1日 16時50分
まだ少し暑さが残る。
9月に入ったからといって急に涼しくなるようなことはなかったし、ずっとエアコンのかかった家にいたことを思うと、9月になった途端に暑くなったような錯覚すらしてしまいそうな――自転車で走る村までの道のりは、持っていった宿題を学校に出してきたおかげで足が軽い。
ほぼほぼ空っぽのカバンを籠に入れて走っている。
家は駅前で、学校も駅前だというのに、私の通う中学校は自転車通学か徒歩通学の二つしか許されていない。
高速道路の下を走って、影を渡る。
涼しいのもあっという間。
最後に急勾配の坂を下れば、あとは自転車を漕がなくても家に着く。
普通に考えればかなり危険なスピードで坂を走っていく。
ぼんやりと空を見上げて、並走する赤とんぼに手を伸ばした。
なんの動きもなくスイッと避けたトンボは、そのまま遠くまで飛んでいく。
「ふう」
自転車を車庫に入れて鍵を閉める。
家の鍵は開けっ放しだが、ここだけはいつも閉める。
ちょっとふしぎだ。
「ただいま」
勝手口から中に入ると、座敷の机にだらしなくへたっている女性が目に入る。
面倒なので見なかったことにして、そのまま通り抜けようとすると。
「離してよ、おばちゃん」
「おばちゃんじゃないから! まだおばちゃんって年齢じゃないから!」
酒瓶を抱えた沙織おばちゃんは、片手で私のスカートを掴んで、唾を吐き散らしながら抗議してくる。
近所の家に居候している人で、近くにあるそれなりに有名なパン屋さんで働いている。
「お仕事は?」
「もう今日の分全部売れちゃったの」
珍しい話ではなかった。
決まった数しか作らないので、毎日行列ができているのである。
田舎のパン屋の光景だとは到底思えないものだけど。
「葵、おかえり」
「ただいまお母さん」
洗濯物を抱えた母が家の奥から現れた。
「ん」
なみなみに注いだコップを母に差し出す沙織おばちゃんは、目をそらす母の前に何度も回り込み、やがてため息をつく母に強引にコップを押し付ける。
いつもの光景だった。
「今日はなに」
「そうよ! 彩さんもそう思いますよねぇ!」
「あーはいはい。そうね、そうよね」
ちびちびと飲むふりをする母の姿に満足して、沙織おばちゃんは会話にならない会話を始める。
「いい加減いいと思うんですよ。何年たちました? えーっと、忘れちゃったあはは……いいんですよ年数なんて! ここまで一緒にやってきたのにまだハンコひとつくれない! さすがの私も怒りますよ!」
「まだくれないの? 今年はいけるって言ってたじゃない」
「なんか風邪気味だから嫌だって言われました」
昔聞いたときはまだ納得のいく理由だったようにも思うが、パパも断るのがだんだん雑になってきているような気がする。
おばちゃんと呼ばれるくらいの歳になれば、いろいろあるのだろうなと、そんなことを思う。
このまま眺めているのもなかなか痛々しいものだったので、外に出る理由でも探してみよう。
「パパお店にいる?」
「知らないもん」
おばちゃんの『もん』にはなかなかの威力がある。
「神社にいるわよ、きっと」
「神社? なんでそんなとこに?」
「ピンク自転車フェチの考えてることなんて知りません」
「え、パパそんなだからピンクタイヤ売ってるの?」
「違うわよ。こんな飲んだくれの話を真に受けないの」
ピンクタイヤというのは、沙織おばちゃんの働くお店が有名になった一番の理由。
ピンクの自転車でパンを買いに来た人だけ売ってもらえる数量限定パンのことだ。
パパ特製のタイヤ型パンに、沙織おばちゃんが作った特製イチゴチョコでコーティングされたパン。
学校の日には帰ってくる頃には売り切れているので、休みの日にだけ時々貰えるけれど、見た目のシンプルさからは信じられない味の深みがあるのである。
二人がそれぞれ別の店で修行した話は聞いたことがあったけれど――。
「沙織姉ちゃんって、なんでパン作らないの?」
「よくぞ聞いてくれたわね、葵」
「あ」
ため息をつきながら頭を押さえる母。
どうやら長くなるらしい。
「『俺この店行くから、お前こっちな』って、彼が言った店どこだと思う? ケーキ屋よ! パン関係ないじゃない! なんでよ! 一緒に二人で修行するって思ってたのに!」
「葵、いっていいよ。もう止まらないから」
呆れ顔の母に手を振って、私は外に出た。
神社にパパはいるらしいけれど、自転車でいくほどの距離でもなかったので歩くことにした。




