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28日 ?時?分

 

 はっとなって目がさめる。

 左肩に寄りかかるよしこが、どうやら音楽プレイヤーを落としたらしい。

 本人は気づかず眠ったまま、なんだかしてやられた気分だが。


「お前、寂しいんだろ」


 覗き込んだまだ幼さの残る顔には、涙の流れた跡があった。

 ついでに口元から垂れ流されている唾液は、俺の腕を伝ってブルーシートまで流れている。


「そんなことない」


 目が覚めたらしく、よしこは寄りかかったまま声を上げた。


「あの自転車で、どこまで行くんだ」


 雨に晒されたままだった自転車を眺めて、よしこの言葉を待った。

 雨はもう落ち着いて、傘は必要ない。

 音楽プレイヤーを止めたよしこは、傘を置いて立ち上がった。


「ここで終わりなの」


「どうして?」


 こんなところがゴールなわけがなかった。

 なにもないこんなところで、旅を終えるはずがなかった。


「前のタイヤがパンクしてるの。2日ほどがんばって歩いたけど、限界だなって思って。で、ここに着いた」


「どこに行きたかったんだ」


「ずっと遠く。いけるところまで行きたかったの。でもここまでだった。ここがゴールになったの」


 ハンドルを握って、よしこはベルを鳴らした。

 いまのそいつのできることといえば、そのくらいしかないのだろう。


「もうすぐ夏休みが終わって、だから私は帰らなくちゃいけないんだって思う。帰ったって何もないのに――」


 休暇が終われば、俺は東京に戻るだろう。

 ここにはある人との関わりも、あっちに戻れば何もない。


「ねえ、よしお。働くってどんなかんじ? 楽しい?」


「……」


「生きてるって感じる? そのまま死んだって平気?」


「俺は」


 楽しくなんかない。

 でも、働くということには楽しさがあることは滅多にない。

 仕事がうまくいったらうれしいか? 

 そんなこといままでなかった。

 生きていると感じるかどうかなんて考えるまでもない。

 言ってしまえば、俺は東京にいる間ずっと死んでいた。

 なにもなかった。

 まるで機械のようだった。

 言われたことを済ませて、気づいたことを少しばかりやって、頭を下げて――。

 充実していたことなんて何もなかった。


「何をしてたんだろうな」


 お金はもらっていた。

 何にも使わず、ただ毎日の食事にだけ使われていく。

 自分の通帳にいくらお金が入っているかなんて気にしたこともない。


「みんな働くでしょ? そして、休みの日にはゆっくり休む。何のために働いてるの?」


「生きるためだろ」


 お金がなければ、何も食べられない。

 住む場所もない。


「休日は仕事に疲れたから休む日だって、おかしいと思わないの? やりたいことってないの? やりたいことをやることに、生きるってものがあるんじゃないの?」


「定年してからだって、十分やりたいことはできるさ」


「それまでに死んだらどうするの」


 運が悪かったと、そう言うしかない。

 ならその人は生きていたのか?

 死んでいた人がそのまま死んだのか?


「怖かったの、私。このまま就職して、何もない日を過ごして、そのまま死んでいくことが。このまま大人になることが死ぬことなんだって思って、気づいたら家を飛び出してた。自転車に乗ってると、風を感じるの。誰も走らない道を一人で走ってると、自分だけが生きてるみたいだって――」


 よしこは言葉を止める。

 よしこは自転車のハンドルを握ったまま、俯いた。

 もう彼女の自転車は動かない。

 風を感じることはできないのだ。


「でも、もうここで終わり。私は死にに帰るしかない。死んだように毎日を生きて、死んだように休んで、そのまま死んでいく」


「よしこ」


 生きていると実感する感覚には覚えがある。

 母の寝顔を見ていると、この田舎で歩いていると、確かに俺は感じていた。

 東京の死の毎日が苦しかった。

 今になってわかる。

 もうあの場所には戻りたくないと思う自分がいた。


「自転車なおしてやるよ。お気に入りなんだろ、そいつ」


「いいの?」


 それは逃げの道だ。

 それを手伝ってやることが正しいはずもない。

 だが、俺のようにしの毎日をただただ受け入れることにした俺も、逃げているだけなのだ。

 考えることをやめて、ただ体を流れに任せるだけの、逃げの道を進んでいるだけなのだ。


「預かって行っていいか。明日持ってくるから」


「うん。待ってる」


 鳥居をくぐり外に出る。

 時計は18時を指していた。

 からからと音を立てる自転車を押して家に戻る。

 昨日のことで、今日は立川から電話はこないかもしれないと思いつつ、歩みを進める。

 生ぬるい風に吹かれ、生きている実感をまた感じた気がした。



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