26日 6時28分
エアコンがギィギィと音を立てていた。
付けたままのテレビからぼそぼそと話し声が流れてくる。
いつもの朝だ。
顔に直接ぶつかってくる日差しを手で隠して、ゆっくりと息を吐く。
「――」
ただひとつだけいつもと違うのは、執拗に繰り返されるインターホンだろうか。
しかたなく起き上がって、ドアチェーンをつけたまま扉を開ける。
「おはようございます」
水さし子、ついに電源抜き子を経て、部屋凸子に進化する。
「……時計を見てみろ」
「私時計は職場に置いてあるんですよ。跡がつくと嫌だし」
ひらひらと左手をふる。
「携帯あるだろうが。ぴっとしたらぷっと見れるだろ」
「スマホは別にぴっとかぷっとか鳴りませんよ?」
鞄から取り出したでかいスマートホンを取り出して、画面を見せてくる。
「六時半だぞ。まだもう少しは寝れたのに」
「起こしに来ないと遅れられたら困るので――」
「あっおい!」
ぬっと部屋に侵入した右手が、チェーンを外してしまう。
ゆるゆるだったがここに来て問題を起こすとは。
「朝ごはん作りますから、支度してください」
「支度って、なにの」
「二日分くらいの着替えでいいですよ」
「……泊まるのか?」
遠慮なく脇を通り抜け、彼女は冷蔵庫を漁る。
「あーもう、卵切れてるじゃないですか」
「安い日にパックで買うだろ? んで、最後にオムライスにするんだが」
「好きですもんね」
それもだれかに言ったことはなかったはずだが。
何かの書類に住所まであったとしても、好物なんてどうやって知ったんだ。
「というかお前、なに自然に冷蔵庫開けてるんだよ。そういうのは普通気を使うところだろうが」
彼女は振り返り「じゃあ」と服の入っている箪笥に手を伸ばす。
「待て、悪かった。朝食を頼む」
「そうですか」
卵をパックごと取り出して、乾かしたままのフライパンを握る。
服を触られるのは嫌だった。
なんだか、あまりいい気がしない。
別に見られたら困るものが中にあるわけではないが。
「両面焼きでしたっけ?」
「じっくり焼いて――」
はっとなって鼻歌を奏でる彼女の後ろ姿を見る。
また、誰にも言っていないことなはずだが。
「よっ、と」
じゅうと音がする。
なかなか上手い。
どこに行くのかよくわからないが、とりあえず着替えて――。
「パン作るんですか?」
「気が向いたときはな」
朝早く目が覚めてしまったときは、ひとりこそこそとパンを作るのが決まりだった。
ただひとつだけの趣味と言ってもいいだろう。
人に食べさせるようなものではないので、適当な作り方のときもあるが。
置いてある器具だけでパンを作っていると分かるのは、彼女もそれなりに料理をするわけだ。
フライパンのさばきを見れば納得ではあるが気に食わないところである。
「サンドイッチのときは、自分の作ったパンだったんですね」
「そんなこともあったかもな」
あまりに時間が余ったので、弁当として作っていったものだ。
二度もやっていないはずだが、それなりにいい出来栄えだったように思う。
「できましたよ」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
机に積み上げられていた本はいつのまにか片付けられて、まるで自分の部屋ではないようだった。
ゴミ箱のそばで這い上がることを諦めたゴミも、だれかに助けられて無事ゴールにたどり着いたようである。
「それで、どこに行かせる気だ?」
「いただきますは?」
伸ばした箸を止められて、咳払いする。
「いただきます」
「どうぞ。天気予報みていいです?」
「好きにしろ」
ぴっと番組が流れる。
天気予報を見つけて、満足そうに頷いた。
「天気は問題ないですね」
「で、どこにいくって?」
「知ってる場所ですよ」
「だから、どこなんだって」
「もう」
仕方ないと鞄から取り出された財布。
中から電車の絵が描かれている小さな封筒が出てきた。
買った切符を入れるものだが――
「ここです」
「……なんでだ?」
「なにがです?」
実家の最寄駅だった。
この際、住所が知られていることはもういい。
職場に、それこそ協力的な上司がいるのなら簡単に手に入れられる情報だ。
今の時代あまりいい話ではないのだろうが。
「俺を実家に帰らせる理由だよ」
「ずっと帰ってないんですよね? 休みの日もずっと職場にいるんだし」
「だからって――」
「帰るんです。もう切符は買ってしまったんですから。私の自腹ですよ?」
勝手に買われて言ってこいなんてわがままが通ってたまるか。
「31日に私も行きますから、待っててくださいね」
「なんで」
「なんででもいいです。食べ終わったら水につけといてくださいね。服用意しますから」
「ま、待――もういいか……」
諦めて卵を突く。
いい焼き加減だ。
天気予報が終わって、キャスターその他が話し始める。
ぼんやりと眺めて、卵を咀嚼した。
実家に帰るのはたしか――7年ぶりだろうか。
父の葬式以来である。電話もメールもしない母親のことを心配していないといえば嘘になるが、忘れようとしていたのは事実だ。
ただカタカタチカチカの世界に浸っているのが幸せだった。
兄弟もいない俺の家族は母親だけ。
本来なら何の理由もなくたって、家に帰るのは普通のことである。
「やっぱり食べるの遅いですよね」
「……考え事してただけだ。いつもは遅くない」
「いいえ、そんなことないですよ。いつも見てますから」
いつも何かと感じていた視線は、自意識過剰というものではなかったらしい。
「さ、急いでください。朝から走るのは嫌ですよね?」
まあたしかに、目玉焼4個からの駅までダッシュはぜひ避けたい事案である