佐々木家の一族
――――老いた男が、命を終えた。
浅く吸い込んだ息は干涸らびた唇に収まりきらず、痩せ衰えて落ち窪んだ目は瞼に塞がれた。枯れ枝も同然の手が握り締めていた愛妻の帯が抜け落ち、布団の傍で鮮やかな渦を巻く。男の枕元に控えていた医師は、腕時計を見て死亡時刻を確認し、告げてきた。その言葉を受けた者は膝の上握っていた拳を更にきつく固めると、深々と一礼した。医師を見送った後、男が生前に準備を終えていた葬儀業者や関係者への手配を行えてから、その者は古びた家を出た。合掌造りの茅葺き屋根は夜明け前の淡い月明かりを背負い、静かに主の死を悼んでいた。
その者に残された時間は少ない。軋む膝を曲げ、動きの鈍い体に鞭打ち、納屋に向かう。立て付けの悪い引き戸を強引に開け放つと、その者の薄い影が藁束の山に落ちた。藁束の山を無造作に散らすと、その下から合金製の棺が現れた。主の棺ではない、その者の棺だ。鈍色に輝く長方形の牢獄を開くと、冷え切った闇が外界を覗き返してきた。その者は躊躇いもなくその中に身を収めると、内側から蓋を閉めた。
熱が引いていく。力が抜けていく。世界が遠のいていく。しかし、その者は何も感じない。寂寥も、恐怖も、悲哀も、孤独も、空虚さえも。新たな主が現れるその日まで、束の間、眠りに落ちる。だが、新たなる主が現れなかったら、主が現れたとしてもその者を必要としなかったら、そもそもその者の力を求めなかったら、その者だけでなく全てを放棄したとしたら、という懸念を覚えたことはない。その者にとっては、懸念すらも不要だからだ。
ただ一つ必要なのは、力を欲する力だ。
「今朝方、あなたの御爺様が亡くなられたわ」
誰に対しての言葉か、一瞬理解出来なかった。備前美野里は新聞を広げていて、コーヒーを片手に記事の文面を目で追っている。中途半端に囓ったトーストを噛み切り、咀嚼したが、つばめは混乱した。ダイニングテーブルを囲んでいるのは自分と美野里だけであって、両親はいない。大口の仕事の処理に手を焼いているから、ここ数日は深夜に帰宅して早朝に出勤しているので、ろくに顔を見ていないほどだ。美野里は新聞越しに目を上げる。
「そういうことだから、今日は学校はお休みね。だから、食べ終わったら準備して」
「ちょっ、ちょっと待ってよお姉ちゃん!」
つばめは戸惑い、腰を上げる。そんなこと、今の今まで聞いたこともなかった。
「私にお爺ちゃんがいたの!? なのに、なんで今になって連絡が来るの!?」
「亡くなられたからよ。御長男とは連絡が付かないから、喪主はつばめちゃんね」
「モシュ!?」
「模試でもモスでも猛者でもなくて、喪主よ。弔辞を読んだり、弔問客を相手にしたり、まあ色々と仕事があるから、ちゃんと食べておきなさいね。その辺の原稿は私が適当に見繕ってあげるから」
「で、でも……急にそんな……」
「いいから、早く食べる。八時半には家を出るからね、お通夜の準備もしなきゃならないもの。今日がお通夜で明日がお葬式、明後日が納骨だからね。忙しくなっちゃう」
コーヒーを飲み終えた美野里は新聞を折り畳むと、リビングのストッカーに投げ込んだ。つばめは混乱に次ぐ混乱で目眩がしそうだったが、とりあえずトーストの続きを食べた。
母親、というか、美野里の実の母親である備前景子が毎朝ホームベーカリーで焼いているパンは、小麦の甘みと程良い香ばしさがおいしいのだが、その味が解らなくなるほど狼狽していた。残りの温野菜サラダとボイルしたウィンナーはカフェオレで流し込み、デザートのバナナ入りヨーグルトももちゃもちゃと機械的に咀嚼して飲み下してから、食器を片付け、つばめはテーブルを離れた。
ふらつきながら自室に戻り、壁掛け時計に目をやると、午前七時四十八分だった。今から登校すれば地元の公立中学校の始業時間に充分間に合う。通学カバンの中には予習済みのノートや提出物やクラスメイトと交換するために書いたファンシーなメモ書きや内ポケットにこっそり忍ばせた飴玉も入っているし、スポーツバッグの中には部活で使うタオルやジャージ類も入っている。だから、それらを抱えて今すぐ家を飛び出してしまえば、何事もなく日常を送れることだろう。何かの間違いだったと美野里が謝ってくる展開も期待したい。だが、心構えは出来ていた。
「まー、こういう展開が来るとは思っていたけど、ちょっと予想より早かったかな」
つばめは苦笑し、タンスからパンダのぬいぐるみを出した。何せ、自分だけ名字が違うのだ。美野里とその両親は備前だが、つばめだけが佐々木だ。どういった経緯で備前家にもらわれてきたのかは覚えていないが、物心付く前からこの家で育てられていた。だから、子供の頃から常に引け目を感じていた。両親はつばめを可愛がってくれているし、塾に通わせてくれたり、遊びに連れて行ってくれたりと、人並みに手を掛けて育ててくれているのだが、実子である美野里のようにはなれないと早くから理解していた。
だから、つばめは誰とも角を立てないように生きてきた。両親の顔色を窺い、美野里の顔色を窺い、周囲の顔色を窺い、普通であることに尽力した。その甲斐あって、家の中では可もなく不可もない末娘のポジションを獲得し、学校でも無難に立ち回れていた。決して楽なことではないが、自分はそうやって世間に埋没して生きていくのだ、と思えると、血縁者のいない不安定感が紛れてくれた。
けれど、血縁者がいたとなると話は別だ。どうして今の今まで見つけてくれなかったのだろう、亡くなる前に連絡をくれなかったのだろう、独りぼっちにされたのだろう、実の両親はどうして自分を捨てたのだろう、という疑問や不安が頭の中を駆け巡ってくる。顔も名前も知らない祖父が亡くなったと聞かされてもなんとも思わなかったのに、そんなことを考え出すとなんだか急に切なくなってくる。が、同時に腹も立ってくる。
「大人なんて誰も頼りになりゃしないから、自分でしっかりするしかなかったんじゃないか」
背中を丸めて胡座を掻いたつばめは、パンダのぬいぐるみを裏返した。一抱えもある大きなぬいぐるみなので、尻の部分は楕円形で安定性が高く、綿もどっしりと詰まっている。その点を利用して、つばめは尻の部分の縫製を解いて物入れに改造したのである。手触りのいいアクリル製の体毛を掘り返すと現れるファスナーを引き、綿の間に張った布の中に手を突っ込むと、茶封筒が五つ出てきた。
「えーと、いくら貯まったかなーっと」
最も分厚い茶封筒を開き、覗き込む。これまでのお年玉や毎月のお小遣いを天引きし、執念深く貯めた現金の束だった。千円札も一万円札も数えやすいように十枚ごとにまとめておいたのだが、双方を合計すると十五束だった。それもこれも、備前家が上流家庭であるおかげだ。辣腕の弁護士である両親にいい顔をしたいがために美野里にお年玉を弾む知人達は、その延長で居候のつばめにもいい顔をしなければならないので、物心付いた頃からその恩恵に授かっていたのだ。もちろん、大人達から好かれるために愛想を振りまくのも忘れなかったし、酔っぱらいの戯れ言にも付き合い、お酌も進んでした。その結果、年をまたぐごとにお年玉の額が増えていき、中学生の身分には余りある貯金が出来上がったのである。
「んで、後は」
残りの茶封筒の中身は、住民票、国民健康保険証のコピー、実印、ぬいぐるみの腹の中貯金とは別口で貯めておいた預金通帳、実印、その他諸々。これだけの書類と現金があれば、たとえ顔も名前も知らない祖父の葬式後に放り出されても、なんとか生きていけるはずだ。
「よいせっと」
ベッドの下の引き出しを開け、大きめのショルダーバッグを取り出すと、その中にパンダのぬいぐるみを入れた。念のためにパンダの上にタオルを被せてからファスナーを閉めると、ドアがノックされた。返事をすると、早々に喪服に着替えた美野里が入ってきた。メイクも普段よりは大人しめで、長い髪もアップにまとめている。
「長丁場になるだろうから、着替えも持っていった方がいいわよ。そうね、そのバッグなら丁度良いかもね」
「はーい」
つばめは明るく返事をしてから、美野里を見送った。だが、ショルダーバッグの容積の八割はパンダのぬいぐるみに占められていて、これ以上物を詰めるのは難しそうだった。下着などは丸めて入れられるにしても、普通の服はほとんど入りそうにない。通夜、葬儀、納骨と最低でも三日間は同じ服を着続ける羽目になるだろう。思春期の女子として許し難いものがあるが、どうせ制服なのだから、と腹を括った。しかし、さすがに制服だけだと心許ないので、ファスナーを開いた状態で丸めたジャージの上下をねじ込んだ。
バッグの大きさに比例しない荷物の多さに美野里は怪訝な顔をしたが、問い詰めはしなかった。つばめは美野里の愛車である軽自動車の助手席に乗り込むと、一度備前家に振り返った。上流家庭に相応しい三階建ての立派な家で、つばめの部屋は美野里ほどではないが広かった。出窓もあればクローゼットもあり、床暖房も備わっていた。そんな家から放り出されませんように、と内心で願う一方、こうも思っていた。
他人の顔色など気にせずに生きてみたい、とも。
斎場に来るのは初めてだった。
美野里の運転する車から降りたつばめは、物珍しさに任せて見回した。既に準備はある程度整っていて、花輪が斎場の前に立て掛けられていた。吉岡グループ、フジワラ製薬、新免工業、弐天逸流、ハルノネット、親族一同、吉岡八五郎、とあった。吉岡グループの名を見た途端、つばめは目を剥いた。吉岡グループといえば、世界的に展開している大企業ではないか。その大企業の社長である吉岡八五郎の名は、新聞の見出しやニュースで見聞きするほどだから相当だ。祖父とは一体どんな関わりがあったのだろう、と悩みそうになると、美野里がせっついてきた。
「ほらほら、時間がないんだから早くしなさい」
「はーい」
つばめは自動ドアをくぐって斎場に入ると、葬儀会社のスタッフが出迎えてくれた。
「この度は御愁傷様でした」
「あっ、はい、どうも」
頭を下げられたのでつばめも条件反射で一礼すると、喪服姿の美野里が言った。
「葬儀のプランについてですが、先程御電話でお伝えした要領で進行して頂けますか?」
「承知いたしました。喪主様は、そちらの御嬢様でよろしいんですね?」
当然ながら喪服姿の男性スタッフがつばめを窺ってきたので、つばめは頷いた。
「はい、そうです」
「では、今一度御葬儀プランの打ち合わせをいたしますので、こちらにどうぞ」
女性スタッフが二人を促してきたので、二人は事務室に向かった。美野里と並んで応接セットに座ったつばめは、美野里とスタッフが交わす会話を上の空で聞いていた。備前家から斎場まで距離が遠かったので、軽く車酔いしたのもあるが、今更ながら人が死んだという事実に現実味が沸いてきたからだ。備前家にいた時は自分のことだけで精一杯だったが、事務室に入る前に葬儀会場を横目に窺った時、祭壇に横たえられている棺を目にしたのが原因だろう。あの中には昨日まで生きていた人間が入っていて、亡くなってしまったからあの中に収まっていて、その中の人間は自分と浅からぬ縁があって、と次々に考えてしまうと、なんだか心臓の辺りが締め付けられる。
人数分の緑茶が並んでいるテーブルには、美野里が広げた必要書類が並んでいる。祖父のものであろう古びた実印と戸籍謄本、死亡診断書、契約書、通夜と葬儀のプラン表、などがあり、つばめが署名捺印する書類も何枚もあるようだった。戸籍謄本から目が離せなくなったつばめに気付き、美野里はそれをつばめに渡してくれた。
「そうね、ちゃんと知っておいた方がいいでしょうね」
「ありがとう、お姉ちゃん」
つばめは祖父の戸籍謄本を受け取ったが、かすかに手が震えていた。佐々木長光、享年七十八歳。妻、佐々木英子、享年四十三歳。長男、佐々木長孝。その妻、佐々木ひばり、長女、佐々木つばめ。次男、吉岡八五郎。その妻、吉岡文香、その娘、吉岡りんね。
それを見ると、これまで感じてきた足場のぐらつきが消え失せ、世の中に自分という人間が受け入れられたような気がした。佐々木つばめという人間は、木の股から生まれたわけでもなければ橋の下で拾われたわけでもコインロッカーに詰め込まれていたわけでもないという、これ以上ない証拠だった。
「手続きは私が済ませておくから、つばめちゃんは御爺様のお顔を見てきたらいいわ。きっと喜ばれるわ」
美野里に微笑まれ、つばめは戸籍謄本を返してから頷いた。
「うん、そうする」
明日には葬儀が執り行われ、祖父は荼毘に付されるのだから。葬儀会社のスタッフもそうした方がいいと勧めてきたので、つばめは事務室を出て会場に入った。半分だけ閉まっている観音開きの扉を通って中に入ると、程良く空調の効いたホールには大量の椅子が並べられていた。照明はオレンジが基調となっていて、全体的に雰囲気を柔らかくしてあった。線香の残り香が鼻を掠めたが、気にはならなかった。
棺を運び出しやすくするためだろう、出入り口と祭壇の間は椅子の間隔が空いていた。絨毯にローファーの底を埋めながら歩いたつばめは、一段高い祭壇に近付いた。僧侶が経を上げるために必要な鐘や木魚が揃っていて、祭壇の奥には厳かな仏画が描かれた掛け軸が掛けられ、祭壇の左右には名札が付いている供花が飾られ、果物が盛られているカゴもあった。供花の名札の主は、正面玄関脇の花輪とまるで同じだった。
「えーと、こっちから行けばいいのかな」
つばめは祭壇の脇に昇ると、恐る恐る棺に近付いた。桐で出来た棺には白い布が掛けられていて、胸の位置に守り刀が斜めに添えられていた。顔の位置に付いているh小窓を開けようと手を伸ばしたが、何かが足にぶつかり、つばめは飛び退いた。それを見た途端、つばめは面食らった。
「……棺が二つ?」
祭壇の上には桐の棺が一つ、祭壇の下には金属製の棺が一つ。金属製の棺は異様に大きく、大人が二三人はすっぽり収まりそうなほどだった。縦の長さは二メートル半以上はあり、幅も一メートル近くある。鈍色の分厚い蓋には、穴が空いた四角形を菱形に並べた家紋が印されていた。それは祖父の棺にも印してあったので、佐々木家の家紋だとみて間違いなさそうだ。中身は十中八九人間の亡骸だろうが、こんなに大きい人間がいるのだろうか。
「てことは、お爺ちゃんともう一人死んだってこと?」
だとしても、どこの誰が。
「なんかやだなぁ」
つばめは顔をしかめながら、金属製の棺から遠のいた。桐の棺とは違い、こちらは無機質極まりない。見るからに頑丈そうで素材も分厚く、まるで戦車の装甲板で作ったかのようだった。つばめは金属製の棺に近付かないように腰を引きつつ、改めて祖父の棺に手を伸ばした。小窓を塞いでいる板をそっと持ち上げると、ドライアイスの冷気と共に老人特有の臭気がうっすらと漂ってきた。
そこにいたのは、枯れ果てた老翁だった。納棺師の手によって整えられた白髪が枕に埋まり、薄く弛んだ皮膚が頬骨に貼り付いていた。肌は生前は日焼けしていたであろう色合いだったが、死したことで血の気が失せていた。死に装束の合わせ目から覗く首筋と胸には肉は一切なく、骨の形が浮き彫りになっている。つばめはちょっとだけ躊躇ったが、手を伸ばして祖父に触れてみた。悲しいほど冷たく、弾力もなく、死を痛感させた。
「生きている時に、会いたかったなぁ」
つばめは祖父に触れた手を引くと、目尻に熱いものが滲み出したので、すぐさま拭った。
「なんだよもう、柄でもない」
肉親に会えたのが、少なからず嬉しかったのだろう。頬を叩いて表情を整えてから、祭壇の上に掲げられている遺影を見上げると、そこには穏やかな面差しの老人が収まり、つばめを見下ろしていた。棺の小窓を閉じ、つばめはその遺影を食い入るように見つめた。祭壇に供えられている水の入ったコップに映った自分の顔と、遺影の祖父を見比べてみると、どことなく輪郭が似ていた。同じ血が流れているのだと実感すると、また嬉しさが強くなる。
「失礼いたします」
不意に会場のドアがノックされ、声を掛けられた。
「うあっ!?」
「驚かせてしまい、申し訳ありません」
出入り口で、つばめと同じ年頃の少女が一礼していた。
「あ、いえ、私がぼーっとしていたのが悪いんで……」
気まずくなったつばめは取り繕ったが、少女が身に付けている制服に目が向いた。それは世界に通用する名門校と名高い大学付属校の制服で、つばめが着ているセーラー服など足元にも及ばなかった。落ち着いたダークグレーのブレザーはオフホワイトのパイピングで縁取られ、胸ポケットには立派な校章のワッペンが縫い付けられ、襟元に結んであるスカーフは上品な臙脂色で、短めのプリーツスカートはブレザーよりも少し明るめのグレーのチェックだ。そして、それを着こなしている少女は、洒落た制服を圧倒する容貌の持ち主だった。
「私は御爺様の次男である吉岡八五郎の長女、吉岡りんねと申します。以後お見知りおきを」
吉岡りんねが一礼すると、絹糸のように細く滑らかな黒髪が肩から零れ落ちた。その髪を耳に掛けながら上体を上げたりんねに、つばめは同性ながらも心臓が跳ねた。指先の白さと髪の黒さと、綺麗に切り揃えられた前髪の下から覗いた瞳の凛々しさに魅入られてしまった。顔付きは大理石の彫刻のように整い、僅かな幼さと匂い立つような色気が混じり合っている。声色は鈴を転がしたような、というよりも、ガラス製の楽器の音色のように儚さと力強さが相反せずに共存していて、音楽のようですらあった。身長はつばめよりも頭半分高く、手足も長ければ胸も大きい、完全無欠の美少女だった。近視用のレンズが填っている細い銀縁のメガネを掛けているが、それすらも王侯貴族の装飾品に見えてしまうほどだ。
「佐々木つばめです。えっと、一応喪主です」
戦う前から敗北した気分になったが、つばめは一礼して名乗り返すとりんねはしめやかに述べた。
「この度は御愁傷様でした。痛み入ります」
「ああ、どうも」
「つばめさん。御爺様と面識はおありなのですか?」
「いえ、全然。てか、今朝、お姉ちゃんに言われるまでは血縁者がいるなんてことも全然知らなくて」
「それは大変でしたでしょうね」
「いえ、そんなことはないですよ。これまでずっと、ちゃんとした家で育ててもらいましたから」
「私とつばめさんは同い年ですよ、敬語になさらずともよろしいのでは?」
「あ、そうか。さっき見た戸籍謄本に書いてあったっけ、あなたの名前が」
「はい。ですので、私とつばめさんは従兄弟に当たります」
「じゃ、なんで、りんねさんも敬語なの?」
「私は上に立つ者に相応しい教育を施されておりますので、誰に対しても礼節を弁えております」
「帝王学ってやつ?」
「有り体に表現すれば、そうなりましょう」
りんねは微笑んでくれたが、その笑みの隙のなさにつばめは臆した。男だったら陥落されていた、と感じたほどの笑顔だった。表情が派手ではないからこそ醸し出せる品の良さと、絶滅危惧種である大和撫子を体現している仕草が心根を鷲掴みにしてくる。帝王学だけではなく、ありとあらゆる習い事も叩き込まれているだろう。そうでもなければ、こんなふうに育つわけがない。世間のアベレージラインを探って生きてきたがために立ち振る舞いも庶民丸出しのつばめとは、根っこから違う。いや、生物学的に違う生き物なのかもしれない。
「つばめさん」
「はいっ!」
りんねに呼び掛けられ、つばめは思わず背筋を伸ばす。
「今、ここで私に全権を譲られましたら、通夜も葬儀も引き受けて差し上げますが?」
「……え?」
言っている意味が解らない。
「その様子ですと、備前さんからは何のお話も伺っていないようですね。それでは公平ではありませんね」
「いや、だから何の話?」
「葬儀を終えた後、また改めてお話いたします。その頃には、事情を把握されておられるでしょうから」
りんねは祭壇に近付き、線香を一本取ってロウソクで火を灯した。それを線香立てに立ててから手を合わせると、長々と礼をした後に去っていった。その場に取り残されたつばめは、混乱が増す一方だ。葬儀の本番が始まってもいないのに疲れに襲われたつばめは腰を下ろしかけたが、その下には金属製の棺があると気付き、びくつきながら腰を上げた。スカートの裾を払ってから深呼吸して緊張を緩め、りんねに倣う形で線香を上げた。
「すんごい人間もいたもんだなぁ……」
最前列の椅子に座ったつばめは、背を丸めて頬杖を付いて祭壇を仰ぎ見た。誰もいないのをいいことに制服の上から自分の胸を掴み、りんねとの大きさの違いに絶望した。同い年で同じ遺伝子を継いでいるはずなのに、教養も違えば発育も違えば品格も何もかも違う。しかも途方もない大金持ちだ。吉岡グループの御嬢様だ。世にはびこる格差をこれでもかと思い知らされたつばめは、不意にろくでもない衝動に駆られた。遺言でとんでもない額の遺産が転がり込んでこないかなぁ、と。ベタなミステリじゃあるまいし、とは思うが妄想したくもなる。
そうでもなければ、世の中、帳尻が合わないではないか。
どこもかしこも線香臭い。
ジャージだけでなく、制服もそんな有様だろう。通夜の読経の最中にもたっぷりと線香が焚かれていたし、今夜はどうしたって線香の煙を浴びる羽目になる。一晩中線香の煙を絶やしてはいけないのが、通夜だからだ。もっとも、それを知ったのはつい数時間前のことだった。そして、その通夜の線香の番をする人間が自分しかいないと知ったのも数時間前のことである。美野里が作った原稿を読んでどうにかこうにか喪主を務めて、見知らぬ大人ばかりの弔問客達をもてなし、見送り、明日の葬儀もよろしくお願いします、と通夜を終え、一休み出来ると思ったのも束の間、線香の番をするのが喪主の務めだと言われて斎場に泊まることになった。
「お姉ちゃんの人でなしぃ」
付添人が寝泊まりするための控え室で、つばめはぼやいた。部屋自体はホテル並みの豪華さでベッドはダブルでソファーも立派でバスルームも浴槽が広くマッサージチェアまで設置されているので文句の付けようもないのだが、一人で使うには広すぎる。それもこれも、美野里が仕事の引き継ぎを行うために一旦帰宅したからだ。
美野里の職業は弁護士であり、その両親もまた弁護士という弁護士一家なのだ。つばめが幼い頃は母親の景子は休業していたが、つばめが中学生になってからは復業し、父親である備前柳一が経営する個人事務所に勤めている。美野里も現在は父親の雇われ弁護士だが、いずれ事務所を構えて独立するのだそうだ。昔は金持ちだからつばめの養育を引き受けたのだろうと漠然と感じていたが、吉岡りんねの態度を踏まえて考えてみると、何か裏があるような気がしてきた。だとしても、一体どんな裏があるというのだろうか。
「ま、いいか」
どうせ、大したことではないだろう。
余計なことを考えて頭が疲れると余計に眠たくなってくる。つばめは欠伸をしてから、会場に繋がるドアを開けて祭壇に向かった。時刻は午前二時を回っていて、斎場の従業員も切り上げたのでここにいるのは祖父の遺体とつばめだけだ。今更ながらそれを認識してほんの少し怖くなったが、会場には煌々と明かりが点っているので、幽霊が出そうな雰囲気は欠片もない。音がないと寂しいのでテレビを付けっぱなしにしてあるし、もしも何か起こったら美野里に連絡すればいい。
ロウソクの火を使って火を灯した線香を立て、蚊取り線香のような渦巻き状の線香の火も衰えていないことを確認してから、つばめは思いがけず空腹を覚えた。この近所にはコンビニがあったはずだ。他に誰もいないのだから、夜中のコンビニに行っても咎められない。それどころか、なんだって好きなものが買えるのだ。限りあるお小遣いは無駄には出来ないが、ちょっとした贅沢をするぐらいなら構わないだろう。
場違いな高揚感に駆られたつばめは軽くスキップしながら祭壇を降りようとしたが、視界の隅に異物が入り込んできた。祭壇を降りかけたところで止まり、恐る恐る振り向くと、あの金属製の棺の上に男が横たわっていた。喪服姿で革靴も履いているので弔問客の一人だとは思うのだが、その顔に見覚えはなかった。黒いネクタイは解ける寸前まで緩めてあり、ワイシャツの襟元も大きく開いていた。髪はまだらに脱色されていて、長さも半端で斜めに垂れた前髪が目元を隠している。顔立ちはなかなかで背も高いのだが、いかんせんだらしない。
「ど……どちら様で?」
つばめがおっかなびっくり声を掛けると、青年は前髪を掻き上げてつばめを見やる。
「あ?」
「てか、なんでここにいるんですか? 弔問客の方ですか?」
敵意剥き出しの態度につばめは尻込みしかけたが、踏ん張り、愛想良くした。
「誰がこんなジジィを弔うかよ。お嬢の命令だよ、んなもん」
「お嬢って誰ですか?」
「吉岡りんねだよ。黒髪ロングでメガネのメスガキ。ガキに様を付けたくねーから、お嬢。そんだけ」
「てことは、線香の火の番に来てくれたんですか?」
「は? 何それ? この俺がんなことするわけねーじゃん、クソめんどっちい」
「ですよねー」
それについては全面的に同意する。つばめが愛想笑いを保っていると、青年は急に上体を起こした。
「抜け駆けの防止っつーか、まーそんな感じ?」
「抜け駆け、って」
誰が何を抜け駆けするのだ。
りんねとのやり取りでも感じたものと同じ不可解さを感じ、つばめは首を捻る。「うっわ、マジで知らねーんだ。それでよく佐々木の孫なんてやってられたな」
「知るも何も、今朝……じゃないや、昨日の朝にお姉ちゃんから教えてもらって、身内がいるってことを初めて知ったんですよ。だから、お兄さんやりんねさんが言っていることの意味がさっぱり解らないんです。ごめんなさい」
「ダッセェ」
青年はあからさまにつばめを蔑んできたので、つばめはむっとして顔を背けた。
「どうもすいませんでしたね! そっちの御嬢様みたいじゃなくて!」
「逃げんなら今だぞ」
不意に、青年の口調が変わった。何事かとつばめが目線を戻すと、青年は鼻筋に掛かった前髪の下からつばめを注視していた。その眼差しは異様に澄んでいて、表情も強張りさえあるほど真顔だった。どういう意味か解らず、つばめは聞き返そうとしたが、青年は金属製の棺に再び寝そべった。寝心地はひどく悪そうだ。だが、見ず知らずの男を控え室に招けば同じ部屋で一晩過ごすことになってしまうので、つばめは一礼してから会場を後にした。
財布を握り締めて深夜のコンビニに行くと、疲れ果てた大人達から不審そうな目を向けられたが、空腹に勝てる気はしなかったので陳列棚を見て回った。菓子パンやデザート類などを吟味していたが、あの青年の分も買っていくべきかどうかをちょっと考え込んだ。青年からすればありがた迷惑かもしれないが、祭壇にいる以上は線香の番をしていることには変わりないわけで、つばめは喪主であって青年は弔問客であって、吉岡りんねの関係者ということは親戚のような間柄であるわけで、だとすればそう無下には出来まい。そんな答えを出したつばめは、夜食にする卵のサンドイッチとイチゴエクレアとレモンティーと一緒に、無難な路線で缶コーヒーとカレーパンを買っていった。
斎場に戻ったつばめは、寝ているのか起きているのかすら解らない青年の枕元に缶コーヒーとカレーパン入りのレジ袋を置いてみた。控え室に戻って空腹を満たしたつばめは、線香を灯すべく再び祭壇に向かうと、青年の格好は一切変わっていなかったが、缶コーヒーとカレーパンは空になっていた。とりあえず食べてくれたらしい。
それから夜が明けるまでの間、つばめは猛烈な眠気と戦いながら、何度となく線香に火を付けた。蚊取り線香のような線香があるから平気だ、と思おうとしたのだが、ふかふかのベッドに潜って寝入ろうとすると却って目が冴えてしまって落ち着かなかった。疲労と睡魔に耐えること数時間、待ちに待った夜明けが訪れたが、青年はただの一度もつばめの様子を確かめには来なかった。線香の匂いを落とすためと目を覚ますために風呂に入ったつばめは、これから始まる葬儀で寝落ちしなきゃいいな、とささやかに祈った。
土台無理かもしれないが。
葬儀に訪れた弔問客は、通夜の倍以上だった。
セーラー服の裾に喪主の印である黒い花飾りを付けたつばめは、人生で最も多く頭を下げた。下げすぎたせいで、眠気も相まって貧血を起こしかけたほどだった。仕事から戻ってきた美野里が弔問客の香典を預かり、記帳をしてもらい、挨拶をしていた。美野里のおかげでつばめの仕事量は大幅に減ったが、頭を下げる回数だけは変わらなかった。やはり制服姿の吉岡りんねも弔問に訪れたが、彼女の周囲には奇妙な人間が控えていた。あの青年と、喪章を腕に填めたメイド服姿の若い女性、りんねの倍近い体格の屈強な男、それとは対照的にやたらと小柄な男、と訳の解らない取り合わせだった。特に強烈なのが屈強な男で、色の濃いサングラスと古傷が付いた強面のせいでヤクザにしか見えなかった。りんねの繊細な美しさとは対照的な彼らの異様さに驚いたのはつばめだけでないようで、弔問客の間からはざわめきが漏れていた。
長い長い読経と焼香、花輪の数だけ届いたお悔やみ電報の後、ようやく出棺の段階になった。火葬場までは距離があるので、親族達はマイクロバスに乗って移動する手筈になっている。その間は少しは眠れるかも、とつばめは内心でほっとしていたが、他の弔問客達は別だった。軽い興奮状態にあるようで、誰も彼もが言葉を交わしている。会話が入り乱れすぎているのでよく聞き取れなかったが、皆、遺産を話題に出していた。祖父、佐々木長光の遺産のことなのだろうが、正直言ってあまり気分は良くなかった。祭壇の後ろにはまだ祖父本人がいるのだから、多少は生臭い話題を控えるべきだ。すると、つばめの隣に座っていた美野里が立ち上がり、祭壇の前に出た。
「皆々様、ご静粛に願います」
美野里がハンドバッグから古びた封書を取り出すと、水を打ったように静まり返った。
「それではこれより、故人の遺志に従い、遺言書を開封させて頂きます」
封書から中身を取り出した美野里は、四つ折りにされていた和紙の便箋を開き、一度黙読した。皆、息を飲んで美野里の手元を見据えている。あまり興味のないつばめは欠伸を堪え、腕を伸ばさずに背筋を伸ばした。左側の一列目に座っているりんねを何の気成しに窺うと、りんねは唇を真一文字に結んでいた。彼女の背後に控えている奇妙な面々もまた、美野里を注視している。美野里は和紙の便箋を読み終えると、言った。
「遺言書。遺言者は、遺言者の有する財産の一切を、孫、佐々木つばめに相続させる」
今、美野里はなんと言った。つばめはぎょっとしすぎて眠気が吹き飛び、目を瞬かせた。
「うえっ?」
「遺言者、佐々木長光。以上です」
美野里は遺言書を折り畳んで封筒に戻してから、一礼した。先程まで美野里に集まっていた視線の全てがつばめに突き刺さり、囁きがざわめきに、ざわめきが陰口になった。りんね御嬢様ではないのか、どこの娘だあれは、長孝の娘なんていたのか、一族の誰にも似ていないから赤の他人じゃないのか、など。つばめはそれらの陰口に怒るよりも先に、祖父の死を告げられた時を上回る戸惑いに襲われ、隣の席に戻ってきた美野里を問い詰めた。
「遺産って何? なんで私なの?」
遺産が転がり込んでくればいい、とちらりと考えたかもしれないが、あれはただの世迷い言だ。浅はかな願望だ。動揺しきりのつばめを宥めながら、美野里は遺言書の封書をつばめの内ポケットに入れてきた。
「落ち着いて、つばめちゃん」
「お姉ちゃん、お爺ちゃんの遺産ってそんなに凄いの?」
つばめが遺産と口にする度に、周囲が殺気立っていった。つばめは美野里に縋り、不安を紛らわす。
「う……」
「それについては後で説明するわ、まずは火葬場に行かなきゃ」
ね、と美野里に励まされ、つばめは立ち上がった。神経が尖りに尖っている弔問客達に臆しているのか、斎場のスタッフは少々及び腰で葬儀を進行した。祖父の収まっている棺を外に運び出し、立派な霊柩車に乗せた。喪主であるつばめは祖父の遺影を抱え、美野里は祖父の骨壺を抱え、霊柩車に乗った。
霊柩車の助手席に収まったつばめは、サイドミラーでマイクロバスに乗る親族達をぼんやりと眺めていたが、バスに乗ってくる親族はほとんどいなかった。憤慨して帰っていく者もあれば斎場のスタッフに八つ当たりする者もあり、これ見よがしに祖父の文句を吐き捨てる者もあり、つばめは悲しくなってきた。生前の祖父がどんな人間であったかは知らないが、これでは遺産にしか価値がないかのようだ。祖父自身の価値は無に等しいとでもいうのか。
結局、マイクロバスに乗って火葬場まで同行してくれたのは、吉岡りんねとその奇妙な連れ合いと彼女の両親だけだった。それ以外は一人残らず帰ってしまい、中には香典を取り返して帰っていく者すらいた。斎場に戻り、がらんとした会食場で黙々と料理を消化していると、火葬場から焼き上がったとの知らせが入った。再び火葬場へと戻ったつばめは、骨と化した祖父と対面した。まず最初につばめが拾い、橋渡しして美野里やりんねに渡していった。
骨壺に収まった祖父はとてもとても小さく、膝の上に載せると、スカート越しに染みてくる余熱はやたらと熱かった。後はこの骨壺の中身を納骨するだけだが、佐々木家の墓はどこにあるのだろうか。つばめはそれすらも知らない。そもそも、祖父はどこの生まれの人間なのだろう。いい大人が揃って取り乱すほどの凄い遺産を、一体どこで手に入れたというのだろう。何も知らない、何も解らない、何も覚えていない。それなのに、なぜ自分なのだ。
弔問客さえいなければ、両手を挙げて大喜びするのだが。
明日は早朝から移動するとのことで、つばめと美野里は近隣のホテルに一泊した。 斎場と火葬場の往復で思いの外時間が掛かってしまったのと、美野里が納骨に行くために必要な車を借りていくからである。ちなみに、美野里の愛車は母親の景子が取りに来てくれるのだそうだ。車を乗り換えなければならないほど遠いのだろうか。また随分と疲れが溜まりそうだが、美野里とドライブに行くと思えばまだ気が楽だ。 ツインルームのベッドに寝そべったつばめは、備え付けのバスローブの裾を持て余しながらテレビを眺めていた。それまではあまり気にしていなかった吉岡グループのCMが、やけに目に付くようになった。それもこれも完全無欠の美少女であるりんねのせいだろう。ショルダーバッグに詰め込んだはいいが、今まで出すに出せなかったパンダのぬいぐるみを抱えて仰向けになったつばめは、湯気の立ち込めるバスルームから出てきた美野里に問うた。
「ねー、お姉ちゃん」
「ん、なあに?」
長い髪をバスタオルでまとめている美野里は、ホテルに入る前に買い込んできた缶ビールを開けた。
「私、これからどうなっちゃうのかな」
「今まで通り、ってわけにはいかなくなるわね」
つばめの重たい呟きに返しながら、美野里は自分のベッドに腰掛けて生温いビールを呷る。
「長光さんが亡くなった以上、私んちでつばめちゃんを養育するっていう契約書も意味を成さなくなるわけだし。あれは長光さんが存命であることを前提にして書かれていたからね」
「やっぱりか……」
予想していたが、明言されると切なくなる。
「でも、私はいつまでもつばめちゃんの家族よ。もちろん、お父さんもお母さんもね」
美野里はつばめの傍に移動すると、つばめの水気が残る洗い髪に指を通してきた。その手付きの優しさと暖かさで気が緩んだつばめは、疲労も相まって涙が出そうになったが、シーツに吸い込ませて誤魔化した。
「あのね、お姉ちゃん。通夜の時、従兄弟の子に遺産を譲ってくれって言われたんだ。そうするべきだった?」
「確かにあの子は、つばめちゃんの次に相続権を得られる立ち位置よ。万一、つばめちゃんの身に何かが起きたとしたら、優先的に遺産を相続出来る立場にあるもの。つばめちゃんがいなくなれば、孫って言葉が優先されるわけだからね。だけど、それはあくまでも書類の上での話よ。つばめちゃんの身に何か起きるわけないじゃない。もしもあの子やその家族が、つばめちゃんを亡き者にしようと画策していたとしても、現代の法律が黙っちゃいないわよ。それじゃ横溝正史の世界よ」
「誰それ?」
「古典ミステリの大御所よ。今度読んでみなさい、面白いから」
「うん、そうする」
「さ、明日も早いから寝ちゃいなさい」
美野里はつばめを撫でてから、腰を上げた。つばめは頷くと、薄手の掛け布団を上げて中に入った。ぴんと糊の効いたシーツは硬く、枕の弾力は自宅のそれとは違う。いや、元自宅か。
「ね、お姉ちゃん。お姉ちゃんちが、なんで私を引き取ることになったの?」
白い天井を見つめながらつばめが言うと、書類を整理していた美野里は手を止めた。
「長光さんとうちのお父さんがね、昔から知り合いだったのよ。だから、その関係でね」
「そっか」
「眠れないなら、一緒に寝てあげようか?」
美野里がにやけたので、つばめは掛け布団をすっぽり被った。
「やだよ、恥ずかしい。そんなに子供じゃないよ」
「寂しいなー、そんなこと言うなんて。ぬいぐるみなんかよりも、お姉ちゃんの方が余程抱き心地がいいのにぃ」
「そういうのは彼氏を掴まえてから言ってよ、私を誘ったってどうしようもないじゃん」
布団から顔を半分出したつばめがくすくす笑うと、美野里も笑った。
「そりゃそうね」
「ねぇ、お姉ちゃんは遺産をもらったとしたら何に使う? 私は全然考えてもいないんだけど」
「そうねぇ、世界征服でもしてみようかしら」
「えぇー、弁護士の言うセリフじゃなーい」
「なんとでもお言い。こういう与太話は、言うだけならタダなんだから」
それから、美野里はつばめのベッドに潜り込んできた。仕事はいいのかとつばめが心配すると、美野里は早起きして処理するから平気だと言ってきた。同じ布団で眠るなんて久し振りだ。つばめが幼児だった頃は、美野里がよくそうやって寝付かせてくれたものだった。美野里が成人して弁護士になると、つばめも大きくなっていたので、一緒に寝る機会は自然と減った。だから、二人で同じベッドに入るのは懐かしくもあり、物悲しくもあった。
明日からは、今まで以上にしっかりしなければ。
翌朝。
ホテルの駐車場には、図体のでかいピックアップトラックが停まっていた。 圧迫感すら覚えるほど巨大で、隣に駐車されている美野里の軽自動車と比べると二回り以上も大きかった。ヘッドのGMCのロゴが眩しく、タイヤもとんでもなく太く、正にアメリカンサイズである。つばめが呆気に取られながら車を見上げていると、美野里がキーによる遠隔操作でロックを開け、運転席に乗り込んだ。右ハンドルなのは日本仕様だからだろう。イグニッションキーを差し込んで回すと、車体のサイズに相応しい猛々しい唸りが迸った。
「さ、乗って乗って」
美野里はつばめを急かしてきたので、つばめはドアの下のステップに足を掛けてよじ登り、助手席のドアを開けて乗り込んだ。座席もまた大きく、つばめの体格では半分以上持て余してしまうほどだった。荷物を後部座席に置き、荷台が見える窓に目をやると、そこにはあの金属製の棺が横たわっていた。
「あれって何? 通夜の時からずーっと気になっていたんだけど」
「あれも長光さんの遺産の一部よ。だから、彼はつばめちゃんの所有物なのよ」
「彼?」
「箱を開けてみれば解るって。期待してくれちゃってもいいわよ、もうすっごいんだから!」
「吸血鬼とかゾンビじゃないよね?」
つばめが渋い顔をすると、美野里はハンドルを回しながら笑った。
「当たらずも遠からずってところね」
徐々に車通りが増え始めた大通りに出た漆黒のピックアップトラックは、早朝のビル街には馴染まない排気音を撒き散らしながら太いタイヤをアスファルトに噛み付けた。良くも悪くも人目を惹く車体は通勤途中のサラリーマンや中高生の視線を奪い、それを運転しているのが喪服姿の女性だと解ると彼らは揃って目を丸くしていた。つばめには彼らの気持ちが痛いほど解ったが、敢えて何も言わなかった。恐らく、あの金属製の棺を運ぶために馬力のある車が必要だったのだろう。後輪はかなり沈んでいるし、ハンドルを切るたびに車体後部が振られてしまうのだから、相当な重量がある。ワイヤーロープと荷締機で固定されている金属製の棺は車体が揺れるたびに上下したものの、余程頑丈に蓋が閉めてあるのか、蓋が外れることもなければ中身が零れそうな気配もなかった。 金属製の棺がやけに気に掛かってしまい、道中、つばめは何度となく振り返ってしまった。異変が起きていないと知るとほっとする一方で、中身が何なのかが気になってきた。いっそ途中で開けてしまおうか、とも思ったが、開けたところで手に負えない代物だったらどうしよう、とも思ったので、納骨を終えるまでは決して触れるまいと内心で誓った。
どうせ、あれもつばめの所有物なのだから。
走り続けること、三時間半。
都心を出たピックアップトラックは関越道から信越道に入り、中部地方へと向かっていった。通夜と葬儀の疲れに負け、その間、つばめは熟睡していた。慣れない大型車を懸命に運転していた美野里からは、ちょっとだけ嫌味を言われたが、ずっと忙しかったんだから仕方ないわよね、と苦笑された。
高速道路を下りて県道に入ってからも、更に一時間以上も走り続けた。目的地が一体どこなのか見当も付かず、行けば行くほど山が深くなっていくので、つばめは僅かばかり不安に駆られた。当の美野里は目的地周辺の地理に詳しいわけではないらしく、頻繁に車を止めては地図を広げていた。山奥に入りすぎてしまうとカーナビもあまり役に立たないようで、見当違いの場所で次の進行方向を示してばかりだったので、途中で電源を切られた。
数回道に迷った末、一旦引き返すことにした。何度となく通り過ぎたドライブインに入った二人は、心底疲れ果てていた。よろけるように食堂に入って、心身を休めた。車に揺られすぎて頭の芯までぐらぐらしているつばめは無言でクリームソーダを啜り、長時間の運転で疲労が限界に達していた美野里は、シンプルで煮干しのダシがよく効いたラーメンとおにぎりを食べるだけ食べたらテーブルに突っ伏し、そのまま爆睡した。
「どこまで行けばいいのさぁ……」
これ以上車に乗りたくない、けれど辿り着かなければ日が暮れる。悲壮感さえ感じながら、つばめは氷の上に少し残ったアイスクリームを細長いスプーンで削り取ると、頬張った。ドライブインの薄汚れた磨りガラスの引き戸越しに見える景色は、ただひたすらに山、山、山、たまに鉄塔、山、山、だ。民家の密集した集落も離れているのか、田畑も見えない。今朝方までいた都心とは大違いだ。別世界だ。ここだけ時間が止まっているかのようだ。
都心では春真っ直中で、至るところの桜並木が開花しているのだが、この山間部には冬が長逗留していた。道路や日向は地面が露わになっているのだが、少しでも日が陰っている場所には山盛りの雪が溶け残っている。遠くに見える越後山脈も真っ白で、桜前線がこの土地に到達するのはまだまだ先のようだった。
ドライブインの食堂にしても、古臭いったらなかった。十数年前に施行された地デジ化によって完全に駆逐されたかとばかり思っていたブラウン管のテレビが、歪みかけたカラーボックスの上に鎮座しているし、そのカラーボックスから零れ落ちている週刊少年漫画雑誌は二三年前のもので、とっくの昔に打ち切られた漫画が表紙を飾っている。食堂と同じレジで会計する売店の片隅に詰んである戦隊ヒーローものの安価なオモチャも四五年前のものだった。その手のマニアには垂涎物だろうが、生憎、つばめにはそんな趣味嗜好はない。
毛羽立った畳が敷き詰められた座敷席に、赤いビニールカバーが破れかけてスポンジが露出している丸椅子、読み込まれてよれよれになっている地元新聞、厨房でタバコを蒸かしている中年の女性店主、ドライブインの外ではためく擦り切れたノボリ。そのどれを取っても、昭和後期で時間が止まっているとしか思えない。
「ねえねえ、お連れさん、大丈夫?」
声を掛けられ、つばめが顔を上げると、そこには黒い本革のライダースジャケットにジーンズにライダースブーツを履いた長身の男が立っていた。彼もまたここで休息を取るらしく、熱々のラーメンが載った盆を抱えていた。
「あー、たぶん大丈夫です。てか、寝ているだけなんで」
つばめが曖昧に答えると、男はつばめの背後のテーブルに付き、箸立てから割り箸を抜いて割った。
「あ、そう。んで、これからどこに行くつもりなの?」
「それ、ナンパですか」
「だとしたら、どうするよ? ん?」
男が楽しげににんまりしたので、つばめは少しむっとした。
「全力でお断りします。私もお姉ちゃんも、これから行くところがあるんで」「そっかそっかぁー、そりゃ残念」
男は箸の先を振って茶化してから、ネギが多めの醤油ラーメンを啜り、言った。
「一応忠告しておくよ、引き返すなら今しかない」
「はい?」
あの青年にも似たようなことを言われたような。つばめが聞き返すと、男は麺の湯気を吹きつつ、続ける。
「最後の最後だ、後戻り出来るのは今だけだ。遺産を一切合切放棄してあらゆる権利を政府に譲渡すれば、君はずっと普通の女の子でいられるってことさ。これまで通りの居心地はちょっと悪いけど平均よりは裕福な生活も続けられるし、なんだったら政府の方で遺産を分割して独立資金を工面してやってもいいし、全く別の人間になるための手続きだってしてやらなくもない。何もなかったことにする、何も起きなかったことにする、何も知らなかったことにする、っていうことさ。でも、それが嫌なら……」
そう言いかけて、男はラーメンの麺を啜った。話を途中ではぐらかさないでくれ、と抗議するためにつばめが腰を浮かせると、ドライブインの駐車場に大型トレーラーが滑り込んできた。細く曲がりくねった山道を通るには向かないであろう大きさで、通常の駐車スペースを四つ半塞いでしまった。怪獣が威嚇するような鋭い排気音と共に蒸気が噴出し、辺りを僅かに白ませる。マイクロバス程度はあろうかというコンテナには、吉岡グループのロゴがあった。
「彼女達と戦うまでさ。事と次第によっちゃ、手伝ってやらないでもないけど?」
男は割り箸を振り、大型トレーラーを示した。大型トレーラーのコンテナが開くと、その中から現れたのは、やはり制服姿の吉岡りんねだった。その傍らには、案の定奇妙な人々が控えている。にこにこしているメイドにタラップを下ろしてもらい、駐車場まで下りたりんねは、ドライブインの引き戸を開けて入ってきた。
「ご休憩中のところ、失礼いたします」
りんねはつばめに一礼し、鬱陶しげに男を睨め付けた後、姿勢を正した。
「佐々木つばめさん。今一度申し上げます、あなたが相続した遺産を私に譲渡して頂けませんでしょうか?」
「だから、なんで?」
座敷席から下りてローファーを履いたつばめが詰め寄るが、りんねは動じない。近くで見ても、やはり美少女だ。
「お解りにならないのでしたら、具体的に説明いたしましょう。私は物心付いた頃から、吉岡グループの跡継ぎとして英才教育を施されてまいりました。通常の勉学だけでなく、帝王学、経営学、経済学、心理学、株取引、買収、護身のための武術など、数え上げれば切りがありません」
「だから?」
「少々不躾な語彙ではありますが、あなたのような世間知らずの小娘が大金を手にしたところで食い潰すだけだ、と最初から申し上げているのです。遺産の真価も知り得ぬまま、成金の真似事をして身を滅ぼした末に野垂れ死ぬのが関の山です。身の丈に合わない資産を得た者の末路は、得てしてそういうものなのです。それが嫌だとお思いになられましたら、どうぞ私にお譲り下さい」
「嫌だ嫌だ、って……」
先程も似たような言葉を、あのライダースジャケットの男から聞かされた。つばめが頬を引きつらせるが、りんねは眉一つ動かさずにつばめを見据えている。氷の刃の如く、こちらの内側に痛みを伴って切り込んでくる。澄み切った鳶色の瞳は底知れぬ知性が満ちていて、未来の権力者に相応しい逆らいがたい威圧感が宿っている。 だが、それがどうした。なぜ、誰も彼もつばめが嫌だという結論を先に出しているのだ。こっちはまだ何も言ってはいないし、意見だって出していないし、愚痴だって零していない。それなのに、どいつもこいつもつばめの真意を聞く前から頭から決めて掛かってくる。それこそ、猛烈に嫌だ。
「だぁれが嫌だなんて言うかぁっ!」
つばめは一歩踏み出し、声を張る。こうなったら、自分の意志を示してやる。
「恵まれすぎて脳みそ腐ってんじゃないの、御嬢様! 私がいつ、どこで、誰に、遺産を継ぐのが嫌だなんて言ったんだよ! 私はね、あんたと違って欲しいモノを容易く手に入れられたことなんて一度もないんだよ! 遺産が私のものになったのが面白くないのは解るけど、遺言書にきっちり書いてあるんだから今更曲げられるものでもないし、私は遺産を相続するって決めたんだ! 解ったなら帰れ、二度とツラを見せるな!」
これまでの鬱憤を晴らすべく、つばめは威勢良く捲し立てた。軽く呼吸を弾ませているつばめに、りんねは初めて表情を変えた。眉根を顰めただけだったが、それでも充分だった。
「そうですか。でしたら、こちらにも考えがあります」
りんねはそう言い残し、ドライブインを出た。勝った、とつばめが余韻に打ち震えていると、りんねが大型トレーラーに戻ると同時にコンテナが開き始めた。りんねが快適に過ごすために備え付けられたであろう豪奢な家財道具の前に、りんねが何者かを伴って立っていた。それはあの奇妙な人々の誰でもない、人間大のアリだった。全身を隈無く分厚い外骨格に覆われ、頭部からは二本の触角が生え、一対の巨大なあぎとが生えていた。すらりと長い両手足の先には大鎌のような爪が備わっていて、殺傷能力があるのは間違いないだろう。毒々しささえある赤黒い外骨格は、まるで返り血を浴びたかのようだ。背筋がぞわりと逆立ち、げ、とつばめは声を潰した。
「何よぉ、騒がしい。女の子が汚い言葉を使っちゃいけませーん」
目を擦りながら顔を上げた美野里に、つばめは慌てた。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん、あれっ!」
「え、あっ!? いっ、いいから早く車に行きなさい、ロック外してあるから!」
人智を外れた存在を見て一発で目が覚めた美野里は、ハンドバッグを抱えてハイヒールを突っ掛けた。つばめはショルダーバッグを抱えてからドライブインの引き戸を開け、駆け出すと、人間大のアリがけたけたと笑った。
「なーお嬢、あいつ殺してよくね? な?」
「それでは元も子もありません、伊織さん。生け捕りにして頂けませんでしょうか」
「うわ、超ダッセ」
人間大のアリが舌打ち混じりに言い捨てた声色に、つばめは聞き覚えがあった。通夜の晩、金属製の棺の上に横たわっていた青年の声だ。あんなのが手下だったのか、でも昆虫怪人なんて現代社会にいたっけか、とつばめは頭の隅で考えながらピックアップトラックに駆け寄っていったが、イオリと呼ばれた人間大のアリが跳躍した。赤黒い放物線がアスファルトに突き刺さり、進行方向を塞がれたつばめは立ち止まった。イオリは尖端が鋭利に尖った肩をぎしぎしと揺すりながら、黒曜石じみた複眼につばめを映し込んでくる。頭を不自然な角度で逸らしているのと、甲冑の如く盛り上がっている胸郭から漏れ聞こえる上擦った笑い声のせいで、つばめは恐怖よりも先に生理的な嫌悪感が募ってきた。外見も異常極まりないが、中身も正気とは言い難い。
「だぁから言ったじゃねぇかぁあああああっ!」
イオリは長身を折り曲げるや否や、つばめの懐に突っ込んできた。直後、つばめは襟首を掴まれて放り投げられ、束の間、空中を漂った。二三メートルは浮かび上がっているのだろう、アスファルトが遠く、ドライブインの雨どいに溜まって腐葉土に変化しつつある枯れ葉がよく見えた。無重力のように上昇していた血流が下降を始め、このまま地面に叩き付けられる、とつばめが臆した瞬間、今度はセーラーを掴まれた。おかげで頭蓋骨が砕けるのは免れたものの、今度はセーラーとスカーフが首に食い込んでくる。セーラーを握り締めている手の主はイオリで、ぎちぎちとあぎとを開閉させながら、つばめに顔を寄せてくる。
「逃げんなら今だ、ってな」
「誰が、あんたらの言うことなんか」
息も絶え絶えにつばめが抗議すると、イオリは触角を片方曲げる。
「そうそう、それだよ。逆らえよ、抗えよ、その方が面白くなるってもんだぁ!」
イオリの腕が伸びきると、つばめはまたも投げ飛ばされる。が、今度は落下時間が短く、背中が鉄板に激突した。脳天を貫いた凄まじい衝撃に気を失いかけながらも目を開くと、そこはピックアップトラックの荷台だった。度重なる浮遊と衝撃で食べたばかりのものが戻ってきそうだったが、なんとか堪え、つばめは上体を起こそうとする。だが、それより早く、軽々と跳躍したイオリがピックアップトラックの屋根に飛び降りてきた。怪物じみた四つん這いになったイオリは、棘の付いた鎌のようなあぎとを開き、その尖端をつばめの首筋に据えてくる。
「いきなり首を飛ばす、ってぇのはつまんねーなぁ。はははははははぁ」
「う……」
悔しいどころの話じゃない。こんな連中に、なぜ命までも狙われる羽目になる。理不尽だ、不可解だ、不条理だ、デタラメだ。だが、痛みで体が上手く動かない。つばめが血が滲むほど唇を噛み締めていると、イオリはつばめのショルダーバッグからはみ出ているパンダのぬいぐるみに目を付けた。右足の爪先でショルダーバッグを切り裂くと、乱暴にパンダのぬいぐるみを引き摺り出した。つばめは青ざめ、奪い返そうとする。
「それだけはやめてぇ!」
「ガキ臭ぇんだよ、ああウッゼ!」
イオリはパンダのぬいぐるみを放り投げると、荒々しく爪を振るった。つぶらな瞳で穏やかな微笑みを浮かべていたパンダのぬいぐるみは縦に真っ二つに切り裂かれ、綿と共に無数の紙切れが飛び散った。それはつばめが一人で生きていくためには不可欠であろう書類の数々と、預金通帳と、実印と、現金の束だった。
「私の全財産ーっ!」
腹の底から叫んだつばめは、猛烈な憤怒に駆られた。あの金を掻き集めるために苦労したのに。小学生相手に色目を使う酔いどれの中年男に媚を売り、クラスからハブられるのを覚悟で流行りモノすら買わず、部活帰りにパンもジュースもファストフードも買わず、欲しい服も我慢し、ただひたすら貯め込んできた七八万円が。預金通帳の分も合わせると九九万八五一二円が、全て水の泡だ。
怒りは突き抜けすぎて震えを呼び、つばめは尚更立ち上がれなくなった。あの現金がなければ、今後、どうやって生きていくのだろう。現金という心の拠り所があったからこそ、りんねにも張り合えたし、気丈に振る舞えていたが、それがただの紙切れと化した今では、つばめは果てしなく無力だ。季節外れの枯れ葉のように舞い降りてきた紙幣を掴んだイオリは、無造作に握り潰し、ぞんざいに投げ捨てた。
終わりだ。始まる前に、何もかも潰えてしまうのだ。つばめは長年堪えていた涙が滲みそうになり、唇に血が滲むほど強く噛み締めたが、意志に反して目尻から熱いものが零れ落ちてきた。イオリは圧倒的優位に立っていることを見せつけるためなのか、わざと悠長につばめに近付いてくる。ピックアップトラックのサスペンションが上下し、タイヤが潰れる。震える足を突っ張って後退ったが、つばめの背は金属製の棺に阻まれた。
「さっきまでの威勢はどうしたんだよ、おい?」
ひゃっひゃっひゃっひゃ、とイオリは高笑いしながら、つばめの顎を爪で押し上げる。その際に爪先が首筋の皮膚に掠め、一筋の血が溢れた。悲鳴すらも出せないほど怯え切ったつばめは、金属製の棺に縋った。他に縋るものもなければ、頼れるものもないからだ。これも祖父の遺産の一部だというのなら、どうか力になってくれ。こんなところで死ぬのは嫌だ、せっかくの幸運を取り逃がすのも嫌だ、情けなく震えている自分が一番嫌だ。だから、せめてこの遺産だけでも。つばめは、金属製の棺の蓋に印されている佐々木家の家紋、隅立四つ目結紋に触れた。
「管理者権限、認証完了」
突如、誰でもない声がした。
金属製の棺を戒めていたワイヤーが弾け飛び、その一本がイオリの外骨格に激突して仰け反った。金属製の棺が開くと熱い蒸気が噴出し、傷だらけのつばめの肌を舐め、汚れた制服を翻す。蒸気の中から立ち上がり、つばめを見下ろしてきたのは、吸血鬼でもゾンビでも人間でもないロボットだった。
一目でつばめは心を奪われた。
警察車両を思わせる白と黒のカラーリング、武骨でありながらスレンダーな体形、両側頭部の太いアンテナの先で光り輝く赤いパトライト、両足から伸びる銀色のエキゾーストパイプ、平行四辺形の赤い瞳が鮮烈な純白のマスクフェイス、銀色の拳。息をするのも忘れて見入っていると、警官ロボットはつばめに手を差し伸べてきた。つばめが恐る恐る彼の大きく角張った手に自分の手を重ねると、彼の瞳が強く輝いた。
「マスター、個体識別名称の設定を」
「え、ええっと」
つばめがしどろもどろになると、姿勢を戻したイオリが飛び掛かってきた。
「てめぇがあの木偶の坊かぁ、再起動しきる前にバラしてやらぁああああっ!」
「緊急回避行動!」
警官ロボットはつばめの手を握ったまま横抱きにすると、ピックアップトラックの荷台を蹴り付け、跳躍した。続いてイオリも跳躍してきたが、警官ロボットはスラスターを内蔵した足を振り上げてイオリの脳天に叩き付けた。妙な悲鳴を上げてアスファルトに転げるも、イオリも恐ろしく頑丈なのか、すぐさま立ち上がった。警官ロボットはつばめを横抱きにしたまま後退し、イオリのぞんざいな攻撃を避けていく。
「クソッ垂れが!」
ぎぢっ、とイオリは両足の爪でアスファルトを砕き、脚力を最大限に発揮して砲弾のように自身を放った。つばめが思わず目を閉じて首を縮めると、警官ロボットはイオリに背を向けてつばめを庇った。車両同士の衝突事故にも匹敵する恐るべき衝撃が訪れるが、警官ロボットはつばめを軽く浮かせてダメージを最小限にしていた。だが、彼自身に及んだダメージはかなりのもので、背面部の外装が大きく歪んだ。姿勢を崩した警官ロボットがたたらを踏むと、イオリは頭部を鷲掴みにしてきた。黒い爪の下で、みしりっ、とマスクにヒビが走って機械油が一筋零れる。
「このクソガキは殺すなってお嬢は言うが、てめぇは殺すなとは言われてねぇ。抵抗もしねぇ奴で遊ぶのは面白くもなんともねぇけど、血もハラワタもねぇのもつまんねーけど、退屈凌ぎにはなるかもしれねぇな!」
頭部を覆う装甲の損傷が増えていく。つばめの頭上へと落ちてくる破片も徐々に大きくなっていく。制服の胸元に滴ってくる機械油も次第に多くなっていく。このままでは、彼が死んでしまう。どうすればいい、彼は名前を付けてくれと言っていた、でもどんな名前を。焦りに焦ったつばめは、駐車場の片隅に紙片にまみれて転がっているパンダのぬいぐるみの残骸を見つけた。密かに、あのパンダのぬいぐるみに付けていた名前は。
「コジロウ!」
警官ロボットの手をきつく握り締めながら、祈る思いでつばめは叫んだ。
「……個体識別名称、設定完了。全システム復旧、全機能回復、全動作可能」
コジロウと名を与えられた警官ロボットは平坦に述べながら、顔を鷲掴みにしているイオリの手首を掴んだ。
「これより本官は、マスターの護衛を開始する」
イオリの手首がねじ曲げられていき、関節の繋ぎ目が裂け、赤黒い体液が溢れた。ぎぃっ、と醜悪に喚いたイオリは飛び跳ねて後退するが、傷めていない左手を掲げて身構える。戦意は衰えていないらしい。警官ロボット、もとい、コジロウはつばめを立たせてやってから、イオリと正面から向き合った。イオリの複眼にコジロウの赤い瞳とパトライトの光が跳ね、イオリの笑い混じりの喘ぎとコジロウの吸排気音が重なる。
人間大の軍隊アリ、イオリが鞭のように舞う。白と黒の警官ロボット、コジロウが拳を固めて迎え撃つ。コジロウの最も重篤な破損箇所を狙っているのだろう、イオリは空中で身を反転させてコジロウの背後に回り込んでくる。頭部を破損しているからか、コジロウの反応は一瞬遅かった。イオリの爪が繰り出され、コジロウの背部装甲に出来た細い隙間から内部配線にねじ込まれるかと思われた、その瞬間。
「任務、完了」
コジロウは下半身を捻り切り、回し蹴りを放った姿勢で言い切った。胸部に鉄塊を叩き付けられたイオリは呆気なく吹き飛ばされ、りんねが控えている大型トレーラーの目の前に落下した。アスファルトに頭から突っ込んだ末に数回横転したイオリは、りんねが立っているタラップに脇腹が激突してようやく止まった。赤黒い外骨格に付いた無数の傷が痛々しく、触角は二本とも折れ曲がり、ねじ切れかけた右手首から血液に似た体液が流れていた。
「うひぇひぇひぇひぇ……あーいってぇ、マジいってーんだけど、あーくっそー、やべー」
背中を引きつらせながら笑い転げるイオリを、りんねは冷ややかに見下ろした。
「イオリさん、起きて下さい。別荘に参りましょう。あれが起動したとなれば、体勢を立て直さなければなりません」
「んだよ、まだ終わりじゃねーし、これから本番だし?」
「御夕食、抜いてしまいますよ」
「……しゃーねぇなーぁ、もう」
イオリは舌打ちする代わりにあぎとを打ち鳴らしながらタラップを這い上がり、コンテナの中に戻った。りんねは満身創痍のイオリを一瞥してから、コジロウの背に守られているつばめを睨んできた。
「それが、あの遺産なのですね。ですが、イオリさんを倒した程度で御安心なさらぬよう。私はこの程度で諦めたりはいたしませんので。それではつばめさん、ごきげんよう」
りんねが深々と頭を下げると、コンテナのハッチが閉まっていった。つばめはコジロウの太い腕を握り締めて体を半分隠し、様子を窺っていると、りんねらの乗った大型トレーラーは去っていった。後に残されたのは大型トレーラーの濃い排気と、イオリの生臭い血溜まりだけだった。車体の大きさに見合ったエンジン音が遠のいていくと、安堵したつばめは脱力し、座り込みそうになった。コジロウがすかさず支えてきたので、つばめは赤面して飛び退いた。
「えっあっそのぉっ、大丈夫だからぁっ」
「しかし、マスター。頭部の体温の著しい上昇と興奮が見受けられるが」
「どっ、どうってことない! だから、気にしないでぇ!」
「だが、マスター。負傷している」
コジロウはつばめに歩み寄ってきたので、つばめは更に後退って出来る限り距離を開けた。そうでもしないと息が詰まって死んでしまいそうだった。背中の痛みよりも手足の擦り傷よりも何よりも、心臓が痛くてたまらない。まるで今にも爆発しそうな手榴弾を埋め込まれたかのように、異物となって内臓を圧迫している。血液も沸騰したばかりの熱湯のように煮え滾り、脳の働きを著しく鈍らせてくる。肺一杯に吸った空気から酸素が一切吸収されず、今度こそ本当の目眩が起きた。コジロウを視界に収めていると、一層目眩がひどくなった。
山からの吹き下ろしが細切れの紙幣を巻き上げ、高価な紙吹雪が駐車場を巡っていった。唇の傷口から流れた微量の血が舌を汚し、生臭い戦闘の味が喉に広がる。つばめは浅く息を吸い、吐き、真新しい血を拭った。
この血が次なる戦いを呼ぶのだと、本能的に確信した。