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1日 17時00分

 

 鳥居をくぐる。

 昔は毎年祭りをしていたらしいけれど、いまは年に一度夜に集まって手を合わせて帰るだけ。

 子供が極端に少なくなったおかげで、祭りができなくなったらしい。

 神社の隅っこには、ピンクの自転車がいつも止まっている。


「パパ」


 だれかの忘れ物だとか、そんなことを思っていたけれど、あまり深く考えたことはなかった。

 自転車を掃除する彼の姿は、パンを作っている時と同じように、にこにこと笑っている。


「葵、どうしたんだ」


「沙織おば……姉ちゃんが泣いてたよ」


「どうせ酒飲んでるんだろ。いつものことだ」


 気にもとめずにフレームを磨く。

 腰にぶら下げられたカセットっていうやつを再生するやつからは、お店でいつも流れている音楽。

 母がまだ小さいころ歌らしくて、私にはもちろんわかるはずもない歌だけれど、聞いているとなんだか落ち着くのである。


「ねー、パパ」


「なんだ」


「ピンクチャリフェチってほんと?」


 ガチャンと大きな音を立てて自転車ごと倒れる姿は、いつもの姿とはあまりにかけ離れていて笑ってしまう。

 いつからだったか、祖父の催眠のような教育でパパと呼ぶようになり、もういまさら他の呼び方を考えるのも面倒だったので定着してしまったパパは、昔はやはり嫌そうな顔をしていたけれど、いまは笑って答えてくれる。

 本当の父親の姿を覚えていない私には、父親は祖父だったし、遊び相手も祖父だったし――でも、時々家に来てくれる彼のことのほうがずっと好きだった。

 気にかけてくれていることは幼いなりに分かっていたし、手を伸ばすと戸惑いながらも握ってくれる。


「お前のそういう、よくわからんことを急に言うのはおっちゃんに似てるよ」


「うそ、私ハゲたくないんだけど」


 笑いながら手を伸ばすと、彼は手を重ねて私に力も入れず起き上がる。

 それでは手を伸ばした意味もないものだったが。


「もうひとつ聞きたいんだけど」


「ん?」


「それって好きな人の自転車なの?」


「違うよ」


 あっさり答えられたので拍子抜けする。


「預かり物さ。いつか返したいんだが、もう無理かもしれないな」


「ちょっと気になるかも」


「話してやろうか?」


 昔の話を聞くことは嫌いじゃない。

 母のことがあって、母の前では昔の話はしないようにしていた。

 なにがスイッチになってしまうかわからないから。

 どれだけのことが母にあったのかわからない私には、それが恐ろしくて仕方がなかった。


 でも、知らない話を知ることは好きだ。

 沙織おばちゃんの話はほぼほぼ無理やり押し付けるように教え込まれたものばかりだが、パパの話は滅多に聞けない。


「教えて欲しいな」


「そうか。どこからがいいか――」


 自転車のそばの木にある傷を撫でて、パパは微笑む。

 正の文字がいくつも並んでいた。

 ただ妙なのは、最後の正だけ途中になっている。

 中途半端だ。

 苔が生えてしまっているのを見ると、少し時間が経っているようにも見えるが。


「俺のカーチャン覚えてるか?」


「うん。ちょっとだけ」


「あの人さ、バナナが食べられないんだよな」


「う? なんの話?」


「前置きだよ。気にしなくていい」


 最期の夏休み。

 籠に乗せられたパンを見つめて、私は風を受ける。

 あと一画――35画目を前に止まった正の文字は、もうこれからも増えたりはしないのだろう。

 いつか鳥居をくぐり、正が消えていたら――彼は辺りを見渡して耳をすませる。

 川の方から鼻歌が聞こえれば、彼は走り出すだろうか。

 

 

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