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30日 13時27分

 

 なにも見つからないまま、時間だけが過ぎていた。

 諦めたように神社にきた俺は、同じ場所で空を見上げている。

 木が大きくなったからか、空が遠く感じた。


 最後の言葉を思い出していた。


『信じてたのに……』


 ただ傷つけるだけで終わるつもりなんてなかった。

 不安を見た彼女の行先を、少しでもいい道だと教えてやりたかった。


「いい道だって――」


 いい道だと教えることが、嘘をついているようだった。

 週に一度も作らないパン作りに生きることを感じる俺は、それだけで仕事を耐えていた。

 それがいい道だと、よしこに言ってやれたのだろうか。


 それが大人としての仕事なんだろうなと、そんな風に思う自分がいた。


 働くのは生きるため、それが第一だ。

 生きるためにはお金が必要だから、だから苦しくても働けと、そんな風に教えるのが大人の仕事だ。

 そうして生きることが苦しくなるとしても、働くことが苦しくても働くしかないのだと。


「……」


 やりたいことができるのならそれ以上の幸せはないだろう。

 やりたいことだけでも生きていけるなんて、そんなことを教えてやれるような人間ではなかった。

 ずっと自分を殺して生きてきたようだった俺が、そんなことを言っても説得力というものが皆無である。


 彼女に言う言葉が、言おうと思う言葉が、全て自分に刺さってくるようだった。


「健太くん」


 神社の大木の下、立川は木を撫でて言葉を待っている。

 立川の言い出しで始まったこの夏休みは、もう終わったのだ。

 また俺は、生きることが苦しくなるけれど、働きに行く。

 働くことが苦しくても、それが苦しく生きるためなのだから。


「帰ろうか。東京に」


 俺がよしこに言ってやれることなんて結局なかったのだ。

 俺みたいにはなるなと、そんなことくらいしか言えなかっただろう。

 修理して持ってきたピンクの自転車を置いて、神社を離れる。

 神社を飛び出していく少女の姿が、遠く薄れていく。


『信じてたのに……』


 声が聞こえた気がした。

 何かもを忘れるように鳥居をくぐる――。


「健太くん、これってなに?」


 一歩外に出ようとしたところで、後ろを歩いていた立川が声を上げた。

 明かりの下、木の肌になにかが塗りこまれている。

 鼻をつく甘臭いその香りは、つい最近どこかで嗅いだものだ。


「バナナトラップだな。虫が取れるんだよ」


 と、木の根元になにかが刻まれていることに気がついた。

 正の文字がいくつも並んでいる。


「取りに来た回数かな。毎日取りに来てたのかもね」


 立川は正の字を指でなぞって笑った。

 一画一画は、同じ時期に書かれたものではないように見える。

 しばらく時間が経つたびに、刻まれているようだった。


「……」


「じゃあいこっか、健太くん」


 立ち惚ける俺のそばを、立川は歩いていく。

 このままこの場を去ることが、俺にはできなかった。

 まるで呪いのように刻まれた正の字は、初めの字ほど荒々しく、後になるほど大人しくなっている。


『信じてたのに』


 誰かが恨めしそうに木を削る姿が目に浮かぶ。

 そんなはずはないと、そんなことを考えて、首を振る。


『またここに来いよ』


 だれだよそんなことを言ったやつは。


 その言葉を信じて帰ってきたやつはどう思うんだよ。


 最後の一画はまだ掘られて間もないようだった――。


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