塵も積もればマインドとなる
食卓に一つ、空きが出来た。
マホガニーの広々としたテーブルには湯気の昇る朝食が並び、皆、それぞれに割り当てられた席に着いていた。上座はもちろんりんねであり、武蔵野、伊織、高守、と続いていき、メイドである道子は末席である。人数分の料理を並べ終えた道子が席に着くと、りんねは伊織の席を見やったが、そこに座るべき青年は影も形もなかった。
「どなたか、伊織さんの行方を御存知ではありませんか?」
りんねが食卓を見渡したが、返答はなかった。だが、誰一人として戸惑ってはいなかった。伊織の性格からして、いつか身勝手な行動に出ることは予想出来ていたからだ。むしろ、これまでずっと大人しくしてくれていたのが奇跡だと思えるほどだった。伊織の殺戮衝動に任せた行動力を封じていたのは、船島集落を含めた周辺地域の交通の便の悪さだろう。伊織は車を運転する技術は得ていないし、運転しようにもどの車のキーもりんねや武蔵野が厳重に保管しているので奪いようがない。最寄りのバス停は別荘からは七キロ以上も離れている上に、一日に三便しか通っていないので当てに出来るものではない。だが、伊織が行くとすればそこしかない。
「道子さん。八重山停留所の、一ヶ谷市内行きのダイヤを調べて頂けませんか?」
りんねが道子に尋ねると、道子はすぐさま一ヶ谷市営バスのウェブサイトにアクセスし、調べた。
「一ヶ谷市内行きはぁーん、午前六時三十五分とぉー、午後一時二十分とぉー、午後七時四十五分ですぅーん」
「岩龍さん。伊織さんが外出した時刻を御存知ではありませんか?」
りんねは立ち上がって修理されたばかりのベランダに向かうと、人型重機、岩龍が覗き込んできた。
「おう、姉御! おはようさん! その伊織っちゅうアンちゃんはのう、午前五時五十七分に出てったのう。ワシャあどこに行くんか尋ねようと思うたんじゃが、ぎっつり睨まれてしもうてのうー! 目ぇ逸らしてもうたんじゃ!」
「野良ネコの縄張り争いみたいだな」
武蔵野が呟くと、道子は失笑した。
「しかも岩龍さんが負けちゃってますぅーん」
「となると、伊織さんは朝一番のバスにお乗りになってお出掛けになった可能性が非常に高いですね。ですが、伊織さんは携帯電話をお持ちでしょうから、その現在位置を確かめて下されば、すぐに行方が」
と、りんねが言うや否や、リビングの片隅から伊織の携帯電話の着信メロディが鳴り響いた。道子が発信するよりも早く、自らの携帯電話を操作したのは高守だった。テーブルの下に隠した丸っこい両手で持っていた携帯電話のボタンを押すと、伊織の携帯電話の着信メロディも途切れた。
「困ったものですね」
りんねは己の席に座り直すと、嘆息した。武蔵野は不味いが見栄えはいい朝食を横目に、上司に言う。
「お嬢、伊織の奴に何か用事があったのか?」
「ええ、少し」
りんねはスカートの裾を整えてから、頂きましょう、と言ってフォークを取った。上司が食べ始めたことで、他の面々も食事を摂った。見栄えはいいが強烈な不味さは相変わらずで、りんねと道子以外は苦労して飲み下した。
りんねが時折目を逸らすので、武蔵野は何の気成しにその方向を辿ってみると、リビングの片隅に円筒形の容器が三つ転がっていた。伊織宛の荷物の外箱である段ボール箱と、緩衝材である細かな発泡スチロールと、真っ二つに割られたディスクも部屋の隅に放置されたままだった。せめて捨ててくれればいいものを、と思いつつ、武蔵野は異様に辛いフレンチトーストと格闘した。伊織の無断外出がこの朝食から逃れるためだとしたら、非常に賢い選択であると言える。たった一日だけでも、この朝食から逃れられるのであれば心身が救われる。
今日は四月末の祝日、昭和の日であり、ゴールデンウィークに突入したが、佐々木つばめ攻略を業務とする面々には連休は訪れていなかった。なぜなら、りんねが休みを言い渡してくれないからだ。佐々木つばめとの取り決めで実労働は土日だけとなったので平日は業務から開放されているが、暇というわけではない。りんね以外は派遣社員のような立場であるため、それぞれのバックボーンの組織と連絡を取り合わなければならないし、伊織の派遣元であるフジワラ製薬のように表立った行動に出てくることもあるので、その場合は現場の人間が本社の予定を聞いて細かな条件を摺り合わせなければならない。何事にも言えるが、行き当たりばったりではダメだ。
綿密な計画を立て、着実に行動に移せるように手筈を整え、他の面々を出し抜けるように企みつつもその様子を窺わせないようにし、かといって共闘規定から外れないように気を配る。という具合に苦労に苦労を重ね、つばめを襲撃するのだが、いかんせんコジロウが強すぎて一蹴されてばかりである。四月の上旬に佐々木長光が逝去したのと同時に始まった業務ではあるが、この一ヶ月弱、一度も成果を上げられていないのが現状だ。
悪役ほど効率の悪い職業はない。
四月二十九日、祝日。
色気に欠ける農協のカレンダーの日付と向き合いながら、つばめは決意を固めた。今日からゴールデンウィークに突入するが、土日ではないので、吉岡一味の襲撃予定日ではない。船島集落の分校は一ヶ谷市内の中学校の分校であり、れっきとした公立校なのでカレンダー通りに休みが訪れる。だから、つばめも休みだ。前々から密かに計画していたことを実行に移すべき時が来た。今日を逃してもゴールデンウィークの後半があるが、初っ端に事を終えてしまった方がすっきりするし、先延ばししてしまっては決意が鈍るかもしれないからだ。
「いよぉし」
つばめは一度深呼吸した後、押し入れに向き直った。寝間着を脱いで部屋着のワンピースに着替えると、布団を畳んで押し入れに上げた。そして、布団を入れた側とは反対側のふすまを開け、ホームセンターで入手したパイプハンガーを設置してクローゼット代わりにした空間に手を伸ばした。
「あの時はこれでいいって思ったんだけどなぁー、でもなー、今見るとなぁー……」
ハンガーに掛かった服を取り出して畳の上に並べ、つばめは首を捻る。ポンチョに似た形でざっくりとした編み目が大人っぽいサマーニットのドルマン、明るいオレンジのブラウス、デニムのフレアキュロット、ストライプのニーハイソックス。足元にはショートブーツでも合わせればよかったのだろうが、生憎、先日買い物に出かけた時はそこまで気が回らなかったので、手持ちのスニーカーで我慢するしかない。
「んー、でも、他にこれといって服ってないしなぁー」
つばめは腕を組むと、首を更に捻って天井を見上げた。この服にしても、美野里が進級祝いだと言って都心部のショッピングモールに連れ出してくれた際に買ってくれたものなのだ。極力無駄遣いをしないで生きてきたので、無論流行りの服を買い集めるようなことはしなかったし、出来なかった。なので、つばめが服のセンスを磨く機会も皆無なのであり、美野里が買ってくれた服を着ていった方が無難ではあるが、つばめの個性が出せない。
「ええい、そんなことで悩んでいる時間が無駄だったら無駄だ!」
つばめは余計な考えを振り払って、ふすま一枚隔てた隣の部屋で寝ている美野里を起こしに行った。姉妹同然の関係と言えどもプライベートな空間は必要なので、昨日から部屋を独立させたのである。
「お姉ちゃん、おはよう!」
だが、美野里が起きる気配は全くなかった。布団の中で芋虫のように丸まっている美野里の周囲には、美野里の個人事務所を立ち上げるために必要な書類が散らばっていた。文机の上にあるノートパソコンは起動しっぱなしで、モニターがスリープモードになっている。夜食代わりにしたであろう茶菓子の包みが文机の足元にいくつもあり、底にコーヒーが少し溜まったマグカップが寂しげに佇んでいる。個人事務所を立ち上げるためにも手続きやら何やらが必要なのは解るが、そこまで急ぐ必要があるのだろうか、と、つばめはふと疑問に駆られた。
美野里にも色々あるのだろう、と勝手に結論付けてから、つばめは髪が乱れ放題の美野里に近付いて、布団からはみ出している肩を揺すってみた。美野里はゾンビのように呻いてから、ぎこちなく目を開ける。
「あー……つばめちゃん……。今、何時?」
「朝の七時。でね、お姉ちゃん、良かったらでいいんだけどさぁ」
つばめは照れ笑いしながら、両手を合わせた。
「車、出してくれない? で、その、えと、うんと、あの、こっ、コジロウと出かけようと思って」
「デートねっ!」
途端に美野里は布団を跳ね上げて飛び起きると、寝癖のひどい髪を振り乱してつばめの手を握ってきた。
「だったらお姉ちゃんは全力で応援してあげるわっ! いいのよいいのよ、お姉ちゃんのことなんか気にしなくても! つばめちゃんとコジロウ君を街に送り出したら、ぱーっとドライブでもしてくるから!」
「でも、事務所の立ち上げは?」
「書類を作るのには慣れているから、そっちの方はちゃっちゃと出来たんだけど、開業資金と事務所をどうしようかなーって思っていて。この集落で開業したってどうしようもないし、お客さんはつばめちゃんオンリーになっちゃうし。まあ、それでもなーんにも問題はないんだけど、それだと思いっ切り公私混同しちゃいそうでねぇ。だから、ドライブは物件探しのついでね」
「ちゃんとお仕事してよね、お姉ちゃん。体壊すほど苦労して取った国家資格なんだから」
「そう、そうなのよ! だからお姉ちゃん、しっかりお姉ちゃんしてみせるわっ!」
力強く言い切った美野里は親指を立ててみせたが、寝起きのだらしなさと寝癖のひどさのせいで、ちっとも格好は付いていなかった。ノートパソコンの暗転したモニターに映っている自分を見て醜態に気付いた美野里は、ちょっと赤面して髪を撫で付けた。つばめは姉の枕元から立ち上がり、台所の方向を示す。
「じゃ、朝御飯の支度をしてくるから、お姉ちゃんも着替えてきてね。あと、部屋も片付けておいてね。出掛ける前に掃除機だけは一通り掛けておきたいし」
「はーい」
満面の笑みの美野里が挙手したので、つばめは笑みを返した。
「それで良し」
庭に面した廊下を通って台所に向かうと、米の炊ける甘い匂いが漂っていた。出汁を仕込んでおいた味噌汁は、これから味噌を溶いて一煮立ちさせるので、それらが混ざるとさぞやいい香りがするだろう。冷蔵庫の中身と朝食のメニューの折り合いを考えながら、つばめが居間のふすまを開けると、案の定コジロウが待機していた。四月末になっても船島集落の朝は冷え込むので、囲炉裏では炭が赤く熱していた。
「おはよう、コジロウ」
つばめが何気ないふうを装って挨拶すると、警官ロボット、コジロウは平坦に返してきた。
「つばめの起床を確認」
「あのさ、コジロウ」
茶箪笥からエプロンを取り、身に付けながら、つばめがぎこちなく話を切り出す。
「所用か、つばめ」
コジロウが振り向いたので、つばめは彼に背を向けてエプロンの裾をいじる。
「用事ってほどの用事でもないかもしれないけど、用事って言うべき用事である可能性もなきにしもあらず……」
「意味不明だ、つばめ」
コジロウはつばめの異変を気にも留めずに、事実だけを述べた。つばめは赤面した顔を隠すため、俯く。
「たっ大したことじゃないかもしれないけど、その、ええとね」
「本題に入ってもらわなければ、本官は判断を付けかねる」
「だっ、だから、その!」
このままでは堂々巡りが続いてしまうので、つばめは腹に力を込めて言い切った。
「コジロウ! いっ、一緒に遊びに行こう!」
「その理由が見受けられない」
少しも間を置かず、コジロウが冷ややかに即答した。それは確かに、生粋のロボットであるコジロウには娯楽など必要ないのだが、ざっくりと切り捨てられると胸が痛んた。全力投球した勇気が空振りどころかファールに終わった心境に陥り、つばめは少し泣きそうになったが、一度深呼吸して気を取り直した。
「その優秀な人工知能でちょっと考えてみてよ、この朴念仁」
つばめはコジロウに近付くと、彼の純白の外装を指で弾いた。指の方が痛かった。
「まず、私が出かけるでしょ?」
「それは事実ではない」
「事実っていうか、今後の予定だね。順調に行けばの話だけど」
「想定すべき事態についての会話だと認識、了解した」
「で、一人で寂しく街に遊びに出かけたとする。お姉ちゃんは他に用事があるって言うし、先生とか寺坂さんを誘えばエキセントリックでエキサイティングな目に遭うのは間違いないから却下、かといって付き合ってくれって誘える友達もいない。クラスメイトもいない。分校だしね。その間、私はそりゃーもう無防備なわけだ。一応、吉岡一味には襲うのは土日だけって約束を付けたけど、その約束を律儀に守ってくれるとは限らないじゃん?」
「確かに。彼らが取り決めを拡大解釈する可能性は大きい」
「で、見知らぬ街だから、迷子になるかもしれないじゃない。未だに携帯も持っていないんだし。そんな時にあのどぎつい御嬢様のえげつない部下が来てごらんなさい、全てがパーだよ」
「パーなのか」
「パーなんだよ!」
つばめは律儀に同じ言葉を繰り返したコジロウに、手を開いてみせた。コジロウも、つばめに倣って手を開く。
「パーであると了解した」
「だから、コジロウが一緒にいてくれた方が安全確実堅牢強固なわけよ!」
「確かに」
「でも、背後霊みたいに後ろにくっついてこられるだけじゃつまんないの! というわけであるからして改めて言おう、コジロウ、一緒に遊びに行こう!」
つばめが勢いに任せて叫ぶと、コジロウはパーにしていた手を下ろした。
「つばめの不可解な命令に内包されている情報を認識、若干不合理さが見受けられるが処理しきれない範疇ではない。よって、つばめの命令を了解した」
「最初からそう言ってくれればいいの」
なんて回りくどい男だろう。つばめは四角四面のコジロウの扱いづらさに辟易しつつも、そこがいいんだよなぁ、と思ってしまう。まだまだ子供のつばめでは、コジロウのように明確な判断を下せない。感情任せのいい加減な考えばかりだから、ここぞという場面で失敗してしまうのが目に見えている。だから、これで釣り合いが取れているのだ。それに、コジロウがクールを通り越して絶対零度の反応を返してくれるのであれば、大事なお金を無駄遣いをせずに済むかもしれない。祖父の遺産が山ほどあるからこそ、金銭感覚は地に足を着けておかなければ。
「だが、つばめ。一つ問題がある」
コジロウに意見され、台所に入りかけていたつばめは足を止めた。
「ん、何?」
「行動計画書を提出してもらわなければ、本官は同行出来ない。なぜなら本官は、つばめの身辺警護を主たる任務とした警官ロボットであるが故、国家公務員に準じた手続きを行った後に行動を取らなければならない」
コジロウが役人らしい言葉を言い終えるや否や、居間のふすまが開け放たれた。
「だぁーいじょおぶっ、まぁーかしてぇっ!」
駆け込んできたのは美野里だった。寝癖だらけの髪を無理矢理シュシュで一纏めにしているが、四方八方に毛先が跳ね回っている。寝間着から部屋着に着替えてはいるが、顔はまだ洗っていないだろう。唐突すぎる姉の登場につばめが面食らっている間に、美野里はコジロウのマスクフェイスに一枚の書類を突き付けた。
「はぁーいコジロウ君、行動計画書よ! 別名、お姉ちゃん謹製デートコース!」
「書面を確認、認識、了解した」
コジロウは美野里が突き付けた書類を眺めて書面を読み取ると、呆気なく思えるほど簡単に了承した。つばめがコジロウと出かけると言ったのはほんの十数分前なのに、行動計画書を作ってきた美野里の仕事は早いどころの話ではない。もしくは、この事態を予期していて既に作っていたのではあるまいか。有り得ないことではない。
「ちなみに、県庁所在地まで高速バスで遠出するコースと、直江津線で柏崎に出て恋人岬にレッツゴーなコースと、地味だけどそれなりに楽しめる道の駅コースと、ただのフィールドワークも同然なお散歩コースとあるわよー。んで、今回コジロウ君にプレゼントしたのは、色々と手っ取り早い上にショッピングだって出来ちゃう、ジャスカよ!」
美野里が得意満面でウィンクしてみせたが、つばめは喜びきれなかった。確かにコジロウと一緒に出掛けるために必要な行動計画書を、事前に準備してくれていたのはありがたいが、なぜ選りに選って大型スーパーなのだろう。ジャスカと言えば全国展開している大型量販店で、はっきり言ってどこにでもある。他に遊べそうな場所がないかと美野里に尋ねてみたが、そんなものはないわよっ、とにこやかに一蹴された。
それが田舎である。
朝っぱらから、盛大に気が滅入る。
その原因は考えるまでもなくヘビ男にあった。伊織は何本目になるかも解らない缶コーヒーを飲みながら、傍らで車止めのブロックに座っている男を睨み付けた。裸で歩き回られると面倒なので貸してやった伊織の服を着ているが、サイズが合わないので手足の袖が余っている。人間体であっても爬虫類じみたぬめついた印象が拭えないのは、目付きの悪さと表情の気色悪さにあるだろう。吊り上がっていて白目がちな目には卑屈さが滲み出ているが、表情は妙に強気なのが噛み合っていない。伊織は缶コーヒーを呷ってから、頬を歪める。
「おい、羽部」
「この僕を呼び捨てにするのか、この僕をだ」
真顔でそう言い放った羽部鏡一を、伊織は躊躇いもなく引っぱたいた。ここが無駄にだだっ広いコンビニの駐車場でさえなければ、首を掻き切って跳ね飛ばしてやったものを。前のめりになった羽部は体を起こし、殴り付けられた後頭部をさすりながら粘着質な語気でぼやいていた。人類にとって貴重な脳細胞を殺すなよ、などと。
伊織はまたもや羽部を殴りたくなったが、その衝動を堪えるために缶コーヒーのスチール缶を握り潰した。途端に飲み残しのコーヒーが噴出し、アスファルトに甘ったるい飛沫が散った。そもそも、伊織が羽部を迎えに行くことからしてまず間違っている。伊織はフジワラ製薬の社長の息子にして、書類の上だが幹部社員であり、抜きん出た能力を持つ怪人なのだ。だからこそ、佐々木つばめ攻略に駆り出された。それなのになぜ、一研究員に過ぎない羽部に合わせて峠道で待ち合わせし、手持ちの服を貸してやり、なけなしの現金でバス代も貸してやり、揃って一ヶ谷市内に出てコンビニの駐車場で朝食を一緒に摂る羽目になってしまったのだろうか。普通は逆ではないか。
「用件ってのはなんだよ、さっさと言えよクソが。俺の部屋に忍び込んでメモ書きしてったぐらいんなんだから、余程のことがあんだろ。なんかねぇとマジ許さねぇし」
伊織は車止めから長い足を投げ出し、舌打ちした。駐車場には長距離トラックや乗用車が止まっているが、その運転席では疲れ果てた運転手達が苦しい姿勢で仮眠を取っていた。背後のコンビニは、早朝であることも相まってやる気に欠ける店員がレジで棒立ちしている。コンビニに面した国道を通る車の数もまばらで、コンビニの後方には水の張った水田が延々と広がっていて、四角い土地の中で田植機が忙しそうに行き来していた。
「まぁねー。社長が大それたことを考えているのは確かだし、僕はその計画の一端を担っているわけだし、そのために単独行動が許されているわけだし、この僕が作り出した理論あってこその計画なわけだしぃ」
唐揚げを頬張りながら悦に浸る羽部に、伊織は心底苛立った。
「ウッゼ! 死ね!」
「僕達改造人間がそう簡単に死なないことぐらい、あんただって解っているだろ? 頭は無理でも体でね」
「ウッゼェんだよてめぇは!」
伊織が掴み掛かろうとすると、羽部は唐揚げの袋に入っていた爪楊枝を上げて伊織の眼球に据えた。
「人を殺すことに抵抗がないのが自分だけ、とか思っていない? 僕は人を襲うのは苦手だけど、殺すのはまた別腹っていうかでさぁー。こんな短い棒でも、やろうと思えば眼球ぐらい簡単に摘出出来るんだよな。いくら遺産の融合係数が高いクソッ垂れなお坊っちゃんでも、眼球を引っこ抜かれたら再生出来ないだろ? この僕の理論がそれを証明しているんだからさぁ。んん?」
「死ねクソが」
伊織は羽部の手から爪楊枝を抜くと、へし折って投げ捨てた。羽部は慌てる。
「わあっ、この僕になんてことをするんだ! 残りは素手で食べなきゃいけないじゃないか! 揚げ立てなのに!」
「知るかクソ」
伊織は羽部に苛立ちすぎて、語彙を探すのすら面倒臭くなっていた。世の中全てが鬱陶しいと思っているが、中でも羽部は別格だ。造形は悪くないのだが性格の悪さが如実に表れている顔付きも、ヘビ怪人と化す以前から猫背がちな姿勢も、何かにつけて自己主張するのも、そのくせ突っ込まれると及び腰になるところも、鬱陶しい。伊織は自分のささやかな忍耐力を褒めてやりたくなった。
「じゃ、じゃあ、特別に説明してあげよう。この僕がだ」
熱々の唐揚げを素手で抓もうとするが断念した羽部は、渋々本題を切り出した。
「社長命令でね、液状化した怪人を全員河川に流したんだよ。もちろん、足が着かないように手を回しておいてね。政府に掴ませるための尻尾は別に用意しておいたし、液状化した怪人の意識を統制出来るように手も施してある。でも、液状化した怪人達を上手く使うにはリーダーが必要なんだ。クソッ垂れなお坊っちゃんだって液状化してみたことがあるから解るだろうけど、あの状態だとちょっと賢いアメーバに過ぎないからね。でなきゃ粘菌だね。だから、優れたリーダーが必要なんだよ、でも、あーもう嫌だ」
羽部は顔をしかめ、清々しく晴れた空を仰ぐ。
「それがこの僕じゃないなんて。社長は何考えてんだろ、何も考えてなかったりして?」
「……は?」
ということは、つまり。伊織が声を裏返すと、羽部は粘り着くような目線で睨め付けてきた。
「飲み込みが悪いなぁー、脳みそのないハシゴ状神経系のくせに。液状化した怪人部隊が合流次第、クソッ垂れなお坊っちゃんにそのリーダーになってくれっていうことだよ。それが大事な話にして本題。解った?」
「クソ親父、俺のこと見くびってんじゃねぇだろうな?」
伊織が八重歯を剥くと、羽部は少し冷めた唐揚げを抓んで口に投げ入れた。
「知らないよ、そんなこと。僕は他人の家族関係なんてどうでもいいし、社長のプライベートになんて心底興味はないし、知っていたとしてもクソお坊っちゃんに話すわけがないしー。ああ面倒臭い」
「いい加減死ねよ!」
伊織が羽部の後頭部を再度叩きのめすと、羽部はつんのめって残りの唐揚げをアスファルトにぶちまけた。
「わあっなんてことするんだ! この手の添加物まみれの食品は、味覚がなくなった今では貴重な刺激物なのに! 購買意欲をそそるための強い匂いが嗅覚を刺激するし、無駄に多いスパイスが痛覚に来るんだからさぁ!」
「なんでもいいから黙れよ!」
苛立ちのあまりに左腕を怪人体に変化させた伊織が羽部を張り倒すと、羽部はアスファルトに転げた。
「あー……最悪ぅ……」
ぼやきながら起き上がった羽部の胸元には、先程伊織が噴出させた缶コーヒーが広範囲に染み付き、唐揚げが潰れて油が染み込んでいた。羽部は仕方なしにパーカーを脱いで長袖Tシャツ姿になると、伊織を見やる。
「何、ぼさっとしてんの?
服買いに行こうよ、この僕の給料で」
「なんでてめぇに指示されなきゃならねぇんだよ!」
伊織が羽部に詰め寄るが、羽部は素っ気なく目を逸らす。
「だって、クソお坊っちゃんの服のセンスって最悪だから、丁度いいと思って。いくら変身するたびにダメになるからって言ったって、襟がダルダルのシャツとか擦り切れたジーンズとかマジ勘弁してほしいんだけど。そんな最悪な服を着せられた、この僕の身にもなってほしいんだけど。これ以外に服がなかったから、着てあげただけっていうか」
「ウゼェ死ね。つか、服っつっても、この辺の店はジャスカとしまむろしかねぇぞ」
「え? それマジ? 嘘じゃないの? 安っぽい大型量販店とカオスな品揃えのファッションセンターしかないの?」
羽部がぎょっとしたので、伊織は羽部の肩を小突いて放した。
「嘘じゃねーし。つか、クソ田舎すぎんだよ。それが嫌ならもう帰れ、でねぇと殺すし」
「ちょっと考えさせて」
そう言い、羽部は顎に手を添えて思い悩んだ。伊織の着古した服を着るか、大型量販店と全国チェーンの安価な店で妥協した服を買うか、という案件で異様に真剣に考え込んでいた。それから数分の後、羽部は眉を下げた。
「仕方ないから買い物に行ってあげる。付き合ってよ、クソお坊っちゃんでいいからさぁ」
「はぁ?」
伊織が目を据わらせると、羽部はこの世の終わりのような悲劇的な顔で嘆息した。
「ほら行こう、この僕が迷子になったらどうするんだよ。フジワラ製薬の会社生命に関わるぞ、リアルで」
「知るか、んなもん!」
と言いつつも、伊織は羽部と連れ立って歩き出した。正直、あの別荘での生活に飽き飽きしていたのだ。羽部の書き置きに従って別荘を出て、羽部と一緒に市営バスに乗って一ヶ谷市内に出たのも、毎日決まり切った顔触れで閉塞感さえある別荘から脱するためだった。人型重機の岩龍が新規参入したが、あれはロボットなので相手にしても退屈なのだ。その点、四人と一体とはまるでタイプが違う羽部と会話するのは心底鬱陶しいが面白かった。
暇潰しに買い物をして気が紛れたら、すぐにでも殺してやる。
もう少し、まともな輸送方法がなかったものだろうか。
美野里の所有する軽自動車のトランクからはみ出したコジロウの両足は、シュールを通り越して怖かった。一乗寺の軽トラックや寺坂のピックアップトラックなら荷台があるので、コジロウはそこに座らせて輸送出来るが、美野里の軽自動車はそうもいかないのである。元々小さな車なので輸送能力も限られているし、後部座席の後ろにある空間にしか荷物は置けないので、コジロウを乗せられるのもその部分だけだ。だから、コジロウは二メートル超の体躯を狭苦しい空間に精一杯押し込めた。だが、足を折り畳んでも膝が後部ドアにぶつかってロック出来なくなってしまうので、いっそのこと足を出してみることにしたのである。その結果、奇妙なことになってしまった。
「コジロウ、大丈夫?」
つばめが後部ドアを開けて窺うと、横倒しにした後部座席に仰向けになっているコジロウは平坦に返した。
「少々安定性に欠けるが、特に問題はない」
「私には、思いっ切り問題だらけのような気がしてならないんだけどなぁ」
一乗寺に軽トラックを借りるか寺坂に車を出してもらった方がいいのでは、とつばめは思ったが、美野里の極めて上機嫌な鼻歌が聞こえてきたので、気が咎めて提案はしなかった。つばめとコジロウを一ヶ谷市内まで送ってくれるのはあくまでも美野里の好意なのだし、一乗寺や寺坂に絡まれたら後が面倒だ。つばめとコジロウののデートではなくなるし、子供っぽい性格の大人達に振り回されて休日が終わってしまいかねないからだ。
「さあっ、行きましょ!」
髪も服装も化粧も整えたスーツ姿の美野里は玄関から飛び出してくると、威勢良く挙手した。他人事なのに、なぜここまで楽しそうなのだろう。反対されるよりは楽ではあるが、なんだか照れ臭い。つばめは自宅の玄関を施錠してから軽自動車の助手席に乗り込み、シートベルトを締めた。美野里も意気揚々と運転席に乗り込んでくると、キーを回して電動エンジンを始動させた。軽い振動の後、後輪がひどく沈んだ軽自動車は発進した。
三十分程度のドライブの後、一ヶ谷市郊外の大型量販店、ジャスカに到着した。開店時間よりも少し早めの到着ではあったが、やたらに広大な駐車場にはまばらに車が留まっていた。午後三時頃には迎えに来てあげるから北口で待っていてね、と言い残し、美野里は自分の用事を果たすために駐車場を後にした。つばめはパールピンクの軽自動車が幹線道路に出ていく様を見送った後、コジロウに向いた。
「ねえ、コジロウ」
「所用か、つばめ」
コジロウはモーター音と共に振り向き、つばめを見下ろしてきた。つばめは、おずおずと腕を広げる。
「期待なんかしちゃいないけど、一応聞いてみるよ。この服、どう?」
「どう、とは」
「似合っているか、とか、可愛い、とか、まあ色々とあるじゃん。そういうのってない?」
「ない」
コジロウにばっさりと切り捨てられ、つばめは顔を逸らした。
「ま、そうなんだけどねー……」
そもそも、感情を持たないロボットと人並みのデートをしようと思ったことからして間違いなのだ。大好きな彼と一緒にいるだけで幸せ、というお花畑な頭の持ち主であったら、独り善がりな幸福感に浸れていたのだろうが、つばめは生まれ育った環境も相まって年齢にそぐわないシビアさを持ち合わせている。コジロウへの淡い恋心に任せて行動に出たが、このままごとじみたデートを切っ掛けにコジロウもつばめに好意を抱いてくれるのでは、という甘い考えは抱いた瞬間にぶん投げた。世の中、そんなに都合良くできていないと身に染みて理解しているからだ。かといって、コジロウを単なる荷物運びロボットに貶めるのも心が痛むので、話し掛けたり、話題を振ったりしてしまう。我ながらどっちつかずだと認識してはいるのだが、上手いこと区切りが付けられないのだ。
開店時間を迎えてシャッターが上がっていくと、出入り口前で開店待ちをしていた客達が店内に入っていったので、つばめもコジロウを伴って店内に入ることにした。その際、客や店員達に揃って注視された。それもそうだろう、個人用のロボットはまだまだ珍しい時代だし、それが警官ロボットなら尚更だ。余程の要人か、護送中の容疑者でなければまず有り得ない。そのどっちだろうか、と人々が口さがなく話す声が嫌でも耳に入ってくる。けれど、相手にしていては時間を無駄にしてしまうので、つばめは何も聞かなかったことにしてコジロウを呼び止めた。
「ねえ、コジロウ」
つばめがエレベーターホール前の店内見取り図を指すと、コジロウは顔を上げ、それを見た。
「この商業施設の構造を把握、認識、記憶した」
「まずはどのお店から見に行こうかなー。やっぱり服かな?」
つばめは一歩横に動いてコジロウとの間合いを詰め、彼の手との距離を測った。およそ三十センチ。
「備前女史が本官に提示した行動計画書にも、そのように記載されている。行動開始時刻は」
コジロウの機械的な言葉を、つばめは遮った。
「それはお姉ちゃんの行動計画書であって、私の行動パターンじゃないでしょ? 優先順位を変更してよ」
「だが、それでは問題が発生してしまう」
「どういう問題が発生するの?」
つばめは言い返しつつ、更に半歩横に動いて距離を縮めた。身長差のせいで、コジロウの腰の部分がつばめの肩に来ている。なので、コジロウの手はつばめの二の腕の位置にあり、手を繋ぐと恋人同士というより親子のような構図になってしまうが、そればかりは仕方ない。コジロウはつばめとの距離を確認し、近すぎると判断したのか自ら一歩身を引いた。せっかく詰めた距離が遠のいてしまったので、つばめはむっとしながらも距離を詰め直す。
「つばめの命令の優先順位を第一位に変更した行動を行うには、つばめの名義で書かれた行動計画書が必須だ。だが、本官に提示されたのは備前女史の名義である行動計画書だ。よって、齟齬が生じてしまう」
「そんなの、後でやればいいでしょ。どの店にどういうルートで行ったかってことぐらい、後で書いてあげるから」
「事後報告では了解出来ない」
「行政だなぁーもう」
つばめはうんざりしてきたが、ここで投げ出しては何も始まらないので気を取り直した。
「とにかく、マスターの命令に従ってよ。脅すようではあるけど、コジロウが一緒に来てくれないと、私が迷子になってどうにかなるかもしれないんだからね?」
「……了解した」
やや間を置いてから、コジロウはようやく納得してくれた。だが、つばめは少々不本意だった。自分が危険になると脅さなければ、コジロウを動かせないのだから。まるで、他人の気を惹きたいがためにわざわざ危ないことをする幼子のようではないか。二人の関係は対等ではなく、型に填った主従関係なのだと思い知らされる。
「じゃ、行こう」
何気ない仕草を装ってつばめが手を差し出すが、コジロウは手を差し出してこなかった。
「その行動に意味は見受けられない。本官はつばめの背後に控えて行動すべきだ、隣り合っては危険だ」
「……馬鹿」
それはそうかもしれないが、気持ちの問題だ。つばめは顔を背けると、コジロウは律儀に言った。
「本官の情報処理能力と記憶容量は人間の平均的な能力の百二十八倍に相当している。よって、その語彙に相当する評価を受けるに値しない」
「あーもう、もういいっ、さっさと行くよ!」
いちいち悩み、戸惑う自分が急に情けなくなって、つばめはコジロウの手を強引に取って歩き出した。コジロウはつばめの思い掛けない行動に面食らったのか、少しつんのめりながらも後を付いてきた。最初からこうしていれば、余計な手間を取らずに済んだのに。コジロウに情緒的なリアクションを求めすぎていた自分を反省しつつ、つばめは彼の冷たく角張った手を握り締めた。その手が大きすぎるので人間同士のように握り合えず、つばめはコジロウの人差し指と中指を掴んでいるだけだった。コジロウは握り返してくる気配すらなく、それがまた空しかった。
エレベーターやエスカレーターに乗るとコジロウの体重で停止させてしまいかねないので、階段を昇って移動した。二階を通り越して三階に到着すると、ファッションを専門とした店がいくつも並んでいた。大型量販店直営の店には安いだけで可愛くもなんともない服ばかりが陳列されていたが、都心部でもよく見かけるブランド店にはそれなりに値は張るが目を惹く服が置いてあった。つばめはコジロウの手を握ったまま、ティーン向けの店を覗いてみた。
「うーん」
店の外に出されている商品の値札を見てみると、どれもこれもおいそれと手の出せない値段だ。それがブランドというものであり、値が張るだけ質がいいのだから当たり前ではあるが、どれか一つ買ってしまえばお小遣いが一気に飛んでしまう。となれば、路線を変更した方がいい、とつばめは即座に判断して身を翻した。
「次行こう、次」
「了解した」
つばめが手を引っ張ると、コジロウは一歩遅れて付いてきた。それから、つばめはコジロウを引っ張って目に付いた店を全て回ってみたが、手の届く値段のものは今一つ気に入らず、これは可愛いと思った服の値札を見てみると盛大に予算オーバー、の繰り返しでショッピングにはならなかった。見て回るだけでも楽しいと言えば楽しいのだが、やっぱり買った方が何倍も楽しいに決まっている。
三階のフロアをぐるぐると歩き回ること数回、つばめは買いたい服をいくつか絞り込みはしたが、これだけは絶対に欲しい、というものを見つけ出せなかった。歩き疲れたこともあってエレベーターホール前の休憩スペースに来たつばめは、ベンチに腰を下ろした。荷物持ちとして連れ出された父親達が、所在なさそうに暇を潰している。手近な自動販売機で買ったレモンスカッシュで喉を潤しながら、つばめは目の前に立っているコジロウを見上げた。
「ごめんね、何度も同じ場所を歩き回らせちゃって」
「問題はない」
コジロウは首を横に振ってくれたが、つばめはなんだか申し訳なくなった。いくらロボットと言えども、同じことを延々と繰り返しているだけでは嫌気が差すだろう。だが、ロボットはその単純作業を繰り返すために造られた機械であるわけで、となれば嫌だと思う理由がないのでは、とも考えたが、申し訳なさは拭えなかった。
「よし、路線変更しよう」
つばめは飲み終えたレモンスカッシュの缶をゴミ箱に入れてから、コジロウの手を取った。
「路線変更、とは」
コジロウに聞き返され、つばめは店内見取り図を指した。
「コジロウのものを買うの! メンテナンスに必要なもの、前に買おうと思ったけど買いそびれたから」
「本官の機体は自己修復機能によって」
「それは内側のことでしょ。それに、先生もコジロウのことを世話してやれって言っていたし。ね、いいでしょ?」
つばめが畳み掛けると、コジロウは意外にもすんなりと納得してくれた。
「一乗寺捜査員の判断に基づいた行動であれば、了解すべきだ」
「どうせ私の判断は頼りになりませんよ」
つばめは拗ねそうになったが、コジロウを相手にケンカしても非生産的極まりないのでぐっと押さえ込んだ。そうと決まれば行動は早い方がいい、とつばめはコジロウの手を引いて二階のフロアに下りた。ホームセンターには一歩劣るが、多種多様な日用品が陳列されていた。ロボットの整備用品は車の整備用品と共通している、と一乗寺から聞いていたので、つばめは迷わずそちらに向かっていった。
だが、何が何だか解らなかった。車の整備はおろか機械をいじったことのないつばめにとっては、どの道具が何の用途を果たすのかすら見当が付かなかった。コジロウに質問すれば何がどれだけ必要だとすぐに答えてくれるのだろうが、聞いた傍から不要だと言い切られそうで、質問する勇気が出なかった。かといって、大見得を切って来た手前、訳が解らないから帰る、というわけにはいくまい。さてどうする。
「あの」
不意に話し掛けられ、つばめは心底驚いた。
「えっ、あっ!?」
すると、すかさずコジロウがつばめを背にして身構えた。コジロウの上腕越しに声の主を窺うと、そこにはつばめと同い年であろう少女が立っていた。少しクセのある長い髪をサイドテールにしていて、大人しげな顔付きだが首から下は流行りの服ではなく、油染みの目立つツナギの作業服を着ていた。使い込まれた軍手もベルトにねじ込まれており、作業服を随分と着慣れている感じがする。
「ちょっといいですか? この子、稼働してどれぐらい経ちます?」
少女はコジロウを指してきたので、つばめは臆しながらも答えた。
「一ヶ月弱、かな」
「さっきの歩き方を見ていて気付いたんだけど、右足のダンパーが少し曲がっている気がして。あと、骨盤に当たる部分のデフギアの潤滑油が切れかけているような……」
少女はじっと目を凝らし、コジロウを見回してくる。単語の意味が解らず、つばめはきょとんとする。
「え? それ、何?」
「あ、余計な御世話だったらごめんなさい。でも、どうしても気になっちゃって」
うちの会社のロボットみたいだし、と少女が付け加えたので、つばめは目を丸めた。
「コジロウって、あなたの会社で作ったの?」
「厳密に言うと、お父さんだった人が造った会社の製品を元にして警官ロボットを量産した、というかで」
迷惑でしたね、と少女が苦笑いして去ろうとしたので、つばめは彼女を引き留めた。
「待って!」
つばめは少女の袖を掴み、懇願した。
「ロボットに詳しいんだったら、整備のこととか教えて下さい!」
少女は戸惑い気味に目を丸めたが、つばめの必死さに負けたのか、その場に留まってくれた。コジロウはそんな二人を見比べたが、話し掛けられなかったので黙っていた。コジロウを整備してやりたくても訳が解らないのだから、訳が解っている人間に聞くのが確実だ。ちゃんと整備してやれば、コジロウは喜びはしないかもしれないが、つばめに対する評価が変わるかもしれない。そう思ったつばめは、少女を食い入るように見つめた。
少女はつばめよりもコジロウが気になっているのか、警官ロボットを舐めるように見回した後、つばめの申し出を承諾してくれた。そして、小倉美月だと名乗った。つばめも名乗り返し、改めてコジロウを紹介した。
ただの護衛ロボットではなく、家族として。
二人と一体は、四階のフードコートに移動した。
様々なフレーバーが売りのアイスクリームショップで二段重ねのアイスクリームを買ってから、つばめは美月と同じテーブルを囲んだ。つばめはラムレーズンとレモンシャーベットを選び、美月はストロベリーとクッキーアンドクリームを選び、コーンではなくカップに入れてもらった。長話になりそうなので、手で持っていては疲れると判断したからだ。コジロウは二人の少女を見守るように、壁を背にして直立していた。通路側では往来の邪魔になるからだ。
「で、その、コジロウっていうか警官ロボットって、美月ちゃんちの会社で造っていたの?」
同い年だと解ったのでつばめが語気を和らげると、美月もアイスクリームを突きながら同調した。
「うん、そうなんだ。でも、全部が全部ってわけじゃないの。ほら、レースカーでもよくあるじゃない、車体とエンジンが別の会社ってのが。あれと一緒でね、警官ロボットは色んな会社に部品を発注して出来上がっているんだ。うちの会社が造ったのは主にフレームで、ダンパーもいくつか手掛けたかな」
「おお、凄い!」
「そんなに大したことじゃないって。でも、頑丈で無駄のないフレームを造るためには他の部品との兼ね合いも上手くさせる必要があったから、全部の構造を把握していなきゃいけないの。まあ、当たり前だけどね。だから、それまで人型重機を造り上げてきた技術を応用して、小型化して、生産したの。七百体は生産したかな」
「で、コジロウもその中の一つってこと?」
「んー……」
美月はストロベリーのアイスクリームを一さじ掬って舐め、眉根を顰めた。
「ちょっとだけ違う、かなぁ。フレームは言わば骨格だから、プロポーションを見ればどのメーカーが造ったのかってことは大体解るんだけど、この子は関節回りのセッティングの過激さに比例しない細さなんだよね。だけど、型は間違いなくうちの会社のやつ。内部構造が頑丈なのかな、でも、外装がスレンダーだしなぁ……」
「それって、コジロウが変ってこと?」
「ああ、そういう意味じゃないの。釣り合っていない、っていうか、そんな気がして。ほら、パワーの出る車はそれに応じた足回りをしているでしょ? タイヤも太くなるし、馬力を上げるためにエンジンも大きくなるし、そうなると車体自体も大きくなるし。で、コジロウ君はかなり静音処理が施されてあるみたいだけど、それでもギアの噛み合う音とかは隠し切れないじゃない。ギア自体の大きさが違うと、ギアの音も大分違うっていうか」
美月は早口で喋りながら、ストロベリーのアイスクリームを黙々と食べていく。
「基本的には人型ロボットは五〇馬力って決まってんだよねー、法律で。小型の車よりちょっと強いぐらい。でないと重たいモノも持ち上げられないし、速く走れないから。人型重機は大きさにも寄るけど、五百馬力が基本だね。うちのレイガンドーもこの前まではそうだったし。だけど、コジロウ君のはギアの大きさからして五百馬力よりもありそうな感じがするんだよねー。でも、そんなにどでかいパワーの馬力を出せるエンジンを積める体格じゃないじゃん? 右足のダンパーが曲がっていたのも、たぶんそのせいだね。体格とパワーが釣り合ってなさすぎだから、下手なことをさせたら爆発しちゃうんじゃないの? ワンオフ機にしたって、こんなに過激なのは見たことないわ」
「……爆発?」
つばめが半笑いになると、饒舌になってきた美月は頷く。
「爆発。するよ、普通に。車だってエンジンの整備不良でエンジンから発火してガソリンに引火してー、って事故は昔から一杯あるし、人型ロボットだってエンジンを積むようなタイプが造られた当初は何体も吹っ飛んだんだから、珍しくもなんともないよ。小型化すればするほどセッティングが難しくなるからね。水素エンジンにしたって同じだし、人型重機も試作段階の頃はボンボン吹っ飛んだんだから。でも、それが急に落ち着いたんだよね」
「それって、三年前のこと?」
「あれ、知っているの?」
美月は少し驚いてから、クッキーアンドクリームのアイスクリームにスプーンを差し込んだ。
「警官ロボットのフレームを受注する時にさ、警官ロボットの設計技師って人がロボット生産業界に公布したんだよ、設計図とか色々な情報を。しかも、全ての企業に平等に。もっとも設計図はそれ以外にもあって、それで特許を取っていたからどうってことなかったらしいんだけどね。でも、その設計図のおかげでこれまでの人型ロボットの問題点とか行き詰まっていた点が一切合切解消されて、生産ラインに乗せられたってわけ」
「へ、へえ」
それはたぶん、祖父のことだ。つばめがどうリアクションしたものかと迷っていると、美月はスプーンを振る。
「革新的すぎて、最初は誰もその設計図に手を付けようとしなかったんだ。それと、無名の設計技師に先を越されたのが悔しくて、その道の人ほど突っぱねていたってのもある。うちのお父さんもそのクチだったけどさ、生産ラインに乗せられなくても一応組んでみようってことで試作機を造ってみたんだけど、それがまた凄くて。金属で出来た人間みたいに滑らかに動いてさー……。って、ああ、まあいいや、その辺の話は。本題からズレすぎだし」
美月は身を引き、気まずげに眉を下げた。
「で、コジロウ君の整備のことなんだけど、私は口で言うほど詳しくないの。ごめんね、変に期待させちゃって。私はお父さんが仕事をしているところを後ろから見ていただけだし、さっきべらべら喋ったことだってほとんどがお父さんの受け売りなんだ。今だって、人型ロボットを組み上げるのに行き詰まって、散歩がてら道具を見に来たの」
受け売りであろうと、つばめからしてみれば美月の知識は充分奥深かった。父親の仕事ぶりを間近で見て育ってきたのが良く解る。それが素直に羨ましくて、つばめは微笑んだ。
「小倉さんって、お父さんと仲良いんだね」
「昔はね。でも、今は全然。うちの親、近々離婚するだろうし」
寂しさと切なさを腹立たしさで内包した語気で、美月は吐き捨てた。つばめは気まずくなり、謝る。
「ごめん。会ったばかりなのに、そんなこと言わせちゃって」
「いいよ、気にしないで。誰にだって何かしらの事情はあるんだしさ。こっちこそごめんね、私が変なことを言ったからその気にさせちゃって」
「そんなことないよ、私の方こそ失礼だったよね」
つばめが苦笑すると、美月は少しばかり口角を緩める。
「ううん、全然。でも、嬉しいな。少し前にこっちに引っ越して転校してきたんだけど、まだ学校に全然馴染めないし、結構方言がきついから言いたいことが上手く通じないしでさぁー。お母さんの実家が一ヶ谷だから、お盆とお正月に来てはいたんだけど、遊びに来るのと住むのとじゃ大違いだから。だから、佐々木さんと色々と喋れて嬉しいっていうか、なんかスッキリしたよ。ロボットのことも一杯話せたし」
同じ学校じゃないのが残念だな、との美月の呟きに、つばめも残念がった。
「だよねー。そればっかりはどうしようもないけどさ」
「で、ついでだから聞くけど、コジロウ君の人工知能ってどのぐらい育っているの?」
明るい態度に切り替えた美月に問われ、つばめは少し考えてから答えた。
「三年前から稼働しているらしいけど、詳しいことはよく知らないんだ。でも、出来上がっているのは確かだよ」
「うちにはね、レイガンドーってロボットがいるんだ。レイはね、私より年上なの。元々は人型重機を試験稼働させるために作った人工知能で、スクリプトも単純だったんだけど、毎日毎日話し掛けて色んなことを経験させていったら、すっかり人間っぽくなったんだ。今でこそ落ちぶれちゃったけど、本当に立派なの、レイは。だから、今度は私の手でレイを生かしてやるんだ。さすがに人型重機を一から組むのは無理だから、ジャンク品を掻き集めて新しいボディを造ってやっているの。完成するのはまだまだ先になるだろうけど、出来上がったら見てほしいな」
「誰に?」
つばめの問いに、美月は口を開きかけたが閉じた。お父さんに、とでも言おうとしたのだろう。どんな事情があって両親が離婚することになったのかは計りかねるが、美月が寂しいのは間違いなさそうだ。付き合いの長いロボットに執心することで気を紛らわしてはいるが、振り切れているわけではないのだ。つばめは一度コジロウに振り返ったが、コジロウはつばめに無機質な目線を注いでいるだけだった。許可を求めるとまた面倒なことになりそうなので、つばめは完全な独断で話を切り出した。
「ねえ、小倉さん。良かったらでいいんだけど、友達になってくれないかな。私もこの辺に引っ越してきたばかりで、友達なんて一人もいないんだ。コジロウは友達じゃないし、その、なんていうか、盾だから」
「いいよ! 私の方こそ、佐々木さんとはもっと話したいなって思っていたし。じゃ、アド交換しよっか」
作業服のポケットを探って携帯電話を取り出した美月に、つばめは気後れしつつ言った。
「あ、ごめん。私、携帯持ってないんだ」
「うわ、めっずらしー。でもまあ、そういう人もいるか。んじゃ、これを」
美月は携帯電話からホログラフィーを投影し、自分のアドレスを見つつ、胸ポケットからサインペンを抜いて手元の紙ナプキンに電話番号とメールアドレスを書き込んだ。それを折り畳み、つばめに差し出してくる。
「時間がある時でいいから、連絡してね」
「うん。絶対」
紙ナプキンを受け取ったつばめが快諾すると、美月はホログラフィーの時刻表示を見、腰を浮かせた。
「あー、もうこんな時間。そろそろ家に戻って田んぼの手伝いもしないといけないんだった。じゃ、またね!」
食べかけのアイスクリームが入ったカップを大事そうに両手で持ち、美月はフードコートを去っていった。つばめは美月の背に手を振っていたが、その姿が雑踏に消えたのを確認してから怖々とコジロウを見上げた。彼はつばめの無計画な行動を咎めてくるかと思ったが、何も言わなかった。ほっとしたつばめは、溶けかけのアイスクリームを手早く食べ終えてしまうと、立ち上がった。
「小倉さんとはいい友達になれるといいな。コジロウもそう思わない?」
「本官は個人的な交友関係には立ち入る権限を持ち合わせていない、よってその質問には答えられない」
「小倉さんのロボットが出来上がったら、見せてもらおうよ!
レイガンドーにも会ってみたいな」
「未成年が違法改造を施した人型ロボットを無許可で所有するべきではない」
「ああいうのって車と一緒で、私有地ならOKなんじゃないの? だから、家の外に出さなきゃいいんじゃない?」
つばめが指摘すると、コジロウは若干の間の後に返した。
「その条件であれば、条令には違反していない」
「となれば、小倉さんちに行くことが決定したね。まあ、あっちにも都合があるだろうから、行けたらでいいんだけど。友達に家に行くなんて初めてだなぁ、うわー、考えただけでドキドキする」
つばめがはしゃぐと、コジロウが訝しげに聞き返してきた。
「初めて? つばめのような年代の青少年は、クラスメイトと密接な交友関係を持つものではないのか?」
「普通ならね。でもほら、私って生まれも育ちも普通とは言い難いでしょ? だから、特別仲良しの友達なんて作ったことなかったんだ。だから嬉しいな、本当に」
「つばめが嬉しいのであれば、本官はこの件には言及しない」
「へ?」
コジロウらしからぬ語彙につばめが目を丸めると、コジロウは心持ち目線を逸らした。ような気がした。
「情緒的な判断が求められる事態に対しては、本官は対処が出来ない。よって、小倉美月との交友関係についてはつばめに一任する。前マスターの設定と過去の事例を顧みた判断に基づき、本官はそう判断し、決定する」
「うん、ありがとう」
気を遣ってくれたのだ、と理解したつばめが明るく笑うと、コジロウは更に目を逸らした。ような気がした。
「感謝を述べられる理由が見受けられない」
その決まり切った答えがありがたいようでいて、少しばかり寂しかった。つばめが誰と仲良くなろうと咎めないのはとても嬉しいし、安堵するのだが、常に隣にいてくれて身を挺して戦ってくれているコジロウを突き放してしまうような気がした。コジロウには感情はないのだから、それが寂しいと感じるはずもないのに。つばめが勝手に彼の心中を想像して、自分に都合の良い答えを出しているだけなのに。
「買い物、ってほど買い物はしていないけど、付き合ってくれた御礼にコジロウのものを先に買おうか」
「本官には私物など不要だ」
「ステッカーとかどうかな。あんまり目立つのだと格好悪いけど、小さいのを貼るだけなら邪魔にもならないし」
コジロウが二の句を継ぐ前に、つばめはコジロウの手を引いて歩き出した。
「じゃ、また二階に行こうか!」
そう言ってつばめは階段を下りていこうとしたが、ふと違和感を覚えた。先程食べたアイスクリームのせいなのか、トイレに行きたくなった。幸いなことに踊り場に隣り合った場所にトイレがあったので、つばめはコジロウにその場で待機しているように命じてから女子トイレに入った。手早く事を済ませて出てくると、男子トイレから出てきた二人の男と鉢合わせした。片方は見覚えがある、人間体の藤原伊織だ。
「んなっ!?」
不意打ちだったため、つばめは声を裏返して後退った。いくつものアパレルショップの紙袋を下げている伊織は、物凄く面倒臭そうな顔でつばめを睨み付けてきた。伊織にやる気がないのはいつものことではあるが、色々な意味で無防備なつばめと合わせても襲い掛かろうとしてこない辺り、余程何かにうんざりしているのだろう。
「あれまあ」
伊織を押し退けて顔を出したのは、吊り上がった目と尖った顎が爬虫類じみた印象をもたらす青年だった。青年はつばめのことを知っているのか、獲物を値踏みするように見回してくる。つばめは更に後退り、女子トイレに入る。だが、青年は事も無げに女子トイレに踏み込んできた。そればかりか、つばめのツインテールの片方を掴んだ。
「痛っ!」
足が浮き上がるほどの腕力で髪を引っ張られ、つばめは悲鳴を上げる。青年は華奢な体格ながらも恐るべき力で、つばめを壁に押し付けてきた。ぬめついた双眸を見開き、薄い唇を弓形に広げていく。
「この僕を忘れたとは言わせないからな、この僕を、だ」
「まさか、あのヘビ男……?」
その変な言い回しをする人間は、いや、怪人は二人といない。髪が引き抜かれそうな痛みで涙目になりながらも、つばめが答えると、ヘビ男は満足げに頷いた。
「そう、その僕さ。多少計画の手順は前後するけど、この僕が大いに実績を上げるっていう事実は何も変わらない。そうだねぇ、このまま頭皮ごとざっくり髪を切ってしまうのもいいけど、それじゃ血が無駄になる。皮膚を傷付けずに頭蓋骨だけ割って脳挫傷でも脳内出血でも起こしてしまえば、暴れないから運ぶのが楽だね。うん、そうしよっか」
ねえクソお坊っちゃん、とヘビ男が伊織に同意を求めて振り返ったが、伊織は口で答える代わりに行動で示した。スニーカーを履いた長い足を大きく振ってヘビ男の側頭部を薙ぎ払い、壁に叩き付けた。ひぎっ、との短い悲鳴が目の前で聞こえた後、つばめの頭皮には小さくも鋭い痛みが連続して訪れた。傷む箇所を押さえながら、つばめがヘビ男を窺うと、ヘビ男の左手にはつばめの髪が数十本握り締められていた。蹴られた際の勢いで、髪が一気に引き抜かれてしまったのだ。
「ウゼェんだよ、クソが。てめぇには飽きた」
伊織は壁際に詰め寄ると、真新しいがやたらと派手な服を着ているヘビ男の胸を蹴り付けた。躊躇いもなければ手加減もない、純然たる暴力だった。ヘビ男は盛大に咳き込んでから、涙の滲んだ目で伊織を見上げる。
「あー……ちょっとは痛い、かもねぇ。でも、こんなのは全然効くわけがぁっ!?」
ヘビ男の言葉を遮るように、伊織はその頬を靴の側面で打ち付けた。ヘビ男の頭部が、吹き飛びかねない勢いで逸れて壁に激突する。その後も、伊織は不機嫌極まりない顔でヘビ男を蹴り続けていた。伊織の靴底はヘビ男の返り血が染み付き、肉と骨が殴られる生々しい音が繰り返される。心中が冷えていく光景だった。ヘビ男もつばめに対して危害を加える輩ではあるが、それが痛め付けられていても晴れやかな気持ちにはならなかった。それどころか、今までの襲撃ではあまり感じなかった畏怖が手足を竦ませてきた。壁沿いに後退り、伊織から距離を取っていくだけで精一杯だった。走って逃げるなんて、無理だった。
「おい、佐々木のメスガキ」
痣と出血にまみれたヘビ男の襟首を掴んだ伊織に呼び止められ、つばめは硬直した。
「あ、うっ」
「俺がてめぇを助けるわけねぇだろ。このヘビ野郎に飽き飽きしたってだけだ。そこんとこを勘違いしやがったら、その首を刎ね飛ばしてやる。ついでに、お嬢には言うなよ。始末書とか書かされるに違いねぇからな」
「ん、うん」
まともに声すら出せず、つばめは頷くだけで限界だった。行けよ、と伊織に顎で示された途端に手足に力が戻り、つばめは転げ出るように女子トイレから飛び出した。律儀に待っていてくれたコジロウに駆け寄ると、つばめはその手を握って二階に下りた。だが、ヘビ男に一方的に暴力をぶつける伊織の姿が忘れられず、恐怖も消えず、ベンチに座り込んでしまった。楽しいデートになるはずだったのに、美月とも出会えて嬉しかったのに、あの二人さえこの店に来ていなかったら、楽しくて嬉しい気持ちで一日が終わるはずだったのに。
髪が千切られた箇所を押さえて、つばめは唇を噛んだ。コジロウはつばめを見つめてきたが、その真摯な視線が耐えきれずに顔を逸らした。伊織とヘビ男の所在を伝えれば、コジロウはすぐさま飛んでいって二人を叩きのめすだろうが、原則的に対人戦闘が許可されていないコジロウは怪人体ではない伊織達とは戦えないだろうし、何よりもコジロウに伊織と同じことをさせるのが嫌だった。彼の戦いは伊織とは違うと頭では解っているが、心が拒絶した。
「負傷したのか、つばめ」
コジロウが片膝を付いて目線を合わせてきたので、つばめは笑顔を作って取り繕った。
「うん。さっき、トイレの中でちょっとぶつけちゃったの。でも、なんでもないから、気にしないで」
「そうか」
「そうなの、ほら行くよ! お姉ちゃんが迎えに来てくれるまでの間に、やりたいこと、全部やらないとね」
空元気を出し、つばめは立ち上がってコジロウと手を繋いだ。冷たく太い指を握り締めると、痛みは紛れずとも、体が竦むほどの恐怖は多少紛れた。楽しいことだけ、嬉しいことだけ、考えていればいい。
それからつばめは、一日中笑っていた。これまでもそうしてきたのだから、これからもそうしていけばいい。他人と違う人生に生まれ付いたのだから、どんな目に遭っても自力で踏ん張れるようにならなくては。カー用品売り場にてコジロウに似合いそうな図柄のステッカーを選び、買ってやった。出し惜しみしていたお小遣いを使い、これは素敵だと思った服も買った。派手すぎず地味すぎないデザインのヘアアクセサリーも買った。その度にコジロウに意見を求め、答えを求め、言葉を求めた。コジロウに心が生まれることを期待してはいけない。けれど、コジロウがつばめの心の内を理解してくれたら、こんなにも嬉しいことはない。だから、小さなことを少しずつ積み重ねていこう。
コジロウを、ただの道具に貶めたくないからだ。
無事に帰宅し、夕食も終え、風呂にも入り、後は寝るだけという頃合いになった。
ヘビ男の手で髪を引き千切られた部分の痛みを気にしつつ、つばめは洗った髪をタオルで拭っていると、神経質に尖った美野里の声が聞こえてきた。物件探しが上手くいかなかったのか、それとも一ヶ谷市で個人事務所を開くことを両親に咎められたのだろうか、と気になったつばめは、足音を殺して音源に近付いていった。
半開きになったふすまの奥で、居間でコジロウが正座していた。その前に仁王立ちしている美野里は、いつになくいきり立っていた。その声色には、ストレートな怒りが漲っていた。
「どうしてちゃんとあの子を守ってやれないのよ、あなたが目を離した隙にどんな目に遭ったか解っているの!?」
自分まで怒られているような感覚に襲われ、つばめは暖まっていた体が一気に冷え込んだ。美野里はコジロウが反論しないと知ると、ますます声のトーンを高ぶらせる。
「ジャスカの警備員を経由して一乗寺先生のところに報告があったんですってね、あの伊織って奴とヘビ怪人の男が女子トイレで派手にケンカしていたって。二人が出てくる前に、つばめちゃんが逃げ出してきたのが防犯カメラに映っていたそうよ。目立ったケガはしていないけど、絡まれたのは間違いないわ。さすがにトイレの中にまで付いていけとは言わないけど、下手をすれば全部台無しになるところだったのよ? どこの企業にしても、つばめちゃんがあいつらの手に落ちたら取り返しが付かないのよ! それと、あの小倉美月って子にしてもそうよ!」
美野里はコジロウの目の前に、携帯電話から投影したホログラフィーを突き付ける。そこには、吉岡りんねと同じ制服を着て同じ集合写真に写っている美月が映し出されていた。
「吉岡りんねのクラスメイトだったってことは、コジロウ君が知らないはずないでしょ! 政府から情報が流れてくるんだから! なのに、なんで友達になることなんか許したりするのよ! どうせ騙すつもりで近付いてきたに決まっているわよ、まともな友達になれるはずがないじゃないの、上っ面だけ調子を合わせてきてお金を毟り取っていくのがオチよ、そんなことになるぐらいだったら最初から会わせないようにして! それぐらい出来るでしょ、ねえ!」
美野里の痛烈な罵倒とその中身に打ちのめされ、つばめは畳に座り込んだ。コジロウを庇ってやりたい気持ちではあったが、美月がりんねとクラスメイトだったと知った衝撃の方が大きかった。結局、そういうことなのか、と。
「いいこと、コジロウ君。人を守るっていうのはね、物理的に守るだけじゃダメなのよ。これ以上辛い目に遭わせないために手を回しておくのも、守ることなのよ。その出来のいい人工知能で、きっちり考えておくことね」
美野里は息を切らせていたが、叩き付けるように言い捨てて身を翻した。つばめが座り込んでいる部屋とは違う部屋に繋がるふすまを開けた美野里は、大股に歩いて自室に戻っていった。つばめは立ち上がることすら出来ず、膝を抱えて俯いた。ふすまの隙間からコジロウを横目に窺うと、コジロウはコジロウなりに考え込んでいるのか正座を崩さずに座り続けていた。美野里から立ち上がるなと命じられたからかもしれないが、痛ましかった。
今日の出来事に、コジロウには不備はない。美月と友達になりたかったのはつばめの意志だし、伊織とヘビ男と鉢合わせしたのはただの偶然だ。美野里はつばめが心配でたまらないのだろうが、あそこまできつく言うことはないだろうに。守られているのは解っている、大事にされているのも解っている、けれど。
積み重ねようとした傍から、蹴散らされてしまった。