7. 和解
翌日の朝、グランは予定通りすぐに王都を出発し、夜遅くに港町に着いた。そのまま事務所に行こうか迷ったが、グランも相当疲れていたのでそのまま自宅へ直行した。
翌朝、グランが事務所へ出勤すると、机の上に王都から届けられた封筒が置かれていた。昨日のうちに届いたらしい。すぐに今日一日のやる事を予定表に記入して自分の机に着くと、封を切った。
中を開けると、舞踏会の夜に顔を合わせた貴族6人の正式名と住んでいる屋敷の住所、また髪色など彼らの特徴が事細かに書かれたリストにされた紙が入っており、さらにエリーゼからの小さな手紙が添えられていた。
『グラン
今夜は私とダンスをしてくれてありがとう。とっても素敵な夜だったわ。私もすぐ王都を発ちます。何か力になれることがあったら協力するから、いつでも言ってちょうだいね。
あなたの味方エリーゼより』
グランの顔は瞬く間に赤くなり、思わず手紙を裏返して机の上に置くと、口に手を当て息を吐いた。一昨日から自分は変だ。こんな短い手紙に心拍数が上がるなんて、今までなかったのに。グランは自分の気持ちを持て余していたが、もう一度その手紙を手に取って読むと赤い顔のまま手紙を折って上着の内ポケットに入れた。
と、事務所のドアのベルが鳴った。
「あっ!ラグレーンさん帰ってる!」
「おはようございます、ラグレーンさん、お帰りなさい」
ジャスマンとエミールの出勤だ。
「ああ、おはよう。三日間事務所を空けてすまなかった」
グランはさっと切り替えた声で返した。
そしてすぐに机の下に目を落とすと、エリーゼのくれた名簿リストと照らし合わせて、昨日記憶した注文内容を書き出し始めた。
「王都はどうでしたか……ん?」
ジャスマンはボードに書きとめていた今日の予定を確認して、戸惑った様子で言った。
「あれ、ラグレーンさん。僕、今日はシュトラール様のところへ行く予定があったはずなんですけど変更の連絡がありましたか?」
グランは顔を上げずにペンを走らせたまま答えた。
「ああ、あった。シュトラール様は用事のため今日まで王都にいることになったので、来週に変更したいそうだ。夜会で直接そうおっしゃっておられた」
「「夜会ですって!?」」
エミールとジャスマンは目を見開いて驚きの表情をグランに向けた。
「ラグレーンさん、王都でのお仕事ってまさか宮殿の舞踏会に行ったんですか!?」
「行ったが?何をそんなに……」
グランが手を止めてきょとんとしたように答えると、彼らは感激したようなため息をもらした。
「うわあ!!」
「すごい、さすがラグレーンさんだ……」
二人の言葉にグランは苦笑いすると、ペンを再び動かし始めた。
「何がすごいものか。仕事で顧客に来いと言われたから行ったものの、居心地は最悪だぞ。俺など場違いでしかなかった」
「でもでもでも!舞踏会と言えば、やっぱりダンスは踊ったんでしょう?」
エミールのきらきらした目できかれた問いに、グランの頭に、エリーゼと踊った感覚が蘇った。
「……まあ、一曲だけだが」
「「うわあ……!」」
グランの返答に、エミールもジャスマンもうっとりとした表情を浮かべた。一体何を想像しているのかわからないが、この幻想を打ち砕くのは少々気が引けるとグランは内心思った。
「いずれはお前達にも行ってもらおうと思っている。仕事の場としては最適だからな」
「えっ!?」
「僕達が舞踏会に!?」
前のめりになった部下達にグランは少したじろいだ。
「ま、まあいずれはな。……その調子だとずっと先になりそうだが」
グランは咳払いすると続けた。
「宮殿の舞踏会は恐ろしいところだぞ。貴族でなければ歓迎されない。昨日、俺は脚を引っ掛けられて転んだ」
「「ひっ」」
エミールとジャスマンは思わず小さな悲鳴を漏らした。ラグレーンさんを引っ掛けるなんて、王都にはなんと度胸のある人達がいるんだろう。そう考えていた。
ジャスマンは言った。
「でも……舞踏会は確かに策略とか陰謀が渦巻いているけど、きれいで優しい女性もいるんでしょう?」
グランはその幻想を胸に抱いた部下に、皮肉気な笑いを浮かべようとしたが、ふと思い当たって、表情が停止した。きれいで優しい女性。脳裏に蘇るのは、みじめな思いでいっぱいだったあの時、こちらに心配そうに手を差し伸べてくれた彼女だった。
「まあ……いないこともないか」
そう呟いた上司に、部下二人は感嘆の声を上げるのだった。
ドルセット伯爵とアンドレは、北の領地へ視察に行っていたが、いつまでもエリーゼを一人にさせるわけにもいかないので、アンドレだけ先に帰ってきた。
エリーゼはすでに王都から1週間前に帰ってきており、アンドレが帰ってくる日はロビーまで降りてきて、満面の笑みで兄を出迎えた。
「お兄様、おかえりなさい!」
「ただいま、エリーゼ。何事もなかったかい?」
アンドレは妹に微笑みながら召使いに荷物を渡し、上着を脱いだ。その表情は長い滞在の割にあまり疲れていないようだった。
「ええ!お兄様、意外と元気そうね。視察は大変ではなかったの?」
アンドレは肩をすくめた。
「まあね……。私が動こうとすると、父上が睨んでくるものだから。向こうでもほとんど書類整理ばかりだった」
エリーゼはくすくす笑った。
「お父様ったら、子どもみたい。お兄様を信用していないのかしら」
「ときどき、私に爵位を継がせる気がないんじゃないかと本気で疑うことがあるよ」
久しぶりの再会で兄妹が顔を見合わせて笑っていると、玄関のベルが鳴った。
「……あら、誰かしら?」
召使いがドアを開けると扉の向こうには、きちんとした身なりの、アンドレよりも少し歳上と思われる男性と女性が立っていた。エリーゼは見たことのない顔だった。アンドレは思い当たる節があるのか、眉を潜めていた。
「どなたでしょうか」
召使いの問いに、男性のいくらか高い声が聞こえた。
「エドゥアール・ベルモンと申します。彼女は妻です。その……ドルセット伯爵令嬢は御在宅でしょうか」
エリーゼとアンドレは思わず顔を見合わせた。
ベルモン夫妻は客間に通された。
「エリーゼ、私も一緒に応対しよう。父上がいない間は、私がこの屋敷の主人だ」
不安そうなエリーゼが頷くのを見ると、アンドレは近くにいた召使いに誰にも聞こえないような小声で言った。
「客間にお茶を頼む……それから大急ぎで紅茶商会の事務所まで行って、ラグレーン殿を呼んできてくれないか。ベルモンが来たと伝えてくれ」
召使いは目をぱちくりさせたが、わかりましたと小さく頷くと廊下の先へ去っていった。
ベルモン夫妻は少し緊張した様子でソファに腰を下ろしていた。紅茶のあるテーブルを挟んで、その向かいにアンドレとエリーゼが座った。
エリーゼ自身も緊張していたが、出された紅茶を飲むといくらか落ち着いた。
それは客の二人も同じようだった。
「突然お邪魔して、申し訳ありません」
客の言葉にエリーゼは、にっこりと微笑んだ。
「いいえ、かまいませんわ。ええと、まず自己紹介をさせていただきますわね。私はエリーゼ・ドゥ・ジレ・ドルセットです。エリーゼとお呼びくださいな」
「私は、兄のアンドレです。ここで妹に付き添わせていただくことをお許しください」
伯爵子息が頭を下げたのに、客の二人は恐縮したように慌てて言った。
「いいえ、そんな!ご兄妹でご対応くださることだけでありがたいことですから……。私はエドゥアール・ベルモンです。船主で、今は船長もしております」
「妻のアンヌです。私も夫の付き添いとして参りました」
エリーゼは頷いた。二人とも私よりもひと回りほど歳上できれいな顔立ちをしているけど、なんだか表情が強張っているわ。
「……それで、一体どのようなご用件でしょうか?」
エリーゼの問いに、エドゥアール・ベルモンは少し考えていたが、真面目な顔で言った。
「……実はこの前の王都の舞踏会で、あなたがラグレーンという男と親しい関係にあるということを知りました。エリーゼ様は……彼が何者かはご存知ですか」
エリーゼは目をぱちくりさせた。ちらりと兄の方を見ると、彼はやはりと言うような顔をしていた。
エリーゼは戸惑った様子で頷いた。
「え、ええ。グラン・ラグレーンさんとは、親しくさせていただいております。兄の商会で働いていますので、彼の事も全て知っているつもりですが」
エドゥアールは苦い顔をして言った。
「私のような者がこんな事をいうのもなんですが、敢えて忠告をさせてください……彼とは関わらないほうがよろしいかと」
アンドレは、彼がそう言うだろうとわかっていたのか無表情のままだったが、エリーゼは貴族令嬢であることも忘れて思いっきり顔を歪めた。
「はあ?おっしゃっている意味がわかりかねますが。あなたは彼と何か関係があるのですか?」
エドゥアールは頷いた。
「ええ。私は昔、あの男に嵌められましたから」
エリーゼはその言葉に目を見開いた。
「ま、まあ……!で、では、あなたが……あなたがあの新聞に載っていた方ですの、グランに復讐を果たしたという方は?!」
「はい。ですのでこの度御忠告に参ったのです」
エドゥアールは言った。
「今は何の権力もありませんが、ラグレーンを信用してはなりません。彼は恩を仇で返すような男です。私はそれを目の前で見てきましたから、わかります。彼のせいで名門ドルセット伯爵家が揺らぐとは思えませんが、被害に遭う前に対処した方がよろしいでしょう」
エドゥアールの顔は真剣そのもので、心から案じている様子であった。エリーゼは彼の言葉をきいて少し考えていたが、やがて微笑んで言った。
「御助言をどうもありがとうございます、ベルモン様。ですが私は、グラン・ラグレーンさんと関係を断つ気は全くありません」
ベルモン夫妻は「えっ!」と声を出して驚き、アンドレさえもそのはっきりとした物言いに、目を丸くした。
「な、なぜですか!?あなたは騙されているのですよ!彼はいつでも富を蓄えようと貴族を狙っていたのですから」
エドゥアールの慌てた様子に、エリーゼは微笑みを浮かべたままだった。
「そうですわね。商人であるのならば、顧客には貴族が一番最適ですもの」
「そうではなくて……!では、私の話をしましょうか。私はもう何年も前ですが、彼と同じところで働いていました。私も彼も暮らしていけるだけの収入はあった。しかし……」
「……彼が会社の雇い主の貯蓄を全部盗み出して、その罪をあなたに被せた。小さかった会社はそのせいで経営が傾き、あなたは役所へ連れて行かれてしまった……。奥様もそのせいで随分つらい思いをされたのでしょう」
エリーゼがそう言ったのに、エドゥアールは頷いた。
「そうです、それから彼は莫大な富を手に入れ、周辺諸国で有名な銀行家になった……私を陥れて得た……雇ってくれていた会社が倒産するはめになった、あのお金で!」
エドゥアールの目には小さな怒りの色がちらついていた。
「あの頃の私は自分の無実を立証する知恵も何もなかった。ただ、平和に安定した仕事をして、アンヌと暮らすことだけを望んでいたんです。しかし彼にもろとも崩された」
エドゥアールは何年かの懲役を経てやっと釈放されると、グランに対する復讐を誓い、それを果たした。かつてのエドゥアールと同じように、彼に何もかもを失わせたのである。
「ラグレーンはどれだけ人に尽くされても、それに感謝することはありません。常に人を利用し富を得ようと考えているのです!ですから……」
「エドゥアール様、それではおききしますが」
エリーゼが彼の言葉を遮って言った。
「そこまで彼を恨んでいるのならーーあなたはなぜ彼を牢獄から出したのですか」
エリーゼからは微笑みが消え、鋭い視線がエドゥアールを貫いていた。
その通りだとアンドレも心の中で頷いた。そもそもそれは新聞を読んだ時に抱いた疑問だったのだ。牢を出て苦労して地位を築き、仇のグランを騙して破産へと追い詰め、何もかも奪って正当な理由で牢へ入れた。そのまま法に任せればよかったのである。
しかし、結局エドゥアールは彼を庇う形でグランを牢から出した。それは「寛大な精神」と称賛され、新聞の小見出しにもなっていたが、何か意図があったのだろうか。
エリーゼの問いに、エドゥアールは黙ったまま視線を落とし、険しい顔になっていた。
アンドレは少々同情した。彼にとってグランの釈放はつらい決断だったということは見てとれる。
返事をしないエドゥアールに、エリーゼは続けて尋ねた。
「もう一つお尋ねします。あなたは彼に、一体何を望んでいるのですか」
「それは……もちろん、償いです」
その言葉に、エリーゼは冷たくふんと鼻で笑った。
「そうでしょうね。彼はあなたを陥れて一瞬の幸せを手に入れたんですもの。だからあなたは復讐をした。彼から何もかも奪ったのよ、富も、地位も権力も名誉も、彼が拠り所にしていたものは全て。あなたは昔、グラン・ラグレーンのせいで全てを失ったけれど、今は取り戻している。どれだけの苦労があったかは知れないけれど、新聞で英雄と称され、アンヌ様と今は幸せに暮らしている。そうでしょう?」
「そうですが、しかし……!」
エリーゼは自分でも止められないほど苛立っていた。彼女の頭には、グランと初めて出会った夜のことが蘇っていた。復讐の機会を失った時、彼は……震えていた。目標も何もかも失い、生きることさえ拒もうとしていたのだ。
エドゥアールにはアンヌという支えがあったかもしれない、しかしグランには何も、何もなかったのだ。
エリーゼは、エドゥアールが話そうとしているのを許すことなく、立ち上がって一気にまくし立てた。
「彼から全てを奪って、まだ飽き足らないのですか?貴族の小さな商いで経理すらしてはいけないの?あなたは、彼を苦しめて幸せになっているのに、彼には幸せになる権利がないというの!エドゥアール様、あなたは彼がどんな生活を送ればご満足なの!?」
「エリーゼ、少し落ち着きなさい」
アンドレがエリーゼの肩を掴んで座らせた。エリーゼは兄の咎めるような目を見たが、すっと目を逸らし息を吐くと「ごめんなさい」と言って、カップに残っていた紅茶をぐっと飲み干した。アンドレは、その妹の貴族の令嬢の欠片もないしぐさに小さくため息を漏らした。
エドゥアールの方は驚いたようにエリーゼを見て、アンヌと顔を見合わせていた。
と、そこへ扉がノックされ、召使いが入ってくる。アンドレに耳打ちすると、伯爵子息は頷いて「お通ししてくれ」と小さく言った。
召使いが部屋を出て行くと、アンドレは立ち上がって、先ほど妹が張り詰めさせた空気を和ませるように、穏やかな笑みを浮かべて言った。
「まあ、我々がここで話していても仕方ありません。やはり本人が必要かと思いましてね、勝手ながら彼をお呼びいたしました」
エドゥアールとアンヌ、そしてエリーゼはぽかんとした顔になった。
「なんですって……?」
「お兄様、まさか」
その時、扉がノックされた。
「どうぞ」
アンドレは声を張って返事をすると扉を開けて姿を現したのは他でもない、今話題になっていた男だった。
「グラン……!」
アンドレ以外の三人は目を見開いた。
グラン・ラグレーンはこちらに視線を合わせようとせず、苦しそうな顔をして出入り口に留まっていた。
アンドレは優しくグランの方へ歩み寄って声をかけた。
「さあさあラグレーン殿、こちらへどうぞ。一度、三人で昔のお話をされた方がよろしいかと思いましてね。ああ、もちろんご夫妻とあなたですよ。我々部外者の兄妹は席を外しましょう……エリーゼ」
「お兄様!そんなの勝手だわ!」
エリーゼはさも不満そうに言ったが、アンドレは首を振った。
「いいや、そうでもないさ。この件に関しては、私たちの方が無関係なんだよ。さあ、いこう」
エリーゼは、兄の有無を言わさない厳しい目に唇を噛み締めたが、「わかったわ」と小さく頷いて立ち上がった。
そして扉の前まで来ると、そばに立っているグランの方を向いて彼の顔を不安気に見上げた。
「グラン……」
エリーゼは心配だった。彼は半年前、エドゥアールの命を奪おうとした。もう今は心が変わっていることはわかっていたが、それでも彼のそばにいたかった。
しかし、グランは部屋に入ってきた時は苦しそうな顔をしていたが、自分を案じるようなエリーゼの顔を見ると、柔らかく微笑んだ。
「大丈夫だ、エリーゼ。心配いらない」
エリーゼは、そんなグランをしばらく見上げていたが、やがて小さく微笑み返すとわかったというように頷いて兄に手を引かれて客間を出ていった。
グランは、伯爵邸から「ベルモンがエリーゼを訪ねて来ている」との伝言を受け取ると、事務所を飛び出した。ベルモンが……あの男が伯爵邸に?
何の用で……とグランは一瞬考えたが、すぐに覚った。
ベルモンがエリーゼに言うことなど決まっている。俺の過去を全て並べ立て、俺との関係を断つようエリーゼを説得するつもりなのだ。自分がかつて罠に嵌めた彼がそうするのは当然だし、弁護できる余地はなかった。
しかし、エリーゼだけは。
彼女にだけは、嫌われたくなかった。
あの笑顔がもうこちらを向いてくれなくなる、それがグランが一番恐れていることだった。言い訳できる立場ではないことはわかっていたが、それでもグランは屋敷へ向かわずにはいられなかった。
ベルを鳴らすと召使いが出迎えてくれ、ロビーに通された。召使いは「ここでお待ちください」と廊下の先へと行ってしまったが、その先にある客間での話し声は、耳のいいグランにはよく聞こえた。エリーゼの声だった。
「……あなたは昔グラン・ラグレーンのせいで全てを失ったけれど、今は取り戻している。どれだけの苦労があったかは知れないけれど、新聞で英雄と称され、アンヌ様と今は幸せに暮らしている。そうでしょう?」
エリーゼの言い方はなんとも皮肉気だった。
「そうですが、しかし……!」
と、ベルモンの懐かしい声がしたが、すぐにエリーゼの声が遮った。声には怒りが含まれているのがよくわかった。
「彼から全てを奪って、まだ飽き足らないのですか?貴族の小さな商いで経理すらしてはいけないの?あなたは、彼を苦しめて幸せになっているのに、彼には幸せになる権利がないというの!エドゥアール様、あなたは彼がどんな生活を送ればご満足なの!?」
彼女の言葉は刺々しく、怒りに満ちた言葉であったが、グランの全身はぎゅっと掴まれたかのようであった。
グランは思わず両手で顔を覆った。
ああ、エリーゼはどこまで……どこまで俺の味方でいてくれるのだ!
全面的に自分に非があることは確かだった。ベルモンに頭を下げても許されるとは思えないことをしたのは自分なのだ。それなのに彼女は……。
伯爵家の兄妹が出て行くと、グランはソファーには近寄ることなく昔馴染みに向き直った。その目はしっかりと相手を見据えていた。
「ラグレーン、久しぶりだな」
エドゥアールは警戒しながら口を開いた。アンヌが不安そうにぎゅっと手を握った。
しかしグランは息を吐くと、決意したような顔になった。
「ベルモン……まずは言わせてくれ」
そう言うとグランは、その場で膝と手を床につけて頭を下げた。
「悪かった」
その信じられない光景に、エドゥアールとアンヌは驚いて顔を見合わせた。
グランは言った。
「許してもらえるとは思っていない。それだけの事をしたという自覚もある。だが、それでも謝罪をさせてくれないか」
驚いて言葉を紡げないエドゥアールだったが、アンヌは慌てたように言った。
「頭を上げてください、お立ちになって」
「いいや、ベルモン夫人、まだ言わせてくれ。俺はあんたたちの情けで処刑を免れ、普通に生活ができている。一体なぜ釈放なんてそんなばかな事をしたのか今でも信じられないが、とにかく、俺があんたたちに生かされていることは確かなんだ。俺は……あんたたちの望む通りに生きるのでもかまわない。ほんとうにそう思っているんだ」
頭を下げたままそう言ったかつての同僚を、エドゥアールは凝視していた。
想像していたのとまるで違っていたのだ。彼は、もっと自尊心が高かった。会えば復讐返しとして、殴られるか、銃かナイフを突きつけられるだろうと思っていた。
グランの覚悟を前にしてぼうっと彼を見つめたままの夫に、アンヌは手をぎゅっと握り、目で訴えた。エドゥアールは、我に返って頷いた。
「わ、わかった、君の謝罪は受け入れよう。とにかく顔を上げて座って話そうじゃないか」
エドゥアールがそう言うと、ようやくグランは頭を上げ、身体を起こして立ち上がった。
こうしてかつての昔馴染み達は、豪勢な客間でソファに座って話を始めたのである。
エドゥアールはどんな恨みつらみを述べようかと思っていたが、口に出てきたのは率直な感想だった。
「しかし……ラグレーン、君は変わったな。その……誰かに頭を下げることはとても嫌っていたのに」
グランもその言葉が意外だったのか目を瞬かせたが、苦笑いを浮かべた。
「あれから……いろいろあったんだ」
「牢を出ると人は変わるんだろうか……ああ、そうかもしれないな。僕だってすっかり変わった」
エドゥアールは乾いた声で笑ったが、グランは後ろめたい気持ちになった。そうだ、彼は何でも信じる、純粋でまっすぐな思いやりのある男だった。自分が罠に嵌める前までは。
しかし、アンヌが言った。
「いいえ、変わっていないわ。あなたは昔も今も、優しいもの」
アンヌはエドゥアールに微笑むと、グランに言った。
「ラグレーンさん、あなたはさっき"なぜ自分が牢獄から出たのかわからない"と言いましたね。エリーゼ様もさっき同じことを尋ねられました。私がお答えいたします。それはエドゥアールが、昔のままのエドゥアールだったからですわ」
グランはわからないというように眉を寄せた。アンヌは続けた。
「新聞には「情け」と書いてあったけれど、そんな安っぽい気持ちじゃありません。エドゥアールには昔と変わらない、真面目さがあったからです」
「真面目なもんか……あの時はほんとうに君が憎かったんだ。命だって奪ってやりたかった」
そう言ったが、エドゥアールの瞳からは憎しみの色が消え、嵐の去った波のように穏やかだった。
エドゥアールは言った。
「でも……誰にも他人の人生を奪う権利はないと思ったんだ。あんな事をされた僕でさえも」
グランの脳裏に、あの牢獄を出るときの様子が蘇った。
『……出ろ。そして今後私の前に現れることは許さない』
あの時のエドゥアールの苦しげな声。
エドゥアールは続けた。
「許したつもりはなかった。僕はほんとうに地獄を見たから、君も同じものを見ればいいと思った。後になってからも、ほんとうに牢から出してよかったのか自分に問うてばかりいたんだ。いつかまた自分の目の前に現れるのではないかといつも怖かった。僕はすっかり臆病になっていたんだ。この前の夜会で君を見た時は悪寒が走ったよ」
エドゥアールは小さく笑った。
「今になってわかったけど、僕は君を嵌めて陥れたということを後悔していたんだな。そこから恐怖が生まれたことで、人から何か奪うということは、これほどまでに罪深いものなのかと実感したんだ」
グランは眉を寄せて言った。
「違う、俺が……俺の方があんたから奪ったんだ。あんたはただ、正義を貫いただけじゃないか」
エドゥアールは肩をすくめた。
「その正義を立てるためにいろんな画策をしたんだ、正統とは程遠い。まあでも……これでおあいこということにしておかないか、ラグレーン。君もだが、僕も相当ひどい事をした」
その言葉にグランは目を見開いてしばらくエドゥアールの顔を凝視していたが、やがて下を向いて小さな震える声で「ありがとう」と呟いた。
グランの中にずっとわだかまっていたものがすうっと消えた瞬間だった。
しばらく沈黙が続いたが、アンヌが言った。
「ラグレーンさんは、ほんとうにお変わりになりましたね……素敵な女性に出会ったことが原因なのかしら」
グランは、さっと顔を赤らめた。エドゥアールも頷いた。
「あんなに君のことを思ってくれている人がいるなんてね。僕自身、伯爵令嬢からあんな風に怒られるなんて思いもしなかった……。今にしてわかったけど、君には財産よりも、地位や名誉よりも、彼女のような存在が必要だったんだ」
「あら、人はみんなそうよ。詩人がよく言う、愛が一番強い力を持つというのもあながち間違いではないわ。人の支えとなり、強くさせてくれるんだもの」
アンヌは夫にそう言ってから、グランの方を向いた。
「王都の夜会であなたたちが恋人どうしであると聞いた時、何か裏があるのではと思っていたけど、エリーゼ様はそんな方ではないわね。あの方はまっすぐだわ。まっすぐにあなたを想っていらっしゃる。そんな愛を受けたから、あなたも変わったのでしょうね」
それからベルモン夫妻は客間を出て、ロビーにいたアンドレとエリーゼに丁寧に御礼を言い挨拶をすませると、安心したように微笑み合いながら帰っていった。
二人の後ろ姿を見えなくなるまで見送っていたドルセット兄妹とグランであったが、突然エリーゼは隣に立つグランの方をぐるっと向いた。
「グラン!あなた……!」
グランは、彼女のきらきらした目に少したじろいだが、照れたようにそっぽを向いて言った。
「心配ないと言っただろう。もうばかなことは考えていないさ」
その言葉に、エリーゼは満面の笑みを浮かべて飛び上がろうとしたが、兄の牽制するような視線に気づき、広げようとしていた両手を慌てて引っ込めた。
その様子にグランは小さく笑ったが、真面目な顔になって、アンドレに向き直った。
「この度はご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。お呼び出しをいただいて、ありがとうございます」
そう言ったグランの顔はいつになくすがすがしく、憑き物が取れたようだった。
アンドレはそれに満足したように微笑んで言った。
「お役に立てて光栄です。解決したようでよかったですね」
「おかげさまで。……エリーゼ、君もだ。その……ほんとうにありがとう」
グランはエリーゼの方を向いて彼女を見つめた。
紡ぎたい言葉は溢れ出すほどあったが、結局彼が言えたのは感謝の言葉だけだった。
「ふふふ、よかったわね、グラン」
エリーゼも嬉しそうに微笑んだ。その愛らしい微笑みに、グランは、その頬に触れたいという衝動に駆られ、一瞬手が伸びそうになったが、ふっと我に返ると咳払いをして切り替えの声を出した。
「……それでは仕事があるので、私はこれで」
「ああ、ラグレーン殿、待ってください」
アンドレが言った。
「私も中心街へ行くので、一緒にうちの馬車に乗って行ってください。事務所まで送りますよ」
馬車に揺られながら、アンドレは、ぼんやりと外の景色を眺めているグランに目を向けた。
アンドレから見て、グランはやはり端整とは言いにくい顔立ちをしている。しかし最初に会った時の陰気な雰囲気はどこかへ消え、最近は仕事を的確にこなす凛とした姿を時折見るようになった。そして馬車に揺られている今は、目に映るものではないものを見ているかのような、心ここにあらずと言える様子である。
アンドレは、人がどんな時にこのような状態になるか知っていた。
伯爵子息は小さく浮かんだ笑いを隠しながらグランに言った。
「ラグレーン殿。実は、ひとつ相談があるのですが」
「……相談?どんな事でしょう」
「妹のエリーゼの事です。ご存知かもしれませんが、彼女はもう二十を過ぎている。そろそろどこかへ嫁がせる必要性を感じているのですよ」
「……まあ、貴族ですからそうでしょうね」
アンドレは苦い顔を浮かべて言った。
「もちろん、結婚の話がなかったわけではありません。伯爵家ですから適齢期の前からたくさん舞い込んで来ました……数年ほど前には王弟の公爵家から縁談の申し出もあったのです」
「こ、公爵から!?」
「ええ。でも、全てお断りしてしまいました。その理由がわかりますか?」
グランは眉を寄せて首を振った。
「いいえ、ちっとも。なぜ受け入れなかったんです?」
「我々ドルセット伯爵家は必要以上の権力を欲していなかったからです。我々を支えているのは信頼。結婚だけのような土台の脆い権力はいりませんでした。この長い歴史の中で、国王や世間から信用を得ているからこそ、我々は今ここに存在しているのです」
グランはエリーゼから聞いたことのある言葉に目を細めた。ドルセット伯爵家から受け継いでいる信頼こそ、何よりの誇りだと彼女は胸を張って言っていた。
しかし。
「というのは建前で」
アンドレはにっこりと笑みを浮かべた。
「ほんとうはエリーゼが結婚相手の公爵子息をずいぶん嫌っていたからなんです」
「は……?」
「彼だけではありません、縁談を申し込んできた相手を、エリーゼは受け入れようとしなかった。わがままと言えばその通りですが、彼女だって何もわかっていないわけじゃない。小さい時に母を亡くし、何かと我慢させてきたのです。私は妹には幸せになってほしかった。私利私欲のために、我々伯爵家を利用するためだけに結婚を望んでいる男には嫁がせたくなかった。ですからみんな断ったのです」
アンドレは強い意志を目に宿してそう言うと、息を吐いた。それからしばらく沈黙したが、やがてグランに微笑みかけた。
「そこで相談なのですが、顧客の方の中や、その知り合いに、妹の良い結婚相手となる方はいらっしゃいますでしょうか?ぜひご紹介いただきたいのです。人柄の良い、好青年はいらっしゃいますでしょうか」
その言葉に、グランは腹に拳をくらったような表情を浮かべた。そしてさっと下を向いてしまい、そのまま顔を上げることなく小さな声で言った。
「……探してみましょう。きっと良い方が見つかります。人柄以外に、何か条件はあるのですか」
「そうですね……この際貴族でなくても良いと思っているのです。ああそうだ、あなたの部下二人はどうですか?中産階級ですが、二人とも真面目で良い雰囲気だったことは覚えております。どちらが良いでしょうか」
グランはすっかり黙り込んでしまった。何か発しなければと思うのだが、口に鉛が入ってしまったかのように開けなかった。
と、しばらくそんな沈黙が続いたが、突然アンドレはクククッと肩を震わせて笑い始めた。
「ああ、申し訳ありません、冗談です、冗談ですよ!あんな頼りないひよっこだったら、妹に完全に袋叩きにされてしまう。ほんとうにごめんなさい、あなたの気持ちを確かめたかっただけなんです」
おかしなものを見るような目つきでこちらをみているグランに、アンドレは今度こそ優しく微笑みかけた。
「あなた以外に、エリーゼの相手などいません。私だってちゃんとわかっていますよ。あなたが妹の事を憎からず思ってくれていることは」
グランはアンドレの言葉に目をぐわっと見開いた。そうしてだんだんとその頬は赤く染まっていき、すっと視線を逸らして言った。
「アンドレ殿……あなたという人は!ほんとうに恐ろしい人だ」
アンドレはまた笑い声をあげた。
「よく言われます。第一王都の社交界では専らの噂ですよ、あなたとエリーゼの関係は。妹はこの前の舞踏会で何があったのか教えてくれませんでしたが」
グランは気まずげに頭に手をやった。
「妹さんに助けられたんですよ、それに舞踏会の夜に一度お会いしただけです。王都には長居はしていませんから」
「しかし、妹はあなたを相当お気に召している。きっともう手放しませんよ……あなたがどんな人間であれ」
グランは最後の言葉に含まれた意味を読み取り、すっと暗い顔になった。
「わからないんです、なぜなのか。なぜ彼女は私にそんな思いを抱いてくれているのか」
出会いだって最悪だった。エリーゼには自分のひどい姿しか見せていないのだ。
しかし、アンドレは柔らかくグランに微笑んだ。
「私もなぜ妹があなたに執心なのかわかりませんが、彼女の思いは本物ですよ。まあそれはあなたが一番わかっておられるかもしれませんが……。それにしてもラグレーン殿、どうやらあなたは、今まで色恋には無縁だったようですね」
グランは自嘲するかのようにふっと笑って言った。
「生きていく上で必要ないものと思っていましたから。家族もいませんでしたから、無償の愛情というものを知らなかった」
アンドレは表情にはしなかったが、同情的な念を抱いた。彼の調べたグラン・ラグレーンの生い立ちは、産まれた時から決して恵まれたものとは言えなかったからだ。
アンドレは言った。
「エリーゼは、少々強引なところがありますが、思いやりがあり善悪の判断もつく良い妹です。私は何度も彼女に助けられましたからね、できる限りあの子の望みを叶えてやりたいと思っている。ですから……」
アンドレは真面目な顔でグランの目を見た。
「妹が望んだら、彼女を妻にしてやってくれませんか」
グランは息が止まりそうになった。伯爵家の嫡男から認められたのだ。一瞬舞い上がりそうになったが、冷静に返事を返す。
「妹さんが望んでくれたとしても、ドルセット伯爵がお許しくださるでしょうか。私はまだ一度も伯爵とお会いしたことがありません」
アンドレは顎に手を当てた。
「それなんですよね、問題は。父はほんとうに頭の固い人でして。完璧な解決策は未だ浮かんでこないのですが、とにかく今はラグレーン殿が自立できるほどの信頼を顧客から勝ち取ることを優先しましょう。我々伯爵家の後ろ盾がなくともやっていけるような人間になれば、父も一応人ですから考慮には入れてくださるはずだと踏んでいるのですが……」
グランは感謝の思いでいっぱいになった。アンドレは腹の読めない恐ろしい伯爵子息であることは変わりないが、それでもこれほどまでに思いやり深い男なのだ。
アンドレは肩をすくめて言った。
「まあ、よくよく考えてみてください。決して仕事の時のように無理強いはしません。困難にぶつかるのはあなた自身なのですから」
アンドレの言葉に、グランは小さく笑った。
「仕事で無理強いさせているという自覚はあったのですね」
アンドレはわざとらしく口に手を当てた。
「おっと、口がすべってしまったようだ。まあ、そのおかげで私もあなたも満足しているのですから、良いではないですか」
笑いでごまかす伯爵子息に、グランは呆れたような笑いを浮かべた。