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29日 10時17分

 

「あー」


 雨のことをすっかり忘れていたのである。

 雲の様子を見る限りでは、そのうちに止むような期待は持てなかった。

 自転車を家の中に入れるわけにはいかないし、それにそもそも雨ならば、彼女も今日のうちにでて行ったりはしないだろう。


「パン作って、昼飯時間によしこのところに行くか」


 と、準備をし始めたところで、勝手口の扉が叩かれる。


「健太」


 どうやら彩がやってきたらしい。


「入っていいぞ」


 傘を何度か開く音がして、彩は中に入ってくる。久しぶりだ、と小声でつぶやく。


「パン作るんだ」


「何か用か?」


「じーじと葵が眠っちゃったから、なんだか暇でね」


「お湯沸かしてやるから、待ってな」


 ケトルの電源をつけて、座るように促す。


「じーじから聞いた?」


「だいたいな」


 生地を捏ねて、バターを混ぜる。

 目分量だけでいつもやっているのだが、今回ばかりはしっかりと作っていた。

 お湯の沸く音がして、しばらくするとカチリとスイッチの落ちた音がした。


「冷たいのがいいか?」


「熱いのでいいよ」


 カップに粉を入れて回してお湯を入れる。

 マドラーをだすのがわざわざ面倒で、いつもこうしているのだった。

 ちょっと動けばそこにあるのに動かないあたりは、やはり親子にたようなものなのかもしれないと思いつつ、またパン生地に向かう。


「慣れたもんね」


「昔からやってることだからな」


 小学生のころだったか、母に急に教えてもらったパン作りの知識は、自分にはあまりに楽しいことだった。

 東京に行ってもこれだけは続けていたのは、こうして生地を練っていると――


「あ」


「なにか間違えたの?」


「いや、なんでもない」


 生きている感覚を一番に感じているのはこれだった。

 そういうことかと、なんとなく理解するものがある。

 朝早く起きた時はパンを作っていた。

 時間があるから、パンを作っていたとずっとそう思っていた。


 朝が苦手な俺が、どうして早く起きて二度寝をしない。

 始めから俺は、パンを作るために早く起きていたのではないのか。


 それだけは楽しかった。

 あの死んだ毎日の中で、それだけは生きていた。


「健太、楽しそうね」


「そうか?」


「うん。ちっちゃい時から変わらない」


 一度捏ねるのをやめて、発酵させる。

 しばらく時間ができたことになる。

 少し冷めてしまったお湯をカップに注ぎ、粉を入れる。

 お湯を少なめにするのは、実は苦いものが苦手だからである。

 冷蔵庫から取り出した牛乳をたっぷり入れて、シロップを垂らすと、ついでに氷を三つほど投げ入れた。


「覚えてる? 私が引っ越す前の日」


「……覚えてない」


「健太はまだ中学生だっけ? パンを作りに来てくれたの」


 はっきりと覚えていた。


「何も言わなかったの。ただ黙々と生地を触って、オーブンを睨んで――パンを作ったらそのまま出て行っちゃった。私泣いてたのに」


 その日、俺は勝手に上がり込んだ。

 祝ってやりたいと思ったのだ。

 どうしたらいいのかもわからなかったし、俺にできることと言ったらパンを作ることくらい。

 材料を抱えて家を飛び出したのだ。


「なんで泣いてたのかなって、いまでもわからないの。健太が家に入ってきた時、なんだかよくわからなくて、不安だったのかな」


 俺の姿を見て、彩は泣いたのだ。

 大人が泣く姿は、あまりに衝撃的だった。

 慰め方なんてわからない。

 友達でもない。

 家族でもない。

 姉のような存在だというだけの近所のお姉さんだ。

 どうしたらいいのかなんてわからなかった。


 俺は何も言えなかった。

 ただパンを作った。

 それしか自分にはできないんだと思った。


「俺と離れたくなかったんだろ」


 茶化すように笑う。

「そうかもね」と彩も笑った。


 次の日、俺は彩を見送らなかった。

 友達の家に行くと言って、朝早くに自転車で走り出したのだった。

 よしこと同じようなことをしているじゃないかと思いつつ、その頃を思い出す。


 言わなくてはならないことがあった。

 このまま先延ばしにしていても、自分たちが辛くなるだけだった。


「彩」


 カップの氷が音を立てる。



「俺に結婚してほしいか?」



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