30日 19時7分
東京に戻る用意を始めた。
台風はこの辺りにはもう影響ないようで、太陽が顔を覗かせている。
持って帰るものは財布だけのようだが。
服はこのまま置いていくことにする。
沙織も何も言わずに用意を始めたと思えば、あっさりと鞄の中身をほとんど置いて帰るようである。
「置いてくのか?」
「一緒にパン屋するんですよね? こっちで」
「そうだけど」
「そういうことですよね?」
他の意味はないと思うが、とりあえず頷いておく。
どうやらこいつ、俺の家に住み着くらしい。
一人増えるくらい、母も何も言わないだろうが。
「わかっていると思うが、さあ明日に開店だ、なんてならないからな?」
「そうなんです?」
「俺の作ってるパンは人に食わせるもんじゃない。ただの趣味だ。趣味で人を満足させられるのは不可能だろ」
なるほど、と手を叩く沙織は、思い出したようにまた鞄から服を取り出す。
それも置いていくらしい。
「だから、そんなすぐに東京離れなくたっていいんだぞ?」
「一緒にパン屋するんですよね? 一緒にしますよ、修行だって」
結局鞄から何もかも置いて、財布だけを握る沙織は、どうだと胸を張る。
そこまで言うものを追い返すのはどうかと思った。
一緒にやってくれと言ったのは俺だったのだから。
「帰るんか?」
晩御飯の用意が終わった母が、客間で話す俺と沙織を見て言った。
「カーチャン、ちょっといいか」
「なにい?」
座って欲しいと促すと、あっさり座る。
沙織も俺の隣にしっかり座って、緊張しているのか小刻みに呼吸をしていた。
「俺、帰ってくるよ」
「仕事はどうするん」
「こっちでパンの勉強して、パン屋やる」
「そんなのうまくいくわけがないやろ? 普通に考えたらわかるやないか」
「死んだ道を行くのは止めたんだ」
「後悔するよ。そのまま働いとけばよかったって」
母はじっと睨むように俺の目を見る。
きっと、この先この道を進むことには、後悔しか生まれないだろう。
成功したって、失敗したって、こうしておけばよかった、ああしておけばよかったって、そう考えてしまうのだろう。
それでいいと、俺は思った。
東京にいた俺は、なにもなかった。
あのまま死んでいたとしたら、俺はなにも後悔しなかっただろう。
がんばって働いた、パンも作った。
それだけで満足して死んでいくだろう。
そんななにもない人生を恨んだりなんかはきっとしなかったはずだ。
「後悔できるような生き方がしたいんだ。ああすればよかったって、そうやって考えられる生き方がしたいんだ。満足して死に行くようなことはしたくない。死んでもまたやり直したいって思えるような、充実した生き方が欲しいんだよ。死んでほっとするような、そんな生活はうんざりだ」
母は隣の沙織に視線流し、沙織はすーっと視線を外すが、そのまま母はしばらく彼女を睨みため息をついた。
「ま、帰ってくるっていうなら、ご飯が増えるだけ。掃除洗濯は楽になるかね」
「ええ、もちろんですよお母様!」
沙織は視線をどこかにやりながら強く頷く。
俺の知らない間にどこかで話していたのかもしれないと思いつつ、立ち上がる母の姿を目で追った。
「さ、晩御飯にするよ」
慌てて立ち上がった沙織が、立ち上がれずにそのまま前のめりに倒れる。
涙声で何かを言っているようだ。
「……」
足の裏を押してやると、軽い悲鳴をあげて沙織は起き上がった。
ふらついたまま抗議してくるが、そのまま母の元へと向かっていく。
時計を眺めると、時間は7時を少し過ぎた頃。ご飯をよそう沙織の姿を眺め、ネチネチと文句を言う母の小言を聞く。
どこかで俺も言われたようなことばかりだ。
ご飯の混ぜ方からよそいかたまで全て、しっかり教えてくれたものである。
今日で夏休みは終わりだ。
すぐに戻ってくるとはいえ、明日になれば、俺は帰ることになる。
よしことの数日間も、もう終わったのだろう。
置いてきた自転車のことを思い出していた。
もし生きているよしこがその自転車を見つけたらどう思うのだろう。
何十年前のものだ。
似ているとは思っても、自分のものだとは思わないのかもしれない。
なにか、彼女だけにはわかるものがあればいいのだが。
「健太くん、お母さんもう食べてるよ」
「いまいく」
鈴虫だろうか、綺麗な虫の声がした。
立ち上がったところ、沙織の鞄から置いていかれる荷物の中、本のようなものを見つける。
どこかで似たようなものを見たなと思いつつ、俺は部屋を出た。
日記のようなものなら、覗くのはやめたほうがいいだろう。
どこかのだれかにも、普通みるかと言われたことだったし――。




