30日 15時2分
その木にやってきているのがよしこだという確信はなかった。
なんとなく、それがよしこに違いないと思っただけだ。
確信に近い何かは、そうあってほしいと思っているだけだったのかもしれないが。
自分だけが時間に置いて行かれたように思っていた俺は、その何度も刻まれた正の字に、そうではなかったのだと思い知らされる。
置いて行ったのは俺だったのだ。
よしこは取り残され、こうして何度もここにやってきたのだ。
恨めしそうに木を掘り、そしてもう俺は来ないんだと察して、だんだんその苛立ちも収まっていた。
いつ彼女はこの村に来たのだろうかと考える。
もし、会えなくなったその日を考えるならば、昨日だ。
そして毎年この村に来ていたのならば、木に掘ってあった正の数――画数と年数がおそらく一致するのだろう。
次に彼女が来るのは来年の8月29日だ。
もう諦めもしなければという話だが。
「沙織」
「な!? は、はい沙織ですはい」
「俺仕事辞めるわ」
「なんでです!? え! なんでです!?」
東京には何もない。
そんなことを気づかせてくれたのはよしこだった。
パンを作ることが幸せだったと気づかせてくれたのはよしこだった。
「それで、なんだが……」
「な、なんでしょう?」
あたふたする沙織を落ち着かせ、頭をさげる。
呆れて言葉も出ないだろうか。
今から俺が言う言葉は、脈絡のない急な話になるわけだ。
「俺とパン屋をやらないか?」
「いいですよ」
即答である。
沙織は何度確認しても言葉を変えず、俺と一緒に仕事は辞めると笑った。




