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虚空の鼓動  作者: iliilii
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其の漆

 朝の身仕度を終えた後、水盤を覗き込み家族と顔を合わせることがカナの日課となった。

 ビャクが朝餉の仕度に向かうとき、カナはビャクの書斎に入る許可を毎回律儀にとり、書斎の扉をビャクに開けてもらい、ようやくそこに足を踏み入れる。

 ビャクの書斎は許可なく立ち入ってはいけないところとカナは決めているらしく、ビャクはその律儀さを好ましく思いながら毎朝それに付き合っている。

 水盤に家族が映し出された瞬間、カナの顔はぱあっと明るくなる。その様子を一瞥したビャクは、家族との一時の邪魔をしないよう静かにその場を離れ、朝餉の仕度に向かう。

 朝餉の仕度に時間はかからない。にもかかわらず、膳の用意が調う頃合いを見計らったかのように、カナは満面の笑みでビャクのもとに戻り、その日見た家族の様子を嬉しそうに語り出す。

 もっと長く顔を合わせてよい、勝手に書斎に入ってもよい、ビャクがいくらそう言っても、カナは頑としてビャクに入室の許可を取り、わずかな時間で家族との対面を終える。

 二度と会えないと思っていたからこそ、ただ顔を見られるだけで嬉しい。カナはそう言って屈託なく笑う。あまつさえビャクに礼を言うのだ。


 浚うように鬼の界に連れて来たビャクに。

 わけもわからぬまま契りを交わしたビャクに。


 ビャクは、先日カナの家族に会った際、カナがそれまでも家の中から極力出ない暮らしをしていたと聞かされた。

 それゆえか、カナは屋敷に閉じ込めている現状を、難なく受け入れている。むしろ、それまでより広い屋敷を自由に動き回れると無邪気に喜びさえする。

 ずっと家に閉じ籠もっていたせいか、カナの肌は抜けるように白い。おまけにまるで体力がない。屋敷を一周ぐるりと歩き回っただけで、その律動を早め、忙しなく息を上げるほどだ。しかもその歩みはひどくゆったりしており、急ぐときなどはつい抱え上げてしまうのも道理というものだ。




「では、行って参ります」

 ビャクは定期的に長たちとの寄り合いに出掛ける。カナは玄関で見送りながら妙な胸騒ぎを覚えていた。

「午時分……」

「ええ、昼には戻ります」

 いかないで。その一言を、カナはなんとかのみ込んだ。決して願わないよう、芽生えた剣呑を懸命に押し殺す。

 ビャクが戸口の向こうに消えると、カナはあまりの心許なさに、二度としてはならぬと口酸っぱく言い含められたにもかかわらず、玄関の端でビャクの帰りを待ちたくなった。




 ビャクがその場に足を踏み入れた刹那、しまった、と気付いたときにはすでに囚われていた。

 今代の長の寄り合いは、カナのために用意された場に集まり、その屋敷で行われる。

 その場に鬼力で飛び、屋敷に足を踏み入れた途端、ビャクの周りが六全域で囲われた。

 ビャクが成せるのは五全域まで。六全域で囲われると抜け出すことができない。

「ちょーっとその場で待ってーてねえ」

 にやにやとした意地の悪い笑みを浮かべた弐の我鬼が、ビャクを指差しながら嘲笑い、次の瞬間にはその場から掻き消えた。

 カナに会わせなかったことが裏目に出た。

 とはいえ、ビャクの屋敷周りは十全域。弐の美鬼ですら八全域までしか成せない。あの中にいる限りカナの無事は確実。

 問題はビャクの方だ。カナによって上がった鬼力であっても、未だ六全域を解せない。ビャクは己の無力さに、奥の歯をぎりりと鳴らした。




 カナは妙な胸騒ぎを抱えたまま書斎の前に座り込み、ビャクの帰りを待っていた。玄関で待つことを禁止されたものの、どうしても座敷でビャクの帰りを待つ気にはなれない。

 ふと、カナはビャクとの繋がりが薄くなったように感じた。

 ビャクと契ったあのときから、カナ自身にもよくわからないところで、カナはいつもビャクとの繋がりを感じていた。

 それがいきなり覚束ないほどに薄れた。

 ビャクに何かあった。

 その奇妙な確信に、カナはいてもたってもいられなくなる。立ち上がり、その場をうろうろと歩き回る。どれほどカナが歩き回ったところで、ビャクとの繋がりが元に戻ることはない。

 カナは無意識にに口ずさんでいた。祖母から教わった歌を。声に出して──。




 何とか六全域から抜け出そうと、ビャクは持てる鬼力を振り絞る。あと少し、あとほんの少しのところで弾き返されていた。

 息を整え、もう何度目かになる突破を試みようとしたその時、ビャクは驚きのあまり動きを止めた。鬼力がかつてないほど急速に高まっていく。

「カナか」

 鬼力ばかりか胆力までもが瞬く間に膨れあがる。

 手を翳せば、呆気ないほど六全域が解けた。強すぎる鬼力に驚くより先にビャクは呆れ返った。どれほど鬼力が上がっているのか。

 ふと感じた十の気配、全ての長が険しい顔で目前に姿を現し、ビャクをぐるりと取り囲む。

「鬼よ、一体どういうことだ」

「十全域など、誰が成した」

「どうやって六全域を解した」

 詰め寄る長たちの一切に応えず、ビャクは即座に鬼力でカナのいる屋敷に飛んだ。

 ずっと鬼力が上がり続けている。間違いなくカナが言の葉を紡いでいる。一刻も早く止めなければ、カナの身に何が起こるかわからない。

 使っているのはカナの力だ。使いすぎればどのような痕を残すことになるのか、ビャクには予想もつかなかった。




 カナはただ、ビャクのことだけを想っていた。目を閉じ、ただ一心にビャクとの薄くなった繋がりだけに意識を向け続けた。

 不意に繋がりが確かなものへと変じた刹那──。

「カナ」

 聞こえた声に我に返ったカナは、慌てて玄関へと駆け出す。

 長い廊下の先からは、ビャクも大股でカナに向かってきた。

 ビャクの声を聞き、ビャクの姿を目にした途端、カナはあれほど感じていた胸騒ぎがきれいさっぱり消えていることに気付いた。

 広げられたビャクの腕の中に飛び込めば、ようやく肩の力が抜け、カナの口からほうっと長い安堵の息が吐き出される。

 無事でよかった。カナは心からそう思った。


 カナの存在を腕の中に閉じ込め、ビャクは心底安堵する。見たところ特に変わりはない。

「どこか苦しいところはないか」

 腕の中からビャクを見上げたカナは、きょとんと目を丸くしている。今すぐどうということではないらしい。そもそも、言の葉を紡いだことをカナはわかっているのか。またしても自覚がないように見えるカナの様子に、ビャクはおおいに戸惑った。

 まるでカナにとっては、言の葉を紡ぐことが呼吸することと同じ程度に思えてくる。

 言霊とはそれほどたやすく扱えるものだろうか。どう考えてもビャクにはそうは思えない。

「カナ、言霊を使ったことを自覚していますか」

 はて、とばかりに首を傾げたカナを見て、ビャクは溜め息を吐いた。

「よいですか、カナは何よりもまず、言霊を使っているという自覚を持ちなさい」

 ビャクの厳しい声に、カナは神妙に「はい」と答える。

 いつもなら、少しでも厳しさを含んだビャクの声音を聞けば、カナは礼儀正しく真っ直ぐに立ち「気を付けます」と言わんばかりに神妙に頷く。ところが、いつもとは違いカナはビャクの腕の中に留まったままだ。

「どうした、カナ」

 ビャクの胸に額を擦りつけるようにカナは首を振る。カナをゆるく囲ったままビャクは膝をつき、カナと目線を合わせる。

 すると、目に涙をためたカナがぽつりと言葉を零した。

「ビャクさまとの契りが切れてしまうかと……」

 その言葉にビャクは目を見開いた。それはまるで、カナが望んでビャクと契っているかのように聞こえる。

「どこにもいかないで」

 微かに零れたカナの呟きは、人であれば聞き取れないほどささやかな音だった。ビャクだからこそ、人より優れた五感を持つ鬼だからこそ聞き取れた、カナの心からの声だった。


 ビャクは、願いを込めてその言葉をカナに伝える。

「願わくばカナの名を。カナの真名を私に預けてはもらえませんか。さすれば、契りは完全なものとなります」

 目の前にあるカナの潤んだ目に疑問が浮かぶ。

「実は、真名を交わしあってこそ、契りは完全なものになります。今のカナは、まだ完全に私のものというわけではありません」

「真名を教えたら、ビャクさまはともにいてくれるのですか」

「真名を教えずともずっと一緒にいます」

「真名を教えたら、他の鬼のところに行かずとも済むのですか」

 カナの頼りない声にビャクがしかと頷くと、カナはぐっとその目に覚悟を宿し、留め切れなかった涙を一粒ほろりと落とした。


 カナはゆっくりとビャクにその身を寄せ、ビャクにだけ聞こえるよう、両の手で口元を覆い、ビャクの耳に小さく囁きながら、己の名に言霊を宿した。


(かな)

 ビャクの耳に響いた楚々たる音。

 それはカナの全て。カナそのものだった。

 目を見開いたビャクは、知らず識らずのうちに全身を歓喜で奮わせていた。

 急ぎ真名を取り交わし、契りを完全なものとする。


「白の名において、奏と真名を交わす」

 言葉に鬼力を乗せ、そう白が宣すれば、今度は奏の目が見開かれた。


 その刹那、奏にははっきりとわかった。

 奏は白のために存在する。

 契りを交わし、真名を交わし合ったときから、互いを真名で呼び合える。

 奏はとてつもない心強さを覚えた。


 ふと見れば、目の前にある白の顔に、確かな笑みが浮かんでいる。

 ここまではっきりとした笑みを浮かべる白など、奏はそれまで目にしたことがない。契りを交わしたときですら、これほど手放しの笑みではなかったはずだ。幼子のように喜びを一心に浮かべた顔。

「白さまは、うれしいのですか」

「ええ。生きてきてよかったと思えるほどに」

 それほどまでかと驚きつつも、奏自身もかつてないほどの慶びを感じている。


 声を失った奏は、己を要らない者だと思ってきた。見知らぬ男に春をひさぐほか能がないと思い込んでいた。事実、村長の妻に耳元でそう吹き込まれ、あの時の奏は逆らうことなくそれをそのまま受け入れてきた。

 それが、白が村に来て、奏をなくてはならないものだと言ってくれた。おそらくその時点で、奏は無意識にも白を望んだのであろう。必要だと言い切った白の言葉にはわずかな曇りも感じられなかった。

 鬼の界に来て、一方的に奏が白を選んだというのに、これほどまでに慈しんでくれる。自由を与えられ、心を配られ、あまつさえ家族に会わせてもくれる。

 それは、間違いなく白だからこそだ。

「奏も、白さまに出逢えてよかった」

 奏は心からそう思った。

 奏の言葉を受けた白は、更にその笑みを深め、奏を力強く抱きしめた。

 とくとくとく、と嬉しさと喜びで高鳴る鼓動は、奏にしかないもののはず。

 それなのに、膝をつく白の胸と奏の胸が合わさった今、まるで白からもその律動が伝わってくるようだった。

 奇妙に感じ、奏はそれを確かめるべく膝をつき、白の胸に耳を当てる。

「私にも鼓動があれば、奏と同じように高鳴っていたことでしょう」

 白の胸から聞こえてくるのは、くつくつと笑う振動と白の声、ただそれだけ。

 それなのにどうしてか奏は、鼓動を持たぬ鬼であるにもかかわらず、白にも鼓動があるはずだと思えて仕方がなかった。

 そしてもうひとつ、奏は気が付いた。

 白に真の名を呼ばれた瞬間、白との繋がりが脈打った。どういうことかがわからず、奏は首を傾げる。

「気付きましたか。真名を交わしあったところで何も起こりませぬ。なれど、真名を呼び合う度に、その繋がりは強さを増していきます」

 それを聞いた奏が、懸命に白の名を呼び始めた。


 白の名をひたむきに呼び続ける奏を見て、白はその期待が抑えようもないほどに膨れ上がっていくのを感じた。

「奏、無意味に呼んでも無駄です」

 奏は途端にしょんぼりと肩を落とす。その姿に、白は期待を確信に変え、その僥倖に心を震わせる。

「奏は、私を望んでくれるのか」

 零れ出た言葉には、白の心からの想いがのっていた。


 奏は、今更何を言っているのかと首を傾げる。

 奏が望んだからこそ、奏はこうして白の屋敷にいる。それではまるで、白も奏を望んでいるかのように聞こえるではないか。

 わずかに芽生えた願望を奏はそっと心の奥底に壊さぬよう大切に仕舞った。

 奏の望みと、白の望みはおそらく違う。互いに望みこそすれ、その望む果ての姿は奏のそれと白のそれは違っているのだろう。

 それは人と鬼の違いなのか。

 奏の望みは夫婦。しかしながら、白の望みはおそらくそれとは別の形だ。その形がどんなものかが奏にはわからない。

 たとえ違いはあれど、互いが互いを望んでいることに間違いはない。

「奏が白さまを望んだゆえ、奏はここにおります。白さまだけを望んだから、奏はここにいるのです」

 奏も聞きたかった。奏は白に望まれているのか。

 全ての長たちが奏を我が物にしたかったことは知っている。それとは別に、奏を奏として望んでくれるのかを知りたい。稀代の鼓動を持つ存在としてではなく、奏という一人の生きものとして。


 思い切って奏がそれを口にしようとした刹那、白が険しい顔で宙を睨み付けた。

「客が来たようです。奏、茶の用意をお願いできますか」

 奏は驚いた。

 奏が知る限り、白はこれまでただのひと鬼もこの屋敷に招いたことはない。訪ねて来たとしても、白がわざわざ外に出向いているくらいだ。

「真名を告げての来訪です。無碍にはできません」

 白はまるで自らに言い聞かせているようだった。

 奏は、はて、と首を傾げる。いつ誰が真名を名乗って訪ねてきたというのか。目の前に白はいる。玄関から声がかかったわけでもない。


 全ての疑問をひとまずそういうものとして、奏は茶の用意をするために、白が台所と呼ぶ厨に向かった。

 白に茶の用意を頼まれたこと、奏はそれが嬉しくて仕方がない。まるで夫婦のようだと、ひとり照れた。

 ひとつ処を押せば、湯が勝手に出てくる大きな筒。茶を淹れるのも楽なものだ。

 そもそも茶を毎日当たり前に飲めるなど、奏には贅沢でしかない。茶など、村長ですら外からの客が来たときにしか飲まないものだと聞いていた。


 白に教わった通りに茶の用意をし、それを艶やかな黒塗りの盆にのせ、声が聞こえてきた畳敷きの客間に向かう。すると、頃合を計ったかのようにすっと襖が開いた。

 奏から盆を受け取った白は、渋い顔のまま奏を客間に招き入れる。


 そこには、奏に声を取り戻してくれた先代ほどに歳を重ねた濃い空の色を宿す鬼が、背を正してじっと奏を見つめていた。






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