買って着る方も大概である。だが、羽部自身はたまらなく格好良いファッションだと思っているのか、この上なく自慢げな顔をしていた。
「あーやべ、強烈すぎて何が言いたかったのか忘れた。死ね」
笑いが込み上がってきた伊織が肩を揺すると、羽部はむっとした。
「いいかいクソお坊っちゃん、この僕が来たからにはもう失策など有り得ないんだよ。それなのになんだ、その態度。今日付でフジワラ製薬の本社からこの部署に転勤になったんだ、この僕と一緒に働けることを栄光に思ったら?」
「本当なのか、お嬢?」
羽部の服装と性格にげんなりしながら、武蔵野がりんねに真偽を問うと、りんねは平坦に返した。
「事実です。先日、フジワラ製薬から羽部鏡一さんを一味に加えてくれとの打診もありましたし、それ相応の対価も払って頂きましたし、鏡一さんの能力自体は私も評価しています。ですので、採用いたしました。つばめさんを攻略すべく設立された我が部署は一企業につき一人しか採用枠を設けておりませんが、鏡一さんは逃してしまうのは惜しい人材だと判断して採用いたしました。ですが、原則的な採用枠は変更出来ませんので、お二方で一人分の給料を支給するように手を回したのです」
「だからってぇーん……」
あれはない、と言いたげに眉を下げた道子にりんねは顔を向けた。
「……ぬぅ」
高守でさえも文句を言いたくなったらしく、太い喉の奥からくぐもった呻きを漏らした。
「ということですので伊織さん、今後、伊織さんに支給される賃金の半額は鏡一さんの所有物となります。事後承諾になってしまいますが、よろしいでしょうか」
りんねが伊織に念を押すと、伊織は笑いを収めてから言い返した。但し、怒気は失せていた。
「よくねーし。てか、それってどういう理屈だよ。マジ意味不明なんだけど。つか死ね」
「クソお坊っちゃんに理屈を考えるだけの頭があったなんて意外だなぁ。学術的価値があるね。じゃ、説明しよう」
ミュージカルスターのような気取った足取りで階段を下りながら、羽部は両手を広げた。気色悪いジャケットの下に着ているシャツもまた輪を掛けて趣味が悪く、蛍光イエローで若干透けていた。それを見た途端、武蔵野も伊織に続いて笑ってしまった。羽部は大きな肩を縮めて笑いを堪える武蔵野を睨んだが、無視して話し出した。
「この僕は年収一千万に値する学歴と才能を持ち合わせているんだ、フジワラ製薬にいてもまだまだのし上がれただろうけど、そんな狭い世界に収まっている器じゃないんだよ、この僕は。いいかい、遺産を扱うための管理者権限と遺産をコントロールする知能はまた別なんだよ。エンジンを掛けただけで事が解決するなら、ペーパードライバーだってF1レーサーになれるさ。遺産を保有する個人の理性と知性を使えばある程度は扱えなくもないけど、所詮は凡人の浅知恵だ。クソお坊っちゃんだって巨大化するのがやっとじゃないか、短絡的すぎて吐き気がする」
羽部はリビングまで下りてくると、右手を挙げた。人間の形をしていた手が透き通り、液状化する。
「だけどこの僕は違う、こういうことも出来るんだ。この前、単身で佐々木の小娘のところに乗り込んだ時にコジロウにフォールされたけど、体を液状化させて退避したのさ。ちょっとしたコツが解れば造作もない。何せ液体だからね、我らがフジワラ製薬が所有している遺産は。他の遺産にしたって、扱い方によっては何者にも勝る武器になるのさ。でも、遺産を操るための技術を扱うには。それ相応の優れた知性と腕がなければ不可能だ。たとえ、佐々木つばめの生体組織を手中に入れていてもね」
羽部はジャケットのポケットから密封式のビニール袋を出し、その中に入れた十数本の髪の毛を掲げた。
「実際のところ、御嬢様はこの僕の才覚じゃなく、この僕が入手した佐々木つばめの生体組織が欲しいんだろ? だけどね、それはこの僕が許さないよ。いくら御嬢様が僕に次いで優れているとしても、宝の持ち腐れだよ」
その言葉に、伊織を除いた全員が反応した。ジャスカでの小競り合いで、羽部がつばめのツインテールを掴んだ際に引き千切った髪の毛だ、と伊織はすぐに思い当たった。あの時は頭に血が上っていたせいでそんなことにまで気が回らなかったが、羽部は伊織に散々殴打されていても本分は忘れていなかったらしい。意外にタフだ。
「この髪の毛一本でも、数十億の利益が見込めるほどの価値がある。それなのに、クソお坊っちゃんの給料の半分を僕に寄越すだけなのかい? 随分としみったれているね、天下の吉岡グループなのに。笑っちゃうね」
羽部がビニール袋をこれ見よがしに振ると、りんねは椅子を引いて立ち上がり、羽部に歩み寄る。
「そこまで仰るのでしたら、こちらにも考えがあります」
「何? この僕と戦おうっていうの? 生憎だけどね、この僕に勝てると思ってんの?」
へらへらと笑う羽部に、りんねは道子を示した。
「戦いは戦いですが、戦闘ではありません。これから丸一日、道子さんの御料理を頂いてもらいます。それでも尚、私達に口答え出来るほどの余力があるというのなら、そちらの言い値で報酬を差し上げるように契約書を変更して差し上げましょう。それが御出来にならないのでしたら、私の提示した条件で雇用契約を続行して頂きます。それでよろしいですか、鏡一さん」
「何それ、どうってことないじゃん。いいよ、別に。受けて立とうじゃないの」
勝利を確信して笑っている羽部を、武蔵野は全力で制止してやりたくなった。いかに味覚が鈍っている改造人間であろうと、道子の見た目だけは綺麗だが恐ろしく不味い料理は不味いのだ。同じ改造人間の伊織も完食した試しはなく、武蔵野も咀嚼する前に水分で流し込んでいるほどだ。りんねは表情を変えずに平らげてはいるが、本心では不味いと思っているから、こんな方法を選んだのだろう。
「あらやだぁーん、御嬢様ったらぁーん」
道子は侮辱されたと思ったのか、媚びた仕草で頬を膨らませる。りんねはメイドに向き、目を細める。
「道子さん。毎日作って頂いている御料理は個性的で、他では決して味わえないものばかりです。ですが、鏡一さんはこの別荘にいらしてからは日が浅いですし、道子さんの御料理に慣れておりませんので、この機会に道子さんの味に慣れて頂こうと思った次第です」
意訳すれば、お前の料理は拷問器具にもなるから有効活用してやる、という意味である。けれど、道子はりんねの言葉を物凄く好意的に解釈したらしく、きゃあーん、と歓声を上げながらキッチンに入っていった。では、これらは全て鏡一さんが頂いて下さいね、とりんねは食卓に並ぶ五人分の朝食を示し、足早にリビングを出ていった。
逃げたな、と武蔵野が確信すると、伊織も似たような感想を抱いたのか口角を歪ませていた。高守は気付いた頃には姿が失せていて、気配すらなくなっていた。道子と羽部に絡まれて巻き込まれてはたまらないので、武蔵野は適当な言い訳を付けて別荘から脱し、伊織も厄介事に関わる前に逃げ出した。人型重機である岩龍がとばっちりを食うとは思いがたいが、二人のどちらかに八つ当たりされて破壊されては後が面倒なので、武蔵野は歩哨をするとの名目で岩龍も別荘から連れ出してやった。
羽部鏡一の運命やいかに。
その頃。つばめは、心底げんなりしていた。
火の入っていない囲炉裏を挟んで向かい合う形で座っているのは、法衣姿の寺坂善太郎である。しかし、今一つ締まりに欠けるのは、襟が整いきっていないばかりか背を丸めて胡座を掻いているからだろう。鋭角なサングラスの下の目は嬉々としていて、お年玉をもらう直前の子供のような顔付きだ。実際、寺坂はそんな心境かもしれないが、つばめの心中には猛烈な吹雪が吹き荒れていた。
「御布施くれよ! 一千万!」
寺坂が浮かれた調子で法外な料金を提示してくるのは、これが五度目だった。つばめは居心地の悪さのせいで、せっかくのだし巻き卵の味が良く解らなかった。分校に持っていくお弁当にも入れてあるので、昼休みにでもちゃんと味わおうと思いながら、機械的に咀嚼した。つばめはコジロウを窺うが、コジロウはつばめを見返してきただけで意見もしなければ寺坂を制止することもなかった。ということはつまり、前例があるのか。
「お爺ちゃんって、この爛れた生臭坊主にそんなに御布施を払っていたの?」
つばめが寺坂の態度に呆れながら尋ねると、コジロウは答えた。
「そうだ。過去の寄付金とその額は、寺坂住職が所有している台帳に記載されている」
「嫌だよ、そんなの。払いたくない」
つばめが突っぱねると、寺坂は拗ねた。
「払えよぉー。俺がどれだけお前の爺さんに貢献してやったと思ってんだよー、これでも妥協した額なんだぞー」
これでは住職ではなくタチの悪いチンピラである。寺坂の戯言を一切合切無視して朝食を食べ終えたつばめは、汁椀と茶碗を重ね、皿と箸と共に盆に移して台所に運んでいった。すると、台所脇の勝手口が開き、一乗寺が不躾に上がり込んできた。寝起きらしく髪が乱れていて、ジャージの襟も裾も曲がっていた。
「あのさーつばめちゃん、学費くれよ。五十万ぐらいでいいから。先月末に請求するの、忘れてたの」
「はあ!? どういう内訳なんですか、それ!?」
私立校でもそんな額の学費はない。つばめが面食らうと、居間のふすまが開いて美野里が現れた。こちらもまた例によって寝起きではあったが、髪は整っていて部屋着に着替えているのでまともではあった。
「つばめちゃーん、相続税のことなんだけどねー」
美野里がにこやかに納税額を印した書類を見せてきたので、つばめは萎えた。
「お姉ちゃんまでぇ……」
「御布施をもらわねぇと生活出来ねぇもん」
寺坂は囲炉裏の傍で寝そべり、頬杖を付いている。一乗寺も勝手に居間に上がると、茶箪笥から湯飲みを出して冷めた茶を注いで一息に呷った。どちらも我が物顔で寛いでいる。
「学費を納めてもらわないと運営出来ないもん」
「納税してもらわないといけないんだもん。でないと、つばめちゃんの脱税の片棒担ぐ羽目になっちゃうしぃ」
申し訳なさそうなのは美野里だけで、二人は遠慮するどころか当然の権利だと言わんばかりに法外な金額を請求してきた。とりあえず食器を洗い、水切りカゴに伏せてから、つばめは居間に振り返った。頼れるのはコジロウだけか、と一抹の希望を抱いてコジロウと目を合わせると、コジロウは抑揚なく言った。
「つばめ。いずれの請求にも違法性は見受けられない、よって直ちに支払うべきだ」
「あんたもかあっ!」
最後の希望すら砕けてしまい、つばめは絶叫した。ううう、とへたり込んだつばめを、美野里が慰めた。
「大丈夫よつばめちゃん、相続税は一度納めちゃえば請求されないから! すぐに払わないとペナルティが掛かって余分な税金も払わなきゃならなくなるから、早い方が良いわ! 二十億以上の遺産を相続した場合は七割も毟り取られるけどね!」
「七割ぃ? ってことはつまりあれでしょ、百億を相続したら七十億は持って行かれるってことでしょ?」
あまりの金額につばめが泣きそうになると、美野里は気まずげではあったが頷いた。
「そういうことね。でも、大したことないわよ。長光さんの遺産の資産価値は単純計算で五千億強だったから、その内の七割なんて……七割なんて……三五〇〇億じゃないのよぉ……」
美野里は徐々に笑顔が崩れ、涙目になると、打ちひしがれているつばめに縋り付いてきた。
「ああもう脱税させてあげたいっ! 可哀想なつばめちゃんっ!」
「何言ってんのさ、みのりん。犯罪を助長させないでよ、そんなことをしたら捜査で余計な税金を使っちゃうでしょ」
一乗寺は呆れたが、寺坂は好色ににやけた。
「何言ってんだよ、美しい姉妹愛じゃねぇかよ。俺のみのりんは、寝起きだろうがノーメイクだろうが超絶可愛いぜ。これまで散々世話になってきたんだ、脱税の一つや二つさせてやれよ、なあ一乗寺?」
「そんなことしたら、マルサが立ち入ってきて面倒になっちゃうだろ。はい却下ー」
「じゃ、どうすんだよ。三五〇〇億も政府に持って行かれちまったら、俺達の取り分も減るだろ?」
「それはそうかもしれないし、つばめちゃんの財産が減るのは俺もすんごぉーく残念だけど、税金なんだから普通に払ってもらうっきゃないでしょ、それが道理。世の中のルール。国民の義務。正直、俺だって脱税したいんだけどね、一応公務員だから。下手なことしてクビになっちゃったら、ドンパチ出来なくなっちゃうもーん」
一乗寺は台所に踏み入ってきて冷蔵庫を開けると、昨日の夕食の残りである肉団子を取り出した。それは美野里のお弁当のおかずにもなるので食べられてしまうと困るので、つばめは一乗寺の魔の手から肉団子の入った器を取り返し、冷蔵庫を閉めてから教師を睨み付けた。勝手口から入ってきたばかりか冷蔵庫を開け、家の主の許可も得ずにおかずを食べようとする人間に社会の道理を説いてもらいたくはない。
冷蔵庫にもたれかかり、つばめはしばらく考え込んだ。三人と一体はつばめを注視していて、御布施を、学費を、税金を支払ってくれるのを今か今かと待っている。コジロウを見やるが、コジロウは無反応だった。小倉美月と友達になったつばめの気持ちを重んじてくれたような言動は取ってくれないものか、と思わないでもないが、都合の良いことが続かないのが世の常だ。だが、三五〇〇億円もの税金を払うのは躊躇してしまう。三五〇〇円でも大金だと思えるような金銭感覚しか持ち合わせていない人間にとっては、身を切るような決断を迫られる話だ。
考えに考えた末、つばめは勝手口から逃げ出した。
ホットスナックの自動販売機から、熱した紙箱が転げ落ちてきた。
紙箱の端を抓んで取り出し、手早くテーブルに載せてから、武蔵野は熱さを誤魔化すために手のひらをズボンに擦り付けた。中身はタカが知れているが、こんなものでも何も食べないよりはマシだ。ホットスナックの自動販売機と隣り合っている缶ジュースの自動販売機に小銭を入れ、コーラのボタンを押すと、冷え切った缶が転げてきたのでそれを取り出した。安定性に欠けるテーブルに赤いビニールカバーの丸椅子を寄せ、腰を下ろす。
「今頃、あのヘビ野郎は無事でいるだろうか」
「何、気になるん? あんなクソヘビを」
うどんの自動販売機から出てきたうどんをテーブルに置いた伊織は、不愉快げに漏らした。箸立てから割り箸を一本抜き、片方を口で銜えて割ってから、伊織はうどんを啜った。熱さも感じづらいらしく、湯気の昇る麺を冷ましもせずに頬張っている。うどんの上には、ぶよぶよにふやけた天ぷらと思しき物体が申し訳程度に載っていた。薄暗い休憩スペースの片隅では、高守がカップラーメンの自動販売機で買って湯を入れた、カレー味のカップラーメンを膝に載せて座っていて、時折壁掛け時計を見て出来上がるのを待っている。
「ドライブインっちゅうことは、ドライブにインしたっちゅうことじゃな? ほんなら、これがドライブなんじゃな!」
ほうかほうかー、と駐車場にいる岩龍は無邪気に喜んでいた。このドライブイン自体が手狭なので駐車場もそれほど面積はないのだが、岩龍以外の車両はいないので車道にはみ出ることもなく収まっている。
「道子さんのことですから、鏡一さんに一服盛ることはないでしょうが……」
りんねは別荘の方向を見つめていたが、割り箸を両手で割り、きつねうどんを持ち上げた。高温の麺に何度となく息を吹きかけて冷ましてから、慎重に口に含み、啜り上げた。伊織の粗野な食べ方を先に見たからか、品の良さが際立っている。悪くありませんね、と感想を述べてから、りんねは味の付いた油揚げを一口囓った。
船島集落と一ヶ谷市内を繋ぐ道路にひっそりと佇んでいる古びたドライブインの休憩スペースは、うどんの出汁の効いた匂いとカレー味のラーメンの刺激的な匂いが入り混じっていた。俺も麺にすりゃよかったかな、と小さな後悔を抱きつつ、武蔵野は薄ぺっらいハンバーグが挟まった質素なハンバーガーを口にした。バンズというには貧相なパンとハンバーグの間にはケチャップがほんの少しばかり塗ってあるだけでピクルスもオニオンも挟まれておらず、ケチャップ以外の調味料は付いていなかった。ハンバーガーと同じ自動販売機で売っていたフライドポテトも買ってみたが、これぞ冷凍食品、という食べ応えだった。冷凍技術が昭和で止まっているのか、両者とも湿っぽい。それでも、道子の料理に比べれば何倍もマシだ。
「ですが、これで遺産の研究が一歩前進するかもしれません」
うどんを飲み下したりんねは、世間話でもするように語り出した。
「人間を人間たらしめているヒトゲノムは、核ゲノムは約三十一億塩基対存在し、二十四種の綿状DNAに分かれて構成されています。最も大きいものが二億五千万塩基対、最も小さいものが五千五百万塩基対、存在しています。染色体は二十二種の常染色体とXとYの性染色体に分類されます。核を持たない体細胞は常染色体を二本ずつ、性染色体を二本ずつ、合計四十六の染色体を持っています。生殖細胞は常染色体を一本、性染色体を一本、合計二十三本の染色体を持っています。ミトコンドリアゲノムは一万六千五百六十九塩基対の環状DNAを多数備えていて、体細胞も生殖細胞も約八千個ずつ持っています。遺伝子を改造して生物に特異な能力を与えるには、その膨大な量の塩基配列を解析し、分析し、研究し、どのように作用しているのか突き止めなければなりません」
薄っぺらいカマボコを口にしつつ、りんねは続ける。
「伊織さんを始めとしたフジワラ製薬の関係者は、その膨大で複雑極まる遺伝子の解析を終えたばかりか、特定の生物の遺伝子を置き換えて体内に組み込み、あまつさえ自在に変身しています。人間一人の遺伝子を解析するためにはスーパーコンピューターが必要ですが、フジワラ製薬の資金と人員の流れから考えて、遺伝子解析のためにスーパーコンピューターを社内に設置、或いは借用したという記録はありません。鏡一さんは、人格こそ褒められたものではありませんが、ずば抜けた才覚と知性を持ち合わせております。ですが、その才能と演算能力は根本から異なる能力ですので、鏡一さんと同等の才覚を持つ人間がいたとしても、まず不可能でしょうね」
ちくわと同じ練り物ではあるがカマボコでは物足りないらしく、りんねは少し眉根を曲げた。
「では、どうやってフジワラ製薬は膨大な遺伝子情報を解析し、適切な箇所で切り貼りしては別の生物と合成し、次々に強力な改造人間を産み出したのかというと、今更言うまでもないことですが、フジワラ製薬が所有する遺産、アソウギの力に他なりません。どういった仕組みかは未だに見当も付いておりませんが、アソウギは液体であるにも関わらず並外れた演算能力を備え、液体の内部に投入された人間と生物の遺伝子を解析し、合成し、改造人間を生み出し続けていますが、アソウギはまだ真価を発揮しておりません」
「んだよ、それ。ケンカ売ってんのかよ、クソお嬢」
アソウギを体液に置き換えている自分まで貶されたと思ったのか、伊織が凄むが、りんねはそれを無視した。
「アソウギ、及びアソウギを体内に注入している改造人間の皆様方が、つばめさんの管理者権限に接触した場合と同等の効果を得られる錠剤を、私共の製薬会社から買い付けて摂取していても、劇的な変化は起きていないではありませんか。確かに人間とそうでない生物の間を行き来出来る肉体に変化したのは目覚ましいことであり、人類の進化と発展の足掛かりになったかもしれませんが、所詮はつま先を掛けた程度です」
「その根拠は?」
ふやけたフライドポテトを嚥下した武蔵野が問うと、りんねは武蔵野を一瞥し、うどんを一束持ち上げた。
「アミノ酸です」
「ぬ」
りんねの言いたいことが解ったのか、カップラーメンを啜っていた高守が目を上げた。
「私達を構成しているのは全てL型アミノ酸であり、D型アミノ酸は体内に取り込まれた際に酵素によってL型に変換されなければ取り込まれることすらありません。D型アミノ酸によって構成されている部品もありますが、L型と比較すればそれほど多くもありません。そして、私達が日頃口にする食品の調味料に含まれているアミノ酸も当然ながらL型です。フジワラ製薬の改造人間を何人か拿捕し、その生体情報を解析させたのですが、皆さん揃いも揃ってL型アミノ酸で構成されておりました。つまり、地球上の現住生物と大差のない生き物なのです。正直、落胆しました。アソウギ自体は純然たるD型アミノ酸で構成されているのですが……」
残り少なくなったうどんを啜ってから、りんねは言う。
「ですが、改造人間の方々から採取した生体組織で解明出来たことも少なからずありました。皆、アソウギの力で切り貼りした遺伝子に隙間があるのです。その隙間に、どこの誰の遺伝子が填るのかは、それこそ皆さんには説明の必要はありませんでしょう。そのパズルのピースさえ埋めてしまえば、皆さんは本物の改造人間になれるでしょう」
「俺が紛い物だって言いてぇのかよ!」
いきり立った伊織が椅子を蹴り飛ばすと、りんねは冷ややかな目を向ける。
「現時点では、伊織さんは未完成です。アソウギとの融合係数の高さ、拒絶反応のなさ、身体能力の高さは秀でたものはありますが、それらは全て伊織さん御自身が持ち合わせていた能力です。軍隊アリの遺伝子が、燻っていた伊織さんの才能を目覚めさせてくれたに過ぎません。巨大化にしても些末な副産物であり、決定打にはなりません。事実、コジロウさんに敗戦続きではありませんか。伊織さんが更なる高みに至るためにも、つばめさんの生体情報が不可欠ではありますが、それ以上に鏡一さんの協力が必要です。私は遺伝子工学には長けておりませんから」
ほとんど音を立てずにめんつゆを啜ってから、りんねは悩ましげな吐息の後に付け加えた。
「それに、鏡一さんが道子さんを利用して頂ければ、ハルノネットが持っている遺産の正体もおのずと解るというものです。ハルノネットがほんの僅かな間にサイボーグ化技術を確立することが出来た理由も、ハルノネットが保有している遺産によるものとみて、まず間違いないでしょう。ですが、ハルノネットは通信会社というだけのこともあり、情報統制に長けておりますので、遺産の情報を堅牢に守り通しているのです。ですから、私達が別荘を留守にしている間に鏡一さんが道子さんにちょっかいを出して頂ければ、さしもの道子さんにも隙が生まれるでしょうし、その隙を通じてハルノネットの保有する遺産の情報が見出せると踏んでいるのです」
「相変わらずえげつないことをしやがるな、お嬢は。仮にも道子は部下だぞ?」
コーラを傾けながら武蔵野が感想を述べると、りんねは油揚げを噛み締めて嚥下した後、答えた。
「部下であるからこそ、存分に利用するのではありませんか。それが上司というものです」
りんねは油揚げを食べ終えると、残っていた麺も食べ終え、律儀にめんつゆも飲み干した。伊織はりんねの態度が余程気に食わないのか、天ぷらうどんを食べ終えてすぐにドライブインを出ていった。せめて、空容器をゴミ箱に捨てていってほしいものである。いつのまにかカップラーメンを食べ終えていた高守も、伊織に続いて出ていった。武蔵野は自分もこの場を立ち去るか否かを悩んだが、安っぽい丸椅子からは腰を上げなかった。岩龍がいるとはいえ、りんねを残していくわけにはいかない。それもまた、武蔵野の仕事なのだ。
ドライブインに併設している食堂の営業時間は、午前十一時から午後八時までだ。現在の時刻は午前八時過ぎ、店主が出勤してくるまでには一時間以上は間がある。だが、ここから移動するにしても、どこに行ったものか。都会であれば、映画館なり何なりでいくらでも暇の潰しようがあるのだが。
生憎、この周囲には山しかないのだ。
予想以上のひどさだった。
こんなものを食って生きてきた連中の気が知れない。いや、こんなものを作る奴の気が知れない。羽部鏡一は、舌にこびり付く強烈な味に辟易しながらも、最後の皿を積み重ねた。朝食を五人分、というのはさすがにきついものはあったが、アソウギによる生体改造の結果、摂取出来る物質がかなり限られているので、食べた量に反比例して満腹感は少なかった。水分、塩分、糖分、それとD型アミノ酸程度しか消化吸収出来ないからだ。改造人間の味覚がことごとく死んでいるのは、肉体がL型アミノ酸で構成されているのにD型アミノ酸にしか適応出来ない、という半端な肉体と化した弊害である。それなのに不味いと解るのだから、道子の腕前は立派だ。無論、悪い意味で。
「あー、くそー……」
羽部はカスタードクリーム入りオムレツのしつこさを流すため、コーヒーを呷った。苦味が感じられれば、変な甘みが中和出来るのだろうが、それすらもよく解らないのが残念だ。嗅覚まで鈍くなっていれば、道子の料理の見た目の良さに気を取られるのだろうが、嗅覚が鋭敏なヘビと同化した身の上ではそうもいかない。
今朝のメニューは、牛脂が芯に入っていた手作りロールパン、粉チーズかと思ったら粉砂糖がたっぷりと掛かっていたフライドポテト、甘酸っぱいクランベリーソースが存分に絡んでいるチョリソー、白ワインとすし酢のドレッシングで和えてあったキャベツとオニオンのサラダ、カスタードクリームが中に巻き込んであるオムレツ、デザートが醤油味のヨーグルトだった。見た目と盛り付けは本当に美しいのだがどれもこれもトンチンカンで、肝心な部分が別の料理にスライドしているような気がしてくる。そもそも、道子は甘い味付けの食べ物とと塩辛い味付けの食べ物の区別が付いていないのではないだろうか。
「なー、みっちゃん」
醤油味のヨーグルトを流し込んでから、羽部が声を掛けると、道子は笑顔を保ちながら振り向いた。
「はぁーいん、なんでございましょうかぁーん」
「脳味噌、吹っ飛んだことあるだろ?」
醤油味のヨーグルトも四人分食べ終えた羽部は、スプーンを空の器に投げ入れた。道子は一度瞬きした。
「そりゃあまあーん、サイボーグになったんですからぁーん、体がぐっちゃぐちゃのミンチになった拍子に脳のどこかを損傷したのは間違いないですぅーん。でもぉーん、さすがに吹っ飛んではおりませぇーん」
「この僕の見立てが間違いだって言うの? 有り得ないね、そんなこと」
羽部は背もたれに寄り掛かり、両足をだらしなく投げ出した。遺伝子工学は医学にも直結しているのだから、本職とまではいかなくともある程度は医学の知識も備えている。特に、いじくり回してきた脳については。
「重度の味覚障害、はまあ、味覚もクソもないサイボーグ化しちゃったから最早どうしようもないとして、運動手続き障害の方はどうにかならないわけ? 料理ってのは反復学習に含まれるし、味付けってのも手慣れでどうにかなるもんじゃん。メイドを任されるってことはさ、それなりに料理をしていた経験があるってことだろ? キッチンで色々と支度しているところも見たけど、手際は結構良かったし、動作に無駄はなかった。でも、やることが全部食い違っているんだよ。おかげで、この僕が食べるに値しない料理を食べる羽目になっちゃったじゃないかよ」
「そういうことはぁーん、御医者様にでも聞いて下さぁーいん。私はぁーん、そんなことはちっとも」
道子が作り物じみた笑顔を保って返したので、羽部は唇を曲げる。
「嘘を吐け、このクソメイドハッカー。自分のカルテぐらい、ちゃちゃっと読めるだろうが。お前さ、そういう状態なのに治療を受けさせられるどころか、クール気取りの高飛車御嬢様に顎で使われて悔しくないわけ? この僕の忠告なんだから、心して聞けよ。でないと、許さないからね?」
「私はぁーん、御嬢様の部下ですからぁーん」
「だとしてもさぁ、使われる主人を選ぶ権利ぐらいあるんじゃないの? この僕みたいにね」
道子の薄ら寒い笑顔を睨み付けながら、羽部は口角を吊り上げる。設楽道子の情報は事前に調べ上げてある、詳細なプロフィールも経歴も頭に叩き込んである。無論、それを利用してやらないわけがない。道子の過去や本名には差して興味がなかったので深追いしなかったが、ハルノネットの緻密なネットワークが完成したのは、死の危機に瀕した道子がサイボーグ化した直後だということは調べ上げている。それまでのハルノネットは通信会社としては頭打ちで、安定した企業では会ったが裏を返せば停滞していた。しかし、三年前、突如としてハルノネットは今まで以上に優れた通信電波の高圧縮技術を確立させ、世界中のどこよりも早く正確な通信を可能にした。それと同時期に道子がサイボーグ化し、ハルノネットの社員になり、自社に仇を成す者達を倒す工作員となって働き始めた。
そして、道子は吉岡りんねに引き抜かれ、佐々木つばめ攻略作戦に加わっている。ここまで知ってしまえば、道子に何もないわけがないと、誰であろうとも感付く。いや、何かがなければ困るくらいだ。羽部がわざわざこの別荘に来た目的は、りんねに取り入るためでもなければ、伊織の御機嫌取りでもなければ、内情視察でもない。
「ねえ、みっちゃん?」
羽部は冷めたコーヒーにスプーン三杯も砂糖を入れ、掻き回した。底から、じゃりじゃりと砂っぽい音がする。
「医者が手を出しもしなかった障害、この僕の力でなんとかしてあげようか?」
「生憎ですけどぉー、私はそういうの気にしていないんでぇーん」
道子は椅子を引いて立ち上がると、空になった皿を積み重ねて真鍮製の盆に載せ、ワゴンまで運んだ。
「うっそだぁ」
羽部がにやにやするが、道子はワゴンを押してキッチンに向かっていった。
「羽部さんに嘘を吐く理由もなければ動機もありませぇーん」
「じゃ、これならどうかなぁ。みっちゃんの本名を教えてあげる、ってぇのは?」
キッチンとリビングの中程でワゴンに制動が掛かり、その反作用で皿のタワーが傾いた。道子が硬直したからだ。だが、皿が崩れ落ちる前に手を差し伸べてすかさず受け止め、皿のタワーを直してからキッチンに入った。作りつけの大型食器洗い機に皿を入れた後、道子は手を洗ったが、いずれの動作もぎこちなかった。気もそぞろでは、いかに高性能なサイボーグボディといえども操縦が疎かになるからだ。
だが、羽部は道子の本名など知らない。設楽道子、という名前がどこから来たのかも、現在の彼女の外見が誰を模倣して作ったものなのか、ということまでは調べ切れていないのだ。落ち着いて考えてみれば、サイボーグ業界とは縁の薄い研究所勤めの羽部が、通信会社の秘密工作員の過去を知っているわけがないのだが、道子はそんなことすらも失念するほど驚いたようだった。いい反応だ、これなら手玉に取りやすい。
「教えてほしかったら、まずはこの僕に給料を渡してくれない?
クソお坊っちゃんの半額なんて足りないし」
「そんなデタラメな要求にぃーん、答えられるわけがないじゃないですかぁーん」
道子は口調こそ余裕を保っていたが、人工眼球の視線はかすかに揺れていた。実に高性能なボディだ。
「デタラメでもないんだけどねぇ、いかなる物事にも対価は必要じゃないの。まあ、御嬢様が帰ってくるまでは時間はまだまだあるんだし、その間にじっくり考えておくといいよ。この僕が与えた猶予だ、せいぜい大事にするといいよ。なんだったら、料理の仕込みも手伝ってあげようか? 肉を切る要領なんて、どの肉でも変わらないしね」
羽部の軽口に、道子はむっとした。
「そんなお気遣いは不要ですぅーん。私一人でなんとか出来ますぅーん」
ぷんすかぷーん、と怖気立つような気色悪い擬音を発し、道子はキッチンの片付けを始めた。朝食の後片付けが終われば次は掃除に洗濯に、と忙しく動き回るのだろう。その間も道子は決して無防備ではないし、各人の自室を探るにしても、別荘の至るところに設置された監視カメラに見張られているので無理だろう。かといって、船島集落に突っ込むような体力も気力もない。となれば、全力で道子の料理と戦うしかなさそうだ。
本題に入るのは、その後だ。
心が痛むと、忘れかけていた傷も痛む。
ヘビ男こと、フジワラ製薬の社員でありヘビ怪人である羽部鏡一に髪を無理矢理引っこ抜かれた際の傷は、まだ治りきっていなかった。ツインテールに結んでいなきゃ良かったのかも、かといって下ろしていると生まれつきの癖毛のせいで髪が跳ね放題でまとまりもしないし、それにロングなんて柄じゃないし、と、つばめは現実逃避をするかのように割とどうでもいい問題を考え込んでいた。だが、ふと我に返ると、現実逃避をしていたことに対しても空しさが怒濤のように襲い掛かってきた。自宅から逃げ出したところで、問題から逃げ出せるわけもないのに。
「はあ……」
つばめは桜の木にもたれかかり、項垂れた。ごつごつとした木の根に座り、突っ掛けを引っ掛けただけのつま先を浮かせて軽く振る。皆に見つかるのは時間の問題ではあるだろうが、大人達の話し声が聞こえてこないことからすると、外には出てきていないらしい。しばらくそっとしておいてもらえるようだ、と知ると安堵する。行く当てなどないし、突っ掛けなので歩きづらいし、下手に遠出するとまた吉岡一味に絡まれかねないので、あの菜の花畑にやってきた。この一帯に埋められた地雷を、コジロウが荒々しく爆破処理したおかげで菜の花は全て吹き飛んでしまい、未だに草一本生えていない。けれど、あの爆発を耐え切った桜の木は花開いていた。
「お金ってウゼェ」
生きていく上では欠かせないものであり、使い方一つで天国にも地獄にも行ける魔性の切符でもあるが、あまりに膨大な額だと持て余してしまう。大分前に銀行で下ろした十万円もまだ使い切れていないほどである。お金を使える場所に気軽に行けないほどの田舎に住んでいるから、というのもあるが気安く使えないのだ。十万円を貯めるにはかなり苦労しなければならないのは、つばめは身を持って知っている。途方もない資産を持っていた祖父にとっての十万円は、氷山の一角どころか大雪原に落ちてきた雪の結晶の一粒にも満たないだろうが、その十万円はどこかの誰かが血と汗を流して稼いだ十万円なのだ。それが巡り巡って祖父の手中に入ってきた、と考えてしまうと、余計に使うのが惜しくなってくる。それなのに、税金とはなんと惨い制度だろうか。五千億円に相当する遺産を相続しただけで、三五〇〇億も毟り取っていくなんて。
「三五〇〇億、かあ」
そのうちの大半は、この近辺の山だろう。つばめは顔を上げて見回してみたが、どの山も同じようにしか見えず、どこからどこまでがつばめの所有物なのか判別出来なかった。この辺りの地形など把握していないのだから当然ではあるのだが、なんだか情けなくなってくる。どれが自分の所有物なのかすらも解っていないのに、税金を取られてしまうのだから、山に対して申し訳なささえ感じてくる。
「つばめ」
山から吹き下ろされてきた一陣の風が、桜色の雨を降らせ、電子合成音声を発した主をまろやかに包み込んだ。コジロウの白い外装に薄い花びらが貼り付き、無機質な彼に自然の彩りが加わる。出来すぎたシチュエーションに、つばめは喜ぶよりも先に動揺した。あれほど冷え込んでいた心中が、焼け石が投げ込まれたかのように、一瞬にして煮え滾ってしまった。おまけに赤面し、コジロウを正視出来なくなった。
「んなっ、なあに?」
上擦った声で答えたつばめに、コジロウは焦土を踏み締めながら近付いてくる。淀みない動作で確かな足取りではあったのだが、左足を踏み込んだ際にぎぎっと耳障りな金属の摩擦音がした。両足を動かした時に連動して動く股関節も心なしかぎこちなく、そのせいで下半身全体の動作が重たくなっていた。小倉美月が言っていたことは本当だったのだ。それを理解した途端、つばめは浮かれた気持ちが萎んだ。
「コジロウ、足、大丈夫?」
つばめが彼に近付こうとすると、コジロウはつばめを制してから桜の木まで昇ってきた。
「歩行動作に問題はない。若干の不具合が見受けられるが、自己修復機能によって回復出来る範疇だ」
「痛くない? やっぱり、私が無理させちゃったからだよね」
「本官に痛覚は存在しない。本官はつばめの命令が無理だと認識したことはない」
コジロウは相変わらずで、泣き言も言わなければ文句も言わない。ロボットなのだからそれが当たり前なのだが、なんだか気が引けてくる。電子レンジや炊飯器と同じで、命令されたことを忠実に行うだけなのだから、その行為に好意もなければ真意もなく、行動理念も至って単純だ。だが、単純だからこそ、コジロウはやるべきことをやり通している。それなのに、自分はどうだ。税金を支払わなければコジロウに義理立て出来ないではないか。それに。
「この歳で脱税して逮捕されるのも嫌だもんなっ! 三五〇〇億なんぞ、一括で払ってやるわい!」
つばめは腹を括ると同時に立ち上がり、意味もなく拳を掲げた。
「……本官の予想よりも、遙かに早い決断だ」
コジロウはつばめの潔さに気圧されたかのように、やや言い淀んだ。つばめは腰に手を当て、胸を張る。
「だってさ、よーく考えてみると、お爺ちゃんって遺産絡みの特許とかを一杯持っていたんでしょ? で、その利権でジャブジャブお金が入ってくるっていうじゃない。あと、株券もあるって前にお姉ちゃんから聞いたことがあるし。三五〇〇億なんて、それで補填しちゃえばいいんだもん」
「そうだ。前マスターは国内外合わせて二百五十五の企業の支配株主であり、それによって毎月約五億円の収入を見込める。同時に、人型ロボット関連の各種許可料が政府を通じて譲渡されているため、毎月約七〇〇〇万円の収入が見込める。それ以外にも細々とした収入源があるが、説明が長くなるので割愛する」
「そっかあ、そんなにあるのか。でも、年末になると、それも所得税で結構持って行かれそうだねぇ……」
「そうだ。各種税金の計算は、備前女史に依頼するべきだ」
「当たり前だよ、そのためのお姉ちゃんだもん。ここぞとばかりに頼ってやらなきゃ」
腹を括ったことで鬱屈とした気持ちが吹き飛んだつばめは、コジロウに近付き、にんまりしながら見上げた。
「それに、それだけ税金を納めてやれば、政府の人だってコジロウを完璧に整備してくれるでしょ。足の調子だって悪いんだし、たまにはゆっくり休んできなよ。後で先生に頼んでみるからさ」
「だが、しかし、本官がつばめから離れた場合に襲撃される可能性が圧倒的に高いのだが」
コジロウは彼なりに不安を示したいのか、半歩踏み出してきた。つばめはぎくりとしたが、言い切った。
「だあっ、大丈夫だって! 土日に一人で出歩かなきゃいいんだし、身を守る方法を私も考えるし、いざというときには先生を盾にしてやるから! ねっ!」
つばめが親指を立ててみせると、コジロウは少し考えた後、身を引いた。
「了解した」
「えっ、いいの? 先生を盾にしても」
つばめは思わず噴き出すが、コジロウは平静だった。いつものことではあるのだが。
「一乗寺諜報員は、本官と同様につばめの身辺警護が主要任務だ。よって、戦闘に陥った場合、一乗寺諜報員がつばめの生存を最優先するのは当然だ。つばめの判断は正しい」
「正しいかもしれないけど、私はちょっと嫌だな。大人としては色々とダメな人だけど、先生のことも嫌いじゃないし。出来れば、死んでほしくなんかないし。もちろん、コジロウも」
つばめは照れ笑いしつつ、コジロウに手を差し伸べた。コジロウは少し迷った後、右手を差し出してきた。
「本官はつばめの保護と生存を最優先に考えている。つばめが指摘した通り、脚部の異常はいずれ重大な欠陥となって行動の妨げになる可能性が高い。よって、つばめの指示に従い、整備を行う」
「それで良し」
つばめはコジロウの固く太い指を二本掴むと、彼の手を引いて歩き出した。
「じゃ、帰ろう。学校に行かなきゃならないし、お姉ちゃんだって心配しているだろうし、学費はともかく御布施の金額は勉強させてやる! 十分の一以下に値下げさせてやる!」
気分が上がってきたつばめは、それに任せてコジロウの手を前後に振ろうとしたが、彼の腕が重たいので思うように動かなかった。コジロウはつばめの意図が読み取れなかったらしく、不可解そうに見つめてくるだけだった。彼の反応の冷淡さで自分の幼さを痛感したつばめは、居たたまれなくなって俯き。自分のつま先を凝視しながら帰路を辿った。嬉しさと緊張で、繋いだ手が少し汗ばむのが無性に恥ずかしかった。
まだ帰りたくない、と言い出せたら苦労はしない。
詰まるところ、羽部はりんねとの勝負に負けた。
朝食を終えた時点では勝てそうな気はしていたのだが、道子の料理のひどさは一筋縄ではいかなかった。あれは脳が損傷した事による障害云々ではなく、天性かもしれない。だとしても、何の役にも立たないどころか、食材を無駄にしては他人に害を成す悪しき才能だ。そういう余計なものこそ、脳と一緒に吹っ飛んでほしかった。
昼食に出てきた見た目だけは綺麗なハヤシライスにはふんだんにイチゴジャムが混ざっていて、ポテトサラダにはリンゴの薄切りのつもりなのか缶詰の白桃の薄切りが大量に混じっていて、ミネストローネの具はタクアンや野沢菜漬けだった。午後三時に出てきたおやつは揚げドーナツで、ココナッツを纏っているのかと思いきや、衣は千切りのショウガとニンニクだった。そのくせ中身のドーナツにはバニラエッセンスが程良く効いていたので、羽部はすっかり混乱してしまった。やろうと思えばまともに出来るのに、なぜ最後の最後で変なことをするのだろう。
苦戦して変な味のドーナツを食べ終えた後、羽部を待ち構えていたのはフルコースだった。日も暮れた頃合いになるとりんね達も別荘に戻ってきたが、皆、羽部には関わろうともしなかった。それもそのはず、りんねと武蔵野が買い込んできたズワイガニを食べていたからである。どうやら、りんねは武蔵野と岩龍を連れて柏崎方面まで足を伸ばしたらしく、鮮魚センターの文字が入った大きなトロ箱からは立派なカニの足がはみ出していた。
初夏も近い季節なので火を入れることすらない暖炉の前に座卓を置かせたりんねは、その上にズワイガニを山と積んで皆に振る舞った。鬼の所業である。対する羽部は道子の作ったトンチンカンなフルコースを消化していったが、食べた傍からお代わりが来るので、わんこそばのような状態に陥り、メインディッシュに至る前に観念した。このままではヘビ怪人というよりもツチノコ怪人になりかねないし、L型アミノ酸による消化不良が洒落にならないところまで来ていたからだ。D型アミノ酸しか受け付けない体になった弊害が、こんなところで仇になるとは。
その結果、羽部はトイレと仲良くなっていた。上から下から、食べても消化出来ないものが出てきてしまうからだ。幸いなことに、この豪奢な別荘には階ごとにトイレが設置されているので、羽部が一階のトイレを長時間占領したとしても、二階と三階が使えるので大した問題はないのが救いかもしれない。
「うべぇ」
二日酔いでもこんな目に遭ったことはないのに。羽部はトイレを抱えるようにして吐き戻すと、レバーを引いて水を流した。咀嚼して飲み込んだはいいが、フルコースの前菜はほとんど原形を止めていた。胃液すらもアミノ酸の壁を突破出来ない証拠だ。気持ち悪さで頭がほとんど動いていないのに、あー凄いな、アミノ酸の型が合わないだけでこうなるんだ、と考えてしまうのは化学者の性だろう。
「配水管、詰まらなきゃいいけど。この僕のゲロで逆流されたら、たまったもんじゃない」
胃液と吐瀉物の味を少しでも紛らわすべく、羽部はトイレの中にある洗面台に近付いていった。手を入念に洗ってからその手に水を貯め、それを口に含んで濯いだ。これで少しは気が紛れたが、まだまだモノは出てくる気がする。この分では、トイレで寝る羽目になりそうだ。吉岡りんねとは不本意極まる契約を交わす羽目になるし、その延長で佐々木つばめの毛髪も奪い取られてしまうし、散々だ。
「全くろくでもないね、あの御嬢様は」
羽部は冷や汗がべっとりと染み込んだ蛍光イエローのシャツを脱ぐと、胸ポケットの裏地に作った隠しポケットに入れてあった、もう一つの小さなビニール袋を出した。念のため佐々木つばめの毛髪を入れるビニール袋を分けておいたのだが、正解だった。本数こそ格段に少ないが、効果は抜群だ。
「どうやって言いくるめたもんかなぁ、あのクソメイドを」
羽部はビニール袋に入れた数本の髪を見つつ、思案した。すると、トイレのドアがノックされた。もちろん施錠しておいたし、羽部がここで悶え苦しんでいることは全員知っているはずなのだが。思考に耽ろうとしたタイミングで邪魔されたことで羽部は軽く苛ついたが、毛髪入りビニール袋を隠しポケットに入れてから、投げやりに返事をした。
「入っているって解るじゃないか、この僕が」
「申し訳ございませんでしたぁーん、羽部さぁーん」
ドアをノックしてきたのは、悪魔の如きサイボーグメイド、道子だった。途端に、羽部の怒りは極まった。
「お前の顔なんか見たくもないね! 二度と料理なんかするなよ、それが世界平和のためなんだからね!」
「あんまり出してばっかりですとぉーん、脱水症状を起こしますよぉーん?」
「だからどうした! この僕を舐めるんじゃないよ、それぐらい一人でなんとか出来る!」
フジワラ製薬が製造販売しているスポーツドリンクには、D型アミノ酸を多量に含んでいるものがある。この別荘の冷蔵庫には、伊織が飲むためであろうそのスポーツドリンクが入っていたから、吐き気と下痢が落ち着いたらそれを一つ二つ拝借してくればいいだけのことだ。今は吐き気も腹痛も収まっているので、この隙を見逃さずに移動し、トイレの前にいる道子を振り払ってキッチンまで行けばいい。
シャツを羽織り直した羽部はジーンズを履き直してファスナーを上げてボタンを留め、大股に歩いてトイレのドアに手を掛けた。が、何も収まっていなかった。途端にトイレに逆戻りした羽部は、便器を抱えて盛大に戻し、胃の中身を一通り出した後は座って存分に解放した。ドア一枚隔てた場所に道子がいることが決して気にならないわけではなかったが、四の五の言っている場合ではない。変な意地を張った方が、ひどい目に遭うからだ。
「……で、何の用?」
ぶり返してきた吐き気と下痢で体力を大幅に消耗した羽部が、弱々しく呟くと、道子が声を潜めた。
「朝のぉ、あの話のことなんですけどぉ」
「えーと、なんだっけぇおうっ」
話している途中でまた吐き気に襲われ、羽部は体を折り曲げ、足の間に顔を突っ込んだ。
「本当に大丈夫ですかぁーん……?」
道子の声色が不安げに沈んできたので、この女は割と正常な感覚の持ち主なんだな、と羽部は頭の隅で考えた。胃液と体液と諸々で汚れた口から顎をトイレットペーパーで拭い、それを排出したモノと一緒に流してから、気分を落ち着けるために一度深呼吸した。おかげで、少しばかり頭がすっきりした。
他の連中であれば、羽部の心配なんてするわけがない。りんねは医者ではないから何も出来ない、と言うだけであろうし、武蔵野は自業自得だと切り捨てるだろうし、伊織はウゼェと一瞥するだけで関わろうともしないだろうし、高守に至っては行動の予測すら付けられない。だが、道子は人並みに心配してきている。りんねの指示を受けての行動だとすれば計算高く、抜け目ないが、道子本人の意志だとしたら話は変わってくる。
「まー、大丈夫じゃないかもしれないけどさぁ」
羽部はその向こうにいる女を見据えるようにドアを睨む。
「この僕の話を信じる気になった?」
「いいえ」
そう言いきった道子の語気は、間延びしてもいなければ気取ってもいなかった。本心なのだ。
「あ、そう。だったら、なんでわざわざこの僕が見苦しく情けなく悶え苦しんでいるところに来たのかなぁ?」
「御嬢様には黙っておいて差し上げますから、羽部さんが隠し持っているつばめちゃんの髪を分けて頂けませんか。もちろん、ただでとは申し上げません。御希望であれば、私が所有する現金か、それ以外の財産をお渡しします」
「僕があの小娘の髪を隠し持っているっていう前提だけが、この行動の根拠なわけ?
まあ、その通りだから間違いじゃないし、低脳なサイボーグにしては賢明な判断だけどさ。この僕の強かさを、正当に評価してくれているっていうわけだから。でも、現金以外の財産って何なの? この僕の趣味に見合った女の子でも紹介してくれるって言うの? もしかして、美少女フィギュアでもプレゼントしてくれちゃったりするわけ?」
羽部が嫌みったらしく嘲笑すると、道子は冷ややかに返した。
「御希望があれば、その通りにいたします。私はこの体の他にも十五体のスペアボディを持っていますので、その内の一体を羽部さんの指示通りにカスタマイズして差し上げることも可能です」
「そんなのはいらない。この僕はね、人形遊びをするほど落ちぶれちゃいないんだ。それに、どうせいじくり回すなら生身の女の子がいいよ。血が通っていて体温があって薄い皮膚の下に華奢な骨と薄っぺらい筋肉があって新鮮な内臓が詰まっていて、ぷるぷるした脳がとろっとした脳漿に浮いている、死にたての女の子がね」
あちらが本心を曝すなら、こちらも本心を曝してやる。羽部は状況も忘れ、陶酔する。
「でね、その女の子をアソウギを溶かした培養液に入れちゃうんだ。綺麗なんだ、手術灯に照らされたミントグリーンのプールは。皮膚を溶かして、筋肉を溶かして、骨も溶かして、最後に残った内臓と脳と神経系をアソウギを混ぜていない、レモンイエローの培養液に入れちゃうんだ。その時に比重が違う目玉がぷかぷか浮いてきちゃうから、それをぶちゅっと潰すのが楽しいの。そういう女の子が何人いたかなぁ、数えるのも面倒臭くなるぐらい。だってさ、簡単すぎて笑っちゃうんだよ。繁華街でふらふらしている子にね、新商品の化粧品のモデルになってくれないか、とか、ダイエット効果のあるドリンクを試してみないか、とか、報酬を出すからエステに行って感想を伝えてくれないか、って言うだけで引っ掛かっちゃうんだよ。僕も何度か現場に出てやってみたんだけど、そこら辺にいるアリに砂糖を撒いて誘うよりも呆気なさすぎて物足りないぐらい。だから、この僕を満足させたいなら、女の子を寄越してよ」
羽部は言葉を句切るが、道子は言葉を失っていたのか、すぐに反応が返ってこなかった。
「この僕に言うことを聞かせたいなら、そうだね、御嬢様を差し出してよ。あの子を溶かすのって、超楽しそう」
「それだけは出来ません」
道子は声色を押し殺してはいたが、りんねを守るという強い意志が宿っていた。真面目な女なのだ。
「あ、そう」
その真面目さが鼻に突いたが、もう一押しだと羽部は判断した。
「解った。じゃ、この僕が御嬢様に手出ししないと約束してあげる。でも、君の本名は教えてあげないよ。絶対にね。その脳みそをいじくらせてくれないっていうんなら、サービスなんかしてあげない。だけど、どうしても佐々木つばめの生体組織が欲しいって言い張るのなら、君の貯金の八割を僕の銀行口座に入れてくれないかな。今すぐに」
羽部はジャケットのポケットから携帯電話を取り出すと、自分の口座のホログラフィーを投影した。それから五秒も経たないうちに、羽部の口座に五千万円近い現金が一括で振り込まれた。それが道子の貯金なのだろう。彼女の決断の早さに感心しながら、羽部はブーメランパンツとジーンズを上げてベルトを締めた後、佐々木つばめの毛髪を一本だけ取り出して舌の上に載せてから、トイレのドアを開けた。
ドアが三分の一程度開いた瞬間に、羽部は上半身だけをヘビに変化させた。思い掛けないことに目を剥いた道子の表情に愉悦を覚えながら、顎を最大限に開いて道子の作り物の頭を銜えた。抵抗すら出来ずに硬直した道子の口を舌の筋力だけで強引にこじ開け、二股の舌を道子の生き物らしさのない喉の奥にねじ込んだ。更にその舌先を液状化させ、人工体液を循環させている血管代わりのパイプの繋ぎ目に染み込ませていった。人間であれば苦痛と窒息で痙攣しているだろうが、サイボーグである道子の反応は冷淡だった。力任せに羽部の頭を押し戻そうとしてきたので、触れられた部分を液状化させて手応えを失わせた。
「契約成立ぅ」
道子の頭部に触れている骨を震わせて羽部が言葉を伝えると、道子は身動いだが抵抗しなかった。そこまでして佐々木つばめの生体組織が欲しいのか、と思うといじらしくなってくる。けれど、羽部は同情も憐憫も感じなかった。道子自身には興味はない。生きた女性に対してもあまり興味がないのだから、サイボーグなど尚更だ。
心臓に値するポンプが静かに動き、道子の人工体液が循環していく。佐々木つばめの毛髪を溶かし込んだ羽部の体液が、道子の人工臓器を巡り、繊細なパイプラインを通ってコンピューターの傍を通り過ぎ、脳に辿り着いた。崩れかけてはいるが形を保っている若い女の脳の舌触りが、羽部の脳にも至った。塩辛いプリンを思わせる味が分断した舌を通じて届き、羽部は身震いした。その余韻に浸ろうと、羽部は道子の頭部を開放して後退した。髪や顔が羽部の唾液と胃液で汚れた道子は、その場に崩れ落ち、頭を押さえて俯いた。
「うひっ!?」
不意に痺れが走り、羽部は飛び退いた。液体と化して切り離したはずの舌の尖端から、過電流のような刺激が駆け抜けてきた。道子の人工体液に馴染んだ佐々木つばめの生体組織が、道子の脳内にある何かに触れたのだ、と感覚的に悟った。ずくんずくんと心臓が高ぶり、体液が熱してくる。この女、脳の中に遺産を隠していたのだ。その遺産に佐々木つばめの生体組織を与えるために、羽部に近付いてきたというわけか。
「だから、この僕に優しくしたってわけ? へぇ、そういうの、嫌いじゃないかもよ?」
「……凄い」
道子は笑っていた。羽部の唾液や胃液で汚れた顔を拭おうともせず、目を見開き、口角を歪めていた。
「御嬢様や皆様にはぁん、内緒ですよぉん?」
顔を上げた道子は取って付けたような笑顔を作り、羽部を見上げてきたが、そこに好意もなければ歓喜もない。自嘲と妥協、他者に対する優越感が滲んでいた。機械仕掛けの表情パターンを越えた人間の生々しい顔だった。道子は多少ふらつきながらも、トイレから去っていった。トイレのドアを閉めて便器に戻った羽部は、上半身を人間の姿に戻してから、側頭部を叩いてみた。だが、先程の痺れは抜けてはおらず、それどころか、これまでにないほど頭が冴え渡っていた。恐らく、道子の所有する遺産は情報処理に特化しているのだろう。それ自体は予想の範疇ではあるのだが、正直言ってここまでとは思っていなかった。吐き気も忘れ、羽部は声を抑えて笑い転げた。
毒を食った甲斐があったというものだ。