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虚空の鼓動  作者: iliilii
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其の壱

 故郷から着の身着のまま連れ出された娘は、目にも眩しい純白の背に遅れまいと懸命だった。神のゆったりとした足取りに対し、それを追う娘の足運びは忙しない。

 それもそもはず、神の一歩は娘の二歩。

 しかも、娘は生まれ育った村を幾度も振り返っていた。そのたびに娘の歩は緩み、小走りで神の背に追いついてはまた振り返り、また歩を乱す。

 次第に娘の無事を願う家族の叫びは遠ざかり、気付けばその姿は豆粒ほどとなり、生い茂る木々が重ね重ね小さな集落を隠していき、ついには郷里の影も見えなくなった。


 鬱蒼とした木々の間をくねる細道に人の影はない。


 不意に神の歩が止まる。忙しなく足を繰り出し息を上げていた娘はたたらを踏み、危うく汗が滲む額を純白の背にぶつけそうになる。染みひとつない純白を穢せば天罰が下るとばかりに、娘は精一杯仰け反ってからくも堪えた。逆に今度は仰け反った反動でひっくり返りそうになり、それもまたどうにか堪えた。

 振り返った神は膝を折り、どうにかこうにか姿勢を整えた娘に視線を合わせる。

「目を閉じてください。私が声をかけるまで開けてはなりません」

 神の言葉は娘の耳に慣れない。意味は通じるものの、村の誰とも違う独特な話し方だった。それでも、娘は言われるがまますんなり目を瞑る。


 視界が閉ざされた途端、娘は頭を強く揺さぶられるような眩きと、地面がくたりと歪んだようなあやふやさに襲われた。娘は言われたままぎゅっと目を瞑り、両の足にぐっと力を入れ、天地がひっくり返るような底知れぬ恐怖に歯を食いしばりひたすら耐えた。

 つかの間ののち、目を開けるよう聞こえてきた神の声に、娘は頭の揺れが収まるのを待ち、ことさらゆっくりと目を開けた。


 そこは、娘がそれまで目にしたこともない絢爛豪華な大広間だった。


「ここがあなた様の屋敷となります」

 一瞬にして神の界に連れて来られた娘は、どんぐり眼を大きく見開き、ぐるりと辺りを見渡す。鼻をくすぐるのは爽やかな青い香り。一面に敷かれているのは娘のよく知る(むしろ)ではなく、豪華な縁取りが施された青畳。その数は両手の指では足りないほどに広い。

 天井には色鮮やかに美しい花が咲き誇り、襖には四季折々の明媚な景色がそよぐ風まで感じさせるほど見事に描かれていた。

 あまりの煌びやかさに、娘は口から魂が抜け出たようにしばしぽかんと魅入っていた。


 はっと我に返った娘は、今にもすり切れそうな藁草履のまま、その豪華な広間の真ん中で踏ん張っていた。慌てて草履を脱ぐも、その素足からして土に汚れている。娘は途方に暮れたように俯いた。

 それまで黙って娘の挙動を見守っていた神が穏やかな声を上げる。

「湯殿の用意が整っております。まずは清めましょう」

 その丁寧な物言いに娘は首を傾げた。威厳に満ちていた神の声が、今は娘に傅くかのように響く。

「こちらへ」

 歩き出した純白の背に続こうとした娘は、踏み出しかけた小汚い足を見下ろした。その足で歩けば、先々が汚れてしまうだろう。

 後に続かない娘に、微かな訝しさを顔にのせた神が引き返してきた。

「いかがなさいました」

 じっと娘を見下ろす純白を纏う男は、娘が仰け反るほどに背が高く、娘が知るどんな人よりも美しく逞しい。娘は首が痛むのも忘れ、ほうっと見惚れた。


 つい今し方までは、どれほど目を細めようがその(おもて)がはっきりと像を結ぶことはなかった。存在そのものが光の中にあるかのようにあやふやで、だからこそ、純白を纏うより先に神であることを疑う余地はなかったのだ。

 今はくっきりとそこに在る。娘はまじまじと眺めていた無礼さに気付き、慌てて面を下げる。下げたら下げたで今度は採れたての牛蒡(ごぼう)のように土にまみれた小汚い足が目に入り居たたまれず眉尻が下がる。

 身ひとつで連れて来られた娘は、己の着物の裾でその足を拭う以外に手立てはなく、腰を落として裾をわずかにめくり、汚れた足を拭おうとしたところで、その躰がふわりと宙に浮かんだ。

「そのような些事、お気になさいませんよう」

 気付けば娘は男に抱きかかえられていた。驚いた娘の躰が意図せず暴れ出す。

「落ち着きなさいませ。このまま湯殿までお連れします」

 落ち着いた声に細波立っていた娘の心はすっと凪いだ。

 耳慣れないはずの言葉がどういうわけか娘の心にすんなりと沁み込む。神などというにわかには信じがたいことすら、この声で語られるとどういうわけかすとんと信じられた。


 それは神ゆえか。


 娘がとりとめもなく考えているうちに男の足は進み、程なくして目指す場所に辿り着いたのか、その歩みが止む。

 男の腕から降ろされた娘は、光を跳ね返す板の向こうに、呆けた顔の娘がいることに気付いた。その娘と目が合う。娘は驚きからびくりと震えた。妹たちとよく似た面立ちに、娘は思わず手を伸ばす。すると、向かい合う娘も同じように手を伸ばしてきた。

 ふと見れば、向こうの娘の後ろにも純白を纏う神の姿がある。ようやくそれが水面に映る己の姿と同じであることに気付いた娘は、零れ落ちそうなほど目を見開いて頻りに瞬いた。

「それは鏡といって、姿を映す板です」

 娘はこれまで鏡など目にしたことはない。映り込んだ己の姿に不思議そうに小首を傾げれば、鏡の中の娘も同じように首を傾げる。


「湯殿の使い方はご存じですか」

 いつまで経っても鏡に向かって小首を傾げ続ける娘に、純白を纏う男が声をかけた。問われたところで娘には湯殿がなにかもわからない。清めると言うからには禊ぎや行水のことか、と軽く首を傾げながら娘は思いを巡らす。

 小さく首を横に振る娘を見て、承知したとばかりに男は神のみが纏う純白を脱ぎ捨てた。目を丸くする娘を尻目に、さっさと下穿き一枚になった男は、娘の継ぎの当たった粗末な着物に手をかけ、驚きのあまり動きを止めていた娘すらもあっという間に剥き、真新しい薄手の(ひとえ)をあてがった。

「では中へ」

 あまりのことに羞恥より驚きが勝り、身動きできずにいる娘を男は再びひょいと抱え上げ、湯気に煙る(むろ)に足を踏み入れた。


 湯殿と呼ばれた室は、床も壁も純白の平らな石がきっちり角を揃えて敷き詰められていた。その石張りの室の真ん中には、畳二枚ほどのたいそう大きな桶が据えてある。大桶からは白い靄が立ち、湯が溢れんばかりに湛えられていた。

 男は木造りの小ぶりな腰掛けに娘を据えると、大桶の中に腕を入れて湯の加減を確かめるようにゆったりとかき混ぜ、手桶にその湯を掬うと、娘の爪先からそっとかけていった。透明な湯は土色に濁り、純白の石張りに粗末な模様を描きながら流れていく。

 湯をかけ流すなど、そのような贅沢を娘は知らない。驚きつつも足を伝う温もりは、うっとりとした心地好さを与えてくれる。


 そこからの娘は、羞恥の連続だった。

 結局単も剥かれ、その肌を全て晒し、男によって隅々までそれはもう丁寧に洗われた。男は表情ひとつ変えることなく、柔らかな布で娘の汚れを丹念に落としていく。

 汚れが粗方落ちたところで男は娘を大桶に入れた。娘はどれだけ汲んでも減ることのない湯に首まで浸かり、躰が温まったところで再び肌を擦られる。それを何度か繰り返すうちに、娘の肌から垢が抜け落ち、見る見るその色を白く変えていった。無造作に結い上げていた髪も解かれ、肌同様繰り返し湯をかけながら丁寧に指で梳かれ、ごわついていた娘の黒髪は次第になめらかさを増していく。

 娘は己が肌と髪にそっと指を滑らせる。そのすべらかな指触りに目を細め、その口元は控えめな弧を描いた。


 湯殿から出ると、娘は男に言われるがまま鏡の前の寝台のようなものに横たわり、今度は全身にぬるりとしたよい香りのする油のようなものを塗り込められる。今まで嗅いだことのない、香しい花を全て集めたかのような華やいだ香りにうっとりと酔いしれた娘は、男の手によって全身が撫でられていることに頭が追いつかない。先刻全身を洗われたことで、羞恥のたがが少しばかり外れていた。

 垢の落ちた肌に男の手が滑る。

 娘はこれまで感じたことのないこそばゆさに襲われた。娘は男に気付かれぬよう、奥の歯に力を込める。そうでもしないと、喉の奥から何かが洩れ出てしまいそうだった。

 一度覚えたそのむずむずとした感覚は、男の手のひらによって全身に広げられていく。

 何をしているわけでもないのに、娘の息が上がり始めた。娘は必死に息を殺す。すると今度は躰がひくりと勝手に震える。言い知れぬ感覚に侵されていく様は恐ろしく、娘は咄嗟に男の手を掴みその動きを止めた。


 いきなり腕を掴まれた男は息を呑んだ。娘は殺しきれない息を上げ、全身を火照らせ、目を潤ませていた。男は瞠目の後、ほんのりと耳の先を朱に染めると、ついと娘から目を逸らし、娘の身に純白の襦袢をかけると寝台から起こした。滑らかな襦袢は、しっとりと潤った娘の肌に吸い付くように沿う。

 男は、目にも眩しい純白の着物をこれまたあっという間に娘に着付け、己も手早く着装し、再び娘を抱えると先程の豪華な広間に足を向けた。




 そこには、娘が見たこともないほど美しい男たち、逞しい男たち、そして、愛らしい童子たちが揃って娘を待ち構えていた。


 美しい男たちは美鬼(びき)と呼ばれ、それぞれ壱の美鬼、弐の美鬼、参の美鬼と通称で呼ばれる。

 逞しい男たちは剛鬼(ごうき)といい、同じように、壱の剛鬼、弐の剛鬼と続き、伍の剛鬼までがいる。

 愛らしき童子たちは我鬼(がき)。壱の我鬼と弐の我鬼がいる。

 そして、娘をここに連れてきた男は、ただ、()とだけ呼ばれていた。

 改めて見れば、ただ鬼とだけ呼ばれた男は、美鬼ほどの美しさも剛鬼ほどの逞しさもなく、我鬼ほど幼くもない。そして、どの鬼よりも人に近かった。


 人が神と呼ぶものは、その実、鬼という存在なのだと男は娘に告げる。

 ここは鬼の住まう界。

 そして鬼は、鼓動を持たない代わりに鬼力(きりき)という力を持つ。その鬼力を整える律動が、娘の持つ鼓動。


「そなたの鼓動は実に心地よい」

 弐の美鬼が澄み切った声を響かせる。その声音すらうっとりするほど美しい。娘の鼓動がどくんと跳ねた。


「若さとはこれほどまでに跳ねるものか」

 肆の剛鬼が豪快で楽しげな声を上げ、その口元をにいっと剥き、鋭い鬼歯を見せ付けた。娘の鼓動がどどどと勢い付く。


「美味しそうだね」

 壱の我鬼が、鈴の音のような声で、にたりと鬼歯を見せながら笑う。娘よりも小柄な我鬼は、見たままの童子ではない。その愛らしい顔に餓えをのせ、娘を強く欲していた。娘の鼓動が剣呑に揺れる。


 ここにいるのは、神ではなく()。紛うことなき(おに)


 娘はぶるりと震えた。湯で温められ、男の手によって火照った躰が真冬の日暮れのように瞬く間に冷えて強張る。

「あなた様は、束縛を選び、この中からただひと鬼の契り主を選ぶか、もしくは自由を選び、その全てと契るか、どちらかを選ばなければなりません」

 (ただ)の鬼の落ち着いた物言いに、娘の震えが止まる。跳ねていた鼓動が落ち着きを取り戻す。

 はて、とばかりに小首を傾げる娘に唯の鬼が続けた。

「ここに集うは、それぞれ場を治める長たち。その中のひと鬼を主と定め契れば、あなた様はその鬼のものとなり、その生涯を囲われ縛られる。また、全ての長と契れば、囲われることも縛られることもなく、あなた様は自由に生きられる」

 囲われること、縛られること、その意味が娘にはわからない。契るとは夫婦(めおと)のことだろうと思えど、全員と契るという意味がわからない。全員の嫁になるという意味だろうか。娘はわずかに首を傾げた。

「あなた様が十六になる日に、そのどちらかを選ばねばなりません」

 唯の鬼の声に娘は小さく頷いた。

 それが娘の役目なのだ。すでに買われた身。できる限りのことをしなければならない。それがたとえ(おに)と契ることだとしても。娘は一人静かにそう察した。




 翌日には、三鬼の美鬼たちが娘のもとを訪れ、それぞれ美しい贈り物を片手に、己の美しさを存分に見せつけ、麗しさで娘を喜ばせようとした。

 更にその翌日には、五鬼の剛鬼たちがそれぞれ珍しい贈り物を片手に娘のもとを訪れ、己の力強さを存分に見せつけ、剛胆さで娘を喜ばせようとした。

 続くようにその翌日には、二鬼の我鬼たちが娘のもとを訪れ、それぞれ遊び心のある贈り物を片手に、己の愛らしさを存分に見せつけ、剽軽さで娘を喜ばせようとした。


 鬼の界に来て五日目。

 唯の鬼は何をするでもなく、ただそっと娘の傍らに居た。娘もただ静かに唯の鬼の隣に座り、美しく整えられた庭を縁側からゆるりと眺めていた。

 これまでに娘がわかったことは、唯の鬼は他の鬼から軽んじられているということ。彼らは唯の鬼を同じ長としてではなく、小間遣いのように扱っていた。娘の世話をするのは常に唯の鬼だけ。そして、娘のそれ(、、)に気付いたのも、唯の鬼だけだった。


「あなた様はご存じですか。我ら鬼と契る意味を」

 静かに落とされたその声に、ここに来て初めて肩の力が抜け、ゆったりと寛ぐことができていた娘は、眺めていた庭から目を離し、隣に座る唯の鬼をじっと見つめた。

「我ら鬼にとって、あなた様の鼓動はなくてはならぬもの。その音が、震えが、波が、我ら鬼の力を整えます」

 唯の鬼を見つめていた娘は、承知したとばかりにひとつ頷いた。

「現にあなた様がこの界にいらしてから、我らの鬼力はそれまで以上に安定しています」

 娘の理解のほどを確かめるかのように、唯の鬼は再び頷いた娘をじっと見つめた。

 娘には往々にして唯の鬼の使う言葉がわからなかった。かたい音の連なりは耳に届いただけでは理解できず、頭で反芻してようやくその意味がじわりと滲んでくる。あんてい、という言葉が、頭の中で、ととのおる、という言葉に置き換わる。耳慣れない鬼たちの言葉は時にそうして娘の頭の中で娘の知る言葉に置き換わっていた。

「美鬼は特に惚れ惚れとした心音(こころね)を好みます。剛鬼は跳ねるような心音を好み、我鬼はそのどちらも好みますが、時折驚きの心音も好み──」

 そこで言葉を切った唯の鬼の膝元に、娘はその細く華奢な指先を遠慮がちに向けた。

「私は、唯の鬼ゆえ……」

 どこか自嘲を含んだその声に、娘はついと膝を動かして唯の鬼と向き合った。そして再び、唯の鬼の胸のあたりにそっと指を向ける。

「私は、穏やかな心音が……」

 そう小さく零すように言葉にした後、唯の鬼は静かに目を伏せ、「新たな茶をお持ちします」と座を外した。


 枝に咲く白い小花がその丸い花びらをはらはらと散らしている。


 娘にはよくわからないことがあった。ただひと鬼を選ぶと囲われ縛られる。それは牢に繋がれるということなのか。全ての鬼を選べば牢に繋がれることはないのか。自由が何かわからない。契るとは夫婦になるということなのか。ならば、全ての鬼と契るとは、全ての鬼と閨事を行うということなのか。そもそも、ここに女の鬼はいないのか。

 知りたいことは山ほどあるのに、知る術がないことに娘は唇を噛む。


「傷付きます」

 いつの間にか戻っていた唯の鬼の指が、噛みしめていた娘の唇にそっと触れた。

「何か、心掛かりがおありですか」

 その言葉に、娘はじっと唯の鬼を見つめた後、小さくひとつ頷いた。

「さて、おそらくひとつやふたつではないのでしょうね」

 言い当てられた娘は目を丸くし、大きく頷きを返した。

「いきなり別の界に連れて来られ、鬼との契りを強いられる。それを気にかけるなと言う方がおかしいというもの」

 そこで唯の鬼は何かを思い付いたのか、微かに眉を上げた。

「よろしければ、先代様にお会いになりますか。おそらく先代様であればあなた様の知りたいことの答えをお持ちでしょう」

 己と同じ立場の人がいると知った娘は、どうしてもその先代と呼ばれる人に会ってみたくなった。

「ただ、あなた様は先代様の代わりにここにお連れしております。そのことの意味をしかとお考えください」

 静かな声でそう告げた唯の鬼は、それでも会うかと娘に目で問うてきた。

 おそらく先代はもう長くはないのだろう。それゆえ娘が連れて来られた。ならば一刻も早くお目にかかりたい。我が儘なことだと十分理解した上で、娘は唯の鬼をじっと見つめ、ひとつ頷いた。

「では、目を閉じてください」

 立ち上がった唯の鬼につられるように娘も立ち上がり、言われた通りに目を瞑る。いつぞやのようにくらりと頭の芯が揺れるような感覚ののち、「よろしいですよ」との唯の鬼の声に、娘はゆっくりと目蓋を開けた。




 そこは、娘が与えられている屋敷と同じ造りだった。違いは天井に描かれた画が艶やかな花ではなく生き生きとした鳥というだけ。

 ふと感じた気配に、娘は一段高くなった床の間に目を向けた。

 床の間に延べられた豪華な寝具の中に横たわる人が、ゆっくりと目を開け、同じだけゆっくりと娘に顔を向けた。

「そう、あなたが、次の、贄」

 一言一言を絞り出すかのようなかすれ声の後、先代と覚しき老女は娘に向けた顔をあえかに綻ばせた。

 村では見たこともないほど歳を重ねた(おうな)。村一番の年寄りですら六十を超えない。その年寄りよりも更に幾重も歳を重ねたかに見え、娘はただただその長寿に驚いていた。

 寝具の中からわずかに出されたか細い手に招かれ、その場に唯の鬼を残し、娘は床の間の際まで近寄った。

 そして先代は側に寄った娘にしか聞こえないほどのか細い声で、ただ一言だけを口にした。

「ひと鬼をお選びなさい」

 それだけを告げ、彼女は再び眠りに落ちた。それはまるで、その一言を言うがために目覚めたかのようだった。


 再び目を瞑った娘は天井に花開く屋敷に戻った。

「何か、おわかりになりましたか」

 その唯の鬼の問いに、娘は僅かに首を傾げ、続けて小さくかぶりを振った。そして、再び縁側に座り庭に目を向ける。

 今し方訪れた場所は、この屋敷と同じ造りだった。両の手指では足りないほどの青畳が敷かれた広間に、一段高くなった床の間。おそらく廊下の先にある湯殿や厠も同じであろう。

 庭の草木の配置まで同じだった。ただ、天井に描かれた画の違い同様、草木の種類も違っていた。咲き誇る花々も色や形が違っていたように娘の目には映った。

 しかし、そこに漂う気配は同じだった。

 ただひたすらに豪華でわずかなぬくもりも感じない。


「先代様は自由を選ばれました」

 自由とは、ここで、おそらく娘のために用意されたこの残酷なほどに豪華な屋敷で、ただ一人で生きていくことなのだろうか。

「先代の長たち全てと契り、ひと鬼として彼女を囲うことも繋ぐこともできなかった」

 その「囲う」や「繋ぐ」の意味がわからない。それをどう伝えればよいやら、娘は途方に暮れた。

 娘の様子をじっと見つめていた唯の鬼がふと洩らした。

「もしかして、囲うの意味がわからないのか」

 娘は弾けるように顔を上げた。傍らに跪いていた唯の鬼の目をじっと見つめ、娘は大きく頷いた。

 伝わったことの嬉しさに、自然と娘の顔が綻ぶ。それは、ここに来て娘が初めて見せる笑顔だった。

 目を見張った唯の鬼は、まるでその笑顔につられるかのように、あまり動くことのない表情をわずかに緩めた。柔らかに目を細め、その口元に小さく笑みを浮かべる。

 今度は娘が目を見張る番だった。

「囲うとは、その者を大切にし、屋敷の奥深くに隠してしまうことです。二度と他の鬼の目には触れさせません」

 牢に繋がれるわけではないことに、娘はほっと胸を撫で下ろす。では、繋ぐとはどういうことなのか。じっと唯の鬼の目を見つめると、その目が再び細められた。

「繋ぐとは、己の命と繋ぐという意味です。その生き死にが同じになる。片方が死ねばもう片方も死ぬということです」

 思いが伝わった喜びに、娘は深く感じ入った。家族以外には伝わらなかった意思。その家族にすらこうまではっきりと伝わることはなかった。

「あなた様のその(、、)こと、他の鬼は……」

 娘が小さくかぶりを振ると、唯の鬼の目に気遣いが滲んだ。

 娘のそれは今に始まったことではない。気遣いは要らぬとばかりに口元に笑みを浮かべて小さく首を振る娘に、唯の鬼は目を細めてゆっくり頷くことで応えた。




 湯に浸かりながら娘は思いを巡らす。ひと鬼か、全てか。

 最初に湯に入れてもらって以来、娘は一人で湯を使っている。

 あの後、再び手を貸そうとする唯の鬼を必死に首を振って止めた。一人で入れることを身振りでしか伝えられない娘に、唯の鬼は訝しげな顔をしていたものの、不意にはっとした表情を浮かべ、そっと娘の首に手を伸ばし、痛ましげに目を細めると長い指の背で労るように娘の喉をそっと撫でた。


 娘は子供の頃の高熱が原因で声を失った。命を失わなかったことを両親は泣いて喜び、本来ならば家を追われても仕方のない娘を貧しいながらも懸命に育ててくれた。娘は伝わらないもどかしさこそ抱えても、睦まじい両親や仲のよい弟妹に囲まれ、声が出ずとも幸せだった。


 もとより娘は十六になったら家を出る心積もりだった。口のきけぬ娘でも銭を稼ぐ術はある。そう娘の耳に吹き込んだのは村長の妻だった。春をひさぐという意味がわからなかった娘も年頃になり、村の娘たちと一緒に夫婦についてを村一番の年寄りであるキエ婆から教わったときにその意味を悟り、あまりのおぞましさにひっそりと涙を落とした。

 だからこそ、と娘は思う。ひと鬼を選ぼうと。先の贄の言葉もその考えを後押しした。

 ただ一人で生きるより、誰かの側で生きたい。声を失った娘はこれまでずっとそう願って生きてきた。

 多くの鬼と契るより、ただひと鬼と契りたい。唯の鬼も言っていたではないか、「その者を大切にし」と。

 たとえ相手が鬼であろうと、そこに人と同じ情などなかろうと、人としてではなく物のように扱われようと、大切にしてもらえるのであれば、ただひと鬼のために生きよう。


 娘は心を決めた。






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